« フェイク&まぼろし邪馬台国・6 | トップページ | フェイク&まぼろしの邪馬台国・8 »

2020年12月16日 (水)

フェイク&まぼろし邪馬台国・7

▼前回のブログ(6回)で指摘いたように、推古天皇の摂政(せっしょう/天皇に代わって政治を執る、天皇に次ぐ高位)にして、頭脳がとびぬけて優秀で、現代の学者たちが「日本古代史上の最高の政治家だった」と褒めちぎる偉人で、当時の皇族のなかで群をぬく経済力を有した聖徳太子(573-621)は、当然、天皇になれるはずであったにもかかわらず、太子みずからの失政によって天皇になれなかった
 この原因は『隋書(ずいしょ)』倭国伝に記述されているが、この重大な記事を、現代の学者たちは誰ひとりも正確に読解することができない


★「倭人国の地理学」のトリセツ・3

◆上記した、聖徳太子が天皇になれなかった原因を伝えている『隋書』倭国伝の記事は下記のごとくである。
 「文字無し。ただ刻木(こくぼく)・結縄(けつじょう)のみ。百済(くだら)において仏経を求得(きゅうとく)し、始めて文字有り。卜筮(ぼくぜい)を知り、尤(もっと)も巫覡(ふげき)を信ず」
 この記事は末尾の「尤も巫覡を信ず」という文から、前へ前へと解釈すると意味が明瞭となる。ゆえに、末尾から先頭の文までを現代語に訳すると、次のごとくになる。
 「倭国では、巫女(みこ)と覡(げき/神官)が成し遂げた業績は尤(もっと)も当然至極(とうぜんしごく)最大・最高に偉大なる功績であるとたたえられた。ゆえに、世間は巫覡を摂政の聖徳太子よりも最も信頼して尊重した。巫覡たちは中国の卜筮(うらない)を知ろうとして、朝鮮半島の百済から輸入(求得)した仏経(仏教の経典)の解読に挑戦して成功した。この仏経(仏教の経典)は隋で開発された最新の漢字である楷書はじめ、隋代以前の中国で作られた画数が多くて至極(しごく)難しい楷書が数珠(じゅず)ならびに続く書物である。ゆえに、仏経に用いられる楷書解読事業は最高難度の作業であった。しかし、倭国では紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭において夏音(かおん)文字を習得した時に、紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝時代に生存した“漢字の始祖”と崇拝された倉頡(そうきつ)が考案した刻木(中国では「書契・しょけい」と称する)と紀元前4000年頃に出現した卜筮()に用いる記号であった結縄をも習得していた。夏音文字が伝来した後期縄文時代初頭以来、卜筮を専門職とした巫女と覡たちは【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法・刻木と夏音文字の学識】に精通していた。隋における最新の楷書はじめ中国で作られたすべての漢字は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法・刻木と夏音文字の学識】に則(のっと)って作られたゆえ、この学識に精通する巫女と覡は〈仏経に用いられた楷書の解読という偉業〉を成し遂げることができた。ゆえに、倭国には隋で作られた最新の文字(楷書)は無かったが、巫覡の偉業によって隋の文字(楷書)をいちはやく習得した。だから、倭国には隋で作られた最新の楷書が存在することになった。」

