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2021年2月

2021年2月26日 (金)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・7

▼実は、有名ないわゆる邪馬台国説は、いとも簡単に空理空論・デタラメ・詐偽(さぎ)であると断定できる。にもかかわらず、現在、学界とメディアは「邪馬台国説は空理空論、デタラメ、真っ赤なウソ・詐偽である」と即座に断定しない。
 というのも、学界とメディアは邪馬台国説が明白な詐偽あるいは空理空論となる科学的理由と根拠が存在することにまったく気づいていないからである。
 中国の魏と朝鮮半島と日本列島の中間の大海は「玄界灘」である。
 「玄界灘」という名称は「[玄](天頂緯度線と子午線)をキャッチする方法を羅針盤とすれば精確に緯度(位置)が測定できるゆえ、中国・諸韓国と日本列島とを往来できる、波の荒い大海」と意味した。言いかえると、「玄界灘」という名称は「天の北極の高度を緯度に換算する方法を羅針盤にすると、精確に緯度が測定できずに必ず命を失うために往来することができない大海」と意味した。
 〔緯度を測量する方法〕は【(1)[玄](天頂緯度線と子午線)のキャッチ、(2)天の北極の高度を緯度に換算する方法】の2つの方法しか存在しない。そのうち、【[玄]をキャッチする方法】ならば玄界灘を往来できる。しかし、邪馬台国説は【[玄]をキャッチする方法】に則(のっと)って立論しない。だから、結局、邪馬台国説は【玄界灘を往来することができない、天の北極の高度を緯度に換算する方法】に則って立論する意見となる。
 したがって、邪馬台国説の考え方に則ると倭の使者たちは玄界灘を往来できなかったゆえ、結局、『魏志倭人伝』という書物はこの世に存在しなかったことになり、おのずと「邪馬台国」という地域もこの世には存在しなかったことになる。
 このように、〔緯度の視点〕という視点にもとづけばごく簡単に1、2分足らずで、邪馬台国説は【科学】が全く成立しない空理空論・空想・デタラメであったことが確実となる。にもかかわらず、江戸中期に生存した新井白石(1657-1725年)以後約300年もの長い年月をムダに費やして、学者たちは邪馬台国説が空理空論である事実についてまったく気づかない。この過失は、「うっかりして、気づかなかった」という一言ですまされない無責任きわまりない学界の怠慢である――というのも、『魏志倭人伝』はわが国における過去の歴史を伝える書物において最も大事な神聖な、つまり全記事が正確無比の歴史書であったからである。
 本来、正確無比であった歴史書『魏志倭人伝』を、邪馬台国説学者たちは多数の〔誤読〕を加えて立論しなければならない史料にしてしまった。その証拠に、学者たちは『魏志倭人伝』を「邪馬台国はエジプトに存在した」という意見も立論できるような面妖奇怪(めんようきっかい)な劣悪きわまりない史料に陥(おとしい)れて台無しにした。
 邪馬台国説は日本学問史における最大・最悪の空理空論であり、日本人の命と魂を愚弄(ぐろう)する、日本人にとって最悪・最大の災いであり、日本人が最も蔑視すべき空理空論であったのである


★「倭人国の地理学」のトリセツ・16

◆上記したように、【緯度を測量する方法】は【(1)[](天頂緯度線と子午線)のキャッチ、(2)天の北極の高度を緯度に換算する方法】の2つの方法しか存在しない。
 そのうち、【[]をキャッチする方法】ならば玄界灘を往来できる。しかし、【天の北極の高度を緯度に換算する方法】では玄界灘を往来することはできない。
 邪馬台国説は【[]をキャッチして緯度を測定する方法】に則る意見ではないゆえ、邪馬台国説は【天の北極の高度を緯度に換算する方法】に則って立論する意見となる。したがって邪馬台国説の考え方に則ると倭の使者たちは玄界灘を往来できなかったゆえ、『魏志倭人伝』には倭人国の様子を伝える記事が1字も書かれていなかったことになり、おのずと「邪馬台国」についての記事はゼロ・まったく存在しなかったことになる。だから、「邪馬台国」と呼ばれた地域も存在しなかったということになるゆえ、邪馬台国説は【科学】がまったく成立しない完全なる空理空論・デタラメ、詐偽であったことになる。

◆玄界灘を往来するとき、1度・60分の60分の1となる、1分以内の誤差で測定できる能力、つまり眼力を有していないと命を失った。
 大海を渡るとき、【天の北極が水平線からの高度が緯度】となる。つまり、水平線からの天の北極の高度が3415分ならば、その観測場所の海の緯度は北緯3415分となる。
 下に〔黄道(こうどう)の中心にして一周する天の北極の位置図〕を示した。
K412
 上の図が示すように、天の北極は〔黄道の北極〕を中心にして25,800年で一周する。この〔円周(大円)上における位置〕が〔各時代の天の北極の位置〕となる。すべての時代において、〔「黄道の北極」を中心とする大円〕と重なる北極星は存在しない。だから、すべての時代において〔天の北極〕は〔暗黒の闇(やみ)〕であったゆえ、ヒトが1分の精度で緯度を精確に測量できる北極星は存在しない。
 〔天の北極に最も近づく北極星〕は、紀元前2790年頃の「りゅう座α星」と、現在から約80年後の21世紀末の「こぐま座α星」である。この「二つの北極星」は〔天の北極〕から約45(0.75)離れているゆえ、〔天の北極〕を中心にして直径約90(1.5)の円を描く。人間の目と本能には、90分ほどの直径(距離)で〔天の北極〕を中心にして円を描く「北極星」を測量して〔天の北極の高度を90分の11分以内の誤差〕で精確に測量できる能力はそなわっていなかった。
 したがって、すべての時代、人間の目と本能には〔天の北極の高度を1分以内の誤差で測定できる能力〕がそなわっていなかった。
 上の〔黄道の北極を中心にして一周する天の北極の位置図〕の右上に記したように、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の「北極星=こぐま座β星」は〔天の北極〕を中心にして半径約10(600)・直径約20(1200)の円を描いていた。「直径が約1200分の円を描く北極星(こぐま座β星)」で〔天の北極の高度〕を約1200分の11分以内の誤差で精確に測定できる能力を人間は有していない。
 だから、卑弥呼時代、倭の使者はじめ船乗りたちが「北極星」をキャッチして〔天の北極の高度を緯度に換算する方法〕で玄界灘に入ると必ず「命」を失った。
 倭人国の使者たちが玄界灘を往来できたからこそ、中国では倭女王卑弥呼が統治する倭人国は34の小国で構成されることを知ることができた。もしも、倭国の使者たちが玄海灘を往来できなかったならば、魏では倭国の様子をまったく知らなかったゆえ『魏志倭人伝』という書物はこの世に存在しなかったことになる。したがって、倭国の使者たちが〔天の北極の高度を緯度に換算する航法〕で大海の玄界灘に入ったならば、結局、彼らは玄界灘を往来できずに命を失ったことになるため、『魏志倭人伝』という書物は存在しなかったゆえ「邪馬台国」という地域もまた存在しなかったことになる。このような状況では、邪馬台国説そのものを立論することができなくなるゆえ、邪馬台国説は【科学】がまったく成立しない空理空論・空想・デタラメ・詐偽であったと断定すべきことになる。
 以上からして、学者たちやメディアが最も信用する吉野ケ里遺跡を根拠にする邪馬台国九州説と纏向(まきむく)遺跡を根拠にする邪馬台国畿内説の両説は〔天の北極がある方向を〈北〉と定める現在と同じ日本地図〕にもとづいて成立するが、〔緯度の測定〕という視点に立つと途端(とたん)に【科学】がまったく成立しない空理空論、デタラメ、完全なる絵空事(えそらごと)であったことが明白となる。

◆現在、いまだ新型コロナウイリスの感染騒ぎは終息しない。この新型コロナウイリス感染によって、人間にとって最も大切なのは“生きている”ことであると知らされた。“いのちあってのものだね”というように、人間はなにはさておき、まず“生きている”という命の保障の基(もと)に行動する。“死なない、必ず命が保証される”と確信することができれば、人は“なさねばならない務めをはたそう”と決意する生き物である。
 だから、倭の使者と船乗りたちは【[](天頂緯度線と子午線)をキャッチする航法】ならば玄界灘は死なずに往来できるゆえ、中国・朝鮮半島に到着して国交を結ぶことができ、家族が待つ家に帰還できると確信していたことになる。
 原始のときから、ヒトには【[]をキャッチして1度の60分の11分以内の誤差で緯度を精確に測定できる本能と眼力】がそなわっていた。
 20万年前から10万年前にかけてホモ・サピエンス(現生人類)が起源したときから、おそらく【[]をキャッチする本能と眼力】がそなわっていたにちがいない。

[玄]をキャッチする眼力つまり「1分の緯度差を測定できる眼力」を、人類は食料となる獲物(えもの)を求めて移住生活をしていた先史時代から日々鍛錬して受け継いだ。
 []という字は[(とう)]の下に[(よう)]が加わって構成される。
 下に〔[]の字源・字形解説図〕を示した。
000031
 人類は【本能的に、[](天頂緯度線・天頂点・子午線)をキャッチできる神秘的な呪的(じゅてき)能力の眼力】を有し、そして[]をキャッチする技(わざ)を工夫して磨いた。だから、先史時代から卑弥呼時代まで、人々は1分の精度で緯度を測定できた。この[]をキャッチする眼力をもしも人類が有していなかったならば、人類は密林でおおわれる原始時代や氷と雪でただ一面真っ白な氷河期において全滅していたことになる。
 人類が滅びなかったのは、眼を鍛錬すれば[]をキャッチする能力が本有として頭脳にそなわっていたからである。

◆先史時代から現在まで、伊豆諸島の神津島からは良質の黒曜石(こくようせき)が産出する。黒曜石は火山活動によってできた「黒いガラス」とされ、じょうずに刃をつけると肉切り用の石包丁(いしぼうちょう)や医学用の(女性が出産する時に用いられた)メス(小刀)として用いられ、また鋭利な石斧や戉(まさかり)の刃となり、あるいは石槍(いしやり)や鏃(やじり)などの石器として利用された。
 神津島の黒曜石は良質であったため、関東地方、東海地方、近江(滋賀県)、北陸地方(石川県能登半島)まで分布した。神津島の黒曜石はなんと約3万年前の後期旧石器時代から使用されていたことが明らかとなり、縄文時代、卑弥呼が生存した後期弥生時代においても本土に運ばれて利用されていた。神津島から伊豆半島までは海によって30キロメートル以上も離れていることになり、神津島から石川県能登半島までは直線距離で約400キロメートルも離れている。約3万年前の旧石器人たちは[]をキャッチする能力(眼力)を有していたために海を往来でき、北陸の能登半島などの遠い地から旅した上古の人々も神津島の黒曜石を手に入れることができたのである。
 神津島の黒曜石を求めて海を往来した交通の事実について、学界は世界史上でも最古の海洋航海と注目するが――学界においては、その実態はいまだ謎のベールにつつまれて不明とする。しかし、[]の字源・[]のキャッチを注目すれば、この謎のベールは寸時に消える。
 人類は原始のときから、脳に[]をキャッチして精確に緯度測定できる本能がそなわり、鍛錬すれば1分の緯度差を測定できる神秘的な眼力を有することができたのである。だから、この神秘的な呪力によって、一団を組んで日々食料を求めて移動した原始の生活にあっても、「道に迷った! 位置(緯度)も方角もまったくわからない! 死ぬ!」というようなパニック状態におちいることもなく、人類は天頂にめぐってくる銀河周辺の形状を地理の代わりにして[]をキャッチして緯度と方角を測定してたくましく巧(たく)みに生存したのである。

◆『説文解字』は[]の字源を「至高にして上なし。一大に従ふ」と解説する。この字源解説文は「それ以上の上が無い、天頂緯度線」を意味した。
 したがって、『説文解字』の[]の字源解説は、下の図に示した「天頂点と重なる銀河部位の軌道における最も高い天頂緯度線」を意味した。ヒトが天頂緯度線をキャッチすると、1度の60分の11分の誤差内で精確に緯度が測定できた。だから、倭国の使者と船乗りたちは、1分の誤差内で精確に緯度が測量できる方法の天頂緯度線をキャッチして玄界灘を往来していたことになる。
K571
 上の図の右上に示したように、「最も高い天頂緯度線」は[(とう)]の字源・字義となった。[]の下に[(よう)]を加えると、[]という字になる。
 「[]のキャッチ」と「天頂緯度線のキャッチ」は同義であり、「1分以内の誤差で緯度が精確に測定できる」という意となった。
 下に、「[]の字源解説図と金文形」の図を配した。
K572
 上に示した「天頂点と重なる銀河部位の軌道において、天頂点は【最も南】となる」ゆえ、[]における「天頂点」は「南」となる。
 『説文解字』は[]の下部の[]の字源を「小なり。子の初生の形に象(かたど)る」と解説する。つまり、下の左図に示す「娩出期(べんしゅつき)終わりの母体の臀部(お尻)に顔の正面を向ける出産児」が[]の字源となる。
 「必ず天頂緯度線をキャッチして位置と方位を正確に知り、絶対に道に迷わない」と欲を有すると、[]のキャッチ(天頂緯度線の測定)に失敗して命を失った。[]をキャッチするときの心得は「産道を通過するときの出産児のごとく無欲になれ」であった。ゆえに、[]の字は「天頂緯度線をキャッチするときの心得」をあらわしていた。だから、[]の字は[]の下に[]を加える字となった。[]が成立するためには、[]の心得(産道を通過するときの出産児のごとく無欲になる心得)が不可欠であるゆえ、[][]ということになる。
 中国・朝鮮半島と日本列島の中間にある「玄界灘」という名称は、前述したように「天の北極の高度を緯度に換算する方法だと命を失うが、[]をキャッチする方法ならば1度の60分の11分の誤差内で精確に緯度ができるゆえ命を失わないで往来することができる、波が荒い陸地から遠く離れた海」と意味した。
 他方、原始時代から卑弥呼が生存した3世紀においては、今日の地図において〔北〕の基準となる「天の北極」で緯度と方位を計測すると「天地の緯度が精確に測量できないゆえ、玄界灘を往来することができずに命を失うことになる【死神の座】」であった。ゆえに、「九州を〔西〕と定め、伊豆半島を九州の〔東〕と定める、現在と同じ日本列島地理」を、卑弥呼王朝は制定するはずがなかったことになる。

