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2018年5月 6日 (日)

漢字習得定説のウソ・10

●『魏志』倭人伝の小国位置の証明・2

■「馬」の字がつく小国位置の証明

 

このブログ「漢字習得定説のウソ」は前回まで、紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が漢字を発明した事実を詳細に解説して証明してきた。黄帝は、東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。『内径』という書名は「女性の生殖器(せいしょくき)・子宮(しきゅう)と子宮で育つ胎児(たいじ)の研究・産道(さんどう)と胎児の出産(しゅっさん)の研究」を意味した。黄帝の医学研究は中国最初の事業であったので、それ以前の紀元前4000年頃~紀元前3000年頃までの三皇(さんこう)時代の易(えき)に用いられた記号では黄帝の研究成果をあらわすことができなかった。だから、倉頡は黄帝の医学研究をあらわす文字を発明することになった。
 「銀河」の別称は「銀漢」である。したがって「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と呼ばれることになった。倉頡は、下の写真の銀河(銀漢)の範囲(はんい)の各部の形状から、漢字を作ると定めた。この「すべての漢字が作られた銀河の範囲」を、わたくしは「文字作成銀河」と名づけることにした。

Ginga
 ▲文字作成銀河の写真

 倉頡はみずからが考案した文字が最も強力な権力、莫大(ばくだい)な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易・簡単に滅亡すると心配した。ゆえに、倉頡は下に列記する3つの掟(おきて)を破った人物とその門戸(もんこ)には厳(きび)しい神罰(しんばつ)が下されて皆殺しとなり、その罪・責任は宗族(そうぞく)まで及ぶと定めた。
●倉頡が死刑と定めた3つの掟
(1)
 文字作成銀河の各部の形状から文字が作られた秘密を暴露(ばくろ)した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者

 紀元前3000年頃から始まる五帝時代の倉頡が考案した「書契(しょけい)」と呼ばれた文字と、紀元前2070年頃から始まる夏代(かだい)の夏音(かおん)文字と、紀元前1600年頃~紀元前1300年頃までの殷代(いんだい)前半の原初漢字は、鬼神(きじん)信仰とむすびついて上記した倉頡が死刑と定めた3つの掟を厳重(げんじゅう)にまもった。このため、原初漢字(倉頡文字・夏音文字・殷代前半の文字)が記された史料が中国においてもわが国においても未(いま)1点も発見されない。ゆえに、現在の学者たちは倉頡が漢字を発明したと説明する伝説は、荒唐無稽(こうとうむけい)な空想と思い込んだ。この学者たちの早合点(はやがってん)と、さらに『魏志』倭人伝と『古事記』上巻が「わが国は倉頡の漢字の発明を保存する夏音文字を習得した」と伝える記事を誤読して立論した虚偽説によって「漢字が銀漢から作られた事実」を解明する学術研究の門が閉()ざされることになった。
 上記した倉頡が定めた(3)の掟は紀元前1300年頃から始まる殷代後半に出現した亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字によって破られた。しかし、甲骨文字は(1)(2)の掟については厳重に守った。だから、(1)の掟によって「漢字が文字作成銀河から作られた事実」は現在においても不明となり、また(2)の掟によって「文字作成銀河各部の名称」は存在しないことになり、この倉頡の(2)の掟は現在まで受け継がれている。
 前述したように、わが国では紀元前2070年頃~紀元前2070年頃、中国の夏代初頭=後期縄文時代初頭に夏音文字が伝来して習得された。この夏音文字は『魏志(ぎし)』倭人伝(わじんでん)の人名・小国名・官職名となって現存する。だから、これから『魏志』倭人伝に記述された小国名の秘密を解明するには、「文字作成銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、わたくしは下に示すように各部の名称を定めた。
Photo
 ▲文字作成銀河各部の名称図

◆前述したように、倉頡が考案した五帝時代の書契とわが国に伝来した夏代の夏音文字と殷代前半期までの原初漢字は倉頡が定めた3つの掟をまもったため、文字を書いた資料が1点も出土しないゆえ、学者たちが「倉頡が漢字を発明した」という伝説を荒唐無稽(こうとうむけい)の空想と決めつけたが原因で、倉頡が漢字を発明したと証明できる学術研究の道は閉()ざされた。
 しかし、倉頡が生存した約3300年後、晋(しん)の歴史編纂官(れきしへんさんかん)の陳寿(ちんじゅ)が著作した『三国志』魏書(ぎしょ)東夷伝(とういでん)末部の倭人伝、つまり『魏志(ぎし)』倭人伝は倉頡が漢字を発明した事実を証明できる貴重な史料であった。
 つまり、『魏志』倭人伝は倉頡が発明した漢字作成原理がコンパクトに記述された貴重な史料であった。というのも、前述したように倉頡が死去してから約950年後の紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の夏代初頭、わが国に夏音文字の学芸が伝来して習得され、そして卑弥呼王朝は夏音文字の学芸を政権基盤としたからである。

