#16 邪馬台国説はフェイクであった!
★即位礼と大嘗祭は宗教儀式ではない、明確に学問儀式である
◆令和元年の10月22日におこなわれた即位礼正殿の儀と翌11月14日の夕刻から翌日未明におこなわれる大嘗祭(だいじょうさい)について、朝日新聞の令和元年10月22日・23日の記事は「宗教的儀式であるから、政教分離など憲法上の疑義は将来の課題として残る」と報道する。
この朝日新聞の報道は明確に誤報・デマ・フェイク(虚偽報道)であり、即位礼と大嘗祭は宗教的儀式ではない、明らかに学問儀式である。
◆江戸中期・17世紀~18世紀に生存した新井白石(あらいはくせき)以来300年、最も正しいと信じられている九州邪馬台国説と畿内邪馬台国説は【誤読の空論】である。
また江戸時代の18世紀に生存した本居宣長(もとおりのりなが)が著わした注釈書『古事記伝』にもとづいて学者たちが立論する日本神話虚構説も【誤読の空論】である。
令和元年9月14日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)にて、【九州邪馬台国説・畿内邪馬台国説と日本神話虚構説は完全なる誤読の空論】である実体を、詳細に具体的に【科学】が成立するように解説して証明した。
この点に疑問を抱く方は、拙著『日本国誕生史の証明』で確かめていただきたい。
◆【誤読の空論である邪馬台国説と日本神話虚構説】を鵜呑(うの)みにする朝日新聞は――日本神話は歴史ではなく、神道(しんとう)について語る物語である。即位式と大嘗祭は日本神話・神道(宗教)をあらわす儀式であるゆえ、即位式と大嘗祭は宗教的儀式である――と思い込む。
しかし、日本神話は【古代学問】と【日本国(小国・日本)誕生史とその後の歴史(上古史)】を説明する記録であった。だから、令和元年におこなわれる即位式と大嘗祭は【古代学問と日本国誕生史】を現在に伝える学問儀式であるゆえ、断じて宗教的儀式ではない
◆このブログで幾度もくりかえすように、倭女王卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は3世紀後半(280~289年)に著作されたが――即位式と大嘗祭で表示される【古代学問】と【日本国誕生史】ついて下記のごとく説明する。
約2000字で構成される『魏志倭人伝』の(1)約25%・約500字は【倉頡が発明した漢字作成方法】について説明する。倉頡は紀元前3000年ころの五帝時代初頭の黄帝(こうてい)につかえた史官(記録官)である。(2)約20%・約400字の記事で「倭国には【夏音文字の学芸】が存在した。夏音文字は中国の後漢時代と三国時代に用いられた楷書で表記されるが、夏音文字も楷書も倉頡が発明した漢字作成方法にのっとって銀河から作られた。漢字が作られた銀河は、天文学では【夏の銀河】と称される、「夏の星座」と呼ばれる全星座が漬(つ)かる巨大な銀河である。倭の伊都(いと)国の港では夏音文字と魏政府・帯方郡と諸韓国が用いる楷書で書く文書を点検し、確認して差錯(ささく/相違)しないように正しく変換できた」と説明している。
したがって、令和元年の秋におこなわれる即位式と大嘗祭は、上記した『魏志倭人伝』の(1)と(2)の合計約900字・約45%の記事が説明する【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸】、つまり【古代学問】を表示する儀式であった。
◆【即位式と大嘗祭は明確に学問儀式】である事実は、前回のわがブログ(#15)にて、紀元前5世紀に生存した孔子と並ぶ中国の二大思想家の老子(ろうし)の教えを説く『老子』第二十章が今日に伝えていることを解説して証明した。
老子は【倉頡が発明した漢字作成方法】を知っていたが、孔子は知らなかった。
老子・孔子より約2500年後の令和元年の秋、皇室は即位式と大嘗祭で【倉頡が発明した漢字作成方法】を表示する。
だから、朝日新聞の「即位式と大嘗祭は宗教的儀式である」という誤報・デマは断じてゆるされるものではない。
◆『老子』第二十章の冒頭の「学を絶てば憂(うれ)い無し」という文における「学」は、即位式と大嘗祭であらわす【倉頡が発明した漢字作成方法】である。
老子の教え(道教)を書く書物は『老子』は37章の上篇(道経)と、44章の下篇(徳経)で構成される。37章からなる『老子』上篇(道経)は「漢字は【夏の銀河】から漢字は作られた」と暴露する書物であった。
