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2020年12月

2020年12月30日 (水)

フェイク&まぼろしの邪馬台国・13

▼考古学界とメディアは、吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説は『魏志倭人伝』研究を決着する意見であると自慢する。しかし、この二説は約2000字で構成される『魏志倭人伝』の全記事に1ヵ所も合致しない学問的に無価値の空理空論であるゆえ、日本国中を騙(だま)す詐欺(さぎ)ということになる

★「倭人国の地理学」のトリセツ・9

◆このブログは前々回(11)と前回(12)で――考古学が主張する「文字・漢字」の定義によって「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は、明らかに空理空論であることを証明した。
 考古学が主張する【漢字習得の定説】は――わが国の中国古代漢字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)9ページの終わりから3行目~10ページの始め3行目までの「わが国の漢字音」と題する記事――を注目するとただちに空理空論であると確信できる。この記事は音韻史研究によって「わが国の国語には、中国において現存する最も古い上古音よりもさらに古い漢字音が残っている」という成果が明らかになったと指摘する。だから、考古学の発掘調査結果によって「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定された定説は、ただちに空理空論となる。
 というのも、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説よりもはるか以前、つまり約2500年~2600年前の後期縄文時代初頭の紀元前21世紀末に中国から伝来して習得された原初漢字の夏音(かおん)文字が――2世紀末~3世紀半ばのわが国の様子を伝える『魏志倭人伝』と6世紀末から7世紀前半のわが国の様子を伝える『隋書』倭国伝と712年に成立した『古事記』上巻には――多数記載されて残っているからである。

◆『魏志倭人伝』と『隋書』倭国伝と『古事記』上巻に記載されて多数残っている後期縄文時代初頭に夏音文字が習得された時、【紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝につかえた史官・倉頡(そうきつ)は発明した漢字作成原理・作成方法】も習得された。その証拠に、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に残っている夏音文字の字源・字形・字義を解明すると【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】がわが国に存在したと証明される。
 つまり、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の日本神話は【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】にのっとって歴史が解明できる仕組みになっている。この歴史解明方法は『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)全体の記事テーマとなる。しかし、学者誰一人も『古事記』上巻の序全体のテーマが【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識にのっとっとれば歴史が解明できる方法の説明】であることに気づかない。ゆえに、この重大な『古事記』上巻の序が説明する歴史解明方法を無視し排除するため、考古学者はじめとする学者たちには『古事記』上巻に記述された歴史が解明することができない。

◆「銀河」の別称は「銀漢」である。ゆえに「銀漢から作られた文字」を略して中国でもわが国でも「漢字」と称した。こんな簡単・容易に想像できる事実に、今日の学者たちとメディアまったく気づかない。だから、学者たちとメディアは『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)が説明する歴史解明方法の記述の存在にまったく気づかず、知ったかぶりをして約2000字で構成される『魏志倭人伝』の全記事と1ヵ所も合致しない空理空論の吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説をもっとも正しい意見であると吹聴(ふいちょう)して日本中を騙(だま)そうとしている。
 上記したように、「漢字」は「銀漢(銀河)」から作られた。漢字が作成された銀河は、天文学では「夏の銀河」と呼ばれる。「夏の銀阿」とは、つまり「夏の星座が漬かる巨大な銀河の帯」である。
 上記したように、今日のすべての学者たちは「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と呼ばれることになった事実を知っていない。
 その証拠に、わが国の中国古代漢字・字源研究の第一人者とされる白川静博士は【漢字が夏の銀河の各部から作られた事実】を知らず、みずからが研究して解明した字説(字源解説)が【夏の銀河の各部の形状を説明するものであること】についてまったく気づいていない。
 倉頡は、【夏の銀河の各部の形状から漢字を作る作成原理と作成方法】を発明した。
 倉頡はみずからが発明した漢字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字(漢字)の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡すると心配し、倉頡は下記に示す【3つの掟】を破った本人はじめ、その大罪は掟を破った人物の一族全員まで及び厳しく神罰が下されて死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
(1)
 夏の銀河(漢字作成銀河)各部の形状から文字が作られた秘密を容易に理解できるように明確に説明した者とその一族全員〔ただし、難解な言葉(説明)や叡智に満ちた説明で深く考えないと理解ができない表現をもって解説する者は死刑にはならない〕
(2)
 文字を容易に理解するため、文字となる夏の銀河(漢字作成銀河)の各部に名称をつけた者とその一族
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字をただちに消さない者または消し忘れた者とその一族
 倉頡が死刑と定めた(1)の掟のために、上記したように「銀漢から作られた文字」を略して中国でもわが国でも「漢字」と称した事実を、今日の学者たちは誰一人も気づかない。
 上記した倉頡が定めた(2)の掟のため、紀元前1世紀に完成したシナ天文において〔夏の銀河に浸かる各部星座(星宿)の名称は作られた〕が、星座よりも明確な形を有する〔夏の銀河の各部の名称〕は現在にあっても存在しない。
 倉頡が死刑と定められた(3)の掟は、紀元前1300年頃から始まる殷代(いんだい)後半に出現した計約4700字も作られた甲骨文字において、この掟をその都度まもるのはたいへん面倒になったため破られることになった。『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻に残っているわが国の夏音文字は、甲骨文字以後に作られた(3)の掟を守らなくてもよい楷書にて表記されることになった。
 甲骨文字以前の【五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字】は倉頡が定めた(3)の掟を厳重にまもった。だから、これらの原初漢字を書いた資料はいまだ出土・発見されていない。

◆【漢字】は【字源・字形・字義・字音の4つの要素】によって成立する。そのうちの【字源・字形・字義の3つの要素】は【夏の銀河の各部の形状】であった。
 倉頡が【死刑と定めた3つの掟】によって、【原初漢字(五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の漢字)における字源・字形・字義】は【夏の銀河の各部の形状】となって実在することになった。
 この【原初漢字は夏の銀河の各部の形状となって実在した事実】に気づかない考古学者たちは――漢字が書かれた最古の資料が出土・発見された、その時にわが国は漢字を習得したにちがいないと――と考える。だから、考古学界は、漢字(楷書)が書かれた最古の資料の出土・発見にもとづいて「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定した。また、江戸時代中期の新井白石(16571725)以後の学者たちは「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられたと想像する人物が一人も存在しなかったため、この伝統にもとづいて、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という意見が定説となった。だから、考古学者はじめとする学者たちが定義した【わが国が最初に漢字を習得した意見】は事実に合致しない【非科学】にして【主観的偏見】による空理空論であったことになる。
 というのも、前述したように、【1】『魏志倭人伝』、【2】『隋書』倭国伝、【3】『古事記』の三史書には、紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭に習得した多数の夏音文字が記載されて残っているからである。

 『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)は――(1)漢字は夏の銀河から創られた、(2)夏音文字は後期縄文時代初頭に習得した、その時、(3)【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】をも習得した。ゆえに、(4)夏音文字と夏音文字を表記する楷書の字源・字形・字義を夏の銀河各部の形状に変換すれば、『古事記』上巻に記述された上古(神話)の歴史は鮮烈に歴史が甦(よみがえ)る――と『古事記』上巻だけでなく、『魏志倭人伝』のおける歴史解明方法についても説明していることになる。

◆わが国の考古学者たちは「わが国は最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という空論に憑()りつかれている。このため、彼らは吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説こそが邪馬台国論争を決着することができる意見であると主張する。
 しかし、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】の基に構成されている『魏志倭人伝』は、倭女王卑弥呼が居住した王国の名は「邪馬壱(やまい)国」であると記す。したがって、「邪馬台国」という地は存在しない絵空事・空想である。ゆえに、吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説はただちに空理空論となる。
 また、古代史研究家の古田武彦氏は『三国志』全体に記載される[()]86個、[()]56個の文字を逐一調べ、[()]の字を[()]と記す誤記が一例も無いことを証明した。『魏志倭人伝』という文献名は「『三国志』魏書東夷伝の末部・倭人伝の通称」であり、『三国志』魏書東夷伝の末部・倭人伝=『魏志倭人伝』には倭女王卑弥呼が居住した王国名は「邪馬壱国」と記してある。
 だから、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」と記す記事は1ヵ所も存在しない。
 ゆえに、卑弥呼が居住した王国の名は「邪馬台国だった」と主張する、考古学界自慢の吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説は【非科学】と【主観的偏見】による空理空論・デタラメであったのである。

◆考古学界自慢の吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説は空理空論・真っ赤なウソであると断定できる、『魏志倭人伝』と同時代の3世紀後半に作られた遺跡が存在する。
 山尾幸久(やまおゆきひさ)著「魏志倭人伝』(講談社発行)29ページは「『三国志』の成立は、晋の武帝の晩年である太康年間(二八〇-二八九)、陳寿(ちんじゅ)の著作郎(ちょさくろう)時代という以上には限定できない」と指摘する。
 つまり、『三国志』は晋につかえた著者の陳寿が著作郎・歴史編纂官に任じられた280年~289年までの帝太康の時代に著作したことになる。『魏志倭人伝』は『三国志』魏書東夷伝末部の倭人伝であるからして280年~289年に成立したことになる。
 280年~289年に著作された『魏志倭人伝』に記述された【わが国には倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識が存在した】と【倭女王卑弥呼が居住した王国は邪馬壱国であった】、この二つ問題は一挙に事実であったと【科学】が成立して証明することができる確かな遺跡が現在まで残っている。
 この奇跡の史料は、静岡県浜松市北区細江町の行政区域を表示するちょうど1千万坪(33.9)の地図の形である。
 この旧国遠江に所在する細江町の1千万坪の地図は、280年~289年に著作された『魏志倭人伝』と同時代の260年頃~290年頃まで約30年間費やして作製された。
 この細江町の地図内の7ヵ所の地所から9口の銅鐸が出土した。この銅鐸が出土した7ヵ所の地所は「遺跡」と呼ばれている。つまり、(1)小野遺跡、(2)船渡遺跡、(3)悪ヶ谷遺跡、(4)滝峯遺跡、(5)不動平遺跡、(6)穴の谷遺跡、(7)滝峯才四郎谷遺跡と呼ばれている。
 だから、この7つの遺跡が所在する・1千万坪の細江町の形は、3世紀後半に作られた地図遺跡であった。この地図遺跡(現在の細江町の行政区域を表示する、平面的に図化された地図)によって――『魏志倭人伝』の全記事は正しく、学者たちが立論するがごとく1ヵ所も誤読・歪曲・主観的偏見を加える必要がない――という事実が明らかとなる。


 細江町の7遺跡から出土した9口の銅鐸は三河と遠江に多数分布する銅鐸であり、「三遠(さんえん)しき銅鐸」と呼ばれる。この三遠式銅鐸は、最末期の銅鐸であるとされる。物部氏の関連性に注目すると、最末期の三遠式銅鐸の製作・使用年代は260年頃~290年頃であったことになる。だから、細江町の地図は、260年頃~290年頃までの30年間を費やして作製されたことになる。
 完全な形で細江町の滝峯遺跡から出土した滝峯第1号鐸の原寸大に作る模造鐸を、198611月に、私は静岡県沼津市のW板金所の主人に注文して銅板で作っていただいた。
 完成した模造鐸の筒()の中に頭を入れてしばらくすると、筒の中の暗闇によって自動的に瞳孔径(瞳孔の直径)が最大に拡大された。そして筒の上()にある二つの孔から舞の中央に垂直に立つ厚さ2,3mmの薄い板となる鈕(ちゅう)を仰ぎみると、その鈕は板ではなく細い一本の線()と化して見えるようになった。この線を両手で銅鐸の筒の傾きを操縦しながらゆっくり微調整して最も細くなるようにすると、銅鐸の筒はおのずと精確に地面に対して垂直(90度の角度)に立っていた。この時、鈕の頂上に取りつけられる「渦巻双耳(うずまきそうじ)」と名づけられた部分に刻まれる文様が矢を射当てる的(まと)のように同心円形となり、その的の中心点が天頂点とぴったりと重なり、私の視線は矢のようになって的の中心となる天頂点に命中する仕組みになっていた。
 考古学者たちは「銅鐸は鳴器や祭器であって、銅鐸は天頂点をキャッチする・[]をキャッチして緯度を精確に測量する器具ではない」と反論する前に、“論より証拠”という諺(ことわざ)の通りに、模造鐸を作り筒の中に顔を突っ込んで銅鐸を地面に対して垂直に立てて舞孔から仰ぎみれば、その視線は天頂点を命中する仕組みになっていることが実際に体験することができる。
 銅鐸の筒の中の眼は天頂点を「命中する」の「命中」の[]の上部の[(しゅう/三合]の字源・字義は「天頂点をキャッチして緯度を精確に測量して経緯度原点地を設置し、経緯度原点地を基に土地三角測量をし、この土地三角測量の基点の基に三角形の網や鎖を形作って、精密な地図を作製する」である。
 また、上記した滝峯第1号鐸の模造鐸による観測者の視線が天頂点を命中するまでの装置や手順は、古代における精密な地図を作製する方法と天頂点をキャッチして精確に緯度を測定する方法に合致する。
 新村出編『広辞苑』(岩波書店)は【天頂点】を「地球上の観測点における重力の方向(鉛直線)を上方に延ばして天球と交わる点」と説明する。地面に垂直に立つ銅鐸の筒の中の測量士の視線がキャッチする鈕の影が最も細い線が天頂緯度線とぴったり重なって、渦巻双耳の文様が的の同心円形となって、測量士の視線が矢となって命中する的の中心にぴったり重なる箇所は【天頂点】となる。【天頂点】は「高度90度」で「それ以上の上となる箇所が無い、最も高い天空」であるゆえ、“字書の聖典”と呼ばれた字源解説書の『説文解字(せつもんかいじ)』は[]の字源を「至高(しこう)にして上なし」と解説して、[]の字源・字形・字義は「天頂点」であったと解説する。

◆いわゆる中国の五経の第一に挙げられる中国の古典『易経』の繋辞上伝(けいじじょうでん)には「仰いでもって天文を観、俯()してもって地理を察(あきらかに)す」という記事がある。この記事は「仰いで天頂緯度線と天頂点と重なる[]の字源となった銀河部位をキャッチして精確に緯度を測定して、地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)を明らかにした」と伝えている。
 また、『易経』繋辞下伝(けいじげでん)には「仰いでは天象を観()、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観る。(中略)。もって万物の情(じょう/イメージ)を類するように文字を作った」と説明する記事がある。
 上記した『易経』の繋辞の上伝と下伝の記事は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識が確立した地図作製方法】について今日に伝える記事である。
 この『易経』の繋辞の上伝・下伝が伝える【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識が確立した地図作製方法】が、260年頃~290年頃に作製された細江町の1千万坪の地宜(地図)に失われずに残っている。

◆上記したように、『魏志倭人伝』は280年~289年に著作され、細江町の1千万坪の地宜は260年頃から始めて290年頃に完成したゆえ、『魏志倭人伝』と細江町の1千万坪の地宜はまったく同時代に作られたことになる。
1】 細江町の地図には『魏志倭人伝』に記述された【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】と【「卑弥呼」の3字の字源・字形・字義】が証明できる機能(役割)がそなわっている。そして、細江町の地図によって【『魏志倭人伝』の全記事は正しいと証明される。ゆえに、考古学の研究成果によるすべての邪馬台国説は迷妄・空理空論であり、卑弥呼は邪馬壱国・出雲地方に居住したと証明され、『魏志倭人伝』は「文献批判」という名の「誤読・歪曲・考古学の主観的偏見」を1ヵ所も必要としない、全記事が正しい文献であったと証明される。
2】細江町の地図は、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話冒頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に記述された【小国・日本は〔愛〕の理念を掲げて誕生した歴史】を後世に伝えるために作製された。だから、淤能碁呂島聖婚説話は実際に起きた歴史であったことになる。
3】細江町の地図は、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命(すさのをのみこと)の誓約説話末部に登場する「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の祖(おや/先祖)の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」という、遠江の豪族一族によって作製された。ゆえに、細江町の地図には「建比良鳥命」という名をあらわす機能がそなわり、また「天照大御神と須佐之男命の誓約説話の記事」をも表示する機能もそなわっている。したがって、天照大御神と須佐之男命は3世紀に生存した歴史上の人物であったことになる。
4】つまり、『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)は――わが国は後期縄文時代初頭に夏音文字と倉頡が発明した夏の銀河の各部の形状を字源・字形の原形・原義とする漢字作成原理と作成方法を習得した。そして、夏音文字と夏音文字の音を記す楷書の両方の文字の字源・字形の原形・原義も銀河各部の形状であった。したがって、〔音〕という注が付く夏音文字と夏音文字の音記号に用いる楷書の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換すれば、『古事記』上巻に記述された歴史は鮮烈に甦(よみがえ)る――と、歴史解明方法を説明していたことが事実となる。
 江戸中期の新井白石以後の『古事記』を研究した本居宣長(1730-1801)をふくむ全学者たちは、「古事記上巻 幷せて序」の主題(主なる内容)が【歴史解明方法の説明】であることにまったく気づいていない。
 だから、新井白石以後の学者たちは伝統的に「古事記上巻 幷せて序」に記述され歴史解明方法の説明文が読解せず、空理空論となる誤った方法で『古事記』上巻の記事を解釈する。
 「古事記上巻 幷せて序」が説明する歴史解明方法にのっとれば、現在の考古学者はじめとする学者たちの邪馬台国説と『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀の意見は学問的に無価値・空理空論となる。また、考古学者たちの『記』『紀』に記述された天皇の陵墓の意見には誤読・非科学・主観的偏見によるものも混在していることが明白となる。
 以上のごとく、現在の学者たちは歴史解明方法を説明する「古事記上巻 幷せて序」の記事を無視して勝手に解釈するため、『古事記』上巻に記述された歴史が解明できない。
 「古事記上巻 幷せて序」が説明する歴史解明方法にのっとって、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話冒頭の――ここに天(あま)つ神々の命(みこと)以ちて、伊耶那岐命・伊耶那美命に(中略)()りて――という文と、後ろのある――(伊耶那岐命と伊耶那美命は)その島に天降(あも)り坐()した――という文を、現代語に訳すると前者の文は「天(天頂点の軌道・天頂線緯線)のキャッチを最も重視する倭女王卑弥呼と卑弥呼王朝をささえる権力者の面々は伊耶那岐命と伊耶那美命に小国・日本への赴任を命じた」と意味することになり、後者の文は「伊耶那岐命と伊耶那美命は小国・日本へ赴任する道中、天頂緯度線を測定して淤能碁呂島に到着した」と意味するものであったことになる。
 しかし、学者たちは前者の冒頭文を「雲の上に住む天空の神々の一同は、雲の上に住む伊耶那岐命と伊耶那美命に命令した」と訳し、後者の文を「伊耶那岐命と伊耶那美命は雲上の天空から淤能碁呂島に降下した」と解釈する。だから、現在の学者たちのごとく「古事記上巻 幷せて序」の歴史解明方法を排除・無視する方法で解釈すると、歴史を解明することができない。


