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2017年12月19日 (火)

真実の日本国誕生史・33

 ●日本建国の〔愛〕の理念の証明・8
■日本国誕生史は科学的に明確に証明できる
 
1616年の没した徳川家康は、亡くなる一年前の1615年に「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにしょはっと)」を制定し、その第一条を「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」とした。この第一条の真意は、下に示す桂離宮庭園の平面図で明確に示された。

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 ▲桂離宮庭園の平面図

 桂離宮は京都市西京区に所在する。上に平面図で示した桂離宮の庭園は、小堀遠州(15791647)が江戸幕府に命令されて1623年から病床に伏す1645年までの23年間、情熱をかたむけて作った。これゆえ、桂離宮に関する資料『桂御別業之記(かつらごべつぎょうのき)』の冒頭は「庭園は小堀遠州政一が伏見奉行であったときに毎々参上してことごとく作った」と記述する。現在は、この記述は疑問視されて、庭園は離宮所有者であった八条宮智仁(はちじょうのみやとしひと)親王や子の智忠(のりただ)親王が作ったと推定されている。しかし、このような意見は空理空論である。
 上記した「禁中並公家諸法度」の第一条「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」という文を、歴史学者はじめ学識者たちは「天子は政治にかかわらず、芸術や学問に熱心でありさえすればよい」と解釈する。しかし、家康は「朝廷はわが国の芸術と学術において最も重大な『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話冒頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に記述された日本国誕生史と【日本建国の〔愛〕の理念】を復興させることができる学芸を抹殺(まっさつ)せんとしていますが、この日本人のいのちと魂の根源である真実は絶対に失うことができません」という思いを、時の108代後水尾(ごみずのお)天皇に向けて主張する文であった。だから、一生をかけて成しとげようとしたが実現することができなかった家康の夢を、将軍秀忠(ひでただ)と幕府は受け継いた。だから、淤能碁呂島聖婚説話に記述された歴史と上古に実在した学問を解明できる桂離宮の庭園が作成されることになった。
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(C) 2017 OHKAWA


 A図に示す静岡県沼津市に所在する高尾山(たかおさん)古墳は、2008年に発見された東日本最大にして最古の前期古墳である。沼津市教育委員会は、高尾山古墳は「墓」であったと推定した。しかし、わがブログ「真実の日本国誕生史」は1221回までで、高尾山古墳は『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話のすべての記事に合致する、日本国誕生史と【日本建国の〔愛〕の理念】を伝える封土(ほうど/盛り土)であったことを科学的に証明した。
 沼津市教育委員会は230年頃に高尾山古墳の墳丘が完成し、後方墳の主体部の埋納施設は250年頃に作られたと推定した。

◆淤能碁呂島聖婚説話に記述された伊耶那岐命と伊耶那美命の結婚式場であった高尾山古墳の主体部が作られてから約1400年後の1645年に桂離宮の庭園が作られた。
 B図に示した、わたくしが「卑弥呼の地上絵」と名付けた大鳥の地上絵もまた、前回のわがブログ「真実の日本国誕生史・32」で証明したように、朝廷に淤能碁呂島聖婚説話は日本国誕生史を伝える真実の記録であると抗議するために作製された地上絵であった。
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 卑弥呼の地上絵は遠江の豪族・建比良鳥命(たけひらとりのみこと)とその一族が高尾山古墳の主体部が作られた直後(10年後)260年頃から作製を着手し、30年後の290年頃に完成させたと推定される。卑弥呼の地上絵は、現在の静岡県浜松市北区細江(ほそえ)町の行政区域を表示する地図の形となって現存する。
 B図上部の引佐(いなさ)町井伊谷(いいのや)に居住した建比良鳥命は1010年に武家を創設して「井伊氏」と名乗った井伊家の先祖である。譜代(ふだい)大名筆頭に地位についた井伊氏24代頭首の直政(なおまさ)は関ケ原合戦の4ヶ月後の1601年正月、淤能碁呂島聖婚説話に記述された日本国誕生史を復興せんとする家康と直政自身の夢を実現するために、石田三成の居城であった佐和山(さわやま)城を与えられて近江(現在の滋賀県彦根市)に移住した。しかし、関ヶ原で島津隊から受けた鉄砲傷が悪化して、翌16022月、42歳で亡くなった。家康は直政の死を悲しみ、井伊藩士たちは頭首の死の悲しみを乗り越え、井伊氏は『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記された日本国誕生史を復興せんがため、C図に示す3千万坪の大鳥の地上絵を1603年に着工し20年後の1622年に完成させた。
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 C図の下部に示したように、彦根の3千万坪の大鳥の地上絵は――伊耶那岐命と伊耶那美命を主神として祭る多賀大社がある東方には〔鳥の翼の部分を図化しない設計〕をもって「未だ日本国誕生史は習わず(飛ぶ羽が失われて、復興せず)」「未だ【日本建国の〔愛〕の理念】は復興せず」とあらわした。したがって、この大鳥の地上絵もまた、淤能碁呂島聖婚説話に記述された真実の復興を朝廷に欲求(よっきゅう)するために作製されたことになる。
 C図の大鳥の地上絵は、現在の彦根市の行政区域を表示する地図の形となって残る。
 彦根の大鳥の地上絵が完成した1622年、小堀遠州は近江国奉行に任命され、この地上絵にそそぎこまれた淤能碁呂島聖婚説話に記述された歴史を科学的に復興することができる学術と芸術の伝統はじめ様々な知識を井伊氏から受け継いだ。そして翌年(1623)から、上記したように小堀遠州は桂離宮の庭園の作成に着手した。