『魏志』倭人伝には「わが国は、夏音文字を習得していた」と伝える記事が2ヵ所ある。
 この最初の記事は「倭の卜占(うらない)に用いる辞(/文字とことば)は〔令亀(れいき)〕つまり〔亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨文字の法(辞理/じり)のごとし」と伝えて、「わが国は夏音文字を習得していた」と伝えている。
 もう一つの記事を要約すると「魏の都や朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国(しょかんこく)が用いる楷書(かいしょ)と卑弥呼が文書に用いる文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)しているので、倭の小国の伊都(いと)国の港では点検し、確認し、魏と朝鮮半島で用いる楷書と卑弥呼が用いる文字を正しく変換していた」と伝える。
 したがって、この二つの記事は――魏と朝鮮半島で用いられる楷書と卑弥呼が用いる夏音文字は共に文字作成銀河の各部の形状を字源・字形・字義として、さらに楷書も夏音文字はともに倉頡が発明した「鳥獣の足跡」という名の漢字作成原理にもとづいて作られた文字であったゆえ、伊都国の港では文字作成銀河を観察して楷書と夏音文字を考えて正しく変換していた――と証言するものであった。
 このような夏音文字の二つの記事が示すように、2世紀末に出現(しゅつげん)した卑弥呼(ひみこ)王朝は、黄帝の政治に復興し、倉頡が発明した漢字作成原理を保存する夏音文字の学芸を政権基盤にして、わが国のおける最初の国家体制を起源させた。そして、卑弥呼王朝は倉頡が発明した漢字作成原理にもとづいて小国名を定めたため――『魏志』倭人伝は倉頡が発明した漢字作成原理をコンパクトに表示する貴重な史料となったのである。
 2世紀初頭に成立した『説文解字(せつもんかいじ)』は倉頡の発明にもとづいて文字作成銀河各部の形状を観察して字源・字形・字義を解説した。ゆえに、古代の人々は『説文解字』を“字書の聖典(せいてん)”と称賛して尊重した。『説文解字』の序には「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人(こうじん)に垂()れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識()るなり」という文がある。この文を訳すると「考えるに、文字は学問と芸術の根本であり、(文字作成銀河各部の形状から作られた文字)は“い”の一番・真っ先に王道政治の政権基盤として必要であり、後世の人が歴史を正しく知る方法である」となる。
 2世紀において、『説文解字』の序が「文字は王政の始め」つまり「倉頡が銀河から作った文字は王政の政権基盤として真っ先に必要である」と指摘(してき)しているように、当時の中国では倉頡が発明した漢字作成原理を政権基盤とした。同様に『魏志』倭人伝が180年頃に生存したと記述する倭女王・卑弥呼もまた夏音文字の学芸で保存されていた倉頡が発明した漢字作成原理を政権基盤と定めたのである。(なお、『魏志』倭人伝は240年には卑弥呼はすでに死去していたと記述するゆえ、おそらく初代・二代という二人の卑弥呼が存在したため、卑弥呼は180年頃~235年頃まで生存したかのごとくになったと考えられる。)

人類は原始の時から、A図右上に示す[(げん)]=天頂(てんちょう)緯度線と子午線をキャッチする能力を研(みが)くと〔1度の60分の11分の精度で緯度〕が測定(そくてい)できる眼力と本能が脳にそなわっていた。この[]のキャッチのおかげで、人類は苛酷(かこく)な原始の時代に滅亡せず、獲物(えもの)を追って移住生活をつづけても「迷った」とパニック状態におちいることがなくしっかりと位置(位置と方位)は認識していると自覚して生活し、大海で迷って漂流することもなく緯度と経度を計測して渡ることができた。
K131
(C) 2018 OHKAWA
 
