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2020年12月19日 (土)

フェイク&まぼろしの邪馬台国・9

▼このブログは6回~8回までで、『隋書』倭国伝の記事となった聖徳太子が天皇になれなかった原因を詳細に解説した
 学者たちは、聖徳太子が天皇になれなかった失政を明記する『隋書』倭国伝にある「文字無し」から「尤(もっと)も巫覡(ふげき)を信ず」までの記事を、「倭国には文字が無かった」と解釈する。
 しかし、この記事は――【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】に精通した巫覡を太子が排除して崇仏政策を推進したため、にわかに蘇我大臣家の権勢が皇室よりも盛んとなった。ゆえに、世間は「太子は無能だ! 大王(天皇)になれる資格が無い」と虚仮(こけ)にし馬鹿にして切り捨てた――と伝えていたのである。

★「倭人国の地理学」のトリセツ・5

◆上記したように、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と学者たちが断定した定説は空理空論であり――わが国は、紀元前2070年頃~紀元前2050年頃に【原初漢字・夏音文字】を知得した。この時に【紀元前3000年頃に生存した倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】をも習得した。
 この【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の習得】については、【1】約2000字で構成される『魏志倭人伝』は約55パーセント・約1100字で説明する。【2】『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)の冒頭34字はじめ、「古事記上巻 幷せて序」の末部でも説明している。また、【3】上記した聖徳太子が天皇になれなかった原因を伝える「文字無し」かた「尤も巫覡を信ず」までの記事も説明している。さらに、【4】【紀元前2070年頃~紀元前2050年頃に、わが国は夏音文字を習得したという意見】は、わが国の中国古代漢字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)の「わが国の漢字音」における音韻学の成果による科学的な意見にも合致する。そして、【5】「銀河」の別称は「銀漢」であるから「銀漢から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と名づけたという意見にも【科学】が成立して合致する。

◆大和朝廷が起源して以来、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】を強大な権勢を維持するための岩盤学問であったが――崇仏政策を推進するために聖徳太子は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の習得】に精通した巫覡を国家と皇室が擁護する制度を廃止しようとした。しかし、この太子の方針を世間は「朝廷の権勢を一気に衰弱させる失政である。太子は無能だ! 太子は天皇になる資格は無い」と虚仮(こけ)にし馬鹿にして切り捨てた。

世間が虚仮にして痛烈に酷評した聖徳太子の【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の習得】を精通する巫覡の排除政策の失政によって、蘇我氏の権勢がにわかに盛んとなり推古天皇の権勢は一気に衰弱した。このため、推古天皇は後継者を定めることができず死去した。これによって、馬子の子で、ときの大臣蝦夷(えみし)の権勢はさらに盛んとなった。
 当時、天皇を継承する皇族に田村(たむら)皇子と山背大兄(やましろのおおえの)王の二人がいた。田村皇子は皇室の嫡流(ちゃくりゅう)であり、山背は聖徳太子の子であった。
 大臣蝦夷は、田村皇子を天皇に即位すると決めていた。
 蝦夷は自邸に有力豪族を招集して田村皇子と山背大兄王のどちらを天皇に選ぶかについて意向をたずね、全員の一致が得られないと知ると、反対派のおじ境部摩理勢(さかいべのまりせ)父子を武力で討ちとり反対派を沈黙させ、田村(たむら)皇子を629年に即位させた。
これが、33代推古天皇の後を継いだ34代舒明(じょめい)天皇である。
 蝦夷と子の入鹿(いるか)は舒明天皇を武力で威圧して見下し、皇后の宝(たから)皇女と入鹿はあたかも情を交わす仲のごとく卑劣な噂を立てて舒明天皇を悩ませた。また、壮大な馬子の墓の築造工事を開始して、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】に精通した巫覡たちを擁する蘇我大臣家の家督者こそが天皇に最もふさわしいと誇示した。飛鳥の島之荘(しまのしょう)に築造された全長18.7mのわが国における最大級の規模をもつ横穴式石室の巨石が露出する特別史跡・石舞台(いしぶたい)古墳は626(推古天皇34)に桃原(ももはら)に葬られた馬子の墓といわれる。
 横暴な蝦夷・入鹿父子に侮られる苦悩の日々を送った舒明天皇は、641年に崩御した。翌642年、蝦夷は舒明天皇の皇后の宝皇女を即位させた。これが、第35代皇極(こうぎょく)天皇である。
 643106日、蝦夷は大臣の位を子の入鹿(いるか)にゆずった。翌月111日、入鹿は兵をつかわせて山背大兄王一家を襲撃して皆殺しにした。このように、入鹿は父蝦夷以上に横暴であったゆえ、人々は彼を畏怖(いふ)した。また、入鹿は舒明天皇死後も依然として皇極天皇と情を結んでいるかのごとくふるまって権勢を大きく見せかけたにちがいなく、皇極女帝は屈辱と我慢の日々を送ることになったと推測される。

