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2018年4月18日 (水)

漢字習得定説のウソ・7

 ●卑弥呼が立論した日本列島地理の真実・1

◆「銀河」の別名は「銀漢」である。だから、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた。この事実を、このブログ「漢字習得定説のウソ」は1回~前回(6)まで一貫して証明してきた。今後も、この証明を続ける。
 紀元前3000年頃、中国の五帝時代初頭、黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)は「鳥獣(ちょうじゅう)の足跡(あしあと)」という名の漢字作成原理を発明した。
 また倉頡は、下の写真の銀河範囲の各部の形状から、漢字を作ると定めた。この「すべての漢字が作られた銀河の範囲」を、わたくしは「文字作成銀河」と名づけることにした。

Ginga
 ▲文字作成銀河の写真
 
 
倉頡はみずからが考案した文字が最も強力な権力、莫大(ばくだい)な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易・簡単に滅亡すると心配した。ゆえに、倉頡は下に列記する3つの掟(おきて)を破った人物とその門戸(もんこ)には厳(きび)しい神罰(しんばつ)が下されて皆殺しとなり、その罪・責任は宗族(そうぞく)まで及ぶと定めた。
●倉頡が死刑と定めた3つの掟
(1)
 文字作成銀河の各部の形状から文字が作られた秘密を暴露(ばくろ)した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者

 つまり、倉頡の発明は五帝時代初頭の信仰「鬼神(きじん)」と結びついて、漢字は「鬼神(かみ)の心をあらわすことば、鬼神の心にしたがわなければならないことば」となった。このため、人々は鬼神が下す門戸滅亡、さらに氏族衰退まで及ぶ大罪(たいざい)をおそれて上記の3つの掟を人々は厳重にまもったのである。
 紀元前1世紀に成立した司馬遷(しばせん)著『史記(しき)』五帝本紀(ごていほんぎ)・第一は「天子は天地山川の鬼神をまつって封禅(ほうぜん)をおこなうのが例であるが、古来の帝王がおこなった封禅のうちで、黄帝のおこなったそれが最も盛大であったといわれる」と記述する。この記事が示すように、黄帝は鬼神をまつっていた。

 紀元前3000年頃から始まる五帝時代の倉頡文字と、紀元前2070年頃から始まる夏代(かだい)の夏音(かおん)文字と、紀元前1600年頃~紀元前1300年頃までの殷代(いんだい)前半の原初漢字は、鬼神信仰とむすびついて上記した倉頡が死刑と定めた3つの掟を厳重(げんじゅう)にまもった。このため、原初漢字(倉頡文字・夏音文字・殷代前半の文字)が記された史料が中国においてもわが国においても未(いま)1点も発見されないため、現在の学者たちは倉頡が漢字を発明したと説明する伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の空想と思い込んだ。

 上記した倉頡が定めた(3)の掟は紀元前1300年頃から始まる殷代後半に出現した亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字によって破られた。しかし、甲骨文字は(1)(2)の掟については厳重に守った。だから、(1)の掟によって「漢字が文字作成銀河から作られた事実」は現在においても不明となり、また(2)の掟によって「文字作成銀河各部の名称」は存在しないことになり、この倉頡の(2)の掟は現在まで受け継がれている。

◆上記した倉頡が死刑と定めた(2)の掟のために、「文字作成銀河各部の名称」は現在においても学問上確立されていないため、存在しない。しかし、これから、『魏志(ぎし)』倭人伝(わじんでん)に記述された歴史を解明するには、「文字作成銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、わたくしは下に示すように各部の名称を定めた。
Photo
 ▲文字作成銀河各部の名称図

