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2020年11月

2020年11月27日 (金)

NHKテレビ・歴史秘話ヒストリアにダマされるな!

▼急遽、2020年11月25日に放送された、NHKテレビの歴史秘話ヒストリの「日本書紀神話」と題する番組は、幾人かの学者や歴史研究家たちの空理空論・捏造(ねつぞう)・歪曲(わいきょく)をNHKテレビの番組製作者たちが鵜呑(うの)みにして、国民を馬鹿にして愚弄(ぐろう)して誑(たぶら)かすデマであったのである

◆一昨日の夜(20201125日の2230)に放送されたNHKテレビの歴史秘話ヒストリアにおいては、「日本最古の歴史書は『日本書紀』であり、『日本書紀』は藤原不比等が作ったことは決まっている」と断定した。
 しかし、『日本書紀』よりも前に、『古事記』は712(和銅5)正月28日に完成して元明天皇に献上された。正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』は「720(養老4)5月、知太政官事(ちだいじょうかんじ/歴史局の総裁と太政大臣を兼ねる天皇に次ぐ高位の官職)の舎人親王(とねりしんのう)が『日本紀(後の「日本書紀」)』を、元正天皇に奏上した」と明記する。
 したがって、昨夜のNHKテレビの歴史秘話ヒストリアは、真っ赤なウソ・空理空論・ナンセンス・デッチあげであることがはっきりとわかる真っ赤なウソ・空理空論・ナンセンス・デッチあげを臆面(おくめん)なく垂れ流していたことになる。

 正史『続日本紀』に記述されたとおり――『日本書紀』は、舎人皇子(舎人親王)が指揮して編纂(へんさん)された。
 『日本書紀』は舎人皇子が主宰(しゅさい)して作成された――この事実は舎人皇子のドラマチックな情熱的な一生を調べればただちに明らかとなる。
 舎人皇子の幼年期の資料は『日本書紀』巻第二十八と巻第二十九の天武天皇紀・最終の巻第三十の持統天皇紀の記事が必要となり、その後の舎人皇子の様子は『続日本紀』の巻第一の文武天皇紀から巻十二の聖武天皇紀に頻繁(ひんぱん)に登場して記述されている。また、『万葉集』の様々な和歌も重要資料となる。
 舎人皇子は実父・天武天皇に捨てられて武家の名門の養父・大伴朴本連大国(おおとものえのもとのむらじおおくに)に育てられて37歳から38歳頃まで奈良県宇陀郡榛原(はいばら)町で過ごした。ゆえに、出身地の榛原町をも調査する必要がある。
 したがって、舎人皇子の一生を知ることができる資料は豊富に存在し、上記した資料を克明(こくめい)に調査・研究すれば、NHKテレビの歴史秘話ヒストリアの「日本書紀神話」の番組は完全なる捏造・ウソ八百・荒唐無稽のデタラメであったことになる。
 舎人皇子は676(天武天皇5)に誕生し、735(天平7)1114日に死去している。享年60歳であった。
 60歳の生涯にあって37歳から38歳までの前半生は庶民として高屋(たかや/現在の奈良県宇陀郡榛原町高星)で過ごし、後半生は身分高き皇族となった。これゆえ、「舎人皇子」という名は「捨て子皇子」あるいは「庶民にして武将皇子」と意味した。このように庶民であった舎人皇子は『続日本紀』が記述するように「天武天皇の第三皇子(天武帝の多数の子であって、皇位継承順位が第三番目の皇子)」であったゆえ、42代文武天皇・43代元明天皇・44代元正天皇と同格に天皇に即位できる身分高き皇族であった。
 だから、庶民であり天皇に即位できるほど高位の皇族であった舎人皇子は、日本国民に人気があるヒーローの織田信長や坂本龍馬と肩を並べるほどのヒーロー中のヒーローであるはずであるが、なぜか学者はじめ小説家の誰一人も偉大なるヒーロー・きわめてドラマチックな人生を送った舎人皇子について注目せずまったく研究されていない。
 ただし、女流作家の永井路子氏が『美貌の女帝』という書名の小説を著述したが、ヒロインの元正天皇の恋人を長屋王とした。しかし、美貌の女帝・元正帝が一途に愛して一生独身を貫いた相手は舎人皇子であった。これゆえ、永井路子氏はさらに大傑作になったにちがいない万葉の一大ロマン・元正帝と舎人皇子の愛情物語を著述することができなかった。

