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2020年11月27日 (金)

NHKテレビ・歴史秘話ヒストリアにダマされるな!

▼急遽、2020年11月25日に放送された、NHKテレビの歴史秘話ヒストリの「日本書紀神話」と題する番組は、幾人かの学者や歴史研究家たちの空理空論・捏造(ねつぞう)・歪曲(わいきょく)をNHKテレビの番組製作者たちが鵜呑(うの)みにして、国民を馬鹿にして愚弄(ぐろう)して誑(たぶら)かすデマであったのである

◆一昨日の夜(20201125日の2230)に放送されたNHKテレビの歴史秘話ヒストリアにおいては、「日本最古の歴史書は『日本書紀』であり、『日本書紀』は藤原不比等が作ったことは決まっている」と断定した。
 しかし、『日本書紀』よりも前に、『古事記』は712(和銅5)正月28日に完成して元明天皇に献上された。正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』は「720(養老4)5月、知太政官事(ちだいじょうかんじ/歴史局の総裁と太政大臣を兼ねる天皇に次ぐ高位の官職)の舎人親王(とねりしんのう)が『日本紀(後の「日本書紀」)』を、元正天皇に奏上した」と明記する。
 したがって、昨夜のNHKテレビの歴史秘話ヒストリアは、真っ赤なウソ・空理空論・ナンセンス・デッチあげであることがはっきりとわかる真っ赤なウソ・空理空論・ナンセンス・デッチあげを臆面(おくめん)なく垂れ流していたことになる。

 正史『続日本紀』に記述されたとおり――『日本書紀』は、舎人皇子(舎人親王)が指揮して編纂(へんさん)された。
 『日本書紀』は舎人皇子が主宰(しゅさい)して作成された――この事実は舎人皇子のドラマチックな情熱的な一生を調べればただちに明らかとなる。
 舎人皇子の幼年期の資料は『日本書紀』巻第二十八と巻第二十九の天武天皇紀・最終の巻第三十の持統天皇紀の記事が必要となり、その後の舎人皇子の様子は『続日本紀』の巻第一の文武天皇紀から巻十二の聖武天皇紀に頻繁(ひんぱん)に登場して記述されている。また、『万葉集』の様々な和歌も重要資料となる。
 舎人皇子は実父・天武天皇に捨てられて武家の名門の養父・大伴朴本連大国(おおとものえのもとのむらじおおくに)に育てられて37歳から38歳頃まで奈良県宇陀郡榛原(はいばら)町で過ごした。ゆえに、出身地の榛原町をも調査する必要がある。
 したがって、舎人皇子の一生を知ることができる資料は豊富に存在し、上記した資料を克明(こくめい)に調査・研究すれば、NHKテレビの歴史秘話ヒストリアの「日本書紀神話」の番組は完全なる捏造・ウソ八百・荒唐無稽のデタラメであったことになる。
 舎人皇子は676(天武天皇5)に誕生し、735(天平7)1114日に死去している。享年60歳であった。
 60歳の生涯にあって37歳から38歳までの前半生は庶民として高屋(たかや/現在の奈良県宇陀郡榛原町高星)で過ごし、後半生は身分高き皇族となった。これゆえ、「舎人皇子」という名は「捨て子皇子」あるいは「庶民にして武将皇子」と意味した。このように庶民であった舎人皇子は『続日本紀』が記述するように「天武天皇の第三皇子(天武帝の多数の子であって、皇位継承順位が第三番目の皇子)」であったゆえ、42代文武天皇・43代元明天皇・44代元正天皇と同格に天皇に即位できる身分高き皇族であった。
 だから、庶民であり天皇に即位できるほど高位の皇族であった舎人皇子は、日本国民に人気があるヒーローの織田信長や坂本龍馬と肩を並べるほどのヒーロー中のヒーローであるはずであるが、なぜか学者はじめ小説家の誰一人も偉大なるヒーロー・きわめてドラマチックな人生を送った舎人皇子について注目せずまったく研究されていない。
 ただし、女流作家の永井路子氏が『美貌の女帝』という書名の小説を著述したが、ヒロインの元正天皇の恋人を長屋王とした。しかし、美貌の女帝・元正帝が一途に愛して一生独身を貫いた相手は舎人皇子であった。これゆえ、永井路子氏はさらに大傑作になったにちがいない万葉の一大ロマン・元正帝と舎人皇子の愛情物語を著述することができなかった。

