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2018年2月27日 (火)

真実の日本国誕生史・40

 ●要約と結論・6
■現在の日本古代史学者たちの【科学】に反する三大不正行為・2

 現在の学者たちの(1)漢字の習得説はじめ、(2)新井白石から始まる邪馬台国学説と、(3)本居宣長が著した注釈書『古事記伝』を教科書とする日本神話学説は【科学】に反する誤読の空論である。
 この三つの学説が【科学】に反する実体が容易に理解できる6つの観点(根拠・理由、証拠となる遺跡・遺物)を取り上げて、1番目~5番目までの観点を前回「真実の日本国誕生史・39」で解説し、残った6番目の観点を今回「真実の日本国誕生史・40」にて解説することにした。
 なお、このブログ「真実の日本国誕生史」は、今回をもって終了とする。1回から34回の「真実の日本国誕生史」において、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話冒頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話には【日本建国の〔愛」の理念】をかかげて日本国が誕生した真実の歴史が記述されていたことを詳細に解説して証明した。したがって、現在の学者たちの意見は日本人にとって最も大切な命と魂の尊厳をレイプ(強姦)する、〔誤読〕を使って騙(だま)すなんて! 最も卑劣な詐偽・ペテン・ウソ八百ということになる。


6. 『古事記』上巻 の「序」が説明する夏音文字の学芸をあらわす確かな遺跡・遺物は現存する。
 だから、学者たちが主張する(1)確かに存在する夏音文字の学芸を〔誤読〕で存在しないと抹殺(まっさつ)したウソ八百の漢字の習得説はじめ、(2)新井白石から始まる邪馬台国学説、(3)本居宣長著『古事記伝』を教科書とする日本神話学説は【科学】が成立しない【誤読の空理空論】であったことになる。
 いっぽう、『古事記』上巻の「序」の「わが国には夏音文字の学芸が存在した」と説明するとおりの確かな遺跡と遺物が多数現存する。この6番目の観点で取り上げる幾つかの現存する遺跡と確かな遺物によって、『古事記』上巻に記述された日本国誕生史は【科学】が成立して事実となる


 古代史学には――前人が作った文献に記述された記事・情報を、たとえ後世の学者たちが「この記述は絶対に誤っている、信用してはならない」と批判・否定しても、その文献に記述された情報とおりの遺跡や遺物が発見されたならば、前人の記述はなんびとにも否定できない真実であり、学者たちが「前人が作った文献の記事を誤っている」と〔文献批判〕した意見は誤読の空想であり、妄想(もうそう)であったことがなんびとにも否定できない事実となる――このような絶対原理が存在する
 
紀元前1200年前後におこったトロイ戦争は、約350年後の紀元前850年ころに生存したギリシャの詩人ホメロスの英雄叙事詩『イリアス』に記述された。学者たちは〔文献批判〕を用いて『イリアス』に記述されたトロイ戦争はホメロスが創作した空想であると決めつけて「歴史ではない」と断定した。しかし、ドイツ人のシュリーマンは『イリアス』に記述されたとおりの土地を発掘して、トロイの遺跡を発見した。したがって、学者たちの〔文献批判〕による意見こそが空想であったと証明された。
 シュリーマンのトロイ遺跡発見が明確に示すように、古代史学には過去の出来事を事実であると証明できる絶対原理(絶対方法)が存在する。

 学者たちは「中国においてもわが国においても夏音(かおん)文字を記した史料が1点も発掘されていない」ことを理由・根拠にして、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻の「序」が証言する夏音文字の学芸記事を無視して、「わが国には夏音文字は伝来していない」と断定する――このような〔文献批判説〕は【科学】が成立するものと学者たちは思い込む。しかし、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻には多数の夏音文字が記載されて実在し、『新唐書』日本伝には「後稍夏音(のちややかおん)を習う」という記事が存在する。さらに、さらにわが国には夏音文字の学芸が習得されていたと証明できる遺跡・遺物(証拠史料)が幾つか現存する。それだけではない、夏音文字の学芸を学び知得した多数の歴史上の人物も存在する。
 ゆえに、学者たちが〔文献批判〕を用いて【科学】が成立すると錯覚(さっかく)して「わが国には夏音文字の学芸は存在しなかった」と主張する意見は【科学】がまったく成立しない妄想(もうそう)・デタラメであったことになる。