◆家康が隠居生活を過ごす駿府城の作事奉行に命じられた30歳の小堀正一(まさかず)は、家康に科学と芸術の卓絶(たくぜつ)たる才能を見出されて従五位下遠江守(じゅごいのげとおとうみのかみ)に取り立てられ、B図に示した遠州卑弥呼の地上絵の研究を家康に命じられた。以後、彼は卑弥呼の地上絵が所在する「遠州」を名に用いて「遠州」と号した。
 したがって、桂離宮の庭園作りを着手した1623年の時点、45歳の小堀遠州は――(1)遠州自身がB図の卑弥呼の地上絵と淤能碁呂島聖婚説話を研究した成果に、(2)家康(幼名・竹千代)が駿府で人質生活を始めた8歳の時に今川義元の軍師・大原雪斎(たいげんせっさい)から徹底的に教育された時以来没するまで68年間研究した淤能碁呂島聖婚説話知識の一端を家康から時々教えられて受け継ぎ、さらに(3)建比良鳥命が卑弥呼の地上絵を作製した3世紀後半以来守りつづけた井伊氏がC図の大鳥の地上絵にそそぎこんだ淤能碁呂島聖婚説話の知識を加える――淤能碁呂島聖婚説話に関して豊富な知識を有していたことになる。
 だから、桂離宮の庭園はA図に示した高尾山古墳が築造された約1400年後に日本国誕生史と【日本建国の〔愛〕の理念】の復興を朝廷に欲求するために作成した施設であり、また『古事記』上巻に記述された上古に実在した学芸を復興させる施設でもあったのである。
 D図に示す桂離宮庭園平面図の北側の東方の桂垣(かつらがき)・表門がある穂垣(ほがき)・西方の穂垣からなる垣根は「富士山」の形となる。A図に示した伊耶那岐命と伊耶那美命が結婚した高尾山古墳は、富士山に近い南東に位置する。ゆえに、D図上部の「富士山の形となる垣根」は「淤能碁呂島聖婚説話における伊耶那岐命と伊耶那美命が結婚した会場は富士山の南東にあった」と示していることになる。
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 D図の桂川の土手沿いに約230mの長さで続く桂垣は、多くの人々が目を見はって絶賛する、有名な竹林の小竹(こだけ)を折り曲げて竹の葉を編む美しい生垣(いけがき)である。この垣根を「桂垣」または「桂の笹垣(ささがき)」と称する。
 桂離宮の南面は「旧丹波街道」である。「旧丹波街道」と「竹の葉を編む桂垣」は「伊耶那美命は丹波出身の竹野比売(たかのひめ)」であったと伝えている。
 『古事記』中巻の9代開化天皇紀は「天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して、天下を治めた。天皇は丹波の大県主(おおあがたぬし)の由碁理(ゆがり)の娘の竹野比売と結婚して、比古由牟須美命(ひこゆすみのみこと/上巻に登場する須佐之男命)を生んだ」と記述する。開化天皇が居住した宮殿名の「伊耶河宮」の先頭2字は「伊耶那岐命」と「伊耶那美命」の先頭2字「伊耶」である。ゆえに、開化天皇は若き日に「伊耶那岐命」という異名(あだな)で呼ばれ、伊耶那美命の本名は竹野比売であったことになる。
 このように桂離宮を訪れると、真っ先に「伊耶那美命は丹波出身の竹野比売であった」と示す美しい桂の笹垣が迎えてくれる。
 D図に「卑弥呼の地上絵に相似する庭園」と記した平面図を、E図の左図とした。E図の右図は、B図の卑弥呼の地上絵の略図である。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 E図の左図の桂離宮における「卑弥呼の地上絵に相似する庭園」は、C図の彦根の大鳥の地上絵と同様に〔鳥の羽を図化しない設計〕となる。この設計をもって「未だ日本国誕生史は復興せず」「未だ【日本建国の〔愛〕の理念】は復興せず」と示している。
 F図に示すように、“住吉の松”という名の松が植えられる「亀の尾」の真東に「天橋立(あまのはしだて)」がある。
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天橋立中央の築島(つきしま)の南面に、G図に示す「蓬莱山(ほうらいさん)の岩」がある。
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 下は、「蓬莱山の岩」の写真である。

