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2018年5月22日 (火)

漢字習得定説のウソ・13

 ●『魏志』倭人伝の小国位置の解明・5
■「カイツブリ」を名とする小国位置の解明
 
◆わがブログ「漢字習得定説のウソ」は1回から4回まで詳細に証明したように――「今から約5000年前、黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が漢字を発明した」という伝説は事実であった。倉頡は下に示す銀河の範囲の各部の形状から漢字を作る原理を発明した。
 漢字が作られた範囲の銀河を、わたくしは「文字作成銀河」と呼ぶことにした。

Ginga
▲文字作成銀河の写真

 「倉頡が漢字を発明した」と伝える伝説が事実であったことは、280年~289年に著作された通称「『魏志』倭人伝」と呼ばれる文献にコンパクトに表示され、この古文献に1ヵ所も【誤読】を加えずに忠実に読解(どっかい)すれば科学的に証明される。

わがブログ「真実の日本国誕生史」の10回・11回で「『古事記』序の秘密」と題して詳細の解説し証明したように――712年に成立した『古事記』の序の記事は、下記のごとく伝えている。
(1)
『古事記』序の冒頭記事は「中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭/紀元前2070年頃~同2050年頃)、夏音(かおん)文字が日本列島に伝来して習得された」と説明するものであった。
(2)
『古事記』が成立した当時に用いられていた楷書「日下(にちげ)」と夏音文字「玖沙訶(くさか)」は同義、楷書「帯(たい)」と夏音文字「多羅斯(たらし)」は同義であった。というのも、楷書と夏音文字の両漢字は倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」に則(のっと)り、文字作成銀河各部の形状を字源・字形・字義とするものであったからである。つまり、『古事記』に用いられた楷書以前の全漢字は倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」に則り、文字作成銀河各部の形状を字源・字形・字義と定めて作成された。だから、楷書「日下」と夏音文字「玖沙訶」は同義、楷書「帯」と夏音文字「多羅斯」は同義となった。
(3)
だから、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注を付けて楷書で表記されて多数記載された夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、おのずと楷書の字源・字形・字義も文字作成銀河各部の形状であることが立証され、真実の歴史を知ることはできる仕組みになっていた。というのも『古事記』上巻は――大和朝廷が最も偉大な先祖と定める天照大御神が、伊耶那美命(いざなみのみこと)が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民を苦しめた歴史――を伝えていたからである。したがって、『古事記』上巻は〔音〕という注が付く夏音文字を文字作成銀河各部の形状に変換すれば真実の歴史を知ることができる反逆の史書であった。だから、この真実を解明する方法を無視して立論する今日の学者たちの解釈・意見は、当然、【誤読の空論】ということになる。
 大和朝廷は『古事記』上巻に記述された天照大御神の聖性をいちじるしく汚す真実の歴史を隠蔽(いんぺい)する虚構工作(きょこうこうさく)を、720年に完成した『日本書紀』を正史(せいし)と定めておこなった。『日本書紀』は日本国誕生史が不明確となる失敗作品であった。朝廷は『日本書紀』が完成した直後から村上天皇の康保(こうほ)年間(946967)までの約250年間、『日本書紀』の日本国が誕生した歴史をアイマイに伝える記述を利用して『古事記』上巻に記述された真実の歴史をねじ曲げる解釈を考えた学者たちの講義つまり講書(こうしょ)を幾度もおこなった。この講書の解釈・意見は、近世の本居宣長(もとおりのりなが/17301801)に受け継がれ、さらに今日の学者たちが受け継ぐ。だから、今日の学者たちの解釈・意見は『古事記』序が「『古事記』上巻は夏音文字はじめ楷書の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換すれば真実の歴史を知ることができる仕組みになっている」と説明する歴史解明手段を無視する【誤読の空論】となった。学者たちは自分たちの解釈・意見が真実の歴史をねじ曲げる欺瞞(ぎまん)であることにまったく気づいていない。

◆『古事記』序の冒頭記事が証言するように――夏音文字は後期縄文時代初頭にわが国に伝来して習得された。ゆえに、夏音文字は3世紀後半に著作された『魏志』倭人伝の人名・小国名・官職名にも用いられ、卑弥呼王朝は国名を倉頡が発明した漢字作成原理にもとづいて「倭人国」と定め、また[]の字源に則(のっと)る転回日本列島地理を制定し、夏音文字の学芸を政権基盤としてわが国最初の国家体制を創設した。「卑弥呼」の3字を「ひみこ」と読む字音は、夏音文字の字音である。この証明は、わがブログ「漢字習得定説のウソ」の7回~12(前回)までにおいて詳細に解説し、今回もおこなう
 倉頡はみずからが考案した文字が最も強力な権力、莫大(ばくだい)な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易・簡単に滅亡すると心配した。ゆえに、倉頡は下に列記する3つの掟(おきて)を破った人物とその門戸(もんこ)には厳(きび)しい神罰(しんばつ)が下されて皆殺しにすると定め、その罪・責任は宗族(そうぞく)まで及ぶとした。
●倉頡が死刑と定めた3つの掟
(1)
 文字作成銀河の各部の形状から文字が作られた秘密を暴露(ばくろ)した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者

