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2021年3月 2日 (火)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・8

▼“日本古代史最大の秘密”の『魏志倭人伝』に記述された【歴史、史実】を解明するためには、絶対に〔現在の日本地図〕を用いて思考してはならない。というのも、〔現在の日本地図〕は《天の北極を重視する》からである。もしも倭人国の使者と船乗りたちが《天の北極を重視して、天の北極の高度を緯度(位置)に換算する方法を羅針盤⦆にして〔中国や朝鮮半島に到着するために、玄界灘〕に入ったならば――必ず彼らは〔玄界灘〕を渡ることができず命を失った。したがって、中国では倭人国の様子をまったく知ることができなかったために倭人国の様子についてまったく記述することができなかったことになるゆえ、『魏志倭人伝』は実際に著作されて実在した書物ではなかったことになり、「邪馬台国」も「卑弥呼」もまた実在しなかったことになって一気に空理空論となる。
 だから、『魏志倭人伝』の記事が【歴史、史実】を伝える史料として成立するためには、〔現在の日本地図〕にもとづいて思考することは絶対にしてはならないことになり――要するに、『魏志倭人伝』は〔現在の日本地図〕を使用禁止とする書物であったことになる。
 【緯度を測量する方法】は【(1)[玄](天頂緯度線と子午線)のキャッチ、(2)天の北極の高度を緯度に換算する方法】の二つの方法しか存在しない。そのうち、【[玄]をキャッチする方法】ならば〔玄界灘〕を往来できる。しかし、上記したように、【天の北極の高度を緯度に換算する方法】では〔玄界灘〕を往来することはできない。
 邪馬台国説は【[玄]をキャッチして緯度を測定する方法】に則(のっと)る意見ではない。これゆえ、邪馬台国説は【天の北極の高度を緯度に換算する方法】に則って立論する意見となる。したがって邪馬台国説の考え方に則ると倭人国の使者たちは玄界灘にて全員が命を失うことになったゆえ、中国では『魏志倭人伝』を著作することができなかった、つまりこの世に存在しなかった書物となる。ゆえに、おのずと「邪馬台国」や「卑弥呼」の記事もこの世に実在しなかった絵空事(えそらごと)となる。
 だから、『魏志倭人伝』は【[玄]のキャッチ】に則ってのみ【歴史、史実】を解明することができる書物であった。
 この事実について、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」は前回(7回)で詳細に解説し証明したが――今回も再度要約して解説し証明することにした。


★「倭人国の地理学」のトリセツ・17

◆玄界灘を往来するとき、1度・60分の60分の1となる、1分以内の誤差で測定できる能力、つまり眼力を有していないと命を失った。
 大海を渡るとき、【天の北極が水平線からの高度が緯度】となる。つまり、水平線からの天の北極の高度が3415分ならば、その観測場所の海は北緯3415分となる。
 下に〔黄道(こうどう)の北極を中心にして一周する天の北極の位置図〕を示した。
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 上の図が示すように、天の北極は〔黄道の北極〕を中心にして25,800年で一周する。この〔円周(大円)上における位置〕が〔各時代の天の北極の位置〕となる。すべての時代において、〔「黄道の北極」を中心とする大円〕と重なる北極星は存在しない。だから、すべての時代において〔天の北極〕は〔暗黒の闇(やみ)〕であったゆえ、ヒトが1分の精度で緯度を精確に測量できる北極星は存在しない。
 〔天の北極に最も近づく北極星〕は、紀元前2790年頃の「りゅう座α星」と、現在から約80年後の21世紀末の「こぐま座α星」である。この「二つの北極星」は〔天の北極〕から約45(0.75)離れているゆえ、〔天の北極〕を中心にして直径約90(1.5)の円を描く。人間の目と本能には、90分ほどの直径(距離)で〔天の北極〕を中心にして円を描く「北極星」を測量して〔天の北極の高度を90分の11分以内の誤差〕で精確に測量できる能力はそなわっていなかった。
 したがって、すべての時代、人間の目と本能には〔天の北極の高度を1分以内の誤差で測定できる能力、すなわち玄界灘を往来できる能力〕がそなわっていなかった。
 上の〔黄道の北極を中心にして一周する天の北極の位置図〕の右上に記したように、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の「北極星=こぐま座β星」は〔天の北極〕を中心にして半径約10(600)・直径約20(1200)の円を描いていた。「直径が約1200分の円を描く北極星(こぐま座β星)」で〔天の北極の高度〕を約1200分の11分以内の誤差で精確に測定できる能力を人間は有していない。
 これゆえ、卑弥呼時代、倭の使者はじめ船乗りたちが「北極星」をキャッチして〔天の北極の高度を緯度に換算する方法〕で玄界灘に入ると必ず「命」を失った。
 したがって、もしも倭国の使者と船乗りたちが〔天の北極の高度を緯度に換算する航法〕で大海の玄界灘に入ったならば、結局、彼らは玄界灘を往来できずに命を失ったことになるため、『魏志倭人伝』という書物は著作されず、存在しなかったことになるゆえ「邪馬台国」という地域も「卑弥呼」もこの世に存在しなかったことになる。このような状況下では【歴史、史実】についてまったく立論することができなくなる。

