G-T0XYQT12LL 漢字習得定説のウソ・18: 卑弥呼の逆襲

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2018年6月26日 (火)

漢字習得定説のウソ・18

●纏向遺跡邪馬台国説の実体は【誤読の空論】であると断定できる

◆朝日新聞の渡義人氏・田中裕也氏の両記者が書いた2018514日の夕刊で「卑弥呼の時代示す桃の種? 奈良・纏向遺跡から出土 年代測定」と題して報道された――この奈良県の纏向(まきむき)遺跡邪馬台国説は【科学】を偽装する空理空論である。これについては確実に証明できる。
 翌15日の朝日新聞の朝刊でも、渡義人記者が「桃の種 邪馬台国と同時代? 奈良・纏向遺跡で出土 年代測定判明」と題して報道した。
 纏向遺跡邪馬台国説を主張する学者の方々は、歴史学の絶対原理や基礎原理を無視する。また、彼らは【科学】の定義を全く考慮しない。だから自分たちの意見が【科学】に反し、その実体が【誤読の空理空論】であることに気づかない。
 朝日新聞の514日の記事の初頭は「女王卑弥呼(ひみこ)がおさめた邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡(国史跡、3世紀初め~4世紀初め)で出土した桃の種について、放射性炭素(14)年代測定を実施したところ、西暦135230年とみられることがわかった。市纏向学研究センターの最新紀要で報告された。種は遺跡の中枢部とみられる大型建物群(3世紀前半)の近くで出土したもので、大型建物の年代が自然科学の手法で初めて測定されたことになる。卑弥呼が君臨したとされる時代の可能性が高まった。」と記述する。
 この記事の末部は――一方、九州説を主張する高島忠平・佐賀女子短大元学長(考古学)は「放射性炭素のデータが建物の実年代を指しているのかどうかは、まだ確実とは言えない。仮に正しい年代としても邪馬台国とは別の連合勢力がヤマトにいた、ということにしかならないのではないか」と反論する――と書く。翌日の記事の末部も――邪馬台国の所在地をめぐっては、主に九州説と近畿説が対立してきた。市纏向研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「科学的分析で我々の考える範囲内に収まった。土器の年代など考古学的な見方も加え、大型建物が3世紀前半と裏付けられた」と話す。一方、九州説の有力候補、吉野ケ里遺跡(佐賀県)の発掘に長年携わってきた七田忠昭・佐賀城本丸歴史館長は鉄製の素環頭太刀や大きな鏡など、中国との外交を物語る出土遺物がほとんどない。年代だけでは邪馬台国の決め手にはならない」と反論する――と書く。
 上記に示したごとく、朝日新聞の記者は「纏向遺跡の中枢部とみられる大型建物跡の近くで出土した桃の種の放射性年代測定にもとづいて、纏向遺跡が邪馬台国であった」という説は科学的な意見であると評価して記事を書いたであろうが、纏向遺跡邪馬台国説の実体は科学に反する不正行為を犯して偽りの歴史を捏造(ねつぞう)せんとする意見である。だから、上の記事は日本国民を騙(だま)す、ジャーナリストとして恥ずべきフェイクニュース(虚偽報道・デマ)ということになる。