 舎人皇子は『古事記』の編纂を指揮した。しかし、『古事記』は皇室が最も崇拝する先祖つまり皇祖の天照大神の聖性をいちじるしく汚す歴史を記述した反逆の歴史書であった。だから、『古事記』を献上された元明天皇は、『古事記』は朝廷が「後世に絶対に伝えてはならぬ」と厳重に禁止する皇祖・天照大御の聖性をいちじるしく汚す反逆の史書であると察知して即座に献上を拒絶した。このため、『古事記』は正史『日本書紀』よりも正確に真実の歴史を記述したが、反逆の度合いが濃かったために『古事記』は正史になれずに野史(やし/民間で編纂した歴史書)と化した。しかし、真実の歴史を記述したゆえ、心ある人々にまもられて『古事記』は失われなかったのである。
 『古事記』献呈に失敗したことに懲りた舎人皇子はじめ歴史書編纂スタッフは反逆の牙(きば)を抜く、皇祖・天照大神の聖性を汚す度合いを薄めた『日本書紀』を完成させて元正天皇に奏上した。このため、『日本書紀』は朝廷が承認する正史となったのである。しかし、舎人皇子はじめ編纂スタッフは『日本書紀』は失敗作品であると悲嘆して後悔した。
 その証拠に舎人皇子は『万葉集』四二九四番の「あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人は誰(たれ)」と詠む和歌を作った。
 この和歌は「『日本紀(後の日本書紀)』を完成させた山人すなわち編纂スッタフ一同は、いま、空しさにおそわれて途方にくれています。そんな山人の編纂スタッフが悲嘆する心情(こころ)も知らないで、元正天皇陛下〔上記した小説『美貌の女帝』のヒロイン〕は山づと(山人が献上した土産/みやげ)、つまり『日本紀(日本書紀)』を手に入れたと喜んでいますが、陛下に奏上する『日本紀』は書名にまったくふさわしくない、肝心の日本国誕生史の真相が後世の人々に伝わらない失敗作品です! ですので、ここには山人(仙人)と呼べる人物、つまり強大な国家と朝廷の権力に屈せずに真実の歴史を後世に伝えることができたと誇ることができる仙人と呼べる人物は吾をふくめて誰一人もいません」と意味した。
 万葉歌人で有名な山上憶良(やまのうえのおくら)は、最晩年、政争に敗れた主君・舎人親王が天照大神崇拝派の皇族・貴族に媚()びへつらう心ない官人や利にさとい役人たちに侮辱される主君(舎人親王)の惨(みじ)めな境遇を救えず、自分が重病で床に伏す不甲斐無(ふがいな)さを憶良は涙して悲嘆して、『万葉集』九七八番「士(おのこ)やも 空(むな)しかるべき 万代(よろづよ)に 語り継()ぐべき 名は立たずして」と詠む歌を作った。
 この九七八番は、下記のごとくの秘密を有していた。
 「わが主君の舎人親王が指揮した『日本紀』は神功(じんぐう)皇后紀に『魏志倭人伝』の記事の注を加えたために神功皇后の時代は魏の景初三年(239)、正始一年(240)、正始四年(243)、正始八年(247)であったと誤ることになって大失敗した。これが原因で、【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた伊耶那美命が『魏志倭人伝』に記された魏の元号の景始三年や正始八年の年代に生存したことにならなくなった。また、出典となった『帝紀』に記載されていた上古の天皇たちの享年数が百歳を超える年齢が虚偽であったことに気づかずそのまま記載したため、これまた伊耶那美命が『魏志倭人伝』末部に記された魏の元号の年代に生存したことにならず、『日本紀』は失敗作品となった。『日本紀』より前に成立した『古事記』は正史になれずいずれ消失するにちがいなく、次に作成した『日本紀』も失敗作品となって空しい結果となった。日本国誕生史の真実を後世に残さんとしたわが主君・士(おのこ)の戦いは万代(よろづよ)に語り継ぐべき偉業であったはずなのに、なんたる悲運! 空しく終わるのか! 現在、わが主君は聖武天皇陛下と藤原房前(ふささき)公が企んだ太政官処分以来、多くの人々に侮辱されて、ひどい恥辱(はずかしめ)を受けている……。こんなひどい非道、あってよいであろうか。天皇陛下と藤原房前公はじめ政府がおこなっていることはあまりにも悪辣(あくらつ)で卑劣だ!」
 この九七八番の和歌には病床に伏した憶良と、この和歌を作った状況の様子が説明されている。この説明文に登場する藤原八束(やつか)は藤原房前の第三子である。ゆえに、上記した現代語に訳したように、九七八番は憶良が敬愛する主君舎人親王を思って涙して律令体制に最後まで抵抗していたと解釈しなければならないことになる。

 山上憶良が『万葉集』九七八番の和歌を作ったのは733(天平5)であり、また、この和歌は憶良が死に際に作った辞世の和歌であると推定されている。ゆえに、憶良の最後まで朝廷に抵抗していた様子を知った舎人親王は、『万葉集』編纂を思い立ったと推測される。というのも、上記した九七八番の憶良が作った和歌の三句目は「万代に」であるゆえ、『万葉集』の「万葉」に合致するからである。
 『続日本紀』は舎人親王が没した翌736(天平8)1111日の記事は、下記のごとく説明している。
 ――天平5(憶良が九七八番の和歌を作って没したと推定される733)、生前の舎人親王と常に舎人親王を補佐した異母弟の新田部(にいたべ)親王は「葛城王(かつらぎおう)兄弟に橘宿祢(たちばなのすくね)の姓をあたえる勅(ちょく)を聖武天皇から手に入れる計画を企てた」と告げた。つまり、舎人・新田部の両親王は〔天照大神の聖性を汚す日本国誕生史の真実を後世に伝えるため、補填(ほてん)資料となる和歌集の編纂を葛城王兄弟に命じた〕のである。「聖武天皇を騙(だま)して〔橘〕の姓を手に入れるようにするゆえ、汝(なんじ)兄弟は橘の姓を名乗って和歌集を完成し、また元正上皇から献呈許可を得て勅撰和歌集とせよ」と、両親王は葛城王兄弟に計略を密かに説明した。これゆえ、「日本国誕生史の真相を後世の人々が知ることができるようにする和歌集を完成する事業の謀略」をあらわす隠語(いんご/舎人・新田部の両親王と葛城王兄弟とで通用する計略をあらわす語)は「橘」となった。だから、葛城王兄弟は「母方の〔橘〕の姓を名乗って、両親王の心願(計略)が必ず成就するようにいたします」と誓った。このとき、葛城王兄弟は両親王に「昧死(まいし)して以聞(いぶん)す」と決意を示して誓った。
 この「昧死して以聞す」という語は「目の前が暗くなって死ぬ寸前まで、和歌集の完成に努力いたします。また、死ぬ寸前まで努力しても後世の人々に【日本建国の〔愛〕の理念】をテーマにして詠む和歌が不十分であり、また日本国がどこにあったかその範囲を明確に示すことができず、また日本国誕生史が察知できる〔愛〕を詠む和歌の収録が不十分であったならば、和歌集編纂事業を引き継ぐ後継者を選んで必ず完成するようにして、元正上皇陛下に上表(献上)して承諾を得る勅撰和歌集に致します」と、固い決意をあらわす語であった。
 そして、葛城王兄弟は両親王に「ここに臣下の葛城らは、願わくは橘宿祢の姓をたまわり、先帝(元正上皇)の厚命(こうめい/厚い命令)をもいただくことにして、橘の殊名(しゅめい/格別の名)を流(つた)え、万歳(まんさい)に窮(きわ)みなく、千葉(せんよう)に相伝(あいつた)えへむことを願います』と言上(ごんじょう)した。
 この最後の「万歳に窮みなく、千葉に相伝えへむこと」という文にある[][]2字を選んで『万葉集』という書名が成立したという意見が定説である。