◆下の図に示す日本列島の西端にある沖ノ島は、日本列島の東端にある伊豆諸島の神津島(こうづしま)は同緯度(北緯3415)である。そして、神津島は沖ノ島から見える地平線より遥かに遠くに所在する。
K202
 卑弥呼は――本土の〔西端〕にある沖ノ島の方位を時計まわりに90度転回して本土の〔北端〕にあると定め、本土の〔東端〕にある神津島の方位を時計まわりに90度転回して〔南端〕と定理すれば、【倉頡が創った[]の字源・字形・字義】が成立することに、気づいた。
 それゆえ、百余国に分かれる国や邑(むら)が互いに攻撃しあう戦乱を鎮(しず)めるために、卑弥呼は――いつまでも戦乱状態にいると《益氏が日本列島に定住して【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸と精密地図作製方法の学芸】をひろめた後期縄文時代初頭以後から晩期縄文時代までの約千年もの長いあいだ、続いた日照りと冷害と同じ神罰》を天地の鬼神(かみ)が与えるにちがいないと警告することにしたのである。
 〔注 後期縄文時代初頭から晩期縄文時代までの日照りと冷害の神罰については、前々回のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・5回」にて詳細に解説した。〕
 上記した【神罰】を警告するために――卑弥呼は朝鮮半島にもっとも近い島の北部の地宜を[]の字源「フタコブラクダの姿」に見立て、南部の地宜を[]の字源「フタコブラクダの足跡の形」に見立てて、この南北の島の小国名を「対馬」と定めた。また、対馬国の南に所在する島の西端の地宜を[]の字源「フタコブラクダの姿」に見立て、その東側の大半の地宜を[]の字源「ジャコウウシの姿」に相似すると見立てた。ゆえに、[][]は【倉頡が発明した漢字作成理論】、言いかえると「十字の銀河の子宮」を象徴する聖獣であり、「一大」の語源は「十字の銀河の子宮」であるゆえ、この島の小国名を卑弥呼は「一大」と定めた。そして、卑弥呼は対馬国と一大国の中間の海を「瀚海(かんかい)」と名づけた。この「瀚海」によって、一大国の南の「玄界灘」は「厳寒の氷と雪で凍()てつく凍土・ツンドラ地帯」に見立てられることになった。卑弥呼が頭にひらめいた「瀚海(ゴビ沙漠)」の発想によって、黄帝の居住地から見える地平線上にあらわれるジャコウウシの大群が餌場(えさば)に犇(ひし)めいて押し寄せる凍土・ツンドラ地帯の厳寒状況が蘇ることになった。また「瀚海」は「日照りが続く炎熱の大沙漠(ゴビ沙漠)」でもあった。ゆえに、大乱を続ける人々に卑弥呼は【かつて後期縄文時代から晩期縄文時代まで千年も続いた日照りと冷害で苦しんだ歴史】を蘇らせて、【厳しい神罰の恐怖】を植え付けることになったのである。
 西暦180年頃の倭国の大乱では、呪力(じゅりょく)が強い巫女()が魔女となって天地の鬼神(かみ)に祈って自軍の呪的(じゅてき)な戦力を増大させ・敵の呪的な戦力を奪って、戦いがおこなわれていた。その証拠に、中国の漢代では、「媚蠱(びこ)と呼ばれる巫女が、自軍の呪的戦力を増大させ・敵の呪的な戦力を奪って戦争をおこなっていた。卑弥呼は大乱の百余国の巫女たちをたばねる最高位の女王であった。だから、戦乱状態の百余国の戦いの先頭に立って勝利祈願する魔女(巫女・婢)たちに、卑弥呼は【(1)[][][]の字源をあらわす沖ノ島・神津島を基軸とする転回本土地理と(2)対馬国・瀚海・一大国の地理】を提唱して、これ以上大乱を続けておると鬼神は厳しい神罰を下すにちがいないと警告した。
 【卑弥呼が提唱した対馬国・瀚海・一大国の地理】は【後期縄文時代から晩期縄文時代までの日照りと冷害の神罰】をあらわすことになった。ゆえに、百余国の魔女たちは未曾有(みぞう)の大災害を想像して恐れおののき、また自らに厳しい神罰がくだされて死が与えられるにちがいないと恐れたため、魔女たちは戦争終結を切望するようになった。一方、王はじめ男たちは魔女無しで戦うことは自軍が呪的戦力を失って滅亡するにちがいないという恐怖におそわれることになり、さらに魔女はじめ巫女たちが戦争終結を熱心に説得するため、結局、戦争終結を決意することになった。だから、卑弥呼は倭国の大乱を鎮静化することができたのである。

[]の下に[]の字(「女体に相似する、十字の銀河」)が加わって[()]の字が作られた。「十字の銀河」は「人体の形」に相似するゆえ、人偏に旁(つくり)部が[]が加わる[]の字も作られた。[][]は、[]の字源・字義をそのまま受け継ぐことになった。このため、[][]の字源は「時計回りに方位が90度転回する規定。つまり北→東・東→南・南→西・西→北」をあらわすことになった。
 倭国の大乱が終結すると、わが国の最初の「国家」が誕生し、国家名は「倭人国」と定められ、倭国の大乱を鎮めた一女子(巫女王)が倭人国を統治することになって「卑弥呼」と呼ばれることになった。
 ゆえに、『魏志倭人伝』は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り。山島に依()りて国邑(こくゆう)を為()す。旧(もと)百余国。漢の時、朝見する者有り。今、使訳(しやく)通ずる所三十国なり」という文から始まる。そして、『魏志倭人伝』は対馬国から狗奴(くな)国までの倭人国の三十ヵ国について説明する。
 だから、互いに攻撃しあって大乱する百余国に、卑弥呼は【(1)[][][]の字源をあらわす沖ノ島・神津島の同緯度線を基軸とする転回本土地理と(2)対馬国・瀚海・一大国の地理】を提示して戦乱を鎮めて、倭人国を創設して大乱の旧百余国を三十ヵ国に整備したことになる。
 したがって、『魏志倭人伝』の「倭人国は、帯方の東南、大海の中に在り」という冒頭記事は「日本列島の本土・九州の末盧(まつろ)国以下の方位規定は、[]の字源・字義に則(のっと)って時計回りに90度転回して、本土の〔西〕となる九州は〔北〕と定め、本土の〔東〕にある静岡県の伊豆半島は〔南〕に配置する転回本土地理を、卑弥呼王朝は制定していた」と説明していたことになる。
 前述したように、日本列島の西端(現在の方位規定)にある九州の玄界灘に浮かぶ沖ノ島と日本列島の東端(現在の方位規定)にある神津島(こうづしま)は同緯度である。この同緯度は、原始のときから卑弥呼時代まで人々が「いのちあってのものだね」の【命をまもる方法、つまり[]のキャッチ】で測定できたことになる。
 下に示すように、「神津島の地宜」は“漢字の発明者”と崇拝された倉頡(そうきつ)が「銀河から作られた全漢字が生まれる子宮」と定めた「十字の銀河の子宮の形」に見立てられた。
000032
 ゆえに、下に配した〔卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理の図〕に示したように――現在の地図における日本列島の〔西端〕にある沖ノ島は時計回りに90度転回して〔北端〕と化()り、現在地図における日本列島の〔東端〕にある神津島は時計回りに90度転回して〔沖ノ島の真南〕に位置することになり、卑弥呼が統治することになった「西日本の地理」は[]の字源・字形・字義をあらわすことになった。だから、卑弥呼王朝は国家名を「倭人国」と定めた。
K195
◆中国では紀元前1世紀にシナ天文学が完成して、当時の「北極星のこぐま座β星」を「太一(たいいつ)」と名づけてもっとも重視するようになった。けれども、紀元前1世紀以前の中国は【倉頡が発明した漢字作成理論】にもとづいて「十字の銀河」・「十字の銀河の子宮」をもっとも重視していたのである。その証拠に、紀元前3世紀に生存した方士の徐福(じょふく)と童(どう)男女たち(若き青年男女たち)一行は玄界灘を横断して日本列島に定住した。この徐福一行の子孫が居住した地域について、『後漢書(ごかんじょ)』倭伝の末部は「卑弥呼が生存した後期弥生時代には倭人国に隣接する東方(東日本)に所在して二十余国から構成され、東鯷人(とうていじん)国と呼ばれていた」と記述する。
 中国では紀元前1世紀以降に[]をキャッチする習慣が廃(すた)れたゆえ、4世紀になると中国の人々は日本列島に移住することができなくなった。しかし、その後において正史『後魏書』が成立した6世紀半ばにおいても、【倉頡が発明した漢字作成方法の、[][]の方位規定による地理の考え方】は残っていた。
 その証拠に、上田正昭・直木孝次郎・森浩一・松本清張編集委員『ゼミナール日本古代史 上 邪馬臺国を中心に』(光文社発行)において直木孝次郎教授が執筆した『邪馬臺国の位置論』は次のごとく――明治の学者の内藤湖南は、中国の古書では方向をいうとき、東を南とかね、西と北とをかねるのはふつうのことであると、『後魏書』の勿吉(ぶつきつ)伝に東南を東北に記していることをあげる――と指摘している。このように、6世紀半ばにおいても、中国では「東を南とかね、西と北とかねる[]または[]の方位が90度転回する規定の習慣が存続され、「東南」を「東北」と記した[]の方位規定が残っていた。
 わが国では738(天平10)に聖武(しょうむ)天皇がシナ天文を取り入れて全国に国郡図改正の命令を下した。ゆえに、[]をキャッチする航法と習慣に疑惑・不信を抱く人々が多数あらわれるようになった。そして、遣唐使船の乗組員たちも[]をキャッチする方法に疑いを抱き自信を失うようになった。このため、遣唐使船による玄界灘の往来は危険視されるようになって、894(寛平6)に遣唐使の派遣は廃止された。しかし、[]のキャッチによって精確に1分以内の誤差で緯度が測量できた事実にもとづいて、[]のキャッチを信頼する山林で生活する山人族等、あるいは少数の海人族によって[]のキャッチする習慣は廃絶(はいぜつ)されずに、新井白石が生存した18世紀になっても脈々と受け継がれていた。
 だから、卑弥呼が生存した時代は「いのちあってのものだね」ということで、「命」がいちばん大事であったから、「死」が約束される【天の北極・北極星】で緯度や方位を測量するはずがなかった。当時は、緯度と方位は【[]をキャッチする方法】で測定されていたのである。したがって、沖ノ島から遥かに遠い神津島までの地域の地理は「観測地点から見える地平線より外界となる遠くの地域まで地理」までとなったため、その方位規定は「[][]の字源に則って、90度転回する」と立論された、学問上の定説であったのである。

◆「いのち()」が保証される【[]のキャッチ】の基(もと)[][][]の「時計回りに90度方位が転回する方位規定」と、[]の「逆時計回りに90度方位が転回する方位規定」が成立した。だから、【天の北極がある方角を〔北〕と定めるシナ天文】が確立された以後においても、上記したように、中国でもわが国でも[][][][]の方位規定は脈々と受け継がれて残ることになったのである。
 中国ではシナ天文が完成した紀元前1世紀より以前、わが国ではシナ天文を取り入れた738年より以前において――人々がたくましく生き長らえていくために「命」が保障される方法は原始のときからの習慣である【[]のキャッチ】であった。
 【[]のキャッチ】が「命」を保障するものであった事実について、『老子』の第一章が証言している。『老子』は、紀元前54世紀頃に生存した、孔子と並んで有名な中国の思想家・老子の教えを説く書物である。
 『老子』の第一章の書き下し文は、下記のごとくである。
 「道の道とすべきは常の道に非(あら)ず。名の名とすべきは常の名に非ず。天地の始めには名は無し。万物の母にして名が有り。常に無欲にして以(もっ)て其の妙を観()、常に有欲(ゆうよく)にして以てその皦(きょう)を観る。此の両者は、同じく出でて名を異にし、同じく之(これ)を玄と謂う。玄の又(また)玄、衆妙(しゅうみょう)の門」
 上に記した『老子』第一章を現代語に訳すると次のごとくなる。
 〔世の常の知識として(つまり常識的に)言うと「道」は「人が行き来する、地上にある道路」ということになるが、「ほんとうの道」は「天、言いかえると銀河が輝く天頂」に存在し、詳しくいうと「ほんとうの道」は「人が大海や遠くの地に旅する時に測定した天頂緯度と子午線が貫通した銀河部」であった。常識的に言うと「名」は「物につけられた名称」ということになるが、「ほんとうの名」は「漢字が作られた銀河各部の形状」であった。ゆえに、天地が始まった時には名は無かったが、黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が「妊婦の姿に似る十字の銀河」を「万物の母、つまり万物の名をあらわす文字が生まれる母」と定めた時から、万物の名が存在することになった。「ほんとうの道」となった「天頂緯度線と子午線」は[]と名づけられ、大海や遠くの地に旅するときに、産道するときの出産児のごとくに無欲になれば「妙、つまり神秘的・不可思議な眼の呪力(じゅりょく)」によって[]をキャッチできたが、「必ず[]をキャッチするぞ」と欲を有すると「皦(きょう)、つまり旅の途中で道に迷って死に絶えて風雨に晒(さら)される白骨死体」となった。[][]の両者の字源は同一銀河部であるが、その両者の名は「生」と「死」をあらわして異なる意味となった。しかし、「生きる」の[]と「死ぬ」の[]に両者は分かれるものの、両者は所謂(いわゆる)「生と死のどちらにも意味する[]」と一致することになった。そして、神が人類に「命」を与える[]とは、何とも不可思議な呪力なのであろうか! というのも、[]を測量するとき、天頂にある[]は一気に天頂から降下して測量する人物の眼前に[]の形となって又(また)存在する! このはるか遠くの天頂と測量する人の眼前・近くに形成される、この「玄の又(また)玄、すなわち遠い玄と眼前近くにできる二つの玄」は「衆妙な門」つまり「衆(万民)の命をまもる妙なる(不可思議な)門」を作れば出現する。〕
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 上に図示したように、衆(人々)は「門」の原形となった装置を作って[]をキャッチした。この装置だと、天頂にある[]は天頂にも存在し、また天頂から一気に降下して[]をキャッチせんとする仕掛けの横木・横糸に合体するため、測量する人物の眼前に又(また)[]が存在することになる。だから、老子は「天頂の[]と、測量する人物の眼前に見える[]」を「玄の又(また)玄」と表現したのである。
 『老子』第一章に登場する「万物の母にして名が有り」という文は、【倉頡が発明した漢字作成理論】を意味した。というのも、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が前回(6)まで毎回のごとく解説し証明したように、倉頡は中国各地の天頂にめぐってきた「女体・妊婦の姿に観える、十字の銀河」を「夏の銀河(文字作成銀河)各部の形状から作ったすべての文字が生まれる母体」と定めたからである。ゆえに、「万物の母」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を意味することになった。
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 「十字の銀河」は中国全域の各地にめぐってきたゆえ、【[](天頂緯度線と子午線)をキャッチする、もっとも基本的・代表的な羅針盤】となった。
 だから、『老子』第一章は「精確に1分以内の誤差で測定できる[]をキャッチする方法を羅針盤にして、人々は命をまもって生きていた」と証言していることになる。