◆「古事記上巻 幷せて序」の「わが国には夏の銀河各部の形状から漢字を作った倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字を習得した」という説明に則(のっと)って『魏志倭人伝』を読解すると、約2000字で構成される『魏志倭人伝』の全記事には1ヵ所も【文献批判】という名の【誤読・歪曲・主観的偏見】を加える必要がないことになる。ゆえに、多数の【誤読・歪曲・主観的偏見】を加えて立論される、考古学自慢の吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説は『魏志倭人伝』の記事と1ヵ所も合致しない学問的に無価値の空理空論であったことになる。つまり、卑弥呼はその地図の形が当時(2世紀末~3世紀半ば)に「邪馬壱」と示していた山陰出雲に居住し、その王国名は邪馬壱(やまい)国であったことになる。 

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2020年12月28日 (月)

フェイク&まぼろしの邪馬台国・12

▼【漢字は銀河各部の形状から作られた事実】を今日の学者たちは誰一人も知っていない。このため、今日、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は絶対に正しいと思いこまれているが、この絶対視される定説は明白なる空理空論である事実が簡単に容易に証明できることに学者の誰一人も気づいていない

★「倭人国の地理学」のトリセツ・8

◆考古学はじめ今日の学界は「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という意見を絶対視する。ゆえに、この定説は「空理空論である」と指摘すると“戯言(たわごと)!”と一笑される。
 しかし、このブログの前回(11)でも説明したように――わが国の古代中国漢字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)9ページの終わり3行目から10ページの始めから3行目までの「わが国の漢字音」と題する記事における、下記に示す指摘を注目すれば「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は「確かに空理空論である」と断定すべきことになる。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻学史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そして、その結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかとなった。」

◆このブログが1回から前回(11)まで一貫して解説して証明しているように、【1】『魏志倭人伝』、【2】『古事記』上巻、【3】『隋書』倭国伝の三史書には【紀元前2070年頃~紀元前2050年の後期縄文時代初頭に中国からわが国に伝来して習得された夏音(かおん)文字】が記載されている。
 したがって、上記した三史書に【夏音文字】は記されて「夏音文字が存在する事実」を確認できるので「夏音文字は存在しない」と表現するわけにはいかず、当然、「夏音文字は中国から伝来して、わが国は習得していたのは事実である」と断言しなければならないことになる。
 中国の現存する最古の漢字音は「紀元前1046年の周代初頭から2世紀頃の後漢後期までの漢字音」で、「上古音」と呼ばれる。
 上記した白川静著『字統』の「わが国の漢字音」と題した記事が指摘しているように――
1】『魏志倭人伝』、【2】『古事記』上巻、【3】『隋書』倭国伝の三史書に記載されて残っている多数の夏音文字は、中国に現存する最古の上古音よりも約1000年も古い紀元前21世紀末の漢字音である。 
 一方、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は、中国の上古音初期の紀元前11世紀周代初頭の上古音はもちろん上古音末期の後漢後期(2世紀頃)よりも新しい漢字音となる。
 だから、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定されて絶対に否定することができないと思い込まれている定説は、明確に空理空論・虚妄(きょもう)である。
 学者たちの誰一人も注目しないが――上記した白川静著『字統』における「わが国の漢字音」と題する記事が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」という指摘を注目すれば――「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という意見は絶対に正しいと信じられている定説はただちに空論・虚妄であることに気づく。
 だから、【中国の上古音よりも古い、わが国の国語として残されている最古の漢字音】は【1】『魏志倭人伝』、【2】『古事記』上巻、【3】『隋書』倭国伝の三史書に記載されている【夏音文字】であったことになる。

▼【1】『魏志倭人伝』、【2】『古事記』上巻、【3】『隋書』倭国伝の三史書の記事によって、わが国は紀元前21世紀の後期縄文時代初頭に夏音文字を習得した時に、【紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝につかえていた史官・倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理と作成方法】も習得したことになる。
 “漢字の始祖”と崇拝された倉頡は天文学で通称「夏の銀河」と呼ばれる巨大な銀河各部の形状から漢字を作る原理と方法を発明した。
 「銀河」の別称は「銀漢」であり、「銀漢から作られた文字」を略して、中国でも日本でも「漢字」と呼称した。「漢字作成銀河」は天文学で通称「夏の銀河」と呼ばれる。「夏の銀河」は「夏の星座が漬かる銀河の帯」あるいは「夏に最も長時間みることができる銀河の帯」である。
 紀元前3000年頃から始める五帝時代から7世紀初頭の隋代に完成した楷書までの全漢字は、【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】に則(のっと)って【夏の銀河各部の形状を表現・表示する図案】となるように作られた。
 このブログの2回と7回にて解説したように――倉頡はみずから発明した漢字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が漢字(文字)の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡すると心配し、倉頡は下記に示す【3つの掟】を破った本人はもちろん、その大罪は掟を破った人物の一族全員まで及び厳しく神罰が下されて死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
(1)
 夏の銀河(漢字作成銀河)各部の形状から文字が作られた秘密を容易に理解できるように明確に説明した者とその一族全員〔ただし、難解な言(説明)や叡智に満ちた説明で深く考えないと理解ができない表現をもって解説する者は死刑にはならない〕
(2)
 文字を容易に理解するため、文字となる夏の銀河(漢字作成銀河)の各部に名称をつけた者と一族
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字をただちに消さない者または消し忘れた者とその一族
 倉頡が死刑と定めた(1)の掟のために、「銀河」の別称は「銀河漢」であるから「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた事実――このように簡単に容易に想像できる事実に、今日の学者たちは誰一人もまったく気づいていない。その証拠に、わが国の中国古代漢字と字源研究の第一人者とされる字源字書『字統』を著作した白川静博士は【漢字が夏の銀河の各部から作られた事実】を知らないため、みずからが研究して解明した大半の字説(字源解説)が【夏の銀河各部の形状を説明するものであること】について知っていない。
 121年に後漢の安帝に上呈した“字書の聖典”と呼ばれる字源字字書『説文解字(せつもんかいじ)』の著者の許慎(きょしん)は【漢字が銀河各部の形状から作られた事実】を知っていたから、その字説(字源解説)の大半は【銀河各部の形状を説明するもの】であった。
 倉頡が死刑と定めた(1)の掟のために、今日の学者たちは誰一人も【漢字は夏の銀河の各部の形状から作られた事実】を知っていないゆえ、すべての学者たちは『魏志倭人伝』に記される[]の字源・字形・字義は【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】にのっとって【夏の銀河の形状】で表示されるものである事実に気づいていない。また対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国名を10小国ずつ3つのグループに分けて【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】について説明する仕組みになっており、あるいは【小国名に用いられるすべての文字の字源は夏の銀河各部の形状である】という事実にも気づいていない。しかし、江戸時代半ばまでの各代の天皇たちは【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】が皇室存続の権勢基盤であったため、【漢字は夏の銀河各部の形状から作られた事実】を知っていた。また【漢字は夏の銀河各部の形状から作られた学識】は天下を治めるにあたって不可欠な基礎知識であったゆえ、源頼朝・足利尊氏・織田信長・徳川家康たちは【漢字は夏の銀河各部の形状から作られた事実】を知っていた。また、漢字で書かれる仏教の経典を理解するため、名だたる高僧たちも【漢字は夏の銀河各部の形状から作られた事実】を知っていた。
 そして、上記した倉頡が定めた(2)の掟のために、現在においても〔夏の銀河の各部の名称〕は存在しない。
 倉頡が死刑と定めた(3)の掟は、紀元前1300年頃から始まる殷代(いんだい)後半に出現した約4670(解釈されたものは1723字、未解釈異体のものは2949)も作られた甲骨文字において掟をその都度まもるのはたいへん面倒になったため破られることになった。このため、甲骨文字は字形を示す資料が多数出土することになったゆえ、現代史学では「甲骨文字は最古の漢字、甲骨文字は最も古い漢字の祖型である」と断定する。しかし、甲骨文字は(1)(2)の掟を厳重にまもったため、【甲骨文字の字源・字形の原形・原義は夏の銀河各部の形状である事実】に――現在の学者たちは誰一人も気づいていない。
 甲骨文字以前の【五帝時代の書契(わが国では「刻木」と称した)】・【夏代の夏音文字】・【殷代前半の原初漢字】は、倉頡が死刑と定めた(3)の掟は厳重にまもったゆえ、書いた文字の資料がいまだ出土・発見されていない。また、『魏志倭人伝』・『古事記』上巻・『隋書』倭国伝に登場する夏音文字を書いた資料も、倉頡が定めた(3)の掟を厳重にまもったために出土・発見されていない。

◆【漢字】は【字源・字形・字義・字音の4つの要素】によって成立する。
 そのうちの【字源・字形・字義の3つの要素】の本家本元は【夏の銀河の各部の形状】である。
 考古学は――漢字が書かれた最古の資料が出土・発見された、そのときにわが国は漢字を習得した――と考える。だから、夏音文字を書いた資料が出土・発見されないゆえ、わが国が縄文時代初頭に夏音文字を習得した事実は絶対にあるはずがないと思い込む。したがって、考古学は、漢字(楷書)が書かれた最古の資料にもとづいて「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定した。
 しかし、事実は【倉頡が死刑と定めた掟】によって【漢字の字源・字形の原形・原義は夏の銀河各部の形状】となった。このため、【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法を解明することができる、ほんとうの漢字は天空に輝く夏の銀河各部の形状】ということになった。
 だから、考古学が考える【わが国が最初に漢字を習得した意見】は空理空論であった。
 今日のわが国の考古学は、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定するが原因で――『魏志倭人伝』が【漢字は夏の銀河各部の形状から作られた事実】を伝える文献であり、その人名・小国名・官職名には夏音文字が用いられ、【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】をも証明できる史料であった――この事実をまったく知っていない。つまり、考古学者たちは『魏志倭人伝』の記事内容についてまったく知っていない。
 というのも、考古学者たちのごとく『魏志倭人伝』に【誤読・歪曲・主観的偏見(すなわち、文献批判)】を1ヵ所でも加えたならば即刻に空理空論・虚妄となるからである。
 したがって、考古学自慢の吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説の両説は『魏志倭人伝』の記事に多数の【誤読・歪曲・主観的偏見(すなわち、文献批判)】を加えて立論するゆえ、正真正銘(しょうしんしょうめい)の空理空論・虚妄説であったことになる。 

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フェイク&まぼろしの邪馬台国・11

▼わが国には「考古学」と呼べる学問は存在しない
「学問」の水準に達しない、[学]の字を欠く「考古術(考古学的技術)」ならば存在する

★「倭人国の地理学」のトリセツ・7

◆上記したように、わが国における「考古学」は断じて「考古学」と呼ぶことはできない。
 だから、わが国で「考古学」と名づけられるものは「考古術」と呼ぶべきことになる。
 というのも、わが国で一般的に「考古学」と言っているものは、再度言うが【学問】の体(てい)をなしていないからである。それは【非科学】と【主観的偏見】、言いかえると【空理空論】と【無知】に支配されるものであるゆえ、「考古術」と名づけるべきことになる。

◆わが国は、考古術によって「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という意見が定説となった。
 この定説は、要するに【非科学】と【主観的偏見】によって立論された空理空論である。だから、「考古学」と呼べず、この分野は「考古術」と呼ぶべきことになる。
 というのも、このブログが前回(10)までで証明してきたように――【1】『魏志倭人伝』、【2】『古事記』上巻、【3】『隋書』倭国伝の三史書は「わが国は紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭に原初漢字・夏音(かおん)文字を習得した。この時に、紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官・倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理と作成方法習得した」と説明しているからである。
 上記の【1】【2】【3】の三つの史書に記述された「わが国は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】を習得した」と説明する記事を、考古技術者(一般的にいう「考古学者」)たちの誰一人も読解(つまり、正しく理解)することができない。
 だから、考古技術者たちは「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する。
 もしも【1】【2】【3】の三史書に記述された【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の習得説明】について学者やメディアが読解できていたならば、当然のことであるが「わが国が最初の漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は誰も信じず、すでに空理空論であるということになっていた。
 しかし、この「わが国が最初の漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という虚妄説に学界はじめメディアも賛成して言いなりになったため、現在「わが国が最初の漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」いう虚妄説が絶対に否定することができない定説となっている。

◆夏音文字は『魏志倭人伝』・『古事記』上巻・『隋書』倭国伝に多数記載されて現在まで残っている。ゆえに、考古技術者たちがどのように弁護・反論しても「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という意見は空理空論であることは明白なる事実である。
 また、上記した【1】【2】【3】の三史書の他に、【4】わが国の古代中国漢字研究者の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)9ページの終わりから3行目~10ページの初めから3行目までの文に「わが国の漢字音」という題をつけて、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という意見が空理空論であることを、下記のごとく指摘している。この重大な指摘に、学者の誰一人も注目しない。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻学史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そして、その結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかとなった。」
 中国の現存する最古の漢字音は「紀元前1046年の周代初頭から2世紀頃の後漢後期までの漢字音」で、「上古音」と呼ばれる。
 上記した白川静著『字統』の「わが国の漢字音」と題した記事が指摘しているように――
1】『魏志倭人伝』、【2】『古事記』、【3】『隋書』の三史書に記載されて残っている多数の夏音文字は、中国に現存する最古の上古音よりも約1000年も古い紀元前21世紀末の漢字音である。 
 一方、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は、中国の上古音初期の紀元前11世紀周代初頭の上古音はもちろん上古音末期の後漢後期(2世紀頃)よりも新しい漢字音となる。だから、漢字習得の定説の実体は空理空論・虚妄であったことになる。
 このように、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定されて絶対に否定することができないと思い込まれている定説は、【非科学】と【主観的偏見】による産物であったことになる。
 上記した白川静著『字統』における「わが国の漢字音」と題する記事が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」という指摘に注目すれば――「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と信じられている定説はただちに空理空論であると断定することができる。

◆「わが国は最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という空論に憑()りつかれた考古技術者たちは、この空論を立論基盤にして構築した吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説こそが邪馬台国論争を決着することができる意見であると主張する。
 しかし、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】の基に構成されている『魏志倭人伝』は、倭女王卑弥呼が居住した王国の名は「邪馬壱(やまい)国」であると記す。したがって、「邪馬台国」という地は存在しない絵空事・空想であった。ゆえに、吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説はただちに空理空論となる。
 また、古代史研究家の古田武彦氏は『三国志』全体に記載される[()]86個、[()]56個の文字を逐一調べ、[()]の字を[()]と記す誤記が一例も無いことを証明した。『魏志倭人伝』という文献名は「『三国志』魏書東夷伝の末部・倭人伝の通称」であり、『三国志』魏書東夷伝の末部・倭人伝=『魏志倭人伝』には倭女王卑弥呼が居住した王国名は「邪馬壱国」と記してある。
 だから、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」と記す記事は1ヵ所も存在しない。
 ゆえに、卑弥呼が居住した王国の名は「邪馬台国だった」と主張する、考古術界自慢の吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説は【非科学】と【主観的偏見】による空理空論・デタラメであったことになる。

◆なお、【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】に則(のっと)って思考すると『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰出雲地方(現在の島根県と鳥取県西部、旧国の石見・出雲・伯耆)であった」と説明していることになる。この邪馬壱国出雲地方説は『魏志倭人伝』の全体記事と矛盾も不合理な点が1ヵ所もなく【科学】が成立する。だから、邪馬壱国出雲地方説は事実であったことになり、邪馬壱国出雲地方説こそが卑弥呼が居住した王国所在地論争を決着させる意見ということになる。
 だから、考古術界が論争を決着することができると自信たっぷりに自慢する吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説は『魏志倭人伝』の記事と1ヵ所も合致しない学問的に無価値の荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメであったことになる。
 
◆「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という空理空論に憑()りつかれた考古技術者たちは――『古事記』と『日本書紀』(『記』『紀』)8世紀に律令国家によって編纂(へんさん)されたものであるゆえ、史料的に価値には限界がある――と主張する。
 よって、考古技術者たちは『記』『紀』に記述された天皇陵についての学問的意見は、自分たちの研究成果のほうが正しいと自惚(うぬぼ)れている。
 しかし、8世紀に成立した『古事記』と『日本書紀』は断じて律令国家によって編纂されたものではない。
 『記』『紀』は人民たちの尊厳と魂の自立となり日々の生活のよりどころとなった【伊耶那美命(いざなみのみこと)が唱えた日本建国の〔愛〕の理念】を伝える反逆の歴史書であった。というのも、【伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】は律令国家が「皇祖・天照大神の聖性を汚すゆえ絶対に後世には伝えてはならぬ」と厳重に禁じていたからである。天照大神(10代崇神天皇と生母の伊迦賀色許売命)は強大な権力を最も尊重し、【伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪・蔑視して大和朝廷の基礎を築いた。ゆえに、律令国家体制を推進する40代天武天皇以後、皇室は天照大神を皇室が最も偉大な先祖と崇拝する皇祖と定めた。しかし、天照大神(崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命)は【伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪し蔑視したため、伊耶那美命の陵墓を築造する時に、多数の奴婢(ぬひ/18才くらいの青年と13才くらいの乙女)たちを殺して、伊耶那美命陵に埋める徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮した。この天照大神が決行した残酷な徇葬を後世の人々に絶対に知られたくないゆえ、律令国家は【日本国建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】は後世に絶対に伝えてはならないと厳重に禁じたのである。
 『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話では、「天照大神」は「伊耶那美命の墓の築造を陣頭指揮した倭女王」であったゆえ「伊耶那美神命(いざなみのかみのみこと)」と名づけて、編纂スタッフは『古事記』が即刻献呈拒否されないように皇室が欲求する偽書(つまり、「天照大神」を「伊耶那美神命」という偽名で表示したゆえ、偽の歴史を記述した書物となる)を作成したと示して元明(げんめい)天皇から献呈の承認を手に入れようと企てた。この編纂スタッフの企みを元明天皇はただちに見抜いて『古事記』の献呈を拒絶した。だから、『古事記』は正史になれなかった。この伊耶那岐命の黄泉国訪問説話では「残忍な徇葬儀式」は「八雷神(やくさのいかづちがみ)」と表記された。「八雷神」は「殺されて八つの雷神の姿になって伊耶那美命の棺の周囲に葬られて配置された青年と乙女たちをあわれんで、天の神が雷鳴轟かせて五穀豊穣の慈雨を降らす、いわゆる徇葬儀式」をあらわしていたのである。
 以上のごとく、『古事記』また『日本書紀』もまた書名の「日本」が示すように【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】を後世に伝えるを作成目的に編纂された律令国家に歯向かう反逆の歴史書であった。
 この事実は――正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』が多数の記事で「舎人親王を頭領とする伊耶那美命崇拝派の皇族・貴族・万葉歌人たちが、対立する天照大神崇拝派の面々を排除して『記』『紀』を編纂した」と伝えている。言いかえると、『続日本紀』に記述された舎人親王(676735)に関する記事を抜粋して舎人親王の一生を再現すると、舎人親王は皇祖天照大神の聖性をいちじるしく汚す【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】を後世に伝えようとした日本史上に稀(まれ)にみる反逆児であったことが明らかとなる。ところが、学者たちは『続日本紀』はじめ幾つかの舎人親王についてのさまざまな資料によって知ることができる舎人親王の一生についてまったく調査・研究をおこなっていない。
 だから、学者たちの誰一人も舎人親王の一生についてまったく知っていないため、今日、『古事記』と『日本書紀』は律令国家によって編纂されたと思い込まれている。