 舎人皇子は『古事記』の編纂を指揮した。しかし、『古事記』は皇室が最も崇拝する先祖つまり皇祖の天照大神の聖性をいちじるしく汚す歴史を記述した反逆の歴史書であった。だから、『古事記』を献上された元明天皇は、『古事記』は朝廷が「後世に絶対に伝えてはならぬ」と厳重に禁止する皇祖・天照大御の聖性をいちじるしく汚す反逆の史書であると察知して即座に献上を拒絶した。このため、『古事記』は正史『日本書紀』よりも正確に真実の歴史を記述したが、反逆の度合いが濃かったために『古事記』は正史になれずに野史(やし/民間で編纂した歴史書)と化した。しかし、真実の歴史を記述したゆえ、心ある人々にまもられて『古事記』は失われなかったのである。
 『古事記』献呈に失敗したことに懲りた舎人皇子はじめ歴史書編纂スタッフは反逆の牙(きば)を抜く、皇祖・天照大神の聖性を汚す度合いを薄めた『日本書紀』を完成させて元正天皇に奏上した。このため、『日本書紀』は朝廷が承認する正史となったのである。しかし、舎人皇子はじめ編纂スタッフは『日本書紀』は失敗作品であると悲嘆して後悔した。
 その証拠に舎人皇子は『万葉集』四二九四番の「あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人は誰(たれ)」と詠む和歌を作った。
 この和歌は「『日本紀(後の日本書紀)』を完成させた山人すなわち編纂スッタフ一同は、いま、空しさにおそわれて途方にくれています。そんな山人の編纂スタッフが悲嘆する心情(こころ)も知らないで、元正天皇陛下〔上記した小説『美貌の女帝』のヒロイン〕は山づと(山人が献上した土産/みやげ)、つまり『日本紀(日本書紀)』を手に入れたと喜んでいますが、陛下に奏上する『日本紀』は書名にまったくふさわしくない、肝心の日本国誕生史の真相が後世の人々に伝わらない失敗作品です! ですので、ここには山人(仙人)と呼べる人物、つまり強大な国家と朝廷の権力に屈せずに真実の歴史を後世に伝えることができたと誇ることができる仙人と呼べる人物は吾をふくめて誰一人もいません」と意味した。
 万葉歌人で有名な山上憶良(やまのうえのおくら)は、最晩年、政争に敗れた主君・舎人親王が天照大神崇拝派の皇族・貴族に媚()びへつらう心ない官人や利にさとい役人たちに侮辱される主君(舎人親王)の惨(みじ)めな境遇を救えず、自分が重病で床に伏す不甲斐無(ふがいな)さを憶良は涙して悲嘆して、『万葉集』九七八番「士(おのこ)やも 空(むな)しかるべき 万代(よろづよ)に 語り継()ぐべき 名は立たずして」と詠む歌を作った。
 この九七八番は、下記のごとくの秘密を有していた。
 「わが主君の舎人親王が指揮した『日本紀』は神功(じんぐう)皇后紀に『魏志倭人伝』の記事の注を加えたために神功皇后の時代は魏の景初三年(239)、正始一年(240)、正始四年(243)、正始八年(247)であったと誤ることになって大失敗した。これが原因で、【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた伊耶那美命が『魏志倭人伝』に記された魏の元号の景始三年や正始八年の年代に生存したことにならなくなった。また、出典となった『帝紀』に記載されていた上古の天皇たちの享年数が百歳を超える年齢が虚偽であったことに気づかずそのまま記載したため、これまた伊耶那美命が『魏志倭人伝』末部に記された魏の元号の年代に生存したことにならず、『日本紀』は失敗作品となった。『日本紀』より前に成立した『古事記』は正史になれずいずれ消失するにちがいなく、次に作成した『日本紀』も失敗作品となって空しい結果となった。日本国誕生史の真実を後世に残さんとしたわが主君・士(おのこ)の戦いは万代(よろづよ)に語り継ぐべき偉業であったはずなのに、なんたる悲運! 空しく終わるのか! 現在、わが主君は聖武天皇陛下と藤原房前(ふささき)公が企んだ太政官処分以来、多くの人々に侮辱されて、ひどい恥辱(はずかしめ)を受けている……。こんなひどい非道、あってよいであろうか。天皇陛下と藤原房前公はじめ政府がおこなっていることはあまりにも悪辣(あくらつ)で卑劣だ!」
 この九七八番の和歌には病床に伏した憶良と、この和歌を作った状況の様子が説明されている。この説明文に登場する藤原八束(やつか)は藤原房前の第三子である。ゆえに、上記した現代語に訳したように、九七八番は憶良が敬愛する主君舎人親王を思って涙して律令体制に最後まで抵抗していたと解釈しなければならないことになる。