◆『老子』第一章が伝えているように――卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ばまで)においては、倭の使者と船乗りたちは玄界灘を[]をキャッチして往来し、卑弥呼王朝は[]のキャッチの基(もと)に成立した【倉頡が発明した漢字作成理論】と【夏音文字の学芸】を政権基盤とし、そして人民たちは[]をキャッチして日々の暮らしを立てていたことになる。
 上記したように、倭国の使者たちは玄界灘を往来できたがために、魏王朝は倭国の様子を知ることができて『魏志倭人伝』が著作されることになった。ゆえに、『魏志倭人伝』が実際に存在する書物であったという、この事実を証明するためには、倭国の使者たちが玄界灘を往来できたことが絶対条件となる。
 にもかかわらず、九州説と畿内説を主張する学者たちは「倭の使者たちは[]をキャッチして玄界灘を往来した」とは考えない。ゆえに、九州説と畿内説の考えだと、倭の使者たちは天の北極の高度を緯度に換算する航法で玄界灘を往来したことになるが――この航法では、倭の使者たちは命を失って往来できなかったことになる。ゆえに、九州説と畿内説の考えだと『魏志倭人伝』はこの世に存在しなかった書物となるゆえ、「邪馬台国」と呼ばれる地域もまったく存在しなかったことになる。
 以上のごとく、【天の北極や北極星座がある方角を〔北〕と定める、現在と同じ日本地図】に則(のっと)って立論する九州説と畿内説は正真正銘(しょうしんしょうめい)の空理空論・デタラメ・詐偽であったことになる。
 〔緯度の測定〕の視点にもとづいて考えれば、即座に邪馬台国説は空理空論であったと断定できる。にもかかわらず、新井白石以来約300年という長い年月を費やしても、いまだに学者たちは邪馬台国説が空理空論であることに気づかない。このような完全に空理空論である邪馬台国説にメディアも同調する。
 したがって、学者たちとメディアは、日本人が絶対に失ってはならない・決して無くしてはならない・なんびとにも排除されてはいけない・なんびとにも奪われてはいけない、『魏志倭人伝』に記述された日本人の命と魂の根源、日本の国家基盤、日本の学問基盤、日本の文化基盤などを排除し愚弄(ぐろう)し侮辱していることになる。
 だから、邪馬台国説は日本学問史における最大・最悪の空理空論であり、日本人の命と魂を愚弄する、日本人にとって最悪・最大の災いであり、日本人が最も蔑視すべき空理空論ということになる。

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2021年2月23日 (火)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・6

▼現在、学者たちはじめメディアは「邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説こそが、もっとも正しい意見である」と主張する。しかし、学者たちとメディアが推奨する九州説と畿内説は根も葉も無い・完全なる空理空論・デタラメ・ウソ八百である。
 この事実は何人も否定できない事実である。
 だから、邪馬台国説学者たちとメディは、日本国民を欺(あざむ)き詐(いつわ)り真っ赤なウソをついていることになる。
 邪馬台国九州説も邪馬台国畿内説も、約2000字で構成される『魏志倭人伝』の全記事と1ヵ所も合致しない、完全なる誤読の空理空論である。
 邪馬台国説九州説と邪馬台国説をとなえる学者たちとメディアは日本国民を蔑視する、日本人の尊厳を徹底的にバカにする、日本人の命と魂を愚弄(ぐろう)する、日本人にとって最悪・最大の災(わざわい)いである――この事実は何人も否定できない事実である。
 九州説と畿内説をとなえる学者たちは学者ではあらず詐欺師であり、邪馬台国説に同調して真実を語り偽りを徹底的に暴く使命と責任をまったくはたさないメディアはメディアではあらず、サギの片棒をかつぐ大ホラ吹きであると言わざるをえない。
 この事実は、大言壮語であらず、絶対的な事実であり、何人も否定できない真実である。
 日本人が最も蔑視すべきデタラメは邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説である。
 その証拠に、2年前の令和元年11月14日の夕刻から翌日の夜明け前まで――日本中の家々のテレビに映し出されて、日本中の国民が目撃した大嘗祭は「邪馬台国説は誤読の産物、空理空論である」と表明する、皇室最大の神事であった。
 だから、日本学問史において最も重大な真実・真理を排除した江戸中期の新井白石の邪馬台国説に従って諸先生方が主張する州説と畿内説は、日本人に最悪・最大の災いということになる。
 なにゆえ、2年前の令和元年11月14日におこなわれた大嘗祭が「新井白石以来約300年間も受け継がれた九州説と畿内説が【誤読の空理空論】である」と表明する皇室最大の神事であるか――この事情は、下記に要約した説明することにした


★「倭人国の地理学」のトリセツ・15

▼新井白石(16571725)1716(正徳6)60歳の時に『古史通或問(こしつうわくもん)』を著作して、邪馬台国大和説を提唱した。その後年、著書『外国之事調書(がいこくのことしらべしょ)』などで邪馬台国九州説を立論した。
 白石が邪馬台国大和説を発表した『古史通或問』を著作した年は、すでに1709(宝永6)621日に114代中御門(なかみかど)天皇が即位してから7年後のことであった。白石が『古史通或問』が著作した1716年かその数年後のことかは判然としないが、いずれにせよ皇室が白石の邪馬台国説を知ったのは、中御門天皇の代であった。というのも、白石は1725(享保10)519日に69歳で没し、中御門天皇は1735(享保20)321日に退位しているから――皇室が、白石の畿内説と九州説を知ったのは、中御門天皇の時代であったことになる。
 白石の邪馬台国説を知った朝廷は「日本国が滅びる! 皇室が滅びる! わが国の学問は土台から一気に崩壊する! わが国の文化が根底から滅びる!」と激しいショックをうけ、恐怖をいだいた。というのも、3世紀後半に大和朝廷の基礎を築いた天照大神母子王朝(10代崇神天皇母子王朝)以来、朝廷は『魏志倭人伝』に記述された【倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】を国家基盤、皇室の存続基盤、学問基盤、日本の文化基盤と定めていたからである。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」は前回(5)まで――紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)に原初漢字・夏音(かおん)文字を習得するときに、紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)が【漢字作成理論】を発明した――歴史を詳細に解説し証明してきた。
 漢字は、【倉頡が発明した漢字作成理論】から起源する。したがって、古代の人々は倉頡を“漢字の始祖”と呼んで崇拝した。
 この【倉頡が発明した漢字作成理論】が具体的に詳細に科学的に解明できる史料が――なんと、『魏志倭人伝』であったのである。つまり、『魏志倭人伝』の主なる記事は【倉頡が発明した漢字作成理論】であった。『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を科学的に具体的に詳細に総合的に説明する歴史書であった。約2000字で構成される『魏志倭人伝』の約55パーセント・約1100字の記事は【倉頡が発明した漢字作成理論とともに習得した夏音文字の学芸】を説明するものであった。
 ところが、「新井白石がとなえた邪馬台国大和説と九州説は正しい」と熱中する学者たちによって《『魏志倭人伝』は邪馬台国の所在地を解明するための歴史書》と化してしまい、まったく本来の役目をはたさない史料となった。
 『魏志倭人伝』は《1ヵ所も【誤読】を加えずに読解すれば、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を解明することができる。だから、この解明方法を知っていた朝廷は、白石がとなえた邪馬台国説に「日本国が滅びる! 皇室が滅びる! わが国の学問は土台から一気に崩壊する! わが国の文化が根底から滅びる!」と激しいショックをうけ、恐怖をいだいたのである。
 前述したように、皇室は、3世紀後半に大和朝廷の基礎を築いた天照大神母子王朝(10代崇神天皇母子王朝)以来、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字が学芸】を政権基盤として代々存続するものであった。もしも学者たちが、あるいはメディアが本来の使命と責任にもとづいて『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えずに全記事を忠実に読解していたならば――天照大神母子王朝以後、皇室は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を政権基盤にして代々存続するものであった実体を容易に解明できていたことになる。
 しかし、学者たちはあるいはメディアは新井白石がとなえた【空理空論の邪馬台国説】にのめりこんで夢中になり、【多数の誤読】を加える方法こそ正しい考えかたであると思い込み、『魏志倭人伝』は邪馬台国の所在地を決定するための書物であるとまったく根も葉もないデラタメを日本中にまきちらすようになった。
 だから、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を明確に説明する歴史書である実体に気づく学者は、現在、一人も存在しないことになった。

◆皇室は112代天皇であった霊元(れいげん)上皇が指揮して、中御門天皇が1735321日に退位する以前から、新井白石がとなえた空理空論の邪馬台国説は大嘗祭を復興して処置すると計画して着々と準備した。しかし、1733(享保17)86日、大嘗祭を本格的に復興して「白石の邪馬台国説を空理空論である」とあらわす事業を指揮していた霊元上皇は、79歳で没した。中御門天皇が1737411日に没すると――その翌年、つまり白石の死から13年後となる1738(元文13)1119日に、霊元上皇が計画した通り、早速「『魏志倭人伝』の全記事は正しい」と示す大嘗祭が115代桜町天皇の即位式でおこなわれた。
 徳川家康以来、江戸幕府は『魏志倭人伝』を【後期縄文時代初頭以来受け継がれた、この日本という国を作った学問史を語る最も重大な歴史書】であると位置づけていた。ゆえに、桜町天皇の即位式がおこなわれた大嘗祭は、幕府の協力をえて皇室が戦国時代から220年間中断していた祭儀を本格的に復興するものであった。桜町天皇の即位式で「白石の邪馬台国説は空理空論」と表示された大嘗祭を、皇室はその後代々継続した。
 だから、前述したように、2年前の令和元年1114日の夕刻から翌日の夜明け前まで、日本中の家々のテレビに映し出されて、日本中の国民が目撃した大嘗祭は「白石の邪馬台国説は誤読の産物、空理空論である」と表明する、皇室最大の神事であったのである。
 令和の大嘗祭は「『魏志倭人伝』は――卑弥呼王朝は【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤にして、わが国最初の【倭人国】を創設した――と伝える歴史書であった」と表明する、皇室最大の神事であったのである。
 このような事情によって、新井白石の邪馬台国説に従う諸先生方が熱っぽく語る九州説と畿内説は【日本国民にとって最悪・最大の災厄】である――この事実は何人も否定できない絶対的な真実である。

◆前回(5)までのわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」にて繰り返して解説・証明してきたように――今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)は「夏の銀河」(夏の星座が漬かる銀河)から漢字を作る方法を発明した。
 『魏志倭人伝』は【卑弥呼王朝の政権基盤であった、倉頡が発明した漢字作成理論を伝える歴史書】であった。だから、『魏志倭人伝』は九州説や畿内説が主張する邪馬台国の所在地を究明するための史料でなかった。その証拠に、1738年の桜町天皇の即位式の大嘗祭かれ受け継がれて令和の大嘗祭でも「邪馬台国説は誤読の空論である」と日本国民に表明したように、九州説と畿内説は約2000字で構成される『魏志倭人伝』の記事と1ヵ所も関係しない空理空論である。
 「銀河」の別名は「銀漢」であり、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた。
 下に、その各部の形状から漢字が作られた「夏の銀河」(漢字作成銀河)の写真を配した。
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1】倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、この知識を反体制側の人々が手に入れると王朝が容易に崩壊・滅亡すると心配して、「文字は銀河各部の形状から作られた」という秘密を暴露した者とその一族全員に神罰を下して即座に死刑にすると定めた。
2】また、倉頡は「文字を容易に覚えるため、夏の銀河の各部に名称を付けた者とその一族全員もまた即座に死刑にする」と定めた。
 このため、今日になっても、「夏の銀河の各部をあらわす名称」が存在しない。「夏の銀河の各部の名称が存在しないと、【漢字の字源銀河・字形となった銀河・字義となった銀河】の解説・証明に不便となるゆえ、私は下記のごとく「夏の銀河の各部の名称」を定めた。
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3】倉頡は「書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者または消し忘れた者も許さず、その者の一族全員まで即刻に死刑にする」と定めた。
 紀元前1300年頃から始まる殷代(いんだい)後半の甲骨文字(契文)においては頻繁(ひんぱん)に政事(まつりごと)において易卜が行われ、その都度(つど)3】の掟をまもることが面倒になったため、【3】の掟を破られた。しかし、甲骨文字は【1】と【2】の掟を厳重にまもったゆえ、現在「漢字が夏の銀河の各部の形状から作られた事実」が不明となり、「夏の銀河の各部」には名称が存在しないことになった。
 甲骨文字以後には、【3】の掟は破ってもよいことになった。『魏志倭人伝』・『古事記』上巻・『隋書』倭国伝・『万葉集』に記載されて現在まで残った原初漢字の夏音(かおん)文字は、楷書で表記される。この事情は、卑弥呼が歴史上に始めて登場して国家と王朝を創立した180年頃に、後漢王朝が用いていた漢字が楷書であったからである。
 原初漢字の夏音文字が『魏志倭人伝』・『古事記』上巻・『隋書』倭国伝・『万葉集』に記載されて残っている。この夏音文字を、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が前回(5)めでに詳細に解説して証明したように、わが国は紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭(中国の夏初頭)に習得した。

◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・2回」で解説した「歳差(さいさ)という天文現象を利用して今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代における中国の各地の天頂にめぐってきた銀河を再現すると――上に示した「夏の銀河(文字作成銀河)の各部の名称」における左上にある、下記のごとく私が「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた銀河が中国の各地の天頂にめぐってきたことになる。
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 倉頡がつかえた黄帝は東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。
 黄帝は【ヒトの生命の神秘】を研究するために【女性の生殖器と子どもの出産】を研究した。この医学研究は先代の三皇時代には着手されていなかった。ゆえに、倉頡の文字発明の目的は、黄帝の医学研究をあらわすことができる文字を作成することになった。
 だから、倉頡は【黄帝の女性の生殖器と子どもの出産の研究をあらわすことができる文字】を【夏の銀河の各部の形状から作る理論】を発明した。
 下に配した上図に示したように、「十字の銀河」の西半分には《女性の乳房、妊婦の腹部、子宮に相当する箇所》がある。ゆえに、倉頡は「女体に似る十字の銀河」を「夏の銀河の各部から作られた全漢字を生む母体」と定めた。これゆえ、下に配した上図が示すように、周代に作られた金文の[]の字形は「十字の銀河」を「母体の正面形」に見立て「女体の腹部(子宮)に胎児が宿る様子」を表現する図案となった。
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 また、上に配した周代に用いられた金文形が示すように、倉頡は「十字の銀河」を[(べん)]の字源とし、「鬼の姿に似る銀河」を[]の字源として、[]の下に[]を加える[]という字を作った。[]は「家」をあらわした。というのも、三皇時代にあっても五帝時代にあっても、妻と子や親の命と生活をまもるために男たちは、獲物や石器などを求めて遠くの地に旅して目的を達成したならば家族が待つ家、つまり[]に帰還したからである。金文が用いられた周代になると、家族主義の中国では、家譜(かふ/系譜)を尊重するとともに、宗廟(そうびょう)を建て、家族の中心である祖先をまつった。ゆえに、[]は「宗廟」をあらわすことになった。
 上に示した[][]は、【倉頡が発明した漢字作成原理】をあらわした。
 倉頡は、[]の作字に欠陥があることに気づいた。というのも、倉頡が作った[]の字は「子ども(出産児)は、母体の腹側(「十字の銀河の腹側」)に顔の正面を向いて出産する」かのごとくにも解釈できるからである。
 しかし、下の図に示すように、出産第二期の娩出期(べんしゅつき)の終わりにおいて、出産児は顔を母体の背側(臀部)を正面して誕生する。だから、倉頡は「出産児の顔は母体の背側(臀部)を正面して誕生する」と表示する字を作ることにした。
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◆倉頡は「十字の銀河における、母体の腹部」を180度回転して「十字の銀河における、母体の背側の臀部(お尻)」と見立てる[]の字を考案した。[][]が加わる[]の字が作られ、さらに[]の字が作られた。
 下の上図が示すように、「[][][]の字源銀河解説図」に示すように、[][]の初文(最初の文字)となる[()]の字は「母体をあらわす十字の銀河中央に、《イネ()》をデザインする図書」を重ねて作られた。
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 したがって、上の[]の字源銀河解説図において留意すべきは「十字の銀河における母体の腹部は母体の臀部であって、腹部ではない」ということである。
 []の字形は――イネの穂は「鬼の横顔に似る銀河の口」へ向かって垂れる形――となった。ゆえに、[]の字源・字形・字義は「イネの穂が「南」(十字の銀河の南)から「西」(鬼の横顔に似る銀河の口)へ垂れる」とあらわすことになった。つまり、[]の字源・字形・字義において「〔南〕から時計回りに90度転回して〔西〕と化()る」と定められた。
 以上のごとく、[]の字は【倉頡が発明した漢字作成方法の基本字】となった。
 []の字源・字形・字義は「方位が時計回りに90度転回して北→東・東→南・南→西・西→北に化る」と定められた。また、[]の字源・字形・字義は「イネ。小麦。イネや小麦などの穀物(五穀)。五穀豊穣」などをあらわすことになった。つまり、[]の字は、「人民の胃袋を穀物(食物)で満たす」という最高の政治スローガンをあらわすことになった。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・2回」でも解説したように――倉頡は、上に示した「イネの穂は十字の銀河の南部から、鬼の横顔に似る銀河の口の方へと垂れる」と定める[]の作字方法に加えて、下に示す「さそり座α星がある、夏の銀河の西端の方へイネの穂が垂れる」と定める[]の作字方法をも考案した。
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 「さそり座α星」は夏から秋までの穀物収穫期、赤く輝くひときわ目立つ巨星の一等星である。ゆえに、わが国では「豊年星」と呼んだ。中国では「火()」「大火(たいか)」と名づけられ、「大火西に下る頃」と表現して「夏が終わると、禾(穀物)を収穫する晩秋が到来する」と、豊年の喜びを表現した。
 黄帝時代では、秋分の日の太陽が真西の地平線に没する午後6時、大火は真西から約10度の方角(西南西)の地平線スレスレの低い高度の空に位置し、30分後には地平線下に没した。したがって、黄帝時代の秋分の日の夕刻においては、太陽と大火の地平線に没する時間はほぼ同じで、太陽の30分後に大火が地平線に没した。この状況から、上に示した「さそり座α星がある、夏の銀河の西端の方へイネの穂が垂れる」と定めて倉頡が創った[]の字源・字形・字義は「黄帝の居住地から見える地平線より外界となる遠い地域の方位は、時計まわりに90度転回する」をあらわすことになった。
 倉頡は、「黄帝の居住地から見える地平線より外界となる遠い地域の方位は、逆時計まわりに90度転回する」をあらわす、下に示すように[]の字も創った。下に示した「[]の字源銀河解説図と金文形」の図における北緯3536分は黄帝時代(5000年前)の黄帝陵の天頂緯度線である。黄帝陵は陝西(せんせい)省の黄陵県に所在し、今も黄帝の廟と墓とされて祭られている。
 上に配した「さそり座α星がある方へ、イネの穂を垂らす銀河図」における「巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河がある夏の銀河の西端」を「巫女(みこ)の腰」と見立て、下に配した「[]の字源銀河解説図」における「人の横顔に酷似する銀河」を「巫女の横顔」に見立て、「夏の銀河の東端となる、十字の銀河と鬼の姿に似る銀河」を「しなやかに踊る巫女の手」と見立てて、さらに「こと座となる明るい星たち」を「無事に子どもが出産した祝い、子どもの出産を祈祷する時に巫女が用いる土器、つまり祝祷(しゅくとう)の土器の[(さい)]の字源」に見立てて、[]の字が作られた。これゆえ、わが国の古代漢字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は、[]の字について「人が一手をあげて祝祷の器である口(さい)をささげ、身をくねらせて舞う形」と解説する。この『字統』の解説に登場する「一手」の[]の字源は、下の「[]の字源銀河解説図」における「十字の銀河」と「十字の銀河の子宮」である。
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◆白川静著『字統』(平凡社発行)は、[]の字について「いねの象形。また軍門の象形。いねの字は禾穂(かすい)が垂れた形。軍門の字は標木(しめき)に袖木(そでき)をつけた形。のち同形の字とされ、一字にして別義のある字である。」と解説する。
 上記したように、『字統』は――「いね」をあらわす図書の、のちに「軍門」をあらわす図書となった――と解説する。しかし、おそらく[]の字は「いね」をあらわし、また「軍門」をもあらわす図書であったと考えられる。というのも、[]の字を倉頡は黄帝が研究した「出産児の頭が狭い産道を通過するときの広形機能(骨重積)」にもとづいて作ったからである。これゆえ、黄帝は[]の図案を利用して「軍門」をあらわすことにしたと考えられる。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・2回」でも解説したように、司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀・巻一の黄帝に関する記事には「土徳(どとく)の瑞(ずい)があり、ゆえに黄帝を号す」という記事がある。
 「黄帝」を号することになった黄帝の土徳には二つの瑞祥(ずいしょう/めでたいことがおきるきざし)があり、そのうちの一つの瑞祥は「黄龍(こうりゅう)」、もう一つの瑞祥は「地螾(ちいん)」であった。
 前掲した〔「大火西に下る頃」の[]の字源銀河解説図〕を再度、下に示す。
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 前述したように、上に示す[]の字源銀河解説図における下部にある「さそり座α星」は夏から秋までのイネや麦の収穫期、赤く輝くひときわ目立つ巨星の一等星で、わが国では「豊年星」、中国では「火()」「大火(たいか)」と呼んだ。中国では「大火西に下る頃」と表現して「夏が終わると、禾(イネや麦などの穀物)を収穫する秋が到来する」と、豊年の喜びを表現した。
 黄帝時代においては、秋分の日の午前6時に、大火は真西から約10度の方角(西南西)、しかも地平線スレスレの低い高度の空に位置して30分後には地地平線に没した。
 だから、大火(さそり座α星)が魁(さきがけ/先頭)となって、「胎児の姿に似る銀河・銀河の中心(銀河系宇宙の中心方向)・巨龍の顔の銀河」が南東の土(地平線)から昇って、南の土(地平線)近くを運行し――秋分の夕刻6時には、大火は土(地平線)スレスレの方角(西南西)に位置して30分後に土の下(地平線下)に没したゆえ、司馬遷著『史記』五帝本紀には「土徳の瑞あり、ゆえに黄帝と号す」と記述されることになったのである。

◆下に「夏の銀河、つまり漢字作成銀河」のカラー写真(PIXTA・ピクスタ提供)のカラー写真示した。このカラー写真の右上「黄金色(こがねいろ)に輝く銀河」が、上に示した〔「大火西に下る頃」の[]の字源銀河解説図〕における下部の「さそり座α星・胎児の姿に似る銀河・銀河の中心・巨龍の顔の銀河」が所在する箇所となる。
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 上の写真が示すように、「さそり座α星・胎児の姿に似る銀河・銀河の中心・巨龍の顔の銀河」は「収穫期に実がたわわに実って垂れるイネや麦の穂のように、黄金色」である。だから、上の〔「大火西に下る頃」の[]の字源銀河解説図〕に示したように、「黄金色にイネと麦の実がたわわに実る[]の穂は、夏の銀河(漢字作成銀河)の南(南端)からさそり座α星がある西へと垂れる」と定理されることになったのである。
 上のカラー写真が示すように、「巨龍の顔の銀河周辺」は黄金色の輝くも、「巨龍の顔の銀河」は白く透き通るがごとく淡黄色に輝く。これゆえ、【黄帝の医学研究を表現する文字を作る、これを目的とした倉頡の発明】では「巨龍の顔の銀河の形状」は「分娩時の出産児が淡黄色の羊水とともに出産するとき、狭(せま)い産道を5枚の頭蓋骨が組み合わさって潜(くぐ)りぬける、いわゆる産婦人科の医学用語〔骨重積(こつじゅうせき/広形機能)〕、この神秘的な機能」に見立てられたことになったのである。
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 上の「女性生殖器の側身形の図」に示したように、「産道(外子宮口から膣口まで)」は狭い。そして、羊水は初め無色無臭・透明であるが、妊娠末期(10ヶ月後)には胎児の皮脂(ひし)などが混じるために淡黄色をおびるようになる。
 出産児の体の中でいちばん大きい頭が〔狭い産道〕を通りぬけるとき、「5枚に分かれる出産児の頭蓋骨は、巨龍の顔の銀河のごとく淡黄色になった羊水とともに、産道を容易に通りぬけるために重ね合わせる神秘的な機能、つまり産婦人科の用語〔骨重積の機能〕」を有する。
 だから、[]は「水神の霊獣」とされることになった。「水神」の「水」は「巨龍の顔の銀河のごとく、淡黄色になった羊水」であり、[]の字源「巨龍の顔の銀河」は「5枚に分かれる出産児の頭蓋骨が重ね合わせて、狭い産道を通過する機能」をあらわすことになった。
 出産児が狭い産道を通りぬけるときに頭蓋骨が重ね合わさる機能は、五帝時代や卑弥呼が生存した古代においては「ヒトに命を与えるために、鬼神(かみ)がなす不思議な仕業(しわざ)うち、最も不思議な仕業だ!」であった。だから、出産児の骨重積の機能は「なんで神はこのような作業を加えて人に命を与えるのか? 永遠に解明できない、もっとも不思議な現象」であったのである。
 ゆえに、現在の産婦人科において「骨重積」あるいは「広形機能(こうけいきのう)」と名づけられた機能は、黄帝の医学研究において神が人に与えた最も不思議な神聖な秘密にして、人間にはこの秘密は永遠に解明できない最高峰の学識と定められたのである。
 この出産児の頭蓋骨の機能について、司馬遷著『史記』五帝本紀は「土徳の瑞(ずい)があり、ゆえに黄帝を号す」と説明している。したがって、『史記』五帝本紀は「土徳の瑞祥(めでたいことが起こるしるし)の一つの、黄龍」は「巨龍の顔の銀河のごとく淡黄色に輝く羊水とともに、出産児が狭い産道を通りぬけるときに頭蓋骨の重ね合わせる機能の瑞祥をあらわした」と説明していたことになる。
 上の〔「大火西に下る頃」の[]の字源銀河解説図〕に示したように、「巨龍の顔の銀河」の西隣は「胎児の姿に似る銀河」である。
 「胎児の姿に似る銀河」は、下に示すカラー写真「絨毛(じゅうもう)に包まれる3ヵ月の胎児の姿」に相似する。
52
 したがって、「胎児の姿に似る銀河の西端()」が、もう一つの瑞祥「地螾」に見立てられたことになる。[(いん)]の字義は「みみず(蚯蚓)」である。土の中にすむ蚯蚓はうす赤く伸びちぢむ。ゆえに、「地螾」の瑞祥は「子宮に宿る胎児が育った様子をあらわす目出度いしるしの瑞祥の、赤いみみず腫()れの腹部にできる妊娠線」を意味したことになる。
 以上のごとく、「五帝時代初頭に女性生殖器と子どもの出産を研究した帝」は「黄金色に輝く、さそり座α星・胎児の姿に似る銀河・銀河の中心・巨龍の顔の銀河の形状」から「黄帝」と号されることになった。だから、「分娩時の出産児の頭蓋骨」に見立てられた「さそり座α星・胎児の姿に似る銀河・銀河の中心・巨龍の顔の銀河」は「人民の胃袋を禾(五穀)で満たす」という[]の字源・字義の中枢部(イネの穂が時計回りに南から西へ垂れる、転回方位規定をあらわす)となった。
 だから、上記した理由・根拠からして、[]の字源・字義は「黄帝軍の軍門」をもあらわすことになったと考えられる。