わが国においても漢字が起源した中国においても、「漢字が【夏の銀河】から作られた知識」を反体制側が手に入れると、革命に利用されて容易に国家と王朝が崩壊する可能性は大であった。だから、国家と王朝は独占管理して厳重に機密を保持(ほじ)して、「漢字が【夏の銀河】から作られた秘密」を暴露する者は死刑と定められていた。
これゆえ、司馬遷(しばせん)著『史記(しき)』は老子を「喪家(そうけ)の狗(いぬ)」つまり「漢字は【夏の銀河】から作られた事実を暴露して国家と王朝を滅ぼすと定められた大罪を犯す老子は、役人につかまって死刑となるのを恐れて頻繁(ひんぱん)に住居を変える宿無し犬であった」と伝えている。
◆太安万侶(おおのやすまろ)が書いた『古事記』の序は「古事記上巻 幷わせて序」と表記された。というのも、『古事記』は上巻・中巻・下巻の三巻で構成されたが――、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字の語に【歴史解明方法】が仕組まれていたからであった。
皇室が至上神と崇拝する先祖は、天照大御神である。
皇祖・天照大御神(3世紀後半に生存した第10代崇神天皇とその生母)の遺勅(ゆいちょく/死後にのこされた勅命)は――皇室が永らく存続するためには、【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸】を政権基盤にして滅びないようにしてまもり、この学問を皇室と国家が独占管理して厳重に機密を保持(ほじ)せよ。人民が最も尊重する【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】は革命に利用されて皇室と国家を滅ぼす危険思想であるゆえ、絶対に後世に伝えてはならない。皇室は代々、【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】の抹殺(まっさつ)・消滅につとめなければならない」であった。
『古事記』編纂(へんさん)スタッフは天照大御神の遺勅に逆(さか)らって、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話に【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を記述することにした。この反逆は(1)「漢字は【夏の銀河】から作られた事実は絶対に暴露してはならない。即刻死刑にする」という大罪(たいざい)と、(2)天照大御神の遺勅「【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を必ず抹殺・消滅せよ」によって皇室と国家の崩壊を目論む大罪と決められていたゆえ、死刑と決められた二重の大罪を犯す行為であった。
だから、死刑をまぬがれるために【夏音文字を表記する楷書各字の字源・字形・字義を夏の銀河各部の形状に変換すれば歴史が解明できる方法】を企(たくら)み――【日本神話の各記事を慎重(しんちょう)に注意深く思索(しさく)して読めば歴史を解明することができるが、各記事の表層だけをとらえて粗雑(そざつ)に読解(どっかい)すると歴史を解明できない方法】を、編纂スタッフは企んで、『古事記』を正史(せいし)にしょうとしたが、この企みは見破られて失敗した。
このような事情であったゆえ、太安万侶は「上巻の随所に〔音〕という注が付く夏音文字の語に用いられる楷書各字の字源・字形・字義を【夏の銀河各部の形状】に変換すれば歴史が解明できる方法」の企み(仕掛け)が察知できるように、「『古事記』上巻の序」を「古事記上巻 幷わせて序」と題する、きわめて特殊の序としたのである。
この「古事記上巻 幷わせて序」に書かれた歴史解明方法の説明を、注釈書『古事記伝』を著作した本居宣長は読解(どっかい)できなかった。今日の学者たちも本居宣長と同じく「古事記上巻 幷わせて序」が説明する歴史解明方法を読解できない。だから、今日の学者たちは「『古事記』上巻の日本神話は歴史を語るものではない。日本神話の物語である」という【誤読の空論】にとりつかれている。
◆「老子」と言えば「知足(ちそく)」の思想が有名である。
『老子』第三十三章の文中には「足(た)るを知る者は富み」という文がある。『老子』第四十六章では「禍(わざわい)は足るを知らざるより大なるは莫(な)く」、また「知足の足は常に足(た)る」と説く。