(1)
秋田県鹿角(かづの)市に所在する国の特別史跡の大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)の万座遺跡・野中堂遺跡は紀元前2070~紀元前2050年頃の中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に作成され、夏音文字の学芸が現在も保存され残っている。ゆえに、『古事記』上巻の「序」の冒頭記事と漢字学と位置天文地理学にもとづいて学術調査すれば、わが国が夏音文字の学芸を習得した秘密は【科学】が成立して事実となる。わが国は紀元前21世紀に、中国から原初漢字の夏音文字が伝来し習得していた。したがって、学者たちが「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀もしくは6世紀である」と断定する定説は【科学】が成立しない、『古事記』上巻や『魏志』倭人伝はじめ諸々(もろもろ)の古文献を誤読して真実を排除した虚妄(きょもう/デタラメ)であったのである。
 この結果、わが国の天皇制の権力基盤は夏音文字の学芸であったことが、手に取るように明確に判明する。

(2)2008
年に発見された静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する東日本最古で最大の前期古墳の高尾山(たかおさん)古墳は、『古事記』上巻の伊耶那岐命・伊耶那美命神話冒頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に登場する伊耶那岐命と伊耶那美命が結婚した式場であった。
 わがブログ「真実の日本国誕生史」は前回(39)までに詳細に科学的に証明したように、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて多数記載される夏音文字や夏音文字を表記する楷書(かいしょ)はじめ、『古事記』が成立した8世紀以前のすべての漢字は、下に示す「文字作成銀河各部の形状」から作られた。
 というのも、「銀河」の別称は「銀漢」であるからである。だから、「漢字」は「銀漢、つまり文字作成銀河各部の形状から作られた文字」の略称であった。

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 ▲文字作成銀河の写真

 淤能碁呂島聖婚説話に記載される〔音〕という注が付く「許々袁々呂々(こをろこをろ)7字、「淤能碁呂(おのごろ)」の4字、「美斗能麻具波比(みとのまぐはひ)」の7字、「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」の10字、「久美度邇(くみどに)」の4字、この全5ヵ所の語を構成する夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、伊耶那岐命と伊耶那美命は封土(ほうど/盛り土)の高尾山古墳で結婚し、伊耶那美命は高尾山古墳で結婚した時に、【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えたことが明らかとなる。
 沼津市教育委員会は高尾山古墳を陵墓であったと推定したが、高尾山古墳は伊耶那岐命と伊耶那美命の聖婚式場であったのである。
 沼津市委員会は高尾山古墳の墳丘は230年頃に完成し、高尾山古墳の後方墳中央の主体部は250年頃に作成されたと推定した。この沼津市教育委員会が推定した高尾山の墳丘と主体部の作成年代によって、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は高尾山古墳・結婚式場とした歴史を語るものであったことが【科学】が成立して証明できる。また、高尾山古墳の主体部から出土した後漢製「上方作系浮彫式獣帯鏡(じょうほうさくけいふちょうしきじゅうたいきょう)」が破砕(はさい)されていた秘密は、この破砕鏡の「鹿」「虎」「鳥」「羽人」の4つの絵柄と破砕された仙人の絵柄で伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を表現するものであったということが証明される。
 高尾山古墳から出土した鏡の砕かれた絵柄の「仙人」は[仙]の字の人偏が削られて[山]となり「仙人=山人(やまびと)」と表現されて、編纂スタッフは「【日本建国の〔愛」の理念】を後世に伝える『古事記』編纂事業をあらわす暗号」に用いた。この点からしても、高尾山古墳は『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に登場する結婚式場であったと証明される。  
 高尾山古墳の主体部から出土した「32点の鉄の鏃(やじり)」は「五帝時代初頭の黄帝」をあらわし、「2点の鉄の槍(やり)」は「黄帝につかえて、漢字を発明した倉頡(そうきつ)」をあらわす呪術(じゅじゅつ)器具であったと思われる。沼津市教育委員会が高尾山古墳の墳丘が完成したと推定した230年には、国中が未曾有(みぞう)の恐怖に支配されることになったため紀元前3000年頃に生存した黄帝と倉頡の精霊(呪霊)にまもってほしいと神に祈願する日本国(小国・日本)が誕生した事件がおきたのである。
 なお、夏音文字を文字作成銀河各部の形状に変換すると、『魏志』倭人伝末部に登場する「倭女王壱与(いよ/夏音名)」は「伊耶那美命」であり、「武将の載斯烏越(そしあお/夏音名)」は「小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)の伊耶那岐命」であったことになる。伊耶那岐命は後の春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住した第9代開化(かいか)天皇であり、開化天皇の正妃の丹波出身の竹野比売(たかのひめ)が伊耶那美命の本名であった。『魏志』倭人伝は、「丹波」は「小国・伊邪(いや)国」であったと記述する。[]の字と[]は同字であるゆえ「伊邪国=伊耶国」となる。したがって、「伊耶国出身の那(桃の花の)のように美しい小国・日本に赴任した女王」を略して、人民は壱与・竹野比売を「伊耶那美命」と愛称したのである。「伊耶那美命の夫の軍王」ということで、人民は載斯烏越・若き日の開化天皇を「伊耶那岐命」と愛称したことになる。「伊耶那岐命」は「開化天皇」であったゆえ、開化天皇が住んだ宮殿名は「伊耶那美命が生まれ育った小国名の〔伊耶〕」の2字がつく「伊耶河宮」であったのである。

