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2019年12月

2019年12月 5日 (木)

大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・9

★#9・大嘗祭における【日本建国の〔愛〕の理念】と壬申の乱

◆令和元年118日の朝日新聞の朝刊は「大嘗祭 ひもとけば」と題する記事で、下記のごとく報道した。
 ――日本古代文学が専門の工藤隆・大東文化大学名誉教授は「大嘗祭の本質は、先史時代までさかのぼって考えないとわからない」と主張する。(中略)。弥生時代から続くこれらの祭を下敷きにしつつ、7世紀の天武・持統両天皇の時代に最も重要な祭儀として整備された」とみる。
 日本書紀などには「天皇の璽印(みしるし)を奉る」などの記載がある。天武天皇より前から、継承の証しとして剣・印などを新天皇に渡す儀式は行われていたようだ。
 文献では、五穀豊穣(ほうじょう)を祈る新嘗祭(にいなめさい)を大規模にした「大嘗(おおにえ)」を天武天皇の即位に際し初めて実施されている。続く持統天皇の時には即位礼に続く形で行われ、飛鳥時代にこの形式が整えられたことがわかる。

◆令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明までに行われた大嘗祭は、上記した(1)【弥生時代から続く祭儀】と(2)7世紀の天武天皇からの大嘗祭の伝統】を受け継いでいるだけでない。
 (3)江戸時代の1738年、桜町天皇即位の際に将軍徳川吉宗が協力して復興した大嘗祭において新たに【日本建国の〔愛〕の理念】をも加えられた大祭でもある。
 だから、令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明に終了した大嘗祭は【上記した(1)(2)(3)の、3つの要素】から構成される学問儀式であった。

(2)天武天皇からの大嘗祭の伝統は――このブログが前回(8)まで解説し証明してきたように、【紀元前3000年ころの中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が発明した、夏の銀河から漢字が作られた学問】をもって表示された。
 つまり、令和の大嘗祭において、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は【天皇陛下の供饌の儀で、供饌から三つずつお供え物の食べ物を選んでピンセットのような箸(はし)で小皿に入れる行為を1000回余も繰り返す所作(しょさ)】で表示された
 弥生時代(3世紀)に生存した天照大御神母子(10代崇神天皇とその生母の伊迦賀色許売命/いかがしこめのみこと)は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を最も重視し、強大な権力を手に入れて大和朝廷の基礎を築いた。
 天照大御神母子は同じ弥生時代に生存した【伊耶那美命が唱えて、伊耶那岐命が受け継いだ〔愛〕を建国理念とした日本国誕生史】は憎悪して敵視した。というのも、【伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念】は【天照大御神が重視した夏の銀河から漢字が作られた学問の権威】の脅(おびや)かす危険な歴史にして思想であったからである。
 天皇の権力を絶大にするため、天武・持統両天皇は【夏の銀河から漢字が作られた学問を最も重視した天照大御神を最も偉大な皇室の先祖(至上神)と讃(たた)えて崇拝する大嘗祭】を起源させて、皇室が永らく存続するように図った。だから、天武・持統両天皇は――天皇の権力を絶大にするための最大の障害となった【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】は後世に絶対に伝えてはならない、必ず抹殺(まっさつ)しなければならない――と考えた。
 ところが、天武・持統両天皇が「絶対に後世に伝えてはならない」と禁じた【日本建国の〔愛〕の理と日本国誕生史】は、江戸時代に復興されることになった。
 つまり、(3)天武天皇が大嘗祭を始めた673年から約1070年後の1738年、桜町天皇即位の際に将軍徳川吉宗が協力して復興した大嘗祭にて、【日本建国の〔愛〕の理念】は表現されることになった。
 令和元年の大嘗祭においては、1114日の午後6時半ごろ、悠紀殿(ゆきでん)に向かって御菅蓋(ごかんがい/天皇の王冠)を高くさし掛けて葉薦(はごも/御筵道)を進む天皇陛下の行列の登場から【悠紀殿における供饌の儀】が始まった。また、翌15日の午前0時半ごろ、主基殿(すきでん)に向かって御菅蓋を高く差し掛けて御筵道(ごえんどう/葉薦)を進む天皇陛下の行列の登場から【主基殿における供饌の儀】が始まった。
 【天皇陛下の悠紀殿・主基殿で行われた供饌の儀】の前に行われた【葉薦(御筵道)を進む天皇陛下の行列】は、天武・持統両天皇の命令を破棄(はき)して、上記した(3)1738(元文3)の第115代・桜町天皇の時に【日本国誕生史における日本建国の〔愛〕の理念】を新しく加えるという、一大改革した儀式であったのである。
 このように、令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明に終了した大嘗祭は【上記した3つの要素】から構成される学問儀式であった。

◆【全漢字が夏の銀河から作られた事実】と【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】については、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。疑問を抱く方々は拙著『日本国誕生史の証明』にて確認していただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆このブログの前々回(6)で指摘したように――大嘗祭を起源させた第40代・天武天皇の両親・第34代・舒明(じょめい)天皇と皇后の宝(たから)皇女(35代・皇極天皇にして第37代・斉明天皇)であった。
 天武天皇の父の舒明天皇は『万葉集』2番の「天皇が香具山に登って国見(くにみ)をされた時」の長歌を作って、「伊耶那美命を象徴する天の香具山こそが大和に所在する諸々(もろもろ)の山で最も優れている」と伊耶那美命をたたえた。また、舒明天皇は『万葉集』5番の「讃岐国(さぬきのくに)の安益郡(あやのこほり)に幸(いでま)す時に、軍王の山を見て作る歌」と題する長歌を作って、小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)であった伊耶那岐命(いざなきのみこと)への憧れを表現した。
 そしてわがブログ「#20 邪馬台国説はフェイクであった!」で詳細に解説したように、また、この前回(8)のブログで要約して現代語訳して証明したように、『万葉集』485番の岡本天皇(天武天皇の生母の宝皇女)が作った長歌は【日本国誕生史の秘密】を解明できる重大な糸口(いとぐち)となる、多数の『万葉集』の和歌にあって【日本建国の〔愛〕の理念】を明確に表現する最も代表的な作品である。
 岡本天皇(舒明天皇と宝皇女)の息子は66813日に即した第38代・天智(てんじ)天皇と、673227日に即位した第40代・天武天皇である。
 天智天皇は兄で皇太子の時の名は「中大兄(なかのおおえの)皇子」であり、弟の天武天皇は皇太弟の時の名は「大海人(おおあまの)皇子」であった。

671(天智天皇10)10月、病床にあった兄天智天皇は皇太弟(こうたいてい)の大海人皇子(のちの天武天皇)を枕辺(まくらべ)にまねき、後事(こうじ)をたくそうとした。しかし大海人は用心して次の天皇になることをことわった。天智天皇は息子の大友(おおとも)皇子に譲位したかったので、大海人の出家と吉野隠退(よしのいんたい)の願いを聞き入れた。
 大海人の吉野入りに従う者は、正妃の菟野(うの)皇女(のちの持統天皇)とその子草壁(くさかべ)皇子、異母子の忍壁(おさかべ)皇子、舎人(とねり)40人余など計70人足らずであった。
 同年12月、天智天皇が近江で死去した。
 大海人が吉野に隠退してから半年ばかり経過すると、近江方の締()め付けがきびしくなり、近江から南の飛鳥(あすか)までの要所に監視人を置いて吉野の動静をうかがうようになった。
 おりしも、朴井連雄君(えのいのむらじおきみ)が「私は私用で美濃に行きました。時に近江朝では、美濃・尾張両国の国司(こくじ)に『天智天皇の山科陵(やましなりょう)を作るために、あらかじめ人夫を徴集(ちょうしゅう)しておけ』と命じておりました。ところが、その人夫たちに武器を持たせておりました。思いますに、これは必ず変事があることを示しているもので、もし速(すみ)やかに避()けられないと、きっと危険な目にあいましょう」と報告した。
 672624日、危険を察知した大海人は吉野を出立して東国へ逃れた。この時、吉野方の人数は女性や子どもたちまでふくんで50人足らずであった。(つまり、吉野へ隠退した時より大海人一行を護衛する兵士の舎人が約20人も減っていた)
 吉野を出発した日の朝、大海人一行は菟田(うだ)の安騎(あき)(現在の奈良県宇陀市の阿騎野)を通過し、甘羅村(かんらのむら)つまり現在の奈良県宇陀市の榛原町(はいばら)町の方へ向かった。
 甘羅村を過ぎた交通の東西要衝(ようしょう)の地にて、20人余りの猟師一行と出会った。
 この様子を、『日本書紀』巻二十八の天武天皇紀の東国の出発の条(くだり)は、次のように記述する。
 「甘羅村(榛原町)を過ぎると、猟師二十人余と出会った。大伴朴本連大国(おおともえのもとのむらじおおくに)は猟師の首領であったので、ことごとく召して一行の仲間に入れた。また、美濃国の王(美濃国の豪族)をも召され、お供(とも)に加わった。」

◆上記したように、大伴連大国がひきいる20人余りの猟師の一団には、朴井連雄君が大海人に「近江朝が美濃に人夫を徴集して武器を持たせていた」と報告した、その美濃国の王が一緒に行動していた。
 『日本書紀』神武天皇紀は「皇軍は、熊野の神邑(みわのむら)に到着し、天磐盾(あめのいわたて)に登った」という記事の後は、八咫烏(やたがらす)について下記のごとくの記事がある。〔なお、「天磐盾」は現在の和歌山県新宮市磐盾町に所在する、天照大御神を祭神として祀る神倉神社が所在する神倉山である〕。
 「大伴氏の先祖の日臣命(ひのおみのみこと)は、山を越え道を踏み分け、八咫烏の導くままに、仰ぎ見ながら(つまり、1度の60分の11分の精度で精確に緯度が測定できる天頂緯度線と経度軸をキャッチして)追跡して皇軍を先導した。皇軍は宇陀の下県(しもつこおり)に到着し、神武天皇はこの地を宇陀の穿邑(うかちむら)と名づけられた。そのとき、天皇は『お前は忠勇(ちゅうゆう)の士で、またよく道を導いた。この手柄にもとづきお前の名を改めて道臣(みちのおみ)としよう』と仰せられた。」
 大海人一行が出会った大伴連大国は現在の奈良県宇陀市榛原町の高星(たかへ)に居住していた。672年当時、榛原町高星は「高屋(たかや)」と呼ばれていた。
 この「甘羅邑の高屋・現在の榛原町高星」が『日本書紀』神武天皇紀の八咫烏の条に記載される、大伴氏の先祖の日臣命が皇軍を先導して到着した「宇陀の下県の穿邑」であった。その証拠に、「天磐盾(現在の和歌山県新宮市磐盾町の神倉山)」と「宇陀の穿邑(甘羅邑の高屋・現在の榛原町高星)」は共に東経13559分で同経度ある。先祖が日臣命である大伴連大国は、日臣命が皇軍を天磐盾から先導して到着した同経度(真北)の宇陀の下県の穿邑=甘羅邑の高屋に居住していたのである。
 大伴連大国は道臣命(日臣命)の末裔(まつえい)の、武家の名門・大伴連家と大伴家の宗家(そうけ)の頭領であった。
 女性や子どもたちをふくんでわずか50人足らずで東国へ逃れる窮地(きゅうち)におちいった大海人一を助けようと決意した大伴連大国が「道臣命の末裔」と名乗らずに「猟師の首領」と名乗ったわけは、出世や褒美(ほうび)を欲するものではなく、『古事記』伊耶那岐命と伊耶那美命神話の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に記載された【伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念の復興】を願うものであったからである。