◆このブログの3回にて、『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)の冒頭34字の記事を詳細に説明して現代語に訳したように「わが国は後期縄文時代初頭、【原初漢字・夏音文字】」を習得し、この夏音文字を習得したときに【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】も知得した。
 「わが国は後期縄文時代に夏音文字を習得した」事実についてまったく知っていない考古技術者たちは、『記』『紀』に見える「この古墳は某天皇の陵墓」といった記述はしばしば考古術の成果と矛盾するゆえ、彼らは「『記』『紀』には強引なこじつけが多く含まれている」と主張する。
 しかし、考古技術者たちは(1)「わが国は最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と思い込む空論が原因で、(2)吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説は『魏志倭人伝』の全記事と1ヵ所も合致しない空理空論に憑()りつかれ、さらに(3)反逆の歴史書『古事記』と『日本書紀』の編纂の主宰者(しょさいしゃ)であった舎人親王の一生についてまったく知っていない。
 このように考古技術者たちは空論に空論を重ねその上にさらに無知を重ねるため、「『記』『紀』に記述された天皇の陵墓の記述は強引にこじつけたもので誤っている」と主張する。
 しかし、考古術の研究は上記した(1)(2)の空論と(3)の無知によって、強引にこじつけた非科学な主観的偏見の要素が濃い産物である。このように自分たちの研究成果は空論と無知が加わって成立するものである事実にまったく気づいていない考古技術者たちは「『記』『紀』の天皇陵の記事は矛盾する」と指摘するが、自分たちの研究成果にも矛盾点と空理空論と非科学的な意見が存在する事実を棚にあげる。
 だから、考古術の天皇の陵墓に関する研究成果を全面的に信用してはならない。

◆上記した「考古術」を「考古学」と改めて、これまで説明・証明してきた事柄をまとめると、次のごとくなる。
1〕わが国は後期縄文時代初頭に【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字】を習得したことは事実であった。ゆえに、考古学が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する意見は空理空論となる。
2〕『魏志倭人伝』は明確に「倭女王卑弥呼は邪馬壱国・山陰出雲地方に居住した」と記述する。ゆにえ、考古学が論争を決着することになると自慢する吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説は全なる誤読の空理空論であったことになる。
3〕考古学は「『古事記』と『日本書紀』は8世紀の律令国家によって編纂された」と主張するが、『古事記』と『日本書紀』は皇祖・天照大神の聖性を汚すゆえ後世に伝えてはならないと禁止する律令国家に歯向かって【伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】を記述した歴史書であった。ゆえに、考古学の『記』『紀』に対する意見もまた空理空論である。
 第一、「『古事記』は8世紀の律令国家によって編纂された書物」であるならば、どうして元明天皇は献呈して正史にしなかったのか、この点が意味不明となって矛盾し不合理となる。『日本書紀』は『古事記』献呈拒否に懲りて【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】が曖昧模糊(あいまいもこ)となり【天照大神が徇葬儀式を陣頭指揮した事績】を省略した、編纂スタッフの作成目的と動機がかなえられない失敗作品となったゆえ、律令国家にとっては「好都合の書物」となったゆえ正史となったのである。
4〕考古学の研究成果だと「『記』『紀』の天皇の陵墓(古墳)の記述は矛盾し、強引なこじつけが多く含まれている」ということになる。しかし、考古学は上記した〔1〕〔2〕〔3〕の空理空論にのっとって『記』『紀』の天皇陵の記事には誤記が含まれると指摘する。だから、考古学の成果には〔1〕〔2〕〔3〕の虚妄と迷妄とが含まれていることになるので、考古学の研究成果は全面的に信頼できない。したがって、『記』『紀』の天皇陵の記述と考古学の研究成果に合致しない『記』『紀』の天皇陵の記事は必ずしもすべて誤っているとは言えない。

 だから、わが国の考古学は上記した〔1〕から〔4〕までの【空理空論・非科学・主観的偏見】に支配されて「学問」の体(てい)を成していないものであるゆえ――このブログの冒頭で指摘したように、わが国には「考古学」と呼ぶことができる学問は存在せず、[]が欠けた「考古術」ならば存在することになる。 

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2020年12月22日 (火)

フェイク&まぼろしの邪馬台国・10

▼現在、わが国の古代史学においては――何百のウソを主張した米国の大統領のトランプ現象で満ち満ちあふれている
 日本古代史学においては、学者たちがつくウソが真実の歴史よりも勝る
 その証拠に、『魏志倭人伝』の研究において、虚妄が真実よりも優る
 学者たちが扇動する吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説は、この国を根本・根底から崩壊させる最悪のデタラメ・ウソ百まんだらのトランプ発言である
 だから、ウソつき学者たちが主張する吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説を日本中に拡散する朝日新聞とNHKテレビの歴史秘話ヒストリアもまた、日本国を根本・根底から崩壊させるウソつきメディアである 

★「倭人国の地理学」のトリセツ・6

 

◆このブログは6回~9回までで、詳細に証明したように――頭脳がとびぬけて優秀で、学者たちが“日本古代史上最高の政治家”と称賛し、当時の皇族のなかで群をぬく経済力を有し、偉大な多数の事績を残した天皇に次ぐ高位であった摂政(せっしょう)の、当然、天皇になれたはずであった聖徳太子(573621)がなぜ天皇になれなかったか――この原因は、仏教を興隆(こうりゅう)させるために、太子はわが国に保存されていた【紀元前3000年前の五帝時代初頭の黄帝時代に生存した倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理と作成方法】を虚妄であると蔑視したからである。
 「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」の銘文は――聖徳太子が妃の橘太郎女(たちばなのおおいらつめ)に「世間は虚仮(こけ)にして、唯仏のみ真なり」と語った―と伝えている。仏教用語の「虚仮」は「虚妄」「偽り」を意味したが、転じて「人を馬鹿にする語」となった。ゆえに、太子は「世間の真実と思い込む【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】は虚仮・虚妄・偽りであり、ただ仏の教えのみが真実である」と主張して、世間の評判に反発した。しかし、世間は「太子は無能だ! 天皇になれる資格がない! 太子の主張こそが虚仮・デタラメだ!」と虚仮にして馬鹿にした。
 このように、【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】は最大・最高・最強・最良の真実であった。

 【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】が無かったならば、後世に真実の歴史はもちろん、インドから起源した仏教も中国でもわが国でも漢字(文字)が無かったゆえ求得(きゅうとく)できなかった。この道理が太子はまったくわかっていないゆえ、世間は太子を「能無し! ただ【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】のみが真なり」と酷評して切り捨てたのである。

◆聖徳太子が天皇になれなかった原因が明確に示すように――【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】は、中国とわが日本国の根本となる最大・最高・最強・最良の真実であった。
 この最高・最良の真実の【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】にもとづいて、『魏志倭人伝』は成立する。
 『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】に則(のっと)って全記事が事実のみを説明している完璧な文献であった。
 したがって、その完璧な出来ばえであったゆえに『魏志倭人伝』に1ヵ所でも【誤読=文献批判】はじめ【記事の歪曲】や【記事の排除・無視】などを加えたならば直(ただ)ちに、その意見は空理空論となる。
 吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説は『魏志倭人伝』に【多数の誤読=文献批判】はじめ【幾つかの記事の歪曲】を加えて、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】を排除・無視する。したがって、両説は【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法は、わが国には保存されていなかった】と断言するゆえ、『魏志倭人伝』の全記事と1ヵ所も合致しない日本歴史学における最大・最悪の空理空論となった。

◆現在、定説となる日本神話虚構説もまた【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法は、わが国には保存されていなかった】と断言する。だから、現在は、定説・日本神話虚構説の空理空論が原因で、『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀に記述された歴史はまったく解明されていない。
 織田信長と徳川家康は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法の学識】を有していた。ゆえに、二人は『古事記』上巻と日本書紀神代紀が説明する、【倉頡がつかえた黄帝の土徳をあらわす「黄竜」と密接に関係する日本国誕生史】に精通していた。
 信長が使用した有名な印判に彫られていた「天下布武」という語は【黄帝の天下平定の討伐】をあらわしていた。
 家康が死去する一年前(1615)に制定した「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」の第一条の「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」という文も【倉頡が発明した漢字原理と作成方法】と密接に関係した。というのも、この文は「天子諸芸能において、第一番目に大事なのは皇室が天武天皇以後に“皇祖・天照大神の遺勅(ゆいちょく/死後に残された勅命)”と定めて今日まで保存してきました【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法の学問】です。しかし、皇室は皇祖・天照大神の聖性が汚されると心配して、『古事記』上巻に記述された【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】を後世に絶対に伝えてはならないと、長いあいだ禁止しつづけてきました。しかしながら、この対策が災いして、浅学菲才な学者たちの迷妄や比叡山の僧侶たちの虚妄などの伝統によって、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法の学問】と【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】は共に歴史的事実ではなかったという虚妄・誤解が世間を支配するようになって、いまや消滅して失われる危機的な状況にあります。ですから、この危機的状況から脱出するために、この際【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】を復興して、この国の根本を成す重大な【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法の学問】を存続させる必要があります」と、朝廷を説得するものであったのである。だから、この文は、家康が一生を賭けた胸の奥に秘めた【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】の復興への情熱、つまり熱き心願をあらわしていた。

◆現在の学者たちは「わが国は最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と思い込む。このため、信長と家康が正しく解釈できた【1】『魏志倭人伝』、【2】「古事記上巻 幷せて序」(『古事記』上巻の序)、【3】『隋書』倭国伝に記述された聖徳太子が天皇になれなかった原因記事が「わが国は後期縄文時代初頭(紀元前2070年頃~紀元前2050年頃)に夏音文字を習得する時に、倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法をも習得した」と説明する記事を読解することができないため排除・無視する。
 だから、現在、学者たちは【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】を伝える諸文献の記事を【誤読】を用いて徹底的に排除して「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する。これゆえ、【わが国は倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法の学識を習得して保存した史実】を知っている学者は、現在、一人もいない。


◆約2000字で構成される『魏志倭人伝』に登場する倭の使者の一人の名を前者では「掖邪拘」、後者では「掖邪狗」と記すゆえ、前者に用いられる[拘]か後者に用いられる[狗]のどちらかが誤記となる。また、「その道里を計るに会稽(かいけい)の東治(とうじ)の東に在るべし」という記事がある。この「東治県」は「東冶(とうや)県」であり、現在の福建省福州市であったと指摘されている。さらに、現存する『魏志倭人伝』には5世紀に生存した裴松之(はいしょうし)の注が計56字あり、このうち一ヵ所で「誤字がある」と指摘する。
 したがって、1983字に裴松之の56字が加わって合計2009字で構成される『魏志倭人伝』は「二千字のうち、三字の誤字がある」ということになる。「千三(せんみ)つ」という日本語は「ほんとうのことは千のうちわずか三つぐらいの意」から「うそつき」・「詐欺師」を意味する。
 約二千字のうち誤字が三字ある『魏志倭人伝』は「わが国に【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法があった】と証言する貴重な史料であり、全記事が正しく一ヵ所も誤りがない奇跡の文献である。
 このような『魏志倭人伝』に対して、邪馬台国説学者たちは「わが国には【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】は存在しなかった」と断定し、しかも邪馬台国説は二千字の『魏志倭人伝』の全記事と一ヵ所も合致しない。
 だから、吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説は「千三つ」以上の「大うそつき」ということになる。その証拠に、聖徳太子は「【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法の学術】は存在する」と認めて排除したが――吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説の両説は「【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】は存在しない」と全面否定するゆえ、両説をとなえる学者たちは聖徳太子よりもさらに上回るウソつきである。だから、世間から「大馬鹿野郎!」「大うそつき!」「詐欺師」と虚仮にされ蔑視されても文句はいえない。
 以上からして――ひたすら【誤読】を駆使(くし)してデッチあげた吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説の虚偽と詐欺を日本中にまきちらす朝日新聞とNHKテレビの歴史秘話ヒストリアは日本国を根本・根底から崩壊させる勢力であるからして、聖徳太子の時代と同様に世間は「無能だ! くだばれ! ウソつきメディア!」と虚仮にして愚弄してよいことになる。

◆【1】『魏志倭人伝』と、【2】「古事記上巻 幷せて序」(『古事記』上巻の序)と、【3】『隋書』倭国伝に記述された聖徳太子が天皇になれなかった原因記事は「紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、言いかえると中国の夏初頭に、“夏の始祖”の禹帝(うてい)の後を継いだ益帝(えきてい)の孫の王子と青年たちが日本列島に定住して夏音文字を広めた。この夏音文字によって紀元前4000年頃~紀元前3000年頃までの易占(うらない)に用いられた記号の結縄(けつじょう)と紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝につかえた史官・倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と倉頡が考案した原初漢字の刻木(中国では「書契」と呼称する)をも習得した」と説明するものであった。
 上記したように、『魏志倭人伝』の全記事は【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】に則って成立する、【誤読(文献批判)】を1ヵ所も加えることができない完璧な文献であった。そして、下記に示す記事は明確に【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の習得】を説明する記事であった。ただし、この記事には振り仮名を表示していない。

(1)
 その俗、挙事行来に云為する所有れば、すなわち骨を灼いて卜し、もって吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。その辞は令亀の法の如し――という、「令亀の法」の記事
(2)
 女王国より以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於いて刺史の如きところ有り。王、遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣
り、また、郡の倭国に使するや、皆津に臨みて、伝送の文書・賜遺の物を捜露し、女王に詣るに差錯あるを得ざらしむ――という、「倭の差錯文字」の記事

 上記の(1)「令亀の法」つまり「倭の卜占に用いられた文字は、亀の甲羅に文字を刻んだ殷代(いんだい)後半に用いられた甲骨文字のような原初漢字であった」という記事と、(2)「倭の差錯文字」つまり「倭の小国・伊都国の港では、魏の都の洛陽(京都)と魏王朝の出張政庁が所在した朝鮮半島のソウル付近の帯方郡と諸韓国(朝鮮半島)で使用されていた楷書と差錯(相違)する倭の原初漢字」の記事は、【わが国における倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の習得と保存】を、具体的に説明している。
 だから、『魏志倭人伝』においては――【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】に直接つながる・上記した(1)(2)の記事のほうが、卑弥呼が居住した王国所在地よりも数段も重大な学術テーマであった。
 つまり、学者たちは「『魏志倭人伝』と言えば邪馬台国の所在地である」と世間を欺(あざむ)き、【誤読】を駆使して『魏志倭人伝』の全記事と1ヵ所も合致しないデタラメの邪馬台国説を「ほんとうの話である」と主張して騙(だま)そうとしている。

▼同志社大学名誉教授・考古学者の森浩一氏は――奈良時代に創られた漢風の諡号(しごう)は古墳時代にはなかった。ゆえに、古墳に「仁徳天皇陵」と表記するのはおかしい。したがって、地名を利用して「大山(だいせん)古墳」と呼ぶべきである――と主張した。ゆえに、現在、「仁徳天皇陵」を「大山古墳」という表記こそが正しく定説とすべきであるという主張にもとづき、「大山古墳」と表記する教科書もある。
 しかし、わが国には後期縄文時代に【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字】
を習得し、古墳時代以前の3世紀(卑弥呼時代・中国の三国時代)には魏都・帯方郡・書韓国で用いていた楷書をも習得していた。ゆえに、森浩一教授の「大山古墳説」は空理空論であった。
 『古事記』下巻冒頭の仁徳天皇紀には「おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我()が国見れば 淡島 淤能碁呂島(おのごろしま) あぢまさの 島も見ゆ 佐気都島(さけつしま)見ゆ」と仁徳天皇が作った和歌が記載されている。
 この和歌に登場する「淤能碁呂島」は、『古事記』上巻のイザナキノミコトとイザナミノミコト説話冒頭の淤能碁呂島聖婚説話に登場する「淤能碁呂島」である。この「淤能碁呂」の4字に、『古事記』は「淤自()り以下四字は音を以てす」という〔注〕を付ける。したがって、仁徳天皇が詠んだ長歌に登場する「淤能碁呂」の4字は夏音文字であった。
 森浩一教授は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻と『隋書』倭国伝が説明する【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の習得記事】を読解ですることができずに【誤読】した。これゆえ、「わが国には夏音文字が無かった」と思い込む森教授は「古墳時代時代には、もちろん、わが国には文字が無かった。だから、当時、漢風の諡号も無かった」と虚妄説・空理空論を主張したのである。

◆わが国は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字】を習得し、この学識は現在も保存されている。
 令和元年(2019)1114日の夕方の午後6時半から開始され翌日の午前4字頃に終わった、各社テレビが一斉に放送した大嘗宮の儀(大嘗祭)は――【紀元前3000年頃の倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の夏音文字】とそして【230(呉の黄竜2)頃におこなわれた淤能碁呂島におけるイザナキノミコトとの結婚式にてイザナミノミコトが「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」と唱えて「五帝時代初頭の黄帝が中国を平定した恩恵・愛のごとく、小国・日本は〔愛〕を柱にして建国いたしましょう」と誓った日本建国の〔愛〕の理念】を演出する儀式であったのである。
 だから、現在までわが国は皇室の大嘗祭をもって【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】は失われずに保存されて残っている。
 したがって、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の習得】を排除し無視する邪馬台国説と『記』『紀』における日本神話説と〔愛〕の和歌集『万葉集』の和歌の解釈や様々な意見たとえば織田信長・徳川家康に関する学者たちの意見は、すべて空理空論・虚妄・捏造・【科学】に反する出鱈目(でたらめ)である。

