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2018年3月10日 (土)

漢字習得定説のウソ・1

 ●倉頡伝説は荒唐無稽の空想ではなかった・1
■倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人」の秘密

◆現在、「わが国が漢字を最初に習得したのは、5世紀もしくは6世紀であった」という定説によって、重大な日本上古史の真相が不明となる。
 この上古史における重大な失われた史実とは――(1)『魏志』倭人伝に記述された「卑弥呼が立論した転回日本列島地理」と、(2)『古事記』上巻の伊耶那岐命(いざなきのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)神話冒頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に記述された「日本国誕生史」である。
 しかし、学者たちが「真実」だと思い込む漢字習得の定説は〔誤読〕で捏造(ねつぞう)した空理空論であり、真っ赤なウソである。

3世紀後半に成立した『魏志』倭人伝には「2世紀末~3世紀半ばのわが国には漢字があった」と証言する記事が2ヵ所ある。
 その最初の記事を要約すると「倭の卜占(うらない)に用いられる辞(文字とことば)は、〔令亀(れいき)〕つまり〔亀の甲羅に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字の法(原理)の如(ごと)し」と証言する。
 もう一つの記事を要約すると「魏の都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と卑弥呼が文書に用いる文字は差錯(ささく/相違)していたので、倭の小国伊都(いと)国の港では点検し、確認し、魏と朝鮮半島で用いる楷書と卑弥呼が用いる文字を正しく変換していた」と証言する。
 したがって、わが国には5世紀より以前の2世紀末~3世紀半ばにおいて既(すで)に漢字が習得され、この文字は紀元前1300年頃に出現した甲骨文字のごとくであったことになる。

 わがブログ「真実の日本国誕生史」の1回~40回をもって詳細に証明したように――紀元前21世紀、中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、わが国に原初漢字の夏音文字が伝来して習得されていた。
 ゆえに、『魏志』倭人伝には「2世紀末~3世紀半ばにおいて、わが国には紀元前14世紀末頃に出現した甲骨文字の字形ごとき文字があった」と記述されることになったのである。
 わがブログ「真実の日本国誕生史」の10回・11回、あるいは35回~40回で詳細に証明したように――「古事記上巻 序幷」と表記する『古事記』上巻の「序」の冒頭の「臣安万侶(しんやすまろ)(まを)す。夫()れ混元既(こんげんすで)に凝()りて、気象未(いま)だ効(あらは)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)か其()の形を知らむ。然(しか)れども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)に作()す」までの文は、「紀元前21世紀の夏代初頭、わが国は夏音文字の学芸を習得した」と説明していたことになる。
 上記した『古事記』上巻の「序」の「臣安万侶言す。(中略)。神造化の首(はじめ)に作()す」までの文は――中国から夏代初頭に夏音文字の学芸が伝来した。夏()王朝の始祖・帝禹()の後を継ぐ帝益(えき)の孫の王子と益氏の若者たちは大海を越えて、日本列島の男鹿(おが)半島・米代川(よねしろがわ)縄文文化圏に移住して夏音文字の学芸をもたらした。名門益氏が話す夏音はチンプンカンプンで理解できなかったが、わが国では前期縄文時代初頭以来の約2000年に及んで夏音文字の字源・字形・字義となる銀河各部の形状イメージをデザインする土器・土偶(どぐう)が造られていたので、この土器・土偶を造った芸術つまり参神造化の伝統を受け継いだ芸術家たちによって、後期縄文時代初頭に夏音文字の学芸は習得された――と歴史を説明するものであったのである。
 ゆえに、『古事記』上巻の「序」の末部において――楷書「日下(にちげ)」と夏音文字「玖沙訶(くさか)」は同義、楷書「帯(たい)」と夏音文字「多羅斯(たらし)」は同義である。この『古事記』上巻が作成された時に用いられる8世紀初頭の楷書と紀元前21世紀に習得された夏音文字で構成される語が同義となる秘密は、両者の辞理(じり/文字とことばの原理)が前期縄文以後に造られた土器・土偶の造形テーマとなった銀河各部の形状であったからである――と説明されることになった。
 『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて紀元前21世紀に習得された夏音文字が多数記載される。ゆえに、字音を楷書で表記される夏音文字の字源・字形・字義は銀河各部の形状であった。したがって、夏音文字は字源・字形・字義・字音の4要素から成る実在した文字であった。
 だから学者たちが絶対視する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀もしくは6世紀である」という漢字習得の定説は、『古事記』上巻の「序」が「夏音文字は実在した」と証言する記事を無視し削除(さくじょ)する、また『古事記』上巻の随所(ずいしょ)に〔音〕という注が付いて多数実在する夏音文字を無視し排除(はいじょ)する誤読の空理空論であり、虚偽(ウソ)であったことになる。
 わが国では、紀元前21世紀に夏音文字を習得していた、これは歴史上の事実であった。その証拠に、わがブログ「真実の日本国誕生史・40」で詳細に解説したように、夏音文字が実在したと科学的に証明できる夏音文字の学芸遺跡や遺物が幾つか存在するからである。
 夏音文字の学芸遺跡は――(1)秋田県鹿角(かづの)市に所在する国の特別史跡の大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)(2)2008年に発見された東日本最古で最大の前期古墳である静岡県沼津市に所在する高尾山(たかお)古墳、(3)高尾山古墳の主体部が作成された約10年後の260年頃に作成が開始され30年後の290年頃に完成した静岡県浜松市北区の細江(ほそえ)町の行政区域を表示する地図の形として現存する1千万坪の大鳥の地上絵(わたくしはこの大鳥の地上絵を「卑弥呼の地上絵」と名づけた)(4)徳川家康の命令によって1603年から着手されて20年後の1622年に井伊藩が完成した、現在の滋賀県彦根市の行政区域を表示する地図の形として現存する「未だ夏音文字の学芸は復興せず」と設計された3千万坪の鳰(にお)・大鳥の地上絵、(5)徳川幕府の命令のもとに小堀遠州が1623年から着手して23年後の病床に伏す1645年まで情熱を傾けて作った桂離宮(かつらりきゅう)の庭園、(6)江戸幕府が1655年頃から着手して1659年に完成させて後水尾(ごみずのお)上皇に献上した修学院離宮(しゅうがくいんりきゅう)の上御茶屋(かみのおちゃや)の浴竜池(よくりゅういけ)などが存在する。
 また、(1)沼津市に所在する高尾山遺跡の後方墳主体部から出土した「上方作系浮彫式獣帯鏡(しょうほうさくけいふちょうしきじゅうたいきょう)」の破砕鏡(はさいきょう)(2)後水尾上皇が作った「窮邃(きゅうすい)」の篇額(へんがく)(3)1738年に本格的に復興した、皇室最大の神事(しんじ)である大嘗祭(だいじょうさい)における天皇即位式に用いる王冠「菅蓋(かんがい)」など、これらは夏音文字の学芸をあらわす確かな遺物である。
 ゆえに、わが国には夏音文字の学芸は実在したことになる。
 したがって、学者たちが「真実である」と何ら疑わない漢字習得説は『古事記』上巻の「序」と『魏志』倭人伝の記事はじめわが国に夏音文字が習得されていたと伝える諸々(もろもろ)の古文献の記事を誤読して捏造(ねつぞう)した空理空論、虚妄(きょもう)であったことになる。

