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2018年2月17日 (土)

真実の日本国誕生史・39

 ●要約と結論・5
■現在の日本古代史学者たちの【科学】に反する三大不正行為・1

現在の学者たちの(1)漢字の習得説はじめ、(2)新井白石から始まる邪馬台国学説と(3)本居宣長が著した注釈書『古事記伝』を教科書とする日本神話学説は【科学】に反する誤読の空論である。
 この三つの学説が【科学】に反する空論であることが容易に理解できる6つの観点(根拠・理由、証拠となる遺跡・遺物)を取り上げて、(1)(5)までの観点を今回「真実の日本国誕生史・39」に、残った(6)の観点を次回「真実の日本国誕生史・40」に分けて解説することにした。


学者たちは「わが国が漢字を最初に習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」と主張する。この意見を、以後、「定説」と表記する。

◆1.わが国の夏音(かおん)文字の字音は中国の最古の漢字音より古い、現存する最古の漢字音である

★A 漢字習得の定説は音韻学によるわが国の漢字音の研究に矛盾して【科学】が成立しない空論となる
 わが国の漢字研究の第一人者とされる故・白川静(しらかわしずか)博士が著作した『字統』(平凡社発行)9頁から10頁にかけては「わが国の漢字音」と題して下記のごとく指摘する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 上記の文は「いま中国に残っている最古の漢字音よりも、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて多数記載されて残った夏音文字の漢字音のほうが古い」と指摘していることになる。
 いま残っている中国の最古の漢字音は紀元前1046年から始まる周代初頭~後漢後期までの〔上古音〕である。わがブログ1回から前回までの38回までの「真実の日本国誕生史」シリーズにて証明したように、わが国には中国の最古の漢字音の〔上古音〕よりも約1000年も古い紀元前2070~紀元前2050年ころの夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に習得された〔夏音文字の漢字音〕が『古事記』上巻や『魏志』倭人伝そして『万葉集』に多数残っている。
 したがって、学者たちが主張する定説の漢字音は、中国の上古音よりも約1500年から約1600年も新しい。ゆえに、学者たちが絶対視する定説は、音韻学の研究意見に反して【科学】が成立しない。

★B 定説は『魏志』倭人伝の「わが国には夏音文字があった」と伝える二つの記事に矛盾して【科学】が成立しない
 3世紀後半に成立した『魏志』倭人伝には「2世紀末~3世紀半ばのわが国には漢字があった」と証言する記事が2ヵ所ある。
 その最初の記事を要約すると「倭の卜占(うらない)に用いられる辞(文字とことば)は、〔令亀(れいき)〕つまり〔亀の甲羅に文字を刻んだ甲骨文字の法(原理)のごとし」という証言となる。
 もう一つの記事を要約すると「魏の都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と卑弥呼が文書に用いる文字は差錯(ささく/相違)していたので、倭の小国伊都(いと)国の港では点検し、確認し、魏と朝鮮半島で用いる楷書と卑弥呼が用いる文字を正しく変換していた」と証言する。
 したがって、わが国には5世紀より以前の2世紀末~3世紀半ばにおいて既(すで)に漢字が使用され、この文字は紀元前1300年頃に出現した甲骨文字のごとくであったことになる。
 千賀四郎編集『日本古代史の旅3 邪馬台国』(小学館発行)は「卑弥呼の発音について」と題する注で「卑弥呼の文字を中国漢字の上古音で読めば〔ピミカ〕になる」と指摘する。
 「卑弥呼」を〔ヒミコ〕と読むと、中国の上古音よりも古い夏音文字の字音読みとなる。
 魏の都と朝鮮半島(帯方郡・諸韓国)で用いられた楷書と卑弥呼が文書に用いた夏音文字も共に、下に示す文字作成銀河各部の形状から作られた漢字であった。これゆえ、伊都国の港では文字作成銀河を辞理(ことばと文字の原理)にして自国・倭国の夏音文字と外国(魏と諸韓国)の楷書を正しく変換することができたのである。

