G-T0XYQT12LL 邪馬台国説はサギ・騙されるな・7 : 卑弥呼の逆襲

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2021年2月26日 (金)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・7

▼実は、有名ないわゆる邪馬台国説は、いとも簡単に空理空論・デタラメ・詐偽(さぎ)であると断定できる。にもかかわらず、現在、学界とメディアは「邪馬台国説は空理空論、デタラメ、真っ赤なウソ・詐偽である」と即座に断定しない。
 というのも、学界とメディアは邪馬台国説が明白な詐偽あるいは空理空論となる科学的理由と根拠が存在することにまったく気づいていないからである。
 中国の魏と朝鮮半島と日本列島の中間の大海は「玄界灘」である。
 「玄界灘」という名称は「[玄](天頂緯度線と子午線)をキャッチする方法を羅針盤とすれば精確に緯度(位置)が測定できるゆえ、中国・諸韓国と日本列島とを往来できる、波の荒い大海」と意味した。言いかえると、「玄界灘」という名称は「天の北極の高度を緯度に換算する方法を羅針盤にすると、精確に緯度が測定できずに必ず命を失うために往来することができない大海」と意味した。
 〔緯度を測量する方法〕は【(1)[玄](天頂緯度線と子午線)のキャッチ、(2)天の北極の高度を緯度に換算する方法】の2つの方法しか存在しない。そのうち、【[玄]をキャッチする方法】ならば玄界灘を往来できる。しかし、邪馬台国説は【[玄]をキャッチする方法】に則(のっと)って立論しない。だから、結局、邪馬台国説は【玄界灘を往来することができない、天の北極の高度を緯度に換算する方法】に則って立論する意見となる。
 したがって、邪馬台国説の考え方に則ると倭の使者たちは玄界灘を往来できなかったゆえ、結局、『魏志倭人伝』という書物はこの世に存在しなかったことになり、おのずと「邪馬台国」という地域もこの世には存在しなかったことになる。
 このように、〔緯度の視点〕という視点にもとづけばごく簡単に1、2分足らずで、邪馬台国説は【科学】が全く成立しない空理空論・空想・デタラメであったことが確実となる。にもかかわらず、江戸中期に生存した新井白石(1657-1725年)以後約300年もの長い年月をムダに費やして、学者たちは邪馬台国説が空理空論である事実についてまったく気づかない。この過失は、「うっかりして、気づかなかった」という一言ですまされない無責任きわまりない学界の怠慢である――というのも、『魏志倭人伝』はわが国における過去の歴史を伝える書物において最も大事な神聖な、つまり全記事が正確無比の歴史書であったからである。
 本来、正確無比であった歴史書『魏志倭人伝』を、邪馬台国説学者たちは多数の〔誤読〕を加えて立論しなければならない史料にしてしまった。その証拠に、学者たちは『魏志倭人伝』を「邪馬台国はエジプトに存在した」という意見も立論できるような面妖奇怪(めんようきっかい)な劣悪きわまりない史料に陥(おとしい)れて台無しにした。
 邪馬台国説は日本学問史における最大・最悪の空理空論であり、日本人の命と魂を愚弄(ぐろう)する、日本人にとって最悪・最大の災いであり、日本人が最も蔑視すべき空理空論であったのである


★「倭人国の地理学」のトリセツ・16

◆上記したように、【緯度を測量する方法】は【(1)[](天頂緯度線と子午線)のキャッチ、(2)天の北極の高度を緯度に換算する方法】の2つの方法しか存在しない。
 そのうち、【[]をキャッチする方法】ならば玄界灘を往来できる。しかし、【天の北極の高度を緯度に換算する方法】では玄界灘を往来することはできない。
 邪馬台国説は【[]をキャッチして緯度を測定する方法】に則る意見ではないゆえ、邪馬台国説は【天の北極の高度を緯度に換算する方法】に則って立論する意見となる。したがって邪馬台国説の考え方に則ると倭の使者たちは玄界灘を往来できなかったゆえ、『魏志倭人伝』には倭人国の様子を伝える記事が1字も書かれていなかったことになり、おのずと「邪馬台国」についての記事はゼロ・まったく存在しなかったことになる。だから、「邪馬台国」と呼ばれた地域も存在しなかったということになるゆえ、邪馬台国説は【科学】がまったく成立しない完全なる空理空論・デタラメ、詐偽であったことになる。