 712年に成立した『古事記(こじき)』は上巻・中巻・下巻の三巻で構成されるが、その「序」は上巻だけの「序」であって、全巻における「序」ではない。ゆえに、『古事記』の「序」は「古事記上巻 序幷」(古事記上巻幷(あわ)せて序)と記載される。というのも、上巻だけに〔音〕という注がつく文字が随所(ずいしょ)に記載され、この文字は――わが国に紀元前2070年~紀元前2050年頃に伝来して習得された夏音文字であり、この夏音文字を利用して後世に真実の歴史を伝える方法で『古事記』上巻は著作されたからである。
 夏音文字がわが国に伝来した当時は、中国の夏代(かだい)初頭、わが国の後期縄文時代初頭であった。この夏音文字の伝来と習得については、わがブログ「漢字習得定説のウソ・1」で解説した。また、わがブログ「真実の日本国誕生史」の10回・11回で詳細に解説し、さらに詳細に「真実の日本国誕生史」の35回~40回の6回をもって解説した。
 『古事記』上巻の「序」の冒頭の「臣安万侶(しんやすまろ)(まを)す」から「参神造化(さんしんぞうか))の首(はじめ)に作()す」という文までは「わが国に後期縄文時代初頭に夏音文字が伝来して習得された」と伝えるものであった。
 『古事記』上巻の「序」の全記事を要約すると「朝廷が最も崇拝する天照大御神の聖性をいちじるしく汚(けが)すゆえ、上巻の神話には絶対に後世に伝えてはならないと厳重に禁じられた日本国誕生史の真実を記述することにした。ゆえに、編纂(へんさん)スタッフは一計を企(たく)み、〔音〕という注が付く夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば日本国誕生史が明確に蘇(よみがえ)る仕組みにして、後世に真実を伝えることにした。したがって、上巻は夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換して真実の歴史を知ることができる仕組みの歴史書である」と、後世に歴史解明方法を伝えていたことになる。
 つまり、『古事記』上巻は「銀漢(文字作成銀河)から作られた字であるから、漢字と名づけられたという事実」を伝える歴史書であり、また証明できる文献(ぶんけん)であった。

280289年に著作(ちょさく)された『魏志』倭人伝には「卑弥呼(ひみこ)は鬼道(きどう)を事(まつ)る」(「事る」は「つかえる」とも読む)という記事があり、『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「卑弥呼は鬼神の道を事(まつ)る」と記述する。したがって、『魏志』倭人伝の「鬼道」は、『後漢書』倭伝の「鬼神の道」の略称(りゃくしょう)であった。したがって卑弥呼は、中国の五帝時代初頭の黄帝がまつっていた「鬼神」に事(つか)えていたのである。
 だから、『古事記』上巻の序に伝えるように、わが国では紀元前21世紀に夏音文字を習得し、夏音文字は卑弥呼王朝の政権基盤であったのである。

その証拠に『魏志』倭人伝には「わが国は、夏音文字を習得していた」と伝える記事が2ヵ所ある。
 この最初の記事は「倭の卜占(うらない)に用いる辞(/文字とことば)は〔令亀(れいき)〕つまり〔亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨文字(こうこつもじ)〕の法(辞理/じり)のごとし」と伝えて、「わが国では夏音文字を習得していた」である。
 もう一つの記事を要約すると「魏の都や朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国(しょかんこく)が用いる楷書(かいしょ)と卑弥呼が文書に用いる文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)しているので、倭の小国の伊都(いと)国の港では点検し、確認し、魏と朝鮮半島で用いる楷書と卑弥呼が用いる文字を正しく変換していた」と伝えている。
 したがって、この二つの記事は――魏と朝鮮半島で用いられる楷書と卑弥呼が用いる夏音文字は共に文字作成銀河の各部の形状を字源・字形・字義として、さらに楷書も夏音文字も倉頡が発明した「鳥獣の足跡」という名の漢字作成原理をまもって作られた文字であったゆえ、伊都国の港では文字作成銀河を観察して楷書と夏音文字を考えて正しく変換していた――と証言するものであった。
 だから2世紀末~3世紀半ばまでのわが国の様子を伝える『魏志』倭人伝もまた、『古事記』同様に、楷書と夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、正しい歴史を解明することができる文献(ぶんけん)であった。

