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2020年12月13日 (日)

フェイク&まぼろし邪馬台国・6

▼じつに、聖徳太子はマヌケだった
だから、聖徳太子は天皇になれなかった
頭脳がとびぬけて優秀で、現在の学者たちが〈日本古代史上最高の政治家だった〉と称賛し、当時の皇族のなかで群をぬく経済力を有した聖徳太子は、朝廷の権勢を一気に衰退させる政策をおこなった。この大失策が原因となって、太子は多くの人々に虚仮(こけ)にされ侮蔑(ぶべつ)されて天皇になれなかった

★「倭人国の地理学」のトリセツ・2

◆このブログ〔フェイク&まぼろしの邪馬台国〕1回~3回までで詳細に解明し、また3回で『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)の冒頭34字の文を詳細に現代語訳して証明したように――わが国に紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭に【原初漢字・夏音文字】が伝来していた。この【夏音文字の学芸の習得】によって、【紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝(こうてい)につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理と作成方法】をも習得することとなった。
 これゆえ、わが国には【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】が存在し、朝廷の強大な政権基盤となった。
 この世界的にも最高級に重大な学術遺産【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字】に対する聖徳太子の政策は、実にマヌケで思慮が足りなかった。要するに、太子の【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】に対する処置は天皇の権力を一気に衰退させた。だから、推古天皇の摂政(せっしょう)の聖徳太子は多くの人々に虚仮(こけ)にされ侮蔑されて、33代推古天皇の後を継ぐ34代天皇になれなかった。
 当時、朝廷につかえるすべての人々は――【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学問】によって、朝廷の権力と莫大な富はささえられている―と認識していた。この認識は当時において至極当然(しごくとうぜん)(もっと)もなことであったゆえ、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】に対する軽率(けいそつ)・杜撰(ずさん)な太子の政策は、多くの人々に「そりゃ天皇の権力がにわかに衰退するのは当然だ! なんとマヌケで・虚仮(こけ)なことよ!」と批判されることになったのである。

◆聖徳太子は573年に生まれ621年に没した。
 太子がおこなった【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識に精通する巫女(みこ)と覡(げき/神官)】に対する軽率な政策は、多くの人々に「無理を押し通して道理が引っ込む」と評されて蔑視(べっし)された。
 だから、聖徳太子の失政を注目すると、「わが国には確かに【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学問】は存在した」と確信できる。したがって、「わが国が最初に漢字習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は、学者たちが『魏志倭人伝』・『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)・そして『隋書』倭国伝やのの他の多数の古文献の記事を誤読・歪曲(わいきょく)してデッチあげた空理空論・真っ赤なウソであったことになる。

◆聖徳太子が天皇になれなかった原因を、『隋書』倭国伝は次のごとく記述する。
 「文字無し。唯(ただ)刻木(こくぼく)結縄(けつじょう)のみ。仏法を敬う。百済(くだら)において仏経を求得(きゅうとく)し、始めて文字有り。卜筮(ぼくぜい)を知り、尤(もっと)も巫覡(ふげき)を信ず。」

 学者たちは『魏志倭人伝』が約1100字と『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)に記述された「わが国は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】を習得した」という説明を読解することができない。だから、学者たちは「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」と主張する。

学者たちは「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」と思い込んでいるゆえ、上記した文中にある「唯刻木結縄」の5字を「唯(ただ)木を刻み縄を結ぶのみ」と読んで、「わが国には文字(漢字)は無く、木を刻みまた縄を結ぶ方法のみが有った」と誤読する。
 わが国は紀元前21世紀の後期縄文時代初頭に【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字】を習得したため、正しい読み方は「唯(ただ)刻木(こくぼく)と結縄(けつじょう)のみ」ということになる。このように読めば――「わが国は(夏音文字を習得したとき)、五帝時代初頭に生存した倉頡が発明した刻木(中国では「書契」と称する)と三皇時代の易に用いられた記号の結縄をも習得した」と解釈することができる。したがって、「唯(ただ)刻木と結縄のみ」と読まなければならいことになる。
 というのも、倉頡が創った文字は中国では「書契(しょけい)」と呼ばれ、「書契」は「木に文字を刻むこと」を意味すると伝えられていたからである。ゆえに、わが国では「木に文字を刻むこと」を略して「刻木」と称したことになる。したがって、「五帝時代の原初漢字は書契と名づけられ、三皇時代の易に用いる記号は結縄と名づけられた」ゆえ、『隋書』倭国伝にある「唯刻木結縄」は「倭国には、倉頡が創った刻木(書契)と三皇時代に作られた結縄が存在した」と解釈して「唯刻木と結縄のみ」と読むべきことになる。
 したがって、三皇時代の結縄と倉頡が創った刻木(書契)と夏代初頭の夏音文字を習得していた巫女(みこ)と覡(げき/神官)たちは朝鮮半島の百済から輸入した仏教の経典に用いられた極めて難解な字義と字画が多くて難解な楷書のことごとくを解読した。ゆえに仏経の楷書解読事業を成し遂げた巫女と覡たちは多くの人々に絶賛されて、倭国においても最も(尤も)信頼されることになり、聖徳太子よりも尊敬されることになった。