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▲桂離宮庭園の蓬莱山の岩

 H図は、“日本に現存する蓬莱山図の逸品(いっぴん)”と評される「蓬莱山蒔絵袈裟箱(ほうらいさんまきえけさばこ)(東京国立博物館蔵 法隆寺献納宝物 重要文化財 平安時代作成)を模写したイラストである。
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 G図の「蓬莱山の岩における左の低い山となる西側」をH図の蓬莱山の絵の「亀の頭」に見立てると、「蓬莱山の岩における右の高い山となる東側」が「蓬莱山と亀の甲羅の部分」となる。ところが、その「高い山の東側」には「亀の尾」となる部分が存在しない。しかし、F図の「蓬莱山の岩」の真西の「住吉の松が植わる岬」が「亀の尾」をあらわす。
 したがって「亀の尾」という岬には、I図のごとく反転すれば「天橋立の中央の築島南面の岩」は「蓬莱山」になると示す役割がある。
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(C) 2017 OHKAWA
 
◆F図における「亀の尾」の南には「神仙島(しんせんとう)」がある。
 「蓬莱山」の「蓬莱」に「神仙島」の「神仙」を加えると、「蓬莱の神仙」となる。
 中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』の倭伝末部には「秦の始皇帝(紀元前246-同210)は方士の徐福(じゅふく)に遣(つか)わし、童男女(青年男女)数千人を将(ひき)いて大海に入り、蓬莱の神仙を求めむれども得ず」という、東鯷人(とうていじん)国記事がある。
 上記の文中に登場する「蓬莱の神仙」は、A図に示した沼津市に所在する旧称「足高山(あしたかやま/現在の「愛鷹山」)」であった。
 「蓬莱の神仙」は「蓬莱山に住む仙人の不老長寿の力を与える霊薬」を意味した。上記の『後漢書』倭伝末部の東鯷人国記事は「蓬莱の神仙を求めしむれども得ず(蓬莱山に住む仙人の不老長寿の霊薬を採取できなかった)」という文の後に、「徐福は誅(ちゅう/死刑)をおそれて帰国しなかった。徐福一行は、ついにこの州に定住したと伝わる。代々血を受け継ぎ、(3世紀になると)、徐福一行の氏族は数万軒となった」と伝える。
 徐福一行が不老長寿の霊薬を大量に採取できるにちがいないと思い込んだ蓬莱山は、沼津市の愛鷹山・足高山であった。この紀元前3世紀の徐福の沼津市渡来の歴史にもとづき、伊耶那岐命と伊耶那美命の結婚式場の高尾山古墳は足高山の麓に築造されたのである。
 中国では〔桃〕は神仙(仙人)に不老長寿の力を与える果実と信じられている。だから、足高山(愛鷹山)の山頂には、[]の字がつく「桃沢神社」が現在も鎮座(ちんざ)する。
 司馬遷(しばせん)著『史記』の巻百十八「淮南衝山列伝(わいなんしょうざんれつでん)」も徐福一行の沼津市渡来記事が存在し、足高山の南の「浮島沼(うきしまぬま)」を「平原広沢(へいげんこうたく)」と記す。わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は、[()]の字について「水停(とど)まるを澤といふ」、また「水草が交錯(こうさく)の處(ところ)」とし「水の発源の地をいう」等と解説する。ゆえに、[]は「水が停止する沼」であり、「水草が茂り、底に水草の根が交錯して腐食層となった湖沼(こしょう)」であり、「あちこちの地下から湧水泉(ゆうすいせん)がある湿地帯」ということになる。「3世紀の浮島沼」は「岸辺に葦はじめ水草が茂り、底には葦や水草の根が交錯して腐食層が堆積(たいせき)する湖沼」であり、「富士山の雪解け水があちこちの湖底から大量に湧き出る、水が発源する広大な湿地帯」であった。だから、浮島沼(別名・浮島原))は『史記』が記したとおり「平原広沢」であった。現在は、浮島沼はほとんど姿を消すように縮小したが、幕末の浮世絵には富士市吉原・沼津市・三島市まで広がる平原のような大きな湖沼として描かれ、また浮島沼が「平原広沢」であったのは、あちこちの水底の地下から富士山の雪解け水が大量に湧き出ていたからである。
 したがって、足高山の頂上に鎮座(ちんざ)する「桃沢神社」の名に付く「沢」は「平原広沢」の「浮島沼」であり、秦の始皇帝と徐福たちは「足高山」を「桃の木が茂る蓬莱山」という幻想を抱き、徐福一行は大海を渡って足高山に到着した。しかし、足高山には桃の木が茂っていなかったので不老長女の霊薬・桃の実は採取できず、『史記』は「死刑をおそれた徐福は平原広沢(浮島原)を手に入れる王となって、中国に戻らなかった」と記述した。