◆漢字は、わが国で夏音文字を習得した約950年前の紀元前3000年頃の五帝時代初頭・黄帝(こうてい)の時代に起源した。
 黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)は、下に掲載する銀河範囲の各部の形状を字源・字形・字義とする方法を発明した。この倉頡が漢字を発明した「銀河の範囲」を、わたくしは「文字作成銀河」と名づけた。

Ginga
▲文字作成銀河の写真

 『古事記』上巻の「序」の冒頭記事にある「参神造化」すなわち「前期縄文、中期縄文、後期縄文初頭に造られた土器・土偶の形や装飾」は、倉頡が漢字を発明した文字作成銀河の各部の形状イメージを表現するものであった。だから、わが国では夏音文字が習得されることができたのである。
 漢字の起源について、倉頡伝説は――黄帝の時代に生存した“四つ目の怪人・倉頡”が〔鳥獣の足跡〕をもって始めて文字を創(つく)り、古来(紀元前4000年頃から始まる
三皇時代)の占いに用いた記号であった結縄(けつじょう)と代えた。(結縄では古来の三人の大王の氏族名をあらわすことができなかったので、倉頡が発明した文字によって三人の大王の名は包犧(ほうぎ)、女媧(じょか)、神農(しんのう)と定められた)。ゆえに、包犧、女媧、神農の各氏族たちの死霊は祝福して穀物を降らせ(つまり、雨を降らせて豊かな穀物を与え)、その死霊は感激して夜な夜な泣く声が空に聞こえるようになった(つまり、夜な夜な輝く文字作成銀河各部の形状が示す文字によって、三皇時代の歴史を知ることができた)――と伝える。
 倉頡はみずからが考案した文字が最も強力な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易・簡単に滅亡すると心配した。ゆえに、倉頡は下に列記する3つの掟(おきて)を破った人物には神罰が下って即刻(そっこく)死刑にすると定めた。
●倉頡が死刑と定めた3つの掟
(1)
 文字作成銀河の各部の形状から文字が創られたことを暴露した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者
 