◆これより、なぜ纏向遺跡邪馬台国説は歴史学の基礎原理を無視して偽(にせ)の歴史を捏造せんとする虚偽説であるかについて証明する。
 1990年に栃木県足利市で、当時4歳の女児が殺害された事件は「足利事件」と呼ばれた。栃木県警は、DNA型鑑定で女児の着衣に付着していた体液と菅谷利和(すがやとしかず)受刑者の体液が一致したとして、菅家さんを殺人と死体遺棄の疑いで逮捕した。菅家さんは無罪を主張したが、彼の言は無視され、2000年に最高裁で無期懲役判決が確定した。しかし、菅家さんの再審請求によって、東京高裁は200964日、以前のDNA型鑑定は再鑑定の結果誤っていたことが証明されたと表明して、菅家さんを17年ぶりに釈放した。
 菅家さんが〔犯人〕とされた最大の根拠はDNA型鑑定であり、このDNA型鑑定を菅家さんが無罪を主張する言よりも優先・重視して栃木県警は捜査を進めたため、このような冤罪(えんざい)事件が発生した。
 纏向遺跡を邪馬台国と考える最大の根拠は放射性炭素年代測定であり、この意見は『魏志』倭人伝の幾つかの記事を【誤読=文献批判】して成立する。
 古代史家の古田武彦氏は著書『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社発行)で、『三国志』全体に記される[]()86個、[]()56個の文字を一つ一つ調べ、[][]と誤記した例がないことを証明した。したがって、『三国志』魏書東夷伝末部の〔倭人伝〕の通称が「『魏志』倭人伝」であるゆえ、この『魏志』倭人伝は倭女王卑弥呼が居住した王国の名を「邪馬壱国」と表記するので、卑弥呼は「邪馬台国」には居住していなかったことになる。また、『魏志』倭人伝には「邪馬台国」と書く記事は1ヵ所も存在しない。
 さらに『魏志』倭人伝には方位名を書く記事は全部で15ヵ所あるが、この15ヵ所の方位記事に【誤読(文献批判)】を1ヵ所も加えずに忠実に読解すると、卑弥呼は居住した地域は山陰出雲地方(石見・出雲・伯耆/現在の島根県と鳥取県西部)であったことになる。ゆえに、卑弥呼は纏向遺跡が存在する大和に居住していなかったことになるゆえ【誤読の空理空論】となる。
 DNA型鑑定によって菅家さんは犯人と決めつけられ、無罪を主張する菅家さんの言葉は無視されたため、事実を誤認する錯覚すなわち冤罪が生まれた。
 「菅家さんを犯人と決めつけた根拠のDNA型鑑定」を「纏向遺跡邪馬台国説の根拠となる桃の種の放射性炭素年代測定」に見立てて、また「菅家さんが無罪を主張した言葉」を「『魏志』倭人伝の(1)邪馬壱国と(2)15ヵ所の方位記事」に見立てれば――『魏志』倭人伝は「纏向遺跡がある大和は卑弥呼が居住した邪馬壱国ではない。邪馬壱国は山陰出雲地方であった」と明記するゆえ、纏向遺跡邪馬台国説の実体は【空理空論】ということになる。また、九州説も同様に【空理空論】となる。
 栃木県警・最高裁・新聞各社は菅家さんの言葉をウソと決めつけた。纏向遺跡邪馬台国説を提唱する学者の方々もまた、『魏志』倭人伝の記事には幾つかの誤記があるにちがいない信用できないゆえ幾つかの〔文献批判(誤読)〕を加える考えこそが正しいとするが、この考え方は菅家さんの言葉を信用しなかったため事実を誤って冤罪を生んだ栃木県警と最高裁と新聞各社の考え方と同じことになる。
 
 2009626日の朝日新聞のメディア衆論「科学報道を科学的に検証する」という記事は足利事件に対する栃木県警と最高裁と新聞報道の在り方を反省して「足利事件は〔科学的手法(DNA型鑑定)〕と【科学】を同一視した思い込みによって成立するものであった」と総括した。
 上記の朝日新聞の総括記事が明記したように〔科学的手法〕イコール【科学】ではなく、両者は別なるものである。
 纏向遺跡邪馬台国説は〔科学的方法(放射性炭素年代測定)〕イコール【科学】あるいは「正しい立論方法」と考える思い込みから生まれた錯覚・妄想である。
 要するに、『魏志』倭人伝の全記事は事実を伝える。したがって、1ヵ所も〔文献批判=誤読〕を加える必要がない。だから、纏向遺跡邪馬台国説はじめ畿内邪馬台国説と九州邪馬台国説等の全邪馬台国説が加えるすべての〔文献批判〕の実体は【誤読】である。だから纏向遺跡邪馬台国説はじめ全邪馬台国説は【誤読の空論】ということになる。
 纏向遺跡邪馬台国説はじめ全邪馬台国説が【誤読の空論】であることについては、わがブログ「漢字習得のウソ」シリーズの514回までで詳細に解説して証明した。