◆玄界灘を往来するとき、1度・60分の60分の1となる、1分以内の誤差で測定できる能力、つまり眼力を有していないと命を失った。
 大海を渡るとき、【天の北極が水平線からの高度が緯度】となる。つまり、水平線からの天の北極の高度が3415分ならば、その観測場所の海の緯度は北緯3415分となる。
 下に〔黄道(こうどう)の中心にして一周する天の北極の位置図〕を示した。
K412
 上の図が示すように、天の北極は〔黄道の北極〕を中心にして25,800年で一周する。この〔円周(大円)上における位置〕が〔各時代の天の北極の位置〕となる。すべての時代において、〔「黄道の北極」を中心とする大円〕と重なる北極星は存在しない。だから、すべての時代において〔天の北極〕は〔暗黒の闇(やみ)〕であったゆえ、ヒトが1分の精度で緯度を精確に測量できる北極星は存在しない。
 〔天の北極に最も近づく北極星〕は、紀元前2790年頃の「りゅう座α星」と、現在から約80年後の21世紀末の「こぐま座α星」である。この「二つの北極星」は〔天の北極〕から約45(0.75)離れているゆえ、〔天の北極〕を中心にして直径約90(1.5)の円を描く。人間の目と本能には、90分ほどの直径(距離)で〔天の北極〕を中心にして円を描く「北極星」を測量して〔天の北極の高度を90分の11分以内の誤差〕で精確に測量できる能力はそなわっていなかった。
 したがって、すべての時代、人間の目と本能には〔天の北極の高度を1分以内の誤差で測定できる能力〕がそなわっていなかった。
 上の〔黄道の北極を中心にして一周する天の北極の位置図〕の右上に記したように、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の「北極星=こぐま座β星」は〔天の北極〕を中心にして半径約10(600)・直径約20(1200)の円を描いていた。「直径が約1200分の円を描く北極星(こぐま座β星)」で〔天の北極の高度〕を約1200分の11分以内の誤差で精確に測定できる能力を人間は有していない。
 だから、卑弥呼時代、倭の使者はじめ船乗りたちが「北極星」をキャッチして〔天の北極の高度を緯度に換算する方法〕で玄界灘に入ると必ず「命」を失った。
 倭人国の使者たちが玄界灘を往来できたからこそ、中国では倭女王卑弥呼が統治する倭人国は34の小国で構成されることを知ることができた。もしも、倭国の使者たちが玄海灘を往来できなかったならば、魏では倭国の様子をまったく知らなかったゆえ『魏志倭人伝』という書物はこの世に存在しなかったことになる。したがって、倭国の使者たちが〔天の北極の高度を緯度に換算する航法〕で大海の玄界灘に入ったならば、結局、彼らは玄界灘を往来できずに命を失ったことになるため、『魏志倭人伝』という書物は存在しなかったゆえ「邪馬台国」という地域もまた存在しなかったことになる。このような状況では、邪馬台国説そのものを立論することができなくなるゆえ、邪馬台国説は【科学】がまったく成立しない空理空論・空想・デタラメ・詐偽であったと断定すべきことになる。
 以上からして、学者たちやメディアが最も信用する吉野ケ里遺跡を根拠にする邪馬台国九州説と纏向(まきむく)遺跡を根拠にする邪馬台国畿内説の両説は〔天の北極がある方向を〈北〉と定める現在と同じ日本地図〕にもとづいて成立するが、〔緯度の測定〕という視点に立つと途端(とたん)に【科学】がまったく成立しない空理空論、デタラメ、完全なる絵空事(えそらごと)であったことが明白となる。

◆現在、いまだ新型コロナウイリスの感染騒ぎは終息しない。この新型コロナウイリス感染によって、人間にとって最も大切なのは“生きている”ことであると知らされた。“いのちあってのものだね”というように、人間はなにはさておき、まず“生きている”という命の保障の基(もと)に行動する。“死なない、必ず命が保証される”と確信することができれば、人は“なさねばならない務めをはたそう”と決意する生き物である。