 山上憶良が『万葉集』九七八番の和歌を作ったのは733(天平5)であり、また、この和歌は憶良が死に際に作った辞世の和歌であると推定されている。ゆえに、憶良の最後まで朝廷に抵抗していた様子を知った舎人親王は、『万葉集』編纂を思い立ったと推測される。というのも、上記した九七八番の憶良が作った和歌の三句目は「万代に」であるゆえ、『万葉集』の「万葉」に合致するからである。
 『続日本紀』は舎人親王が没した翌736(天平8)1111日の記事は、下記のごとく説明している。
 ――天平5(憶良が九七八番の和歌を作って没したと推定される733)、生前の舎人親王と常に舎人親王を補佐した異母弟の新田部(にいたべ)親王は「葛城王(かつらぎおう)兄弟に橘宿祢(たちばなのすくね)の姓をあたえる勅(ちょく)を聖武天皇から手に入れる計画を企てた」と告げた。つまり、舎人・新田部の両親王は〔天照大神の聖性を汚す日本国誕生史の真実を後世に伝えるため、補填(ほてん)資料となる和歌集の編纂を葛城王兄弟に命じた〕のである。「聖武天皇を騙(だま)して〔橘〕の姓を手に入れるようにするゆえ、汝(なんじ)兄弟は橘の姓を名乗って和歌集を完成し、また元正上皇から献呈許可を得て勅撰和歌集とせよ」と、両親王は葛城王兄弟に計略を密かに説明した。これゆえ、「日本国誕生史の真相を後世の人々が知ることができるようにする和歌集を完成する事業の謀略」をあらわす隠語(いんご/舎人・新田部の両親王と葛城王兄弟とで通用する計略をあらわす語)は「橘」となった。だから、葛城王兄弟は「母方の〔橘〕の姓を名乗って、両親王の心願(計略)が必ず成就するようにいたします」と誓った。このとき、葛城王兄弟は両親王に「昧死(まいし)して以聞(いぶん)す」と決意を示して誓った。
 この「昧死して以聞す」という語は「目の前が暗くなって死ぬ寸前まで、和歌集の完成に努力いたします。また、死ぬ寸前まで努力しても後世の人々に【日本建国の〔愛〕の理念】をテーマにして詠む和歌が不十分であり、また日本国がどこにあったかその範囲を明確に示すことができず、また日本国誕生史が察知できる〔愛〕を詠む和歌の収録が不十分であったならば、和歌集編纂事業を引き継ぐ後継者を選んで必ず完成するようにして、元正上皇陛下に上表(献上)して承諾を得る勅撰和歌集に致します」と、固い決意をあらわす語であった。
 そして、葛城王兄弟は両親王に「ここに臣下の葛城らは、願わくは橘宿祢の姓をたまわり、先帝(元正上皇)の厚命(こうめい/厚い命令)をもいただくことにして、橘の殊名(しゅめい/格別の名)を流(つた)え、万歳(まんさい)に窮(きわ)みなく、千葉(せんよう)に相伝(あいつた)えへむことを願います』と言上(ごんじょう)した。
 この最後の「万歳に窮みなく、千葉に相伝えへむこと」という文にある[][]2字を選んで『万葉集』という書名が成立したという意見が定説である。