(3)静岡県浜松市北区細江(ほそえ)町の行政区域を表示する地図の形は、高尾山古墳が舞台となった淤能碁呂島聖婚説話に記載された5ヵ所の夏音文字の語を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、日本誕生史の真相が解明できるように設計された1千万坪の大鳥の形に図化した地上絵(つまり、夏音文字の学芸遺跡)である。
 夏音文字の学芸の秘密を後世に伝える大鳥の地上絵は、高尾山古墳の主体部が作成されたわずか10年後の260年ころから作製が開始され30年後の290年ころに完成した。この現存する大鳥の形をした遺跡は、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部に「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の祖(おや/先祖)の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」と記された遠江の豪族とその一族が作製した。ゆえに、この遺跡をはじめわたくしは「建比良鳥の地上絵」または「建比良鳥の地宜(ちぎ)」と名づけたが、2014年以後は「卑弥呼の地上絵」という名称に変えた。というのも、この1千万坪の大鳥の地上絵によって『魏志』倭人伝の全記事は事実を伝えていることが証明できるからである。
 『魏志』倭人伝は280年~289年頃に著作された。卑弥呼の地上絵は260年から作製が開始されて30年後の290年頃に完成した。したがって、『魏志』倭人伝と卑弥呼の地上絵は同時代に作られた。『魏志』倭人伝に記載された「東西南北」などの方位をあらわす全15ヵ所の方位記事を1ヵ所も改めないと「日本列島は東ではなく、南に伸びる」ということになる。この事実と異なる転回日本列島地理は、紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝につかえて漢字を発明した倉頡(そうきつ)の漢字作成原理「鳥獣の足跡」にもとづいて卑弥呼が立論した学術的な錯覚意見であった。だから、卑弥呼の地上絵の製作が開始する約10年前に完成した沼津市の高尾山古墳の主体部から出土した「32点の鉄鏃(てつぞく)」は「黄帝」をあらわし、「2点の槍(やり)」の[]の旁(つくり)[]は「倉頡」の[]をあらわすものであったと考えるべきことになる。(沼津市は旧国の駿河国の一角であり、駿河国の西隣りは卑弥呼の地上絵がある遠江である。ゆえに、わずか10年の差違しかない沼津市の高尾山古墳と卑弥呼の地上絵の両者は夏音文字の学芸と【日本建国の〔愛〕の理念】を表示すると共に倉頡が発明した漢字作成原理を現在に伝えて、地理的にも近く密接な関係があったことはなんら不思議ではない)
 卑弥呼の地上絵によって、『魏志』倭人伝の全記事は正しいと証明され、また『古事記』上巻に記述された夏音文字を文字作成銀河各部の形状に変換すると明らかになる日本国誕生史は事実であったことが、シュリーマンのトロイ遺跡と同様に学者たちの〔文献批判説〕は〔誤読の妄想〕であることが【科学」が成立して証明される。
 1010(寛弘7)、浜松市北区引佐(いなさ)(卑弥呼の地上絵の北隣)の井伊谷(いいのや)に居住していた建比良鳥家は武家の「井伊氏」を創設して、以後井伊氏は卑弥呼の地上絵の守り番となった。