◆その証拠に、産道を通過する出産児の頭蓋骨は4回周旋(しゅうせん)するが、第1回周旋では縦長の児の頭蓋骨は横長の骨盤入口に合わせて時計回りに90度転回する。ゆえに、[]の字源のおいては「時計回りに90度転回(回旋)する」と定められた。その後は、骨盤は出口までは出産児の頭蓋骨に合致して縦長のスペースとなっているため、第2回周旋は逆時計回りの90度の転回となる。第3回周旋は第2回周旋と同じく逆時計回りの転回となるゆえ、第2回と第3回の周旋は逆時計回りに90度転回する[]の字源に合致する。第4回周旋は第1回周旋と同じく[]の字源と同じ時計回りの転回となる。
 このように、出産児の縦(経・たて)長の頭蓋骨は横(緯・よこ)長の骨盤入口にあわせて転回し、その後は経長(たてなが)の骨盤入口へ経長の児頭が入って下降が進んでいく。ゆえに、倉頡は「分娩時における出産児の頭蓋骨が重ね合わせる4回の周旋」にもとづいて[][]の字を作って「緯度が時計回りまた逆時計回りに90度転回して経度のごとく経(縦/たて)に化()る規定」をあらわしたのである。
 (注 産婦人科では出産児の「頭蓋骨の転回」を「回旋(かいせん)」と表現する。しかし、『魏志倭人伝』は後半部に登場する「倭の地を参問するに、(中略)、周旋五千余里可(ばか)り」という記事をもって、「出産児の頭蓋骨の転回」を「周旋」と書き記す。ゆえに、産婦人科の用語の「回旋」を、私は「周旋」と表記することにした。)

◆このブログの初頭部において指摘したように――新井白石が死去した13年後の1738(元文13)1119日に115代桜町天皇の即位式でおこなわれた大嘗会(だいじょうえ/大嘗祭)は「白石が唱えた邪馬台国説は誤読の産物、空理空論である」と表明した皇室最大の神事であった。言いかえると大嘗会は「『魏志倭人伝』に記述された【倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】」をあらわす皇室最大の神事」であった。
 したがって、令和元年1114日におこなわれた、日本中の家々のテレビに映し出されて、日本中の国民が目撃した大嘗祭もまた「白石の邪馬台国説と同じ九州説と畿内説は【誤読の空理空論】である。『魏志倭人伝』は、【倉頡が発明した漢字作成理論】を卑弥呼王朝は政権基盤としたと説明する歴史書であった」と伝える皇室最大の神事であったのである。
 大嘗会は「(1)邪馬台国説は誤読の空理空論である。(2)『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を説明する歴史書である」と伝える神事であった――この事実は何人にも否定できない【科学】が成立する真実である。

◆下に、前掲した〔[][]の字源銀河と金文形の図〕のおける、[]の字源銀河図を配した。『説文解字』は[]の字源を「乳するなり」と解説する。つまり、『説文解字』は[]の字源を「女性(母親や乳母)が乳を与えて子ども(乳児)を育てる」と解説する。
N936
 上の〔『説文解字』の[]の「乳するなり」の字源解説図〕における「女性の乳房」は「十字の銀河の子宮と重なる、十字の銀河の乳房に似る銀河」である。
 上の図に「乳するなり」と記した「十字の銀河の乳房に似る銀河と鬼の横顔に似る銀河の中間の3本線の銀河」は「子どもが飲む乳液」に見立てられることになる。
 下に、〔「大嘗会」の[][]の字源となった銀河図〕を配した。
N942
 上の〔「大嘗会」の[][]の字源銀河解説図〕における、左図に示したように大字形の「十字の銀河」が[]の字源・字形の原形・原義となった。
 上に示した右図は〔『説文解字』の[]の「乳するなり」の字源銀河図〕と同じである。
 したがって、上の右図における「嘗・乳するなり」と記した銀河部が「鬼の横顔に似る銀河の口・唇・舌が嘗める箇所」となって、[]の字源となる。
 [][][]の字源銀河は、前掲した〔[][][]の字源銀河図〕とも合致する。
 また、[]の字源「十字の銀河」は[]の字源である。
 したがって、【倉頡が発明した漢字作成原理の[][]】は「大嘗祭・大嘗会」の語源であったことになる。さらに、[][][]の字源銀河は、上記したように[][][]の字源銀河図とも合致する。ゆえに、[][]の字源銀河は【倉頡が発明した漢字作成方法の基本字[]の字源・字形の原形・原義】をもあらわしていることになる。
 だから、[][]の両字から成る大嘗祭は「黄帝の女性生殖器と子どもの出産の研究をあらわす文字を、倉頡は夏の銀河の各部の形状から作成する理論を発明した。この秘密は『魏志倭人伝』に詳細に記述されている」と表明する神事であったことになる。
 以上のごとく、このブログの初頭で指摘したように、新井白石の死から13年後の1738年に本格的に復興された桜町天皇の大嘗祭から令和までの大嘗祭は「『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を説明する歴史書であった。新井白石がとなえた邪馬台国説と同じ九州説と畿内説は『魏志倭人伝』と1ヵ所も合致しない、完全なる【誤読の空理空論】である」と表明する皇室最大の神事であったことになる。

 次回は、【[(とう)]の字源、つまり[]のキャッチ(天頂緯度線と子午線のキャッチ)】に注目すれば――学者たちやメディアが熱中する邪馬台国説九州説と邪馬台国畿内説は【科学】はまったく成立しない空理空論であることが簡単明瞭に証明される事実を解説することにする。

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2021年2月 6日 (土)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・5

▼江戸時代中期に生存した学者・新井白石(1657-1725)は、はじめ邪馬台国は大和にあると考え、晩年には邪馬台国は九州にあったと考えた。ゆえに「白石の近畿説と九州説によって、はじめて邪馬台国問題に学問的検討が加えられた」ということで――学者たちとマスメディアは白石の邪馬台国説を根拠・理由そして精神的バックボーン(信念)にして、吉野ケ里遺跡による九州説と纏向(まくむく)遺跡による畿内説のどちらかの意見で邪馬台国説は決着することができるとデマを蔓延(まんえん)させ、『魏志倭人伝』は邪馬台国の位置を決定するために存在する歴史史料であると思い込ませて日本国民を騙(だま)そうとしている。
 しかし、九州説と畿内説は約2000字で構成される『魏志倭人伝』の全記事と1字も関係しないウソ八百・フェイク・デマである。ゆえに、わが国のアカデミズム(学界)とジャーナリズムは「日本国を台無しにする空理空論の九州説と畿内説」に支配されている。「日本国に台無しにする」の「台無し」という語を「邪馬台国」にあてはめると[台]の字が無い「邪馬(やま)国」となる。『魏志倭人伝』は「邪馬国は旧国の大和、現在の奈良県であった。ついでに述べるが、邪馬台国なんて国は存在しなかった。卑弥呼は居住していた王国の名は邪馬壱(やまい)国であり、邪馬壱国は旧国の石見・出雲・伯耆、現在の島根県と鳥取県の西部であった」と証言している。
 要するに、前回のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・4回」で詳細に解説し証明したように――約2000字で構成される『魏志倭人伝』は約55パーセント・約1100字の記事で《約50000年前の中国の五帝時代初頭の黄帝時代に【倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】を詳細に伝える世界史的に第一級の歴史史料》であった。だから、学者たちやメディアが一生懸命に日本国民を騙そうとする九州説と畿内説は『魏志倭人伝』と1字も関係しない空理空論・ウソ八百・デマであったのである


★「倭人国の地理学」のトリセツ・14

◆前回のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・4回」で詳細に解説して証明したように――『魏志倭人伝』にある(1)「対馬国の南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」と(2)「倭国には牛と馬が無い(生息していない)」という二つの記事を注目すると、九州説と畿内説は100パーセント空理空論であることが半日で容易に簡単に証明することができる。
 学者たちは新井白石が近畿説と九州説をとなえて以来約300年も空理空論の呪縛(じゅばく)にからめとられて思考停止していている。上記した『魏志倭人伝』に登場する二つの記事を注目すれば、『魏志倭人伝』は1ヵ所も【誤読】を加える必要がない正確無比の史料であり、九州説と畿内説は空理空論・フェイク・サギであったことがわずか半日で証明される。
 『魏志倭人伝』に登場する[]の字源は「倭国の一大国(現在の長崎県北部の壱岐)の地宜」にて証明できる「ジャコウウシ」である。また、[]の字源は「倭国の対馬国(現在の長崎県北部の対馬)の地宜」で証明できる「フタコブラクダ」である。この字源の秘密は、前回のブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・4回」で解説して証明した。
 今回のブログのテーマも[]の字源は明確に「フタコブラクダ」であった事実の証明である。また、「瀚海・ゴビ沙漠は凍土地帯(ツンドラ地帯)と化して、ジャコウウシの大群が瀚海(ゴビ沙漠)を縦断して南へ前進して黄帝の居住地近くの餌場(えさば)まで出現していた、約5000年前の厳寒の大気が凍てつく壮麗な光景」が「日本列島の東北地方の北端の地宜」で再現できたことを証明する。この「東北地方の北端の地宜と光景」に則(のっと)って、『魏志倭人伝』は「対馬国の南一海を渡る千余里、名づけて瀚海と曰()う。一大国に至る」と記述し、「倭国には[]のジャコウウシと[]のフタコブラクダは生息していない」と伝えていたのである。

◆上記したように、『魏志倭人伝』は「対馬国と一大国の中間の海は、瀚海であった」と記述する。「瀚海」は「モンゴルにあるゴビ沙漠、つまり《沙漠の船》といわれるフタコブラクダが棲むゴビ沙漠」である。
 「対馬国」は「現在の長崎県の北部にある上県(かみあがた)と下県(しもあがた)に分かれる対馬」である。「一大国」は「長崎県の北部にある壱岐島」である。
 下に、「対馬国・瀚海・一大国の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)」を配した。
000012_20210206134101
 現在の地図では、「対馬と壱岐の中間の海」は「東水道」で「瀚海」ではない。ゆえに、当然、学者たちマスメディアは「対馬国と一大国の中間に、なんで瀚海が存在するのだ」とびっくり魂(たま)げて思わず「なんじゃ! これは?」と疑問を抱かなければならないのであるが、新井白石以来約300年間、学者たちは「瀚海」の2文字についてまったく疑問を抱かない。だから、学者たちとマスメディアは「瀚海」を注目すれば半日で簡単に容易に察知できる九州説と畿内説が空理空論・フェイク・詐欺(サギ)であることに気づかない。
 前回のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・4回」でおこなったように、「瀚海」の2文字によって九州説と畿内説は空理空論であったことが科学的に証明される。というのも、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は「邪馬台国」とはイッサイガッサイまったく無関係で、「紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、名門益(えき)氏が中国から日本列島の男鹿・米代川縄文文化圏へ移住して【倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論と夏音(かおん)文字の学芸】と【正確な中国海岸線の地図と精密地図作製方法】を伝えた。これらの中国における当時最高級の学芸は、前期縄文時代から後期縄文時代初頭までの約2000年間にわたって、〈夏の銀河の各部の形状〉をモデルにして土器・土偶を作った伝統を受け継いだ芸術家によって習得された」と詳細に伝えていた歴史書であったからである。
 『魏志倭人伝』には「古(いにしえ)より以来、倭の使者が中国に到着すると、皆自らを大夫と称した」という記事がある。万葉仮名の「大夫」は「ますらを」と読み、「ますらを」を今日「益荒男」と表記する。「益荒男」は「益氏の王子(天祖)と若者同様に、玄界灘を征服して中国に到着した」という歴史に由来して、倭の使者たちは皆が皆「大夫」と称したのである。だから、益氏の王子と若者たちは玄界灘を横断して日本海沿岸を北へ進んで東北地方の男鹿・米代川縄文文化圏に定住して、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音(かおん)文字の学芸】と【正確な中国海岸線の地図と精密地図作製方法】を伝えたことになる。

◆今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)は「女性の生殖器官と子どもの出産」を研究した。ゆえに、黄帝につかえる史官・倉頡の役目は黄帝の医学研究をあらわすことができる文字を【「夏の銀河の各部の形状」から作る理論と方法】を発明することになった。上記したように、わが国における縄文時代の土器と土偶も【夏の銀河の各部の形状】から作られたゆえ、縄文の土器・土偶を作った芸術家によって益氏の王子と若者たちがもたらした学芸が習得された。「夏の銀河」とは「夏の全星座が漬()かる銀河」である。
 上に示した「対馬国・瀚海・一大国の地宜」をもって、西暦180年頃に生存した卑弥呼は【(1)倉頡が発明した漢字作成理論と、(2)夏音文字の学芸と、〔3〕益氏がもたらした精密地図作製方法】をあらわす地理論」を提唱して、西日本全域にひろがる戦乱を鎮めた。
 倉頡が発明した漢字作成理論は「鳥獣の足跡」と呼称された。倉頡は「黄帝の〈女性の生殖器と子どもの出産〉の医学研究」を象徴する聖獣を「フタコブラクダとジャコウウシ」と定めた。言いかえると、「フタコブラクダとジャコウウシ」は【倉頡した発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」】を象徴する聖獣であった。
 []の字源「フタコブラクダ」は瀚海・ゴビ沙漠に住む人々にとって欠くことができない大切な家畜である。
 []の「ジャコウウシ」は秋から冬になると瀚海・ゴビ沙漠から南下して凍土地帯・ツンドラ地帯と化した南の毛烏素(ムウス)沙漠を横断し、さらに南の黄帝が居住した地域近くの餌場(えさば)まで1組百頭以上のジャコウウシが犇め(ひし)く群れが幾組からなる大群となって凍てつく寒風とともに出現した。このジャコウウシの大群の光景をもって、卑弥呼は「(1)対馬国の地宜、(2)「瀚海」という「ゴビ沙漠」、(3)一大国の地宜、(4)「玄界灘」という海の名称」で表現して、倭国の大乱を鎮めたのである。