 上記した倉頡が定めた(3)の掟は紀元前1300年頃から始まる殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字によって破られた。
 しかし殷代後半より以前の紀元前3000年頃に倉頡が考案した「書契(しょけい)」と呼ばれた文字と、紀元前2070年頃から始まる夏代の夏音文字と、紀元前1600年頃~紀元前1300年頃までの殷代前半の原初漢字は、上記した倉頡が死刑と定めた3つの掟を厳重(げんじゅう)にまもった。このため、原初漢字(倉頡文字・夏音文字・殷代前半の文字)が記された史料が中国においてもわが国においても、学者たちによって未(いま)1点も発見されない。ゆえに、現在の学者たちは倉頡が漢字を発明したと説明する伝説は、荒唐無稽(こうとうむけい)の空想と思い込んだ。この学者たちの早合点(はやがってん)と、さらに『魏志』倭人伝に加えた数々の【誤読】によって「漢字が銀漢から作られた事実」を解明する学術研究の門が閉()ざされた。
 (3)の掟を破った殷代後半の甲骨文字は(1)(2)の掟については厳重に守った。だから、(1)の掟によって「漢字が文字作成銀河から作られた事実」は現在においても不明となり、また(2)の掟によって「文字作成銀河各部の名称」は存在しないことになり、この倉頡の(2)の掟は現在まで受け継がれている。
 夏音文字、夏音文字を表記する楷書、契文(けいぶん/甲骨文字)、金文などすべての古代漢字は倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」に則(のっと)り、文字作成銀河各部の形状から作られた事実を証明するには、「文字作成銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、わたくしは下に示すように定めた。
Photo
▲文字作成銀河各部の名称図

 「文字作成銀河」つまり「銀河」の別称は「銀漢」である。だから、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた。
 現在、多くの人々が文字作成銀河(天の川)の写真を撮影する。この銀河の写真を観察すれば、卑弥呼王朝は倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」に則って小国名を定め、『古事記』上巻は〔音〕という注が付く夏音文字を文字作成銀河各部の形状に変換する作業によって真実の歴史を知ることができるように著作された歴史書であったことが明白となる。

◆わがブログ「漢字習得定説のウソ」の7回・8回で、『魏志』倭人伝にある全15ヵ所の方位記事に1ヵ所も【誤読(文献批判)】を加えなければ、〔東〕へ伸びる日本列島は〔南〕へ伸びるという考え(地理)こそがすべての矛盾点を解消して【科学】が成立することを証明した。この「時計回りに〔東〕が〔南〕となる転回方位」は倉頡が考えた[()]の字源をあらわすものであり、この[]の字源の「転回方位」は[()][()]の字に受け継がれた。ゆえに、卑弥呼王朝は倉頡が考えた転回方位にもとづき「日本列島の東方は南へ伸びる」という錯覚の転回日本列島地理を制定して、国名「倭人国」と定めたことになる。
 わがブログ「漢字習得定説のウソ・9」では『魏志』倭人伝の対馬(つしま)国から奴()国までの小国名に用いられた各字の字源銀河を解明し、また「漢字習得定説のウソ・10」では対馬国・投馬(つま)国・邪馬壱(やまい)国・斯馬(しま)国・邪馬(やま)国の[]の字がつく5ヵ国の小国名の使用された字源銀河を解明して、これらの国名は倉頡が発明した漢字作成原理を伝えていることを証明した。また「漢字習得定説のウソ・11」では『魏志』倭人伝は卑弥呼が居住した王国の名を「邪馬台国」と表記せずに「邪馬壱国」と表記していることを指摘し、「邪馬壱国」の[]の字源銀河は「倉頡が発明した漢字作成原理=鳥獣の足跡」をあらわすことを証明した。また前回の「漢字習得定説のウソ・12」では奴国・弥奴(みな)国・姐奴(つな)国・蘇奴(さな)国・華奴蘇奴(かなさな)国・鬼奴(きな)国・烏奴(あな)国・奴()国・狗奴(くな)国の9ヵ国の小国名につく[]の字源は倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」を象徴する聖獣「ジャコウウシ」に由来(ゆらい)することを証明した。
 今回は不弥(ふみ)国・呼邑(こお)国・弥奴国・好古都(こかた)国・不呼(ふこ)国の5ヵ国の小国名は水辺に生息する小鳥の「カンムリカイツブリ、ハジロカイツブリ、鳰(にお/カイツブリ)」をあらわしていることを証明する。
 前回のわがブログ「漢字習得定説のウソ・12」で詳細に解説したように、中国の五経(ごきょう)の第一に挙げられる『易経(えききょう)』繋辞上伝(けいじじょうでん)にある「易は天地に準(なぞら)う。ゆえに能()く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観()、俯()してもって地理を察す」という記事の文中にある「弥綸」という語は、A図に示す中国全土を洩()れなく包みこむ海岸線」をあらわした。
K361
(C) 2018 OHKAWA