◆上記したように、吉野を出発した大海人一行は、現在の国道370号線を北へ進んで菟田の安騎(現在の奈良県宇陀市阿騎野)を通過した。さらに、北上して甘羅村(宇陀市榛原町)を通過した時に、大国・美濃の王等の一団と出会った。
 大海人と大国が出会った場所は、現在の榛原駅のすぐ東の国道370号線・国道369号線・国道165号線の合流地点であったと考えられる。というのも、南東へ向かう国道369号線の先は伊勢であり、『日本書紀』天武天皇紀が書いてあるとおり大海人・大国たちは伊勢国へ米を運ぶ駄馬50匹と遭遇(そうぐう)しているからである。また、国道370号線から北東へ向かう国道165号線を進むと大海人・大国たちが通過した大野(奈良県室生村大野)に至り、その先は一行が夜半に到着した隠郡(なばりのこおり/今の名張)となる。そして、三本の合流地点は、大国が居住した高屋からの道とも合流する。
 大海人と大国に出会った推定地点は、古くは吉野、大和、伊賀、東海道や東山道、伊勢を結ぶ東西交通の要衝(ようしょう)であった。ゆえに、この要衝に近くにある高屋は東海道と東山道の武士たちをたばねる強力な武将・大伴連大国が居住するのに最適地であったことになる。

672624日に大海人一行が吉野を出発した時の人数は女性や子供まで数に入れて五十人足らずであった。
 大国らが加わって、夜を徹(てっ)して逃れ、伊賀の山中に至るころ、伊勢の郡司らが数百の兵をつれて従った。翌25日には五百の軍勢が、さらに26日には美濃の軍勢三千人が加わった。27日には、尾張の国司が二万の兵をひきいて加わった。
 だから、美濃の王をひきいて大海人と出会った大伴連大国は、伊賀・美濃・尾張の東海道・東山道の軍勢の頭領であったのである。
 壬申の乱は、『日本書紀』が書いてあるとおり「近江朝が美濃・尾張両国の国司に『天智天皇の陵墓を作るために、あらかじめ人夫を徴集しておけ』と命じて、その人夫に武器を持たせた指令」から始まった。
 近江朝は五十人足らずの吉野に住む大海人を簡単に殺害できる。しかし、この暗殺隊を吉野に向けると大国が住む高屋に近い交通の要衝を通過しなければならない。このため、大海人暗殺隊を吉野に向かわすと、この変事(へんじ)に高屋に住む大国は気づくちがいないゆえ、【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する大伴連大国は必ず軍勢を挙げると、近江朝は考える。したがって、近江朝の美濃・尾張の国司への命令は、先ず大伴連大国を討伐して、次に大海人を殺す陰謀をあらわすものにちがいない――と近江朝の命令を聞いた美濃の王は推察して、高屋に住む頭領の大国のもとにいち早く駆けつけたと推定される。
 だから、大海人と出会った時、美濃の王は大国と行動を共にしていたことになる。

◆当時、大伴連家の分家の大伴御行(おおとものみゆき)が、近江朝につかえていた。
 ゆえに、大伴御行は――大伴連大国は伊耶那美命・伊耶那岐命に熱烈に憧れるゆえ、【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する東海道・東山道の兵士たちに敬愛される、大伴連・大伴両家の宗家の頭領である強力な武将である――と、近江朝に報告したにちがいない。
 だから、近江朝は朝廷の威厳(いげん)に美濃・尾張の武士たちが畏怖(いふ)し服従して頭領の大国を討伐するにちがいないと推断して、次に大海人を殺すという作戦を立てたことになる。
 いっぽう、大国は近江朝による大海人の殺害を心配した。だから、吉野に隠退する大海人一行が甘羅村を通過した時から壬申の乱がおこるまでの半年間、大国は大海人に危害がおよぶ気配が発生した時の作戦を東海道・東山道の各地に赴(おもむ)いて配下の国司・郡司・王(豪族)たちと綿密(めんみつ)に相談していた。ゆえに、壬申の乱の朝、大国は素早くに各地に伝令を送って指令(しれい)した後に、大海人と合流した。これゆえ、伊賀国の郡司の数百の兵士が、翌日には五百の軍勢が、二日後には美濃の軍勢三千人が、三日後には尾張の国司が二万の武士たちをひきいて、大国が護衛する大海人一行に合流できたと考えるべきことになる。
 〔注 二日目の美濃の軍勢三千人、三日目の尾張の国司がひきいた二万の兵士の大海人一行との合流は、近江朝が美濃・尾張の国司に徴集を命じた人夫(武器を持たせた兵士)を服従させて大国を討伐する作戦の誤算・失敗を明確に示す。〕

◆尾張の国司が二万の大軍をひきいて大海人に帰順したときである――この一報が伝わると、近江方は一大恐慌(いちだいきょうこう)におちいった。募兵(ぼへい)の試みは失敗し、けっきょく、現有兵力で戦わなければならなくなった。そのころ、大和に隠退(いんたい)していた大伴馬来田(おおとものまくた)・吹負(ふけい)兄弟は、大海人の味方となり、629日に急きょ飛鳥の古京を襲って占領したことを、大海人に報告した。近江方は数万の兵を不破(ふわ)に向かわせたが、内紛(ないふん)がおこって失敗に終わった。
 吉野の出発から8日後の72日、吉野軍は近江軍を圧倒する数万の大軍となった。
 かくして、722日の瀬田(せた)の決戦で近江軍は敗(やぶ)れた。天智天皇の子の大友皇子は逃げ場をうしない、翌日、長等(ながら)の山崎(やまざき/諸説あり)で自ら首をくくって死んだ。ときに、25歳であった。
 このように、壬申の乱はまる一ヶ月で終わった。
 壬申の乱で、にわかに吉野軍が大軍になったのは、東海道・東山道の武士と同じく【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する大伴連大国がいちはやく大海人一行に合流して護衛していたからである。大国は大伴連家と大伴家の宗家の頭領であったゆえ、大伴馬来田・吹負兄弟は大和に隠退して吉野方に味方し、将軍・大伴御行は近江朝を裏切って吉野方に加わった。ゆえに、近江方に内紛がおこって、吉野軍に大敗したのである。
 673(天武天皇2)2月、大海人皇子は即位して大嘗祭を初めて実施(じっし)して天照大御神の崇拝政策を示し、天智天皇の路線を引き継ぎ律令体制の強化をはかった。
 よって、天武朝は【日本建国の〔愛〕の理念の排除】を表明したゆえ、大国が期待した【日本建国の〔愛〕の理念の復興】は成就(じょうじゅ)しなかったことになる。
 壬申の乱で天武天皇が勝利したのは、【天智天皇の政策の、日本建国の〔愛〕の理念の排除】に対する反発が【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民(下級官僚や庶民)のあいだにみなぎり、それが大海人への同情と期待となって、大伴連大国はじめ東海道・東山道の武士たちをつき動かすことになったからである。しかし、天武朝が表明した政治は【日本建国の〔愛〕の理念】に反するもので、大国たちの期待を裏切った。
 だから、吉野方に勝利を導いた最高の功労者・大伴連大国は、天武朝に参加せずに庶民となって、都から遠く離れる片田舎(かたいなか)の菟田(うだ)の高屋に居住した。 

◆このため、天武天皇にとって朝廷の律令政治に背を向け、【日本権力の〔愛〕の理念】を重んじる大伴連大国は最大最強の脅威(きょうい)となった。天皇は菟田の高屋にひきこもる大国の才能を惜しみ、なによりも彼の反乱をおそれた。また、都の東方を守備するためには、彼が有する兵力が不可欠(ふかけつ)であった。そこで、天皇は大国を懐柔(かいじゅう)するため、わが子を大国に与えることを思いついた。わが子を大国に預けて養育させれば、この子は成長して大国の後継者となる。わが子が東海道・東山道の武士たちを統率(とうそつ)する強力な武将となれば、都の東方の防衛は盤石(ばんじゃく)の備えとなる――と、天皇は目論(もくろ)んだのである。
 壬申の乱から4年後の676(天武天皇5)、新田部(にいたべ)皇女が天武天皇の子は出産した。これが、舎人(とねり)皇子である。
 797(延暦16)に完成した『続日本紀(しょくにほんぎ)』は「舎人皇子は天武天皇の第三皇子」と記す。つまり、舎人皇子は多数の天武天皇の子どもたちにあって、皇位継承順位が三番目の地位が高い皇族して、大国を養父とする庶民でもあったのである。
 天武天皇の第一皇子は、正妃菟野皇女(のちの持統天皇)が生んだ草壁皇子である。天武天皇は第二皇子をもうけなかった。『日本書紀』は「大津皇子が天武天皇の第三皇子」と記す。だから、天武天皇の第二皇子というべき皇族は大津皇子と舎人皇子であったことになる。