◆「玄界灘」という名称が明確に示すように、「玄界灘」は「[]をキャッチする方法ならば往来できる灘(陸地に遠くて波が荒い海)」であった。したがって、[]をキャッチする方法ならば倭の使節と船乗りたちは「いのち」が保証されて玄界灘を往来できたゆえ、魏と帯方郡に到着できて倭人国は国交を結ぶことができたことになる。ゆえに、【[]をキャッチする航法】にもとづいて立論すれば中国は倭人国の様子を知ることができたことになるので、『魏志倭人伝』は実際に【歴史、史実】を説明する書物であったことになる。
 日本列島の西端には、玄界灘に浮かぶ沖ノ島が在る。日本列島の東端に、伊豆諸島の神津島(こうづしま)が所在する。沖ノ島と神津島は同緯度(北緯3415)である。
 先史時代から現在まで、伊豆諸島の神津島からは良質の黒曜石(こくようせき)が産出する。黒曜石は火山活動によってできた「黒いガラス」とされ、じょうずに刃をつけると肉切り用の石包丁(いしぼうちょう)や医学用の(女性が出産する時に用いられた)メス(小刀)として用いられ、また鋭利な石斧や戉(まさかり)の刃となり、あるいは石槍(いしやり)や鏃(やじり)などの石器として利用された。
 神津島の黒曜石は良質であったため、関東地方、東海地方、近江(滋賀県)、北陸地方(石川県能登半島)まで分布した。神津島の黒曜石はなんと約3万年前の後期旧石器時代から使用されていたことが明らかとなり、縄文時代や卑弥呼が生存した後期弥生時代においても本土に運ばれて利用されていた。神津島から伊豆半島までは海によって30キロメートル以上も離れていることになり、神津島から石川県能登半島までは直線距離で約400キロメートルも離れている。約3万年前の旧石器人たちは[]をキャッチする能力(眼力)を有していたために海を往来でき、北陸の能登半島などの遠い地から旅した上古の人々も神津島の黒曜石を手に入れることができたのである。
 神津島の黒曜石を求めて海を往来した交通の事実について、学界は世界史上でも最古の海洋航海と注目するが――学界においては、その実態はいまだ謎のベールにつつまれて不明とする。しかし、[]のキャッチを注目すれば、この謎のベールは寸時に消える。

◆人類は原始のときから、脳に[]をキャッチして精確に緯度測定できる本能がそなわり、日々習慣にして鍛錬すれば1度の60分の1の、1分の緯度差を測定できる神秘的な眼力を有することができたのである。だから、この神秘的な呪力(じゅりょく)によって、一団を組んで日々食料を求めて眼力を鍛錬しながら移動した原始の生活にあっても、「道に迷った! 位置(緯度)も方角もまったくわからない! 死ぬ!」というようなパニック状態におちいることもなく、人類は天頂にめぐってくる銀河周辺の形状を地理の代わりにして[]をキャッチして緯度と方角を測定してたくましく巧(たく)みに生存したのである。
 “いのちあってのものだね”というように、人間にはさておき、まず“生きている”という命の保障の基(もと)に行動する。“死なない。必ず命が保証される”という確証があり、また確信することができれば、“大海を渡ろうという”という決心がつく。他方、“死ぬにちがいない”という障害があったならば、人は〔大海を渡る旅〕を決断しない。
 20万年前から10万年前までに、ホモ・サピエンス(現生人類)はアフリカの地から地球上の各地へ分散し出したとされる――この時には、【[]をキャッチする本能と眼力】がそなわっていたにちがいない。
 日本列島は四方、大海で囲まれている。ゆえに、石器時代の人々は【[]のキャッチの習慣】によって眼の呪力を日々鍛えて、“死なない。必ずや命が保証される”という確証と経験によって確信できたゆえ、【[]をキャッチする本能と眼力】に命を委(ゆだ)ねて大海を渡って日本列島に居住したことになる。
 だから、『魏志倭人伝』の研究においては、大海を渡って日本列島に居住し始めた人々と同様に、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の倭人国の使者と船乗りたちは【[](天頂緯度線と子午線)をキャッチする方法を羅針盤】にして玄界灘を往来するものであったと考えなければならない。このパラダイム(理論的枠組み)の確立によって、【『魏志倭人伝』に記述された倭人国の様子は史実、歴史を伝えるものであるという事実】が成立する。
 ところが、新井白石(16571725)以来約300年もの長い間、邪馬台国説をとなえる学者たちは『魏志倭人伝』を「玄界灘」の[]の字に則(のっと)ってこそ始めて【歴史、史実】を解明することができる書物として取り扱わない。だから、邪馬台国説は空理空論であったことになる。

