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2021年4月

2021年4月30日 (金)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・15

▼漢字は中国にて起源した。でも、漢字の起源の秘密は中国では解明できない。ところが、漢字の起源の秘密は『魏志倭人伝』に【文献批判という作為(さくい)】を1ヵ所も加えずに全記事をただひたすら・いちずに忠実に読解すれば、わが日本で学問的に解明することができる。
 つまり、2世紀末~3世紀半ばのわが国の事情を伝える書物として有名な『魏志倭人伝』に(1)多数の【文献批判という作為】を加えて(2)「邪馬台国」の所在地を解明するための史料であったと主張する九州説と畿内説は「誤読の空理空論であった」と全面的に否定すれば――漢字の起源の秘密は、わが日本で学問的に具体的に解明することができる。
 江戸中期に生存した新井白石(1657-1725年)以来約300年間、学者たちは『魏志倭人伝』を「邪馬台国研究史料」としてあつかってきた。しかし、『魏志倭人伝』は「邪馬台国研究」とはまったく無関係の、〔漢字の起源の秘密〕について説明する書物であったのである。
 その証拠に、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した女王国名」を「邪馬壱(やまい)国」と書き記す。ゆえに、『魏志倭人伝』には九州説と畿内説の学者たちが「記述してある」と主張する「邪馬台国」と記す記事は1ヵ所も存在しない。
 だから、九州説と畿内説は『魏志倭人伝』に記述されていない事柄を「書いてある」と捏造(ねつぞう)した空理空論であったのである。
 『魏志倭人伝』は著者の陳寿(ちんじゅ)が書き記した文字は1983字、5世紀に生存した裴松之(はいしょうし)が加えた注の文字は56字である。ゆえに、『魏志倭人伝』は合計2039字で構成される。
 約2000字で構成される『魏志倭人伝』は、【1】約1100字・約54パーセントの記事で「わが国は紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)において夏音(かおん)文字の学芸を習得したとき、紀元前3000年頃の中国の五帝時代の黄帝につかえた史官・倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論をも習得した」と説明している。また【2】約300字・約15パーセントの記事で「倭人国の風習や動物・植物の生息状況」を伝え、【3】末部の「景初二年六月倭の女王」以下の約640字・約31パーセントの記事で「小国・日本国(倭人国の隣国)の誕生史」について説明している。
 だから、『魏志倭人伝』は現在まったく不明となった【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える貴重な書物であった。
 要するに、『魏志倭人伝』は〔漢字の起源の秘密〕が科学的に具体的に解明・証明できる貴重・重大な書物であったのである。


★「倭人国の地理学」のトリセツ・24

◆漢字は紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝につかえた史官の倉頡(そうきつ)が【漢字作成理論】を発明して起源した。
 この〔倉頡が発明して起源した漢字の歴史〕は、現在、学問的に解明されていない。しかし、前述したように『魏志倭人伝』の全記事をひたすら・いちずに忠実に読解すると学問的に解明し証明することができた。
 だから、上記したように、九州説と畿内説は『魏志倭人伝』に記述された〔漢字の起源の秘密〕、言いかえると【倉頡が発明した漢字作成理論】を【文献批判という作為】を駆使(くし)して無視・排除して闇に葬った誤読の空理空論であったのである。
 九州説と畿内説は『魏志倭人伝』に自説の不都合な記事に多数の【文献批判】を加えて自説の正当性を誇示する。ゆえに、《多数の【文献批判】を加える作為》が原因で、九州説と畿内説は『魏志倭人伝』の記事と1ヵ所も合致しない空理空論・デタラメとなった。
 『魏志倭人伝』に1ヵ所も【文献批判】を加えず、『魏志倭人伝』の全記事をただひたすら忠実に読解すると、「倭女王・卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を国家と王政の政権基盤とした事実」が明白となる。
 『魏志倭人伝』には34字で【1】「倭国の易卜(うらない)に用いる辞(ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり紀元前1300年頃の殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅に文字を刻む契文(けいぶん/甲骨文字)のような文字があった」と伝える――卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)には甲骨文字のごとき漢字があったと記述する記事がある。また、『魏志倭人伝』には67字で【2】「卑弥呼が文書の用いる漢字(甲骨文字のごとき原初漢字)は魏の都・帯方郡(魏の出張政庁が所在するソウル市付近の地域)・諸韓国が文書に用いる漢字(楷書)と差錯(ささく/相違)していた。このため、倭国の小国・伊都(いと)国の津(港)では、魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と卑弥呼が用いる原初漢字を一字一字点検し確認して正確に変換していた」と伝える、わが国には卑弥呼時代に原初漢字があったと説明する記事がある。
 上記の二つの記事は、九州説と畿内説には不都合であるため、両説は徹底的に無視し排除する。また、上記の二つの記事は学界が断定した定説に反する記事であるゆえ、九州説と畿内説は最初(はな)から信用せず徹底的に無視し排除する。
 しかし、上記した『魏志倭人伝』に「卑弥呼時代には原初漢字が存在した」という記事の無視・排除が原因で、九州説と畿内説は『魏志倭人伝』とまったく無関係の【誤読の空理空論】となった。
 上記したように、学界は「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀、あるいは6世紀である」と断定する。しかし、この学界の定説は、現在、学問的に空理空論となる。
 というのも、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目において、「わが国の漢字音」と題して、次のごとく指摘しているからである。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 中国において現存する最古の漢字音は、西洋の言語学・音韻史研究によって、紀元前1046年から始まる周代初頭の「上古音」と解明された。
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 上の「漢字生長史」が明確に示すように、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」と学界が主張する定説の漢字音は、中国において現存する最古の上古音(紀元前1046年の周代初頭)よりも新しい(1500年も新しい)。だから、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」という定説は、白川静著『字統』が指摘する学問成果(音韻史研究)に反する、虚偽説・空理空論ということになる。
 白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する字音は、【わが国が後期縄文時代初頭に習得した夏音文字の漢字音】であった。
 この【夏音文字の字音】は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残っている。
 だから、学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する絶対的定説は学問的に正当性が確保できない【科学】に反する空理空論であった。
 したがって、『魏志倭人伝』に「倭国には原初漢字があった」と記述された二つの記事は「わが国は後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した歴史」を伝えていたことになる。だから、この二つの記事を無視し排除した九州説と畿内説は空理空論であったのである。

◆中国でもわが国でも「文字」を「漢字」と呼ぶ。というのも、「銀河」の別称は「銀漢」であるゆえ「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と称されることになったからである。
 【卑弥呼が用いた夏音文字】と【魏都・帯方郡・諸韓国が用いた楷書】は共に【同一銀漢から作られた文字】であった。ゆえに、倭国の伊都国の港では【字源・字形の原形・原義となった銀漢各部の形状】を観察して、夏音文字と楷書を正確に変換していたのである。
 上記したように、中国に現存する最古の字音は紀元前1046年から始まる周代初頭の「上古音」である。したがって、学界が「漢字の最も古い祖型と定める、周代初頭より約250年前となる殷代後半に用いられた甲骨文字(契文)の字音」は現存しない。しかし、甲骨文字が出現した時よりも約750年も古い後期縄文時代初頭にわが国が習得した「夏音文字」の字音は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』に多数残って現存する。
 漢字は《字源・字形・字義・字音の四要素》から成立する。夏音文字は『魏志倭人伝』によって「楷書と同じく銀漢各部の形状を字源・字形・字義とする漢字であった」と学問的に証明でき、字音は『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』に残っている。ゆえに、夏音文字は《字源・字形・字義・字音の四要素》が備(そな)わる。
 他方、紀元前1300年頃から出現した甲骨文字は《字源・字形・字義の三要素》が備わっているものの、《字音》が不明となる。
 だから、《字音》が不明となる不完全な甲骨文字を学界は「漢字の最も古い祖型」と定めたならば、『魏志倭人伝』の記事によって《字源・字形・字義・字音の四要素》がそろう、完全なる夏音文字こそ「漢字の最も古い祖型である」と定めなければならないことになる。
 以上のごとく、【文献批判】を1ヵ所も加えずにただひたすら・いちずに『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解すると「卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を国家と王政の政権基盤とした」と証明できたゆえ、おのずと〔漢字の起源の秘密〕を解明することができた。

◆上記したように、『魏志倭人伝』に1ヵ所も【文献批判とう作為】を加えずに全記事をひたすら忠実に読解すれば「後期縄文時代初頭、わが国は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した歴史」を解明することができた。
 「夏音文字」の[]は、天文学で通称「夏の銀河」と呼ばれる「夏の全星座が所在する銀河の範囲」いいかえると「夏に最も長時間観察できる銀河の範囲」をあらわしている。
 倉頡は、今日、天文学で通称「夏の銀河」とよばれる銀河各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論を発明した。
 ゆえに、通称「夏の銀河」を、私は「文字作成銀河」を名づけることにした。
 倉頡が漢字作成理論を発明した「文字作成銀河」の写真を、下に示した。
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 天文学はじめ諸々の学術分野においても、《漢字の字源・字形の原形・原義》を解明できる〔文字作成銀河の各部の名称〕を定めていない。ゆえに、《字源となった銀河=字形の原形となった銀河=原義となった銀河》の解説と証明をする際に非常に不便となるゆえ、私は下図のごとく「文字作成銀河の各部の名称」を定めた。
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 「文字作成銀河の各部の名称」が存在しなかった事情には、〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕が密接に関わっている。
 倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れることができる王政をささえる最強・最大・最良の権力基盤であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝は容易に崩壊・滅亡するにちがいないと心配して、下に示す〔三つの死刑と定めた掟〕を定めた。
■倉頡が死刑と定めた三つの掟
1】「文字は銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた」という秘密を暴露した者はその一族全員に神罰を下して即刻に死刑にする
2】多くの文字を容易に覚えるため、銀漢(夏の銀河)各部に名称をつけた者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする
3】書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員もまた神罰を下して死刑にする

 五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)・夏代の原初漢字の夏音文字・殷代前半の原初漢字は上記した〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕を厳重にまもった。したがって、上記した【3】の掟を厳重にももったゆえ、五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。
 〔注 実は原初漢字を書いた資料はすでに発見されている。しかし、学者たちはその資料が文字作成銀河(夏の銀河)の部分の形状を図案する漢字であることに気づかない。ゆえに、原初漢字を書いた資料は一点も存在しないことになっている〕。
 紀元前1300年に出現した殷代後半の甲骨文字においては多数の文字数となったため、いちいち【3】の掟をまもるのが非常に面倒(めんどう)となって守らなくても死刑はじめ刑罰を与えなくても良いことになった。ゆえに、甲骨文字では【3】の掟は破られたため、甲骨文字を書いた資料が多数出土することになった。しかし、甲骨文字は【1】と【2】の掟は厳重にまもった。ゆえに、現在の学者たちは【1】「漢字は夏の銀河の各部の形状から作られた秘密」にまったく気づかず、学者たちは誰ひとりも「夏の銀河の各部は夏のどの星座よりも明確な形を有するにもかかわらず、なにゆえ名称が存在しないのか?」と疑問を抱かなかい。
 このため、学者たちは『魏志倭人伝』が〔漢字の起源の秘密〕を具体的に説明する、貴重かつ重大な書物であることに気づかなかった。

◆前回(14)のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」にて詳細に解説して証明したように、『魏志倭人伝』の後半に――わが国は、紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、【夏音文字の学芸】を習得するときに【倉頡が発明した漢字作成理論】をも習得した――と伝えていた記事が存在する。
 この記事は76字で構成され、次のごとく「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)倭種なり。又、侏儒(しゅじゅ)国有り。其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺。女王を去ること四千余里。又、裸()国・黒歯(こくし)国有り。復()た其の東南に在りて船行一年にして参問至る可()き。倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(周旋)五千余里可(ばか)り」と伝えている。
 つまり、上記の記事は「紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、“夏の始祖”の禹()帝の後を継いだ益帝の孫の王子と若者たち一行が中国から渡来し、わが国の東北地方の男鹿半島・米代川(よねしろがわ)文化圏に定住して東北地方から関東地方まで【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を教えひろめた」と伝えていた。
 日本列島の東北地方に定住した益氏は、五帝時代最後の舜(しゅん)帝の時代に[()]という重職を任命されて代々約200年間、正確な中国の海岸線地図の作製に従事し、精密地図作製方法を開発した。この名門・益氏の定住によって、後期縄文時代初頭に正確な中国海岸線地図と精密地図作製方法をも習得されることになった。
 その証拠に、本州北端となる下北半島・陸奥湾・夏泊(なつどまり)半島・津軽半島の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)は、『魏志倭人伝』が「邪馬壱国に至る、女王の都する所なり」と記述する、この「邪馬壱」の3字の字源・字形・字義を現在に伝える。
 『魏志倭人伝』には「倭地には牛と馬は無い(生息しない)」という記事があり、[]の字源は「ジャコウウシ」、[]の字源は「フタコブラクダ」であった。
 下に、本州北端の地宜を配した。
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 上図の「本州北端の下北半島・夏泊半島・津軽半島の地宜」は[]の字源は「フタコブラクダ」であることを明確に示す。というのも、「下北半島の地宜」は「フタコブラクダの頭部と首の形」に相似し、「夏泊半島と津軽半島の地宜」は「ラクダのフタコブの形」に相似するからである。
 『魏志倭人伝』は「対馬国と一大国の中間の海は瀚海(かんかい)であった」と伝える。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の4回で証明したように、卑弥呼は「対馬国の北部・上県(かみあがた)の地宜」は「フタコブラクダの正面の姿」に相似し、「対馬の南部・下県(しもあがた)の地宜」は「フタコブラクダの足跡の形」に相似すると見立てて、[]の字源「フタコブラクダの正面の姿と足跡の形が一対(いっつい)となる」ゆえ、「長崎県の対馬」の小国名を「対馬国」と定めた。だから、「対馬」の[]の字源は「フタコブラクダ」であると明確に示すために、卑弥呼は対馬国より南の海を「馬・フタコブラクダが生息する瀚海(ゴビ沙漠)」と名づけた。[]の字源「フタコブラクダ」は「沙漠の船」と呼ばれ、ゴビ沙漠に住む人々にとって欠くことができない大切な家畜である。「フタコブラクダ」は「船」と呼ばれていたゆえ、「ゴビ沙漠」は「瀚海」いう名の海であった。上図における本州北端の地宜における陸奥湾中央に突き出る半島は「日中、夏の強烈な陽射しが刺す瀚海の港()に停泊する船・フタコブラクダ」を省略して「夏泊半島」と名づけられたにちがいない。だから、上図における北緯4039分の緯度線上にならぶ八甲田山と岩木山の冬の山頂は、夜になると厳しく寒くなる瀚海の気候と同じとなる。ゆえに、「八甲田山と岩木山」は「馬・フタコブラクダが往来していた瀚海・ゴビ沙漠」に見立てられたことになる。
 卑弥呼は「本州北端の地宜」が[]の字源「フタコブラクダ」を明確に示し、「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味することを知っていた。ゆえに、卑弥呼は「【倉頡が発明した漢字作成原理】を政権基盤と定めて倭人国を統治する」と表明するがため、「対馬国と一大国(長崎県の壱岐)の中間の海」の名を「瀚海」と名づけたのである。
 東の下北半島と西の津軽半島に包囲される陸奥湾は、下に配する「女性の骨盤の正面の形」 に相似する。「女性の骨盤」は[]の字源となった――これについては、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」で幾度となく繰り返して解説した。
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 だから、「下北半島の西端」は「邪馬」の語源となり、「陸奥湾」の[]が加わる「本州北端の【邪馬壱】の地宜」は倭女王・卑弥呼が居住した王国名「邪馬壱(やまい)国」の由来をあらわすことになった。
 『魏志倭人伝』が伝えているように、卑弥呼は後期縄文時代初頭に益氏が男鹿半島・米代川文化圏に定住して【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を教えひろめた歴史を知っていた。だから、この歴史にもとづいて、卑弥呼は倭人国の首都が所在する王国名を「邪馬壱国」と定めたのである。

◆現在、日本古代史学では、後期縄文時代初頭はじめ2世紀末~3世紀半ばの卑弥呼時代、精密地図作製方法は開発されていないと考えられている。しかし、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記される多数の夏音文字の字源や字形や字義を解明すると、わが国は後期縄文時代初頭に益氏が【精密地宜(地図)作製方法】を教えひろめたため、この【精密地宜(地図)作製方法】を用いて古代に作られた地宜(地図や地上絵)や庭園平面図(地宜)がわが国には多数存在することが解明・証明される。
 その証拠に、益氏が【精密地宜(地図)作製方法】を教えひろめたゆえ――《「東北地方の北端の下北半島・夏泊半島・津軽半島の地宜(地図の形)」は[]の「フタコブラクダの姿」に相似し、「陸奥湾の地宜」は[]の字源「女性の骨盤の正面の形」に相似する事実》を後期縄文時代には厳重な機密の基(もと)にすでに学問的に知得されていたことになる。だから、たとえ学者たちが否定しても、わが国には後期縄文時代初頭から【精密地宜(地図)作製方法】が存在したことが事実となる。というのも、上記したように『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記載された多数の夏音文字の字源・字形・字義の秘密を解明すればおのずと「後期縄文時代には、すでにわが国には【精密地宜(地図)作製方法】が存在していた」という事実が【科学】が成立して学問的に証明された。にもかかわらず、学者たちは夏音文字の研究をなんら着手せずに、単に強引に「後期縄文時代に、すでに【精密地宜(地図)作製方法】が存在してなんていう事実はあるはずがない」と主張しているにすぎないからである。
 現在の学者たちと異なり、夏音文字の学芸に精通した卑弥呼は益氏が伝えた【精密地宜(地図)作製方法】によって、「東北地方の北端の地宜」は「邪馬壱」と表示することができることを知っていた。だから、《東北地方における【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】の伝来・習得の歴史》にもとづいて倭人国を統治する卑弥呼は、倭人国の都となる王国の名を「邪馬壱国」と定めることにしたのである。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の11回で詳細に解説したように――「邪馬壱国」の「邪馬」は「せまい産道を通り抜ける時における、出産児の頭蓋骨の〔小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)と後頭骨・頭頂骨・前頭骨が重ね合わせることができる仕組み(機能)」をあらわす語であった。
 下に、「邪馬」の語源となった「産道を通過する時の、出産児の頭蓋骨図」を配した。
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 上図に示した「産道をくぐり抜ける時の、出産児の頭蓋骨の形状」は「モグモグと草を食べる時の馬・フタコブラクダの顔における、後頭骨にある小泉門の形に相似する鼻・矢状縫合がある頭頂骨に相当する上アゴ・大泉門に相当する口・下アゴに相当する前頭骨の動きの形状」にソックリとなる。
 つまり、出産児の頭蓋骨における小泉門・矢状縫合・大泉門・後頭骨・頭頂骨・前頭骨は重ね合わせることができるゆえ、せまい産道をくぐりぬける赤ん坊の命はこの世に湧き出るように神秘的に誕生する。この赤ん坊の命の誕生のドラマは、上図に示した「出産するときの赤ん坊の頭蓋骨の形状」は「草を食べる時の、ラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴの部分がそれぞれ邪(なな)めとなって動く形状」にソックリとなる。
 下に「邪馬」の語源「馬(フタコブラクダ)の鼻・上アゴ・口・下アゴの形」を図示した。
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 ゆえに、「出産児の頭蓋骨の仕組みの形状」と「草をモグモグと食べる時の馬(フタコブラクダ)の鼻・上アゴ・口・下アゴの各部が邪(なな)めとなる形状」、この両者の形状を卑弥呼は「邪馬」と表現し、[]の字源「女性の骨盤」を加えて「邪馬壱」とあらわして――「倭人国の首都が所在する国家・王朝の中心地域」を「邪馬壱国」と名づけたのである。

◆紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝は、東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。黄帝が作った医学書『内径』における研究テーマは「ヒトの命の研究」つまり「女性の生殖器と子どもの出産」であった。
 黄帝以前の三皇時代には「女性の生殖器と子どもの出産」は研究されていなかった。また、黄帝の医学研究を説明することができる文字も発明されていなかった。これゆえ、黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡の役目は黄帝の医学研究を説明することができる文字を発明することになった。
 だから、倉頡が【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の医学研究】を説明することができる文字を発明した。
 【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の医学研究】における「ヒトの命の研究」における核心にしてハイライトシーン(涙が出るほど心ゆさぶられて感動的な最も神秘的で輝かしい場面)は――卑弥呼が「邪馬壱」と表現した「母体の子宮口(しきゅうこう)が全開大(ぜんかいだい/すっかり開くこと)して、出産児がせまい産道をくぐりぬけて命が湧き出るがごとく神秘的に誕生する場面」であった。
 〔注 このハイライトシーンは出産児の父親が分娩室の入室を許可されるならば、わが子の感動的な出産の様子を目撃することができる〕。
 ゆえに、上記したように、倉頡が漢字を発明した目的・動機・核心をあらわすと「はじめに邪馬壱ありき」ということになった。だから、卑弥呼は「倭人国の首都が所在する王国名」を「邪馬壱」と定めることにしたのである。

◆出産児における「邪馬壱」は「横長(よこなが)の楕円形の母体の骨盤入口」を「縦長(たてなが)の出産児の頭蓋骨がくぐりぬける状況」から始まる。
 下に、「横長の楕円形の性(母体)の骨盤の入口の図」を配した。
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 「邪馬壱」の語源となった「母体の子宮口が開く出産第一期・開口期(かいこうき)から産児の頭が誕生する出産第二期・娩出期(べんしゅつき)終わりまでの児頭の回旋(かいせん)の様子」について――インターネット・ブログで出力した医療法人翔光会の産婦人科にしじまクリニック(埼玉県富士見市)は「赤ちゃんの進み方、回旋を知る」と題して、下記のごとく説明している。この説明を要約し、この要約に〔出産第一期・開口期と出産第ニ期・娩出期〕という注を加えると、次のようになる。
 ――骨盤の入口は横長の楕円形に対して、からだの中でいちばん大きな赤ちゃんの頭(児頭)の形は縦長であるゆえ、児頭が骨盤入口をくぐり抜けるためには、骨盤入口では児頭は横向きで入る。しかも入口部は骨盤内でいちばん狭い空間であるので、通常(正常分娩の場合には)赤ちゃんはアゴを胸につけた姿勢となり、児頭は屈曲して後頭部の小泉門が先進して時計回りに90度回旋する。これを、「第1回旋」と呼ぶ。
 骨盤出口面は縦長であるゆえ、赤ちゃんは横向きから次第に正面・縦向きへ方向を変えながら、下降する。この過程を、「第2回旋」という。ちなみに、第1回旋(横向き)から第2回旋(縦向き)へ回る角度は90度であり、第1回旋と逆向きの反時計回り(逆時計回り)である。第1回旋から第2回旋の時の子宮口は大体7センチである。第2回旋が終了した時点で後頭部(小泉門)は恥骨側・12時方向の位置となり児頭の正面・縦向きが整う。この時、子宮口はすでにすっかり開く全開大(10センチ)となり、出産第一期・開口期の終わりとなり、いよいよお産となる。
 第3回旋は反時計回り(逆時計回り)になって児を娩出(べんしゅつ)するもので、この場合児は反屈して恥骨をくぐり抜けるように児頭が産道()から娩出する。
 最後の第4回旋は第1回旋と同じく児頭は時計回りに90度回旋して、頭が誕生した児はすぐに呼吸をはじめて声をあげる。この児頭の誕生が出産第二期・娩出期の終りとなる。

 卑弥呼が「邪馬」と表現した「出産児の頭蓋骨における、骨どうしの間が〔結合組織性の膜〕となって重ねあわせることができる仕組み」を、産婦人科では「広形機能(こうけいきのう)」または「骨重積(こつじゅうせき)」と称する。

◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の2回で解説したように、「歳差(さいさ)」という天文現象を利用すると、黄帝と倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代初頭における中国全土の天頂にめぐってきた銀河の形状を知ることができる。
 下の図に示すように、五帝時代初頭、わたくしが「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた銀河の形状部が中国各地の天頂にめぐってきた。
 〔注 「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は、前掲した〔文字作成銀河各部の名称図〕における左上にある〕。
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 下に、五帝時代初頭の黄帝時代における黄帝陵・北緯3536分の天頂緯度線と「邪馬壱」の銀河(「小泉門・矢状縫合・大泉門」の形となる銀河部)を表示した。
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 下に、北緯3536分に位置する黄帝陵の天頂緯度線と北緯31度の中国南部の太湖南岸も天頂緯度線を縦に並べる、五帝時代初頭に中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」の図を配した。
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 上図が示すように、黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」は「緯度線」に対して邪(なな)めとなる。ゆえに、倉頡が漢字を発明した黄帝時代において中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」もまた、「邪馬壱」という語であらわすことができた。
 というのも、「緯度線に対して邪(なな)め」の「十字の銀河」は[]「フタコブラクダ」の字源・字形・字義となり、「十字の銀河の子宮」は[]の字源・字形・字義となったからである。さらに、「十字の銀河の子宮の周辺部」は[]の字源・字形・字義となる「子宮。あるいは骨盤はじめ女性の生殖器」をあらわした。
 だから、黄帝時代の中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」は「邪めの[]の字源」となり、「十字の銀河の子宮」は[]の字源であるゆえ、「邪馬壱」という語をあらわした。
 これから「十字の銀河」が[]「フタコブラクダ」の字源・字形・字義となった秘密について解説する。
 下に示す「三つ輪の銀河」は「点々と黄色くきらめく無数の星たちが円を描きあるいは渦巻きを描いて重なりあう形状の銀河」であるため、「三つ輪の銀河」は「月の光で沙漠の砂が黄色く輝く瀚海・ゴビ沙漠」のイメージとなった。「三つ輪の銀河」に隣接する「十字の銀河」も「月の光できらめく沙漠の砂や瀚海・ゴビ沙漠」のイメージとなった。これゆえ、「十字の銀河」は「ゴビ沙漠に棲むフタコブラクダ」に見立てられることになった。
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 したがって、下の図に示したように、「十字の銀河」は「フタコブラクダの側身形」に見立てられたゆえ、「フタコブラクダの側身形に相似する十字の銀河」が[]の字源・字形・字義ということになった。
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 以上のごとく、黄帝時代の中国全土における各地の天頂にめぐってきた天頂緯度線に対しての邪めとなる「十字の銀河」もまた「邪馬壱」という語であらわすことができた。
 このように「漢字の起源史」もまた「はじめに邪馬壱ありき」と表現することができるゆえ、卑弥呼は倭人国の首都が所在する王国の名称を「邪馬壱国」と名づけたのである。

◆前述したように、後期縄文時代初頭、名門の益氏の王子と若者たち一行は本州・日本列島における東北地方の男鹿半島・米代川文化圏に定住して、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸と正確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】を東北地方から関東地方まで教えひろめた。
 【精密地宜(地図)作製方法】を伝授した名門・益氏が定住した「東北地方北端の下北半島・夏泊半島・津軽半島の地宜と、そして陸奥湾の地宜」をあらわすと「邪馬壱」という語になった。下に「東北地方北端の地宜」つまり「邪馬壱」のイラストを配した。
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 上図のイラストのおける「下北半島の西端」は[]の字源「フタコブラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴ」に相当する。ゆえに「下北半島の西端」は、「草を食べる時のラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴの各部が邪めとなる形状」、つまり「邪馬」ということになる。また、下北半島と津軽半島に包囲される「陸奥湾」は[]の字源「女性の骨盤の正面形」に相似する。
 ゆえに、「邪馬壱」という語は「東北地方北端の地宜」をあらわした。

 前述したように、倉頡が文字を作成する目的は【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の医学研究】を説明することができる文字を考案することであった。
 【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の医学研究】における「ヒトの命の研究」における核心にしてハイライトシーン(涙が出るほど心ゆさぶられて感動的な最も神秘的で輝かしい場面)は――「母体の子宮口(しきゅうこう)が開いて、出産児がせまい産道をくぐりぬけて命が湧き出るがごとく誕生する場面」であった。
 このハイライトシーンもまた、「邪馬壱」とあらわすことができた。
 ゆえに、上記したように、倉頡が漢字を発明した目的・動機・核心をあらわすと「邪馬壱」ということになった。

 そして、上記したように、倉頡が生存した時代、中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」もまた「邪馬壱」という語で表現することができた。

◆これゆえ、【1】黄帝・倉頡時代に中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河の形状」と、【2】倉頡が漢字を発明した目的・動機・核心(命が湧き出るように誕生する涙が出るほど感動的な、産道をくぐりぬける時の出産児の頭蓋骨の形状の様子)と、【3】わが国における【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸の習得史】の三者をあらわすと、共に「邪馬壱」という語であらわすことができた。
 だから、「邪馬壱」という語は【1】【2】【3】の三者を一挙に表示することができるゆえ、卑弥呼は倭人国の首都が所在する王国の名称を「邪馬壱国」と定めたのである。
 したがって、「邪馬壱」という語が示すように、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を王政の政権基盤として、倭人国を統治した」と説明していた歴史書にして学問書であったのである。
 古代史研究家の古田武彦氏は著書『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社発行)にて、『三国志』全体に書き記された[()]86字、[()]56字を一字一字入念に調べ、[()]には[()]と誤記した例が存在しないと指摘した。
 「『三国志』魏書東夷伝末部にある倭人傳」を通称『魏志倭人伝』と呼ぶ。ゆえに、古田武彦氏が指摘したように、『魏志倭人伝』には「卑弥呼が居住した女王国」の名称を「邪馬壱国」と書き記し、九州説や畿内説が主張するように「邪馬台国」と誤記していない。
 このように、九州説と畿内説が主張するように『魏志倭人伝』には「邪馬台国」という記事は1ヵ所も存在しない。だから、『魏志倭人伝』は「邪馬台国の所在地を記述した文献史料」ではなかった。
 ゆえに、九州説と畿内説は『魏志倭人伝』とまったく無関係の空理空論・暴論・デタラメであったことになる。
 また、多数の【文献批判という作為】を多数加えて立論する九州説と畿内説は、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸と正確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】を習得した後期縄文時代初頭から始まった四千年に及ぶわが国の学問史における最大・最悪の汚点であった。というのも、学問の鉄則・基本を厳守して、【主観的思考となる文献批判という作為】を徹底的に排除して、ただひたすら・いちずに『魏志倭人伝』を忠実に読解すれば【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸と正確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】を解明し証明することができたからである。
 九州説・畿内説が駆使する【文献批判という作為】を1ヵ所も加えずに全記事を忠実に読解すれば――『魏志倭人伝』は〔漢字の起源の秘密〕が解明できる文献であったのである。

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2021年4月26日 (月)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・14

▼倭女王・卑弥呼が登場する文献で有名な『魏志倭人伝』は「倭女王・卑弥呼が居住した邪馬台国は吉野ケ里遺跡がある九州、もしくは纏向(まきむく)遺跡がある畿内・大和に所在したと説明している」と主説する――このような邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は、日本四千年の学問史上における最大・最悪の汚点である。
 というのも、九州説と大和説は『魏志倭人伝』の全記事とまったく無関係の空理空論であり、日本人・日本文化・日本芸術・日本国家などを形作った日本四千年の学問を根底から崩壊・破滅してしまう暴論だからである。
 『魏志倭人伝』は「倭女王・卑弥呼が居住した王国名」を「邪馬壱(やまい)国」と書き記しているが、九州説と畿内説が主張するように「邪馬台国」と記していない。また、『魏志倭人伝』は「邪馬壱国の中心地は山陰・出雲、現在の島根県東部であった」と記述する。
 さらに『魏志倭人伝』は(1)「倭の易卜」について説明する記事と(2)「伊都(いと)国」について説明する2ヵ所の記事で「倭国は、銀河(夏の銀河・文字作成銀河)の各部の形状を字源・字形・字義とする原初漢字・夏音(かおん)文字が中国から伝来して習得した。卑弥呼が文書に用いる文字は夏音文字であった」と伝えている。
 ゆえに、今回のブログでは、『魏志倭人伝』に登場する「侏儒(しゅじゅ)国、裸(ら)国、黒歯(こくし)国」という三小国名の記事が――後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)、中国から渡来した名門益(えき)氏が日本列島の東北地方に定住して【夏音文字の学芸】と【倉頡が発明した漢字作成原理】を東北地方から関東地方の人々に教え広めた歴史――を伝えている秘密を詳細に解説して証明することする。
 だから、『魏志倭人伝』は「侏儒国・裸国・黒歯国」の三小国記事で【わが国における夏音文字の学芸と倉頡が発明した漢字作成理論の習得史】は説明しているゆえ、この歴史を排除・無視する九州説と畿内説の実体は完全なる空理空論・デタラメ・詐偽(さぎ)・絵空事であったことになる。