◆舎人皇子が6歳であった681(天武天皇10)317日、『日本書紀』天武天皇紀は「天皇は大極殿(だいごくでん)にお出ましになり、川嶋皇子・忍壁皇子はじめ12人の皇族・貴族に詔(しょう)して、帝紀および上古の諸事を記し定めさせた」と記述する。
 この記事に登場する「上古の諸事」は、620(推古天皇28)に皇太子・聖徳太子と大臣・蘇我馬子に編纂を勅令(ちょくれい)した【国記】を指していたことになる。この【国記(上古の諸事)】は――645613日、乙巳(おつし)の変で蘇我蝦夷(そがのえみし)が殺される前に自邸に所管していたすべての天皇記・国記・珍宝を焼こうとしたが――船史恵尺(ふねのふびとえさか)が素早く取り出して焼失をまぬがれた。〔これについては、このブログ前々回(7)で詳細に解説した〕。
 【蘇我大臣家に所管されていていた、乙巳の変で焼失しなかった国記(上古の諸事)】を、『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷わせて序)は、【国記(上古の諸事)】を「本辞(ほんじ)」、「旧辞(きゅうじ)」、「先代の旧辞」などの名称で呼ぶ。
 ゆえに、『古事記』という書名は――『日本書紀』天武天皇記における「上古の諸事を記し定めた」という記事にある[][][]3字に由来する――という説がある。
 しかし、天武天皇の【帝紀および上古の諸事の記定の勅令】は中止されて実現しなかった。
 というのも、天武天皇は皇室と国家権力を強化する律令体制を推進するため、【(1)天照大御神の聖性を絶対に汚してはならない歴史書の作成、(2)伊耶那美命がとなえた日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史を削除(さくじょ)する、上古の諸事の記定】を命令するものであったからである。
 上記したように、大伴連大国は【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史の削除】をゆるすはずがなく挙兵するにちがいなかった。この大国の挙兵には、壬申の乱の勝利に導いた東海道・東山道の武士たちはもちろん、壬申の乱で敗れた近江軍の残党も大国軍に加わるにちがいなかった。このような大国軍と戦って、天武王朝軍の勝算は不確かで敗戦する可能性もあった。これゆえ、天武天皇は【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史を削除する、上古の諸事の記定事業】を断念した。
 しかし、天武天皇が【上古の諸事の記定】を強行していたならば、反乱を指揮する大国は天武天皇の子・舎人皇子をどのようにあつかっていたであろうか。大国は厳(きび)しく育てながら舎人皇子を深く愛していたであろうゆえ、大国は生涯でもっとも厳しい苦渋(くじゅう)の選択をしなければならなかった。天武天皇の【上古の諸事の記定の情報】は大国の耳にもとどき、また少年舎人皇子も実父天武帝と養父・大国の対立の気配は察知したにちがいない。このとき、少年舎人皇子の小さな胸は不安でおしつぶされて、自分の父は愛情をそそいで育ててくれた大国であると思いつめ、いっぽう大国は挙兵しても舎人皇子は人質であらずわが子であるゆえなんとしても彼の生命はまもると決断し、生()さぬ父子は従来に増して強い愛で結ばれたにちがいない。
 よって舎人皇子にとって、父は天武天皇ではなく、大伴連大国であったことになる。
 舎人皇子は伊耶那美命に憧れた大国の遺志を継ぎ、【日本建国の〔愛〕の理念】を伝える歴史の保存に情熱をかたむけた。生さぬ父子の〔愛〕で結ばれる堅(かた)い絆が、強大な朝廷と国家の権力にたちむかったため、【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】を伝える『古事記』が成立することになったのである。

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2019年12月 4日 (水)

大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・8

★#8・中大兄皇子が作った「大和三山の歌」が伝える日本国誕生史の秘密

◆令和元年118日の朝日新聞の朝刊は「大嘗祭 ひもとけば」と題する記事で、下記のごとく報道した。
 ――日本古代文学が専門の工藤隆・大東文化大学名誉教授は「大嘗祭の本質は、先史時代までさかのぼって考えないとわからない」と主張する。(中略)。弥生時代から続くこれらの祭を下敷きにしつつ、7世紀の天武・持統両天皇の時代に最も重要な祭儀として整備された」とみる。
 日本書紀などには「天皇の璽印(みしるし)を奉る」などの記載がある。天武天皇より前から、継承の証しとして剣・印などを新天皇に渡す儀式は行われていたようだ。
 文献では、五穀豊穣(ほうじょう)を祈る新嘗祭(にいなめさい)を大規模にした「大嘗(おおにえ)」を天武天皇の即位に際し初めて実施されている。続く持統天皇の時には即位礼に続く形で行われ、飛鳥時代にこの形式が整えられたことがわかる。

◆令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明までに行われた大嘗祭は、上記した(1)【弥生時代から続く祭儀】と(2)7世紀の天武天皇からの大嘗祭の伝統】を受け継いでいるだけでない。
 (3)江戸時代の1738年、桜町天皇即位の際に将軍徳川吉宗が協力して復興した大嘗祭において新たに【日本建国の〔愛〕の理念】をも加えられた大祭でもある。
 だから、令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明に終了した大嘗祭は【上記した(1)(2)(3)の、3つの要素】から構成される学問儀式であった。

◆令和の即位式と大嘗祭では、(1)弥生時代(3世紀後半)から続く儀式は――『古事記』上巻に記述された天照大御神の歴史をあらわす「三種の神器」をもって――表示された。

 (2)天武天皇からの大嘗祭の伝統は――このブログが前回まで解説し証明してきたように、【紀元前3000年ころの中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が発明した、夏の銀河から漢字が作られた学問】をもって表示された。
 つまり、令和の大嘗祭において、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は【天皇陛下の供饌の儀で、供饌から三つずつお供え物の食べ物を選んでピンセットのような箸(はし)で小皿に入れる行為を1000回余も繰り返す所作(しょさ)】で表示された
 弥生時代(3世紀)に生存した天照大御神母子(10代崇神天皇とその生母の伊迦賀色許売命/いかがしこめのみこと)は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を最も重視し、強大な権力を手に入れて大和朝廷の基礎を築いた。
 天照大御神母子は同じ弥生時代に生存した【伊耶那美命が唱えて、伊耶那岐命が受け継いだ〔愛〕を建国理念とした日本国誕生史】は憎悪して敵視した。というのも、【伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念】は【天照大御神が重視した夏の銀河から漢字が作られた学問の権威】の脅(おびや)かす危険な歴史にして思想であったからである。
 天皇の権力を絶大にするため、天武・持統両天皇は【夏の銀河から漢字が作られた学問を最も重視した天照大御神を最も偉大な皇室の先祖(至上神)と讃(たた)えて崇拝する大嘗祭】を起源させて、皇室が永らく存続するように図った。だから、天武・持統両天皇は――天皇の権力を絶大にするための最大の障害となった【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】は後世に絶対に伝えてはならない、必ず抹殺(まっさつ)しなければならない――と考えた。
 ところが、天武・持統両天皇が「絶対に後世に伝えてはならない」と禁じた【日本建国の〔愛〕の理と日本国誕生史】は、江戸時代に復興されることになった。
 つまり、(3)天武天皇が大嘗祭を始めた673年から約1070年後の1738年、桜町天皇即位の際に将軍徳川吉宗が協力して復興した大嘗祭にて、【日本建国の〔愛〕の理念】は表現されることになった。
 令和元年の大嘗祭においては、1114日の午後6時半ごろ、悠紀殿(ゆきでん)に向かって御菅蓋(ごかんがい/天皇の王冠)を高くさし掛けて葉薦(はごも/御筵道)を進む天皇陛下の行列の登場から【悠紀殿における供饌の儀】が始まった。また、翌15日の午前0時半ごろ、主基殿(すきでん)に向かって御菅蓋を高く差し掛けて御筵道(ごえんどう/葉薦)を進む天皇陛下の行列の登場から【主基殿における供饌の儀】が始まった。
 【天皇陛下の悠紀殿・主基殿で行われた供饌の儀】の前に行われた【葉薦(御筵道)を進む天皇陛下の行列】は、天武・持統両天皇の命令を破棄(はき)して、上記した(3)1738(元文3)の第115代・桜町天皇の時に【日本国誕生史における日本建国の〔愛〕の理念】を新しく加えるという、一大改革した儀式であったのである。
 このように、令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明に終了した大嘗祭は【上記した3つの要素】から構成される学問儀式であった。

◆【全漢字が夏の銀河から作られた事実】と【日本国誕生史と【本建国の〔愛〕の理念】については、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。疑問を抱く方々は拙著『日本国誕生史の証明』にて確認していただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆このブログの前々回(6)で指摘したように――大嘗祭を起源させた第40代・天武天皇の両親・第34代・舒明(じょめい)天皇と皇后の宝(たから)皇女(35代・皇極天皇にして第37代・斉明天皇)は小国・日本の女王であった伊耶那美命(いざなみのみこと)と小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)であった伊耶那岐命(いざなきのみこと)への憧れを表現する和歌を作り、息子・天武天皇が「後世に絶対に伝えてはならない」と禁じた【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を題材にした和歌を作っている。
 舒明天皇と宝皇女が作った【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を詠()む和歌は、7791月に完成したと考えられる『万葉集』に収められている。

 『万葉集』2番は舒明天皇が作った「天皇が香具山に登って国見(くにみ)をされた時」の長歌である。この長歌で舒明天皇は「伊耶那美命を象徴する天の香具山こそが大和に所在する諸々(もろもろ)の山で最も優れている」と伊耶那美命を讃えている。
 『万葉集』5番は舒明天皇が作った「讃岐国(さぬきのくに)の安益郡(あやのこほり)に幸(いでま)す時に、軍王の山を見て作る歌」と題する長歌である。この長歌で、舒明天皇は伊耶那岐命の憧れを示して「小国・日本の軍王のちの開化天皇が、倭女王卑弥呼と素(もと)より不和であった狗奴(くな)(吉備地方)討伐を指揮した所縁(ゆかり)の安益郡(現在の香川県坂出市と綾歌郡の東部の地)の網の浦(坂出市の海岸)に到着すると、伊耶那岐命が本陣を設営した讃岐富士の飯野山(いいのやま)から越えてくる風が、孤独な朕(われ)の衣の袖を朝な夕なに吹き返す。この袖が風に揺れるありさまを見ていると、いつしか宮殿に帰ろうかと思うようになり、強い男だと思っていた自分も旅先のことゆえ気弱になり、蘇我入鹿と情を通じているにちがいないと噂(うわさ)される妻の宝皇女と離縁しようかと決意したものの妻が愛(いと)しくなり、愛しくなれば憎さがつのり、憂いを晴らすことができないでいる。小国・日本へ赴任する時に伊耶那美命と伊耶那岐命が〔塩許々袁々呂々邇(しおこをろこをろに)と画()き鳴らす国土生み儀式〕をおこなった舞台となった瀬戸内海の一角にある網の浦の娘たちが焼いて塩を作る時の沸騰する熱湯のように熱く重く、愛と憎しみとの間で苦悶するわが心よ」と表現している。

