G-T0XYQT12LL 真実の日本国誕生史・32: 卑弥呼の逆襲

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2017年12月17日 (日)

真実の日本国誕生史・32

 ●日本建国の〔愛〕の理念の証明・7
■日本国誕生史を伝える高尾山古墳の工事者を推定する

◆このブログのA図からJ図までの詳細の解説と証明は、前回のブログ「真実の日本国誕生史・31」でおこなった。ゆえに、このブログでは要約したが、この要約では納得できない方は前回のブログを参照していただきたい。また、前回のブログを要約したと言っても長い説明となるゆえ、前回のブログを理解できた方は半分に短縮される「ここからが前回からの続きである」と記した箇所からの解説と証明を読むことをおすすめする。
 A図に示す静岡県沼津市に所在する高尾山(たかおさん)古墳は2008年に発見された東日本最大にして最古の前期古墳である。沼津市教育委員会は、高尾山古墳は「墓」であったと推定した。しかし、わがブログ「真実の日本国誕生史」は1221回までで、A図に示す高尾山古墳は『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話の淤能碁呂島聖婚(おのごろじませいこん)説話のすべての記事に合致する、【日本建国の〔愛〕の理念】を伝える封土(ほうど/盛り土)であることを詳細に科学的に具体的に証明した。
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 B図に、卑弥呼が統治した大国の倭国と新生小国・日本(旧東鯷人国)の範囲を示した。
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 【日本建国の〔愛〕の理念】を具体的に証明できる史料が、C図に示す高尾山古墳の後方墳中央の主体部から出土した。
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 高尾山古墳の主体部から、D図に示す破砕鏡(はさいきょう)1面、勾玉(まがたま)1点、鉄の槍が2点、鉄の鏃(やじり/矢の先端)32点、槍鉋(やりかんな/木材の表面を平らにする大工道具)1点、主体部から出土した。また、その墳丘内から、呉の黄竜2年=230年頃に作られた約2,000点におよぶ大量の土器が発掘された。
 D図に示す銅鏡は「上方作系浮彫式獣鏡(しょうほうさくけいふちょうしきじゅうたいきょう)」と呼ばれる形式で、砕(くだ)いた箇所には「仙人」の絵柄があった。
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 学者たちの上方作系浮彫式獣帯鏡の研究成果にもとづき、沼津市教育委員会はD図に示すように、その4つの絵柄は「鹿」「虎」「鳥」「羽人」をあらわすものであると発表した。また、上方作系浮彫式獣帯鏡には「上」「宜()」、「竟(きょう)」という文字の一部を読み取ることができた。この鏡は中国で製作されたもので、2世紀後半頃(中国の後漢時代)に作られた。日本国内ではこれまでに50例近く見つかっている。