 紀元前21世紀に習得した夏音文字は「厳しく罰するあるいは祟(たた)る鬼神(かみ)」であった。このため、夏音文字を習得した人々は上記した(3)の掟を厳重に守った。だから、文字が記された史料が未だ1点も発見されないために、学者たちは実在する夏音文字を実在しないと思い込んだのである。
 上記の(3)の掟は〔令亀(れいき)の法〕つまり〔甲骨文字〕によって破られた。しかし、甲骨文字は(1)(2)の掟については厳重に守った。だから、(1)の掟によって〔漢字が文字作成銀河から作られた事実〕は現在においても不明となり、また(2)の掟によって「文字作成銀河各部の名称」は存在しないことになり、この倉頡の(2)の掟の伝統は現在まで受け継がれている。だから、現在、「文字作成銀河各部の名称」は学問上確立されていない。
 甲骨文字によって(3)の掟は破られたため、その後の金文・篆文(てんぶん)・隷書(れいしょう)を経て、6世紀の隋代(ずいだい)に完成した楷書は鬼神への畏(おそ)れが消滅して単に言葉をあらわす記号と化した漢字であった。このため、楷書は夏音文字の〔音〕をあらわすことになった。そして、夏音文字の表記にもちいられる楷書の字源・字形・字義はそのまま夏音文字の字源・字形・字義をあらわし、その字源・字形・字義は文字作成銀河各部の形状から成立するものであった。だから、表記に用いられた楷書は夏音文字の字源・字形・字義をあらわすので――夏音文字は実在したということになる。
 さらに、夏音文字は用済みになったならば必ず消された文字であったが、上記したように『魏志』倭人伝は「倭の卜占に用いる文字は令亀(れいき)の法すなわち甲骨文字の字形のごとくであった」と記述するゆえ、必要な時には字形が書かれて明示された文字であったことになるので、夏音文字は実在した文字であったことになる。
 さらに、楷書で表記されて夏音文字は『魏志』倭人伝の人名・小国名・官職名に用いられ、『古事記』上巻の随所には〔音〕という注が付いて多数の夏音文字は記載されているために現在において実在すると目で見て確認できる。だから、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記載されて現存する夏音文字は疑う余地もなく確かに実在する文字ということになる。

◆紀元前3000年頃から始まる五帝時代の起源漢字、紀元前2070年頃から始まる夏代(かだい)の夏音(かおん)文字、紀元前1600年~紀元前1300年頃までの殷代(いんだい)前半期の漢字。これらの原初漢字は倉頡が定めた(3)の掟を厳重に守ったため、文字を記した史料が中国でもわが国でもいまだ1点も発見されない。ゆえに、新井白石(あらいはくせき/16571725)以後から現在までの学者たちは、上記した『魏志』倭人伝の重大な記事を無視し排除して「わが国には2世紀末から3世紀半ばには、漢字は存在しなかった」と断定した。
 五帝時代初頭に生存した黄帝は、東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。『内経』の[]の字源・字形・字義は「女性の生殖器・子宮に宿る胎児の成長や出産器官の産道」をあらわすものであった。黄帝の医学研究は中国最初の事業であったので、三皇時代の結縄では黄帝の研究をあらわすことができなかったので、倉頡が文字を発明することになったのである。
 上記した倉頡が定めた(2)の掟によって「文字作成銀河各部の名称」は学問上確立されていないため、存在しない。しかし、「倉頡伝説は事実を伝える」また「倉頡は文字作成銀河各部の形状から漢字を作った事実」あるいは「文字作成銀河各部の形状が字源・字形・字義であった事実」を証明するには〔文字作成銀河各部の名称〕がどうしても必要であるので、わたくしは下に示すように各部の名称を定めた。
Photo
 ▲文字作成銀河各部の名称図