◆わが国に定住した名門益氏は、五帝時代の最後の帝王の舜(しゅん)の時代に「正確な中国
海岸線地図を作製する[()]という重職」を任命され、五帝時代の舜帝代末まで代々約200年間も[]の職に従事していた。ゆえに、後期縄文時代初頭から約2250年後の卑弥呼が倭国の大乱を鎮めた180年頃には、益氏がもたらした精密地図作製方法によって倭地のおける各地の地宜(平面的に図化した地図の形)が解明されていたことになる。
 ただし、各地の地宜は、倉頡が「漢字は夏の銀河から作られた秘密を暴露した者はその一族全員に厳しい神罰が下って即刻に命を失う(死刑に処せられる)」と定めた「神罰()」をもって、暴露すると即座に死刑とされた厳重な機密であった。ゆえに、各地の地宜史料は出土しないことになった。しかし、前期弥生時代から出土する銅鐸と武器型遺物の銅剣・銅矛・銅戈(どうか)は益氏が伝えた精密地図作製方法に使用された測量器具であった。前期弥生時代以後、各地で《銅鐸と銅剣・銅矛・銅戈を用いて[(とう)]つまり「天頂緯度と子午線」を測量して経緯度原点地を設定し、さらに土地三角測量をおこなって正確な地宜、つまり精密地図》が作製された。だから、卑弥呼が倭国の大乱を鎮めた後期弥生時代の180年頃――対馬国の上県の地宜は[]の字源の「フタコブラクダの姿」、下県の地宜は「フタコブラクダの足跡」に相似する。一大国の地宜は「遠くの地に見える[]の字源「フタコブラクダの姿」と、近くの地に見える[]の字源「ジャコウウシの姿」が合体する形となること――を、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学問と精密地図作製方法の学芸】の最高権威者であった巫女界(ふじょかい)をたばねる卑弥呼は諸国の巫女たちから各国の地宜を収集して、倭国の大乱を鎮めたのである。つまり、【倉頡が発明した漢字作成理論】は【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」をあらわす文字の作成理論】であったゆえ、巫女たちにとって最も学習意欲が湧く問題であった。さらに、『魏志倭人伝』は「倭の卜占に用いる辞(文字とことば)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり殷代後半に用いられた甲骨文字のごとくであった」と記述するものであったゆえ、卜占に従事する巫女たちは【倉頡が発明した漢字作成理論】に精通し、大乱地域の各地の地宜がどのような字をあらわすかを調べて卜占する時に利用していた。したがって、巫女たちは【益氏が伝えた精密地図作製方法と大乱地域一帯の各地の地宜があらわす文字】にも精通する学識者であったゆえ、巫女たちを束ねる最高権威者の卑弥呼は大乱地域の各地の地宜を収集して倭国の大乱を鎮めることができたのである。
 下に示すように、《対馬の上県の地宜は[]の字源「フタコブラクダの姿」に相似し、下県の地宜は「フタコブラクダの足跡」に相似する》と見立てられた。したがって、〈[]の字源「フタコブラクダの姿と足跡との地宜の一対」となるゆえ、「上県・下県」の小国名は「一対」の[][]が加わる「対馬国」となった。
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 下に示すように「一大国(壱岐)の地宜」は「遠くに見えるフタコブラクダの姿と、近くに観える[]の字源のジャコウウシの姿」の形となる。
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◆前回のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・4回」で指摘したように、黄帝が研究した「女性の生殖器の側身形」は「水鳥の側身形」に相似すると見立てられた。
 ゆえに、「水鳥」の「鳥」と「獣のフタコブラクダ・ジャコウウシ」と上に示した「対馬国の下県の地宜が似るフタコブラクダの足跡」によって、上に示した「対馬国・瀚海・一大は【黄帝の女性生殖器と子どもの出産の研究】言いかえると【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」】をあらわした。
 約2000字で構成される『魏志倭人伝』に記述された【倭人国】という国名と【名称不明の1ヵ国を含む34の小国の説明と小国名】は、【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」】を今日に伝えていた。『魏志倭人伝』は「卑弥呼王朝の政権基盤は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸と、そして益氏が伝えた精密地図作製方法】であった」と、約55パーセント・約1100字で説明する歴史書であったのである。
 このような重大な歴史書を新井白石(16571725)は強引に単純化して、「邪馬壱(やまい)国」を「邪馬台国」と誤読し、「邪馬台」を強引に「やまと」と読んで、最初に「邪馬台国は大和であった」ととなえ、晩年に「邪馬台国は筑後の山門(やまと)」であったとする空論をとなえた。
 しかし、新井白石のデタラメ・インチキ説、つまり「邪馬台」を「やまと」と読む意見に反して、『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した王国は「邪馬壱(やまい)国」であったと記している。新井白石以来約300年間、『魏志倭人伝』は不正確な史料とされて学者たちに様々な【誤読や主観的推論】が加えられてきたが――学者たちの考え方は根本的に誤っていて、『魏志倭人伝』は1ヵ所も誤記が存在しない正確無比の史料であった。
 だから、デタラメ・インチキ説をとなえた新井白石の意見にしたがう学者たちとメディアが太鼓判を押す九州説と畿内説の実体は『魏志倭人伝』の記事と1ヵ所も合致しない空理空論・フェイク・デマであったのである。
 『魏志倭人伝』は約55パーセント・約1100字の記事をもって、新井白石が【誤読】という方法で不明にしてしまった《後期縄文時代初頭に益氏がもたらした【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」】》を伝えていたのである。その証拠に、『魏志倭人伝』は――卑弥呼は対馬国と一大国の中間の海の名を「瀚海」と定めて【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」】をあらわして、倭国の大乱を鎮めた――と説明していたのである。

◆前回のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・4回」で解説したように――“夏の始祖”の帝禹()の後を継いだ帝益の孫の王子と若者たちは、帝禹が首都と定めた「会計(今日の中華人民共和国の首都の北京)と帝禹の政治を補佐する益が住んだ「会稽(かいけい/中華人民共和国の3直轄市の一つ)」と同緯度の、下に示す東北地方における男鹿・米代川縄文文化圏に定住した。
 益氏の王子と若者たちが男鹿・米代川縄文文化圏に定住した時は、紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の夏代(かだい)初頭、わが国の後期縄文時代初頭であった。
S252
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・3回」で解説したように、「益氏の王子と若者たちの日本列島定住史」について『日本書紀』巻第三・神武天皇紀の初頭部は――天祖の彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)一行は天のいわくらを開き、雲路をおしわけて、先払いをたてて新天地(男鹿・米代川縄文文化圏)に鴻(おおとり)が荒野に舞い降りて棲みつくがごとく定住された。このとき、この新天地から東日本一帯までは野蛮で草深い学問が存在しない未開地であった。このような状況にありながら、みずから正しい【漢字を作成する学問と芸術】を新天地の人々に教え養って、日本列島の東北地方における西の偏(ほとり/八郎潟の東岸地域)に居住して治めた――と説明する。
 上の記事に登場する「天祖の彦火瓊瓊杵尊」は「益氏の王子」であった。
 下の図に示すように、天祖・益氏の王子一行は「八郎潟」を「黄帝が研究した、女性生殖器・子宮」に見立てて、「船越水道」を「産道」に見立てた。
000020  
 だから、天祖一行は現在の秋田県山本郡三種(みたね)町の琴丘(ことおか)町鹿渡(かど)に居住したと推定される。前述したように「子宮・産道・卵管・卵巣などで組織される女性生殖器の側身形」は「水鳥の側身形」に相似すると見立てられた。ゆえに、天祖は「八郎潟」を「水鳥と子宮の側身形」と見立てた。だから「八郎潟」は「鴻」に見立てられ、天祖一行の定住地(八郎潟東岸)一帯は[荒]の字義「荒野」に見立てられたことになる。ゆえに、『日本書紀』は「天祖一行が居住した地域」を「鴻が舞い降りて棲みつく荒野」ということで「鴻荒」と記す。「八郎潟」を「子宮」と見立て、「船越水道」を「産道」と見立てると「八郎潟・船越水道」は「入江」の[江]のをあらわす。「子宮・産道の側身形」は「鳥(水鳥)の側身形」に見立てられたゆえ、[鳥]となる。だから[江]に[鳥]が加わると[鴻]の字となるゆえ、「鴻荒」と記された天祖一行の定住地は「八郎潟東岸の琴丘町鹿度」であったと推定される。
 上の図に示したように、「船越水道の入口」は「産道の膣口(ちつこう)」に相当する。「琴丘町鹿度」は「膣口・船越水道の入口」から経度軸に対して角度が29度の邪(なな)めとなる線上に所在する。
 「船越水道と八郎潟が連結する岸辺」は「産道の子宮口(しきゅうこう)」に相当する。
 「子宮口に相当する岸辺」から夏至の日の出の方角(29度)に、花輪(はなわ)盆地の一画には後期縄文時代初頭の「国の特別史跡・大湯環状列石遺構(おおゆかんじょうれっせきいこう)」が所在する。
 「子宮口に相当する岸辺」から天頂にめぐってくる銀河部が地平線上にあらわれる45度の方角には、鷹巣(たかのす)盆地の一画に後期縄文時代初頭の国指定史跡「伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡」(秋田県北秋田市脇神字伊勢堂岱)が所在する。
 なお、前記した『日本書紀』巻第三・神武天皇紀初頭にある「益氏の日本列島定住史」には難解な文章が続き、諸々の本を参考にすると「その後、天祖とその天祖をついだ尊(みこと)たちは、神ひじりのように徳高く、善政をかさね、恩沢もゆきとどき、かくして年月が経過した」と解釈される記事が追加されている。
 ゆえに、上の記事の解釈にもとづくと、天祖(帝益の孫の王子)の子の時代に伊勢堂岱遺跡が設営され、天祖の孫の時代に大湯環状列石遺構が設営されたと考えられる。
 なお注目すべきは、司馬遷著『史記』陳杞世家は「帝王となった益氏の子孫は、中国のどこに封ぜられか不明である。史伝に記載されていないからである」と記述する。“夏の始祖”帝禹(う)の後を継いだ帝益(えき)の後継者である、孫の王子と若者たちは日本列島に定住した。このため、名門益氏は中国の歴史から消えたのである。

◆「産道の子宮口に相当する、船越水道と八郎潟が連結する岸辺」から夏の日の出の方角に「国の特別史跡・大湯環状列石遺構」所在する。
 「大湯環状列石遺構」は「産道の子宮口に相当する、船越水道と八郎潟が連結する岸辺」から「夏至の日の出の方角」をもって、つまり「夏至の日の出=夏」と連想して【夏音文字の学芸施設】であると察知する仕組みとなる。
 大湯環状列石遺構が所在する盆地は「花弁がめしべを中心にして輪状にならぶ菊の花の側身形」に相似するゆえ、「花輪盆地」と呼ばれる。ということは、五帝時代最後の帝の舜の時代の初頭から末まで約200年間余り代々〈正確な中国海岸線地図を作製する重職〉の「虞」に従事して【精密地図作製方法】を得意とした名門益氏が男鹿・米代川縄文文化圏に定住して、盆地の地宜を調査測量した結果、「花弁がめしべを中心にして輪状にならぶ花の形」に相似することが明らかになって、「花輪盆地」と名づけられたことになる。
 約200年間、代々「虞」の重職に従事した名門益氏が男鹿・米代川縄文文化圏に定住した証拠に、北秋田市の伊勢堂岱遺跡が所在する盆地は「高い木の上に作る鷹の巣」の形に相似するということで「鷹巣(たかのす)盆地」と名づけられている。
 下の図に示すように、秋田県鹿角市花輪町大湯中通りに所在する大湯環状列石遺構は西側が直径48メートルの万座(まんざ)遺跡、東側は直径42メートルの野中堂(のなかどう)遺跡である。
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 上の図に示すように、野中堂遺跡と万座遺跡には、「日時計組石」と名づけられた特殊組石がある。《野中堂遺跡の中心・日時計組石の中心》と《万座遺跡の中心・日時計組石の中心》を結ぶ線は〈夏至の日没方向(29度)〉を指差す。したがって、〈夏至の日没方向〉は【夏音文字】をあらわすゆえ、国の特別史跡の大湯環状列石遺構は益氏が【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】をひろめるために造った学術施設であったことになる。

◆下の図に示すように、益氏が定住した夏代初頭(後期縄文時代初頭)、北緯40度16分に位置する花輪盆地の天頂に、私が「十字の銀河」と名づけた北部の「花弁が輪状にならぶ花の側身形」に見立てられた銀河がめぐってきた。
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 白川静著『字統』(平凡社発行)は[禾]の字について「年・委など禾下に人の形を加えるものは稲魂(いなだま)を被(かぶ)った舞う男女の姿で、禾穀の象に従う字である」と解説する。同書は[年]の字について「禾と人とに従う。禾は禾形の被(かぶ)りもの、それを被って人が舞う形で、祈年(としごい)のための農耕儀礼を示す字である。また稲魂のような穀霊(こくれい)とみてよく、同じく穀霊に扮して舞う女の姿を委という」と解説する。また、同書は[委]の字について「禾と女とに従う。穀霊に象(かたど)る禾形の作りものを被って舞う女の姿をいう。同じく禾形の作りものを被って舞う男を年というのと、同じ構造法の字であり、男女が稲魂に扮して舞う農耕儀礼を示す」と解説する。さらに、同書は[倭]の字について「委は稲魂を被って舞う女の形」と解説する。
 要するに、白川静著『字統』は[禾][年][委][倭]の字源を「稲魂(いなだま)の冠を被って舞う農耕儀礼を示す人の姿をあらわしている」と解説していることになる。
 上に示した「大湯環状列石遺構と花輪盆地の地宜の図」における右上に配した「夏代初頭の大湯環状列石遺構の天頂緯度線」をあらわす「十字の銀河の北部の、花弁が輪状にならぶ花の側身形の銀河」が、白川静著『字統』の[禾]の字源解説における「舞う男女が頭に被る稲魂の冠」であり、[年]の字源解説における「禾形の被りもの」であり、[委]の字源解説における「稲魂に扮して舞う農耕儀礼を示して舞う男女が穀霊に象る禾形の被りもの(冠)」であったことになる。
 上の「大湯環状列石遺構と花輪盆地の地宜の図」が示すように、「花輪盆地の北部と南部」は「花弁」に相当し、大湯環状列石遺構は「めしべと子房に見立てられた地域(大湯)の中間」に作られた。
 大湯環状列石遺構(北緯40度16分)の天頂には、白川静著『字統』が[禾][年][委][倭]の字源解説で指摘した「十字の銀河の被りもの(冠)の部分」となる、その「被りものにおけるめしべと子房の形に相似する中間の糸のごとく細く縊(くび)れた銀河部」がめぐってきていた。この「糸のごとく細く縊れた銀河部」の「縊れた」という[縊]の字における偏[糸]を欠くと、残る右側の旁(つくり)部は「益」である。したがって、[縊]の初文は[益]であったことになる。
 だから、男鹿・米代川縄文文化圏に定住した益氏は「十字の銀河の被りもの(冠)の部分の糸のごとく細く縊れた銀河部」が「天頂緯度線」となる《北緯40度16分の花輪盆地の地点》、つまり《めしべと子房の中間の細く縊れた銀河部が天頂緯度線(プラス赤緯40度16分)となる地点》に大湯環状列石遺構を築造したことになる。
 だから、大湯環状列石遺構は益氏が設営した【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字と精密地図作製方法をあらわす学術施設】であったことになる。