◆学者たちによってD図の右上の「鹿」と「虎」をあらわすと指摘された絵柄は、よく見ると〔鹿〕や〔虎〕の姿を表示するものではない。その右下の「鳥」の絵柄と同様に、「鹿」と「虎」の絵柄は〔水面に浮かぶ鳥の形〕をしている。
 この事情は前回のブログで詳細に解説して証明したように、破砕鏡に残った「鹿」「虎」「鳥」の絵柄は、E図に示す中国全土を洩れなく包みこむ中国海岸線を表示するものであった。というのも、E図における〔海岸線の東の大海〕を「水」に見立て、〔「鹿」「虎」をあらわす海岸線〕を「水上に浮かぶ鳥」と見立てられた。この解釈を示すために、〔「鹿」「虎」をあらわす海岸線〕は「水鳥の姿」に表現されたのである。
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 前回のブログで詳細に解説し証明したように、E図の「中国地理」について、中国の五経の第一に挙げられる『易経(えききょう)』繋辞(けいじ)上伝にある記事は「易は天地に準(なぞら)う。ゆえに能(よく)天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観()、俯()してもって地理を察す」と伝える。
 高田真治・後藤基巳(もとみ)訳者『易経()(岩波書店発行)は、上記した文中に登場する「弥綸」という語を「つくろいおさめる。洩れなく包(つつ)みこむ」と訳する。E図に「鳥」と記した「中国海岸線は中国国土を洩れなく包みこむ」ゆえ、「弥綸」という語をあらわす。この〔鳥の頭に観える山東半島の南北〕は〔鳥の翼の部分〕に観える。この〔鳥の翼に観える山東半島の付け根より南〕の、長江の河口となる湾(長江口)から会稽(かいけい)の北に面する湾=杭州湾(こうしゅうわん)にかけての海岸線は、鳥の翼の部分が裂けてやぶれる形となる。しかし杭州湾南岸より南へ続く海岸線はつくろいおさまってなだらかな円弧を描く。だから、「弥綸」は「つくろいおさめる」をも意味することになったのである。
 上記した『易経』繋辞上伝の文中には「天地の道」という語がある。このうちの「地の道」は、F図に示す「オス鹿の横顔に似る廟島(びょうとう)列島・山東(さんとう)半島」である。つまり、鹿の角(つの)は廟島列島、鹿の横顔は山東半島ということになる。
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 この「真実の日本国誕生史」では3回以来毎回繰り返して、紀元前3000年頃に生存した“漢字の始祖”と崇拝された聖人・倉頡(そうきつ)は、下に示す〔銀河範囲の各部の形状から漢字を作る学芸原理〕を発明したことを解説して証明した。これゆえ、「漢字が作られた銀河の範囲」を、「文字作成銀河」と名づけることにする。

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 ▲文字作成銀河の写真

 文字作成銀河の各部には名称が無い。わたくしは下に示すように各部の名称を定めた。

Photo
 ▲文字作成銀河各部の名称

 上図の左上に「オス鹿の横顔に似る銀河」がある。G図に示すように、「オス鹿の横顔に似る銀河」が「天地の道」の内の「天の道」、つまり[]の字源銀河である。
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 「銀河」の別称は「銀漢(ぎんかん)」であるゆえ、「銀漢から作られた字」を略して「漢字」と称されることになった。このため、天に多数の文字が実在することになったので、「銀河が輝く夜空」は「天文」と称された。また「天皇」という語は「漢字が銀河各部から作られた学芸に精通する大王」と意味するものであった。
 漢字が銀河から作られた秘密は、漢字作成原理を発明した倉頡について語られる伝説で示され、『易経』の繋辞上伝・下伝にある記事が伝え、『老子』上篇(道経)第一章~第三十七章の37の各章で説かれ、『魏志』倭人伝にも記述された。また、太安万侶(おおのやすまろ)は『古事記』序の冒頭で「わが国には中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭・紀元前2070年~同2050年頃)に、夏音(かおん)文字が伝来した」と伝えた。『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて、夏音文字は楷書で表記されて多数残った。『魏志』倭人伝にも人名・小国名・官職名に用いられて夏音文字は楷書で表記されて残った。「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む字音は、夏音文字の字音である。
 夏音文字は倉頡が定めた「書いた文字が用済みになったならば直ちに消して、漢字は銀河から作られた秘密を厳重にまもらない者には即刻に神罰が下って死が与えられる」という掟(おきて)を厳重に守る原初漢字であった。だから、五帝時代の倉頡文字、夏音文字、殷代(いんだい)前半の原初漢字は、文字が書かれた史料が中国でもわが国でも1点も見つかっていない。ゆえに、中国とわが国の学者たちは「原初漢字は実在しない」と断定し、書いた文字が出土した殷代後半から出現した甲骨(こうこつ)文字(契文/けいぶん)を最古の漢字と定めた――しかし、甲骨文字(契文)は最古の漢字ではなく、上掲した文字作成銀河各部の形状が最古の漢字(字源・最初の字形・原義)であった――これが事実であったのである。
 新井白石(16571725)から現在まで学者たちは上記した伝説や古典が伝える「漢字は銀河から作られた」という説明や太安万侶の『古事記』序の説明や『魏志』倭人伝の夏音文字の説明記事をことごとく排除した。だから、当然、学者たちが「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀か6世紀頃である」と主張する定説は〔完全なる誤読の空論〕であった。

