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2021年1月

2021年1月28日 (木)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・4

 

▼2021年1月元日の午後7時~9時までの2時間、NHKBSプレミアムテレビ・3チャンネルは「邪馬台国サミット」と題する番組を放送した。朝日新聞のテレビ欄は、「邪馬台国サミット」の番組の概要を「対決! 九州説VS近畿説 第一線の研究者たちが一堂に会して大激論! 魏志倭人伝のウソを読み解く」と紹介した。この「魏志倭人伝のウソを読み解く」という文句に「ナヌ?」と思わずビックリして、私は「邪馬台国サミット」と題する番組を視聴することにした。というのも、私は280年~289年に著作された『魏志倭人伝』と同時代の260年頃~290年頃までの約30年間を費やして、『魏志倭人伝』に記述された倭人国に一員である小国・不呼(ふこ)国に作製された「1千万坪の大鳥の地上絵」を発見していたからである。この「1千万坪の大鳥の地上絵」を注目すると、「魏志倭人伝の全記事は客観的に相対的に【科学】が成立して真実・事実を伝えていること」が明らかとなる。この3世紀後半に作製された遺跡は旧国の遠江、今日の静岡県浜松市北区細江(ほそえ)町の行政区域を表示する地図の形となって現在まで失われずに残った。この「1千万坪の大鳥の地上絵」によって――「邪馬台国サミット」で語った先生方全員の意見は『魏志倭人伝』の全記事と1ヵ所も合致しない・まったく無関係の空理空論・口から出まかせの戯言(ざれごと)であった事実――が証明される。だから、この「細江町・1千万坪の大鳥の地上絵」は「キリスト教でいう、神意・真理を神が人に示す黙示録(もくしろく)」と譬(たと)えるべき遺跡であるゆえ、ウソ八百・空理空論の九州説と畿内説によって日本国がぶっ壊されないために、また日本文化をささえる神聖な学問にウソ・デマ・サギの九州説と畿内説が仲間入りするような不条理・不正の状況をキリストさまはじめ神さまも仏さまも絶対に見逃してはいけないと私に命令するにちがいないので、「1千万坪の大鳥の地上絵」に棲(す)む地霊を呼び興して九州説と畿内説がフェイク、詐欺(サギ)である実態を暴露することにした

★「倭人国の地理学」のトリセツ・13

◆わがブログ「フェイク&まぼろしの邪馬台国・3回」で詳細に解説したよう――約2000字で構成される『魏志倭人伝』は約55パーセント・約1100字の記事をもって「紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、中国から日本列島に伝来した【夏音文字】を習得した時、【紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝に仕えた倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】をも習得した」と説明していることになる。
 だから、『魏志倭人伝』の全記事を信用して、1ヵ所も【誤読、歪曲、主観的推論(口から出まかせの戯言)】に加えなければ――『魏志倭人伝』は明白に「卑弥呼王朝の政治基盤は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】であったと伝える歴史書」であったことになる。
 にもかかわらず、「邪馬台国サミット」に一堂を会した九州説と畿内説の第一線の先生方は自分の説に都合がよいナンセンスな戯言(ざれごと)を口々に述べていた。

◆「銀河」の別称は「銀漢」であり、「銀漢から作られた字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と呼んだ。
 倉頡は天文学において通称「夏の銀河」と呼ばれる「夏の星座が漬()かる銀河」から漢字を作る方法を発明した。倉頡が仕える黄帝は東洋最古の医学書『内径』を作ったと伝わる。黄帝の主なる研究は【女性の生殖器と子どもの出産】であった。このため、倉頡は「夏の銀河(漢字作成銀河)から黄帝の【女性の生殖器と子どもの出産】の医学研究をあらわす文字」を発明した。
 「夏の銀河の写真」はわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・2回」に載せた。ゆえに、今回のブログでは省略させていただく。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・2回」にて指摘したように――倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝が容易に崩壊・滅亡すると心配して、【1】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」という事実を暴露した者とその一族全員に神罰を下して即刻に死刑にする」という掟(法律)を定めた。
 また、倉頡は【2】「多くの文字を容易に覚えるため、夏の銀河の各部に名称を付けた者とその一族全員も神罰が下って即刻に死刑にする」という掟を定めた。
 このため、今日にあっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。夏の銀河の各部の名称が無いと、『魏志倭人伝』の主なる記事は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を説明するものであった――この事実の解説と証明が非常に困難となる。ゆえに、私はわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・2回」に「夏の銀河(文字作成銀河)各部の名称」を定めて図示した。これゆえ、この回では「夏の銀河(文字作成銀河)各部の名称の説明図」は省略しますゆえ、「邪馬台国説はサギ・騙されるな・2回」を参照していただきたい。

また、倉頡は【3】「書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員まで死刑にする」と定めた。
 だから、五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)、夏代(かだい)の夏音文字、殷代(いんだん)前半の原初漢字は、【3】の掟を厳重にまもったため、これらの原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。〔注 実際は数点も発見・出土しているが、学者たちがこれらの資料を「文字」と認めないゆえ、いまだ一点も発見・出土しないことになっている〕。
 紀元前1300年頃から始まる殷代後半に出現した亀の甲羅に刻んだ契文(けいぶん)=甲骨文字は文字数が多数となったが原因で、【3】の掟を毎度まもるのは非常に面倒になったために破られた。ゆえに、甲骨文字以後の周代の金文・その後の大篆(だいてん)や小篆(しょうてん)や隷書(れいしょ)や楷書(かいしょ)は【3】の掟を破っても良いことになった。
 卑弥呼が最初に歴史上に登場したのは180年頃であった。当時は後漢時代末で原始的楷書が用いられていたゆえ、倭人国が有した五帝時代の原初漢字・書契(わが国では「刻木」といった)と夏代(かだい)の原初漢字・夏音文字は楷書で表記されることになった。
 甲骨文字が用いられた殷代後半以後、【倉頡が発明した漢字作成理論】は国家と王朝が独占管理して厳重に機密を保持し、また同様に倉頡が定めた【1】と【2】の掟は国家と王朝によって厳重に守られた。だから、『魏志倭人伝』が「卑弥呼が文書に用いる漢字と魏の都と帯方郡・諸韓国が文書に用いる漢字は相違していた」と明記するにもかかわらず、九州説と畿内説をとなえる先生方は「わが国(倭人国)には原初漢字が存在した」という記事を徹底的に無視して、そんな記事が『魏志倭人伝』に存在することを厳重な機密にして口を「ぎゅー」かたく閉じて一言もしゃべらない。その証拠に、学者の方々は一人も「魏志倭人伝には『倭人国には原初漢字があった』と説明する記事が2ヵ所も存在する」と指摘したことが無いゆえ――日本全国民はじめメディアも『魏志倭人伝』に「わが国には原初漢字があった」と明確に指摘する記事が2ヵ所ある事実を知らない。
 しかし、『魏志倭人伝』には「倭人国には原初漢字が存在した」と説明する記事が2ヵ所も存在する。
 現代の学者たちは『魏志倭人伝』に記述された「卑弥呼が文書に用いていた文字」は「銀漢から作られた字」を略して「漢字」と呼ばれる類(たぐい)ではないかと、誰一人も想像しない。ところが、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は約1100字・約55パーセントの記事をもって【約5000年前に生存した倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】について説明していたのである。
 このような経緯と事情によって――新井白石(16571725)以来約300年間、学者の方々は「『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を伝える書物である」、そんな非常識なことは絶対にありえないと決定してしまった次第である。

◆「邪馬台国説はサギ・騙されるな・2回」で解説したように、「歳差(さいさ)」という天文現象を利用すると、黄帝と倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代初頭のおける中国全土の天頂にめぐってきた銀河を算出して知ることができる。
 五帝時代初頭、下に示すように――私が「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた銀河が中国全土の天頂にめぐってきた。
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 上の「五帝時代初頭の黄帝時代の緯度線図」の右下にある「鬼の横顔に似る銀河」の「横顔」には、下の図で拡大したように――目の形に似る銀河部が二つ、「鬼の横顔に似る銀河の後頭部とアゴ」にも目の形に似る銀河部が二つあるゆえ、合計「目の形に似る銀河部」は4ヵ所存在する。これゆえ、「倉頡が漢字を発明した」と伝える倉頡伝説は「倉頡は四つ目の怪人であった」と表現した。この「四つ目の怪人・倉頡」という伝承について、現代の学者たちは「人間には目は四つ無い! 倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメだ」と断定する。[][][][]4字の字源銀河・字形銀河・字義銀河は「四つ目の、鬼の横顔に似る銀河」であった。だから、倉頡伝説は「倉頡」を「四つ目の怪人・倉頡」と伝えた。したがって、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」は「漢字は夏の銀河から作られた」と伝えていたことになる。」
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◆倉頡が漢字を発明する目的は、黄帝がおこなった「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究をあらわすことができる文字を考案することであった。
 下の図に示すように、黄帝時代の中国全土の天頂にめぐってきて、地上の人々が精確に緯度を測定できる羅針盤となって最も大事な命をまもった「十字の銀河」、その西側半分に「乳房」「妊婦の腹部」「右足」に観える部分があり、また「子宮に相当する箇所」がある。
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 だから、倉頡は「十字の銀河」を「夏の銀河の各部から作られた全文字を生む母体」と定めた。また「十字の銀河の子宮」を「夏の銀河の各部から作られた全文字が生まれる子宮」と定めた。
 倉頡は「十字の銀河」を[]の字源・字形・字義をあらわすと定めた。ゆえに、下の上図に示す[]の金文形は「十字の銀河」を「子宮に胎児が宿る妊婦の正面形」に図案した。
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 倉頡は「十字の銀河」を「遠くの地平線かなたに生息する食料・防寒具(皮衣)となるジャコウウシを狩猟した男たちが帰還する、子どもたちが待つ家」に見立てた。ゆえに、上の下図に示した[]の金文形は上部を「十字の銀河」を「家族が生活する家」をあらわす[(べん)]の形に図案し、[]の下に「鬼の姿に似る銀河」を字源・字形・字義とする「家で育つ子ども」をあらわす[]が加わって構成されることになった。
 上に示した[][]の字源解説図は【黄帝の医学研究と倉頡が発明した漢字作成原理】をあらわした。

◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・2回」にて詳細に解説したように――倉頡は、[]の作字方法には矛盾点・不合理な点があることに気づいた。倉頡は最初「子どもは顔を母体の腹部を正面にして出産する」と考えて、[]の字を作ったからである。
 ところが、「子どもはその顔を母体の臀部(お尻)を正面にして出産する」。だから、上に示した[]の字源銀河解説図における「十字の銀河の腹部」は180度転回して「十字の銀河の臀部(お尻)」であると、倉頡は定めた。
 したがって、[]の字源となる「十字の銀河の腹部」は腹部ではなく「十字の銀河の臀部」となる改訂を定着させるために、倉頡は[()]の字を創った。ゆえに、[]は【倉頡が発明した漢字作成方法における基本字】となった。
 倉頡は「十字の銀河の腹部」を「十字の銀河の臀部」と改めて、下の上図に示すように、「十字の銀河」の中央に「禾(イネ)」の図案を重ねる[]の字を考案した。
 この[]の字をもって黄帝が政治目標とした「人民の胃袋を食物で満たす」つまり「五穀豊穣」という政治スローガンをあらわすことにした。
 また、[]の字源銀河解説において「禾(イネ)の穂が〔南〕から〔西〕に垂れている」ように、「時計回りに方位が90度転回して北→東・東→南・南→西・西→北に変わる、転回方位規定」をあらわすことになった。
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 さらに、上の下図に示すように、倉頡は「子授け祈願する時や健やかに出産した子どもを祝う時に用いる土器の[(さい)]を肩の上にかかげて巫女が身をくねらせて舞い踊る姿」を図案する[]の字を創った。この[]の字は、黄帝の政治スローガン「人民たちが最も幸福とする、国土に多数の子どもたちが満ち満ちあふれる状況」をあらわした。また、[]の字は「逆時計回りに方位が90度転回して北→西・西→南・南→東・東→北に変わる、転回方位規定」をあらわした。
 上に示した[][]の字は【倉頡が発明した漢字作成方法】をあらわした。
 漢字が作られた「夏の銀河」は日周運動をする。だから、「十字の銀河」や「鬼の横顔に似る銀河」は東北の地平線から昇り西北の地平線下に没する日周運動して「東北→南(天頂)→西北」と方位が変わる。
 ゆえに、銀河各部の運行における方位が転回する様子を日々見て知っていた当時の多くの人々は「【A】地平線より内側の地域の方角規定と、【B】地平線より外側となる遠く離れた地所の方角規定は相違するはずである」と考えた。
 というのも、天頂にめぐってくる「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は東北から昇り西北の地平線に没し、この「東北(地平線)と西北(地平線)と観測地点の3点」を結ぶと、観測者の足元の角度は「90度」となる。だから、倉頡が考えた【[][]90度転回する方位規定理論】は銀河の運行を日々観察した当時の多数の人々が理解して納得したため、【倉頡が発明した漢字作成方法】として確立されることになった。
 現在の西洋近代科学の合理思考を教育された我々には、倉頡が立論した【[][]の字源で定理した、遠くの地所の方位は90度転回すると定めた理論】は不可解で納得できない。しかし――この転回方位規定理論は【倉頡が発明した漢字作成方法】と定められて、[][]の他に多数の漢字が作られた。ゆえに、「理解できない! 馬鹿げている! ウソだ」と激怒して反論しても、【倉頡が発明した漢字作成方法】となった、この事実は『魏志倭人伝』の記事によって【科学】が成立して証明できるゆえ歴史上の事実であったことになる。

◆倉頡は【漢字作成理論(漢字の作成原理・作成方法)】を象徴する聖獣を定めた。
 『魏志倭人伝』が「倭地には牛と馬が無い(生息していない)と説明する――[]の字源「ジャコウウシ」と[]の字源「フタコブラクダ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
 下の図に示したように、「ジャコウウシ」は「第5週ごろの胎児の姿」に類似すると見立てられた。また、天敵のオオカミに襲われるとジャコウウシの群れは子どもを真ん中に隠し、円陣を組んで衛(まも)った。だから、「円陣の真ん中に隠すジャコウウシの子ども」は「子宮に宿る胎児」に見立てられ、「ジャコウウシの群れが組む円陣」は「女性の生殖器の大半を包囲して子宮に宿る胎児の命を衛る骨盤」に見立てられて、「ジャコウウシ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣と定められた。
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 ジャコウウシは有史以前には北半球の寒帯に生息していたが、紀元前3000年頃の黄帝時代になると、多くの地方で絶滅したとされる。黄帝時代、黄帝が居住地としたと推定される陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)の黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)周辺地域から北方の毛烏素(ムウス)沙漠は凍土・ツンドラ地帯と化していた。ゆえに、秋から冬になると百頭以上が一団となるジャコウウシの幾つかの群れが地平線かなたの毛烏素沙漠から南の黄帝の居住地近い餌場(えさば)を目指してあらわれた。その証拠に、司馬遷著『史記』五帝本紀には「師兵をもって営衛(えいえい)となす」という記事があり、この記事は「黄帝軍は駐屯するとき、兵たちは円陣を組んで自衛した」と意味した。黄帝軍は円陣を組むジャコウウシの習性から学んで円陣を組んで駐屯していたのである。
 「ジャコウウシ」は[][][][][][][][][][][][][][]などの[]の部首を有する文字の字源となり、また「円陣を組んで衛(まも)る習性」から「防衛」の[]の字源となり、あるいは「祭祀に用いる完全(最も理想的)な犠牲(いけにえ)」とされたうえに黄帝時代以後に中国から去って姿を消すと「たたり」を意味する[(すい)]あるいは[(じゅつ)]の字源・字義となった。さらに、医学用語の「子どもが生まれようとするときに妊婦の腹部を襲う猛烈な傷み」の「陣痛」も「円陣を組む習性のジャコウウシ」が語源となった。
 このように[][]の部首を有する多数の字が示すように、ジャコウウシの大群は黄帝が居住した地域の近くまで出現していたのである。
 男たちはジャコウウシを狩猟して、鹿やイノシシと違って生臭さがない麝香(じゃこう)の芳香がする美味しいジャコウウシの肉を家族に与えていた。ゆえに、黄帝遠征軍のジャコウウシの肉を食べる兵士たちは筋肉逞(たくま)しく猛々(たけだけ)しかった。ゆえに、黄帝軍は負け知らずということになり、黄帝は天下を手に入れることができたのである。