◆再度、F図を参照していただきたい。
 F図に示したように、「亀の尾」の南に「月波樓(げっぱろう)」という建物がある。月波樓の屋根裏には、長い年月で絵具がはがれているが現在においても「南蛮船(なんばんせん)」の形が明白に残る絵馬(えま)が立てかけられている。この「南蛮船を描く絵馬」は――『三国志』呉書孫権(そんけん)伝が「呉の黄竜2(230)、将軍衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)を派遣し、甲士(こうし/武装兵)万人を将(ひき)いて海に浮かび、夷州(いしゅう)及び亶州(たんしゅう)を求めしむ」と記述する――「夷州と亶州に分かれた東鯷人国遠征を決行した呉軍」を表示するものであったのである。
 (呉の1万の水軍は卑弥呼が統治する倭国の隣国の東鯷人へ遠征を決行した、この詳細の解説と証明はわがブログ「真実の日本国誕生史」の23回・24回・25回でおこなった)
 黄竜2年・230年の呉軍の1万の遠征は、東鯷人国へ渡る大海の道の途中の台湾沖で8割~9割の兵士を失って壊滅(かいめつ)した。
 だから『後漢書(ごかんじょ)』倭伝の末部は「東鯷人国の人民たちは時に(定期的に)呉の会稽(かいけい)に到着して交易をしていた。(中略)。東鯷人たちが往来する大海の道は、中国の人々には遥(はる)かに遠く途中で道が絶えてしまうので往来することはできなかった」と記述する。したがって、F図における「亀の尾と天橋立中央の築島を結ぶ同緯度線」は「東鯷人たちが東鯷人国の港から呉地の会稽までの大海を往来できた、1度の60分の1の1分の緯度差を精確に測定できた眼力と技(わざ)を有していた」と示していることになる。
 一方、呉の皇帝・孫権は黄竜2年の遠征軍壊滅で呉軍には大海中に所在する日本列島の東鯷人国に渡ることができる眼力と技を有していないことを思い知って、再度遠征を決行しなかった。ところが、倭の卑弥呼や東鯷人国王や日本列島に住む人民たちは、倭の使節と東鯷人たちが大海を往来して中国の地に到着できたゆえ、当然、呉軍も東鯷人たちが往来する大海の道を往来できると思い込んだ。
 黄竜2年の22年前の208年におきた中国の戦争史で有名な赤壁(せきへき)の戦いで、2万の呉の水軍は80万の魏の大軍を撃破(げきは)して大勝利をおさめた。ゆえに、黄竜2年に呉の会稽で交易していた東鯷人は呉軍の遠征の情報をキャッチして急遽(きゅうきょ)、帰国して東鯷人国王に報告した。この報告は東鯷人国王に止まらず洩()れて大騒ぎとなり、40万の大軍に匹敵(ひってき)する1万の呉の水軍が東鯷人国に襲来して多数の人民を殺して、さらに人狩りが行われて多数の人民が呉の奴隷となるという噂(うわさ)が一挙に広がり、倭国と東鯷人国は恐怖のルツボと化したのである。
 東鯷人国王は呉軍と戦っても勝ち目はないと判断し、東鯷人国は倭国の卑弥呼に統治される小国の一員になることを決意して、卑弥呼に東鯷人国防衛を指揮する軍王(いくさのおおきみ)と呉の呪的(じゅてき)戦力を奪う魔女(女王)と倭の大軍の派遣を要請した。これゆえ「東鯷人国」は滅亡して、倭国の一員となった小国が誕生し、この小国は「日本」と名づけられた。新生・日本国の軍王に伊耶那岐命・後の開化天皇が選ばれ、日本国の女王に丹波に住む竹野比売・伊耶那美命が選ばれて、小国・日本に赴任することになった。