 A図に示す「山東半島」は[]の字源「カンムリカイツブリ」の頭に相似すると見立てられて、「中国の海岸線」は「弥綸す」つまり「カンムリカイツブリの頭と翼(つばさ)の形をした海岸線で洩れなく包みこみ、つくろいおさめる」と表現されたのである。
K362
(C) 2018 OHKAWA
 
 B図の右下に、不弥国の位置と範囲を示した。
K363
(C) 2018 OHKAWA
 
 C図に、「不弥国」と呼ばれることになった[]の字源地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)となった「山東半島」の形に似る「福岡県福津(ふくつ)市の津屋崎(つやざき)海岸線」と[]の「カンムリカイツブリの首や翼の形に似る宗像市(むなかたし)平野部」を示した。
 古代の人々が“字書の聖典”と呼んで尊重した『説文解字(せつもんかいじ)』は[]の字源を「鳥飛んで上翔(じょうしょう)し、下り来らざるなり。一に従う。一はなお天のごときなり」と解説する。
K364

(C) 2018 OHKAWA

 D図に示すように、『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事に1ヵ所の【誤読】を加えなければ日本列島の〔東〕は〔南〕に伸びると伝える[]の字源「転回方位」にもとづくと、[]の字源地宜の「津屋崎町と宗像市平野部の地宜」は、『魏志』倭人伝に記述された小国「一大国」(長崎県の壱岐)のほうへ向かって『説文解字』の[]の「鳥飛んで上翔し、下り来らざるなり。一に従う。一はなお天のごときなり」という字源解説のイメージに合致する。
 だから、D図に示す「津屋崎海岸線と宗像市平野部と一大国の様子」にもとづいて、宗像周辺地域は「不弥国」と名づけられた。

◆『説文解字』は[]の字源を「息を外()くなり」と解説する。
 上記した『易経』繋辞上伝の中国海岸線を「弥綸す」と表現するうちの[]の「つくろいおさめる」という字義は、A図における「長江口(ちょうこうこう)北岸から杭州湾(こうしゅうわん)南岸までの[]のカンムリカイツブリの翼が裂()けてほころぶ形となる。しかし、杭州湾南岸より南部の海岸線はつくろいおさまって弓の形のごとき円弧(えんこ)を描く」と意味するものであったのである。
 A図における下部の[]の字義をあらわす「杭州湾の地宜」は「息を外()く口」に見立てられて[]の字源となった。
K365
(C) 2018 OHKAWA
 
 E図に示すように、「上南下北の杭州湾の地宜」は「鳰(カイツブリ)の姿」に相似する。
銭塘江(せんとうこう)の水は杭州湾に外()き出される。ゆえに、「その姿が杭州湾の地宜に相似する鳰」も[]の字源となった。
 鳰は水草の茎を支柱として、水面に草の葉や茎などで浮巣(うきす)を作る。この「浮巣の支柱となる水草の茎」を「杭(くい)」と見立てられた。
K371
(C) 2018 OHKAWA

 F図の上図に示ように、「杭州市」は「杭」すなわち「鳰の浮巣の支柱となる水草の茎」に相当する位置となる。だから、「杭州」「杭州湾」という地名は「鳰」が[]の字源であったことを現在に伝えている。
 「杭州湾と杭州市の地宜」は、F図の下図の「転回方位にもとづく琵琶湖の地宜」に相似する。ゆえに、「琵琶湖」の古称は「鳰の海」となったのである。
K372
(C) 2018 OHKAWA
 