 したがって、このブログの冒頭で指摘したように、現在の学者たちの誰一人も【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】について知らない。これが原因で、日本古代史に関する学者たちの意見はトランプ発言で満ち満ち、古代史学においてはウソが真実に勝って蔓延(はびこ)り、この国を根本・根底から崩壊させる邪馬台国説・日本神話説が朝日新聞やNHKテレビの歴史秘話ヒストリアはじめ様々なメディアや出版界によって国中にひろがっている。

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2020年12月19日 (土)

フェイク&まぼろしの邪馬台国・9

▼このブログは6回~8回までで、『隋書』倭国伝の記事となった聖徳太子が天皇になれなかった原因を詳細に解説した
 学者たちは、聖徳太子が天皇になれなかった失政を明記する『隋書』倭国伝にある「文字無し」から「尤(もっと)も巫覡(ふげき)を信ず」までの記事を、「倭国には文字が無かった」と解釈する。
 しかし、この記事は――【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】に精通した巫覡を太子が排除して崇仏政策を推進したため、にわかに蘇我大臣家の権勢が皇室よりも盛んとなった。ゆえに、世間は「太子は無能だ! 大王(天皇)になれる資格が無い」と虚仮(こけ)にし馬鹿にして切り捨てた――と伝えていたのである。

★「倭人国の地理学」のトリセツ・5

◆上記したように、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と学者たちが断定した定説は空理空論であり――わが国は、紀元前2070年頃~紀元前2050年頃に【原初漢字・夏音文字】を知得した。この時に【紀元前3000年頃に生存した倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】をも習得した。
 この【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の習得】については、【1】約2000字で構成される『魏志倭人伝』は約55パーセント・約1100字で説明する。【2】『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)の冒頭34字はじめ、「古事記上巻 幷せて序」の末部でも説明している。また、【3】上記した聖徳太子が天皇になれなかった原因を伝える「文字無し」かた「尤も巫覡を信ず」までの記事も説明している。さらに、【4】【紀元前2070年頃~紀元前2050年頃に、わが国は夏音文字を習得したという意見】は、わが国の中国古代漢字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)の「わが国の漢字音」における音韻学の成果による科学的な意見にも合致する。そして、【5】「銀河」の別称は「銀漢」であるから「銀漢から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と名づけたという意見にも【科学】が成立して合致する。

◆大和朝廷が起源して以来、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】を強大な権勢を維持するための岩盤学問であったが――崇仏政策を推進するために聖徳太子は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の習得】に精通した巫覡を国家と皇室が擁護する制度を廃止しようとした。しかし、この太子の方針を世間は「朝廷の権勢を一気に衰弱させる失政である。太子は無能だ! 太子は天皇になる資格は無い」と虚仮(こけ)にし馬鹿にして切り捨てた。

世間が虚仮にして痛烈に酷評した聖徳太子の【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の習得】を精通する巫覡の排除政策の失政によって、蘇我氏の権勢がにわかに盛んとなり推古天皇の権勢は一気に衰弱した。このため、推古天皇は後継者を定めることができず死去した。これによって、馬子の子で、ときの大臣蝦夷(えみし)の権勢はさらに盛んとなった。
 当時、天皇を継承する皇族に田村(たむら)皇子と山背大兄(やましろのおおえの)王の二人がいた。田村皇子は皇室の嫡流(ちゃくりゅう)であり、山背は聖徳太子の子であった。
 大臣蝦夷は、田村皇子を天皇に即位すると決めていた。
 蝦夷は自邸に有力豪族を招集して田村皇子と山背大兄王のどちらを天皇に選ぶかについて意向をたずね、全員の一致が得られないと知ると、反対派のおじ境部摩理勢(さかいべのまりせ)父子を武力で討ちとり反対派を沈黙させ、田村(たむら)皇子を629年に即位させた。
これが、33代推古天皇の後を継いだ34代舒明(じょめい)天皇である。
 蝦夷と子の入鹿(いるか)は舒明天皇を武力で威圧して見下し、皇后の宝(たから)皇女と入鹿はあたかも情を交わす仲のごとく卑劣な噂を立てて舒明天皇を悩ませた。また、壮大な馬子の墓の築造工事を開始して、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】に精通した巫覡たちを擁する蘇我大臣家の家督者こそが天皇に最もふさわしいと誇示した。飛鳥の島之荘(しまのしょう)に築造された全長18.7mのわが国における最大級の規模をもつ横穴式石室の巨石が露出する特別史跡・石舞台(いしぶたい)古墳は626(推古天皇34)に桃原(ももはら)に葬られた馬子の墓といわれる。
 横暴な蝦夷・入鹿父子に侮られる苦悩の日々を送った舒明天皇は、641年に崩御した。翌642年、蝦夷は舒明天皇の皇后の宝皇女を即位させた。これが、第35代皇極(こうぎょく)天皇である。
 643106日、蝦夷は大臣の位を子の入鹿(いるか)にゆずった。翌月111日、入鹿は兵をつかわせて山背大兄王一家を襲撃して皆殺しにした。このように、入鹿は父蝦夷以上に横暴であったゆえ、人々は彼を畏怖(いふ)した。また、入鹿は舒明天皇死後も依然として皇極天皇と情を結んでいるかのごとくふるまって権勢を大きく見せかけたにちがいなく、皇極女帝は屈辱と我慢の日々を送ることになったと推測される。

◆『万葉集』3番の長歌には「天皇、宇智(うち)の野に遊猟(みかり)する時に時に、中皇命(なかつすめらみこと)、間人連老(はしひとのむらじおゆ)に献(たてまつ)らしむる歌」という題詞がついている。この題詞に登場する「天皇」は「舒明天皇」である。ゆえに、3番の題詞は「舒明天皇、宇智の野で狩りをなされた時に、舒明天皇の御子息の中大兄(なかのおおえの)皇子が間人連老に献らした歌」であったことになる。
 『万葉集』4番は、3番の長歌の反歌(はんか)である。
 3番の長歌と4番の反歌は、その詠まれている内容からして「蝦夷・入鹿父子を憎悪して草深い宇智の野原(現在の奈良県五條市の野)で、お父上(舒明天皇)は馬に乗って朝狩りと夕狩りに励み、蘇我父子への怨み・憎悪をはらさんとして弓の稽古に明け暮れています」と、間人連老が中大兄皇子に報告した和歌であったことになる。
 『万葉集』5番の長歌には「讃岐国の安益郡(あやのこほり)に幸(いでま)す時に、軍王(いくさのおおきみ)の山を見て作る歌」という題詞がつく。ゆえに、5番は「舒明天皇が讃岐国の安益郡(香川県坂出市と綾歌郡の東部の地)に行幸した時に、小国・日本国の軍王であったイザナキノミコト(後の9代開化天皇/『魏志倭人伝』の末部に登場する載斯烏越・そしあお)が倭女王卑弥呼と素より不和であった狗奴(くな)(山陽の吉備地方)を討伐した時に、本陣をかまえた飯野山(いいのやま)の山を見て作った歌」であったことになる。
 この5番の長歌で、舒明天皇は「霞(かす)み立つ長い春の一日がいつ暮れたかわからないがごとく、皇后の宝皇女と蘇我入鹿とが情を通じているというウワサは真実なのかそれとも単なるウワサだかはっきりしない状態に悶々として心が痛み、蘇我大臣家の権力へなびく皇后を離縁しようと悩む今日このごろである。このような、鵺(ぬえ)の鳥の声のごとく暗く悲嘆にくれる状況を断ち切るために、皇后に行幸の行く先を告げないで、ひとり決心して旅に出ることにした。言葉にも出すにも畏(おそ)れおおい狗奴国討伐を指揮した軍王イザナキノミコト・載斯烏越の所縁(ゆかり)の安益郡の網の浦(坂出市の海岸)に到着すると、軍王が本陣を設営した讃岐富士・飯野山から越えてくる風が、孤独な朕(われ)の衣の袖(そで)を朝な夕なに吹き返す。この袖が風に揺れるありさまをみていると、いつしか宮殿に帰ろうかと思うようになり、強い男だと思っていた自分も旅先のことゆえ気弱になり、つい離縁しようとした妻が愛しくなり、愛しくなれば憎さがつのり、憂いを晴らすことができないでいる。網の浦の乙女たちが焼く灼熱(しゃくねつ)の塩の熱湯のように熱く重く、愛と憎しみとの間(はざま)で苦悶するわが心よ」と表現している。

 『万葉集』485番の長歌と486番・487番の2首の短歌には「岡本天皇の御製(みうた)一首 幷せて短歌」と題詞がつく。34代舒明天皇と皇后・宝皇女(35代皇極天皇・37代斉明天皇)の二人が「岡本天皇」と呼ばれた。歌の内容からして岡本天皇は皇后の宝皇女であったことになるゆえ、485番・486番・487番の三首は宝皇女が作ったことになる。
 宝皇女は485番の短歌で、次のように表現している。
 「神代の壱与(いよ/夏音文字の名称)が倭女王に即位する以前――イザナミノミコトが小国・日本の女王に就任して淤能碁呂島(おのごろしま)でイザナキノミコトと結婚した時に『日本国の建国理念は〔愛〕にしましょう』と高らかに唱え、イザナミノミコトの死後に日本の軍王・載斯烏越(そしあお/夏音文字の名称)・イザナキノミコトが開化天皇に即位してイザナミノミコトが唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継ぐ政事(まつりごと)をおこなった。このため国民はこの世に多数満ち満ちて、【日本建国の〔愛〕の理念】をまもる人民たちは空一面をおおって飛翔する味鴨(あじかも)の大群のごとくわたくしの目の前を通りすぎますが、わたくしが恋い慕うあなた(舒明天皇)は、わたくしと入鹿の仲を疑って、わたくしの夫であることを拒否してわたくしを抱いてくれません。わたしは昼は日が暮れるまで夜は夜が明けるまで、あなたを思いつづけ、一睡もできませんでした。この夜は、ほんとうに長い夜でした。」(485)
 次の486番の短歌では、下記のごとく表現している。
 「山の端()に、味鴨の大群が愛むつまじく鳴きさわいで飛んでいきますが、この味鴨の大群を見ていると、わたくしは寂しくてなりません。あなたはわたくしが示す愛を疑い拒絶し、夜となってもわたくしを抱いてくれませんもの……」(486)
 次の487番の和歌に登場する「鳥籠(とこ)の山」は「琵琶湖に浮かぶ最大の島の沖島(おきのしま)」であり、また「不知哉(いさや)川」は「現在の滋賀県彦根市の南限となる愛知川(えちがわ)」である。愛知川の河口()と沖島(西)の中間を、『日本書紀』が「イザナミノミコトが葬られた地」と記述する花の窟(いわや)神社と同経度線(東経136度線)が貫通する。愛知川河口・沖島の東方には、『古事記』が「イザナキノ大神は淡海(近江)の多賀(たが)に坐すなり」と記す、イザナキノミコトの墓であった多賀大社(滋賀県犬上郡多賀町)が鎮座する。ゆえに、舒明天皇と宝皇女が生存した7世紀においては〈沖島(鳥籠の山)と愛知川(不知哉川)と多賀大社が所在する地域〉は〈イザナミノミコトが唱えイザナキノミコトが遺志を継いだ【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす地霊を呼び興(おこ)す地〉、すなわち〈イザナミノミコトとイザナキノミコトの歴史の秘密を知ることができる聖地〉であった。だから、【日本建国の〔愛〕の理念】の[]に【日本国誕生史の秘密を知ることができる】の[]が加わって、彦根市の南限となる川の名は夏音文字の字音で「愛知川(えちがわ)」と呼ばれることになったのである。
 したがって、次の487番の和歌では、下記のごとく表現している。
 「近江路(滋賀県)の琵琶湖に浮かぶ鳥籠の山(沖島)の東方を流れる不知哉川(愛知川)、この川の名が“知らない(不知)”と示すように、わたくしの心を知ろうとせずにわたくしを疑ってわたくしの言葉を信じないつれないあなたですけど、今日このごろは、わたくしのことを恋しく思っていてくださるのでしょうか。」(487)

◆なお、奈良県奈良市油阪町に所在する開化天皇陵はイザナキノミコトが死去した時に築造された陵墓ではない。墳墓規模等から、9代開化天皇陵は5世紀末から6世紀初頭頃に築造されたと推定されている。ゆえに、3世紀半ば頃に死去したイザナキノミコトの墓は多賀大社であった。開化天皇陵は、おそらく230年~260年頃に生存していた英雄イザナキノミコトを讃えて5世紀末から6世紀初頭頃に築造された古墳ということになる。
 『古事記』中巻の崇神(すじん)天皇紀の〔建波邇王(たけはにやすのみこ)の反逆〕の条で、10代崇神天皇は9代開化天皇・イザナキノミコトが崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)と結婚してイザナキノミコトの第二后となったゆえ養子(父は8代孝元天皇)にして異母弟であったと説明する。
 イザナキノミコトの養子であった10代崇神天皇と生母の伊迦賀色許売命はイザナミノミコトが唱え、イザナキノミコトが受け継いだ【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪した。これゆえ、『日本書紀』崇神天皇紀の〔疫病の流行〕の条は「崇神天皇は天照大神を崇拝して祭り、【日本建国の〔愛〕の理念】を「日本大国魂神」と名づけて憎悪し呪(のろ)って霊力を衰弱させて祭らなかった」と記述する。だから、【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪して呪った崇神天皇母子は「天照大神」という異名で呼ばれることになった。崇神天皇はイザナキノミコトに天下を譲られたにもかかわらず、恩知らずの崇神帝・天照大神は養父・イザナキノミコト・開化天皇の陵墓を築造しなかった。ゆえに、イザナキノミコト・開化天皇の墓は愛妻・イザナミノミコトと結婚した淤能碁呂島と所縁(ゆかり)が深い多賀大社に所在することになったのである。

◆以上のごとく、舒明天皇と宝皇女(皇極天皇)時代(629年~6456月まで)は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】に精通した巫覡たちを朝廷が擁護する制度を聖徳太子が廃止しようとしたが原因で、一気に皇室の権勢が衰え蘇我大臣家の権勢が盛んとなり、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】に精通した巫覡たちを擁護する蘇我大臣家の横暴に悩まされて皇室が天下を奪われて滅亡しかねない危機的状況に陥(おちい)っていたことになる。

620(推古天皇28)に歴史書が編纂(へんさん)された。『日本書紀』によればその史書の名は「天皇紀」、「国記」、「臣連伴造国造百八十部幷公民(おみむらじとものみやつこくにのみやつこももあまりやそとものおならびにおおみたから)等本記」である。これらの史書は、後に成立した『古事記』と『日本書紀』の典拠資料となった。「天皇記」には歴代天皇の系譜・事績などが記述され、「国記」は『古事記』上巻(日本神話)の典拠資料となり、「臣連伴造国造百八十部幷公民等本記」は天皇支配下の諸豪族や下級官人・地方官人をふくめた官人全般の歴史を記したものであったであろう。
 「天皇記」と「国記」は、645(皇極天皇4)の蘇我氏打倒の乙巳(おつし)の変の際、蘇我蝦夷(そがえみし)の邸宅で焼失した。蘇我蝦夷らは殺される前に、すべての「天皇記」・「国記」そして珍宝を焼いた。したがって、国家と朝廷が厳重に所蔵して保管しなければならない「天皇記」と「国記」は、聖徳太子の巫覡排除政策の失敗によって蘇我大臣家に擁護された巫覡たちによって編纂されたゆえ、蘇我家で所蔵されていたのである。
 だから、聖徳太子の大失敗によって天下を治めることができる権勢の岩盤学問であった【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】を手に入れた蘇我大臣家は皇室に代わって天下を治める野心を抱いて横暴になったのである。
 しかし、蘇我家の天下取りは失敗して、舒明天皇と宝皇女の子の中大兄皇子と中臣鎌足(なかとみのかまたり)らによる、上記した乙巳の変にて蘇我家は滅ぼされ、大化の改新が断行された。改新の断行によって、律令制という新しい政治体制の基礎固めがなされた。
 中大兄皇子は38代天智(てんじ)天皇に即位した。天智天皇の死は、天智帝の子の大友(おおとも)皇子と舒明帝と宝皇女の子にして天智帝の弟・大海人(おおあま)皇子との対立が決定的となり、壬申(じんしん)の乱となった。

◆乱に勝利した大海人は浄御原(きよみはら)宮で即位し40代天武(てんむ)天皇となった。天武天皇は強大な権力をにぎって、天皇の権力の絶大化をはかった。これゆえ、天武天皇は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】を最も重視して大和朝廷の基礎を築いた天照大神(10代崇神天皇と生母の伊迦賀色許売命母子)を皇室が最も崇拝する先祖の皇祖(こうそ)とする方針を示した。
 天武天皇の没後の690(持統天皇4)、天武帝の遺志を継いだ41代持統(じとう)天皇は伊勢神宮の20年ごとの式年造替という制度を起源させた。壮大な伊勢神宮を創建し、そして天照大神を伊勢神宮で恒常的に祀ったのは持統上皇・42代文武(もんむ)天皇の時代の698(文武天皇2)であった。
 天武天皇と持統天皇は――イザナミノミコトとイザナキノミコトの歴史によって、天照大神が多数の奴婢(ぬひ)を殺してイザナミノミコトの墓に埋めた残虐な徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮した歴史が語られることになって天照大神の聖性がいちじるしく汚されるゆえ、イザナミノミコトとイザナキノミコトの歴史を絶対に後世に伝えてはならないと禁止して、――天照大神を皇統の聖性を表象(ひょうしょう)する至上神と定めて、【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】を抹殺するために伊勢神宮を創建することにしたのである。
 だから、『古事記』編纂スタッフは【銀河文字(銀漢各部の形状を字源・字形の原義・原義)と定めた倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】でイザナミノミコトとイザナキノミコトの歴史を後世に伝えることにしたのである。
 ゆえに、この策略を真っ先に伝えるために『古事記』上巻の序は「古事記上巻 幷せて序」という名称となった。この「古事記上巻 幷せて序」の文を作ることになった太安万侶は、その冒頭34字で「臣安万侶言す。それ混元既に凝りて、気象いまだ効れず。名も無く為も無し。誰かその形を知らむ。しかれども乾坤初めて分かれて、参神造化の首をなす」という文を作って、このブログの3回で詳細に解説して現代語訳したように、要するに「上巻の〔音〕という注がつく夏音文字と夏音文字を表記する楷書も共に【夏音文字を取得した時に一緒に習得した倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法に則(のっと)る銀河文字(銀漢各部の形状を字源・字形の原義・原義)】であるからして、夏音文字と楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】をはじめ上古史の真相が解明できる」と警告(けいこく)して、『古事記』上巻の歴史解明方法を説明した。
 だから、「古事記上巻 幷せて序」冒頭文の「参神造化の首をなす」の後につづく11字は「陰陽斯(ここ)に開けて、二霊群品(にれいぐんぴん)の祖(おや)と為()る」という文という文をもって、「陰のイザナミノミコトと陽のイザナキノミコトがわが国のすべてのものの生みの親である」と記述して、「天武天皇・持統天皇が皇祖・天照大神の聖性をいちじるしく汚すゆえ、後世に絶対に伝えてはならぬと厳重に禁止する【日本建国の【愛】の理念と日本国誕生史】を後世に伝えるために『古事記』を作成した」と――『古事記』作成目的を伝えている。