 このような状況を、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の冒頭は「ここに天神諸命(あまつかみもろもろのみこと)は、伊耶那岐命と伊耶那美命に『この漂(ただよ)へえる国を修理(つく)り固め成せ』という詔(みことのり)を下された」と記述した。ゆえに、この記事は「卑弥呼王と卑弥呼王朝を支える面々は、伊耶那岐命と伊耶那美命に『大海を漂流する船のごとく、もはや死を待っているだけの恐怖で支配されるわが国に、平安を取り戻すように来襲する呉軍を撃退(げきたい)せよ』という詔を下した」と伝えるものであったことになる。
 わがブログ「真実の日本国誕生史・13回」で詳細に解説して証明したように、淤能碁呂島聖婚説話は「伊耶那岐命と伊耶那美命は東鯷人国が倭国の小国の一員になったことを示す淤能碁呂島の塩作り儀式をおこなった後に、小国・日本に赴任した」と記述する。 
 そして、淤能碁呂島聖婚説話は二人の日本国到着の様子を「その島に天降(あま)り坐()して、天御柱(あめのみはしら)を見立てて、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき」と記述して、「二人が小国・日本の高尾山古墳に到着した時、高尾山古墳には呉軍を撃退した時に立てられる天御柱は立っていなかったので立っていると見立てて(想像し)、呉軍に勝利した時に建造される宮殿(八尋殿)も建造されていなかったので建造されていると想像し、防衛を成功させるために、高尾山古墳を会場とする結婚式に臨(のぞ)んだ」と伝えている。

◆前述したように、家康の遺志を継いだ将軍と幕府は後水尾天皇が『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は事実であったと認める、これを実現するために桂離宮は作られたのである。
 しかし、遠州が桂離宮の庭園作りに着手した1623年から5年後の1627年に紫衣(しえ)事件がおきた。この事件で天皇と幕府は衝突し、天皇は怒って162911月に幕府に無断で譲位(じょうい)し、将軍秀忠の娘の和子(かずこ)の生んだ興子(おきこ)内親王が明正(めいしょう)天皇に即位して跡を継がせた。紫衣(紫色の法衣)を着用することは禅宗・浄土宗の僧侶にとって最高の栄誉であるが、天皇が紫衣の許可を与えるには事前に幕府の同意を必要とすると定められていた。ところが、天皇は以前の慣例にもとづき無断で許可を与えたため、幕府は無効であると宣言した。天皇は幕府の強圧と種々の干渉(かんしょう)に反発して退位したのであるが、この天皇と幕府の軋轢(あつれき)によって後水尾帝は小堀遠州の生前に一度も桂離宮を御幸(みゆき)しなかった。
 小堀遠州は、京都市の伏見(ふしみ)奉行屋敷にて1647年に69歳で死去した。
 遠州没後――後水尾上皇が指示して京都市左京区修学院室町に、1653年から1655年に修学院離宮を造営した。すると、すかさず幕府は1655年から離宮の広大な敷地内に、J図に示した上御茶屋(かみのおちゃや)と下御茶屋(しものおちゃや)の庭園作りを開始して1659年に完成させた。
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(C) 2017 OHKAWA