 だから、倭の使者と船乗りたちは【[](天頂緯度線と子午線)をキャッチする航法】ならば玄界灘は死なずに往来できるゆえ、中国・朝鮮半島に到着して国交を結ぶことができ、家族が待つ家に帰還できると確信していたことになる。
 原始のときから、ヒトには【[]をキャッチして1度の60分の11分以内の誤差で緯度を精確に測定できる本能と眼力】がそなわっていた。
 20万年前から10万年前にかけてホモ・サピエンス(現生人類)が起源したときから、おそらく【[]をキャッチする本能と眼力】がそなわっていたにちがいない。

[玄]をキャッチする眼力つまり「1分の緯度差を測定できる眼力」を、人類は食料となる獲物(えもの)を求めて移住生活をしていた先史時代から日々鍛錬して受け継いだ。
 []という字は[(とう)]の下に[(よう)]が加わって構成される。
 下に〔[]の字源・字形解説図〕を示した。
000031
 人類は【本能的に、[](天頂緯度線・天頂点・子午線)をキャッチできる神秘的な呪的(じゅてき)能力の眼力】を有し、そして[]をキャッチする技(わざ)を工夫して磨いた。だから、先史時代から卑弥呼時代まで、人々は1分の精度で緯度を測定できた。この[]をキャッチする眼力をもしも人類が有していなかったならば、人類は密林でおおわれる原始時代や氷と雪でただ一面真っ白な氷河期において全滅していたことになる。
 人類が滅びなかったのは、眼を鍛錬すれば[]をキャッチする能力が本有として頭脳にそなわっていたからである。

◆先史時代から現在まで、伊豆諸島の神津島からは良質の黒曜石(こくようせき)が産出する。黒曜石は火山活動によってできた「黒いガラス」とされ、じょうずに刃をつけると肉切り用の石包丁(いしぼうちょう)や医学用の(女性が出産する時に用いられた)メス(小刀)として用いられ、また鋭利な石斧や戉(まさかり)の刃となり、あるいは石槍(いしやり)や鏃(やじり)などの石器として利用された。
 神津島の黒曜石は良質であったため、関東地方、東海地方、近江(滋賀県)、北陸地方(石川県能登半島)まで分布した。神津島の黒曜石はなんと約3万年前の後期旧石器時代から使用されていたことが明らかとなり、縄文時代、卑弥呼が生存した後期弥生時代においても本土に運ばれて利用されていた。神津島から伊豆半島までは海によって30キロメートル以上も離れていることになり、神津島から石川県能登半島までは直線距離で約400キロメートルも離れている。約3万年前の旧石器人たちは[]をキャッチする能力(眼力)を有していたために海を往来でき、北陸の能登半島などの遠い地から旅した上古の人々も神津島の黒曜石を手に入れることができたのである。
 神津島の黒曜石を求めて海を往来した交通の事実について、学界は世界史上でも最古の海洋航海と注目するが――学界においては、その実態はいまだ謎のベールにつつまれて不明とする。しかし、[]の字源・[]のキャッチを注目すれば、この謎のベールは寸時に消える。
 人類は原始のときから、脳に[]をキャッチして精確に緯度測定できる本能がそなわり、鍛錬すれば1分の緯度差を測定できる神秘的な眼力を有することができたのである。だから、この神秘的な呪力によって、一団を組んで日々食料を求めて移動した原始の生活にあっても、「道に迷った! 位置(緯度)も方角もまったくわからない! 死ぬ!」というようなパニック状態におちいることもなく、人類は天頂にめぐってくる銀河周辺の形状を地理の代わりにして[]をキャッチして緯度と方角を測定してたくましく巧(たく)みに生存したのである。

◆『説文解字』は[]の字源を「至高にして上なし。一大に従ふ」と解説する。この字源解説文は「それ以上の上が無い、天頂緯度線」を意味した。
 したがって、『説文解字』の[]の字源解説は、下の図に示した「天頂点と重なる銀河部位の軌道における最も高い天頂緯度線」を意味した。ヒトが天頂緯度線をキャッチすると、1度の60分の11分の誤差内で精確に緯度が測定できた。だから、倭国の使者と船乗りたちは、1分の誤差内で精確に緯度が測量できる方法の天頂緯度線をキャッチして玄界灘を往来していたことになる。