[]という字は、[(とう)]の下に[(よう)]の字が加わって成る。
 下に〔[]の字源・字形解明図〕を示した。
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 2世紀初頭に成立した“字書の聖典”と尊重される『説文解字』は[]の字源を「至高にして上なし。一大に従ふ」と解説する。この解説文は「それ以上の上が無い、天頂緯度線」を意味した。したがって、『説文解字』の[]の字源解説は、下の図に示した「天頂点と重なる銀河部位の軌道における最も高い天頂緯度線」を意味した。ヒトが天頂緯度線をキャッチすると、上記したように、1度の60分の11分の誤差内で精確に緯度が測定できた。だから、倭国の使者と船乗りたちは、1分の誤差内で精確に緯度が測量できる方法の天頂緯度線をキャッチして玄界灘を往来していたことになる。
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 上の図の右上に示したように、「最も高い天頂緯度線」は[(とう)]の字源・字義となった。[]の下に[(よう)]を加えると、[]という字になる。
 「[]のキャッチ」と「天頂緯度線のキャッチ」は同義であり、両者は「1分以内の誤差で緯度が精確に測定できる」という意となった。
 下に、「[]の字源解説図と金文形」の図を配した。
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 『説文解字』は[]の下部の[]の字源を「小なり。子の初生の形に象(かたど)る」と解説する。つまり、下の左図に示す「娩出期(べんしゅつき)終わりの母体の臀部(お尻)に顔の正面を向ける出産児」が[]の字源となる。
 「必ず天頂緯度線をキャッチして位置と方位を正確に知り、絶対に道に迷わない」と欲を有すると、[]のキャッチに失敗して命を失った。[]をキャッチするときの心得は「産道を通過する出産児のごとく無心・無欲になれ」であった。ゆえに、[]の字は「天頂緯度線をキャッチするときの心得」をあらわしていた。だから、[]の字は[]の下に[]を加える字となった。[]が成立するためには、[]の心得(産道を通過する出産児のごとく無心・無欲になる心得)が不可欠であるゆえ、[][]ということになる。ゆえに、「[]=天頂緯度線と子午線のキャッチ」は[]の「天頂緯度線をキャッチするには、産道を通過する出産児のごとく無心・無欲になれという心得」が不可欠となるため、「[]のキャッチ」・「[]のキャッチ」・「[天頂緯度線と子午線]のキャッチ」の三者は同義となる。
 中国・朝鮮半島と日本列島の中間にある「玄界灘」という名称は、前述したように「天の北極の高度を緯度に換算する方法だと命を失うが、[]をキャッチする方法ならば1度の60分の11分の誤差内で精確に緯度ができるゆえ命を失わないで往来することができる、波が荒い陸地から遠く離れた海」と意味した。
 他方、卑弥呼が生存した3世紀までにおいて、日本列島の住人たちが今日の地図において〔北〕の基準となる「天の北極」で緯度と方位を計測すると「天地の緯度が精確に測量できないゆえ、玄界灘を往来することができずに命を失うことになる【死神の座】」であった。ゆえに、「九州を〔西〕と定め、伊豆半島を九州の〔東〕と定める、現在と同じ日本列島地理」を、卑弥呼王朝は制定するはずがなかったことになる。

◆石器時代、周囲が大海で囲まれる日本列島に人々が移住を決行したとき、その人々が命を失わずに大海を渡って日本列島に到着できた方法は【[]のキャッチ】のみ一つであった。
 この[]のキャッチによって、日本列島の西端にある沖ノ島と東端にある神津島が同緯度(北緯3415)であると測定できた
 これから始める解説における方位は、現在の日本地図の方位に則(のっと)る。
 中国の北部海岸線地域は冷たい気候区であり、中国の南部海岸線地域は暖かい気候区であるゆえ、〔北冷南暖〕となる。日本列島の西端にある沖ノ島は冬に雪が降る冷たい気候区であるが、日本列島の東端にある亜熱帯の神津島は一年中暖かい気候区であるゆえ、〔西冷東暖〕となる。 西冷東暖〕」の図に示したように――中国の北部海岸線地域と日本列島西端の沖ノ島の気候は共に冷たいゆえ、〔中国の北冷=日本列島の西冷〕となる。中国の南部海岸線地域と日本列島東端の神津島の気候は共に暖かいゆえ、〔中国の南暖=日本列島の東暖〕となる。このように、中国の海岸線地域と日本列島の西端・東端における冷たいと暖かい気候区の共通性を基(もと)に考えると、下に図示したように日本列島は方位が90度転回することになる。
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 だから、卑弥呼は「日本列島の暖かい東端は中国の海岸線地域の暖かい南部の方へのびている」と考えた。
 『魏志倭人伝』の冒頭文は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」である。この冒頭文における最初の[]の字源・原義は「時計回りに90度ずつ方位が転回する規定、つまり北→東・東→南・南→西・西→北となる」であり、[]の字源・字形の原形・原義は「人民の胃袋を食物(五穀)で満たす、五穀豊穣」をあらわした。この[]の字源・字形の原形・原義については、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の前々回(6)にて詳細に解説して証明したとおりである。
 上の図に示したように、日本列島の〔西(西端)〕が〔北(北端)〕に転回し、日本列島の〔東(東端)〕が〔南(南端)〕となる本土地理における方位規定は、方位が時計まわりに90度転回することになって、[]の字源・字形の原形・原義に合致する。ゆえに、卑弥呼は国名を「人民の胃袋を食物で満たす、五穀豊穣」という政治スローガンをあらわす「倭人国」と定めた。
 『魏志倭人伝』の「本土・九州の末盧(まつろ)国の記事」から以後の後半の「裸()国・黒歯(こくし)国が有り、また其の東南に在りて船行一年にして参問至るべき。倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」という文までの記事は、日本列島における本土の地理についての説明となる。
 この本土地理の説明記事には、全部で12カ所の方位が記される。この全12カ所の方位記事は、〈同緯度の沖ノ島と神津島の〔西冷東暖の気候区〕〉によって成立した《[]の字源となった時計まわりに90度転回する方位規定》に1ヵ所も矛盾せず不合理な点もなく、すべて合致する。