 聖武天皇から橘氏を賜姓(しせい)された葛城王は、「橘諸兄(たちばなもろえ)」と名乗り、聖武天皇に信頼されて左大臣まで出世した。諸兄は聖武帝につかえながら密かに、主君・舎人親王に命じられた日本国誕生史を知ることができるための補填(ほてん)資料『万葉集』完成に努力した。しかし、聖武帝に信頼されて重職につくかたわら天皇や皇族・貴族たちに作成目的を知られまいと隠す『万葉集』編纂は遅々(ちち)として進まず、とうとう諸兄は死がせまる753(天平勝宝5)70歳になった。70歳になっても、【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史の真相】を後世に伝えるための補填資料『万葉集』を完成していなかった。ゆえに、諸兄は舎人・新田部の両親王に「昧死して以聞す」と誓った約束の通りに、『万葉集』の作成目的を達成して完成させるための引継ぎをおこなった。753(天平勝宝5)の陰暦五月・橘月(たちばなづき)、つまり、舎人親王が元正帝に『日本紀(日本書紀)』を奏上した時からちょうど三十三年後の陰暦五月・橘月、橘諸兄は未完成の『万葉集』編纂を、36歳の少納言・大伴家持(おおともやかもち)に受け継がせた。「陰暦五月」の異称は「橘月」である。「【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史の真相】を後世の人々が知ることができる『万葉集』完成」をあらわす隠語は「橘」であったゆえ、橘諸兄は753(天平勝宝5)の橘月に『万葉集』編纂事業を大伴家持に引継がせた。
 橘諸兄は『万葉集』の巻一から巻十六までを編纂し、大伴家持は諸兄が編集した巻十六に手を加え、巻十七以後巻二十までを759(天平宝字3)六月から翌758年正月までに編纂した。その後、777(宝亀8)一月から翌778年一月まで、家持は全巻に目を通して修正を加えて『万葉集』を完成させた。
 だから、『万葉集』は伊耶那美命に熱烈に憧れた山上憶良の死を悼んで舎人親王と新田部親王が企画し、聖武天皇を騙して賜姓した「橘」を「『万葉集』完成」をあらわす隠語にして、舎人親王を愛して一生独身であった元正上皇の献呈承認を得て勅撰和歌集にした、橘諸兄と大伴家持の二人によって編纂された、人民たちに愛された【日本建国の〔愛〕の理念】を詠む〔愛〕の和歌が多く集められた律令体制に反逆・抵抗を示した情熱の和歌集であったのである。
 『万葉集』の【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史を後世に伝える】という作成目的は皇祖・天照大神の聖性をいちじるしく汚す歴史を伝えることになった。だから、もちろん、朝廷は【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】を後世に伝えることを厳重に禁止した。ゆえに、『万葉集』編纂を引き継いだ家持は〔朝廷の政策に逆らって、謀反にかかわっているのではないか〕と疑われた。家持は785(延暦4)8月に、享年68歳で没した。その20日後、大伴継人(つぐひと)・大伴竹良(ちくら)らが藤原種継(たねつぐ)を殺害し、家持はこの殺害計画に加わったと疑われた。この嫌疑で、領地越前国加賀郡の百余町などを没収され、彼の子永主(ながぬし)は流罪となった。しかし、806(延暦25)に、この嫌疑は冤罪(えんざい)で誤っていたと認められた。

 「歴史は支配者によって都合よく作られる」という推論にもとづき、『古事記』と『日本書紀』は「皇室にとって都合のよい歴史を語る書物である」と思い込まれている。しかし、この考えは憶測(おくそく)・空想である。舎人皇子の一生を克明(こくめい)に調査すると、『古事記』と『日本書紀』は――大和朝廷の基礎を築いた天照大神(10代崇神天皇と生母の伊迦賀色許売命)を皇祖と崇拝して天皇の権力の絶対化をはかる朝廷の政策に逆らって舎人皇子が指揮して編纂された。だから、『古事記』と『日本書紀』は、本来、皇室にとって不都合な反逆の歴史書であった。『日本書紀』が正史となったのは、『日本書紀』神代紀における【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】の説明が不鮮明になって、反逆の度合いが薄まったゆえ献呈を許可されることになったからである。だから、『日本書紀』は舎人親王はじめ編纂スタッフ一同は「失敗作品」と悲嘆して後悔することになった。
 しかし現在の学者たちは太安万侶が書いた「古事記上巻 幷せて序」の記事を正しく読解できずに誤読・誤解・曲読するゆえ、『古事記』上巻・日本神話は――天照大神(10代崇神天皇と生母・伊迦賀色許売命)を皇祖と定めて天皇の絶対化をはかった律令体制が絶対に後世に伝えてはならないと厳重に禁止した【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史の真相】を後世に伝えるための史料であった――と解釈することができない。
 舎人皇子は『古事記』上巻・日本神話冒頭の序を書く人物に、太安万侶を選んだ。ゆえに太安万侶は、『古事記』編纂スタッフが企んだ計略と『古事記』作成目的を説明する『古事記』上巻の序を「古事記上巻 幷せて序」と表記することにして――その冒頭の45字の漢字で構成するきわめて難解な文章で「1、『古事記』上巻・日本神話に記述された歴史解明方法を説明し、2、『古事記』作成目的は【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史の真相】を後世に伝えることである」と警告(けいこく)した。
 この「古事記上巻 幷せて序」冒頭の45字の文章を、振り仮名無しで書き下し文を示すと下記のごとくなる。
 「臣安万侶言す。それ混元既に凝りて、気象未だ効れず。名も無く為も無し。誰かその形を知らむ。然れども乾坤初めて分かれて、参神造化の首を作す。陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る。」
 上記の文末部の「陰陽斯(いんようここ)に開けて、二霊群品(にれいぐんぴん)の祖(おや)と為(なる)」という文は、上記した「2、『古事記』の作成目的」を伝えるものである。
 この文を現代語に訳すると「陰の伊耶那美命(いざなみのみこと)と陽の伊耶那岐命(いざなきのみこと)がわが国におけるすべての生みの親となりました」ということになる。
 つまり、この短い文章で太安万侶は「小国・日本の女王となった陰の伊耶那美命は日本国が誕生したときに【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えました。倭女王・壱与(いよ/夏音文字の名前)に就任した伊耶那美命が死去しますと、倭女王を受け継いだ天照大神は伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪し、【倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理と作成方法の学問】を絶対法則と定めて天下を治めるべきであると考えました。国民は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】よりも伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】のほうが優っていると日々の生活の目標にして伊耶那美命を熱烈に愛しました。これゆえ、崇神帝の生母・伊迦賀色許売命(いかがしこみのみこと)つまり天照大御神は【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪し敵視しました。このため、天照大神は多数の奴婢(ぬひ)を殺して伊耶那美命の陵墓に葬る残虐な徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮しました。この天照大神の愛妻伊耶那美命への嫌がらせに怒った小国・日本の王であった陽の夫の伊耶那岐命(後の伊耶河宮で天下を治めた9代開化天皇)はクーデターを決行して倭女王・天照大神を失脚させ、大国の倭と小国の日本を併合して伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継ぐ政事(まつりごと)をおこないました」と説明していたのである。
 上記した「古事記上巻 幷せて序」の冒頭「臣安万侶言(まお)す」から「参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す」までの書き下し文は、上記した「1、『古事記』上巻・日本神話における歴史解明方法」を警告するものであったのである。
 この文は「わが国では前期縄文時代から芸術革命が花開き、次の中期縄文時代、また次の後期縄文時代の参時代において銀漢(夏の銀河)各部の形状イメージを造形する土器・土偶を作る造化(芸術)が盛んとなり、後期縄文時代の首(初頭/中国の夏代初頭)に銀漢各部の形状を図案する倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音(かおん)文字が伝来しました。そして、前期縄文初頭から後期縄文初頭までの約二千年間に及ぶ銀漢から土器・土偶を造る造化(芸術)の伝統を受け継ぐ芸術家によって、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】は習得されました。ですから、『古事記』上巻の楷書と夏音文字の字音を示す楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換すれば、銀漢各部の形状が真の字源・字形の原形・原義を表示して真の漢字となりますゆえ、『古事記』上巻に記述された全神話の記事から朝廷が後世に伝えてはならぬと厳重に禁止する真実の歴史が鮮明に甦(よみがえ)ります」と、歴史解明方法を説明するものであったことになる。