 したがって『魏志』倭人伝に記述された対馬国から19番目の小国の「呼邑(こお)国」は、G図に示す「琵琶湖周辺の近江」、「現在の滋賀県」であったことになる。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は「呼邑」の[]の古代字形は「城壁(じょうへき)をめぐらす地所に多くの人が住む様子をあらわす図案」と説明する。ということは「琵琶湖」を「城」、「琵琶湖を包囲する野坂山地・比良山地・水口丘陵・鈴鹿山脈・伊吹山地」を「城壁」に見立てて[]の字源を示すと定めて、「滋賀県」は「呼邑国」と名づけられたことになる。〔注 G図の蘇奴(さな)国は旧の若狭・現在の福井県南西部、対蘇(つさ)国は旧国の美濃・現在の岐阜県中部と南部、華奴蘇奴(かなさな)国は旧国の山城・現在の京都府であったことについては、前回のわがブログ「漢字習得定説のウソ・12」で立証した〕。
 『魏志』倭人伝は対馬国から13番目となる小国の名は「弥奴(みな)国」であったと記す。前回のわがブログ「漢字習得定説のウソ・12」にて、「弥奴国」は「旧国の尾張」、「現在の愛知県西部」であると解説して証明した。
K373
(C) 2018 OHKAWA
 
 H図に示すように、「上南下北の尾張の地宜」は[]の字源「水しぶきが飛び散る激しい求愛ダンス(繁殖行動)をおこなうカンムリカイツブリ」と[]の字源「カイツブリが強大な力で直立姿勢となる姿」に相似すると見立てられて、「弥奴国」と名づけられた。

◆『魏志』倭人伝は弥奴国の次の14番目の小国は「好古都(こかた)国」であったと記す。
K374
(C) 2018 OHKAWA
 
 I図に示す「旧国の三河」、「現在の愛知県東部」が「好古都国」であった。
K375
(C) 2018 OHKAWA
 
 今から約5000年前の倉頡が生存した五帝時代初頭の黄帝(こうてい)時代、J図に示すように中国各地の天頂に「十字の銀河」がめぐってきて、中国各地の緯度を測定する羅針盤(らしんばん)となった。
 黄帝は東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。『内径』という書名は「女性の生殖器・子宮と子宮で育つ胎児(たいじ)の研究・産道(さんどう)と胎児の出産の研究」を意味した。黄帝の医学研究は中国最初の事業であったので、それ以前の紀元前4000年頃~紀元前3000年頃までの三皇(さんこう)時代の易(えき)に用いられた記号では黄帝の研究成果をあらわすことができなかった。だから、倉頡は黄帝の医学研究をあらわすことができる漢字を発明することになったのである。
 倉頡は「十字の銀河」が「子宮」に相当する箇所を有するゆえ、上掲した「文字作成銀河各部の名称図」の左上にある「十字の銀河」を「文字作成銀河各部の形状から作られた全漢字を生む母体(妊婦/にんぷ)」、また「十字の銀河の子宮」を「すべての漢字が生まれる子宮」と定めた。
 『説文解字』は「好古都国」の[]の字源を「美なり」と解説する。
K381
(C) 2018 OHKAWA

 []の字源は、K図に示す黄帝が研究した「女性の生殖器」であった。[]の楷書形の上部は[]、下部は[]である。「女性の生殖器の正面形」は「羊の顔の正面形」に相似し、「子宮に宿る胎児の成長とともに大きく」なり、「十字の銀河」は[]字形である。ゆえに、[]の字源は「女性の生殖器」、字源銀河は「十字の銀河の子宮」であった。
K382
(C) 2018 OHKAWA
 
 「好古都」の「古都」は、上のL図に示す「秋田県の鹿角(かづの)市の国の特別遺跡・大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)」を指すものであろう。I図に示した「知多(ちた)半島」をL図の「下北半島」に見立てると「渥美(あつみ)半島」は「津軽半島」に相当することになり、大湯環状列石は三河中央部に相当する。大湯環状列石はわが国に夏音文字が伝来して習得されたと伝える後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)の遺跡である。
K383
(C) 2018 OHKAWA
 