◆中国の五経の第一に挙げられる古典『易経(えききょう)』の繋辞上伝(けいじじょうでん)にある〔易における中国国土地宜〕についての説明は、下記のごとくである。
 「易は天地に準(なぞら)う。故に能()く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観()、俯してもって地理を察す。」
 高田真治・後藤基巳訳者『易経()(岩波書店発行)は、上記の【弥綸】という語について「つくろいおさめる、洩れなく包(つつ)みこむ」という意味であると注釈する。
 上記した〔易における中国国土地宜〕の説明記事を、現代語に訳すると次のごとくなる。
 ――易では、[]のキャッチによる天(天頂緯度線)が示す緯度と地(天頂緯度線をキャッチする人の観測地点)の緯度は同一数値(同数)であらわした。この天頂緯度線の緯度数に観測地点の緯度数が準(なぞら)[]のキャッチの法則によって、中国国土の各地の天頂にめぐってくる「オス鹿の角(つの)に似る銀河」の形に準(なぞら)えて、中国の「廟島(びょうとう)列島と山東半島の地宜(ちぎ)」は「オス鹿の角と横顔の形」に相似する。また[]の字源地宜となった「廟島列島・山東半島より南部の海岸線」は「オス鹿の胴体・足」に見立てられて、【弥綸】という語をあらわした。【弥綸】という語にある先頭字の[]の字源となった「カンムリカイツブリが両翼をひろげて空を飛ぶ姿に相似する海岸線」は中国の全国土を洩れなく包みこむ。この[]の字源における南の翼となる海岸線は途中の長江口で凹(へこ)み、さらに南でまた[]の字源「水面上に浮く鳰(にお/カイツブリ)の形」となって凹み綻(ほころ)む。しかし、さらに南になると、カンムリカイツブリの翼の形の海岸線はつくろいおさまって、中国南部の国土を包みこむ。ゆえに、【弥綸】という語は「中国の海岸線は途中で乱れるもつくろいおさまって、中国全土を洩れなく包みこむ」と意味することになった。

 前述した[]の字源銀河「オス鹿の角の銀河」は中国全土の各地に天頂にめぐってくる。だから、中国の各地を旅する時に【[]、つまり天頂緯度線と子午線のキャッチ】は緯度(位置)と方位を精確に測定できる羅針盤となったゆえ、[]の字源・字形・字義となった。
 したがって、【天文】つまり[][]の字源そして[]の字源における「オス鹿の角」に見立てられた「十字の銀河」は中国全土の天頂にめぐってくるゆえ、「十字の銀河」が天頂にめぐってきた時に各地点で仰いで【[](天頂緯度と子午線)]】をキャッチすれば、俯して地理となる地宜(平面的に図化した地図の形)が察(あきらか)となった。

◆上記した『易経』繋辞上伝にある〔易における中国国土地宜〕の説明文の現代語訳における注釈について逐一解説すると下記のごとくなる。
 []の字について、『説文解字』は「蜥易(せきえき)なり、つまりトカゲ」であると解説する。内田亨著作者代表『原色現代科学大事典 5――動物Ⅱ』(学習研究社発行)は「トカゲには、かならずもとのすみかにもどるという帰家性がある」と指摘する。人間にとっての「トカゲのごとくの、大海や遠い地へ旅した人々が家族が待つ家へ帰還できる帰家性の能力」は【[]をキャッチできる本能と眼力】であった。ゆえに、[]の字源・字義は「[]のキャッチ」であったことになる。
 下に「[]の字源銀河と金文形」による図を配した。[]の偏の之繞(しんにょう)[]の字源であり、[]の字形は「東西と南北の道路が交わる十字路」をあらわしている。というのも、[]の字源銀河は[]の字形のうちの「オス鹿の角の部分」だけであるからである。結局、[]の字源・字形・字義は「十字路の形となる、十字の銀河」ということになる。
K251
 下に[]の字源地宜となった「廟島列島と山東半島の地宜」の図を配した。「廟島半島」が「オス鹿の角」に見立てられ、「山東半島」が「鹿の横顔」に見立てられた。したがって、「山東半島より南部の海岸線」は「オス鹿の胴体と足」に見立てられたことになる。
K252
 上の図の左側に、[]の正字[]を配した。
 []の「三水偏」は、「中国の代表的な河川の水は西から東へ流れて、海へとそそぐ状況」をあらわす。[]の旁(つくり)部は、最上部が[鹿]の最上部の形となり、中央は[]の中央部の形となり、最下部に[]が加わる。つまり、最上部の[鹿]の最上部の形は、『易経』繋辞上伝の〔易における中国国土地宜〕の現代語訳で説明した、[]の字源地宜の「オス鹿の横顔とその姿に相似する、廟島半島、山東半島とその南の中国の海岸線」をあらわしている。また、中央部の[]の中央部の形は、【弥綸】という語における[]の字源「カンムリカイツブリの長江口の北岸までの海岸線」、つまり「鳥の姿に相似する海岸線」をあらわしている。というのも「長江口の北岸から杭州湾の南岸までの海岸線」は「凹みほころぶ海岸線」であるから、【弥綸】という語に適合しないからである。そして、最下部の[][]の字源地宜「オス鹿の横顔に似る、廟島列島と山東半島の海岸線」と、[]の字源「両翼をひろげて空を飛ぶ鳥(カンムリカイツブリ)の姿に似る長江口の北岸までの海岸線」の形は、「鹿と鳥が、大海がある東へ向かって去る姿に観える」とあらわしていることになる。
K245
 上の図における「杭州湾(こうしゅうわん)」は[]の「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線の途中の凹み綻(ほころ)ぶ部分」となる。
 “字書の聖典”と尊重された『説文解字』は、[]の字源を「息を外()くなり」と解説する。この字源解説は――上の図における「山東半島」を「人の頭髪」に見立て、「山東半島南部の海岸線」を「人の額(ひたい)から鼻にかけての横顔」に見立て、「長江口」を「鼻の孔」に見立て、「杭州湾」を「人の口」に見立てて――「人の口に似る杭州湾から息を外()く」と解説するものであった。要するに、『説文解字』は「杭州湾」は「人が息をはく口」に似ていると見立てて、[]の字源地宜は「杭州湾である」と解説していることになる。
 下に配した「鳰(にお/カイツブリ)の姿に似る杭州湾」の図において、「杭州湾」には「銭塘江(せんとうこう)の河口から水が杭州湾へ吐()き出される」ゆえ、「杭州湾」は[]の字源となった。
S131
 上の図に示すように、「杭州湾の地宜」は「水面上に浮かぶ鳰の姿」に相似すると見立てられた。鳰は水草の茎を支柱として、水面に草の葉や茎で浮かぶ巣をつくる。これゆえ、上の図における「河口から杭州市までの銭塘江の岸」は「鳰のくちばし」に見立てられ、「杭州市」は「鳰がくちばしに銜(くわ)える巣の支柱とする水草の茎」、つまり「水草の茎」は「杭」に相当すると見立てられた。だから、「鳰が巣の支柱となる杭(水草ぼ茎)を嘴(くちばし)でくわえる箇所に相当する土地」の名は「杭州」となった。
 この結果、「杭州湾」と「鳰」は共に[]の字源となった。
 上記した『易経』繋辞上伝の〔易占における中国国土地宜〕つまり「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線」の注釈説明は、ここまでで終了する。

