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2020年12月30日 (水)

フェイク&まぼろしの邪馬台国・13

▼考古学界とメディアは、吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説は『魏志倭人伝』研究を決着する意見であると自慢する。しかし、この二説は約2000字で構成される『魏志倭人伝』の全記事に1ヵ所も合致しない学問的に無価値の空理空論であるゆえ、日本国中を騙(だま)す詐欺(さぎ)ということになる

★「倭人国の地理学」のトリセツ・9

◆このブログは前々回(11)と前回(12)で――考古学が主張する「文字・漢字」の定義によって「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は、明らかに空理空論であることを証明した。
 考古学が主張する【漢字習得の定説】は――わが国の中国古代漢字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)9ページの終わりから3行目~10ページの始め3行目までの「わが国の漢字音」と題する記事――を注目するとただちに空理空論であると確信できる。この記事は音韻史研究によって「わが国の国語には、中国において現存する最も古い上古音よりもさらに古い漢字音が残っている」という成果が明らかになったと指摘する。だから、考古学の発掘調査結果によって「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定された定説は、ただちに空理空論となる。
 というのも、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説よりもはるか以前、つまり約2500年~2600年前の後期縄文時代初頭の紀元前21世紀末に中国から伝来して習得された原初漢字の夏音(かおん)文字が――2世紀末~3世紀半ばのわが国の様子を伝える『魏志倭人伝』と6世紀末から7世紀前半のわが国の様子を伝える『隋書』倭国伝と712年に成立した『古事記』上巻には――多数記載されて残っているからである。

◆『魏志倭人伝』と『隋書』倭国伝と『古事記』上巻に記載されて多数残っている後期縄文時代初頭に夏音文字が習得された時、【紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝につかえた史官・倉頡(そうきつ)は発明した漢字作成原理・作成方法】も習得された。その証拠に、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に残っている夏音文字の字源・字形・字義を解明すると【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】がわが国に存在したと証明される。
 つまり、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の日本神話は【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】にのっとって歴史が解明できる仕組みになっている。この歴史解明方法は『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)全体の記事テーマとなる。しかし、学者誰一人も『古事記』上巻の序全体のテーマが【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識にのっとっとれば歴史が解明できる方法の説明】であることに気づかない。ゆえに、この重大な『古事記』上巻の序が説明する歴史解明方法を無視し排除するため、考古学者はじめとする学者たちには『古事記』上巻に記述された歴史が解明することができない。

◆「銀河」の別称は「銀漢」である。ゆえに「銀漢から作られた文字」を略して中国でもわが国でも「漢字」と称した。こんな簡単・容易に想像できる事実に、今日の学者たちとメディアまったく気づかない。だから、学者たちとメディアは『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)が説明する歴史解明方法の記述の存在にまったく気づかず、知ったかぶりをして約2000字で構成される『魏志倭人伝』の全記事と1ヵ所も合致しない空理空論の吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説をもっとも正しい意見であると吹聴(ふいちょう)して日本中を騙(だま)そうとしている。
 上記したように、「漢字」は「銀漢(銀河)」から作られた。漢字が作成された銀河は、天文学では「夏の銀河」と呼ばれる。「夏の銀阿」とは、つまり「夏の星座が漬かる巨大な銀河の帯」である。
 上記したように、今日のすべての学者たちは「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と呼ばれることになった事実を知っていない。
 その証拠に、わが国の中国古代漢字・字源研究の第一人者とされる白川静博士は【漢字が夏の銀河の各部から作られた事実】を知らず、みずからが研究して解明した字説(字源解説)が【夏の銀河の各部の形状を説明するものであること】についてまったく気づいていない。
 倉頡は、【夏の銀河の各部の形状から漢字を作る作成原理と作成方法】を発明した。
 倉頡はみずからが発明した漢字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字(漢字)の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡すると心配し、倉頡は下記に示す【3つの掟】を破った本人はじめ、その大罪は掟を破った人物の一族全員まで及び厳しく神罰が下されて死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
(1)
 夏の銀河(漢字作成銀河)各部の形状から文字が作られた秘密を容易に理解できるように明確に説明した者とその一族全員〔ただし、難解な言葉(説明)や叡智に満ちた説明で深く考えないと理解ができない表現をもって解説する者は死刑にはならない〕
(2)
 文字を容易に理解するため、文字となる夏の銀河(漢字作成銀河)の各部に名称をつけた者とその一族
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字をただちに消さない者または消し忘れた者とその一族
 倉頡が死刑と定めた(1)の掟のために、上記したように「銀漢から作られた文字」を略して中国でもわが国でも「漢字」と称した事実を、今日の学者たちは誰一人も気づかない。
 上記した倉頡が定めた(2)の掟のため、紀元前1世紀に完成したシナ天文において〔夏の銀河に浸かる各部星座(星宿)の名称は作られた〕が、星座よりも明確な形を有する〔夏の銀河の各部の名称〕は現在にあっても存在しない。
 倉頡が死刑と定められた(3)の掟は、紀元前1300年頃から始まる殷代(いんだい)後半に出現した計約4700字も作られた甲骨文字において、この掟をその都度まもるのはたいへん面倒になったため破られることになった。『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻に残っているわが国の夏音文字は、甲骨文字以後に作られた(3)の掟を守らなくてもよい楷書にて表記されることになった。
 甲骨文字以前の【五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字】は倉頡が定めた(3)の掟を厳重にまもった。だから、これらの原初漢字を書いた資料はいまだ出土・発見されていない。

