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2019年12月 5日 (木)

大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・9

★#9・大嘗祭における【日本建国の〔愛〕の理念】と壬申の乱

◆令和元年118日の朝日新聞の朝刊は「大嘗祭 ひもとけば」と題する記事で、下記のごとく報道した。
 ――日本古代文学が専門の工藤隆・大東文化大学名誉教授は「大嘗祭の本質は、先史時代までさかのぼって考えないとわからない」と主張する。(中略)。弥生時代から続くこれらの祭を下敷きにしつつ、7世紀の天武・持統両天皇の時代に最も重要な祭儀として整備された」とみる。
 日本書紀などには「天皇の璽印(みしるし)を奉る」などの記載がある。天武天皇より前から、継承の証しとして剣・印などを新天皇に渡す儀式は行われていたようだ。
 文献では、五穀豊穣(ほうじょう)を祈る新嘗祭(にいなめさい)を大規模にした「大嘗(おおにえ)」を天武天皇の即位に際し初めて実施されている。続く持統天皇の時には即位礼に続く形で行われ、飛鳥時代にこの形式が整えられたことがわかる。

◆令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明までに行われた大嘗祭は、上記した(1)【弥生時代から続く祭儀】と(2)7世紀の天武天皇からの大嘗祭の伝統】を受け継いでいるだけでない。
 (3)江戸時代の1738年、桜町天皇即位の際に将軍徳川吉宗が協力して復興した大嘗祭において新たに【日本建国の〔愛〕の理念】をも加えられた大祭でもある。
 だから、令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明に終了した大嘗祭は【上記した(1)(2)(3)の、3つの要素】から構成される学問儀式であった。

(2)天武天皇からの大嘗祭の伝統は――このブログが前回(8)まで解説し証明してきたように、【紀元前3000年ころの中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が発明した、夏の銀河から漢字が作られた学問】をもって表示された。
 つまり、令和の大嘗祭において、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は【天皇陛下の供饌の儀で、供饌から三つずつお供え物の食べ物を選んでピンセットのような箸(はし)で小皿に入れる行為を1000回余も繰り返す所作(しょさ)】で表示された
 弥生時代(3世紀)に生存した天照大御神母子(10代崇神天皇とその生母の伊迦賀色許売命/いかがしこめのみこと)は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を最も重視し、強大な権力を手に入れて大和朝廷の基礎を築いた。
 天照大御神母子は同じ弥生時代に生存した【伊耶那美命が唱えて、伊耶那岐命が受け継いだ〔愛〕を建国理念とした日本国誕生史】は憎悪して敵視した。というのも、【伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念】は【天照大御神が重視した夏の銀河から漢字が作られた学問の権威】の脅(おびや)かす危険な歴史にして思想であったからである。
 天皇の権力を絶大にするため、天武・持統両天皇は【夏の銀河から漢字が作られた学問を最も重視した天照大御神を最も偉大な皇室の先祖(至上神)と讃(たた)えて崇拝する大嘗祭】を起源させて、皇室が永らく存続するように図った。だから、天武・持統両天皇は――天皇の権力を絶大にするための最大の障害となった【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】は後世に絶対に伝えてはならない、必ず抹殺(まっさつ)しなければならない――と考えた。
 ところが、天武・持統両天皇が「絶対に後世に伝えてはならない」と禁じた【日本建国の〔愛〕の理と日本国誕生史】は、江戸時代に復興されることになった。
 つまり、(3)天武天皇が大嘗祭を始めた673年から約1070年後の1738年、桜町天皇即位の際に将軍徳川吉宗が協力して復興した大嘗祭にて、【日本建国の〔愛〕の理念】は表現されることになった。
 令和元年の大嘗祭においては、1114日の午後6時半ごろ、悠紀殿(ゆきでん)に向かって御菅蓋(ごかんがい/天皇の王冠)を高くさし掛けて葉薦(はごも/御筵道)を進む天皇陛下の行列の登場から【悠紀殿における供饌の儀】が始まった。また、翌15日の午前0時半ごろ、主基殿(すきでん)に向かって御菅蓋を高く差し掛けて御筵道(ごえんどう/葉薦)を進む天皇陛下の行列の登場から【主基殿における供饌の儀】が始まった。
 【天皇陛下の悠紀殿・主基殿で行われた供饌の儀】の前に行われた【葉薦(御筵道)を進む天皇陛下の行列】は、天武・持統両天皇の命令を破棄(はき)して、上記した(3)1738(元文3)の第115代・桜町天皇の時に【日本国誕生史における日本建国の〔愛〕の理念】を新しく加えるという、一大改革した儀式であったのである。
 このように、令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明に終了した大嘗祭は【上記した3つの要素】から構成される学問儀式であった。