 J図上部に示した上御茶屋は「浴竜池(よくりゅういけ)」を中心とした大庭園である。
 K図の下図は、上に示したG図を反転したI図である。
 K図に示したように、「浴竜池の平面図」は桂離宮の「蓬莱山の岩の形」に相似する。
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 L図に示すように、浴竜池の平面図は「夏の銀河の西南部の形」にも相似する。

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 このブログ「真実の日本国誕生史」は3回以後前回まで詳細に解説し証明してきたように――『古事記』序を書いた太安万侶(おおのやすまろ)は「文字は銀河から作られた。『古事記』上巻の記事は文字(字源・字形・字義)を銀河の形状に変換すれば歴史が解明できる仕組みになっている」と警告(けいこく)した。また、安万侶は『古事記』序の冒頭で「中国の夏代(かだい)初頭(紀元前2070~同2051年頃の後期縄文時代初頭)、わが国には夏音(かおん)文字が伝来した」と記述した。
 夏音文字は書いた文字が用済みになったならば直ちに消して、漢字は銀河から作られた文字である秘密を厳重にまもる原初漢字であった。「卑弥呼」という3字を「ヒミコ」と読むと夏音文字の字音となり、『魏志(ぎし)』倭人伝の人名・小国名・官職名には多数の夏音文字の字音が楷書で表記されて残る。また、上記したように『古事記』序は「夏音文字」について詳細に説明し、上巻の随所には〔音〕という注が付いて多数の夏音文字の字音が楷書で表記されて残った。
 「銀河」の別称は「銀漢(ぎんかん)」であるゆえ、「銀漢から作られた字」を略して「漢字」と称されることになった。このため、天に多数の文字が実在することになったので、「銀河が輝く夜空」は「天文」と称されることになったのである。また「天皇」という語は「漢字が銀河各部から作られた学芸に精通する大王」と意味するものであった。だから、「漢字」、「天文」、「天皇」の語源にもとづき、太安万侶は『古事記』序において実在した夏音文字について詳細に説明したのである。
 漢字が銀河から作られた秘密は、漢字作成原理を発明した倉頡(そうきつ)について語られる伝説で示され、『易経(えききょう)』の繋辞(けいじ)上伝・下伝にある記事が伝え、『老子』上篇(道経)第一章~第三十七章の37の各章で説かれ、上記したように『魏志』倭人伝にも記述され、また太安万侶が『古事記』序でも説明している。
 しかし、新井白石(あらいはくせき/16571725)から現在までの学者たちは『古事記』序の「漢字は銀河から作られた。わが国には原初漢字の夏音文字の学芸が存在する」という記述はじめ上記した伝説や古典が伝える「漢字は銀河から作られた」という説明をことごとく排除した。だから、当然、学者たちが「わが国が、最初に漢字を習得したのは5世紀か6世紀頃である」と断定する定説は明白なる〔誤読の空理空論・虚妄(でたらめ)〕である。
 『古事記』序が「上巻の歴史を解明する方法」と告げる「銀河から作られた漢字の学芸」は「『古事記』上巻と『魏志』倭人伝に記述された上古に実在した学問・芸術」であり、家康が没する1年前に制定した禁中並公家諸法度の第一条の「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」の「諸芸能と学問」であったのである。したがって『古事記』序の「漢字(夏音文字と楷書)は銀河から作られた」という記述は事実であり、「漢字が作られた銀河の範囲」をわたくしは「文字作成銀河」と名づけることにした。

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 ▲文字作成銀河の写真

 漢字は銀河から作られた――この秘密を守るため、各部に名称を付けることは厳重に禁止されたゆえ、文字作成銀河各部には名称が無い。ゆえに、わたくしは下に示すように各部の名称を定めた。