◆これから、「卑弥呼」という名の由来について解説する。
 これまで幾度となく説明した、漢字の字源・字形・字義となった「地宜(ちぎ)」は「平面的に図化した地図の形」を意味した。
 ゆえに、「地宜となる境界線において、国境となる海抜1000メートルを越える高い山」も「海抜0メートル」と定義されたことになる。
 この「地宜における境界線はすべて高低差を無くして、海抜0メートルと定める」という定義が[]の字源・原義であった。ゆえに、[]の字義は「海抜0メートル」にもとづいて「低い土地」であり、「卑湿」という語は「土地が低くて湿気の多いこと」を意味した。
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 だから、上の図に示す「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線」は[]の字源・原義をあらわした。[]の字源は「カンムリカイツブリの頭に見立てられた山東半島の根元から北へあるいは南へと伸びる、空を飛ぶカンムリカイツブリの両翼の海岸線。そのうち、山東半島より南部の海岸線は長江口の北岸まで」ということになる。というのも、前述したように、「長江口北岸から杭州湾南岸まで海岸線」は「凹み綻(ほころ)ぶ箇所」であるゆえ、[]の字源地宜ではないからである。上記したように、[]の字源は、もちろん、「杭州湾」である。
 前述した「〔北冷南暖〕の中国海岸線図」は、上に示した〔中国全土を弥綸(びりん)する海岸線図〕である。つまり、「〔北冷南暖〕の中国全土を弥綸する海岸線」は[][][]3字の字源と字義をあらわした。
 『魏志倭人伝』が「倭国の大乱を鎮めた一女子」と記述した女性は、【中国の海岸線地帯の〔北冷南暖〕の気候と日本列島の西端の沖ノ島・東端の神津島の〔西冷東暖〕の気候】が合理となるように、【方位を時計回り90度転回した規定にもとづく転回本土地理】を立論して倭国の大乱を鎮めた。だから、「日本本土地理は[]の字源・原義をあらわす」ととなえた一女子の立論基盤となった「中国の海岸線地域の地宜」が[][][]3字の字源・原義をあらわすゆえ、彼女は「卑弥呼」という名で呼ばれることになったのである。

◆前述したように、「海抜0メートルと定義した、中国の海岸線」は[]の字源・原義であった。ところが、121(建光元)に後漢の安帝に献上された『説文解字』は[]の字について「賤(いや)しきものなり」と解説する。つまり、『説文解字』における[]の字の解説は字源・原義を失った転義であったことになる。
 だから、『魏志倭人伝』には「魏都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる楷書と、倭女王卑弥呼が文書に用いる漢字は差錯(ささく/相違)していた」という記事がある。
 また、『魏志倭人伝』は「倭人国の易に用いられる辞(ことばと文字)は、令亀(れいき)の法のごとく、つまり紀元前1300年頃から始まる殷代後半に亀の甲羅に文字を刻んだ甲骨文字のごとくであった」と記述する。
 というのも、わが国が最初に漢字を習得したのは、紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)であったからである。このときには、〔五帝時代に用いられた書契(わが国では「刻木」と呼んだ)と夏音文字〕が習得された。この原初漢字の字源・字形の原形・原義は、下に示す【天文学で通称「夏の銀河」と呼ばれる銀河各部の形状】であった。この「夏の銀河」を、私は「文字作成銀河」と呼称する。
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 後期縄文時代初頭に習得した原初漢字の字音は、楷書を音記号に用いて『魏志倭人伝』、『隋書』倭国伝、『古事記』上巻、『万葉集』などに記されて残っている。
 だから、上記した『魏志倭人伝』の「わが国には甲骨文字のごとき原初漢字があった」、「倭人国の卑弥呼が文書に用いる文字は、魏都・帯方郡・諸韓国の文書に用いる楷書と相違した」という二つの記事は事実を伝えていたのである。
 「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読むと、紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の中国における夏代(かだい/夏后時代)初頭、わが国の後期縄文時代初頭に習得した「夏音(かおん)文字の漢字音」となる。一方、中国における現存する最古の漢字音は紀元前1046年から始まる西周時代の「上古音」である。中国の上古音で「卑弥呼」は「ピミカ」となる。
 下に配した「漢字生長史」に示したように、わが国に残っている原初漢字・夏音文字の字音は現存する中国の最古の字音よりも約1000年前の漢字音である。
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 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目は、「わが国の漢字音」と題して、下記のごとく指摘する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 音韻史研究によって、中国において現存する最古の漢字音は、上記した「漢字生長史」に示したように、紀元前1046年から始まる周代初頭の「上古音」である。しかし、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残っているわが国の漢字音は、白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する、後期縄文時代初頭に習得した夏音文字の漢字音であった(注 五帝時代の書契の漢字音も含むにちがいない)
 以上のごとく、学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と主張する絶対的定説は音韻史研究による【科学】に反する空理空論であったのである。