 『魏志倭人伝』に記載される「対馬国」「投馬国」「邪馬壱国」「斯馬国」「邪馬国」などの小国名に用いられる[]の字源・字形・字義は「フタコブラクダ」であった。わが国には、フタコブラクダは生息していなかったが、「フタコブラクダ」が字源・字形・字義となる[]の字がつく小国名が5ヵ国、しかも卑弥呼が居住した王国名は「邪馬壱(やまい)国」である。したがって、わが国には「フタコブラクダ」を字源・字形・字義とする[]の原初漢字が存在したことになる。
 〔注 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・1回」で証明したように、『魏志倭人伝』は「邪馬壱国」と記す。九州説・畿内説の先生方が主張したように『魏志倭人伝』は「邪馬台国」と記していない。いずれにせよ、「邪馬壱国」でも「邪馬台国」でも、卑弥呼が居住した王国名に用いられる[]は「フタコブラクダ」を意味した。〕
 ゴビ沙漠に住む人々にとって、フタコブラクダは「沙漠の船」となって欠くことができない大切な家畜である。フタコブラクダは位置も方位も茫漠としたゴビ沙漠を往来しても道に迷わない。ゆえに、天頂緯度線をキャッチして位置と方位を測定して日々暮らしていた黄帝時代の人々は《フタコブラクダは精確に天頂緯度線をキャッチできる神秘的な眼力を有する》と憧れた。ゆえに、フタコブラクダは聖なる獣と尊重された。
 下の図に示すように、「フタコブラクダの両目は顔の両端にある」と同様に「第7週頃の胎児の両目も顔の両端に離れている」。また、「フタコブラクダの睫毛(まつげ)は長い」と同様に「子ども(乳児)のつぶらな目の睫毛も長い」。
 だから、「フタコブラクダ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
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◆中国の五経の第一番目にあげられる古典『易経(えききょう)』繋辞下伝(けいじげでん)は【漢字の起源】について下記のごとく記述する。
 「古者(いにしえ)包犠(ほうぎ)氏の天下に王たるや、仰いでは天象を観、俯()しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観る。近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る。ここにおいて始めて八卦(はっけ)を作り、もって神明の徳に通じ、もって万物の情に類して結縄(けつじょう)を作った」
 また、この【漢字の起源記事】の直後に、『易経』繋辞下伝は、下記のごとく説明する。
 「上古は結縄して治める。後世の聖人これに易()えるに書契をもってす。」
 この【書契説明記事】における「結縄」は「紀元前4000年頃の三皇時代初頭に生存した包犧氏が考案した易卜に用いた記号の名称」である。また、「後世の聖人」は「【漢字作成理論「鳥獣の文」】を発明し、【万物の情(イメージ)に類する書契】を考案した倉頡」である。
 したがって、上に示した『易経』繋辞下伝の【漢字の起源記事の冒頭と末部】は誤っている。というのも、三皇時代には易に用いる記号である「結縄」を考案したが、黄帝の医学研究をあらわすことができる「万物の情に類する文字」は倉頡によって発明されたからだ。
 上に示した【漢字の起源記事】を「黄帝に仕えた史官の倉頡は、仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観る。(中略)。もって万物の情に類して書契を作った」と直すと正しくなる。
 【漢字の起源記事】に登場する「天象」は「夏の銀河」を意味し、「地法」は「東から西へ運行する天象部(銀河部)に反して、中国の大地をけずって流れる代表的な黄河や長江の水は西から東へ去る(移動する)状況」を意味した。「鳥獣の文」は【倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわす名称であり、倉頡伝説では「鳥獣の足跡」と名づけられた。「地宜」は「平面的に図化した地図の形」を意味した。「八卦」は「易の判断の基礎となる八つの象(かたち)、すなわち、乾(けん)・兌()・離()・震(しん)・巽(そん)・坎(かん)・艮(ごん)・坤(こん)の称」ではない。「八卦」は「東・西・南・北の四方位と、東北・西北・東南・西南の四方角、つまり八方位、八代(やしろ)、八隅(やすみ)」を意味する。「円形の土俵で、両力士に未だ勝負がつかない」と知らせる行司が「ハッケイ、良()おーい、残った、残った」と叫ぶ掛け声の「ハッケイ」は、【漢字の起源記事】に登場する「八卦」つまり「両力士は土俵上における東・西・南・北の四方位においても、東北・西北・東南・西南の四方角、合わせて八隅のどの方角において土俵の外に出ていない。だから、いまだ勝負がつかずに両力士は土俵上に残っている」と意味するものである。「相撲(すもう)」は「角力」(すもう)とも表記される。メスをめぐって闘うジャコウウシのオスは両端に遠く離れた位置から全速力で両者の大きな角(つの)をめがけて突進してぶつけあい、そして土俵上の角力取りと同様に角と全体重で押し相撲をおこなう。だから、「相撲」は「ジャコウウシのオスの闘いの様子」にもとづいて「角力」とも表記されたのである。
 下に「ジャコウウシの牡が角をぶっつけあって、角力取りのごとく押しあって闘う姿の写真」を示した。〔注 この写真は、星野道夫記念ライブラリー作製の葉書の写真である〕。
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 なお、上に示した【漢字の起源記事】に登場する「近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る」という文は、前述した【倉頡が発明した漢字作成方法、つまり[][]の字源の秘密】である「【A】地平線より内界の地域の方位と、【B】地平線より外界の遠く離れた地所の方位は90度転回して異なると定めた規定」をあらわした。

◆『魏志倭人伝』は「対馬国の南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」と説明する。
 この記事が示すように、卑弥呼は「対馬国(現在の長崎県北部の朝鮮半島と九州本土の中間にある島)と一大国(現在の長崎県北部の壱岐島)の中間の海」を「瀚海」と名づけた。
 「瀚海」は、中国北部・モンゴルより南方にある[]に字源「フタコブラクダ」が棲む「ゴビ沙漠」を意味する。
 西暦121(後漢の建光元年)に安帝に献呈した許慎(きょしん)が著作した“字書の聖典”『説文解字(せつもんかいじ)』は[]の字を「怒るなり。武なり。馬の頭・鬣(たてがみ)・尾・四足の形に象(かたど)る」と解説する。「ウマ」も「フタコブラクダ」も「鬣(たてがみ)」を有するが、「瀚海・ゴビ沙漠」の住む人々にとって欠くことができないたいせつな家畜は「フタコブラクダ」であって「ウマ」ではない。
 卑弥呼は「現在の対馬と壱岐島の中間の東水道」を「瀚海」(ゴビ砂漠)と名づけて、【実った小麦を収穫する秋になると、毛烏素(ムウス)沙漠がある北方のかなたの地平線から1組百頭以上のジャコウウシが犇(ひし)めいて一団となる、その幾組の群れが黄帝の居住地近くにある餌場へ目指して出現した壮大な光景】を甦(よみがえ)らせて、【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」】をあらわすことにしたのである。
 下に「対馬国・瀚海・一大国の地図」を示した。
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 卑弥呼は、上の地図における「対馬国」を「ゴビ沙漠・瀚海北方のモンゴル」に見立てた。また、卑弥呼は「瀚海」はもちろん「ゴビ沙漠」に見立て、そして「一大国」は「ゴビ沙漠南方の毛烏素沙漠を縦断してさらに南へ前進するジャコウウシの大群――つまり、黄帝の居住地から見える地平線上にあらわれるジャコウウシの大群」に見立てた。
 下に示すように、「黄色く輝く、三つ輪の銀河」は「月の光が照らして黄色く輝くゴビ沙漠」のイメージとなる。「三つ輪の銀河」に隣接する「黄色く輝く、十字の銀河」も「月の光にきらめく沙漠の沙(すな)」のイメージとなる。ゆえに、「十字の銀河」は「ゴビ沙漠に棲むフタコブラクダ」に見立てられた。
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 よって、下の図に示すように、「三つ輪の銀河」は「沙漠」に見立てられ、「十字の銀河」は「フタコブラクダの側身形」に見立てられて[]の字源・字形・字義となり「フタコブラクダ」をあらわすことになった。
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 下の図に示すように、「対馬の上県(かみあがた)の地宜」は「フタコブラクダの正面形」に類似すると見立てられた。というのも、前にて図示した「胎児の顔の両目はフタコブラクダの両目と同じく顔の両端にある」。ゆえに、この点からして「上県の地宜はフタコブラクダの正面形」と見立てられることになった。
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 上の図に示すように、「対馬の下県(しもあがた)の地宜」は「沙漠を歩くのに都合(つごう)のよい、丈夫な足の指を有するフタコブラクダの足底や足跡の形」と見立てられた。「下県の地宜」は「東北の上県に目指して去ったフタコブラクダの足跡の形」である。「上県の地宜」に見立てられた「フタコブラクダの顔」は〔東〕に向く。同様に[]の字源「十字の銀」のおけるフタコブラクダの顔」も〔東〕に向く〔注 地宜においては「右・東(つまり、右側が東)」となり、天象・銀河図においては「つまり、左・東(左側が東)」となる〕。
 ゆえに、「上県の地宜は、下県がある西南へフタコブラクダが進む正面形」に見立てられ、「下県の地宜は、上県がある東北へ去ったフタコブラクダの足跡の形」に見立てられた。
 だから、「上県・下県の地宜」は「つまりフタコブラクダの姿と足跡の形が一対となる」ゆえ、「上県・下県」の小国名は「一対」の[][]が加わる「対馬」となった。

◆下の図に示すように、「一大国の壱岐の地宜」は[]字形であるということで、「十字の銀河の子宮」に見立てられた。
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 2世紀初頭に成立した“字書の聖典”と古代の人々が尊重した『説文解字(せつもんかいじ)』は[]の字源を「至高(しこう)にして上なし。一大に従ふ」と解説する。このように、『説文解字』は、下に示した[]の字源解説図における「十字の銀河の子宮」を「一大に従ふ」と表現した。
 上の「一大国・壱岐」の解説図に示したように、卑弥呼は「壱岐の地宜」を「十字の銀河の子宮」に類似すると見立てたゆえ、小国名を「一大国」と定めた。
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 また、卑弥呼が「壱岐の地宜」が相似すると見立てた「十字の銀河の子宮」を、前述したように倉頡は「夏の銀河の各部の形状から作られた全漢字が生まれる子宮」と定めた。
 卑弥呼は「壱岐の地宜」を「十字の銀河の子宮・一大」に見立てれば、玄界灘南方の九州北部の沿岸に所在する「末盧・伊都・奴・不弥」の四小国の地宜にもとづいて考えた小国名に用いられる文字はすべて「十字の銀河の子宮・壱岐島の地宜から生まれる」とあらわすことができると証明した。だから、「壱岐島」は「一大国」と名づけられ、一大国は【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」】をあらわすことになった。
〔注 倉頡が発明した漢字作成理論の「鳥獣の足跡」の語源は「一大国」の「一大」つまり、上にて説明した[]の字源における「十字の銀河の子宮」の「至高にして上なし。一大に従ふ」の「一大」である。ゆえに、「鳥獣の足跡」と「一大」の語源は、共に「十字の銀河の子宮」である。〕

◆下に示した「一大国・壱岐の地宜」は「現在の壱岐島の地図の形を〔東〕を〔南〕へ時計回りに90度方位を転回する[]の字源・字義をあらわす方位規定」に則(のっと)る地図の形である。
 []の字源・字義をあらわす転回方位規定に則る「一大国北端(上部)の地宜」は「毛烏素沙漠はるか遠くの瀚海の東西を往来するフタコブラクダの姿」に見立てられた。ゆえに、「一大国の大半を占める、ジャコウウシの姿」は「春から夏にかけて、黄帝の居住地近くの餌場から次第に北方の毛烏素沙漠へ向かって去ってゆくジャコウウシの群れ」に見立てられたことになる。
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 下に、「現在の地図と同じ方位規定における一大国の地宜」を示した。この現在方位にもとづく「一大国の地宜」だと「ジャコウウシの顔は南に向いている」ゆえ、「南へと前進するジャコウウシの大群」に見立てることができる。
 したがって、この「一大国の地宜」は「穀物の収穫期の秋になると、フタコブラクダが棲む瀚海・ゴビ沙漠ある北方から南の毛烏素沙漠へと進み、凍土・ツンドラ地帯と化した毛烏素沙漠を縦断して到着した、黄帝が住む居住地からはるかに遠くの地平線上に出現したジャコウウシの大群」に見立てられたことになる。
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 したがって、卑弥呼は「冬になると季節風で海が荒れる玄界灘」を「乾燥した寒風が荒れ狂う吹雪の中をジャコウウシの大群が突きすすんで到着する、風で雪が吹きとばされた地表の露出した餌場・摂食地(せっしょくち)がある一帯地域」と見立てたことになる。
 だから、卑弥呼は「玄界灘の南の沿岸地域」を「黄帝の居住地周辺」と見立てて、【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」】をあらわす4小国の地宜に合致する小国名、つまり「末盧(まつろ)国・伊都(いと)国・奴()国・不弥(ふみ)国」の4小国名を定めた。
 「対馬国の地宜」は「聖獣・フタコブラクダの姿」に相似すると見立てられ、「一大国の地宜」は「遠くの見える聖獣・フタコブラクダの姿と近くに見えるジャコウウシの姿」に見立てられた。そして、「対馬国の下県の地宜」は「フタコブラクダの足跡」に見立てられた。だから、【倉頡が発明した漢字作成理論】の名所「鳥獣の足跡」における[]と「足跡」がそろっているが、「鳥」と見立てられた地宜が対馬国と一大国には存在しない。
 しかし、九州北岸に所在した「不弥国」の[][]の字源は「鳥」をあらわした。
 『説文解字』は[]の字源を「鳥飛んで上翔(じょうしょう)し、下り来らざるなり。一に従ふ。一はなほ天のごときなり」と解説する。この[]の字源解説後半の「一に従ふ。一はなほ天のごときなり」は、前述した『説文解字』の[]の字源解説「至高にして上なし。一大に従ふ」の「一大」をあらわしている。[]の字源は「水鳥のカンムリカイツブリ」である。カンムリカイツブリは夏に中国東部一帯地域で生息して、穀物が実る秋の収穫期になるとユーラシア大陸の中緯度地方(モンゴル・ロシア連邦)で繁殖するために中国を去る。カンムリカイツブリが中国を飛びたち黄帝が住む居住地の天空を飛翔してモンゴル・ロシア連邦へ向かう秋になると、ジャコウウシの大群が瀚海・ゴビ沙漠を縦断して黄帝が住む地域一帯のはるか北方の地平線に出現したのである。
 ゆえに、卑弥呼が立論した【現在方位と同じ対馬国・瀚海・一大国・玄界灘の地宜と、[]の字源・字義「時計回りに90度方位が転回する規定」に則る末盧国・伊都国・奴国・不弥国の地宜】は【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」】をあらわした。
 だから、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は約1100字・約55パーセントの記事をもって「卑弥呼王朝の政権基盤は【倉頡時代が発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」と夏音文字の学芸】であった」と説明していたことになる。

◆以上のごとく解説・証明した【卑弥呼が考えた倭地理論】からして、学者たちが主張する邪馬台国説の論法は根本的に誤っていた。
 というのも、【「夏の銀河の各部の形状から作られた全漢字は、漢字を生む子宮「鳥獣の足跡」から生まれる」と定めた倉頡の漢字作成理論】を、卑弥呼は【「対馬国の地宜」・「瀚海」・「一大国の地宜」・「玄界灘」の四つの要素】を一つの統合体にして、この四つの各要素が相互に合理となるように巧みな機構(仕組み)を構築するものであったからである。
 この卑弥呼が考えた倭地理論は、当時の中国の後漢王朝が国内の反体制側はじめ諸外国が習得して革命や乱や外国による占領に利用されるのを心配して、王朝と国家が独占管理して最も厳重に機密保持する知識、すなわち【倉頡が発明した漢字作成理論】であった。
 ゆえに、倭国の一女子の卑弥呼に、対馬国と一大国の地宜を知らない後漢王朝が国内・国外に絶対に知られてはならないと最も厳重な機密とした【倉頡が発明した漢字作成理論】を手解(てほど)きするはずがない。また、後漢王朝が「対馬国と一大国の中間の海は瀚海・ゴビ沙漠であった」という冗談(じょうだん)を卑弥呼に教授するなんてことは、まず考えられない。