◆『万葉集』3番の長歌には「天皇、宇智(うち)の野に遊猟(みかり)する時に時に、中皇命(なかつすめらみこと)、間人連老(はしひとのむらじおゆ)に献(たてまつ)らしむる歌」という題詞がついている。この題詞に登場する「天皇」は「舒明天皇」である。ゆえに、3番の題詞は「舒明天皇、宇智の野で狩りをなされた時に、舒明天皇の御子息の中大兄(なかのおおえの)皇子が間人連老に献らした歌」であったことになる。
 『万葉集』4番は、3番の長歌の反歌(はんか)である。
 3番の長歌と4番の反歌は、その詠まれている内容からして「蝦夷・入鹿父子を憎悪して草深い宇智の野原(現在の奈良県五條市の野)で、お父上(舒明天皇)は馬に乗って朝狩りと夕狩りに励み、蘇我父子への怨み・憎悪をはらさんとして弓の稽古に明け暮れています」と、間人連老が中大兄皇子に報告した和歌であったことになる。
 『万葉集』5番の長歌には「讃岐国の安益郡(あやのこほり)に幸(いでま)す時に、軍王(いくさのおおきみ)の山を見て作る歌」という題詞がつく。ゆえに、5番は「舒明天皇が讃岐国の安益郡(香川県坂出市と綾歌郡の東部の地)に行幸した時に、小国・日本国の軍王であったイザナキノミコト(後の9代開化天皇/『魏志倭人伝』の末部に登場する載斯烏越・そしあお)が倭女王卑弥呼と素より不和であった狗奴(くな)(山陽の吉備地方)を討伐した時に、本陣をかまえた飯野山(いいのやま)の山を見て作った歌」であったことになる。
 この5番の長歌で、舒明天皇は「霞(かす)み立つ長い春の一日がいつ暮れたかわからないがごとく、皇后の宝皇女と蘇我入鹿とが情を通じているというウワサは真実なのかそれとも単なるウワサだかはっきりしない状態に悶々として心が痛み、蘇我大臣家の権力へなびく皇后を離縁しようと悩む今日このごろである。このような、鵺(ぬえ)の鳥の声のごとく暗く悲嘆にくれる状況を断ち切るために、皇后に行幸の行く先を告げないで、ひとり決心して旅に出ることにした。言葉にも出すにも畏(おそ)れおおい狗奴国討伐を指揮した軍王イザナキノミコト・載斯烏越の所縁(ゆかり)の安益郡の網の浦(坂出市の海岸)に到着すると、軍王が本陣を設営した讃岐富士・飯野山から越えてくる風が、孤独な朕(われ)の衣の袖(そで)を朝な夕なに吹き返す。この袖が風に揺れるありさまをみていると、いつしか宮殿に帰ろうかと思うようになり、強い男だと思っていた自分も旅先のことゆえ気弱になり、つい離縁しようとした妻が愛しくなり、愛しくなれば憎さがつのり、憂いを晴らすことができないでいる。網の浦の乙女たちが焼く灼熱(しゃくねつ)の塩の熱湯のように熱く重く、愛と憎しみとの間(はざま)で苦悶するわが心よ」と表現している。