◆このブログ「真実の日本国誕生史」シリーズの26回でも指摘したように、黄帝は東洋最古の医学書『内径(ないけい)』を作ったと伝わる。黄帝の医学研究は、三皇(さんこう)時代の前人たちが着手しない中国最初の事業であった。黄帝は女性の生殖(せいしょく)器官と子どもの出産について研究したが、女性生殖器官や出産器官には名がなく、ましてはその名をあらわす文字がなかった。この文字を作るのは、史官(記録官)の倉頡の役目であった。
 H図に記入したように、中国各地の天頂にめぐってきた「十字の銀河(G図の「鹿の角」)の西半分」には「乳房」に観える部分や女性生殖器の「子宮」に相当する箇所がある。
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 ゆえに、倉頡はG図に示す中国各地の天頂を通過した「十字の銀河」を〔子どもを生む母体〕と見立てれば〔黄帝の女性生殖器と子どもの出産の研究〕をあらわすことができるゆえ――文字作成銀河の各部の形状から作られるすべての文字を生む母体は「十字の銀河」、すべての文字は「十字の銀河の子宮」から生まれるという漢字作成原理を発明した。倉頡が発明した漢字作成原理の名称は倉頡伝説では「鳥獣の足跡」、『古事記』上巻の淤能碁呂島説話では「美斗能麻具波比(みとのまぐはひ)」と7字の夏音文字で示された(この詳細の解説と証明は、わがブログ「真実の日本国誕生史」の17回でおこなった)
 再度、上掲したE図の説明をおこなう。出産するとき、胎児の頭が骨盤の出口に近づくと直腸が圧迫される母体は怒責(どせき/いきみ、きばる行為)によってまるで虎が吠()えるがごとく大声をあげる。E図の「山東半島の付け根から南の海岸線」は〔出産時の母体の腹部〕また〔虎の横顔〕に相似すると見立てられて、D図の破砕鏡では「虎」と解釈された。
 I図は、3世紀におけるA図に示した沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に在る高尾山古墳(北緯357)の天頂にめぐってきた[][(カモ)]の字源銀河図である。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 I図は、上記したG図の[]の字源銀河範囲(オス鹿の横顔に似る銀河)と合致する。だから、[][]の字源銀河は後漢時代(25220)と三国時代(220280)においても中国全土の天頂にめぐってきて、中国全土を弥綸することになった(洩れなく包みこんだ)
 I図右下の[]の金文形に「羽」「人」と記したように、D図の高尾山古墳から出土した破砕鏡の「羽人」の絵柄は[]の字源をあらわした。