 学者たちは、『魏志倭人伝』という史料に対する最も基本的な考え方(論法)を――『魏志倭人伝』は単純にわが国の史料として読んではならない。なぜならば、中国で著作された歴史史料であるからである。だから、『魏志倭人伝』は中国史の外国伝という視点からどのように書かれているか、またそれがどのような目的のもとに書かれているのかを慎重(しんちょう)に理解したうえで読む必要がある――と定めている。
 ところが、『魏志倭人伝』における「対馬国・瀚海・一大国・玄界灘」の記述は、上記したように【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」について、卑弥呼が立論した地理論】を説明するものであった。ということは、学者たちの「『魏志倭人伝』はわが国の史料として読んではならない。あくまでも中国の歴史史料として思考しなければならない」という論法は根本的に誤っていたことになる。
 『魏志倭人伝』は「魏都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる楷書と、卑弥呼が文書に用いる原初漢字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)していたが、伊都国の港で楷書と夏音文字のあいだに誤訳が生じないように点検して確認していた」と記述しているように、「倭国には原初漢字(夏音文字)があった」と明記する記事が存在する。
 したがって、『魏志倭人伝』は学者たちが定めた論法に反して――卑弥呼が夏音文字を用いて文書に書いた文を、伊都国の港で魏の都と帯方郡が誤訳・誤解しないように魏都・帯方郡で用いられる楷書に変換した文章を、そのまま著者の陳寿(ちんじゅ)が書き写してまとめた史料が『魏志倭人伝』――であったことになる。
 だから、『魏志倭人伝』はわが国によって作られた史料であったことになる。
 言いかえると、『魏志倭人伝』に記載された33の小国名と小国名不明の1小国の計34ヵ小国の説明記事は――後期縄文時代初頭、中国から「精密地図作製方法」と得意とした名門益(えき)氏の王子(天祖)と若者たちが玄界灘を渡り日本海の沿岸地帯を北進して東北地方の男鹿・米代川縄文文化圏に定住し、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸と精密地図作製方法】を東日本一帯にひろめた歴史――を再現して卑弥呼が立論した倭人国の地理を伝えるものであった。
 前回のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・3回」にて詳細に解説摘したように――『魏志倭人伝』には「古(いにしえ)より以来、倭の使者が中国に到着すると、彼らはみな“大夫”と称した」という記事がある。万葉仮名の「大夫」は「ますらを」と読み、「ますらを」は今日「益荒男」と表記する。「益荒男」という語は「益氏の王子と若者が渡ったように、荒波逆巻く玄界灘を渡ってきた男子」と意味することになる。ゆえに、『魏志倭人伝』に記される「大夫」という語は「後期縄文時代初頭、名門益氏の王子(天祖)と若者たちが日本列島に定住して【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸と精密地図作製方法】をひろめた」と伝える語でもあったことになる。
 次回のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・5回」は、後期縄文時代初頭、男鹿・米代川縄文文化圏に定住した名門益氏の王子(天祖)と若者たちが【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸と精密地図作製方法】を伝えたために、当時における中国最先端の学問は関東地方までひろまった様子を科学的に詳細に解説して証明する。したがって、卑弥呼が生存した後期弥生時代において【精密地図作製方法】が西日本一帯まで波及していたゆえ、上に示した〈対馬国と一大国の地宜〉を卑弥呼は知っていたのである。
 以上、学者たちが主張するように、『魏志倭人伝』は中国の歴史史料・中国史の外国伝ではなかったのである。

◆『魏志倭人伝』と名づけられた史料は、『三国志』魏書東夷伝の末部の〔倭人伝〕の通称である。
 著者の陳寿は、『三国志』魏書東夷伝の序文で、東夷諸国の史料についての考え方を下記のごとく述べている。
 「中国人がその地を訪れたことがなく、外国から来る使節や使者が伝える説明では、その国の位置や習俗は正確に知ることができない。二十数年も西域地方に行って過ごした前漢の外交官の張騫(ちょうけん)が帰国して伝えた報告でも、西域地方のことはすべて詳しく正確にわからなかった。西域に都護府(とごふ)を設置してから、ようやく西域のことが正確に記述できるようになった。したがって、東夷諸国のことは、魏の景初(けいしょ)二年(238)と正始(せいし)六年(245)の再度の司馬懿(しばい)が率いた魏軍の出兵で、この遠征軍が通った地方の国々の大小や国名・風俗・習慣などについて正確に書くことができるようになった。」

ゆえに、陳寿は魏の正始八年(247)に倭人国に派遣された帯方郡使節の張政(ちょうせい)が書いた帰国報告書は、西域に派遣された前漢の張騫の帰国報告書と同じく信頼しなかったことになる。また、魏の景初二年の十二月に魏都に到着した大夫の難升米(なしめ)と次使の都市牛利(たじごり)の倭人国に関する説明は陳寿が「その国の位置や習俗を正確に知ることができない」と考えた外国から来た使者の説明となるゆえ、帯方郡使の張政よりも信頼したであろうが、卑弥呼が書いた文書の記述よりも信頼できないと考えたことになる。
 前述したように、『魏志倭人伝』は「魏都・帯方郡・諸韓国の文書の用いる楷書と卑弥呼が文書に用いる文字(夏音文字)は差錯していたが、伊都国の港で点検し確認して魏都・帯方郡政庁にて誤訳・誤解しないように正確に楷書に変換していた」と記述する。これゆえ、陳寿が最も信頼したのは卑弥呼の文書に用いた夏音文字を伊都国で正確に変換した楷書で書かれた文章であったことになる。というのも、上記の『三国志』魏書東夷伝の序文で陳寿は「魏の将・司馬懿が率いた遠征軍による記録が最も信頼できる」と述べているが、魏軍は倭人国に遠征しなかったゆえ、結局、彼が最も信頼した史料は卑弥呼が夏音文字で書いた文書を伊都国で楷書に変換した文書であったことになる。
 伊都国で楷書に変換した卑弥呼が書いた多数の文書は司馬懿のもとに集められ、魏が滅ぶと後年司馬懿の孫の司馬炎(武帝)が興した晋王朝が所蔵して保管したことになる。ゆえに、晋の司馬炎(武帝)の晩年である太康年間(280289)において著作郎(歴史編纂官)であった陳寿は、著作郎としての任務として晋王朝が機密とした《楷書に変換された卑弥呼が書いた、多数の文書》を閲覧することを許可されていた。晋王朝に保管された倭人国に関する諸々の史料のうち、上記したように陳寿は『三国志』魏書東夷伝の序文にもとづくと楷書に変換された卑弥呼の文書を最も信頼したことになる。卑弥呼が書いた文書には、卑弥呼が統治した倭人国の小国名不明を含む34ヵ国の小国に関する説明が記述されていた。ゆえに、倭人国を構成する34ヵ国もの多数の小国名は疑う余地もなく卑弥呼が統治した国々の名称であると確信できる史料となる。したがって、陳寿にとって最も信頼できる方位や距離などが記述されていた対馬国から邪馬壱国までを含む倭人国の34小国名が記述されていた文書を、『魏志倭人伝』に書き写したことになる。
 卑弥呼が書いた文書には卑弥呼が《後期縄文時代初頭に【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸と精密地図作製方法】を習得した歴史》をあらわすために設定した「瀚海」が、当然、「対馬国と一大国の中間の海の名」として記されていたことになる。また、倭人国の使者の大夫難升米と次使都市牛利が倭人国を説明した文書史料と帯方郡使の張政が作った報告書にも、「瀚海」という記述は存在したにちがいない。というのも、対馬国と一大国の中間の瀚海は倭人国の使者も帯方郡の使者も共に往来した航路であったからである。
 「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味する。
 ゆえに、用意周到で慎重であったという陳寿は当然「なぜ、瀚海だ?」と最初は疑問を抱き、多分、誤記であろうと判断して削除しようと考えたであろうが――倭人国の使者の説明文書と帯方郡使の張政の報告文書にも「瀚海」が記されていたゆえ、陳寿は疑うのをやめて何かの理由・根拠があるからこそゴビ砂漠に因んで「瀚海」という名を卑弥呼は付けたにちがいないと思い直して「対馬国と一大国の中間の海は瀚海である」と伝える文を削除しなかったと推定される。
 上記したように、【対馬国と一大国の中間の海を、瀚海】とすると【5000年前にジャコウウシの大群が黄帝の居住地近くまで出現した様子と倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」】をあらわすことができる。したがって、『魏志倭人伝』の34の小国記事は卑弥呼が書いた文書に記述されていたことになる。
 だから、学者たちが「『魏志倭人伝』は単純に倭人国の史料としてあつかってはならない。中国の歴史史料であるゆえ、中国の史料研究の立場から思考すべきである」と定めるパラダイム(理論的枠組み)は根本的に誤っていたのである。

 次回は上記したように、「対馬国の地宜と瀚海(ゴビ沙漠)と一大国の地宜」は《後期縄文時代初頭、【精密地図作製方法】を得意とした名門益氏の王子(天祖)と若者たちが日本列島の東北地方の男鹿・米代川縄文文化圏に定住した歴史》と密接に関係する事情について詳細に解説して証明することにする。この証明によって、「対馬国の地宜」は「フタコブラクダの姿と足底の形」であり、「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味し、「一大国の地宜」は「遠くに見えるフタコブラクダの姿と黄帝の居住地近くまで出現したジャコウウシの大群」をあらわすものであったと確信できる。
 だから、『魏志倭人伝』は卑弥呼が書いた文書を伊都国で楷書に書き直した文書を陳寿が信頼して丸写しにした史料、言いかえると卑弥呼が考えた《【倭人国の地理】と【倉頡が発明した漢字作成理論】と【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸を益氏が広めた後期縄文時代初頭の歴史】を合体化した学術理論》を伝えるものであったのである。要するに、『魏志倭人伝』の主なる記事は【倉頡が発明した漢字作成理論】を卑弥呼が倭人国33ヵ国の地宜と小国名をもって合理的に組織化した倭地理について説明するものであったのである。ゆえに、中国にて作られた史料ではなかった。だから、九州説と畿内説は『魏志倭人伝』の全記事と1ヵ所も合致しないフェイク・デマ・サギだったのである。

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2021年1月20日 (水)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・3

▼2021年1月元日、新年早々、午後7時から午後9時までの夜――NHKBSプレミアムテレビ・3チャンネルはお笑い芸人の爆笑問題の二人を司会者にして、「邪馬台国サミット」という番組を放送した。この「邪馬台国サミット」の一堂に会した九州説と畿内説第一線の研究者であられる諸先生方が発表したすべての意見は、司会者の二人の芸名のごとく大爆笑にして、大問題となるウソ八百で丸めた詐欺(サギ)であった。要するに、先生方全員の意見は『魏志倭人伝』の全記事とまったく関係のない他所事(よそごと)で日本国民を惑わし騙(だま)すインチキ・デタラメであったということになる。というのも、「邪馬台国サミット」の議題テーマは「魏志倭人伝のウソを読み解く」であったが、あいにく『魏志倭人伝』の全記事は真実・事実を伝えるもので一片のウソも偽りも書いていない書物であったからである。ゆえに、当然、「邪馬台国サミット」に集まった先生方全員は「魏志倭人伝にはウソの記事が多くある」と最初(はな)から先入観を抱くものであったゆえ、『魏志倭人伝』に記述された真実・事実の解明は不可能となった。だからこそ、先生方が述べた全意見はすべて滑(すべ)って転んでトンチンカンな自分の意見の妄想にウットリとしてただひたすら空論をくりかえす虚妄、つまりインチキ・デタラメであったことになる。
 約2000字で構成される『魏志倭人伝』における約1100字・約55パーセントの記事は、新井白石(1657-1725)以後約300年間、『魏志倭人伝』を研究した全学者が発表したすべての意見をはるかに超越した壮大な真理を伝えていた。つまり、『魏志倭人伝』のテーマは九州説と近畿説のウソとインチキをマルハダカにして暴くものであり、そのテーマはわれら日本人の命と魂にすりこまれて遺伝子となった東洋神秘思想の全体的で有機的な自然観・宇宙観の根源となった【漢字が起源した秘密】について語っているものであったのである


★「倭人伝の地理学」のトリセツ・12

◆この「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の前々回(1)と前回(2)において、九州説と畿内説が100パーセントの空理空論であることを解説し証明してきた。
 この2回のブログで――NHKテレビの「邪馬台国サミット」における先生方の発表テーマは「魏志倭人伝のウソを読み解く」であるのに対して、『魏志倭人伝』が記述する歴史テーマは【倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】である――ことを明らかにした。
 というのも、『魏志倭人伝』は約55パーセント・約1100字の大量の記事群をもって――わが国には、紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝に仕えた倉頡が発明した【漢字作成理論(漢字作成原理と作成方法)】と【夏代初頭の夏音(かおん)文字】を、漢字作成銀河である天文学で通称“夏の銀河”と呼ばれる巨大な銀河から土器・土偶を作った縄文の芸術家によって習得された――と説明しているからである。
 「邪馬台国サミット」に集った九州説と近畿説を説く先生方の口からは「倉頡」の「ソ」の音や声がまったく出ることもなく終わってしまったが――『魏志倭人伝』には【1】「倭人国には令亀(れいき)の法、つまり殷代(いんだい)後半の甲骨文字のような原初漢字があった」、【2】「魏の都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる楷書と卑弥呼が文書に用いる原初漢字は差錯(ささく/相違)していたので、伊都国の港で点検し確認し、誤訳によって国交に支障が生じないようにしていた」と――具体的に「倭人国には文字があった」と説明する記事が二ヵ所もある。
 この二つの「倭人国には原初漢字があった」と説明する記事をもって、『魏志倭人伝』は「卑弥呼王朝政権基盤は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】であった」と伝えていたのである。
 つまり、『魏志倭人伝』は冒頭の「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」という記事から以後に続く、三十ヵ国と後の記事で追加した4ヵ国の小国までの説明記事をもって「卑弥呼王朝は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を政権基盤とした」とストレートに語る歴史書であったのである。

2(前回)のブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」では――〔1〕紀元前4000年頃から始まる三皇時代には易卜に用いる記号「結縄」が考案された。紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝は東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。黄帝は主に「女性生殖器と子どもの出産」を研究した。三皇時代においては、黄帝の医学研究をあらわすことができる文字が考案されていなかった。ゆえに、〔2〕黄帝に仕える史官(記録官)の倉頡は【夏の銀河から漢字を作る方法】を発明した――と解説して証明した。
 わがブログは「フェイク&まぼろしの邪馬台国」の1回~13回までと、「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の1回と2回まで、終始一貫してくりかえして倉頡は天文学における通称「夏の銀河から漢字を作る方法」を発明し、また倉頡は【漢字作成原理と作成方法】をも立論した――と解説し証明した。