◆人々は「仏教興隆し、学を滅べば、国家と朝廷は倒壊する」と太子を痛烈に批判したのである。もちろん上記した文中の「学」は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】を意味した。
 【国家と朝廷の土台・屋台骨となった学識】つまり【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字】が反体制側に習得されて、革命に利用されると国家と天皇政治は容易に崩壊する可能性は大であった。だから、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】に精通する巫覡を体制のなかに組み入れ、その学問は皇室が独占管理して厳重に機密にしていた。
 それにもかかわらず、太子は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識に精通する巫覡たち】はこれからの仏教を崇拝する朝廷には「不要であり、邪魔になる」と考え、彼らを排除する政策を推し進めた。この太子の巫覡排除対策を、人々は「無理(仏教)が通れば道理が引っ込む! 軽率にもほどがある」と貶(けな)したのである。
 
◆上記したように、『隋書』倭国伝に「百済において仏経を求得し、始めて文字有り。卜筮を知り、尤も巫覡を信ず」と記述された文中に登場する「始めて文字有り」という文は「わが国は――始めて隋にて用いていた最新の漢字・楷書を有することになった」と意味するものであったことになる。
 したがって、わが国は紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭においてわが国は【倉頡が創った五帝時代に用いられた刻木(中国では「書契」という)と夏音文字】を習得していたことになる。この【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】に精通していた巫覡が、仏教の経典に記されていた隋王朝が開発した最新の楷書を解読した。
 以上からして、上記した『隋書』倭国伝に登場する「文字無し」に続く文を学者たちのごとく「唯(ただ)木を刻み縄を結ぶのみ」と読んで「わが国には、唯、木を刻み縄を結ぶ方法だけしかなく、文字はなかった」という解釈は誤訳であったことになる。
 正しくは「文字無し。唯、刻木・結縄のみ」と読み、「わが国には仏教の経典に記されていた隋にて用いられていた最新の楷書は無かった。唯、わが国には五帝時代に用いられて原初漢字の刻木(書契)と三皇時代の易に用いられていた記号の結縄のみが存在した」と解釈しなければならなかったことになる。

▼楷書は、隋代に完成したとされる。
 この隋代に完成した最新漢字の楷書は倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】に則(のっと)って創られた。だから、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】に精通する巫覡たちは、朝鮮半島の百済から輸入した仏教の経典に用いられていた当時(隋代)の最新漢字の楷書を解読することができた。
 2世紀末から3世紀半ばまでの倭国の様子を記述した『魏志倭人伝』には「倭国の卜筮に用いる辞(文字とことば)は令亀(れいき)の法の如く」と説明する文があり、この文中にある「令亀の法の如く」という一節は「殷代(いんだい)後半の亀の甲羅に文字を刻む甲骨文字と同じく銀河各部の形をリアルに表現する方法の絵文字(象形文字)の如き」と意味した。
 この「令亀の法の如く」という文字は「倉頡が創った刻木(書契)と夏音文字」であった。この原初漢字の刻木と夏音文字は、わがブログ「フェイク&まぼろしの邪馬台国」の2回で説明した【王朝が容易に滅亡しないために、倉頡が死刑と定めた3つの掟】を厳重に守って、「書いた文字は用済みになったならば、文字を直(ただ)ちに消さない者または消し忘れた者とその一族全員、神罰が下されて死刑にする」と定められていた。だから、巫覡たちが卜筮に用いた刻木と夏音文字の字形を記す資料は出土しないことになった。
 『隋書』倭国伝には倭王・推古天皇と聖徳太子について「開皇二十年(隋の高祖文帝の年号、推古天皇六年・600)、倭王あり、姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩鶏弥(おおきみ?)と号す。(中略)。太子は利歌弥多弗利(わかみとほり?)となす」と説明する記事がある。この記事に登場する「阿毎」・「多利思比孤」・「阿輩鶏弥」・「利歌弥多弗利」は楷書で表記された夏音文字であったことになる。
 推古王朝は【夏音文字と倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法の学識】によって天下を治めて栄えていたことになる。