◆纏向遺跡邪馬台国説は『魏志』倭人伝の(1)「邪馬壱国」という記事と(2)15ヵ所の方位記事や、その他の幾つかの〔文献批判〕を加えて立論する。
 紀元前1200年前後におこったトロイ戦争は約350年後の紀元前850年頃に生存したギリシアの詩人ホメロスの英雄叙事詩『イリアス』に記述された。学者たちは〔文献批判〕を用いて「トロイ戦争はホメロスの空想である」と決めつけたて「歴史ではない」と断定した。しかし、ドイツ人のシュリーマンが『イリアス』に記述されたとおりの土地を発掘して、トロイの遺跡を発見した。したがって、トロイ戦争は事実であったと証明され、学者たちの〔文献批判〕による意見こそが空想であったと証明された。
 つまり、古代史学には――前人が作った文献にある記述を、たとえ後世の学者たちが「この記述は絶対に誤っている。信用してはならない」と批判・否定しても、その文献に記述したとおりの史跡・遺跡・遺物が発見されたならば前人の記述はなんびとにも否定できない真実ということになる。
 また、後世の学者たちの意見は【科学】が成立せず矛盾点や不合理な点が生じ、一方、前人が作った文献の記述を信頼して調べてみると【科学】が成立し矛盾点も不合理な点も発生しない場合は、後世の学者たちが〔文献批判〕を加えて否定した意見はたとえ科学的方法を用いる意見であっても【誤読の空想】であり、【妄想】であったことがなんびとにも否定できない事実となる――このような絶対原理が存在する。
 
 上記したように栃木県警・最高裁・新聞各社は菅家さんの言葉を信用せずに虚偽とした批判が事実を誤る冤罪を生み、「トロイ戦争はホメロスの空想である」と考えた学者たちの〔文献批判〕の実体は【誤読】であった。この事例にもとづけば――『魏志』倭人伝に幾つかの〔文献批判〕を加えて、桃の種の放射性炭素年代測定は卑弥呼が生存していた時代に合致するゆえに纏向遺跡こそが邪馬台国であると主張する意見の実体は【誤読の空論】であり【空想、妄想】であることが確実となる。

学者たちは『魏志』倭人伝にある15ヵ所の方位記事に1ヵ所も〔文献批判(誤読)〕が加えなければ成立する〔卑弥呼王朝が「日本列島は東に伸びず、南に伸びる」と制定した転回日本列島地理〕を〔荒唐無稽(こうとうむけい)の空想〕と決めつける。
 
 しかし、この卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理は2世紀末から738(聖武天皇が全国に国郡図作成の命令が下した天平10)まで制定されていた。だから、『魏志』倭人伝15ヵ所の方位記事に最初に〔文献批判〕を加えた、その瞬間から事実を誤る虚偽が始まってのっぴきならない【誤読の空論】に陥(おちい)ることになる。
 
 『魏志』倭人伝の15ヵ所の方位記事に幾つかの【誤読】を加える全邪馬台国説の考え方では、玄界灘を倭の航海者たちは無事に往来できずに命を失ったことになる。
 
 原始時代以来、ヒトは「玄界灘」の[]の字源の「天頂緯度線・子午線」をキャッチすれば、1度の60分の11分の精密さで緯度が測定できた。ゆえに、原始から卑弥呼が生存した3世紀まで、下のA図の右上に示す[](天頂緯度線・子午線)をキャッチすれば人々は遠くの地へ旅しても、大海を渡る旅をしても、家族が待つ家へ帰還することができたのである。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 人間の目は鍛錬すると1度の60分も11分の緯度差を測定できる[]の上部の[(とう)]の字源「天頂緯度線と子午線」をキャッチすることができる能力が本能として脳にそなわっていた。このため、獲物(えもの)を追って移住生活を営(いとな)む原始にあっても、[]をキャッチして迷っていないと安心できたので人類は滅亡しなかった。ヒトは「迷った」と感じると思わずうろたえてパニック(恐怖)状態におちいる。
 だから、原始から3世紀までの人々にとっては「[]のキャッチに失敗すること」は「死」に直結した。
 121年に後漢の文字学者の許慎(きょしん)が時の安帝(あんてい)に上呈した字書の『説文解字』は[]の字源を「至高にして上なし」と解説する。ゆえに、[]の字源は「それ以上の上がない、最も高い天体部、すなわち天頂緯度線」であった。だから、[]の字源は、A図に示した「[]のキャッチによって測定できた天頂緯度線」であった。このため、人々の命(いのち)言いかえると生死は[]のキャッチによって決定されるものであったので、『古事記』上巻に記載する[]という字は「権力者や英雄たちをあらわす尊称(そんしょう)」となった。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 上のB図は[]の字源解説図である。[]のおける[]の下の[(よう)]の字源は「[]をキャッチする時の心得」をあらわした。この[]の字源を『説文解字』は「小なり。子の初生の形に象(かたど)る」と解説して「初めてこの世に、生まれる子」と伝える。つまり、[]の字源は「必ず[](天頂緯度線・子午線)をキャッチすると欲を有すると道に迷って死ぬが、産道を通過して誕生する時の小さな初生の子=胎児(たいじ)のごとく無欲であれば[]はキャッチできる心得」をあらわした。