◆【倉頡の発明】にもとづいて、7世紀初頭の隋代の楷書までの全漢字は作られた。
 倉頡は【「夏の銀河」から漢字を作る方法】を発明した。「夏の銀河」は、「夏の星座が漬()かる巨大な銀河」である。この「夏の銀河の各部の形状」をモデルにして、わが国においては前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭までの約2000年間、土器と土偶が作られた。だから、2000年に及ぶ縄文芸術の伝統を受け継ぐ芸術家たちによって【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】は習得された。
 ゆえに、後期縄文時代初頭から約2250年後の180年頃に生存していた卑弥呼によって【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を政権基盤とする王朝と倭人国が創設されることになった。この歴史が、『魏志倭人伝』の約55パーセント・約1100字の記事となったのである。
 前回「邪馬台国説はサギ・騙されるな・2回」のブログに「全漢字が作られた夏の銀河の写真」を載せた。今回は「夏の銀河の写真」は省略させていただく。
 倉頡は自らが発明した漢字は最も強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、「夏の銀河各部の形状から漢字が作られた学芸知識」を反体制側の人々が習得して革命や反乱に利用されると、容易に王朝が崩壊することと心配した。ゆえに、倉頡は「文字を容易に覚えるために、夏の銀河の各部に名称をつけた者とその一族全員には、神罰が下って即刻死刑にする」という厳しい掟を定めた。この倉頡が死刑と定めた掟によって、現在においても「夏の銀河の各部」には名称が無い。「夏の銀河の各部」の名称が無いと、「漢字の字源・字形の原形(夏の銀河の各部の形状)・原義」を解説するのに非常に不便であるゆえ、私は下に示すがごとく「夏の銀河の各部の名称」を定めた。
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◆「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の前回(2)のブログでは、【倉頡が発明した漢字作成原理】は【[][]の字源銀河・字形銀河・字義】で表示されたことを解説し証明した。【倉頡が発明した漢字作成方法】は【[][]の字源銀河・字形銀河・字義】によって構成されていることを解説し証明した。
 【倉頡は発明した漢字作成理論】は【[][]の秘密で表示される漢字作成原理】と【[][]の秘密で構成される漢字作成方法】の他に――【漢字作成理論】を象徴する聖獣を定めた。これゆえ、【倉頡が発明した漢字作成理論(漢字作成原理・作成方法)】は[]が加わる「鳥獣の足跡」あるいは「鳥獣の文」と呼ばれることになった。ゆえに、「鳥獣の足跡・鳥獣の文」についても解明する必要がある。
 というのも、『魏志倭人伝』において倭人国における最初に登場する小国の対馬(つしま)国と一大(いちだい)国は「鳥獣の足跡(鳥獣の文)の秘密」の解明が不可欠となるからである。
 「漢字は倉頡が発明した」と伝える倉頡伝説には「鳥獣の足跡」という語が登場する。
 下に示すように、「子どもを宿す、女性の生殖器の側身形」は「鳥の姿(水鳥の側身形)」に相似すると見立てられた。の側身形と水鳥の側身形
S681

 また、倉頡は【漢字作成理論(漢字作成原理・作成方法)】を象徴する聖獣を[][]と定めた。
 下に示す「女体に似る十字の銀河」における「子宮に相当する銀河部」は「ヒトの足跡」に類似すると見立てられた。
S56
 ゆえに、「女性の生殖器の側身形」に相似する「水鳥の姿」を略して「鳥」に、【漢字作成原理・作成方法を象徴する聖獣】を略して「獣」が加わり、さらに「十字の銀河の子宮」は「ヒトの足跡」に類似するというイメージ解釈が加わって、倉頡伝説では【倉頡が発明した漢字作成理論】は「鳥獣の足跡」と呼称されることになったのである。

◆『易経』繋辞下伝にある【漢字の起源記事】は、下記のごとく説明する。
 「仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観る。近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る。ここにおいて始めて八卦(はっけ)を作り、もって神明の徳に通じ、もって万物の情に類して、漢字を作った。」
 上に示した『易経』繋辞下伝の【漢字起源の説明記事】における【倉頡が発明した漢字作成理論】は「鳥獣の文」という名称となる。
 前回(2)のブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」で証明したよう、「女体に似る十字の銀河」は、下に図示するように[]の字源・字形・字義となり、倉頡は[]の字源「十字の銀河」を「夏の銀河の各部の形状から作られた全漢字が生まれる母体」と定めた。ゆえに、【倉頡が発明した漢字作成理論】は「鳥獣の文」とも呼称されることになったのである。
S61_20210120153001
◆『魏志倭人伝』には「その地には、牛馬が無し」という記事がある。
 []の字源は、わが国に生息しない「ジャコウウシ」であった。[]の字源は、わが国に生息しない「フタコブラクダ」であった。
 したがって、『魏志倭人伝』は――倭地には、[]の字源「ジャコウウシ」と、[]の字源「フタコブラクダ」は生息していない――伝えていたことになる。
 倉頡は「ジャコウウシ」を[]の字源・字形・字義と定め、「フタコブラクダ」を[]の字源・字形・字義と定めて、「牛」と「馬」を【漢字作成理論】を象徴する聖獣を定めた。
 「乾坤」という語は「天地」を意味する。
 []をあらわす「乾燥地帯のゴビ沙漠」には[]の字源「フタコブラクダ」が生息する。「茫漠とした位置と方位の測量が困難なゴビ砂漠に生息するフタコブラクダ」は道に迷わない優れた眼力を有する。ゆえに、フタコブラクダは「1度の60分の11分以内の誤差で精確に天頂緯度が測定できる人間本来(本能)の能力、つまり原始のときから人類が命をまもる方法・羅針盤となった天頂緯度線をキャッチする能力」を象徴することになった。
 また、下の図に示したように、「フタコブラクダの両目は顔の両端」に離れていると同様に「第7週ころの胎児の両目も顔の両端」に離れている。
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 フタコブラクダは砂嵐の砂が目に入らないように睫毛(まつげ)が長い。乳児の睫毛もフタコブラクダのように長い。
 ゴビ沙漠に住む匈奴(きょうど)の人々は平原に深い穴を掘り、その穴に死者を葬り、殉死(じゅんし)させた一匹のフタコブラクダの血をその墓の上にそそいで去った。翌年には雑草が生い茂って墓の位置は不明となるが、連れてきたラクダが殉死したラクダの血を嗅()ぎ当てて咆哮(ほうこう)する所に墓をさがす遺族たちは祭壇をつくって死者を供養した。ゆえに、[]の字源「フタコブラクダ」は天頂緯度線をキャッチして1度の60分の1の一分の精度で緯度を精確に測定できる神秘的な能力を有すると注目された。ゆえに、フタコブラクダは【倉頡の漢字作成理論(漢字作成原理と作成方法)】を象徴する聖獣となった。
 『魏志倭人伝』に登場する「対馬国」・「投馬国」・「邪馬壱国」・「斯馬国」・「邪馬国」の[]のすべての字は「[]の字源と字義はフタコブラクダである」と伝えるものであった。

◆「乾坤」の[]の偏の[]は「地」を意味し旁部(つくりぶ)[]は「電光つまり稲妻・雷光」を意味した。ゆえに、[]は「入道雲が天高く立ち登り、一転して天空にわかに曇って雷鳴轟き雨が降って大地は潤って禾(穀物)はじめ植物が生き生きとする」と意味した。この「雷鳴轟き雨が降るジャコウウシが生息する凍土地帯(ツンドラ地帯)」を象徴する聖獣が[]の字源の「ジャコウウシ」であった。
 ジャコウウシの群れは天敵のオオカミに襲われると、子どもを真ん中に隠して円陣を組む習性がある。これゆえ、「ジャコウウシの群れが作る円陣の真ん中」は「子宮」に見立てられ、「真ん中に隠す子」は「子宮で育つ胎児」に見立てられ、「ジャコウウシの群れが作る円陣」は「女性生殖器の大半を包囲する母体の骨盤」に見立てられた。
 前回(2)のブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」にて解説したように、下に示す図は[]の図書が重なる・「大火西に下る頃」の[]の字源銀河解説図である。また、この図の下部における「禾(イネ)の図書における穂の部分が〔南〕から〔西〕へと垂れる、銀河の中心(銀河系銀河の中心)・巨龍の顔の銀河・胎児の姿に似る銀河・さそり座α星(大火)」に注目して、司馬遷著『史記』五帝本紀にて【「黄帝」の号することになった「黄龍(こうりゅう)」と「地螾(ちいん)」の二つの瑞祥の土徳】についても解説し証明した。
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 下に図に示したように、《上の「人の横顔に酷似する銀河」から下の「さそり座α星(大火)」までの巨大な夏の銀河部》は、「妊婦像」に見立てられた。
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 上の図における右下にある「胎児の姿に似る銀河」は、下に示す「第5週頃の胎児の姿」に相似すると見立てられた。
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 さらに、下に示すように、「ジャコウウシの姿」は「胎児の姿に似る銀河」と相似すると見立てられゆえ、「ジャコウウシの姿」は上の図の「第5週の胎児の姿」に相似すると見立てられた。
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 下に示す図のごとく「銀河の中心(銀河系宇宙の中心)・巨龍の顔の銀河・胎児の姿に似る銀河」・さそり座α星(大火)」の形状を注目すると――「ジャコウウシの横顔に似る銀河」は「巨龍の顔の銀河」と重なり、「ジャコウウシの横顔に似る銀河」に焦点を当てると「巨龍の顔の銀河」は欠けて見える。だから、「ジャコウウシ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
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 前回(2)のブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」でも解説したが――「銀河の中心・巨龍の顔の銀河・胎児の姿に似る銀河・さそり座α星、そしてジャコウウシの横顔に似る銀河」について、藤井旭著『透視版 星座アルバム』(誠文堂新光社発行)は、下記のごとく説明する。
 「わが銀河系の中心方向にむらがる無数の星と、入り乱れる星間物質が、わきあがる入道雲のような迫力に満ちた姿でせまる。」
 ゆえに、「銀河の中心・巨龍の顔の銀河・胎児の姿に似る銀河・さそり座α星、そしてジャコウウシの姿に似る銀河」のイメージは、「ものすごい、強大な力」を示す。ジャコウウシは「ものすごい、強大な力」を有する。したがって、「ジャコウウシ」は「銀河の中心に隣接する巨龍の顔の銀河・胎児の姿に似る銀河・さそり座α星の、わきあがる入道雲のような迫力に満ちた渦巻き銀河」に見立てられて――前述した[](「乾坤」の[])の字源に適合して【倉頡が発明した漢字作成原理】を象徴する聖獣となった。
 また、「凍土地帯のきびしい寒さにたえられる防寒具で身を包む、ジャコウウシの暗褐色の毛足の長い毛(ウール)」は「天頂緯度線を測量する時に用いられる糸と、そして天頂緯度線」に見立てられた。ゆえに、ジャコウウシは【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
 〔注 人類は原始のときから1度の60分の11分の緯度差を測量できる天頂緯度線をキャッチして生存した。だから、この能力を有した人類は滅亡しなかった。そして、「ジャコウウシの暗褐色の毛足が長い糸()」は天頂緯度線をキャッチする時の測量具として使用された。〕

◆ジャコウウシは先史時代には百頭以上の群れをつくって北半球の寒帯に分布していたが、約5000年前頃には多くの地方で絶滅したとされる。
 ゆえに、5000年前の黄帝時代には中国の毛烏素(ムウス)沙漠は凍土地帯・ツンドラ地帯となってジャコウウシが生息し、晩秋から冬になると毛烏素沙漠より南方の黄帝の居住地付近(黄帝陵付近)までで餌場(えさば)を求めて南下してきた。
 わが国が夏音文字を習得した約4050年前の夏代(かだい)初頭になると中国ではジャコウウシは絶滅して、中国より北方地域へ去った。
 現在は、ジャコウウシは北極地方で生息する。
 『史記』の五帝本紀には「師兵(しへい)をもって営衛(えいえい)す」という文があり、「黄帝軍は駐屯するとき、兵たち円陣を組んで自衛した」と意味した。黄帝軍の兵士たちはジャコウウシのごとく円陣を組んで駐屯していたことになる。この記事が示すように、ジャコウウシの大群は北のフタコブラクダが棲むゴビ沙漠から毛烏素沙漠を縦断して、黄帝が居住した地域・黄帝陵付近地域まで南下していたことになる。 

◆『魏志倭人伝』には「対馬国の南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」という記事がある。
 この記事が示すように、卑弥呼は「対馬国(現在の長崎県北部の対馬)と一大国(現在の長崎県北部の壱岐)の中間の現在の東水道」を「瀚海」と名づけた。
 貝塚茂樹・藤野岩友・小野忍編者『角川漢和中辞典』(角川書店発行)は「瀚海ゴビ砂漠のこと」と解説する。
 「瀚海」を「北海、またはバイカル湖を指す」と指摘する字書もあるが、幾つかの字書は「瀚海」の初義は「ゴビ沙漠」であったと指摘する。
 司馬遷著『史記』五帝本紀に記されているように五帝のうちの四番目の帝王・堯(ぎょう)代に始めて益氏は歴史上に登場し、五番目の帝王・舜(しゅん)代に「虞()」という重職に任命され、『史記』夏本紀には夏帝禹()の後に氏族の首長が帝王に就任したと記述されている――このような名門・益(えき)氏の王子と益氏の若者たち一行は中国の地から出発して玄界灘を渡って日本列島を北上して東北地方の男鹿・米代川縄文文化圏にて、紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭に定住した。
 この「益氏の王子と若者たちの日本列島移住」について、『日本書紀』巻三・神武天皇紀は初頭部で「天祖の彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)は天のいわくらを開き、雲路をおしわけて、先払いをたてて新天地(日本列島の男鹿・米代川縄文文化圏)に鴻(おおとり)が荒野に舞い降りて棲みつくがごとく定住なされた。このとき、この新天地から東日本一帯は野蛮で草深い未開地であった。このような状況にありながら、みずから正しい学芸を新天地の人々に教え養って、日本列島の東北地方における西の偏(ほとり/男鹿半島・八郎潟の東岸地域)に居住して治めた」と説明している。
 益氏は《精密な中国海岸線地図を作製する「虞」という重職》を代々200数年余りに従事していた。ゆえに、天祖・益氏の王子と若者たちは、当時(夏代初頭・後期縄文時代初頭)において、中国における最先端にして最も正確な中国海岸線地図と精密地図(地宜)作成方法を有していた。
 天祖・益氏の王子は日本列島に学芸を正しく養い文化を高めて新天地が豊かに栄えるために、五帝時代最後の五番目の舜(しゅん)帝王朝時代と夏后(かこう)始祖の禹()帝王朝時代で厳重に機密とした法律を破って【学問】つまり【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を広めた。また、益氏は200年余り「虞」という重職に従事していたゆえ、天祖は益氏が得意とする最先端の【精密中国海岸線地図と精密地図作製方法】を教えて広めた。また、天祖は東北地方西方の沿岸地域の地宜(ちぎ/平面的に図化する地図の形)を利用して【精密中国海岸線地図】を保存する方法を工夫した。だから、わが国に【当時の中国における最先端にして最高に正確な中国海岸線地図】が保存されて卑弥呼の時代まで失われずに残った。
 【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」】を理解させるためには「瀚海」は「ゴビ沙漠」と見立てる必要があった。だから、『魏志倭人伝』に記載された「瀚海」は「ゴビ沙漠」と解釈しなければならない。〔この「瀚海」が「ゴビ沙漠」を意味した証明については、わがブログはいずれ後の回で詳細に解説する〕。
 司馬遷著『史記』の〔陳杞世家〕は「帝王となった益氏の子孫は、どこに封ぜられたか不明である。史伝に記載されていないからである」と指摘する。益氏を後継する王子と若者たちは日本列島の地に定住した。このため、益氏は忽然(こつぜん)と中国から消えた。ゆえに、益氏は中国のどこにも封ぜられず、中国の史伝に記載されず不明となったのである。