 大湯環状列石を代表する中心的遺跡は、M図に示す直径48mの万座遺跡と直径が42mの野中堂遺跡である。野中堂遺跡の中心・野中堂遺跡内にある特殊組石(とくしゅくみいし)の日時計組石の中心と万座遺跡の中心・万座遺跡内にある日時計組石の中心を結ぶ延長線は、夏至の日没方向を指差(ゆびさ)す。この「夏至の日没方向」で「夏音文字は中国から伝来した」とあらわす。というのも、万座遺跡の中心に垂直に立つ柱と万座遺跡内の日時計組石は文字作成銀河各部の高度と方角を計測して文字作成銀河の形を知るための装置であったと証明することができるからである。また野中堂遺跡の中心に垂直に立つ柱は一年間の正午の太陽の南中高度を計測し、野中堂遺跡内の日時計組石は北斗七星でもっとも光が強いおおぐま座ε星(北斗七星の第5/光度は1.8)で日々の午前零時を計測して黄道(こうどう/天球上において太陽が一年間に通過する道)を測定する装置であることが証明される。ゆえに、野中堂遺跡と万座遺跡は夏音文字における天文学を伝える遺跡であった。
 ゆえに、「好古都」の「古都」は「大湯環状列石」を指していると思われる。
K384
(C) 2018 OHKAWA
 
 N図に示す[(こう)]の契文形について、白川静著『字統』は「女を母の形に作り、あるいは子を抱く形に作るものがあって、婦人がその子女を愛好することを示す字である」と解説する。ゆえに、[]の偏[]の字源は「十字の銀河」、旁(つくり)[]の字源は「鬼の姿に似る銀河」となる。「十字の銀河から鬼の姿に似る銀河の頭に垂れる帯状(おびじょう)の銀河」を「子の頭を撫()でる母の手」に見立てると、N図は「母の手が子を抱く」あるいは「母が子の頭を撫でて愛好するイメージ」を表示することになる。
K385
(C) 2018 OHKAWA
 
 O図に示すように、「三河の地宜」は「ハジロカイツブリの姿」に類似する。O図の下図の「ハジロカイツブリの顔にある飾羽(かざりばね)」から[]の字が連想された。ゆえに、「好古都」は「ハジロカイツブリ」を意味したにちがいない。
K386
(C) 2018 OHKAWA
 
 P図に示すように、黄帝が研究した女性の生殖器の側身形における「卵管采(らんかんさい)」は「子の頭を撫でる母の手」に観え、「卵巣(らんそう)」は「母の手が頭を撫でる子」のごとき形をして[]の字をあらわす。また、「卵管采」は「夏羽のハジロカイツブリの顔にある美しい金色の飾羽の形」に相似する。「卵管采と夏羽のハジロカイツブリの顔の飾羽の形」は秋の七草の一つの「撫子(なでしこ)の上端が深く細かく裂ける花弁一片の形」に相似する。和歌などで「撫子の花」は「愛撫(あいぶ)する子」にかけて用いられた。したがって、「撫子」の語源は[]の字をあらわす「卵管采と卵巣」であったことになる。
 以上からして、O図に示したように「好古都国」は「旧国の三河」、「現在の愛知県東部」であったことになる。

◆『魏志』倭人伝に記載された対馬国から14番目の「好古都国」の次の15番目の小国は「不呼(ふこ)国」である。「不呼国」は「三河の隣国の、遠江」であった。
 白川静著『字統』は[]の字形について「もと象形(しょうけい)で花の萼拊(がくふ)の形である」と解説する。「萼拊」または「萼」は「花弁をかこむ部分」で、「台(うてな)」ともいう。
K391
(C) 2018 OHKAWA

 Q図に示すように、「花の生殖器官の萼」は「女性の生殖器官の膣(ちつ)」に相当するが、「花の萼」は「花弁をかこむ台(だい)」であるが「女性の膣」は「胎児が通過して生まれる産道(さんどう)」とある。ゆえに「萼は花の子(種子/たね)が育って花となって生まれる場所ではないから、子どもが生まれる女性の生殖器の産道の役割(やくわり)と違う」ということで、「花の萼」は否定・打消しの「ず」をあらわす[]の字源となったにちがいない。
K392

(C) 2018 OHKAWA
 
 R図は、[]の字源「転回方位」にもとづく「遠江(現静岡県西部)の浜名湖の地宜」である。現在の浜名湖は遠州灘(外海)と通じているが、卑弥呼が生存した後期弥生時代の当時の浜名湖は外海と通じていなかった。1498(明応7)8月下旬の大地震で遠江国の荒井崎(現在の新居町)が壊れて外海と通じ、1510(永正7)8月下旬の津波によって今切が崩れて浜名湖は現在の形になったと言われる。
 R図の「浜名湖」を「花弁」に相似すると見立てると、「引佐細江(いなさほそえ)」という名の浜名湖の支湖(入り江)[]の字源「萼」に相当する。
K393
(C) 2018 OHKAWA
 