◆現在の定説・日本神話虚構説は――『古事記』上巻に登場する天照大神は雲の上の天空・高天原に住んでいたと断定する。しかし、『古事記』は――天照大神は10代崇神天皇と生母の伊迦賀色許売命であり、天照大御神は「高天原」つまり「大和国」に居住していたと歴史を伝えていたのである。現在の学者たちが主張する定説だと『古事記』上巻における神聖なる至上神は天照大神ということになる。しかし、『古事記』上巻のイザナキノミコトの黄泉国(よみのくに)訪問説話は――イザナミノミコトが唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪した倭女王の天照大神・伊迦賀色許売命はイザナミノミコトの墓の玄室に多数の奴婢の死体=八雷神(やくさのいかづちのかみ)を納めるため、多数の奴婢を殺す徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮した――と歴史を伝えている。したがって、『古事記』上巻は天照大神を神聖な最高神と絶賛するものではなく、天照大神は残虐非道な徇葬を決行した歴史を伝えていたのである。
 だから、学者たちの定説の日本神話虚構説は「古事記上巻 幷せて序」に記述された歴史解明方法を読解できないため、太安万侶が説明する歴史解明方法を排除・無視して捏造(ねつぞう)した【誤読の産物の空理空論】であったのである。
 「古事記上巻 幷せて序」に記述されたとおり、『古事記』の作成目的は【イザナミノミコトとイザナキノミコトの歴史、つまり日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】を後世に伝えることであった。
 『古事記』上巻・日本神話は【銀河文字】をもって解明する歴史書であったのである。

◆以上からして、このブログが前回(8)まで詳細に解説・証明したように、吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説の実体は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】を【誤読】を駆使(くし)して成立させた空理空論であった。したがって、世間が聖徳太子を虚仮(こけ)にしたと同様に、正真正銘の空理空論の吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説に対して日本国民は「無能! 役立たず」と言って怒りを爆発すべきことになる。
 また、無能・役立たずの両説を「いちばん正しい」と賞賛して虚妄(デタラメ)をまき散らして日本国民を洗脳しようとするNHKテレビと朝日新聞に対して“ウソつき! 邪馬台国説は誤読の空理空論だ!”と怒りを爆発すべきことになる。

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フェイク&まぼろしの邪馬台国・8

▼NHKテレビの歴史秘話ヒストリはじめ朝日新聞が「いちばん正しい」と太鼓判をおして推奨する吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説の二つの意見は、日本学問史上における最大に悪質な空理空論である
 というのも、邪馬台国説を立論する文献史料『魏志倭人伝』は約2000字で構成されるが、そのうちの約55パーセント・約1100字の記事は【今から約5000年前に生存した倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理・作成方法と、今から約4000年前の後期縄文時代初頭にわが国が習得した夏音文字の学識】について説明しているからである。
 だから、吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説の両説の実体は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】を抹殺・無視して捏造(ねつぞう)した、『魏志倭人伝』の記事とまったく無関係な、正当な理由・根拠がゼロの完全なる空理空論である!

★「倭人国の地理学」のトリセツ・4

◆このブログの3回で解説した内容を要約すると――(1)『魏志倭人伝』冒頭の11字の「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」という文と、(2)『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)冒頭の34字の「臣安万侶言(しんやすまろまを)す。それ混元(こんげん)(すで)に凝()りて、気象いまだ効(あらは)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。しかれども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)をなす」という、この二つの文は共に「わが国は紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、中国から“夏の始祖”禹()帝の後を継いだ益(えき)帝の孫・王子と若者たちが日本列島に定住して夏音(かおん)文字を普及(ふきゅう)させた。この夏音文字を習得した時、紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝につかえた史官・倉頡(そうきつ)が発明した【漢字作成原理と作成方法】をも取得した」と説明するものであった。

◆ゆえに、前々回(6)と前回(7)のブログで解説したように――『隋書』倭国伝に下記に示した「文字無し」という文から始まる記事に登場する「唯(ただ)刻木(こくぼく)結縄(けつじょう)のみ」という文は、「夏音文字を習得したときに、五帝時代に用いられた原初漢字の刻木(中国では「書契」と称した)と紀元前4000年頃から始まる三皇時代の易卜(うらない)に用いた記号の結縄をも習得した。ゆえに、現在(7世紀初頭の推古天皇時代)、わが国には三皇時代の結縄と五帝時代の刻木と夏代(かだい)初頭の夏音文字が保存されていた」と、遣隋使は隋王朝に説明していたことになる。
 遣隋使が「わが国に、三皇時代の易卜に用いる記号の結縄と五帝時代の原初漢字・刻木と夏代初頭の原初漢字・夏音文字」と説明した『隋書』倭国伝の記事は次のごとくである。
 「文字無し。ただ刻木(こくぼく)・結縄(けつじょう)のみ。百済(くだら)において仏経を求得(きゅうとく)し、始めて文字有り。卜筮(ぼくぜい)を知り、尤(もっと)も巫覡(ふげき)を信ず」
 前回(7)のブログにて現代語に訳したとおり、上記の文は末尾の「尤も巫覡を信ず」という文から前へ前へと解釈すると、次のごとく内容が明瞭となる。
 「倭国では、巫女(みこ)と覡(げき/神官)が成し遂げた業績は尤(もっと)も当然至極(とうぜんしごく)最大・最高に偉大なる功績であるとたたえられた。ゆえに、世間は巫覡を摂政の聖徳太子よりも最も信頼して尊重した。巫覡たちは中国の卜筮(うらない)を知ろうとして、朝鮮半島の百済から輸入(求得)した仏経(仏教の経典)の解読に挑戦して成功した。この仏経には、隋で開発された最新の漢字である楷書はじめ、隋代以前の中国で作られた画数が多くて至極(しごく)難しい楷書が数珠(じゅず)ならびに続く。ゆえに、仏経に用いられる楷書解読作業は最高難度の事業であった。しかし、倭国では紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭において夏音(かおん)文字を習得した時に、紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝時代に生存した“漢字の始祖”と崇拝された倉頡(そうきつ)が考案した刻木(中国では「書契」と称する)と紀元前4000年頃に出現した卜筮()に用いる記号であった結縄をも習得した。夏音文字が伝来した後期縄文時代初頭以来、卜筮を専門職とした巫女と覡たちは【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法・刻木と夏音文字の学識】に精通していた。隋における最新の楷書はじめ中国で作られたすべての漢字は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法・刻木と夏音文字の学識】に則(のっと)って作られたゆえ、この学識に精通する巫女と覡は【仏経に用いられた楷書の解読という偉業】を成し遂げることができた。ゆえに、倭国には隋で作られた最新の文字(楷書)は無かったが、巫覡の偉業によって隋の文字(楷書)をいちはやく習得した。だから、倭国には隋で作られた最新の楷書が存在することになった。」

▼『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名には夏音文字が用いられ、「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読むと夏音文字の字音となる。
 「卑弥呼」を「ピミカ」と読むと、中国に現存する最古の漢字音「上古音」の字音となる。中国の上古音は紀元前1040年頃の周代初頭~後漢後期(2世紀頃)までの漢字音である。
 ゆえに、『魏志倭人伝』に記載される夏音文字は中国で現存する最古(周代初頭)の上古音よりも約1000年前の漢字音である。したがって、わが国に残っている夏音文字の字音が現存する最古の漢字音となる。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)9ページの終わりから3行目~10ページの初めから3行目で、「わが国の漢字音」と題して、下記のごとく指摘する。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によって得られた諸法則が、原理的にはほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかとなった。」
 現在、「わが国に最初に漢字が伝来したのは5世紀あるいは6世紀である」という意見が定説となる。しかし、この定説だと――わが国に現存する最古の漢字音は、中国の現存する上古音のおける終末期・2世紀頃の後漢後期よりも新しい漢字音となる。だから、学者たちが主張する定説は、【科学】が成立せず明らかに虚妄(きょもう)である。
 しかし、『魏志倭人伝』冒頭の11字と『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)冒頭の34字、そして前記した『隋書』倭国伝の「文字無し」から「尤も巫覡を信ず」までの記事が伝えるわが国が習得した原初漢字・夏音文字の字音は――上記した白川静著『字統』が指摘しているとおり、中国の最古の漢字音より約1000年前の漢字音ということになり、【科学】が成立して事実となる。
 その証拠に――『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて、多数の夏音文字が記載されているゆえ、実際に夏音文字は存在する。
 だから、学者たちが「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と主張する定説は【科学】が成立しない完全なるデタラメであった。

◆『隋書』倭国伝にも、「阿毎(アメ)」、「多利思比孤(タリシヒコ)」、「阿輩鶏弥(オホキミ?)」、「利歌弥多弗利(ワカミトホリ?)」などの夏音文字が記載されている。
 したがって、前記した『隋書』倭国伝の「文字無し」から「尤も巫覡を信ず」までの文中における最初の「文字無し。唯刻木・結縄のみ」という文は「隋で用いられた最新の漢字である楷書は無い。しかし、五帝時代の刻木と三皇時代の結縄ならば有る」と解釈しなければならない。
 【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】は、朝廷が強大な権勢を維持するための不可欠な学識であった。したがって、わが国において国家と王朝が充実して次第に成長すると、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】を反体制側が習得して革命に利用されて朝廷が滅亡しないように用心されることになったゆえ、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】に精通する巫女と覡は国家体制に組み入られるようになった。だから、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】は国家と朝廷が独占管理して厳重に機密が保持された。
 このような事情があったゆえ、32代崇峻(すしゅん)天皇・33代推古(すい)天皇王朝にあっては、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】に精通した巫覡たちは、当然、朝廷に擁護されていたことになる。
 594(推古天皇2)、推古天皇は聖徳太子と蘇我馬子に、積極的な仏教崇拝政策をおこなうように詔(しょう)した。この崇仏(すうぶつ)政策を推進するにあたって、摂政の聖徳太子は隋の崇仏政策を取り入れて最新漢字・楷書による学問を普及(ふきゅう)するためには、文字として未発達な【原初漢字の銀河文字】つまり【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字】に精通した巫女と覡たちはもはや必要ではないと考えた。だから、太子は、国家と朝廷が巫女と覡を擁護する制度を廃止しようとした。
 それゆえ、太子に排除された巫覡たちは大臣の蘇我馬子に擁護を頼った。巫覡たちは太子に一矢(いっし)を報いるため、仏教の経典に用いられる隋の最新漢字・楷書を解読した。
 多分、太子は仏経に用いられた隋の最新の楷書は、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】を有する皇族と貴族たちにでも解読できると予想していたにちがいない。しかし、仏経に用いられる楷書の解読は【銀河文字の学識】を有する皇族や貴族たちには成し遂げられない難事業であった。このため、蘇我大臣家に擁護される巫覡による仏経に用いられる最新漢字の楷書の解読は、皇族と貴族たちと世間が絶賛する偉業となった。
 太子の巫覡を排除する方針は一気に朝廷の権勢を弱体化させ、巫覡を擁護した蘇我大臣家は思いがけない幸運にめぐまれて権勢が盛んとなり朝廷を脅かすことになった。
 皇族と貴族はじめ世間(世論)は蘇我家が朝廷を見下して横暴になった状況を嘆き、この原因を作った太子を虚仮(こけ)・馬鹿にして、「太子は無能だ! 大王(天皇)になる資格が無い」と切り捨てたのである。
 その証拠に、「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」の銘文に、聖徳太子は妃の橘太郎女(たちばなのおおいらつめ)に「世間は虚仮にして、唯仏のみ真なり」と語ったと記されている。「虚仮」という仏教語には「馬鹿にする」という意味がなく、「虚仮」は「虚妄・偽り」を意味したゆえ、太子は「世間のわれに対する批評は虚妄・ウソだ。ただ仏のみが真実なり。われが正しい!」と言ったつもりであろうが――世間は太子を「虚仮・馬鹿!」と太子を痛烈(つうれつ)に酷評したのである。

◆聖徳太子は仏教に夢中にならずに従来の【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】の重大性に気づいて、旧来とおりに朝廷は巫覡たちを擁護すると明示して崇仏政策を推進すれば、世間に虚仮(こけ)にされず、巫覡による仏教の経典に用いられた最新漢字・隋の楷書の解読事業も太子の手柄となって世間に尤も信頼されることになり、蘇我大臣家の権勢も盛んにならなかった。だから、世間は「なにゆえ、巫覡たちを排除する必要があるのか? 太子の発想は朝廷の権勢を衰退させるのに決まっているのに、この道理を太子が理解していないのはまったく解せない」と世間は太子の巫覡排除の方針をあきれかえったことになる。
 聖徳太子の巫覡排除の失政はその後に大きな影響を及ぼし、33代推古天皇の後を継いだ34代舒明(じょめい)天皇から35代皇極(こうぎょく)天皇の時代(629年から6456月まで)は、皇室よりも権勢が盛んになった蘇我大臣家に見下されて皇室は滅亡の危機に陥った。
 さらに、太子の巫覡排除の失政は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】を重視して大和朝廷の基礎を築いた天照大神を皇統の聖性を表象する至上神・皇祖に定めた律令体制を確立させることになり、この律令体制の強大な権力を重視する政治体制に歯向かい逆らって【〔愛〕を国家理念とした小国・日本の誕生史】を後世に伝える『古事記』・『日本書紀』・『万葉集』が編纂されることになった。
 これらの歴史の経緯からして、『隋書』倭国伝の「文字無し」から「尤も巫覡を信ず」までの記事は、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】に精通する巫覡たちを聖徳太子が排除した失政を説明するものであったのである。
 だから、学者たちが主張する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は、「わが国は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識を習得した】と証言する諸文献の記事を誤読してデッチあげた空理空論であったことになる。

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2020年12月16日 (水)

フェイク&まぼろし邪馬台国・7

▼前回のブログ(6回)で指摘いたように、推古天皇の摂政(せっしょう/天皇に代わって政治を執る、天皇に次ぐ高位)にして、頭脳がとびぬけて優秀で、現代の学者たちが「日本古代史上の最高の政治家だった」と褒めちぎる偉人で、当時の皇族のなかで群をぬく経済力を有した聖徳太子(573-621)は、当然、天皇になれるはずであったにもかかわらず、太子みずからの失政によって天皇になれなかった
 この原因は『隋書(ずいしょ)』倭国伝に記述されているが、この重大な記事を、現代の学者たちは誰ひとりも正確に読解することができない


★「倭人国の地理学」のトリセツ・3

◆上記した、聖徳太子が天皇になれなかった原因を伝えている『隋書』倭国伝の記事は下記のごとくである。
 「文字無し。ただ刻木(こくぼく)・結縄(けつじょう)のみ。百済(くだら)において仏経を求得(きゅうとく)し、始めて文字有り。卜筮(ぼくぜい)を知り、尤(もっと)も巫覡(ふげき)を信ず」
 この記事は末尾の「尤も巫覡を信ず」という文から、前へ前へと解釈すると意味が明瞭となる。ゆえに、末尾から先頭の文までを現代語に訳すると、次のごとくになる。
 「倭国では、巫女(みこ)と覡(げき/神官)が成し遂げた業績は尤(もっと)も当然至極(とうぜんしごく)最大・最高に偉大なる功績であるとたたえられた。ゆえに、世間は巫覡を摂政の聖徳太子よりも最も信頼して尊重した。巫覡たちは中国の卜筮(うらない)を知ろうとして、朝鮮半島の百済から輸入(求得)した仏経(仏教の経典)の解読に挑戦して成功した。この仏経(仏教の経典)は隋で開発された最新の漢字である楷書はじめ、隋代以前の中国で作られた画数が多くて至極(しごく)難しい楷書が数珠(じゅず)ならびに続く書物である。ゆえに、仏経に用いられる楷書解読事業は最高難度の作業であった。しかし、倭国では紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭において夏音(かおん)文字を習得した時に、紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝時代に生存した“漢字の始祖”と崇拝された倉頡(そうきつ)が考案した刻木(中国では「書契・しょけい」と称する)と紀元前4000年頃に出現した卜筮()に用いる記号であった結縄をも習得していた。夏音文字が伝来した後期縄文時代初頭以来、卜筮を専門職とした巫女と覡たちは【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法・刻木と夏音文字の学識】に精通していた。隋における最新の楷書はじめ中国で作られたすべての漢字は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法・刻木と夏音文字の学識】に則(のっと)って作られたゆえ、この学識に精通する巫女と覡は〈仏経に用いられた楷書の解読という偉業〉を成し遂げることができた。ゆえに、倭国には隋で作られた最新の文字(楷書)は無かったが、巫覡の偉業によって隋の文字(楷書)をいちはやく習得した。だから、倭国には隋で作られた最新の楷書が存在することになった。」

▼このブログにおける1回~3回までで詳細に解明し、また3回で『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)の冒頭34字の文を詳細に解説して現代語に訳したように――わが国には紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)に原初漢字・夏音文字が伝来して習得した。この夏音文字を習得した時に、三皇時代の易(卜筮)に用いた記号も結縄と五帝時代に用いた刻木(書契)と【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】をも習得したことになる。
 だから、『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名には夏音文字が用いられ、「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読むと夏音文字の字音となる。
 「卑弥呼」を「ピミカ」と読むと中国に1046年おいて現存する最古の漢字音「上古音」の字音となる。中国の上古音は紀元前1040年頃の周代初頭~後漢後期(2世紀頃)までの漢字音である。
 ゆえに、『魏志倭人伝』に記載される夏音文字は中国で現存する最古(周代初頭)の上古音よりも約1000年前の漢字音である。したがって、わが国に残っている夏音文字の字音が現存する最古の漢字音となる。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)9ページの終わりから3行目~10ページの初めから3行目で、「わが国の漢字音」と題して、下記のごとく指摘する。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によって得られた諸法則が、原理的にはほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかとなった。」
 だから、『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名に用いられる夏音文字の字音は、現存する最古の漢字音となる。
 夏音文字は、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて多数記載されている。
 『隋書』倭国伝にも、「阿毎(アメ)」、「多利思比孤(タリシヒコ)」、「阿輩鶏弥(オホキミ?)」、「利歌弥多弗利(ワカミトホリ?)」などの夏音文字が記載されている。したがって、上記した『隋書』倭国伝の「文字無し」から「尤も巫覡を信ず」までの文中における最初の「文字無し。唯刻木・結縄のみ」という文は「隋で用いられた最新の漢字である楷書は無い。しかし、五帝時代の刻木と三皇時代の結縄ならば有る」と解釈しなければならない。
 現代の学者たちは『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)の冒頭34字の文を読んで「紀元前21世紀の後期縄文時代初頭、中国から夏代初頭の夏音文字がわが国に伝来して習得した」と説明していることを理解することができない。このため、学者たちは「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀または6世紀であった」と思い込むゆえ、夏音文字が記載されている『隋書』倭国伝にある上記した「文字無し」から「尤も巫覡を信ず」までの記事を正確に理解できず誤読する。
 このため、「文字無し」から「尤も巫覡を信ず」までの記事は聖徳太子が天皇になれなかった原因を説明していることに――学者たちはまったく気づかない。