 以上のごとく、20201125日のNHKテレビの「日本書紀神話」と題する番組は「最古の歴史書は『日本書紀』、『日本書紀』は藤原不比等が作ったと決まっている」と断定した。しかし、『古事記』は『日本書紀』の8年前に成立しており、正史『続日本紀』は「『日本書紀』は歴史局の総裁にして太政大臣が兼ねた舎人親王が指揮して編纂された」と明記する。
 だから、NHKテレビは国中の国民を誑(たぶら)かす厚顔無恥(こうがんむち)の俗悪なウソ八百・空理空論・出鱈目(でたらめ)、デマをまき散らしたことになる。
 【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史を後世の人々に伝える】を目的にして『古事記』が作成された事実と、舎人皇子は『古事記』と『日本書紀』の編纂を指揮した事実、舎人皇子が『万葉集』編纂を企画した事実の詳細な解説と証明は、わが拙著『日本国誕生史の証明』と『大嘗祭の証明』でおこなった。『日本国誕生史の証明』と『大嘗祭の証明』は書籍本と電子本にして発行したゆえ、詳細は両書にて調査・確認していただきたい。

◆【漢字の起源は中国では解明できず、日本で科学的に具体的に解明できる事実】という魔法がある。
 【漢字の起源は中国では解明できず、日本で科学的に具体的に解明できる事実】という魔法を知っていれば、多数の日本古代史における謎が容易に具体的に明確に正しく解明できる。現在の学者たちのごとく、この魔法を知らないと、日本古代史における様々な謎・秘密の解明に挑(いど)んでも、その意見は空想、空理・空論となる可能性が大となる。
 ゆえに、【漢字の起源は中国では解明できず、日本で科学的に具体的に解明できる事実は、
日本古代史の真相解くことができる魔法(立論基盤)】となる。
 だから、20201125日のNHKテレビの歴史秘話ヒストリア「日本書紀神話」の番組は、「古事記上巻 幷せて序」冒頭の45字の文章を正しく読解できない学者や歴史研究家たちが多数の【誤読】を駆使(くし)してデッチあげた話題を取り上げて、「どうだ、この番組はすごく面白いぞ!」と言わんばかりに手前みその演出をもって視聴率を稼ぐことにアクセクして、国民を誑(たぶら)かし愚弄(ぐろう)したトンデモなく馬鹿げたナンセンスきわまりない俗悪番組であったのである。

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2020年11月20日 (金)

フェイク&まぼろしの邪馬台国・2

★「古代史の謎」の取説・2


▼漢字の起源の秘密は中国では解明できず、日本で科学的に具体的に解明できる

◆今回も〔「古代史の謎」の取説・2〕とサブタイトルとして、【漢字の起源の秘密は中国では解明できず、日本で科学的に具体的に解明できる事実】にもとづくと――【1】【邪馬台国畿内説と九州説は完全なる誤読の空理空論、完全なる幻想であった実体】を証明する。
 というのも、前回〔古代史の謎〕の取説・1〕で指摘したように――邪馬台国畿内説と九州説を主張する学者たちが断定しているように、『魏志倭人伝』は「倭女王卑弥呼が居住した王国の所在地解明」のための文献ではなかったからである。
 『魏志倭人伝』は大半の記事で(55パーセントの記事)で「わが国は紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭に、中国から夏音(かおん)文字の学芸が伝来して習得した。この夏音文字の学芸とともに、紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝につかえた史官・倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理・作成方法をも習得した事実」を具体的に科学的に説明する貴重な文献であった。
 つまり、『魏志倭人伝』は【漢字の起源の秘密は中国では解明できず、日本で科学的に具体的に解明できる、世界的に重大な第一級の文献史料】であった。
 邪馬台国畿内説と九州説は、【多数の誤読(多数の文献批判)】を加えて立論する。しかし、『魏志倭人伝』は、本来、1ヵ所も【誤読(文献批判)】を加える必要がない正確無比の史料であった。
 1ヵ所も【誤読(文献批判)】を加えなければ【科学】が成立して、『魏志倭人伝』は「倭国は夏音文字を習得し、倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法を対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までの30の小国名で表示していた」と説明する文献であった。だから、『魏志倭人伝』は【漢字の起源の秘密は中国では解明できず、日本で科学的に具体的に解明できる、世界的に重大な第一級の奇跡の文献史料】であった。
 学者たちやメデイアは「卑弥呼が居住した王国名は邪馬台国であった」と主張する。しかし、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した王国名は邪馬壱(やまい)国であり、邪馬壱国は山陰出雲地方(石見・出雲・伯耆)であった」と説明している。
 だから、学者たちやメディアが「最も正しい意見である」とデマ・フェイクを拡散する邪馬台国畿内説と九州説は【科学】の要素が砂一粒ほど微塵(みじん)も有していない真っ赤なウソ・虚妄(デタラメ)であったのである。 
 邪馬台国畿内説と九州説が真っ赤なウソであることは、『魏志倭人伝』の冒頭の11字「倭人在帯方東南大海之中」、つまり「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」と文によって、【科学】がまったく成立しない荒唐無稽(こうとうむけい)の出鱈目(デタラメ)ということが証明される。この11字の記事にもとづくと邪馬台国畿内説と九州説の場合は「魏と帯方郡と倭の使者たちは帯方郡の東南にある大海・玄界灘を往来できなかった。したがって、倭と魏は国交を結ぶことができなかったゆえ、約2000字で構成される『魏志倭人伝』には実は1字も文字が書かれていなかった」という結果となる。だから、邪馬台国畿内説と九州説は【科学】の要素を微塵も有していない真っ赤なウソであったことになる。
 邪馬台国畿内説と九州説の実体は『魏志倭人伝』の冒頭11字の記事が明確に事実を示すように、【科学】がまったく成立しない真っ赤なウソ・空理空論・妄想であったのである。
 邪馬台国畿内説と九州説が【科学】の要素が微塵も有していない真っ赤なウソである事実の証明は、書籍本と電子本にした拙著『日本国誕生史の証明』と『大嘗祭の証明』で詳細に解説して証明した。