 『万葉集』485番の長歌と486番・487番の2首の短歌には「岡本天皇の御製(みうた)一首 幷せて短歌」と題詞がつく。34代舒明天皇と皇后・宝皇女(35代皇極天皇・37代斉明天皇)の二人が「岡本天皇」と呼ばれた。歌の内容からして岡本天皇は皇后の宝皇女であったことになるゆえ、485番・486番・487番の三首は宝皇女が作ったことになる。
 宝皇女は485番の短歌で、次のように表現している。
 「神代の壱与(いよ/夏音文字の名称)が倭女王に即位する以前――イザナミノミコトが小国・日本の女王に就任して淤能碁呂島(おのごろしま)でイザナキノミコトと結婚した時に『日本国の建国理念は〔愛〕にしましょう』と高らかに唱え、イザナミノミコトの死後に日本の軍王・載斯烏越(そしあお/夏音文字の名称)・イザナキノミコトが開化天皇に即位してイザナミノミコトが唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継ぐ政事(まつりごと)をおこなった。このため国民はこの世に多数満ち満ちて、【日本建国の〔愛〕の理念】をまもる人民たちは空一面をおおって飛翔する味鴨(あじかも)の大群のごとくわたくしの目の前を通りすぎますが、わたくしが恋い慕うあなた(舒明天皇)は、わたくしと入鹿の仲を疑って、わたくしの夫であることを拒否してわたくしを抱いてくれません。わたしは昼は日が暮れるまで夜は夜が明けるまで、あなたを思いつづけ、一睡もできませんでした。この夜は、ほんとうに長い夜でした。」(485)
 次の486番の短歌では、下記のごとく表現している。
 「山の端()に、味鴨の大群が愛むつまじく鳴きさわいで飛んでいきますが、この味鴨の大群を見ていると、わたくしは寂しくてなりません。あなたはわたくしが示す愛を疑い拒絶し、夜となってもわたくしを抱いてくれませんもの……」(486)
 次の487番の和歌に登場する「鳥籠(とこ)の山」は「琵琶湖に浮かぶ最大の島の沖島(おきのしま)」であり、また「不知哉(いさや)川」は「現在の滋賀県彦根市の南限となる愛知川(えちがわ)」である。愛知川の河口()と沖島(西)の中間を、『日本書紀』が「イザナミノミコトが葬られた地」と記述する花の窟(いわや)神社と同経度線(東経136度線)が貫通する。愛知川河口・沖島の東方には、『古事記』が「イザナキノ大神は淡海(近江)の多賀(たが)に坐すなり」と記す、イザナキノミコトの墓であった多賀大社(滋賀県犬上郡多賀町)が鎮座する。ゆえに、舒明天皇と宝皇女が生存した7世紀においては〈沖島(鳥籠の山)と愛知川(不知哉川)と多賀大社が所在する地域〉は〈イザナミノミコトが唱えイザナキノミコトが遺志を継いだ【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす地霊を呼び興(おこ)す地〉、すなわち〈イザナミノミコトとイザナキノミコトの歴史の秘密を知ることができる聖地〉であった。だから、【日本建国の〔愛〕の理念】の[]に【日本国誕生史の秘密を知ることができる】の[]が加わって、彦根市の南限となる川の名は夏音文字の字音で「愛知川(えちがわ)」と呼ばれることになったのである。
 したがって、次の487番の和歌では、下記のごとく表現している。
 「近江路(滋賀県)の琵琶湖に浮かぶ鳥籠の山(沖島)の東方を流れる不知哉川(愛知川)、この川の名が“知らない(不知)”と示すように、わたくしの心を知ろうとせずにわたくしを疑ってわたくしの言葉を信じないつれないあなたですけど、今日このごろは、わたくしのことを恋しく思っていてくださるのでしょうか。」(487)

◆なお、奈良県奈良市油阪町に所在する開化天皇陵はイザナキノミコトが死去した時に築造された陵墓ではない。墳墓規模等から、9代開化天皇陵は5世紀末から6世紀初頭頃に築造されたと推定されている。ゆえに、3世紀半ば頃に死去したイザナキノミコトの墓は多賀大社であった。開化天皇陵は、おそらく230年~260年頃に生存していた英雄イザナキノミコトを讃えて5世紀末から6世紀初頭頃に築造された古墳ということになる。
 『古事記』中巻の崇神(すじん)天皇紀の〔建波邇王(たけはにやすのみこ)の反逆〕の条で、10代崇神天皇は9代開化天皇・イザナキノミコトが崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)と結婚してイザナキノミコトの第二后となったゆえ養子(父は8代孝元天皇)にして異母弟であったと説明する。
 イザナキノミコトの養子であった10代崇神天皇と生母の伊迦賀色許売命はイザナミノミコトが唱え、イザナキノミコトが受け継いだ【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪した。これゆえ、『日本書紀』崇神天皇紀の〔疫病の流行〕の条は「崇神天皇は天照大神を崇拝して祭り、【日本建国の〔愛〕の理念】を「日本大国魂神」と名づけて憎悪し呪(のろ)って霊力を衰弱させて祭らなかった」と記述する。だから、【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪して呪った崇神天皇母子は「天照大神」という異名で呼ばれることになった。崇神天皇はイザナキノミコトに天下を譲られたにもかかわらず、恩知らずの崇神帝・天照大神は養父・イザナキノミコト・開化天皇の陵墓を築造しなかった。ゆえに、イザナキノミコト・開化天皇の墓は愛妻・イザナミノミコトと結婚した淤能碁呂島と所縁(ゆかり)が深い多賀大社に所在することになったのである。