◆今から約4000年前にわが国が夏音文字の学識を習得した後期縄文時代初頭以後、巫女と覡たちは【(1)卜筮()の記号に用いられた三皇時代の結縄と、(2)倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と五帝時代に作られた刻木(書契)と、(3)夏音文字の学識】にもとづいて、吉凶を占っていたことになる。
 だから、卑弥呼が国家(倭国)を創設し王朝を樹立した2世紀末~3世紀半ばの倭国における卜占の様子を、『魏志倭人伝』は「その俗、挙事行来云為する所有れば、すなわち骨を灼()きて卜し、もって吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。その辞は令亀(れいき)の法の如(ごと)し」と伝えている。
 上記の記事が示すように、『魏志倭人伝』は「行事をおこなう時・遠くの地に旅して故郷に戻ってくる時・また云為(うんい=雲為)つまり雨乞い祈祷する時に、巫覡たちは骨を灼いて吉凶を占った。(中略)。その易卜に用いる辞(文字の形)は令亀の法、つまり殷代(いんだい)後半の亀の甲羅に文字を刻む甲骨文字のごとくの字形であった」と記述している。
 このブログの2回にて指摘したように――倭国の原初漢字・夏音文字は漢字を発明した倉頡が定めた【死刑と定めた3つの掟】を厳重にまもったため、結縄・刻木・夏音文字を書いた資料が出土しない。つまり、【倉頡が死刑と定めた3つの掟】は、下記のごとくである。

(1)
 漢字は銀河(天文学における通称「夏の銀河」)から作られた秘密を暴露した者とその一族全員
(2)
 文字を容易に習得するため、文字となる「夏の銀河」(文字作成銀河)各部に名称を付けた者とその一族全員
(3)
 書いた文字は用済みになったならば、文字を直(ただ)ちに消さない者または消し忘れた者とその一族全員

 倉頡が定めた(3)の掟は、甲骨文字によって破られた。しかし、甲骨文字は(1)(2)の掟を厳重にまもったため、現代の学者たちは【すべての漢字は銀河(夏の銀河)から作られた事実】に気づかない。その証拠に、中国でもわが国でも「漢字」というのは「銀漢(銀河)から作られた文字」を略して「漢字」と呼称することになった――この語源の秘密について、現代の学者たちは知っていない。
 甲骨文字以後の漢字は(3)の掟を破っても良いことになった。これゆえ、『魏志倭人伝』・『古事記』上巻・『隋書』倭国伝・『万葉集』等では、夏音文字は楷書で表記されることになった。
 紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝につかえた倉頡は、みずからが発明した漢字の学識が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が漢字(文字)の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡すると心配し、倉頡は上に記した【死刑と定めた3つの掟】を破った人物はもちろん、この大罪を破った人物の一族全員まで及び厳しく神罰が下されて死刑にすると定めたのである。
 したがって、わが国において国家と王朝(朝廷)が充実して次第に強化されると、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】に精通した巫覡は国家体制になかに組み入れられるようになり、【銀河文字の学識】つまり【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】は国家と朝廷が独占管理して機密を厳重に保持されることになった。

◆だから、32代崇峻(すしゅん)天皇・33代推古(すい)天皇王朝にあっては、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】に精通した巫覡たちは、朝廷が擁護していたことになる。
 594(推古天皇2)、推古天皇は聖徳太子と蘇我馬子に「三宝(さんぼう)を興隆せよ」と詔(しょう)し、積極的な仏教崇拝政策の方向を示した。この崇仏(すうぶつ)政策を推進するにあたって、摂政の聖徳太子は隋の崇仏政策を取り入れて最新漢字の楷書の学問を普及(ふきゅう)するためには、文字として未発達な【銀河文字】つまり【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字】に精通した巫女と覡たちは必要がないと考えた。だから、太子は、国家と朝廷が巫女と覡を擁護する制度を廃止しようとした。
 それゆえ、太子に排除された巫覡たちは大臣の蘇我馬子に擁護を頼ることになった。巫覡たちは太子に一矢(いっし)を報いるため、仏教の経典に用いられる隋の最新の楷書を解読した。
 多分、太子は仏経に用いられた隋の最新の楷書は、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】を有する皇族と貴族たちにでも解読できると予想していたにちがいない。
 しかし、仏経に用いられる最新漢字の楷書の解読は【銀河文字の学識】を有する皇族や貴族たちに成し遂げられない難事業であった。このため、蘇我大臣家に擁護される巫覡による仏経に用いられる最新の楷書の解読は、皇族と貴族たちが絶賛する偉業となった。
 太子の巫覡を排除する方針は一気に朝廷の権勢を弱体化させ、巫覡を擁護した蘇我大臣家が棚(たな)からぼた餅ということで幸運にめぐまれて朝廷を脅かす権勢を得て盛んとなった。
 だから、皇族と貴族はじめ世間(世論)は仏経に用いられる楷書を解読した巫覡を尤(もっと)も信頼し、蘇我家の権勢がにわかに盛んとなり横暴になった状況を嘆き、太子を虚仮(こけ)にして、太子が強行した巫覡の排除は思慮に欠ける大失敗であったゆえ「無理が通れば、道理が引っ込む」と酷評したのである。
 その証拠に、「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」の銘文に、聖徳太子は妃の橘太郎女(たちばなのおおいらつめ)に「世間は虚仮にして、唯仏のみ真なり」と語ったと記されている。太子みずからが「世間に虚仮にされた」と語っているとおり、「仏教のみが真実である。旧来の【銀河文字の学識】は時代遅れと定めてきっぱりと廃し、これからは隋の最新楷書を出発点とする学術革命がなされらければならない」と自画自賛する太子の巫覡排除政策を世間は「実に、愚劣!」と酷評したが原因で、聖徳太子は天皇になれなかったのである。
 〔注 上記の「虚仮(こけ)」は仏教用語である。[]は「虚妄・虚偽」を意味し、[]は「【真実】に対して実体のないこと」を意味した。ゆえに、太子のことば「世間は虚仮にして、唯(ただ)仏のみ是()れ真なり」は「世間が賞賛する巫覡たち仏経からの楷書解読はウソで実体のない空(むな)しいものだ。ただ仏の教えだけが真実である」と訳すべきことになるかもしれない。しかし、「世間は虚仮にして、唯仏のみ是れ真なり」という太子の言における「虚仮」には文脈からして今日の同じく「馬鹿にする。愚弄する。ナンセンス・空理空論と軽蔑する」と意味したにちがいないと考えられる。〕

620(推古天皇28)に歴史書が編纂(へんさん)された。『日本書紀』によればその史書の名は「天皇紀」、「国記」、「臣連伴造国造百八十部幷公民(おみむらじとものみやつこくにのみやつこももあまりやそとものおならびにおおみたから)等本記」である。これらの史書は、後に成立した『古事記』と『日本書紀』の典拠資料となった。「天皇記」には歴代天皇の系譜・事績などが記述され、「国記」は『古事記』上巻(日本神話)の典拠資料となり、「臣連伴造国造百八十部幷公民等本記」は天皇支配下の諸豪族や下級官人・地方官人をふくめた官人全般の歴史を記したものであったであろう。
 「天皇記」と「国記」は、645(皇極天皇4)の蘇我氏打倒の乙巳(おつし)の変の際、蘇我蝦夷(そがえみし)の邸宅で焼失した。蘇我蝦夷らは殺される前に、すべての「天皇記」・「国記」そして珍宝を焼いた。したがって、国家と朝廷が厳重に所蔵して保管しなければならない「天皇記」と「国記」は、聖徳太子の巫覡排除政策の失敗によって蘇我大臣家に擁護された巫覡たちによって編纂されたゆえ、蘇我家で所蔵されていたのである。
 だから、聖徳太子は仏教の興隆政策の際に巫覡らを排除しようとした方針は天皇になれない大失敗、失政であった――これは確実なことであったことになる。
 
 『日本書紀』における推古天皇十五年(607)に「小野妹子(おののいもこ)を大唐()に遣わす」という記事は、『隋書』倭国伝では「大業三年(607)、その王の多利思比弧(たりしひこ)が、使を遣わして朝貢(ちょうこう)す。使者いわく『聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。ゆえに遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門(しゃもん)数十人、来て仏法を学ぶ』と」と記述された。
 そして、上記の記事に続けて『隋書』倭国伝は「その国書にいわく『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致(いた)す。恙(つつが)なきや、云々』と。帝、これを覧()て悦(よろこ)ばず、鴻臚卿(こうろけい/中国の外相)にいっていわく『蛮夷の書、無礼なる者あり、復()た以聞(いぶん)するなかれ』と」と記述する。
 帝つまり隋の煬帝(ようだい)が鴻臚卿(外相)に「野蛮な東夷の倭国の書は、無礼なところがある。ふたたび以聞(上表)するようなことは無いようにしろ」と怒った、その倭の国書の「日出ずるところの天子が、書を日没する処の天子に致す、恙はないか。云々」という文は、聖徳太子が書いた。
 煬帝は暴君であったが若いときには学問を好んで研究に励んだ。ゆえに、煬帝は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法や五帝時代に用いられた書契(刻木)の学問知識】を有していた。だから、『隋書』倭国伝に「文字無し。唯刻木結縄のみ、云々」と記述されたことからして、倭国には【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法や五帝時代に用いられた書契(刻木)の学問知識】があると察知し、また「煬帝」を「海西の菩薩天子」と表現したゆえ、倭の国書の「書を日没する処の天子」と記した[]の字には「生命が終える」という仏教で用いる語の意味がなく、【銀河文字の学識】にもとづいて[]の字源・原形(銀河各部の形状)・原義に則って「日が地平線の下に潜(もぐ)っても、とてつもなく強大な力で、朝になれば日が地平線上に昇って命が蘇(よみがえ)る」と解釈しなければならないことに気づいた。
 ゆえに、煬帝は倭の国書を誤訳して憤激した過ちを反省して、翌年(大業四年、推古天皇十六年・608)に、文林郎(ぶんりんろう)の裴清(はいせい/裴世清)を倭国に派遣している。
 そして、隋王朝は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法】に則(のっと)って新しい漢字・楷書を作成するものであった。
 ゆえに、暴君の煬帝さえもその秘密の重大性に気づいて恥じていさぎよく自らの過ち(誤解)を改めて裴清を派遣した。にもかかわらず、聖徳太子は朝廷の権勢を盛大にする原動力【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】つまり【銀河各部の形状を字源・字形・字義とする銀河文字の学識】に最も精通する巫覡たちを排斥した施策(しさく)は政事(まつりごと)の絶対法則・基本原理を疎(おろそ)かにした最悪の愚策であると世論に酷評された。
 だから、聖徳太子は天皇にはなれなかったのである。

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2020年12月13日 (日)

フェイク&まぼろし邪馬台国・6

▼じつに、聖徳太子はマヌケだった
だから、聖徳太子は天皇になれなかった
頭脳がとびぬけて優秀で、現在の学者たちが〈日本古代史上最高の政治家だった〉と称賛し、当時の皇族のなかで群をぬく経済力を有した聖徳太子は、朝廷の権勢を一気に衰退させる政策をおこなった。この大失策が原因となって、太子は多くの人々に虚仮(こけ)にされ侮蔑(ぶべつ)されて天皇になれなかった

★「倭人国の地理学」のトリセツ・2

◆このブログ〔フェイク&まぼろしの邪馬台国〕1回~3回までで詳細に解明し、また3回で『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)の冒頭34字の文を詳細に現代語訳して証明したように――わが国に紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭に【原初漢字・夏音文字】が伝来していた。この【夏音文字の学芸の習得】によって、【紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝(こうてい)につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理と作成方法】をも習得することとなった。
 これゆえ、わが国には【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】が存在し、朝廷の強大な政権基盤となった。
 この世界的にも最高級に重大な学術遺産【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字】に対する聖徳太子の政策は、実にマヌケで思慮が足りなかった。要するに、太子の【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】に対する処置は天皇の権力を一気に衰退させた。だから、推古天皇の摂政(せっしょう)の聖徳太子は多くの人々に虚仮(こけ)にされ侮蔑されて、33代推古天皇の後を継ぐ34代天皇になれなかった。
 当時、朝廷につかえるすべての人々は――【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学問】によって、朝廷の権力と莫大な富はささえられている―と認識していた。この認識は当時において至極当然(しごくとうぜん)(もっと)もなことであったゆえ、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】に対する軽率(けいそつ)・杜撰(ずさん)な太子の政策は、多くの人々に「そりゃ天皇の権力がにわかに衰退するのは当然だ! なんとマヌケで・虚仮(こけ)なことよ!」と批判されることになったのである。

◆聖徳太子は573年に生まれ621年に没した。
 太子がおこなった【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識に精通する巫女(みこ)と覡(げき/神官)】に対する軽率な政策は、多くの人々に「無理を押し通して道理が引っ込む」と評されて蔑視(べっし)された。
 だから、聖徳太子の失政を注目すると、「わが国には確かに【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学問】は存在した」と確信できる。したがって、「わが国が最初に漢字習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は、学者たちが『魏志倭人伝』・『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)・そして『隋書』倭国伝やのの他の多数の古文献の記事を誤読・歪曲(わいきょく)してデッチあげた空理空論・真っ赤なウソであったことになる。

◆聖徳太子が天皇になれなかった原因を、『隋書』倭国伝は次のごとく記述する。
 「文字無し。唯(ただ)刻木(こくぼく)結縄(けつじょう)のみ。仏法を敬う。百済(くだら)において仏経を求得(きゅうとく)し、始めて文字有り。卜筮(ぼくぜい)を知り、尤(もっと)も巫覡(ふげき)を信ず。」

 学者たちは『魏志倭人伝』が約1100字と『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)に記述された「わが国は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】を習得した」という説明を読解することができない。だから、学者たちは「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」と主張する。

学者たちは「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」と思い込んでいるゆえ、上記した文中にある「唯刻木結縄」の5字を「唯(ただ)木を刻み縄を結ぶのみ」と読んで、「わが国には文字(漢字)は無く、木を刻みまた縄を結ぶ方法のみが有った」と誤読する。
 わが国は紀元前21世紀の後期縄文時代初頭に【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字】を習得したため、正しい読み方は「唯(ただ)刻木(こくぼく)と結縄(けつじょう)のみ」ということになる。このように読めば――「わが国は(夏音文字を習得したとき)、五帝時代初頭に生存した倉頡が発明した刻木(中国では「書契」と称する)と三皇時代の易に用いられた記号の結縄をも習得した」と解釈することができる。したがって、「唯(ただ)刻木と結縄のみ」と読まなければならいことになる。
 というのも、倉頡が創った文字は中国では「書契(しょけい)」と呼ばれ、「書契」は「木に文字を刻むこと」を意味すると伝えられていたからである。ゆえに、わが国では「木に文字を刻むこと」を略して「刻木」と称したことになる。したがって、「五帝時代の原初漢字は書契と名づけられ、三皇時代の易に用いる記号は結縄と名づけられた」ゆえ、『隋書』倭国伝にある「唯刻木結縄」は「倭国には、倉頡が創った刻木(書契)と三皇時代に作られた結縄が存在した」と解釈して「唯刻木と結縄のみ」と読むべきことになる。
 したがって、三皇時代の結縄と倉頡が創った刻木(書契)と夏代初頭の夏音文字を習得していた巫女(みこ)と覡(げき/神官)たちは朝鮮半島の百済から輸入した仏教の経典に用いられた極めて難解な字義と字画が多くて難解な楷書のことごとくを解読した。ゆえに仏経の楷書解読事業を成し遂げた巫女と覡たちは多くの人々に絶賛されて、倭国においても最も(尤も)信頼されることになり、聖徳太子よりも尊敬されることになった。

◆人々は「仏教興隆し、学を滅べば、国家と朝廷は倒壊する」と太子を痛烈に批判したのである。もちろん上記した文中の「学」は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】を意味した。
 【国家と朝廷の土台・屋台骨となった学識】つまり【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字】が反体制側に習得されて、革命に利用されると国家と天皇政治は容易に崩壊する可能性は大であった。だから、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】に精通する巫覡を体制のなかに組み入れ、その学問は皇室が独占管理して厳重に機密にしていた。
 それにもかかわらず、太子は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識に精通する巫覡たち】はこれからの仏教を崇拝する朝廷には「不要であり、邪魔になる」と考え、彼らを排除する政策を推し進めた。この太子の巫覡排除対策を、人々は「無理(仏教)が通れば道理が引っ込む! 軽率にもほどがある」と貶(けな)したのである。
 
◆上記したように、『隋書』倭国伝に「百済において仏経を求得し、始めて文字有り。卜筮を知り、尤も巫覡を信ず」と記述された文中に登場する「始めて文字有り」という文は「わが国は――始めて隋にて用いていた最新の漢字・楷書を有することになった」と意味するものであったことになる。
 したがって、わが国は紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭においてわが国は【倉頡が創った五帝時代に用いられた刻木(中国では「書契」という)と夏音文字】を習得していたことになる。この【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】に精通していた巫覡が、仏教の経典に記されていた隋王朝が開発した最新の楷書を解読した。
 以上からして、上記した『隋書』倭国伝に登場する「文字無し」に続く文を学者たちのごとく「唯(ただ)木を刻み縄を結ぶのみ」と読んで「わが国には、唯、木を刻み縄を結ぶ方法だけしかなく、文字はなかった」という解釈は誤訳であったことになる。
 正しくは「文字無し。唯、刻木・結縄のみ」と読み、「わが国には仏教の経典に記されていた隋にて用いられていた最新の楷書は無かった。唯、わが国には五帝時代に用いられて原初漢字の刻木(書契)と三皇時代の易に用いられていた記号の結縄のみが存在した」と解釈しなければならなかったことになる。