Ginga
▲文字作成銀河の写真

 このブログ「真実の日本国誕生史」が解説し証明したように、夏音文字の字源・字形・字義は上に示す文字作成銀河各部の形状であった。だから、夏音文字は実際に目撃出来て実在する文字であった。また、夏音文字を表記する楷書と同じく、夏音文字は字源・字形・字義・字音の4要素が成立するゆえ「文字」と定義すべきことになる。さらに、夏音文字は『魏志』倭人伝の人名・小国名・官職名となって実在する。
 だから、夏音文字は実際に存在すると目で見て確認できるゆえ、学者たちが絶対視する定説は『魏志』倭人伝の記事を誤読する【科学】が成立しない空理空論であったことになる。

◆2. 漢字の始祖の倉頡伝説を学者たちは「荒唐無稽(こうとうむけい)な話で、事実ではない」と否定するが、倉頡伝説は文字作成銀河によって事実を伝えていたと証明できる

 漢字は紀元前3000年頃の五帝時代初頭・黄帝の時代に起源した。黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)は、文字作成銀河各部の形状を字源・字形・字義とする方法を発明した。
 漢字の起源について、倉頡伝説は――黄帝の時代に生存した“四つ目の怪人・倉頡”が〔鳥獣の足跡〕と名づけられた漢字作成方法を発明して始めて文字を作り、古来(紀元前4000年頃から始まる
三皇時代)の占いに用いた記号であった結縄(けつじょう)と代えた。(結縄では古来の三人の大王の氏族名をあらわすことができなかったので、倉頡が発明した文字によって三人の大王の名は包犧(ほうぎ)、女媧(じょか)、神農(しんのう)と定められた)。ゆえに、包犧、女媧、神農の各氏族たちの死霊は祝福して穀物を降らせ(つまり、雨を降らせて豊かな穀物を与え)、その死霊は感激して夜な夜な泣く声が空に聞こえるようになった(つまり、夜な夜な輝く文字作成銀河各部の形状が示す文字によって、三皇時代の歴史を知ることができた)――と伝える。
 上記した倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人」という倉頡の別称に対し、学者たちはこぞって「人間には目が四つ無い! 倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)な話であることは至極(しごく)当然である」と否定する。しかし、「四つ目の怪人」は上に掲載した「文字作成銀河の範囲」を表現するものであった。だから、学者たちがこぞって否定する「四つ目の怪人」という語は歴史上における重大な事実を伝えていたことになる。

 倉頡が定めた掟(おきて)のために、文字作成銀河各部には名称が存在しない。この伝統は現在まで受け継がれて、文字作成銀河各部の名称は無い。倉頡伝説における「四つ目の怪人」という別称は「文字作成銀河の範囲」を表現して事実を伝えている秘密を解明するには、文字作成銀河各部の名称が必要であるゆえ、わたくしは下のごとく名称を定めた。

Photo
 ▲文字作成銀河各部の名称図

 文字作成銀河各部の名称図の左上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけたA図に示す銀河部がある。
S961
(C) 2018 OHKAWA

 倉頡が生存した紀元前3000年ころの五帝時代初頭の黄帝(こうてい)時代、「十字の銀河」は中国全土各地の天頂にめぐってきた。
 A図に示したように、「十字の銀河」の西側には〔乳房〕と〔妊婦のような腹部(おなか)〕と〔子宮に相当する銀河部〕がある。ゆえに、倉頡は「十字の銀河」を〔文字作成銀河各部から作られたすべての文字を生む母体〕と定めた。
 だから、B図に示すように「文字」の[]の金文形(周代に用いられた漢字の字形)は「十字の銀河」を「胎児が子宮に宿る、おなかが円い妊婦の正面形」とする図案となった。
S962
(C) 2018 OHKAWA 

 C図に示すように、「十字の銀河」は[(べん)]の字源・字形・字義となり、子どもの姿に相似する「鬼の姿に似る銀河」が[]の字源・字形・字義となって――[]の下に[]が加わって[]の字源・字形・字義となった。
S963
(C) 2018 OHKAWA