 聖武天皇から橘氏を賜姓(しせい)された葛城王は、「橘諸兄(たちばなもろえ)」と名乗り、聖武天皇に信頼されて左大臣まで出世した。諸兄は聖武帝につかえながら密かに、主君・舎人親王に命じられた日本国誕生史を知ることができるための補填(ほてん)資料『万葉集』完成に努力した。しかし、聖武帝に信頼されて重職につくかたわら天皇や皇族・貴族たちに作成目的を知られまいと隠す『万葉集』編纂は遅々(ちち)として進まず、とうとう諸兄は死がせまる753(天平勝宝5)70歳になった。70歳になっても、【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史の真相】を後世に伝えるための補填資料『万葉集』を完成していなかった。ゆえに、諸兄は舎人・新田部の両親王に「昧死して以聞す」と誓った約束の通りに、『万葉集』の作成目的を達成して完成させるための引継ぎをおこなった。753(天平勝宝5)の陰暦五月・橘月(たちばなづき)、つまり、舎人親王が元正帝に『日本紀(日本書紀)』を奏上した時からちょうど三十三年後の陰暦五月・橘月、橘諸兄は未完成の『万葉集』編纂を、36歳の少納言・大伴家持(おおともやかもち)に受け継がせた。「陰暦五月」の異称は「橘月」である。「【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史の真相】を後世の人々が知ることができる『万葉集』完成」をあらわす隠語は「橘」であったゆえ、橘諸兄は753(天平勝宝5)の橘月に『万葉集』編纂事業を大伴家持に引継がせた。
 橘諸兄は『万葉集』の巻一から巻十六までを編纂し、大伴家持は諸兄が編集した巻十六に手を加え、巻十七以後巻二十までを759(天平宝字3)六月から翌758年正月までに編纂した。その後、777(宝亀8)一月から翌778年一月まで、家持は全巻に目を通して修正を加えて『万葉集』を完成させた。
 だから、『万葉集』は伊耶那美命に熱烈に憧れた山上憶良の死を悼んで舎人親王と新田部親王が企画し、聖武天皇を騙して賜姓した「橘」を「『万葉集』完成」をあらわす隠語にして、舎人親王を愛して一生独身であった元正上皇の献呈承認を得て勅撰和歌集にした、橘諸兄と大伴家持の二人によって編纂された、人民たちに愛された【日本建国の〔愛〕の理念】を詠む〔愛〕の和歌が多く集められた律令体制に反逆・抵抗を示した情熱の和歌集であったのである。
 『万葉集』の【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史を後世に伝える】という作成目的は皇祖・天照大神の聖性をいちじるしく汚す歴史を伝えることになった。だから、もちろん、朝廷は【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】を後世に伝えることを厳重に禁止した。ゆえに、『万葉集』編纂を引き継いだ家持は〔朝廷の政策に逆らって、謀反にかかわっているのではないか〕と疑われた。家持は785(延暦4)8月に、享年68歳で没した。その20日後、大伴継人(つぐひと)・大伴竹良(ちくら)らが藤原種継(たねつぐ)を殺害し、家持はこの殺害計画に加わったと疑われた。この嫌疑で、領地越前国加賀郡の百余町などを没収され、彼の子永主(ながぬし)は流罪となった。しかし、806(延暦25)に、この嫌疑は冤罪(えんざい)で誤っていたと認められた。