◆【漢字】は【字源・字形・字義・字音の4つの要素】によって成立する。そのうちの【字源・字形・字義の3つの要素】は【夏の銀河の各部の形状】であった。
 倉頡が【死刑と定めた3つの掟】によって、【原初漢字(五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の漢字)における字源・字形・字義】は【夏の銀河の各部の形状】となって実在することになった。
 この【原初漢字は夏の銀河の各部の形状となって実在した事実】に気づかない考古学者たちは――漢字が書かれた最古の資料が出土・発見された、その時にわが国は漢字を習得したにちがいないと――と考える。だから、考古学界は、漢字(楷書)が書かれた最古の資料の出土・発見にもとづいて「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定した。また、江戸時代中期の新井白石(16571725)以後の学者たちは「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられたと想像する人物が一人も存在しなかったため、この伝統にもとづいて、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という意見が定説となった。だから、考古学者はじめとする学者たちが定義した【わが国が最初に漢字を習得した意見】は事実に合致しない【非科学】にして【主観的偏見】による空理空論であったことになる。
 というのも、前述したように、【1】『魏志倭人伝』、【2】『隋書』倭国伝、【3】『古事記』の三史書には、紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭に習得した多数の夏音文字が記載されて残っているからである。

 『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)は――(1)漢字は夏の銀河から創られた、(2)夏音文字は後期縄文時代初頭に習得した、その時、(3)【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】をも習得した。ゆえに、(4)夏音文字と夏音文字を表記する楷書の字源・字形・字義を夏の銀河各部の形状に変換すれば、『古事記』上巻に記述された上古(神話)の歴史は鮮烈に歴史が甦(よみがえ)る――と『古事記』上巻だけでなく、『魏志倭人伝』のおける歴史解明方法についても説明していることになる。

◆わが国の考古学者たちは「わが国は最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という空論に憑()りつかれている。このため、彼らは吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説こそが邪馬台国論争を決着することができる意見であると主張する。
 しかし、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】の基に構成されている『魏志倭人伝』は、倭女王卑弥呼が居住した王国の名は「邪馬壱(やまい)国」であると記す。したがって、「邪馬台国」という地は存在しない絵空事・空想である。ゆえに、吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説はただちに空理空論となる。
 また、古代史研究家の古田武彦氏は『三国志』全体に記載される[()]86個、[()]56個の文字を逐一調べ、[()]の字を[()]と記す誤記が一例も無いことを証明した。『魏志倭人伝』という文献名は「『三国志』魏書東夷伝の末部・倭人伝の通称」であり、『三国志』魏書東夷伝の末部・倭人伝=『魏志倭人伝』には倭女王卑弥呼が居住した王国名は「邪馬壱国」と記してある。
 だから、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」と記す記事は1ヵ所も存在しない。
 ゆえに、卑弥呼が居住した王国の名は「邪馬台国だった」と主張する、考古学界自慢の吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説は【非科学】と【主観的偏見】による空理空論・デタラメであったのである。