◆「銀河」の別名は「銀漢」であるゆえ、「銀漢から作られた文字」を略して、中国でもわが日本でも、「漢字」と称した。この「漢字」という名称は、中国でも日本でも途中で滅びずに現在まで存続している。
 天文学で言う通称「夏の銀河」は「夏の星座が漬かる範囲の銀河」であり、あるいは「夏に最も長時間見える範囲の銀河」である。
 「夏の銀河」は「春の銀河」・「秋の銀河」・「冬の銀河」よりも大きく、最も巨大にして、最も明確な形状を有する。
 「春の銀河」・「秋の銀河」・「冬の銀河」の銀河の形状は鮮明でないゆえ、ほとんどの銀河の写真は「鮮明な形の、夏の銀河」を撮影するものである。ゆえに、「銀河」と言えば「夏の銀河」を指していることになる。
 天文学で言う通称「夏の銀河」、この「各部が最も明確な形をしている、夏の銀河各部の形状から作った文字」は「漢字」と名づけられた。言いかえると、「夏の銀河の各部の形状を字源・字形(原形)・字義(原義)とした銀河文字」が「漢字」であったのである。 
 「夏に最も長時間見える、最も巨大で、しかも各部が明確な形から成る、多数の文字が作ることができる形を有する銀河の各部の形状」が「漢字の字源・漢字の原形・漢字の原義」となった。ゆえに、紀元前2070年頃~紀元前1600年頃までの王朝名・国家名は、「漢字が作られた夏の銀河」にもとづき「夏()」または「夏后(かこう)」と名づけられた。「夏后」の[]の字義は「きさき」である。白川静著『字統』は[]の字について「もとは母后(ぼこう)をいう語である、字もまた母后の形に作るものであった」と解説する。
 前回の〔古代史の謎〕の取説・1にて解説したように、[][][]の字は「子を腹部(おなか)に宿す母のように、人民の胃袋が円くなるように満たす五穀豊穣」を字源・字義とした。ゆえ、に「五穀豊穣」を掲げる政治スローガンは「母后」あるいは「夏后」と表示されることになったのである。そして、「漢字は夏の銀河の各部の形状」であったゆえ、「字書の聖典」と呼ばれた古代に尊重された字書『説文解字(せつもんかいじ)』は[()]の字義「中国の人」とあったと解説する。

◆紀元前3000年頃に生存した倉頡はみずからが発明した漢字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が漢字(文字)の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡すると心配し、倉頡は下記に3つの掟を破った本人はもちろん、その大罪は掟を破った人物の一族全員まで及び厳しく神罰が下されて死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
(
)夏の銀河(文字作成銀河)各部の形状から文字が作られた秘密を容易に理解できるように明確に説明した者とその一族全員〔ただし、難解な言(説明)や叡智に満ちた説明で深く考えないと理解できない表現をもって解説する者は死刑にはならない〕
(
)文字を容易に習得するため、文字となる夏の銀河(文字作成銀河)各部に名称を付けた者とその一族
(
)書いた文字は用済みになったならば、文字を直(ただ)ちに消さない者または消し忘れた者とその一族
 倉頡が死刑と定めた()の掟のために、『魏志倭人伝』に記された[]の字源はじめ対馬国から狗奴国までの30の小国名をもって【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】を3つのグループに分けて系統的に科学的に説明している事実を、今日の学者たちは解明することができない。しかし、江戸時代半ばまでの各代の天皇たちは【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】を皇室の存続させるための基盤としていた。また、「漢字」は「銀漢から作られた字」の略称であることに気づき、【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】は天下を治めるにあたって不可欠な基礎知識であったゆえ源頼朝・足利尊氏・織田信長・徳川家康等は【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法の知識】を有していた。
 にもかかわらず、「漢字」は「銀漢から作られた文字」という略称ではないかという、菅単にできる想像・推理を現在の学者は誰一人も行わない。このため、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】を説明する、【文献批判】を1ヵ所も必要としない正確無比の文献であることに、現在の学者たちは誰一人もまったく気づかない。
 上記した倉頡が死刑と定めた()の掟のために、現在においても、〔夏の銀河の各部の名称〕は存在しない。
 倉頡が死刑と定めた()の掟は、紀元前1300年頃から始まる殷代後半に出現した数万字となった甲骨文字において掟を毎度まもるのがたいへん面倒となり、またたいへん使用しにくく不便となったために破られることになった。甲骨文字の字形を示す資料は多数出土したゆえ、現代史学は「甲骨文字を最古の漢字、甲骨文字は最も古い漢字の祖型である」と断定する。しかし、甲骨文字においては()()の掟は厳重にまもったため、甲骨文字の字源・字形・字義は夏の銀河各部の形状であることに――現在の学者は誰一人も気づかない。
 甲骨文字以前の五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字は、倉頡が死刑と定めた()の掟を厳重にまもったゆえ、書いた文字の資料がいまだ出土・発見されていない。

◆【漢字】は【字源・字形・字義・字音の4つの要素】から構成される。
 【書契・夏音文字・殷代前半までの原初漢字における字源・字形(原形)・字義(原義)】は【夏の銀河各部の形状】であることを王朝が独占管理して厳重な機密にして、【字音は人の口から発せられて存在する】ことになった。
 これゆえ、【夏代に用いられた原初漢字における字音は秘密ではなく、人の口から発せられることが許可された文字】であったゆえ、わが国では夏代初頭に習得した原初漢字の名を「字音」の[]がつく「夏音文字」と定めたのである。
 したがって、【夏音文字の字源・字形・字義】は【夏の銀河の各部の形状】であったゆえ【夜空に輝いて実在したこと】になる。その証拠に【殷代後半の甲骨文字と周代の金文の大半の字形】は【夏の銀河各部の形状をリアルに表現する絵文字】である。