地球は円(まる)――だから、ヒトの脳にそなわる本能と眼力にそなわる呪力(じゅりょく/優れる能力)によって原始から3世紀までヒトの生死を決めたA図に示した[]の字源「天頂緯度線」と重なる天体部の水平線から出没する地点は東から45度の〔東北〕と西から45度の〔西北〕となった。つまり、精密に1分の緯度差を測定できた[]の字源「天頂緯度線」と重なる天体部は〔東〕から出現して〔西〕に没するのではなく、〔東北〕から出現して〔西北〕に没した。
 中国大陸と日本列島の中間の大海を組海中の倭人たちはA図・B図に示す[]の字源の「天頂緯度線」で1分の精度で緯度を測定するものであったゆえ、西に向かって魏都に到着せんとする時は緯度測定の基準とする天頂緯度線が没する〔西北〕へ目指して針路を取っていることになる。また、彼らは東に向かって故郷に帰還する時は緯度測定の基準となる天頂緯度線が出現する〔東北〕に目指して進んでいることになる――というのも地球は円いゆえ、半円形となる天頂緯度の軌道は水平線の〔東北〕の地点と〔西北〕の地点を結ぶことになったからである。
 上記のごとく、中国大陸と日本列島の中間の大海を航海中の倭人たちが故郷へ帰還する時には――天頂緯度線と重なる天体部が出現する〔東〕から45度の〔北〕の〔東北〕の水平線の地点を目標とすることになるので、水平線のまたさらに遠い水平線の彼方(かなた)にある日本列島は〔東〕が〔北〕となる〔逆時計回りの方位規定による方位〕に存在するのかそれとも〔北〕が〔東〕になる〔時計回りの方位規定による方位〕に存在するのかと、遠く離れた日本列島の方角を決めかねて悩むことになる。同様に、大海原の倭国の航海者たちが〔西〕の水平線の彼方の魏都へ目指して針路を取っている時には――天頂緯度線と重なる天体部が没する〔西〕から45度の〔北〕の〔西北〕の水平線の地点を目標とするので、水平線のまたさらに遠い水平線の彼方にある魏都は〔西〕が〔北〕になる〔時計回りの方位規定による方位〕に所在するのかそれとも〔北〕が〔西〕になる〔逆時計回りの方位規定による方位〕に所在するのかと、遠く離れた魏都の方角を決めかねて悩むことになる。
 倭の航海者たちはA図右上の「天頂緯度線」をキャッチすれば命を手に入れることができたので、彼らは卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回列島地理の知識を有するものであったとしても大海で位置(緯度)と方位が不明となって漂流せず、ただひたすら天頂緯度線の測定に専念すれば魏都にも到着でき、故郷へ帰還できたのである。
 前述したように、人間の頭脳にそなわる本能と眼力でキャッチしたA図の右上に示した[]の「天頂緯度線」は1分の精度で緯度を精密に測定できたが――大海を往来する航海者たちは水平線を越えまた水平線を越えて進んで到着できる中国大陸に対して、日本列島は〔東〕に伸びているのかそれとも〔北〕に伸びているのかあるいは〔南〕に伸びているのか非常に悩ましい問題となった。だから、倭の航海者たちは「日本列島は東へ伸びる」と断定できなかった。
 ゆえに、卑弥呼王朝がある確かな事実を根拠・理由にして「日本列島は東に伸びずに、南に伸びる」と制定した転回日本列島地理に対して倭の航海者たちは「誤っている」と反論できなかったので、その錯覚の転回日本列島地理を信じたのである。
 卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理の根拠・理由は後述する。

