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2018年4月24日 (火)

漢字習得定説のウソ・8

 ●卑弥呼が立論した日本列島地理の真実・2

人類は原始の時から、A図右上に示す[(げん)](天頂緯度線と子午線)をキャッチする能力を鍛錬(たんれん)すると〔1度の60分の11分の精度で緯度が測定できる眼力と脳に本能がそなわっていた。この[]のキャッチのおかげで、人類は迷わずに遠くの地へ移住することも、大海原で迷って漂流することもなく緯度と経度を計測して渡ることができた。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 中国では紀元前1世紀に北極星をもっとも尊重するシナ天文が完成した。このため、[]をキャッチする習慣が次第に衰退(すいたい)した。『魏志』倭人伝に登場する倭女王の卑弥呼が生存した3世紀の三国時代になると、[]のキャッチの習慣は廃(すた)れた中国の人々には大海を越えて日本列島に渡ることができなくなった。
 わが国では、[]をキャッチする習慣・呪術(じゅじゅつ)は遣唐使(けんとうし)の派遣(はけん)が中止された9世紀末から10世紀初頭まで栄えた。だから、中国では[]をキャッチする習慣が廃(すた)れた3世紀、『魏志』倭人伝は「倭の使節は魏の出張政庁(しゅっちょうせいちょう)がある朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)や魏の都に到着して帰還(きかん)することができた」と記述する。

◆このブログ「漢字習得定説のウソ」は1回~4回まで、紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が漢字を発明して起源した事実を詳細に解説して証明した。
 黄帝は、東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。『内径』という書名は「女性の生殖器(せいしょくき)・子宮(しきゅう)と子宮で育つ胎児(たいじ)の研究・産道(さんどう)と胎児の出産(しゅっさん)の研究」を意味した。黄帝の医学研究は中国最初の事業であったので、それ以前の紀元前4000年頃~紀元前3000年頃までの三皇(さんこう)時代の易(えき)に用いられた記号では黄帝の研究成果をあらわすことができなかった。だから、倉頡は黄帝の医学研究をあらわす文字を発明することになった。
 「銀河」の別称は「銀漢」である。だから、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と呼ばれることになった。倉頡は、下の写真の銀河(銀漢)の範囲(はんい)の各部の形状から、漢字を作ると定めた。この「すべての漢字が作られた銀河の範囲」を、わたくしは「文字作成銀河」と名づけることにした。

Ginga
 ▲文字作成銀河の写真

 倉頡はみずからが考案した文字が最も強力な権力、莫大(ばくだい)な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易・簡単に滅亡すると心配した。ゆえに、倉頡は下に列記する3つの掟(おきて)を破った人物とその門戸(もんこ)には厳(きび)しい神罰(しんばつ)が下されて皆殺しとなり、その罪・責任は宗族(そうぞく)まで及ぶと定めた。
●倉頡が死刑と定めた3つの掟
(1)
 文字作成銀河の各部の形状から文字が作られた秘密を暴露(ばくろ)した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者

 紀元前3000年頃から始まる五帝時代の倉頡文字と、紀元前2070年頃から始まる夏代(かだい)の夏音(かおん)文字と、紀元前1600年頃~紀元前1300年頃までの殷代(いんだい)前半の原初漢字は、鬼神信仰とむすびついて上記した倉頡が死刑と定めた3つの掟を厳重(げんじゅう)にまもった。このため、原初漢字(倉頡文字・夏音文字・殷代前半の文字)が記された史料が中国においてもわが国においても未(いま)1点も発見されない。ゆえに、現在の学者たちは倉頡が漢字を発明したと説明する伝説は、荒唐無稽(こうとうむけい)の空想と思い込んだ。この学者たちの早合点(はやがってん)、思い違い、幻想によって「漢字が銀漢から作られた事実」を解明する学術の門が閉()ざされることになったのである。
 上記した倉頡が定めた(3)の掟は紀元前1300年頃から始まる殷代後半に出現した亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字によって破られた。しかし、甲骨文字は(1)(2)の掟については厳重に守った。だから、(1)の掟によって「漢字が文字作成銀河から作られた事実」は現在においても不明となり、また(2)の掟によって「文字作成銀河各部の名称」は存在しないことになり、この倉頡の(2)の掟は現在まで受け継がれている。
 上記した倉頡が死刑と定めた(2)の掟のために、「文字作成銀河各部の名称」は現在においても学問上確立されていないため、存在しない。
 しかし、わが国では紀元前2070年頃~紀元前2070年頃、中国の夏代(かだい)初頭=後期縄文時代初頭、倉頡が漢字を発明した状況を解明できる夏音文字が伝来して習得された。この夏音文字は『魏志』倭人伝の人名・小国名・官職名となって現存(げんぞん)する。だから、これから『魏志(ぎし)』倭人伝(わじんでん)に記述された歴史を解明するには、「文字作成銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、わたくしは下に示すように各部の名称を定めた。
Photo
 ▲文字作成銀河各部の名称図