 だから、紀元前3000年頃、黄帝の遠征軍は原始以来の慣習となる[]をキャッチして黄河(こうが)中流地域からはるかに遠い揚子江(ようすこう)・太湖(たいこ)まで遠征しても故郷に帰還することができた。
 〔歳差(さいさ)〕という天文現象を用いると、紀元前3000年頃の五帝時代初頭、上掲した文字作成銀河各部の名称図の左上にある「十字の銀河」が中国全土各地の天頂にめぐってきたことが明らかとなる。B図に示すように、北緯3536分の陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)にある黄帝陵(黄帝を祭る廟と墓)と北緯31度の太湖南岸の天頂に「十字の銀河」がめぐってきた。
K132
(C) 2018 OHKAWA
 
 C図に示すように、「十字の銀河」には〔乳房・子宮・妊婦(にんぷ)のような円い腹部〕がある。ゆえに、倉頡は黄帝の医学研究をあらわすため、「十字の銀河」を「文字作成銀河各部の形状から作られたすべての文字が生まれる母体(ぼたい)」と定め、また「十字の銀河の子宮(しきゅう)」を「すべての文字が生まれる子宮」と定めた。これゆえ、B図の銀河と緯度の状況と、C図で説明した「十字の銀河を文字作成銀河各部の形状から作られた文字が生まれる母体」という定理が、倉頡が発明した漢字作成原理となった。
K23
(C) 2018 OHKAWA
 
 
D図に示すように、出産の娩出期(べんしゅつき)終了時において頭が誕生する子の顔の正面は母体の背側に向く。
K191
(C) 2018 OHKAWA
 
 E図に示すがごとく、倉頡はすべての漢字の母体となる「十字の銀河」に「頭が誕生する子(出産児)の顔の向き」をあてはめた。
K192
(C) 2018 OHKAWA
 
 すると、「十字の銀河の背側に顔を向ける子」は〔東〕を向くことになり、中国の〔東〕は〔大海〕であるゆえ、「子どもは大海原(おおうなばら)に生まれて、陸地(中国全土)には生まれない」という状態となるゆえ、このままだと黄帝の研究と自らが発明した漢字作成原理との間に不合理・矛盾(むじゅん)が生ずることに、倉頡は気づいた。
 そこで倉頡は黄帝が徳(とく)をもって治める政事(まつりごと)をイメージし、このイメージと自らの「十字の銀河」を「すべての漢字を生む母体」とする漢字作成原理、この両者における相互の合理を求めて、F図に示すように、[()]の字を作って「〔南〕が〔西〕となる、時計回りに90度方位が転回する規定」を定め、また[]の字を作って「〔南〕が〔東〕となる逆時計回りに90度方位が転回する規定」を定めた。
K193
(C) 2018 OHKAWA
 
 G図の右下に[]の契文形(けいぶんけい)を示した。契文形は紀元前1300年頃・殷代(いんだい)後半から出現した亀の甲羅に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字の字形である。
 []の契文形は「いね()の形」をあらわす図案である。
K194
(C) 2018 OHKAWA

 倉頡はE図に示した「子の生育(せいいく)」と「いねの生育」を同一視し、G図に示すように「十字の銀河」に「いねの図案」を重ねて「いねの穂が〔南〕から〔西〕の鬼の姿に似る銀河の口部に垂れるイメージ」を表現する[]の字を作った。つまり、[]は「天が恵みの雨を降らせて地上に豊かな穀物を与えるように、徳政(とくせい)すなわち恵み深い政事(まつりごと)をおこなう」と意味することになった。
 なお、F図に示した「時計の針の逆方向の90度の転回方位」をあらわす[]は「子の生育」と「いねの生育」を同一視した考えにもとづいて「地上に多数の子が生まれる」とあらわすことになった。
 G図の下部に示すように、倉頡が作った[]の下に後世の人が[]の字を加えて[()]の字を作った。というのも、「いねの図案」と重なる「十字の銀河」は、C図に示したように「女体」に観えるからである。「十字の銀河」は「人の姿」にも相似するゆえ、人偏(にんべん)[]が加わる[()]の字も作られることになった。後世に作られた[][]は倉頡が作った原字(げんじ)[]の字源・字義を受け継いで、G図の上部に示したように「時計回りに90度転回して〔南〕が〔西〕となる方位規定」をあらわした。
 だから『魏志』倭人伝には――実際には日本列島は〔東〕へ伸びるが、[]の字源のとおり倭国の〔東方〕は〔南〕へと伸びる―ー記述された。つまり、『魏志』倭人伝にある全15ヵ所の方位記事は――倉頡が作った[]の字源「時計回りに90度転回して〔南〕が〔西〕=〔東〕が〔南〕となる方位規定」の伝統を受け継ぐ――[]の字源をあらわした。したがって卑弥呼王朝は、H図に示す転回日本列島地理を制定し、卑弥呼が統治(する)国名をG図の転回方位規定を示す[][]の字が加わる「倭人国」と定めたとことになる。
K195
(C) 2018 OHKAWA
 
