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2021年2月 6日 (土)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・5

▼江戸時代中期に生存した学者・新井白石(1657-1725)は、はじめ邪馬台国は大和にあると考え、晩年には邪馬台国は九州にあったと考えた。ゆえに「白石の近畿説と九州説によって、はじめて邪馬台国問題に学問的検討が加えられた」ということで――学者たちとマスメディアは白石の邪馬台国説を根拠・理由そして精神的バックボーン(信念)にして、吉野ケ里遺跡による九州説と纏向(まくむく)遺跡による畿内説のどちらかの意見で邪馬台国説は決着することができるとデマを蔓延(まんえん)させ、『魏志倭人伝』は邪馬台国の位置を決定するために存在する歴史史料であると思い込ませて日本国民を騙(だま)そうとしている。
 しかし、九州説と畿内説は約2000字で構成される『魏志倭人伝』の全記事と1字も関係しないウソ八百・フェイク・デマである。ゆえに、わが国のアカデミズム(学界)とジャーナリズムは「日本国を台無しにする空理空論の九州説と畿内説」に支配されている。「日本国に台無しにする」の「台無し」という語を「邪馬台国」にあてはめると[台]の字が無い「邪馬(やま)国」となる。『魏志倭人伝』は「邪馬国は旧国の大和、現在の奈良県であった。ついでに述べるが、邪馬台国なんて国は存在しなかった。卑弥呼は居住していた王国の名は邪馬壱(やまい)国であり、邪馬壱国は旧国の石見・出雲・伯耆、現在の島根県と鳥取県の西部であった」と証言している。
 要するに、前回のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・4回」で詳細に解説し証明したように――約2000字で構成される『魏志倭人伝』は約55パーセント・約1100字の記事で《約50000年前の中国の五帝時代初頭の黄帝時代に【倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】を詳細に伝える世界史的に第一級の歴史史料》であった。だから、学者たちやメディアが一生懸命に日本国民を騙そうとする九州説と畿内説は『魏志倭人伝』と1字も関係しない空理空論・ウソ八百・デマであったのである


★「倭人国の地理学」のトリセツ・14

◆前回のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・4回」で詳細に解説して証明したように――『魏志倭人伝』にある(1)「対馬国の南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」と(2)「倭国には牛と馬が無い(生息していない)」という二つの記事を注目すると、九州説と畿内説は100パーセント空理空論であることが半日で容易に簡単に証明することができる。
 学者たちは新井白石が近畿説と九州説をとなえて以来約300年も空理空論の呪縛(じゅばく)にからめとられて思考停止していている。上記した『魏志倭人伝』に登場する二つの記事を注目すれば、『魏志倭人伝』は1ヵ所も【誤読】を加える必要がない正確無比の史料であり、九州説と畿内説は空理空論・フェイク・サギであったことがわずか半日で証明される。
 『魏志倭人伝』に登場する[]の字源は「倭国の一大国(現在の長崎県北部の壱岐)の地宜」にて証明できる「ジャコウウシ」である。また、[]の字源は「倭国の対馬国(現在の長崎県北部の対馬)の地宜」で証明できる「フタコブラクダ」である。この字源の秘密は、前回のブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・4回」で解説して証明した。
 今回のブログのテーマも[]の字源は明確に「フタコブラクダ」であった事実の証明である。また、「瀚海・ゴビ沙漠は凍土地帯(ツンドラ地帯)と化して、ジャコウウシの大群が瀚海(ゴビ沙漠)を縦断して南へ前進して黄帝の居住地近くの餌場(えさば)まで出現していた、約5000年前の厳寒の大気が凍てつく壮麗な光景」が「日本列島の東北地方の北端の地宜」で再現できたことを証明する。この「東北地方の北端の地宜と光景」に則(のっと)って、『魏志倭人伝』は「対馬国の南一海を渡る千余里、名づけて瀚海と曰()う。一大国に至る」と記述し、「倭国には[]のジャコウウシと[]のフタコブラクダは生息していない」と伝えていたのである。

◆上記したように、『魏志倭人伝』は「対馬国と一大国の中間の海は、瀚海であった」と記述する。「瀚海」は「モンゴルにあるゴビ沙漠、つまり《沙漠の船》といわれるフタコブラクダが棲むゴビ沙漠」である。
 「対馬国」は「現在の長崎県の北部にある上県(かみあがた)と下県(しもあがた)に分かれる対馬」である。「一大国」は「長崎県の北部にある壱岐島」である。
 下に、「対馬国・瀚海・一大国の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)」を配した。
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 現在の地図では、「対馬と壱岐の中間の海」は「東水道」で「瀚海」ではない。ゆえに、当然、学者たちマスメディアは「対馬国と一大国の中間に、なんで瀚海が存在するのだ」とびっくり魂(たま)げて思わず「なんじゃ! これは?」と疑問を抱かなければならないのであるが、新井白石以来約300年間、学者たちは「瀚海」の2文字についてまったく疑問を抱かない。だから、学者たちとマスメディアは「瀚海」を注目すれば半日で簡単に容易に察知できる九州説と畿内説が空理空論・フェイク・詐欺(サギ)であることに気づかない。
 前回のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・4回」でおこなったように、「瀚海」の2文字によって九州説と畿内説は空理空論であったことが科学的に証明される。というのも、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は「邪馬台国」とはイッサイガッサイまったく無関係で、「紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、名門益(えき)氏が中国から日本列島の男鹿・米代川縄文文化圏へ移住して【倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論と夏音(かおん)文字の学芸】と【正確な中国海岸線の地図と精密地図作製方法】を伝えた。これらの中国における当時最高級の学芸は、前期縄文時代から後期縄文時代初頭までの約2000年間にわたって、〈夏の銀河の各部の形状〉をモデルにして土器・土偶を作った伝統を受け継いだ芸術家によって習得された」と詳細に伝えていた歴史書であったからである。
 『魏志倭人伝』には「古(いにしえ)より以来、倭の使者が中国に到着すると、皆自らを大夫と称した」という記事がある。万葉仮名の「大夫」は「ますらを」と読み、「ますらを」を今日「益荒男」と表記する。「益荒男」は「益氏の王子(天祖)と若者同様に、玄界灘を征服して中国に到着した」という歴史に由来して、倭の使者たちは皆が皆「大夫」と称したのである。だから、益氏の王子と若者たちは玄界灘を横断して日本海沿岸を北へ進んで東北地方の男鹿・米代川縄文文化圏に定住して、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音(かおん)文字の学芸】と【正確な中国海岸線の地図と精密地図作製方法】を伝えたことになる。