◆わが国には、中国に現存する最古の漢字音「上古音」よりも約1000年前の紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の夏代初頭の夏音文字の漢字音が『魏志倭人伝』、『隋書』倭国伝、『古事記』上巻、『万葉集』に多数残っている。
 そして、『魏志倭人伝』に記載された34ヵ国の小国名によって、五帝時代の書契(わが国では「刻木」という)と夏音文字の字源・字形・字義は上に示した「文字作成銀河(夏の銀河)各部の形状であったという事実」が【科学】が成立して証明される。
 「銀河」の別名は「銀漢」であり、「銀漢から作られた文字」であるゆえ「漢字」と中国でもわが国でも呼称されることになったのである――この【科学】が成立して明確に証明できる真実を、新井白石以来300年もの間、学者たちは空理空論の邪馬台国説をもって『魏志倭人伝』に記述された【銀漢から作られた漢字の起源の歴史】を削除(さくじょ)・排除しつづけている。
 『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読(文献批判)】を加えなければ、【銀漢から作られた漢字の起源の歴史】は「わが日本人の命と魂の尊厳」となったことが明白となる。
 学界が推奨する邪馬台国説は【[]のキャッチ】に則れば簡単明瞭に詐偽・空理空論であったと断定できた。この詐偽をもって300年間の長きにも及んで、学者たちは「日本人と日本国という人格の尊厳」を徹底的に踏みにじる冤罪(えんざい)を犯していたのである。

◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の3回・4回で詳細に解説して証明したように、わが国が最初に漢字を習得したのは紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)であった。この時、【倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】と、【夏音文字の学芸と、正確な中国海岸地図と精密地図作製方法】をも、わが国は習得した。この事実は『魏志』倭人伝に書き記された34ヵ国の小国記事によって【科学】が成立して解明され証明することができた。
 漢字は紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡によって発明された。
 五帝時代が終わると夏后(かこう)時代となった。“夏()の始祖”と呼ばれた帝王は禹()であった。帝禹の後を継いで帝となったのが、益(えき)帝であった。益氏は五帝時代の最後の舜(しゅん)帝の時代から200年間余も、代々「虞()」という重職に就いて【正確な中国海岸線地図の作成事業】に従事した。このため、益氏は【五帝時代から夏代初頭まで約1000年間に及んで研究し進歩させ確立された精密地図作製方法】について精通していた。
 この帝益の孫の王子と若者たち一行は、『日本書紀』巻第三の神武天皇紀初頭にある天祖(てんそ/名門益氏の孫の王子)説話が説明しているように――日本列島の男鹿半島・米代川(よねしろがわ)縄文文化圏に定住して【(1)倉頡が発明した漢字作成理論と(2)夏音文字の学芸と(3)正確な中国海岸線地図と(4)精密地図作製方法】を教え広めた。
 この帝益の孫の王子(天祖)と若者たちが養成した【(1)倉頡が発明した漢字作成理論と(2)夏音文字の学芸と(3)正確な中国海岸線地図と(4)精密地図作製方法】は、上記したように『魏志倭人伝』の対馬国から黒歯国まで34小国の記事となって説明されている。
 前述したように、邪馬台国説は【[]のキャッチ】に則れば12分で空理空論であると証明される。ゆえに、300年間にも及ぶ邪馬台国説は空理空論をもって、「日本人と日本国という人格の尊厳」を踏みにじる冤罪(えんざい)を犯していることになる。
 つまり、【[]のキャッチ】に則れば即座に空理空論であると断定できる邪馬台国説は、殺人を犯していない無実の人を死刑にした冤罪事件に見立てて考えてみる必要がある。邪馬台国説学者たちは【誤読】を一ヵ所も必要でない正確無比の『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加えて冤罪、つまり事実に背く虚偽を捏造(ねつぞう)した。しかも、この冤罪にまったく気づかない学界とメディアは、邪馬台国説が捏造した冤罪に加担して事実・真実に目を背(そむ)けている。この冤罪は、新井白石以後300年もの長い間続いている。「全記事が正確で【虚偽】という誤りを一ヵ所も犯していない『魏志倭人伝』」を「無実の一人の人間」と見立てると、邪馬台国説学者たちが『魏志倭人伝』へ与えた仕打ちは「無実の人間が死刑と定められた冤罪を300年間も背負いつづける非業(ひごう)」ということになるゆえ、この惨(むご)い冤罪を学界もメディアも、このまま放置したままで許されることであろうか。
 「無実かかわらず、死刑を背負うことになった一人の人間」にあってさえ冤罪は暴いて助ければならないゆえ、【300年間も、真実が葬られた冤罪】は、学界もメディアも一刻も早く空理空論であると暴露しなければならないことになる。
 九州説と畿内説は【日本人と日本国という人格の尊厳】を徹底的に踏みにじっているゆえ、日本人にとって日本国にとって最悪・最大の災いである。だから、この冤罪は、絶対に空理空論・デタラメ・詐偽であると暴く必要がある!