▼楷書は、隋代に完成したとされる。
 この隋代に完成した最新漢字の楷書は倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】に則(のっと)って創られた。だから、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】に精通する巫覡たちは、朝鮮半島の百済から輸入した仏教の経典に用いられていた当時(隋代)の最新漢字の楷書を解読することができた。
 2世紀末から3世紀半ばまでの倭国の様子を記述した『魏志倭人伝』には「倭国の卜筮に用いる辞(文字とことば)は令亀(れいき)の法の如く」と説明する文があり、この文中にある「令亀の法の如く」という一節は「殷代(いんだい)後半の亀の甲羅に文字を刻む甲骨文字と同じく銀河各部の形をリアルに表現する方法の絵文字(象形文字)の如き」と意味した。
 この「令亀の法の如く」という文字は「倉頡が創った刻木(書契)と夏音文字」であった。この原初漢字の刻木と夏音文字は、わがブログ「フェイク&まぼろしの邪馬台国」の2回で説明した【王朝が容易に滅亡しないために、倉頡が死刑と定めた3つの掟】を厳重に守って、「書いた文字は用済みになったならば、文字を直(ただ)ちに消さない者または消し忘れた者とその一族全員、神罰が下されて死刑にする」と定められていた。だから、巫覡たちが卜筮に用いた刻木と夏音文字の字形を記す資料は出土しないことになった。
 『隋書』倭国伝には倭王・推古天皇と聖徳太子について「開皇二十年(隋の高祖文帝の年号、推古天皇六年・600)、倭王あり、姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩鶏弥(おおきみ?)と号す。(中略)。太子は利歌弥多弗利(わかみとほり?)となす」と説明する記事がある。この記事に登場する「阿毎」・「多利思比孤」・「阿輩鶏弥」・「利歌弥多弗利」は楷書で表記された夏音文字であったことになる。
 推古王朝は【夏音文字と倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法の学識】によって天下を治めて栄えていたことになる。

 聖徳太子が生存した6世紀末~7世紀前半、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と倉頡が創った刻木、そして夏音文字の学識】は、要する【王朝をささえる土台・屋台骨となった学問】であった。この【王朝をささえた土台・屋台骨と学問】は、朝廷が強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であった。ゆえに、上記したとおり――【王朝をささえた倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と倉頡が創った刻木、そして夏音文字の学識】をもしも反体制側の人々が習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡する。
 だから、3世紀後半の天照大神(10代崇神天皇と生母)の大和王朝以来33代推古天皇王朝まで、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と倉頡が創った刻木、そして夏音文字の学識】に精通する巫女と覡(神官)たちを王朝体制のなかに組み入れ、巫覡たちが有する知識(学問)を王朝と国家が独占管理して厳重に機密を保持していた。
 聖徳太子は、【刻木と夏音文字の学識】を有する皇族と貴族たちによって仏教の経典に用いられる隋の楷書の解読をおこなって仏教の興隆を達成しようと計画したにちがいない。これゆえ、聖徳太子は【刻木と夏音文字の学識】を有する巫覡たちは不要になると考えて、朝廷と国家が巫覡を擁護(ようご)する制度を廃止しようとした。
 聖徳太子に排斥(はいせき)された巫覡たちは、大臣(おおおみ)の蘇我馬子に擁護を願って頼った。594(推古天皇2)に、推古天皇は聖徳太子と蘇我馬子に仏教興隆政策を命じている。だから、蘇我馬子に擁護された巫覡たちは聖徳太子に一矢(いっし)を報(むく)いて報復するために、百済から輸入した仏教の経典に用いられる最新漢字の楷書の解読に挑戦して成功した。
 巫覡たちが成し遂げた仏経に用いられる最新漢字・楷書の解読事業は【刻木と夏音文字の学問知識】を有する皇族や貴族たちでは仏教の経典に用いられる全楷書の解読は成し遂げられない至難の事業であったのである。
 だから、排斥された巫覡を擁護した蘇我大臣家の権勢はにわかにさかんとなり、朝廷の権勢は目に見えて衰退したため、人々は巫覡擁護廃止政策は大失敗と評して太子を虚仮(こけ)にし、こき下ろしたのである。

◆『隋書』倭国伝は「尤(もっと)も巫覡を信ず」と記述する。
 この「尤も巫覡を信ず」の【尤も】という語について、新村出編『広辞苑』(岩波新書発行)は【もっとも()】は「道理にかなうこと。道理至極なこと」、【もっとも(最も・尤も)】は「第一にすぐれて。極めて」と意味すると解説する。
 これゆえ、『隋書』倭国伝の「尤も巫覡を信ず」という文は「仏教の経典に用いられた最新漢字・楷書を解読した巫覡たちは聖徳太子よりも最も信じられて尊敬された」と意味したことになる。また「聖徳太子は朝廷と国家が擁護するが尤も至極当然であった巫覡たちを排斥したため、推古天皇王朝は一気に衰退したのに対して巫覡たちを擁護した蘇我家が強大な権力を手中に入れることになって、聖徳太子の仏教興隆政策は大失敗した」と意味したことになる。
 このように、〔聖徳太子がおこなった巫覡擁護廃止の方針〕は〔王朝を一気に衰退させる大失敗〕となったゆえ、聖徳太子は多くの人々によって軽蔑され虚仮(こけ)にされた。
 その証拠に、「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」の銘文(めいぶん)には、聖徳太子が妃の橘太郎女(たちばなのおおいらつめ)に「世間は虚仮にして、唯仏のみ是れ真なり」と語ったと記されている。だから、太子がみずから「世間に虚仮にされた」と語っているように、太子が世間に虚仮にされた原因は【倉頡が発明した漢字作成原・作成方法と夏音文字の学識に精通した巫覡排除政策】であったことになる。
 太子は「世間は巫覡の排斥は王朝を衰退させた失政であると虚仮にして侮蔑するが、唯仏教の興隆こそ是(これ)真の政策にして道理なり」と太子は自らの失敗を弁護して、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学問知識】は【仏教】よりも劣ると主張した。
 しかし、巫覡を擁護した蘇我大臣家の権勢は思いがけばない幸運に恵まれてにわかに盛んとなって朝廷を脅(おびや)かすことになったと――世間の人々は太子を虚仮にしたため、太子は天皇になれなかったのである。
 このような経緯からして、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀または6世紀である」という定説は空理空論であったことは確実となる。
 わが国は紀元前21世紀に【倉頡が発明した漢字作成原・作成方法と夏音文字】を習得した――これが、わが国における最初の漢字習得の歴史であったことになる。 

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2020年12月 7日 (月)

フェイク&まぼろし邪馬台国・5

▼前回までのサブタイトルは〔「古代史の謎」のトリセツ〕と定めていたが、今回からは〔「倭人国の地理学のトリセツ」〕とする。というのも、今回から吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向(まきむく)遺跡邪馬台国説は空理空論・学説の体(てい)をなさないデタラメ・「日本」を抹殺する暴論であることを本格的に証明することにしたからである

吉野ケ里遺跡の北側は「玄界灘」である。前回のブログでは「玄界灘」という名称に注目すれば、わずか10分で吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説は空理空論・デタラメであることが事実・決定的となることを解説した。だから、両説は日本人の知性・理性への冒涜(ぼうとく)であり、両説のために日本古代史における最も大切な真実が失われる!
 こんな低劣なきわまりない・直ぐにウソがばれる空事(そらごと)に〔虚偽の報道を絶対にしてはならない使命・責任〕を放棄してNHKテレビ・朝日新聞はじめメディアがお先棒をかついで率先的に日本国民をまどわしている。このような邪馬台国説学者たちとメディアの所業はあまりにも無責任であり、先人たちが残した『魏志倭人伝』の史料つまり【倭人国の地理学資料が示す高度な学術】と比較すると、今日の邪馬台国説は悲しくなるほど稚拙(ちせつ)すぎることが判明するゆえ「日本滅亡の大罪を犯している」といわざるをえない


★「倭人国の地理学」のトリセツ・1

◆前回のブログで明らかにしたように、『魏志倭人伝』冒頭にある11字からなる「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」という文を注目すれば、邪馬台国説は『魏志倭人伝』の全記事とまったく合致しない空理空論・デタラメであることが証明される。
 というのも、邪馬台国説は現代の日本地図を用いて立論するからである。したがって、邪馬台国説をとなえる学者たちは「倭女王卑弥呼と王朝をささえた面々は、現在と同じく天の北極がある方向を〔北〕と定める地理方位観を有していた」と断定していることになる。
 しかし、卑弥呼と王朝を支えた面々は【[]のキャッチ=天頂緯度線の測定を基軸とする学問体系】にもとづいて日本列島地理を制定した。卑弥呼王朝が有していた【[]のキャッチを基軸とする科学(学問)】だと、日本列島の〔東方〕は〔南方〕へと伸びていると考えるべきことになった。ゆえに、『魏志倭人伝』に記された全19ヵ所の方位記事に1ヵ所も【誤読・曲読・歪曲】などを加えないと、現在の日本地図と異なり、日本列島の東方は南方に伸びる転回日本列島地理となる。幾人の学者たちは――『魏志倭人伝』の全方位記事を1ヵ所も改めずに解釈すると、明(みん)の建文(けんぶん)4(1402)に朝鮮で作られた「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)」に描かれた日本地図と同じく、日本列島の東方は南方へと伸びる――と指摘する。
 だから、『魏志倭人伝』は「天の北極がある方向を〔北〕と定める現在の日本地図と相違して、卑弥呼王朝は【[]のキャッチを基軸とする科学】にもとづいて日本列島の東方は南方へ伸びる転回日本列島地理を制定していた」と事実を説明していたことになる。

◆前回のブログで証明したように、『魏志倭人伝』冒頭の11字からなる文「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」、この大海の一画となる玄界灘を、邪馬台国説の論法だと――【天の北極を最も重視して、天の北極を目印にして緯度測量する方法】で国交を結ぶ倭国と魏・帯方郡政庁の使節は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」の大海の一画となる玄界灘を往来したため、全員が玄界灘の藻屑(もくず)となって命を落としたことになる。
 中国大陸・朝鮮半島との海上交通の要路となった玄界灘は、天の北極の高度を緯度に換算する方法では往来できない海であった。「玄界灘」という3字の漢字が明確に示すように、「玄界灘」という名は「[]をキャッチする=天頂緯度線を測定する方法で往来しなければならない、陸地に遠く離れる境界内となる灘(波の荒い海)」を意味した。
 命を落とさずに玄界灘を往来できた[]をキャッチする方法は、原始のときからヒトが命をまもるために本能としてそなえられた能力であり・習慣であった。
 上記したように、邪馬台国説のごとく天の北極がある方向を〔北〕と定める・天の北極を最も重視する現在の日本地図を立論基盤にすると――天の北極の高度を緯度に換算する方法で玄界灘に入った倭国と魏・帯方郡の使節は玄界灘にて命を落とした。だから、倭と魏は国交を結ぶことができないがために、中国では倭国の様子をまったく知ることができなかった。したがって、『魏志倭人伝』には文字が1字も書かれていなかったことになる。
 このように、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていなかったことになる邪馬台国説はただちに空理空論であると断定できる。
 上記したように『魏志倭人伝』冒頭の11字の記事によって、邪馬台国説は約2000字からなる『魏志倭人伝』と1ヵ所も合致しないデタラメ、日本学問史における最大最悪の空理空論であったと断定できる。

◆玄界灘を往来するときは、1度=60分の60分の1となる、1分以内の誤差を測定できる原始の時から人類が受け継いだ能力(眼力・本能)を有していないと命を失った。
 天の北極が地平線(水平線)からの高度が緯度となる。つまり、天の北極の高度が3536分の陸地・海・砂漠の緯度は北緯3536分となる。
 天の北極は、黄道(こうどう)の中心として25,800年で一周する。この〔円周上(大円)における位置〕が〔各時代の天の北極の位置〕となる。すべての時代において、〔天の北極〕と重なる「北極星」は存在しない。だから、すべての時代において〔天の北極〕は暗黒の闇であったゆえ、ヒトが1分の精度で緯度を精確に測量できる北極星は存在しない。
 〔天の北極に最も近づく北極星〕は、紀元前2790年頃の「りゅう座α星」と、現在から約80年後の21世紀末の「こぐま座α星」である。この「二つの北極星」は〔天の北極から約45(0.75)離れているゆえ、天の北極を中心にして直径約90(1.5)の距離で円を描く。人間の目と本能には90分ほどの距離(直径)で〔天の北極〕を中心にして円を描く「北極星」を測量して〔天の北極の高度を90分の11分以内の誤差〕で精確に測量できる能力はそなわっていなかった。
 卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の「北極星・こぐま座β星」は〔天の北極〕を中心にして半径約10度・直径約1200(20)の円を描いていた。「約1200分の円を描く北極星(こぐま座β星)」で〔天の北極の高度〕を精確に約120011分以内の誤差で測定できる能力を人間は有していない。
 したがって、卑弥呼時代、「北極星」をキャッチして〔天の北極の高度〕を緯度に換算する方法で玄界灘に入ると必ず〈いのち()〉を失った。
 だから、「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」という冒頭記事から始まる『魏志倭人伝』では、吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説は〔天の北極がある方向を〈北〉と定める現在の日本地図〕を立論基盤にした、この最初の時点から一気に空理空論、デタラメ、完全なる絵空事となる。

◆『魏志倭人伝』は最初に研究する時から〔精確に1分以内の誤差で緯度が測定できる方法の、原始のときから人類が〈いのち〉をまもってきた[]のキャッチ、言いかえると天頂緯度線のキャッチ〕を立論基盤にして思考しなければならない文献であったのである。
 先人たちは「『魏志倭人伝』の研究する時は最初から[]の字源・字形・字義にもとづいて始めよ」と警告して、吉野ケ里遺跡北方の海の名を「玄界灘」と定めたのである。
 だから、『魏志倭人伝』の研究には現在の日本地図を立論基盤にすると一気に空理空論となり、真っ先に【精確な緯度測量方法・[]のキャッチ】を立論基盤にしなければならない。
 なぜならば、吉野ケ里遺跡北方の玄界灘・東水道・対馬・壱岐には、【[][][][]の字源・字形の原形・原義の学問】が集約されているからである。
 つまり、吉野ケ里遺跡北方の玄界灘・東水道・対馬・壱岐には、【倭人国が有していた倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理・漢字作成方法と夏音(かおん)文字における地理学体系】、要するに現在の邪馬台国説は悲しくなるほど稚拙(ちせつ)すぎることを明確に示す【倭人国の地理学】が集約されて残っている。〔注 【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字】について、「古代史の謎」の取説の13までを参照〕
 「いのち」をあらわす[][]の上部の[(しゅう)]という漢字は「原始のときから人類が天頂緯度線を1分以内の誤差で測定できた能力(眼力と本能)」と「天の神が〈人のいのち〉支配し・まもっている力」を表示する、漢字体系における基本字であったからである。
 []という漢字は「大海・砂漠に入った人や遠くの地に旅する人は、その道中において必ず天頂緯度線をキャッチすると欲を有すると道に迷って命を失って風雨にさらされる骸骨となったが、産道を通過するときの出産児のごとく無欲になれば天頂緯度線をキャッチすることができるという、要するに天頂緯度線を測量する時の心得」を示していた。

◆だから、これから幾度も分けて明らかにする【3世紀における倭人国の地理学】と比較すれば、現在・21世紀の吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説は学説の体(てい)をなしていない学説以前の戯言(たわごと)・空理空論あることが明白となる。

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2020年12月 3日 (木)

フェイク&まぼろし邪馬台国・4

▼この〔フェイク&まぼろし邪馬台国〕シリーズでは、【邪馬台国説と日本神話虚構説】を最も正論で最も合理的であると囃(はや)し立てて日本国民をダマす学者たちとメディアの不正・非理を徹底的に暴くことにした

★「古代史の謎」のトリセツ・4

3回までに解説したように――邪馬台国畿内説と九州説は【誤読】の産物・空理空論・真っ赤なウソである。

◆『魏志倭人伝』の冒頭は「倭人在帯方東南大海之中」の11字である。
 この11字の書き下し文は「倭人は、帯方(たいほう)の東南、大海の中に在り」である。この文中に登場する「帯方」は「現在の朝鮮半島のソウル付近にあった帯方郡」のことである。
 地図で調べると「帯方郡の東南」には【玄界灘】という名の大海が存在する。
 【玄界灘】は古くから中国大陸・朝鮮半島との海上交通の要路となった。現在においても風が吹き海(玄界灘)が荒れると小型船の遭難が多い。その証拠に、「玄界灘」の[]の字は三水偏()[]が加わるように、[]の字は「往来することが難(むず)しい海」と明確に示す。だから、小さな舟を漕いで往来した縄文時代、・弥生時代前半、そして魏都・帯方郡との国交を結ぶために玄界灘を往来した卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ばまで)の船、また遣隋使や遣唐使が玄界灘を往来した船は、風が吹いて玄界灘が荒れると遭難する可能性が大となる現在よりもはるかに危険な海であった。
 「玄界灘」という名称は「天の北極の高度を緯度に換算する方法で航海すると緯度が不正確に測量されるために命を落とすことになる。他方、[]いいかえると〔天頂緯度線〕をキャッチする方法で航海すると1度の60分の11分まで精確に測定できるゆえ、無事に往来できる波が荒い大海」と意味した。
 だから、「玄界灘」は「緯度が精確に測量できない天の北極は死神であるが、他方、原始から人類(ヒト)が命をまもることができる[]をキャッチする方法ならば往来できた大海」であったゆえ、「卑弥呼時代、魏都・帯方郡と倭国との国交は[]のキャッチ=天頂緯度線の測定をもって、玄界灘を往来しておこなわれた」と、現在に伝えていることになる。

 縄文人たちと弥生人たちはいくたの森林が浪うってつづく日本列島にあって、遠くの地へ旅して無事に家族が待つ家に帰還することができた――これは事実として証明されている。この事実は、遠くの地に住んでいた旧石器時代の人々が、大海中にある伊豆諸島の神津島(こうづしま)へ渡って帰還することができた事例によって証明されている。
 神津島は良質の黒曜石が産出した。黒曜石は火山活動によってできた「黒いガラス」とされ、上手に刃をつけると石槍や鏃(やじり)はもとより、皮はぎや肉切りようの石包丁(石器)として利用された。神津島の黒曜石は、関東地方、東海西部(愛知県、静岡県)、近江(滋賀県)、北陸地方(石川県能登半島)まで分布している。なんと神津島の黒曜石は約3万年の後期旧石器時代から使用されていたと証明され、縄文時代や卑弥呼が生存した3世紀まで本土に運ばれて利用されていた。神津島か伊豆半島までは30キロメートル以上も海で隔たれ、神津島から石川県能登半島までは直線距離で約400キロメートルもある。原始からヒトは頭脳のはたらきによって本能的に[]をキャッチして命をまもって生存していたゆえ、約3万年前の旧石器人たちには[]をキャッチする能力(頭脳のはたらき・眼力)を有していた。ゆえに、旧石器人と同様に縄文人も弥生人も、陸地が遠く離れる海を往来する時あるいは遠く離れる地所へ往復する時も[]をキャッチして、その旅の日々、[]をキャッチして道に迷って死ぬことをふせいで命をまもっていたことになる。