◆1951年・1952年の国営調査によって検出された大湯環状列石遺構における万座遺跡の東側の外帯配石群(がいたいはいせきぐん)の平面図を下に示した。
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 上の左図は「瞳孔(どうこう)が最大に拡大される時に見える漢字作成銀河図」である(日本天文学会編『新星座早見』/三省堂発行における「漢字作成銀河(夏の銀河)」の形を転載した)。右図の「万座遺跡の東側の外帯配石群の平面図の形」は、左側の「夏の銀河(漢字作成銀河)の形」に類似する。
 だから、万座遺跡の東側の外帯配石群の平面図には漢字作成銀河の面影が現在も残っている。今日まで約4000年もの長い間、時には沢庵石にするため、また踏み台にするため、また庭の石に用いるためにいろいろな人々に持ち出されたであったであろうが、万座遺跡の東端には漢字作成銀河図の面影がいまだ残っている。
 〔注 上の左図における夏の銀河図は、月が出ない新月の暗闇から観察したときの瞳孔径(どうこうけい/瞳孔の直径)が最大に拡大された漢字作成銀河の形を示す。最多の字源をあらわす漢字作成銀河の形状は、新月ではなく、三日月の夜に暗闇から観察した瞳孔径によって見える夏の銀河の各部の形状である。ゆえに、瞳孔径の大小の相違によって、漢字作成銀河の形は変わる。現在は、夜になっても地上灯火が明るいため、日本列島の各地にて漢字作成銀河を見ることができない。しかし、小都市や田舎にて三日月が出る夜間、家々の灯りが遠くにあるこんもりと茂った木陰あるいは崖下となる暗闇から観察すれば漢字作成銀河は見える。〕
 上に示した白川静著『字統』による[禾][年][委][倭]の字源解説によって、益氏は定住した時に、東北地方を「禾地」、または「委地」と名づけたと推定できる。
 だから、約2250年後の卑弥呼は倭国の大乱を鎮めて、益氏の日本列島定住史にもとづいて国家名を「倭人国」と名づけたことになる。
 卑弥呼が大乱を鎮めた180年当時、「虞」の重職に従事した益氏が伝えた【精密地図作製方法】によって、大乱地域であった西日本各地の国や邑(むら)の地宜は花輪盆地・鷹巣盆地と同様に調査測量されていたことになる。この大乱地域における各々の国や邑の地宜を手に入れた卑弥呼は、この国邑の地宜を利用して【倉頡が発明した漢字作成理論をあらわす倭地理】を考案して、諸国に「大乱を続けていれば、厳しい神罰がくだされる」と警告して倭国の大乱を鎮めたことになる。
 他にも、大湯環状列石遺構には「益氏が男鹿・米代川縄文文化圏に定住して、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸と精密地図作製方法】をひろめるために造った学術施設であった」と証明できる確かな証拠が幾つかあるが、これ以上の解説は省略する。

◆下に、「本州北端の瀚海・[馬]の字源地宜の解説図」を示した。
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 上の八甲田山・岩木山付近より北方の本州北端地図が示すように、「下北半島」を「西に向くフタコブラクダの横顔と首」に見立てると、「夏泊(なつどまり)半島」と「津軽半島」が「フタコブ」に相似する。だから、東北地方の北端の地宜は[馬]の字源「フタコブラクダ」を明確にあらわす。この《東北地方の北端の、[馬]の字源「フタコブラクダ」の地宜》における「八甲田山・岩木山の緯度線(北緯40度39分)」は「瀚海・ゴビ沙漠の地面」に相当する。このように、「本州北端の瀚海・[馬]の字源地宜」は「瀚海・ゴビ沙漠に設けられた駅で休憩して地面に伏せるフタコブラクダの姿」に相似する。
 縄文時代の津軽半島にある十三湖は現在よりも大きかったと伝えられる。ゆえに、「津軽半島・十三湖」は「必要な水分は背中のコブの脂肪で分解して補給するゆえ、3日間も水を飲まなくても平気とされる、フタコブラクダのコブの能力」をあらわすことになる。
 このように、「本州北端の瀚海・[馬]の字源地宜」によって、益氏はフタコブラクダの姿・大きさ・能力・習性・特徴などを知らない縄文人たちに教えることができた。
 フタコブラクダは〈沙漠の船〉であったゆえ、「ゴビ沙漠」は「瀚海」と[海]の字が付く名称となった。中国大陸における夏国の北端は「北緯41度の渤海の北岸」であったと推定できる。ゆえに、「北緯41度の夏泊半島北端」は「夏国の北端である渤海の北岸」と同緯度となる。だから、「夏王朝」の「夏」に「泊」が加わって、半島名は「夏泊(なつどまり)」となった。つまり、「泊」は「〈沙漠の船〉のフタコブラクダが瀚海の港となる駅に停泊した時の姿の意」をあらわすことになった。
 だから、卑弥呼は「益氏の王子と若者たちの男鹿・米代川縄文文化圏の定住史」に因(ちな)んで、前述したように「現在の長崎県対馬の地宜」を[馬]の字源「フタコブラクダの正面の姿と沙漠に残した足跡の形」に見立てて、「益氏が【倉頡が発明した漢字作成原理と夏音文字の学芸と精密地図作製方法】を広めた歴史」をあらわすようにしたのである。その証拠に、『魏志倭人伝』が記述しているように、卑弥呼は「対馬国と一大国の中間の海」を「フタコブラクダを欠くことができないたいせつな家畜とした人々が住む瀚海(ゴビ沙漠)」と名づけている。

◆下にイラストで示した「遮光器形土偶(しゃこうきかたどぐう)」と呼ばれる土偶は、益氏が男鹿・米代川縄文文化圏に定住した約1000年後から始まる晩期縄文時代に作られた。
 遮光器形土偶は、東北地方から多数出土する。
 下のイラストは、遮光器形土偶の傑作とされる、重要文化財の青森県つがる市(旧西津軽郡木造町)に所在する亀ヶ岡遺跡から出土した34.5センチの土偶図である。むつ市は「フタコブラクダの横顔」に見立てられた「下北半島の北部」に所在する。
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 この土偶は「三角形」の「女陰」を有する「妊婦像」である。
 下に黄帝が研究した「女性の骨盤図」を示した。
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 上に配した「本州最北端の瀚海・[馬]の字源地宜の解説図」における下北半島・夏泊半島・津軽半島で方位される「陸奥湾」は「女性の骨盤の概形」に相似する。だから、遮光器形土偶は妊娠像であった。
 下に「遮光器形土偶の女陰図」を配した。
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 遮光器形土偶の女陰は「三角形」である。[命]の契文(甲骨文字)と金文の字形上部は三角形の[亼(しゅう)]である。ゆえに、「遮光器形土偶の女陰」は「その大部分が骨盤に包まれて、子どもの命をまもる女性の生殖器(中心部が子宮)」をあらわす。また、「遮光器形土偶の三角形の女陰」は益氏が代々約200年間も「虞」という重職に従事して精通していた「精密地図作製方法における土地三角測量の原理」をあらわしている。だから、遮光器形土偶の「三角形の女陰の形」は[亼]と[命]はじめ[令]あるいは[合]などの原初漢字・夏音文字の伝来を示し、黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産の研究」をあらわすために倉頡が漢字を発明した秘密を伝えていることになる。
 遮光器形土偶の特色の一つは、顔面のほとんどを占めるほどに大きな円形の両目である。
 「遮光器形土器の両目」は【1】「大湯環状列石における円環の形・円形の野中堂と万座の両遺跡」を表現していることになる。また「遮光器」と土偶名がつけられたように、その両目は【2】「万座遺跡の東側の外帯配石群の平面図の形は明るい光が両目(視界)に入るのを遮断して瞳孔径が最大に拡大する、新月の夜に真っ暗な場所から観察すれば見える」とあらわしていることになる。ゆえに、「(1)両目のレンズ状曲面の中央に刻まれる直径が[一]の字となる沈線(ちんせん)」と、(2)円形の枠取り」は「瞳孔径は観測場所の明暗の条件によって(1)拡大・(2)縮小する仕組み」をあらわしている。また、(3)「両目中央の直径[一]の字の沈線」は「1度の60分の1の1分以内に精確に緯度差を測定できる天頂緯度線」をあらわしている。さらに、この土偶の両目は【3】「フクロウ類の目の大きな目」のイメージとなるゆえ、「フクロウ類の目」をあらわしているにちがいない。フクロウ類の目は、人間の暗所での視力の限界よりも10分の1~100分に1の暗さでも判別できるというすぐれた視力を有する。ふつうの鳥は、目を閉じるときは下まぶたで閉じるが、フクロウ類の目は上下とも動く。さらに、フクロウ類の角膜は凸レンズのごとく凸形をしているゆえ、遮光器形土偶の凸レンズ状曲面に合致する。

◆遮光器形土偶の「両腕と一本足の形」は「ブナ科の常緑高木の椎(しい)の果実はじめ、ブナ科のアラカシ、シラカシ、アカガシ、ミズナラ、コナラ等の果実の形」に相似する。椎の子葉はクリのように炒って食べ、また生でも食べることができる。椎の花は甘く強い香りを放つ虫媒花である。したがって、「椎の花の香」は「ジャコウウシの麝香」に見立てられたことになる。
 下に、娩出期(べんしゅつき)終わりの時の、母体の臀部(お尻)を正面にして頭が誕生した出産児の姿の図を配した。
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 「遮光器形土偶の背面形における一本足」は「下北半島」をあらわすゆえ、「遮光器形土偶の一本足」は、この土偶が出土した「むつ市と亀ヶ岡遺跡」をあらわす。また、イラストで示した「土偶の正面形のおける一本足」は「津軽半島」をあらわす仕組みとなる。
 遮光器形土偶の幅広(はばひろ)の胴体(体躯)は、益氏が説明した[牛]の字源「ジャコウウシ」と[馬]の字源「フタコブラクダ」の重量感あふれる胴体の特長の伝承を、晩期縄文人が想像して造形したと推定される。
 つまり、「遮光器形土偶の胴体を包む着衣」は「肉が食用となり、毛皮は防寒着・織物に用いられたジャコウウシの身体を包む、暗褐色の毛足が長いウールのコート」をあらわしているにちがいない。また、「フタコブラクダの乳は飲料に適し、肉は食用になり、毛皮は織物に用いられた」ゆえ、「遮光器形土偶の胴体の文様」は「フタコブラクダ」をも表現するものだったにちがいない。
 遮光器形土偶が着る毛皮にほどこされた「渦巻き文様」は、益氏が日本列島に定住する約1100年前の中期縄文時代中葉(紀元前3200年頃)の土器にすでにデザインされていた。
 ということは、中期縄文時代中葉の「渦巻き文様」は、藤井旭著『透視版 星座アルバム』(誠文堂新光社発行)が「わが銀河系の中心方向にむらがる無数の星と、入り乱れる星間物質が、わきあがる入道雲のような迫力にみちた姿でせまる」と表現するものであったことになる。このように、「銀河の中心(銀河系の中心)の周辺の銀河は入道雲のように渦巻く」。
 だから、「遮光器形土偶の胸部左右の二つの渦巻き文様と腹部左右二つの大きな渦巻き文様」は「入道雲」をあらわしているにちがいない。
 下に、「銀河の中心(銀河系宇宙の中心方向)に群がる無数の星と星間物質が入道雲のように渦を巻く写真」と「銀河の中心の各部の名称図」を配した。
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 「乾坤(けんこん)」という語は「天地」を意味する。
 「乾坤」の[坤]の偏の[土]は「地」を意味し、旁部の[申(しん)]は「電光つまり稲妻」を意味した。ゆえに、[坤]は「入道雲が天高く立ち登り、一転して天空にわかに曇って雷鳴轟き雨が降って、大地に生える草木の命が蘇るジャコウウシが生息する、厳寒の凍土地帯(ツンドラ地帯)」をあらわした。
 ゆえに、「入道雲」をあらわす「遮光器形土偶の胸部左右の二つの渦巻き文様と腹部左右二つの大きな渦巻き文様」は「乾坤」の[坤]をあらわしたことになる。
 「乾坤」の[乾]は「フタコブラクダが生息する乾燥地帯の瀚海(ゴビ沙漠)」をあらわす。
 前述したように、「北緯40度39分の八甲田山・岩木山より北側の陸奥湾を包囲する下北半島・夏泊半島・津軽半島の地宜」は「フタコブラクダが瀚海に設営された港(駅)で休憩して伏せる姿」に酷似する。