◆今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)は「女性の生殖器官と子どもの出産」を研究した。ゆえに、黄帝につかえる史官・倉頡の役目は黄帝の医学研究をあらわすことができる文字を【「夏の銀河の各部の形状」から作る理論と方法】を発明することになった。上記したように、わが国における縄文時代の土器と土偶も【夏の銀河の各部の形状】から作られたゆえ、縄文の土器・土偶を作った芸術家によって益氏の王子と若者たちがもたらした学芸が習得された。「夏の銀河」とは「夏の全星座が漬()かる銀河」である。
 上に示した「対馬国・瀚海・一大国の地宜」をもって、西暦180年頃に生存した卑弥呼は【(1)倉頡が発明した漢字作成理論と、(2)夏音文字の学芸と、〔3〕益氏がもたらした精密地図作製方法】をあらわす地理論」を提唱して、西日本全域にひろがる戦乱を鎮めた。
 倉頡が発明した漢字作成理論は「鳥獣の足跡」と呼称された。倉頡は「黄帝の〈女性の生殖器と子どもの出産〉の医学研究」を象徴する聖獣を「フタコブラクダとジャコウウシ」と定めた。言いかえると、「フタコブラクダとジャコウウシ」は【倉頡した発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」】を象徴する聖獣であった。
 []の字源「フタコブラクダ」は瀚海・ゴビ沙漠に住む人々にとって欠くことができない大切な家畜である。
 []の「ジャコウウシ」は秋から冬になると瀚海・ゴビ沙漠から南下して凍土地帯・ツンドラ地帯と化した南の毛烏素(ムウス)沙漠を横断し、さらに南の黄帝が居住した地域近くの餌場(えさば)まで1組百頭以上のジャコウウシが犇め(ひし)く群れが幾組からなる大群となって凍てつく寒風とともに出現した。このジャコウウシの大群の光景をもって、卑弥呼は「(1)対馬国の地宜、(2)「瀚海」という「ゴビ沙漠」、(3)一大国の地宜、(4)「玄界灘」という海の名称」で表現して、倭国の大乱を鎮めたのである。

◆わが国に定住した名門益氏は、五帝時代の最後の帝王の舜(しゅん)の時代に「正確な中国
海岸線地図を作製する[()]という重職」を任命され、五帝時代の舜帝代末まで代々約200年間も[]の職に従事していた。ゆえに、後期縄文時代初頭から約2250年後の卑弥呼が倭国の大乱を鎮めた180年頃には、益氏がもたらした精密地図作製方法によって倭地のおける各地の地宜(平面的に図化した地図の形)が解明されていたことになる。
 ただし、各地の地宜は、倉頡が「漢字は夏の銀河から作られた秘密を暴露した者はその一族全員に厳しい神罰が下って即刻に命を失う(死刑に処せられる)」と定めた「神罰()」をもって、暴露すると即座に死刑とされた厳重な機密であった。ゆえに、各地の地宜史料は出土しないことになった。しかし、前期弥生時代から出土する銅鐸と武器型遺物の銅剣・銅矛・銅戈(どうか)は益氏が伝えた精密地図作製方法に使用された測量器具であった。前期弥生時代以後、各地で《銅鐸と銅剣・銅矛・銅戈を用いて[(とう)]つまり「天頂緯度と子午線」を測量して経緯度原点地を設定し、さらに土地三角測量をおこなって正確な地宜、つまり精密地図》が作製された。だから、卑弥呼が倭国の大乱を鎮めた後期弥生時代の180年頃――対馬国の上県の地宜は[]の字源の「フタコブラクダの姿」、下県の地宜は「フタコブラクダの足跡」に相似する。一大国の地宜は「遠くの地に見える[]の字源「フタコブラクダの姿」と、近くの地に見える[]の字源「ジャコウウシの姿」が合体する形となること――を、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学問と精密地図作製方法の学芸】の最高権威者であった巫女界(ふじょかい)をたばねる卑弥呼は諸国の巫女たちから各国の地宜を収集して、倭国の大乱を鎮めたのである。つまり、【倉頡が発明した漢字作成理論】は【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」をあらわす文字の作成理論】であったゆえ、巫女たちにとって最も学習意欲が湧く問題であった。さらに、『魏志倭人伝』は「倭の卜占に用いる辞(文字とことば)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり殷代後半に用いられた甲骨文字のごとくであった」と記述するものであったゆえ、卜占に従事する巫女たちは【倉頡が発明した漢字作成理論】に精通し、大乱地域の各地の地宜がどのような字をあらわすかを調べて卜占する時に利用していた。したがって、巫女たちは【益氏が伝えた精密地図作製方法と大乱地域一帯の各地の地宜があらわす文字】にも精通する学識者であったゆえ、巫女たちを束ねる最高権威者の卑弥呼は大乱地域の各地の地宜を収集して倭国の大乱を鎮めることができたのである。
 下に示すように、《対馬の上県の地宜は[]の字源「フタコブラクダの姿」に相似し、下県の地宜は「フタコブラクダの足跡」に相似する》と見立てられた。したがって、〈[]の字源「フタコブラクダの姿と足跡との地宜の一対」となるゆえ、「上県・下県」の小国名は「一対」の[][]が加わる「対馬国」となった。
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 下に示すように「一大国(壱岐)の地宜」は「遠くに見えるフタコブラクダの姿と、近くに観える[]の字源のジャコウウシの姿」の形となる。
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◆前回のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・4回」で指摘したように、黄帝が研究した「女性の生殖器の側身形」は「水鳥の側身形」に相似すると見立てられた。
 ゆえに、「水鳥」の「鳥」と「獣のフタコブラクダ・ジャコウウシ」と上に示した「対馬国の下県の地宜が似るフタコブラクダの足跡」によって、上に示した「対馬国・瀚海・一大は【黄帝の女性生殖器と子どもの出産の研究】言いかえると【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」】をあらわした。
 約2000字で構成される『魏志倭人伝』に記述された【倭人国】という国名と【名称不明の1ヵ国を含む34の小国の説明と小国名】は、【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」】を今日に伝えていた。『魏志倭人伝』は「卑弥呼王朝の政権基盤は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸と、そして益氏が伝えた精密地図作製方法】であった」と、約55パーセント・約1100字で説明する歴史書であったのである。
 このような重大な歴史書を新井白石(16571725)は強引に単純化して、「邪馬壱(やまい)国」を「邪馬台国」と誤読し、「邪馬台」を強引に「やまと」と読んで、最初に「邪馬台国は大和であった」ととなえ、晩年に「邪馬台国は筑後の山門(やまと)」であったとする空論をとなえた。
 しかし、新井白石のデタラメ・インチキ説、つまり「邪馬台」を「やまと」と読む意見に反して、『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した王国は「邪馬壱(やまい)国」であったと記している。新井白石以来約300年間、『魏志倭人伝』は不正確な史料とされて学者たちに様々な【誤読や主観的推論】が加えられてきたが――学者たちの考え方は根本的に誤っていて、『魏志倭人伝』は1ヵ所も誤記が存在しない正確無比の史料であった。
 だから、デタラメ・インチキ説をとなえた新井白石の意見にしたがう学者たちとメディアが太鼓判を押す九州説と畿内説の実体は『魏志倭人伝』の記事と1ヵ所も合致しない空理空論・フェイク・デマであったのである。
 『魏志倭人伝』は約55パーセント・約1100字の記事をもって、新井白石が【誤読】という方法で不明にしてしまった《後期縄文時代初頭に益氏がもたらした【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」】》を伝えていたのである。その証拠に、『魏志倭人伝』は――卑弥呼は対馬国と一大国の中間の海の名を「瀚海」と定めて【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」】をあらわして、倭国の大乱を鎮めた――と説明していたのである。