◆わが国には、正確な中国海岸線地図を作製する「虞」の重職に代々200数年余り従事した後に、夏王朝の始祖帝禹()の政治を補佐し、禹の後を継いで帝となった益氏の首長の孫の王子(天祖)と若者たちが東北地方に定住した。だから、【(1)倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸と、(2)正確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】は益氏が定住した男鹿・米代川縄文化圏から遠く離れる関東地方まで広まった。
 というのも、益氏が男鹿・米代川縄文文化圏に定住したとき、日本列島において最高級の文化を有して栄えていたのは、世界に類がない最高級の芸術の花開く関東地方であったからである。
 下に示す写真は、益氏が日本列島で定住した約1000年前に作られた、関東地方で作られた土器・土偶を代表する約5000年前(倉頡が生存していた頃の中期縄文時代初頭)に作られた日本最古の国宝土偶「縄文のビーナス」(長野県茅野市の尖石縄文考古館所蔵)である。
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 「縄文のビーナスの胸部」は「十字の銀河の胸部」と同じ十字形であり、縄文のビーナスは「妊婦像に観える、十字の銀河」をあらわして「妊婦像」となり、「縄文のビーナスがかぶる帽子」は「十字の銀河の頭部の形状」のデザインと推定できる意匠となり、「橙黄色(とうこうしょく)に輝く十字の銀河」に似せて縄文のビーナスは「雲母(うんも)を混ぜてキラキラ輝く橙黄色の土偶」である。
 関東地方の長野県・山梨県において、前期縄文時代から益氏が日本列島に定住した後期縄文時代初頭までに作られた土器には、口縁部(こうえんぶ)や胴の部分に「十字の銀河の子宮や腰の部分(妊婦の腹部・乳房・右足にも観える部分)」をモデルにして「胎児(子ども)の顔や女性の骨盤」をデザインする意匠や飾りがほどこされているものが幾つか存在する。
 下に、益氏が日本列島に定住した後期縄文時代初頭に作られた国宝・「仮面の女神」(長野県茅野市の尖石縄文考古館所蔵)の写真を配した。
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 「仮面の女神」は尖石集落の天頂にめぐってきた「十字の銀河」が「妊婦の姿」に観えると示す妊娠土偶である。また、「女神がかぶる三角形の仮面」は「精密な地図作製方法」、つまり「天頂にめぐってきた【十字の銀河】を観測して天頂緯度線をキャッチして経緯度原点地を設定して、この経緯緯度原点地を基点して三角形の本点を設置し、この三角形本点の基にさらに三角形の網や鎖を形作って精密な地図を作製した方法」をあらわしていると考えられる。
 この「仮面の女神における三角形の仮面」は「益氏が教授した精密な地図作製方法」をあらわした秘密は、尖石縄文考古館が所在する長野県茅野市南方の静岡県浜松市北区細江町の行政区域を表示する地図の形として残っている「1千万坪の大鳥の地上絵」によって解明することができる。「1千万坪の大鳥の地上絵」は『魏志倭人伝』が著作された時と同時代の3世紀後半に作製された。
 下に、「1千万坪の大鳥の地上絵とその3要素」をデザインした漫画的なイラストを配した。
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◆益氏の定住によって、【(1)倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸と、(2)正確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】は男鹿・米代川縄文文化圏から関東地方までひろがった。
 このため、280年~289年に成立した『魏志倭人伝』と同時代(260年頃~290年頃)に、中国王朝が最も厳重に機密として国内外に絶対に知られてはならない【正確な中国海岸線地図】が不呼(ふこ)国・遠江(静岡県西部)の浜松市北区細江町における「1千万の大鳥()の地上絵の東の境界線」に図化された。この「1千万坪の鴻の地上絵」は、上記した『日本書紀』神武天皇紀初頭にある「益氏の王子の日本列島移住記事」にある「鴻荒」という難解な語の秘密を――「鴻の頭部が夏至の日の出の方向」と合致するように設計して、「夏音文字の学芸は未開の荒野であった東日本各地に居住する氏族の人々の頭脳に習得されることになった――と表現している。
 また、上記したように、尖石縄文考古館が所蔵する国宝「仮面の女神がかぶる三角形の仮面」は遠江国の「1千万坪の鴻の地上絵」によって「精密地図作成方法」をデザインするものであったと解明することができる。
 学者たちは「三角縁神獣鏡」によって邪馬台国の所在地は決定されるにちがいないと主張する。この「三角縁神獣鏡」に対抗して、遠江国「1千万坪の鴻の地上絵」は現在の静岡県浜松市北区細江町の地図の形であるゆえ「三角形卑弥呼不呼国びっくり仰天郷の地上絵」という別名をつけることができる。

◆名門益氏の王子(天祖)と若者たちが日本列島の東北地方に定住したため、『魏志倭人伝』には「古(いにしえ)より以来、その使()中国に詣(いた)るに皆自ら大夫と称す」という記事がある。
 中国に到着した倭の使者たちは皆が皆「益氏の若者たちが渡った荒波が逆巻く玄界灘を征服した」と誇示して「大夫」と称した。万葉仮名の「大夫」は「ますらを」と読み、今日は「益荒男」と表記する。したがって、「益荒男」という語は「『魏志倭人伝』に記述された中国に到着した倭人国の使者たちは皆が皆口をそろえて【益氏の王子と若者たちと同じく、波が逆巻く玄界灘を征服した水行(航海)】を誇って、彼ら全員は“大夫”と自らを称した」という、この歴史を伝えていたことになる。
 前述したように、『魏志倭人伝』には「対馬国と一大国の中間の海は、瀚海と曰()った」という記事があり、「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味した。
 卑弥呼は「対馬国」を「モンゴル」と[]の字源「フタコブラクダ」に見立て、「瀚海」を「ゴビ沙漠」に見立て、「一大国」を「秋から冬になるとゴビ砂漠を縦断しさらに南方の毛烏素(ムウス)沙漠を越えて、黄帝が住む本拠地から遠く見える地平線上に出現するジャコウウシの大群」に見立てるとする地理説をとなえた。この地理説では「玄界灘」は「黄帝たちが居住地北方のジャコウウシを狩猟した地域」と見立てられることになり、「玄界灘の沿岸地帯の末盧(まつろ)国・伊都(いと)国・奴()国・不弥(ふみ)国」は「黄帝たちが居住した地域」に解釈されることになった。
 だから、『魏志倭人伝』は「倭人国には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在していた」と伝えていた書物であった。したがって、『魏志倭人伝』と「邪馬台国」の間柄は「まったく無関係」という間柄で、「邪馬台国説」は『魏志倭人伝』の全記事とまったく合致しない空論であったという間柄であったのである。ゆえに、NHKテレビの「邪馬台国サミット」は邪馬台国研究における第一線級の鼻高の天狗さまとウソつきピノキオさまの集いであったことになる。
 次回のブログでは、「約5000年前の黄帝時代に1組百頭以上のジャコウウシが犇(ひし)めく大群が幾組も餌場を求めて烈風ふきすさぶ雪原を黄帝の本拠地近くまで南下して出現した光景」を「冬の季節風が吹く寒風ふきすさぶ玄界灘」に見立てるようにして、卑弥呼が【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」】を立論した地理説、つまり倭国の大乱を平定することになった地理説について解説し証明することにする。

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2021年1月14日 (木)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・2

▼前回でも指摘したように――2021年1月元日の午後7時~9時までの2時間、NHKBSプレミアム・3チャンネルは「邪馬台国サミット」という番組を、九州説と近畿説の第一線の諸先生方を集めて「魏志倭人伝には多くのウソの記述がある」という認識を国民の頭脳に植えつけるための放送をおこなった。これゆえ、朝日新聞のテレビ欄は、この「邪馬台国サミット」の番組内容を「対決! 九州説VS近畿説 第一線の研究者たちが一堂に会して大激論! 魏志倭人伝のウソを読み解く」と要約した。この番組の司会者は芸名が「爆笑問題」の二人であった。九州説と近畿説の先生方一同は口々に「『魏志倭人伝』にはウソの記事が存在し、また情報操作の記述もある」と力説した。この先生方による全員一致のご意見に反して、『魏志倭人伝』の全記事は真実・事実を伝える歴史書であって、一片のウソも偽りも有していない。だから、『魏志倭人伝』の全記事とまったく合致しない先生方全員の意見は『魏志倭人伝』が伝える真実・事実とまったく無関係のウソでデッチあげた法螺(ホラ)・爆笑ものの空論、まさしく詐欺(サギ)であったことになる。よって、この番組は司会者の「爆笑問題」という芸名よろしく、「全部ウソと詐欺とで丸め固めた先生方よ! それは問題でしょ! 国民をなめるな! ゲラゲラの大笑い」と総括すればよいことになる

★「倭人国の地理学」のトリセツ・11

◆山尾幸久著『魏志倭人伝』(講談社発行)によると――『魏志倭人伝』は晋(しん)の武帝の太康(たいこう)年間(280289)、著者の陳寿(ちんじゅ)が歴史編纂官であった時代に著作されたことになる。
 わがブログ「フェイク&まぼろしの邪馬台国」の13回で詳細に解説したように――下に示す「1千万坪の大鳥の地上絵」は『魏志倭人伝』の同一時代の260年頃~290年頃までの30年間費やして作製された。この「1千万坪の大鳥の地上絵」は、現在の静岡県浜松市北区細江町の行政区域を表示する地図の形である。この3世紀に作製されて現存する「細江町の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)」は「『魏志倭人伝』の全記事は一片のウソも偽りも有していない。すべて真実と事実のみが記述されている」という事実が【科学】が成立して証明できる遺跡である。
 〔注 下に示すように、「1千万坪の大鳥の地上絵」を私は「卑弥呼の地上絵」と名づけることにした。また別名として、「建比良鳥(たけひらとり)の地上絵」と名づけた。というのも「1千万坪の地上絵」の作製者は――『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部に「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」と記述される人物であると考えられるため、「建比良鳥の地上絵」と名づけた〕。
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 だから、『魏志倭人伝』と「1千万坪の大鳥の地上絵」の両者がピッタリ合致して【科学】が成立する状況は【真実と事実を証明することになる】ゆえ、「邪馬台国サミット」に集合した九州説と近畿説の第一線の先生方の全員の意見は、明らかに国民の頭脳に九州説と近畿説のウソ・偽りを植えつけようとした詐欺であったことになる。
 わがブログ「フェイク&まぼろしの邪馬台国」1回~13回で詳細に解説し証明したように、また最後の13回で要約したように――紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、中国から夏音(かおん)文字の学芸に精通する名門益(えき)氏が玄界灘を渡って日本海沿岸を北上して東北地方に定住した。この夏音文字の学芸を縄文人たちが習得した時、【倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論(漢字作成原理と作成方法)】も習得された。
 この【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】は、一気に東日本の信濃・長野県まで伝わって広まった。
 【『魏志倭人伝』の記事】と【「1千万坪の大鳥の地上絵」の遺跡に保存された地理の秘密】の一致によって、2世紀末から3世紀半ばまでの卑弥呼王朝時代、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】は西日本各地に広がって保存されていたことが明らかとなる。というのも、「1千万坪の大鳥の地上絵」が所在する「現在の静岡県浜松市」は旧国「遠江」であるゆえ、卑弥呼が治めた倭人国の範囲は西日本の端っこにある遠江までとなるからである。その証拠に、上に示した「遠江に所在する1千万坪の大鳥の地上絵」には――旧国「遠江」は『魏志倭人伝』に「不呼(ふこ)国」と記された小国であったと明確に表示されている。

◆倉頡は、天文学において通称「夏の銀河」と呼ぶ、この銀河各部の形状から漢字を作成する理論を考案した。「夏の銀河」は「夏の全星座が漬()かる巨大な銀河」である。
 下に、「夏の銀河の写真」、言いかえると「漢字(文字)作成銀河の写真」を示した。
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1】倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、この知識を反体制側の人々が手に入れると王朝が容易に崩壊・滅亡すると心配して、「文字は銀河各部の形状から作られた」という秘密を暴露した者とその一族全員に神罰を下して即座に死刑にすると定めた。
2】また、倉頡は「文字を容易に覚えるため、文字作成銀河(夏の銀河)の各部に名称を付けた者と一族全員もまた即座に死刑にする」と定めた。
 だから、今日になっても夏の銀河の各部をあらわす名称が存在しない。夏の銀河の各部の名称が無いと、【漢字の字源銀河・字形となる銀河・字義となる銀河】の解説・証明するに非常に不便となるゆえ、私は下記のごとく銀河各部の名称を定めた。
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3】 倉頡は地面・灰・雪の上や石に線で刻んで書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者はまた消し忘れた者も許さず、その者の一族全員まで即刻に死刑にすると定めた。
 『魏志倭人伝』・『古事記』上巻・『隋書』倭国伝に記載されて残った夏音文字は、楷書で表記されている。この事情は、卑弥呼が歴史上に始めて登場して国家と王朝を創立した180年頃に、後漢王朝が用いていた漢字は楷書(原初的な楷書)であったからである。甲骨文字以後、倉頡が定めた【3】「書いた文字は用済みになった時、文字を消さない者または消し忘れた者とその一族全員まで、神罰が下って即刻に死刑にする」と定めた掟は破られた。ゆえに、夏音文字を楷書で表記することは許可されていたゆえ、夏音文字は楷書で表記されることになって現存することになったのである。

 倉頡が定めた【3】の掟のために、五帝時代の原初漢字・書契(わが国では「刻木」という)、夏后(かこう)時代の原初漢字・夏音文字、紀元前1600年頃~紀元前1300年頃の殷(いん)代の原初漢字は文字を書いた資料が発見されていない。だから、学者たちは「五帝時代から殷代前半までの漢字は存在しなかった」と断定し、「書いた文字の資料が発見された紀元前1300年頃から始まる、亀の甲羅に文字を刻んだ殷代前半の甲骨文字を最古の漢字である」と思い込む。
 【五帝時代初頭から殷代前半終わりまでの原初漢字】は【夏の銀河の各部の形状と、中国各地の地宜(ちぎ)と地名】が【字源・字形・字義】となって存在することになったのである。
 したがって、夏音文字は『魏志倭人伝』に記載された人名・小国名・官職名に用いられて残っており、また、夏音文字は『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて残っている。
 現在のわが国の歴史学においては『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に残っている夏音文字を「残っていない」と断定しているが、この定説は空想・幻想・虚妄であったことになる。
 このような観点からして、『魏志倭人伝』と同一時代に作製された上に示した「1千万坪の大鳥の地上絵(卑弥呼の地上絵)」は極めて重大な遺跡ということになる。
 というのも、約2000字で構成される『魏志倭人伝』が約1100字・約55パーセントの記事が説明する【倉頡が創った原初漢字と夏音文字の字源・字形・字義】は地宜(ちぎ/平面的に図化した地上絵)と「不呼国」などの地名で表示されたからである。遠江の豪族・建比良鳥命とその氏族の人々は約30年間費やして〔1〕『魏志倭人伝』の全記事と〔2〕〔音〕という注がつく夏音文字が随所に記された『古事記』上巻の上古史が【科学】にもとづいて、今日、証明できる「1千万坪の大鳥の地上絵・卑弥呼の地上絵」を、なんと偶然の一致で『魏志倭人伝』が著作された同時代に作製したのである。
 「卑弥呼の地上絵」によって、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字は、確かにわが国は習得して実在した】と【科学】が成立して証明されることになる。

◆《天の北極の位置》と《春分点の位置が分かると同時に夏至点・秋分点・冬至点もわかる二分二至点》は〈黄道の北極〉を中心にして25,800年で大きな円を描いて一周する。円は360度であるから、25,800年割る360年は71.666年となる。つまり、《天の北極》と《春分点》は〈黄道の北極〉を中心にして描く二つの大円の線上を71.666年毎に1度ずつ移動している。この現象を「歳差(さいさ)」という。
 したがって、「歳差」によって――今から5000年前の五帝初頭においては、5,000年割る71.666年は69.77年となり四捨五入して70年となるゆえ――《五帝時代の天の北極》は《現在の天の北極より〈黄道の北極〉を中心とした70度昔の方へ戻った位置》にあり、《五帝時代の春分点》は《現在の春分点より〈黄道の北極〉を中心とした70度昔の方へ戻った位置》にある。
 五帝時代の《天の北極の位置》と《春分点の位置》に則(のっと)ると、五帝時代における中国全土の各地のおける天頂にめぐってきた銀河部が明らかとなる。

 倉頡がつかえた黄帝は東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝えられる。
 黄帝は【ヒトの生命の神秘】を研究するために【女性生殖器と胎児の出産】を研究した。この医学研究は先代の三皇時代には着手されていなかった。ゆえに、黄帝の医学研究をあらわすことができる文字が存在しなかった。黄帝の【女性生殖器と胎児の出産研究】をあらわす文字の発明は倉頡の役目となり、倉頡は【女性生殖器と胎児の出産をあらわす文字】を【夏の銀河各部の形状から作成する理論】を発明した。
 五帝時代初頭において中国全土の天頂にめぐってきた「夏の銀河」における銀河部は西から東へ向かって列挙すると、(1)ヘルクレス座・へびつかい座 (2)天文学で「北天の最輝部」と名付けられた銀河部、(3)私が「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた銀河の3ヵ所である。
 〔注 なお、上記した天文学が「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」と名づけた銀河は、「北半球の土地に居住する人々が最も輝いて見える銀河部」のことである〕。