◆考古学界自慢の吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説は空理空論・真っ赤なウソであると断定できる、『魏志倭人伝』と同時代の3世紀後半に作られた遺跡が存在する。
 山尾幸久(やまおゆきひさ)著「魏志倭人伝』(講談社発行)29ページは「『三国志』の成立は、晋の武帝の晩年である太康年間(二八〇-二八九)、陳寿(ちんじゅ)の著作郎(ちょさくろう)時代という以上には限定できない」と指摘する。
 つまり、『三国志』は晋につかえた著者の陳寿が著作郎・歴史編纂官に任じられた280年~289年までの帝太康の時代に著作したことになる。『魏志倭人伝』は『三国志』魏書東夷伝末部の倭人伝であるからして280年~289年に成立したことになる。
 280年~289年に著作された『魏志倭人伝』に記述された【わが国には倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識が存在した】と【倭女王卑弥呼が居住した王国は邪馬壱国であった】、この二つ問題は一挙に事実であったと【科学】が成立して証明することができる確かな遺跡が現在まで残っている。
 この奇跡の史料は、静岡県浜松市北区細江町の行政区域を表示するちょうど1千万坪(33.9)の地図の形である。
 この旧国遠江に所在する細江町の1千万坪の地図は、280年~289年に著作された『魏志倭人伝』と同時代の260年頃~290年頃まで約30年間費やして作製された。
 この細江町の地図内の7ヵ所の地所から9口の銅鐸が出土した。この銅鐸が出土した7ヵ所の地所は「遺跡」と呼ばれている。つまり、(1)小野遺跡、(2)船渡遺跡、(3)悪ヶ谷遺跡、(4)滝峯遺跡、(5)不動平遺跡、(6)穴の谷遺跡、(7)滝峯才四郎谷遺跡と呼ばれている。
 だから、この7つの遺跡が所在する・1千万坪の細江町の形は、3世紀後半に作られた地図遺跡であった。この地図遺跡(現在の細江町の行政区域を表示する、平面的に図化された地図)によって――『魏志倭人伝』の全記事は正しく、学者たちが立論するがごとく1ヵ所も誤読・歪曲・主観的偏見を加える必要がない――という事実が明らかとなる。