K571
 上の図の右上に示したように、「最も高い天頂緯度線」は[(とう)]の字源・字義となった。[]の下に[(よう)]を加えると、[]という字になる。
 「[]のキャッチ」と「天頂緯度線のキャッチ」は同義であり、「1分以内の誤差で緯度が精確に測定できる」という意となった。
 下に、「[]の字源解説図と金文形」の図を配した。
K572
 上に示した「天頂点と重なる銀河部位の軌道において、天頂点は【最も南】となる」ゆえ、[]における「天頂点」は「南」となる。
 『説文解字』は[]の下部の[]の字源を「小なり。子の初生の形に象(かたど)る」と解説する。つまり、下の左図に示す「娩出期(べんしゅつき)終わりの母体の臀部(お尻)に顔の正面を向ける出産児」が[]の字源となる。
 「必ず天頂緯度線をキャッチして位置と方位を正確に知り、絶対に道に迷わない」と欲を有すると、[]のキャッチ(天頂緯度線の測定)に失敗して命を失った。[]をキャッチするときの心得は「産道を通過するときの出産児のごとく無欲になれ」であった。ゆえに、[]の字は「天頂緯度線をキャッチするときの心得」をあらわしていた。だから、[]の字は[]の下に[]を加える字となった。[]が成立するためには、[]の心得(産道を通過するときの出産児のごとく無欲になる心得)が不可欠であるゆえ、[][]ということになる。
 中国・朝鮮半島と日本列島の中間にある「玄界灘」という名称は、前述したように「天の北極の高度を緯度に換算する方法だと命を失うが、[]をキャッチする方法ならば1度の60分の11分の誤差内で精確に緯度ができるゆえ命を失わないで往来することができる、波が荒い陸地から遠く離れた海」と意味した。
 他方、原始時代から卑弥呼が生存した3世紀においては、今日の地図において〔北〕の基準となる「天の北極」で緯度と方位を計測すると「天地の緯度が精確に測量できないゆえ、玄界灘を往来することができずに命を失うことになる【死神の座】」であった。ゆえに、「九州を〔西〕と定め、伊豆半島を九州の〔東〕と定める、現在と同じ日本列島地理」を、卑弥呼王朝は制定するはずがなかったことになる。

◆下の図に示す日本列島の西端にある沖ノ島は、日本列島の東端にある伊豆諸島の神津島(こうづしま)は同緯度(北緯3415)である。そして、神津島は沖ノ島から見える地平線より遥かに遠くに所在する。
K202
 卑弥呼は――本土の〔西端〕にある沖ノ島の方位を時計まわりに90度転回して本土の〔北端〕にあると定め、本土の〔東端〕にある神津島の方位を時計まわりに90度転回して〔南端〕と定理すれば、【倉頡が創った[]の字源・字形・字義】が成立することに、気づいた。
 それゆえ、百余国に分かれる国や邑(むら)が互いに攻撃しあう戦乱を鎮(しず)めるために、卑弥呼は――いつまでも戦乱状態にいると《益氏が日本列島に定住して【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸と精密地図作製方法の学芸】をひろめた後期縄文時代初頭以後から晩期縄文時代までの約千年もの長いあいだ、続いた日照りと冷害と同じ神罰》を天地の鬼神(かみ)が与えるにちがいないと警告することにしたのである。
 〔注 後期縄文時代初頭から晩期縄文時代までの日照りと冷害の神罰については、前々回のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・5回」にて詳細に解説した。〕