前回のブログ(#15)の末部で解説して証明したように、「知足」は[学]の字源銀河部をあらわし「学問」を意味した。
令和元年11月14日の夕刻から翌日未明におこなわれる大嘗祭(だいじょうさい)の[大・嘗・祭]の3字の字源銀河部は[学]の字源銀河部と合致するゆえ、「学問」を意味した。
だから、【大嘗祭】は【学問儀式】であったのである。
◆『老子』だけでなく、京都市右京区の「枯山水(かれさんすい)の平庭」で有名な竜安寺(りょうあんじ)の石庭(せきてい)もまた【大嘗祭】は【学問儀式】であることを示している。
臨済宗(りんざいしゅう)妙心寺派(みょうしんじは)に属する龍安寺の石庭を説明するパンフレットは「禅(ぜん)とは」と題して――禅(仏)のない宗教である。特定の拝む対象のない宗教である。「自己」を拝む宗教である。「自己」の自覚を深く掘り下げる宗教である。「悟り」即ち「吾が心」を見る宗教である。「無」「無我」「無心」の宗教である。「吾れ唯だ足ることを知る」宗教である――と説明する。
つまり、龍安寺の石庭を説明するパンフレットは――禅とは、漢字が【夏の銀河】から作られた「学問」、つまり『老子』が説く「知足」を拝み、【夏の銀河】を観察して自覚を深く掘り下げ、【夏の銀河】を観察して「悟り」即ち「吾が心」を見て、「無」「無我」「無心」を知ることができる【夏の銀河】から作られた学問を窮(きわ)める宗教である――と説明していることになる。その証拠に、パンフレットには――「吾れ唯だ足ることを知る」宗教である――と記してあるように、龍安寺の禅は『老子』が説く「知足」=【倉頡が発明した漢字作成方法】を知る宗教であった。
龍安寺の石庭を眺める「方丈の間」の東北に蔵六庵(ぞうろくあん)の茶室がある。その前に水戸光圀(みとみつくに)から寄進(きしん)された「知足のつくばい」がある。
この「知足のつくばい」とよばれる手水鉢(ちょうずばち)の正方形の海(うみ/水を入れる穴)は[口]の字を示す仕掛けとなる。北に[五]、東に[隹]、南に[疋](ただし、[疋]の上部が欠けるウソ字)、西に[矢]の字が配置され、中央の海の[口]の字と合体して「吾唯知足」の4字が成立する仕掛けとなり、パンフレットの「禅とは」という説明にある「吾れ唯だ足ることを知る」とい文をあらわしている。
そして、南のウソ字の[疋]の上部のおける【[一]の右端を左にむける撥ね】で「十五から[一]を引く十四」とあらわす仕掛けとなる。[疋]と[足]は共に「膝(ひざ)から下の、足の下半部の象形字」である。甲骨文字では[足]と[正]の同一形である。
龍安寺の石庭は5群に分かれ、全15個の石を東から西へ5・2・3・2・3の石組にして、どの角度から見ても石庭の石は合計15個であるはずなのに14個にしか見えないようになっている。つまり、上記したように[一]を減ずる仕掛けを秘める[疋]のウソ字には「石が14個に観える景色は虚偽、15個が足=正(正しい)」と示す役目があったのである。
ゆえに、「知足のつくばい」は歴史解明方法が記述された「古事記上巻 幷わせて序」に類似して――石庭は「暴露することが禁じられた【夏の銀河】から作られた漢字学の秘密」を深く思索(しさく)して知るための装置(芸術作品)であったのである。
◆『魏志倭人伝』は「倭国の易(卜占/うらない)」について説明する記事における「令亀(れいき)の法の如(ごと)く」という文で「倭国には中国の殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字のような原初漢字があった」と証言する。
また『魏志倭人伝』は「倭国の伊都(いと)国の港では、魏と朝鮮半島の魏の出張政庁が所在する帯方郡と諸韓国が文書に用いる楷書と倭女王卑弥呼が文書に用いる原初漢字を、点検・確認して差錯(ささく/相違)が生じないように正しく変換していた」と記述する。
この二つの記事は「わが国は紀元前2070年ころ~紀元前2050年ころの中国の夏代(かだい)初頭に伝来した夏音(かおん)文字を習得した」と証言するものであった。
また712年に成立した『古事記』の序(古事記上巻 幷(あ)わせて序)も冒頭の文で「わが国は中国の夏代初頭=わが国の後期縄文時代初頭、夏音文字を習得した」と記述する。