◆上記した「歳差」という天文現象に則って5000年前へもどした五帝時代初頭に中国全土の天頂にめぐってきた(3)「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」の図を下に示した。
K42
 上の左側「十字の銀河の西半分」には、下に示すように「女性の乳房」・「妊婦の腹部」・「妊婦の腹部と重なる子宮に相当する部分」がある。
K41
 だから、倉頡は「女性のイメージをあらわす十字の銀河の形状」を注目して【黄帝の女性生殖器の研究】をあらわす文字(漢字)を創った。上に示した「五帝時代初頭の黄帝時代の緯度線の図」が示すように、「十字の銀河」とその西隣の「鬼の横顔に似る銀河」を注目して、倉頡は【黄帝の胎児の出産の研究】をあらわす「文字」を創った。「鬼の横顔に似る銀河における横顔」には「二つの目」があり、「鬼の横顔に似る銀河の首(後頭部とアゴ)」にも二つの目がある。ゆえに、「鬼の横顔に似る銀河」には合計目が四つあるため、倉頡の異名は「四つ目の怪人」と呼ばれた。
 「漢字は倉頡が発明した」と伝える倉頡伝説は「倉頡は四つ目の怪人であった」と表現されることになったため――現代学者たちは「人間には目が四つ無い! だから倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメである」と断定する。
 このため、現在、倉頡が漢字を発明した歴史を研究する学者は一人も存在しない。言いかえると、『魏志倭人伝』に誤読・歪曲・主観的意見などいっさい加えずに、全記事を信用して客観的に慎重に11字について深く思考していれば――この思考方法・理論的方法によって『魏志倭人伝』は「わが国は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得していた歴史」が解明・証明されていたことになる。
 「九州説と畿内説が最も正しい」と決定する現在の歴史学の思考方法・理論的方法は――歴史書にはウソも書かれている。『魏志倭人伝』の全記事を軽々しく正しいと信用してはいけない。なぜ信用してはならないのか、信用してはならないのはどの点なのか、あるいはどのような考え方をしたならば信用できることになるのか、などと見きわめて、『魏志倭人伝』を利用しなければならない――と定める。
 しかし、現代史学の思考方法と意見に反して『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を説明する、全記事が正しい文献であった。
 倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人倉頡」は――黄帝時代には「四つの目の銀河部がある、鬼の横顔に似る銀河」が中国全土の天頂にめぐってきた、倉頡は夏の銀河から漢字を作る理論を考案した――という事実を伝えていた。しかし、現在の学者たちは「人間には目が四つあるはずがない! 倉頡伝説は荒唐無稽のデタラメだ」と断定する。この意見が空論であったと同じく、現在の学者たちの「『魏志倭人伝』の全記事は正しいなんていうことは絶対にありえない」という理論的方法も事実に反した空理空論であったのである。
 【黄帝の子どもの出産の研究】をあらわすイメージとなった「鬼の横顔に似る銀河には目が四つある」という事実を後世に伝えて、倉頡は「四つ目の怪人」と呼称された。
 だから、「四つ目の怪人倉頡」は漢字が「夏の銀河」から作られた秘密を伝えるものであったゆえ――漢字が「夏の銀河」から作られたことは真実であり事実であったことになる。

◆黄帝の医学研究をあらわす文字を作る、これを目的とした倉頡は、「母体に似る十字の銀河」を「夏の銀河の各部の形状から作った全漢字を生む母体」と定めた。これゆえ、下に示すように、周代に用いられた金文の[]の字形は「十字の銀河」を「母体の正面形」に見立て「女体の腹部(子宮)に胎児が宿る様子」を表現する図案となった。
S61
 また、下の金文形が示すように、倉頡は「十字の銀河」を[(べん)]の字源とし、「鬼の姿に似る銀河」を[]と字源として、[]の下に[]を加える[]を作った。[]は「当時の男たち、家族が飢えて死なないように命と生活をまもるために、獲物や石器などを求めて遠くの地に旅して目的を達成したならば帰還した、家族が待つ家」をあらわした。後世、家族主義の中国では、家譜(かふ/系譜)を尊重するとともに、宗廟(そうびょう)を建て、家族の中心である祖先をまつった。ゆえに、[]は「五帝時代の原始的な宗廟」、「後世の宗廟」をあらわすことになった。
S62
 前の[]の字源銀河解説図と上の[]の字源銀河解説図は、【倉頡が発明した漢字作成原理】をあらわした。
 つまり、倉頡は「子どもを生む十字の銀河」を「夏の銀河各部の形状から作られた全漢字を生む母体」、「十字の銀河における子宮となる銀河部」を「夏の銀河各部の形状から作られた全漢字を生む子宮」と定めた。
 というのも、前に示した「五帝時代初頭の黄帝時代の緯度線図」が示すように――[]の字源「十字の銀河の頭部中央から子宮南端までの緯度の丈(たけ)」と[]の字源「鬼の姿に似る銀河のうちの、横顔に似る銀河(四つ目の横顔)に似る銀河の丈」は同じである。ということは――「母体の身長」と「子(出産児)の顔の長さ」が同じとなる。さらに、「胎児」は「母体の子宮で育って生まれる」が――「母体の子宮に相当する、十字の銀河の子宮」よりも「胎児の横顔となる、鬼の横顔に似る銀河」のほうがはるかに大きい。
 この矛盾・不合理を解決するため――倉頡は「夏の各部の形状から作られた、たとえば夏の銀河の大半の巨大な形状から作られた字も、小さな十字の銀河の子宮から生まれる」と定めることにした。この工夫(くふう)によって、【「大きな鬼の姿に似る銀河」から作られた[]も「小さい十字の銀河の子宮」から生まれる】という、理論が発明された。
 つまり、倉頡は【小さな「十字の銀河の子宮」から大きな銀河から作った文字が生まれる、夏の銀河(文字作成銀河)各部の形状から生まれた全文字は「十字の銀河の子宮」から生まれる】という、漢字作成原理を発明した。この【倉頡が発明した漢字作成原理】は【一即多、多即一】でもあった。なぜならば、【[]の字源「十字の銀河の子宮」は、夏の銀河各部の形状から作られた「多数の文字」を生む子宮】であるから【一即多】となり、また【多即一】ということになるからである。
 だから、[][]の字源銀河解説図は【倉頡が発明した漢字作成原理】をあらわすことになった。

◆「分娩のはじまりから子宮口がすっかり開くまでの時期」を「出産第一期・開口期(かいこうき)」という。正常分娩の場合には骨盤入口の上では胎児のアゴを胸につけた姿勢で胎児の背は母体の左または右にある。中ほどにくると胎児の頭は邪(なな)め後ろ(母体の臀部(お尻の方)に顔を向け、出口では胎児は顔の正面を母体の後方・臀部の正面に向ける状態で、開口期の終わりとする。
 下の図に示すように、出産第二期・娩出期(べんしゅつき)の終わりにおいても、胎児は顔の正面を母体の後方・臀部の正面に向ける状態となる。
S341  前に示した[]の字源銀河解説図において、胎児の顔となる「鬼の横顔に似る銀河、その顔」は「母体の腹部を正面」にして開口期と娩出期の終わる時の姿勢となる。ゆえに、倉頡は[]の字源銀河解釈において、「十字の銀河の腹部」を「母体の腹部」と見立てると不合理・矛盾するということに気づいた。
 そこで、倉頡は「十字の銀河における、母体の腹部」を180度転回して「十字の銀河における、母体の臀部(お尻)」と見立てる(解釈する)字を考案した。
 下の左図「[][][]の字源銀河解説図」に示すように、[()]の字は「母体をあらわす十字の銀河中央に、《イネ()》をデザインする図案」重ねて作られた。
K115
 注目すべきは――上の[]の字源銀河解説図のおける「十字の銀河のおける母体の腹部は母体の腹部ではない。180度転回して母体の臀部(でんぶ)、娩出期終わりの出産児の顔の正面となる母体のお尻」である。
 []の字形は――イネの穂を「鬼の横顔に似る銀河の口」へ向かって垂れる形――となった。したがって、[]の字形は――イネの穂が「南」(十字の銀河の南)から「西」(鬼の横顔に似る銀河の口)へ垂れる。だから、[]の字は「〔南〕から時計回りに90度転回して〔西〕と化()る」――をあらわすことになった。
 上の左図の[]の字形は、「地面に植わるイネの状況」に観えない。
 したがって、[]の契文(けいぶん)形=甲骨文字の字形は、上の右図「地面に植わる[(イネ)]の形」のごとく図案されて、その「イネの穂は〔北〕から時計回りに90度転回して〔東〕と化()る」と定められた。
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 なにゆえ、[]の字形のおける「穂」は「十字の銀河の腹部を、母体の臀部」に見立てて、「十字の銀河の臀部」の後方「鬼の横顔に似る銀河」の方へ転回することになったかと言えば――その原因・理由は、下に図示したように、「鬼の横顔に似る銀河における横顔」は「イネと麦の花」に相似し、「鬼の横顔に似る銀河の角(つの)」は「イネと麦の芒(のぎ/花の外殻の針のような突起)」のごとくに観えるからである。
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 以上のごとく、倉頡が創った[]の字源・字形・字義は「方位が時計回りに90度転回して北→東・東→南・南→西・西→北に化る」と定められた。また、[]の字源・字形・字義は「イネ。麦。イネや麦などの穀物(五穀)。五穀豊穣」などをあらわすことになり、最高の政治スローガン「人民の胃袋を穀物(食物)で満たす」とあらわすことになった。
 []の下に[]の字(「女体に相似する、十字の銀河」)が加わって[]の字が作られた。「十字の銀河」は「人体の形」に相似するゆえ、人偏に[]の字が作られた。
 [][]は、[]の字源・字義をそのまま受け継ぐことになったため「時計回りに方位が90度転回する規定」をあらわすことになった。
 だから、前回(1)のブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」で証明したように、『魏志倭人伝』は冒頭の「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」という文の先頭の[]という字をもって――「日本列島の本土・九州の末盧国以下の方位規定は時計回りに90度転回して、本土の〔西〕となる九州は〔北〕と化()り、本土の〔東〕にある能登半島・伊豆半島は〔南〕に在ると、卑弥呼王朝は本土地理を制定していた」と説明していたことになる。
 『魏志倭人伝』に記述された【末盧国より以後の記事に配された12カ所の方位記事】は「時計回りに90度転回する方位規定」で統一され、[]の字源・字義の「時計回りに方位が90度転回する規定」と合致して【科学】が成立する。
 したがって、『魏志倭人伝』は「倭人国には【倉頡が発明した漢字作成理論(作成原理と作成方法)】と夏音文字の学芸が存在した」と説明したことになる。
 また、【末盧国より以後の記事に配された12カ所の方位記事】は――【末盧国から黒歯(こくし)国までの、倭人国31ヵ所全部の本土における小国名】は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】にもとづいて定められた――と説明していることになる。
 だから、『魏志倭人伝』は1ヵ所もウソの記述が存在しない歴史書であった。この事実は、上記した「1千万坪の大鳥の地上絵」によって、【科学】が成立して証明される。

◆倉頡は、また、下に示す「さそり座α星がある、夏の銀河の西端の方へイネの穂が垂れる」と考えて、[]の字を作った。
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 上の右下端にある「さそり座α星」は夏から秋までの穀物収穫期、赤く輝く夏の星空でひときわ目立つ巨星の一等星である。これゆえ、わが国では「豊年星」と呼んだ。中国で「火()」「大火(たいか)」と名づけられ、「大火西に下る頃」と表現して「夏が終わると、禾(穀物)を収穫する晩秋が到来する」と、豊年の喜びを表現した。
 卑弥呼時代には、上の図の最下部に記した「南」は「晩秋(陰暦八月上旬)、大火(さそり座α星)が最南端に位置して子午線通過状況」を示し、「西」は「陰暦八月上旬の午後7時頃に、大火が西に下る頃、つまり地平線近くの西空に位置する状況」を表現した。
 黄帝時代においては、秋分の日の午後6時に、大火は真西から約10度の方角(西南西)、しかも地平線スレスレの低い高度の空に位置して30分後には地平線下に没した。この状況を注目して、倉頡は[]の字を創ったことになる。
 この秘密を伝えて、司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀・巻一には「土徳(どとく)の瑞(ずい)があり、ゆえに黄帝を号す」という記事がある。「黄帝」を号することになった黄帝の土徳には二つの瑞祥(ずいしょう/めでたいことが起こるきざし)があり、そのうちの一つの瑞祥は「黄龍(こうりゅう)」である。
 上に示した「大火西に下る頃」の[]の字源銀河解説図における「銀河の中心(銀河系宇宙の中心)周辺の巨龍の顔の銀河・胎児の姿に似る銀河」は黄色く輝く。ゆえに「黄色く輝く巨龍の銀河の顔の銀河」は「黄龍の瑞祥」をあらわした。というのも「黄龍の顔の銀河」は「土(南東の地平線)」から昇り、「土(真南の地平線)」近くを通過し(つまり、子午線通過し)、「土(南西の地平線)」の下に没するからである。だから、「黄龍の顔の銀河」は「黄帝」と号することになった土徳(地平線に近い銀河部のイメージが示す徳)をあらわして「黄龍」と名づけられた瑞祥をあらわしたことになる。
 もう一つの土徳の瑞祥は「地螾(ちいん)」と名づけられた。
 上の「大火西に下る頃」の[]の字源銀河解説図における「黄色く輝く、胎児の姿に似る銀河の西端」が「地螾」の瑞祥をあらわした。「地螾」の[]は「土の徳」を、[]は「寅の体毛のように黄色く輝く胎児の姿に似る銀河」があらわした。[]の字義は「蚯蚓(みみず)」である。土の中にすむ蚯蚓のからだは、うす赤くよく伸び縮みする。ゆえに、「地螾」は「子宮に宿る胎児が育って出産様子をあらわす目出度いしるしの瑞祥の、赤いみみず腫()れの妊婦の腹部にできる妊娠線」を意味したことになる。
 以上のごとく、『史記』五帝本紀の黄帝の記事は――常に地平線近くを運行する(1)「黄龍(黄色い巨龍の顔の銀河)」と(2)「地螾(黄色い胎児の姿に似る銀河の西端)」の二つの土徳の瑞祥の銀河部によって、「倉頡がつかえた女性の生殖器と胎児の出産を研究した帝」は「黄帝」と号されることになった――と伝えていたのである。
 