▼このブログにおける1回~3回までで詳細に解明し、また3回で『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)の冒頭34字の文を詳細に解説して現代語に訳したように――わが国には紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)に原初漢字・夏音文字が伝来して習得した。この夏音文字を習得した時に、三皇時代の易(卜筮)に用いた記号も結縄と五帝時代に用いた刻木(書契)と【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】をも習得したことになる。
 だから、『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名には夏音文字が用いられ、「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読むと夏音文字の字音となる。
 「卑弥呼」を「ピミカ」と読むと中国に1046年おいて現存する最古の漢字音「上古音」の字音となる。中国の上古音は紀元前1040年頃の周代初頭~後漢後期(2世紀頃)までの漢字音である。
 ゆえに、『魏志倭人伝』に記載される夏音文字は中国で現存する最古(周代初頭)の上古音よりも約1000年前の漢字音である。したがって、わが国に残っている夏音文字の字音が現存する最古の漢字音となる。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)9ページの終わりから3行目~10ページの初めから3行目で、「わが国の漢字音」と題して、下記のごとく指摘する。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によって得られた諸法則が、原理的にはほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかとなった。」
 だから、『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名に用いられる夏音文字の字音は、現存する最古の漢字音となる。
 夏音文字は、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて多数記載されている。
 『隋書』倭国伝にも、「阿毎(アメ)」、「多利思比孤(タリシヒコ)」、「阿輩鶏弥(オホキミ?)」、「利歌弥多弗利(ワカミトホリ?)」などの夏音文字が記載されている。したがって、上記した『隋書』倭国伝の「文字無し」から「尤も巫覡を信ず」までの文中における最初の「文字無し。唯刻木・結縄のみ」という文は「隋で用いられた最新の漢字である楷書は無い。しかし、五帝時代の刻木と三皇時代の結縄ならば有る」と解釈しなければならない。
 現代の学者たちは『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)の冒頭34字の文を読んで「紀元前21世紀の後期縄文時代初頭、中国から夏代初頭の夏音文字がわが国に伝来して習得した」と説明していることを理解することができない。このため、学者たちは「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀または6世紀であった」と思い込むゆえ、夏音文字が記載されている『隋書』倭国伝にある上記した「文字無し」から「尤も巫覡を信ず」までの記事を正確に理解できず誤読する。
 このため、「文字無し」から「尤も巫覡を信ず」までの記事は聖徳太子が天皇になれなかった原因を説明していることに――学者たちはまったく気づかない。

◆今から約4000年前にわが国が夏音文字の学識を習得した後期縄文時代初頭以後、巫女と覡たちは【(1)卜筮()の記号に用いられた三皇時代の結縄と、(2)倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と五帝時代に作られた刻木(書契)と、(3)夏音文字の学識】にもとづいて、吉凶を占っていたことになる。
 だから、卑弥呼が国家(倭国)を創設し王朝を樹立した2世紀末~3世紀半ばの倭国における卜占の様子を、『魏志倭人伝』は「その俗、挙事行来云為する所有れば、すなわち骨を灼()きて卜し、もって吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。その辞は令亀(れいき)の法の如(ごと)し」と伝えている。
 上記の記事が示すように、『魏志倭人伝』は「行事をおこなう時・遠くの地に旅して故郷に戻ってくる時・また云為(うんい=雲為)つまり雨乞い祈祷する時に、巫覡たちは骨を灼いて吉凶を占った。(中略)。その易卜に用いる辞(文字の形)は令亀の法、つまり殷代(いんだい)後半の亀の甲羅に文字を刻む甲骨文字のごとくの字形であった」と記述している。
 このブログの2回にて指摘したように――倭国の原初漢字・夏音文字は漢字を発明した倉頡が定めた【死刑と定めた3つの掟】を厳重にまもったため、結縄・刻木・夏音文字を書いた資料が出土しない。つまり、【倉頡が死刑と定めた3つの掟】は、下記のごとくである。

(1)
 漢字は銀河(天文学における通称「夏の銀河」)から作られた秘密を暴露した者とその一族全員
(2)
 文字を容易に習得するため、文字となる「夏の銀河」(文字作成銀河)各部に名称を付けた者とその一族全員
(3)
 書いた文字は用済みになったならば、文字を直(ただ)ちに消さない者または消し忘れた者とその一族全員

 倉頡が定めた(3)の掟は、甲骨文字によって破られた。しかし、甲骨文字は(1)(2)の掟を厳重にまもったため、現代の学者たちは【すべての漢字は銀河(夏の銀河)から作られた事実】に気づかない。その証拠に、中国でもわが国でも「漢字」というのは「銀漢(銀河)から作られた文字」を略して「漢字」と呼称することになった――この語源の秘密について、現代の学者たちは知っていない。
 甲骨文字以後の漢字は(3)の掟を破っても良いことになった。これゆえ、『魏志倭人伝』・『古事記』上巻・『隋書』倭国伝・『万葉集』等では、夏音文字は楷書で表記されることになった。
 紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝につかえた倉頡は、みずからが発明した漢字の学識が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が漢字(文字)の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡すると心配し、倉頡は上に記した【死刑と定めた3つの掟】を破った人物はもちろん、この大罪を破った人物の一族全員まで及び厳しく神罰が下されて死刑にすると定めたのである。
 したがって、わが国において国家と王朝(朝廷)が充実して次第に強化されると、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】に精通した巫覡は国家体制になかに組み入れられるようになり、【銀河文字の学識】つまり【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】は国家と朝廷が独占管理して機密を厳重に保持されることになった。