 A図やB図に示した「十字の銀河」は〔顔を天に向けて仰ぎながら西から東へ歩く人の姿、あるいは顔をやや下に俯(うつむ)いて東から西へ歩く女性の姿〕に相似する。
 D図の左図に示すように、五帝時代においては、遠くの地へ旅して家族が待つ家に帰るために人々は道すがらの精確な位置を示す天頂緯度を示す目印(めじるし)となる銀河部を天頂にめぐって来る様子を見ながら、あるいは時々D図の右図のごとく自分の位置(緯度)を確認するために立ち止まって妊婦のごとくおなかを前へ突き出し天頂緯度を測定した。ゆえに、五帝時代、夏音文字が出現した夏代、また契文(けいぶん/甲骨文字)が用いられた殷代(いんだい)・金文が用いられた周代(しゅうだい)の上古、遠くの地へ行()き来()する人々の姿は「十字の銀河の形状」に相似した。(なお、C図の[]の字源「鬼の姿に似る銀河」は「遠くの目的地に行くときの路、あるいは家族が待つ家に帰る路」に見立てられた)
S964
(C) 2018 OHKAWA

 E図に示す[]の字源となった「天頂緯度線」をキャッチすると、旅人は1度の60分の11分の精度で自分が居る場所の緯度が精確(せいかく)に測定できた。
S965
(C) 2018 OHKAWA 

 したがって、「天頂緯度測定も目印となる、印象深い銀河部」は「旅人の生死を決定する神」となった。このため「神」の偏(へん)[][]の原字となり、字義はもちろん「神」となった。その証拠に、F図の左側に配した[]の契文形(甲骨文字の字形)は、右側に配した「天頂緯度線と天頂緯度線に直角に交わる天頂緯度を測定する人の視線」で形成された。
S966
(C) 2018 OHKAWA

 G図に示すように、倉頡が生存した紀元前3000年ころの五帝時代初頭の黄帝時代、陝西省(せんせいしょう)黄陵(こうりょう)県に所在する黄帝陵(黄帝を祭る廟と黄帝の墓がある地)や中国南部の太湖(たいこ)など、中国の各地の天頂に「十字の銀河」がめぐってきた。
S971
(C) 2018 OHKAWA

 H図に示すように、黄帝時代、黄帝陵の天頂緯度線は「鬼の姿の似る銀河の後頭部に付く目の銀河部位の中央」を貫通し、太古南岸の天頂緯度線「鬼の姿に似る銀河のアゴに付く目の銀河部位の南端」を貫通した。したがって、「鬼の姿に似る銀河の後頭部とアゴに付く目の形をした銀河部位」は「天頂緯度線をキャッチする両目」に見立てられた。
S972
(C) 2018 OHKAWA

 ゆえに、「鬼の横顔に似る銀河の両目」は「歩く旅人の両目(天頂緯度線の目印となる銀河部が天頂にめぐって来るのを待ちながら旅路を歩く人の両目)」に見立てられた。
 したがって、倉頡が生存した五帝時代初頭、H図の「歩く旅人の両目」と「天頂緯度線をキャッチする両目」に見立てられた目の数は計「四つ」であるゆえ、「「四つ目」となった。
 I図に示すように、「十字の銀河」も「鬼の姿に似る銀河」も「人の姿」に相似する。
S973
(C) 2018 OHKAWA 

 J図に示すように、上に掲載した「文字作成銀河各部の名称図」における「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河から夏の銀河の西南部の形状」もまた「人の姿(東に振り向く妊婦の姿)
に相似する。
S974

(C) 2018 OHKAWA

 I図の「十字の銀河」からJ図の「夏の銀河の西南部」は「文字作成銀河の範囲」をあらわす。だから「四つ目の怪人」という語は「文字作成銀河の範囲」をあらわした。
 後漢時代の墓の内部から発見された石の画像に刻みつけられた倉頡の肖像画はじめそれ以後の倉頡の肖像画作品には、K図に示すように「四つの目」が描かれていた。
S975
 
 K図に示すように、古代の倉頡の肖像画の「四つ目」はH図に示した「天頂緯度線をキャッチする目」と「歩く旅人の目」を絵画的に処理して表現するものであったゆえ、「倉頡が定めた文字作成銀河の範囲」を表現するものであったことになる。
 したがって、学者たちが「倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の空想である」と主張する意見こそがむしろ「荒唐無稽の空理空論」であったのである。