★「倭人国の地理学」のトリセツ・23

◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」は1回から12回までにおいて――卑弥呼が政権基盤とした【紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の医学研究】と【黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡が発明した漢字作成理論】を、倭国の30ヵ国の小国名に用いる文字の字源と各小国の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)で伝えていた――という歴史的事実を証明した。
 前回(13)では――卑弥呼は王国「邪馬壱国」が倭人国を束ねて統治する中心地となるように、倭人国のおける対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までの30の小国を10ヵ国ずつ3グループに整然と分けて、各小国名に用いる字の字源と各小国の地宜をもって【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわした――と指摘した。
 だから、『魏志倭人伝』は九州説と畿内説が思い込んだ「邪馬台国」について説明していた書物ではない。
 『魏志倭人伝』は(1)「倭女王・卑弥呼は邪馬壱(やまい)国に居住していた」と記述し、しかも(2)『魏志倭人伝』は「【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える歴史書にして学問書であった。
 わが邪馬壱国・出雲説は、『魏志倭人伝』の全記事をそのまま忠実に読解して、言いかえると【『魏志倭人伝』に一点の〔文献批判〕を加えない方法】で、しかも【科学】が成立するように、一点の矛盾点が生じずにすべて合理となるように解説して証明した。

◆ヒトは〔天頂緯度線を〕キャッチすると、1度・60分の60分の11分の誤差内で精確に緯度が測定できた。
 下に、「天頂点と重なる銀河部位の軌道」を示した。
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 人類は原始のときから、脳に〔天頂緯度線〕をキャッチして精確に緯度測定できる本能がそなわり、鍛錬すれば1度・60分の60分の11分以内の緯度差を測定できる神秘的な眼力を、たくましく生きていくために本能行動の能力としてそなわっていた。だから、この神秘的な呪力(じゅりょく)によって、一団を組んで日々食料を求めて移動した原始の生活にあっても、「道に迷った! 位置(緯度)も方角もまったくわからない! 死ぬ!」というようなパニック状態におちいることもなく、人類は天頂にめぐってくる銀河周辺の形状を地理代わりにして〔天頂緯度線と子午線〕をキャッチして緯度と方角を測定してたくましく巧(たく)みに生存したのである。
 後期縄文時代初頭、益氏は[(とう)]をキャッチして中国とわが国の中間の大海・玄界灘を横断して、わが国に【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を教えひろめた。
 この[]という字は、下の〔[]の解説図〕が示すように、「天頂緯度線と子午線をキャッチする能力」をあらわした。
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 下に、〔[]の字源解説図〕を配した。
 []の下に[(よう)]を加えると[]となる。[]の字源・字形・字義は「出産児の縦長の頭が横向きになって母体の横長の骨盤入口を通り抜けてから、せまい産道をくぐり抜けて出産児(生子)の頭が誕生するまで」を示している。つまり、[]は「必ず[](天頂緯度線と子午線)をキャッチすると欲を有すると[]のキャッチに失敗して位置と方位が不明になって命を落とすことになる。しかし、産道を通過する出産児のごとく無欲になれば[]はキャッチできて命を保障されて生き長らえることができる」という、「[]をキャッチするときの心得」をあらわした。
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 中国から日本列島に移住するには、『魏志倭人伝』が冒頭で「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」と記す「大海の、玄界灘」を征服しなければならない。だから、わが国に【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】をもたらした益(えき)氏は[]の心得をもって[](天頂緯度線と子午線)をキャッチして、[]の字が名に配される「玄界灘」を横断したことになる。

◆わが国に【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】をもたらした益氏について、中国の正史の司馬遷(しばせん)著『史記』の五帝本紀は「五帝時代の四番目の帝であった堯(ぎょう)が天下を治めた時に、益氏は挙用された」と伝える。
 『史記』五帝本紀には、【帝堯の時代初頭の星空図】が記述されている。この【帝堯代初頭の星空図】が説明する〔春分点〕の位置から、帝堯の時代は紀元前2500年頃であったことが明らかとなる。というのも、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の2回で解説したように、〔歳差(さいさ)〕という天文現象によって、その春分点の位置によってその星空の年代を知ることができるからである。
 『史記』五帝本紀に記述された【帝堯代初頭の星空図の記事】を要約して、現代語に訳すると下記のごとくなる。
 「昼夜が同じ長さで、鳥(北斗七星で最も光が強いおおぐま座ε星)が夕刻(午後6)に子午線通過(天の北極と北点の間の下経過)する日をはかって、春分を殷(ただし)定めた。昼が最も永(なが)いことと、火(か/「大火」ともいう、さそり座α星)が、日暮れ方に西南西の地平線近くに見える日をはかって、夏至を正した。夜と昼が同じ長さで、虚(きょ/みずがめ座のβ星)が日暮れ方(午後6)に正南に見える日をはかって、秋分を正した。昼が最も短いことと、昴(ぼう/おうし座の和名「すばる」)が日暮れ方(午後5時頃)に正南に見える日をはかって、冬至を正した。一年は三百六十六日、三年に一回閏月(うるうづき)をおいて四時を正した。」
 この【帝堯代初頭の星空図の記事】における四時(二分二至)における目星と春分点の位置からして、益氏が挙用された帝堯代初頭は紀元前2500年頃であったと解明できる。

◆「銀河」の別称は「銀漢」であり、「銀漢から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と言った。
 倉頡は、現在の天文学で通称「夏の銀河」と呼ばれる「夏の星座が漬()かる銀河の範囲」から【漢字】を作った。私は「夏の銀河」を「文字作成銀河」と名づけた。
 「文字作成銀河」の写真を、下に示した。
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 天文学はじめ諸々の分野の学問においても「《漢字の字源・字形となる原形・原義》を解説することができる文字作成銀河の各部の名称」を定めていない。ゆえに、〔字源となった銀河=字源となった銀河=字義となった銀河〕の解説・証明において非常に不便となるゆえ、私は下図のごとく銀河各部の名称を定めた。
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 【倉頡が発明した漢字作成理論】に従って――上記した【帝堯代初頭の星空図の記事】のおける「(1)春分点・秋分点と(2)夏至点と(3)冬至点をあらわす銀河部」が、上に示した〔文字作成銀河各部の名称図における上部の銀河範囲〕に配置された。
 下に、〔文字作成銀河各部の名称図〕に「春分・夏至・秋分・冬至の日における日の出・日没の太陽をあらわす銀河部の図」を配した。
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 上図に示すように、文字作成銀河における東端には「三つの輪が重なり合う、三つ輪の銀河」がある。(1)「三つ輪の銀河における北側の輪の銀河」は「正午の太陽の南中高度が最も高い、東北の地平線から昇る夏至の日の太陽」に見立てられた。ゆえに、(2)「三つ輪の銀河における中間にある輪の銀河」は「東の地平線から昇る春分の日と秋分の日の太陽」に見立てられた。また、(3)「三つ輪の銀河における南側の輪の銀河」は「正午の太陽の南中高度が最も低い、東南の地平線から昇る冬至の日の太陽」に見立てられた。
 また、上図に示したように、(1)「黄帝陵の天頂緯度線(北緯3536)に最も近い、大泉門の銀河」は、「夏至の日の、西北の地平線に没する太陽」見立てられた。そして、(2)「北天の最輝部の北側にある、⦿の形となる銀河(つまり、円形の銀河部とその中央にある白鳥座のγ星)」は「春分の日と秋分の日に、西の地平線に没する太陽」に見立てられた。また、(3)「長方形の暗黒天体部」は「冬至の日の西南の地平線に没する太陽」に見立てられた。
 上図に示すように、「十字の銀河」の南にある「日輪の銀河」は「一年中における正午に南中する太陽」に見立てられた。ゆえに、「日輪の銀河の中心と十字の銀河の中央を結ぶ線」は「正午の太陽」をあらわすことになったゆえ、[()]の字源・字形・字義となった。

◆下の図に示すように、「三つ輪の銀河」や「十字の銀河」がある銀河一帯は「木の葉が茂る部分の形状」に相似し、「鬼の姿に似る銀河」は「樹木の幹」に相似し、「人の横顔の酷似する銀河の頭部」は「樹木の根の部分」のイメージとなり、「人の横顔に酷似する銀河」は「樹木の根が張り延びる地中(土の中)」に見立てられる。これゆえ、「春分の日の西の地平線に没する太陽」に見立てられた「⦿の形となる銀河(つまり、円形の銀河部とその中央にある白鳥座のγ星)と北天の最輝部(さいきぶ)」がある「人の横顔に酷似する銀河」は「春になって、木の下の冬ごもりの巣の穴にこもるクマが目覚める横顔」に見立てられた。
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 もう一ヵ所、前述した「冬至の日の西南の地平線に没する太陽」に見立てられた「長方形の暗黒天体部」もまた、下の図に示すように「土中のクマの冬ごもりの巣」に見立てられた。ゆえに、「鬼の姿に似る銀河」は「クマが冬眠する土中の巣の上の堅い土の層」と「春になって冬眠から目覚めて、巣から出てきたクマの姿の姿」に見立てられた。
 だから、「鬼の姿に似る銀河」が[(のう)]の字源・字形・字義となった。
000060
 『説文解字』は[]に字を「能獣は堅中なり。故に賢能と称するなり」と解説する。つまり、『説文解字』は「能(クマ)は賢いゆえ土が崩落しない堅い土中に冬ごもりの巣を作って冬眠する。ゆえに、能(クマ)は賢く優れた能力を有すると称される」と解説した。
 『説文解字』が[]の字を「賢能と称するなり」と解説したように、「クマ」を意味する[]の字は「賢い才能や知恵」をあらわし、また「せまい産道をくぐり抜けて出産児の命が湧きあがるがごとく生まれる、出産児の頭蓋骨の神秘的な機能」をあらわすことになった。
 だから「せまい産道をくぐり抜ける出産児の頭蓋骨の仕組み」を産婦人科では「広形機能」と名づけられたように、[]の字は「本能」、「機能」など、また「賢い才能や知恵」にもとづき[]の字は「知能」、「能力」、「能率」「効能」、「技能」などという語に用いられた。
 この[]の字源・字形・字義の秘密は、この回の後半にて、益氏が日本列島に定住した歴史を伝える「黒歯(こくし)国」という小国の秘密の解明で必要となる。

◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が1回から前回(13)まで解説し証明したように――[]の下に[]を加える[]も人偏に[]を加える[]も、倉頡が創った[]の字源・字形の原形・原義をそのまま受け継いで「地平線より外(外界)となる、遠い土地の地理における方位規定は時計回りに90度ずつ転回する。つまり、北→東・東→南・南→西・西→北となる」とあらわすことになった。
 下に、[][][]の字源銀河の解説図
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 『魏志倭人伝』は「現在の長崎県対馬」の小国名を「対馬国」と記し、「現在の長崎県壱岐」の小国名を「一大国」と記す。そして、『魏志倭人伝』は「対馬国の南の一海(瀚海)渡る千余里にして、一大国に至る」と説明する。したがって、「対馬国と一大国の方位」は現在の日本地図の方位規定と同じであるゆえ、[]の字の「時計回りに90度ずつ転回する方位規定」に合致しない。
 これゆえ、『魏志倭人伝』は「現在方位と同じ対馬国・一大国の水平線から外界となる、本州・日本列島地理における方位規定は[]の字源に則(のっと)る。つまり、東海地方(愛知県・静岡県)は現在の日本地図だと九州の〔東〕に所在するが――卑弥呼王朝は、東海地方は90度転回して〔南〕に所在すると制定した」と説明していたことになる。
 卑弥呼が[]の字源に則って「本州・日本列島地理における〔東〕は〔南〕に転回する」と制定した転回日本列島地理を下に配した。
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 上の転回日本列島地図に示したように、また、前回までのわがブログで詳細に解説して証明したように――『魏志倭人伝』が「邪馬壱国に至る、女王の都する所なり」と伝える「倭人国の首都が所在した邪馬壱国の中心地」は「山陰・出雲、現在の島根県の東部(現在方位)」であった。
 九州説と畿内説を主張する学者たちは倭女王・卑弥呼が居住した王国名は「邪馬台国」であったと断定するが、『魏志倭人伝』には「邪馬壱(やまい)国」と書き記されている。
 卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)において、邪馬壱国の中心となる山陰・出雲には「邪馬壱(やまい)」という語を表示する地宜が存在した。
 下に、[]の字源にもとづく卑弥呼時代の出雲の地図(地宜)を示した。
 前回のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」までにおいて、[]の字源は「フタコブラクダ」であることを詳細に解説して証明した。 
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 上の「卑弥呼時代の出雲の地図」の左上に「神門水海(かんどのみずうみ)」がある。
 下に図示したように、「神門水海」は「経度線と緯度線に邪(なな)めとなる、また馬・フタコブラクダの姿」に相似する。だから、「神門水海」は「邪(なな)め」の[][]をあらわす地宜であったゆえ、「邪馬」をあらわした。
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 下の図に示したように――卑弥呼時代の宍道湖(しんじこ)の地宜は「人の、膝(ひざ)から下の足の形」に相似し、その「爪先(つまさき)」は転回方位の〔西〕を指差した。したがって、「宍道湖の地宜」は「十字の銀河の右足(西側の足)」に相当すると見立てられた。前回までのわがブログは、「十字の銀河の右足(西側の足)の東に隣接する、十字の銀河の子宮」が[]の字源・字形の原形・原義であったことを解説し証明した。ゆえに、「十字の銀河の右足(西側の足)」に相当する「宍道湖の南岸(転回方位)」に面して佐太神社が鎮座する「島根半島の中央部」が[]をあらわした。
 下に、[]の字源地宜となった「佐太神社が鎮座する、島根半島中央部の地宜」を示した。
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 卑弥呼時代、出雲の「神門水海の地宜」は「邪馬」と表示し、「島根半島中央部の地宜」は[]の字源・字形の原形・原義をあらわしたゆえ、卑弥呼は「邪馬壱の地宜」を有した出雲に居住していたことになる。
 なお、黄帝や倉頡が生存した五帝時代初頭、「十字の銀河」は中国全土の各地の天頂にめぐってきて[](天頂緯度線と子午線)をキャッチして1度の60分の11分の誤差内で緯度が精確に測定できる、人々が命をまもった羅針盤となった。
 「十字の銀河の西側半分」には、「乳房」「妊婦の腹部」、「右足(西側の足)」に相似する箇所があり、また[]の字源・字形の原形・原義となった「子宮、あるいは生殖器に相当する箇所」もある。この「十字の子宮」は「十字の銀河の右足(西側の足)の東隣」となる。
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◆『魏志倭人伝』には「女王国(邪馬壱国)より東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆倭種(みなわしゅ)なり」という記事がある。
 []の字源・字義となった「時計回りに90度ずつ転回する方位規定」に従うと、「現在方位の〔北〕が[]の転回方位だと〔東〕となる」ゆえ、「邪馬壱国・出雲の島根半島中央の真北に所在する隠岐群島」が「女王国の東の海に所在する、皆倭種なりの小国」となる。
 隠岐群島は知夫里島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島で構成される島前(どうぜん)と、その東北にある最も大きな島の島後(どうご)4つ大島と約180の小島からなる。したがって、「4つの大島と約180の小島からなる群島」は「皆」とあらわされることになった。だから、『魏志倭人伝』には「隠岐群島」は「皆倭種なり」と説明されることになった。
 []の字源・字義となった転回方位にもとづくと、現在方位の〔北〕が転回方位の〔東〕となるゆえ、「本州・日本列島の北にある日本海」が「〔東〕の海」となる。日本海には「皆倭種なり」という記述に合致する「群島」や「諸島」は「隠岐群島」だけ一ヵ所となる。だから、転回方位で隠岐群島の〔真西〕となる島根半島・出雲が倭女王・卑弥呼が居住した邪馬壱国であったことになる。
 ゆえに、卑弥呼が居住した王国は九州にも畿内にも所在しなかった。

◆「皆倭種なり」と説明された隠岐群島の次に説明される小国は、今回のブログのテーマとなる「侏儒(しゅじゅ)国」、侏儒国の次は「裸()国・黒歯(こくし)」である。
 前述したように、「侏儒国、裸国、黒歯国」という三小国には「紀元前2500年頃の帝堯時代初頭に挙用された益氏の子孫が日本列島に定住して【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を教えひろめた」という歴史が秘められている。
 『魏志倭人伝』は侏儒国について、下記のごとく説明する。
 「又、侏儒国有り。その南に有り。人の長(たけ)三、四尺、女王去ること四千余里」
 []の字源をあらわす〔西〕を〔北〕にする転回方位規定にもとづくと、「女王(女王国・邪馬壱国)を去ること四千余里」という旅程記事からして、「旧国の加賀、現在の石川県南部(現在方位)」が「侏儒国」であったことになる。
 つまり、下の図に示したように、「加賀が侏儒国、越中が裸国、能登が黒歯国」であった。
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 上の図における「裸国」の右上に配したイラストは――首から胸部の襟元(えりもと)は夏の陽射しで肌が黒く焼ける裸(はだか)の部分となるゆえ、越中・現在の富山県の小国名は「裸国」となった――と説明する補足図である。
 『魏志倭人伝』には「衣を作ること単被(たんび)の如(ごと)く、其の中央を穿(うが)ち、頭を貫きて之(これ)を衣()る」と説明する記事がある。この「大きな単(一つの)布を中央で二つ折りにして、その中央に頭を貫通する穴を開けて被(かぶ)る衣服の襟元」は「V字形の襟元」もあったであろうが、上のイラストのごとく「横長のU字形の襟元」を指していると考えられる。というのも、「単被告(衣服)の中央の穴」は「楕円形もしくは円形となる骨盤入口」に模()して(見立てて)作られ、「単被の穴を貫く頭」は「頭が誕生した娩出期(べんしゅつき)終わりの出産児」に見立てられたと考えられるからである。また、「富山県・裸国の地宜」は「横長のU字形」に類似するゆえ、その夏服・単被の襟元は「U字形」であったと考えるべきことになる。

◆話題を「侏儒国」にもどすと――『魏志倭人伝』は侏儒国について「人の長(たけ)三、四尺」と説明する。この記事は幾人かの学者によって「侏儒国には身長が三、四尺(九十センチから百二十センチぐらいの小人が住んでいた)」と解釈された。しかし、[]の字源銀河は「侏色(赤色・桃色)、つまり熟した桃の実のごとく赤く輝く、鬼の横顔に似る銀河」である。『説文解字』は[]の字を「柔(やわらか)なり」と解説する。というのも、[]の字源銀河は「鬼の横顔に似る銀河」であり、「鬼の横顔に似る銀河」は「せまい産道を通過する出産児の柔らかい頭蓋骨」に見立てられたからである。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の11回で詳細に解説したように――「産道を通過する出産児の頭蓋骨」にある「小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)・前頭骨(ぜんとうこつ)・頭頂骨(とうちょうこつ)・後頭骨(こうとうこつ)」には「骨を重ね積み合わせることができる機能」がある。ゆえに、この頭蓋骨の機能(仕組み)によって、出産児はせまい産道を通りぬけることができる。この「せまい産道を通りぬけるときの小泉門・矢状縫合・大泉門・前頭骨・頭頂骨・後頭骨の動き」は「草をモグモグと食べる馬・フタコブラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴが邪(なな)めとなる形状」にソックリであるゆえ、卑弥呼は「邪馬壱(やまい)」と名づけた。「邪馬壱」の[]は「母体の骨盤と産道」を意味した。ゆえに、「邪馬壱」という語は「出産児の頭蓋骨のパーツが重ね合わせて、せまい産道を通りぬけることができる機能」を意味した。
 「侏儒」の語源となった「鬼の横顔に似る銀河」には〔その顔に目が二つあり、その後頭部とアゴにも目が二つ〕あるゆえ、「四つ目の銀河」となる。
 倉頡伝説では、倉頡は「四つ目の怪人」と呼称される。つまり、倉頡伝説は――「倉頡」は「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」に見立てられ、「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」は[][]はじめ[][][][][][][][][]など様々な字源・字形・字義となった――と伝えていたのである。
 前述したように、「歳差(さいさ)」という天文現象を利用すると、黄帝と倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代初頭における中国全土の各地の天頂にめぐってきた銀河を知ることができる。
 下の図に示すように、五帝時代初頭、「十字の銀河」と「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」が中国各地の天頂にめぐってきた。「十字の銀河」と「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」は、中国各地の人々が[](天頂緯度線と子午線)をキャッチして精確に緯度と方角を測定する、最も大事な命をまもる羅針盤となった。
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 下の図に示すように、「十字の銀河」は[]の字源となり、「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」は[]の字源となった。これゆえ、「十字の銀河」は「天上の(天頂にある)羅針盤」に見立てられ、[]の字源「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」は「中国の各土(各地)」に見立てられた。また、「四つ目の銀河(鬼の横顔似る銀河)」は「天上の羅針盤(十字の銀河)を見上げて精確に緯度と方角を測定する中国各地に住む人(人々)」に見立てられた。だから、「四つ目の銀河」は五帝時代や夏代初頭に[]の字源となり、「倉頡」に見立てられた「四つ目の銀河」は倉頡伝説では「四つ目の怪人」と名づけられた。
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◆上図における[]の金文形、そして契文形(甲骨文字の字形)も〔成長した少年・少女や、成人の側身形〕を図案するものではない。[]の古代字形は「産道を通過する出産児」に見立てられた「四つ目の銀河」をあらわすため、「少し膝(ひざ)を屈した図案」をもって「産道を通過する出産児の側身形」を表現すると定められた。これゆえ、白川静著『字統』は[]の字形について「人の側身の形。いくらか膝を屈する形に作る」と解説する。
 前述したように、[]の字における[]の下の[(よう)]は「必ず[](天頂緯度線と子午線)をキャッチすると欲を有すると[]がキャッチできずに道に迷って命を失う。しかし、産道を通過する幺(出産児)のごとく無欲になれば[]がキャッチできて生存できる」という、つまり「遠くの地に旅する人や大海を往来する人の[](天頂緯度線と子午線)をキャッチする心得」をあらわした。ゆえに、人にとって「いのちあってのものだね」で【命】が最も大切であるゆえ、[]の古代字形(契文と金文の字形)は「産道を通過する出産児の膝を少し曲げた側身形」で統一されることになったのである。
 上記したように、「侏儒」すなわち「侏色(赤く)頭蓋骨が柔らかい、産道を通過する出産児(赤ん坊)」に見立てられた「四つ目の銀河」は[]の字源であった。
 だから、『魏志倭人伝』の「又、侏儒国有り。(中略)。人の長(たけ)三、四尺」という記事には「人」が登場する。ゆえに「人の長(たけ)」という語句は――「侏儒」の語源「四つ目の銀河」は[]の字源であったゆえ、[]の字源と「侏儒」の語源となった「四つ目の銀河」の見かけの大きさは三尺(九十センチ)、四尺(百二十センチ)ぐらいである――と説明していたことになる。
 上掲したように、黄帝と倉頡が生存した五帝時代初頭には「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)の角(つの)の先端と後頭部につく目の眼球中央は、ともに黄帝陵の天頂緯度線(北緯3536)が貫通していたゆえ、「四つ目の銀河の角の先端・後頭部の目の眼球中央からアゴにつく細い切れ目の東端(小さい黒点をつけた箇所)までの長(たけ)、すなわち見かけの大きさは「四度三六分」言いかえると「四・六尺」であった。ところが、『魏志倭人伝』は――卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の「四つ目の銀河」は五帝時代の傾きと変わり、五帝時代における見かけの大きさより「約〇.六度・約〇.六尺」短い――と伝えている。
 だから、下の図に示すように、『魏志倭人伝』は――卑弥呼時代の「四つ目の銀河における角(つの)からアゴまで」は約四尺(四度)、「後頭部につく目の中央部からアゴまで」は約三尺(三度)である――と説明していたことになる。
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以上のごとく、「侏儒国・旧国の加賀の地宜」は上の図に示すように、「左・東に向く顔または右・西に向く顔となる四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」に見立てられた。

◆『魏志倭人伝』における「侏儒国」の説明記事の後には、次の文がつづく。
 「又、裸()国・黒歯(こくし)国有り」
 下の図における「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」と「コールサック」は天文学にて用いられる名称である。
 「北天の最輝部」という名称は「北半球に住む人々が最も輝いて見える銀河部」と意味する。ゆえに、「北天の最輝部」は「陽射しが強い夏の太陽」のイメージとなった。ゆえに、「北天の最輝部」の東隣の「コールサック(石炭を入れる袋のごとく真っ黒な天体部)」は、下の図の下部に示したように「夏の強い陽射しで肌が黒く焼けた女性の裸体」または「夏の陽射しで襟元(えりもと)が黒く焼けた夏の衣を着る女性の胴体」に見立てられた。
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 上の〔「侏儒国・裸国・黒歯国」の銀河図〕において、「侏儒国」に見立てた「四つ目の銀河」の西隣の「鬼の身に相当する銀河」は「侏儒・出産児の胴体」であるゆえ「裸(はだか)」となる。しかし、「鬼の身に相当する銀河」は「旧国の越中、現在の富山県の地宜」に相似しない。「富山県の地宜」は「横長のU字形」であるゆえ、「コールサック北部」にもとづいて小国名は「裸国」となったと考えるべきことになる。つまり、上の図の下部に示した「裸」と記した「夏の陽射しで黒く焼けたU字形の襟元(コールサックの北部)」によって、卑弥呼は「富山県」の小国名を「裸国」と定めたことになる。
 このブログの前半部にて〔[]の字源銀河の解説図〕を用いて解説したように――上の図の左上にある「長方形の暗黒天体部」は「能(クマ)の土中の冬ごもりの巣」に見立てられて、[]の字源が成立した。〔注 「長方形の暗黒天体部」の北隣の「鬼の姿に似る銀河(四つ目の銀河・鬼の身に相当する銀河)」が[]の字源・字形の原形・原義となった〕。
 卑弥呼は「土中の能(クマ)の冬ごもりの巣」に見立てられた「長方形の暗黒天体部」を「旧国の能登の地宜」に見立てて、彼女は「能登・現在の石川県北部(現在方位)」の小国名を「黒歯国」と定めた。 
 下の図に示すように、[]の字源銀河「長方形の暗黒天体部」は「人の口」、「河口」、そして「骨盤入口、骨盤出口、産道の入口と出口(外子宮口・膣口)」に相似すると見立てられて[][]の二字の字源となった。ゆえに、『説文解字』は[]の字源について「口歯の形に象(かたど)る」と解説する。
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 「黒い長方形の暗黒部」の「黒」に[]を加えて、卑弥呼は旧国・能登の小国名を「黒歯国」と定めた。というのも、能登の「七尾湾(ななおわん)の地宜」は「[]の字源地宜」にも「「歯]の字源地宜」にも解釈できるからでる。ゆえに、「七尾湾に包囲される能登島(のとじま)」は「口の中にある食べ物」に見立てられたことになる。

◆上記したように――「侏儒国・旧国の加賀の地宜」は「左・東に向く顔または右・西に向く顔となる四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」に見立てられた。ゆえに、卑弥呼は「右・西に向く侏儒(出産児)の顔」を「春分の日に西の地平線に没する太陽」に見立て、「左・東に向く侏儒の顔」を「秋分の日の東の地平線から昇る太陽」に見立てたことになる。
 「裸国・旧国の越中の地宜」は「夏の陽射しで裸(はだか)となる黒く焼けた襟元(胸のあたり)」であったゆえ、卑弥呼は「越中」を「夏の太陽が輝く国土」と見立てたことになる。
 上記したように、卑弥呼は「旧国の能登の地宜」を[]の字源「長方形の暗黒天体部」に見立てて、「旧国の能登」の小国名を「黒歯国」と定めた。卑弥呼が小国名と定めた「長方形の暗黒天体部」は、前述したように[]の字源を成立させる際に「能(クマ)が冬眠する土中の巣」と見立てられた。
 だから、「侏儒国・裸国・黒歯国の三国の地宜」は互いに関連しあって「侏儒国は春分点・と秋分点」、「裸国は夏至点」、「黒歯国は冬眠するクマから冬至点」をあらわした。
 現在の地図において石川県北部の能登半島の東部にある七尾湾(ななおわん)北部には穴水(あなみず)町があり、七尾湾南部には七尾市がある。
 下の図のごとく、七尾湾の〔南〕にある七尾市は〔西〕に転回し、七尾湾の〔北〕にある穴水町を〔東〕へ転回する地理方位は、「南→西・北→東」となるゆえ[]の字源「時計回りに90度ずつ転回する方位規定」をあらわす。〔注、下の図は現在地図の能登半島の〔北〕を〔東〕に転回する地図となるゆえ、[]の字源をあらわす〕。
 そして、「七尾湾」は「能(クマ)が冬ごもりする土中(地中)の巣」、「能登島の地宜」は「メスクマが冬ごもりの巣で出産した子グマ(新生子)の姿」に相似する。
 この「[]の字源をあらわす能登の地宜図」は「出入口から低くなる地下(土中)にある巣に入って、巣にこもる子能(子グマ)」をあらわすことになった。
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 下の図が示すように、[]の転回方位によって「七尾湾の湾口」は〔南〕となる。この「七尾湾の湾口が〔南〕となる地宜」の場合、上の図では七尾市は〔左西〕にあるが下の図では〔右西〕となって〔左右〕が反転する。同様に、上の図では穴水町は〔右東〕にあるが、下の図では〔左東〕となり、〔左右〕が反転する。
 下の図は、現在地図における能登半島の〔北〕が〔西〕、〔南〕が〔東〕となるように転回する地図である。だから、下の図における方位は「北→西・南→東」と転回するゆえ、[]の字源「反時計回りに90度ずつ転回する方位規定」をあらわす。
 そして、下の〔[]の転回方位の能登図〕の「能登島の地宜」は「地下(土中)の巣の穴から正午の太陽が輝く〔南〕へ向かって、巣から出入口へとつづく坂を登って土上へ現れる子能(子グマ)の姿」に見立てられた。
 ゆえに、下の〔[]の転回方位の七尾湾・能登島図〕は「正午の太陽が照らす南に向かって、巣の穴からの坂道を登って土上へあらわれる能(子グマ)」と解釈され、この解釈は「能登」と略称され、「現在の石川県北部(現在方位)」の旧国名は「能登」となったことになる。
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〔注 前述したように「長方形の暗黒天体部」が「能(クマ)の冬ごもりの巣」に見立てられた理由は――子宮の胎児は生まれるまで便(うんち)を出さないと同様に冬眠するクマは巣の穴に便をしない――この共通性によると考えられる。出産で産道を通る時におなかがおされ、生子のおしりから初めて緑色の便が出てくる。だから、「嬰児」は「みどり()ご」と呼ばれたのであろう〕。

◆上に示した〔[]の転回方位の能登図〕と〔[]の転回方位の能登図〕にもとづいて、黒歯国・能登からの次の旅程について――『魏志倭人伝』は「黒歯国有り、復()た其の東南に在りて船行一年にして参問至る可()き。倭の地を参問するに、(中略)。周旋(しゅうせん)五千余可(ばか)り」と説明する。
 上の文中にある「参問」は「社寺に参拝する、参詣(さんけい)」を意味した。
 〔北〕に社寺の建物が〔北〕にあり、参道の出発点(出入口)は〔南〕にある社寺に参拝する人は、入口から社寺に向かった時の右手は〔東側〕」にあり、社寺の建物から出口(出発点の入口)にもどる時は左手が〔東側〕にある。この「右手・東」は[]の字源をあらわし、「左手・東」は[]の字源をあらわす。だから、[]には「まじわる」という字義がある。したがって「社寺に願いごとする人は[][]の字源をあらわして、参道を行き来する」ことになるため、[]の字義は「まじわる」となった。ゆえに、「参拝」・「参詣」・「参問」という語における[]の字義は「まじわる」である。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の11回の後半部で詳細に解説し証明したように――骨盤入口から産道を通りぬける出産児は4回の回旋をおこなう。第1回旋と第4回旋は[]の字源「時計回りに90度の転回」となり、第2回旋と第3回旋は[]の字源「反時計回りの90度の転回」となる。
 この産婦人科の医学用語「回旋」を、『魏志倭人伝』は「周旋」と記した。上記した黒歯国・能登からの旅程記事末部の「周旋五千余里可り」の「周旋」は、産婦人科の医学用語では「回旋」と称される。したがって、「周旋」は「360度の円周する」ということではなく、「1回の回旋」と同義で「産道を通過する出産児の頭の時計回り、あるいは反時計回りに90度の転回」を意味したことになる。
 「周旋」という語は現在「両者の間に入って世話をすること」を意味し、「世話」は「他人のために骨を折ること」を意味する。前述したように、[]の字源は「回旋(周旋)して産道を通過する出産児」と定められて、[]の字形は「産道を通過する出産児の姿」を「背骨を丸めて全身の骨(骨格)を折るように膝(ひざ)を屈する姿勢」に図案すると定められた。ゆえに、「周旋」は「[]の字形は、背中に荷物をかつぐ時のごとく人骨(骨格)を折る形」であるからして「骨を折る」、そして「骨を折る」から「世話をする」という転義になったと考えられる。
 だから、「周旋」の原義は「産道を通過する出産児の頭の時計回り、または反時計回りの90度の転回」であり、現在の産婦人科の用語「回旋」と同義であったことになる。
 これゆえ、黒歯国・能登からの「周旋五千余里可り」という文で終わる旅程記事を図にすると、下の図のごとくなる。
 『魏志倭人伝』の「黒歯国有り。復()た其の東南に在りて船行一年にして参問至る可()き」という文中にある「東南」は、上の図の右下の「[]の転回方位」にもとづく〔東南〕」であった。この「[]の転回方位」にもとづく「東南」には「男鹿半島」がある。
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 『魏志倭人伝』における上記の「復た其の東南に在りて船行一年にして参問至る可き」の後に続く記事は「倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し」である。
 上の図に示したように、黒歯国の七尾湾から船行すると新潟県の佐渡に到着する。この「佐渡」が「倭の地を参問するに、海中洲島」であったことになる。そして「佐渡から新潟県の粟島(あわしま)までの海」を「海中洲島の上に絶在し」と表現していたことになる。
 「佐渡から粟島までの海」を説明する記事の後に続く文は「或いは絶え或いは連なり、周旋五千余里可り」である。上の〔黒歯国・能登から男鹿までの周旋船行図〕における「佐渡から船行して粟島に至り、粟島から山形県の飛島(とびしま)を経て男鹿半島の船越水道(ふなこしすいどう)までの旅程」を「或いは絶え或いは連なり」と表現し、「黒歯国の七尾湾から男鹿半島の船越水道までの旅程」を「周旋五千余里可り」と、『魏志倭人伝』は記述したことになる。