 この「倭人」という国名は「豊かな禾(穀物)に恵まれ、女性たちが多数の子を生み、人々が[]をキャッチする能力を養(やしな)って寿命を伸ばして幸せに生活する」と意味した。
 卑弥呼は天下を治める政権基盤の威厳(いげん)を示すために、倉頡が発明した漢字作成原理にもとづいて小国の名称を定めた。ゆえに、前回のわがブログ「漢字習得定説のウソ・9」で証明したように――『魏志』倭人伝に記述された対馬(つしま)国・一大(いちだい)国・末盧(まつろ)国・伊都(いと)国・奴()国という5ヵ国の小国名は倉頡が発明した漢字作成原理を表示することになった。また、一大国・伊都国・奴国の3ヶ国の名は夏音文字「伊都久(いつく)」と楷書[]は同義であると示し、倉頡が作った[]の伝統を受け継ぐ[]の字源の秘密「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
 学者たちは『魏志』倭人伝は不完全な文献であると思い込み、その全記事が正しい事実を伝えるなんて信じない。ゆえに、学者たちは全記事に1点の【誤読(文献批判)】を加えず、忠実に読解(どっかい)しようとしない。このため、G図にて証明したように[]の字源が「時計回りに90度転回する方位規定」の秘密を有することを知らず、『魏志』倭人伝にある15ヵ所の方位記事に何ヵ所か【誤読(文献批判)】を加える空論を主張しつづける。しかし、『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事に1ヵ所も【誤読(文献批判)】を加えなければ、卑弥呼王朝はH図に示した[]の字源の秘密をあらわす「日本列島の東方は南へ伸びる、転回日本列島地理」を制定した事実が【科学】が成立して証明される。

◆H図に示した倭人国における33ヶ国の小国名の字は、その各国の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)の特徴(とくちょう)をあらわす。2世紀末~3世紀半ばに地図を作製できたということは信じがたいと思うかもしれないが――A図に示した[]のキャッチによって1分の精度で緯度が精確に測定できたので、当時、平面的に図化した地図を作製成することができたのである。だだし、この地図は卑弥呼王朝が独占管理して国家によって厳重に機密保持(きみつほじ)されていたゆえ、現在まで発見されないことになった。
 中国の五経(ごきょう)の第一に挙げられる『易経(えききょう)』の繋辞下伝(けいじげでん)は漢字の起源について「仰(あお)いでは天象(てんぞう)を観()、俯()しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観る。(中略)。もって神明の徳に通じ、もって万物の情(じょう/イメージ)に類(るい)して文字を作った」と伝える。この漢字起源記事は、五帝時代初頭の黄帝時代からA図に示した[]のキャッチによる、王朝が独占管理して厳重な機密とした地図の作製が始まっていたと伝えていることになる。
 上記の文中の「天象」とは「文字作成銀河」であり、「地法」は「銀河各部が東から西へ移動するのに対し、中国国土の地宜(地図の形)は西から東へ移動するオス鹿や鳥の姿のように観え、また中国の大河(たいが)の黄河(こうが)や長江(ちょうこう)の水も西から東へと移動する(流れる)形状」をあらわした。次の「鳥獣の文」は倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」の別称であり、「地宜」は前述したように「平面的に図化した地図の形」を意味した。
 『魏志』倭人伝にて説明される倭の小国において「対馬国」を1番国と数えると、5番目の小国は奴()国、次の6番目の小国は「不弥(ふみ)国」、次の7番目は「投馬(つま)国」、次の8番目は「倭女王卑弥呼が居住した邪馬壱(やまい)国」、さらに次の9番目の小国が「斯馬(しま)国」であったと説明する。また、24番目の小国は「邪馬(やま)国」である――と、説明する。このように、倭国には名に[]の字がつく小国は、卑弥呼が居住した王国「邪馬壱国」を含めて5ヶ国存在した。
 学者たちは【誤読(文献批判)】を用いて卑弥呼が居住した王国の名は「邪馬台国」であったと主張するが、『魏志』倭人伝は「邪馬壱国」と表記する。古代史研究家の故・古田武彦(ふるたたけひこ)氏は、著書『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社発行)で、『三国志』全体に記される「壹()86個と「臺()56個の文字を逐一(ちくいち)調べ、「壹()」を「臺()」と誤記(ごき)した事例が存在しないことを証明した。だから、卑弥呼が居住した王国の名は『魏志』倭人伝に記載されたとおり「邪馬壹()国」であった。
 前回のブログ「漢字習得定説のウソ・9」で解説し証明したように、『魏志』倭人伝は「末盧国の東南陸行五百里歩くと伊都国に至る。伊都国から東南百里歩くと奴国に至る。奴国から東へ百里歩くと不弥国に至る」と説明する。このように説明する各小国の旅程基点は――I図に示すように、末盧国は現在の長崎県松浦市、伊都国は福岡県糸島市の前原(まえばる)、奴国は福岡市の香椎宮(かしいみや)であったことを、前回のブログ「漢字習得定説のウソ・9」で解説し証明した。ただし、I図における方位は、H図で示した現在方位の〔西〕が〔北〕となる[倭]の字源の転回方位である。
 そうすると、I図の転回方位にもとづくと、奴国の香椎宮から東百里は宗像(むなかた)大社の辺津宮(へつみや)の所在地点となる。
K241
(C) 2018 OHKAWA
 