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 ▲文字作成銀河各部の名称

◆再度、L図を見ていただきたい。L図右側の右東・左西の「夏の銀河の西南部」の図は、K図同様に上の〔文字銀河各部の名称図〕における右下の「夏の銀河の西南部」の反転図(右西・東左の図)である。
 下に、L図右図の夏の銀河の西南部の写真を示した。
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 ▲夏の銀河の西南部の写真

 夏の銀河の西南部は黄色く輝く。また、L図の右図に示すように、夏の銀河の西南部にはわたくしが「巨龍(きょりゅう)の銀河」と名づけたその〔顔から首の部分まで〕がある。
 M図に、「巨龍の銀河」の全体像を示した。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 「黄色く輝く夏の銀河の西南部の写真」が示す「黄」に、「浴竜池」の「竜」とL図右図の「巨龍の銀河の顔と首」の「竜」を加えると、3世紀の呉の元号の「黄竜」となる。
 F図に示したように、「蓬莱山の岩」の西方には「月波樓」がある。
 前述したように、「月波樓」の屋根裏にある「南蛮船の絵馬」は『三国志』呉書孫権伝に記された「黄竜2(230)1万の呉軍の東鯷人国遠征」をあらわした。
 呉の遠征軍は必ず襲来するにちがいないという噂で恐怖のルツボと化した当時の様子は、前述したように『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の冒頭部に記述された。
 伊耶那岐命と伊耶那美命の結婚式場は、A図に示した高尾山古墳であった。高尾山古墳の発掘や調査にかかわった研究者たちが検討した結果、墳丘は呉の黄竜2年・230年頃に完成し、後方墳の主体部施設は250年頃に作られたと推定されることになった。
 伊耶那岐命と伊耶那岐命の結婚式場は黄竜2年・230年頃に完成されたと推定されるゆえ、わが国では呉軍の1万の遠征は230年に決行されていたことを知っていたと推測される。ゆえに、『後漢書』倭伝末部にある記事の「東鯷人国の人民は、時に(呉の)会稽に至りて市(いち)す」という文に登場する人民は、中国の三国戦争の巻き添えをくらって東鯷人国の平安が脅(おびや)かされることを心配しながら交易していたことになる。
 わがブログ「真実の日本国誕生史・31」で指摘したように――後漢の質(しつ)帝が没した本初元年・146年の人口は約4,760人であった。しかし、呉の皇帝の孫権が1万の軍を東鯷人国への遠征を決行した黄竜2年・230年頃の中国の人口は、人民たち残虐な戦争によって虫ケラのごとく殺戮(さつりく)されて、本初元年・146年の人口よりも84パーセントも減少してわずか約767万人であった(魏は約432万人、呉は約230万人、蜀は約94万人)
 このような状況であったゆえ、呉の会稽で交易していた東鯷人国の人民たちは、自国が獣性で荒れ狂う中国の戦争の巻き添えを食うのではないかと心配するようになり、彼らは常に呉軍の動静を窺(うかが)っていたと考えられる。したがって、黄竜2年・230年の呉軍の東鯷人国遠征の情報をキャッチした彼らは、急遽(きゅうきょ)帰国して東鯷人国王に伝えた。このため、わが国では黄竜2年の1万の呉軍の遠征を知っていたことになる。

◆小堀遠州が死去してから11年後――水尾上皇は上御茶屋が造営中であった1658年に桂離宮を初めて御幸(みゆき)なされ、上御茶屋が完成した4年後の1663年の3月と11月にも、上皇は桂離宮に御幸なさった。
 「黄竜」の元号をあらわす「夏の銀河の西南部」は、N図(D図と同じ)の下部の「伊耶那美命は丹波の竹野比売であった」と伝える「丹波街道」と「桂垣」が合流する東南の隅切り角がある方向から出現する。
S893_2
(C) 2017 OHKAWA

 この東南の隅切り角は、幕府が桂離宮を作った目的を簡潔に・単純明快に示す。
 「天皇」は「銀河から作られた漢字の学芸に精通する大王」を意味することを知っていた上皇は、『古事記』序に記述された通りに文字作成銀河を用いて淤能碁呂島聖婚説話を理解した。したがって、N図の右下の丹波街道と桂垣が合流する隅切り角を通過して笹垣を見て“美しい”と思った上皇は、幕府の桂離宮の庭園の作成目的は『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された伊耶那美命・竹野比売が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】と黄竜2年から始まった日本国誕生史の復興を欲求するものであると確信したのである。
 その証拠に、O図に示す陶器の額を上皇は作って『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は事実を伝えると認めた。
S894