◆下に図示する「船越水道・八郎潟と男鹿半島・米代川縄文文化圏」は、後期縄文時代初頭、わが国に【夏音文字の学芸と精密地図(地宜)作製方法】と【倉頡が発明した漢字作成理論】と【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究】が伝来した地であった。
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 わが国では紀元前4000年頃の前期縄文時代初頭、関東地方で土器造形革命が起き、中期に入って芸術性に優れた装飾性豊かな土器・土偶が作られるようになり、紀元前2000年頃の後期縄文時代初頭において土器・土偶文化が栄えた。前期初頭から後期初頭までの約2000年の伝統を受け継いた芸術家たちは、倉頡が漢字を作った「夏の銀河(文字作成銀河)」の各部の形状をモデルに、しかも「女性の生殖器と子どもの出産」、つまり「命」をテーマにする土器・土偶を多数作った。だから、東北地方から関東地方までの土器・土偶を作った芸術家たちは【倉頡が発明した漢字作成理論】を理解できたゆえ習得されることになった。そして、おのずと【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究と夏音文字の学芸と精密地図(地宜)作製方法】もまた、芸術家たちによって習得された。
 上に示した〔船越水道・八郎潟と男鹿半島・米代川縄文文化圏の図〕における「船越水道」を「子宮口(外子宮口/がいしきゅうこう)から「膣口(ちつこう)までの産道」に見立てると、「八郎潟」は「女性の子宮、あるいは生殖器」に見立てられることになる。
 「子宮口に相当する船越水道」から夏至の日の出の方角の花輪盆地に、後期時代初頭の「国の特別史跡・大湯環状列石遺構(おおゆかんじょうれっせきいこう)」が所在する。
 下の図に示すように、秋田県鹿角(かづの)市花輪町大湯中通りに所在する大湯環状列石遺構は西側が直径48メートルの万座(まんざ)遺跡、東側は直径42メートルの野中堂(のなかどう)遺跡である。野中堂遺跡と万座遺跡には、「日時計組石」と名づけられた特殊組石がある。《野中堂遺跡の中心・日時計組石の中心》と《万座遺跡の中心・日時計組石の中心》を結ぶ線は「夏至の日没方向」を指差す。したがって、「夏至の日没方向」は【夏音文字の学芸】をあらわすゆえ、国の特別史跡の大湯環状列石遺構は【倉頡が発明した漢字作成理論、黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究、夏音文字の学芸、精密地宜作製方法】をひろめるために造った学問施設であったことになる。
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 〔注 野中堂遺跡の「日時計組石」は「帝堯代に〔鳥〕と名づけられた、つまり地平線下に沈まない周極星の強い光を放つ北斗七星の第5星・おおぐま座ε星」を利用して《日々の午前零時を測量する装置》であり、野中堂遺跡の中心に垂直に柱を立てて、《日々の正午の南中高度を記録》して、《その日の正午の南中高度の位置を、その日の午前零時の黄道上の太陽の位置と定めて、春分点・夏至点・秋分点・冬至点、つまり黄道を測量する装置》であったと考えられる。また、万座遺跡の中心に垂直に立てた柱で《文字作成銀河各部の高度と方角》を測量し、日時計組石を《文字作成銀河の高度と方角の記録装置》にして、文字作成銀河を地面に図化した。ゆえに、万座遺跡の東側の外帯の地面に文字作成銀河が図化されたため、その平面図には文字作成銀河の形の面影が残っているゆえ、万座遺跡東側外帯の石を集めて形成した平面図(地宜)は文字作成銀河図であったと考えられる〕。

◆船越水道・八郎潟が所在する男鹿・米代川文化圏は、名門の益(えき)氏が中国から渡来して定住して、わが国に【倉頡が発明した漢字作成理論】、【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究】、【夏音文字の学芸】、【精密地宜(地図)作製方法】を教えひろめた本拠地であった。
 前述したように――中国の正史・司馬遷著『史記』五帝本紀に「五帝時代の四番目の帝王・堯帝の時代から挙用された」と記述された――名門・益氏の子孫が日本列島に定住した。
 紀元前2250年頃~紀元前2200年頃(わが国では中期縄文時代後半)、五帝時代の最後の舜(しゅん)帝時代に、益氏の首長は「虞()」という重職に就()いた。「虞」は「調査測量して正確な中国海岸線地図を作製する官職」であった。五帝時代が終わり夏后(かこう)時代が始まるまでの約200年、益氏は代々、「虞」の重職についていた。だから、夏代(夏后時代)が起源した紀元前2070年の夏代初頭、益氏は最も正確な中国海岸線地図を知っていて、当時における最先端の精密地宜(地図)作製方法を開発していた。
 “夏の始祖”の禹帝(うてい)が会稽(かいけい)で崩御したとき、天下を帝禹の政治を補佐した益氏の首長にさずけた。しかし、諸侯はみな帝益を去って、禹の子の啓(けい)に入朝した。帝禹は「五帝時代と同じく、国家を建設しないで多数の氏族が協力しあって、多くの氏族の中で最も優秀な人物を帝に選ぶ政治体制」を主張したが、子の啓は父の帝禹の氏族共同体制に反対し「国家を建設して、優秀な氏族が帝位を世襲する政治体制」を主張した。ゆえに、帝禹は臨終の際に、益に「国家を建設せず、氏族共同体制を継続」を遺言した。これゆえ、禹の遺言「氏族共同体制」に反対し啓の主張「世襲王朝体制」に賛成して諸侯が啓に入朝した状況から、〔中国では、もはや氏族共同体制の継続は不可能〕と悟った益は、帝位を啓にゆずって箕山(きざん)の南の地に隠棲(いんせい/隠居)した。益は、亡き帝禹の遺志を継ぐため、日本列島に「五帝時代以来の氏族共同体制」を広めるために移住を決意した。しかし、益氏の首長は年老いていたゆえ、大海・玄界灘を小舟で漕いで横断することができる体力を失っていた。だから、〔帝禹の遺志を継ぐ、氏族共同体制継続の日本列島移住事業〕は、帝であった益の孫の王子と益氏の若者たちによって決行された。
 ゆえに、『日本書紀』巻第三・神武天皇紀の初頭部は――天祖の彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)一行は天のいわくらを開き、雲路をおしわけて、先払いをたてて新天地(男鹿・米代川縄文文化圏)に鴻(おおとり)が荒野に舞い降りて棲みつくがごとく定住された。このとき、この新天地から関東地方までの東日本一帯は野蛮で草深い学問が存在しない文化・文明の低い未開地であった。このような状況にありながら、みずから正しい【銀河から倉頡が発明した漢字を作る学問と芸術】を新天地の人々に教え養って、日本列島の東北地方における西の偏(ほとり/八郎潟の東岸地域)に居住して治めた――と記述している。
 この益氏の日本列島・東北地方の定住について、司馬遷著『史記』陳杞世家(ちんきせいか)は「帝王となった益氏の子孫は、中国のどこに封ぜられたか不明である。史伝に記載されていないからである」と記述する。帝禹の後を継いだ帝益の後継者である、孫の王子と若者たちは玄界灘を横断して日本列島の東北地方に定住した。このため、名門益氏は中国の歴史から忽然(こつぜん)と消えたのである。
 『魏志倭人伝』には「古(いにしえ)より以来、其の使、中国に詣(いた)るに皆自(みずか)らを大夫と称す」という記事がある。「大夫」の2字は万葉仮名(『万葉集』)では「ますらを」と読む。「ますらを」は、今日、「益荒男」と表記する。ゆえに、古代の倭の使者たちは「天祖の益氏の王子と若者たちが、波が逆巻(さかま)く荒々しい玄界灘を往来したように、吾(われ)も玄界灘を征服して中国に到着できた」と誇示して、皆がみな「大夫」と称していたことになる。これゆえ、現代の「益荒男」は「益氏の王子と若者たちが玄界灘を横断した歴史」に由来して「勇気ある、雄々しく立派な男子」と意味することになった。

◆夏代初頭に帝位に就き、中国の正確な海岸線地図を作製する重職「虞」に代々約200年間も従事した名門・益氏の王子と若者たちは、玄界灘を征服して、紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)、日本列島の東北地方の男鹿半島・米代川縄文文化圏に本拠地にしてわが国に定住した。だから、わが国は【倉頡が発明した漢字作成理論】と【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究】と【夏音文字の学芸】と【正確な中国海岸線地図と精密地宜(地図)作製方法】を習得することができた。
 その証拠に、大湯環状列石遺構の北方は、本州北端となる下北半島・陸奥湾・夏泊(なつどまり)半島・津軽半島が所在する。
 この「本州北端の下北半島・夏泊半島・津軽半島」は[]の字源「フタコブラクダ」を明確に示す。というのも、「下北半島」は「フタコブラクダの横顔と首」、「夏泊半島」は「フタコブラクダの前のコブ()」、「津軽半島」は「フタコブラクダの後ろのコブ」にソックリであるからである。
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 『魏志倭人伝』は「対馬国と一大国の中間の海は瀚海(かんかい)であった」と伝える。「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味する。フタコブラクダは「沙漠の船」といわれ、ゴビ沙漠に住む人々にとって欠くことができない大切な家畜である。「フタコブラクダ」は「船」と呼ばれたゆえ、「ゴビ沙漠」は「瀚海」という海であった。上図の本州北端の地宜における陸奥湾中央に突き出る半島は「日中、夏の強烈な陽射しが刺す瀚海の港()に停泊する船・フタコブラクダ」を省略して「夏泊半島」と名づけられたにちがいない。だから、上の図における北緯4039分の緯度線上に東西にならぶ八甲田山と岩木山の冬の山頂は、夜になると厳しく寒くなる瀚海の気候と同じようになる。ゆえに、「八甲田山と岩木山」は「フタコブラクダが〔船〕と呼ばれて往来した瀚海・ゴビ沙漠」に見立てられたことになる。
 卑弥呼は「本州北端の地宜」が[]の字源「フタコブラクダ」を明確に示し、「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味することを知っていたゆえ、「対馬と一大国の中間の海」を「瀚海」と名づけたのである。
 東の下北半島と西の津軽半島に包囲される陸奥湾は、下に配する「女性の骨盤の正面の形」に相似する。ゆえに、陸奥湾の中央の夏泊半島の地宜は女性の仙骨(せんこつ)・尾骨(びこつ)に相似する。わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」で幾度となく繰り返して解説するように、「女性の骨盤」は[]の字源であった。
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 だから、下に配するイラストに示したように「下北半島の西岸」は「邪馬」となり、「陸奥湾」の[]が加わる「本州北端の地宜の、【邪馬壱】」は倭女王・卑弥呼が居住した王国名「邪馬壱(やまい)国」の由来を明確に伝えている。
 卑弥呼は後期縄文時代初頭に益氏が男鹿半島・米代川縄文文化圏に定住して【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を教えひろめた歴史を知っていた。だから、この歴史にもとづいて、卑弥呼は倭人国の首都が所在する王国名を「邪馬壱国」と定めたのである。
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 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の11回で詳細に解説したように――下に図示したように、「モグモグと草を食べる時の馬・フタコブラクダの横顔における、邪(なな)めとなる鼻・上アゴ・口・下アゴの動き」を、卑弥呼は「邪馬(やま)」と名づけた。
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 『魏志倭人伝』に登場する「邪馬国」は「旧国の大和、現在の奈良県」であった。
 下に示す「邪馬国・大和の地宜」は「鼻・上アゴ・口・下アゴを邪(なな)めにして、モグモグと草を食べる馬・フタコブラクダの横顔」にソックリである。ゆえに、約200年間代々[]の重職に従事した益氏がわが国に定住して【精密地宜作製方法】を教えひろめたゆえ、上図に示すように「大和の地図(地宜)」は「草を食べるフタコブラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴの横顔」にソックリに測量されたため、「邪馬」と名づけられたにちがいない。
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 現在、日本古代史学では、後期縄文時代初頭はじめ2世紀末~3世紀半ばの卑弥呼時代、精密地図作製方法は開発されていないと考えられているが――『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記される多数の夏音文字の字源・字義を解明すると、わが国は後期縄文時代初頭に益氏が【精密地宜(地図)作製方法】をもたらし、この史実を証明する古代に作られた地上絵(地宜)や庭園平面図(地宜)や文献史料がわが国には幾つか存在することが証明される。

 上記したように「東北地方の北端の地宜」が「邪馬壱」を示すことを知っていた卑弥呼は、倭人国の首都が所在地する王国名を「邪馬壱国」と定めた。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の11回で詳細に解説したように――「邪馬」は「せまい産道を通り抜ける出産児の頭蓋骨の〔小泉門・矢状縫合・大泉門と後頭骨・頭頂骨・前頭骨〕の重ね合わせることができる仕組み(機能)」であった。
 というのも、「産道をくぐり抜ける時の出産児の頭蓋骨の形状」は「モグモグと草を食べる時の馬・フタコブラクダの横顔における、邪(なな)めとなる鼻・上アゴ・口・下アゴの動き」にソックリだからである。
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 卑弥呼は「産道を通過する出産児の頭蓋骨の機能の形状」の「邪馬」に[]の字源となった「女性の骨盤・産道」を加えて、倭人国の首都所在地の王国名を「邪馬壱国」と定めた。
 倉頡は、卑弥呼が「邪馬」と名づけた「産道を通過する出産児の頭蓋骨の4回の周旋(回旋)における〔第1周旋と第4周旋〕にもとづいて〔時計回りに90度転回する方位規定〕を字源・字形・字義とする[]の字を考案し、〔第2周旋と第3周旋〕にもとづき「反時計回りに90度転回する[]の字を考案した。
 [][]の字は倉頡が創った[]の字源・字義をそのまま受け継いだ。
 だから、『魏志倭人伝』冒頭の「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」という文は「[]の字源・字義に則(のっと)って、本州・日本列島の〔西端〕の九州は〔北端〕に位置し、九州の〔東〕にある東海地方(愛知県・静岡県)は〔南〕に位置した。本州・日本列島は[]の字源に則って東方に延びずに南方に延びる」と説明していたことになる。

◆前述したように〔東北地方の北端の下北半島・夏泊半島・津軽半島の地宜〕は「馬・フタコブラクダが瀚海(ゴビ沙漠)の駅に足を折りたたんで休んでいる姿」にソックリである。
 だから、『魏志倭人伝』の「倭地には牛・馬は無し(生息しない)」という文中の[]の字は瀚海(ゴビ沙漠)に生息する「フタコブラクダ」を意味したと証明される。
 しかし、フタコブラクダは、わが国に生息しない。だけど、わが国に生息しないフタコブラクダは[]の字源となり、「産道を通過するときの出産児の頭蓋骨の様子」は「草を食べるフタコブラクダの鼻・アゴ・口の形」にソックリであり、この産婦人科で「広形機能」または「骨重積」と呼ばれる出産児の頭蓋骨の仕組みは【黄帝の医学研究における核心】を示すことになったため、卑弥呼は「邪馬壱」と表現し、倭人国の王国名を「邪馬壱国」とした。だから、日本列島に生息しなかったフタコブラクダは【黄帝の医学研究と倉頡が発明した漢字作成原理の核心】をあらわすため、卑弥呼は「邪馬壱国」だけでなく[]の字を「対馬国・投馬国・斯馬国・邪馬国」の4小国名にも用いた。ゆえに、[]の字銀・字形・字義は「フタコブラクダ」であると証明することができる。
 この【倉頡が発明した漢字作成理論において最も重要な学識】を、「銀河各部に名称をつけることを厳重に禁じて、漢字は銀河から作られたつくられた秘密」が守り通した中国王朝が卑弥呼王朝はじめわが国に絶対に教えるはずがない最も厳重なタブーであった。にもかかわらず【漢字作成理論における最重要な学識】を卑弥呼が知っていたことは、中国の夏代初頭にて帝位についた名門・益氏の王子がわが国に定住したからにほかならない。
 今回のブログで解説して証明したように――倉頡伝説にて「四つ目の怪人・倉頡」と表現された「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」にもとづいて、「旧国・加賀」の小国名を卑弥呼は「侏儒国」と定めた。
 「四つ目の怪人・倉頡」という表現は「漢字は銀河から作られた事実」を伝える役目を有していた。「四つ目の銀河・四つ目の怪人」は「十字の銀河」とともに、中国全土の各地の天頂にめぐってきて人々が命を確保して生存していくために精確に緯度が測定できる羅針盤となった。
 しかし、現代の学者たちは「人間には目が四つは無い! 倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)だ! 一人の人間が漢字を発明したという伝説は歴史的事実を伝えていない! 長い歴史の中で多数の人々によって発展してしだいに体系を整えられたと考えるべきである」と全面否定した。ゆえに、「倉頡が発明した歴史的事実」は徹底的に葬られることとなったため、現在「倉頡伝説は事実であった」と主張する人物は「非常識!」とただちに軽蔑されることになった。
 しかし、このブログが証明したように――『魏志倭人伝』の倭人国の30ヵ国の小国記事によって「倉頡によって漢字が発明されたことは事実であったことが科学的に証明できるゆえ、後世の人々が【倉頡が発明した漢字作成理論】に則って漢字数を増やした歴史的事実」も明らかとなる。だから、『魏志倭人伝』は「倉頡伝説は事実であった」と「文献批判」という主観を一ヵ所も加えずに科学的に証明できる正確な貴重な学問書であった。
 
◆だから、「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説は明確に虚偽説であった。
 その証拠に、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目において、「わが国の漢字音」と題して、次のごとく指摘している。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 音韻史研究によって、中国において現存する最古の漢字音は、下に配した「漢字生長史」に示したように、紀元前1046年から始まる周代初頭の「上古音」である。
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 上の「漢字生長史」が明確に示すように、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」と学界が主張する定説の漢字音は、中国において現存する最古の上古音よりも約1500年も新しいことになる。だから、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」という定説は上記した音韻史研究成果に反する空理空論であった。
 白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する字音は、わが国が後期縄文時代初頭に習得した夏音文字の漢字音である。この夏音文字の字音は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残っている。
 だから、学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する絶対的定説は【科学】が成立しない空理空論・虚偽説であった。
 これまで証明してきたように「夏音文字の字源・字形・字義」は「文字作成銀河の各部の形状」であった。
 “字書の聖典”と尊重された『説文解字』を著作した許慎(きょしん)は「漢字は文字作成銀河から作られた事実」を知っていた。
 ゆえに、この秘密を『説文解字』の序にある一文は「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古(しにしえ)を識()るなり」と伝える。
 つまり、『説文解字』の序は「銀河から作られた漢字は学問()と芸術の根本であり、銀河から作られた漢字は王政(王道政治)にとって“い”のいちばん・最初に必要不可欠な政権基盤であり、字源・字形の原形・原義となった文字作成銀河の各部の形状によって後人は古代の歴史を最も正しく知ることができる」と伝えていた。

▼以上のごとく、邪馬台国九州説と邪馬台国大和説は『魏志倭人伝』の全記事とまったく無関係の空理空論であり、日本人・日本文化・日本芸術・日本国などを形作った日本四千年の学問を根底から崩壊・破滅してしまう暴論であったのである。
 九州説と畿内説は、『魏志倭人伝』における最も大事な記事は「邪馬台国」に関する説明であると思い込む。
 しかし、『魏志倭人伝』は「倭女王・卑弥呼が居住した王国名」を「邪馬壱国」と書き記し、「邪馬台国」と記していない。また、『魏志倭人伝』は「邪馬壱国の中心地は山陰・出雲、現在の島根県東部であった」と説明している。そして、『魏志倭人伝』は【わが国における倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸の習得】を説明する学問書にして歴史書であった。
 約2000字で構成される『魏志倭人伝』は正確無比の文献史料であり、いっさい〔文献批判〕を必要としない史料であった。ところが、九州説と畿内説を主張する学者たちは「軽々しく『魏志倭人伝』の記事を信用してはいけない。なぜ信用してはならないのか、信用してはならないのはどのような点なのか、あるいはどのような〔文献批判〕を加えたならば信用できることになるのかなどを考えて、『魏志倭人伝』の記事を利用しなければならない」と定めた。しかし、【合理】や【科学】合理を成立させるために多くの〔文献批判〕を加えても、九州説と畿内説はいっこうに【科学】が成立しない。
 だから、九州説と畿内説の実体は完全なる空理空論・デタラメ・絵空事であった。

◆九州説と畿内説を主張する学者たちがなにゆえ『魏志倭人伝』の記事を信用しないで多数の【文献批判】を加える立論方法こそが正しいと思い込んだ原因は、『魏志倭人伝』は「本州・日本列島の東方は南方に延びている」と記述するからである。九州説と畿内説を力説する学者たちは「卑弥呼時代の人々も現代の日本人と同じく〔天の北極〕がある方向を〔北〕と定めていた。だから、日本列島の本州の東方が南方に延びていると、当時の人々は絶対に考えない」と思い込む。
 この思い込みが原因で、九州説と畿内説は空理空論・デタタメ・絵空事となった。 
 人類・ホモサピエンスは原始のときから、[](天頂緯度線と子午線)をキャッチして生活をいとなみ生きながらえて滅亡しなかった。〔天の北極〕では精確に緯度と子午線は測量できないため、太古の厳しい環境の中で生きていくことができる方法を失って途中で人類は全滅していた。
 『魏志倭人伝』の冒頭の「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」という文の先頭の[]の字は、倉頡が考案した[]の字源・字形・字義をそのまま受け継いで「時計回りに90度ずつ転回する方位規定」を秘めていた。つまり、[]の字は「人類は原始のときから生命を確保して絶滅しなかった[](天頂緯度線と子午線)をキャッチした、頭脳にそなわっていた本能行動」にもとづく地理観から生まれた方位規定であったゆえ、歴史的事実であった。だから、九州説と畿内説は卑弥呼時代において生命を確保するための方法であった〔[]のキャッチの慣習〕を無視・排除したため一気に空理空論となった。
 この他にも、九州説と畿内説が空理空論となった原因は5つ存在する。これゆえ、〔九州説と畿内説が空理空論となった6つの原因〕を下記のごとく要約することにした。
 というのも、現在はテレビや携帯電話などが普及したため、重大な発見・証明も短く説明しないと無価値とされることになったからである。したがって、江戸時代中期の新井白石以来約300年間、学者たちが最も正しい意見と信頼した九州説と畿内説は『魏志倭人伝』とまったく関係しない空理空論・デタラメ・詐偽となった6つの原因を、下記のごとく短く説明できるようにした。
 それでも「長い! 難解!」と指摘するならば、下記の最初の【1】の原因【[][]のキャッチ】、言いかえると中国と日本列島の中間の「玄界灘」の【[]】だけに集中して思考すれば――「倭の使節も魏・帯方郡の使節も玄界灘を往来することができなかった。だから、魏と倭は国交を結ぶことができず、魏は倭の様子をまったく知らなかったことになる。したがって、「『魏志倭人伝』には倭人国の様子を記述する文字は1字も書かれていなかった」ということになり、九州説と畿内説が空理空論であったことは単純明快に示されるゆえ、一気に九州説と畿内説の実体はデタラメ・絵空事・詐偽であったと証明される。

◆邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説が空理空論となった6つの原因
1】 原始のときから、ヒトは【[][](天頂緯度線と子午線)をキャッチできる銀河部を羅針盤】にすると、〔緯度(位置)と経度(方向)〕が精確に(1度の60分の1の、1分以内の誤差内で)測定できて生活し生存することができた。したがって、卑弥呼時代の人々もまた【[][]をキャッチする方法】で命(いのち)が保障されていた。ゆえに、〔原始のときから、ヒトが生活して生存して命(いのち)を長らえることができる、命をまもる手段〕は〔[][](天頂緯度線と子午線)をキャッチする方法〕であったという、この事実にもとづいて『魏志倭人伝』の記事を読解し思考しなければならなかった。
2】 九州説と畿内説は現代の日本地図と同じ〔天の北極〕を〔北〕と定める日本地図で立論する。しかし、ヒトは原始のときから〔天の北極〕を〔緯度(位置)と経度(方向)を計測する羅針盤〕にすると命をまもることができず、命を失って生存してゆくことができなかった。このため、〔天の北極〕がある方を〔北〕と定める現代と同じ日本地図を立論基盤とすると、ただちに空理空論・虚偽説・絵空事となった。
3】 今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した倉頡は、天文学で通称「夏の銀河」と呼ばれる「夏の星座が漬()かる銀河の範囲」から文字を作った。ゆえに、「夏の銀河」を私は「文字作成銀河」と名づけた。倉頡は中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた全漢字が生まれる、万物の母」と定め、「十字の銀河の子宮(生殖器)」を「文字作成銀河各部の形状から作られた全漢字が生まれる子宮(生殖器)」と定め、「十字の銀河」の西隣の「鬼の姿に似る銀河」を「文字作成銀河の各部の形状から生まれたすべての子ども、すなわち[]の字源・字形・字義にする」と定めた。
 ゆえに、『魏志倭人伝』を正確に解釈するためには【倉頡が文字作成銀河各部の形状を字源・字形・字義と定めた漢字作成方法の解明】が必要不可欠であった。
 「夏音文字の字源・字形・字義」は「文字作成銀河の各部の形状」であり、夏音文字の字音は『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数記載されて現存する。
 〔注 太安万侶(おおのやすまろ)は『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)の冒頭の34字で「漢字は文字作成銀河から作られた。後期縄文時代初頭にわが国は【夏音文字の学芸】を習得して【倉頡が発明した漢字作成理論】をも習得した」と証言している〕。
4】 倉頡が文字を発明する目的は、黄帝の医学研究「女性の生殖器と子どもの出産」をあらわすことができる文字を考案することであった。したがって、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は約半分・約1000字で【倉頡が発明した漢字作成理論】と【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究】を説明する学問書であった。
 約1000字で伝える【倉頡が発明した漢字作成理論】と【黄帝に「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究】は、約2000字で構成される『魏志倭人伝』の全記事と密接に関係する。
 卑弥呼は【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】において最も重要な事柄は、今日の産婦人科で「広形機能」または「骨重積」と呼称される、「母体の骨盤入口から膣口(ちつこう)までの産道をくぐり抜ける出産児の頭蓋骨にそなわる小泉門・矢状縫合・大泉門・後頭骨・頭頂骨・前頭骨の機能」であると考えて、これを「邪馬壱」と名づけ、「邪馬」と[]の地宜を有した山陰・出雲に居住した。
 九州説と畿内説は「邪馬台国」の所在地を伝える文献史料であるにちがいないと思い込んだ。このため、九州説と畿内説は『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の「女性生殖器と子ども」の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】の合体学問的知識を排除し無視することになり、『魏志倭人伝』の記事とまったく無関係の空理空論となった。
5】 五帝時代の最後の帝舜(しゅん)の時代から「虞」という重職について正確な中国海岸線地図作製に代々約200年間も従事した益氏が、夏代初頭に帝位に就き、その直後に帝益の孫の王子と若者たちが日本列島の東北地方に定住して、【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成原理】と【夏音文字の学芸】と【正確な中国海岸線地図と精密地宜(地図)作製方法】を教えひろめた。わが国では、前期縄文初頭から後期縄文時代初頭まで、東北地方から関東地方において、倉頡が文字を作った夏の銀河の各部の形状から土器・土偶を作っていた。この約2000年間の土器・土偶を作る芸術の伝統を受け継ぐ芸術家たちによって【倉頡が発明した漢字作成理論】が理解されて習得され、【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究】と【夏音文字の学芸】と【正確な中国海岸線地図と精密地宜(地図)作製方法】をも習得された。
 そして、日本列島の海岸線は中国の海岸線よりも約3倍も長く、【倉頡が発明した漢字作成理論】で字源・字形・字義となると定めた地宜(つまり、文字作成銀河の各部の形状に相似する字源・字形・字義となる地宜)が多数存在して恵まれていた。このため、【倉頡が発明した漢字作成理論】は卑弥呼が生存した後期弥生時代後半まで失われずに正確に保存されることになった。
 この益氏の日本列島の定住史によっても、九州説と畿内説は空理空論となった。
6】 日本列島の東端にある伊豆諸島の神津島は良質の黒曜石が産出したために約3万年前の後期旧石器時代から、関東地方、東海地方、近江(滋賀県)、北陸地方(石川県能登半島)に住む人々が採取していた。ゆえに、神津島は卑弥呼時代、良質な黒曜石が産出することで有名であったゆえ、卑弥呼も知っていた。この日本列島の東端にある神津島は日本列島の西端に所在する沖ノ島と同緯度(北緯3415)である。
 中国の北部海岸線地域は冷たい気候区であり、中国の南部海岸線地域は暖かい気候区であるゆえ〔北冷南暖〕ということになる。日本列島の西端にある沖ノ島は冬に雪が降る冷たい気候区であるが、日本列島の東端にある亜熱帯地域となる神津島は一年中暖かい気候区であるゆえ、〔西冷東暖〕ということになる。中国の北部海岸線地域と日本列島西端の沖ノ島の気候は共に冷たいゆえ、卑弥呼は〔中国の北冷=日本列島の西冷〕と考えた。中国の南部海岸線地域と日本列島東端の神津島の気候は共に暖かいゆえ、卑弥呼は〔中国の南暖=日本列島の東暖〕」と考えた。このように、中国の海岸線地域の北部・南部と日本列島の西端・東端における冷たいと暖かい気候区の共通性を基(もと)に考えると、日本列島の東端は中国の海岸線の南部のほうに所在することになるため、日本列島地理の方位規定は[]の字源に合致して時計回りに90度転回することになった。
 当時において、「中国の海岸線地域の北部・南部と日本列島の西端・東端における冷たいと暖かい気候区の共通性による[]の字源にも適合する本州・日本列島転回地理は最も合理的な科学的な意見、真理をあらしていると崇拝されて信じられることになった。
 このような日本列島の西端の沖ノ島と東端の神津島による気候区による[]の字源が成立するという偶然も重なって、卑弥呼王朝は本州・日本列島転回地理を制定して、わが国における最初の国家体制・倭人国を樹立した。
 だから、上記の6つの事柄の解明を必要とする『魏志倭人伝』に対して、この6つの事柄を無視して立論する九州説と畿内説は『魏志倭人伝』と無関係の空理空論となったのである。

◆今回までにわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」は、「対馬国、一大国、邪馬壱国、斯馬国、巳百支国、伊邪国、邪馬国、隠岐群島、侏儒国、裸国、黒歯国」の11の小国における地宜と小国名の合致を証明した。しかし、このブログは、卑弥呼が【倉頡が発明した漢字作成理論】にもとづいて本州の末盧国から狗奴)国までの23小国における各小国の名称を定めたことをいまだ証明していない。ゆえに、次回から、何回にも分けて23の各小国の地宜と各小国名の合致を解説し証明することにする。

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2021年4月21日 (水)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・13

▼『魏志倭人伝』は“日本古代史最大の秘密”を伝える。
 この『魏志倭人伝』を読解して「倭女王・卑弥呼が居住した邪馬台国は吉野ケ里遺跡がある九州、もしくは纏向(まきむく)遺跡がある畿内・大和に所在したと説明している」と主張する――この両説を、学界はじめメディアは諸々の説にあって最も正しい意見であると思い込む。
 しかし、九州説と畿内説は、完全なる空理空論・デタラメ・インチキ・詐偽(さぎ)である。
 というのも、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は約55パーセント・約1100字の記事をもって「紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、名門益(えき)氏の王子と若者たちが中国から大海・玄界灘を横断してわが国の東北地方に定住して、原初漢字・夏音(かおん)文字の学芸を東北地方から関東地方までの東日本一帯に広めた。この夏音文字の学芸を習得したとき、約1000年前の紀元前3000年頃の中国の五帝時代初頭に生存した倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論をも習得した」と伝えているからである。
 九州説と畿内説によって、上記した【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸を習得した歴史】がことごとく不明となった。
 九州説と畿内説は〈『魏志倭人伝』を「邪馬台国の所在地」を定めるための書物〉と主張するが――『魏志倭人伝』は「倭女王が居住した王国は邪馬壱(やまい)国である。邪馬壱国は山陰・出雲、現在の島根県東部であった」と記述している。
 だから、九州説と畿内説は疑う余地もなくの空理空論・デタラメ・インチキ・詐偽(さぎ)・絵空事であった。
 つまり、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える学問書にして歴史書であり、要するに「中国における【学問】は紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝・倉頡時代から始まり、わが日本国における【学問】は紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭から始まる」と伝える書物であった。


★「倭人国の地理学」のトリセツ・22

◆今回と次回(14)において、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の1回から12回までにおいて詳細に証明した――『魏志倭人伝』は「倭女王の卑弥呼は邪馬壱国・出雲に居住し、【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】」を伝えていた書物であった――という証明を一旦まとめることにした。