◆中国・朝鮮半島と日本列島の中間には、「玄界灘(げんかいなだ)」という名の大海がある。この大海は「[]をキャッチすれば往来できる灘、つまり陸地から遠く離れる波の荒い海」であったゆえ、「玄界灘」と名づけられた。だから、倭の航海者たちは水平線を越えさらに水平線を越えて大海を往来するとき、A図の右上に示した「天頂点と重なる天体部」が天頂点を通過する時の46秒間の軌道=天頂緯度線をキャッチして1分の精度で緯度を精確に測定していたことになる。これゆえ、倭の航海者たちは中国大陸や朝鮮半島に到着でき、そして日本列島に帰還することができた。
 下のC図に示す北極星を基準にすれば、日本列島は東へ伸びると決定することができる。しかし、北極星では1分の精度で緯度を測定できない。これゆえ、北極星で緯度を計測する航海者は大海原で位置(緯度)と方位が皆目(かいもく)不明となって漂流し、結局、渇(かわ)き飢えて命を失うことになった。
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 航海者たちは本能にもとづいて死ぬことを何よりも嫌った。だから、北極星で緯度を測定せず、北極星を基準にして日本列島地理を考えなかった。
 緯度は、C図に示す北極星を目星(めぼし)にして天の北極の高度を知り、この高度を緯度に換算する方法でも計測できたが――北極星を利用して天の北極の高度を緯度に換算する、この方法だと『魏志』倭人伝に「古(いにしえ)より以来、その使(つかい)が中国に詣(いた)るに皆、自らを大夫(だいふ)と称した」という倭の航海者たちは必ず命を失うことになった。
 C図に示すように、天の北極の位置は25,800年で一周する。このうち、天の北極に最も近い北極星は五帝時代の紀元前2790年のりゅう座α星と、現在から約80年後のこぐま座α星である。この二つの北極星が天の北極を中心にして描く円の直径は約1.5(90/満月の3個分)である。ゆえに、約90分の円の中心となる天の北極を1分の精度で測定できる能力を、人間の脳にはそなわっていなかった。だから、原始時代以来、人は命を失うことになった北極星で緯度測量をせず、人は1分の精度でキャッチできるA図に示した[]をキャッチできる頭脳にそなわる本能と眼力に命を委(ゆだ)ねたのである。
 『魏志』倭人伝には「倭の風俗には、なにか事がおきる時や遠くの地に行ってもどって来るときには、骨を焼いて卜(ぼく)し、その吉凶を占(うらな)う」と説明する「易(えき)」についての記事がある。この[]の字源を『説文解字』は「蜥易(せきえき)なり」つまり「トカゲなり」と解説する。内田亨著作者代表『原色現代科学大事典 5――動物
(学習研究社発行)は「トカゲには、かならずもとのすみかにもどるという帰家性がある」と指摘する。だから[]の字源は「遠くの地に旅しても、大海を旅しても、トカゲのごとく必ず家族が待つ家に帰ることができる[]をキャッチできる能力」であった。
 『魏志』倭人伝の時代(2世紀末~3世紀半ばまで)、C図に示すように北極星=こぐま座β星は天の北極を中心にして半径約10度=直径約20度=約1200分であったので、人間の目には当時の約1200分の円を描く天の北極から1分の精度で緯度を精確にキャッチする能力がそなわっていなかった。だから、当時の人々が大海を迷わずに命をまもる方法は、A図の右上の[]をキャッチする方法のみであった。

 中国では紀元前1世紀に北極星を最も重視するシナ天文が完成したため、『魏志』倭人伝の記事となった2世紀末から3世紀半ばになると、従来の大海を往来する方法であった〔[]の天頂緯度線をキャッチする眼力を鍛錬する習慣〕が廃(すた)れた。〔[]の天頂緯度線をキャッチできる眼力〕は日々鍛錬しないと失われた。この「[]のキャッチ」は「原始や上古において、道なき広野や大海に道を作る術」であった。ゆえに、「[]のキャッチ」は要するに「道」ということになる。今日、武道家やスポーツ選手が「技術が最高・最良になるように鍛錬すること」を「道を極(きわ)める」と表現するが、この語は原始や上古における「[]をキャッチする眼力の鍛錬」に由来するものであったのである。