◆〔歳差(さいさ)〕という天文現象を利用すると、紀元前3000年頃の五帝時代初頭において中国全土各地の天頂にめぐってきた銀河の様子を再現することができる。
 B図に示すように、北緯3536分の陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)にある黄帝陵(黄帝を祭る廟と墓)と北緯31度の太湖(たいこ)南岸の天頂に「十字の銀河」がめぐってきた。「十字の銀河」は中国各地において緯度を測量できる羅針盤(らしんばん)となった。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 というのも――前述したように、人類は原始以来、A図に示した[]となる天頂緯度線をキャッチする能力を有していたので、1度の60分の11分の精度で精密に緯度を測量することができた――この[]のキャッチをもって、五帝時代の人々は遠くの地に旅しても大海に入っても、天頂緯度線をキャッチして家族が待つ家に帰ることができた。だから、B図の「十字の銀河」は中国全土の天頂緯度を測量できる羅針盤となった。
 C図に示すように、「十字の銀河」には〔乳房・子宮・妊婦(にんぷ)のように円い腹部〕がある。ゆえに、倉頡は黄帝の医学研究をあらわすため、「十字の銀河」を「文字作成銀河各部の形状から作られたすべての文字が生まれる母体」と定め、また「十字の銀河の子宮」を「すべての文字が生まれる子宮」と定めた。
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(C) 2018 OHKAWA

 D図に示すように、出産の娩出期(べんしゅつき)終了時において頭が誕生する子の顔の正面は母体の背側に向く。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 E図に示すがごとく、倉頡はすべての漢字の母体となる「十字の銀河」に「頭が誕生する子(出産児)の顔の向き」をあてはめた。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 すると、「十字の銀河の背側に顔を向ける子」は〔東〕を向くことになり、中国の〔東〕は〔大海〕であるゆえ、「子どもは大海原(おおうなばら)に生まれて、陸地(中国全土)には生まれない」と事態となるゆえ、このままだと黄帝の研究と自らが発明した漢字作成原理との間に不合理・矛盾(むじゅん)が生ずることに、倉頡は気づいた。
 そこで倉頡は天下を掌握(しょうあく)した黄帝が徳(とく)をもって治める政事(まつりごと)と自らの「十字の銀河」を「すべての漢字を生む母体」とする漢字作成原理、この両者における相互の合理を求めて、F図に示すように、[()]の字を作って「〔南〕が〔西〕となる、時計回りに90度方位が転回する規定」を定め、また[]の字を作って「〔南〕が〔東〕となる逆時計回りに90度方位が転回する規定」を定めた。
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(C) 2018 OHKAWA