◆現在、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という意見は絶対的に否定することができない定説となる。しかし、この【漢字習得の定説】の実体は、空理空論であった。
 というのも、『魏志倭人伝』には(1)「倭人国の易に用いられる辞(ことばと文字)は、令亀(れいき)の法のごとく、つまり紀元前1300年頃から始まる殷代(いんだい)後半に亀の甲羅に刻んだ甲骨文字のごとくであった」という記事があり、また(2)「魏都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる楷書と、倭女王卑弥呼が文書に用いる文字は差錯(ささく/相違)していた」という、二つの記事が存在するからである。
 卑弥呼が文書に用いた文字は夏代初頭(後期縄文時代初頭)に習得した夏音文字であった。その証拠に、「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読む字音は「夏音文字の字音」である。「卑弥呼」を、中国に現存する最古の上古音で読むと「ピミカ」となる。下記にて説明する音韻史研究にもとづくと「ヒミコ」という字音のほうが「ピミカ」よりも古い。だから、「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という、定説は空理空論・虚偽説であったことになる。
 その証拠に、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目において、「わが国の漢字音」と題して、次のごとく指摘している。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 音韻史研究によって、中国において現存する最古の漢字音は、下に配した「漢字生長史」に示したように、紀元前1046年から始まる周代初頭の「上古音」と解明されている。
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 上の「漢字生長史」が明確に示すように、「わが国が漢字を最初に習得したのは、5世紀または6世紀である」と主張する定説の漢字音は、中国において現存する最古の上古音よりも約1500年も新しいことになる。だから、「わが国が漢字を最初に習得したのは、5世紀または6世紀である」という定説は上記した音韻史研究成果に反する空理空論であった。
 白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する字音は、わが国が後期縄文時代初頭に習得した夏音文字の漢字音である。この夏音文字の字音は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残っている。
 だから、学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する絶対的定説の実体は【科学】が成立しない空理空論・虚偽説であったのである。

◆「銀河」の別称は「銀漢」であり、「銀漢から作られた字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と呼んだ。
 倉頡は天文学において通称「夏の銀河」と呼ばれる「夏の星座が漬()かる巨大な銀河」から漢字を作る方法を発明した。「夏の銀河の各部の形状」から「文字」が作られたゆえ、私は「夏の銀河」を「文字作成銀河」と呼ぶことにした。
 「文字作成銀河」の写真は、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の前回(12)に掲載したゆえ、今回は省略することにした。
 倉頡がつかえた黄帝は東洋最古の医学書『内径(ないけい)』を作ったと伝わる。黄帝は【女性の生殖器と子どもの出産】を研究した。このため、倉頡は「文字作成銀河(夏の銀河)」から「黄帝の【女性の生殖器と子どもの出産】の医学研究をあらわす文字」を発明した。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・2回」にて指摘したように――倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝が容易に崩壊・滅亡すると心配して、下記に示す〔三つの「死刑」に処する掟〕を定めた。
▼倉頡が死刑と定めた三つの掟
1】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」という事実を暴露した者とその一族全員に神罰を下して即刻に死刑にする。
2】「多くの文字を容易に覚えるため、夏の銀河の各部に名称を付けた者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする。
3】「書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員もまた死刑にする。

◆上記した【3】の掟のため――五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。
 しかし、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』等に楷書を音記号として現存する夏音文字の字源・字形・字義は文字作成銀河の各部の形状であった。
 つまり、『魏志倭人伝』は「夏音文字の《字源・字形・字義》は〈文字作成銀河の各部の形状〉であり、夏音文字の《字音》は〔楷書〕を音符に用いる。したがって、夏音文字は《字源・字形・字義・字音》の四要素から成る」と伝える学問書であったのである。だから、夏音文字は現在の当用漢字と同じく【文字の四要素の《字源・字形・字義・字音》】から成る。
 紀元前1300年頃から始まる殷代後半に出現した亀の甲羅に刻んだ契文(けいぶん)=甲骨文字は文字数が多数となったため、【3】の掟を毎度まもるのは非常に面倒になった。これゆえ、契文(甲骨文字)によって【3】の掟は破られた。ゆえに、契文以後の周代の金文・その後の大篆や小篆や隷書や楷書は【3】の掟を破っても良いことになった。
 卑弥呼が最初に歴史上に登場したのは180年頃であった。当時は後漢時代末で原始的楷書が用いられていたゆえ、倭人国が有した五帝時代の書契と夏代の夏音文字は楷書で表記されることになった。
 中国において、契文が用いられた殷代後半以後、【倉頡が発明した漢字作成理論】は国家と王朝が独占管理して厳重に機密を保持し、また倉頡が定めた【1】と【2】の掟も国家と王朝によって厳重に守られた。
 わが国では、後期縄文時代初頭以後、【倉頡が死刑と定めた3つの掟】は厳重に守った。
 だから、上記したように、『魏志倭人伝』には(1)「倭の易に用いる辞は、甲骨文字(令亀の法)の辞のごとく」、また(2)「卑弥呼が文書に用いる漢字と魏の都と帯方郡・諸韓国が文書に用いる漢字は相違していた」と、「わが国は原初漢字を習得した」と明記する二つの記事が存在するにもかかわらず、九州説と畿内説をとなえる先生方は「わが国には原初漢字が存在した」という記事を徹底的に無視して、そんな記事が『魏志倭人伝』に存在することを厳重な機密にして口を「ぎゅー」かたく閉じて一言もしゃべらないことにしたのである。
 しかし、『魏志倭人伝』は「わが国は【約5000年前に生存した倉頡が発明した漢字作成理論と約4000年前の夏音文字の学芸】を習得した」と伝える歴史書にして学問書であった。
 上記した【倉頡が死刑と定めた3つの掟】における【2】の掟「文字を容易に覚えるため、文字作成銀河の各部に名称を付けた者とその一族全員もまた即座に死刑にする」によって、今日においても文字作成銀河の各部をあらわす名称は存在しない。文字作成銀河の各部の名称が存在しないと、〔字源となる銀河=字形となる銀河=字義となる銀河〕の解説・証明において非常に不便となるゆえ、私は下記のごとく文字作成銀河の各部の名称を定めた。
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◆九州説と畿内説は【天の北極がある方向を〔北〕と定める単一方位規定の現在の日本地図と同じ日本列島地図】にもとづいて、『魏志倭人伝』を読解する。しかし、『魏志倭人伝』は「卑弥呼王朝は【倉頡が発明した漢字作成理論】によって確立された〔二種の方位規定〕で日本列島地理を定めた」と説明していた。これが原因で、九州説と畿内説はいっこうに【科学】が成立しない空理空論となった。
 上記したように、現在の地理学では【天の北極がある方向を〔北〕と定める単一方位規定】をもって定められている。
 しかし、倉頡は【〔1〕黄帝が居住した土地()における地平線以内(内界)の緯度線(東西線)と、〔2〕地平線より外(外界)では(1)「時計回りに方位規定は90度転回して緯度線(東西線)は経度線(南北線)と化()る」と定理して[()]の字を創り、さらに(2)「反時計回りに方位規定は90度転回して緯度線(東西線)は経度線(南北線)と化る」と定理して[]の字を創って――この【[][]の二種の方位規定が共立する地理論】を確立させた。
 ゆえに、『魏志倭人伝』の冒頭の「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」という文は「対馬国と一大国の水平線(地平線)より外界となる遠く離れた、本州・日本列島地理における方位規定は、倉頡が創った[]の字源・字形の原形・原義をそのまま受け継いだ[]の字源・字形の原形・原義に則(のっと)って時計回りに90度転回する」と説明していたことになる。
 だから、『魏志倭人伝』は冒頭早々に登場する[]の字源にもとづき「本州・日本列島地理の方位規定は、時計回りに90度ずつ転回して、北→東・東→南・南→西・西→北となる」と説明していたことになる。つまり、『魏志倭人伝』は「本州・日本列島の〈北方〉にある島根県は〔東〕に位置し、九州の〈東方〉の東海地方(愛知県・静岡県)は九州の〔南〕に位置し、本州・日本列島の〈南〉に所在する高知県は〔西〕となり、本州・日本列島の〈西端〉にある九州は〔北〕となる」と説明するものであった。
 だから、『魏志倭人伝』が説明する本州・日本列島地理の方位規定は、[]の字源をあらわして現在の日本地図の方位規定と同じではない。
 したがって、『魏志倭人伝』は今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代に生存した倉頡によって確立された地理論の秘密を解明しなければならない学問書であった。

◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の2回で解説したように、「歳差(さいさ)」という天文現象を利用すると、黄帝と倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代初頭における中国全土の天頂にめぐってきた銀河を算出して再現することができる。
 【漢字作成理論】が発明された五帝時代初頭、下に示すように、私が「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた銀河が中国全土の天頂にめぐってきた。この「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は、中国各地の人々が天頂緯度軸線と子午線をキャッチすると精確に緯度と方角が測定できる、最も大事な命をまもることができる羅針盤となった。
 〔注 「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は、上に示した「文字作成銀河各部の名称図」における左上にある)
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 倉頡が漢字を発明する目的は【黄帝がおこなった「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究】をあらわすことができる文字を作成することであった。
 下の図に示すように、黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」の西側半分には、「乳房」「妊婦の腹部」「右足」に観える部分があり、また「子宮に相当する箇所」もある。ゆえに、「十字の銀河」は「女体・妊婦・乙女」などに見立てられた。
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 倉頡は「十字の銀河」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた全文字が生まれる母体」と定めた。また「十字の銀河の子宮」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた全文字が生まれる子宮、あるいは女性の骨盤と生殖器」に見立てると定めた。
 そして、「十字の銀河」は[]の字源・字形・字義となった。ゆえに、下の上図における[]の金文形は「十字の銀河」を「子宮に胎児が宿る妊婦の正面形」に図案した。
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 倉頡は「十字の銀河」を「黄帝が居住した地から遠くの地域に群れるジャコウウシを狩猟した男たちが帰還する、家族が待つ家」に見立てた。ゆえに、上の下図に示した[]の金文形における上部の[(べん)]は「家族が生活する家」をあらわし、その下部の[]の字源は「鬼の姿に似る銀河」となった。というのも「鬼の姿に似る銀河」は「子の姿(胎児・出産児・新生児)」に相似すると見立てられたからである。
 これゆえ、「母親・妊婦」に見立てられた「十字の銀河」から図案された[]の下に、「家で生まれて育つ子」に見立てられた「鬼の姿に似る銀河」から図案された[]が加わって、[]の字源・字形・字義が成立することになった。
 上に示した「[][]の字源銀河解説図」は【黄帝の〔女性生殖器と子どもの出産〕の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成原理】をあらわした。

◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の前々回(11)末部にて詳細に解説したように――[]の字源となった「鬼の姿に似る銀河」には、卑弥呼が「邪馬壱」と名づけた銀河部がある。
 つまり、「鬼の横顔に似る銀河の後頭部とアゴにつく両目から、人の横顔に酷似する銀河の前頭部まで」の、太線で表示した箇所が〔「邪馬壱」の銀河〕となる。
 「邪馬壱」の[]は「女性生殖器における骨盤入口や産道」である。ゆえに、下の図における「太線の図書(ずしょ)」は「邪馬」をあらわす。「邪馬の図書」と重なる箇所が[]、つまり「産道における出産児の状況」をあらわすゆえ、〔「邪馬壱」の銀河〕は〔産道を通過する児の頭蓋骨の「広形機能(こうけいきのう)」または「骨重積(こつじゅうせき)」と産婦人科で呼ばれている機能〕をあらわした。
 注目すべきは、《黄帝時代の黄帝陵における天頂緯度線(北緯3536)》が【「邪馬壱」の銀河の北部】を撫()でるがごとく貫通していることである。
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 下に、「小児(出産間もない児童)の頭蓋骨の大泉門(だいせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・小泉門(しょうせんもん)の図」を配した。小児の頭の骨の縫合は未完成で、骨どうしの間は〔結合組織性の膜〕になっている。このうち、矢状縫合の前方と後方は膜性の部分が大きく、前方は「大泉門」、後方は「小泉門」という名称で呼ばれる。
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 上に図示した〔この世に誕生したばかりの小児の大泉門の形〕は「細い十字形」であるが、小児より以前の〔産道を通過する時の出産児の頭蓋骨の大泉門の形〕は異なる。
 下に図示したように〔産道を通過する時の出産児の頭蓋骨の大泉門の形〕は「菱形に大きな形」となって「広形(こうけい)」となる。
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 「出産児の頭蓋骨」における「小泉門・矢状縫合・大泉門の形」は、上に示した〔「邪馬壱」の銀河図〕における「邪馬」の形状をあらわし、また前述したように「産道」は[]をあらわす。ゆえに、「出産児の頭蓋骨における、小泉門・矢状縫合・大泉門の形」を、卑弥呼は「邪馬壱」と呼称したのである。

◆上の図に示したように、「出産児の頭蓋骨」は「縦長(たてなが)」である。
 下に、「縦長の出産児の頭がくぐり抜ける、横長(よこなが)の楕円形の女性の骨盤入口」の図を示した。
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 出産児の頭が誕生する娩出期(べんしゅつき)終わりまでの児頭の回旋の様子について、インターネット・ブログにおいて医療法人翔光会の産婦人科にしじまクリニック(埼玉県富士見市)は「赤ちゃんの進み方、回旋(かいせん)を知る」と題して、下記のごとく説明する。この説明を要約し、この要約に〔出産第一期の開口期(かいこうき)と出産第二期・娩出期(べんしゅつき)〕という注を加えると、次のようになる。
 ――骨盤の入口は横長の楕円形に対して、からだの中でいちばん大きな赤ちゃんの頭(児頭)の形は縦長であるゆえ、児頭が骨盤入口をくぐり抜けるためには、骨盤入口では児頭は横向きで入る。しかも入口部は骨盤内でいちばん狭い空間であるので、通常(正常分娩の場合には)赤ちゃんはアゴを胸につけた姿勢となり、児頭は屈曲して後頭部の小泉門が先進して時計回りに90度回旋する。これを、「第1回旋」と呼ぶ。
 骨盤出口面は縦長であるゆえ、赤ちゃんは横向きから次第に正面・縦向きへ方向を変えながら、下降する。この過程を、「第2回旋」という。ちなみに、第1回旋(横向き)から第2回旋(縦向き)へ回る角度は90度であり、第1回旋と逆向きの反時計回り(逆時計回り)である。第1回旋から第2回旋の時の子宮口は大体7センチである。第2回旋が終了した時点で後頭部(小泉門)は恥骨側・12時方向の位置となり児頭の正面・縦向きが整う。この時、子宮口はすでにすっかり開く全開大(ぜんかいだい/10センチ)となり、出産第一期・開口期の終わりとなり、いよいよお産となる。
 第3回旋は反時計回り(逆時計回り)になって児を娩出(べんしゅつ)するもので、この場合児は反屈して恥骨をくぐり抜けるように児頭が産道()から娩出する。
 最後の第4回旋は第1回旋と同じく児頭は時計回りに90度回旋して、頭が誕生した児はすぐに呼吸をはじめて声をあげる。この頭の誕生が出産第二期・娩出期の終りとなる。

◆「出産児が縦長の頭蓋骨を母体の横長の骨盤入口に合わせて横向きにする第1回旋回からはじまる4度の回旋のドラマ」は〔生命の神秘をあらわして、泣きたくなるほどに最高に感動的なシーン〕である。この光景は分娩室に入って立ち会った妊婦の夫が目撃でき、〔泣きたくなるほど最高に感激するシーン〕であると言われている。
 現在では学者たちやメデイアが「生命」について考える問題として重視しないためにほとんど話題にならない――【産道を通過する出産児の「広形機能(骨重積)」の仕組みの、泣きたくなるほど最高に感動するシーン】が、倉頡が生存した紀元前3000年頃や卑弥呼が生存した3世紀においては、【深遠な最も重大な真理】をあらわす学問の核心であった。したがって、『魏志倭人伝』は【上古の学問の核心・邪馬壱】言いかえると【出産期の児頭の広形機能と4回の回旋】にもとづいて思考・立論しなければならない学問書であったのである。
 再度くりかえす、『魏志倭人伝』は「【母体の骨盤入口のくぐり抜けから始まる、出産児の頭蓋骨の仕組みと4回の回旋からなる誕生するドラマ】が【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究の核心】であり、【倉頡が発明した漢字作成理論の核心】である」と伝える学問書であった。
 この【邪馬壱の語源「泣きたくなるほど感激する開口期と娩出期のハイライトシーンを核心」とする文字(漢字)を創(つく)る】ため――倉頡は「ジャコウウシ」を[]の字源・字形・字義とし、「フタコブラクダ」を[]の字源・字形・字義と定めた。
 だから、『魏志倭人伝』にある「倭地には牛と馬は生息しない」という記事がある。
 下の図に示したように、[]の「ジャコウウシ」は「第5週ごろの胎児の姿」に類似すると見立てられた。また、天敵のオオカミに襲われるとジャコウウシの群れは子どもを真ん中に隠し、円陣を組んで衛(まも)った。だから、「円陣の真ん中に隠すジャコウウシの子ども」は「子宮に宿る胎児」に見立てられ、「ジャコウウシの群れが組む円陣」は「女性の生殖器の大半を包囲して子宮に宿る胎児の命を衛る骨盤」に見立てられて、「ジャコウウシ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣と定められた。
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 ジャコウウシは有史以前には北半球の寒帯に生息していたが、紀元前3000年頃の黄帝時代になると、多くの地方で絶滅したとされる。黄帝時代、黄帝が居住地としたと推定される陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)の黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)周辺地域から北方の毛烏素(ムウス)沙漠は凍土・ツンドラ地帯と化していた。ゆえに、秋から冬になると百頭以上が一団となるジャコウウシの幾つかの群れが地平線かなたの毛烏素沙漠から南の黄帝の居住地近い餌場(えさば)を目指してあらわれた。その証拠に、司馬遷著『史記』五帝本紀には「師兵をもって営衛(えいえい)となす」という記事があり、この記事は「黄帝軍は駐屯するとき、兵たちは円陣を組んで自衛した」と意味した。黄帝軍は円陣を組むジャコウウシの習性から学んで円陣を組んで駐屯していたのである。
 『魏志倭人伝』に記載される「対馬国」「投馬国」「邪馬壱国」「斯馬国」「邪馬国」などの小国名に用いられる[]の字源・字形・字義は「フタコブラクダ」であった。ゴビ沙漠に住む人々にとって、フタコブラクダは「沙漠の船」となって欠くことができない大切な家畜である。フタコブラクダは位置も方位も茫漠としたゴビ沙漠を往来しても道に迷わない。ゆえに、天頂緯度線をキャッチして位置と方位を測定して日々暮らしていた黄帝時代の人々は《フタコブラクダは精確に天頂緯度線をキャッチできる神秘的な眼力を有する》と憧れた。ゆえに、フタコブラクダは聖なる獣と尊重された。
 下の図に示すように、「フタコブラクダの両目は顔の両端にある」と同様に「第7週頃の胎児の両目も顔の両端に離れている」。また、「フタコブラクダの睫毛(まつげ)は長い」と同様に「子ども(乳児)のつぶらな目の睫毛も長い」。
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◆下に〔[]の字源「フタコブラクダ」が草をモグモグと食べる時の鼻・アゴ・口の動きをあらわす図〕を配した。
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 「フタコブラクダが草をモグモグと食べる鼻の動き」は「産道を通過する出産児の小泉門の動き」にソックリであり、「草を食べるフタコブラクダの上アゴの動き」は「産道する出産児の頭頂骨の動き」に酷似し、「草を食べるフタコブラクダの口の動き」は「産道を通過する出産児の大泉門の動き」に実に似ている。つまり、「産道を通過する時の出産児の頭蓋骨の5枚の骨(左右二つの前頭・左右二つの頭頂骨・後頭骨の5枚の骨)」の結合はゆるく少し重なることができる。このため、「5枚の骨と小泉門・頭頂骨・大泉門の動き」は「草を食べる時のフタコブラクダの上アゴと下アゴが合わずに食い違って邪(なな)めとなる、またアゴの動きによって鼻は小泉門、口は大泉門のように互いに少し邪めとなる動き」にソックリとなる。ゆえに、「草を食べる時に邪めとなる馬・フタコブラクダの鼻・アゴ・口の動き」を、卑弥呼は「邪馬」と称した。
 前述したように、倉頡は「十字の銀河」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた全文字が生まれる母体」と定めた。また「十字の銀河の子宮」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた全文字が生まれる子宮、あるいは女性の骨盤や生殖器」に見立てると定めた。このため「十字の銀河の子宮」と「女性の骨盤や生殖器」は[]の字源・字義となった。
 []の字源「ジャコウウシ」は、天敵のオオカミに襲われるとジャコウウシの群れは子どもを真ん中に隠し、円陣を組んで衛(まも)る。だから、倉頡は「円陣の真ん中に隠すジャコウウシの子ども」を「子宮に宿る胎児」に見立てて、「ジャコウウシの群れが組む円陣」を「女性の生殖器の大半を包囲して子宮に宿る胎児の命を衛る骨盤、あるいは骨盤入口」に見立てて、「ジャコウウシ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣と定めた。
 ゆえに、再度、下に、「縦長の出産児の頭がくぐり抜ける、横長(よこなが)の楕円形の女性の骨盤入口」の図を示した。この「骨盤入口」は前述したとおり[]の字源となった。
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 上記したように、「[]・フタコブラクダが草をモグモグと食べる時の鼻・アゴ・口が邪(なな)めとなる動き」を、卑弥呼は「邪馬」と名づけ、「骨盤入口」の[]を加えて、卑弥呼は「邪馬壱」と呼称した。
 だから、『魏志倭人伝』は倭人国の首都所在地は「邪馬壱国」であったと記す。

◆前述したように、「出産期より以前の、母体の子宮で育つ胎児」を、倉頡は[]の「ジャコウウシ」は「第5週ごろの胎児の姿」に類似すると見立てた。
 また、「出産期より以前の、子宮で育つ胎児」を、倉頡は「第7週頃の胎児」に類似すると見立てた。つまり、前述したように、「フタコブラクダの両目は顔の両端にある」と同様に「第7週頃の胎児の両目も顔の両端に離れる」、また「フタコブラクダの睫毛(まつげ)は長い」と同様に「子ども(乳児)のつぶらな目の睫毛も長い」と見立てた。
 倉頡は、「出産期より以前の、胎児が育つ子宮」を「黄帝が居住する本拠地の地平線より内界となる、近くの土地」に見立てた。そして「横長の骨盤入口に縦長の頭を横向きにしてくぐり抜ける開口期から娩出期までに出産児が通過する産道」を、倉頡は「黄帝の居住地の地平線より外界となる遠くの土地」に見立てて、[()][()]の字を考案した。
 つまり、倉頡は――出産第一期・開口期(かいこうき)から出産第二期・娩出期(べんしゅつ期)までにおこなわれる出産児の頭の4回の回旋に注目して、第1回旋・第4回旋を基(もと)[]を創り、第2回旋・第3回旋を基に[]の字を考案した。
 要するに、倉頡は「出産第一期・開口期が始まる以前の、胎児が育つ子宮」を「黄帝が居住した本拠地の地平線より内側(内界)の土地」に見立てる(合致する)と定理した。また、倉頡は「4回の回旋をくりかえして出産児が通過する産道」を「黄帝の居住地の地平線より外側(外界)の土地」に見立てて、[][]の方位規定を定理した。
 〔注 倉頡は[]の字を創って、[]は「出産児の第1回旋と第4回旋のもとづいて時計回りに90度転回ずつ転回する方位規定をあらわす」と定理した。また、[]の字をもって「出産児の第2回旋と第3回旋にもとづいて反()時計回りに90度転回ずつ転回する方位規定をあらわすと定理した〕。
 というのも、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の2回で指摘したように――
「鬼の横顔に似る銀河」は「禾(イネ)の花」に相似し、「鬼の横顔に似る銀河の角(つの)」は「禾(イネ)の芒(のぎ/花の外殻の針のような突起)」に相似するからである。
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 下の図に示すように、出産第二期・娩出期の終わりにおいて、出産児は顔の正面を母体の後方・臀部(でんぶ/お尻)を正面とする姿勢となる。
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 それゆえ、倉頡は「十字の銀河の腹部」を「母体の臀部」と見立てて、下に図示する[]の字を創った。[]の下に[]を加える[()]と人偏に[]を加える[()]の字は、[]の字源・字形・字義をそのまま受け継いだ。
 だから、下の左図の〔「十字の銀河」の中央に加えた《イネ()》の図書における穂が〔南〕→〔西〕へと垂れる図案〕は「[][][]の字源銀河解説図」となった。つまり、〔[][][]の字〕は「黄帝の居所地より遠い土地の地理における方位規定は時計回りに90度転回する」という定理をあらわすことになった。
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 上の左図における〔[]の穂が〔南〕→〔西〕へ垂れる形〕は「地面に植わるイネ()の状況」には見えない。ゆえに、下に配した[]の契文形(けいぶんけい/甲骨文字の字形)の「[]の穂が〔北〕→〔東〕へ垂れる」ように、[][][]の字は「時計回りに方位が90転回して、北→東・東→南・南→西・西→北と定める方位規定」をあらわした。
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 上の「[]の穂が北に位置する図案解釈」にもとづいて、[]の字は「黄帝の居住地の地平線より外界の、遠く離れる中国北部(華北)における時計回りに90度転回する方位規定」をあらわすことになった。
 また、倉頡は「出産児の第2回旋と第3回旋と同じく、反()時計回りに90度転回する方位規定」をあらわす[]の字も創った。したがって、[]の字源・字形・字義は「黄帝の居住地の地平線より外界の、中国北部(華北)よりさらに遠い・中国南部(華南)における反()時計回りに90度転回する方位規定」をあらわすことになった。
 下に配した図に示すように、上図の〔[][][]の字源解説図〕に加えた「南→西の90度の転回」は「時計回り」であり、下図の〔[]の字源解説図〕に加えた「北→西の90度の転回」は「反()時計回り」となる。
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 卑弥呼が生存した時代、中国では魏・呉・漢(蜀漢)の三国が鼎立(ていりつ)していた。
 「魏」の国号に用いられる字の偏は[]である。ゆえに、黄帝陵の地平線より遠い外界となる「魏」は中国北部)における「時計回りに90度転回する方位規定の国土」とあらわし、「呉」は黄帝陵の地平線より外界の遥かに遠い中国南部における「反()時計回りに90度転回する方位規定の国土」をあらわした。そして、「蜀」という国号の正式名は「漢」であったゆえ、この国号は「倉頡は漢・すなわち銀漢から漢字を作った」とあらわした。
 このように、卑弥呼が生存した後漢時代末から三国時代の中国は【倉頡が発明した漢字作成理論】の復興時代であった。

◆わが国においても、卑弥呼によって【倉頡が発明した漢字作成理論】が復興された。
 西暦180年頃、戦争によって倭国は大乱していた。ゆえに、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の5回で詳細に解説して証明したように――卑弥呼は「瀚海(かんかい/ゴビ沙漠)」を用いて、倭国の大乱を終息させた。というのも、瀚海・ゴビ沙漠の日中は「日照り」のごとく暑く、夜間は「冷害」のごとく寒さが厳しいからである。
 卑弥呼は「瀚海」をもって「わが国が【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した紀元前2000年頃(後期縄文時代初頭)から紀元前1000年頃(晩期縄文時代初頭)までに続いた日照りと冷害の大災害」をあらわして、倭国の大乱を鎮圧した。つまり、卑弥呼は「瀚海」をもって「天の鬼神(きじん)は千年も続く日照りと冷害に匹敵(ひってき)する厳しい大罰を下して、大乱をつづける王や人民たちの命をことごとく奪うにちがいない」と脅迫して、倭国の大乱を鎮めた。
 また、卑弥呼が「瀚海」をもって脅迫した「千年も続く日照りと冷害の厳罰」は、前述した「倉頡が王朝の崩壊を心配して【死刑と定めた三つの掟】」をもあらわした。
 だから、『魏志倭人伝』には「対馬国の南一海を渡る千余里、名づけて瀚海と曰()う。一大国に至る」という記事がある。
 卑弥呼は対馬国(現在の長崎県北部の対馬)と一大国(現在の長崎県北部の壱岐)の中間の海〕を「瀚海」と名づけて、「漢字は銀漢(文字作成銀河)から作られた学識」を手に入れた反体制側の人々が革命を起こして卑弥呼王朝を崩壊・滅亡させないために、【倉頡が死刑と定めた三つの掟】をあらわすことにした。
 『魏志倭人伝』の冒頭文「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」の大海、つまり九州沖の大海は「玄界灘」である。「玄界灘」は「[]をキャッチする往来できる、陸地から遠くて波が荒い海」と意味した。
 []の字は、[(とう)]の下に[(よう)]の字が加わる。
 下に、〔[]の字源・字形・字義の解説図〕を配した。
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 人類は原始のときから、脳に[]をキャッチして精確に緯度測定できる本能がそなわり、鍛錬すれば1度・60分の60分の11分以内の緯度差を測定できる神秘的な眼力を有することができたのである。だから、この神秘的な呪力(じゅりょく)によって、一団を組んで日々食料を求めて移動した原始の生活にあっても、「道に迷った! 位置(緯度)も方角もまったくわからない! 死ぬ!」というようなパニック状態におちいることもなく、人類は天頂にめぐってくる銀河周辺の形状を地理代わりにして[]をキャッチして緯度と方角を測定してたくましく巧(たく)みに生存したのである。
 卑弥呼は[]つまり「原始のときから受け継がれた1分以内の緯度差を測定できる神秘的な眼力の呪力」と「生命の神秘をあらわして、泣きたくなるほど最高に感動的な産道を通過する出産児の[]のドラマ」を重ね合わせて(同一視)して、「邪馬壱」と表現した。
 だから、「玄界灘」の[]の字は、[]の下に[(よう)]の字が加わる。[]の字源・字形・字義は上記した「生命の神秘をあらわした、泣きたくなるほど最高に感動的な産道を通過する出産児による[]のドラマ」であった。

◆『説文解字』は[]の字源を「至高にして上なし。一大に従ふ」と解説する。この字源解説文は「それ以上の上が無い、天頂緯度線」を意味した。
 したがって、『説文解字』の[]の字源解説は、下の図に示した「天頂点と重なる銀河部位の軌道における最も高い天頂緯度線」を意味した。ヒトが天頂緯度線をキャッチすると、1度・60分の60分の11分の誤差内で精確に緯度が測定できた。だから、倭国の使者と船乗りたちは、1分の誤差内で精確に緯度が測量できる方法の天頂緯度線をキャッチして魏や諸韓国と倭人国の中間の大海を往来していたことになる。この大海は、倭国の使者と船乗りたちが「1分の誤差内で精確に緯度が測量できた方法」つまり「[]のキャッチという方法」で往来したゆえ、「玄界灘」と名づけられた。
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 上の図の右上に示したように、「最も高い天頂緯度線と子午線」は[]の字となり、[]の下に[]が加えると、[]という字になる。
 下に、〔[]の字源解説図と金文形〕の図を配した。[]の金文形は「糸束が拗()じれるごとく頭と体を捩(よじ)って産道を通過する出産児の、[][]の字源となった4回の回旋」をあらわした。
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 『説文解字』は[]の下部の[]の字源を「小なり。子の初生の形に象(かたど)る」と解説する。つまり、[]の字源は、下に配した上・下図の「開口期の第1回旋から娩出期終わりまでの産道を通過する出産児の様子」であった。だから、上図における[]の下の「娩出期終わりの母体の臀部(お尻)に顔の正面を向ける出産児」は[]の字源となる。
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 「必ず天頂緯度線をキャッチして位置と方角を正確に測定し、絶対に道に迷わない」と欲を有すると、[]のキャッチに失敗して命を失った。[]をキャッチするときの心得は「産道を通過する出産児のごとく無欲になれ」であった。ゆえに、[]の字は「天頂緯度線をキャッチするときの心得」をあらわしたゆえ、[]の下に[]が加えられた。
 中国の魏・朝鮮半島と倭人国の中間にある「玄界灘」は、「天の北極の高度を緯度に換算する方法だと命を失うが、[]をキャッチする方法ならば1度の60分の11分の誤差内で精確に緯度が測定できるゆえ命を失わないで往来することができる、波が荒い陸地から遠く離れた海」と意味した。
 他方、原始時代から卑弥呼が生存した3世紀までにおいては、今日の地図において〔北〕の基準となる「天の北極」の高度で緯度を計測すると「天地の緯度が精確に測量できないゆえ、玄界灘を往来することができずに命を失うことになる【死神の座】」であった。ゆえに、「現在の日本地図と同じく、九州を〔西〕と定め、東海地方(愛知県・静岡県)を〔東〕と定める、本州・日本列島地理」を、卑弥呼王朝は制定するはずがなかったことになる。