 「歴史は支配者によって都合よく作られる」という推論にもとづき、『古事記』と『日本書紀』は「皇室にとって都合のよい歴史を語る書物である」と思い込まれている。しかし、この考えは憶測(おくそく)・空想である。舎人皇子の一生を克明(こくめい)に調査すると、『古事記』と『日本書紀』は――大和朝廷の基礎を築いた天照大神(10代崇神天皇と生母の伊迦賀色許売命)を皇祖と崇拝して天皇の権力の絶対化をはかる朝廷の政策に逆らって舎人皇子が指揮して編纂された。だから、『古事記』と『日本書紀』は、本来、皇室にとって不都合な反逆の歴史書であった。『日本書紀』が正史となったのは、『日本書紀』神代紀における【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】の説明が不鮮明になって、反逆の度合いが薄まったゆえ献呈を許可されることになったからである。だから、『日本書紀』は舎人親王はじめ編纂スタッフ一同は「失敗作品」と悲嘆して後悔することになった。
 しかし現在の学者たちは太安万侶が書いた「古事記上巻 幷せて序」の記事を正しく読解できずに誤読・誤解・曲読するゆえ、『古事記』上巻・日本神話は――天照大神(10代崇神天皇と生母・伊迦賀色許売命)を皇祖と定めて天皇の絶対化をはかった律令体制が絶対に後世に伝えてはならないと厳重に禁止した【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史の真相】を後世に伝えるための史料であった――と解釈することができない。
 舎人皇子は『古事記』上巻・日本神話冒頭の序を書く人物に、太安万侶を選んだ。ゆえに太安万侶は、『古事記』編纂スタッフが企んだ計略と『古事記』作成目的を説明する『古事記』上巻の序を「古事記上巻 幷せて序」と表記することにして――その冒頭の45字の漢字で構成するきわめて難解な文章で「1、『古事記』上巻・日本神話に記述された歴史解明方法を説明し、2、『古事記』作成目的は【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史の真相】を後世に伝えることである」と警告(けいこく)した。
 この「古事記上巻 幷せて序」冒頭の45字の文章を、振り仮名無しで書き下し文を示すと下記のごとくなる。
 「臣安万侶言す。それ混元既に凝りて、気象未だ効れず。名も無く為も無し。誰かその形を知らむ。然れども乾坤初めて分かれて、参神造化の首を作す。陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る。」
 上記の文末部の「陰陽斯(いんようここ)に開けて、二霊群品(にれいぐんぴん)の祖(おや)と為(なる)」という文は、上記した「2、『古事記』の作成目的」を伝えるものである。
 この文を現代語に訳すると「陰の伊耶那美命(いざなみのみこと)と陽の伊耶那岐命(いざなきのみこと)がわが国におけるすべての生みの親となりました」ということになる。
 つまり、この短い文章で太安万侶は「小国・日本の女王となった陰の伊耶那美命は日本国が誕生したときに【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えました。倭女王・壱与(いよ/夏音文字の名前)に就任した伊耶那美命が死去しますと、倭女王を受け継いだ天照大神は伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪し、【倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理と作成方法の学問】を絶対法則と定めて天下を治めるべきであると考えました。国民は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】よりも伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】のほうが優っていると日々の生活の目標にして伊耶那美命を熱烈に愛しました。これゆえ、崇神帝の生母・伊迦賀色許売命(いかがしこみのみこと)つまり天照大御神は【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪し敵視しました。このため、天照大神は多数の奴婢(ぬひ)を殺して伊耶那美命の陵墓に葬る残虐な徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮しました。この天照大神の愛妻伊耶那美命への嫌がらせに怒った小国・日本の王であった陽の夫の伊耶那岐命(後の伊耶河宮で天下を治めた9代開化天皇)はクーデターを決行して倭女王・天照大神を失脚させ、大国の倭と小国の日本を併合して伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継ぐ政事(まつりごと)をおこないました」と説明していたのである。
 上記した「古事記上巻 幷せて序」の冒頭「臣安万侶言(まお)す」から「参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す」までの書き下し文は、上記した「1、『古事記』上巻・日本神話における歴史解明方法」を警告するものであったのである。
 この文は「わが国では前期縄文時代から芸術革命が花開き、次の中期縄文時代、また次の後期縄文時代の参時代において銀漢(夏の銀河)各部の形状イメージを造形する土器・土偶を作る造化(芸術)が盛んとなり、後期縄文時代の首(初頭/中国の夏代初頭)に銀漢各部の形状を図案する倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音(かおん)文字が伝来しました。そして、前期縄文初頭から後期縄文初頭までの約二千年間に及ぶ銀漢から土器・土偶を造る造化(芸術)の伝統を受け継ぐ芸術家によって、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】は習得されました。ですから、『古事記』上巻の楷書と夏音文字の字音を示す楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換すれば、銀漢各部の形状が真の字源・字形の原形・原義を表示して真の漢字となりますゆえ、『古事記』上巻に記述された全神話の記事から朝廷が後世に伝えてはならぬと厳重に禁止する真実の歴史が鮮明に甦(よみがえ)ります」と、歴史解明方法を説明するものであったことになる。