◆だから、32代崇峻(すしゅん)天皇・33代推古(すい)天皇王朝にあっては、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】に精通した巫覡たちは、朝廷が擁護していたことになる。
 594(推古天皇2)、推古天皇は聖徳太子と蘇我馬子に「三宝(さんぼう)を興隆せよ」と詔(しょう)し、積極的な仏教崇拝政策の方向を示した。この崇仏(すうぶつ)政策を推進するにあたって、摂政の聖徳太子は隋の崇仏政策を取り入れて最新漢字の楷書の学問を普及(ふきゅう)するためには、文字として未発達な【銀河文字】つまり【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字】に精通した巫女と覡たちは必要がないと考えた。だから、太子は、国家と朝廷が巫女と覡を擁護する制度を廃止しようとした。
 それゆえ、太子に排除された巫覡たちは大臣の蘇我馬子に擁護を頼ることになった。巫覡たちは太子に一矢(いっし)を報いるため、仏教の経典に用いられる隋の最新の楷書を解読した。
 多分、太子は仏経に用いられた隋の最新の楷書は、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】を有する皇族と貴族たちにでも解読できると予想していたにちがいない。
 しかし、仏経に用いられる最新漢字の楷書の解読は【銀河文字の学識】を有する皇族や貴族たちに成し遂げられない難事業であった。このため、蘇我大臣家に擁護される巫覡による仏経に用いられる最新の楷書の解読は、皇族と貴族たちが絶賛する偉業となった。
 太子の巫覡を排除する方針は一気に朝廷の権勢を弱体化させ、巫覡を擁護した蘇我大臣家が棚(たな)からぼた餅ということで幸運にめぐまれて朝廷を脅かす権勢を得て盛んとなった。
 だから、皇族と貴族はじめ世間(世論)は仏経に用いられる楷書を解読した巫覡を尤(もっと)も信頼し、蘇我家の権勢がにわかに盛んとなり横暴になった状況を嘆き、太子を虚仮(こけ)にして、太子が強行した巫覡の排除は思慮に欠ける大失敗であったゆえ「無理が通れば、道理が引っ込む」と酷評したのである。
 その証拠に、「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」の銘文に、聖徳太子は妃の橘太郎女(たちばなのおおいらつめ)に「世間は虚仮にして、唯仏のみ真なり」と語ったと記されている。太子みずからが「世間に虚仮にされた」と語っているとおり、「仏教のみが真実である。旧来の【銀河文字の学識】は時代遅れと定めてきっぱりと廃し、これからは隋の最新楷書を出発点とする学術革命がなされらければならない」と自画自賛する太子の巫覡排除政策を世間は「実に、愚劣!」と酷評したが原因で、聖徳太子は天皇になれなかったのである。
 〔注 上記の「虚仮(こけ)」は仏教用語である。[]は「虚妄・虚偽」を意味し、[]は「【真実】に対して実体のないこと」を意味した。ゆえに、太子のことば「世間は虚仮にして、唯(ただ)仏のみ是()れ真なり」は「世間が賞賛する巫覡たち仏経からの楷書解読はウソで実体のない空(むな)しいものだ。ただ仏の教えだけが真実である」と訳すべきことになるかもしれない。しかし、「世間は虚仮にして、唯仏のみ是れ真なり」という太子の言における「虚仮」には文脈からして今日の同じく「馬鹿にする。愚弄する。ナンセンス・空理空論と軽蔑する」と意味したにちがいないと考えられる。〕