◆日本列島の西端にある玄界灘に浮かぶ沖ノ島は、下に図示するように、日本列島の東端にある伊豆諸島の神津島(こうづしま)と同緯度(北緯3415)である。そして、沖ノ島は対馬国の対馬と一大国の壱岐の水平線以内に所在する。このような沖ノ島の水平線より遥か遠くの太平洋上となる日本列島の東端に、同緯度の神津島が所在する。
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 本州・日本列島の〔西端〕にある沖ノ島の方位を時計回りに90度転回して本州の〔北端〕に所在すると定め、本州の〔東端〕にある沖ノ島と度緯度の神津島の方位を時計回りに90度転回して〔南端〕と定理すれば、【倉頡が創った[]の字源・字形・字義】が成立すること――に、卑弥呼は気づいた。
 これから始める解説における方位は、現在の日本地図の方位規定に則(のっと)る。
 卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、「魏」と「呉」という国名が示すように、中国の国土は【倉頡が発明した漢字作成理論】によって――[]の偏[]の字が示す「時計回りに90度転回する方位規定の中国北部地方」と、[]の字が示す「反時計回りに方位が90度転回する方位規定の中国南部華南地理」で定められていた。だから、中国の北部地方の魏は時計回りに90度転回し、中国南部地方の呉は反時計回りに90度転回する――と、中国地理の方位規定は二つ存在した。これゆえ、中国国土の東側となる海岸線地域の方位規定を北部の[]と南部の[]の二本立てにすると、複雑・混乱化して本州・日本列島地理の方位規定を定理することができない。
 そこで、卑弥呼は〔黄帝陵が所在する北緯3536分となる山東半島の付け根の海岸(北部地方)から北緯30度の会稽(かいけい/南部地方の現在の浙江省の紹興市まで)〕を〔方位が転回しない不動の海岸線点〕と定めて、〔中国の海岸線地域の方位規定を一本化〕した。つまり、卑弥呼は「中国全土を包む海岸線における、〔北部地方の海岸線〕を〔北〕とし、〔南部地方の岸線〕を〔南〕」と定理した。
 中国の北部海岸線地域は冷たい気候区であり、中国の南部海岸線地域は暖かい気候区であるゆえ、〔北冷南暖〕ということになる。本州・日本列島の西端にある沖ノ島は冬に雪が降る冷たい気候区であるが、本州・日本列島の東端にある亜熱帯の神津島は一年中暖かい気候区であるゆえ、〔西冷東暖〕となる。
 ゆえに、下に配した「中国の〔北冷南暖〕と倭の〔西冷東暖〕の図」に示したように――中国の北部海岸線地域と日本列島西端の沖ノ島の気候は共に冷たいゆえ、〔中国の北冷=倭地の西冷〕となる。中国の南部海岸線地域と日本列島東端の神津島の気候は共に暖かいゆえ、〔中国の南暖=倭地の東暖〕となる。
 このように、中国の海岸線地域と本州・日本列島の西端の沖ノ島・東端の神津島における冷たい気候区と暖かい気候区の共通性を基(もと)に考えると、下に図示したように本州・日本列島は[]の字源に合致して時計回りに90度転回することになる。
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 だから、卑弥呼は「本州・日本列島の暖かい東端は中国の海岸線地域の暖かい南部の方へ延びている」と考えた。
 『魏志倭人伝』の冒頭文は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」である。この冒頭文に登場する[]の字源・原義は「時計回りに90度ずつ転回する方位規定」であった。
 『魏志倭人伝』は「対馬国の南に一大国がある」と説明しているゆえ、「対馬国・一大国の地理」は現代の日本地図の方位規定と同じゆえ、「倭人」の[]の字源・字形・字義の「時計回りに90度ずつ転回する方位規定」をあらわさない。
 下に図示したように、「対馬国・一大国の水平線より外界となる、遠い本州・日本列島地理」が[]の字源・字形・字義をあらわすことになった。
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 『魏志倭人伝』の「本州・九州の末盧(まつろ)国の記事」から以後の後半にある「裸()国・黒歯(こくし)国が有り、また其の東南に在りて船行一年にして参問至るべき。倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」という文までの記事は、本州・日本列島における地理についての説明となる。この本州・日本列島地理の説明記事には、全部で12ヵ所の方位名が記される。この全12ヵ所の方位記事は、上に示した《[]の字源となった時計回りに90度ずつ転回する方位規定》に1ヵ所も矛盾せず不合理な点もなく、すべて合致する。

◆『魏志倭人伝』に「邪馬壱(やまい)国に至る、女王の都(みやこ)する所なり」と書き記された「邪馬壱国」は、旧国の山陰・出雲にして現在の島根県東部であった。
 というのも、前々回(11)のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」で証明したように、卑弥呼時代の山陰・出雲の海岸線地域には、下に示す〔「邪馬壱」の地宜〕が存在したからである。
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 下に配した「神門水海(かんどのみずみ)」は経度線・緯度線に対して「邪(なな)め」になって所在し、その地宜は[]の字源「フタコブラクダの姿」に相似する。これゆえ、「神門水海の地宜」は「邪馬」ということになる。
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 下の図に示すように――古代の宍道湖(しんじこ)南部(転回方位)の地宜は「膝(ひざ)から下の足の形」に相似し、その「足の爪先(つまさき)」は転回方位の〔西〕を指差した。ゆえに、卑弥呼は――「宍道湖」は「十字の銀河の右足(西側の足)」に相当する――と見立てた。前述したように、[]の字源・字形の原義・原義となった「十字の銀河の子宮」は「女性の生殖器(骨盤や産道など)」に見立てられた。[]の字源「十字の銀河の子宮」は「十字の銀河の右足(西側の足)」の〔東〕に隣接(りんせつ)する。だから、「右足に見立てられた、
宍道湖の南岸(転回方位)」に面した佐太神社が鎮座する「島根半島の中央部」を、卑弥呼は[]の字源地宜と解釈した。
 下に、[]の字源地宜、つまり「佐太神社が鎮座する、島根半島中央部の地宜」を示した。
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 卑弥呼は――「神門水海」が〔「邪馬」の地宜〕となり、「島根半島の中央部」が〔[]の地宜〕となる山陰・出雲を倭人国の首都所在地――に定め、「邪馬壱国」と呼ぶことにした山陰・出雲に居住した。

◆前述したように、「倭人国」の[]の字は倉頡が創った[]の字源・字形・字義をそのまま受け継ぎ、また[]の字も倉頡が創った[]の字源・字形・字義を受け継いだ。
 白川静著『字統』は、[]の字について「年・委など禾下に人の形を加えるものは、稲魂(いなだま)を被(かぶ)って舞う男女の姿で、禾穀(かこく)の象に従う字である」と解説する。
 また、白川静著『字統』は[]の字について「穀霊(こくれい)に象(かたど)る禾形の作りものを被って舞う女の姿をいう。同じく禾形の作りものを被って舞う男を年というのと、同じ構造法の字であり、男女が稲魂(いなだま)に扮して舞う農耕儀礼を示す」と解説する。
 また、白川静著『字統』は[]の字について「委はもと田舞(たまい)の状をいう字で、男が稲魂を被って舞うのは年、女を委という」と解説する。
 述したように、[]の字は《「十字の銀河の中央」に、〔禾(イネ)をあらわす図書〕を重ねて、〔イネの穂が時計回りに90度転回する方角へ垂れる状況〕》を示す構造となる。
 下に、その中央に〔禾(イネ)をあらわす図書〕を重ねた「十字の銀河」の図を示した。
 「十字の銀河の左手(東側の手)」は「狩猟するときの〔弓〕の形となる銀河」を有するゆえ、「十字の銀河の東半分」は「男性」をあらわすことになる。
 「十字の銀河の右側(西側)」には「女性の乳房・妊婦のおなか・右足と重なる子宮」に相似する形状となるゆえ、「十字の銀河の西半分」は「女性」をあらわすことになる。
 下の図に示すように、白川静著『字統』は[][][]の字について解説した文に登場する「男と女が被る穀霊(稲魂)の作りもの」は、「十字の銀河の頭部より北部の銀河部」が相当する。
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◆下に「対馬国・瀚海・一大国」の図を示した。
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 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の4回で詳細に解説し証明したように――卑弥呼は「長崎県対馬の上県(かみあがた)の地宜」を「[]・フタコブラクダの正面形」に相似すると見立て、「対馬の下県(しもあがた)の地宜」を「[]・フタコブラクダの足底や足跡の形」に見立てた。そして「フタコブラクダの正面の姿と足跡の形」が「一対」となる「対馬」は経度線・緯度線に「邪(なな)め」となるゆえ、卑弥呼は「対馬」の小国名を「対馬国」と定めた。
 また、「長崎県の壱岐」を、卑弥呼は『説文解字』の[]の「至高にして上なし。一大に従ふ」という字源解説文に登場する「一大」に見立てた。「一大」は「十字の銀河の子宮」を指しており、「十字の銀河」は[]の字源となった。だから、今日、「一大国」は「壱岐」と呼称される。
 『魏志倭人伝』に最初の1番目に登場する小国「対馬国の地宜」は「邪馬」を表示し、2番目に登場する小国「一大国の地宜」は[]の字源を表示した。したがって、「対馬国と一大国」もまた「邪馬壱」という名称を表示した。
 『魏志倭人伝』には34の小国が記されている。
 そのうち、1番目から10番目までの〔対馬国・一大国・末盧国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国・邪馬壱国・斯馬国・巳百支国〕の10小国に用いられる各字の字源と各国の地宜は、「邪馬壱」という名称の秘密をあらわすことで共通する。ゆえに、この10小国は〔「邪馬壱」グループ〕として分類されている。
 次の11番目から20番目までの〔伊邪国・都支国・弥奴国・好古都国・不呼国・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国〕の10小国に用いられる各字の字源と各国の地宜は、「稲魂の作りもの」を被って舞う女性グループをあらわす諸国として分類されている。
 次の21番目から30番目までの〔鬼国・為吾国・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・奴国・狗奴国〕の10小国に用いられる各字の字源と各国の地宜は、「稲魂の作りもの」を被って舞う男性グループをあらわす諸国として分類されている。
 したがって倭人国の10ヵ国ずつ3グループの計30小国をもって、卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を体系化し、また「人民たちの胃袋を食料(五穀)で満たす、五穀豊穣」の政治スローガンをあらわしたことになる。

◆上記した30の小国以外に、『魏志倭人伝』には「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆倭種なり。又侏儒国有り。その南に在り。人の長(たけ)三、四尺、女王を去ること四千余里。又裸国・黒歯国有り」と説明する、4小国の記事がある。
 この〔名称を記さない小国(隠岐群島)と侏儒国・裸国・黒歯国の4小国〕は「紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、名門益(えき)氏の王子と若者たちが中国から玄界灘を横断してわが国の東北地方の男鹿半島・米代川(よねしろがわ)縄文文化圏に定住して、夏音文字の学芸を東北地方から関東地方までの東日本一帯に広めた。この夏音文字の学芸を習得した時に、紀元前3000年頃の中国の五帝時代初頭に生存した倉頡が発明した漢字作成理論をも習得した歴史」を伝えている。
 だから、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は約55パーセント・約1100字をもって【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を伝える歴史書にして学問書であった。
 したがって、学界とメディアが信頼する邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説の実体は『魏志倭人伝』とまったく無関係の空理空論・デタラメであった。

 次回は、〔名称を記さない小国(隠岐群島)と侏儒国・裸国・黒歯国の4小国〕の記事を注目して「紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、わが国の東北地方の男鹿半島・米代川縄文文化圏に【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が伝来した歴史」の証明を詳細に具体的に解説する。

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2021年4月19日 (月)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・12

▼“日本古代史最大の秘密”を伝える『魏志倭人伝』を読解して「倭女王・卑弥呼が居住した邪馬台国を吉野ケ里遺跡がある九州、もしくは纏向(まきむく)遺跡がある畿内・大和に所在したと説明している」と主張する意見――この両説を、学界はじめメディアは諸々の説にあって最も正しい意見であると太鼓判(たいこばん)を押す。
 しかし、九州説と畿内説の実体は【科学】がまったく成立しない完全なる空理空論・デタラメ・インチキであった。
 というのも、『魏志倭人伝』は「倭女王が居住した王国は山陰・出雲、現在の島根県東部であった」と記述しているからである。
 また、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は約55パーセント・約1100字の記事をもって「紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)、名門益(えき)氏の王子と若者たちが中国から大海・玄界灘を横断してわが国の東北地方の男鹿半島・米代川(よねしろがわ)縄文文化圏に定住して、原初漢字・夏音(かおん)文字の学芸を東北地方から関東地方までの東日本一帯に広めた。この夏音文字の学芸を習得したときに、約1000年前の紀元前3000年頃の中国の五帝時代初頭に生存した倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論をも習得した」と伝えている。しかし、九州説と畿内説によって、この歴史がハチャメチャになってことごとく不明となった。
 『魏志倭人伝』は倭女王・卑弥呼が居住した首都所在地を「邪馬壱(やまい)国」と書き記し、「邪馬台国」と書いていない。
 だから、邪馬壱国・出雲説ならば『魏志倭人伝』の全記事と矛盾点も弱点も1点も無くなり論理が完結し【科学】が成立して事実・真実が明らかとなる。
 つまり、「卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰・出雲であった」と証言する『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える歴史書であり、また「中国における【学問】は紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝・倉頡時代から始まり、わが日本国では紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭から始まる」と伝える学問書であった。


★「倭人国の地理学」のトリセツ・21

◆九州説と畿内説が空理空論であることは、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の1回から詳細に解説し証明したが――「邪馬壱国は山陰・出雲であった」という証明については、9回から前回(11)まで集中的に解説し証明した。「邪馬壱国が山陰・出雲であった」という証明における今回における不明な点については、9回~11回までを参照していただきたい。

◆上記したように、『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した王国名を「邪馬壱国」と記す。しかし、九州説と畿内説は「邪馬壱(やまい)国」ではなく「邪馬台国」と記していると主張する。
 江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)は初め「邪馬台国は大和であった」と立論し、後に「邪馬台国は筑後山門郡であった」と考えた。ゆえに、畿内説は「大和」の「やま」は「邪馬台」の「邪馬(やま)」であると考えて、邪馬台国は大和にあったと主張する。九州説は「筑後山門郡」の「山門」の「山」は「邪馬台国」の「邪馬(やま)」に合致する、この合致を理由・根拠にして邪馬台国は九州に存在したと比定する。
 ところが、前回(11)のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」で証明したように、「邪馬」は【倉頡が発明した漢字作成理論の核心】をあらわす、邪馬台国説学者たちが誰一人も思いつかなかった今日の医学用語で「広形機能(こうけいきのう)」あるいは「骨重積(こつじゅうせき)」と呼ばれている【ヒトの命の神秘、女性生殖器と産道を通過する出産児の頭蓋骨の機能】をあらわしていた。それというのも、前述したように『魏志倭人伝』は最多数の記事で【倉頡が発明した漢字作成理論】について説明する書物だったからである。倉頡は【黄帝がおこなった「女性の生殖器と子どもの出産」の医学研究」をあらわすことができる文字の作成】を目的として漢字を発明した。だから、【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究」の核心】を卑弥呼は「邪馬壱」と表現した。これゆえ「邪馬壱」という語は「5枚の頭蓋骨を重ね合わせる仕組みで、せまい産道を通り抜けることができる出産児の頭の機能と頭の4回の回旋(かいせん)」、つまり今日の産婦人科の用語で「広形機能」または「骨重積」と呼称される神秘的な仕組みをあらわしていた。
 だから、『魏志倭人伝』を「邪馬台国」について説明する書物であったと思い込んでいる九州説と畿内説の両説は「邪馬壱」つまり「産道を通過するときの出産児の頭の機能と4回の回旋」とまったく無関係の空理空論であったのである。

◆「銀河」の別称は「銀漢」であり、「銀漢から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と呼称した。
 倉頡は、現在の天文学にて通称「夏の銀河」と呼ばれる「夏の星座が漬()かる銀河」から【文字】つまり【漢字】を作った。私は「夏の銀河」を「文字作成銀河」と名づけた。
 「文字作成銀河」の写真を、下に示した。
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 天文学はじめても諸々の分野の学問においても「《漢字の字源》について解説することができる文字作成銀河全域における各部の名称」が存在しない。ゆえに、〔『魏志倭人伝』が伝える歴史〕はじめ〔字源となった銀河=字形となった銀河=字義となった銀河〕の解説・証明において非常に不便となるゆえ、私は下記のごとく銀河各部の名称を定めた。
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◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の2回で解説したように、「歳差(さいさ)」という天文現象を利用すると、黄帝と倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代初頭における中国全土の天頂にめぐってきた銀河を算出して再現することができる。
 【漢字作成理論】が発明された五帝時代初頭、下に示すように、私が「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた銀河が中国全土の天頂にめぐってきた。この「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は、中国各地の人々が精確に緯度と方角を測定して、最も大事な命をまもっていた羅針盤となった。
 〔注 「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は、上に示した「文字作成銀河各部の名称図」における左上にある)
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 倭人国の首都が所在した王国名「邪馬壱国」、この「邪馬壱」の[]の字義は「ななめ(斜め)」であり、[]の字源・字形の原形・原義は「瀚海(かんかい・ゴビ沙漠)に生息するフタコブラクダ」であった。[壱]の字源・字形の原義・原義は上に図示した「十字の銀河の子宮(または、生殖器)に相似する銀河」であった。
 上の図に示したように、「十字の銀河」は「緯度線・経度線に邪(なな)め」であるゆえ、[]の字義をあらわした。上記したように「十字の銀河の子宮」が[]の字源・字形の原形・原義であった。
 『魏志倭人伝』は「倭地には牛と馬が無い(生息していない)」と記述する。
 []の字源は「ジャコウウシ」であった。[]の字源は「フタコブラクダ」であった。
 「ジャコウウシ」と「フタコブラクダ」は【倉頡が発明した漢字作成理論を象徴する聖獣(せいじゅう)】となった。
 『魏志倭人伝』は「対馬国の南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」と説明する。
 この記事が示すように、卑弥呼は「対馬国(現在の長崎県北部の対馬)と一大国(現在の長崎県北部の壱岐島)の中間の海」を「瀚海」と名づけた。
 「瀚海」は、中国北部・モンゴルより南方にある[]の字源「フタコブラクダ」が生息する「ゴビ沙漠」を意味する。
 下に示すように、「黄色く輝く、三つ輪の銀河」は「月の光が照らして黄色く輝くゴビ沙漠」のイメージとなる。「三つ輪の銀河」に隣接する「黄色く輝く、十字の銀河」も「月の光にきらめく沙漠の沙(すな)」のイメージとなる。ゆえに、「十字の銀河」は「ゴビ沙漠に棲むフタコブラクダ」に見立てられた。
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 これゆえ、下の図に示すように、「三つ輪の銀河」は「沙漠」に見立てられ、「十字の銀河」は「フタコブラクダの側身形」に見立てられて[]の字源・字形・字義となり「フタコブラクダ」をあらわした。
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 前述したように、黄帝時代、中国全土の各地の天頂に、緯度線・経度線と邪めとなる「十字の銀河」がめぐってきた。上の図に示したように「十字の銀河」は[]「フタコブラクダ」の字源・字形の原形・原義であった。したがって、黄帝時代の中国各地の天頂にめぐってきた「十字の銀河」は「邪め」の[][]の字源が「フタコブラクダ」、「十字の銀河の子宮」が[]の字源・字形の原形・原義となった。
 だから、【倉頡が発明した漢字作成理論】を国家と王朝の政権基盤とした倭女王・卑弥呼は倭人国の首都所在地に決定し王国名を「邪馬壱国」と名づけた。

◆『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人国は、帯方の東南、大海の中に在り」である。
 この記事冒頭の「倭人」の[]の字源・字形の原形・原義は「観測地点の地平線より外界となる遠く離れた土地の方位規定は、時計回りに90度ずつ転回する。つまり北→東・東→南・南→西・西→北となる」であった。
 『魏志倭人伝』は「対馬国から南一海を渡る千余里、名づけて瀚海と曰()う。一大国に至る」と記述する。したがって、「長崎県対馬=対馬国が北となり、長崎県壱岐=一大国が対馬国の南」となる。この「一大国・対馬国」の「南北」は、現在方位と同じである。だから、「対馬国・一大国の方位規定」は[]の字源「時計回りに90度ずつ転回する方位規定」をあらわしていない。
 これゆえ、『魏志倭人伝』は「現在方位と同じ対馬国・一大国の水平線から外界となる、本州・日本列島地理における方位規定は[]の字源に則(のっと)る。つまり、東海地方(愛知県・静岡県)は現在の日本地図だと九州の〔東〕に所在するが――卑弥呼王朝は、東海地方は90度転回して〔南〕に所在すると制定した」と説明していることになる。
 このように卑弥呼王朝が[]の字源に則って「本州・日本列島地理における〔東〕は〔南〕に転回する」と制定した転回日本列島地理を下に示した。
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 上の図に示したように、卑弥呼王朝は[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」にもとづいて本州・日本列島地理を制定した。
 下に、[]の字源にもとづく〔卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の山陰・出雲の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)〕を示した。
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 上の「古代出雲の地宜(邪馬壱の地宜)」の左上に「神門水海(かんどのみずうみ)」がある。
 下に図示したように、「神門水海」は「経度線と緯度線に邪めとなる、また馬・フタコブラクダの姿」に相似する。だから、「神門水海」は[][]つまり「邪馬」をあらわした。
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 下の図に示すように――古代の宍道湖(しんじこ)は「膝(ひざ)から下の足の形」に相似し、その「足の爪先(つまさき)」は転回方位の〔西〕を指差した。したがって、「宍道湖」は「十字の銀河の右足(西側の足)」に相当すると見立てられた。前述したように、[]の字源・字形の原形・原義となった「十字の銀河の子宮」は「女体に相似する、十字の銀河の右足(西側の足)の東に隣接する。ゆえに、「足の形に似る、宍道湖の南岸(転回方位)」に面して佐太神社が鎮座する「島根半島の中央部」が[]の字をあらわすことになった。
 下に、[]の字源地宜、つまり「佐太神社が鎮座する、島根半島中央部の地宜」を示した。
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 下の図に示すように、黄帝時代に中国全土の各地の天頂にめぐってきた「十字の銀河の西側半分」には、「乳房」「妊婦の腹部(おなか)」「右足(西側の足)」に観える部分があり、また[]の字源・字形の原形・原義となった「子宮に相当する箇所」もある。この「十字の銀河の子宮」は「十字の銀河の右足(西側の足)の東側」にある。
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 したがって、「十字の銀河の右足」と見立てられた「宍道湖の南岸(転回方位)に面して佐太神社が鎮座する、島根半島の中央部の地宜」は[]をあらわした。前述したように、「神門水海」は「邪馬」をあらわしたゆえ――「山陰・出雲の地宜」にもとづいて、卑弥呼は「出雲」を「邪馬壱国」と名づけ、卑弥呼は「邪馬壱国」の山陰・出雲に居住したことになる。

◆邪馬壱国・山陰・出雲には、『魏志倭人伝』末部に「卑弥呼以(すで)に死す。大いに冢(ちょう)を作る。径百余歩(直径が約150メートル)」と記述された卑弥呼の墓と考えられる円い自然丘が所在する。
 財団法人の日本地図センターが撮影した航空写真を取り寄せると、下に図示したように出雲大社を囲む東西南北の地所が「ヤンマトンボの姿」に相似することに、私は気づいた。
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 もしかしたならば―――「大型のトンボ」を「ヤンマトンボ」と呼ぶのは「邪馬壱国」の「邪馬」に由来して「ヤマ」を「ヤンマ」と称したのではあるまいか。
 上の図が示すように、「ヤンマトンボの地上絵となる、出雲大社周辺」の中心部の「出雲大社」が「卑弥呼を葬った陵墓」であったと推測される。
 下に「ヤンマトンボの絵」を配した。
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 現在方位にもとづくと、出雲大社の北は八雲山(裏山)であり、出雲大社の南の地域は「神園(しんえん)」と呼ばれる地域であり、「神園」は「トンボの尾」に相当する。出雲大社の東は「亀山」であり、出雲大社の西が「鶴山」である。この出雲大社を囲む土地の地宜は「ヤンマトンボの姿」に相似する。
 日本全土に生息する日本最大(全長90ミリ)のトンボ・オニヤンマやヤンマトンボは池や田や浅い川岸の水底の泥に卵を産む。
 「ヤンマトンボ」は「大型のトンボの総称」である。日本に生息するオニヤンマはじめとするヤンマトンボの成虫は「夏音」の〔夏〕に出現するゆえ、「わが国が中国の夏代(かだい)初頭(後期縄文時代初頭)に習得した夏音(かおん)文字」また「卑弥呼が文書に用いた夏音文字」を象徴する聖なる昆虫となったにちがいない。ヤンマトンボの成虫が飛び交()う夏季に適量の降水量()にめぐまれれば、稲は実って豊作となる。ゆえに、ヤンマトンボは「秋における、禾(か/イネ)の豊作」をもたらす聖なる昆虫になったにちがいない。また、オニヤンマはじめトンボが産んだ水中に浮かぶ卵は、稲の穂にたわわに実る一粒(ひとつぶ)一粒の籾殻(もみがら/米のかたい外皮)の形に相似する。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・2回」で解説して証明したように――倉頡は、下に示す「さそり座α星がある、夏の銀河の西端の方へイネの穂が垂れる」と定める[]の作字方法を考案した。
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 「さそり座α星」は夏から秋までの穀物収穫期、赤く輝くひときわ目立つ巨星の一等星である。ゆえに、わが国では「豊年星」と呼んだ。中国では「火()」「大火(たいか)」と呼称され、「大火西に下る頃」と表現して「夏が終わると、禾(穀物)を収穫する秋が到来する」と、豊年の喜びを表現した。
 黄帝時代では、秋分の日の太陽が真西の地平線に没する夕刻(午後6)、大火は真西から約10度の方角(西南西)の地平線スレスレの低い高度の空に位置し、約30分後には地平線下に没した。したがって、黄帝時代の秋分の日の夕刻においては、太陽と大火の地平線に没する時間はほぼ同じで、太陽の30分後に大火が地平線に没した。このような状況もあって、上に示した「さそり座α星がある、夏の銀河の西端へイネの穂が垂れる」と図案して倉頡が創(つく)った[]の字源・字形の原形・原義は「黄帝の居住地から見える地平線より外界となる遠い土地の方位は、時計回りに90度転回する」とあらわすことになった。
 この[]の字源・字形の原形・原義をそのまま[]の字は受け継いだ。
 したがって、国名に[]の字を配した倭人国においては、「ヤンマトンボの成虫」は「秋における、禾(か/イネ)の豊作」をもたらす聖なる昆虫になったにちがいない。
 これゆえ、「その周辺地域がヤンマトンボの成虫の姿に相似する、出雲大社の円い裏山」は「ヤンマトンボの頭」に相当する。「出雲大社の円形の裏山の直径」は「百余歩、つまり約150メートル」である。ゆえに、「出雲大社の裏山」が「卑弥呼陵における直径百余歩の円墳部」であったと推断できる。

◆再度、下に「邪馬」をあらわす「神門水海の地宜」を示した。
 「神門水海の地宜」は「トンボが水底の泥(どろ)に産卵する姿」に類似する。
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 『魏志倭人伝』は「対馬国と一大国の南北(方位)は現在と同じ」と説明するが、「末盧(まつろ)国以下の本州・日本列島地理の方位規定は[]の字に則って時計回りに90度転回する」と伝えている。だから、本州・日本列島の地底は〔東〕が〔南〕に転回できるように、禾(イネ)が育つ水田の泥のように柔らかくなっている」と定理されたことになる。したがって、《その地宜が水底の泥に産卵するトンボの姿に類似する、「邪馬」をあらわす神門水海》は、[]の字源・字形の原形・原義をあらわす聖地となる。
 だから、転回方位にもとづくと神門水海の東に鎮座する出雲大社の裏山は卑弥呼を葬った円墳であったと推定される。
 その証拠に、前述したように、下に示す出雲大社の平面図における裏山・八雲山の直径は、『魏志倭人伝』の「径百余歩」という記事に合致して「約150メートル」である。
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 上に示した出雲大社の境内の平面図は、現在、前方墳の左右対称の形が少し歪(ゆが)んでいるが――よく見ると《前方墳の形》の面影がある。ゆえに前期古墳ということになる八雲山(自然丘陵)の後円墳と出雲大社の境内(前方墳部)は、卑弥呼の墓であったと考えられる。
 というのも、上田宏範(うえだひろのり)著『前方後円墳[2](学生社発行)61ページは「前期のものは、丘陵の先端や丘頂などに自然の地形を利用して築かれ、高い円丘の前面に低い方形の前方部をつけたものが多い」と指摘するからである。
 出雲大社の裏山は前期古墳の特徴の円い自然丘(円丘)であり、出雲大社の境内は裏山より低い前方墳の形に相似する。ゆえに、出雲大社の裏山と境内は、『魏志倭人伝』に記述された卑弥呼の墓であったと推定される。
 『魏志倭人伝』は「卑弥呼の墓に百余人の奴婢(ぬひ)が徇葬者(じゅんそうしゃ)となって殺されて埋められた。この徇葬墓を築造した卑弥呼の後を継いだ男王に倭国の国中の人民たちは服従せず、兵器を持って倭王朝軍と戦った。ゆえに、倭王朝軍は千余人の人民を殺した」と記述する。したがって、残酷な徇葬をおこなわれた卑弥呼の墓は倭国の国中の人民たちに憎悪されたが原因で、卑弥呼の没後の3世紀末~4世紀初め頃に破壊されたにちがいない。これゆえ、出雲大社の裏山と境内が卑弥呼の墓であったと考えるべきことになる。

◆前回のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の11回の末部で詳細に解説して証明したように――黄帝時代の中国の北部地方(華北)の天頂にめぐってきた天体部に、倭女王・卑弥呼が居住した「邪馬壱国」の「邪馬壱」をあらわす銀河部が存在した。
 下に、〔「邪馬壱」の銀河と黄帝時代の黄帝陵の天頂にめぐってきた緯度線(北緯3536)の図〕を表示した。〔「邪馬壱」の銀河〕の北端は黄帝陵の天頂緯度線と重なる。ゆえに、〔「邪馬壱」の銀河〕は黄帝陵の天頂緯度線を撫でるように位置していた。
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 下の「産道を通過する出産児の頭蓋骨図」が示したように、出産児の頭蓋骨には「小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)」と名づけられた仕組み(機能)がある。この「出産児の頭にある小泉門・矢状縫合・大泉門の形」は、黄帝時代の黄帝陵の天頂緯度線を撫でるように位置した〔「邪馬壱」の銀河の形〕に相似する。そして、[]の字源は「子宮や産道の、女性の生殖器」であるゆえ、「産道」が[]を意味した。だから、「小泉門・矢状縫合・大泉門」を、卑弥呼は「邪馬」と呼んだことになる。
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 〔出産児の頭にある「邪馬」〕の機能]は「縦長の出産児のゆるい小泉門・矢状縫合・大泉門の組み合わせの頭」が「せまい横長の骨盤入口(上口)」をくぐり抜けるために重ね合わせることができる神秘的な仕組みになっている。
 この「産道を通過する児頭における小泉門・矢状縫合・大泉門と、後頭骨・頭頂骨・前頭骨の動き」は下に示す「フタコブラクダがモグモグと草を食べる時の、鼻・上アゴ・口・下アゴが邪(なな)めとなる動き」にソックリである。だから、[]の字源「フタコブラクダ」と「邪め」で、「邪馬」となった。
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 上の図における「フタコブラクダの鼻の動き」は「後頭骨・小泉門の動き」に相似し、「フタコブラクダの上アゴの動き」は「頭頂骨の動き」に相似し、「フタコブラクダの口の動き」は「大泉門の動き」に相似し、「フタコブラクダの下アゴの動き」は「前頭骨の動き」に相似する。だから、「せまい産道を通りぬけるために、出産児の頭蓋骨の重ね合わせることができる仕組み」は「邪馬」と呼ばれ、「産道」の[]が加わって、「邪馬壱」と名づけられたことになる。
 下に、〔女性の骨盤と十字の銀河の頭の穴(暗黒天体部)の図〕を配した。「女性の骨盤腔(こつばんこう)」と「十字の銀河の頭の穴(暗黒天体部)」の形は相似する。しかし、「女性の背側の骨盤腔の形」が「十字の銀河の頭の南側の穴の形」に相似し、「女性の腹側の骨盤腔の形」が「十字の銀河の頭の北側の穴の形」に相似して、両者は互いに南北の形が反転しあう。
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 下に、〔「十字の銀河」に黄帝時代の黄帝陵の天頂緯度線と女性の骨盤を加える図〕を示した。この図のように解釈すれば、「女性の骨盤腔の形」と「十字の銀河の頭の穴の形」は合致する。
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 前回のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の11回末部で指摘したように――下に図示したように「女性の骨盤入口は横長の楕円形」である。ゆえに、「出産児は縦長の頭を横向き」にして骨盤入口をくぐり抜ける。
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 「女性の骨盤入口の境目」は明確に定められていないゆえ、坂井建雄・橋本尚詞著者『ぜんぶわかる 人体解剖図』(成美堂出版発行)は「骨盤入口は楕円形ないし円形をしている」と指摘する〔注 なお『ぜんぶわかる 人体解剖図』では「骨盤入口」を「骨盤上口」と記す〕。