◆倉頡は【漢字作成理論「鳥獣の足跡」】をあらわす「十字の銀河の子宮」を[]の字源「鳰(にお)」に見立てた。
 『説文解字』は[(すい)]の字について「鳥の短尾なるものの総名なり」と解説する。
 この[]の「鳥の短尾なるものの総名なり」という字源解説は、[]の字源「鳰」をあらわした。
 「女性の子宮に宿る胎児」は「10カ月余りも子宮を満たす羊水に潜っていても、窒息して死なない」。この「10ヶ月余も羊水に潜って、なぜ胎児は死なないのか?」という問題は〈永遠に解明できない謎〉となった。このため、とにかく少しでも合理的に譬(たと)えるために、倉頡は「子宮の羊水に長期間潜っていても窒息死しない胎児の不思議な能力」を「頻繁(ひんぱん)に水中の潜る鳰」で譬えることにした。
 鳰と同じカイツブリ科には「長時間潜水できる」ゆえ「八丁もぐり」という俗称を有する[]の字源「カンムリカイツブリ」がいる。カンムリカイツブリはカイツブリ科で最大であり、全長4661センチである。
 鳰はカイツブリ科において最小で、全長は2529センチである。
 ゆえに、倉頡は「78カ月くらいまで育つ胎児が宿る子宮の大きさ」を「小型の鳰」で譬え、「出産間近の胎児が宿る、大きく膨張する子宮」を「大型のカンムリカイツブリ」で譬えることにしたのである。
 〔注、女性の子宮は長さ約8センチ、幅45センチ、厚さ約2センチゆえ、鳰よりもはるかに小さい。妊娠10ヵ月末には、正常子宮の重さの約20倍、容積は20002500倍となるとのことである〕。
 「子宮内の胎児が羊水に10ヶ月間も潜っても、なぜ窒息死しないか?」は〈永遠に解けない謎〉であったため、「むずかしい」を意味する[(なん)]の字源・字義となった。だから、[]の字における[]は「鳰」をあらわし、倉頡は「女性の子宮」を「鳰」と「カンムリカイツブリ」で譬えることにしたと考えるべきことになる。
 「子宮内の羊水に潜る胎児がなぜ窒息死しないか?」という疑問は、最近になって超音波検査技術の発達で観察できるようになって、その研究が進み、胎児の子宮内における日常の状況がようやく見えてきたが、それでも謎が多く完全に解明されていない。
 倉頡の漢字発明の目的は黄帝の「女性生殖器と、そして子どもの出産」の医学研究をあらわすことができる文字を作ることであった。ゆえに、「約10ヵ月もの長い間、子宮内の羊水に潜っていても窒息死しない胎児」を[]の「カンムリカイツブリ」と[]の「鳰」で譬える必要があった。したがって、「山東半島の根元から北へ南へと伸びる海岸線」は「カンムリカイツブリが両翼をひろげて空を飛翔する姿」に見立てられて[弥]の字源・字義となり、「杭州湾」は「水面上に浮かぶ鳰の姿」に見立てられて[呼]の字源・字義となったのである。
 これゆえ、「鳰」と「カンムリカイツブリ」は【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」】をあらわす「十字の銀河の子宮」を象徴する聖鳥となった。
 『魏志倭人伝』には「不弥国、弥奴国、不呼国、呼邑国」と5つの小国が登場し、この5つの小国名には[弥]と[呼]の字が用いられている。だから、元来、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える歴史書であったのである。