 そしてわがブログ「#20 邪馬台国説はフェイクであった!」で詳細に解説したように、下記の『万葉集』485番の岡本天皇(天武天皇の生母の宝皇女)が作った長歌は【日本国誕生史の秘密】を解明できる重大な糸口(いとぐち)となる、多数の『万葉集』の和歌にあって【日本建国の〔愛〕の理念】を明確に表現する最も代表的な作品である。
 神代(かみよ)より 生()れ継ぎくれば 人さはに 国には満ちて 味群(あぢむろ)の 通(かよ)ひはいけど 我()が恋ふる 君にしあらねば 昼は 日の暮()るるまで 夜(よる)は 夜()の明くる極(きは)み 思ひつつ 眠()も寝()かてにと 明しつらくも 長きこの夜()(485)
 485番を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
 ――神代の伊耶那美命が小国・日本の女王に就任して伊耶那岐命とオノゴロ島(淤能碁呂島)で結婚したときに【日本建国の〔愛〕の理念】をとなえました。そして伊耶那美命が没して墓が作られたとき、伊耶那岐命は「吾(われ)は一日に千五百の産屋(うぶや)が立つ政事(まつりごと)をおこなう」と宣誓して、故・伊耶那美命の【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継ぎました。この伊耶那美命と伊耶那岐命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を神代から国民は生まれ代々受け継いできたために、国民は国土に満ち満ちて、人々は空を覆って飛ぶ(通う)味鴨(あぢかも/トモエガモ)の無数の大群のように、わたくしの目の前を愛睦(あいむつま)まじく通りすぎていきますが、わたくしが恋い慕うあなた(舒明天皇)は、わたくしと蘇我入鹿との仲を疑って、わたくしの夫であることを拒否して抱いてくれません。わたくしは、昼は日が暮れるまで夜は夜が明けるまで、あなたを思いつづけ、一睡(いっすい)もできませんでした。この夜は ほうとうに長い夜でした。

◆舒明天皇と宝皇女の息子は66813日に即した第38代・天智(てんじ)天皇と、673227日に即位した第40代・天武天皇である。天智天皇は兄で皇太子の時の名は「中大兄(なかのおおえの)皇子」であり、弟の天武天皇は皇太弟の時の名は「大海人(おおあまの)皇子」であった。
 中大兄皇子は【日本国誕生史の秘密】を詠()む、『万葉集』13番の「大和三山の歌」の長歌と14番の反歌(はんか)を作った。
 3世紀(280年~289)に中国で著作された『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』において「景初二年六月倭の女王」という文から最終部までの記事は、中大兄皇子が作った『万葉集』13番・14番の和歌と同じく【日本誕生史の秘密】を伝える。〔注 『魏志倭人伝』の文字数は合計約2000字で構成され、【日本国誕生史の秘密】を伝える「景初二年六月倭の女王」という文から最終部までの記事は約600字・約30%である〕。

◆『魏志倭人伝』の後半にある「景初二年六月倭の女王」の記事から倭女王の壱与(いよ)が登場する末部までの約600字・約30%の記事は、下記のごとく説明するものであった。
 ――『魏志倭人伝』末部に登場する「倭女王・壱与」は、『古事記』上巻に登場する13歳で小国・日本の女王に就任した伊耶那美命の夏音名(夏音文字の名)であった。
 伊耶那美命・壱与は小国・日本の女王の就任式において18歳の伊耶那岐命と結婚する時に「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」という10字の夏音文字の詞(ことば)で「日本国(小国・日本)の国土生みの柱を〔愛〕にいたしましょう。やさしい男(おのこ)よ」と宣誓した。この【日本建国の〔愛〕の理念】は一気に評判となり、小国・日本はもちろん卑弥呼が治める倭国の国中すみずみまでに知れ渡った。
 倭女王・卑弥呼は没して大きな墓が造られ、百余人の奴婢(ぬひ/18歳ころの青年と13歳ころの乙女)が殺されて卑弥呼の墓に埋められる徇葬(じゅんそう)がおこなわれた。
 伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する倭国の国中の人民は、徇葬を憎悪して武器を持って倭王朝軍と戦った。倭王朝軍は反乱する人民を千余人殺した。
 この大乱(たいらん)に乗じて卑弥呼と素(もと)より不和の狗奴(くな)国が倭国を倒さんと戦争を大々的に仕掛けてきた。
 このため、倭国と倭王朝はにわかに滅亡の危機におちいった。
 卑弥呼の後を継()ぐ男王を大王と倭王朝の面々は「そもそも人民の反乱と狗奴国の襲撃は、壱与(伊耶那美命)がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を人民たちが憧れておきたゆえ、この禍災(わざわい)の原因は伊耶那美命にある」と非難して、倭国における小国・伊耶(いや)国出身の伊耶那美命を倭国に帰国させて、大乱を鎮圧(ちんあつ)して狗奴国を討伐(とうばつ)する倭女王に任命すると伊耶那美命に命令した。
 伊耶那美命が倭女王に就任することを知った反乱する人民たちは、〔愛〕の女王・伊耶那美命ならば必ず徇葬は否定して禁止するにちがいないと信頼して武器を捨てたゆえ、倭国は平定された。
 伊耶那美命は狗奴国討伐に反対し、狗奴国の男王との話し合いで平和的に解決するようにと命じた。
 倭女王・伊耶那美命の命令に反対する倭王朝は、狗奴国討伐を命令し鼓舞(こぶ)する壱与の代役に天照大御神を就任させた。天照大御神は、伊耶那岐命の第二后の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)であった。
 天照大御神・伊迦賀色許売命が伊耶那岐命の父の第8代・孝元(こうげん)天皇と結婚して、第10代・崇神(すじん)天皇を生んだ。伊耶那岐命は父の孝元帝の後を継ぐ第9代・開化(かいか)天皇であった。第10代・崇神天皇は伊耶那岐命・開化天皇の異母弟であった。したがって、伊迦賀色許売命は伊耶那岐命・開化天皇と結婚して第二后となったゆえ、伊耶那岐命の異母弟の崇神天皇は伊耶那岐命の養子であったことになる。伊迦賀色許売命は伊耶那岐命に離縁されたため、伊耶那岐命の妻という戸籍を失った彼女は伊耶那岐命の祖父の孝霊(こうれい)天皇の娘「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびのももそひめのみこと)」という名を受け継いだ。だから、『日本書紀』崇神天皇紀は、「倭迹迹日百襲姫命(伊耶那岐命の第二后の伊迦賀色許売命)は崇神天皇の姑(おば)である」と記す。

◆『日本書紀』崇神天皇紀6年の条(くだり)には、下記のごとく「崇神天皇の異名(いみょう/別の名)は天照大御神であった」と伝える記事がある。
 「崇神天皇に諸々の氏族(百姓)が服従せずに流離(りゅうり)し、あるいは背(そむ)く者も出て、その勢いは徳をもって治めることができなかった。これゆえ、天皇は朝早く起きられ、夜遅くまで、謹んで天神地祇(ちぎ)をお祭りになって謝罪された。これより先に、天照大御神と倭大国魂(わのおおくにたま)のニ神を、天皇の大殿(居所)の中にお祭りした。ところが、ニ神は、それぞれの勢いを畏(おそ)れて、共に大殿の中に一緒(いっしょ)に住むことを安心なされなかった。そこで、天照大御神には、豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)をお付けになって、倭の笠縫邑(かさぬいむら/奈良県桜井市三輪の檜原社)に移して祭ることにした。そして、檜原神社の境内に磯堅城(しかたき)の神籬(ひもろき)を立てた。〔つまり、天皇がお住みになられる皇居〈磯城瑞垣宮(しきのみずかきみや)〉という名にちなんで磯の石を並べて垣根にする祭場(聖域)を設置した。〕また、大殿の中に住む日本大国魂神(にほんおおくにたまのかみ)には渟名城入姫命(ぬなきのいりびめのみこと)をお付けになって、祭るように命令した。しかし、渟名城入姫命は、髪がぬけ落ち、身体が痩()せ細って日本大国魂神をお祭りすることができなかった。」
 この記事が伝えるように、崇神天皇は天照大御神を崇拝した。だから、崇神天皇の異名は『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀において「天照大御神」と表記されたのである。
 「倭大国魂」と「日本大国魂神」を名前が異なるが同一神である。ゆえに、小国・日本の女王・伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪する崇神天皇・天照大御神は、「伊耶那美命」と「日本建国の〔愛〕の理念」に「倭大国魂」または「日本大国魂神」という名称を付けた。そして、天皇の呪詛(じゅそ/のろい)の害が天照大御神に及ばないようにするため、皇居から遠く離れる磯堅城の神籬に移して、豊鍬入姫命に祭らせることにした。
 日本大国魂神を祭ることになった渟名城入姫命は天皇の呪詛の害(多分、毒でも盛ったのであろう)によって、頭髪が抜け落ち、痩せ細って【日本建国の〔愛〕の理念=日本大国魂神】を祭ることができなかった。だから、髪が抜け落ちて痩せ細った渟名城入姫命は【天照大御神・崇神天皇が憎悪し呪詛して願った日本建国の〔愛〕の理念の消滅・抹殺】を意味した。
 『古事記』上巻は「伊耶那美命は淤能碁呂島(おのごろしま)で伊耶那岐命と結婚した時、【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた」と記述する。「淤能碁呂島」の[]の字義は「どろ()、つまり稲が育つ水田の肥えた泥」である。「渟名城入姫命」の先頭字[]の字義は「水が停()まって流れないこと、つまり水田に溜まる流れない水」である。ゆえに、「渟名城入姫命」は「伊耶那美命が【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた淤能碁呂島」を表現する名であったことになる。
 『古事記』上巻に登場する天照大御神は最初に女性、後で男性となる――ゆえに、【前者の女性の天照大御神は、崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命】。【後者の男性の天照大御神は伊迦賀色許売命の息子の崇神天皇】であったのである。
 そして、『魏志倭人伝』末部に登場する武将の載斯烏越(そしあお)は、小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)であった伊耶那岐命(いざなきのみこと)の夏音名であった。倭王朝は伊耶那岐命・載斯烏越を討伐軍の大将に就任させて、狗奴国を滅亡させた。
 伊耶那美命の出生地は『魏志倭人伝』に登場する倭の小国「伊耶国」であった。伊耶国は「旧国丹波(現在の京都府中部と兵庫県の一部)」であった。
 「伊耶国出身の那(桃の花)のように美しい女王」と人民に愛称されたゆえ「伊耶那美命」と呼ばれた小国・日本の女王は、上記したように後年に倭女王・壱与に就任し、伊耶那美命・壱与の本名は竹野比売(たかのひめ)であり、伊耶那岐命の正妃であった。
 『古事記』中巻の第9代開化天皇紀は「天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に住んで天下を治めた。天皇は丹波の大県主(おおあがたぬし)の由碁理(ゆごり)という方の娘の竹野比売と結婚した」と記述する。開化天皇の居殿「伊耶河宮」の先頭2字は「伊耶那岐命」と「伊耶那美命」の先頭2字「伊耶」に合致する。したがって、伊耶那岐命は後の開化天皇であったことになる。