◆ところが、「黄龍」と「地螾」の瑞祥によって、「大火西に下る頃」の[]の字源銀河解説図における[]の字源解釈に疑問符?が生じることになる。
 というのも、[]の字源解釈における「禾の穂が垂れる、【南→西】の転回方位」にもとづくと――「地螾・妊娠線」をあらわす「胎児の姿に似る銀河の西端」は「母体の臀部」でなければならないのに、「母体の腹部」となるゆえ、「何!ンゥ ?」ということになる。
 「銀河の中心(銀河系宇宙の中心)」を中心とする「巨龍の顔の銀河と胎児の姿に似る銀河」の様子について――藤井旭著『透視版 星座アルバム』(誠文堂新光社発行)は「わが銀河系の中心方向にむらがる無数の星と、入り乱れる星間物質が、わきあがる入道雲のような迫力に満ちた姿でせまる」と表現する。
 だから、「銀河の中心」周辺銀河は混乱・渦を巻いて東西が入り乱れて見える。ゆえに、「巨龍の顔の銀河」と「胎児の姿に似る銀河」は入り乱れて東西が入れ変わり、「胎児の姿に似る銀河」は「黄龍の瑞祥」と化()って「妊婦の臀部」と解釈することができる――と倉頡は考えたことになる。
 これゆえ、倉頡は「逆時計回りに方位が90度転回する、北→西・西→南・南→東・東→北となる方位規定」をあらわす[()]の字を考案した。
 上の〔南〕となる「大火西に下る頃」の[]の字源銀河部を「巫女(みこ)の腰」と見立てると、〔北〕となる「十字の銀河・鬼の姿に似る銀河・人の横顔に酷似する銀河」は「巫女の顔としなやかに踊る巫女の手」に観える。
 ゆえに、下の図に示す「人の横顔に酷似する銀河」は「踊る巫女の顔」に見立てられ、「こと座」は「巫女の肩の上にかざす[(さい)]」に見立てられて、[]の字の上半身が成立した。[呉]の下半身はもちろん「銀河系の中心方向にむらがる無数の星と入り乱れる星間物質が黄龍と地螾の瑞祥となって、わきあがる入道雲のような迫力にみちて渦巻く黄色く輝く銀河」ということになる。
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 上の[呉]の金文形右上の[口(さい)]は「無事に胎児が出産したと祝い・胎児の出産を祈祷する時巫女が用いる土器、つまり祝祷の器」をあらわした。[呉]の金文形は「北→西」つまり「逆時計回りに方位が90度転回する方位規定」をあらわす。言いかえると、「巫女の頭上となる「鬼の姿に似る銀河の臀部」の〔北〕は〔西〕の「こと座・祝祷の器(口)」となる」ゆえ、「北→西」は「逆時計回りに方位が90度転回する方位規定」をあらわした。

 下に、「十字の銀河」に[(さい)]が加わる[]の字源銀河解説図を示した。
 「十字の銀河」は「子授け祈願する時、子どもの誕生を祝う時に女性や巫女が舞う姿」に見立てられ、「十字の銀河の肩の上」にある[]は、「子どもの誕生を祝祷するときの土器」の図案である。
K525
 「十字の銀河」を「子授け祈願する時、また子どもの出産を祝う時に用いる土器」に見立てれば、女性や巫女たちが子授け祈願する時や子どもが誕生した時に[口・さいの土器]をかかげて祝祷して身をくねらせて舞う姿を日常生活にあって人々は見慣れていたゆえ、[]の字は「逆時計回りに〔北〕が〔西〕に90度転回して変位する考え」を示すことになった。また、帝が人心を安定させて国家を治めるために[]の字源・字形・字義が示す「国土に多数の子どもが満ちあふれる」をも政治スローガンとして掲げる必要があった。また、人民にとっても[]の字源・字形・字義が表示する「多数の子どもが生まれて、幸せにくらす状況」は最も望ましいことであった。
 白川静著『字統』は[]の字について「人が一手をあげて祝祷の器である口(さい)をささげ、身をくねらせて舞う形」と解説する。
 倉頡は、「大火西に下る頃」の[]の字源銀河における「?(疑問)」から[]の字を作って――現在の淮河(わいがわ)河口と長江口(ちょうこうこう)の中間地で中国全土を北部と南部に分けて、中国の北部地理は[]となって方位が時計回りに90度転回し、中国の南部は[]となって逆時計回りに90度転回して、石斧の刃の孔に柯()の先端がぴったり合うがごとく中国全土はがっちりと結合・固定して動かない(不動となる)――と立論した。
 ゆえに、現在、中国北部の川の名は石斧の柯()に先端をあらわして「某河」となり、中国南部の川の名は石斧の柯を固定する孔をあらわして[某江]となる。中国南部の川の河口は入江のごとく陸地の内側へと凹むゆえ石斧の孔に符合し、中国北部の河口は陸地から海へ向かって突き出て(凸状となって)石斧の孔にぴったり合って動かない柯の先端の形状に符合する。
 倉頡は「五穀豊穣」をあらわす[]の字で「中国北部の都における地平線より外界となる遠く離れる地域までの地理は時計回りに方位が90度転回する」と定義した。また、倉頡は「国土に多数の子どもが生まれる」をあらわす[]の字で「中国南部の都における地平線より外界となる遠く離れる地域までの地理は逆時計回りに方位が90度転回する」と定義した。

 以上のごとく、上に図示した【[][]の字源銀河図=字形銀河図】は、【倉頡が発明した漢字作成方法】をあらわした。
 このブログでは【[][]の字源銀河解明をもって、倉頡が発明した漢字作成原理】を、【[][]の字源銀河解明をもって、倉頡が発明した漢字作成方法】を解明し証明した。
 しかし、【倉頡が発明した漢字作成理論】の説明は未だ十分ではない。というのも、倉頡は【漢字作成原理と作成方法を象徴する聖獣】も定めたからである。
 次回のブログでは【倉頡が発明した漢字作成理論を象徴する聖獣の秘密】を解明する。

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2021年1月 8日 (金)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・1

▼新年早々、2021年1月元日の午後7時から午後9時までの2時間――NHKBSプレミアムテレビ・3チャンネルは「邪馬台国サミット」と題して、九州説VS近畿説をとなえる第一線の研究者たちを一堂に会して、【魏志倭人伝のウソを読み解く】ことを目的とした番組を放送した。しかし、あいにくのところ『魏志倭人伝』の全記事は真実・事実を伝えるもので、一片のウソも偽りも有していない歴史書である。だから、ウソが一片も存在しない『魏志倭人伝』を相手にしたため、この番組の魂胆(こんたん)が明瞭となり、「邪馬台国サミット」自体の陰謀つまり――「魏志倭人伝はウソの記述が多い書物である」という認識を国民の頭脳にすっかり植え付けて、近畿説と九州説が100パーセントの空論説であるようなことは絶対にありえないと国民に信じこませようとした情報操作の陰謀――が明らかとなった。したがって、この番組は九州説と近畿説第一線の「先生」とか言うレッテルのついた研究者たちを一堂に集めて、九州説と畿内説のウソで丸めた空理空論を2時間も垂れ流し続けるものであったため、それこそ鼻にひっかけるにゃあたらない・ひどい番組であった

★「倭人国の地理学」のトリセツ・10

◆このブログは前回の13回までは「フェイク&まぼろしの邪馬台国」と題していた。
 ところが、新年早々からNHKテレビが上記のごとく学問を鼻にかけてお高くとまって一貫して空理空論のみで終始した、ひどい番組を放送した。このため、私はやむをえずお色直し・お化粧直しをおこなわざるをえないことになって、今回からブログ名を「邪馬台国説はサギ・騙(だま)されるな」と変えることにした。
 しかし今回から始まるブログは前回の「フェイク&まぼろしの邪馬台国」の続篇であることを示すために、副題の『「倭人国の地理学」のトリセツ』は前回の9回につづいて10回として変えないことにした。
 前回・13回のブログ「フェイク&まぼろしの邪馬台国」で発表したように――私は九州説と畿内説が完全なる空理空論であると証明できる遺跡を発見している。
 だから、この遺跡にもとづいて、上記したように――正月早々のNHKテレビの「邪馬台国説サミット」に集めた九州説と畿内説をとなえる第一線の研究者たちが情報操作して「魏志倭人伝はウソの記事が多い」という認識を国民の頭脳に植え付けようとした意図的な思惑・詐欺(さぎ)を暴露しなければならない次第とあいなった。
 この遺跡によって、『魏志倭人伝』が説明する「日本列島の〔東〕は〔南〕へ伸びる」と説明する日本列島地理は【わが国が習得した原初漢字の秘密】を巧妙に表現する、卑弥呼が立論した学術意見を伝えるものであったことになる。だから、『魏志倭人伝』が説明する【卑弥呼が立論した日本列島地理で原初漢字の秘密を表現した学術理論体系】と比較すると、「邪馬台国サミット」で披露された諸先生方の意見は「学説」という高貴な粉飾をいささかもまとっていないデタラメ・インチキである事実が明確となった。
 これからのわが解説は、この遺跡にもとづいておこなう。

◆「邪馬台国サミット」においては――約2000字で構成される『魏志倭人伝』は虚偽・誤記が多い、著者の陳寿の情報操作が加えられている文献である――と主張された。しかし、このブログが前回までで解説し指摘したように、また私が発見した遺跡にもとづくと『魏志倭人伝』には1ヵ所もウソの記述も情報操作も存在しないことになる。だから、九州説と畿内説のように、『魏志倭人伝』には多数の【誤読・歪曲・主観的推論】などの無駄な不必要な手間をいっさい加える必要がない。
 『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方(たいほう)の東南、大海の中に在り」である。この文中に登場する「帯方」は「現在の朝鮮半島のソウル付近にあった帯方郡」のことである。この冒頭記事から後に続く、対馬国へ到り次の一大(いちだい)国に到着しさらに日本列島本土の末盧(まつろ)国に至るまでの旅程記事には、7ヵ所の方位記事がある。
 この【対馬国・一大国までの旅程記事】は、黄帝陵(黄帝の廟と陵墓)の所在地を華北地図(モンゴル・中華人民共和国地図)で調べればわかるように「モンゴル・ゴビ砂漠の南には毛烏素(ムウス)沙漠があり、さらに南には陝西省(せんせいしょう)黄陵県(こうりょうけん)に黄帝陵が在る」と説明するものであったのである。
 なにゆえ【対馬国・一大国の旅程記事をもって、黄帝陵の所在地】が説明されることになったかと言うと――前回のブログにて解説したように、『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)は冒頭34字で「わが国に、紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、中国の夏代(かだい)初頭に用いられた夏音(かおん)文字が伝来した。紀元前4000年頃の前期縄文時代から後期縄文時代初頭までの約2000年間に及ぶ夏の銀河の各部の形状をモデルにして土器・土偶を作った芸術家たちによって、夏音文字は習得された。というのも、紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官・倉頡(そうきつ)は夏の銀河の各部の形状から漢字を作る原理と方法を発明し、夏音文字は倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法に則(のっと)って作られていたからである。つまり、わが国の縄文時代初頭の芸術家たちは約2000年前の前期縄文初頭から夏の銀河の各部をモデルにして土器・土偶を作っていたゆえ、夏の銀河各部の形状から漢字を作る倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字を習得することができたのである」と説明するものであったからである。
 だから、【わが国が後期縄文時代初頭に習得した倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の歴史】、つまり【わが国が習得した原初漢字の秘密】を卑弥呼は「対馬国・一大国の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)」をもって説明する方法を考案した。つまり、【対馬国・一大国の旅程記事】は「卑弥呼は【倭地(日本列島)にて習得した原初漢字の歴史】を【対馬国・一大国の地宜】で表現できる学術理論を考案した」と伝えている。
 だから、『魏志倭人伝』には「対馬国から南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」という記事がある。
 上記に示した文中にある「瀚海」を注目すると【対馬国・一大国の旅程記事】には【わが国は倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸を習得した歴史についての説明】が秘められていることになる。
 卑弥呼は「対馬国(現在の長崎県対馬)と一大国(現在の長崎県壱岐)の中間の海」を「瀚海」と名づけた。「瀚海」は「モンゴルのゴビ砂漠」を意味する。
 だから「瀚海」には重大な役目があった。ゆえに、卑弥呼は「瀚海より北にある対馬国をゴビ砂漠より北のモンゴル」に見立て、「瀚海より南の一大国をゴビ砂漠より南にある毛烏素(ムウス)沙漠と黄帝陵」に見立てれば【わが国が原初漢字を習得した歴史を説明できる、とした学術理論】をとなえた。このため――【対馬国・一大国の旅程記事】には「わが倭地(日本列島)においては、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】を習得した」と説明する機能が秘められていたのである。
 20211月元日のNHKテレビの夜の「邪馬台国サミット」に集まった諸先生方は『魏志倭人伝』に記述された「瀚海(ゴビ砂漠)」について無視して一言もふれなかった。しかし、この「瀚海」無視によって「邪馬台国サミット」の目的「魏志倭人伝はウソが多い書物である」と国民が認識するように情報操作していた先生方の目論見(もくろみ)は「九州説と畿内説以外の説は学問的価値が無い」と他の説を排除するためであったことが露呈した。

◆『魏志倭人伝』は九州本土の末盧国の記事から末部の「周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り。景初二年六年、倭女王は大夫(だいふ)難升米(なしめ)を遣わして郡(帯方郡)に詣(いた)る」までの記事には――「方位」を表示する記事が12ヵ所ある。
 この日本列島・本土の12カ所の方位記事に1ヵ所も【誤読・歪曲・主観的推論】を加えないで忠実に読解すると――日本列島の〔西〕に所在する末盧国・伊都(いと)国は〔北〕に位置し、九州の〔東〕の能登半島・伊豆半島は〔南〕に方位が転回して所在することになる。
 この『魏志倭人伝』に記述された「〔西〕の九州が時計回りに90度方位が転回して〔北〕、九州の〔東〕にある能登半島・伊豆半島が時計回りに90度方位が転回して〔南〕となる方位規定」は、女王卑弥呼が国名に用いた[]の字源・字形の原形・原義をあらわした。
 倉頡は【天文学で通称「夏の銀河」と呼ばれる銀河各部の形状から漢字を作る学芸】を考案した。「夏の銀河」とは「夏の星座が漬かる巨大な銀河」である。
 倉頡は中国全土の各地の天頂にめぐってきた銀河、つまり【漢字(文字)作成原理】となった[]の字源銀河とその隣の[]の字源銀河から、最高・最良の政治スローガンをあらわす「人民の胃袋を食物で満たす」を意味する[()]の字を考案した。
 この[]の字は【倉頡が発明した漢字作成方法における基本字】である。
 なお、【倉頡が発明した漢字作成原理】は【「夏の銀河」の東端にある、中国全土各地の天頂にめぐってきた[][]の二字の字源・字形の原形・原義となる二つの銀河】で構成された。

[]の字形は[]の字源銀河中央に「イネ()根・茎・葉・穂」をデザインする図書を重ね、[]の字源「人の姿に相似する銀河」における、その東部の「人の口」に観える銀河部の方へ「稲(イネ)の穂が垂れる形」に図案された。ゆえに、[]の字義は「イネ。麦。穀物(五穀)」そして「五穀豊穣(ごこくほうじょう)」つまり「豊かな穀物が実るようにして、人民の胃袋を満たす政治をおこなう」という政治スローガンをあらわすことになった。[]の字源銀河は「食物(イネ・麦など)を食べて腹部が丸くなって満腹になった人の姿」や「お腹が円い妊婦の姿」に相似するゆえ、[]の下に[](「妊婦」をあらわす図書)が加わって[]の字が作られた。「五穀豊穣」は「人々の胃袋を食物・禾で満たす」と意味するゆえ、[]をあらわす人偏に[]の字が加わって[]の字が作られた。[]の字源・字形・字義は[]の字源・字義を受け継いで「五穀豊穣」をあらわすことになった。上記したように、[][](人々の胃袋を食物[]で満たす形状)の字は共に「五穀豊穣」をあらわすことになるゆえ、結局、国名の「倭人」の2字は「豊かな穀物が実るように、人民の胃袋を満たす政治をおこなう」という政治スローガンをあらわした。
 上記したように――[]の字形は[]の字源銀河中央に「イネ()根・茎・葉・穂」をデザインする図書を重ね、[]の字源となる「人の禾(食物)を食べる口の形をした銀河部」に「稲(イネ)の穂が垂れる形状」に図案された。この「人の口の方へ垂れるイネの穂のカーブ」は「南から西への時計回りに90度転回するカーブ」となる。だから、[]の字源・字形・字義は「五穀豊穣」の他に「北→東・東→南・南→西(イネの穂が人の口の方へ垂れるカーブ)・西→北、つまり方位が時計回りに90度転回する規定」をも表示することになった。そして、[][]の字源・字義を受け継ぐものであったゆえ、[]の字源・字義もまた「北→東・東→南・南→西(イネの穂が人の口の方へ垂れるカーブ)・西→北、つまり方位が時計回りに90度転回する規定」をもあらわすことになった。