◆以上のごとく、舒明天皇と宝皇女(皇極天皇)時代(629年~6456月まで)は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】に精通した巫覡たちを朝廷が擁護する制度を聖徳太子が廃止しようとしたが原因で、一気に皇室の権勢が衰え蘇我大臣家の権勢が盛んとなり、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】に精通した巫覡たちを擁護する蘇我大臣家の横暴に悩まされて皇室が天下を奪われて滅亡しかねない危機的状況に陥(おちい)っていたことになる。

620(推古天皇28)に歴史書が編纂(へんさん)された。『日本書紀』によればその史書の名は「天皇紀」、「国記」、「臣連伴造国造百八十部幷公民(おみむらじとものみやつこくにのみやつこももあまりやそとものおならびにおおみたから)等本記」である。これらの史書は、後に成立した『古事記』と『日本書紀』の典拠資料となった。「天皇記」には歴代天皇の系譜・事績などが記述され、「国記」は『古事記』上巻(日本神話)の典拠資料となり、「臣連伴造国造百八十部幷公民等本記」は天皇支配下の諸豪族や下級官人・地方官人をふくめた官人全般の歴史を記したものであったであろう。
 「天皇記」と「国記」は、645(皇極天皇4)の蘇我氏打倒の乙巳(おつし)の変の際、蘇我蝦夷(そがえみし)の邸宅で焼失した。蘇我蝦夷らは殺される前に、すべての「天皇記」・「国記」そして珍宝を焼いた。したがって、国家と朝廷が厳重に所蔵して保管しなければならない「天皇記」と「国記」は、聖徳太子の巫覡排除政策の失敗によって蘇我大臣家に擁護された巫覡たちによって編纂されたゆえ、蘇我家で所蔵されていたのである。
 だから、聖徳太子の大失敗によって天下を治めることができる権勢の岩盤学問であった【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】を手に入れた蘇我大臣家は皇室に代わって天下を治める野心を抱いて横暴になったのである。
 しかし、蘇我家の天下取りは失敗して、舒明天皇と宝皇女の子の中大兄皇子と中臣鎌足(なかとみのかまたり)らによる、上記した乙巳の変にて蘇我家は滅ぼされ、大化の改新が断行された。改新の断行によって、律令制という新しい政治体制の基礎固めがなされた。
 中大兄皇子は38代天智(てんじ)天皇に即位した。天智天皇の死は、天智帝の子の大友(おおとも)皇子と舒明帝と宝皇女の子にして天智帝の弟・大海人(おおあま)皇子との対立が決定的となり、壬申(じんしん)の乱となった。