◆司馬遷著『史記』五帝本紀は「黄帝軍は円陣を組んで自衛して駐屯した(師兵をもって営衛となす)。官名はみな〈雲〉と名づけて命じて、それぞれの官の長を〈雲師(うんし)〉といった。左右の大監(たいかん)をおいて万国を監督させた。その結果、万国は和同した。天下が和同すると、黄帝は天地山川の鬼神をまつった」と記述する。
 上に示した「入道雲のごとく渦巻く銀河の中心方向の写真」は[雲]の初文の[云]の字源銀河・字形銀河・字義銀河であった。ゆえに、黄帝は[云=雲]の字源「銀河の中心方向の銀河」にもとづいて、官名を「雲(云)」と名づけ、官の長を「雲師(云師)」と名づけたことになる。
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 上記の記事が示すように、「天敵のオオカミに襲われると、子どもを真ん中に隠して群れは円陣を組むジャコウウシの生態」を見習って、黄帝軍は駐屯するときに円陣を組んだことになる。ゆえに、官名の〈云(雲)〉は「銀河の中心(銀河系の中心)の周辺の入道雲のように渦を巻く銀河」と「入道雲」をあらわすものであったことになる。
 また、「入道雲」をあらわす「渦巻き文様」が左右に分かれてほどこされる「遮光器形土偶における胸部の左右と腹部の左右」は「黄帝が万国を監督させた左右の大監」にちなんだデザインであったにちがいない。
 上記したように、黄帝は「鬼神」をまつっていた。
 だから、「遮光器形土偶」は「黄帝がまつった」という「鬼神」を造形するものであったことになる。
 学者たちは「縄文時代に作られた土偶が故意に壊されたり、妊婦を表現するものが多いのは、再生や子孫の繁栄、五穀豊穣を祈るためである」と指摘する。
 だから、妊婦を表現する遮光器形土偶の「一本足」は「片方の足を壊して、乾坤(天地)の鬼神に再生や子孫の繁栄、そして五穀豊穣の祈願」を表現するものであったことになる。
 遮光器土偶の「女陰の三角形」は漢字の[亼(しゅう)]をあらわすゆえ、[亼]を有する[令]をあらわし、「凍土」の気候「冷たい」をあらわすことになる。というのも、前述したように、遮光器形土偶が着る衣はジャコウウシとフタコブラクダの毛皮であるゆえ、この土偶の「三角形の女陰」は「氷」をあらわす偏「二水」に旁(つくり)部[令]を加える[冷]の字をあらわして「冷たく凍てつく凍土地帯(ツンドラ地帯)」を表現している。
 また、遮光器形土偶の背面の腰には「大きな巴文(ともえもん)」がほどこされ、背中にも「小さな巴文」が幾つか刻まれている。『説文解字』は「巴文」の[巴]の字源を「蟲なり。或いは曰く、象を食う蛇なりと。象形」と指摘し、「大きな象を食う蛇」と解説する。象は暑い地域に生息するゆえ、「暑い地に棲む象を食う蛇」は「冷害」を表現していることになる。その証拠に、ジャコウウシは冷たい厳寒の凍土地帯に生息する。だから、遮光器形土偶の背中の「巴文」は「冷害」をあらわしていたことになる。
 遮光器形土偶の「一本足」は「フタコブラクダの顔に見立てられた下北半島と、フタコブラクダのコブに見立てられた津軽半島」をあらわしている。したがって、この土偶の「一本足」は「旱魃(かんばつ/日照り)が続いたため、水が飲めなくてコブを一つ失ったフタコブラクダ」を表現している。だから、この土偶の「一本足」は「旱魃・日照りの災害」をあらわすことになる。遮光器形土偶は顔面のほとんどを大きな目が占めて、「へ」の字にきざまれる口が小さいのは「日照りが続いて、水が飲めない」を表現するものとなる。フタコブラクダは降雨量が少ない乾燥地帯の沙漠に棲む。だから、この土偶の胸部と腹部にほどこされる「四つの入道雲」は「日照りが続く、天の鬼神よ、雨が降るを祈る」という願望をあらわしていることになる。

◆益氏の王子と若者たちが男鹿・米代川縄文文化圏に定住した後期縄文時代初頭は、「旱魃と冷害のダブルパンチの時代」であったのである。
 だから、遮光器形土偶は〈「旱魃と冷害」を表現する妊婦像〉であったことになる。
 佐々木高明著『日本史誕生』(集英社発行)は「縄文時代中期の中ごろ以降、気候はしだいに冷涼になり、縄文時代晩期(三〇〇〇年前ごろ)には、現在よりも平均気温が一度ほども低くなる。」と指摘する。
 だから、益氏が東北地方に定住した今から約4000年前の後期縄文時代初頭から遮光器形土偶が作られた晩期縄文時代初頭までは、【冷害と日照りのダブルパンチの災害時代】であったのである。ゆえに、後期縄文時代初頭から晩期縄文時代初頭までは、現在の新型コロナ感染拡大よりもはるかに深刻な暗黒時代であり、多数の死人からの病原菌によって疫病が流行し感染拡大して、人口が激減した恐怖時代であったことになる。
 遮光器形土偶は「益氏が定住した後期縄文時代初頭から遮光器形土偶が作られた晩期縄文時代初頭までは、日照りと冷害が続いて多数の人々が餓死した深刻な禍(わざわい)に見舞われた恐怖時代であった」と表現していたのである。
 このブログにおいて「大湯環状列石と花輪盆地の地宜」を示す右上に配した「後期縄文時代初頭(夏代初頭)の大湯環状列石遺構の天頂緯度線」を示した「十字の銀河の上半身と花の組織」をあらわす図を、下の上図に示した。
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 上の上側の図は「花輪盆地の東・西」に合致するように銀河図の定式を180度転回して「右東・左西の形式図」である。
 上に示した下側の図は銀河図の定式に則る「右西・左東の形式図」である。
 上に示す上図のおける「花の組織図」における「子房」の部分は、下の図では「稲魂」と「ドングリ(ブナ科のミズナラの果実)」の形に観える。
 上の下側の図に示したように、北緯40度16分の大湯環状列石遺構の天頂緯度線より南の「花の組織における子房」は「稲魂(いなだま)の冠」と「ドングリ」に相似すると見立てられたことになる。
 前記したように、白川静著『字統』は[禾][年][委][倭]の4字は「稲魂の冠を被って舞う農耕儀礼を示す人(男女)の姿をあらわしている」と解説する。
 大湯環状列石遺構の天頂緯度線は「稲魂」をあらわした。その「稲魂」は「ドングリ」の形にも相似する。
 遮光器形土偶の「両腕と一本足」は【「花の子房」・「稲魂の冠」・「ドングリ」】の形に相似する。
 「冷害と日照りの災害」によって、ブナ・コナラ・ミズナラなどのブナ科の森林が枯れた。熊の餌はブナ・コナラ・ミズナラの果実である。秋になると、熊はミズナラの果実、つまりドングリの実をたくさん食べる。ゆえに、当時はドングリの実が不足したため、東北地方から関東地方までの森林に棲む動物の頂点に位置した飢えた熊が人里を襲ったにちがいない。したがって、遮光器形土偶の胴体は、「飢えた熊」をも表現する鬼神像であったことになる。

◆再度、下に「対馬国・瀚海・一大国」の図を示した。
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 前回のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・4回」にて詳細に解説して証明したように、卑弥呼は「対馬国の地宜」を「フタコブラクダの姿とフタコブラクダの足底の形」に、「一大国」を「遠くのフタコブラクダの姿と近くのジャコウウシの姿」に見立てた。
 卑弥呼は《益氏が定住して【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸と精密地図作製方法】をひろめた歴史》を示すために、「長崎県の対馬」を「フタコブラクダの姿と足跡の形」に見立てて「対馬国」と名づけ、「長崎県の壱岐」を「遠くのフタコブラクダと近くのジャコウウシの姿」に見立てて「一大国」と名づけ、「対馬と壱岐の中間の海」を「瀚海」と名づけることにしたのである。

卑弥呼は「対馬国・瀚海・一大国」と名付けたのは、倭国の大乱を鎮めるための方策であった。つまり、卑弥呼は、下に示す「益氏が定住した東北地方北部の地宜と遮光器形土偶」が秘める「冷害と日照りが続いた後期縄文時代初頭から晩期縄文時代までの災いの歴史」を甦(よみがえ)らせて、倭国の大乱を鎮めた。
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 上の東北地方北部に所在する、八甲田山と岩木山が北緯40度39分上に東西に並ぶ。ゆえに、「八甲田山と岩木山の山頂」は「黄帝時代の、冷たい凍土地帯と化した瀚海」をあらわした。したがって、「八甲田山と岩木山」は「冷害」をあらわした。
 「八甲田山」という映画は「1902年(明治35年)に青森の連帯が雪中行事の演習中に、210名中199名が凍死した遭難事件」をあつかった。この映画における「天は我々を見放した」というセリフは、当時の流行語となった。
 199名の兵士たちは、ツンドラ地帯と同様の厳寒の烈風と吹雪に閉ざされて凍死した。だから、「八甲田山と岩木山」は「凍土・ツンドラ地帯」をあらわすことになった。
 「東北地方北端の下北・夏泊・津軽の3半島の地宜」は「炎熱のゴビ沙漠における、厳しい地獄の旱魃(かんばつ)が続く災い」をあらわした。
 倉頡はみずから発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、この知識を反体制側の人々が手に入れると王朝が容易に崩壊・滅亡すると心配して、三つの掟に違反した者とその一族全員に厳しい神罰が下って即座に死刑に処すると定めた。
 【倉頡が死刑にすると定めた三つの掟】は【1】「文字は夏の銀河の各部の形状から作られたと、容易にわかるように説明して暴露した者とその一族全員を即刻に死刑にする」、【2】「文字を容易に覚えるために、文字作成銀河(夏の銀河)の各部に名称を付けた者とその一族全員も即座に死刑にする」、【3】「書いた文字が用済みになったならば、ただちに文字を消さない者また消し忘れた者もさらにその一族全員も即座に死刑にする」であった。
 上に示した「厳しい炎熱沙漠の日照りと凍てつく厳寒の凍土同様の冷害」をあらわす「本州最北端の陸奥湾周辺の地宜」は【倉頡が死刑と定めた三つの掟】、つまり「鬼神の厳しい神罰」を具体的に明確に強烈にあらわした。
 ゆえに、わが国における上古・古代において「厳しい神罰」をあらわす【倉頡が死刑と定めた三つの掟】は「後期縄文時代初頭から晩期縄文時代までの、日照りと冷害」で具体的に強烈に明示された。だから、【倉頡が死刑と定めた三つの掟】は厳守されることになった。【倉頡が死刑と定めた三つの掟】は皇室の存続基盤であったゆえ、3世紀後半において大和朝廷の基礎を築いた崇神天皇母子王朝(天照大神王朝)以後に皇室の滅亡を謀る勢力による革命に利用されるのを防ぐために厳重な機密とされたため、「漢字は夏の銀河から作られた事実」が不明となったのである。
 このような3世紀から18世紀までの事情が原因となり――さらに1716年(正徳6)に60歳の新井白石が『古史通或問(こしつうわくもん)』を著作して【誤読】を加えて「邪馬台国は大和であった」と立論し、その後「邪馬台国は九州であった」と提唱した空理空論に学者たちがすっかり心酔して夢中となったため、『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えない考え方で研究する学者が一人もあらわれなくなった。
 だから、『魏志倭人伝』の主なる記事は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸と精密地図作製方法】を説明していることにまったく気づかないことになってしまったのである。

 『魏志倭人伝』は「対馬国の南一海を渡る千余里、名づけて瀚海と曰(い)う。一大国に至る」と記述する。この記事は――卑弥呼王朝は「厳しい神罰」をあらわす【倉頡が死刑と定めた三つの掟】に則って【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学問における精密地宜(地図)作製方法】を政権基盤と定めて、倭人国を治めた歴史――を伝えていたのである。
 東北地方の岩手県花巻市出身の詩人・童話作家であった宮沢賢治は1931年に作った「雨ニモマケズ」という詩で「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケズ (中略) ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロとアルキ 云々」と表現した。1931年・昭和6年当時においても「夏の日照りと冷害」は恐ろしい神罰(自然界による災い)であった。ゆえに、益氏が定住した後期縄文時代初頭においても、卑弥呼が生存した後期弥生時代においても、「日照りと冷害」は「神が厳しく死を与える罰」を明確にあらわすことになったのである。
 卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤とする国家と王朝を創設したため、【倉頡が発明した漢字作成理論】が革命に利用されて国家と王朝が崩壊・滅亡しないために、この学芸知識を国家と王朝が独占管理して厳重に機密を保持すると明示しなければならないことになった。だから、対馬と壱岐の中間の海の名を「瀚海」と定め、「壱岐」の小国名を「一大国」と定め、一大国の南(現在方位)の伊都国には特に一大率(いちだいそつ)が居住して常に伊都国を治めるようにした。このため、一大率は「漢字は銀河から作られた」という秘密や【倉頡が発明した漢字作成理論】を暴露する者たちを取り締まる役職につくことになった。一大率は「後期縄文初頭から晩期縄文初頭までの日照りと冷害」をあらわす「厳しい神罰を下す権限」を有することになった。だから、『魏志倭人伝』は「一大率を置いて諸国を検察せしむ。諸国之(これ)を畏憚(いたん)す」、つまり「一大率は【倉頡が発明した漢字作成理論】の知識を有する諸国の王・女王・巫覡たちを検察することになった。ゆえに、諸国の王や巫覡たちは一大率を非常に畏れた」と伝えていたのである。

 次回のブログでは、『魏志倭人伝』冒頭記事「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」という文における冒頭字[倭]の字に則(のっと)る転回日本列島地理をテーマとする。卑弥呼は「日本列島における本土の〔東〕は時計回りに90度方位が転回して〔南〕へ伸びる」と立論した。この「日本列島における〔東〕は〔南〕へ伸びる」という時計回りに方位が90度転回する転回本土地理は[倭]の字源・字形・字義に合致した。だから、卑弥呼は国家名を「倭人国」と定めた。
 この卑弥呼が立論した転回本土地理論は、『魏志倭人伝』における全12ヵ所の方位記事と合致して1ヵ所も矛盾しないゆえ、【科学】が成立して事実を伝えていたことになる。だから、「日本列島における本土の東方は方位が時計回りに90度転回して南へ伸びる」と説明する『魏志倭人伝』の証言を信用せずに否定する九州説と畿内説は誤読の空理空論であったことになる。
 九州説と畿内説が主張するように、『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した邪馬台国を解明するための歴史書ではなかった。
 ゆえに、九州説や畿内説のごとく『魏志倭人伝』に「この記事は間違っている」と指摘して何ヵ所も【誤読】を加える必要もなく、ましてや九州説と畿内説の合理性を成立させるために幾カ所も【主観的推論】が加える必要もなかったのである。『魏志倭人伝』は1ヵ所も【誤読】や【主観的推論】を加える必要がない正確無比の史料であったのである。
 『魏志倭人伝』は【黄帝が研究した「女性の生殖器と子どもの出産」をあらわす漢字を、倉頡が発明した学芸理論】を伝える世界史的に第一級の重大な歴史書であったのである。

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