◆前回のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・4回」で解説したように――“夏の始祖”の帝禹()の後を継いだ帝益の孫の王子と若者たちは、帝禹が首都と定めた「会計(今日の中華人民共和国の首都の北京)と帝禹の政治を補佐する益が住んだ「会稽(かいけい/中華人民共和国の3直轄市の一つ)」と同緯度の、下に示す東北地方における男鹿・米代川縄文文化圏に定住した。
 益氏の王子と若者たちが男鹿・米代川縄文文化圏に定住した時は、紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の夏代(かだい)初頭、わが国の後期縄文時代初頭であった。
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 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・3回」で解説したように、「益氏の王子と若者たちの日本列島定住史」について『日本書紀』巻第三・神武天皇紀の初頭部は――天祖の彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)一行は天のいわくらを開き、雲路をおしわけて、先払いをたてて新天地(男鹿・米代川縄文文化圏)に鴻(おおとり)が荒野に舞い降りて棲みつくがごとく定住された。このとき、この新天地から東日本一帯までは野蛮で草深い学問が存在しない未開地であった。このような状況にありながら、みずから正しい【漢字を作成する学問と芸術】を新天地の人々に教え養って、日本列島の東北地方における西の偏(ほとり/八郎潟の東岸地域)に居住して治めた――と説明する。
 上の記事に登場する「天祖の彦火瓊瓊杵尊」は「益氏の王子」であった。
 下の図に示すように、天祖・益氏の王子一行は「八郎潟」を「黄帝が研究した、女性生殖器・子宮」に見立てて、「船越水道」を「産道」に見立てた。
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 だから、天祖一行は現在の秋田県山本郡三種(みたね)町の琴丘(ことおか)町鹿渡(かど)に居住したと推定される。前述したように「子宮・産道・卵管・卵巣などで組織される女性生殖器の側身形」は「水鳥の側身形」に相似すると見立てられた。ゆえに、天祖は「八郎潟」を「水鳥と子宮の側身形」と見立てた。だから「八郎潟」は「鴻」に見立てられ、天祖一行の定住地(八郎潟東岸)一帯は[荒]の字義「荒野」に見立てられたことになる。ゆえに、『日本書紀』は「天祖一行が居住した地域」を「鴻が舞い降りて棲みつく荒野」ということで「鴻荒」と記す。「八郎潟」を「子宮」と見立て、「船越水道」を「産道」と見立てると「八郎潟・船越水道」は「入江」の[江]のをあらわす。「子宮・産道の側身形」は「鳥(水鳥)の側身形」に見立てられたゆえ、[鳥]となる。だから[江]に[鳥]が加わると[鴻]の字となるゆえ、「鴻荒」と記された天祖一行の定住地は「八郎潟東岸の琴丘町鹿度」であったと推定される。
 上の図に示したように、「船越水道の入口」は「産道の膣口(ちつこう)」に相当する。「琴丘町鹿度」は「膣口・船越水道の入口」から経度軸に対して角度が29度の邪(なな)めとなる線上に所在する。
 「船越水道と八郎潟が連結する岸辺」は「産道の子宮口(しきゅうこう)」に相当する。
 「子宮口に相当する岸辺」から夏至の日の出の方角(29度)に、花輪(はなわ)盆地の一画には後期縄文時代初頭の「国の特別史跡・大湯環状列石遺構(おおゆかんじょうれっせきいこう)」が所在する。
 「子宮口に相当する岸辺」から天頂にめぐってくる銀河部が地平線上にあらわれる45度の方角には、鷹巣(たかのす)盆地の一画に後期縄文時代初頭の国指定史跡「伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡」(秋田県北秋田市脇神字伊勢堂岱)が所在する。
 なお、前記した『日本書紀』巻第三・神武天皇紀初頭にある「益氏の日本列島定住史」には難解な文章が続き、諸々の本を参考にすると「その後、天祖とその天祖をついだ尊(みこと)たちは、神ひじりのように徳高く、善政をかさね、恩沢もゆきとどき、かくして年月が経過した」と解釈される記事が追加されている。
 ゆえに、上の記事の解釈にもとづくと、天祖(帝益の孫の王子)の子の時代に伊勢堂岱遺跡が設営され、天祖の孫の時代に大湯環状列石遺構が設営されたと考えられる。
 なお注目すべきは、司馬遷著『史記』陳杞世家は「帝王となった益氏の子孫は、中国のどこに封ぜられか不明である。史伝に記載されていないからである」と記述する。“夏の始祖”帝禹(う)の後を継いだ帝益(えき)の後継者である、孫の王子と若者たちは日本列島に定住した。このため、名門益氏は中国の歴史から消えたのである。