(4)1562(永禄5)1月に、織田信長と徳川家康が結んだ清洲(きよす)同盟は熊野那智大社の主神の伊耶那美命と熊野速玉大社の主神の伊耶那岐命に、天下を統一して夏音文字の学芸の復興する」と誓う血盟(けつめい)であった。高尾山古墳の主体部に埋納された【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす上方作系浮彫式獣帯鏡の破砕鏡から約1m離れた東と東南の位置から「東海西部系(遠江・三河・尾張)の土器」が出土した。ゆえに、井伊氏が住んだ遠江だけでなく、家康の出身地の三河、信長が住んだ尾張には『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された日本国誕生史の真相が根強く残っていたため、信長も家康も幼少から夏音文字の学芸を学ぶことになり夏音文字の学芸と日本国誕生史の復興を夢みて、清洲同盟を結んだのである。家康は8歳から駿府の今川義元の人質となり、義元の軍師であった夏音文字の学芸に精通した臨済宗妙心寺派(りんざいしゅうみょうしんじは)の高僧大原雪斎(たいげんせっさい)が没する14歳まで夏音文字の学芸を厳しく教育された。1582(天正10)62日の未明、本能寺の変で信長は明智光秀に討たれた。関ケ原合戦の4ヵ月後の1601(慶長6)正月、譜代大名筆頭の地位につけた卑弥呼の地上絵の守り番の井伊直政に、家康は伊耶那美命と伊耶那岐命を祭る多賀大社の西方の近江佐保山城への移住を命じた。井伊直政は関ケ原で島津隊から受けた鉄砲傷が悪化して、翌16022月に死去した。直政の死を乗り越えて夏音文字の学芸を復興するために家康と井伊藩は、1603(慶長8)に作製を開始して20年後の1622(元和8)に彦根の3千万坪の大鳥の地上絵を完成させた。この井伊直政・織田信長・徳川家康の一生の夢〔夏音文字の学芸と日本国誕生史の復興〕をあらわす彦根の大鳥の地上絵は、現在の滋賀県彦根市の行政区域を表示する地図の形となって存在する。家康は1616(元和2)に没したので、完成した彦根の大鳥の地上絵を見ていない。
 なお、彦根の3千万坪の地上絵(現在の彦根市の地図の形」は「未(いま)だ夏音文字の学芸は復興されず(習わず)」とあらわす翼が無い、鳰(にお)の海=琵琶湖に浮かぶ鳰(水鳥のカイツブリ)の姿に設計されている。

(5)1608
(慶長13)、家康は30才の駿府作事奉行の小堀正一(まさかず)の科学と芸術の卓絶たる才能に注目して、遠江守に取り立てて、遠州の卑弥呼の地上絵の研究を命じた。ゆえに、1608年以後、正一は「遠州の卑弥呼の地上絵」に因(ちな)み「遠州」と号した。1616年に死去した家康が一生追い求めた夏音文字の学芸と日本国誕生史の復興は、将軍と江戸幕府が実現する宿題となった。1622(元和8)45才になった小堀遠州は近江国奉行に任命され、完成した近江・彦根の大鳥の地上絵に注ぎ込まれた夏音文字の学芸知識を井伊藩から伝授された。翌1623年小堀遠州は京都の伏見奉行となり、将軍と幕府に京都市西京区に所在する桂離宮の庭園作りを命令された。1645(正保2)に病床に伏すまでの23年間、夏音文字の学芸と日本国誕生史の復興を後水尾(ごみずのお)上皇から承認を得るために、小堀遠州は桂離宮の庭園作りに情熱をかたむけた。桂離宮の庭園の平面図には、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された歴史の全貌と『魏志』倭人伝の全記事は1ヵ所も改める必要がない事実が科学的に解明できる夏音文字の学芸知識が設計されて現存する。