 S図に示すように、[]の字源「花の萼」に見立てられた「引佐細江」の東側と西側は、「不呼」をあらわす地宜となる。
 長い人の横顔の形となる「村櫛(むらくし)半島の内浦」は「人が息を外へはきだす口」の形となって、『説文解字』が「息を外()くなり」と解説する[]の字源を示す。「内浦の北岸」は「鳥の頭」に相似して、『説文解字』の[]の「鳥飛んで上翔し、下り来らざるなり」という字源解説をあらわす。「都田川(みやこだがわ)の河口」は「川の水を外(引佐細江)へはきだす箇所」であるゆえ、『説文解字』が解説する[]の字源をあらわす。「寸座岬(すんざみさき)の地宜」は〔人の鼻〕に相似し、「引佐細江の西岸」は「人が息を外へはきだす口」に相当するゆえ[]の字源をあらわす。Q図に示したように「花の萼に相当する引佐細江」は[]の字源をあらわすゆえ、その周囲の[]の字源をあらわす地宜によって、「引佐細江周辺の地宜」は小国名の「不呼」をあらわす。

◆『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約(せいやく)説話末部には「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の祖(おや/先祖)の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」という記事があり、遠江の豪族(ごうぞく)の名が記載される。
K394
(C) 2018 OHKAWA
 
 わがブログ「真実の日本国誕生史」の8回・9回・16回で詳細に解説し証明したように、――建比良鳥命とその一族は260年頃~290年頃までの約30年間かけて、T図に示すちょうど1千万坪の大鳥の地上絵を作製した。この大鳥の地上絵を、わたくしは2014年以前では「建比良鳥の地宜」と呼び、2014年以後は「卑弥呼の地上絵」と改名した。
 現在、卑弥呼の地上絵は静岡県浜松市北区の細江町(ほそえちょう)の行政区域を表示する地図の形として残る。
 山尾幸久(やまおゆきひさ)著『魏志倭人伝』(講談社発行)は「『三国志』の成立は、晋(しん)の武帝(ぶてい)の晩年である太康(たいこう)年間(280289)であった」と解説する。『魏志』倭人伝は『三国志』魏書東夷伝(ぎしょとういでん)末部にある「倭人条」の通称である。ゆえに、『魏志』倭人伝は280年~289年に著作されたことになる。
 上記したように、T図の卑弥呼の地上絵は260年頃~290年頃に作成された。したがって、『魏志』倭人伝と卑弥呼の地上絵は同時代に作成されたことになる。
 T図の卑弥呼の地上絵における大鳥の頭は「夏至の日の出の方角」を向いて「わが国に夏音文字の学芸が伝来し習得された」と伝えている。
 T図におけるA地点は滝峯不動尊(たきみねふどうそん)という地点と1分の誤差もなく、ぴったり同緯度(北緯3448)である。西のA地点とその真東にある滝峯不動尊を結ぶ緯度線は、春分の日の朝に地平線から出現する太陽を指差(ゆびさ)す。『説文解字』は建比良鳥命の先頭字の[]の字源を「朝律(ちょうりつ)を立つるなり」と解説する。この「朝律を立つるなり」とは「西の経緯度原点地の真東の地点に[(いつ/]の字源となる〔垂直に立つ柱〕を立てると、[]の柱の背後から春分の日の朝の太陽が昇る」と意味した。したがって、「A地点・滝峯不動尊の緯度線」は[]の字源をあらわす。「建比良鳥命」の「比良」は「平面的に図化された地図の形、つまり地宜」のことである。そして、卑弥呼の地上絵は「翼を有する鳥の形」に設計される。このように、卑弥呼の地上絵は「建・比良・鳥」と表示するゆえ、T図の大鳥の地上絵には「建比良鳥命」と作者名が署名(しょめい)されている。
 T図の上部に示す龍潭寺(りょうたんじ)は、浜松市北区の引佐町(いなさちょう)井伊谷(いいのや)に所在する。
K401
(C) 2018 OHKAWA

 U図の上図は、引佐町の金指(かなさし)地区と井伊谷地区の地宜を示す図である。「金指・井伊谷の地宜」は、U図の下図に示す「鳰と浮巣」の形となる。ゆえに、「金指・井伊谷の地宜」は、E図とF図で解説した[]の字源「鳰」をあらわす。その証拠に、「鳰の横顔に設計される金指地区の地宜」は「鳰が浮巣をつくるときに嘴(くちばし)にはさむ水草の茎(くき)で作る支柱」つまり「杭」を表現するために嘴の先端を切断して〔杭〕を表示する形に設計して、中国の「杭州・杭州湾」の地名の秘密を伝えている。
K402
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 V図の左上部にある「卑弥呼の地上絵の頭と両翼となる地域」は、D図に示した『説文解字』が解説する[]の字源「カンムリカイツブリが飛ぶ姿」をあらわす。V図の左下部の「金指・井伊谷の地宜」は[]の字源「鳰」をあらわす。だから、卑弥呼の地上絵は「遠江は『魏志』倭人伝に登場する不呼で国であった」と、今日に明確に伝えている。