 G図の右下に[]の契文形(けいぶんけい)を示した。契文形は紀元前1300年頃・殷代(いんだい)後半から出現した亀の甲羅に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字の字形である。
 []は「いね()の形」をあらわす図案である。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 倉頡はE図に示した「子の生育(せいいく)」と「いねの生育」を同一視し、G図に示すように「十字の銀河」に「いねの図案」を重ねて「いねの穂が〔南〕から〔西〕の鬼の姿に似る銀河の口部に垂れるイメージ」を表現する[]の字を作った。つまり、[]は「天が恵みの雨を降らせて地上に豊かな穀物を与えるように、徳政(とくせい)すなわち恵み深い政事(まつりごと)をおこなう」と意味することになった。この「黄帝の徳政」について、司馬遷(しばせん)著『史記(しき)』五帝本紀(ごていほんぎ)は「土徳の瑞祥(ずいしょう)があったので、黄帝と号した」と記述する。
 なお、F図に示した「時計の針の逆方向の90度の転回方位」をあらわす[]は「子の生育」と「いねの生育」を同一視した考えにもとづいて「地上に多数の子が生まれる」とあわことになった。
 G図の下部に示すように、倉頡が作った[]の下に後世の人が[]の字を加えて[()]の字を作った。というのも、「いねの図案」と重なる「十字の銀河」は、C図に示したように「女体」に観えるからである。「十字の銀河」は「人の姿」にも相似するゆえ、人偏(にんべん)[]が加わる[()]の字も作られることになった。後世に作られた[][]は倉頡が作った原字(げんじ)[]の字源・字義を受け継いで、G図の上部に示したように「時計回りに90度転回して〔南〕が〔西〕となる方位規定」をあらわした。
 だから、『魏志』倭人伝にある全15ヵ所の方位記事は「時計回りに90度転回して〔南〕が〔西〕=〔東〕が〔南〕となる方位規定」をあらわす[]の字源を伝えることになった。
なお、「倭人」という国名は「黄帝がおこなった徳政に見習(みなら)って豊かな禾(穀物)に恵まれ、女性たちが多数の子を生み、人々が[]をキャッチする能力を養(やしな)って寿命を伸ばして幸せに生活できる」と意味することになった。

幾人かの学者たちは――『魏志』倭人伝の方位記事にもとづくと、日本列島の〔東〕は〔南〕へと伸びることになる――と指摘する。
 『魏志』倭人伝の方位記事は全部で15ヵ所あるが、この全15ヵ所の方位記事に1ヵ所の【文献批判(ぶんけんひはん)】つまり【誤読】を加えなければ、H図のごとく[]の字源に合致して「日本列島の〔東〕は〔南〕に90度方位が転回している」ことになる。
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(C) 2018 OHKAWA

 だから倭女王の卑弥呼(ひみこ)は、H図に示すように「日本列島は東ではなく南へ伸びる」と[]の字源をあらわす転回日本列島地理を制定して、国名を「倭人国」としたのである。(「倭人」の[]には[]の契文形や金文形が示すように「少々霧がかかった状態でも、“産道を通過する胎児のごとく常に無欲であれ”を心得として[]がキャッチできる呪力(じゅりょく)を養って寿命をのばす」と意味した)
 H図の左側に示す転回日本列島地理の緯度基点と沖ノ島は玄界灘に浮かぶ。この「玄界灘」という名は文字とおり「[]のキャッチによって往来できる陸地から遠く離れた波の荒い海」を意味した。
 紀元前1世紀にシナ天文が完成して中国で[]をキャッチする習慣が廃れた2世紀あるいは3世紀においても、倭国ではA図に示した[]をキャッチする眼力と技(わざ)を鍛錬(たんれん)する習慣が生活の中心となって栄えていたので、H図に示す日本列島の西端(にしはし)にある沖ノ島と東端(ひがしはし)にある神津島(こうづしま)が両緯度(北緯3415)であることが測量することができた。

I図に示すように、日本列島の西端の沖ノ島では冬に雪が降る。しかし、日本列島の東端の亜熱帯地区の神津島では冬になっても一年中暖かい。ゆえに、日本列島の地理と気候を合体させると〔西冷東暖(せいれいとうだん)〕となる。
K201
(C) 2018 OHKAWA
 
 中国の海岸線地域の北部の気候は冷たく、南部は暖かいので〔北冷南暖(ほくれいなんだん)〕となる。だから、中国海岸線地域の〔南〕と日本列島の〔東〕は共に暖かい気候で合致するゆえ、『魏志』倭人伝の方位記事が「日本列島の〔東〕は中国海岸線地域の〔南〕の方に伸びる」と示すように、卑弥呼王朝は錯覚の転回日本列島地理を制定して、国名は転回日本列島地理に合致させて「倭人国」としたのである。
 J図に〔西冷〕と沖ノ島と〔東暖〕の神津島が同緯度である状況を示した。
K202
(C) 2018 OHKAWA