◆乱に勝利した大海人は浄御原(きよみはら)宮で即位し40代天武(てんむ)天皇となった。天武天皇は強大な権力をにぎって、天皇の権力の絶大化をはかった。これゆえ、天武天皇は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】を最も重視して大和朝廷の基礎を築いた天照大神(10代崇神天皇と生母の伊迦賀色許売命母子)を皇室が最も崇拝する先祖の皇祖(こうそ)とする方針を示した。
 天武天皇の没後の690(持統天皇4)、天武帝の遺志を継いだ41代持統(じとう)天皇は伊勢神宮の20年ごとの式年造替という制度を起源させた。壮大な伊勢神宮を創建し、そして天照大神を伊勢神宮で恒常的に祀ったのは持統上皇・42代文武(もんむ)天皇の時代の698(文武天皇2)であった。
 天武天皇と持統天皇は――イザナミノミコトとイザナキノミコトの歴史によって、天照大神が多数の奴婢(ぬひ)を殺してイザナミノミコトの墓に埋めた残虐な徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮した歴史が語られることになって天照大神の聖性がいちじるしく汚されるゆえ、イザナミノミコトとイザナキノミコトの歴史を絶対に後世に伝えてはならないと禁止して、――天照大神を皇統の聖性を表象(ひょうしょう)する至上神と定めて、【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】を抹殺するために伊勢神宮を創建することにしたのである。
 だから、『古事記』編纂スタッフは【銀河文字(銀漢各部の形状を字源・字形の原義・原義)と定めた倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】でイザナミノミコトとイザナキノミコトの歴史を後世に伝えることにしたのである。
 ゆえに、この策略を真っ先に伝えるために『古事記』上巻の序は「古事記上巻 幷せて序」という名称となった。この「古事記上巻 幷せて序」の文を作ることになった太安万侶は、その冒頭34字で「臣安万侶言す。それ混元既に凝りて、気象いまだ効れず。名も無く為も無し。誰かその形を知らむ。しかれども乾坤初めて分かれて、参神造化の首をなす」という文を作って、このブログの3回で詳細に解説して現代語訳したように、要するに「上巻の〔音〕という注がつく夏音文字と夏音文字を表記する楷書も共に【夏音文字を取得した時に一緒に習得した倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法に則(のっと)る銀河文字(銀漢各部の形状を字源・字形の原義・原義)】であるからして、夏音文字と楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】をはじめ上古史の真相が解明できる」と警告(けいこく)して、『古事記』上巻の歴史解明方法を説明した。
 だから、「古事記上巻 幷せて序」冒頭文の「参神造化の首をなす」の後につづく11字は「陰陽斯(ここ)に開けて、二霊群品(にれいぐんぴん)の祖(おや)と為()る」という文という文をもって、「陰のイザナミノミコトと陽のイザナキノミコトがわが国のすべてのものの生みの親である」と記述して、「天武天皇・持統天皇が皇祖・天照大神の聖性をいちじるしく汚すゆえ、後世に絶対に伝えてはならぬと厳重に禁止する【日本建国の【愛】の理念と日本国誕生史】を後世に伝えるために『古事記』を作成した」と――『古事記』作成目的を伝えている。

◆現在の定説・日本神話虚構説は――『古事記』上巻に登場する天照大神は雲の上の天空・高天原に住んでいたと断定する。しかし、『古事記』は――天照大神は10代崇神天皇と生母の伊迦賀色許売命であり、天照大御神は「高天原」つまり「大和国」に居住していたと歴史を伝えていたのである。現在の学者たちが主張する定説だと『古事記』上巻における神聖なる至上神は天照大神ということになる。しかし、『古事記』上巻のイザナキノミコトの黄泉国(よみのくに)訪問説話は――イザナミノミコトが唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪した倭女王の天照大神・伊迦賀色許売命はイザナミノミコトの墓の玄室に多数の奴婢の死体=八雷神(やくさのいかづちのかみ)を納めるため、多数の奴婢を殺す徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮した――と歴史を伝えている。したがって、『古事記』上巻は天照大神を神聖な最高神と絶賛するものではなく、天照大神は残虐非道な徇葬を決行した歴史を伝えていたのである。
 だから、学者たちの定説の日本神話虚構説は「古事記上巻 幷せて序」に記述された歴史解明方法を読解できないため、太安万侶が説明する歴史解明方法を排除・無視して捏造(ねつぞう)した【誤読の産物の空理空論】であったのである。
 「古事記上巻 幷せて序」に記述されたとおり、『古事記』の作成目的は【イザナミノミコトとイザナキノミコトの歴史、つまり日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】を後世に伝えることであった。
 『古事記』上巻・日本神話は【銀河文字】をもって解明する歴史書であったのである。

◆以上からして、このブログが前回(8)まで詳細に解説・証明したように、吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説の実体は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】を【誤読】を駆使(くし)して成立させた空理空論であった。したがって、世間が聖徳太子を虚仮(こけ)にしたと同様に、正真正銘の空理空論の吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説に対して日本国民は「無能! 役立たず」と言って怒りを爆発すべきことになる。
 また、無能・役立たずの両説を「いちばん正しい」と賞賛して虚妄(デタラメ)をまき散らして日本国民を洗脳しようとするNHKテレビと朝日新聞に対して“ウソつき! 邪馬台国説は誤読の空理空論だ!”と怒りを爆発すべきことになる。

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