 ということは、『魏志』倭人伝も『古事記』同様に「漢字は銀河から作られた事実を科学的に証明できる書物」であったのである。
 楷書は隋代(ずいだい/589618)に完成した。この現在われわれが用いる漢字に直結(ちょっけつ)する隋代の楷書のおいても、紀元前3000年頃に生存した倉頡が発明した漢字作成原理にしたがって作成された。したがって、紀元前3000年~6世紀の隋代まで、漢字は倉頡が発明した漢字作成原理の則って作られたことになる――この事実を科学的に証明できる文献が『魏志』倭人伝と『古事記』上巻であり、また、この事実はわが国で作られて現存する幾つかの遺跡や遺物((1)秋田県鹿角市の大湯環状列石、(2)静岡県沼津市の高尾山古墳、(3)静岡県浜松市北区細江町の行政区域を表示する地図の形として現存する1千万坪の大鳥の地上絵、(4)京都市の龍安寺の石庭、(5)滋賀県彦根市の行政区域の地図の形として現存する3千万坪の大鳥の地上絵、(6)京都市の桂離宮の平面図、(7)京都市の修学院離宮の上御茶屋の浴竜池の平面図、(8)皇室最大の神事である大嘗会における天皇即位式で用いられる王冠の意匠など)によって科学的に証明できる。

◆『魏志』倭人伝は、280年~289年に晋(しん)の陳寿(ちんじゅ)が著述した『三国志(さんごくし)』魏書(ぎしょ)東夷伝(とういでん)の末部にある「倭人伝」の通称(つうしょう)である。ゆえに、『魏志』倭人伝の最初の文字は「倭人伝」である。この「倭人伝」に続く本文冒頭は「倭人在」であるゆえ、これまた「倭人」である。
 前々回と前回のわがブログ「漢字習得定説のウソ」の5回と6回で詳細に解説して証明したように、[]の字はA図に示すように「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわす。この転回方位規定は倉頡がB図のごとく「いねの穂が垂れる形」を考えて[()]の字と定めた。
K91

 
K171
(C) 2018 OHKAWA
 
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静(しらかわしずか)博士が著作して『字統(じとう)(平凡社発行)は、[]の字形について「いねの象形(しょうけい)、また軍門の象形。いねの字は禾穂(かすい)が垂れた形。軍門の字は標木(しめき)に袖木(そでき)をつけた形」と解説する。つまり、黄帝は[]の形をした組木(くみき/標木と袖木)を軍門としたことになる。
 B図の「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」は、上掲(じょうけい)した「文字作成銀河各部の名称図」における左上にある。
 天文における「歳差(さいさ)」という現象にもとづくと、紀元前3000年頃の五帝時代初頭、C図に示すように、北緯3536分の陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)にある黄帝陵(黄帝を祭る廟と墓)と北緯31度の太湖(たいこ)南岸の天頂に「十字の銀河」と「四つ目の銀河」がめぐってきた。
K172
(C) 2018 OHKAWA
 
 黄帝時代、B図の[(いね)]の字と重なる「十字の銀河」は中国国土各地の天頂にめぐってきて、緯度(位置)と経度(方位)を精密に測定できる羅針盤(らしんばん)となった。B図の「いねの穂が垂れる方向にある、鬼の横顔に似る銀河」も、C図に示すように中国の各地の天頂にめぐってきて緯度と経度が精密に測定できる羅針盤となった。ゆえに、倉頡はB図のごとく「十字の銀河」に「いねの図案」を重ね、「いねの穂は西の鬼の横顔に似る銀河の口の方へ垂れる」と考える[]の字が作成された。
 倉頡がつかえた黄帝は、東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。『内径』の[]は「女性の生殖器(せいしょくき)・子宮(しきゅう)に宿(やど)る胎児(たいじ)や出産器官の産道(さんどう)」をあらわした。黄帝の医学研究は中国最初の事業であったので、紀元前4000年頃~紀元前3000年頃までの三皇時代の易(えき)に用いられた記号では黄帝の研究成果をあらわすことができなかった。だから、倉頡は黄帝の医学研究をあらわす文字を発明したのである。
 D図に示すように、「十字の銀河」の西側には〔乳房・子宮・妊婦(にんぷ)のように円い腹部〕がある。ゆえに、倉頡は黄帝の医学研究をあらわすため、「十字の銀河」を「女体(にょたい)」に見立てた。
K134
(C) 2018 OHKAWA
 

 そして、倉頡は「文字作成銀河各部の形状から作られたすべての漢字は、十字の銀河を母体にして生まれる」、「すべての漢字は十字の銀河の子宮から生まれる」と定めた。この倉頡が発明した漢字作成原理は「鳥獣の足跡」と名づけられた。
 E図に示す[]の金文形(きんぶんけい/周代に用いられた漢字)は、「十字の銀河」を「母体の正面」に見立てて「子宮に子が宿る、おなかが前へつき出て円くなる妊婦の姿」をあらわす図案である。
K135
(C) 2018 OHKAWA
 