◆中大兄(なかのおおえの)皇子・後の38代天智(てんち)天皇は狗奴国討伐をテーマにして長歌と反歌(はんか)を作った。この長歌と反歌は『万葉集』13番の「大和三山の歌」と14番の短歌となる。
 『万葉集』13番の「中大兄皇子の大和三山の歌」は下記のごとくである。
 「香具山(かぐやま)は 畝傍雄男(うねびをを)しと 耳成(みみなし)と 相争(あいあらそ)ひき 神代(かみよ)より かくにあるらし 古(いにしへ)も しかにあれこそ うつせみも 嬬(つま)を 争ふらしき」
 この長歌を現代語に訳すると、下記のごとくなる。
 「大和の香具山で象徴される伊耶那美命は、畝傍山で象徴される伊耶那岐命(狗奴国を討伐する夫)は雄男しすぎると嘆(なげ)き、耳成山に象徴される天照大御神と狗奴国討伐について意見が対立して争った。伊耶那美命は平和的に解決すべきであると主張したのに対して、天照大御神は狗奴国を討伐すべきであると主張した。このように、神代の伊耶那岐命の正妃の伊耶那美命と第二后の天照大御神は争った。古代がそうであったように、今も吾と弟の大海人皇子(天武天皇)は額田王(ぬかだのおおきみ)を妻にしようとして争っている。このように、男女の仲は、昔も今も変わらず争いが絶えない。」

 『万葉集』14番の反歌は下記のごとくである。
 「香具山と 耳成山と あひし時 立ちて見に来()し 印南国原(いなみくにはら)
 この反歌を現代語訳すると、下記のごとくなる。
 「香具山・伊耶那美命(壱与・竹野比売)は狗奴国討伐に反対し、耳成山・天照大御神(壱与の代役をつとめた伊迦賀色許売命)が狗奴国討伐を賛成して、相(あい)対立したとき、この対立を心配して阿菩(あぼ)の大神が見に来たという、壱与の代役となって天照大御神が狗奴国討伐成就の願いがかなえられる地霊を呼び興(おこ)す聖地とした“印南国原”は、ここなんだ!」〔注 印南国原は伊耶那岐命と伊耶那美命を主祭神とする伊弉諾神宮の真北の、兵庫県明石市から加古川市にかけての平野部〕 
 この反歌に登場する「阿菩の大神」は「死んだ卑弥呼の霊魂」であったにちがいない。
 というのも[]の字義は、「大陵(大きな陵墓)」であるゆえ「大きな卑弥呼の陵墓」を指すからである。[]の字は「倍草。つまり、苗の時より収穫期には茎が数倍に増える禾()」を意味する。そして、[]の原字(最初の文字)は「稲」を意味する[()]であり、[]の字源は[]の字源を直接的に受け継いだ。だから、「阿菩の大神」は「大きな陵墓に葬られた倭女王・卑弥呼の霊魂」を意味したことになる。

 以上のように、661年春正月、斉明天皇(舒明天皇の皇后であった宝皇女)は船団を組んで、新羅(しらぎ)遠征のために印南野が見える播磨灘を通過する時、中大兄皇子が作った『万葉集』13番の長歌と14番の短歌は、令和元年の即位礼正殿の儀と大嘗祭において表現された【日本建国の〔愛〕の理念の秘密】を伝えていたのである。

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2019年12月 3日 (火)

大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・7

★#7・中大兄皇子が決行した乙巳の変は、大嘗祭の秘密を伝える

◆このブログが前回(6)でも指摘したように――令和元年118日の朝日新聞の朝刊は「大嘗祭 ひもとけば」と題する記事で、下記のごとく報道した。
 ――日本古代文学が専門の工藤隆・大東文化大学名誉教授は「大嘗祭の本質は、先史時代までさかのぼって考えないとわからない」と主張する。(中略)。弥生時代から続くこれらの祭を下敷きにしつつ、7世紀の天武・持統両天皇の時代に最も重要な祭儀として整備された」とみる。
 日本書紀などには「天皇の璽印(みしるし)を奉る」などの記載がある。天武天皇より前から、継承の証しとして剣・印などを新天皇に渡す儀式は行われていたようだ。
 文献では、五穀豊穣(ほうじょう)を祈る新嘗祭(にいなめさい)を大規模にした「大嘗(おおにえ)」を天武天皇の即位に際し初めて実施されている。続く持統天皇の時には即位礼に続く形で行われ、飛鳥時代にこの形式が整えられたことがわかる。

◆令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明までに行われた大嘗祭は、上記した(1)【弥生時代から続く祭儀】と(2)7世紀の天武天皇からの大嘗祭の伝統】を受け継ぐ。
 令和の即位式と大嘗祭が受け継いだ、(1)【弥生時代(3世紀後半)から続く儀式】は――天照大御神母子(10代崇神天皇とその生母・伊迦賀色許売命/いかがしこめのみこと)の歴史を伝える「三種の神器」をもって――表示された。

 (2)【天武天皇からの大嘗祭の伝統】は――このブログが前回まで解説し証明してきた【紀元前3000年ころの中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が発明した、夏の銀河から漢字が作られた学問】をもって表示された。
 つまり、令和の大嘗祭において、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は【天皇陛下の供饌の儀で、供饌から三つずつお供え物の食べ物を選んでピンセットのような箸(はし)で小皿に入れる行為を1000回余も繰り返す所作(しょさ)】で表示された。

◆このブログで前回(6)まで解説してきたが――【夏の銀河から漢字が作られた学問】の詳細については、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。疑問を抱く方々は拙著『日本国誕生史の証明』にて確認していただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆弥生時代(3世紀後半)に生存した天照大御神母子は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を最も重視すれば皇室は永らく栄えるという信念にもとづいて大和朝廷の基礎を築いた。
 このブログ前回(6)で解説したように、聖徳太子(しょうとくたいし)の【夏の銀河から漢字が作られた学問】を軽視する政策失敗によって、【夏の銀河から漢字が作られた学問】を独占管理できなくなった皇室の権勢は衰弱して脆弱(ぜいじゃく)となった。

 第33代・推古(すいこ)天皇は、即位の年の593年、甥(おい)の聖徳太子を皇太子とした。
 翌年、推古天皇は聖徳太子と蘇我馬子(そがのうまこ)に「三宝(さんぽう)を興隆(こうりゅう)せよ」と詔(しょう)し、積極的な仏教崇拝政策の方向を示した。
 時の推古天皇王朝は、【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女(みこ)と覡(かんなぎ/神官)を体制のなかに組み入れ、【夏の銀河から漢字が作られた学問】を皇室と国家が独占管理して厳重に機密(きみつ)を保持(ほじ)していた。
 崇仏政策を推進するために聖徳太子は、【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女と覡を排除した。このため、巫女と覡は蘇我馬子に擁護(ようご)されることになった。だから、皇室が独占管理しなければならない【夏の銀河から漢字が作られた学問の担い手(巫女と覡)】を支配することができた蘇我大臣家は、にわかに強大な権力を手中におさめることになったのである。
 聖徳太子は皇室と国家をささえている最も強大な政権基盤は【夏の銀河から漢字が作られた学問】である事実を軽視して、仏教は【夏の銀河から漢字が作られた学問】に代わることができると考えたにちがいない。
 しかし、聖徳太子が排除した巫覡(ふげき)たちは百済から輸入した仏教の経典に用いられる極(きわ)めて難(むずか)しい楷書の解読に成功した。このため、時の体制者(皇族や貴族)たちは「聖徳太子は愚か」と批判し、仏教の経典の楷書解読事業を成し遂げた巫覡たちを時の体制者たちは絶賛し最も尊敬して信頼する事態となった。
 当時の皇族・貴族たちは、【夏の銀河から漢字が作られた学問】のほうが【鬼道(きどう/神道の先祖)】よりも【仏教】よりも勝っていると考えていたのである。なぜならば、【鬼道】は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を母として生まれた子であり、仏教の経典は【夏の銀河から作られた楷書(漢字)】で記載されていたからである。つまり、【夏の銀河から作られた楷書】によって仏教を知ることができるゆえ、「当然、【仏教】よりも【夏の銀河から作られた夏音文字や楷書の学問】のほうが勝っている」と、彼らは考えたのである。
 聖徳太子は【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫覡たちは過去の遺物であると軽視し、彼等は崇仏政策を推進するための邪魔になると考えて排除したため、大失敗した。
 622(推古天皇29)25日、聖徳太子は斑鳩宮(いかるがのみや)で死去した。聖徳太子の妃の橘太郎女(たちばなのおおいらつめ)は、太子のために「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」を作った。
 この「天寿国繍帳」の銘文(めいぶん)によれば――聖徳太子は妃の橘太郎女に、「世間は虚仮(こけ)にして、ただ仏のみ是()れ真なり」と語ったという。
 推古王朝をささえる皇族・貴族たちは、仏教の経典の楷書の解読を成し遂げた巫覡たちを排除した結果、皇室が【夏の銀河から漢字が作られた学問】を独占管理できなくなって蘇我氏と二分することになった聖徳太子の崇仏政策を「なんとも愚か!」と批判した。この批判に対して、聖徳太子は「世間は我を虚仮(馬鹿)にしている。ただ仏教こそが真実であり、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は廃(すた)れるべきである」と主張して、「世間は虚仮にして、ただ仏のみ是れ真なり」と橘太郎女に語ったのである。
 だから、【夏の銀河から漢字が作られた学問】を尊重する王こそが天皇にふさわしいと考える時の体制者たちに、聖徳太子は「天皇にふさわしくない」と反対された。
 これゆえ、聖徳太子は天皇になれなかったのである。