◆【全漢字が夏の銀河から作られた事実】と【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】については、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。疑問を抱く方々は拙著『日本国誕生史の証明』にて確認していただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆このブログの前々回(6)で指摘したように――大嘗祭を起源させた第40代・天武天皇の両親・第34代・舒明(じょめい)天皇と皇后の宝(たから)皇女(35代・皇極天皇にして第37代・斉明天皇)であった。
 天武天皇の父の舒明天皇は『万葉集』2番の「天皇が香具山に登って国見(くにみ)をされた時」の長歌を作って、「伊耶那美命を象徴する天の香具山こそが大和に所在する諸々(もろもろ)の山で最も優れている」と伊耶那美命をたたえた。また、舒明天皇は『万葉集』5番の「讃岐国(さぬきのくに)の安益郡(あやのこほり)に幸(いでま)す時に、軍王の山を見て作る歌」と題する長歌を作って、小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)であった伊耶那岐命(いざなきのみこと)への憧れを表現した。
 そしてわがブログ「#20 邪馬台国説はフェイクであった!」で詳細に解説したように、また、この前回(8)のブログで要約して現代語訳して証明したように、『万葉集』485番の岡本天皇(天武天皇の生母の宝皇女)が作った長歌は【日本国誕生史の秘密】を解明できる重大な糸口(いとぐち)となる、多数の『万葉集』の和歌にあって【日本建国の〔愛〕の理念】を明確に表現する最も代表的な作品である。
 岡本天皇(舒明天皇と宝皇女)の息子は66813日に即した第38代・天智(てんじ)天皇と、673227日に即位した第40代・天武天皇である。
 天智天皇は兄で皇太子の時の名は「中大兄(なかのおおえの)皇子」であり、弟の天武天皇は皇太弟の時の名は「大海人(おおあまの)皇子」であった。

671(天智天皇10)10月、病床にあった兄天智天皇は皇太弟(こうたいてい)の大海人皇子(のちの天武天皇)を枕辺(まくらべ)にまねき、後事(こうじ)をたくそうとした。しかし大海人は用心して次の天皇になることをことわった。天智天皇は息子の大友(おおとも)皇子に譲位したかったので、大海人の出家と吉野隠退(よしのいんたい)の願いを聞き入れた。
 大海人の吉野入りに従う者は、正妃の菟野(うの)皇女(のちの持統天皇)とその子草壁(くさかべ)皇子、異母子の忍壁(おさかべ)皇子、舎人(とねり)40人余など計70人足らずであった。
 同年12月、天智天皇が近江で死去した。
 大海人が吉野に隠退してから半年ばかり経過すると、近江方の締()め付けがきびしくなり、近江から南の飛鳥(あすか)までの要所に監視人を置いて吉野の動静をうかがうようになった。
 おりしも、朴井連雄君(えのいのむらじおきみ)が「私は私用で美濃に行きました。時に近江朝では、美濃・尾張両国の国司(こくじ)に『天智天皇の山科陵(やましなりょう)を作るために、あらかじめ人夫を徴集(ちょうしゅう)しておけ』と命じておりました。ところが、その人夫たちに武器を持たせておりました。思いますに、これは必ず変事があることを示しているもので、もし速(すみ)やかに避()けられないと、きっと危険な目にあいましょう」と報告した。
 672624日、危険を察知した大海人は吉野を出立して東国へ逃れた。この時、吉野方の人数は女性や子どもたちまでふくんで50人足らずであった。(つまり、吉野へ隠退した時より大海人一行を護衛する兵士の舎人が約20人も減っていた)
 吉野を出発した日の朝、大海人一行は菟田(うだ)の安騎(あき)(現在の奈良県宇陀市の阿騎野)を通過し、甘羅村(かんらのむら)つまり現在の奈良県宇陀市の榛原町(はいばら)町の方へ向かった。
 甘羅村を過ぎた交通の東西要衝(ようしょう)の地にて、20人余りの猟師一行と出会った。
 この様子を、『日本書紀』巻二十八の天武天皇紀の東国の出発の条(くだり)は、次のように記述する。
 「甘羅村(榛原町)を過ぎると、猟師二十人余と出会った。大伴朴本連大国(おおともえのもとのむらじおおくに)は猟師の首領であったので、ことごとく召して一行の仲間に入れた。また、美濃国の王(美濃国の豪族)をも召され、お供(とも)に加わった。」