◆「産道の子宮口に相当する、船越水道と八郎潟が連結する岸辺」から夏の日の出の方角に「国の特別史跡・大湯環状列石遺構」所在する。
 「大湯環状列石遺構」は「産道の子宮口に相当する、船越水道と八郎潟が連結する岸辺」から「夏至の日の出の方角」をもって、つまり「夏至の日の出=夏」と連想して【夏音文字の学芸施設】であると察知する仕組みとなる。
 大湯環状列石遺構が所在する盆地は「花弁がめしべを中心にして輪状にならぶ菊の花の側身形」に相似するゆえ、「花輪盆地」と呼ばれる。ということは、五帝時代最後の帝の舜の時代の初頭から末まで約200年間余り代々〈正確な中国海岸線地図を作製する重職〉の「虞」に従事して【精密地図作製方法】を得意とした名門益氏が男鹿・米代川縄文文化圏に定住して、盆地の地宜を調査測量した結果、「花弁がめしべを中心にして輪状にならぶ花の形」に相似することが明らかになって、「花輪盆地」と名づけられたことになる。
 約200年間、代々「虞」の重職に従事した名門益氏が男鹿・米代川縄文文化圏に定住した証拠に、北秋田市の伊勢堂岱遺跡が所在する盆地は「高い木の上に作る鷹の巣」の形に相似するということで「鷹巣(たかのす)盆地」と名づけられている。
 下の図に示すように、秋田県鹿角市花輪町大湯中通りに所在する大湯環状列石遺構は西側が直径48メートルの万座(まんざ)遺跡、東側は直径42メートルの野中堂(のなかどう)遺跡である。
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 上の図に示すように、野中堂遺跡と万座遺跡には、「日時計組石」と名づけられた特殊組石がある。《野中堂遺跡の中心・日時計組石の中心》と《万座遺跡の中心・日時計組石の中心》を結ぶ線は〈夏至の日没方向(29度)〉を指差す。したがって、〈夏至の日没方向〉は【夏音文字】をあらわすゆえ、国の特別史跡の大湯環状列石遺構は益氏が【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】をひろめるために造った学術施設であったことになる。

◆下の図に示すように、益氏が定住した夏代初頭(後期縄文時代初頭)、北緯40度16分に位置する花輪盆地の天頂に、私が「十字の銀河」と名づけた北部の「花弁が輪状にならぶ花の側身形」に見立てられた銀河がめぐってきた。
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 白川静著『字統』(平凡社発行)は[禾]の字について「年・委など禾下に人の形を加えるものは稲魂(いなだま)を被(かぶ)った舞う男女の姿で、禾穀の象に従う字である」と解説する。同書は[年]の字について「禾と人とに従う。禾は禾形の被(かぶ)りもの、それを被って人が舞う形で、祈年(としごい)のための農耕儀礼を示す字である。また稲魂のような穀霊(こくれい)とみてよく、同じく穀霊に扮して舞う女の姿を委という」と解説する。また、同書は[委]の字について「禾と女とに従う。穀霊に象(かたど)る禾形の作りものを被って舞う女の姿をいう。同じく禾形の作りものを被って舞う男を年というのと、同じ構造法の字であり、男女が稲魂に扮して舞う農耕儀礼を示す」と解説する。さらに、同書は[倭]の字について「委は稲魂を被って舞う女の形」と解説する。
 要するに、白川静著『字統』は[禾][年][委][倭]の字源を「稲魂(いなだま)の冠を被って舞う農耕儀礼を示す人の姿をあらわしている」と解説していることになる。
 上に示した「大湯環状列石遺構と花輪盆地の地宜の図」における右上に配した「夏代初頭の大湯環状列石遺構の天頂緯度線」をあらわす「十字の銀河の北部の、花弁が輪状にならぶ花の側身形の銀河」が、白川静著『字統』の[禾]の字源解説における「舞う男女が頭に被る稲魂の冠」であり、[年]の字源解説における「禾形の被りもの」であり、[委]の字源解説における「稲魂に扮して舞う農耕儀礼を示して舞う男女が穀霊に象る禾形の被りもの(冠)」であったことになる。
 上の「大湯環状列石遺構と花輪盆地の地宜の図」が示すように、「花輪盆地の北部と南部」は「花弁」に相当し、大湯環状列石遺構は「めしべと子房に見立てられた地域(大湯)の中間」に作られた。
 大湯環状列石遺構(北緯40度16分)の天頂には、白川静著『字統』が[禾][年][委][倭]の字源解説で指摘した「十字の銀河の被りもの(冠)の部分」となる、その「被りものにおけるめしべと子房の形に相似する中間の糸のごとく細く縊(くび)れた銀河部」がめぐってきていた。この「糸のごとく細く縊れた銀河部」の「縊れた」という[縊]の字における偏[糸]を欠くと、残る右側の旁(つくり)部は「益」である。したがって、[縊]の初文は[益]であったことになる。
 だから、男鹿・米代川縄文文化圏に定住した益氏は「十字の銀河の被りもの(冠)の部分の糸のごとく細く縊れた銀河部」が「天頂緯度線」となる《北緯40度16分の花輪盆地の地点》、つまり《めしべと子房の中間の細く縊れた銀河部が天頂緯度線(プラス赤緯40度16分)となる地点》に大湯環状列石遺構を築造したことになる。
 だから、大湯環状列石遺構は益氏が設営した【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字と精密地図作製方法をあらわす学術施設】であったことになる。

◆1951年・1952年の国営調査によって検出された大湯環状列石遺構における万座遺跡の東側の外帯配石群(がいたいはいせきぐん)の平面図を下に示した。
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 上の左図は「瞳孔(どうこう)が最大に拡大される時に見える漢字作成銀河図」である(日本天文学会編『新星座早見』/三省堂発行における「漢字作成銀河(夏の銀河)」の形を転載した)。右図の「万座遺跡の東側の外帯配石群の平面図の形」は、左側の「夏の銀河(漢字作成銀河)の形」に類似する。
 だから、万座遺跡の東側の外帯配石群の平面図には漢字作成銀河の面影が現在も残っている。今日まで約4000年もの長い間、時には沢庵石にするため、また踏み台にするため、また庭の石に用いるためにいろいろな人々に持ち出されたであったであろうが、万座遺跡の東端には漢字作成銀河図の面影がいまだ残っている。
 〔注 上の左図における夏の銀河図は、月が出ない新月の暗闇から観察したときの瞳孔径(どうこうけい/瞳孔の直径)が最大に拡大された漢字作成銀河の形を示す。最多の字源をあらわす漢字作成銀河の形状は、新月ではなく、三日月の夜に暗闇から観察した瞳孔径によって見える夏の銀河の各部の形状である。ゆえに、瞳孔径の大小の相違によって、漢字作成銀河の形は変わる。現在は、夜になっても地上灯火が明るいため、日本列島の各地にて漢字作成銀河を見ることができない。しかし、小都市や田舎にて三日月が出る夜間、家々の灯りが遠くにあるこんもりと茂った木陰あるいは崖下となる暗闇から観察すれば漢字作成銀河は見える。〕
 上に示した白川静著『字統』による[禾][年][委][倭]の字源解説によって、益氏は定住した時に、東北地方を「禾地」、または「委地」と名づけたと推定できる。
 だから、約2250年後の卑弥呼は倭国の大乱を鎮めて、益氏の日本列島定住史にもとづいて国家名を「倭人国」と名づけたことになる。
 卑弥呼が大乱を鎮めた180年当時、「虞」の重職に従事した益氏が伝えた【精密地図作製方法】によって、大乱地域であった西日本各地の国や邑(むら)の地宜は花輪盆地・鷹巣盆地と同様に調査測量されていたことになる。この大乱地域における各々の国や邑の地宜を手に入れた卑弥呼は、この国邑の地宜を利用して【倉頡が発明した漢字作成理論をあらわす倭地理】を考案して、諸国に「大乱を続けていれば、厳しい神罰がくだされる」と警告して倭国の大乱を鎮めたことになる。
 他にも、大湯環状列石遺構には「益氏が男鹿・米代川縄文文化圏に定住して、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸と精密地図作製方法】をひろめるために造った学術施設であった」と証明できる確かな証拠が幾つかあるが、これ以上の解説は省略する。