(6)後水尾上皇は夏音文字の学芸を復興すると『日本書紀』の講書で隠蔽(いんぺい)した『古事記』上巻に記述された皇祖天照大御神の残酷な徇葬(じゅんそう)決行の歴史が解明されて皇室が滅亡すると心配して、小堀遠州の生前には桂離宮の庭園を一度も見学しなかった。遠州が没してから8年後の1655(明暦2)、幕府は『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話末部に記載された「久美度邇(くみどに)」の4字の夏音文字を設計する庭園作りに着手し、1659(万治2)に完成させて後水尾上皇に献上した。この庭園は、京都市左京区に所在する修学院離宮の上御茶屋(かみのおちゃや)の庭園である。上御茶屋の中心となる「浴竜池(よくりゅういけ)」は「久美度邇」の語源「夏の銀河の西南部」を表示する形に設計されて「呉の黄竜(こうりゅう) 2年、すなわち230年」をあらわした。「230(呉の黄竜2)」は、沼津市に所在する高尾山古墳の墳丘が完成した年である。上皇は浴竜池の中央の築島(つきしま)の窮邃亭(きゅうすいてい)に陶板で作った篇額(へんがく)を掲げ、篇額の二つの八角形中央に「夏音文字の学術にもとづいて上古史を窮(きわ)める」([𨗉]は「上古」の意を有する)と意味する「窮邃」の2字を配置して夏音文字の学芸と日本誕生史の復興を認めると幕府に示した。というのも――篇額の二つの八角形は黄竜の「2年」をあらわし、また八角形は富士山をデザインするものであり、また浴竜池の設計テーマとなった夏音文字「久美度邇」の4字の語源は富士山の東南にある伊耶那岐命と伊耶那美命の結婚式場(沼津市の高尾山古墳)を表現するものであったからである。さらに、八角形のふちどりの緑色で「笹や竹の筒の緑色、すなわち伊耶那美命の本名の竹野比売(たかのひめ)」をあらわし、さらに「二つの八角が組み合わさった中央の縦長の亀甲形(きっこうけい)に包まれる赤い水引きの結び模様(子ども誕生祝に用いる水引き結び模様)」で【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわして――上皇は皇祖天照大御神の残虐な徇葬を決行した歴史によって国民が皇室への反感を抱くことを防ぐためにまた朝廷と幕府が崩壊する革命に利用される可能性が十分あるゆえ厳重な機密とした夏音文字の学芸が一気に世に明るみにならないように慎重(しんちょう)に用心して、夏音文字の学芸を有する幕府中枢部ならば理解できる扁額という芸術作品をもって幕府の欲求(よっきゅう)に応えたのである。
 家康は没する1年前の1615年に「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を制定した。この第一条は「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」であり、この条文は上皇が作った「窮邃」の篇額によって「天子、夏音文字の学芸は日本文化(諸芸能)の根源です。第一番目に重大な学問・夏音文字の学芸を失うことは日本国が滅亡することです」と意味するものであったことになる。