したがって、龍安寺の「知足のつくばい」は石庭のおける合計15個の石が14個に見える景色(仕掛け)で――『魏志倭人伝』の〔倭の易〕と〔伊都国〕の記事と「古事記上巻 幷わせて序」冒頭記事はわが国には夏音文字があった事実を伝えるものであり、また『老子』第二十章冒頭に登場する[学]の字源・字義の【倉頡が発明した漢字作成方法】がわが国に存在した事実である――と伝えていることになる。
◆龍安寺の石庭における全5群の石組は、【夏の銀河各部の形状】をあらわす仕組みとなる。
石庭を見学できる方丈(ほうじょう)の前の「縁側の端」を「地平線」または「水平線」に見立てると「第1群・第2群の石組」は「地平線・水平線上から昇りはじめる【夏の銀河】の形」に相似し、また「全5群の石組の形」も「地平線・水平線上から昇りはじめる低く円弧を描く【夏の銀河】の形」が連想できるようになっている。
「大小15・5群の石組を配置する白砂(はくさ)を敷きつめる庭」は「大海」が連想できる景色となり、「全5群の石組を連結させて円弧を描くようにする、その景色」は「甲羅が円弧形の海原を泳ぐ大亀の姿」に観える。ゆえに、『魏志倭人伝』の「倭の卜占の辞は令亀の法の如き」という文は「倭の夏音文字の字形は甲骨文字の字形の如きであった」と解釈すべきことになる。
したがって、竜安寺の石庭は「夏音文字と夏音文字をあらわす音符の役目をした楷書はともに【夏の銀河】から作られた」と表現するとともに、「わが国には【倉頡が発明した漢字作成方法】が『魏志倭人伝』初頭から始まる約25%・約500字の記事で保存されていた」と伝えていることになる。
◆5群に分かれる石組において、東端にある第1群の15個の石において最大の石は、庭全体の主石の役割をはたす。方丈から見ると第1群の主石は「天頂(真上)を仰ぎ見る僧侶(大人/おとな)の横顔の形」をしており、庭中央の第3群における最大の石は「天頂を仰ぎ見る子どもの横顔」に相似し、庭の西側にある大石も「天頂を仰ぎ見る人の横顔の形」となる。
ゆえに、5つの石で構成される第1群は「倉頡が生存した五帝時代初頭の黄帝(こうてい)時代」をあらわし、「天頂を仰ぐ横顔の形の主石」は――五帝時代に中国各地の天頂にめぐってきた、【夏の銀河】の東端の「妊婦の姿に似る銀河」(前回(#15)のブログの後半を参照)――を示す。
「妊婦の姿に似る銀河」を、倉頡は「【夏の銀河各部の形状】から作られた全漢字を生む母体」と定めた。それゆえ、「天頂を仰ぐ子どもの横顔の形」をした大石がある第3群は「(A)妊婦の姿に似る銀河で胎児を宿して育てる子宮と(B)子宮を包囲して胎児の命をまもる骨盤(こつばん)と(C)出産する産道(さんどう)」をあらわす。
だから、全5群の石組は「妊婦の丸い腹部(おなか)の形」を表現している。
◆庭の西側にある第5群の石組の形は【夏の銀河】における東方にある、天文学にて「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」と名づけられた銀河部がある「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河の形」にソックリである。
「北天の最輝部」は「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)の部分」にある。「北天の最輝部」は「北半球で住む人々が、全銀河の帯において最も輝いて見える銀河部」である。「北天の最輝部」は「白く(銀白色に)輝く銀河部」である。
三日月の夜に視界の中に明るい光が入らない暗い場所における瞳孔径(どうこうけい/瞳孔の直径)で見ると、【漢字となった夏の銀河各銀河部の形状】が最も明確に見える。この【漢字となった各銀河部の形状が最も明確に見える状況(視界の中)】に少し明るい光が入って瞳孔径が少し縮小すると、[子]と「文字」の[字]の字源銀河「子どもの姿(出産した嬰児や胎児の姿)に似る銀河」は「北天の最輝部」と共に白く(銀白色に)輝くようになる。
つまり、「銀河」の語源は「北天の最輝部」と「銀白色に輝く子どもの姿に似る銀河」であった。
英語の「銀河」が「Milky Way(ミルキーウエイ)」であるのは「北天の最輝部」と「子どもの姿に似る銀河」が乳(ミルク)の色のように白く輝くからである。
だから、「銀河」の語源の秘密をあらわして、龍安寺の石庭は一面に白い砂が敷きつめられている。
したがって、大嘗祭に臨む天皇の姿は「銀河」の語源【白く輝く銀河】の「北天の銀河部」と「子どもの姿に似る銀河」】をあらわして【白い装束(しょうぞく)】で包まれる。