 以上のごとく、20201125日のNHKテレビの「日本書紀神話」と題する番組は「最古の歴史書は『日本書紀』、『日本書紀』は藤原不比等が作ったと決まっている」と断定した。しかし、『古事記』は『日本書紀』の8年前に成立しており、正史『続日本紀』は「『日本書紀』は歴史局の総裁にして太政大臣が兼ねた舎人親王が指揮して編纂された」と明記する。
 だから、NHKテレビは国中の国民を誑(たぶら)かす厚顔無恥(こうがんむち)の俗悪なウソ八百・空理空論・出鱈目(でたらめ)、デマをまき散らしたことになる。
 【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史を後世の人々に伝える】を目的にして『古事記』が作成された事実と、舎人皇子は『古事記』と『日本書紀』の編纂を指揮した事実、舎人皇子が『万葉集』編纂を企画した事実の詳細な解説と証明は、わが拙著『日本国誕生史の証明』と『大嘗祭の証明』でおこなった。『日本国誕生史の証明』と『大嘗祭の証明』は書籍本と電子本にして発行したゆえ、詳細は両書にて調査・確認していただきたい。

◆【漢字の起源は中国では解明できず、日本で科学的に具体的に解明できる事実】という魔法がある。
 【漢字の起源は中国では解明できず、日本で科学的に具体的に解明できる事実】という魔法を知っていれば、多数の日本古代史における謎が容易に具体的に明確に正しく解明できる。現在の学者たちのごとく、この魔法を知らないと、日本古代史における様々な謎・秘密の解明に挑(いど)んでも、その意見は空想、空理・空論となる可能性が大となる。
 ゆえに、【漢字の起源は中国では解明できず、日本で科学的に具体的に解明できる事実は、
日本古代史の真相解くことができる魔法(立論基盤)】となる。
 だから、20201125日のNHKテレビの歴史秘話ヒストリア「日本書紀神話」の番組は、「古事記上巻 幷せて序」冒頭の45字の文章を正しく読解できない学者や歴史研究家たちが多数の【誤読】を駆使(くし)してデッチあげた話題を取り上げて、「どうだ、この番組はすごく面白いぞ!」と言わんばかりに手前みその演出をもって視聴率を稼ぐことにアクセクして、国民を誑(たぶら)かし愚弄(ぐろう)したトンデモなく馬鹿げたナンセンスきわまりない俗悪番組であったのである。

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