◆推古天皇の後を、第34代・舒明(じょめい)天皇が62914日に即位した。舒明天皇の皇后は宝(たから)皇女である。宝皇女は642115日に即位した第35代・皇極(こうぎょく)天皇であり、また宝皇女は65513日に即位した斉明(さいめい)天皇であった。
 舒明天皇と宝皇女の息子が66813日に即位した第38代・天智(てんじ)天皇であり、673227日に即位した天智天皇の弟の第40代・天武天皇であった。この天武天皇の即位から大嘗祭は始まったとされる。
 上記した聖徳太子の政策失敗によって、蘇我馬子の息子の蝦夷(えみし)と孫の入鹿(いるか)の権勢が隆盛(りょうせい)を極(きわ)めていた。
 これゆえ、天智・天武両天皇の父・舒明天皇と母・皇極天皇の時代は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を独占できなくなった皇室の権勢は衰弱していた。
 天智天皇の皇太子時代の名は「中大兄(なかのおおえの)皇子」であった。
 蘇我大臣家の天下は長く続かず、中大兄皇子と中臣鎌子連(なかとみのかまこむらじ/のちの中臣鎌足)によってほろぼされ、大化(たいか)の改新が断行された。ここに律令(りつりょう)制という新しい政治体制の基礎固めがなされた。

641年、舒明天皇が亡くなると、蘇我蝦夷は宝皇女を天皇に即位させた。これが、皇極天皇である。
 蝦夷は皇極天皇の許可も得ずにかってに大臣の位を子の入鹿にゆずった。
 643年、入鹿は兵をつかわして斑鳩宮(いかるがのみや)に住む聖徳太子の子である山背大兄(やましろおおえ)王一家を襲撃して皆殺しにした(山背大兄王の変)。この暴挙で入鹿は評判を落とし、蘇我氏打倒の気運が生じることになった。
 中大兄皇子と中臣鎌子連は、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)のところへ儒学(じゅがく)の勉強に通う往復の道で、蘇我氏打倒の計画を相談した。
 二人は仲間づくりを始め、中臣鎌子連はまず、蘇我一族のなかで蝦夷・入鹿をきらう蘇我倉山田麻呂(そがのくらのやまだまろ)をだきこむため、彼の娘を中大兄皇子の妃(きさき)とする案を立て、倉山田麻呂を後援者にすることに成功した。またクーデターの実行にたずさわる人物として佐伯部子麻呂(さえきべのこまろ)、葛木稚犬養網田(かつらきのわかいぬかいのあみだ)の二人を引き入れた。
 645612日、宮中で三韓朝貢(さんかんちょうこう)の儀が行われ、入鹿も出席した。中大兄は倉山田麻呂に三韓の上表文を読ませ、その隙(すき)に入鹿を斬る計画を立てた。中大兄は自ら長槍(ながやり)をとって、式場内の柱の陰にかくれ、鎌子連らは弓矢をもって護衛した。しかし、子麻呂と犬養連網田は緊張(きんちょう)のあまり手足がふるえて斬りつけられなかった。上表文が終わりに近づいた倉山田麻呂は、子麻呂らが飛び出して来る気配がないため恐ろしくなり、全身に汗がふき出して、声も乱れ手も震えた。そばにいた入鹿は怪しんで「なぜ震えているのか」ととがめた。子麻呂らが恐怖で躊躇(ちゅうちょ)しているのを見た中大兄は「ヤア」と掛け声をあげるや子麻呂らも一緒になっておどり出て、中大兄は剣をもって入鹿の頭と肩に斬りつけた。おどろいた入鹿は座を立とうとすると、子麻呂らが剣をふるって入鹿の片方の足に斬りつけた。入鹿は天皇の御座の下に転落し、「日嗣(ひつぎ)の位においでいるのは天子である。私にいったいなんの罪があるのか。そのわけを言え」つまり「徳をもって私の命を救ってこそ天子である」と、天皇に必死に訴えた。
 天皇はたいへん驚き、中大兄に「これはいったい何事が起ったのか」と言われた。中大兄は平伏して「鞍作(くらつくり/入鹿)は王子たちをすべて滅ぼして、帝位を傾けようとしています。鞍作をもって天子に代えられましょうか」と奏上(そうじょう)した。
 つまり、中大兄は「棚から落ちた牡丹餅(ぼたもち)が口に入った」ごとく【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫覡たちのために権勢が隆盛になった入鹿が天子・天皇家に代わってどうして天下を治めることができるか。絶対に無理である!」と訴えたのである。
 天皇は事のあらましをさとり、奥へ退いてしまった。入鹿は子麻呂と犬養連網田にとどめをさされた。
 翌13日、蘇我蝦夷らは殺される前に、すべての天皇記・国記・珍宝を焼いた。そのとき、船史恵尺(ふねのふびとえさか)は素早く焼かれる国記を取り出して中大兄にたてまつった。
 蝦夷は自殺し、蘇我大臣家はあっけなく滅びた。これを「乙巳(おつし)の変」という。

◆乙巳の変によって、皇室は【夏の銀河から漢字を作られた学問】を独占管理できて、従来(推古王朝以前)と同じく権勢をとりもどすことができた。
 『日本書紀』推古天皇紀は「推古天皇20(620)、皇太子・聖徳太子と大臣・蘇我馬子が相議(あいはか)って、天皇記および国記(くにつふみ)、臣・連・伴造・国造など、その外多くの部民・公民らの本記(もとつふみ)を記録した」と記述する。
 したがって、【乙巳の変で、蝦夷が焼いた天皇記・国記】は620(推古天皇20)に編纂(へんさん)が勅令(ちょくれい)された書物であったことになる。
 上記したように――聖徳太子は【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女(みこ)と覡(かんなぎ/神官)たちを、崇仏(すうぶつ)政策を推進するのに邪魔(じゃま)になると排除した。だから、巫覡(ふげき)たちは蘇我大臣家を頼った。これゆえ、蘇我大臣家は【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通した巫覡によって、皇室と二分する権勢を手に入れることができて隆盛をきわめたのである。
 蘇我大臣家に擁護(ようご)された【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫覡たちは、仏教の経典に羅列(られつ)される難解きわまりない楷書を解読して皇族や貴族たちに最も信頼されていたゆえ、夏音文字や楷書で書く天皇記および国記などの編纂(へんさん)を担当することになったのである。だから、蘇我大臣家は本来皇室と国家が所蔵すべき天皇記・国記を所蔵できたゆえ、蝦夷は自らの家で保管する天皇記・国記を焼くことができたのである。
 したがって、乙巳の変の時に蘇我大臣家に天皇記と国記が所蔵されていたということは、聖徳太子に排除されて蘇我大臣家が擁護した巫覡たちが【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通していたことを証明し、また620年に推古天皇が編纂を勅令(ちょくれい)した天皇記および国記、臣・連・伴造・国造など、その外多くの部民・公民らの本記などを整理する編纂は蘇我大臣家に擁護された巫覡たちによって成されたことになる。

◆上記したとおり、『日本書紀』は「乙巳の変で、船史恵尺によって国記は消失しなかったが、天皇記は消失した」と記述する。
 712(和銅5)正月28日に完成して元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の下巻は推古天皇紀で終わる。
 ということは、随所に〔音〕という注が付く多数の夏音文字を記載する【『古事記』上巻の原典】は、【蘇我大臣家で擁護された巫覡たちが編纂した国記、船史恵尺によって焼失しなかった国記】であったことになる。
 また、【乙巳の変で天皇記は消失した】ため、【『古事記』中巻・下巻の天皇紀】は【天皇家・各貴族家・臣・連・伴造・国造など、その外多くの部民・公民らに残っていた資料など用いて、新たに編纂しなおした記録】であったことになる。
 『古事記』の序(古事記上巻 幷わせて序)に登場する「本辞(ほんじ)」、「旧辞(きゅうじ)」、「先代の旧辞」は、推古天皇が勅令して巫覡たちが編纂された「国記」を指していることになる。
 『古事記』の序に登場する「帝紀(ていき)」、「帝皇日継(ていおうのひつぎ)」は「新たに編纂しなおした天皇紀」であったことになる。

◆以上のごとく、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は、皇室が“い”の一番・最初に必要とする最大・最強の政権基盤であった。
 聖徳太子が【夏の銀河から作られた学問】を知得する巫覡たちを排除したため、その巫覡たちが蘇我大臣家に擁護されて【夏の銀河から漢字が作られた学問】によって天下を治める権勢が二分されたように、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は独占管理して厳重(げんじゅう)に機密にしてこそ効力が発揮された。
 【夏の銀河から漢字が作られた学問の秘密】を知って、これを暴露した人物と一族は時の王朝の転覆を謀(はか)って国家安寧(こっかあんねい)を害する大罪を犯したことになるゆえ、即刻に死刑されたのである。
 【夏の銀河から作られた学問】は正(まさ)に「沈黙は金なり」で知っていても沈黙していることが賢明であったのである。沈黙していれば相当大なる権力と豊かな財力と人々に尊ばれる名誉を手に入れて安穏(あんのん)に生きていることができたからである。
 もしもある人物や家が天下を手に入れようとして「漢字は銀河から作られた」と暴露しても――この暴露によって多くの氏族・家柄・人々が【夏の銀河から漢字が作られた学問】を学んで天下を手中に入れようとするため、戦乱が絶えなくなる。ゆえに、「漢字は銀河から作られた」と暴露した人物や家がたとえ一時(いっとき)天下をとっても、あっけなく滅亡することになったのである。
 だから、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は「沈黙は金なり」ということになったゆえ、【夏の銀河から漢字が作られた学問】を独占管理して厳重に機密を保持(ほじ)した皇室が永らく栄えて滅亡せずに現在まで存続したのである。
 したがって、令和の即位礼正殿の儀と大嘗祭は【紀元前3000年ころに生存した倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成方法】と【紀元前2070年ころ~紀元前2050年ころの中国の夏代(かだい)初頭、わが国の後期縄文時代初頭に、習得した夏音文字の学問】と【2世紀末から出現して7世紀に完成した楷書――夏音文字の音符となった楷書も夏の銀河から作られた】などと伝える【夏の銀河から漢字が作られた学問儀式】であったことになる。

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2019年12月 1日 (日)

大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・6

★#6・伊耶那岐命と伊耶那美命に憧れた舒明天皇と宝皇女

◆令和元年118日の朝日新聞の朝刊は「大嘗祭 ひもとけば」と題する記事で、下記のごとく指摘した。
 ――日本古代文学が専門の工藤隆・大東文化大学名誉教授は「大嘗祭の本質は、先史時代までさかのぼって考えないとわからない」と主張する。(中略)。弥生時代から続くこれらの祭を下敷きにしつつ、7世紀の天武・持統両天皇の時代に最も重要な祭儀として整備された」とみる。
 日本書紀などには「天皇の璽印(みしるし)を奉る」などの記載がある。天武天皇より前から、継承の証しとして剣・印などを新天皇に渡す儀式は行われていたようだ。
 文献では、五穀豊穣(ほうじょう)を祈る新嘗祭(にいなめさい)を大規模にした「大嘗(おおにえ)」を天武天皇の即位に際し初めて実施されている。続く持統天皇の時には即位礼に続く形で行われ、飛鳥時代にこの形式が整えられたことがわかる。