 したがって、J図に示す福岡県福津市の津屋崎(つやざき)海岸線と宗像市平野部の地宜から小国名が「不弥国」となったことになる。
K242

(C) 2018 OHKAWA 

◆『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約(うけい)説話の末部には「宗像の奥津宮(おくつみや/現在の沖津宮)・中津宮・辺津宮の三柱の神は、宗像君(宗像王)たちが伊都久(いつく/つつしんで奉仕する)三前(みまえ)の大神なり」という記事がある。前回のブログ「漢字習得定説のウソ・9」で解説したように「伊都久」は夏音文字であり、楷書だと1字で[斎]となる。この「伊都久」と[斎]の同義は[倭]とも同義となって「転回方位規定」をあらわした。
K243
(C) 2018 OHKAWA

 したがって、「宗像王たちが伊都久三前の大神なり」という意味は、K図に示す転回方位にもとづく不弥国(津屋崎海岸線と宗像市平野部)の地宜についての説明であったことになる。
K244

(C) 2018 OHKAWA
 
 L図に示すように、不弥国の地宜は長崎県の壱岐・一大国に向かって飛翔(ひしょう)する鳥のように観える。『説文解字』は[]の字源を「鳥飛んで上翔(じょうしょう)し、下り来()らざるなり。一に従う。一はなお天のごときなり」と解説する。
 前回のブログ「漢字習得定説のウソ・9」で解説したように――『説文解字』は[]の字源を「至高にして上なし。一大に従う」と解説し、A図に示した[]の「至高つまり最も高い天体部の天頂緯度線」を[]の字源とし、B図に示した「中国各地の[]の字源となる天頂緯度線が貫通(かんつう)する羅針盤(らしんばん)」となる「十字の銀河」が[]の字源となると説明していたことになる。そして「十字の銀河の子宮」は[]の字源であり、女性の子宮が大きくなると子どもが出産すことになるので「一大に従う」と解説したのである。
 したがって、『説文解字』は[]の字源解説では「十字の銀河の子宮」を「一に従う」と指摘し、「十字の銀河の子宮」を「一はなお天のごときなり」と解説したのである。
 だから、L図の不弥国の地宜は「天のごとき十字の銀河の子宮」に見立てられた壱岐・一大国へ向かって飛び去る、つまり[]の字源「鳥飛んで上翔し、下り来らざりなり。一に従う。一はなお天のごときなり」を示す鳥の姿に見立てられたことになる。
 『易経』繋辞上伝(けいじじょうでん)にも「易は天地に準(なぞら)う。ゆえに能()く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察(さっ)す」と記述する漢字起源記事がある。
 高田真治・後藤基巳(もとみ)著『易経()(岩波書店発行)は、上記文中にある「弥綸」という語は「つくろいおさめる、洩()れなく包(つつ)みこむ」と意味すると指摘する。
 M図に示すように、中国の海岸線は鳥の姿に相似し、長江口(ちょうこうこう)から杭州湾(こうしゅうわん)南岸までは翼が裂()けて綻(ほころ)ぶかのごとくになるが杭州湾南岸からは円くカーブを描いてつくろいおさまって、中国全土を洩れなくつつみこむゆえ「弥綸す」と表現された。ゆえに、[]の字源は「鳥の頭に観える山東半島と、その付け根から南北へと伸びる翼のように見える海岸線」である。この[]の字源となる「中国海岸線」の形は東の大海に向かって[]の字源「鳥飛んで上翔し、下り来らざるなり」のごとくに観える。そして、[]の字源となる「中国海岸線」はL図の下側の「不弥国の津屋崎海岸線」の形に相似する。
K245
(C) 2018 OHKAWA