◆下に、「本州北端の瀚海・[馬]の字源地宜の解説図」を示した。
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 上の八甲田山・岩木山付近より北方の本州北端地図が示すように、「下北半島」を「西に向くフタコブラクダの横顔と首」に見立てると、「夏泊(なつどまり)半島」と「津軽半島」が「フタコブ」に相似する。だから、東北地方の北端の地宜は[馬]の字源「フタコブラクダ」を明確にあらわす。この《東北地方の北端の、[馬]の字源「フタコブラクダ」の地宜》における「八甲田山・岩木山の緯度線(北緯40度39分)」は「瀚海・ゴビ沙漠の地面」に相当する。このように、「本州北端の瀚海・[馬]の字源地宜」は「瀚海・ゴビ沙漠に設けられた駅で休憩して地面に伏せるフタコブラクダの姿」に相似する。
 縄文時代の津軽半島にある十三湖は現在よりも大きかったと伝えられる。ゆえに、「津軽半島・十三湖」は「必要な水分は背中のコブの脂肪で分解して補給するゆえ、3日間も水を飲まなくても平気とされる、フタコブラクダのコブの能力」をあらわすことになる。
 このように、「本州北端の瀚海・[馬]の字源地宜」によって、益氏はフタコブラクダの姿・大きさ・能力・習性・特徴などを知らない縄文人たちに教えることができた。
 フタコブラクダは〈沙漠の船〉であったゆえ、「ゴビ沙漠」は「瀚海」と[海]の字が付く名称となった。中国大陸における夏国の北端は「北緯41度の渤海の北岸」であったと推定できる。ゆえに、「北緯41度の夏泊半島北端」は「夏国の北端である渤海の北岸」と同緯度となる。だから、「夏王朝」の「夏」に「泊」が加わって、半島名は「夏泊(なつどまり)」となった。つまり、「泊」は「〈沙漠の船〉のフタコブラクダが瀚海の港となる駅に停泊した時の姿の意」をあらわすことになった。
 だから、卑弥呼は「益氏の王子と若者たちの男鹿・米代川縄文文化圏の定住史」に因(ちな)んで、前述したように「現在の長崎県対馬の地宜」を[馬]の字源「フタコブラクダの正面の姿と沙漠に残した足跡の形」に見立てて、「益氏が【倉頡が発明した漢字作成原理と夏音文字の学芸と精密地図作製方法】を広めた歴史」をあらわすようにしたのである。その証拠に、『魏志倭人伝』が記述しているように、卑弥呼は「対馬国と一大国の中間の海」を「フタコブラクダを欠くことができないたいせつな家畜とした人々が住む瀚海(ゴビ沙漠)」と名づけている。

◆下にイラストで示した「遮光器形土偶(しゃこうきかたどぐう)」と呼ばれる土偶は、益氏が男鹿・米代川縄文文化圏に定住した約1000年後から始まる晩期縄文時代に作られた。
 遮光器形土偶は、東北地方から多数出土する。
 下のイラストは、遮光器形土偶の傑作とされる、重要文化財の青森県つがる市(旧西津軽郡木造町)に所在する亀ヶ岡遺跡から出土した34.5センチの土偶図である。むつ市は「フタコブラクダの横顔」に見立てられた「下北半島の北部」に所在する。
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 この土偶は「三角形」の「女陰」を有する「妊婦像」である。
 下に黄帝が研究した「女性の骨盤図」を示した。
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 上に配した「本州最北端の瀚海・[馬]の字源地宜の解説図」における下北半島・夏泊半島・津軽半島で方位される「陸奥湾」は「女性の骨盤の概形」に相似する。だから、遮光器形土偶は妊娠像であった。
 下に「遮光器形土偶の女陰図」を配した。
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 遮光器形土偶の女陰は「三角形」である。[命]の契文(甲骨文字)と金文の字形上部は三角形の[亼(しゅう)]である。ゆえに、「遮光器形土偶の女陰」は「その大部分が骨盤に包まれて、子どもの命をまもる女性の生殖器(中心部が子宮)」をあらわす。また、「遮光器形土偶の三角形の女陰」は益氏が代々約200年間も「虞」という重職に従事して精通していた「精密地図作製方法における土地三角測量の原理」をあらわしている。だから、遮光器形土偶の「三角形の女陰の形」は[亼]と[命]はじめ[令]あるいは[合]などの原初漢字・夏音文字の伝来を示し、黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産の研究」をあらわすために倉頡が漢字を発明した秘密を伝えていることになる。
 遮光器形土偶の特色の一つは、顔面のほとんどを占めるほどに大きな円形の両目である。
 「遮光器形土器の両目」は【1】「大湯環状列石における円環の形・円形の野中堂と万座の両遺跡」を表現していることになる。また「遮光器」と土偶名がつけられたように、その両目は【2】「万座遺跡の東側の外帯配石群の平面図の形は明るい光が両目(視界)に入るのを遮断して瞳孔径が最大に拡大する、新月の夜に真っ暗な場所から観察すれば見える」とあらわしていることになる。ゆえに、「(1)両目のレンズ状曲面の中央に刻まれる直径が[一]の字となる沈線(ちんせん)」と、(2)円形の枠取り」は「瞳孔径は観測場所の明暗の条件によって(1)拡大・(2)縮小する仕組み」をあらわしている。また、(3)「両目中央の直径[一]の字の沈線」は「1度の60分の1の1分以内に精確に緯度差を測定できる天頂緯度線」をあらわしている。さらに、この土偶の両目は【3】「フクロウ類の目の大きな目」のイメージとなるゆえ、「フクロウ類の目」をあらわしているにちがいない。フクロウ類の目は、人間の暗所での視力の限界よりも10分の1~100分に1の暗さでも判別できるというすぐれた視力を有する。ふつうの鳥は、目を閉じるときは下まぶたで閉じるが、フクロウ類の目は上下とも動く。さらに、フクロウ類の角膜は凸レンズのごとく凸形をしているゆえ、遮光器形土偶の凸レンズ状曲面に合致する。