 『魏志倭人伝』が「魏都・帯方郡・諸韓国で用いられる楷書と倭女王卑弥呼が文書に用いる文字は、倭の伊都国の港において点検し、確認して・正しく変換できた」と説明する。この魏都・帯方郡・諸韓国の楷書と倭女王卑弥呼が用いた夏音文字を正しく変換できた秘密は、楷書と夏音文字の字源・字形(原形)・原義は共に夏の銀河各部の形状であったからである。

◆後漢の建光元年(121)に安帝に上呈された字書の聖典『説文解字』の序には、次のような記事がある。

「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人に垂()れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識()るなり」
 上記の文が伝えているように、「倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法に則って作られた文字は経(学問)と芸術の根本であり、文字は王朝政治に真っ先に必要不可欠な学芸であった。また、文字の字源・原形・原義となった夏の銀河各部の形状は後人が前人の時代における真実の歴史を正確に知ることができる方法であった。」
 だから、「王朝」の定義は「漢字が起源した学芸について知らなくてもよい、とにかく巨大な国家を確立する政治体制」ではなかったのである。「王朝」の定義は、「王政の始め」、つまり「夏の銀河各部の形状が字源・原形・原義となる、倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法を識っている(精通している)政治体制」であったのである。
 したがって、卑弥呼は「王政の始め」である「夏の銀河各部の形状が字源・原形・原義となる、倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法に精通していた」ゆえ、「王朝」を創設したことになる。
 また、「前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古を識るなり」という文が示すように、『魏志倭人伝』は「『魏志倭人伝』に使用される全漢字の字源・字形・字義を夏の銀河各部の形状に変換すれば、歴史を正しく解明できる文献」であった。というのも、『魏志倭人伝』の全漢字(楷書と楷書を音記号として用いる夏音文字)の字源・字形の原形・原義は夏の銀河各部の形状であったからである。
 強大な国家・王朝を手に入れた勝利者によって捏造(ねつぞう)された偽りの歴史が文献に記述されることもあっても、強大な国家・王朝の権力に屈せずに偽りの歴史を暴(あば)いて真実の歴史を後世に残す文献を作成する方法は字源・字形の原形・原義を表示する夏の銀河各部の形状を利用して後人に伝えることができた。というのも、絶対的に強大な権力を有した国家・王朝であっても天空まで支配することができなかったゆえ、夜空に輝く夏の銀河の各部の形状を歪(ゆが)めるあるいは削除(さくじょ)することはできなかったからである。だから、字源・字形の原形・原義を表示する夏の銀河各部の形状は最も正確な文字であったゆえ、夏の銀河各部の形状は真実の歴史を後人に伝える方法となった。

◆以上のごとく、新井白石以来約300年もの長いあいだ学者たちが力説し、戦後になってメデイアが「最も正しい意見である」と囃(はや)し立てるようになった邪馬台国畿内説と九州説は【真っ赤なウソ、虚妄(きょもう)】であった。
 上記したように、邪馬台国畿内説と九州説は真っ赤なウソであることは、『魏志倭人伝』の11字の冒頭記事「倭人は、帯方の東南、大海の中にあり」という文によって、両説は【科学】がまったく成立しないことが明確となるゆえ、いとも簡単に証明できる。
 さらに、約2000字で構成される『魏志倭人伝』の記事に1ヵ所も【誤読】を加えないと【科学】が成立して「卑弥呼は邪馬壱国・出雲地方に居住していた」と証明される。したがって、邪馬台国畿内説と九州説は空理空論であったのである。
 だから、邪馬台国畿内説と九州説は『魏志倭人伝』の全記事と1ヵ所も合致しない【誇大妄想、空理空論】であったことになる。
 『魏志倭人伝』は「邪馬台国の所在地を説明する史料」ではなかった。『魏志倭人伝』は1ヵ所も【誤読=文献批判】が加える必要がない、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】が明確となる正確無比の奇跡の文献であったのである。
 要するに、【誤読】を立論基盤とする邪馬台国畿内説と九州説は【日本古代史学における最大の科学における不正行為】であったのである。【日本古代史学における科学における不正行為】と言えば、2000年に起きた旧石器発掘捏造事件、つまり藤村新一が約30年前から
発見していた旧石器の発見が捏造であったと暴露された、影響が大きく、歴史教科書の修正までせざるを得なくなった事件が有名であるが――【誤読】を立論基盤にして【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸の記事】を排除・削除する邪馬台国畿内説と九州説は【日本古代史学における最大の科学における不正行為】ということになる。
 『魏志倭人伝』冒頭のわずか11字の記事によって、邪馬台国畿内説と九州説は空理空論であることが【科学】にもとづいて立証される。さらに、全記事に1ヵ所も【誤読】を加えずに忠実に読解すれば【科学】が成立する『魏志倭人伝』に、邪馬台国畿内説と九州説は多数の【誤読】を加えても、いっこうに【科学】が成立しない。
 だから、空理空論・虚妄の邪馬台国畿内説と九州説を立論する学者たちの正体は、《学問の基本原理を知らない似非(えせ)学者・学者擬(もど)き》であったのである。

◆『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸を説明する、文献批判が一切無用の文献】であったことは、書籍本と電子本にした拙著『日本国誕生史の証明』と『大嘗祭の証明』にて詳細に解説し証明した。
 【1】の『魏志倭人伝』が有する幾つかの謎の他にも、【漢字の起源の秘密は中国では解明できず、日本で科学的に解明できる事実】が原因で謎となって解明しなければならない多数の古代史の課題がある。
 これら多数の課題を「古代史の謎」の取説・3と「古代史の謎」の取説・4という具合に順次に回を重ねて、これから解説することにする。

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2020年11月18日 (水)

フェイク&まぼろしの邪馬台国・1

★「古代史の謎」の取説・1


▶漢字の起源の秘密は中国では解明できず、日本で科学的に具体的に解明できる

【1】 わが国の古代史において、倭女王卑弥呼が統治した倭人国の範囲には定説が無く未解明な状況であり、また邪馬台国説は畿内説と九州説で決着つくかのごとく学界やメデイアは無責任にもデマを蔓延(まんえん)・流行させて日本人を洗脳している
 しかし、畿内説と九州説の実体は【完全なる誤読の空論】、【完全なる幻想】であった。

◆【畿内説と九州説が誤読の空理空論、幻想である実体】は、学者たちの誰一人も【漢字の起源は中国では解明できず、日本で科学的に具体的に解明できる事実】についてまったく気づいていない、これが原因となる。
 したがって、学者たちは誰一人も【漢字の起源は中国では解明できず、日本で科学的に具体的に解明できる秘密】についてまったく研究しないため、この秘密はまったく解明されていない。