 []の正字は[][]の旁(つくり)部の[()]は「水鳥のカンムリカイツブリの首から腹部の体下面の絹のような美しく輝く銀白色」をあらわした。ゆえに、[]の字義は水鳥の「カンムリカイツブリ」である。カンムリカイツブリにはオスとメスが求愛ダンスをおこなう習性があり、[()]という字は「求愛ダンスする時にカンムリカイツブリのオスとメスが向かいあって互いに水面を進んで近づく様子」をあらわすものであった。

N図に示すように、上掲した「文字作成銀河各部の名称図」の左上にある「オス鹿の横顔に似る銀河」は[]の字源となった。
K251

(C) 2018 OHKAWA
 
 O図の右図に示すように「廟島列島(びょうとうれっとう)」を「鹿の角(つの)」に見立てると、「山東(さんとう)半島」は「鹿の横顔」に観える。これゆえ、N図の中国の天頂にめぐってきた[]の字源銀河とO図の[]の字源地宜にもとづき、上記したように『易経』繋辞上伝は「易は天地と準う。ゆえに能く天地の道を弥綸す」と表現したのである。
K252
(C) 2018 OHKAWA

 A図に示した[]のキャッチによって中国海岸線の地図を作製できたゆえ、『易経』繋辞上伝は「仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す(つまり、明らかとなった)」と表現したのである。[]は「遠くの地へ旅しても、あるいは大海を渡っても、家族が待つ家へ帰還できる術」であり、この術では「観測地点からの[]のキャッチによる天頂緯度(A図の右上参照)と観測地点の緯度は同じ数値」と定義されるものであったゆえ「易は天地と準う」と表現されたのである。
 O図の左側に[]の正字[]を配した。[]の旁部は[鹿][][]の合体形であり、M図の「中国海岸線」は「鹿」と「鳥」と「鹿と鳥が大海へと去る形」に観える。[]の偏の三水(さんずい)は「西から東へ水が去る(流れる)黄河と長江」をあらわす。ゆえに、上記したように、『易経』繋辞下伝の漢字起源記事の文中には「俯しては地法を観る」という語句が挿入(そうにゅう)されたのである。

◆『魏志』倭人伝は「不弥国から南へ水行二十日で投馬(つま)国に至る」と説明する。そうすると、P図の宗像市の港から宗像大社の沖津宮が祭られる沖ノ島を経由して、逆転方位で沖ノ島の〔南〕となる山口県の萩港(はぎこう)が投馬国の旅程基点であったと考えられる。
 ただし「水行二十日という距離」は、現代だと「航海で十日の距離」ということになる。というのも、『魏志』倭人伝には「倭では一日を二日(日中を一日・夜を一日)と数えていた」と説明する、二倍暦(にばいれき)の注が存在するからである。
K253
(C) 2018 OHKAWA
 
 Q図に示すように、「山陰地方の地宜」は「石などを投げる手のような形」をしており、「山口県北部の地宜」は[]の字源「フタコブラクダの二つのコブのような形」となる。だから、「山口県」が小国「投馬国」であったことになる。
K254
(C) 2018 OHKAWA
 
 前回のブログ「漢字習得定説のウソ・9」では、R図に示すように、対馬国の上島は「フタコブラクダのオスの正面形」、下島は「フタコブラクダのメスの背のコブ」に見立てて、「対馬国」の[]の字源は「フタコブラクダ」であることを証明した。
K255
(C) 2018 OHKAWA
 
 Q図に示した「山口県の地宜」は「フタコブラクダの横顔」のごとくに観える。しかし、むしろ「巣の中で冬ごもりするときの熊(クマ)の姿」により相似するように思える。ゆえに「投馬」は「フタコブラクダの横顔」ではなく「投げる腕力が強力な熊(クマ)」を意味したと考えられる。
 []の初文(しょぶん/初めの文字)はQ図左上の[(のう)]である。わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、[]の字源を「「水中の昆虫の形に象(かたど)る」と解説する。「昆虫・ゲンジボタルの土の中の蛹(さなぎ)の姿」は「熊の姿」に相似する。『説文解字』は[]の字源を「熊の属(ぞく)なり。足は鹿に似たり」と解説し、「足は鹿に似たり」という解説は「鹿の足に似るウマ」を意味するのか? アイマイである。これゆえ、楷書の初文の[]は「ゲンジボタル・熊(クマ)・鹿の足に似る動物(ウマ?)」を指して意味が定かではないため、夏音文字では「クマ」を「投馬」と記したと思えてならない。
 Q図に示したように、倭女王卑弥呼が居住した邪馬壱国は旧国の石見(いわみ)・出雲(いずも)・伯耆(ほうき)にして、現在の島根県・鳥取県西部の広い範囲であったことになる。