◆遮光器形土偶の「両腕と一本足の形」は「ブナ科の常緑高木の椎(しい)の果実はじめ、ブナ科のアラカシ、シラカシ、アカガシ、ミズナラ、コナラ等の果実の形」に相似する。椎の子葉はクリのように炒って食べ、また生でも食べることができる。椎の花は甘く強い香りを放つ虫媒花である。したがって、「椎の花の香」は「ジャコウウシの麝香」に見立てられたことになる。
 下に、娩出期(べんしゅつき)終わりの時の、母体の臀部(お尻)を正面にして頭が誕生した出産児の姿の図を配した。
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 「遮光器形土偶の背面形における一本足」は「下北半島」をあらわすゆえ、「遮光器形土偶の一本足」は、この土偶が出土した「むつ市と亀ヶ岡遺跡」をあらわす。また、イラストで示した「土偶の正面形のおける一本足」は「津軽半島」をあらわす仕組みとなる。
 遮光器形土偶の幅広(はばひろ)の胴体(体躯)は、益氏が説明した[牛]の字源「ジャコウウシ」と[馬]の字源「フタコブラクダ」の重量感あふれる胴体の特長の伝承を、晩期縄文人が想像して造形したと推定される。
 つまり、「遮光器形土偶の胴体を包む着衣」は「肉が食用となり、毛皮は防寒着・織物に用いられたジャコウウシの身体を包む、暗褐色の毛足が長いウールのコート」をあらわしているにちがいない。また、「フタコブラクダの乳は飲料に適し、肉は食用になり、毛皮は織物に用いられた」ゆえ、「遮光器形土偶の胴体の文様」は「フタコブラクダ」をも表現するものだったにちがいない。
 遮光器形土偶が着る毛皮にほどこされた「渦巻き文様」は、益氏が日本列島に定住する約1100年前の中期縄文時代中葉(紀元前3200年頃)の土器にすでにデザインされていた。
 ということは、中期縄文時代中葉の「渦巻き文様」は、藤井旭著『透視版 星座アルバム』(誠文堂新光社発行)が「わが銀河系の中心方向にむらがる無数の星と、入り乱れる星間物質が、わきあがる入道雲のような迫力にみちた姿でせまる」と表現するものであったことになる。このように、「銀河の中心(銀河系の中心)の周辺の銀河は入道雲のように渦巻く」。
 だから、「遮光器形土偶の胸部左右の二つの渦巻き文様と腹部左右二つの大きな渦巻き文様」は「入道雲」をあらわしているにちがいない。
 下に、「銀河の中心(銀河系宇宙の中心方向)に群がる無数の星と星間物質が入道雲のように渦を巻く写真」と「銀河の中心の各部の名称図」を配した。
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 「乾坤(けんこん)」という語は「天地」を意味する。
 「乾坤」の[坤]の偏の[土]は「地」を意味し、旁部の[申(しん)]は「電光つまり稲妻」を意味した。ゆえに、[坤]は「入道雲が天高く立ち登り、一転して天空にわかに曇って雷鳴轟き雨が降って、大地に生える草木の命が蘇るジャコウウシが生息する、厳寒の凍土地帯(ツンドラ地帯)」をあらわした。
 ゆえに、「入道雲」をあらわす「遮光器形土偶の胸部左右の二つの渦巻き文様と腹部左右二つの大きな渦巻き文様」は「乾坤」の[坤]をあらわしたことになる。
 「乾坤」の[乾]は「フタコブラクダが生息する乾燥地帯の瀚海(ゴビ沙漠)」をあらわす。
 前述したように、「北緯40度39分の八甲田山・岩木山より北側の陸奥湾を包囲する下北半島・夏泊半島・津軽半島の地宜」は「フタコブラクダが瀚海に設営された港(駅)で休憩して伏せる姿」に酷似する。

◆司馬遷著『史記』五帝本紀は「黄帝軍は円陣を組んで自衛して駐屯した(師兵をもって営衛となす)。官名はみな〈雲〉と名づけて命じて、それぞれの官の長を〈雲師(うんし)〉といった。左右の大監(たいかん)をおいて万国を監督させた。その結果、万国は和同した。天下が和同すると、黄帝は天地山川の鬼神をまつった」と記述する。
 上に示した「入道雲のごとく渦巻く銀河の中心方向の写真」は[雲]の初文の[云]の字源銀河・字形銀河・字義銀河であった。ゆえに、黄帝は[云=雲]の字源「銀河の中心方向の銀河」にもとづいて、官名を「雲(云)」と名づけ、官の長を「雲師(云師)」と名づけたことになる。
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 上記の記事が示すように、「天敵のオオカミに襲われると、子どもを真ん中に隠して群れは円陣を組むジャコウウシの生態」を見習って、黄帝軍は駐屯するときに円陣を組んだことになる。ゆえに、官名の〈云(雲)〉は「銀河の中心(銀河系の中心)の周辺の入道雲のように渦を巻く銀河」と「入道雲」をあらわすものであったことになる。
 また、「入道雲」をあらわす「渦巻き文様」が左右に分かれてほどこされる「遮光器形土偶における胸部の左右と腹部の左右」は「黄帝が万国を監督させた左右の大監」にちなんだデザインであったにちがいない。
 上記したように、黄帝は「鬼神」をまつっていた。
 だから、「遮光器形土偶」は「黄帝がまつった」という「鬼神」を造形するものであったことになる。
 学者たちは「縄文時代に作られた土偶が故意に壊されたり、妊婦を表現するものが多いのは、再生や子孫の繁栄、五穀豊穣を祈るためである」と指摘する。
 だから、妊婦を表現する遮光器形土偶の「一本足」は「片方の足を壊して、乾坤(天地)の鬼神に再生や子孫の繁栄、そして五穀豊穣の祈願」を表現するものであったことになる。
 遮光器土偶の「女陰の三角形」は漢字の[亼(しゅう)]をあらわすゆえ、[亼]を有する[令]をあらわし、「凍土」の気候「冷たい」をあらわすことになる。というのも、前述したように、遮光器形土偶が着る衣はジャコウウシとフタコブラクダの毛皮であるゆえ、この土偶の「三角形の女陰」は「氷」をあらわす偏「二水」に旁(つくり)部[令]を加える[冷]の字をあらわして「冷たく凍てつく凍土地帯(ツンドラ地帯)」を表現している。
 また、遮光器形土偶の背面の腰には「大きな巴文(ともえもん)」がほどこされ、背中にも「小さな巴文」が幾つか刻まれている。『説文解字』は「巴文」の[巴]の字源を「蟲なり。或いは曰く、象を食う蛇なりと。象形」と指摘し、「大きな象を食う蛇」と解説する。象は暑い地域に生息するゆえ、「暑い地に棲む象を食う蛇」は「冷害」を表現していることになる。その証拠に、ジャコウウシは冷たい厳寒の凍土地帯に生息する。だから、遮光器形土偶の背中の「巴文」は「冷害」をあらわしていたことになる。
 遮光器形土偶の「一本足」は「フタコブラクダの顔に見立てられた下北半島と、フタコブラクダのコブに見立てられた津軽半島」をあらわしている。したがって、この土偶の「一本足」は「旱魃(かんばつ/日照り)が続いたため、水が飲めなくてコブを一つ失ったフタコブラクダ」を表現している。だから、この土偶の「一本足」は「旱魃・日照りの災害」をあらわすことになる。遮光器形土偶は顔面のほとんどを大きな目が占めて、「へ」の字にきざまれる口が小さいのは「日照りが続いて、水が飲めない」を表現するものとなる。フタコブラクダは降雨量が少ない乾燥地帯の沙漠に棲む。だから、この土偶の胸部と腹部にほどこされる「四つの入道雲」は「日照りが続く、天の鬼神よ、雨が降るを祈る」という願望をあらわしていることになる。