 上記した【神罰】を警告するために――卑弥呼は朝鮮半島にもっとも近い島の北部の地宜を[]の字源「フタコブラクダの姿」に見立て、南部の地宜を[]の字源「フタコブラクダの足跡の形」に見立てて、この南北の島の小国名を「対馬」と定めた。また、対馬国の南に所在する島の西端の地宜を[]の字源「フタコブラクダの姿」に見立て、その東側の大半の地宜を[]の字源「ジャコウウシの姿」に相似すると見立てた。ゆえに、[][]は【倉頡が発明した漢字作成理論】、言いかえると「十字の銀河の子宮」を象徴する聖獣であり、「一大」の語源は「十字の銀河の子宮」であるゆえ、この島の小国名を卑弥呼は「一大」と定めた。そして、卑弥呼は対馬国と一大国の中間の海を「瀚海(かんかい)」と名づけた。この「瀚海」によって、一大国の南の「玄界灘」は「厳寒の氷と雪で凍()てつく凍土・ツンドラ地帯」に見立てられることになった。卑弥呼が頭にひらめいた「瀚海(ゴビ沙漠)」の発想によって、黄帝の居住地から見える地平線上にあらわれるジャコウウシの大群が餌場(えさば)に犇(ひし)めいて押し寄せる凍土・ツンドラ地帯の厳寒状況が蘇ることになった。また「瀚海」は「日照りが続く炎熱の大沙漠(ゴビ沙漠)」でもあった。ゆえに、大乱を続ける人々に卑弥呼は【かつて後期縄文時代から晩期縄文時代まで千年も続いた日照りと冷害で苦しんだ歴史】を蘇らせて、【厳しい神罰の恐怖】を植え付けることになったのである。
 西暦180年頃の倭国の大乱では、呪力(じゅりょく)が強い巫女()が魔女となって天地の鬼神(かみ)に祈って自軍の呪的(じゅてき)な戦力を増大させ・敵の呪的な戦力を奪って、戦いがおこなわれていた。その証拠に、中国の漢代では、「媚蠱(びこ)と呼ばれる巫女が、自軍の呪的戦力を増大させ・敵の呪的な戦力を奪って戦争をおこなっていた。卑弥呼は大乱の百余国の巫女たちをたばねる最高位の女王であった。だから、戦乱状態の百余国の戦いの先頭に立って勝利祈願する魔女(巫女・婢)たちに、卑弥呼は【(1)[][][]の字源をあらわす沖ノ島・神津島を基軸とする転回本土地理と(2)対馬国・瀚海・一大国の地理】を提唱して、これ以上大乱を続けておると鬼神は厳しい神罰を下すにちがいないと警告した。
 【卑弥呼が提唱した対馬国・瀚海・一大国の地理】は【後期縄文時代から晩期縄文時代までの日照りと冷害の神罰】をあらわすことになった。ゆえに、百余国の魔女たちは未曾有(みぞう)の大災害を想像して恐れおののき、また自らに厳しい神罰がくだされて死が与えられるにちがいないと恐れたため、魔女たちは戦争終結を切望するようになった。一方、王はじめ男たちは魔女無しで戦うことは自軍が呪的戦力を失って滅亡するにちがいないという恐怖におそわれることになり、さらに魔女はじめ巫女たちが戦争終結を熱心に説得するため、結局、戦争終結を決意することになった。だから、卑弥呼は倭国の大乱を鎮静化することができたのである。

[]の下に[]の字(「女体に相似する、十字の銀河」)が加わって[()]の字が作られた。「十字の銀河」は「人体の形」に相似するゆえ、人偏に旁(つくり)部が[]が加わる[]の字も作られた。[][]は、[]の字源・字義をそのまま受け継ぐことになった。このため、[][]の字源は「時計回りに方位が90度転回する規定。つまり北→東・東→南・南→西・西→北」をあらわすことになった。
 倭国の大乱が終結すると、わが国の最初の「国家」が誕生し、国家名は「倭人国」と定められ、倭国の大乱を鎮めた一女子(巫女王)が倭人国を統治することになって「卑弥呼」と呼ばれることになった。
 ゆえに、『魏志倭人伝』は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り。山島に依()りて国邑(こくゆう)を為()す。旧(もと)百余国。漢の時、朝見する者有り。今、使訳(しやく)通ずる所三十国なり」という文から始まる。そして、『魏志倭人伝』は対馬国から狗奴(くな)国までの倭人国の三十ヵ国について説明する。
 だから、互いに攻撃しあって大乱する百余国に、卑弥呼は【(1)[][][]の字源をあらわす沖ノ島・神津島の同緯度線を基軸とする転回本土地理と(2)対馬国・瀚海・一大国の地理】を提示して戦乱を鎮めて、倭人国を創設して大乱の旧百余国を三十ヵ国に整備したことになる。