(7)上記した後水尾帝が小堀遠州の生前中に桂離宮の庭園を一度も見学しなかった一件は、後水尾天皇と幕府が正面衝突した紫衣(しえ)事件が影響した。遠州が桂離宮の作庭に着手した年の4年後の1627(寛永4)に紫衣事件がおきた。紫衣(紫色の法衣)を着用することは、禅宗と浄土宗の僧侶にとって最高の栄誉であるが、天皇が紫衣の許可を与えるには、上記した「禁中並公家諸法度」で事前に幕府の同意を必要と定められていた。しかし、天皇は以前の慣例にしたがって無断で許可を与えたため、これを幕府は無効と宣言した。天皇は怒って1629(寛永6)幕府に無断で譲位(じょうい)し、1620(元和6)に入内(じゅだい)した将軍秀忠の娘の東福門院(和子)が生んだ興子(おきこ)内親王に跡を継がせた。これが明正(めいしょう)天皇である。
 後水尾上皇は、幕府が修学院離宮の上御茶屋の浴竜池の工事に着手した3年後の1658(万治1)3月、初めて桂離宮を御幸(みゆき)なされた(この年は、小堀遠州が没してから11年後となる)。浴竜池・上御茶屋の庭園が完成した4年後の1663(寛文3)3月と11月にも、上皇は桂離宮離宮を御幸なされている。上皇が作った「窮邃(きゅうすい)」の篇額は、遠州が作った庭園の東北部と西南部の設計からデザインした作品であった。言いかえると、桂離宮の庭園の東北部と西南部は、上掲した「文字作成銀河の範囲」を示す作品でもあった。
 1725(享保10)に新井白石が没した。白石は『魏志』倭人伝の記事を〔文献批判〕して〔誤読〕を加える思考方法を基本にして立論した。今日の学者たちは白石が開発した〔文献批判〕の考え方を受け継ぐ。しかし『魏志』倭人伝は〔文献批判=誤読〕を1ヵ所も必要としない文献であり、『魏志』倭人伝に記載された夏音文字の学芸は日本の古代学問と日本文化(諸芸能)の根源であり、夏音文字の字源・字形・字義は文字作成銀河各部の形状となって実在した原初漢字であった。したがって、白石は誤読の空論を後世に残した。
 白石の没年から13年後の1738(元文3)115代桜町(さくらまち)天皇の即位式において、大嘗会(だいじょうえ)が本格的に復興された。この大嘗会の復興は霊元(れいげん)上皇(112代天皇)の決断に将軍吉宗が協力して実現した。大嘗会は皇室最大の神事であり、霊元上皇による大嘗会の復興によって即位式に用いる天皇の王冠の上の飾りは、〔夏音文字の学芸をあらわす大鳥〕の意匠となった。この大鳥のモデルは、桂離宮の庭園東北部にある〔卑弥呼の地上絵〕(現存する遠州・浜松市北区の細江町の行政区域を表示する地図の形)の形に設計された庭園の平面図であった。天皇の王冠の下の飾りは、桂離宮の西南庭園部の〔母親の乳房と乳房を嘗()める子の横顔の形をした岸〕からデザインされることになった。
 家々の神棚にある〔水を入れる神具の水器(すいき)の蓋(ふた)〕は「母親の乳房」(水器の取っ手の摘(つま)みが乳首となる)をデザインするものである。水器の〔水を入れる容器〕は〔妊婦の腹部・子宮〕をデザインし、〔水器に入れる水〕は〔胎児の命をまもる羊水(ようすい)〕をあらわす。
 このように天皇の王冠の下の飾りは『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす〔母親の乳房の形をした水器の蓋〕の意匠であったゆえ、天皇の王冠は「菅蓋(かんがい)」と名づけられた。「菅」は天皇の王冠の材料の「草の菅(すげ)」であり、「蓋」はもちろん「水器の蓋(ふた)」である。天皇の王冠の〔母親の乳房の形をした水器の蓋〕を模る菅笠(すげかさ)は、日本国民のいのちと魂の根源となり・生活基盤であった【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした。ゆえに、天皇の王冠は金や銀や宝玉で飾らず、夏に草のスゲ()の葉を刈って作る笠をもって国民が国家と朝廷に逆らって尊重した【日本建国の〔愛〕の理念】を表現することにしたのである。
 だから、新井白石がおこなった〔誤読(文献批判)〕によって夏音文字の学芸と【日本建国の〔愛〕の理念】が失われて日本国はやがて滅亡すると深刻に心配した皇室は、大嘗会を本格的に復興して天皇即位式の王冠の意匠(いしょう)で「夏音文字の学芸は実在する」と表示したのである。
 というのも、学問の初歩的心得は文献の記事を忠実に読解することであるからである。したがって『魏志』倭人伝や『古事記』上巻の記事を真っ先に忠実に読解する人物こそが「学者」と呼べるゆえ、この二つの古文献の記事から学者ならば「夏音文字の学芸の存在」に必ず気づき天皇の王冠は「夏音文字の学芸は実在した」とあらわしていることに気づくにちがいないと考えたのである。それゆえ白石以後、〔誤読〕である〔文献批判〕が『魏志』倭人伝や『古事記』上巻における基本的思考方法になるなんていう今日のような事態は、大嘗会を本格的に復興した1738年の時点では皇室はまったく想像しなかったことになる。

 白石以後から現在までの多数の学者たちは『魏志』倭人伝に〔様々な多数の文献批判〕を加えて邪馬台国の所在地について立論する。しかし、いっこうに【科学】が成立しないために、邪馬台国論争は未だに決着がつかない。ところが、『魏志』倭人伝の「わが国には、夏音文字の学芸があった」と伝える記事を注目すると、『魏志』倭人伝には一ヵ所も〔文献批判〕を加える必要がない事実に気がつく。この『魏志』倭人伝の全記事が事実を伝えている秘密は、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話にある倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」の秘密にもとづく「許々袁々呂々」「淤能碁呂」「美斗能麻具波比」「阿那邇夜志愛袁登古袁」「久美度邇」の5カ所の夏音文字の語を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、1点も不合理が生じずに【科学】が成立して――白石以後の邪馬台国論争は千年経っても数万年経ってもいっこうに決着がつかない誤読の空論同志の争いであった――ことが明らかとなる。
 『魏志』倭人伝と『古事記』上巻の両書は〔夏音文字の学芸〕によって一体となって繋(つな)がる。このため、3世紀における卑弥呼と伊耶那美命の歴史は、〔実在した夏音文字の学芸〕によって一挙に鮮烈に蘇る仕組みになっている。
 だから『魏志』倭人伝と『古事記』上巻の「序」(「古事記上巻 序幷」)を読んで「夏音文字は存在しなかった」と文献批判・誤読した学者たちの意見は、間違いなく空理空論・妄想(もうそう)であったのである。