◆『魏志』倭人伝の末部には「魏の正始(せいし)八年(247)に、帯方郡太守(たいほうぐんたいしゅ)の王頎(おうき)が着任した。倭の女王卑弥呼は昔から、狗奴(くな)国の卑弥弓呼(ひみくこ)と不和であった。そこで、女王は載斯烏越(そしあお)等を派遣し、帯方郡にゆかせて、狗奴国との攻防の様子を報告させた。そこで帯方郡は、塞曹掾史(さいそうえんし)の張政(ちょうせい)等を載斯烏越等が帰国する船に便乗(びんじょう)させて派遣し、前年に魏帝が与えると約束した詔書(しょうしょ)と魏軍の黄色い旗の黄幢(こうどう)を仮に倭の外相・難升米(なしめ)に授けた。(中略)。卑弥呼にすでに没したため、十三歳の時に女王となった壱与(いよ)を倭女王に即位させた。壱与は倭国の大夫で率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)の掖邪狗(ややこ)ら二十人を派遣し、帯方郡使の張政らを送り還(かえ)らせた」と説明する記事がある。
 上記の記事が示すように、中国では紀元前1世紀にシナ天文が完成して[]をキャッチする眼力を鍛錬する習慣が失われたために、2世紀末~3世紀半ばになると魏や帯方郡の使節は玄界灘を往来できなくなった。このため、上記したように帯方郡の使節は倭の使節が帰還する船に便乗して倭地に到着し、役目を務め終わると朝鮮半島や中国に渡る倭の使節の船に便乗して帰還することになったのである。
 したがって、魏や帯方郡の使節は玄界灘を往来できなかったが、倭の使節は玄界灘を往来して魏王朝や帯方郡政庁に倭国の様子を伝えることをできたゆえ、『魏志』倭人伝が著作された。纏向遺跡邪馬台国説は〔文献批判〕を用いて北極星を基準にすれば知ることができる東に伸びる日本列島地図の方位規定にもとづいて立論するが、当時の北極星は天の北極を中心にして1200分の円を描いていたために魏や帯方郡の使節はもちろん倭の使節も玄界灘を往来できなかったことになる。ゆえに、纏向遺跡邪馬台国説の場合――魏・帯方郡と倭は外交をまったく結ぶことができず、魏では倭国の様子をまったく知らなかったことになるので、約2000字で構成される『魏志』倭人伝は文字が1字も書かれていない白紙であったことになる。
 だから、『魏志』倭人伝は1字も文字が書かれていない白紙であったことになる纏向遺跡邪馬台国説の実体は完全なる【誤読の空論】ということになる。また、『魏志』倭人伝は「倭の使節は玄界灘を往来して、魏都と帯方郡政庁に到着して外交交渉をおこなっていた」と明記するゆえ、上記の「北極星による緯度測量をおこなって玄界灘を往来できなかった」という設定、あるいは「北極星による緯度測量でも玄界灘を往来できた」と主張して【科学】を無視する設定は共に【空想】、【誤読の空論】ということになる。