◆上記したように、大伴連大国がひきいる20人余りの猟師の一団には、朴井連雄君が大海人に「近江朝が美濃に人夫を徴集して武器を持たせていた」と報告した、その美濃国の王が一緒に行動していた。
 『日本書紀』神武天皇紀は「皇軍は、熊野の神邑(みわのむら)に到着し、天磐盾(あめのいわたて)に登った」という記事の後は、八咫烏(やたがらす)について下記のごとくの記事がある。〔なお、「天磐盾」は現在の和歌山県新宮市磐盾町に所在する、天照大御神を祭神として祀る神倉神社が所在する神倉山である〕。
 「大伴氏の先祖の日臣命(ひのおみのみこと)は、山を越え道を踏み分け、八咫烏の導くままに、仰ぎ見ながら(つまり、1度の60分の11分の精度で精確に緯度が測定できる天頂緯度線と経度軸をキャッチして)追跡して皇軍を先導した。皇軍は宇陀の下県(しもつこおり)に到着し、神武天皇はこの地を宇陀の穿邑(うかちむら)と名づけられた。そのとき、天皇は『お前は忠勇(ちゅうゆう)の士で、またよく道を導いた。この手柄にもとづきお前の名を改めて道臣(みちのおみ)としよう』と仰せられた。」
 大海人一行が出会った大伴連大国は現在の奈良県宇陀市榛原町の高星(たかへ)に居住していた。672年当時、榛原町高星は「高屋(たかや)」と呼ばれていた。
 この「甘羅邑の高屋・現在の榛原町高星」が『日本書紀』神武天皇紀の八咫烏の条に記載される、大伴氏の先祖の日臣命が皇軍を先導して到着した「宇陀の下県の穿邑」であった。その証拠に、「天磐盾(現在の和歌山県新宮市磐盾町の神倉山)」と「宇陀の穿邑(甘羅邑の高屋・現在の榛原町高星)」は共に東経13559分で同経度ある。先祖が日臣命である大伴連大国は、日臣命が皇軍を天磐盾から先導して到着した同経度(真北)の宇陀の下県の穿邑=甘羅邑の高屋に居住していたのである。
 大伴連大国は道臣命(日臣命)の末裔(まつえい)の、武家の名門・大伴連家と大伴家の宗家(そうけ)の頭領であった。
 女性や子どもたちをふくんでわずか50人足らずで東国へ逃れる窮地(きゅうち)におちいった大海人一を助けようと決意した大伴連大国が「道臣命の末裔」と名乗らずに「猟師の首領」と名乗ったわけは、出世や褒美(ほうび)を欲するものではなく、『古事記』伊耶那岐命と伊耶那美命神話の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に記載された【伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念の復興】を願うものであったからである。