 宗像市(むなかたし)に所在する沖ノ島には宗像三女神のうちの沖津宮(おきつみや)が鎮座(ちんざ)する。宗像市の大島に中津宮(なかつみや)が鎮座する。
 K図に示すように、宗像三女神のうちの湍津姫神(たぎつひめのかみ)を祭る中津宮が鎮座する大島と伊豆諸島の神津島の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)は、「十字の銀河の子宮の形」に相似する。しかも、宗像市・中津宮は北緯3354分、神津島の物忌奈命(ものいみなのみこと)神社は北緯3412分で、その緯度の差はわずか18分である。
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(C) 2018 OHKAWA

 だから、I図に示した沖ノ島と神津島の〔西冷南暖〕と中国海岸線地域の〔北冷南暖〕によって成立した、H図に示した転回日本列島地理は天地の鬼神(かみ)が示す真実であると絶対視されることになったのである。

◆I図に示した転回日本列島地理の基点となった神津島からは、太古から良質の黒曜石(こくようせき)が産出(さんしゅつ)した。黒曜石は火山活動によってできた“黒いガラス”とされ、上手(じょうじゅ)に刃()をつけて石斧(せきふ)や石槍(いしやり)や矢の先端の鏃(やじり)、皮はぎや肉切りの石包丁(いしほうちょう/石器)として利用された。良質な神津島の黒曜石は、関東地方(東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県、群馬県、栃木県、茨城県、山梨県)、東海西部(愛知県、静岡県)、近江(滋賀県)、北陸地方(石川県能登半島)まで分布していた。なんと神津島の黒曜石は約3万年前の後期旧石器時代から使用されていることが判明(はんめい)し、縄文時代、卑弥呼が生存した後期弥生時代の3世紀においても本土に運ばれて利用されていた。神津島から伊豆半島までは30kmも海で隔(へだ)たれ、神津島から石川県能登半島までは直線距離で約400kmも隔たる。約3万年前の旧石器人たちは、A図の右上の[](天頂緯度線と子午線)をキャッチすることができたから海を往来して神津島の黒曜石を手に入れることができたのである。
 この神津島の黒曜石を求めて海を往来した交通の事実について、学界は世界史上でも最古の海洋航海と注目するが、その実態は未(いま)だ謎(なぞ)のベールにつつまれて不明とする。人類には原始の時から、脳に[]で精密に緯度測定する本能がそなわり、鍛錬すれば1分の緯度差を測定できる神秘的な能力がそなわっていたのである。
 神津島の黒曜石の歴史は約3万年からはじまるものであったゆえ、卑弥呼が生存した当時、先祖代々から伝わって倭国中の多くの人々が沖ノ島と神津島が同緯度であることは知っていたのである。というのも、神津島の黒曜石が分布する近江と北陸地方と東海西部の愛知県は、H図に示したように倭国に属する小国であったからである。卑弥呼が倭国を統治(とうち)する以前の縄文時代からこれらの地域から神津島の緯度と黒曜石について伝えられていたにちがいなく、倭国の夏音文字の学芸を有する人々はもちろん国中の多くの人々は沖ノ島と神津島が同緯度であることは知っていたのである。
 だから、約3万年前から人々が[]をキャッチして海を往来し黒曜石を求めた神津島が転回日本列島地理の緯度基点となったがために――『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事が伝える・[]の字源に合致する・卑弥呼が立論した転回日本列島地理は、夏音文字の学芸を有する王・女王・氏族の長や巫女(みこ)や神官たちによって真理であると信じられることになったのである。このように、神津島は約3万年の歴史を有する[]の字源・字形・字義の秘密に伝える重大な地であったため、神津島と同緯度の沖ノ島が浮かぶ大海の名は「玄界灘」と[]の字が付いて現在まで失われなかったにちがいないのである。