◆したがって、D図の破砕鏡における「羽人」の絵柄は後漢王朝の政策つまり「鳬」の字源銀河が示す中国全土に多数の子どもが生まれて人口が増加する願望をあらわした。
 『漢書』地理志によると――前漢の平(へい)帝元治2(西暦2)の人口は、約5,950万人であった。王莽(おうもう)が支配した新(925)時代は戦乱で人口は激減したため、後漢の光武(こうぶ)帝が没した建武中元2(57)の人口は約2,100万人であった。質(しつ)帝が死んだ本初元年(146)の人口は人口増加政策によって約4,760万人まで回復した。D図の上方作系浮彫式獣帯鏡は2世紀(101200)後半に作られたゆえ、その「鹿」「虎」「鳥」「羽人」の絵柄は後漢王朝の政策によって、前漢末期の最多の人口状況に近づいたことをあらわした。ところが、後漢末期の2世紀末から三国時代初頭の230年頃までの3世紀前半においては、凶暴(きょうぼう)な戦争によって人口は一気に激減して約4,760万人の16パーセントの約767万人まで激減した(魏は約432万人、呉は約230万人、蜀は約94万人)
 呉の皇帝の孫権が1万の水軍をB図の東鯷人国(後の小国・日本)への遠征を決行した黄竜2(230)、それ以前から中国では残虐な戦争が続いたために2世紀半ばの人口よりも84パーセントも減少した。そして、『魏志』倭人伝にある「漢の時に朝見する者あり」という記事や「古(いにしえ)より以来、その使中国に詣(いた)る」という記事の倭の使者たちによって、また『後漢書』倭伝の「東鯷人国の人民は、時(定期的)に呉の会稽に至って市(いち/交易)をしていた」という記事の東鯷人たちによって、中国は戦争で一気に人口が激減した様子が報告された。ゆえに、中国で大量の人民たちが殺された身の毛もよだつ残酷な戦争状況は一気に国中にひろがる噂(うわさ)となり、わが国は恐怖のルツボと化したのである。
 現在、D図の上方作系浮彫式獣帯鏡は日本国内で50例近くも見つかっている。そして、この鏡には「不老長寿」をあらわす仙人と「中国全土に多数の人々が安らかに住む」と表現する「鹿」「虎」「鳥」「羽人」の絵柄があった。また、『魏志』倭人伝は倭(B図の西日本)では2世紀末(西暦170年、180年頃)に大乱があったと伝える。だから2世紀末頃から3世紀当時、平安を願う人々によって2世紀後半に中国で作られた上方作系浮彫式獣帯鏡は800例あるいは1,000例も大量に、わが国に輸入されることになったと考えるべきことになる。
 このような状況であったゆえ、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に――伊耶那美命が高尾山古墳で結婚する時、伊耶那岐命よりも先に「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」と唱えた言は伊耶那美命の願って企てた通りに「小国・日本に沢山の子どもが生まれるようにして、人民が満ち満ちあふれることにしましょう」と理解された、当時は戦争を憎悪し〔愛〕を尊重し平安を熱望する状況であったのである。だから、“伊耶那美命は〔愛〕を小国・日本の国作りの柱にした”という噂は国中に一気に爆発的にひろまったのである。
 上記したI図右下の[]の字は「味鴨(あじがも/別称「トモエガモ」)をあらわした。
 味鴨は中国東部と日本で越冬し、その群れをつくって行動する。古代においては飛翔(ひしょう)する味鴨の群れはなんと3㎞にも及ぶ大群であった。
 D図の右上に記したように、上方作系浮彫式獣帯鏡には「上」という字がある。
 J図は、中国大陸の東にある大海と海岸線を「上」にした、高尾山古墳出土の破砕鏡に残った「鹿」「虎」「鳥」「羽人」の4つの絵柄の解明図である。
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(C) 2017 OHKAWA


 J図が示すように、中国全土は「鳥(の形)」の海岸線に洩れなく包みこまれる。ゆえに、「鳥」の海岸線を「味鴨の大群」、つまりJ図の右上の[]の金文形における[]に見立てると、[]の金文形の[]は「中国全土に住む人」に相当する。したがって、[]の金文形の[]は「味鴨の大群」をあらわすものゆえ、[]の金文形の[]は「中国全土に住む多数の人民」をあらわすことになる。だから、高尾山古墳出土の破砕鏡の「羽人」の絵柄は「中国全土に住む多数の人民」をあらわすゆえ――わが国では“〔愛〕をあらわす鏡”と解釈されて、大量の上方作系浮彫式獣帯鏡が輸入されることになったのである。