◆上記したように、吉野を出発した大海人一行は、現在の国道370号線を北へ進んで菟田の安騎(現在の奈良県宇陀市阿騎野)を通過した。さらに、北上して甘羅村(宇陀市榛原町)を通過した時に、大国・美濃の王等の一団と出会った。
 大海人と大国が出会った場所は、現在の榛原駅のすぐ東の国道370号線・国道369号線・国道165号線の合流地点であったと考えられる。というのも、南東へ向かう国道369号線の先は伊勢であり、『日本書紀』天武天皇紀が書いてあるとおり大海人・大国たちは伊勢国へ米を運ぶ駄馬50匹と遭遇(そうぐう)しているからである。また、国道370号線から北東へ向かう国道165号線を進むと大海人・大国たちが通過した大野(奈良県室生村大野)に至り、その先は一行が夜半に到着した隠郡(なばりのこおり/今の名張)となる。そして、三本の合流地点は、大国が居住した高屋からの道とも合流する。
 大海人と大国に出会った推定地点は、古くは吉野、大和、伊賀、東海道や東山道、伊勢を結ぶ東西交通の要衝(ようしょう)であった。ゆえに、この要衝に近くにある高屋は東海道と東山道の武士たちをたばねる強力な武将・大伴連大国が居住するのに最適地であったことになる。

672624日に大海人一行が吉野を出発した時の人数は女性や子供まで数に入れて五十人足らずであった。
 大国らが加わって、夜を徹(てっ)して逃れ、伊賀の山中に至るころ、伊勢の郡司らが数百の兵をつれて従った。翌25日には五百の軍勢が、さらに26日には美濃の軍勢三千人が加わった。27日には、尾張の国司が二万の兵をひきいて加わった。
 だから、美濃の王をひきいて大海人と出会った大伴連大国は、伊賀・美濃・尾張の東海道・東山道の軍勢の頭領であったのである。
 壬申の乱は、『日本書紀』が書いてあるとおり「近江朝が美濃・尾張両国の国司に『天智天皇の陵墓を作るために、あらかじめ人夫を徴集しておけ』と命じて、その人夫に武器を持たせた指令」から始まった。
 近江朝は五十人足らずの吉野に住む大海人を簡単に殺害できる。しかし、この暗殺隊を吉野に向けると大国が住む高屋に近い交通の要衝を通過しなければならない。このため、大海人暗殺隊を吉野に向かわすと、この変事(へんじ)に高屋に住む大国は気づくちがいないゆえ、【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する大伴連大国は必ず軍勢を挙げると、近江朝は考える。したがって、近江朝の美濃・尾張の国司への命令は、先ず大伴連大国を討伐して、次に大海人を殺す陰謀をあらわすものにちがいない――と近江朝の命令を聞いた美濃の王は推察して、高屋に住む頭領の大国のもとにいち早く駆けつけたと推定される。
 だから、大海人と出会った時、美濃の王は大国と行動を共にしていたことになる。

◆当時、大伴連家の分家の大伴御行(おおとものみゆき)が、近江朝につかえていた。
 ゆえに、大伴御行は――大伴連大国は伊耶那美命・伊耶那岐命に熱烈に憧れるゆえ、【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する東海道・東山道の兵士たちに敬愛される、大伴連・大伴両家の宗家の頭領である強力な武将である――と、近江朝に報告したにちがいない。
 だから、近江朝は朝廷の威厳(いげん)に美濃・尾張の武士たちが畏怖(いふ)し服従して頭領の大国を討伐するにちがいないと推断して、次に大海人を殺すという作戦を立てたことになる。
 いっぽう、大国は近江朝による大海人の殺害を心配した。だから、吉野に隠退する大海人一行が甘羅村を通過した時から壬申の乱がおこるまでの半年間、大国は大海人に危害がおよぶ気配が発生した時の作戦を東海道・東山道の各地に赴(おもむ)いて配下の国司・郡司・王(豪族)たちと綿密(めんみつ)に相談していた。ゆえに、壬申の乱の朝、大国は素早くに各地に伝令を送って指令(しれい)した後に、大海人と合流した。これゆえ、伊賀国の郡司の数百の兵士が、翌日には五百の軍勢が、二日後には美濃の軍勢三千人が、三日後には尾張の国司が二万の武士たちをひきいて、大国が護衛する大海人一行に合流できたと考えるべきことになる。
 〔注 二日目の美濃の軍勢三千人、三日目の尾張の国司がひきいた二万の兵士の大海人一行との合流は、近江朝が美濃・尾張の国司に徴集を命じた人夫(武器を持たせた兵士)を服従させて大国を討伐する作戦の誤算・失敗を明確に示す。〕