◆『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約(せいやく)説話末部には「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の祖(おや/先祖)の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」と、遠江・静岡県西部の豪族の名が記される。
 わがブログ「真実の日本国誕生史」の8回・9回・16回で詳細に解説して証明したように――建比良鳥命とその一族は260年頃から30年後の290年頃に、L図に示す1千万坪の大鳥の地上絵を完成させた。この大鳥の地上絵を、わたくしは2014年以前では「建比良鳥の地宜(ちぎ)」と呼び、2014年以後は「卑弥呼の地上絵」と改名した。
 現在、卑弥呼の地上絵は静岡県浜松市北区の細江町(ほそえちょう)の行政区域を表示する地図の形として残る。
 山尾幸久(やまおゆきひさ)著『魏志倭人伝』(講談社発行)は「『三国志』の成立は、晋(しん)の武帝(ぶてい)の晩年である太康(たいこう)年間(280289)であった」と指摘する。『魏志』倭人伝は「『三国志』魏書東夷伝(ぎしょとういでん)末部にある、倭人条」の通称である。ゆえに、『魏志』倭人伝は280年~289年に著作されたことになる。
 上記したように、L図に示した卑弥呼の地上絵は260年~290年に作成された。したがって、卑弥呼の地上絵と『魏志』倭人伝は同時代に作成されたことになる。
K204
(C) 2018 OHKAWA

 L図の卑弥呼の地上絵の大鳥の頭は「夏至の日の出の方角」を向いて「わが国に夏音文字の学芸が伝来し習得されていた」と示している。
 L図のA地地点は、卑弥呼の地上絵をちょうど1千万坪に作成することができる経緯度原点である。経緯度原点のA地点は滝峯不動尊(たきみねふどうそん)という名の地点と同緯度(北緯3448)である。この二地の同緯度は、A図に示した[]をキャッチして測定(そくてい)された。西のA地点の真東にある滝峯不動尊と結ぶ緯度線は、春分の日の朝に地平線から出現する太陽を指差(ゆびさ)す。
 “字書の聖典”と尊重される2世紀初頭に成立した『説文解字(せつもんかいじ)』は、卑弥呼の地上絵を作った建比良鳥命の先頭の[]の字源を「朝律(ちょうりつ)を立つるなり」と解説する。「朝律を立つるなり」とは「西の経緯度原点地の真東の地点に[(ふで)]の字源となる〔垂直の柱〕を立てると、春分の日の朝、[]の柱の背後から太陽が昇る」と意味した。したがって、「A地点・滝峯不動尊の緯度線」は「朝律を立つなり」と解説される[]の字源を今日伝えていることになる。建比良鳥命という名にある「比良」は「平面的に図化された地図の形=地宜」である。ゆえに、L図の「卑弥呼の地上絵」が「比良」となる。また「大鳥の形をした卑弥呼の地宜(地上絵)」は[]をあらわす。したがって、卑弥呼の地上絵は「建・比良・鳥」とあらわすゆえ、L図の大鳥の地上絵には作成者の名が「建比良鳥命」と署名(しょめい/サイン)されていることになる。

◆M図の上図は、I図の〔北冷南暖〕の中国の海岸線で包まれる中国の国土地宜(地図)である。山東(さんとう)半島の海岸線は「鳥の頭の形」に相似し、「山東半島の付け根から南と北へ伸びる海岸線」は「鳥の翼の形」に観える。ゆえに、中国国土地図の形は遠江の豪族「建比良鳥」という名に配する「鳥」の形となる。
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 L図に示した卑弥呼の地上絵における東と南の境界線は「鳥の頭と両翼の形」となる。
 M図の下図は、L図の〔鳥の頭がある南〕を〔東〕に向くようにした卑弥呼の地上絵に、鳥の形をした山東半島の地宜(地図の形)を重ねる図にした。卑弥呼の地上絵の鳥の頭は〔北〕を向き、山東半島の鳥の頭は〔東〕を向く。ゆえに、「北が東となる方位規定」は[]([][])の字源を示し、「東が北となる方位規定」は[]の字源を示すことになる。
 その全15ヵ所の方位記事が「卑弥呼王朝は[]の字源に合致する転回日本列島地理を制定した」と伝える『魏志』倭人伝と同時代に作成された卑弥呼の地上絵の東と南の境界線は、M図に示したように中国の海岸線の形に設計された。
 
 ゆえに、I図で証明したように中国の海岸線地域の〔北冷南暖〕と日本列島の〔西冷東暖〕が合理になるように、卑弥呼は「日本列島の東は中国の海岸線地域の南へと伸びると立論した」と、卑弥呼の地上絵によっても証明される。
 