 したがって、『魏志倭人伝』の「倭人国は、帯方の東南、大海の中に在り」という冒頭記事は「日本列島の本土・九州の末盧(まつろ)国以下の方位規定は、[]の字源・字義に則(のっと)って時計回りに90度転回して、本土の〔西〕となる九州は〔北〕と定め、本土の〔東〕にある静岡県の伊豆半島は〔南〕に配置する転回本土地理を、卑弥呼王朝は制定していた」と説明していたことになる。
 前述したように、日本列島の西端(現在の方位規定)にある九州の玄界灘に浮かぶ沖ノ島と日本列島の東端(現在の方位規定)にある神津島(こうづしま)は同緯度である。この同緯度は、原始のときから卑弥呼時代まで人々が「いのちあってのものだね」の【命をまもる方法、つまり[]のキャッチ】で測定できたことになる。
 下に示すように、「神津島の地宜」は“漢字の発明者”と崇拝された倉頡(そうきつ)が「銀河から作られた全漢字が生まれる子宮」と定めた「十字の銀河の子宮の形」に見立てられた。
000032
 ゆえに、下に配した〔卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理の図〕に示したように――現在の地図における日本列島の〔西端〕にある沖ノ島は時計回りに90度転回して〔北端〕と化()り、現在地図における日本列島の〔東端〕にある神津島は時計回りに90度転回して〔沖ノ島の真南〕に位置することになり、卑弥呼が統治することになった「西日本の地理」は[]の字源・字形・字義をあらわすことになった。だから、卑弥呼王朝は国家名を「倭人国」と定めた。
K195
◆中国では紀元前1世紀にシナ天文学が完成して、当時の「北極星のこぐま座β星」を「太一(たいいつ)」と名づけてもっとも重視するようになった。けれども、紀元前1世紀以前の中国は【倉頡が発明した漢字作成理論】にもとづいて「十字の銀河」・「十字の銀河の子宮」をもっとも重視していたのである。その証拠に、紀元前3世紀に生存した方士の徐福(じょふく)と童(どう)男女たち(若き青年男女たち)一行は玄界灘を横断して日本列島に定住した。この徐福一行の子孫が居住した地域について、『後漢書(ごかんじょ)』倭伝の末部は「卑弥呼が生存した後期弥生時代には倭人国に隣接する東方(東日本)に所在して二十余国から構成され、東鯷人(とうていじん)国と呼ばれていた」と記述する。
 中国では紀元前1世紀以降に[]をキャッチする習慣が廃(すた)れたゆえ、4世紀になると中国の人々は日本列島に移住することができなくなった。しかし、その後において正史『後魏書』が成立した6世紀半ばにおいても、【倉頡が発明した漢字作成方法の、[][]の方位規定による地理の考え方】は残っていた。
 その証拠に、上田正昭・直木孝次郎・森浩一・松本清張編集委員『ゼミナール日本古代史 上 邪馬臺国を中心に』(光文社発行)において直木孝次郎教授が執筆した『邪馬臺国の位置論』は次のごとく――明治の学者の内藤湖南は、中国の古書では方向をいうとき、東を南とかね、西と北とをかねるのはふつうのことであると、『後魏書』の勿吉(ぶつきつ)伝に東南を東北に記していることをあげる――と指摘している。このように、6世紀半ばにおいても、中国では「東を南とかね、西と北とかねる[]または[]の方位が90度転回する規定の習慣が存続され、「東南」を「東北」と記した[]の方位規定が残っていた。
 わが国では738(天平10)に聖武(しょうむ)天皇がシナ天文を取り入れて全国に国郡図改正の命令を下した。ゆえに、[]をキャッチする航法と習慣に疑惑・不信を抱く人々が多数あらわれるようになった。そして、遣唐使船の乗組員たちも[]をキャッチする方法に疑いを抱き自信を失うようになった。このため、遣唐使船による玄界灘の往来は危険視されるようになって、894(寛平6)に遣唐使の派遣は廃止された。しかし、[]のキャッチによって精確に1分以内の誤差で緯度が測量できた事実にもとづいて、[]のキャッチを信頼する山林で生活する山人族等、あるいは少数の海人族によって[]のキャッチする習慣は廃絶(はいぜつ)されずに、新井白石が生存した18世紀になっても脈々と受け継がれていた。