 この6番目の観点を説明する冒頭に掲載した〔古代史学における絶対原理〕の文を再度下に記載する。
 古代史学には――前人が作った文献にある記述を、たとえ多数の後世の学者たちが「この記述は絶対に誤っている、信用してはならない」と批判・否定しても、その文献に記述したとおりの遺跡・遺物が発見されたならば、前人の記述はなんびとにも否定できない真実であり、学者たちが〔文献批判〕を加えて否定した意見は〔誤読の空論〕であり、妄想であったことがなんびとにも否定できない事実となる――このような絶対原理が存在する。
 わが国には、夏音文字の学芸が存在したと証明できる遺跡が(1)大湯環状列石、(2)高尾山古墳、(3)卑弥呼の地上絵、(4)彦根の大鳥の地上絵、(5)桂離宮の庭園、(6)修学院離宮の上御茶屋の浴竜池など、幾つか存在する。また、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された【日本建国の〔愛〕の理念】と夏音文字の学芸を証明できる遺物は〔1〕高尾山古墳の後方墳主体部から出土した上方作系浮彫式獣帯鏡、〔2〕後水尾上皇が作った「窮邃」の扁額、〔3〕大嘗会における天皇即位式で用いられる王冠「菅蓋」などが存在する。
 前述したとおり、多くの学者たちは〔文献批判〕を用いてホメロスの英雄叙事詩『イリアス』は「歴史を語るものではない」と断定したが、シュリーマンのトロイの遺跡発見によって歴史となった。このように古代史学には絶対原理が存在するゆえ、上記した現存する夏音文字の学芸を伝える遺跡と遺物と、そして夏音文字の学芸を知得した歴史上の人物たちと、また文字作成銀河各部の形状によって、「夏音文字の学芸は存在しなかった」とする学者たちの〔文献批判〕は〔誤読〕であったことになる。
 学者たちは「夏音文字の学芸は存在しなかった」とする〔誤読の空論・漢字習得の定説〕を巧(たく)みにあやつって、すべての日本人が知る権利がある日本誕生史と日本人の命と魂の根源(みなもと)である【日本建国の〔愛〕の理念】を荒唐無稽(こうとうむけい)の出鱈目(でたらめ)な世界の片隅の牢屋(ろうや)に押し込んで――そう、日本人のあなたを小馬鹿にしてまんまと騙(だま)す。
 しかし、「夏音文字の学芸は実在した」という【科学】は〔古代史学における絶対原理〕によって成立するゆえ――学者たちが主張する漢字習得の定説はじめ、新井白石以後の学者たちの邪馬台国説と、本居宣長著『古事記伝』を教科書とする学者たちの日本神話説は【明確なる誤読の空論】であり【真っ赤なウソ】であることは何人にも否定できない事実となる。
 『古事記』上巻の「序」は首尾一貫して「『古事記』上巻に記述された歴史は〔音〕という注を付けた夏音文字を文字作成銀河各部の形状に変換すれば解明できる」と指摘する。この指摘を無視・排除して〔誤読」をあやつる学者たちの意見が正しいなんてことは絶対にありえないことなのである。学者たちの意見は「即妄想」と軽蔑すべき出来事なのである。
 要するに、学者たちが〔誤読〕という方法を用いて存在しないと断定した夏音文字の学芸が明確に存在するという事実によって、日本人の命の魂の根源【日本建国の〔愛」の理念】を伝える歴史は鮮烈に蘇る。したがって、学者たちの意見はまったくのウソ八百・詐偽・ペテンであったことが明白なる事実となる。
 だから、われわれは騙されてはならない。われわれは、学者たちの【科学】が成立しない誤読の空論をさっさと廃棄処分して真実の日本国誕生史を手に入れる権利を有する。

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