◆益氏の王子と若者たちが男鹿・米代川縄文文化圏に定住した後期縄文時代初頭は、「旱魃と冷害のダブルパンチの時代」であったのである。
 だから、遮光器形土偶は〈「旱魃と冷害」を表現する妊婦像〉であったことになる。
 佐々木高明著『日本史誕生』(集英社発行)は「縄文時代中期の中ごろ以降、気候はしだいに冷涼になり、縄文時代晩期(三〇〇〇年前ごろ)には、現在よりも平均気温が一度ほども低くなる。」と指摘する。
 だから、益氏が東北地方に定住した今から約4000年前の後期縄文時代初頭から遮光器形土偶が作られた晩期縄文時代初頭までは、【冷害と日照りのダブルパンチの災害時代】であったのである。ゆえに、後期縄文時代初頭から晩期縄文時代初頭までは、現在の新型コロナ感染拡大よりもはるかに深刻な暗黒時代であり、多数の死人からの病原菌によって疫病が流行し感染拡大して、人口が激減した恐怖時代であったことになる。
 遮光器形土偶は「益氏が定住した後期縄文時代初頭から遮光器形土偶が作られた晩期縄文時代初頭までは、日照りと冷害が続いて多数の人々が餓死した深刻な禍(わざわい)に見舞われた恐怖時代であった」と表現していたのである。
 このブログにおいて「大湯環状列石と花輪盆地の地宜」を示す右上に配した「後期縄文時代初頭(夏代初頭)の大湯環状列石遺構の天頂緯度線」を示した「十字の銀河の上半身と花の組織」をあらわす図を、下の上図に示した。
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 上の上側の図は「花輪盆地の東・西」に合致するように銀河図の定式を180度転回して「右東・左西の形式図」である。
 上に示した下側の図は銀河図の定式に則る「右西・左東の形式図」である。
 上に示す上図のおける「花の組織図」における「子房」の部分は、下の図では「稲魂」と「ドングリ(ブナ科のミズナラの果実)」の形に観える。
 上の下側の図に示したように、北緯40度16分の大湯環状列石遺構の天頂緯度線より南の「花の組織における子房」は「稲魂(いなだま)の冠」と「ドングリ」に相似すると見立てられたことになる。
 前記したように、白川静著『字統』は[禾][年][委][倭]の4字は「稲魂の冠を被って舞う農耕儀礼を示す人(男女)の姿をあらわしている」と解説する。
 大湯環状列石遺構の天頂緯度線は「稲魂」をあらわした。その「稲魂」は「ドングリ」の形にも相似する。
 遮光器形土偶の「両腕と一本足」は【「花の子房」・「稲魂の冠」・「ドングリ」】の形に相似する。
 「冷害と日照りの災害」によって、ブナ・コナラ・ミズナラなどのブナ科の森林が枯れた。熊の餌はブナ・コナラ・ミズナラの果実である。秋になると、熊はミズナラの果実、つまりドングリの実をたくさん食べる。ゆえに、当時はドングリの実が不足したため、東北地方から関東地方までの森林に棲む動物の頂点に位置した飢えた熊が人里を襲ったにちがいない。したがって、遮光器形土偶の胴体は、「飢えた熊」をも表現する鬼神像であったことになる。

◆再度、下に「対馬国・瀚海・一大国」の図を示した。
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 前回のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・4回」にて詳細に解説して証明したように、卑弥呼は「対馬国の地宜」を「フタコブラクダの姿とフタコブラクダの足底の形」に、「一大国」を「遠くのフタコブラクダの姿と近くのジャコウウシの姿」に見立てた。
 卑弥呼は《益氏が定住して【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸と精密地図作製方法】をひろめた歴史》を示すために、「長崎県の対馬」を「フタコブラクダの姿と足跡の形」に見立てて「対馬国」と名づけ、「長崎県の壱岐」を「遠くのフタコブラクダと近くのジャコウウシの姿」に見立てて「一大国」と名づけ、「対馬と壱岐の中間の海」を「瀚海」と名づけることにしたのである。