◆『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」である。
 ということは、『魏志倭人伝』冒頭に登場する「倭人」の2字は「[][]の字源・字義にもとづいて、末盧国以下の本土における方位規定は時計回りに90度転回して、倭地(日本列島)の〔東〕は〔南〕へ伸びると定めた地理」をあらわしていたことになる。
 その証拠に、上記したように、末盧国以下の本土における12カ所の方位記事を1ヵ所も変えないで忠実に再現すると、時計回りに90度転回して〔西〕の九州は〔北〕となり、九州の〔東〕の能登半島・伊豆半島は時計回りに90度転回して〔南〕に所在することになる。
 このように、【『魏志倭人伝』冒頭の、[]の字源・字義】と【末盧国以下の本土における12カ所の方位記事】の両者が示す方位規定は矛盾せずに合致して【科学】が成立する。
 だから『魏志倭人伝』冒頭早々から――卑弥呼は「遠くの能登半島や伊豆半島までをあらわす倭地本土地理において、九州は〔西〕にあらず〔北〕に所在し、能登半島・伊豆半島がある〔東〕は本土の〔東〕ではあらず、〔南〕と化()る」と定めた。つまり、卑弥呼は【[]の字源・字義に則(のっと)る転回本土地理】を立論した。これゆえ、卑弥呼が立論した倭人国地理は偉大であると絶賛され、【原初漢字の学芸知識】を有する面々によって卑弥呼は倭女王に推奨され、倭女王に就任した卑弥呼はわが国における最初の国家「倭人国」を創設した――と説明していたことになる。
 ゆえに、『魏志倭人伝』は冒頭2字の「倭人」という語をもって――卑弥呼王朝は卑弥呼が立論した【本土の〔西端〕の九州は〔北〕に位置し、本土の〔東端〕は〔南〕へと伸びる転回地理】を制定した――と説明するものであったことになる。
 このような【本土転回地理論】にもとづくと、倭女王卑弥呼が居住した王国の中心地域は現在の山陰出雲(島根県東部)であったことになる。当時の出雲の宍道湖周辺は[][][()]の字源・字形・字義に合致する地宜(ちぎ/平面的に図化される地図の形となる地所)が所在した。
 『魏志倭人伝』は「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆、倭種なり」という記事がある。[]の字源・字義「時計回りに90度転回する方位規定」にもとづくと、〔北→東〕となる。ゆえに、出雲より〔北〕にある地所が「女王国の東」となる。したがって「出雲の北方約40㎞の日本海上に浮かぶ、知夫里島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島で構成される島前(とうぜん)と、最も大きな島の島後(とうご)4つの大島と約180の小島からなる隠岐群島」が「皆、倭種なり」と記された小国であったことになる。
 本土北の沿岸よりも〔北〕が〔東〕と化()る、その〔本土の東となる日本海上〕に浮かぶ「大小の島々からなる群島や列島等」が「皆」と表現されることになる。ゆえに、この「皆」の字義に合致する日本海上に所在する小国は「隠岐群島」のみ一ヵ所しか存在しない。だから、出雲こそが女王国・邪馬壱国であったと簡単・容易にわかる。〔注 なお邪馬壱国の範囲は現在の島根県と鳥取県西部、旧国の石見・出雲・伯耆であったと考えられる〕。
  
◆NHKテレビは、五度か六度、女王国名に用いる[]の字を大写しにした。
 この字は[]つまり[]ではない。この字は、まちがいなく[]つまり[]である。だから、女王国名は「邪馬台国」ではなく、「邪馬壱国」であったことになる。
 後漢書』倭国伝には「邪馬臺国」という4字の後に小字で「案今名邪摩惟音之訛也」つまり「今の名を案ずるに邪摩惟とする音の訛(なまり)也」と記す注がある。この注の「邪摩惟」の[]の字音は「イ()・ユイ(ユヰ)」であり、「ダイ」あるいは「ト」という字音は無い。だから、「邪摩惟」という注は「邪馬台(ヤマタイ)」・「邪馬台(ヤマト)」とは読めない。一方、多くの夏音文字は一字一音であるゆえ、「邪馬壱」は「ヤマイチ」ではなく、[]は「イ」と読むべきことになるゆえ「邪馬壱」は「ヤマイ・邪摩惟」と読むことができる。
 だから、卑弥呼が居住していた女王国の名称は「邪馬壱(ヤマイ)国」であって、「邪馬台国」ではなかった。
 約2000字で構成される『魏志倭人伝』には「邪馬台国」と記した箇所は1ヵ所も存在しない。したがって、「邪馬台国」は空想の産物であったことになる。
 だから、九州邪馬台国説と畿内邪馬台国説は、即刻、空理空論・空想・虚妄であったと断定すべきことになる。

◆下に――中国大陸・朝鮮半島の地図に対する卑弥呼が立論した【転回列島像(本土転回方位規定地図)】と【実際列島像(九州説と畿内説が立論基盤とする日本地図)】――を示した。
K576

 「邪馬台国サミット」番組は開始から50分から55分頃に発表することになった、「三国志研究の第一人者」とNHKテレビが紹介した先生は――上に示した【南へ伸びる転回列島像】は「『魏志倭人伝』の著者の陳寿が、〔魏の敵国である呉に対して、倭人国の地図を南へ延ばして呉に近くなる東方に倭人国が存在すると情報操作をして、魏に味方するために倭人国が呉の東方の脅威(きょうい)とするための意図的な思惑によるウソの地図〕であった――と主張した。
 しかし、陳寿は蜀(しょく)に仕えたゆえ、魏に味方にして呉を脅かす必要はなかった。さらに、魏・呉・蜀滅亡後、陳寿は晋(しん)に仕えて、晋の武帝の晩年である太康(たいこう)年間(280年~289)の著作郎(歴史編纂官)時代に『三国志』を著作した。『魏志倭人伝』は『三国志』一部の「倭人伝」、つまり「『三国志』の魏書東夷伝末部の倭人伝」の通称である。ゆえに、『魏志倭人伝』は280年~289年に成立したことになる。だから、陳寿には魏に味方して呉を脅かす動機が無かった。よって、【陳寿情報操作説】は明確に空理空論であった。ゆえに、この先生の使命は【陳寿情報操作説】をもって「魏志倭人伝のウソを読み解く」ことであったことになる。
 【陳寿情報操作説】は「邪馬台国サミット」のテーマ「魏志倭人伝のウソを読み解く」を最も明確に示す意見である。ゆえに、諸先生方も【陳寿情報操作説】に協力して「魏志倭人伝には多くのウソの記述がある。したがって、魏志倭人伝のウソを読み解いた九州説と畿内説こそが正しい」とする意見を強調して終始一貫して主張していた。だから、「邪馬台国サミット」を開催した目的・意図は〔九州説と畿内説に対して、国民が信頼して疑問を抱かないようにするための対策〕であったことになる。

 【陳寿情報操作説】を説明した先生は――『魏志倭人伝』には「其の道里を計るに当(まさ)に会稽(かいけい)の東冶(とうや)の東に在るべし」という記事がある――と指摘した。
 〔注 上記した地図には南宋紹煕刊本(12世紀)の表記にもとづいて「東治」とした。「東治」を「東冶」と表記する出典もある〕。
 上に示した【実際の列島像】は「会稽の東治(東冶)の東北に所在」するゆえ矛盾し、また[]の字源・字義にも合致しないゆえ――『魏志倭人伝』と無関係の地図となる。ゆえに、【実際の列島像】を用いて立論する九州説と畿内説の実像は『魏志倭人伝』の全記事と無関係の空理空論・空想・虚像であったことになる。
 上に示した【[]の字源・字義をあらわす、南へ伸びる転回列島像】は、『魏志倭人伝』の記事に合致して会稽と東治(東冶)の東にある。だから、【転回列島像】は卑弥呼が立論した【倭地の東方が南へ伸びる転回倭人国地理】を示すものであったことになる。

◆『魏志倭人伝』は「其の国、本亦(もとまた)男子を以て王と為()す。住(とど)まる七、八十年に倭国は乱れ、相攻伐(あいこうばつ)して年を歴()。すなわち一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼と曰()う」と記述する。
 この記事が示すように、西暦170年頃~180年頃には男王たちが戦いあって倭国は乱れていたが、卑弥呼によって戦乱は終息したことになる。
 この終戦の原因は、卑弥呼が立論した【日本列島地理】であったのである。
 前述したように、卑弥呼は【瀚海(ゴビ砂漠)からはるか南の陝西省黄陵県を本拠地とした黄帝と漢字を発明した倉頡の歴史は、対馬国・瀚海・一大国の地宜・方位であらわす地理で表現できる学術理論】を発表した。また、卑弥呼が立論した倭人国地理は「対馬国・一大国の南北」に合致するように「〔西〕の九州を〔北〕の対馬国に見立てて〔北〕になるように[]の字源に合致するように転回し、〔東〕の能登半島・伊豆半島を〔南〕の一大国に見立てて[]の字源に合致するように転回して〔南〕と定める本土地理」が合体して整然と組織化されていた。だから、卑弥呼が考えた【転回日本列島地理】は、天と地の神霊を呼び起こす最も神聖な最高峰の学問的偉業を示すことになった。このため【転回日本列島地理】を尊重せずになおも戦争をつづけるならば、相攻伐(あいこうばつ)して乱れる倭地全土に神が厳しく罰を与えるにちがいないと信じられることになった。
 というのも、当時の最も強大な権力は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】であったからである。この事実は、わがブログ「フェイク&まぼろしの邪馬台国」の6回~10回までに詳細に解説した。つまり――7世紀初頭、推古天皇の摂政であった聖徳太子がおこなった崇仏政策について世間は「仏教よりも仏教の経典に用いられる難解きわまりない楷書を解読した巫女と覡(げき/神官)が精通した【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】のほうがはるかに尊い。太子の巫覡蔑視・朝廷からの排斥は明らかに失政だ」と批判して太子を虚仮(こけ)にして馬鹿もの扱いをした。だから、「世間の【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学術】のほうが尊いという評価は虚仮(ウソ)だ。ただ仏のみ是が真なり」と世間の評判に反論した太子は天皇になれなかった。このように――当時、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】が世を支配する最大の権力であった。
 これゆえ、倭国が乱れていた180年当時、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】にもとづく偉大なる発見を無視すると神(鬼神)は厳しく罰するにちがいないと確信されていた。【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸知識】を有していた男王・皇女・巫女や覡(げき/神官)・諸氏族の長・豪族たちの面々は、一刻も早く戦乱を終息させて【転回日本列島地理】を立論した卑弥呼を女王に選んで国家を建設しなければならないと願望するようになった。
 というのも、当時、中国軍の倭国遠征が深刻な心配の種子(たね)であったゆえ、倭国はいつまでも乱れているわけにはいかなかったのである。

◆国家を建設するにあたって、卑弥呼は三つの心配すべき問題点があった。
 その一つは、国家建設の直接原因となった中国軍の倭国遠征であった。後漢の西暦146年頃の中国の人口は約四千七六〇万人であったが、その後は戦乱がつづいたために約140年後の180年頃には、中国は一気に約4分の1(約1200万人)の人口を失っていたと推測される(というのも、魏・呉・蜀の並び立つ戦乱の三国時代の人口は、約八〇〇万人そこそこであったからである)
 ゆえに、卑弥呼はじめ倭地の人々は中国の人口が激減する殺戮(さつりく)すさまじい覇権争いによって、倭地の住民たちを人狩りして人口を増やすための中国遠征軍の来襲を想像して恐れていたにちがいない。だから、いつまでも戦争を続けていれば中国遠征軍によって倭地は占領されてしまうのではないかという恐怖が国中にひろがっていた。これゆえ、来襲する中国軍に対抗できる国家の樹立を人々は願望するようになった。このような状況であったゆえ、卑弥呼は中国の侵略に備えて、中国遠征軍来襲を恐れる各地の諸氏族をたばねて国家を建設して女王になることを決意しなければならなかったのである。
 二つ目の心配は、国家を建設して王朝を樹立すると【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】が政権基盤となるため、この学芸を反体制側の氏族や王たちが巧みに狡猾に利用して革命・反乱をおこすと、卑弥呼王朝が崩壊・滅亡することを心配しなければならなかった。ゆえに、その対策が必要となった。
 三つ目の心配は、『魏志倭人伝』が「倭女王の卑弥呼と狗奴(くな)国の男王・卑弥弓呼(ひみくこ)は素(もと)より和せず」と記述しているように、狗奴国の男王・卑弥弓呼は「従来ずっと国家を建設せずにやってきた。国家を建設すれば中国と同様に天下を手中に入れようとする王たちが各地に出現して激しい覇権争いがおこって倭国は従来よりも乱れる」と主張して、国家建設に反対して卑弥呼王朝に和せず(参加せず)に卑弥呼を憎悪・敵視した。ゆえに、倭人国創設と倭女王就任には、狗奴国の卑弥弓呼の攻撃にもそなえる必要があった。

◆卑弥呼は三つの心配を解決するため、『魏志倭人伝』が「女王国より以北には、特に一大率(いちだいそつ)を置いて諸国を検察せしむ。諸国之(これ)を畏憚(いたん)す。常に伊都(いと)国に治す」と記述するように、伊都国の一大率との共立国家体制を築くことにしたのである。
 つまり、(1)卑弥呼は中国からの侵略・襲撃を防衛するために九州・伊都国に一大率を配置することにした。
 また、卑弥呼は(2)【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】を巧みに・狡猾に利用する革命・反乱を防ぐために、一大率に特別に強大な検察力を与えて諸国の王たちが畏(おそ)れ憚(はばか)るようにして、卑弥呼王朝が滅亡しないようにすることにした。ゆえに、『魏志倭人伝』は「魏の都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる楷書と卑弥呼が文書に用いる夏音文字は差錯(ささく・相違)していたので、伊都国の港で楷書と夏音文字の意味が同義となるように点検し確認して誤訳が生じないようにしていた」と説明する。だから、卑弥呼は一大率に強大な検察力と【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】を厳重に管理する権限を与えて、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】を利用して興す革命・反乱を厳重に取り締まる役目も与えていたことになる。
 さらに、卑弥呼は(3)狗奴国の男王が兵を挙げた時、狗奴国討伐を指揮する倭人国軍の総大将を一大率と定めていたと考えられる。
 だから、卑弥呼は一大率に諸国の王たちよりも特に強力な権力を与えたゆえ、『魏志倭人伝』における「すなわち共に一女子を立てて王となし、名づけて卑弥呼と曰()う」という記事は、「倭人国は女王卑弥呼と伊都国の男王一大率による共立国家であった」と説明していたことになる。
 
◆以上のごとく、2021年元日の夜にNHKテレビが「邪馬台国サミット」と名づけた催しに一堂に会した諸先生方は1ヵ所もウソの記述が存在しない『魏志倭人伝』に対して、「魏志倭人伝には、多くのウソが記述されている」と誤った認識を国民に植え付けようとしていたことになる。
 2時間に及ぶ「邪馬台国サミット」の様子は、NHKオンデマンドの「邪馬台国サミット・2021」を視聴すれば確かめることができる。

 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」は次回から幾回かに分けて――『魏志倭人伝』と同時代(3世紀後半)に作製された「1千万坪の大鳥の地上絵」について解説する。この「1千万坪の大鳥の地上絵」によって「約2000字で構成される『魏志倭人伝』の全記事には1ヵ所もウソの記述は存在しない」という事実が証明される。
 この遺跡によって、新井白石以後約300年に及ぶ邪馬台国説は『魏志倭人伝』に記述された【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】を無視・削除したが原因で空理空論であったことが明らかとなる。この遺跡は『魏志倭人伝』を研究した学者たちの想像をはるかに超える壮大な歴史ロマンに満ちあふれ、その秘密を探求すれば探求するほど内からの情感が深まって永遠なる真理を知ることができる。
 この遺跡は紀元前3100年頃に起源した古代エジプト文字(ヒエログリフ)も漢字と同じ「夏の銀河各部の形状から作られ事実」も【科学】が成立して解明・証明することができる。だから、同じ3世紀後半に作られた文献『魏志倭人伝』と遺跡「1千万坪の大鳥の地上絵」は日本古代史に限った遺産ではなく世界史的第一級の遺産ということになる。
 「邪馬台国サミット」の諸先生方が信じる九州説と畿内説は、未解明の古代エジプト文字(ヒエログリフ)の起源・字源も解明できる『魏志倭人伝』に記述された【漢字の起源史の証言】を抹殺する完全なる空理空論であったのである。

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