 F図に示すように、「十字の銀河」は[(べん)]の字源・字形・字義となり、「四つ目を有する鬼の姿に似る銀河」は[]の字源・字形・字義となり、[][]が加わって[]の字源となった。
K136
(C) 2018 OHKAWA
 
◆娩出期(べんしゅつき)終わりにおいて、頭が誕生する子の顔の正面は、G図に示すように、母体の背側に向く。
K173
(C) 2018 OHKAWA
 
 倉頡の漢字発明は黄帝の医学研究をあらわす文字を作成することであったゆえ、倉頡は「すべての漢字を生む母体と定めた、十字の銀河」に「頭が誕生する子の顔の向き」を加える――H図のごとく想像した。
K174
(C) 2018 OHKAWA
 
 この倉頡のイメージは、H図が示すように、頭が誕生する子の顔は「十字の銀河の背側・東側」を向くことになる。この顔の向きにもとづくと、子どもたちは中国の陸地では生まれずに、海で生まれることになり不合理となった。
 それゆえ倉頡は合理にするために、I図のごとく「十字の銀河の南から生まれた子は、90度方位が転回して西側(十字の銀河の腹側)の陸地にて生まれるとあらわす[]の字を作成することにしたのである。
K175
(C) 2018 OHKAWA
 
 C図に示したように、黄帝時代には「十字の銀河の子宮」は中国南部の揚子江(ようすこう)の天頂にめぐってきた。この地域は、禾・いねの生育(せいいく)にめぐまれていた。「禾・いねの生育」と「子の生育」を同一視(どういつし)した倉頡は、B図のごとく[]の字を作り、[]はA図に示すように「時計回りに〔南〕が〔西〕になるように、90度方位が転回する方位規定」を定めたのである。
 B図の下部に示すように、倉頡が作った[]に後世の人が[]を加えて[()]の字を作った。というのも、D図に示したごとく、「十字の銀河」は女体に相似するので[]の字源と定まっていたからである。また「十字の銀河」は「人の姿」にも相似するゆえ、人偏に[]が加わる[]の字が出現することになったのである。[][]は倉頡が作った原字(げんじ)[]の字源・字義を受け継いでA図・B図・I図に示した「時計回りに方位が90度転回する方位規定」をあらわすことになった。
 だから、『魏志』倭人伝にある全15ヵ所の方位記事は倉頡が発明した漢字作成原理をあらわしてB図に示した[][][]の字源・字形・字義の秘密を伝えることになった。
 幾人かの学者たちが認めているように、『魏志』倭人伝は「日本列島の〔東〕は〔南〕となる」と記述していることになる。『魏志』倭人伝には方位記事は15ヵ所あるが、この全15ヵ所の方位記事に1ヵ所も【文献批判】つまり【誤読】を加えないと、A図とB図とI図のごとく、[]の字源に合致して日本列島は〔東〕ではなく〔南〕へ伸びていることになる。
 だから黄帝と同様に鬼神につかえた倭女王の卑弥呼は、J図に示すように「日本列島は東ではなく南に伸びる」と考える転回日本列島地理を制定して、国名を「倭人国」と定めたことになる。
K181
(C) 2018 OHKAWA
 
 わがブログ「漢字習得定説のウソ・5」で詳細に解説し証明したように、「倭人国」の[]の字源はK図に示す「だいぶ人らしくなって、いくらか膝を曲げて子宮に宿る子(胎児)の姿(側身形)」であった。
K182
(C) 2018 OHKAWA
 
 中国を代表する思想家・老子は『老子』第一章で「常に無欲にして以(もっ)てその妙(みょう)を観()(中略)、玄(げん)のまた玄、衆妙(しゅうみょう)の門」と説き、「常に産道を通過する時の子(出産児)のごとく無欲であれば人間にそなわる妙な(不思議で神秘的な)[]をキャッチできる能力で命をまもって寿命を延ばすことができた。[]は衆つまりすべての人々の命の門であった」と伝える。
 つまり、古代の人々の命をまもる門であった[]をキャッチする時の心得である「無欲で産道(さんどう)を通過して命が与えられる子(出産児)」が[]の字源であった。
 だから、「倭人国」の[]の字は「産道を通過する子(胎児の)ごとく無欲になって[]をキャッチせよ。日々、[]をキャッチする眼力と技術(わざ)を鍛錬すれば、天頂緯度線と子午線は測量できて生きながらえることができる」と意味するものであったのである。