◆『魏志』倭人伝は「投馬国から南へ、水行十日(現代の航行で五日の行程)陸行一月(現代では歩いて半月の行程)すると、女王が倭国の首都(みやこ)とした邪馬壱国に至る」と説明する。
 したがって、荻港から日本海に浮かぶ萩市の見島(みしま)を経由して、この見島の転回方位で南にある島根県の県庁著在地の松江市が邪馬壱国の旅程基点であったと考えられる。
 S図に、2世紀末~3世紀半ばの卑弥呼が生存した当時の古代出雲の地宜を示した。
K261

(C) 2018 OHKAWA

 S図の上部の「神門水海(かんどのみずうみ)」という湖は、T図の左図に示したように「経度軸と緯度軸に対して邪(なな)めになって、馬(フタコブラクダ)の姿に相似する地宜」であった。したがって、「神門水海」は[][]の字をあらわす地宜であった。
 T図の右図が示すように、当時の「宍道湖(しんじこ)の地宜」は転回方位の地図では「人の右足の形」に相似していた。そして、当時の人の足の形をしている宍道湖の南岸の、その爪先(つまさき)は西へ向いていた。C図に示したように、「十字の銀河の西側の右足」は「十字の銀河の子宮」と重なる。上記したように『説文解字』の[]の「一に従う。一はなお天のごときなり」という字源解説文の[]の字源は、「十字の銀河の子宮」であった。ゆえに、T図の右図に示したように「宍道湖の南方(現在方位の東方)」は[]の字源「十字の銀河の子宮」が所在する位置に相当する。したがって、[]の字義は[]であるゆえ、「宍道湖の南部」が[]をあらわすことになった。
K262
(C) 2018 OHKAWA
 
 だから、S図の「古代出雲の地宜」から「邪馬壱」という国名が成立したことになる。

 『魏志』倭人伝は邪馬壱国の次は「斯馬(しま)国」であったと説明する。
 U図に示すように、「斯馬国」は邪馬壱国・伯耆の隣(とな)りの旧国の「因幡(いなば)・但馬(たじま)」にして、現在の「鳥取県東部・兵庫県北部」であったことになる。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 「斯馬国の地宜」は馬の字源「フタコブラクダの姿」に相似しないが、因幡にはフタコブラクダが活躍するゴビ沙漠に類似する鳥取砂丘がある。「因幡」といえば、『古事記』上巻の大国主神(おおくにぬしのかみ)神話冒頭の因幡の素菟(しろうさぎ)説話が有名である。
 R図で[]の字源となった「十字の銀河」は、V図に示すように、「菟(ウサギ)の姿」にも観える。ゆえに、「斯馬」は「菟(ウサギ)」を意味したと考えられる。
 [(めん)]の字に相似する[][]の両字の字義も「ウサギ」である。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 「子を生むこと。出産の出産」を「分娩(ぶんべん)」または「娩出(べんしゅつ)」という。
 V図の右側に配した「分娩」の[]の旁部の[(めん)]の金文形は、「女性の股間(こかん)から人()が出産する様子」をあらわす図案である。
 「十字の銀河の頭部」を「人の頭」と見立てると、「十字の銀河の頭部と連結する上の銀河部」は「頭にかぶる兜(かぶと)」に相当すると見立てられた。ゆえに、[]の字には「兜を免()ぐ」という意味がある。
 V図の左図において「十字の銀河の頭の上の兜を免()ぐ」と、菟(ウサギ)の耳が出現(しゅつげん)する。ゆえに、[]の金文形は「全速力でにげる脱兎(だっと)のごとく一気(いっき)に産道(さんどう)を脱出(だっしゅつ)して死を免(まぬか)れて母体の股間からこの世に出現して生まれる子」を表現する図案であった。したがって[(めん)][(兎・兔/ウサギ)]も黄帝の医学研究「子どもの出産」に直接関わる字であった。
 こういう事情によって、[(めん)]と「ウサギ」を字義とする[][][]3字の字形は相似することになったのである。
 山口廣夫氏が所蔵する兎形兜(とけいかぶと)は鍬形(くわがた)の部分が〔大きな兎(うさぎ)の両耳の形〕に作られ、鍬形台(くわがただい)は〔菟の顔〕に作られる。東京博物館が所蔵する椎実形兎耳兜(しいのみがたとじかぶと)は鍬形が〔兎の耳の形〕となる。この鍬形をウサギの形にした二つの兜は、[][(菟・兎)]の字の秘密を知っていて「たとえ自分が戦死しても子孫たちは健(すこ)やかに分娩して後世まで家は滅びずに栄える」という願いを表現するものであったにちがいない。