◆令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明までに行われた大嘗祭は、上記した(1)「弥生時代から続く祭儀」と(2)7世紀の天武天皇からの大嘗祭の伝統」を受け継いでいるだけでない。
 (3)江戸時代の1738年、桜町天皇即位の際に将軍徳川吉宗が協力して復興した大嘗祭において新たに【日本建国の〔愛〕の理念】をも加えられた大祭でもある。
 だから、令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明に終了した大嘗祭は【上記した(1)(2)(3)の、3つの要素】から構成される学問儀式であった。

◆令和の即位式と大嘗祭では、(1)弥生時代(3世紀後半)から続く儀式は――天照大御神母子(10代崇神天皇とその生母・伊迦賀色許売命/いかがしこめのみこと)の歴史をあらわす「三種の神器」をもって――表示された。

 (2)天武天皇からの大嘗祭の伝統は――このブログが前回まで解説し証明してきた【紀元前3000年ころの中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が発明した、夏の銀河から漢字が作られた学問】をもって表示された。
 つまり、令和の大嘗祭において、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は【天皇陛下の供饌の儀で、供饌から三つずつお供え物の食べ物を選んでピンセットのような箸(はし)で小皿に入れる行為を1000回余も繰り返す所作(しょさ)】で表示された。というのも、大嘗祭が始める午後6時半、大嘗宮(だいじょうきゅう)の真上(天頂の高度90度~60度の夜空)に【天皇陛下の供饌の儀における所作に相似する銀河】が存在し、この【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は大嘗祭が終了する翌日午前4時ころに北北西の地平線に没したからである。だから、【天皇陛下の供饌の儀】と【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は、共に【夏の銀河から漢字が作られた学問】をあらわしていたことになる。
 弥生時代(3世紀後半)に生存した天照大御神母子は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を最も重視すれば皇室は永らく栄えるという信念にもとづいて大和朝廷の基礎を築いた。この天照大御神母子は同じ弥生時代に生存した【伊耶那美命が唱えて、伊耶那岐命が受け継いだ〔愛〕を建国理念とした日本国誕生史】は憎悪して敵視した。というのも、【伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念】は【天照大御神が重視した夏の銀河から漢字が作られた学問の権威】の脅(おびや)かす危険な歴史にして思想であったからである。
 天皇の権力を絶大にするため、天武・持統両天皇は【夏の銀河から漢字が作られた学問を最も重視した天照大御神を皇室が最も偉大な先祖(至上神)と讃(たた)えて崇拝するための大嘗祭】を起源させて、皇室が永らく存続するように図った。このため、天武・持統両天皇は「【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】は後世に絶対に伝えてはならない、抹殺(まっさつ)しなければならない」と考えた。というのも、【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】は【夏の銀河から漢字が作られた学問の権威】の脅威(きょうい)となり、しかも【天照大御神の聖性を著(いちじる)しく汚す】、天皇の権力を絶大にするための最大の障害となったからである。

 ところが、(3)江戸時代の1738年、桜町天皇即位の際に将軍徳川吉宗が協力して復興した大嘗祭において一大改革がなされ、天武・持統両天皇が「抹殺せよ」と命じた【日本国誕生史における日本建国の〔愛〕の理念】が表現されることになった。
 令和元年の大嘗祭においては、1114日の午後6時半ごろ、悠紀殿(ゆきでん)に向かって御菅蓋(ごかんがい/天皇の王冠)を高くさし掛けて葉薦(はごも/御筵道)を進む天皇陛下の行列の登場から【悠紀殿における供饌の儀】が始まった。また、翌15日の午前0時半ごろ、主基殿(すきでん)に向かって御菅蓋を高く差し掛けて御筵道(ごえんどう/葉薦)を進む天皇陛下の行列の登場から【主基殿における供饌の儀】が始まった。
 【天皇陛下の悠紀殿・主基殿で行われた供饌の儀】の前に行われた【葉薦(御筵道)を進む天皇陛下の行列】は、天武・持統両天皇の命令を破棄(はき)して、1738(元文3)の第115代・桜町天皇の時に【日本国誕生史における日本建国の〔愛〕の理念】を新しく加えるという、一大改革した儀式であったのである。
 だから、令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明に終了した大嘗祭は【上記した3つの要素】から構成される学問儀式であったことになる。

◆【全漢字が夏の銀河から作られた事実】と【日本国誕生史と【本建国の〔愛〕の理念】については、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。疑問を抱く方々は拙著『日本国誕生史の証明』にて確認していただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
 なお、1022日に行われた【即位式正殿の儀】が【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす儀式である証明は、わがブログ「邪馬台国説はフェイクであった!」の1回~20回で解説し証明した。「邪馬台国説はフェイクであった!」の12回~20回までは【即位式正殿の儀】は【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす儀式であることを具体的に解説し証明した。

◆このブログの初回(1)で詳細に解説したように、『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷わせて序)初頭の記事は、下記のごとく記述する。
 【古事記上巻 幷わせて序】の冒頭は「臣安万侶言(しんやすまろまを)す」と記す。
 次の「それ混元既(こんげんすで)に凝()りて、気象未(いま)だ効(あらは)れず。名も無く、為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。しかれども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す」という文である。
 この文で、太安万侶はわが国に中国から夏音文字が伝来して習得された歴史を、下記のごとく説明している。
 「漢字が発明されていなかった紀元前4000年ころの中国とわが国の各地において前期縄文時代初頭以前における天頂にめぐってくる銀河の形状は混沌(こんとん)として凝り固まっていましたが、文字となる気象(イメージ)は未だ現れていませんでした。ですから、文字で名をあらわすことも無く、文字で名をあらわす方法も存在しませんでした。ゆえに、現在において(『古事記』が完成した712年当時)、前期縄文時代初頭以前の天頂にめぐってきた銀河の形状を知ることができません。しかし、紀元前4000年ころからから始まる前期縄文時代、倉頡が漢字作成方法を発明した紀元前3000年ころから始まる中期縄文時代、紀元前2070年~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭までの参時代においては、[]の字源・字形・字義となった【夏の銀河の最北端部にある、乾いた沙漠のようなイメージの銀河部】と、その隣に[]の字源・字形・字義となった【十字の銀河】が天頂にめぐってきましたから、わが国では造化(芸術作品)の〔【夏の銀河】の印象をあらわす、表面に渦巻き文が全面にほどこされる土器〕や〔【十字の銀河】や【人の横顔に酷似する銀河か夏の銀河の西南部】までの印象をあらわす、人体を模(かたど)る土偶(どぐう)〕が作られて、【夏の銀河を見たときの人々の印象】が伝えられ、後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)において、中国から名門益氏(えきし)の王子と青年たちが日本列島に移住してもたらした夏音文字の学芸は【夏の銀河の印象】をあらわす土器・土偶を造った芸術家たちによって習得されました。」
 したがって、【古事記上巻 幷わせて序】は――倉頡が漢字作成方法を発明した約950年後の紀元前2070年~紀元前2050年ころの後期縄文時代初頭、わが国は【倉頡が定めた掟によって、夏の銀河の各部の形状が文字(字源・字形・字義)となった夏音文字の学問】が中国から伝来して習得された――と伝えていたことになる。
 皇室は権力と財力基盤であった【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学問】を厳重な機密にして独占管理して栄えたゆえ、現在まで存続して滅びなかったのである。
 だから、現在の大嘗祭が本格的に復興された1738年当時の皇室は、上記した【古事記上巻 幷わせて序】の初頭の文が伝える事実をもちろん知っていた。だから、令和の大嘗祭において悠紀殿と主基殿で天皇陛下による供饌の儀は【倉頡が発明した、夏の銀河から漢字が作られた学問】をあらわすことになったのである。
 しかし、現在の学者たちは一人も【古事記上巻 幷わせて序】の文を正確に読解(どっかい)できないゆえ、彼等は「学問儀式の【天皇の神々の祈り】・【即位式正殿の儀】・【大嘗祭】は宗教的儀式である」と錯覚する幻想に憑()りつかれている。

◆【古事記上巻 幷わせて序】の「後期縄文時代初頭、わが国は夏音文字を習得した」という記述は事実であった。
 だから、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した字源を解説する字書の『字統(じとう)(平凡社発行)の〔わが国の漢字音〕と題する初頭の文は「わが国が漢字を最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀であるという定説は誤っている。中国の上古音よりも古い・現存する最古の漢字音がわが国には保存されている事実」を、次のように説明する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 上記の文が明確に伝えるように、【古事記上巻 幷わせて序】の初頭の「後期縄文時代初頭、わが国は夏音文字の学問を習得した」という説明を学者たちは正しく読解できずに【誤読】するゆえ、わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀であるという空理空論・空想・幻想に憑()りつかれる。
 『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて夏音文字は多数残されており、3世紀(280年~289)に中国で著作された『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』の人名・小国名・官職名に用いられて夏音文字は消滅せずに残っている。だから、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀である」と断定する定説は空理空論・空想ということになる。