 だから、卑弥呼が生存した時代は「いのちあってのものだね」ということで、「命」がいちばん大事であったから、「死」が約束される【天の北極・北極星】で緯度や方位を測量するはずがなかった。当時は、緯度と方位は【[]をキャッチする方法】で測定されていたのである。したがって、沖ノ島から遥かに遠い神津島までの地域の地理は「観測地点から見える地平線より外界となる遠くの地域まで地理」までとなったため、その方位規定は「[][]の字源に則って、90度転回する」と立論された、学問上の定説であったのである。

◆「いのち()」が保証される【[]のキャッチ】の基(もと)[][][]の「時計回りに90度方位が転回する方位規定」と、[]の「逆時計回りに90度方位が転回する方位規定」が成立した。だから、【天の北極がある方角を〔北〕と定めるシナ天文】が確立された以後においても、上記したように、中国でもわが国でも[][][][]の方位規定は脈々と受け継がれて残ることになったのである。
 中国ではシナ天文が完成した紀元前1世紀より以前、わが国ではシナ天文を取り入れた738年より以前において――人々がたくましく生き長らえていくために「命」が保障される方法は原始のときからの習慣である【[]のキャッチ】であった。
 【[]のキャッチ】が「命」を保障するものであった事実について、『老子』の第一章が証言している。『老子』は、紀元前54世紀頃に生存した、孔子と並んで有名な中国の思想家・老子の教えを説く書物である。
 『老子』の第一章の書き下し文は、下記のごとくである。
 「道の道とすべきは常の道に非(あら)ず。名の名とすべきは常の名に非ず。天地の始めには名は無し。万物の母にして名が有り。常に無欲にして以(もっ)て其の妙を観()、常に有欲(ゆうよく)にして以てその皦(きょう)を観る。此の両者は、同じく出でて名を異にし、同じく之(これ)を玄と謂う。玄の又(また)玄、衆妙(しゅうみょう)の門」
 上に記した『老子』第一章を現代語に訳すると次のごとくなる。
 〔世の常の知識として(つまり常識的に)言うと「道」は「人が行き来する、地上にある道路」ということになるが、「ほんとうの道」は「天、言いかえると銀河が輝く天頂」に存在し、詳しくいうと「ほんとうの道」は「人が大海や遠くの地に旅する時に測定した天頂緯度と子午線が貫通した銀河部」であった。常識的に言うと「名」は「物につけられた名称」ということになるが、「ほんとうの名」は「漢字が作られた銀河各部の形状」であった。ゆえに、天地が始まった時には名は無かったが、黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が「妊婦の姿に似る十字の銀河」を「万物の母、つまり万物の名をあらわす文字が生まれる母」と定めた時から、万物の名が存在することになった。「ほんとうの道」となった「天頂緯度線と子午線」は[]と名づけられ、大海や遠くの地に旅するときに、産道するときの出産児のごとくに無欲になれば「妙、つまり神秘的・不可思議な眼の呪力(じゅりょく)」によって[]をキャッチできたが、「必ず[]をキャッチするぞ」と欲を有すると「皦(きょう)、つまり旅の途中で道に迷って死に絶えて風雨に晒(さら)される白骨死体」となった。[][]の両者の字源は同一銀河部であるが、その両者の名は「生」と「死」をあらわして異なる意味となった。しかし、「生きる」の[]と「死ぬ」の[]に両者は分かれるものの、両者は所謂(いわゆる)「生と死のどちらにも意味する[]」と一致することになった。そして、神が人類に「命」を与える[]とは、何とも不可思議な呪力なのであろうか! というのも、[]を測量するとき、天頂にある[]は一気に天頂から降下して測量する人物の眼前に[]の形となって又(また)存在する! このはるか遠くの天頂と測量する人の眼前・近くに形成される、この「玄の又(また)玄、すなわち遠い玄と眼前近くにできる二つの玄」は「衆妙な門」つまり「衆(万民)の命をまもる妙なる(不可思議な)門」を作れば出現する。〕