◆下の図に示したように、「十字の銀河」は「トンボの姿」に相似すると見立てられた。ゆえに、『魏志倭人伝』が「径百余歩」と伝える卑弥呼の墓は、その周辺地域が「トンボの地上絵」となる出雲大社の径百余歩の裏山(八雲山)であったと推定される。つまり、「人民たちの出産児総数の頭蓋骨の丈(たけ/長さ)」を「百歩」と見立てて(算出し)、卑弥呼を葬った円墳の直径は「百余歩」にして、人民たちの出産児全員が狭い産道をくぐり抜けることができるように祈願するものであったにちがいない。
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 だから、卑弥呼の後を受け継いで倭人国を統治することになった男王(倭王)は「倭人国に多数の子どもたちが生まれ、人民たちが国土に満ち満ちあふれる状況」を天に祈願して「卑弥呼の墓・径百余の円墳である出雲大社の裏山に、百余人の奴婢(ぬひ)を殺して卑弥呼の墓に埋める残酷な徇葬」を決行したことになる。
 それというのも、卑弥呼は居住した倭人国の首都所在地は「邪馬壱国」と名づけられて、その名に「フタコブラクダ」を意味する[]の字が用いられたからである。
 『魏志倭人伝』は〔対馬国と一大国の中間の海〕は「瀚海(かんかい)」と名づけられていたと記述する。「瀚海」は「フタコブラクダが生息するゴビ沙漠」を意味した。
 ゴビ沙漠に住む匈奴(きょうど)の人々は平原に深い穴を掘り、その穴に死者を葬り、殉死(じゅんし)させた一匹のフタコブラクダの血をその墓の上にそそいで去った。翌年に雑草が生い茂って墓の位置が不明になるが、連れてきたラクダが殉死したラクダの血を嗅(か)ぎ当てて咆哮(ほうこう)する所に墓をさがす遺族たちは祭壇を作って死者を供養した。
 ゆえに、卑弥呼の墓を築造する際におこなわれた「徇葬」は「殉葬」であったことになる。つまり、匈奴の人々がゴビ沙漠で没した死者を葬った墓にフタコブラクダを徇死(殉死)させた風習に因んで、百余人の奴婢を殺して径百余歩の円墳である卑弥呼の墓に埋める残酷な徇葬が決行されたことになる。

◆なお、再度、下に〔出雲の[壱]の地宜〕を図示した。この[壱]の字源地宜における「島根半島の中央部に鎮座する、佐太神社の南(転回方位)を撫でるように通過する東経133度の経度線の秘密」もまた、「出雲大社の円形の裏山」が卑弥呼の墓であった理由・根拠として加えなければならない。
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 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の10回で詳細に解説したように――東経133度の高知県・土佐の最南端(現在方位)の「足摺岬」の古称は「蹉跎(さだ)岬」であった。この岬の名称に用いられた「蹉跎」は「フタコブラクダは右側の前足と後ろ足を同に踏み出した後に、左側の前足と後ろ足を同時に踏み出す」、いわゆる「側対歩(そくたいほ)」と称される「フタコブラクダの歩き方」を意味した。この「側対歩」は「フタコブラクダが、つまずいて転ぶ」かのように観える。ゆえに、「蹉跎」は「つまずいて転ぶ」と意味した。
 「フタコブラクダの姿」に相似する「神門水海の地宜」は「フタコブの前足は短く後ろ足は長い」ゆえ、「つまずいて転ぶ」という形状となるゆえ「蹉跎」という語をあらわす。「卑弥呼時代の宍道湖」は「人の右足」に見立てることができるが、出雲には「右足に対する左足に相当する地宜」が存在しない。したがって、「宍道湖の地宜」は「一本足」であるゆえ、「つまずいて転ぶ」つまり「蹉跎」という語をあらわす。
 高知県の「蹉跎岬」は「佐太岬」とも表記された。
 「高知県・土佐の蹉跎岬と出雲の佐太神社」は[景]の字源「日景測量」をあらわした。
 天文学における「一日」は「24時間」ではなく「23時間56分」である。このように「一日は4分短い」ゆえ、ある年の元日の午前零時の天頂点と重なった銀河部位は日々午前零時の天頂から外れるゆえ、翌年の元日の午前零時の天頂点と重なる銀河部位は同一となる。
 だから、「土佐の蹉陀岬の東経133度線」は「出雲の佐太神社」を貫通せず、「出雲の佐太神社の南(転回方位)の地所」を撫でるように貫通することになった。つまり、「佐太神社」は「円形一周の360度」をあらわし、「佐太神社を撫でるように貫通する東経133度線」は「360度より1度短い、359度」をあらわした。
 白川静著『字統』は[景]の字について――〔周礼(しゅらい)、大司徒〕に「日景を正して、以て地の中を求む」と日景測量のことをいい、地上千里にして日景に一寸の差があるという――と解説する。
 文房具店に売られている「分度器」には「360度の目盛りを付けた円形分度器」があるが、一般的な分度器は「180度の目盛りを付けた半円形分度器」である。「1年」を「365.25日」でなく「約366日」にすると、「180度の半円形分度器の円周」に「一日の距離」として「半年・183日(0.98日)の目盛り」を付けることになる。したがって、「360度の円形分度器の直径」を「千里」と見立てると、「その分度器の円周上に付けた1年366日における1日の度数の距離(目盛り)」は「0.98寸=0.98日」となる。この「0.98寸」を四捨五入すると「1寸」となる。
 これゆえ、白川静著『字統』が『周礼』大司徒の[景]の解説を引用した「日景正して以て地の中に求む。地上千里にして日景に一寸の差がある」という文は、「佐太神社と佐太神社を撫でるように貫通する東経133度線」について説明するものであったことになる。つまり「土佐の蹉跎岬と出雲の佐太神社を結ぶ地中」は「日景正して以て地の中に求む」という文で説明されることになり、また「蹉跎岬と佐太神社の距離は円形の直径千里」ということになる。だから、「佐太神社から土佐の蹉跎岬から発する東経133度線が貫通する佐太神社の南(転回方位)の地所までの距離」が「地上千里にして日景に一寸の差がある」という「一寸」の距離をあらわす。
 したがって、「出雲大社の、360度あるいは359度の円形とも解釈できる裏山」は「日景測量の秘密」をあらわしていることになる。
 経済界が使う「景気」という語は「企業の経済活動の気(勢い)」を意味する。「卑弥呼時代の経済」は「農業のイネはじめとする五穀の出来高による気(勢い)」であった。だから、[倭]の字源「人民たち胃袋を食料(穀物)で満たす、五穀豊穣の気(勢い)」を祈願して、卑弥呼の墓は「円丘、円墳」となったと考えられる。
 以上からして、卑弥呼の墓は出雲大社の径百余歩の円丘・裏山であったと推定される。

◆前述したように、「産道を通過する出産児の縦長の頭蓋骨」は「邪馬」と名づけられ、「出産児の頭蓋骨」に見立てられた「鬼の横顔に似る銀河の後頭部とアゴにつく両目の経度の距離」は「百歩」つまり[百]の字源・字形・字義をあらわすことになった。ゆえに、「横長の女性の骨盤入口」に見立てられた「十字の銀河の頭部の穴(暗黒天体部)」は「径百歩」、つまり「卑弥呼の墓の円墳部の直径の距離は百余里」と定めて、「出産児が頭を横向きにしてスムースに骨盤入口をくぐり抜ける」ようにした。
 『魏志倭人伝』に最初に登場する倭人国の「対馬国」を「1番目」と数えると、卑弥呼が居住した「邪馬壱国」は「8番目」となる。この「邪馬壱国の範囲」は「旧国の石見(いわみ)・出雲・伯耆(ほうき)、現在の島根県と鳥取県の西部」であったことになる。というのも、旧国名は「フタコブラクダが生息する沙漠には小石も見ることができる(散在する)」ということで「石見」と定められたと考えられるからである。『魏志倭人伝』には「租賦(そふ)を収るに邸閣(ていかく)有り。国々市有りて有無を交易す。大倭(だいわ)をして之(これ)を監(かん)せしむ」という記事があり、今日の蔵相(大蔵大臣)のごとくの「大倭」という役職名の由来は[]の字源「十字の銀河の子宮」であったと考えられるからである。
 したがって、「出雲」から邪めの西北(転回方位)に在る「石見」が[]、「出雲」が[]、「伯耆」が[]ということで、「邪馬壱国の範囲」は「石見・出雲・伯耆」であったことになる。
 「9番目」は「斯馬(しま)国」である。
 下に示すように、小国「斯馬国」は「旧国の因幡(いなば)と但馬(たじま)、現在の鳥取県東部と兵庫県北部」であったことになる。したがって、「斯馬国」は旧国・伯耆の南(転回方位)に隣接する。ゆえに、下に示した「斯馬国の地宜」もまた転回方位規定にもとづく。
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 上図に示したように、邪馬壱国の範囲となる旧国・伯耆(鳥取県東部)に隣接する旧国の因幡(現在の鳥取県東部)、現在の鳥取市には「鳥取砂丘」がある。鳥取砂丘はわが国最大の砂丘である。
 「斯馬国」の[()]の字を、『説文解字』は「柝()くなり」と解説する。出産第2期の娩出期(べんしゅつき)終わりの頭が誕生する新生児は「母体の子宮・産道から柝ける(分離する)状況」にあり、娩出期終わりの子宮の側身形はヒョウタン(瓢箪)の形となるゆえ「その母体の背側の子宮」は[]の字源「フタコブラクダにおけるフタコブの形」となる。ゆえに、上の図に示したように、「但馬南端の地宜」は[]の「出産する胎児の頭」に見立てられ、「因幡と但馬の地宜の大部分」は[]「ラクダのフタコブの形となる、娩出期終わりの子宮」に見立てられたことになる。だから、「斯馬国」は「因幡と但馬」であった。また、「わが国最大の砂丘、鳥取砂丘」から「ゴビ沙漠」を連想すると、[]の字源「フタコブラクダ」も連想できるゆえ、「因幡と但馬」が「斯馬国」であったことになる。
 下に、9番目の「斯馬国」と次の10番目の「巳百支(じはき)国」という、小国名の由来となった〔出産第2期・娩出期終わりの頭が誕生する新生児の図〕を配した。
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 下の図に示すように、斯馬国の但馬に隣接する「丹後(たんご/現在の京都府北部)」が10番目の「巳百支国」であった。
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 「丹後の地宜」は、上の図右側に配した[]の古代字形に相似する。また、「丹後の地宜」は「産道を通過する、頭の大きな出産児の姿」に相似する。つまり、「丹後半島の地宜」は「出産児の頭部」、「丹後半島の付け根から大浦半島の付け根までの地宜」は「出産児の胴体」、「大浦半島の地宜」は「出産児の足」に相似すると見立てられたことになる。
 []の字義は「ヘビ()」である。この字義「ヘビ」は「大きな頭を有する出産児が狭い産道を蛇()のように体をくねらせて通過する状況」をあらわしているにちがいない。その証拠に、「大きな頭(丹後半島)」に対して、「出産児の体(丹後半島の付け根から大浦半島の付け根までの胴体部)」は「身をくねらせる形」となる。
 「巳百支国」の[]は、前述した「径百歩」と見立てた「縦長の出産児の頭蓋骨の丈(たけ/長さ)」となる。というのも、前述したように、『魏志倭人伝』が記述した「径百余歩」は「十字の銀河の頭部の穴(暗黒天体部)の横長の直径距離」をあらわす。このように、「十字の銀河の頭部の穴」は「女性の横長の径百余歩の骨盤入口」に見立てられたゆえ、[]は「縦長の径百歩の出産児の頭蓋骨」をあらわしていることになる。
 丹後半島の付け根となる東岸にある天橋立(あまのはしだて)は、宮津湾(みやづわん)と阿蘇海(あそかい)を東と西に支(わけ)る。ゆえに、「天橋立」が[]をあらわした。
 だから、「旧国の丹後、現在の京都府北部」が「頭の大きな出産児が巳(ヘビ)のごとく身(胴体)をくねらせて産道する姿に相似する地宜」の「巳百支国」であったことになる。

11番目は「伊邪(いや)国」である。
 白川静著『字統』は[]の字について「尹(いん)は神杖(しんじょう)をもつ形で、神意(しんい)を媒介(ばいかい)する聖職の人をいう」と解説する。
 下に図示したように、「十字の銀河」は「聖職の人がもつ神聖な杖(つえ)、つまり神杖」に見立てられた。ゆえに、「鬼の姿に似る銀河」が「神杖を持つ聖職の人(聖職者)」に相当する。
 『魏志倭人伝』は「倭人国の吉凶を占う易卜に用いる辞は令亀(れいき)の法の如く、つまり紀元前1300年頃から始まる中国の殷代(いんだい)後半の卜占に用いた亀の甲羅に文字を刻む甲骨文字のごとくであった」と記述する。この記事からして、「神杖を持つ聖職者」は「易者」ではなく、[]の字義は「文字学者」と解するべきことになる。
 というのも、『魏志倭人伝』は「京都(けいと/魏の都)・帯方郡・諸韓国にて文書に用いる文字・楷書と倭女王・卑弥呼が文書に用いる漢字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)していたが、伊都(いと)国の港で楷書と夏音文字を捜露(そうろ/楷書と夏音文字の両者の字義が捜(さが)し露(あら)わになるように、つまり深く思索して楷書と夏音文字の字義が合致するように点検し確認する)して間違いが生じないようにしていた」とも記述する。
 ゆえに、「伊都国」の[]の字義も「楷書と夏音文字に精通する」と示すゆえ、[]は「文字学者」を意味したと考えるべきことになる。
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 上図にて解説したように、「十字の銀河」を「神杖」に見立て、「鬼の姿に似る銀河」を「神杖を持つ文字学者(聖職者)」に見立てて、[]の字は成立する。
 前述したように、[]の字義は「ななめ」である。
 「神杖・十字の銀河」の邪(なな)めにある「激流の銀河」は「地下水、つまり降った雨が地中にしみこんで流れる水()」をあらわした。
 これゆえ、下図に示すように、「激流の銀河」は「地中の川から発して平地や山里にたちこめる地气(ちき)、つまり霧(きり)」をもあらわした。『説文解字』は[]の字を「地气発して、天に応ぜざる※という」と解説する。〔注 []の字は雨冠の下に、[(ほこ)]を左側に[(ぼく)]を右側に加えて形成される。つまり、[][]の右下にある[]が欠く字となる〕。
 『説文解字』の[]の字源解説における「地气発して、天に応ぜざる」という文は「高い天まで昇らず、地下水から气を発して成る、地上にたちこめる霧」を意味した。ゆえに、上の図に示した「激流の銀河」と「長方形の暗黒天体部」が「高天まで昇らず地上にたちこめる地气」である[]の字源となった。
 だから、「伊邪国」は「霧の丹波(たんば)」と呼ばれて有名な「旧国の丹波(現在の京都府中部と兵庫県の一部)」であったことになる。

◆下に、「伊邪国の地宜」を示した。
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 上に図示した「伊邪国・丹波の地宜」は、下に図示した「女性の骨盤の正面図の輪郭の形」に相似すると見立てられた。

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 下に、現在方位にもとづく〔9番目の斯馬国・10番目の巳百支国・11番目の伊邪国の三小国の地宜〕を示した。
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 上図に示した「斯馬国の東端(現在方位)」は「誕生した生子の頭蓋骨」に相当する。「斯馬国の生子の頭蓋骨の大きさ」よりも「女性の骨盤正面の形」に見立てられた「伊邪国の骨盤入口」の長さ」のほうがはるかに大きい。
 上図に示した「伊邪国の骨盤入口の大きさ」は「巳百支国における、生子の頭蓋骨と見立てられた丹後半島北部の大きさ」より大きい。
 今まで解説して証明したように、[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」にもとづいて「因幡・但馬と丹後の地宜」を「娩出期終わりの頭が誕生する生子の姿」に相似すると見立てて、卑弥呼は「因幡・但馬」の小国名を「斯馬国」と定め、「丹後」の小国名を「巳百支国」と定めた。また、卑弥呼は「丹波の地宜」を「女性の骨盤正面の形」に相似すると見立てて「丹波」の小国名を「伊邪国」と定めた。したがって、「斯馬国・巳百支国・伊邪国」という小国名は、今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究】をあらわしている。言いかえると、「斯馬国・巳百支国・伊邪国」という小国名は【倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわしていることになる。
 また、前述したように、倭女王・卑弥呼が居住した「邪馬壱国」という王国名もまた【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわしていた。
 『魏志倭人伝』の冒頭文は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」であり、この冒頭文の先頭字の[]の字源・字形・字義は「遠くの土地の地理における方位規定は、時計回りに90度転回する」であった。ゆえに、このブログの前半部でも配置したが――再度、下に配する図が示すように、『魏志倭人伝』は「末盧(まつろ)国以下の本州・日本列島地理における東海地方(現在の愛知県・静岡県)は九州の〔東〕に所在するのではなく、〔南〕に位置する」と説明していたことになる。
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 その証拠に、『魏志倭人伝』の本州・日本列島における方位記事は全部で12ヵ所存在するが、全12ヵ所の方位記事は下に配した[]の字源に則る転回日本列島地理と32ヵ国の小国の地宜」に合致して矛盾点・不合理な点はいっさい存在せず【科学】が成立する。
 卑弥呼が生存した時代、中国では魏・呉・漢(蜀漢)の三国が鼎立(ていりつ)していた。「魏」の国号に用いられる字には[]の字源をそのまま受け継いだ[]が付くゆえ【倉頡が創った[]の「時計回りに90度転回する方位規定】をあらわした。また、「呉」という国号は【倉頡が創った[]の「逆時計回りに90度転回する方位規定」】をあらわした。そして「蜀」という国号の正式名は「漢」であったゆえ、これまた【倉頡は銀漢から漢字を作った】と表示していたことになる。卑弥呼が生存した後漢時代末から三国時代の中国は、【倉頡が発明した漢字作成理論】の復興時代であったことになる。
 だから、倭国でも卑弥呼によって【倉頡が発明した漢字作成理論】が復興され、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】が説明される正確無比の書物となったのである。

◆以上のごとく、九州説と畿内説は約2000字で構成される『魏志倭人伝』とまったく無関係の空理空論・虚妄(きょもう)であった。 
 というのも、九州説と畿内説は、『魏志倭人伝』は「邪馬台国」について説明する文献史料であったと断定したからである。
 しかし、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は約55パーセント・約1100字の記事をもって「卑弥呼は政権基盤を【倉頡が発明した漢字作成理論】と定めた。ゆえに、卑弥呼は倭人国を構成する34の小国をもって【倉頡が発明した漢字作成理論】を合理的に体系的に説明できるようにした。要するに、卑弥呼は倭人国の34の小国をもって【中国における漢字の起源史】をあらわし、卑弥呼王朝の政権基盤は【倉頡が発明した漢字作成理論】であると表明した」と伝える重大な史料であった。
 九州説と畿内説は、『魏志倭人伝』が伝える「漢字の起源史の説明」をハチャメチャにして不明にしてしまった。だから、九州説と畿内説は空理空論・デタラメ・インチキ・詐偽(さぎ)であったことになる。
 『魏志倭人伝』は倭女王・卑弥呼が居住した首都所在地を「邪馬壱(やまい)国」と書き記し、「邪馬台国」と書いていない。したがって、「卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰・出雲であった」と証言する『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える歴史書であり、また「中国における【学問】は紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝・倉頡時代から始まり、わが日本国では紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭から始まる」と伝える貴重な学問書であったのである。

 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の1回から今回(12)までに詳細に解説して――『魏志倭人伝』は「倭女王の卑弥呼は山陰・出雲の邪馬壱国に居住し、本州・日本列島は〔東〕ではな〔南〕に伸びると定め、そして【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】を国家と王朝の政治基盤とした」と記述するものであった――と証明した。
 次回(13)とさらに14回の2回に分けて、『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えない方法をもって、初回(1)から今回(12)までのわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」にて解説し証明した邪馬壱国出雲説について、一旦(いったん)まとめることにする。

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2021年4月17日 (土)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・11

▼学界はじめメディアは――“日本古代史最大の秘密”を伝える『魏志倭人伝』は「倭女王・卑弥呼が居住した邪馬台国を吉野ケ里遺跡がある九州、もしくは纏向(まきむく)遺跡がある畿内・大和に所在したと説明している」と主張する意見を――諸々の説にあって最も正しい意見であると信頼する。
 しかし、この九州説と畿内説の実体は【科学】がまったく成立しない完全なる空理空論・デタラメ・インチキであったのである。
 九州説と畿内説が空理空論であることは、前々回(9回)と前回(10回)のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」にて詳細に証明した。この11回における解説で不明な点については、9回と10回を参照していただきたい。
 『魏志倭人伝』は「倭女王が居住した王国・邪馬壱国は山陰・出雲、現在の島根県東部であった」と伝える。この邪馬壱国・出雲説ならば、『魏志倭人伝』の全記事と矛盾点も弱点も無く論理が完結し【科学】が成立して事実・真実となる。
 九州説と畿内説は――『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した首都であった王国の名は「邪馬台国」であったと断定するが、『魏志倭人伝』は「邪馬壱国」と記し、「邪馬壱国は山陰・出雲であった」と明確に説明している。
 また、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は約55パーセント・約1100字の記事をもって「紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)、名門益(えき)氏の王子と若者たちが中国から大海・玄界灘を横断してわが国の東北地方の男鹿半島・米代川(よねしろがわ)縄文文化圏に定住して、原初漢字・夏音(かおん)文字の学芸を東北地方から関東地方までの東日本一帯に広めた。この夏音文字の学芸を習得したときに、約1000年前の紀元前3000年頃の中国の五帝時代初頭に生存した倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論をも習得した」と伝えている。
 だから、『魏志倭人伝』は【漢字の起源の歴史を伝える、倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える貴重な史料にして、しかも上記したように『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した王国名を「邪馬壱国」と記述するゆえ、九州説や畿内説が主張するような「邪馬台国」についての説明は『魏志倭人伝』には1字も書かれていない。


★「倭人国の地理学」のトリセツ・20

◆江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)は初め「邪馬台国は大和であった」と立論し、後に「邪馬台国は筑後山門郡であった」と考えた。ゆえに、畿内説は「大和」の「やま」は「邪馬台」の「邪馬(やま)」であると考えて、邪馬台国は大和にあったと主張する。九州説は「筑後山門郡」の「山門」の「山」は「邪馬台国」の「邪馬(やま)」に合致する、この合致を理由・根拠にして邪馬台国は九州に存在したと比定する。
 しかし、「邪馬」は【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究の核心】をあらわす、邪馬台国説学者たちが誰一人も思いつかなかった【ヒトの命(いのち)の神秘】つまり「せまい産道を通過する出産児するときの頭蓋骨の仕組み(機能)」をあらわす語であった。この「出産児の頭蓋骨の機能」は、今日の医学用語で「広形機能(こうけいきのう)」あるいは「骨重積(こつじゅうせき)」と呼ばれている。
 それというのも、倉頡が漢字を発明した目的は【黄帝が研究した「女性の生殖器と子どもの出産の研究」】をあらわすことができる文字を作成することであったからである。
 だから、【黄帝の《女性生殖器と子どもの出産の研究》の核心】は【倉頡が発明した漢字作成理論も核心】ということになり、この核心を卑弥呼は「邪馬壱」と表現した。これゆえ「邪馬壱」という語は「5枚の頭蓋骨を重ね合わせて、せまい産道を通り抜ける時の出産児の頭の機能と頭の4回の回旋(かいせん)」、今日の産婦人科の用語で「広形機能」または「骨重積」と呼称される【命が生まれるときの神秘的な事象】をあらわすことになったのである。
 だから、九州説と畿内説の実体は『魏志倭人伝』が最多文字数で伝える【中国で漢字が起源した歴史的事実、倉頡が発明した漢字作成理論】は葉茶目茶(はちゃめちゃ)にした空理空論・デタラメ・インチキ・詐偽(さぎ)であったのである。

◆九州説と畿内説は『魏志倭人伝』を「卑弥呼が居住した邪馬台国の所在地」を伝える史料であったと断定するが、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論体系】を伝える歴史書にして学問書であった。
 だから、学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた空理空論であった。
 というのも、『魏志倭人伝』は約55パーセント・約1100字の記事で「わが国は約4000年前に、中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に出現した原初漢字の夏音(かおん)を習得した。このとき、約5000年前の中国の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた【倉頡が発明した漢字作成理論】をも習得した。この【倉頡が発明した漢字作成理論の核心】を、卑弥呼は「邪馬壱」と名づけた。これゆえ、倭女王の卑弥呼が居住した王国は[][][]の字源をあらわす地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)がある現在の島根県東部、旧国出雲であった」と伝えていたからである。
 だから、『魏志倭人伝』には(1)「倭の易に用いる辞は令亀(れいき)の法のごとく、つまり亀の甲羅に文字を刻む甲骨文字の辞のごとく原初漢字があった」、また(2)「卑弥呼が文書に用いる漢字と魏の都と帯方郡・諸韓国が文書に用いる漢字は相違していた」と伝える二つの記事がある。このように「わが国は原初漢字の夏音文字を習得した」と明記する二つの記事が存在するにもかかわらず、九州説と畿内説をとなえる先生方は「わが国には原初漢字が存在した」という記事を徹底的に無視して、そんな記事が『魏志倭人伝』に存在することを厳重な機密にして口を「ぎゅー」かたく閉じて一言もしゃべらないことにしている。

◆上記したように、わが国が最初に習得した漢字は中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)の夏音(かおん)文字であった。その証拠に、「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読む字音は「夏音文字の字音」である。「卑弥呼」を、中国に現存する最古の漢字音の上古音で読むと「ピミカ」となる。音韻史研究にもとづくと「ヒミコ」という字音のほうが「ピミカ」よりも古いことになる。
 だから、わが国が漢字を最初に習得したのは後期縄文時代初頭であるゆえ、「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という定説は空理空論であった。
 「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説は、空理空論であった――この事実を簡単明瞭に説明する科学的な意見が存在する。
 この意見は――わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目における、「わが国の漢字音」と題して解説している意見であり――この意見は、次のごとく指摘する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 音韻史研究によって、中国において現存する最古の漢字音は、下に配した「漢字生長史」に示したように、紀元前1046年から始まる周代初頭の「上古音」である。
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 上の「漢字生長史」が明確に示すように、「わが国が漢字を最初に習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」と主張する定説の漢字音は、中国において現存する最古の上古音よりも約1500年も新しい漢字音となる。したがって、「わが国が漢字を最初に習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という定説は白川静著『字統』が「わが国の漢字音」にて指摘する音韻史研究成果に反する非科学的な意見、つまり空理空論であったことになる。
 白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する、わが国後期縄文時代初頭に習得した夏音文字の漢字音は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残っている。
 だから、学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する絶対的定説は【科学】が成立しない空理空論であったのである。

◆「銀河」の別称は「銀漢」であり、「銀漢から作られた字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と呼んだ。
 倉頡は天文学において通称「夏の銀河」と呼ばれる「夏の星座が漬()かる巨大な銀河」から漢字を作る方法を発明した。「夏の銀河の各部の形状」から「文字」が作られたゆえ、わたくしは「夏の銀河」を「文字作成銀河」と呼ぶことにした。
 「文字作成銀河」の写真は、下に示した。
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 倉頡がつかえる黄帝は東洋最古の医学書『内径(ないけい)』を作ったと伝わる。黄帝は【女性の生殖器と子どもの出産】を研究した。このため、倉頡の漢字作成目的は【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の医学研究】をあらわすことができる文字を発明することであった。したがって倉頡は、上に示した【文字作成銀河の各部の形状から、黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究】をあらわすことができる漢字を発明した。
 倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝が容易に崩壊・滅亡すると心配して、下に示す〔三つの「死刑」に処する掟〕を定めた
1】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」という事実を暴露した者とその一族全員に神罰を下して即刻に死刑にする。
2】「多くの文字を容易に覚えるため、夏の銀河の各部に名称を付けた者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする。
3】「書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員もまた死刑にする。
 上記した【倉頡が死刑と定めた三つの掟】における【2】の掟「文字を容易に覚えるため、文字作成銀河の各部に名称を付けた者とその一族全員もまた即座に死刑にする」によって、今日においても文字作成銀河の各部をあらわす名称は存在しない。文字作成銀河の各部の名称が存在しないと、〔字源となる銀河=字形となる銀河=字義となる銀河〕の解説・証明において非常に不便となるゆえ、私は下記のごとく銀河各部の名称を定めた。
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◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の2回で解説したように、「歳差(さいさ)」という天文現象を利用すると、黄帝と倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代初頭における中国全土の天頂にめぐってきた銀河を算出して再現することができる。
 【漢字作成理論】が発明された五帝時代初頭、下に示すように、私が「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた銀河が中国全土の天頂にめぐってきた。この「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は、中国各地の人々が精確に緯度と方角を測定して、最も大事な命をまもることができる羅針盤となった。
 〔注 「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は、上に示した「文字作成銀河各部の名称図」における左上にある)
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 前述したように、倉頡が漢字を発明する目的は、黄帝がおこなった「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究をあらわすことができる文字を作成することであった。
 下の図に示すように、黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」の東側半分は「弓を手に持つ男性の姿」に観えるが――「十字の銀河」の西側半分には、「乳房」「妊婦の腹部(おなか)」「右足」に観える部分があり、また「子宮に相当する箇所」もある。ゆえに、「十字の銀河」は「女体・妊婦・乙女」などに見立てられた。
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 倉頡は「十字の銀河」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた全文字が生まれる母体」と定めた。また「十字の銀河の子宮」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた全文字が生まれる子宮、あるいは女性の骨盤と生殖器」に見立てると定めた。
 だから、「十字の銀河」は[]の字源・字形・字義となった。ゆえに、下の上図における[]の金文形は「十字の銀河」を「子宮に胎児が宿る妊婦の正面形」に図案した。
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 倉頡は「十字の銀河」を「黄帝が居住した地から遠くの地域に群れるジャコウウシを狩猟した男たちが帰還する、家族が待つ家」に見立てた。ゆえに、上の下図に示した[]の金文形における上部の[(べん)]は「家族が生活する家」をあらわし、その下部の[]の字源は「鬼の姿に似る銀河」となった。というのも「鬼の姿に似る銀河」は「子の姿(胎児・出産児・新生児)」に相似すると見立てられたからである。
 これゆえ、「母親・妊婦」に見立てられた「十字の銀河」から図案された[]の下に、「鬼の姿に似る銀河」を字源・字形の原形・原義とした[]が加わって、[]の字源・字形・字義が成立することになった。
 上に示した「[][]の字源銀河解説図」は【黄帝の〔女性生殖器と子どもの出産〕の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成原理】をあらわすことになった。