 だから、『魏志倭人伝』に登場する「大夫」と名乗った卑弥呼時代より古(いにしえ)に中国へ渡った人々と卑弥呼が帯方郡と魏都に派遣した使者もまた、[]をキャッチして玄界灘を往来していたことになる。彼らが天の北極を目印にして緯度を測量する方法で玄界灘に入ったならば、出発して間もなく緯度が不明となり死ぬことになったのである。

◆学者たちは、天の北極がある方向を〔北〕と定める日本地図を用いて邪馬台国説を主張する。この論法だと、上記したように、倭国の使節も魏国の使節も帯方郡の使節も玄界灘を往来することができなかったことになる。
 『魏志倭人伝』は計1983字に、5世紀に生存した裴松之(はいしょうし)が注とした56字を加えて合計2039字で構成される。
 邪馬台国説の【天の北極を〔北〕と定める日本地図】にもとづいて考える邪馬台国説の論法だと【倭国と魏王朝と帯方郡政庁は国交を結ぶことができなかった】ゆえ、中国は倭国の様子をまったく知ることができなかったことになる。だから、邪馬台国説の場合、約2000字で構成される『魏志倭人伝』には文字が1字も記されていなかったことになる。つまり、『魏志倭人伝』はこの世にまったく存在していなかったことになる。
 以上のごとく、邪馬台国説が成立する絶対法則にもとづくと、約2000字の『魏志倭人伝』には文字が1字も書かれていないことになり、この世に確かに存在する『魏志倭人伝』がこの世にまったく存在しなかったことになる。
 以上のごとく、邪馬台国説の実体は【合理】も【科学】もまったく成立しない非科学・デタラメ・空理空論・妄想であったことは明白である。
 邪馬台国説論者たちは【科学】をまったく無視するが、『魏志倭人伝』の冒頭の11字「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」という文は【倭国の使節と船乗りたちは玄界灘を[]のキャッチする方法をもって往来していた――この事実は『魏志倭人伝』を思考するときに【科学】が成立する絶対法則となる】と伝えていたことになる。
 だから、『魏志倭人伝』においては現在の日本地図を立論基盤することは絶対にできない。

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2020年12月 1日 (火)

フェイク&まぼろし邪馬台国・3

★「古代史の謎」の取説・3

▼わが国のメディアは、学者たちと彼らの口車に乗せられて邪馬台国説と「日本神話は虚構(きょこう/作り話)である」という、まったく非科学な空理空論・デタラメ・真っ赤なウソを日本国中にまき散らかして稼(かせ)ぎのネタにして――純朴に誠実に生きる日本国民を小馬鹿にして愚弄(ぐろう)している。
 このまま学者たちやメディアに馬鹿にされっぱなしでいるのは、はなはだ癪(しゃく)にさわるので、この〔フェイク&まぼろしの邪馬台国〕シリーズにて学界とメディアにはびこる・のさばる不正・非理を徹底的に暴(あば)き出すことにした。


◆現在のわが国の学者たちは【誤読】を【文献批判】という名称をつけて『魏志倭人伝』に多数の【誤読】を加え、また『古事記』上巻の序(「古事記上巻 幷せて序」)の記事を正確に忠実に読解することができず【誤読】を多用する。ゆえに、多数の【誤読】を用いて『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)の記事を立論して歪曲(わいきょく)・捏造(ねつぞう)した産物が邪馬台国説と日本神話虚構説である。
 早い話(はなし)、邪馬台国説と日本神話虚構説は【誤読の産物】である。

◆『魏志倭人伝』と『古事記』上巻には、【漢字の起源は中国では解明できず、日本で科学的に具体的に解明できる魔法】が記述されている。
 この魔法は、約2000字で構成される『魏志倭人伝』の主なる記事(55パーセント)の記事と、『古事記』上巻の序(「古事記上巻 幷わせて序」)のテーマとなる。
 『古事記』上巻の序、つまり「古事記上巻 幷(あわ)せて序」はその全体の記事を圧縮して、冒頭の34字の漢字からなる文章で【漢字の起源は中国では解明できず、日本で科学的に具体的に解明できる魔法】について説明する。言いかえると、「古事記上巻 幷せて序」冒頭の34字の文章は『古事記』上巻全体の記事における歴史解明方法を説明している。
 「古事記上巻 幷せて序」冒頭の34字の文章が伝える【漢字の起源は中国では解明できず、日本で科学的に具体的に解明できる事実】という魔法を知っていれば、多数の日本古代史における謎が容易に具体的に明確に正しく解明できる。
 この魔法を、現在の学者たちは知らない。だから、現在の学者たちは邪馬台国説と日本神話虚構説が【誤読の産物】、空理・空論・真っ赤なウソであることにまったく気づかない。

◆邪馬台国説を力説する学者たちは「『魏志倭人伝』は倭女王卑弥呼が居住した邪馬台国を解明するための史料である」と思い込んでいる。
 ところが、約2000字で構成される『魏志倭人伝』のどの1ヵ所にも「邪馬台国」という記述は存在しない。『魏志倭人伝』における主なる記事(55パーセント・約1100字の記事)の内容は――【わが国は紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭=中国の夏代(かだい)初頭において原初漢字の夏音(かおん)文字を習得した際に、その約950年前の紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝につかえた史官・倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理と作成方法】をも習得した――と説明するものであったのである。そして、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した王国名は邪馬壱(やまい)国であった」と記述する。したがって、「邪馬台国」なる名称や語は『魏志倭人伝』の全記事と1字も合致しない、虚妄(デタラメ)・真っ赤なウソであったのである。その証拠に、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰出雲地方(石見・出雲・伯耆)であった。また、卑弥呼の墓は現在の出雲大社の裏山(後円墳)と境内(前方墳)であった」と説明している。だから、邪馬台国畿内説と九州説は『魏志倭人伝』とまったく無関係の空理空論であったことになる。
 つまり、邪馬台国説学者たちの口車に乗って出版社・新聞社などのメディアが真実・真相を明らかにしなければならない使命・義務・責任をすっかり忘れて軽々しく騒ぎ立てる邪馬台国畿内説と九州説の実体は日本古代史における最大・最悪の空理空論・非科学説・妄想(もうそう)であったのである。

 前回の〔フェイク&まぼろしの邪馬台国〕にてあつかった――【2】『古事記』と『日本書紀』は、だれが、なぜ、どうして作成されることになったのか――この問題について現在の学者たちは解明できていない。この秘密については、「NHKテレビ・歴史秘話ヒストリアにダマされるな!」と題する、わがブログでも明らかにした。
 『古事記』と『日本書紀』つまり『記』『紀』は舎人皇子が指揮して編纂された。
 『記』『紀』はなぜ作られたかと言えば――大和朝廷の基礎を築いた10代崇神天皇と生母の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)は天照大神を祀っていたため「天照大神」という異称で呼ばれた(この記事は『日本書紀』巻第五の崇神天皇紀の〔疫病の流行〕の条にある)
 舎人皇子が生存した当時の律令国家体制は天皇の権力を絶対化するために、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学問(上古科学)】を政権基盤にして国家と朝廷の強化をはかった天照大神(10代崇神天皇と生母)を崇拝して皇祖と定めた。しかし、伊耶那美命(9代開化天皇の正妃の竹野比売・たかのひめ)と伊耶那岐命(9代開化天皇)の歴史は天照大神の聖性をいちじるしく汚すものであった。このため、時の律令体制は「伊耶那美命と伊耶那岐命の歴史を絶対に後世に伝えてはならない。この歴史は抹殺(まっさつ)、削除(さくじょ)せよ」と厳重に禁止した。しかし、伊耶那美命と伊耶那岐命を敬愛する皇族・貴族・豪族・万葉歌人たちは「真実は万代(よろづよ)に永遠であれ」と抵抗して、『記』『紀』に【伊耶那美命と伊耶那岐命の歴史】を記述して後世に伝えた。
 ゆえに、『記』『記』はどうして作成されたかと言えば――13歳で小国・日本の女王に就任した伊耶那美命が淤能碁呂島(おのごろしま)で伊耶那岐命と結婚した時に唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】と、小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)であった伊耶那岐命が【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継いで、倭女王・天照大御神(伊迦賀色許売命)を倭女王から失脚させて、大国の倭と小国の日本を併合して、春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)で居住して天下を治めた歴史を後世の人々に伝えるために作成されたのである。
 〔注 『古事記』上巻の開化天皇紀が記述しているように、9代開化天皇が居住した「伊耶河宮」の先頭2字は「伊耶那美命」と「伊耶那岐命」の先頭2字と合致する。だから、春日の伊耶河宮に居住した9代開化天皇は若き日に人民に「伊耶那岐命」と愛称されていた。開化天皇が居住した「春日の伊耶河宮」の「春日」は、「春日大社」の社名である。律令体制を推進する藤原不比等は【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】を抹殺するために、伊耶河宮の真西に藤原氏の氏神の常陸国鹿島の神武甕槌命(たけみかづちのみこと)を勧請(かんじょう)して、春日大社を創始した。ゆえに、【伊耶那美命と伊耶那岐命による、日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】を抹殺・消滅をはかって春日大社を起源させた藤原不比等は、多数の古代の多くの人々に嫌悪されて蔑視された。〕

 【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の習得によって、わが国に存在することになった上古の学術・科学知識】を伝える『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)冒頭の34字の書き下し文は下記のごとくなる。
 ただし、この「参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す」という文で終わる、書き下し文には振り仮名をつけていない。
 「臣安万侶言す。それ混元既に凝りて、気象未だ効れず。名も無く為も無し。誰かその形を知らむ。然れども乾坤初めて分かれて、参神造化の首を作す」
 上記の34字の漢字で構成される書き下し文を容易に理解できるように現代語に訳すると、次のごとくになる。
 「元明天皇におつかえします臣下の太安万侶(おおのやすまろ)が申し上げます。およそ太古において日本列島各地の天頂にめぐってきた銀漢の形は混沌(こんとん)としていましたが既(すで)に凝(かた)まっており、何かになりそうな気配(けはい)も象(かたち)も未だ明確ではなく何に相似するものとなるのか、その情(イメージ)はまったく見当がつきませんでした。このため、何と名づけようもなく、為(わざ/表現方法)も存在しませんでした。ゆえに、本書『古事記』を作ることになった現在、誰もその太古において日本列島各地の天頂にめぐってきた銀河の気と象についてどのような物に相似したかについては正確に知っていません。しかし、(紀元前4000年頃から始まる)前記縄文時代になって、天頂に乾坤(けんこん)すなわち天と地に分かれる銀漢(つまり、[]の字源となった「乾燥地帯の沙漠の夜空」のイメージとなる銀漢と、[]の字源となった「雷鳴轟いて土()に慈雨が降る」のイメージとなる銀漢)、つまり「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」と名づけられた芸術神の銀漢が日本列島の天頂にめぐってきた前期縄文時代に造化(芸術)革命が花開きました。この前期縄文と次の高御産巣日神(たかみむすひのかみ)が天頂にめぐってきた中期縄文とさらに次の神産巣日神(かむむすひのかみ)が天頂にめぐって後期縄文時代の首(はじめ/初頭)まで、つまり[]の字源・字形(漢字の原形)・原義となった「新生児の首(横顔)」に見立てられた銀漢も天頂にめぐってきた前期縄文・中期縄文・後期縄文初頭の参時代まで、夏に最も長時間見ることができる巨大な銀漢(天文学における通称「夏の銀河」)の各部の形状イメージを造形して神を表現する土器と土偶(どぐう)が作られました。そして参神造化の首(はじめ)つまりわが国の後期縄文時代初頭、中国より銀漢(夏の銀河)各部の形状から作る夏代(かだい)初頭の夏后(かこう)王朝で用いられた音文字の原初漢字が伝来しました。この原初漢字・夏音(かおん)文字は、参神造化(前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭)のおける約2千年間、銀漢(夏の銀河)各部の形状をモデルにして土器・土偶を造形した芸術の伝統を受け継いだ人々(芸術家たち)によって習得されました。」

 上記した「古事記上巻 幷わせて序」の冒頭34字からなる記事が伝えているように――【倉頡が漢字を発明して五帝時代の幾つかの書契(しょけい)と、夏代の夏音文字の二時代における原初漢字の字源・字形(漢字の原形)・原義】は【夏の銀河各部の形状】であり、五帝時代の書契の字音は不明となったものの、夏音文字の字音はわが国の国語として多数残ることになった。
 夏音文字の字音は(1)『魏志倭人伝』に記された「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む字音はじめ人名・小国名・官職名に用いられて残り、(2)『隋書』倭国伝においても――推古天皇の姓は「阿毎(アメ)」、字は「多利思比弧(タリシヒコ)阿輩鶏弥(アメキミ?)と号す」など、その他に聖徳太子についての夏音名(夏音文字の名)は「利歌弥多弗利(リカミタフリ?)」であった――と記されて残っている。(3)また『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて、夏音文字の字音は多数記載されて残っている。
 だから、わが国は夏音文字を習得していたことは【科学】が成立して絶対的事実となる。
 太安万侶は「古事記上巻 幷せて序」(『古事記』上巻の序)の末部で――姓に用いる楷書【日下(にちげ)】は夏音文字【玖沙訶(クサカ)】と同義、名に用いる楷書【帯(たい)】は夏音文字【多羅斯(タラシ)】と同義であるのは、「古事記上巻 幷せて」冒頭の34字で説明したとおり、楷書も夏音文字も共に銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られたからである。したがって、楷書と夏音文字の字源・字形・原義は共に銀漢各部の形状であるゆえ、いいかえると【銀漢各部の形状は真実の歴史を伝えることができる、真の文字】であった。だから、楷書と夏音文字の語は同義となるという仕組みを説明していたことになる。したがって、楷書と夏音文字の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換すれば真実の歴史を知ることができる――と、太安万侶は警告(けいこく)していたのである。
 現代の学者たちは【銀漢(夏の銀河)各部の形状は真実の歴史を伝える、真の漢字】であることを知らない。しかし、「銀漢から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と名称でよぶことになったのは【銀漢各部の形状は真実の歴史を伝える、真の漢字】であったからである。要するに、「古事記上巻 幷せて序」冒頭の34字と『魏志倭人伝』の約1100字は【銀漢各部の形状は真実の歴史を伝える、真の文字】と伝えていたことになる。

 上記した「古事記上巻 幷せて序」の冒頭34字の末尾「参神造化の首(はじめ)を作()す」という文に続く11字の文は、振り仮名をつけると、下記のごとくになる。
 「陰陽斯(ここ)に開けて、二霊群品(にれいぐんぴん)の祖(おや)と為()る」
 上記の文を直訳すると「陰の伊耶那美命と陽の伊耶那岐命が、わが国のすべての生みの親となる」と意味することになる。
 つまり、上記の文は「小国・日本の女王に就任した伊耶那美命は伊耶那岐命と結婚したとき、【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた。伊耶那美命は倭女王・壱与(いよ)に就任して間もなく没した。伊耶那美命の陵墓を作るとき、倭女王に就任した天照大神(崇神天皇の生母・伊迦賀色許売命)は、多数の奴婢(ぬひ)を殺して伊耶那美命陵に埋葬する残忍な徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮した。この徇葬は、八雷神(やくさのいかづちがみ)、つまり天に稲妻が光り鳴りとどろき慈雨が降って人民たちの胃袋を満たす五穀豊穣を祈願するための事であった。残酷な徇葬に怒った小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)の伊耶那岐命はクーデターを決行して、天照大神を倭女王から失脚させた。伊耶那岐命は開化天皇となって大国・倭と小国・日本を併合し、伊耶那美命が【日本建国の〔愛〕の理念】を継承して春日の伊耶河宮に居住して天下を治めた。この【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】が、『古事記』の作成目的である」と伝えていたのである。
 正史『日本書紀』は書名の「日本」が明示するように、その作成目的は『古事記』と同じく〔【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】を後世に伝える〕であった。しかし、『古事記』は反逆の歴史書であることを元明天皇に見抜かれて、献呈を承認されず正史になれなかった。ゆえに、『古事記』献呈の失敗に懲()りて、『日本書紀』は天照大神を皇祖と崇拝して天皇の権力を絶対化する律令体制を推進する朝廷に反逆する度合いを薄めて、元正天皇が献呈を許可して正史にすることを念頭として編纂された。このため、『日本書紀』は作成目的が叶えられない、失敗作品となった。『日本書紀』は作成目的の【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】が不鮮明・曖昧(あいまい)となった失敗作品であったゆえ、天照大神を皇祖と崇拝する朝廷にとっては好都合の書物であった。だから、『日本書紀』は正史となった。
 以上のごとく事情により、『古事記』と『日本書紀』は、舎人皇子が指揮して伊耶那美命崇拝派の面々が編集スタッフとなって作られた。
 『記』『紀』はなぜ、どうして作られたかと言えば――【伊耶那美命と伊耶那岐命による、日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】を後世に伝えるためであった。というのも、【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】は皇祖・天照大神を崇拝して天皇の権力を絶対化する律令体制が天照大神の聖性をいちじるしく汚すものであったため、律令体制は絶対に後世に伝えてならぬと抹殺・消滅をはかったからである。この政策に抵抗して、【伊耶那美命と伊耶那岐命による、日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】を後世に伝える、これが『記』『紀』の作成目的となった。
 というのも、上記したように――「古事記上巻 幷せて序」の11字の初頭記事「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」が示すように、舎人皇子はじめ伊耶那美命崇拝派の面々はわが国にとって伊耶那美命と伊耶那岐命の歴史は万歳(まんさい)・千葉(せんよう)・永久に消滅・失ってはならない歴史であると考えていたからである。
 このように『記』『紀』に上古史が記述されて残されたが、現在の学者たちは「『記』上巻の日本神話と『紀』神代紀の日本神話は――最高神の天照大神そして伊耶那美命と伊耶那岐命もまた、雲の上の天空に住むと誤読して虚構(作り話)である」と断定する。
 しかし、『記』『記』は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の科学(学問知識)】を用いて歴史を解明する仕組みになっていた。したがって、この学問=歴史解明方法にもとづくと、伊耶那美命と伊耶那岐命と徇葬を陣頭指揮した天照大神は雲上の天空に住まずに地上に住んでいたことになる。
 だから、現在の学者たちが立論する日本神話虚構説は多数の【誤読】を加えて捏造(ねつぞう)した、日本国民をダマす空理空論・真っ赤なウソであったのである。

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