 
 (1)「銀河」の別称は「銀漢」であるゆえ、「漢字」は「銀漢すなわち文字作成銀河から作られた文字」の略称であった。また(2)中国においてもわが国においても文字作成銀河各部の名称が存在しない。さらに(3)倉頡が発明した五帝時代初頭から夏代の夏音文字と殷代前半期の漢字が記された史料が、中国とわが国において1点も発見されていない。
 それというのも、倉頡はみずからが考案した文字が最も強力な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易・簡単に滅亡すると心配したからである。ゆえに、倉頡は下に列記する3つの掟(おきて)を破った人物には神罰(しんばつ)が下って即刻死刑にすると定めたことになる。
●倉頡が死刑と定めた3つの掟
(1)
 文字作成銀河の各部の形状から文字が作られたことを暴露(ばくろ)した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者
 上記の(3)の掟は『魏志』倭人伝に記載された「令亀(れいき)の法」つまり「甲骨文字」によって破られた。しかし、甲骨文字は(1)(2)の掟については厳重に守った。だから、(1)の掟によって〔文字が文字作成銀河から作られた事実〕は現在においても不明となり、また(2)の掟を受け継ぐ伝統によって〔文字作成銀河各部の名称〕は学問上確立されていない。
 紀元前3000年頃から始まる五帝時代の起源漢字、紀元前2070年頃から始まる夏代夏音文字、紀元前1600年~紀元前1300年頃までの殷代前半期の漢字。これらの原初漢字は倉頡が定めた(3)の掟を厳重に守ったため、文字を記した史料が中国でもわが国でもいまだ1点も発見されない。ゆえに、新井白石(16571725)以後から現在までの学者たちは、上記した『魏志』倭人伝の重大な記事を排除して「わが国には2世紀末から3世紀半ばには、漢字は存在しなかった」と断定した。
 五帝時代初頭に生存した黄帝は、東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。『内経』の[]の字源・字形・字義は「女性の生殖器・子宮に宿る胎児の成長や出産器官の産道」をあらわした。黄帝の医学研究は中国最初の事業であったので、三皇時代の結縄では黄帝の研究をあらわすことができなかったので、倉頡は「文字作成銀河の範囲」を定め、また「鳥獣の足跡」と名づけられた漢字作成原理を発明した。
 倉頡は――B図に示したように女体に相似する「十字の銀河」を「文字作成銀河各部の形状から作られる(生まれる)すべての文字の母体」に見立てると定め、「十字の銀河の子宮」から「すべての文字は生まれる」と定めた。そして、C図に示した「鬼の姿に似る銀河」を「産道を通過して誕生する子ども」と見立てると定めた――この定理が、倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」である。ゆえに、倉頡から以後、「四つ目の怪人」と伝えられた「文字作成銀河の範囲の各部の形状」から、漢字作成原理「鳥獣の足跡」にもとづいて多数の漢字が創(つく)られることになった。
 以上のごとく、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人」を「荒唐無稽の空想である」と主張する定説は事実に反する【科学】が成立しない空理空論であったのである。