10月22日の即位礼正殿の儀に臨んだ皇后陛下の衣装は「銀河」の語源に因(ちな)んで「白い絹の着物」で十二単(じゅうにひとえ)をおおい包んでいた。
白砂(はくさ)が敷きつめられる長方形の石庭の南面は柿葺(こけらぶき)油土塀(あぶらどべい)である。即位式正殿の儀において高御座(たかみくら)に立つ天皇陛下は柿葺油土塀の色の装束に包まれていた。
◆石庭の主石となる第1群石組の「天頂を仰ぎ見る僧侶の横顔に似る大石」は「虎の横顔」にも相似し、第3群石組の「横三尊」と呼ばれる「天頂を仰ぎ見る子の横顔に似る大石」も「子ども虎の顔」に相似する。ゆえに、庭の石の配列から子渡しの故事(こじ)にたとえられて、石庭は俗に〔虎の子渡しの庭〕とも呼ばれことになった。
第1群と第3群の大石は東西・横ほぼ平行に並べられて[一]をあらわし、[一]の字をあらわす大石は[大]をあらわして「一大」という語をあらわす役目があった。ゆえに、第3群石組は「横三尊」と呼ばれることになったにちがいない。
前回(#15)のブログの後半部で解説したように、「一大」の語源は「【夏の銀河】各部の形状から作られた全漢字が生まれる、【妊婦の姿に似る銀河で子宮に相当する銀河部】」であり、【倉頡が発明した漢字作成方法における核心部となる銀河部】である。ゆえに、庭中央の第3群石組は「横三尊」と特別の名称がつけられているにちがいない。
わが国に【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸】をもたらした益氏について、司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀は「五帝時代最後の虞帝(ぐてい)・帝舜(しゅん)の時代に〔虞〕という重職についた」と記述する。
司馬遷著『史記』夏本紀は――夏王朝の始祖・帝禹(う)が没する時の「五帝時代以来の国家を作らず氏族共同体制を保持せよ」と遺言で、帝禹の政治を補佐〔注 知足のつくばいの[疋]には「補佐」の字義がある〕した益氏の王が帝王についた。しかし、諸侯は帝禹の遺志に従わず、「国家を創設して、帝王は漢民族の家系で世襲する政治体制」を主張する帝禹の息子の啓(けい)のもとに入朝(にゅうちょう)した。ゆえに、中国では帝禹の遺志は廃(すた)れたと判断した、帝益は禹の三年の喪(も)が終わると、益は帝位を啓にゆずって隠棲(いんせい/隠居)した――と記述する。
隠居した益王は禹の遺志を新天地・日本列島にて継続しようと決心した。しかし、益王は老いて中国と日本列島の間の大海(玄界灘)を舟で漕いで渡ることができる体力を失っていたので、禹の遺志を継ぐ事業は益王の孫の青年王子と若者たちによって荒波逆巻く玄界灘を渡って日本列島の移住が成しとげられた。ゆえに、この禹の遺志を継ぐために「益氏の王子と若者たち一行が荒波逆巻く玄界灘を渡った大事業」は今日の「益荒男(ますらお)」の語源となり、『魏志倭人伝』では「倭の使者は中国に到着すると皆“大夫”と称した」という記事となり、万葉仮名では「大夫」は「ますらを」と読むと定められて今日は「益荒男」と表記されることになった。
益氏が就いた[虞]は[虎]に[呉]が合体する字であり、[呉]の字は「子ども無事に生まれるようにと願う巫女(みこ)が出産祝いをあらわす土器をかかげて、産道を身をくねらせて生まれる子の姿をあらわして巫女が身をくねらせて舞う様子」をあらわした。
ゆえに、庭中央の横三尊の大石が「虎の子の横顔」に相似する第3群組石は[虎]に[呉](子が健やかに出産する)が合体する「虞」の字をあらわし――帝舜の時代に「虞」の重職に就いた益氏の子孫の王子が【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学芸】を、わが国にもたらした――と表現していることになる。
◆以上、石庭の各部分は多岐(たき)にわたって【倉頡が発明した漢字作成法と夏音文字の学芸】の【古代学問】を表現する装置である状況を充分に説明しきれないが――いままで証明しただけの幾つかの事柄からしても、龍安寺の石庭は「即位式と大嘗祭は学問儀式である事実」を知ることができる【古代学問】を表現する装置(芸術作品)であったのである。
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