 聖徳太子が生存した6世紀末~7世紀前半、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と倉頡が創った刻木、そして夏音文字の学識】は、要する【王朝をささえる土台・屋台骨となった学問】であった。この【王朝をささえた土台・屋台骨と学問】は、朝廷が強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であった。ゆえに、上記したとおり――【王朝をささえた倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と倉頡が創った刻木、そして夏音文字の学識】をもしも反体制側の人々が習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡する。
 だから、3世紀後半の天照大神(10代崇神天皇と生母)の大和王朝以来33代推古天皇王朝まで、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と倉頡が創った刻木、そして夏音文字の学識】に精通する巫女と覡(神官)たちを王朝体制のなかに組み入れ、巫覡たちが有する知識(学問)を王朝と国家が独占管理して厳重に機密を保持していた。
 聖徳太子は、【刻木と夏音文字の学識】を有する皇族と貴族たちによって仏教の経典に用いられる隋の楷書の解読をおこなって仏教の興隆を達成しようと計画したにちがいない。これゆえ、聖徳太子は【刻木と夏音文字の学識】を有する巫覡たちは不要になると考えて、朝廷と国家が巫覡を擁護(ようご)する制度を廃止しようとした。
 聖徳太子に排斥(はいせき)された巫覡たちは、大臣(おおおみ)の蘇我馬子に擁護を願って頼った。594(推古天皇2)に、推古天皇は聖徳太子と蘇我馬子に仏教興隆政策を命じている。だから、蘇我馬子に擁護された巫覡たちは聖徳太子に一矢(いっし)を報(むく)いて報復するために、百済から輸入した仏教の経典に用いられる最新漢字の楷書の解読に挑戦して成功した。
 巫覡たちが成し遂げた仏経に用いられる最新漢字・楷書の解読事業は【刻木と夏音文字の学問知識】を有する皇族や貴族たちでは仏教の経典に用いられる全楷書の解読は成し遂げられない至難の事業であったのである。
 だから、排斥された巫覡を擁護した蘇我大臣家の権勢はにわかにさかんとなり、朝廷の権勢は目に見えて衰退したため、人々は巫覡擁護廃止政策は大失敗と評して太子を虚仮(こけ)にし、こき下ろしたのである。

◆『隋書』倭国伝は「尤(もっと)も巫覡を信ず」と記述する。
 この「尤も巫覡を信ず」の【尤も】という語について、新村出編『広辞苑』(岩波新書発行)は【もっとも()】は「道理にかなうこと。道理至極なこと」、【もっとも(最も・尤も)】は「第一にすぐれて。極めて」と意味すると解説する。
 これゆえ、『隋書』倭国伝の「尤も巫覡を信ず」という文は「仏教の経典に用いられた最新漢字・楷書を解読した巫覡たちは聖徳太子よりも最も信じられて尊敬された」と意味したことになる。また「聖徳太子は朝廷と国家が擁護するが尤も至極当然であった巫覡たちを排斥したため、推古天皇王朝は一気に衰退したのに対して巫覡たちを擁護した蘇我家が強大な権力を手中に入れることになって、聖徳太子の仏教興隆政策は大失敗した」と意味したことになる。
 このように、〔聖徳太子がおこなった巫覡擁護廃止の方針〕は〔王朝を一気に衰退させる大失敗〕となったゆえ、聖徳太子は多くの人々によって軽蔑され虚仮(こけ)にされた。
 その証拠に、「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」の銘文(めいぶん)には、聖徳太子が妃の橘太郎女(たちばなのおおいらつめ)に「世間は虚仮にして、唯仏のみ是れ真なり」と語ったと記されている。だから、太子がみずから「世間に虚仮にされた」と語っているように、太子が世間に虚仮にされた原因は【倉頡が発明した漢字作成原・作成方法と夏音文字の学識に精通した巫覡排除政策】であったことになる。
 太子は「世間は巫覡の排斥は王朝を衰退させた失政であると虚仮にして侮蔑するが、唯仏教の興隆こそ是(これ)真の政策にして道理なり」と太子は自らの失敗を弁護して、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学問知識】は【仏教】よりも劣ると主張した。
 しかし、巫覡を擁護した蘇我大臣家の権勢は思いがけばない幸運に恵まれてにわかに盛んとなって朝廷を脅(おびや)かすことになったと――世間の人々は太子を虚仮にしたため、太子は天皇になれなかったのである。
 このような経緯からして、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀または6世紀である」という定説は空理空論であったことは確実となる。
 わが国は紀元前21世紀に【倉頡が発明した漢字作成原・作成方法と夏音文字】を習得した――これが、わが国における最初の漢字習得の歴史であったことになる。 

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