◆魏や帯方郡の使節が往来できなかった玄界灘に、北緯3415分の沖ノ島が浮かぶ。
 日本地図を開くと――日本列島の西端に沖ノ島があり、日本列島の東端に伊豆諸島の神津島(こうづしま)が所在する、D図に示すように、沖ノ島と神津島は共に北緯3414分で同緯度である。
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 『魏志』倭人伝の時代、沖ノ島と神津島が同緯度であることは、A図の右上に示した[]のキャッチならば測定できたが、C図に示した北極星では測定できなかった。
 沖ノ島では冬に雪が降るが、伊豆諸島の亜熱帯地区の神津島では冬になっても雪は降らず一年中暖かい。この日本列島の西端と東端にある両島の気候の様子をあらわすと〔西冷東暖〕ということになる。
 E図に示すように、中国北部の海岸線地域の気候は冷たいが南部の海岸線地域は暖かい。この中国の海岸線地域の気候をあらわすと〔北冷南暖〕となる。
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 結局、中国の〔北冷〕と日本列島の〔西冷〕は冷たい気候で合致し、中国の〔南暖〕と日本列島の〔東暖〕は暖かい気候で合致するゆえ――『魏志』倭人伝の15ヵ所の方位記事が今日に伝えるように、卑弥呼王朝は「日本列島の〔暖かい東端〕は中国の海岸線地域の〔暖かい南方〕へと伸びる」と定める錯覚の転回日本列島地理を制定したのである。
 D図に示す沖ノ島は[]の字が付く玄界灘に浮かび、沖ノ島と神津島の同緯度は[]のキャッチならば測定できたゆえ、卑弥呼王朝はA図とB図で解説した[]のキャッチにもとづいて転回日本列島地理を制定したことになる。
 前述したように――地球が円いために緯度線は水平線・地平線の〔東北〕から〔西北〕を結ぶ線となった。A図の右上に示す[][]の字源「天頂緯度線」、この〔天頂緯度線が出現する水平線の東北の地点〕は〔東〕が〔北〕となるのかそれとも〔北〕が〔東〕をかねているのか判然(はんぜん)としない。しかし、卑弥呼王朝はE図に示した中国の海岸線地域の〔北冷南暖〕と日本列島の〔西冷東暖〕の合理によってその疑問が解決したと思い込み、東ではなく南に伸びる錯覚の転回日本列島地理を制定したのである。
 『魏志』倭人伝は日本列島地理について「その道里(どうり)を計るに当(まさ)に会稽(かいけい)の東治の東に在()るべし」と記述する。
 F図に示すように、南に伸びる転回日本地理は中国の会稽(現在の浙江省の紹興市)と東治(現在の福建省福州市)の東にあるが、実際の日本地図は会稽と東治の東北にあって矛盾する。
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 したがって、現在の日本地図の方位規定を立論基盤にして卑弥呼が居住した王国の所在地を主張する纏向遺跡邪馬台国説は【誤読の空論】ということになる。

◆現在の日本地図にも、『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事は史実であったと伝える転回日本列島地図の方位規定をあらわす地名が残っている。
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(C) 2018 OHKAWA
 
 上のG図に示す北九州の佐賀県・長崎県の両県にまたがる東松浦・北松浦・西松浦と長崎県の東彼杵(ひがしそのぎ)・西彼杵という地名は現在方位の場合、東松浦は北にあり、北松浦は西にあり、西松浦は東松浦の南にして北松浦の東にあり、東彼杵は西彼杵の北にあって松浦と彼杵に冠する方位名がまったく不合理となる。
 G図下部に示す転回方位に則(のと)って〔西〕を〔北〕とすると松浦と彼杵に冠する方位名はすべて合理となり、『魏志』倭人伝が全15ヵ所の方位記事が伝える転回日本列島地理は史実であったと伝えている。
 G図に示すように、西松浦の東方に岩戸山(いわとやま)古墳がある。『筑後国風土記(ちくごのくにふどき)』には「磐井君(いわいのきみ)」と題する記事がある。森貞次郎氏の詳細な研究によって、6世紀に反乱をおこした筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)の磐井の墓は岩戸山古墳であったことが解明され、定説となる。『筑後国風土記』は磐井の墓(岩戸山古墳)の規模を「南北各六十丈、東西各四十丈」と記述する。森貞次郎氏は「六十丈」と「四十丈」は正確に一致しているが、ただ方位の「南北」と「東西」だけが入れちがっていると指摘した。しかし、「南北」と「東西」は現在の日本地図の方位だと入れちがって矛盾するが、転回方位だと正しいことになる。
 H図は明(みん)の建文(けんぶん)4(1402)に朝鮮で作られた「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)の日本列島地図の部分を示す概略部分図である。
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 H図の「混一疆理歴代国都之図」における誤った日本地図について、幾人かの学者たちは「中国では、古くから倭国(日本列島)は南北に連なる島々と考えられていた」と解釈され、卑弥呼王朝が制定した日本地図ではないとされる。しかし、この日本地図は『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事に合致する。したがって、1ヵ所も【誤読=文献批判】を加えなければ蘇(よみがえ)る卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理をあらわす。なぜならば、G図に示した「松浦」と「彼杵」に関する方位名と岩戸山古墳の規模の「南北」と「東西」の入れ違いは倭国における地理の産物だからである。ゆえに、H図の日本地図は中国における古くからの地理観をあらわすものではなく、卑弥呼王朝が制定した誤った地理観であったと考えるべきことになる。
 『魏志』倭人伝が記述する朝鮮半島の狗邪韓国(くやかんこく)→対馬国→一大国→末盧(まつろ)国→伊都(いと)国→奴()国→不弥(ふみ)国→投馬(つま)国→邪馬壱(やまい)国までの旅程記事の距離と方位に1ヵ所も【誤読=文献批判】を加えなければ、倭女王卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰出雲地方(旧国の石見・出雲・伯耆、現在の島根県と鳥取県西部)であったことになる。
 『魏志』倭人伝には「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆、倭種なり」という記事がある。転回方位だと〔北〕が〔東〕となるゆえ、出雲の北方約40kmの日本海上に浮かぶ隠岐群島が「皆、倭種なり」ということになる。隠岐群島は島前(とうぜん)の知夫里島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島の3島と最も大きな島の島後(とうご)と約180の小島からなるゆえ「隠岐群島の皆の島、倭種なり」ということになる。
 現在地理の方位規定を立論基盤とする纏向遺跡邪馬台国説には「女王国の東、海を渡る千余里の皆が倭種となる群島や諸島」が存在しない。また、この記事に合致する群島や諸島は畿内邪馬台国説にも九州邪馬台国説にも存在しない。したがって、纏向遺跡邪馬台国説も畿内邪馬台国説も九州邪馬台国説も【誤読の空論】ということになる。