◆ここからが、前回のブログの続きとなる。
 2014年度(平成26年度)における発掘調査後、沼津市教育委員会は高尾古墳の築造年代を〔墳丘は西暦230年頃に完成した〕、〔後方墳中央の主体部(C図参照)の埋納施設は西暦250年頃に造られた〕と推定した。
 というのも、墳丘内から出土した約2,000点の土器は西暦230年頃より新しいもの(250年頃のもの)は含まれていないゆえ、高尾山古墳の墳丘は呉の1万の水軍が小国・日本(旧東鯷人国)への遠征を決行して台湾沖で壊滅した230年頃に築造されたと推定したのである。また、主体部の埋納施設から出土した鉄の鏃(やじり)の形状はホケノ山古墳(奈良県)や弘法山古墳(長野県)から出土した鉄鏃よりも後の時代の形状であることが判明したゆえ、主体部の埋納施設は250年ころに造られた推定されることになった(ホケノ山古墳は西暦250年の少し前頃、弘法山古墳は250年以降に築かれたと考えられている)
 K図に、高尾山古墳の主体部の埋納されていた遺物の状況を示した。
 破砕鏡の約1m東と東南に、「230年頃の東海西部系土器」が埋納されていた。
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 L図に、倭国の一員の小国にして、小国・日本に隣接する遠江(とおとうみ/現在の静岡県西部)を示した。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 遠江は、K図の「230年頃の東海西部系土器」という、その「東海西部」である。
 M図に、わたくしが「卑弥呼の地上絵」と名づけた1千万坪の大鳥の地上絵を示した。この〔大鳥の地上絵の遺跡〕は、「東海西部の遠江」の現在の静岡県浜松市北区の細江(ほそえ)町の行政区域を表示する地図の形となって現存する。
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(C) 2017 OHKAWA

 わがブログ「真実の日本国誕生史・8」で詳細に解説して証明したように、卑弥呼の地上絵は高尾山古墳の主体部が完成した約10年後の260年頃から作成が開始され、290年頃に完成したと考えられる。
 卑弥呼の地上絵は、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約説話末部に「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖である建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」と記述された、遠江の豪族とその一族によって作製された。この地上絵の作製目的は日本国誕生史と伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を保存して後世に伝えることであった。卑弥呼の地上絵に図化されて保存された歴史は約450年後に成立した『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の記事に、なんとすべて合致する。
 M図の上部に示した引佐(いなさ)町に住んだ建比良鳥命は、1010(寛弘7)に武家を創立した井伊氏の先祖であり、今年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の遠祖である。井伊氏の頭首は3代・共直(ともなお)から現在の41代・直岳(なおたけ)氏まで、名に必ず[]の字が付く。おんな城主「直虎」の[]はD図の「虎」つまり「無事にわが子が出産するために、母体が怒責して虎が吠えるがごとく挙げる大声」をあらわすものであったのである。
 『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話は――伊耶那岐命のクーデターによって倭女王から失脚した天照大御神と子の崇神(すじん)天皇は、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪し、【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民を弾圧(だんあつ)して苦しめた。このため、伊耶那岐命の臨終直前に天照大御神・崇神天皇王朝を倒さんとした5人の王と宗像(むなかた)王は須佐之男命を大王(天皇)とするクーデター計画を企てた。遠江の建比良鳥命は九州の宗像王グループの7人の建比良鳥命の一人としてクーデター計画に参加した。しかし、息子の須佐之男命を枕元に呼んで臨終間際の伊耶那岐命が「吾が天照大御神を倭女王から失脚させたクーデターから始まる恨み・憎悪の連鎖(れんさ)を絶って、戦争を回避(かいひ)せよ」と説得し、この説得は遺言となり、須佐之男命は父の遺言をまもって崇神天皇と不戦の誓約を結んだためにクーデター計画は失敗した。
 M図の大鳥の地上絵を作成した遠江の建比良鳥命は伊耶那美命に熱烈に憧れ、須佐之男命と崇神天皇の不戦の誓いによってクーデターが失敗して夢が破れ、それならば日本国誕生史の真相を後世に残すという動機を抱く人物であったのである。