L図の右上に[]の字を配した。[]の字は[(とう)][(よう)]が加わって形成される。[]は「天頂緯度線と子午線」である。[]は上記した「無欲で産道を通過する子(出産児)」である。
K183
(C) 2018 OHKAWA
 
 J図の左側に配する沖ノ島は玄界灘に浮かぶ――「玄界灘」は、その名のとおり「[]をキャッチできれば往来できる、陸地から遠く離れた波の荒い海」であった。ゆえに、玄界灘は[]をキャッチできないと、死ぬことになる陸地から遠く離れる波の荒い海であった。
 人類は原始の時から、L図右上に示す[]をキャッチする能力を鍛錬(たんれん)すると〔1度の60分の11分の精度で緯度が測定できる眼力と脳に本能がそなわっていた。この[]のキャッチのおかげで、人類は迷わずに遠くの地へ移住することも、大海原で漂流することもなく緯度と経度を計測して渡ることができた。
 卑弥呼が生存した3世紀、わが国では[]をキャッチする呪術(じゅじゅつ)と習慣が栄えていた。このため、J図の左側に示す――日本列島の西端(にしはし)の玄界灘(げんかいなだ)に浮かぶ沖ノ島と東端(ひがしはし)の伊豆諸島の神津島(こうづしま)が同緯度(北緯3415)であることは[]をキャッチする眼力と技術をみがいて長寿であらんと欲(ほっ)する多くの人々が知っていた。だから、沖ノ島と神津島の同緯度を理論基盤にして卑弥呼が[]の字源に合致して「日本列島の東方は南に伸びる」ととなえた転回日本列島地理論を、夏音文字の学芸を有する人々は真実であると確信したのである。
 前回のわがブログ「漢字習得定説のウソ・6」で詳細に解説して証明したように、紀元前5世紀の周代(しゅうだい)の易の考え方を伝える『易経(えききょう)』繋辞下伝(けいじげでん)にある漢字起源記事は「仰いでは天象を観()、俯()しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観る。近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る」と伝える。
 この文中にある「近くはこれを身に取る」とは、上記した『老子』第一章が説く[]のキャッチ、つまり「常に無欲して以て妙を観、(中略)、玄のまた玄、衆妙の門」という文をあらわした。
 上記の『易経』の漢字起源記事に登場する「遠くは物に取る」という文は、J図の左図に示すように沖ノ島と神津島のごとくに遠く離れる二地の地理論(方位規定)をあらわした。つまり、倉頡は沖ノ島と神津島のごとく遠く離れる地理においては、[]の「時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)って地理を考えたべきであると定めた。したがって、五帝時代初頭の黄帝が祭った鬼道につかえる卑弥呼王朝はJ図に示した日本列島転回地理を制定したことになる。
 だから、卑弥呼が統治した国は「倭人国」と名づけられることになったのである。ゆえに、『魏志』倭人伝の「日本列島の東方は南に伸びる」と表示する全15ヵ所の方位記事は、倉頡が立論した神聖な学芸意見を伝えるものであった。

[]における天頂緯度線となる銀河部位は、L図に示すように、東北から出でて西北に没する。この出没地点にG図・H図で示した黄帝の医学研究が加わって、倉頡は遠くの地理の方位規定は90度転回する、I図をもって解説した[]の理論をあらわす字を考案した。
 わがブログ「漢字習得定説のウソ・5」で詳細に解説したように、倉頡は黄帝の医学研究をあらわすためにM図のごとく「時計の針の逆回りに方位は90度転回して、〔南〕は〔東〕になる」と考える[]の字も作った。
K184
(C) 2018 OHKAWA
 