◆V図に記入したように、卑弥呼の地上絵は(1)飛ぶ鳥(カンムリカイツブリ)(2)都田川の沖積平野(ちゅうせきへいや)(3)象の横顔の3ブロックで構成される。
K403
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 (2)(3)のブロックの形を明確に示すためにV図の上南下北図を改め――その上下をひっくりかえして、W図は上北下南図にして漫画的に表現した。
 (1)はV図で明確にしめされた「飛ぶ鳥(カンムリカイツブリ)ブロック」である。
 (2)の「都田川の沖積平野ブロック」は「生子(生まれた子)の形」となる。「生子の形をした沖積平野」は『古事記』上巻の伊耶那岐命(いざなきのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)神話冒頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に記載された――伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす。万葉歌人の山上憶良(やまのうえのおくら)は伊耶那美命が宣誓(せんせい)した【日本建国の〔愛〕の理念】を「銀(しろがね)も、黄金(くがね)も玉も 何せむに 優(まさ)れる宝 子にしかめやも」と詠()んだ。
 (3)の「象の横顔ブロック」は『易経』繋辞下伝(けいじげでん)の「仰いでは天象(てんぞう)を観()、俯()しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観る。(中略)。もって神明(しんめい)の徳に通じ、もって万物の情に類して漢字をつくった」と説明する文中にある()「天象」すなわち「文字作成銀河」をあらわし、また()「象の横顔」に相似すると見立てられた「北アメリカ星雲([]の字源銀河)」と、()「長い鼻を有する夏の銀河の西南部の東半分(夏の銀河の西南部からわし座α星付近までの銀河の形)」をあらわした。
 『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の初頭部に――天神(あまつかみ)と諸命(もろもろのみこと)は伊耶那岐命と伊耶那美命の二人に「この漂(ただよ)える国を修理(つく)り固めなせ」と命令した――と説明する記事がある。この記事を現代語訳すると――卑弥呼王朝と諸々の体制者たちは伊耶那岐命と伊耶那美命の二人に「大海で迷って漂流する船に乗る死が目前にせまる人々のごとくに多数の人民が悲観して絶望する、この未曾有(みぞう)の国難の穢(けがれ)を修理して(洗い清めて)国土が安定するようにつとめよ」と命令した――となる。この記事に登場する「修理」という語の[]の字形について、白川静著『字統』は「人の後ろから水をかけて洗う形である」と説明する。
 この[]の字源の秘密を、建比良鳥命はW図に示した〔卑弥呼の地上絵における象の顔・鼻の形となる地宜〕とそっくりな「北アメリカ星雲」で表現した。ゆえに「北アメリカ星雲の形に相似する、象の横顔の地宜」は「象が引佐細江の水を吸って、卑弥呼の地上絵の後ろから水を外()き出す鼻息の力」をあらわした。

◆W図の下部に矢印で示したように、淤能碁呂島聖婚説話の文中にある「修理」という語の[]の字源をあらわす「象が後ろへ水をかける、その象の強い鼻息の力」で卑弥呼の地上絵の鳥の後頭部(こうとうぶ)に息を吹きかけると、X図の上図に示すように「卑弥呼の地上絵の頭部は〔南〕から〔東〕へと90度転回すること」になる。
K404