◆『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は「倭の卑弥呼王朝の命令で伊耶那岐命と伊耶那美命は小国・日本へ封(ほう)ぜられることになり、小国・日本に到着した時、八尋殿(やひろどの)の宮殿は建造されず天之御柱(あめのみはしら)も立っていなかったが、結婚式場の高尾山古墳はすでに完成していた」と記述する。
 卑弥呼王朝は伊耶那岐命と伊耶那美命の結婚式場の高尾山古墳の築造工事担当者を、倭国において小国・日本国の沼津市に一番近い東海西部の遠江・三河(現在の愛知県の東部)・尾張(現在の愛知県の西部)の豪族に選んだと考えられる。だから、遠江の建比良鳥命は高尾山古墳を築造工事監督者の一人であったことになる。
 淤能碁呂島聖婚説話に登場する「天之御柱」は垂直に立つ柱であるゆえ、その先端はN図に示す「天頂点」を射って「天頂緯度線」をキャッチすることになる。A図に示した沼津市の足高山・浮島原地域の根方(ねがた)街道から東の清水町一帯の神社では、正月元旦に男衆が垂直に木の柱(つまり、天之御柱)を立てる風習が昭和30年頃まで行われていた。
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(C) 2017 OHKAWA

 N図に示すように、「天頂緯度線と子午線のキャッチ」をあらわす字は[(げん)]であり、天頂緯度線をキャッチすると1度の60分の11分の精確さで緯度が測量できて、『易経』繋辞上伝の「仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」という記事のごとく、約4000年前の夏代初頭の頃でも精密な中国地図を作製できたゆえ、夏音文字の学芸が伝来したわが国でも3世紀に1千万坪の大鳥の形をした卑弥呼の地上絵が作製できたのである。
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(C) 2017 OHKAWA

 上のO図に示すように、卑弥呼の地上絵は[]における天頂緯度線をキャッチして経緯度原点のA地点と同緯度(北緯3448)の滝峯不動尊(たきみねふどうそん)を測量した。[] の子午線測量をもって、A地点と滝峯不動尊の経度線より29(夏至の日の出・日没の方角)の斜め線が交わる地点「八幡宮」を測量した。この精確な土地三角測量を基に三角形の網(あみ)や鎖(くさり)を形作って、ちょうど1千万坪の大鳥の地上絵(地図)が作製された。この大鳥の地上絵の作製方法は、現在の国土地理院の精密地図作成原理と同じである。
 P図の上図のごとくO図の卑弥呼の地上絵の〔南〕(正確には〔南東〕)にある鳥の頭部を〔東〕になるように転回させると、P図の下図に示したように卑弥呼の両翼となる境界線は中国の海岸線地図の形に相似する。
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 だから、卑弥呼の地上絵の大鳥の両翼は、D図の破砕鏡とJ図に示した「鹿」「虎」「鳥」「羽人」の絵柄を表示するものであった。破砕鏡の「鹿」「虎」「鳥」「羽人」の絵柄をわが国では〔愛〕をあらわすと解釈された。だから、卑弥呼の地上絵は大和朝廷に絶対に見つからないように日本国誕生史と【日本建国の〔愛〕の理念】を密かに保存して、今日まで失われなかった、日本人にとってきわめて重大な遺跡・史料ということになる。