卑弥呼は「対馬国・瀚海・一大国」と名付けたのは、倭国の大乱を鎮めるための方策であった。つまり、卑弥呼は、下に示す「益氏が定住した東北地方北部の地宜と遮光器形土偶」が秘める「冷害と日照りが続いた後期縄文時代初頭から晩期縄文時代までの災いの歴史」を甦(よみがえ)らせて、倭国の大乱を鎮めた。
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 上の東北地方北部に所在する、八甲田山と岩木山が北緯40度39分上に東西に並ぶ。ゆえに、「八甲田山と岩木山の山頂」は「黄帝時代の、冷たい凍土地帯と化した瀚海」をあらわした。したがって、「八甲田山と岩木山」は「冷害」をあらわした。
 「八甲田山」という映画は「1902年(明治35年)に青森の連帯が雪中行事の演習中に、210名中199名が凍死した遭難事件」をあつかった。この映画における「天は我々を見放した」というセリフは、当時の流行語となった。
 199名の兵士たちは、ツンドラ地帯と同様の厳寒の烈風と吹雪に閉ざされて凍死した。だから、「八甲田山と岩木山」は「凍土・ツンドラ地帯」をあらわすことになった。
 「東北地方北端の下北・夏泊・津軽の3半島の地宜」は「炎熱のゴビ沙漠における、厳しい地獄の旱魃(かんばつ)が続く災い」をあらわした。
 倉頡はみずから発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、この知識を反体制側の人々が手に入れると王朝が容易に崩壊・滅亡すると心配して、三つの掟に違反した者とその一族全員に厳しい神罰が下って即座に死刑に処すると定めた。
 【倉頡が死刑にすると定めた三つの掟】は【1】「文字は夏の銀河の各部の形状から作られたと、容易にわかるように説明して暴露した者とその一族全員を即刻に死刑にする」、【2】「文字を容易に覚えるために、文字作成銀河(夏の銀河)の各部に名称を付けた者とその一族全員も即座に死刑にする」、【3】「書いた文字が用済みになったならば、ただちに文字を消さない者また消し忘れた者もさらにその一族全員も即座に死刑にする」であった。
 上に示した「厳しい炎熱沙漠の日照りと凍てつく厳寒の凍土同様の冷害」をあらわす「本州最北端の陸奥湾周辺の地宜」は【倉頡が死刑と定めた三つの掟】、つまり「鬼神の厳しい神罰」を具体的に明確に強烈にあらわした。
 ゆえに、わが国における上古・古代において「厳しい神罰」をあらわす【倉頡が死刑と定めた三つの掟】は「後期縄文時代初頭から晩期縄文時代までの、日照りと冷害」で具体的に強烈に明示された。だから、【倉頡が死刑と定めた三つの掟】は厳守されることになった。【倉頡が死刑と定めた三つの掟】は皇室の存続基盤であったゆえ、3世紀後半において大和朝廷の基礎を築いた崇神天皇母子王朝(天照大神王朝)以後に皇室の滅亡を謀る勢力による革命に利用されるのを防ぐために厳重な機密とされたため、「漢字は夏の銀河から作られた事実」が不明となったのである。
 このような3世紀から18世紀までの事情が原因となり――さらに1716年(正徳6)に60歳の新井白石が『古史通或問(こしつうわくもん)』を著作して【誤読】を加えて「邪馬台国は大和であった」と立論し、その後「邪馬台国は九州であった」と提唱した空理空論に学者たちがすっかり心酔して夢中となったため、『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えない考え方で研究する学者が一人もあらわれなくなった。
 だから、『魏志倭人伝』の主なる記事は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸と精密地図作製方法】を説明していることにまったく気づかないことになってしまったのである。

 『魏志倭人伝』は「対馬国の南一海を渡る千余里、名づけて瀚海と曰(い)う。一大国に至る」と記述する。この記事は――卑弥呼王朝は「厳しい神罰」をあらわす【倉頡が死刑と定めた三つの掟】に則って【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学問における精密地宜(地図)作製方法】を政権基盤と定めて、倭人国を治めた歴史――を伝えていたのである。
 東北地方の岩手県花巻市出身の詩人・童話作家であった宮沢賢治は1931年に作った「雨ニモマケズ」という詩で「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケズ (中略) ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロとアルキ 云々」と表現した。1931年・昭和6年当時においても「夏の日照りと冷害」は恐ろしい神罰(自然界による災い)であった。ゆえに、益氏が定住した後期縄文時代初頭においても、卑弥呼が生存した後期弥生時代においても、「日照りと冷害」は「神が厳しく死を与える罰」を明確にあらわすことになったのである。
 卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤とする国家と王朝を創設したため、【倉頡が発明した漢字作成理論】が革命に利用されて国家と王朝が崩壊・滅亡しないために、この学芸知識を国家と王朝が独占管理して厳重に機密を保持すると明示しなければならないことになった。だから、対馬と壱岐の中間の海の名を「瀚海」と定め、「壱岐」の小国名を「一大国」と定め、一大国の南(現在方位)の伊都国には特に一大率(いちだいそつ)が居住して常に伊都国を治めるようにした。このため、一大率は「漢字は銀河から作られた」という秘密や【倉頡が発明した漢字作成理論】を暴露する者たちを取り締まる役職につくことになった。一大率は「後期縄文初頭から晩期縄文初頭までの日照りと冷害」をあらわす「厳しい神罰を下す権限」を有することになった。だから、『魏志倭人伝』は「一大率を置いて諸国を検察せしむ。諸国之(これ)を畏憚(いたん)す」、つまり「一大率は【倉頡が発明した漢字作成理論】の知識を有する諸国の王・女王・巫覡たちを検察することになった。ゆえに、諸国の王や巫覡たちは一大率を非常に畏れた」と伝えていたのである。

 次回のブログでは、『魏志倭人伝』冒頭記事「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」という文における冒頭字[倭]の字に則(のっと)る転回日本列島地理をテーマとする。卑弥呼は「日本列島における本土の〔東〕は時計回りに90度方位が転回して〔南〕へ伸びる」と立論した。この「日本列島における〔東〕は〔南〕へ伸びる」という時計回りに方位が90度転回する転回本土地理は[倭]の字源・字形・字義に合致した。だから、卑弥呼は国家名を「倭人国」と定めた。
 この卑弥呼が立論した転回本土地理論は、『魏志倭人伝』における全12ヵ所の方位記事と合致して1ヵ所も矛盾しないゆえ、【科学】が成立して事実を伝えていたことになる。だから、「日本列島における本土の東方は方位が時計回りに90度転回して南へ伸びる」と説明する『魏志倭人伝』の証言を信用せずに否定する九州説と畿内説は誤読の空理空論であったことになる。
 九州説と畿内説が主張するように、『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した邪馬台国を解明するための歴史書ではなかった。
 ゆえに、九州説や畿内説のごとく『魏志倭人伝』に「この記事は間違っている」と指摘して何ヵ所も【誤読】を加える必要もなく、ましてや九州説と畿内説の合理性を成立させるために幾カ所も【主観的推論】が加える必要もなかったのである。『魏志倭人伝』は1ヵ所も【誤読】や【主観的推論】を加える必要がない正確無比の史料であったのである。
 『魏志倭人伝』は【黄帝が研究した「女性の生殖器と子どもの出産」をあらわす漢字を、倉頡が発明した学芸理論】を伝える世界史的に第一級の重大な歴史書であったのである。

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