◆3. 朝廷による『日本書紀』の講書は『古事記』上巻に記述された歴史を歪曲(わいきょく)・隠蔽(いんぺい)して後世に歴史を伝えないための学習会であった

 『古事記』が成立した8年後の720年、『日本書紀』30巻系図1巻が奏上(そうじょう)された。
 『日本書紀』は『古事記』が正史(せいし)になれずに焚書(ふんしょ)されて献呈(けんてい)を失敗したことに懲()りて、天皇から献呈許可を得ることを優先して編纂された。このため、夏音文字の記載は天武天皇の「稍(やや)夏音を習う」の命令とおりに極端に少なくし、天照大御神への批判や事実を率直(そっちょく)に伝える記事を削減(さくげん)し、抽象的な表現やアイマイな記述で遠回しに事実を伝えようとする表現方法が多用されることになった。だからこそ、『日本書紀』は献呈が許可されて正史となった。
 書名に「日本」と示したように『日本書紀』の作成目的は真実の日本国誕生史を後世に伝えることであったが――献呈が許可されて正史にしようとした意図が徒(あだ)になって『日本書紀』は、真実の日本国誕生史が後世に伝わらない失敗作品となった。
 この『日本書紀』の失敗は朝廷にとって好都合となった。
 朝廷は『日本書紀』が献呈された直後から「講書 (こうしょ/天皇や皇族に学者が書物の内容を講義する学習会)」を頻繁(ひんぱん)におこなって、『日本書紀』を最も信頼できる書物になるように権威づけることにした。この講書は『古事記』上巻の記事に隠蔽(いんぺい)、捏造(ねつぞう)、歪曲(わいきょく)の補注を加えて歴史を抹殺(まっさつ)するための学習会であったのである。このような『古事記』上巻の事実を伝える記事に逐一(ちくいち)誤っているとする批判や偽りを加える講書は、村上天皇の康保(こうほ)年間(964967)ごろまでおこなわれた。
 約250年間続けられた『日本書紀』の講書によって、『古事記』上巻に記載された夏音文字の学芸は存在しなかったことになり、上古の歴史は隠蔽(いんぺい)され、『古事記』上巻の日本神話は朝廷と国家の権力を尊重するために存在する物語と化した。したがって『古事記』上巻の日本神話に記述された伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を国民が生活の中心にして尊重した、この国民的生活を語る上古史は夏音文字の学芸とともに存在しないことになった。
 『古事記』上巻に記述された歴史を隠蔽する方法を研究する『日本書紀』の講書は、最も権威ある「学問」となり、9世紀の天台宗や真言宗などの宗派の成立とかかわった。
 この結果、日本の歴史学といえば『日本書紀』の講書の研究意見が基本となった。
 しかしながら「歴史が解明できる、ほんとうの学問」は「文字作成銀河各部の形状を字源・字形・字義とする夏音文字の学芸」であった。白川静著『字統』は[]の字源を「卜文(ぼくぶん/契文・甲骨文字)にみえるメンズハウス(学校)の建物は千木(ちぎ)形式で、わが国の神社建築に似ており、そこで秘密講的な、厳しい戒律下の生活がなされたのであろう」と指摘する。このように「わが国の千木形式の神社建築」は[]の字源・字形を伝えるものであった。だから、わが国における「ほんとうの学問」は「朝廷の政権基盤であったことを厳重な秘密にした夏音文字の学芸」であった。ゆえに、朝廷の『古事記』上巻に記述された歴史隠蔽事業に協力した天台宗と真言宗は秘密の夏音文字の学芸を研究したため「秘密仏教」略して「密教」と呼ばれるようになった。

◆4.本居宣長著『古事記伝』の注釈は『古事記』上巻の「序」に記述された歴史解明方法を無視する空想・物語である

 日本の歴史学といえば、『日本書紀』の講書による研究意見となった。
 このため、講書の影響を受ける解釈が中世から近世へと受け継がれ、いわゆる国学がおこって近世の国学者のあいだで次第に『古事記』への関心が高まった。この頂点に立ったのが本居宣長(もとおりのりなが/17301801)である。30余年間『古事記』を中心にして研究して、宣長が著作した注釈書『古事記伝』44巻は、現在の学者たちの教科書となる。宣長は上古の英雄たちの不思議な行動について、神の不思議な行動のままに解釈するべきだと主張した。ゆえに、「高天原(たかまのはら)」は「天上の国」、「天照大御神」は「太陽の女神」と考え、それ以上の解釈は無用とした。このような解釈にもとづき、宣長は古代人がどのようなものの考え方をしていたかを追及(ついきゅう)した。
 しかし、『古事記』上巻の「序」が説明するとおりに夏音文字を中心にして時には楷書の字源をも銀河各部の形状に変換すれば、「高天原」は「天上の国」ではなく、「“天照大御神“という渾名(あだな)で呼ばれた女王とその息子の大王が居住した奈良県の地」であったことになる。
 本居宣長が「古事記上巻 幷(あわ)せて序」という『古事記』上巻の「序」のきわめて特殊な表記に何か重大な秘密が隠されているのではないかと直感し、また「序」に続く冒頭の文を何度も何度も繰り返して読んで秘密の解明に挑戦すれば、天才宣長ならば銀河きらめく壮麗な銀河を仰ぎ見て「漢字」は「銀漢から作られた文字」の略称だから「漢字」と呼ばれた事実に気づいたにちがいない。この事実に宣長は気づかなかったため、現在の学者たちが教科書にする宣長が著した『古事記伝』の解釈は歴史とは無関係の物語・空想となった。
 というのも、『古事記伝』の注釈は『古事記』上巻の「序」が「上巻の随所に〔音〕という注が付く夏音文字を文字作成銀河各部の形状に変換すれば真実(まこと)の歴史が蘇(よみがえ)る」と説明する歴史解明方法を無視する〔誤読の空論〕であるからである。