◆『魏志倭人伝』は、二ヵ所の記事で「わが国(倭国)には、学界がいまだ未解明の中国の甲骨(こうこつ)文字より以前の原初漢字を有していた」と明確に説明している。
 現在、「紀元前1300年頃に出現した甲骨文字は漢字の最も古い祖型」と定められている。
 現在、甲骨文字より以前に存在した原初漢字について、ほとんど解明されていない。
 しかし、『魏志倭人伝』は下記した二ヵ所の記事をふくむ約55パーセントの記事で「わが国(倭国)には、学界がいまだ未解明の中国の甲骨文字より以前の原初漢字を有していた」と記述している。ところが、『魏志倭人伝』の記事の半分よりも多い、約1100字で説明する原初漢字の秘密が明確に科学的に解明できる記事を、学者たちはまったく存在しないかのごとく無視し排除(はいじょ)する。〔注、『魏志倭人伝』は約2000字で構成される〕。
 漢字は紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝(こうてい)につかえていた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)によって発明された。五帝時代の原初漢字は中国では「書契(しょけい)」、または「契刻(けいこく)」と名づけられた。「書契」は「木に文字を刻むこと」と意味したと伝えられたゆえ、わが国では「書契」は「刻木(こくぼく)」と名づけられた。
 〔注、中国の正史『隋書』倭国伝は「わが国(倭国)には刻木(五帝時代の原初漢字)があった」と記す。〕
 『魏志倭人伝』に記述される対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までの30ヵ国の小国名(500字・約25パーセントの記事)によって、【漢字の始祖・倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】と【甲骨文字が出現した殷代(いんだい)後半期初頭より以前の夏代(かだい)初頭に、わが国が習得した原初漢字・夏音(かおん)文字の学芸】、この二つの重大な学問の秘密が体系的(組織的)に科学的に解明できる仕組みになっている。
 『魏志倭人伝』は【誤読】を一ヵ所も加えてはならない、正確無比の【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】が科学的に解明できる文献であったのである。
 しかし、学者たちは【誤読】に〔文献批判〕という名をつけて、『魏志倭人伝』に多数の〔文献批判〕を加える【空想・空理空論】を立論する。これゆえ、『魏志倭人伝』には【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】を説明する記事はまったく存在しないかのごとく排除(はいじょ)されて堅牢(けんろう)な巨大な門で厳重に閉ざされた奧の奥となる朽ちた貯蔵庫の室(むろ)に閉じ込められているため、一般国民はまったくその存在について知っていない。
 『魏志倭人伝』は【漢字の起源は中国では解明できず、日本で科学的に具体的に解明できる、〔文献批判〕を1ヵ所も加えてならない正確無比の、世界的に第一級の貴重な奇跡の文献】であったのである。

◆『魏志倭人伝』は、下記の二ヵ所の記事で「わが国(倭国)には原初漢字・夏音文字があった」と証言している。
(
)『魏志倭人伝』には「倭国の卜辞(ぼくじ)は令亀の法の如く」、つまり「倭の卜辞(占いに用いる文字と言)は中国殷代(いんだ)の亀の甲羅に文字を刻む甲骨文字のごときであった」という記事がある。だから、2世紀末~3世紀の卑弥呼時代、わが国には学者たちが「漢字の最も古い祖型と定める中国の甲骨文字のごとき原初漢字」があったことになる
(
) 『魏志倭人伝』には「倭国の伊都(いと)国の港では、京都(けいと/魏の都・洛陽)・帯方郡(朝鮮半島の一画に所在する魏の出張政庁がある郡)・諸韓国と倭女王卑弥呼が文書に用いる文字(原初漢字)は差錯(ささく/相違)していた。しかし、倭国の伊都(いと)国の港では魏都(京都)・帯方郡・諸韓国が文書に使用する楷書と卑弥呼が文書に用いる文字(原初漢字)を点検し、確認して、間違いないように正しく変換できた。」という記事がある。
 このように、『魏志倭人伝』は「2世紀末~3世紀半ばまでのわが国(倭国)には、原初漢字が存在した」と明記する。だから、学界が主張する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説は【フェイク、妄想、誤読の空理空論】であったことになる。したがって、邪馬台国畿内説と九州説もまた【完全なるフェイク、妄想、誤読の空理空論】であると断定しなければならない。

◆『魏志倭人伝』の冒頭記事は、次のごとくである。
 「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」
 上記したように、『魏志倭人伝』の冒頭字は[]である。[]の字源・字義(原義)は「人民が飢えないように、人民の胃袋を満たす五穀豊穣(ごこくほうじょう)」であった。
 倉頡は「人民が飢えないように、人民の胃袋を満たす穀物(イネや麦、つまり五穀豊穣)」をあらわす[]の字を創(つく)った。
 「穀物を食べて胃袋を満たす腹部」は「腹部(おなか)に子どもを宿した女性(妊婦)のように円い腹部」となるゆえ、倉頡以後、[]の下に[]が加えられる[]の字が出現した。
 「人民の胃袋を満たす」という政治スローガンを示すことになって、「人民」をあらわす[](人偏)に、[]が加わって[]の字が出現した。ゆえに、[][]の字は、倉頡が創った[]の字源・字義(原義)をそのまま受け継ぐ字であった。
 卑弥呼が統治する倭国と国交を結んだ中国における三国時代の一国「魏」という国名に用いられる[][]に「鬼道(きどう)[]を加えた字である。ゆえに、[]もまた倉頡が創った[]の字源・字義をそのまま受け継ぐ字であった。
 だから、『魏志倭人伝』は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」という文が示すように、冒頭から「倉頡が発明した作成方法の基本字[]の字源・字義をそのまま受け継ぐ[]の字を国号に用いる倭人国は、帯方の東南、大海の中に在り」と説明していたことになる。
 前記したように『魏志倭人伝』に記述された対馬国から狗奴国までの30ヵ国の小国名の記事(500字・約25パーセントの記事)は、【漢字の始祖・倉頡が発明し漢字作成原理と作成方法】と【甲骨文字が出現した殷代後半期初頭より以前の夏代初頭に、わが国が習得した原初漢字・夏音文字】、この二つの重大な学問の秘密が体系的に科学的に解明できる仕組みになっている。
 現在の中国(中華人民共和国)にあっても、[][][]の字源・字義をあらわして「全国民が飢えないように、全国民の胃袋を満たす五穀豊穣」を政治スローガンとする。
 だから、2世紀末から3世紀半ばの卑弥呼時代においても、[]の字源・字義となった「全国民が飢えないように、全国民の胃袋を満たす五穀豊穣」は最強・最良の政治スローガンであったことになる。
 卑弥呼時代に限らず、わが国と中国の古代において、[][][][]の字源・字義となった「人民たちの胃袋を満たす五穀豊穣」という政治スローガンは最強にして最良であったのである。