 細江町の7遺跡から出土した9口の銅鐸は三河と遠江に多数分布する銅鐸であり、「三遠(さんえん)しき銅鐸」と呼ばれる。この三遠式銅鐸は、最末期の銅鐸であるとされる。物部氏の関連性に注目すると、最末期の三遠式銅鐸の製作・使用年代は260年頃~290年頃であったことになる。だから、細江町の地図は、260年頃~290年頃までの30年間を費やして作製されたことになる。
 完全な形で細江町の滝峯遺跡から出土した滝峯第1号鐸の原寸大に作る模造鐸を、198611月に、私は静岡県沼津市のW板金所の主人に注文して銅板で作っていただいた。
 完成した模造鐸の筒()の中に頭を入れてしばらくすると、筒の中の暗闇によって自動的に瞳孔径(瞳孔の直径)が最大に拡大された。そして筒の上()にある二つの孔から舞の中央に垂直に立つ厚さ2,3mmの薄い板となる鈕(ちゅう)を仰ぎみると、その鈕は板ではなく細い一本の線()と化して見えるようになった。この線を両手で銅鐸の筒の傾きを操縦しながらゆっくり微調整して最も細くなるようにすると、銅鐸の筒はおのずと精確に地面に対して垂直(90度の角度)に立っていた。この時、鈕の頂上に取りつけられる「渦巻双耳(うずまきそうじ)」と名づけられた部分に刻まれる文様が矢を射当てる的(まと)のように同心円形となり、その的の中心点が天頂点とぴったりと重なり、私の視線は矢のようになって的の中心となる天頂点に命中する仕組みになっていた。
 考古学者たちは「銅鐸は鳴器や祭器であって、銅鐸は天頂点をキャッチする・[]をキャッチして緯度を精確に測量する器具ではない」と反論する前に、“論より証拠”という諺(ことわざ)の通りに、模造鐸を作り筒の中に顔を突っ込んで銅鐸を地面に対して垂直に立てて舞孔から仰ぎみれば、その視線は天頂点を命中する仕組みになっていることが実際に体験することができる。
 銅鐸の筒の中の眼は天頂点を「命中する」の「命中」の[]の上部の[(しゅう/三合]の字源・字義は「天頂点をキャッチして緯度を精確に測量して経緯度原点地を設置し、経緯度原点地を基に土地三角測量をし、この土地三角測量の基点の基に三角形の網や鎖を形作って、精密な地図を作製する」である。
 また、上記した滝峯第1号鐸の模造鐸による観測者の視線が天頂点を命中するまでの装置や手順は、古代における精密な地図を作製する方法と天頂点をキャッチして精確に緯度を測定する方法に合致する。
 新村出編『広辞苑』(岩波書店)は【天頂点】を「地球上の観測点における重力の方向(鉛直線)を上方に延ばして天球と交わる点」と説明する。地面に垂直に立つ銅鐸の筒の中の測量士の視線がキャッチする鈕の影が最も細い線が天頂緯度線とぴったり重なって、渦巻双耳の文様が的の同心円形となって、測量士の視線が矢となって命中する的の中心にぴったり重なる箇所は【天頂点】となる。【天頂点】は「高度90度」で「それ以上の上となる箇所が無い、最も高い天空」であるゆえ、“字書の聖典”と呼ばれた字源解説書の『説文解字(せつもんかいじ)』は[]の字源を「至高(しこう)にして上なし」と解説して、[]の字源・字形・字義は「天頂点」であったと解説する。

◆いわゆる中国の五経の第一に挙げられる中国の古典『易経』の繋辞上伝(けいじじょうでん)には「仰いでもって天文を観、俯()してもって地理を察(あきらかに)す」という記事がある。この記事は「仰いで天頂緯度線と天頂点と重なる[]の字源となった銀河部位をキャッチして精確に緯度を測定して、地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)を明らかにした」と伝えている。
 また、『易経』繋辞下伝(けいじげでん)には「仰いでは天象を観()、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観る。(中略)。もって万物の情(じょう/イメージ)を類するように文字を作った」と説明する記事がある。
 上記した『易経』の繋辞の上伝と下伝の記事は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識が確立した地図作製方法】について今日に伝える記事である。
 この『易経』の繋辞の上伝・下伝が伝える【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識が確立した地図作製方法】が、260年頃~290年頃に作製された細江町の1千万坪の地宜(地図)に失われずに残っている。