◆尾張の国司が二万の大軍をひきいて大海人に帰順したときである――この一報が伝わると、近江方は一大恐慌(いちだいきょうこう)におちいった。募兵(ぼへい)の試みは失敗し、けっきょく、現有兵力で戦わなければならなくなった。そのころ、大和に隠退(いんたい)していた大伴馬来田(おおとものまくた)・吹負(ふけい)兄弟は、大海人の味方となり、629日に急きょ飛鳥の古京を襲って占領したことを、大海人に報告した。近江方は数万の兵を不破(ふわ)に向かわせたが、内紛(ないふん)がおこって失敗に終わった。
 吉野の出発から8日後の72日、吉野軍は近江軍を圧倒する数万の大軍となった。
 かくして、722日の瀬田(せた)の決戦で近江軍は敗(やぶ)れた。天智天皇の子の大友皇子は逃げ場をうしない、翌日、長等(ながら)の山崎(やまざき/諸説あり)で自ら首をくくって死んだ。ときに、25歳であった。
 このように、壬申の乱はまる一ヶ月で終わった。
 壬申の乱で、にわかに吉野軍が大軍になったのは、東海道・東山道の武士と同じく【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する大伴連大国がいちはやく大海人一行に合流して護衛していたからである。大国は大伴連家と大伴家の宗家の頭領であったゆえ、大伴馬来田・吹負兄弟は大和に隠退して吉野方に味方し、将軍・大伴御行は近江朝を裏切って吉野方に加わった。ゆえに、近江方に内紛がおこって、吉野軍に大敗したのである。
 673(天武天皇2)2月、大海人皇子は即位して大嘗祭を初めて実施(じっし)して天照大御神の崇拝政策を示し、天智天皇の路線を引き継ぎ律令体制の強化をはかった。
 よって、天武朝は【日本建国の〔愛〕の理念の排除】を表明したゆえ、大国が期待した【日本建国の〔愛〕の理念の復興】は成就(じょうじゅ)しなかったことになる。
 壬申の乱で天武天皇が勝利したのは、【天智天皇の政策の、日本建国の〔愛〕の理念の排除】に対する反発が【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民(下級官僚や庶民)のあいだにみなぎり、それが大海人への同情と期待となって、大伴連大国はじめ東海道・東山道の武士たちをつき動かすことになったからである。しかし、天武朝が表明した政治は【日本建国の〔愛〕の理念】に反するもので、大国たちの期待を裏切った。
 だから、吉野方に勝利を導いた最高の功労者・大伴連大国は、天武朝に参加せずに庶民となって、都から遠く離れる片田舎(かたいなか)の菟田(うだ)の高屋に居住した。 

◆このため、天武天皇にとって朝廷の律令政治に背を向け、【日本権力の〔愛〕の理念】を重んじる大伴連大国は最大最強の脅威(きょうい)となった。天皇は菟田の高屋にひきこもる大国の才能を惜しみ、なによりも彼の反乱をおそれた。また、都の東方を守備するためには、彼が有する兵力が不可欠(ふかけつ)であった。そこで、天皇は大国を懐柔(かいじゅう)するため、わが子を大国に与えることを思いついた。わが子を大国に預けて養育させれば、この子は成長して大国の後継者となる。わが子が東海道・東山道の武士たちを統率(とうそつ)する強力な武将となれば、都の東方の防衛は盤石(ばんじゃく)の備えとなる――と、天皇は目論(もくろ)んだのである。
 壬申の乱から4年後の676(天武天皇5)、新田部(にいたべ)皇女が天武天皇の子は出産した。これが、舎人(とねり)皇子である。
 797(延暦16)に完成した『続日本紀(しょくにほんぎ)』は「舎人皇子は天武天皇の第三皇子」と記す。つまり、舎人皇子は多数の天武天皇の子どもたちにあって、皇位継承順位が三番目の地位が高い皇族して、大国を養父とする庶民でもあったのである。
 天武天皇の第一皇子は、正妃菟野皇女(のちの持統天皇)が生んだ草壁皇子である。天武天皇は第二皇子をもうけなかった。『日本書紀』は「大津皇子が天武天皇の第三皇子」と記す。だから、天武天皇の第二皇子というべき皇族は大津皇子と舎人皇子であったことになる。