◆以上からして、下の図に示すように、『魏志倭人伝』は「日本列島における本土の〔東〕は〔南〕へ伸びる」と定めた地理について説明していたことになる。
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 上の図に示したように、卑弥呼は――【A】「[][][]の字源・原義となった中国海岸線地域における〔北冷南暖〕の気候」と、【B】「日本列島の〔西端〕の沖ノ島を日本列島の〔北端〕に転回して、沖ノ島と同緯度(北緯3415)の日本列島の〔東端〕の神津島を日本列島の〔南端〕に転回して、【A】の「中国海岸線地域の〔北冷南暖〕の気候」と【B】の「転回方位規定における日本列島の本土における〔北冷南暖〕の気候」は合致する――という転回日本本土地理を立論した。
 上記した転回日本本土地理は【[]のキャッチ】によって同緯度と測定できる沖ノ島と神津島を結ぶ、この緯度線を基軸にして「倭人国」の[]の字源・字義の「方位が時計回りに90度転回する方位規定」が成立することになった。この【[]の字源・字義をあらわす「転回方位規定」】は、『魏志倭人伝』に記述された末盧国以下黒歯国までの32ヵ国の小国記事にある全12ヵ所の方位記事と矛盾点も不合理な点もなく合致する。
 だから、【[]のキャッチ】に則らない邪馬台国説は明白に空理空論・インチキ・デタラメ・詐偽であったことになる。
 過去に著作された正確無比の歴史書『魏志倭人伝』に【多数の誤読(文献批判)】を加えてもいっこうに【科学】が成立しない意見の実体は即座に空理空論と決定しなければならないはずなのに、九州説と畿内説の学者たちはメディアを丸め込んで自分たち専用の道具のごとくあつかって「九州説と畿内説が最も正しい意見である」と主張して国民を騙している。
 しかし、邪馬台国説がデタラメ・インチキであることは、【[]のキャッチ】によって1時間あればたっぷり証明できる。学者たちは新井白石以来300年もムダな時間を費やして、正確無比な『魏志倭人伝』に記述された日本古代史最大の真実【後期縄文時代初頭に習得された(1)倉頡が発明した漢字作成理論と(2)夏音文字の学芸と(3)正確な中国海岸線地図と(4)精密地図作製方法】を抹殺し葬りつづけている。

◆『魏志倭人伝』は倭女王卑弥呼が居住した王国の名を「邪馬壹(やまい)国」と記す。しかも、上記した「卑弥呼王朝が制定した[]の字源・字義に合致する転回日本本土地図」に示したように、「邪馬壹()国」は「現在の島根県と鳥取県西部」であった。そして、倭女王・卑弥呼は、邪馬壱国の中心部の出雲地方に居住していた。というのも、『魏志倭人伝』には「女王国(邪馬壱国)より東、海を渡ること千余里にして復()た国有り、皆倭種なり」という記事があるからである。[]の字源・字義をあらわす転回方位にしたがうと、「〔北〕が〔東〕と化()る」ゆえ、「邪馬壱国・出雲地方の真北に所在する隠岐群島」が「女王国の東の海に所在する、皆倭種なりの小国」となる。隠岐群島は知夫里島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島で構成される島前(どうぜん)と、その東北にある最も大きな島の島後(どうご)4つの大島と約180の小島からなる。ゆえに、「群島」であるから「皆」とあらわされ、隠岐群島は「皆倭種なり」と書き記されたのである。
 []の字源・字義となった転回方位のもとづくと、〔北〕が〔東〕となるゆえ、「日本列島の北にある日本海」が「東」となる。日本列島の北となる日本海には「皆倭種なり」という説明に合致する「群島」や「諸島」は隠岐群島のみしか存在しない。だから、倭女王・卑弥呼が居住した王国は出雲地方であったと限定できる。ゆえに、卑弥呼が居住した王国は九州に存在したのではなく、畿内にも存在しなかったことになる。

◆『魏志倭人伝』には【1】「倭人国の易に用いる辞(ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり殷代後半に用いられた甲骨文字のごとくであった」という記事と、【2】「卑弥呼が文書に用いた文字(夏音文字)は、魏都・帯方郡・諸韓国の楷書と差錯(ささく/相違)していたが、伊都国の港で点検し確認して正確に楷書と夏音文字を訳して間違いが生じないようにしていた」と記述する、「倭人国には原初漢字があった」と明記する二つの記事が存在する。
 この二つの「倭人国には夏音文字があった」という記事を、学者たちは新井白石以来300年も長い間、多数の誤読を加えて削除・排除し続けている。しかし、『魏志倭人伝』に書き記された【34ヵの小国と瀚海(かんかい)の記事】によって、わが国には【後期縄文時代初頭に習得された(1)倉頡が発明した漢字作成理論と(2)夏音文字の学芸と(3)正確な中国海岸線地図と(4)精密地図作製方法】が存在したと【科学】が成立して証明できる。
 日本国と日本国民にとって最も大事な真実が、【[玄]のキャッチ】に則れば簡単明瞭に邪馬台国説は空理空論であったと断定できる。さらに、『魏志倭人伝』の「倭人国には夏音文字があった」という二つの記事と、【誤読】を一ヵ所も加えなければ【34ヵの小国と瀚海の記事】によって、わが国には【後期縄文時代初頭に習得された(1)倉頡が発明した漢字作成理論と(2)夏音文字の学芸と(3)正確な中国海岸線地図と(4)精密地図作製方法】が存在したと【科学】が成立して証明できる。
 このような日本国と日本国民にとって最も重大な真実を、新井白石以来約300年間も、学者たちによって闇に葬られて、今後もこの冤罪が存続されて良いものであろうか。
 日本人は、こんな明確なデタラメにこれからも騙され続けるのか! 
 邪馬台国説は日本人にとって最大・最悪の災いであり、最大・最大の詐偽・デマ・フェイクなのである。


 『魏志倭人伝』は世界史的に第一級の重大な歴史書であった。
 というのも、紀元前3100年頃にほとんど完成した形で出現した古代エジプト文字(ヒエログリフ)は、紀元前3000年頃に起源した漢字と同じく「夏の銀河各部の形状から作られた秘密」を【科学】にもとづいて解明され証明されることになるからである。
 だから、『魏志倭人伝』に記述された【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸と益氏が伝えた精確な中国海岸線地図と精密地図作製方法を習得した歴史】は、九州説と畿内説によって絶対に失ってはならない、日本人にとって最も重大な真実であったのである。

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