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 上に図示したように、衆(人々)は「門」の原形となった装置を作って[]をキャッチした。この装置だと、天頂にある[]は天頂にも存在し、また天頂から一気に降下して[]をキャッチせんとする仕掛けの横木・横糸に合体するため、測量する人物の眼前に又(また)[]が存在することになる。だから、老子は「天頂の[]と、測量する人物の眼前に見える[]」を「玄の又(また)玄」と表現したのである。
 『老子』第一章に登場する「万物の母にして名が有り」という文は、【倉頡が発明した漢字作成理論】を意味した。というのも、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が前回(6)まで毎回のごとく解説し証明したように、倉頡は中国各地の天頂にめぐってきた「女体・妊婦の姿に観える、十字の銀河」を「夏の銀河(文字作成銀河)各部の形状から作ったすべての文字が生まれる母体」と定めたからである。ゆえに、「万物の母」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を意味することになった。
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 「十字の銀河」は中国全域の各地にめぐってきたゆえ、【[](天頂緯度線と子午線)をキャッチする、もっとも基本的・代表的な羅針盤】となった。
 だから、『老子』第一章は「精確に1分以内の誤差で測定できる[]をキャッチする方法を羅針盤にして、人々は命をまもって生きていた」と証言していることになる。

◆『老子』第一章が伝えているように――卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ばまで)においては、倭の使者と船乗りたちは玄界灘を[]をキャッチして往来し、卑弥呼王朝は[]のキャッチの基(もと)に成立した【倉頡が発明した漢字作成理論】と【夏音文字の学芸】を政権基盤とし、そして人民たちは[]をキャッチして日々の暮らしを立てていたことになる。
 上記したように、倭国の使者たちは玄界灘を往来できたがために、魏王朝は倭国の様子を知ることができて『魏志倭人伝』が著作されることになった。ゆえに、『魏志倭人伝』が実際に存在する書物であったという、この事実を証明するためには、倭国の使者たちが玄界灘を往来できたことが絶対条件となる。
 にもかかわらず、九州説と畿内説を主張する学者たちは「倭の使者たちは[]をキャッチして玄界灘を往来した」とは考えない。ゆえに、九州説と畿内説の考えだと、倭の使者たちは天の北極の高度を緯度に換算する航法で玄界灘を往来したことになるが――この航法では、倭の使者たちは命を失って往来できなかったことになる。ゆえに、九州説と畿内説の考えだと『魏志倭人伝』はこの世に存在しなかった書物となるゆえ、「邪馬台国」と呼ばれる地域もまったく存在しなかったことになる。
 以上のごとく、【天の北極や北極星座がある方角を〔北〕と定める、現在と同じ日本地図】に則(のっと)って立論する九州説と畿内説は正真正銘(しょうしんしょうめい)の空理空論・デタラメ・詐偽であったことになる。
 〔緯度の測定〕の視点にもとづいて考えれば、即座に邪馬台国説は空理空論であったと断定できる。にもかかわらず、新井白石以来約300年という長い年月を費やしても、いまだに学者たちは邪馬台国説が空理空論であることに気づかない。このような完全に空理空論である邪馬台国説にメディアも同調する。
 したがって、学者たちとメディアは、日本人が絶対に失ってはならない・決して無くしてはならない・なんびとにも排除されてはいけない・なんびとにも奪われてはいけない、『魏志倭人伝』に記述された日本人の命と魂の根源、日本の国家基盤、日本の学問基盤、日本の文化基盤などを排除し愚弄(ぐろう)し侮辱していることになる。
 だから、邪馬台国説は日本学問史における最大・最悪の空理空論であり、日本人の命と魂を愚弄する、日本人にとって最悪・最大の災いであり、日本人が最も蔑視すべき空理空論ということになる。

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