 X図の上図の頭部が〔東〕へ移動する卑弥呼の地上絵は、X図の下図の中国の海岸線と国土地宜に相似する。
 したがって、卑弥呼時代、わが国ではA図に示した「中国全土を洩れなく弥綸する海岸線地図の知識」を有していたことになる。
 というのも、司馬遷著『史記』の五帝本紀と夏本紀に登場する名門益(えき)氏が精密な中国海岸線地図を日本列島に移住してもたらしたからである。五帝時代の最後の五番目の帝舜(ていしゅん)の時代に精密な中国海岸線地図を作製する[()]という要職についた益氏は夏代初頭に夏の始祖の帝禹(ていう)の後を継いで帝位に就き、この帝益の孫の王子(天祖)と益氏の若者たちが大海をこえて日本列島に移住した。だから、精密な中国海岸線地図はじめ夏音文字の学芸がわが国に伝来した。以後、わが国では夏音文字の学芸は最も重大な文化遺産となって、M図に示した夏音文字の学芸による天文遺跡の大湯環状列石が今日まで残ったのである。『魏志』倭人伝には「古(いにしえ)より以来、倭の使者は中国に到着するとみな自らを大夫(だいふ)と称す」という記事があり、万葉仮名では「大夫」を「ますらを」と読み、今日「ますらを」は「益荒男」と表記される。つまり「益氏の王子や若者たちのごとく、荒波逆巻(あらなみさかま)く大海を往来する雄々しい男子」と讃(たた)える語が「大夫」であり「益荒男」の語源であったのである。
 したがって、T図に示した卑弥呼の地上絵は精密な中国海岸線地図を作製する「虞」の官職を約200250年間ぐらい務めた名門益氏がもたらした地図作製方法が後期縄文時代初頭から約2300年間も保存されていたと示す確かな証拠となる。だから、X図における卑弥呼の地上絵の頭部・両翼部は中国の海岸線地図に相似することになったのである。
 X図の上図に示したように、卑弥呼の地上絵の頭部は〔北〕を向き、山東半島は〔東〕を向く。この卑弥呼の地上絵の頭部と山東半島の地宜を見て「〔北〕が時計の針のごとく90度移動して〔東〕となる転回方位」を示すという考えは倉頡が考えた[()]の字源〔後の[]の字源〕をあらわし、また「〔東〕が逆時計回りに90度移動して〔北〕となる転回方位」を示すという意見は倉頡が考えた[]の字源をあらわした。ゆえに、益氏が務めた官職の「虞」は[][]が加わる字となった。したがって、[]の字源の秘密は倉頡が考えた[]の字源定義が原因で「精密な中国海岸線地図を作製する官職名」となったのである。

◆倉頡は[]の字源を(1)[]の「カンムリカイツブリ」の字源銀河、(2)[]の「鳰」の字源銀河、(3)P図に示した「女性の生殖器」を観て成立させた。
 『易経』繋辞下伝には――上古(三皇時代)は「結縄(けつじょう)」と名づけた易卜(うらない)に用いる記号で天下を治めたが、後世(五帝時代初頭)の聖人は結縄に易()える「書契(しょけい)」、つまり「十字の銀河」を「銀河から作られたすべての漢字の母と定めた文字」を発明した――と伝える記事がある。
 この「漢字を発明した聖人」が「倉頡」であり、倉頡は[]の字を考案したために「聖人」と呼ばれることになったのである。したがって、『魏志』倭人伝に記載された「不弥国・弥奴国・呼邑国・好古都国・不呼国」という小国名は、倉頡が「聖人」と呼ばれた秘密が解明できる重大な資料となる。
 不呼国・遠江の豪族の建比良鳥命とその一族による卑弥呼の地上絵の作製は、この事業が露見(ろけん)したならば天照大御神・大和王朝に直(ただち)に一族皆殺しとなる大罪(たいざい)であった。しかし、彼らは倫命(りんめい/人間として実行すべき使命観)にもとづき伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】が後世・末永(すえなが)く伝承されることを願って、卑弥呼の地上絵を作製した。

 以上のごとく、わが国が習得した夏音文字と夏音文字を表記した楷書は共に倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」に則って文字作成銀河各部の形状から作られた。
 そして、建比良鳥命と共に同時代(3世紀半ば)に生存した伊耶那美命は小国・日本へ封(ほう)ぜられる女王に就任して、日本国の軍王(いくさのおおきみ)に就任した伊耶那岐命との結婚式において彼女は「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」という10字の夏音文字による【日本建国の〔愛〕の理念】をとなえる宣誓(せんせい)をした。だから、建比良鳥命一族の卑弥呼の地上絵の作製目的とその使命観は伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に・末永く伝えること――であったのである。
 卑弥呼の地上絵が完成してから約420年後の712年、〔音〕という注がつく夏音文字を多数記載する『古事記』が著作され、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話冒頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話には、伊耶那美命がとなえた「阿那邇夜志愛袁登古袁」という10字の夏音文字が記載され、伊耶那美命は「日本国の国作り(国生み)の基本は〔愛〕にしましょう」と宣誓したと現在に伝えている。
 だから、伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を伝える『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話と卑弥呼の地上絵の両者は、今日、真実であったと確かめえる日本人にとって最も重大な歴史を伝えていることになる。したがって、『古事記』序に記述された歴史解明方法を無視して夏音文字の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換する作業を怠(おこた)る学者たちの解釈・意見は、当然、【誤読の空論】ということになる。

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