   上皇は、N図の上部に示した「桂垣と穂垣」から成る「富士山の形」を上下・横に連結する八角形を左右に並べて、その二つの八角形で直筆の「窮邃(きゅうすい)」の2字を囲み、八角形が重なる縦長の亀甲文・六角形の中に「赤色の水引きの結び模様」を配した。
 その「富士山の縁取(ふちど)りの緑色」は「伊耶那美命・竹野比売をあらわす笹垣の緑色」を、中央の「六角形」は「蓬莱山が乗る亀の甲羅の亀甲文」を、「赤色の水引きの結び模様」は「出産の御祝い事」に用いられるゆえ【日本建国の〔愛〕の理念】を表現することになる。
 O図の「窮邃」の額は、浴竜池に浮かぶ中央の島に建てられた「窮邃亭」に掲げられた。
 “字書の聖典”と尊重される『説文解字(せつもんかいじ)』は「究は窮なり」と解説し、[]の字義は「究(きわ)める。極(きわ)まる」である。また『説文解字』は[]の字を「深遠なり」と解説する。白川静著『字統』は[]の字について「上古を邃古(すいこ)という」と指摘する。だから、O図の「窮邃」の額をもって上皇は「『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された上古の日本国誕生史と【日本建国の〔愛〕の理念】はわが国の芸術と学問における深遠なる真理追究の極みであり、日本国の根本であり日本人のいのちと魂の根源である」と表現したことになる。
 以上のごとく、『古事記』序は「わが国には後期縄文時代初頭、銀河から作られた夏音文字が伝来した。上巻に記述された真理・真実は夏音文字と楷書の字源・字形・字義を銀河各部の形状を変換すれば解明できる」と事実を伝えていたことになる。

 朝廷が崇拝した皇祖・天照大御神は高尾山古墳で結婚する時に伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪した。『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話は「伊耶那美命が没すると、伊耶那岐命の第二后にして継母の天照大御神が倭女王に選ばれた。天照大御神は多数の青年男女を殺す徇葬(じゅんそう)を決行して熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)に築造した伊耶那美命の墓に埋葬した。この徇葬を怒った伊耶那岐命は配下の日本兵と熊野に住む戦士たちの協力を得て、クーデターを決行して天照大御神を倭女王から失脚させた」と、事実を伝えている。
 だから、『古事記』上巻の記事は天照大御神を至上神とする朝廷にとって極めて不都合な事実であった。『古事記』成立の8年後に、不都合な事実は記述しないようにして正史になることを目的としたために失敗作となった『日本書紀』が完成した。この『日本書紀』の成立直後から約250年もの長いあいだ、朝廷は講書(こうしょ/学術研究会)を頻繁(ひんぱん)におこなって、『古事記』上巻の記事・語句を歪曲(わいきょく)して史実を誤魔化(ごまか)す方法を研究して偽りの学問を確立させた。この朝廷の講書による偽装(ぎそう)・曲解(きょっかい)工作に学者や高僧たちが協力した。ゆえに、このような偽りの学問の伝統を正しいと信じた本居宣長(もとおりのりなが/17301801)は注釈書『古事記伝』を著作した。しかし、本居宣長は『古事記』序に「夏音文字と楷書の字源銀河を解明すれば、上巻に記述された事実は解明できる」と記述された歴史解明方法を排除した。だから『古事記伝』の解釈は歴史学の原則・【科学】に反する誤読の空論となった。このような『古事記伝』を、現在の学者たちは教科書とする。このため、後水尾上皇が額を作って認めた「窮邃=日本の学問と芸術における真理追究の極みとなる事実」と異なり、現在の学者たちの研究と意見もまた事実無根の誤読の空理空論ということになる。
 その証拠に、彼らは「夏音文字と楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換する作業=上古の学芸の復興」をまったく着手しないで立論する。だから、歴史学の基本ルールを無視する誤読の産物にして虚妄(デタラメ)であると断定すべきことになる。

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