◆以上のごとく、『魏志』倭人伝は女王国の名を「邪馬壱国」と記しているゆえ、纏向遺跡邪馬台国説の『隋書』倭国伝に記される「邪馬台国」という名称が正しいという意見は誤読説であり、纏向遺跡邪馬台国説は15ヵ所の方位記事に多くの〔文献批判〕を加えるゆえ、その実体は【誤読の空論】ということになる。
 前述したように、足利事件において栃木県警と最高裁と新聞各社は菅家利和受刑者の言葉を信用せずに批判したため、事実を誤認した。同様に、纏向遺跡邪馬台国説は『魏志』倭人伝の方位記事には誤りがあると信用しないで多数の〔文献批判〕を加える。このため、纏向遺跡邪馬台国説は事実を誤認する【誤読の空論】となった。
 前述したように、紀元前850年頃に生存したギリシアの詩人ホメロスの英雄叙事詩『イリアス』に記述された約350年前の紀元前1200年前後におこったトロイ戦争は歴史上の事実であった。これゆえ、学者たちの「トロイ戦争はホメロスが創作した空想である」という〔文献批判〕こそが【誤読の空想】となった。A図に示した〔[]のキャッチ〕によって、『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事には1ヵ所も〔文献批判〕を加える必要が無いことが明らかとなる。
 
 前述したように、古代史学には――前人が残した伝説や前人が作った文献に書かれた記述を、たとえ後世の学者たちが「この記述は誤っている、信用してはならない」と文献批判して否定しても、また後世の学者たちが放射性炭素年代測定などの〔科学的方法〕を利用して立論しても、前人の記述に【科学】が成立し、〔文献批判〕を加えた後世の学者たちの意見が矛盾し不合理で【科学】が成立しない場合、前人の記述はなんびとにも否定できない真実ということになる絶対原理が存在する。
 このような絶対原理が古代史学には存在するゆえ、放射性炭素年代測定を根拠・理由にあげ、『魏志』倭人伝の15ヵ所の方位記事に【誤読(文献批判)】を加えて立論する纏向遺跡邪馬台国説の実体は【誤読の空論】であると断定すべきことになる。
 【誤読】を多用する纏向遺跡邪馬台国説は「放射性炭素年代測定」という〔科学的方法〕を用いれば正しい意見になると見せかけて、『魏志』倭人伝に記述された【科学】が成立する事実を潰(つぶ)し捻()じ曲げる【空理空論】である。

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コメント

1、大川様こんにちは! 私は秋田市の石井護(巡堂)73歳です。東北縄文文化研究会として主として大湯環状列石を中心に研究しております。
2、大川様が2013年から「日本の漢字は男鹿半島・米代川文化圏から起源した」をアップしているのに見逃しておりました。最近出会い、ここまで素晴らしい解読をなさった作品に、感動しながら何度も勉強しております。
3、大川様の大湯環状列石に関する部分を、図と共に引用させていただきたく、お願い申し上げます。
 メールの方は通じないようですから、こちらに掲載させていただきました。

投稿: 石井護 | 2018年7月 8日 (日) 14時06分

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