 しかし、前述したようにM図に示した[]の解釈は〔すべての子が、東の海から生まれる〕ことになって不合理である。ゆえに、倉頡はN図に示す[]の字を作った。
K185

   倉頡は「十字の銀河の子宮」を「出産祝いや子授(かざず)け祈祷(きとう)する時に用いる土器」に見立てた。この土器は「天頂に口部を向けて用いられた」ので、[(さい)]の字源となった。この「口部を天頂に向けて祝祷(しゅく)する土器の口(さい)が十字の銀河の頭部の〔北〕から時計の逆回りに90度転回して〔西〕となる方位規定」をあらわす[]の字を、倉頡は作成した。ゆえに、N図の右側の[]の金文形は「胎児が身をくねらせて産道を通過する様子をあらわして、巫女が身をくねらせて祝祷の土器の[(さい)]を右肩(西の肩)に上に挙げながら踊る姿」を図案するものであった。
 この[]の字源は、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話冒頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に記載された「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえおとこお)」という10字の夏音文字の秘密となった。
 [][]の転回方位規定は「文字作成銀河から作られたすべての文字は、十字の銀河を母体として生まれる」と定めた倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」に加えられたために、楷書が完成した6世紀の隋代まで失われなかった。これゆえ、紀元前1世紀に〔北〕が〔北〕となって〔東〕にも〔西〕にもならない北極星を最も重視したシナ天文学が完成したが、5世紀、6世紀にあっても中国では方位が90度転回する[][]の理論にもとづく国名や地理観が依然(いぜん)として根強く生き残ったのである。
 前述したように、中国では紀元前1世紀に北極星をもっとも尊重するシナ天文が完成した。このため、[]をキャッチする習慣が次第に衰退(すいたい)した。『魏志』倭人伝に登場する倭女王の卑弥呼が生存した3世紀の三国時代になると、[]のキャッチの習慣は廃(すた)れた中国の人々には大海を越えて日本列島に渡ることができなくなった。
 わが国では、[]をキャッチする習慣・呪術(じゅじゅつ)は遣唐使(けんとうし)の派遣(はけん)が中止された9世紀末から10世紀初頭まで栄えた。だから、中国では[]をキャッチする習慣が廃れた3世紀、『魏志』倭人伝は「倭の使節は魏の出張政庁(しゅっちょうせいちょう)がある朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)や魏の都に到着して帰還(きかん)することができた」と記述する。
 だから倉頡が考案した[][]の方位規定は、卑弥呼が生存した中国の三国時代(220年~280)においても失われずに残っていた。
 当時、中国の北方の国の名は「魏」、南方の国の名は「呉」であった。「魏」は[][]が加わる字であるゆえ「時計回りに90度方位が転回して、適量の降水量にめぐまれて穀物が豊かに実る国」、「呉」は「時計回りの逆方向に90度に方位が転回して、多数の子が生まれて栄える国」とあらわす国名であった。
 わがブログ「漢字習得定説のウソ・5」で指摘したように――中国の正史の一書に『後魏書(ごぎしょ)』または『魏書(ぎしょ)』と呼ばれる文献があり、この正史は全部で130巻からなる紀伝体(きでんたい)で、本伝と列伝は554年に、志の部分は559年に成立した。
 上田正昭・直木孝次郎・森浩一・松本清張編集委員『ゼミナール日本古代史 上』(光文社発行)における、直木孝次郎教授は「邪馬臺国の位置論」という論述にて「明治の学者の内藤湖南(ないとうこなん)は、中国の古書では方向をいうとき、東と南をかね、西と北とをかねるのはふつうであると、『後魏書』の勿吉(ぶつきつ)伝に東南を東北と記している」と指摘する。この『後魏書』勿吉伝の〔東〕は〔南〕・〔西〕は〔北〕をかねる方位規定は[]の字源をあらわし、〔東南〕を〔東北〕と記す方位規定は〔呉〕の字源をあらわす。
 紀元前1世紀に完成した北極星を最も重視するシナ天文が完成したならば、まぎらわしくも混乱する[禾]と[呉]の転回方位規定は不要となった。にもかかわらず、中国では6世紀、7世紀にあっても[][]の転回方位規定は依然(いぜん)として必要とされた。というのも、漢字の学芸においては倉頡が発明した漢字作成原理は永遠不滅の法則であり、全文字の字源の合理性はC図・D図・E図・F図・G図・H図、そしてA図・B図に示した[]の転回方位規定とM図・N図に示した[]の転回方位規定によって成立するものであった。だから、倉頡が考えた[禾]と[呉]の転回方位規定は必要不可欠で排除(はいじょ)することができなかったのである。

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