◆『魏志倭人伝』は「倭地には牛と馬が無い(生息していない)」と記述する。
 []の字源は「ジャコウウシ」であった。[]の字源は「フタコブラクダ」であった。
 「ジャコウウシ」と「フタコブラクダ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
 下の図に示したように、[]の「ジャコウウシ」は「第5週ごろの胎児の姿」に類似すると見立てられた。また、天敵のオオカミに襲われるとジャコウウシの群れは子どもを真ん中に隠し、円陣を組んで衛(まも)った。だから、「円陣の真ん中に隠すジャコウウシの子ども」は「子宮に宿る胎児」に見立てられ、「ジャコウウシの群れが組む円陣」は「女性の生殖器の大半を包囲して子宮に宿る胎児の命を衛る骨盤」に見立てられて、「ジャコウウシ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣と定められた。
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 ジャコウウシは有史以前には北半球の寒帯に生息していたが、紀元前3000年頃の黄帝時代になると、多くの地方で絶滅したとされる。黄帝時代、黄帝が居住地としたと推定される陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)の黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)周辺地域から北方の毛烏素(ムウス)沙漠は凍土・ツンドラ地帯と化していた。ゆえに、秋から冬になると百頭以上が一団となるジャコウウシの幾つかの群れが地平線かなたの毛烏素沙漠から南の黄帝の居住地近い餌場(えさば)を目指してあらわれた。その証拠に、司馬遷著『史記』五帝本紀には「師兵をもって営衛(えいえい)となす」という記事があり、この記事は「黄帝軍は駐屯(ちゅうとん)するとき、兵たちは円陣を組んで自衛した」と意味した。黄帝軍は円陣を組むジャコウウシの習性から学んで円陣を組んで駐屯していたのである。
 『魏志倭人伝』に記載される「対馬国」「投馬国」「邪馬壱国」「斯馬国」「邪馬国」などの小国名に用いられる[]の字源・字形・字義は「フタコブラクダ」であった。わが国には、フタコブラクダは生息していなかったが、「フタコブラクダ」が字源・字形・字義となる[]の字がつく小国名が5ヵ国、しかも卑弥呼が居住した王国名は「邪馬壱国」である。だから、わが国には[]の字源・字形・字義を「フタコブラクダ」とする倉頡が作った原初漢字・五帝時代の書契とそして夏代初頭の夏音文字が習得されて、その《字源・字形・字義》は〈文字作成銀河の各部の形状〉によって表示され、《字音》は〈『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』にて楷書を音記号〉に用いて多数残っている。
 ゴビ沙漠に住む人々にとって、フタコブラクダは「沙漠の船」となって欠くことができない大切な家畜である。フタコブラクダは位置も方位も判然としないゴビ沙漠を往来しても道に迷わない。ゆえに、天頂緯度線をキャッチして位置と方位を測定して日々暮らしていた黄帝時代の人々は《フタコブラクダを、精確に天頂緯度線をキャッチできる神秘的な眼力を有する獣》と憧れて尊重した。これゆえ、フタコブラクダは【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
 下の図に示すように、「フタコブラクダの両目は顔の両端にある」と同様に「第7週頃の胎児の両目も顔の両端に離れている」。また、「フタコブラクダの睫毛(まつげ)は長い」と同様に「子ども(乳児)のつぶらな目の睫毛も長い」。
 だから、「フタコブラクダ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
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◆『魏志倭人伝』は「対馬国の南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」と説明する。
 この記事が示すように、卑弥呼は「対馬国(現在の長崎県北部の朝鮮半島と九州本土の中間にある島)と一大国(現在の長崎県北部の壱岐島)の中間の海」を「瀚海」と名づけた。
 「瀚海」は、中国北部・モンゴルより南方にある[]の字源「フタコブラクダ」が棲む「ゴビ沙漠」を意味する。
 下に示すように、「黄色く輝く、三つ輪の銀河」は「月の光が照らして黄色く輝くゴビ沙漠」のイメージとなる。「三つ輪の銀河」に隣接する「黄色く輝く、十字の銀河」も「月の光にきらめく沙漠の沙(すな)」のイメージとなる。ゆえに、「十字の銀河」は「ゴビ沙漠に棲むフタコブラクダ」に見立てられた。
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 これゆえ、下の図に示すように、「三つ輪の銀河」は「沙漠」に見立てられ、「十字の銀河」は「フタコブラクダの側身形」に見立てられて[]の字源・字形・字義となり「フタコブラクダ」をあらわした。
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 下の図に示すように、卑弥呼は「対馬の上県(かみあがた)の地宜」を「フタコブラクダの正面形」に類似すると見立てた。というのも、前にて図示した「胎児の顔の両目はフタコブラクダの両目と同じく顔の両端にある」。ゆえに、この点からして卑弥呼は「上県の地宜」を「フタコブラクダの正面形」に相似すると見立てた。
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 上の図に示す「対馬の下県(しもあがた)の地宜」を、卑弥呼は「沙漠を歩くのに都合(つごう)のよい、丈夫な足の指を有するフタコブラクダの足底や足跡の形」に相似すると見立てた。卑弥呼が「上県の地宜」が相似すると見立てた「フタコブラクダの顔」は〔東〕に向く。同様に[]の字源「十字の銀河におけるフタコブラクダの顔」も〔東〕に向く〔注 地宜においては「右・東(つまり、右側が東)」となり、天象・銀河図においては「つまり、左・東(左側が東)」となる〕。
 ゆえに、「上県の地宜は、下県がある西南へフタコブラクダが進む正面形」に見立てられ、「下県の地宜は、上県がある東北へ去ったフタコブラクダの足跡の形」に見立てられた。
 だから、「上県・下県の地宜」は「フタコブラクダの姿と足跡の形が一対となる」ゆえ、卑弥呼は「上県・下県」の小国名を「一対」の[][]が加わる「対馬」と定めた。

◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の6回で詳細に証明したように、下に示すように、倉頡は「十字の銀河の中央に「イネ()、五穀」の図案を重ねる[()]の字を考案した。
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 上図の「十字の銀河の南側」に「南→西」と示したように、[]の字源・字形・字義は「時計回りに90度ずつ転回する方位規定、つまり北→東・東→南・南→西・西→北となる定理」をあらわし、「人民の胃袋を食料(五穀)で満たす、つまり五穀豊穣」という政治スローガンをあらわすことになった。この《[]の字源・字義・政治スローガン》を、[()][()]の字はそのまま受け継いだ。
 下に示した「一大国・壱岐の地宜」は「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理における〔東〕を時計回りに90度転回して〔南〕となる定理する、[]の字源・字形・字義をあらわす方位規定」に則(のっと)る地図の形である。
 〔東〕が〔南〕と化()る転回方位規定に則る「一大国北端(上部)の地宜」を、卑弥呼は「毛烏素(ムウス)沙漠はるか遠くの瀚海の東西を往来するフタコブラクダの姿」に相似すると見立てた。ゆえに、「一大国の大半を占める、ジャコウウシの姿」は「春から夏にかけて、黄帝の居住地近くの餌場から次第に北方の毛烏素沙漠へ向かって去ってゆくジャコウウシの群れ」に見立てられたことになる。
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 下に、「現在の地図と同じ方位規定における一大国の地宜」を示した。この現在方位にもとづく「一大国の地宜」だと「ジャコウウシの顔は南に向いている」ゆえ、「南へと前進するジャコウウシの大群」に見立てることができる。
 したがって、この「一大国の地宜」は「穀物の収穫期の秋になると、フタコブラクダが棲む瀚海・ゴビ沙漠ある北方から南の毛烏素沙漠へと進み、凍土・ツンドラ地帯と化した毛烏素沙漠を縦断して到着した、黄帝が住む居住地からはるかに遠くの地平線上に出現したジャコウウシの大群」に見立てられたことになる。
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 これゆえ、卑弥呼は「冬になると季節風で海が荒れる玄界灘」を「乾燥した寒風が荒れ狂う吹雪の中をジャコウウシの大群が突きすすんで到着する、風で雪が吹きとばされた地表の露出した餌場・摂食地(せっしょくち)がある一帯地域」と見立てたことになる。

◆下に「対馬国・瀚海・一大国の地図」を示した。
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 上の地図が示すように、「対馬国の中心軸」は「経度線と緯度線に対して邪(なな)め」となるゆえ、[]の字義「ななめ」をあらわした。また、前述したように、卑弥呼は「対馬国の地宜」は[]の字源「フタコブラクダ」をあらわすと解釈した。
 したがって、「対馬国」は[][]2字をあらわすことになった。
 「一大国」は後に「壱岐」と呼ばれたゆえ、「一大国の地宜」は[]の字をあらわした。
 このように、卑弥呼は「対馬国と一大国の地宜」を「邪馬壱(やまい)」と解した。前述したように「邪馬壱」は【倉頡が発明した漢字作成理論の核心】をあらわした。
 だから、卑弥呼は「邪馬壱」の地宜を有する山陰・出雲(現在の島根県東部)に居住することにした。
 先年に死去した古代史研究家の古田武彦氏は陳寿が著作した『三国志』全体に記載された[]()86個、[]()56個の文字を逐一調べ、[]()には[]()の誤記が1ヵ所も無いことを証明した。
 したがって、「『三国志』魏書東夷伝末部の倭人伝」、つまり通称「『魏志倭人伝』」は卑弥呼が居住した王国名を「邪馬台国」と記せず、「邪馬壱(やまい)国」と記している。
 前述したように、黄帝と倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代時代初頭、「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」が中国各地の天頂にめぐってきた。この様子を、前掲した「黄帝時代初頭に中国全土の天頂にめぐってきた銀河図」と異なり、緯度線を上下・縦にして下図にあらわした。
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 上図が示すように、[]「フタコブラクダ」の字源・字形・字義となった「十字の銀河」は「緯度線と経度線と邪(なな)め」であるゆえ[]の字義となる。「十字の銀河の子宮」は[]の字源・字形の原形・原義であった。だから、「邪馬壱」という語は黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河の形状」をあらわすことになった。前述したように、倉頡は「十字の銀河」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた全漢字を生む母体」と定めた。ゆえに、「邪馬壱」という語は【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究の核心、つまり産婦人科の医学用語である「広形機能」または「骨重積(こつじゅうせき)」と呼ばれる機能と4回の回旋】をあらわすことになったのである。
 このように、黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河の形状」は【黄帝の医学研究の核心】をあらわし、この【黄帝の医学研究の核心】を卑弥呼は「邪馬壱」と名づけた。ゆえに「邪馬壱」は「体の中でいちばん大きい出産児の頭がせまい産道を通過するための、今日の産婦人科で〔広形機能〕または〔骨重積〕」と呼ばれている機能」をあらわした。そして、前述したように倭人国の玄関口となる「対馬国・一大国の地宜」も「邪馬壱」とあらわしたゆえ、卑弥呼は「邪馬壱」の地宜を有する山陰・出雲に居住することにしたのである。
 『魏志倭人伝』は「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)倭種なり」と、倭女王・卑弥呼が居住した王国「邪馬壱国」について説明する。
 前述したように、卑弥呼王朝が制定した[]の字源をあらわす本州・日本列島地図における転回方位規定にもとづくと、日本海がある〔北〕が〔東〕となるゆえ、山陰地方の日本海には山口県萩市見島と島根県の隠岐群島が所在するが――後者の隠岐群島が「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り。皆倭種なり」という記事に合致する。
 というのも、隠岐群島は島前(どうぜん/知夫里島・西ノ島・中ノ島)・島後(どうご)と約180の小島からなるため、この「多数の島々」は「皆」と呼ぶことになるからである。
 だから、「隠岐群島」は「山陰・出雲の東、海を渡ること千余里の位置に有る、皆倭種なり」と記述された小国となるゆえ、「旧国・出雲(現在の島根県東部)」こそが『魏志倭人伝』が「女王の都(みやこ)する所なり」と説明する「女王国・邪馬壱国」であったことになる。

◆下に、卑弥呼王朝が制定した転回日本列島(本州)地理にて定理された転回方位にもとづく卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の古代出雲の地宜を示した。
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 上図の右上に「[]の地宜」と記した「島根半島の北部(転回方位/現在方位の西部)の地宜」は、「馬・フタコブラクダの顔(頭部)と胸部」のごとくに観える。この「馬・フタコブラクダの左向きの顔に相似する地宜」は、前述した「邪馬」をあらわす「対馬国・上県北部(現在方位)の馬・右向きの顔の地宜」に相似する。ゆえに、前述したように、「対馬国・一大国」は「邪馬壱」をあらわし、卑弥呼が居住した王国も「邪馬壱」の地宜を有する「山陰・出雲」であったことになる。
 上の「古代出雲の地宜」における「[]の地宜」に隣接する西側(転回方位)には「神門水海(かんどのみずうみ)」がある。
 下の図に示す「神門水海」は「緯度線と経度線に邪(なな)めとなる、馬・フタコブラクダの姿」に観える。だから、「神門水海」は[][]つまり「邪馬」をあらわした。
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 古代の宍道湖(しんじこ)は「膝(ひざ)から下の足の形」に相似し、その「足の爪先(つまさき)」は転回方位の〔西〕を指差した。したがって、「宍道湖の地宜」は「十字の銀河の右足(西側の足)」に相当すると見立てられた。前述したように、[]の字源・字形・字義となった「十字の銀河の子宮」は「女体の姿に相似する、十字の右足」の東側に隣接する。
 ゆえに、「足の形に似る、宍道湖の東岸(転回方位)」と接する佐太神社が鎮座する「島根半島の中央部」が[]の字をあらわす地宜となる。
 下に、[]の字源をあらわした地宜、すなわち「佐太神社が鎮座する、島根半島の中央部の地宜」を表示した。
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 以上のように、「山陰・出雲」には卑弥呼が居住した王国名に配される「邪馬壱」の3字に合致する地宜が所在する。

◆「倉頡が漢字を発明した」と説明する伝説は、次のごとく後世に伝えられた。
 「太古、黄帝時代に、倉頡という〈四つ目の怪人〉がいて、鳥獣の足跡をもってはじめて文字を作り、古来(三皇時代)の結縄の方法を代()えたので、天は祝福して禾(五穀)を降らせ、死霊の感泣(かんきゅう)する声が夜な夜な聞こえたというのである。」
 この伝説に登場する「鳥獣の足跡」は【倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわす名称であったが、学者たちは「地面や雪の上に残る鳥や獣の足跡からヒントを得て、倉頡は始めて文字を作った」と誤訳・誤解した。
 卑弥呼が生存した2世紀末から3世紀にかけて、言い換えると後漢時代から三国時代にかけて、中国では黄帝と倉頡の歴史が復興した。これゆえ、後漢時代の墓の内部から〈倉頡の肖像画〉を刻む石が発見された。
 この石には、下に示すように〈倉頡の顔には、目が四つ〉刻まれていた。ゆえに、今日の学者たちは「人間の顔には目が四つも無い。だから、倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定した。
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 前述したように、五帝時代初頭の黄帝時代、中国全土の各地の天頂に「鬼の横顔に似る銀河」がめぐってきて、緯度(位置)と方角を正確に測定できる羅針盤となった。
 下に示すように、「鬼の横顔に似る銀河の、その横顔には両目、その後頭部とアゴにも目の形を銀河」があるゆえ、「鬼の横顔に似る銀河」には「目が四つ」あった。
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 したがって、「四つ目の鬼の横顔に似る銀河」を、倉頡伝説は「四つ目の怪人・倉頡」と伝えていたことになる。
 「漢字は銀河から作られた」と明確に暴露した人は国家と王朝を転覆させる大罪を犯していると定められて、その人とその一族はただちに死刑に処せられた。だから、〈倉頡の肖像画の顔〉には、「四つ目の鬼の横顔に似る銀河」のとおりには表現されなかった。「死刑はカンベン、命は惜しい」ということで「鬼の横顔に似る銀河の、四つ目の配置」と異なって、〈倉頡の肖像画〉では「顔に四つの目」が配置された。

◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の6回で詳細に解説し証明したように――

倉頡は「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわす[]の字と、下に示すように「逆時計回りに90度転回する方位規定」を字源・字形・字義とする[]の字を作った。
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 上の図における中央の上に「北→西」と記した矢印は「逆時計回りに90度転回する方位規定」をあらわす。ゆえに、[]の金文形の右上の[(さい)]は「北→西はじめ西→南・南→東・東→北をあらわし、逆時計回り90度ずつ転回する方位規定」をあらわした。だから、[]の字源・字形・字義は「逆時計回りに90度転回する方位規定」を表示した。
 上に示した「[]の字源銀河解説図と金文形」の図における北緯3536分は黄帝時代の黄帝陵の天頂緯度線である。黄帝陵は陝西省(せんせいしょう)の黄陵県に所在し、今も黄帝の廟と墓とされて祭られている。
 「[]の字源銀河解説図」における「人の横顔に酷似する銀河」を「巫女(みこ)の横顔」に見立て、「十字の銀河と鬼の姿に似る銀河」を「しなやかに踊る巫女の手」と見立てて、さらに「こと座を構成する明るい星たち」を「無事に子どもが出産したと祝い、また子どもの出産を祈祷する時に巫女が用いる土器、つまり祝祷(しゅくとう)の土器の[(さい)](〔逆時計回りに90度転回する方位規定〕を示す図書)に見立てて、[]の字が作られた。これゆえ、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は、[]の字を「人が一手をあげて祝祷の器である口(さい)をささげ、身をくねらせて舞う形」と解説する。この『字統』の解説に登場する「一手」の[]の字源は「十字の銀河の子宮」である。これゆえ、「一手」は「十字の銀河」を指すと考えられる。したがって、「十字の銀河」は[]字形であるからして、[]の金文形における「舞う巫女の姿」のモデルは[]字形の「十字の銀河」であるゆえ[]字形に図案されている。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の6回で解説し証明したように――上記した「[][][]の字源銀河図」の他に、下に示す「十字の銀河からさそり座α星まで」が[]の字源・字形・字義をあらわした。上に示した「[]の字源銀河解説図」の右側に配した[]に金文形における「[]字形の巫女の姿となった字源銀河」は「人の横顔に酷似する銀河からさそり座α星まで」ということになる。
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◆前述した「[]の字源銀河解説図と金文形」における「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)」には国際天文学会が「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」と名づけた箇所がある。「北天の最輝部」は「北半球に居住する人々が最も輝いて見える銀河部」のことである。「北天の最輝部」は「銀色に輝く」ゆえ、「銀河」または「銀漢」の「銀」は「北天の最輝部」を指していたことになる。「北天の最輝部」の北側は、下に配する図が示すように、「人の横顔に酷似する銀河の、前頭部」となる。
 下に配する「四つ目の銀河における、鬼の後頭部とアゴにつく両目から人の横顔に酷似する銀河の前頭部まで」の、太線で表示した箇所が〔「邪馬壱」の銀河〕、つまり〔産道を通過するときの出産児の頭の「広形機能」または「骨重積」と呼ばれる機能をあらわす銀河〕ということになる。
 「邪馬壱」の[]は「女性生殖器における産道」である。ゆえに、下の図における「太線の図書(ずしょ)」は「邪馬」をあらわす。「邪馬の図書」と重なる箇所が[]、つまり「産道における出産児の状況」をあらわすゆえ、〔「邪馬壱」の銀河〕は〔産道を通過するときの児頭の「広形機能」または「骨重積」と呼ばれる機能〕を表示することになった。
 注目すべきは、《黄帝時代の黄帝陵における天頂緯度線(北緯3536)》が〔「邪馬壱」の銀河の北部〕を撫()でるがごとく貫通していることである。
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 下に、「小児(出産後間もない幼児)の頭蓋骨(ずがいこつ)の大泉門(だいせんもん)と小泉門(しょうせんもん)の図」を配した。小児の頭の骨の縫合は未完成で、骨どうしの間は〔結合組織性の膜〕になっている。このうち、矢状縫合(やじょうほうごう)の前端と後端は膜性の部分が大きく、前方は「大泉門」、後方は「小泉門」という名称で呼ばれる。
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 しかし、上に図示した〔この世に誕生したばかりの小児〕より以前の、下に配した「産道を通過する時の出産児の頭蓋骨図」が示すように、〔膣(ちつ)入口から膣口(膣出口)の産道を通過する時の児頭(じとう)の大泉門は、上に示したこの世に生まれてきた小児のものと異なり菱形(ひしがた)となって「広い形」つまり「広形(こうけい)」となる。
 「出産児の頭蓋骨」における「小泉門・矢状縫合・大泉門の形」は、上に示した〔「邪馬壱」の銀河図〕における「邪馬」の形状をあらわし、また前述したように「産道」は[]をあらわす。ゆえに、「出産児の頭蓋骨における、小泉門・矢状縫合・大泉門の形」は「邪馬壱」ということになる。
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◆上の図に示したように、「出産児の頭蓋骨」は「縦長(たてなが)」である。
 下に、「縦長の出産児の頭がくぐり抜ける、横長(よこなが)の楕円形の女性の骨盤入口」の図を示した。
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 出産児の頭が誕生する娩出期(べんしゅつき)終わりまでの児頭の回旋の様子について、インターネット・ブログで出力した医療法人翔光会の産婦人科にしじまクリニック(埼玉県富士見市)は「赤ちゃんの進み方、回旋(かいせん)を知る」と題して、下記のごとく説明している。この説明を要約し、この要約に〔出産第1期の開口期(かいこうき)と出産第2期・娩出期(べんしゅつき)〕という注を加えると、次のようになる。
 ――骨盤の入口は横長の楕円形に対して、からだの中でいちばん大きな赤ちゃんの頭(児頭)の形は縦長であるゆえ、児頭が骨盤入口をくぐり抜けるためには、骨盤入口では児頭は横向きで入る。しかも入口部は骨盤内でいちばん狭い空間であるので、通常(正常分娩の場合には)赤ちゃんはアゴを胸につけた姿勢となり、児頭は屈曲して後頭部の小泉門が先進して時計回りに90度回旋する。これを、「第1回旋」と呼ぶ。
 骨盤出口面は縦長であるゆえ、赤ちゃんは横向きから次第に正面・縦向きへ方向を変えながら、下降する。この過程を、「第2回旋」という。ちなみに、第1回旋(横向き)から第2回旋(縦向き)へ回る角度は90度であり、第1回旋と逆向きの反時計回り(逆時計回り)である。第1回旋から第2回旋の時の子宮口は大体7センチである。第2回旋が終了した時点で後頭部(小泉門)は恥骨側・12時方向の位置となり児頭の正面・縦向きが整う。この時、子宮口はすでにすっかり開く全開大(ぜんかいだい/10センチ)となり、出産第1期・開口期の終わりとなり、いよいよお産となる。
 第3回旋は反時計回り(逆時計回り)になって児を娩出(べんしゅつ)するもので、この場合児は反屈して恥骨をくぐり抜けるように児頭が産道()から娩出する。
 最後の第4回旋は第1回旋と同じく児頭は時計回りに90度回旋して、頭が誕生した児はすぐに呼吸をはじめて声をあげる。この頭の誕生が出産第2期・娩出期の終りとなる。

◆上記したように――「出産児の頭の第1回旋と第4回旋」は、前述した[][][]の字源・字形の原形・原義となる「時計回りに90度転回する方位規定」に共通する。だから、「第1回旋と第4回旋」がヒントとなって、倉頡は[]の字を考案したことになる。
 また、「出産児の頭の第2回旋と第3回旋」は[]の字源・字形の原形・原義となる「反()時計回りに90度転回する方位規定」に共通するゆえ、「第2回旋と第3回旋」がヒントとなって倉頡は[]の字を考案したことになる。
 []の「時計回りに90度転回する方向規定」と[]の「反()時計回りに90度転回する方位規定」という字が作られたヒントとなった「産道を通過するときの出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門の回旋と、少し重ねて形を変えることができる緩(ゆる)い組み合わせの機能」を卑弥呼は「邪馬壱」と名づけた。この「邪馬壱」を、現在の産婦人科では「広形機能(こうけいきのう)」または「骨重積(こつじゅうせき)」と呼称する。
 したがって、『魏志倭人伝』は――現在の産婦人科で「広形機能」と「骨重積」と名づけられている事象を「邪馬壱」と表現した卑弥呼は「邪馬壱」の地宜を有する「山陰・出雲」を「邪馬壱国」と名づけた――と伝えていたことになる。
 なお、『魏志倭人伝』にて倭人国の最初に登場する小国の「対馬国」を「1番目」と数えると、「24番目」の小国は「邪馬(やま)国」である。
 下に配した図における上図は[]の「転回方位」をそのまま受け継いだ[]の転回方位にもとづく旧国・大和全土を示す地宜である。下図は[]の「フタコブラクダの横顔」の図である。上図の「大和の地宜」は下図の「草をモグモグと食べる時のフタコブラクダの鼻・アゴ・口の動き」に相似すると見立てられて、「大和」の小国名は「邪馬」になったのである。
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 下に〔「邪馬」のフタコブラクダの鼻・アゴ・口の図〕を配した。
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 「フタコブラクダが草をモグモグと食べる鼻の動き」は「産道を通過する出産児の小泉門の動き」にソックリであり、「草を食べるフタコブラクダの上アゴの動き」は「産道する出産児の頭頂骨の動き」に酷似し、「草を食べるフタコブラクダの口の動き」は「産道を通過する出産児の大泉門の動き」に実に似ている。つまり、「産道を通過する時の出産児の頭蓋骨の5枚の骨(左右二つの前頭・左右二つの頭頂骨・後頭骨の5枚の骨)」の結合はゆるく少し重なる仕組みとなる。このため、「5枚の骨と小泉門・頭頂骨・大泉門の動き」は「草を食べる時のフタコブラクダの上アゴと下アゴが合わずに食い違って邪(なな)めとなる、またアゴの動きによって鼻は小泉門・口は大泉門のように互いに少し邪めとなる動き」に酷似する。これゆえ、「草を食べる時に邪めとなる馬・フタコブラクダの鼻・アゴ・口の動きの形状」も、「邪馬」ということになった。
 これゆえ、「大和の地宜」は「草を食べる時のフタコブラクダの横顔」にソックリということで、卑弥呼は「大和」の小国名を「邪馬国」と定めたのである。
 以上のごとく、「邪馬壱国」と「邪馬国」という小国名で共通する「邪馬」は、現在の産婦人科の用語「広形機能・骨重積」を表現するものであったことになる。
 『魏志倭人伝』は学者たちが「倉頡伝説は歴史的事実を語っていない! 荒唐無稽(こうとうむけい)である!」と学者たちが断定して葬ってしまった歴史的事実を伝えている。『魏志倭人伝』は、黄帝につかえた史官・倉頡が発明した漢字作成理論を体系的に正確に伝える貴重な学問書にして歴史書であった。というのも、卑弥呼王朝の政権基盤は【倉頡が発明した漢字作成理論】であったからである。卑弥呼は倭人国を構成する33の小国名を【倉頡が発明した漢字作成理論】にもとづいて定めた。だから、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】が正確に残された貴重な史料であったのである。
 〔注 倭人国は34小国で構成されるが、隠岐群島の小国名は記載されていない〕。

◆新井白石は最初「大和(やまと)」の「やま」の音が「邪馬(やま)」の音に合致することを根拠・理由にして、倭女王卑弥呼が居住した邪馬台国は大和であったと比定した。しかし、倭女王卑弥呼が居住した王国は山陰の出雲であった。後に白石は「筑後山門郡(ちくごやまとぐん)」の郡名「山門」の「山(やま)」が「邪馬(やま)」の音と合致することを根拠・理由にして、筑後山門郡は邪馬台国であったと比定した。しかし、「邪馬」は「山」を意味するものでなく、「経度線と緯度線に対して邪(なな)めの馬(フタコブラクダ)の姿に相似する出雲の神門水海の地宜」を「邪馬」と表現するものであった。現在の邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は新井白石が『魏志倭人伝』に初めて学問的検討を加えたと定めて、白石の意見をそのまま受け継いでいるが――卑弥呼が居住した「邪馬壱国」の「邪馬壱」は【黄帝の《女性生殖器と子どもの出産の医学研究》の核心】、言い換えると【フタコブラクダが草を食べる時の鼻・アゴ・口の動きにソックリの、現在の産婦人科でいう「広形機能」と呼ばれている〔産道を通過する時の神秘的な児頭の動き・重ね合わさる機能・4回の回旋〕】をも表現するものであったのである。
 要するに、『魏志倭人伝』は[]の字源・字形・字義「時計回りに90度転回する方位規定」にもとづいて、下の図のごとく「本州の日本列島地図における〔東〕に所在する東海地方は〔南〕に回旋する」と説明していた。この転回方位規定にもとづき、下図に示すように、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰・出雲であった」と記述していたのである。
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 『魏志倭人伝』には本州日本列島における方位記事は全部で12ヵ所ある。この全12ヵ所の方位記事は、上に示した「[]の字源を示す転回日本列島地理における方位」」に矛盾点・不合理な点はいっさい存在せず【科学】が成立する。
 だから、『魏志倭人伝』は九州説や畿内説のごとく「文献批判」と名づけた【誤読】を幾つも加える手間をいっさい必要としない、正確無比の文献史料であったのである。

◆次回は、『魏志倭人伝』に「卑弥呼は径百余歩(直径が約150メートル)の円墳の墓に葬られた」と記述された卑弥呼の墓は出雲・邪馬壱国に所在した秘密について究明・解説する。

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2021年4月16日 (金)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・10

▼学界はじめメディアは、“日本古代史最大の秘密”を伝える『魏志倭人伝』は倭女王・卑弥呼が居住した王国は吉野ケ里遺跡がある九州、あるいは纏向(まきむく)遺跡がある畿内・大和に所在したにちがいないと思い込んでいる。しかし――この九州説と畿内説は【科学】がまったく成立しない空理空論である。というのも、前回のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の9回で詳細に証明したように――卑弥呼が居住した王国は山陰・出雲(現在の島根県東部)であったからである。この出雲説ならば、『魏志倭人伝』の全記事と矛盾点も弱点も無く論理が完結し【科学】が成立して事実・真実となる。
 九州説と畿内説は、『魏志倭人伝』は「邪馬台国」の所在地を決定するための史料であると定める。しかし、約2000字で構成される『魏志倭人伝』の約55パーセント・約1100字の記事は「紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、わが国は原初漢字の夏音(かおん)文字(中国の夏代初頭の漢字)と、夏代初頭より約1000年前の紀元前3000年頃の中国の五帝時代初頭に生存した倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論をも習得した」と伝えている。この歴史ついては、前回のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の9回で詳細に解説して証明した。
 だから、『魏志倭人伝』を「邪馬台国の所在地を決定するための史料」と定める九州説と畿内説は【1】卑弥呼は山陰・出雲(邪馬壱国)で居住していたゆえ空理空論・デタラメ・詐偽(さぎ)であったうえに、【2】『魏志倭人伝』は「わが国は【夏音文字の学芸】と【倉頡が発明した漢字作成理論】を習得した」と具体的に正確に伝える重大な歴史書であったゆえ、九州説と畿内説はこれまた空理空論・デタラメ・詐偽(さぎ)であったことになる。
 そして、【3】学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」と断定する絶対的定説もまた空理空論であった。というのも、上記したように、『魏志倭人伝』は約55パーセント・約1100字の記事で「わが国は約4000年前に、中国の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)の原初漢字の夏音文字と、約5000年前から始まる中国の五帝時代の原初漢字・書契(しょけい)を習得した」と伝えているからである。


★「倭人国の地理学」のトリセツ・19

◆上記したように、『魏志倭人伝』は約55パーセント・約1100字の記事をもって「わが国は約4000年前の後期縄文時代初頭に【原初漢字・夏音文字の学芸】を習得するとき、約5000年前の中国の五帝時代初頭に生存した【倉頡が発明した漢字作成理論】をも習得した」と伝える歴史書であった。
 これゆえ、『魏志倭人伝』には(1)「倭人国の易に用いられる辞(ことばと文字)は、令亀(れいき)の法のごとく、つまり紀元前1300年頃から始まる殷代(いんだい)後半に亀の甲羅に刻んだ甲骨文字のごとくであった」と伝える記事と、(2)「魏都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる楷書と、倭女王卑弥呼が文書に用いる文字は差錯(ささく/相違)していた」という、二つの記事が存在する。
 卑弥呼が文書に用いた文字は後期縄文時代初頭に習得した夏音文字であった。その証拠に、「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読む字音は「夏音文字の字音」である。「卑弥呼」を、中国に現存する最古の漢字音の上古音で読むと「ピミカ」となる。音韻史研究にもとづくと「ヒミコ」という字音のほうが「ピミカ」よりも古いことになる。だから、わが国が漢字を最初に習得したのは後期縄文時代初頭であるゆえ、「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という定説は空理空論であったことになる。
 「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は、空理空論であった――この事実を簡単明瞭に説明する科学的な意見が存在する。
 この意見は――わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目における、「わが国の漢字音」と題して解説している意見であり――この意見は、次のごとく指摘する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 音韻史研究によって、中国において現存する最古の漢字音は、下に配した「漢字生長史」に示したように、紀元前1046年から始まる周代初頭の「上古音」である。
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 上の「漢字生長史」が明確に示すように、「わが国が漢字を最初に習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」と主張する定説の漢字音は、中国において現存する最古の上古音よりも約1500年も新しい漢字音となる。したがって、「わが国が漢字を最初に習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という定説は白川静著『字統』が「わが国の漢字音」にて指摘する音韻史研究成果に反する非科学的な意見、つまり空理空論であったことになる。
 白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する、わが国後期縄文時代初頭に習得した夏音文字の漢字音は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残っている。
 だから、学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する絶対的定説は【科学】が成立しない空理空論であったのである。

◆「銀河」の別称は「銀漢」であり、「銀漢から作られた字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と呼んだ。
 倉頡は天文学において通称「夏の銀河」と呼ばれる「夏の星座が漬()かる巨大な銀河」から漢字を作る方法を発明した。「夏の銀河の各部の形状」から「文字」が作られたゆえ、わたくしは「夏の銀河」を「文字作成銀河」と呼ぶことにした。
 「文字作成銀河」の写真は、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の9回に配したゆえ、今回は省略した。
 倉頡がつかえる黄帝は東洋最古の医学書『内径(ないけい)』を作ったと伝わる。黄帝は【女性の生殖器と子どもの出産】を研究した。このため、倉頡は「文字作成銀河(夏の銀河)」から黄帝の【女性の生殖器と子どもの出産】の医学研究をあらわす文字」を発明した。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・2回」にて指摘したように――倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝が容易に崩壊・滅亡すると心配して、下記に示す〔三つの「死刑」に処する掟〕を定めた。
▼倉頡が死刑と定めた三つの掟
1】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」という事実を暴露した者とその一族全員に神罰を下して即刻に死刑にする。
2】「多くの文字を容易に覚えるため、夏の銀河の各部に名称を付けた者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする。
3】「書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員もまた死刑にする。