◆上方作系浮彫式獣帯鏡は日本国内ではこれまでに50例近く見つかっている。D図の高尾山古墳出土の破砕鏡は欠けているために全文字が解読できないが、ほかの上方作系浮彫式獣帯鏡には「上方作竟(しょうほうさくきょう)」と「長宜子孫(ちょうぎしそん)」という文字が彫られていた。
 J図は「上方作竟」と「長宜子孫」の解説図となる。「上方作竟」とは――[]の字がある「鹿」と「虎」の海岸線の「上」に、「竟()」の面のように平らな大海(東シナ海)を配置すれば「人口が増加する、平安」をあらわす――と意味するものであった。
 わが国の漢字学の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は、「長宜」の[]の古代字形(契文と金文の字形)を「俎()の上に肉を並べた形」と指摘する。[]は「まな板(食材を切るための表面が平らな板)」を意味するゆえ「平面」を意味した。「地宜(ちぎ)」は「平面的に図化した地図の形」を意味するゆえ、P図の上下の地図は「地宜」である。だから、「宜」はJ図においては「鏡()の面のように平らな大海と中国国土地図」とそして「人口が増加する、平安」をあらわした。
 3世紀当時、また現在でも、Q図に示す「三方原(みかたはら)台地」は、[]の字源・字義を伝える「平らな平原」である。
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 滝峯不動尊は崖の下にあり、この崖の坂道(現在は石の階段となる)を登ると県道となり、この県道地点は[]をあらわす三方原台地の北端となる(ゆえに、大鳥の地上絵の頭部は三方原台地の一角となる)。「長宜子孫」の意味を正確に知っていた建比良鳥命は、「中国の海岸線を図化する大鳥の地上絵の頭部と両翼部分(東端の境界線)[]の字義となる「三方原台地」に隣接して「長宜子孫」を表示したのである。
 “字書の聖典”と尊重される、後漢の2世紀初頭に成立した『説文解字』は、[]の字源を「安んずる所なり。宀(べん)の下、一の上に従い、多の省声」と解説した。「安んずる所なり」という解説が示すように、[]の字は「人口が増加する、平安」をあらわした。
 『説文解字』は[]の字源を「至高(しこう)にして上なし。一大に従ふ」と解説して、[]の字源はN図に示した「最も高くてそれ以上の上が無い天頂緯度線」であり、[]の字源はR図に示す「十字の銀河」であると解説した。つまり、「十字の銀河」は[]の字源であり、[]字形であったゆえ、『説文解字』は「一大に従ふ」と解説したのである。
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 倉頡は「十字の銀河」を〔文字作成銀河の各部の形状から作られる(生まれる)すべての文字の母体〕と定めた。この定則をあらわして、S図に示すように「文字」の[]の金文は「十字の銀河」を「おなかが円く突き出る・子宮に胎児が宿る妊婦の正面形」に図案された。
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 T図の[]の解説図が示すように、「十字の銀河」は[]の字源であり、「胎児」に見立てられた[]の字源「鬼の姿に似る銀河」と合体して[]の字源となった。T図に「鬼の姿に似る銀河に、太い線で示した銀河部」が[()]の字源である。「十字の銀河」の[]の下に[]が加わって、『説文解字』が「安んずる所なり云々」と解説する[]の字となった。
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 U図の娩出期(べんしゅつき/出産第2)において胎児の頭が安んじて誕生した、その胎児の顔が向ける母体の背中は「俎(まな板)のごとく平ら」である。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 だから、T図の太線で示した娩出期における「母体の背をあらわす銀河部」は[]の字源となった。上記した『説文解字』の[]の「宀の下、一の上に従ひ、多の省声」という字源解説は――「十字の銀河」の下となる「鬼の姿に似る銀河」の周囲は、[]の字源「十字の銀河」と同じく「母体」に見立てられた。「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」は「多く」の文字の字源・字形・字義となった――と説明するものであったのである。
 U図の「母体の腹部(おなか)」は、J図の「虎」の「中国海岸線」と同じく「円弧を描いて円い」。そして、「虎」の海岸線の東にある「大海(東シナ海)」はT図上部の東にある[]の字源「十字の銀河」に見立てられ、J図の「人民が住む中国の平原全域」は[]の字源「鬼の姿に似る銀河を包む母体の背中」(U図参照)に見立てられて「長宜子孫」という語となった。というのも、R図に示す[]の字源「十字の銀河」は「至高にして上なし」の「天頂緯度線」をあらわし、「中国の大地から天頂緯度線までの距離は長く」、T図の「鬼の姿に似る銀河」は[][]の字源でもあったゆえ、「長宜子孫」という語が成立したのである。
 []の字を『説文解字』は上記したように「安んずる所なり」と解説するゆえ、「長宜子孫」は「長く平安が続いて、子孫が国土に満ち満ちて増加する」と意味した。