◆U図に示したように、『魏志』倭人伝において24番目に記される「邪馬(やま)国」は「旧国の大和(やまと)・現在の奈良県」であった。
 奈良盆地には多数の川が密集して流れる。だから、邪馬国・大和は豊作に恵まれる水量豊かな湿地帯(しっちたい)のごとき地域であった。
 S図に示した邪馬壱国の中心地・古代出雲の「邪馬」をあらわした「神門水海」と斐伊川(ひいがわ)河口周辺は、水量豊かな湿地帯・沼地(ぬまち)であった。
 「宍道湖」の[(じく・にく)][]の古字で、今は「にく」は[]、「しし」に[]
字をあてる。「宍道湖」の[]の「にく()」の意は「猪(いのしし)の肉」であったゆえ、[]は「しし」と読まれた秘密を伝えているにちがいない。
 注目すべきは、W図の左図に示すように、宗像大社の沖津宮が祭られる沖ノ島の地宜は「猪(イノシシ)の頭の形」に相似することである。
 猪は沼地や泥(どろ)の中をころげまわるのが好きで、猟師たちはこれを「にたを打つ」といい、泥浴(どろあ)び場を「にた場」という。「にた場」は「ぬた場」ともいう。新村出編『広辞苑(こうじえん)(岩波書店発行)は【ぬた場】について「狩猟者の間では、そこに山の神がいて、祈ると獣があらわれるとされている」と説明する。
 「邪馬壱国」と「邪馬国」の「邪馬」は「作物が豊かに育つ水量豊かな沼地(湿地帯)」を意味した。これゆえ「邪馬」は「沼地を好む獣」の「猪」を意味することになり、この「邪馬」という国名によって「猟師たちは、ぬた場には邪馬(やま)=山の神がいて、祈ると獣があらわれる」と信じるようになったにちがいない。
 H図の左側に示したように、卑弥呼は沖ノ島と神津島(こうづしま)を緯度基点地に定めて転回日本列島地理を立論した。この緯度基点地の沖ノ島の地宜は、W図の左図に示すように猪の頭の形に相似する。ゆえに、夏音文字「邪馬」という2字は「猪」を意味したにちがいない。沖ノ島に鎮座(ちんざ)する沖津宮(奥津宮)に祭られる女神に伊都久(いつく)不弥国の宗像王は、卑弥呼が立論した転回列島地理をまもり祭る神官王であったことになる。
 人間の目は周囲の明るさに応じて自動的に瞳孔径(どうこうけい/瞳孔の直径)が変えられる仕組みになっている。
 W図の右図は地上灯火の影響を受けない場所において、月があらわれない新月の夜、視界の中に光が入らない暗闇(くらやみ)から見た「夏の銀河の形」である。
 上掲した「文字作成銀河」における「夏の銀河の写真の形」は三日月の夜――視界に少し光が入った暗闇における瞳孔径に合致する写真機の絞(しぼ)りで撮影した形であるため、W図の右図の形と異なる。
 W図の右図の新月の暗闇で見える「夏の銀河像」は「猪の頭蓋骨(ずがいこつ)の形」にソックリである。
K265

   現代人にとって暗闇は不吉と感じるが――縄文人や弥生人にとって、新月の夜の暗闇や三日月の夜の視界に光が少し入る暗闇は[]のキャッチに最良・好条件の銀河各部の形が明確に見える神の存在を感ずる吉なる現象であったのである。これゆえ、日中あまり活動しないが、夜になると活動する猪は神聖な獣と信じたのである。
 G図に示した[]の「いね()」は沼地(水田)で育つ。卑弥呼が統治した国は[]の字部を有する[]の字を名に用いて「倭国」としたゆえ、「邪馬」が「沼」や「猪」を意味するのは[]の字にふさわしいことになる。

だから「邪馬」は「猪(イノシシ)」を意味したことになる。

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