◆5.津田左右吉教授の日本神話虚構説は〔誤読の空論〕であった
 

 戦後、「日本神話は歴史を説明するものではない」と断定されることになった。この意見・論考の出発点は、1961年に88歳の生涯を終えた早稲田大学教授・津田左右吉(つだそうきち)氏が主張した日本神話虚構説であった。
 津田左右吉著『神代史の研究』(岩波書店刊行・1933310日 第4刷発行の525)は、下記のごとく主張する。
 「すべてが皇室と其の權力とについてのみ語られてゐる證據である。さまざまの神の物語はあるが、さうして其の物語の主人公たる神々は一種の英雄と目すべきものであらうが、それに国民的生活が反映せられてゐるやうな形跡は見えず、国民的活動の面影などは、勿論、認められぬ。全民族の欲求なり理想なりによって動いてゐると思はれる神は少しも無い。いひかへると、神代上の神々は民族的もしくは國民的英雄では無いのである。」
 『古事記』上巻は、(1)伊耶那美命、(2)伊耶那岐命、(3)天照大御神、(4)須佐之男命(すさのおのみこと)(5)大国主神(おおくにぬしのかみ)(6)天孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)(7)山幸彦(やまさちひこ)の火遠理命(ほおりのみこと)(8)海幸彦(うみさちひこ)の火照命(ほでりのみこと)などが登場する説話で構成される。この神々のうち、伊耶那美命、伊耶那岐命、須佐之男命、大国主命、山幸彦の火照命の5人は国民に慕われた英雄であると説明する。天照大御神、天孫の邇邇芸命、海幸彦の火遠理命の3人だけが国家権力を誇示する英雄である。
 だから、津田教授の「神代上の神々は民族的もしくは国民的英雄では無いのである」という意見は見当違いもはなはだしい空論であった。 
 そして、上巻初頭部の伊耶那岐命と伊耶那美命神話から上巻末部の火遠理命と火照命説話までは伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】が貫いて語られている。その証拠に、上巻の9割以上を占める伊耶那岐命と伊耶那美命神話から火遠理命と火照命説話までの記事は――【日本建国の〔愛〕の理念】は伊耶那美命の死後に伊耶那岐命が受け継ぎ、次に伊耶那美命と伊耶那岐命の間に生まれた息子須佐之男命が受け継ぎ、その後を山陰出雲王朝の大国主神が受け継ぎ、さらに海幸彦の火照命が受け継いだ。そして【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する国民を弾圧(だんあつ)して苦しめた天照大御神が基礎を築いた大和王朝は大国主神王朝を討伐した。その後、天孫の邇邇芸命軍を九州に遠征させて、【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する宗像(むなかた)王権をも討伐した。しかし火遠理命の代になって、【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する弟の火照命王朝が栄えたために、大和王朝は衰退した。伊耶那美命を敬愛する国民は、天照大御神王朝に抵抗して【日本建国の〔愛〕の理念】を大事にする政事(まつりごと)を欲求し、【日本建国の〔愛〕の理念】を生活の中心にして尊重していた――と伝えている。
 だから、津田教授の「神々は一種の英雄と目すべきものであらうが、それに国民的生活が反映せられてゐるやうな形跡は見えず、国民的活動の面影などは、勿論、認められぬ。全民族の欲求なり理想なりによって動いてゐると思はれる神は少しも無い」という意見はまさに空論であり、トンチンカンもはなはだしい誤読の産物ということになる。
 戦後の「日本神話は歴史を語るものではない」と主張する日本神話虚構説は〔読解力ゼロの津田教授の空論、空想〕から始まった。だから、当然、津田教授の日本神話虚構説を受け継ぐ学者たちの意見は〔誤読〕を駆使(くし)して捏造(ねつぞう)した空理空論であったことになる。

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