◆白川静著『字統』の[寿]の金文の字形解説は、要するに「田の畝(うね)で豊穣(ほうじょう)をいのる字」ということになる。ゆえに、V図の右側の[寿]の金文形は「田の畝の神」と「田へと流れる水」と「土器」をあらわす[]の字(図書)で組織される。
S863
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 V図に示すように、「田の畝の神」は「北アメリカ星雲と鬼の姿に似る銀河の南部(腹部)」から成り、「田へと流れる水」は「激流の銀河から枝分かれして、ゆるやかに田へと流れる水のイメージとなる銀河部」、「土器」は「泥のように柔らかい粘土から作るゆえ、雨水で柔らかくなった土地」をあらわした。
 ゆえに、[][寿]の字源銀河は同一ではなく、異なって別であった。
 W図に、都田川(みやこだがわ)の沖積(ちゅうせき)平野を示した。
S864
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 M図に示すように、都田川の沖積平野は「水が流れる田」となって[寿]の字源をあらわす。
 崖下の滝峯不動尊の坂道を登った県道地点から南東地域が[]の字源をあらわす「平らな土地の三方原台地」である。
 このように、建比良鳥命は三方原台地と都田川の沖積平野を利用して「[][寿]の字源は異なって違う」と明確に示す卑弥呼の地上絵を作成した。夏音文字の学術に精通する当時を代表する学者であった建比良鳥命は、最古の漢字である銀河各部の形状を観察して「上方作竟」と「長宜子孫」の語源・語義を正確に知っていたのである。
 以上からして、C図に示した高尾山古墳の墳丘内から出土した約2,000点の土器は〔西暦230年、1万の呉の水軍が東鯷人国へ遠征を決行したために小国・日本が誕生した〕と伝える史料であったことになる。というのも、「土器」は契文(甲骨文字)と金文では[]の字で示され、白川静著『字統』は「概(おおむ)ね祝祷(しゅくとう)の器の形である【さい】の形に作る」と解説して、X図の右側に配する[]の字に相似する字を白川静博士は【さい】と指摘するからである。
S865

  【さい】の[]の字源・字形・字義となる「土器」は、X図のごとく澄んだ水を入れて平らな地所に設置すると、その水の平らな上面は鏡()となって天頂点・天頂緯度線となる銀河部位をキャッチする(映す)
 したがって、高尾山古墳の墳丘内から出土した約2,000点の土器は、天(N図に示した天頂)を祭って呉軍と戦う日本軍の勝利を祈願した器具(祭器)であったのである。
 倭地の遠江に住んだ建比良鳥命は、卑弥呼王朝に高尾山古墳の築造を命令された工事監督者の一人であったと推定される。わがブログ「真実の日本国誕生史・22」で詳細に解説して証明したように――『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話は伊耶那岐命が日本軍の兵士と熊野に住む戦士たちの協力を得て、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪した倭女王の天照大御神を失脚させた――と記述する。この伊耶那岐命のクーデターは、250年頃であったと推定される。伊耶那岐命が開化(かいか)天皇となって天下を治めた250年頃、遠江の建比良鳥命とその一族は高尾山古墳の主体部を作って、建比良鳥命は上方作系浮彫式獣帯鏡にある仙人の絵柄を破壊し、「鹿」「虎」「鳥」「羽人」の絵柄を残して【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした。というのも「仙人」は「不老長寿」をあらわすゆえ、「仙人」の絵柄を無くせば【日本建国の〔愛〕の理念】を明確に表示することができたからである。260年以前の255年以後、伊耶那岐命・開化天皇は死去した。その年、遠江の建比良鳥命は宗像王に頭首とする一派の一員となって天照大御神・崇神天皇王朝を倒すクーデター計画に参加したが、このクーデター計画は失敗した。260年頃、遠江の建比良鳥命とその一族は発見されれば即刻に天照大御神・崇神天皇王朝に国家と王朝の政権基盤である夏音文字の学術を絶対に私有化したり暴露してはならないと厳重に禁止された赤ン坊までも皆殺しにされる大罪を犯(おか)し、すなわち夏音文字の天文地理学を用いて日本国誕生史と【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝える1千万坪の卑弥呼の地上絵の作製に密(ひそ)かに着手した。

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