◆このブログの前回(5)は、「なぜ聖徳太子は天皇になれなかったか」、この原因について下記のごとく解説した。
 第33代・推古(すいこ)天皇は、即位の年の593年、甥(おい)の聖徳太子を皇太子とした。
 翌年、推古天皇は聖徳太子と蘇我馬子(そがのうまこ)に「三宝(さんぽう)を興隆(こうりゅう)せよ」と詔(しょう)し、積極的な仏教崇拝政策の方向を示した。
 この崇仏(すうぶつ)政策において、聖徳太子は大失敗した。
 時の推古天皇王朝は、【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女(みこ)と覡(かんなぎ/神官)を体制のなかに組み入れ、【夏の銀河から漢字が作られた学問】を皇室と国家が独占管理して厳重に機密(きみつを保持(ほじ)していた。
 崇仏政策を推進するために聖徳太子は、【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女と覡を排除した。このため、巫女と覡は蘇我馬子に擁護(ようご)されることになった。だから、皇室が独占管理しなければならない【夏の銀河から漢字が作られた学問の担い手(巫女と覡)】を蘇我氏は支配することができたため、にわかに強大な権力を手中におさめることになった。
 聖徳太子は皇室と国家をささえている最も強大な政権基盤は【夏の銀河から漢字が作られた学問】である事実を軽視して、仏教は【夏の銀河から漢字が作られた学問】に代わることができると考えたにちがいない。
 しかし、聖徳太子が排除した巫女と覡たちは百済から輸入した仏教の経典に用いられる極(きわ)めて難(むずか)しい楷書の解読に成功した。このため、時の体制者(皇族や貴族)たちは「聖徳太子は愚か」と批判し、仏教の経典の楷書解読事業を成し遂げた巫女と覡を時の体制者たちは絶賛し最も尊敬して信頼する事態となった。
 当時の皇族・貴族たちは、【夏の銀河から漢字が作られた学問】のほうが【鬼道(きどう/神道の先祖)】よりも【仏教】よりも勝っていると考えていたのである。なぜならば、【鬼道】は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を母として生まれた子であり、仏教の経典は【夏の銀河から作られた楷書(漢字)】で記載されていたからである。つまり、【夏の銀河から作られた楷書】によって仏教を知ることができるゆえ、「当然、【仏教】よりも【夏の銀河から作られた夏音文字や楷書の学問】のほうが勝っている」と、彼らは考えたのである。
 聖徳太子は【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女と覡は過去の遺物であると軽視し、彼等は崇仏政策を推進するための邪魔になると考えて排除したため、大失敗した。
 622(推古天皇29)25日、聖徳太子は斑鳩宮(いかるがのみや)で死去した。聖徳太子の妃の橘太郎女(たちばなのおおいらつめ)は、太子のために「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」を作った。
 この「天寿国繍帳」の銘文(めいぶん)によれば――聖徳太子は妃の橘太郎女に、「世間は虚仮(こけ)にして、ただ仏のみ是()れ真なり」と語ったという。
 推古王朝をささえる皇族・貴族たちは、仏教の経典の楷書の解読を成し遂げた巫覡を排除した結果、皇室が【夏の銀河から漢字が作られた学問】を独占管理できなくなって蘇我氏と二分することになった聖徳太子の崇仏政策を「なんとも愚か!」と批判した。この批判に対して、聖徳太子は「世間は我を虚仮(馬鹿)にしている。ただ仏教こそが真実であり、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は廃(すた)れるべきである」と主張して、「世間は虚仮にして、ただ仏のみ是れ真なり」と橘太郎女に語ったのである。
 だから、【夏の銀河から漢字が作られた学問】を尊重する王こそが天皇にふさわしいと考える時の体制者たちに、聖徳太子は「天皇にふさわしくない」と反対された。
 これゆえ、聖徳太子は天皇になれなかったのである。

◆聖徳太子が死去した4年後の626520日、大臣(おおおみ)の蘇我馬子が没した。
 息子の蝦夷(えみし)が大臣を継いだ。上記した聖徳太子の【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫覡を排除した崇仏政策による失政によって、当時の最も強大な政権基盤である【夏の銀河から漢字が作られた学問】の威厳が蘇我大臣家と二分して脆弱(ぜいじゃく)となった天皇の権勢が弱体したため、蘇我蝦夷の権勢は馬子の時よりも盛んとなった。
 当時における有力な皇族は田村(たむら)皇子と山背大兄(やましろのおおえの)王の二人であった。田村は皇室の嫡流(ちゃくりゅう)であり、山背は推古天皇の甥の聖徳太子の子であった。
 62837日、推古天皇は次の天皇に即位するのは田村と山背のどちらとも決めかねて死去した。
 蝦夷は自邸に有力豪族を招集して田村と山背のどちらを次の天皇に即位するのかについて意向(いこう)をたずね、全員の一致を得られないと知ると、山背を天皇にと考えるおじの境部摩理勢(さかいべのまりせ)父子を武力で討ち取り、強引に田村皇子を即位させた。これが、62914日に即位した第34代・舒明(じょめい)天皇であった。舒明天皇の皇后は宝(たから)皇女であり、宝皇女は642115日に即位した第35代・皇極(こうぎょく)天皇であり、また彼女は65513日に即位した第37代・斉明(さいめい)天皇であった。
 舒明天皇と宝皇女の息子が66813日に即位した第38代・天智(てんじ)天皇であり、673227日に即位した天智天皇の弟の第40代・天武天皇であった。この天武天皇の即位から大嘗祭が始まったとされる。
 したがって、天智・天武両天皇の父・舒明天皇と母・皇極天皇の時代は、蘇我蝦夷と息子の入鹿(いるか)の権勢が隆盛(りゅうせい)を極(きわ)めていた。
 これゆえ、舒明・皇極の両天皇の時代は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を皇室が独占管理できなかったために、その権勢は衰弱していたことになる。

◆皇族や貴族において【強大の権力】を尊重する人々は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を最高に勝るものと考えた。
 しかし、皇族や貴族において人民と同様に「【日本建国の〔愛〕の理念】のほうが【夏の銀河から漢字が作られた学問】よりも勝っている」と考える人々もいた。
 3世紀前半期(230年ころ)13歳の小国の日本の女王・伊耶那美命(いざなみのみこと/旧国丹波国生まれの本名は竹野比売)18歳の小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)の伊耶那岐命(いざなきのみこと/のちの第9代開化天皇)と結婚するとき(つまり、小国・日本国が誕生するとき)、【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた。【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝える『古事記』は、712年正月28日に第43代・元明(げんめい)天皇に献上して拒絶(きょぜつ)されて正史になれなかった。【日本建国の〔愛〕の理念】は『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話冒頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に10字の夏音文字「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」で記述されている。この10字の夏音文字は「小国・日本の国土(くに)生みの柱を〔愛〕にいたしましょう、やさしき男(おのこ)よ」と意味した。
 この伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】は小国・日本はもちろん、卑弥呼が治める倭国の国中のすみずみまでたちまち知れ渡り、諸々の地方の首領(豪族)はじめ人民たちに最も尊重された。
 倭国に一員であった小国・伊耶(いや)(旧国丹波)生まれの竹野比売(たかのひめ)を、人民たちは「伊耶国出身の那(桃の花)のように美しい小国・日本の女王」を省略して「伊耶那美命」と呼んで敬愛した。

7791月に完成したと考えられる『万葉集』には、蘇我大臣家と【夏の銀河から漢字が作られた学問】を二分して苦悩した舒明天皇と皇后・宝皇女(のちの皇極天皇、斉明天皇)が伊耶那美命と伊耶那岐命に憧れて【日本国誕生史】や【日本建国の〔愛〕の理念】を題材にして作った和歌が幾つか収められている。
 『万葉集』2番は舒明天皇が作った「天皇が香具山に登って国見(くにみ)をされた時」の長歌である。この長歌で舒明天皇は「伊耶那美命を象徴する天の香具山こそが大和に所在する諸々(もろもろ)の山で最も優れている」と伊耶那美命を讃えている。
 『万葉集』5番は舒明天皇が作った「讃岐国(さぬきのくに)の安益郡(あやのこほり)に幸(いでま)す時に、軍王の山を見て作る歌」と題する長歌である。この長歌で、舒明天皇は伊耶那岐命の憧れを示して「小国・日本の軍王のちの開化天皇が、倭女王卑弥呼と素(もと)より不和であった狗奴(くな)(吉備地方)討伐を指揮した所縁(ゆかり)の安益郡(現在の香川県坂出市と綾歌郡の東部の地)の網の浦(坂出市の海岸)に到着すると、伊耶那岐命が本陣を設営した讃岐富士の飯野山(いいのやま)から越えてくる風が、孤独な朕(われ)の衣の袖を朝な夕なに吹き返す。この袖が風に揺れるありさまを見ていると、いつしか宮殿に帰ろうかと思うようになり、強い男だと思っていた自分も旅先のことゆえ気弱になり、蘇我入鹿と情を通じているにちがいないという噂がある妻の宝皇女と離縁しようかと決意したものの妻が愛(いと)しくなり、愛しくなれば憎さがつのり、憂いを晴らすことができないでいる。小国・日本へ赴任する時に伊耶那美命と伊耶那岐命が〔塩許々袁々呂々邇(しおこをろこをろに)と画()き鳴らす国土生み儀式〕をおこなった舞台・瀬戸内海の一角にある網の浦の娘たちが焼いて塩を作る時の沸騰する熱湯のように熱く重く、愛と憎しみとの間で苦悶するわが心よ」と表現している。

◆わがブログ「#20 邪馬台国説はフェイクであった!」で詳細に解説したように、下記の『万葉集』485番の岡本天皇(宝皇女)が作った長歌を現代語に訳すると、下記のごとくなる。
 神代(かみよ)より 生()れ継ぎくれば 人さはに 国には満ちて 味群(あぢむろ)の 通(かよ)ひはいけど 我()が恋ふる 君にしあらねば 昼は 日の暮()るるまで 夜(よる)は 夜()の明くる極(きは)み 思ひつつ 眠()も寝()かてにと 明しつらくも 長きこの夜()(485)
 485番を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
 ――神代の伊耶那美命が小国・日本の女王に就任して伊耶那岐命とオノゴロ島(淤能碁呂島)で結婚したときに【日本建国の〔愛〕の理念】をとなえました。そして伊耶那美命が没して墓が作られたとき、伊耶那岐命は「吾(われ)は一日に千五百の産屋(うぶや)が立つ政事(まつりごと)をおこなう」と宣誓して、故・伊耶那美命の【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継ぎました。この伊耶那美命と伊耶那岐命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を神代から国民は生まれ代々受け継いできたために、国民は国土に満ち満ちて、人々は空を覆って飛ぶ(通う)味鴨(あぢかも/トモエガモ)の無数の大群のように、わたしの目の前を愛睦(あいむつま)まじく通りすぎていきますが、わたくしが恋い慕うあなた(舒明天皇)は、わたしと蘇我入鹿との仲を疑って、わたくしの夫であることを拒否してわたしを抱いてくれません。わたしは昼は日が暮れるまで夜は夜が明けるまで、あなたを思いつづけ、一睡(いっすい)もできませんでした。この夜は ほうとうに長い夜でした。

 このように父・舒明天皇と母・宝皇女は【伊耶那美命と伊耶那美命】に憧れ、【日本建国の〔愛〕の理念】のテーマとする和歌を作ったが――息子の天武天皇は673227日に即位に際し、天皇の権力を絶大にするため「天照大御神母子(10代崇神天皇とその生母)の聖性を著しく汚す【〔愛〕を国家理念に掲げた日本国誕生史】を抹殺せよ」と命じて、大嘗祭を起源させた。
 この【日本国誕生史における日本建国の〔愛〕の理念】が大嘗祭で表現されることになったのは、天武天皇が即位した年から約1070年後の17381119日の桜町天皇の大嘗祭からであったのである。

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