◆また、『魏志倭人伝』は、下記の記事をもって「紀元前2070年頃~紀元前2050年頃、わが国の後期縄文時代初頭、言いかえると中国の夏代初頭、卑弥呼が文書に使用した原初漢字・夏音文字は日本列島の東北地方、つまり男鹿半島・米代川(よねしろがわ)縄文文化圏に伝来して習得された」と証言している。
 だから、邪馬台国説畿内説と九州説の実体は【誤読の空理空論】であった。
 「又侏儒(しゅじゅ)国有り。其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺。女王を去ること四千余里。又裸()国・黒歯(こくし)国有り。復()た其の東南に在りて船行一年にして参問至る可()き。倭の地を参問するに、海中洲島(しゅうとう)の上に絶在し、或は絶え或は連なり、周旋(しゅうせん)五千里可(ばか)り。」
 上記のごとく――卑弥呼が文書に用いた漢字、つまり魏都・帯方郡・諸韓国が用いた楷書を正しく変換できた原初漢字は、紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の中国の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に習得された夏音文字であったことになる。

◆わが国の古代中国文字(漢字)研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)9ページの終わりから3行目から10ページの始めから3行目までは、〔わが国の漢字音〕と題して、次のように「わが国の国語には、現存する最古の漢字音が残っている、つまり現存する最古の原初漢字の字音が残っている」と科学的に指摘する。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊(こと)にその音韻学史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いたから、急速な進展をみせている。そして、その結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 上記したように、白川静著『字統』が〔わが国の漢字音〕と題して「わが国の国語の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する、科学的に解明された原初漢字の字音は卑弥呼が文書に用いた原初漢字の字音であり、また紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に習得した原初漢字の夏音文字の字音であった。

◆ブログで「中国の漢字音」について入力して調べると――中国において現存する最古の漢字音は【上古音】である。【上古音】は、紀元前1046年から始まる周代初頭~後漢後期(2世紀頃)までの漢字音である――ということがわかる
 したがって、わが国に国語として残っている現存する最古の漢字音を伝える夏音文字は、中国に残っている現存する最古の漢字音の【上古音】初頭・周代初頭(紀元前1046)よりも約1000年前の原初漢字であった
 「卑弥呼」を「ひびこ」と読まずに「ヒミコ」と読むと夏音文字の字音となり、中国の上古音で読むと「ピミカ」となる。『魏志倭人伝』に登場する「難升米」を「なんしょうまい」と読まずに「ナシメ」と読むと夏音文字の字音、「壱与」を「いちよ」と読まずに「イヨ」と読むと夏音文字の字音、「載斯烏越」を「さいしうえつ」と読まずに「ソシアオ」と読めば夏音文字の字音となる
 このように、夏音文字の字音は『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名に用いられて現在まで残っている
 なお、古代研究家の古田武彦氏が証明したように、『魏志倭人伝』は倭女王卑弥呼が居住した王国の名は「邪馬壱(やまい)国」であった。中国の正史『後漢書』倭伝には「邪馬臺国」の読みについて「今案ずるに、名は邪馬惟(ヤマイ)の音之訛(なまり)也」と説明する注がある。「邪馬惟」の[]には「だい・たい」と読む字音が無い。[]の字音は「イ()・ユイ(ユヰ)」である。ゆえに「邪馬惟」は「ヤマイ」と読むべきことになり、「邪馬惟」は「やまたい・やまだい」とは読めない。したがって、『後漢書』倭伝は「邪馬壹国」は「今案ずるに、名は邪馬惟(ヤマイ)の音之訛也」と注を記すべきことであったことになる
 『後漢書』倭伝の「邪馬惟」という注からしても、古田武彦説の「卑弥呼が居住した王国名は邪馬臺()国ではなく、邪馬壹()国であった」という意見が事実であり正しいことになる
 邪馬台国畿内説と九州説を立論する学者たちは多数の【誤読】つまり【文献批判】を加えるが、『魏志倭人伝』に【誤読=文献批判】を1ヵ所も加えないと、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した邪馬壱国は、現在の島根県と鳥取県の西部(旧国の石見・出雲・伯耆)であった」と記述(証言)していることになる。というのも、「石見」は[]の字源・字義をあらわし、「出雲」は[]の字源・字義をあらわし、「伯耆」は[]の字源・字義をあらわしているからである。だから、「石見・出雲・伯耆」は「邪馬壱国」であったと【科学】が成立して証明される。なお、邪馬壱国の中心部「出雲」もまた[][][]の字源・字義をあらわした。だから、山陰・出雲地方は「倭女王卑弥呼が居住した邪馬壱国」であったことになる。さらに、「畿内・大和王朝のアマテラス母子王朝(9代崇神天皇母子王朝)に滅ぼされた出雲王朝の大国主命は、卑弥呼の墓は出雲大社であった」と後世に伝えるために――大和王朝のアマテラスオオミカミに壮大な宮殿「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を建造させた。言いかえると、「天日隅宮」は「出雲大社の起源」とされるが、「天日隅宮を建造した裏山が後円墳、境内が前方墳」であったことになる。『魏志倭人伝』は「卑弥呼の墓の円墳部の径(直径)は百余歩、つまり約150メートル」であったと記述する。この記事のとおり、「天日隅宮(出雲大社)の裏山の径は約百余歩」である。したがって、「出雲大社の裏山と境内の空中写真」は「卑弥呼の墓は前方後円墳の形を示す出雲大社であった」と表示するものとなる
 以上のごとく【漢字の起源は中国では解明できず、日本で科学的に具体的に解明できる事実】にもとづくと、邪馬台国畿内説と九州説は【誤読の空理空論、フェイク、虚妄(きょもう)、真っ赤なウソ】である事実が【科学】が成立して証明される
 学者たちとメデイアは【誤読の空理空論の邪馬台国説】をもって決着つけようと躍起(やっき)となり、われわれ日本国民を騙(だま)そうとしている!

◆ここまで解説してきたが、【1】の邪馬台国畿内説と九州説の実体は【完全なる誤読の空論】、【完全なる幻想】である解説と証明を、次回(フェイク&まぼろしの邪馬台国・2)においても続行する。
 『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸を説明する、文献批判が一切(いっさい)無用の正確無比の文献】であったことは、書籍本と電子本にした拙著『日本国誕生史の証明』と『大嘗祭の証明』にて詳細に解説し証明した。

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