 上記した倉頡(そうきつ)伝説は、「倉頡」は「四つ目の怪人」であったと伝える。
 学者たちは「とんでもない! 人間には目が四つも無い」と鬼の首でも取ったかのごとく得意になって、倉頡伝説を「荒唐無稽(こうとうむけい)な空想!」と決めつける。
 このように「四つ目の怪人」を根拠・理由にして学者たちは「倉頡伝説は事実を伝えない空想」と断定した。
 しかし、倉頡伝説末部の「天は祝福して穀物を降らせ、死霊の感泣(かんきゅう)する声が夜な夜な空に聞こえたという」と伝える部分は「夜な夜な輝く銀河(文字作成銀河)の各部の形状を文字とする倉頡の発明によって、三皇時代に栄えた包犧(ほうぎ)・女媧(じょか)・神農(しんのう)の氏族の歴史を伝えることができるようになったので、包犧氏・女媧氏・神農氏の死霊は感激して泣き、祝福して恵みの雨を降らせて地上に豊かな穀物を与えた」と説明していたことになる。
 「銀河」の別称は「銀漢」である。ゆえに「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と称されることになった。したがって「夜な夜な天に輝く文字作成銀河各部の形状は多数の文字の字源・字形・字義」となったため、「天体」は[]と「文字」の[]で「天文」と呼ばれるようになった。そして「天子」または「天皇」は「銀河各部の形状から作られた文字の学芸に精通する大王」と意味するものであったのである。
 712年に『古事記』が成立した。『古事記』成立以前のすべての漢字は文字作成銀河各部の形状から作られた。したがって、『古事記』に用いられた楷書以前のすべての漢字の字源・字形(字形の原形)、字義は文字作成銀河各部の形状であったのである。

「文字作成銀河各部の名称図」に左上に「十字の銀河」と名付けた銀河がある。
 黄帝時代、中国の各地の天頂に、A図の「十字の銀河」がめぐってきた。
S961
(C) 2018 OHKAWA

 「十字の銀河」の西側には「乳房」と「子宮(生殖器)」また「妊婦(にんぷ)の腹部(おなか)」に相似する箇所があるゆえ、女体に観える。ゆえに、倉頡は「十字の銀河」を〔文字作成銀河各部の形状から作られたすべての文字を生む母〕、「十字の銀河の子宮」を〔すべての文字を生む子宮〕と定めた。
 ゆえに、B図に示すように、「文字」の[]の金文(きんぶん/周代の出現した漢字)は「十字の銀河」を「妊婦の正面の姿と子宮に宿る胎児(たいじ)」に見立てて、その字形が図案された。つまり、[]の金文形は上記した「黄帝の女性の生殖器と子どもの出産の研究」を表現するものであったことになる。
S962
(C) 2018 OHKAWA
 
 C図の「すべての文字を生む母体」をあらわす「十字の銀河」は[(べん)]の字源・字形・字義となり、「鬼の姿に似る銀河」は〔子(胎児、出産児、幼児など)〕に見立てられて[])の字源となった。[][]が加わって[]となって、B図の[]と同じく[]という字もまた「黄帝の〔女性の生殖器と子どもの出産の研究〕をあらわした。
S963
(C) 2018 OHKAWA

 D図における「鬼の横顔に似る銀河」には〔両目〕に観える箇所があり、「鬼の横顔に似 る銀河の首」にも〔目の形をした銀河部〕が二つある。したがって、[]の字源銀河の顔・首には「四つの目」がある。
K14
(C) 2018 OHKAWA  

 D図に示す「十字の銀河」は「人の姿」に観え、「鬼の姿に似る銀河」も「赤ン坊。また、天を見上げる人の姿」に観える。
 また、E図に示す「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河」によって、「夏の銀河の西南部における胎児の姿に似る銀河」は「十字の銀河の右足・乳房・妊婦の腹部」(A図)に類似するので、「人の横顔に酷似する銀河から夏の銀河の西南部まで」もまた「人」に見立てることができる。
K15_2

   だから、「鬼の姿に似る銀河には目が四つあり、鬼の姿に似る銀河は人(子どもや天を見上げる人の姿)」のイメージとなったため、漢字を発明した倉頡は「四つ目の怪人」と呼ばれることになったのである。
 「十字の銀河(D図)~夏の銀河の西南部(E図)まで」は、上掲した「文字作成銀河各部の名称図の範囲」を示す。したがって、「四つ目の怪人」という異名(いみょう)は「文字作成銀河の範囲」をあらわす重大な役目を有していたことになる。
 以上のごとく、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人」は「四つ目がある鬼の姿に似る銀河」と「文字作成銀河の範囲」をあらわして、「すべて漢字は文字作成銀河の各部の形状から作られた事実」を後世に伝えていたことになる。
 だから、「四つ目の怪人」を注目して「とんでもない! 荒唐無稽な話だ」と鬼の首でも取ったかのごとく倉頡伝説にケチをつける学者たちの意見のほうが誤読と思考停止で強引(ごういん)に単純化した憶説(おくせつ)で重大な事実を葬る「とんでもない! 荒唐無稽の妄想(もうそう)であった」ことになる。

◆次回は、倉頡伝説に登場する「鳥獣の足跡」の秘密を解明する。

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