◆舎人皇子が6歳であった681(天武天皇10)317日、『日本書紀』天武天皇紀は「天皇は大極殿(だいごくでん)にお出ましになり、川嶋皇子・忍壁皇子はじめ12人の皇族・貴族に詔(しょう)して、帝紀および上古の諸事を記し定めさせた」と記述する。
 この記事に登場する「上古の諸事」は、620(推古天皇28)に皇太子・聖徳太子と大臣・蘇我馬子に編纂を勅令(ちょくれい)した【国記】を指していたことになる。この【国記(上古の諸事)】は――645613日、乙巳(おつし)の変で蘇我蝦夷(そがのえみし)が殺される前に自邸に所管していたすべての天皇記・国記・珍宝を焼こうとしたが――船史恵尺(ふねのふびとえさか)が素早く取り出して焼失をまぬがれた。〔これについては、このブログ前々回(7)で詳細に解説した〕。
 【蘇我大臣家に所管されていていた、乙巳の変で焼失しなかった国記(上古の諸事)】を、『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷わせて序)は、【国記(上古の諸事)】を「本辞(ほんじ)」、「旧辞(きゅうじ)」、「先代の旧辞」などの名称で呼ぶ。
 ゆえに、『古事記』という書名は――『日本書紀』天武天皇記における「上古の諸事を記し定めた」という記事にある[][][]3字に由来する――という説がある。
 しかし、天武天皇の【帝紀および上古の諸事の記定の勅令】は中止されて実現しなかった。
 というのも、天武天皇は皇室と国家権力を強化する律令体制を推進するため、【(1)天照大御神の聖性を絶対に汚してはならない歴史書の作成、(2)伊耶那美命がとなえた日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史を削除(さくじょ)する、上古の諸事の記定】を命令するものであったからである。
 上記したように、大伴連大国は【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史の削除】をゆるすはずがなく挙兵するにちがいなかった。この大国の挙兵には、壬申の乱の勝利に導いた東海道・東山道の武士たちはもちろん、壬申の乱で敗れた近江軍の残党も大国軍に加わるにちがいなかった。このような大国軍と戦って、天武王朝軍の勝算は不確かで敗戦する可能性もあった。これゆえ、天武天皇は【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史を削除する、上古の諸事の記定事業】を断念した。
 しかし、天武天皇が【上古の諸事の記定】を強行していたならば、反乱を指揮する大国は天武天皇の子・舎人皇子をどのようにあつかっていたであろうか。大国は厳(きび)しく育てながら舎人皇子を深く愛していたであろうゆえ、大国は生涯でもっとも厳しい苦渋(くじゅう)の選択をしなければならなかった。天武天皇の【上古の諸事の記定の情報】は大国の耳にもとどき、また少年舎人皇子も実父天武帝と養父・大国の対立の気配は察知したにちがいない。このとき、少年舎人皇子の小さな胸は不安でおしつぶされて、自分の父は愛情をそそいで育ててくれた大国であると思いつめ、いっぽう大国は挙兵しても舎人皇子は人質であらずわが子であるゆえなんとしても彼の生命はまもると決断し、生()さぬ父子は従来に増して強い愛で結ばれたにちがいない。
 よって舎人皇子にとって、父は天武天皇ではなく、大伴連大国であったことになる。
 舎人皇子は伊耶那美命に憧れた大国の遺志を継ぎ、【日本建国の〔愛〕の理念】を伝える歴史の保存に情熱をかたむけた。生さぬ父子の〔愛〕で結ばれる堅(かた)い絆が、強大な朝廷と国家の権力にたちむかったため、【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】を伝える『古事記』が成立することになったのである。

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