620(推古天皇28)に歴史書が編纂(へんさん)された。『日本書紀』によればその史書の名は「天皇紀」、「国記」、「臣連伴造国造百八十部幷公民(おみむらじとものみやつこくにのみやつこももあまりやそとものおならびにおおみたから)等本記」である。これらの史書は、後に成立した『古事記』と『日本書紀』の典拠資料となった。「天皇記」には歴代天皇の系譜・事績などが記述され、「国記」は『古事記』上巻(日本神話)の典拠資料となり、「臣連伴造国造百八十部幷公民等本記」は天皇支配下の諸豪族や下級官人・地方官人をふくめた官人全般の歴史を記したものであったであろう。
 「天皇記」と「国記」は、645(皇極天皇4)の蘇我氏打倒の乙巳(おつし)の変の際、蘇我蝦夷(そがえみし)の邸宅で焼失した。蘇我蝦夷らは殺される前に、すべての「天皇記」・「国記」そして珍宝を焼いた。したがって、国家と朝廷が厳重に所蔵して保管しなければならない「天皇記」と「国記」は、聖徳太子の巫覡排除政策の失敗によって蘇我大臣家に擁護された巫覡たちによって編纂されたゆえ、蘇我家で所蔵されていたのである。
 だから、聖徳太子は仏教の興隆政策の際に巫覡らを排除しようとした方針は天皇になれない大失敗、失政であった――これは確実なことであったことになる。
 
 『日本書紀』における推古天皇十五年(607)に「小野妹子(おののいもこ)を大唐()に遣わす」という記事は、『隋書』倭国伝では「大業三年(607)、その王の多利思比弧(たりしひこ)が、使を遣わして朝貢(ちょうこう)す。使者いわく『聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。ゆえに遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門(しゃもん)数十人、来て仏法を学ぶ』と」と記述された。
 そして、上記の記事に続けて『隋書』倭国伝は「その国書にいわく『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致(いた)す。恙(つつが)なきや、云々』と。帝、これを覧()て悦(よろこ)ばず、鴻臚卿(こうろけい/中国の外相)にいっていわく『蛮夷の書、無礼なる者あり、復()た以聞(いぶん)するなかれ』と」と記述する。
 帝つまり隋の煬帝(ようだい)が鴻臚卿(外相)に「野蛮な東夷の倭国の書は、無礼なところがある。ふたたび以聞(上表)するようなことは無いようにしろ」と怒った、その倭の国書の「日出ずるところの天子が、書を日没する処の天子に致す、恙はないか。云々」という文は、聖徳太子が書いた。
 煬帝は暴君であったが若いときには学問を好んで研究に励んだ。ゆえに、煬帝は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法や五帝時代に用いられた書契(刻木)の学問知識】を有していた。だから、『隋書』倭国伝に「文字無し。唯刻木結縄のみ、云々」と記述されたことからして、倭国には【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法や五帝時代に用いられた書契(刻木)の学問知識】があると察知し、また「煬帝」を「海西の菩薩天子」と表現したゆえ、倭の国書の「書を日没する処の天子」と記した[]の字には「生命が終える」という仏教で用いる語の意味がなく、【銀河文字の学識】にもとづいて[]の字源・原形(銀河各部の形状)・原義に則って「日が地平線の下に潜(もぐ)っても、とてつもなく強大な力で、朝になれば日が地平線上に昇って命が蘇(よみがえ)る」と解釈しなければならないことに気づいた。
 ゆえに、煬帝は倭の国書を誤訳して憤激した過ちを反省して、翌年(大業四年、推古天皇十六年・608)に、文林郎(ぶんりんろう)の裴清(はいせい/裴世清)を倭国に派遣している。
 そして、隋王朝は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法】に則(のっと)って新しい漢字・楷書を作成するものであった。
 ゆえに、暴君の煬帝さえもその秘密の重大性に気づいて恥じていさぎよく自らの過ち(誤解)を改めて裴清を派遣した。にもかかわらず、聖徳太子は朝廷の権勢を盛大にする原動力【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】つまり【銀河各部の形状を字源・字形・字義とする銀河文字の学識】に最も精通する巫覡たちを排斥した施策(しさく)は政事(まつりごと)の絶対法則・基本原理を疎(おろそ)かにした最悪の愚策であると世論に酷評された。
 だから、聖徳太子は天皇にはなれなかったのである。

|

« フェイク&まぼろし邪馬台国・6 | トップページ | フェイク&まぼろしの邪馬台国・8 »

卑弥呼」カテゴリの記事

邪馬台国」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事

漢字の起源」カテゴリの記事

日本国誕生史の証明」カテゴリの記事

大嘗祭の証明」カテゴリの記事

まぼろしの邪馬台国」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« フェイク&まぼろし邪馬台国・6 | トップページ | フェイク&まぼろしの邪馬台国・8 »