 つまり、卑弥呼の地上絵は『魏志』倭人伝の全記事は事実を伝えることが【科学】が成立して証明できる重大な遺跡である。
 
 また卑弥呼の地上絵は、紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の夏代初頭(後期縄文時代初頭)にわが国に夏音文字が伝来し習得された――この事実も明らかになる遺跡である。
 「卑弥呼」の3字を「ひみこ」と読むのは「夏音文字の字音」であることが、言語学・音韻学(おんいんがく)の成果によって証明することができる。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)9頁の末部から10頁初頭で「わが国の漢字音」と題して「わが国には中国の最古の漢字音である上古音よりも古い、いま残されているもののなかで最も古い時期の漢字音が残っていることが明らかになった」と、下記のごとく指摘する。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊(こと)にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展(しんてん)をみせている。そしてその結果(けっか)、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 現存する中国の最古の漢字音は「上古音」と呼ばれ、この上古音において紀元前1046年から始まる周代の漢字音が最も古い。中国の上古音で「卑弥呼」の3字を読むと「ぴみか」となる。言語学・音韻学によって「ひみこ」という漢字音は「ぴみか」より古い漢字音であると証明されている。だから、L図の卑弥呼の地上絵における「夏至の日の出の方向を向く大鳥の頭」は「わが国は夏代初頭に、夏音文字を習得した」と表示するものとなる。

◆わがブログ「真実の日本国誕生史」の10回・11回と35回~40回をもって詳細に解説して証明したように、太安万侶(おおのやすまろ)が記述した『古事記』上巻の「序」冒頭の「臣(しん)安万侶言(もう)す」から「参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作(なす)」までの文は「夏代初頭(後期縄文時代初頭)、わが国に夏音文字が伝来して習得された」と語っていることになる。
 したがって、『魏志』倭人伝の人名・小国名(H図参照)・官職名には、中国の最古の上古音よりも約1000年も古い紀元前2070年頃~紀元前2050年頃にわが国が習得した、現在残っている最古の漢字音を伝える夏音文字が用いられていることが事実となる。
 ところが、日本の考古学研究をリードしてきた学者の故・森浩一(もりこういち)教授はわが国が漢字を最初に習得したのは5世紀か6世紀であると断定する定説にもとづき、仁徳天皇が生存した古墳時代には漢風(かんぷう)の諡号(しごう)が存在せず奈良時代に漢風の諡号は作られたと思い込んで、「仁徳天皇陵」を古墳が所在する地名を適用して「大山(だいせん)古墳」と改名する、ウソ八百説を定着させた。この森教授のデタラメ説は、今や教科書に記載されて子どもたちにウソを真実だと思い込むように洗脳(せんのう)している。
 『古事記』上巻の「序」を要約すると「『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付く夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、『古事記』上巻に記述された歴史は鮮烈(せんれつ)・明白に蘇(よみがえ)る。したがって、『古事記』上巻は夏音文字はじめ楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、真実の歴史が解明できる仕組みとなる史書である」と後世に警告(けいこく)していることになる。
 『古事記』上巻の「序」が警告する歴史解明方法にしたがって、『古事記』上巻の伊耶那岐命(いざなきのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)神話に随所に記載される夏音文字はじめ楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河の各部の形状に変換すると、伊耶那岐命は『古事記』中巻に「春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して、天下を治めた」と記述される第9代開化(かいか)天皇であったことが証明される。この「開化」という天皇名は「伊耶那美命の没後、伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継いだ」と伝える、つまり「開化」という2字は字源・原義(げんぎ)を伝えて「[]すなわち母体の子宮口がすっかり開いて、[]すなわち多数の子どもたちが産道を無事に通過して出産する」とあらわしていることが明らかとなる。また、伊耶那岐命・開化天皇は230年頃に18歳であり、おそらく255年~260年より少し前に死去したことも証明される。
 したがって、3世紀に生存した天皇の「開化」という名は正しい字源を伝える漢風諡号であることになる。だから、森浩一説は【誤読】を立論基盤として捏造(ねつぞう)した虚偽(きょぎ)説であったことになるゆえ、早速、教科書は「大山古墳」を「仁徳天皇陵」と書き換えなければならないことになる。

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