◆上記したように、『魏志倭人伝』は280年~289年に著作され、細江町の1千万坪の地宜は260年頃から始めて290年頃に完成したゆえ、『魏志倭人伝』と細江町の1千万坪の地宜はまったく同時代に作られたことになる。
1】 細江町の地図には『魏志倭人伝』に記述された【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学識】と【「卑弥呼」の3字の字源・字形・字義】が証明できる機能(役割)がそなわっている。そして、細江町の地図によって【『魏志倭人伝』の全記事は正しいと証明される。ゆえに、考古学の研究成果によるすべての邪馬台国説は迷妄・空理空論であり、卑弥呼は邪馬壱国・出雲地方に居住したと証明され、『魏志倭人伝』は「文献批判」という名の「誤読・歪曲・考古学の主観的偏見」を1ヵ所も必要としない、全記事が正しい文献であったと証明される。
2】細江町の地図は、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話冒頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に記述された【小国・日本は〔愛〕の理念を掲げて誕生した歴史】を後世に伝えるために作製された。だから、淤能碁呂島聖婚説話は実際に起きた歴史であったことになる。
3】細江町の地図は、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命(すさのをのみこと)の誓約説話末部に登場する「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の祖(おや/先祖)の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」という、遠江の豪族一族によって作製された。ゆえに、細江町の地図には「建比良鳥命」という名をあらわす機能がそなわり、また「天照大御神と須佐之男命の誓約説話の記事」をも表示する機能もそなわっている。したがって、天照大御神と須佐之男命は3世紀に生存した歴史上の人物であったことになる。
4】つまり、『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)は――わが国は後期縄文時代初頭に夏音文字と倉頡が発明した夏の銀河の各部の形状を字源・字形の原形・原義とする漢字作成原理と作成方法を習得した。そして、夏音文字と夏音文字の音を記す楷書の両方の文字の字源・字形の原形・原義も銀河各部の形状であった。したがって、〔音〕という注が付く夏音文字と夏音文字の音記号に用いる楷書の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換すれば、『古事記』上巻に記述された歴史は鮮烈に甦(よみがえ)る――と、歴史解明方法を説明していたことが事実となる。
 江戸中期の新井白石以後の『古事記』を研究した本居宣長(1730-1801)をふくむ全学者たちは、「古事記上巻 幷せて序」の主題(主なる内容)が【歴史解明方法の説明】であることにまったく気づいていない。
 だから、新井白石以後の学者たちは伝統的に「古事記上巻 幷せて序」に記述され歴史解明方法の説明文が読解せず、空理空論となる誤った方法で『古事記』上巻の記事を解釈する。
 「古事記上巻 幷せて序」が説明する歴史解明方法にのっとれば、現在の考古学者はじめとする学者たちの邪馬台国説と『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀の意見は学問的に無価値・空理空論となる。また、考古学者たちの『記』『紀』に記述された天皇の陵墓の意見には誤読・非科学・主観的偏見によるものも混在していることが明白となる。
 以上のごとく、現在の学者たちは歴史解明方法を説明する「古事記上巻 幷せて序」の記事を無視して勝手に解釈するため、『古事記』上巻に記述された歴史が解明できない。
 「古事記上巻 幷せて序」が説明する歴史解明方法にのっとって、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話冒頭の――ここに天(あま)つ神々の命(みこと)以ちて、伊耶那岐命・伊耶那美命に(中略)()りて――という文と、後ろのある――(伊耶那岐命と伊耶那美命は)その島に天降(あも)り坐()した――という文を、現代語に訳すると前者の文は「天(天頂点の軌道・天頂線緯線)のキャッチを最も重視する倭女王卑弥呼と卑弥呼王朝をささえる権力者の面々は伊耶那岐命と伊耶那美命に小国・日本への赴任を命じた」と意味することになり、後者の文は「伊耶那岐命と伊耶那美命は小国・日本へ赴任する道中、天頂緯度線を測定して淤能碁呂島に到着した」と意味するものであったことになる。
 しかし、学者たちは前者の冒頭文を「雲の上に住む天空の神々の一同は、雲の上に住む伊耶那岐命と伊耶那美命に命令した」と訳し、後者の文を「伊耶那岐命と伊耶那美命は雲上の天空から淤能碁呂島に降下した」と解釈する。だから、現在の学者たちのごとく「古事記上巻 幷せて序」の歴史解明方法を排除・無視する方法で解釈すると、歴史を解明することができない。


◆「古事記上巻 幷せて序」の「わが国には夏の銀河各部の形状から漢字を作った倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字を習得した」という説明に則(のっと)って『魏志倭人伝』を読解すると、約2000字で構成される『魏志倭人伝』の全記事には1ヵ所も【文献批判】という名の【誤読・歪曲・主観的偏見】を加える必要がないことになる。ゆえに、多数の【誤読・歪曲・主観的偏見】を加えて立論される、考古学自慢の吉野ケ里遺跡邪馬台国説と纏向遺跡邪馬台国説は『魏志倭人伝』の記事と1ヵ所も合致しない学問的に無価値の空理空論であったことになる。つまり、卑弥呼はその地図の形が当時(2世紀末~3世紀半ば)に「邪馬壱」と示していた山陰出雲に居住し、その王国名は邪馬壱(やまい)国であったことになる。 

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