◆上記した【3】の掟のため――五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。〔注 実際は数点も発見・出土しているが、学者たちがこれらの資料を「文字」と認めないゆえ、いまだ一点も発見・出土しないことになっている〕。
 しかし、『魏志倭人伝』が「後期縄文時代初頭に、わが国に伝来して習得された」と説明している原初漢字の夏音文字の字源・字形・字義は文字作成銀河の各部の形状であった。ゆえに、われわれが用いている当用漢字と同じく夏音文字は【字源・字形・字義】を有する。そして、字音は『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』等に楷書を音記号に用いて現存する。だから、夏音文字は現代の当用漢字と同じく【文字の四要素《字源・字形・字義・字音》】から成るゆえ、【文字】の定義が成立して「文字」であったことになる。
 紀元前1300年頃から始まる殷代後半に出現した亀の甲羅に刻んだ契文(けいぶん)=甲骨文字は文字数が多数となったため、【3】の掟を毎度まもるのは非常に面倒になった。これゆえ、契文(甲骨文字)によって【3】の掟は破られた。ゆえに、契文以後の周代の金文・その後の大篆(だいてん)や小篆(しょうてん)や隷書(れいしょ)や楷書は【3】の掟を破っても良いことになった。
 卑弥呼が最初に歴史上に登場したのは180年頃であった。当時は後漢時代末で原始的楷書が用いられていたゆえ、倭人国が有した五帝時代の書契と夏代の夏音文字は楷書で表記されることになった。
 中国において、契文が用いられた殷代後半以後、【倉頡が発明した漢字作成理論】は国家と王朝が独占管理して厳重に機密を保持し、また倉頡が定めた【1】と【2】の掟も国家と王朝によって厳重に守られた。
 わが国においても、後期縄文時代初頭以後、【倉頡が死刑と定めた三つの掟】は厳重に守られた。
 だから、上記したように、『魏志倭人伝』には(1)「倭の易に用いる辞は、甲骨文字(令亀の法)の辞のごとく」、また(2)「卑弥呼が文書に用いる漢字と魏の都と帯方郡・諸韓国が文書に用いる漢字は相違していた」と、「わが国は原初漢字を習得した」と明記する二つの記事が存在するにもかかわらず、九州説と畿内説をとなえる先生方は「わが国には原初漢字が存在した」という記事を徹底的に無視して、そんな記事が『魏志倭人伝』に存在することを厳重な機密にして口を「ぎゅー」かたく閉じて一言もしゃべらないことにしたのである。
 しかし、『魏志倭人伝』は――「【銀漢(文字作成銀河)から作られた文字】を略して【漢字】と名づけられた」と伝え、またわが国は【約5000年前に生存した倉頡が発明した漢字作成理論と約4000年前の夏音文字の学芸】を習得した――と伝えている。
 上記した【倉頡が死刑と定めた三つの掟】における【2】の掟「文字を容易に覚えるため、文字作成銀河の各部に名称を付けた者とその一族全員もまた即座に死刑にする」によって、今日においても文字作成銀河の各部をあらわす名称は存在しない。文字作成銀河の各部の名称が存在しないと、〔字源となる銀河=字形となる銀河=字義となる銀河〕の解説・証明において非常に不便となるゆえ、私は下記のごとく銀河各部の名称を定めた。
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◆九州説と畿内説は【天の北極がある方向を〔北〕と定める、現在の日本地図と同じ日本列島地図】に則(のっと)って、『魏志倭人伝』を読解する。しかし、『魏志倭人伝』は「【倉頡が発明した漢字作成理論】によって確立された[]の字源に則って、卑弥呼王朝は本州・日本列島地理の方位を――時計回りに90度転回して、本州の〔東〕は〔南〕へ延びる――と制定した」と説明している。これゆえ、九州説と畿内説は「『魏志倭人伝』が伝える〔転回日本列島地理〕は科学的にも歴史的にも事実であるはずがない」と認めず、多数の【誤読(文献批判)】を加えて立論するがいっこうに【科学】が成立しない。だから、『魏志倭人伝』は九州説と畿内説がただちに空理空論と証明することができる書物であったのである。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の2回で解説したように、「歳差(さいさ)」という天文現象を利用すると、黄帝と倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代初頭における中国全土の天頂にめぐってきた銀河を算出して再現することができる。
 【漢字作成理論】が発明された五帝時代初頭、下に示すように、私が「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた銀河が中国全土の天頂にめぐってきた。この「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は、中国各地の人々が[](つまり、天頂緯度軸線と子午線)をキャッチすると精確に緯度と方角が測定できる、最も大事な命をまもることができる羅針盤となった。
 〔注 「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は、上に示した「文字作成銀河各部の名称図」における左上にある)
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 前述したように、倉頡が漢字を発明する目的は、黄帝がおこなった「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究をあらわすことができる文字を作成することであった。
 下の図に示すように、黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」の西側半分には、「乳房」「妊婦の腹部」「右足」に観える部分があり、また「子宮に相当する箇所」もある。ゆえに、「十字の銀河」は「女体・妊婦・乙女」などに見立てられた。
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 倉頡は「十字の銀河」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた全文字が生まれる母体」と定めた。また「十字の銀河の子宮」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた全文字が生まれる子宮、あるいは女性の骨盤と生殖器」に見立てると定めた。
 そして、「十字の銀河」は[]の字源・字形・字義となった。ゆえに、下の上図における[]の金文形は「十字の銀河」を「子宮に胎児が宿る妊婦の正面形」に図案した。
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 倉頡は「十字の銀河」を「黄帝が居住した地から遠くの地域に群れるジャコウウシを狩猟した男たちが帰還する、家族が待つ家」に見立てた。ゆえに、上の下図に示した[]の金文形における上部の[(べん)]は「家族が生活する家」をあらわし、その下部の[]の字源は「鬼の姿に似る銀河」となった。というのも「鬼の姿に似る銀河」は「子の姿(胎児・出産児・新生児)」に相似すると見立てられたからである。だから、「鬼の姿に似る銀河」は[]の字源・字形・字義をあらわすことになった。
 これゆえ、「母親・妊婦」に見立てられた「十字の銀河」から図案された[]の下に、「家で生まれて育つ子」に見立てられた「鬼の姿に似る銀河」から図案された[]が加わって、[]の字源・字形・字義が成立することになった。
 上に示した「[][]の字源銀河解説図」は【黄帝の〔女性生殖器と子どもの出産〕の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成原理】をあらわすことになった。

◆中国の五経の第一番目にあげられる古典『易経(えききょう)』繋辞下伝(けいじげでん)は【漢字の起源】について、次のごとく記述する。
 「古者(いにしえ)包犠(ほうぎ)氏の天下に王たるや、仰いでは天象を観、俯()しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観る。近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る。ここにおいて始めて八卦(はっけ)を作り、もって神明の徳に通じ、もって万物の情に類して結縄(けつじょう)を作った」
 また、この【漢字の起源記事】の直後に、『易経』繋辞下伝は、下記のごとく説明する。
 「上古は結縄して治める。後世の聖人これに易()えるに書契をもってす。」
 この【書契説明記事】に登場する「結縄」は「紀元前4000年頃の三皇時代初頭に生存した包犧氏が考案した易卜に用いた記号」の名称である。また、「後世の聖人」は「【万物の情(イメージ)に類する書契】を考案した倉頡」である。
 上に示した『易経』繋辞下伝の【漢字の起源記事の冒頭と末部】は誤っている。というのも、三皇時代の包犧氏は易に用いる記号「結縄」を作ったが、「女性の生殖器と子ども出産の医学研究」をあらわすことができる文字を作らなかったからである。
 倉頡によって、黄帝が研究した「女性生殖器と子どもの出産の研究をあらわす、万物の情に類する文字」が発明された。だから、前述したように、倉頡は「中国全土の天頂にめぐってきた十字の銀河」を「文字作成銀河の各部の形状における、万物の情に類する文字を生む母体」と定め、「十字の銀河の子宮(生殖器)」を「文字作成銀河の各部の形状における、万物の情に類する文字が生まれる子宮(生殖器)」と定めた。したがって、「万物の情に類する文字」を作ったのは倉頡であったことになる。
 これゆえ、上に示した【漢字の起源記事】を「黄帝に仕えた史官の倉頡は、仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観る。(中略)。もって万物の情に類して書契を作った」と直すと正しくなる。
 【漢字の起源記事】に登場する「天象」は「文字作成銀河」を意味し、「地法」は「文字作成銀河の各部における東から西へと移動する運行に対して、逆向きに中国の大地をけずって流れる代表的な黄河や長江の水は西から東へ去る(移動する)状況」を意味する語である。「鳥獣の文」は【倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわす名称であった(倉頡伝説では、「鳥獣の文」は「鳥獣の足跡」と名づけられた)。「地宜」は「平面的に図化した地図の形」を意味した。「八卦」は「易の判断の基礎となる八つの象(かたち)、すなわち、乾(けん)・兌()・離()・震(しん)・巽(そん)・坎(かん)・艮(ごん)・坤(こん)の称」ではない。「八卦」は「東・西・南・北の四方位と、東北・西北・東南・西南の四方角、つまり八方位、八代(やしろ)、八隅(やすみ)」を意味する。
 なお、上に示した【漢字の起源記事】に登場する「近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る」という文について、『魏志倭人伝』は「【A】玄界灘の大海中に在る対馬国と一大国の南北線(経度線)の向きは、【B】九州の末盧(まつろ)国以下の本州における東西軸(緯度線)の向きと同じとなる」と説明していることになる。
 要するに、「近くはこれを身に取る」という文は「対馬国と一大国は現在の日本地図と同じく南北に所在する」と意味した。しかし、「遠くはこれを物に取る」という文は下に示す転回日本列島地図のごとく「本州の西にある九州は〔北〕に所在し、本州の東にある関東地方は〔南〕に所在する」、言いかえると「本州・日本列島は時計回りに90度転回する」と定理するものであった。
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 今日の地理学においては《天の北極がある方向を〔北〕と定める、単一方位規定》である。
 しかし、【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤とした卑弥呼王朝の方位規定は『易経』繋辞下伝の【漢字の起源記事】が説明するように「近くはこれを身に取る」と「遠くはこれを物に取る」という異なる二種の方位規定が共立する、二者共立方位規定であった。 だから、日本列島における本州は「遠くはこれを物に取る」という定理に則って「時計回りに方位が90度転回して〔東の関東地方〕は日本列島の〔南〕に所在することになった。他方、九州沖の玄界灘の大海中に所在対馬国と一大国は「近くはこれを身に取る」という定理に則って現代の方位(対馬国は北、一大国・壱岐は南)と同じとなった。

◆『魏志倭人伝』は「倭地には牛と馬が無い(生息していない)」と記述する。
 []の字源は「ジャコウウシ」であった。[]の字源は「フタコブラクダ」であった。
 「ジャコウウシ」と「フタコブラクダ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
 下の図に示したように、[]の「ジャコウウシ」は「第5週ごろの胎児の姿」に類似すると見立てられた。また、天敵のオオカミに襲われるとジャコウウシの群れは子どもを真ん中に隠し、円陣を組んで衛(まも)った。だから、「円陣の真ん中に隠すジャコウウシの子ども」は「子宮に宿る胎児」に見立てられ、「ジャコウウシの群れが組む円陣」は「女性の生殖器の大半を包囲して子宮に宿る胎児の命を衛る骨盤」に見立てられて、「ジャコウウシ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣と定められた。
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 ジャコウウシは有史以前には北半球の寒帯に生息していたが、紀元前3000年頃の黄帝時代になると、多くの地方で絶滅したとされる。黄帝時代、黄帝が居住地としたと推定される陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)の黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)周辺地域から北方の毛烏素(ムウス)沙漠は凍土・ツンドラ地帯と化していた。ゆえに、秋から冬になると百頭以上が一団となるジャコウウシの幾つかの群れが地平線かなたの毛烏素沙漠から南の黄帝の居住地近い餌場(えさば)を目指してあらわれた。その証拠に、司馬遷著『史記』五帝本紀には「師兵をもって営衛(えいえい)となす」という記事があり、この記事は「黄帝軍は駐屯するとき、兵たちは円陣を組んで自衛した」と意味した。黄帝軍は円陣を組むジャコウウシの習性から学んで円陣を組んで駐屯していたのである。
 「ジャコウウシ」は[][][][][][][][][][][][]などの[]の部首を有する字の字源となり、また「円陣を組んで衛る習性」から「防衛」の[]の字源となり、さらに「祭祀に用いる完全(最も理想的)な犠牲(いけにえ)」とされたうえに黄帝時代以後に中国から去って姿を消すと「たたり」を意味する[(すい)]あるいは[(じゅつ)]の字源・字義となった。さらに、医学用語の「子どもが生まれようとするときに妊婦の腹部を襲う猛烈な傷み」の「陣痛」も「円陣を組むジャコウウシの習性」に由来するものであった。
 『魏志倭人伝』に記載される「対馬国」「投馬国」「邪馬壱国」「斯馬国」「邪馬国」などの小国名に用いられる[]の字源・字形・字義は「フタコブラクダ」であった。わが国には、フタコブラクダは生息していなかったが、「フタコブラクダ」が字源・字形・字義となる[]の字がつく小国名が5ヵ国、しかも卑弥呼が居住した王国名は「邪馬壱国」である。だから、わが国には[]の字源・字形・字義を「フタコブラクダ」とする倉頡が作った原初漢字・五帝時代の書契とそして夏代初頭の夏音文字が習得されて、その《字源・字形・字義》は〈文字作成銀河の各部の形状〉によって表示され、《字音》は〈『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』にて楷書を音記号〉に用いて失われずに多数残っている。
 ゴビ沙漠に住む人々にとって、フタコブラクダは「沙漠の船」となって欠くことができない大切な家畜である。フタコブラクダは位置も方位も判然としないゴビ沙漠を往来しても道に迷わない。ゆえに、天頂緯度線をキャッチして位置と方位を測定して日々暮らしていた黄帝時代の人々は《フタコブラクダを、精確に天頂緯度線をキャッチできる神秘的な眼力を有する獣》と憧れた。ゆえに、フタコブラクダは【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
 下の図に示すように、「フタコブラクダの両目は顔の両端にある」と同様に「第7週頃の胎児の両目も顔の両端に離れている」。また、「フタコブラクダの睫毛(まつげ)は長い」と同様に「子ども(乳児)のつぶらな目の睫毛も長い」。
 だから、「フタコブラクダ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
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◆『魏志倭人伝』は「対馬国の南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」と説明する。
 この記事が示すように、卑弥呼は「対馬国(現在の長崎県北部の朝鮮半島と九州本土の中間にある島)と一大国(現在の長崎県北部の壱岐島)の中間の海」を「瀚海」と名づけた。
 「瀚海」は、中国北部・モンゴルより南方にある[]の字源「フタコブラクダ」が棲む「ゴビ沙漠」を意味する。
 卑弥呼は「現在の対馬と壱岐島の中間の東水道」を「瀚海」(ゴビ砂漠)と名づけて、【実った小麦を収穫する秋になると、毛烏素(ムウス)沙漠がある北方のかなたの地平線から1組百頭以上のジャコウウシがむ犇(ひし)めいて一団となる、その幾組の群れが黄帝の居住地近くにある餌場へ目指して出現した壮大な光景】を甦(よみがえ)らせた。
 卑弥呼が「対馬国と一大国の中間の海」を「瀚海」と名付けた目的は、もちろん「卑弥呼王朝の政権基盤は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】である」と明示するためであった。また、「夏音文字を習得した後期縄文時代初頭から晩期縄文時代初頭まで約1000年間も続いた日照りと冷害の大災害、この【鬼神(きじん)の厳しい刑罰】」は【倉頡が死刑と定めた三つの掟】は同一であると認識させて、上記した【倉頡が死刑と定めた三つの掟】を厳重に守らせるための工夫(くふう・アイディア)であった。この秘密については、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の6回で詳細に解説して証明した。
 卑弥呼王朝の政権基盤は【倉頡が発明した漢字作成理論】であった。だから、反体制側の人々が【倉頡が死刑と定めた三つの掟】を暴露して卑弥呼王朝を転覆させる革命を阻止しなければならなかった。このため、「瀚海」で【倉頡が死刑と定めた三つの掟】を表象して刑罰が厳重な国法(倭人国の憲法)を表示して、卑弥呼は王朝と国家の崩壊・滅亡を食い止めることにしたのである。

◆下に示すように、「黄色く輝く、三つ輪の銀河」は「月の光が照らして黄色く輝くゴビ沙漠」のイメージとなる。「三つ輪の銀河」に隣接する「黄色く輝く、十字の銀河」も「月の光にきらめく沙漠の沙(すな)」のイメージとなる。ゆえに、「十字の銀河」は「ゴビ沙漠に棲むフタコブラクダ」に見立てられた。
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 これゆえ、下の図に示すように、「三つ輪の銀河」は「沙漠」に見立てられ、「十字の銀河」は「フタコブラクダの側身形」に見立てられて[]の字源・字形・字義となり「フタコブラクダ」をあらわした。
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 下の図に示すように、「対馬の上県(かみあがた)の地宜」は「フタコブラクダの正面形」に類似すると見立てられた。というのも、前にて図示した「胎児の顔の両目はフタコブラクダの両目と同じく顔の両端にある」。ゆえに、この点からして「上県の地宜はフタコブラクダの正面形」と見立てられることになった。
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 上の図に示すように、「対馬の下県(しもあがた)の地宜」は「沙漠を歩くのに都合(つごう)のよい、丈夫な足の指を有するフタコブラクダの足底や足跡の形」と見立てられた。「下県の地宜」は「東北の上県に目指して去ったフタコブラクダの足跡の形」である。「上県の地宜」に見立てられた「フタコブラクダの顔」は〔東〕に向く。同様に[]の字源「十字の銀」のおけるフタコブラクダの顔」も〔東〕に向く〔注 地宜においては「右・東(つまり、右側が東)」となり、天象・銀河図においては「つまり、左・東(左側が東)」となる〕。
 ゆえに、「上県の地宜は、下県がある西南へフタコブラクダが進む正面形」に見立てられ、「下県の地宜は、上県がある東北へ去ったフタコブラクダの足跡の形」に見立てられた。
 だから、「上県・下県の地宜」は「つまりフタコブラクダの姿と足跡の形が一対となる」ゆえ、「上県・下県」の小国名は「一対」の[][]が加わる「対馬」となった。

 下に示した「一大国・壱岐の地宜」は、前述した『易経』繋辞下伝の【漢字起源の記事】に登場する「遠くはこれを物に取る」、つまり「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理における〔東〕を時計回りに90度転回して〔南〕となる定理する、[]の字源・字形・字義をあらわす方位規定」に則(のっと)る地図の形である。
 〔東〕が〔南〕と化()る転回方位規定に則る「一大国北端(上部)の地宜」は「毛烏素(ムウス)沙漠はるか遠くの瀚海の東西を往来するフタコブラクダの姿」に相似すると見立てられた。ゆえに、「一大国の大半を占める、ジャコウウシの姿」は「春から夏にかけて、黄帝の居住地近くの餌場から次第に北方の毛烏素沙漠へ向かって去ってゆくジャコウウシの群れ」に見立てられたことになる。
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 下に、「現在の地図と同じ方位規定における一大国の地宜」を示した。この現在方位にもとづく「一大国の地宜」だと「ジャコウウシの顔は南に向いている」ゆえ、「南へと前進するジャコウウシの大群」に見立てることができる。
 したがって、この「一大国の地宜」は「穀物の収穫期の秋になると、フタコブラクダが棲む瀚海・ゴビ沙漠ある北方から南の毛烏素沙漠へと進み、凍土・ツンドラ地帯と化した毛烏素沙漠を縦断して到着した、黄帝が住む居住地からはるかに遠くの地平線上に出現したジャコウウシの大群」に見立てられたことになる。
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 これゆえ、卑弥呼は「冬になると季節風で海が荒れる玄界灘」を「乾燥した寒風が荒れ狂う吹雪の中をジャコウウシの大群が突きすすんで到着する、風で雪が吹きとばされた地表の露出した餌場・摂食地(せっしょくち)がある一帯地域」と見立てたことになる。

◆下の図に示すように、「一大国の壱岐の地宜」は「十字の銀河の子宮」に見立てられた。
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 2世紀初頭に成立した“字書の聖典”と古代の人々が尊重した『説文解字』は[]の字源を「至高(しこう)にして上なし。一大に従ふ」と解説する。このように、『説文解字』は、下に示した[]の字源解説図における「十字の銀河の子宮」を「一大に従ふ」と表現した。
 倉頡は「十字の銀河の子宮」を[]の字源・字義と定めた。[]の字源「十字の銀河の子宮」は、前述したように「文字作成銀河の各部から作られた全文字を生む子宮」であったゆえ「大きい」の字義を有することになった。つまり、倉頡は「十字の銀河の子宮」を[]の字源・字形・字義と定め、「十字の銀河の子宮」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた多数の文字が生まれる子宮」と定めたゆえ、「一即多、多即一」という理論を確立させた。ゆえに、「十字の銀河の子宮」における「一イコール多」は「一大」と呼ばれることになったのである。
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 上の「一大国・壱岐」の解説図に示したように、卑弥呼は「壱岐の地宜」を「十字の銀河の子宮」に類似すると見立てたゆえ、「壱岐」の小国名を「一大国」と定めた。つまり、「十字の銀河の子宮」は[壱・一]の字源・字形・字義であった。ゆえに、「一大国」は後世、[]の字がつく「壱岐」と名づけられることになった。
 卑弥呼は「壱岐の地宜」を「十字の銀河の子宮・一大」に見立てれば、玄界灘南方の九州北部の沿岸に所在する「末盧・伊都・奴・不弥」の四小国の地宜にもとづいて考えた小国名に用いられる文字はすべて「十字の銀河の子宮・壱岐島の地宜から生まれる」とあらわすことができる。だから、「壱岐島」は「一大国」と名づけられた。

◆下に「対馬国・瀚海・一大国の地図」を示した。
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 上の地図が示すように、「対馬国の中心軸」は「経度線と緯度線に対して邪(なな)め」となるゆえ、[]の字義「ななめ」をあらわした。また、前述したように、「対馬国の地宜」は[]の字源「フタコブラクダ」に相似すると見立てられた。
 したがって、「対馬国」は[][]2字をあらわすことになった。
 前述したように「一大国」は[]の字をあらわした。
 このように「対馬国と一大国の地宜」が「邪馬壱(やまい)」と表示するゆえ、卑弥呼は「邪馬壱」の地宜を有する山陰・出雲(現在の島根県東部)に居住することにしたのである。
 先年に死去した古代史研究家の古田武彦氏は陳寿が著作した『三国志』全体に記載された[]()86個、[]()56個の文字を逐一調べ、[]()には[]()の誤記が1ヵ所も無いことを証明した。
 したがって、「『三国志』魏書東夷伝末部の倭人伝」、つまり通称「『魏志倭人伝』」は卑弥呼が居住した王国名を「邪馬台国」と表記せず、「邪馬壱(やまい)国」と記している。
 新井白石は最初「大和(やまと)」の「やま」の音が「邪馬(やま)」の音に合致することを根拠・理由にして、倭女王卑弥呼が居住した邪馬台国は大和であったと比定した。しかし、倭女王卑弥呼が居住した王国は山陰の出雲であった。後に白石は「筑後山門郡(ちくごやまとぐん)」の郡名「山門」の「山(やま)」が「邪馬(やま)」の音と合致することを根拠・理由にして、筑後山門郡は邪馬台国であったと比定した。しかし、「邪馬」は「山」を意味するものでない。「邪馬」は「経度線と緯度線に対して邪(なな)めの馬(フタコブラクダ)の姿に相似する地宜」を意味するものであった。

 実は、「邪馬壱国」の「邪馬壱」は【倉頡が発明した漢字作成理論の核心】言いかえると【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産の医学研究」の核心】を表現する語であった。だから、卑弥呼が居住した王国名は「邪馬壱国」となった。ところが、新井白石はじめ邪馬台国説学者たちは「邪馬壱」は「大和」あるいは「山門」という地名をあらわしていると思い込んだ。だから、両説は『魏志倭人伝』と全く無関係の空理空論であったのである。

◆前述したように、黄帝と倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代時代初頭、「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」が中国各地の天頂にめぐってきた。この様子を、緯度線を上下・縦にして下図にあらわした。
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 上図が示すように、[]「フタコブラクダ」の字源・字形・字義となった「十字の銀河」は「緯度線と経度線と邪(なな)め」であるゆえ[]の字義となる。前述したように、「十字の銀河の子宮」は[]の字源・字形・字義であった。だから、「邪馬壱」という語は黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河の形状」をあらわした。倉頡は「十字の銀河」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた全漢字を生む母体」と定めた。ゆえに、「邪馬壱」は【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究の核心】を表現することになったのである。
 卑弥呼は、黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河の形状」が【黄帝の医学研究の核心「邪馬壱」】をあらわすため、前述したように「対馬国・一大国の地宜」が「邪馬壱」とあらわすことに注目して、卑弥呼は「邪馬壱」の地宜を有する山陰・出雲に居住することにしたのである。
 『魏志倭人伝』は「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)倭種なり」と、倭女王・卑弥呼が居住した王国「邪馬壱国」について説明している。
 前述したように、卑弥呼王朝が制定した[]の字源をあらわす本州・日本列島地図における転回方位規定では、日本海がある〔北〕が〔東〕となるゆえ、山陰地方の日本海には山口県萩市見島と島根県の隠岐群島が所在するが――後者の隠岐群島が「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り。皆倭種なり」という記事に合致する。
 というのも、隠岐群島は島前(どうぜん/知夫里島・西ノ島・中ノ島)・島後(どうご)と約180の小島からなるため、この「多数の島々」は「皆」と呼ぶことになるからである。
 だから、「皆が倭種となる隠岐群島」は転回日本列島地図において「山陰・出雲の東、海を渡ること千余里の位置に有る」ことになるゆえ、「旧国・出雲(現在の島根県東部)」こそが『魏志倭人伝』が「女王の都(みやこ)する所なり」と説明する「女王国・邪馬壱国」であったことになる。

◆下に、卑弥呼王朝が制定した転回日本列島(本州)地理にて定理された転回方位にもとづく卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の古代出雲の地宜を示した。
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 上の「古代出雲の地宜(邪馬壱の地宜)図」における上部に示したように、「神門水海(かんどのみずうみ)」がある。
 下の図に示したように、「神門水海」は「緯度線と経度線に邪(なな)めとなる、馬・フタコブラクダの姿」に相似する。だから、「神門水海」は[][]つまり「邪馬」をあらわした。
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 古代の宍道湖(しんじこ)は「膝(ひざ)から下の足の形」に相似し、その「足の爪先(つまさき)」は転回方位の〔西〕を指差した。したがって、「宍道湖の地宜」は「十字の銀河の右足(西側の足)」に相当すると見立てられた。前述したように、[]の字源・字形・字義となった「十字の銀河の子宮」は「女体の姿に相似する、十字の右足」の東側に隣接する。
 ゆえに、「足の形に似る、宍道湖の東岸(転回方位)」と接する佐太神社が鎮座する「島根半島の中央部」が[]の字をあらわす地宜となる。
 下に、[]の字源をあらわした地宜、すなわち「佐太神社が鎮座する、島根半島の中央部の地宜」を表示した。
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 上の「出雲の[]の地宜図」における下部に示したように、宍道湖の南部(転回方位/現在方位の東部)の湖岸「足の指の先端(爪先)」が指さす方向に意宇(おう)平野がある。転回方位にもとづくと、[]の字をあらわす地宜(島根半島中央)の〔南〕からカーブを描く矢印が示す方向にある意宇平野は〔西〕となる。ゆえに、意宇平野は[()][()][()]の字源・字形・字義となった「時計回りに90度方位が転回する方位規定」をあらわす聖地となる。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の6回で詳細に解説し証明したように――下に図示したように、倉頡は「十字の銀河の中央にイネ・禾の図書を重ね、そのイネの穂が〔南〕から〔西〕へ垂れる」と定理する[]の字を考案した。ゆえに、[]の字源・字形・字義は「時計回りに90度転回する方位規定」、つまり「方位が時計回りに90度ずつ移動して北→東・東→南・南→西・西→北となる」とあらわすことになった。この[]の字は最高・最良の政治スローガン「人民の胃袋を食料(五穀)で満たす、つまり五穀豊穣(ごこくほうじょう)」をあらした。
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 []の下に[]が加わって[]、人偏に[]が加わって[]の字となった。[][]の字は、[]の字源・字義をそのまま受け継いで、前述した『易経』繋辞下伝の【漢字起源の記事】に登場する「遠くはこれを物に取る」、つまり「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
 『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」である。この『魏志倭人伝』の最初の[]の字は、「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理」をもって前述したように、「本州・日本列島地理は時計回りに90度ずつ方位が移動して、北→東・東→南・南→西・西→北と化()る規定」をあらわした。
 上記したように、意宇平野は[]の字源「〔南〕は〔西〕となる」をあらわす聖地となる。
 したがって、『魏志倭人伝』が「樓観(ろうかん/見張り櫓)や城の柵(さく)を厳重に設け、常に兵器を持った人が守衛していた」という卑弥呼が居住した宮殿は、意宇平野の一画に設営されていたと推測される。

◆再度、下に「古代出雲の地宜図」を示した。
 この「古代出雲の地宜図」の上部には〔1〕島根半島の北部(転回方位)に「[]の地宜」という説明を加え、また、その図の中央部に〔2〕東経133度線が佐太神社を擦(こす)るように、佐太神社の南(転回方位/現在の東部)の地所を貫通している状況を加えた。
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 上の図における「島根半島の北部(転回方位)の地宜」は、「馬・フタコブラクダの顔(頭部)と胸部」のごとくに観える。この「馬・フタコブラクダの左向きの顔に相似する地宜」は、前述した「邪馬」をあらわす「対馬国・上県北部(現在方位)の馬・右向きの顔の地宜」に相似する。ゆえに、前述したように、「対馬国・一大国」は「邪馬壱」をあらわし、卑弥呼が居住した王国も「邪馬壱」の地宜を有する「山陰・出雲」であったことになる。

 佐太神社を擦るように、東経133度が貫通する。
 東経133度の高知県の最南端(現在方位/転回方位では最西端)は足摺岬(あしずりみさき)である。足摺岬の別称は「蹉跎(さだ)岬」である。『角川日本地名大事典』(角川書店発行)は――最初は「左太岬」であったが「蹉跎岬」となり、その後「足摺岬」となった――と説明する。
 「蹉跎」という語は「つまずいて転ぶ」を意味した。馬・フタコブラクダの歩き方は「側対歩(そくたいほ)」といって、同じ側の足を同時に踏み出す。この右側の前足と後ろ足を同時に踏み出した後に、左側の前足と後ろ足を同時に踏み出す、フタコブラクダの側対歩はあたかも「フタコブラクダが、つまずいて転ぶ」かのように観える。
 「神門水海」の地宜において「フタコブラクダの前足は短く後ろ足が長い」ゆえ、「つまずいて転ぶ」イメージを示すゆえ「蹉跎」という語をあらわす。
 「卑弥呼時代の宍道湖」は「人の右足」に見立てることができるが、出雲には「左足の地宜」が存在しない。ゆえに、「宍道湖の地宜」は「一本足であるゆえ、つまずいて転ぶ」つまり「蹉跎」という語をあらわすことになった。
 「蹉跎岬」は「佐太岬」とも表記された。
 「蹉跎岬(佐太岬)の東経133度線が佐太神社を擦って貫通する状況」は、天文学知識「一日の定義」をあらわした。
 「元日から大晦日まで」の「1365.25日」を「366日」という概数にすると、「1年」は「360度の大円」ということになる。というのも、「ある年の元日の午前零時に天頂を通過した銀河部が翌年の元日の午前零時に天頂にめぐってくるまでの軌道」は「360度の大円」となるからである。ゆえに、「360度割る1年・366日は、0.98日」となる。したがって「1日は0.02 短い 0.98日」となる。つまり「1日は24時間ではなく4分短い23時間56分」となる。要するに、「元日の深夜零時に天頂をめぐってきた銀河部は翌日(2)23時間56分後に天頂にめぐってくる」ことになる。
 一年は「360日」ではなく約「365日、または366日」であることは卑弥呼時代でも知っていた。ゆえに、「東経133度線が貫通する地所、佐太神社からわずか東寄り(現在方位/転回方位の南寄り)の地点」が「0.98日」のポイントとなる。卑弥呼王朝は「1日が0.98日」になることを知っていたゆえ、蹉跎岬(佐太岬)の東経133度線が貫通する地点に佐太神社が鎮座しないように、わずか外(はず)れた地所に鎮座するようにしたのである。その証拠に、白川静著『字統』は[]の字について――〔周礼(しゅらい)、大司徒〕に「日景を正して、以て地の中を求む」と日景測量のことをいい、地上千里にして日景に一寸の差があるという――と解説する。つまり、「直径千里・360度の大円の軌道」にあって「一日」の運行を「一寸・一度」にすると「365()、または366()」となって「円形・360(360)」に合致しない。だから、「蹉跎岬(佐太岬)の東経133度線が佐太神社を貫通せず、佐太神社と一寸の差があるかのごとく擦(こす)る状況」は[]の「日景測量(今日における、一日は24時間ではなく23時間56分であるという測量)の秘密」をあらわしていたことになる。
 以上のように、「山陰・出雲」には卑弥呼が居住した王国名に配される「邪馬壱」の3字に合致する地宜が存在する。
 さらに、その[]をあらわす地に鎮座する佐太神社と一寸の差があるがごとく擦るように、四国の高知県の佐太岬=蹉跎岬の東経133度線が佐太神社の南(転回方位、現在方位だと〔東〕を通過する。
 だから、卑弥呼が居住した邪馬壱国は佐太神社が祀られる山陰・出雲であったことになる。

 次回は、『魏志倭人伝』が「邪馬壱国に至る、女王の都(みやこ)する所なり」と記述した王国名に用いられた「邪馬壱」という語は【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究の核心】にして、また【倉頡が発明した漢字作成理論の核心】をあらわしたことを証明し、『魏志倭人伝』は「邪馬台国」を説明する書物ではなかったことを明白にする。

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2021年4月15日 (木)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・9

▼前回のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の8回で詳細に証明したように――“日本古代史最大の秘密”の『魏志倭人伝』に記述された【歴史、史実】を解明するためには、必ず【[玄](天頂緯度線と子午線)のキャッチ(測量)】に則(のっと)って立論しなければならない。というのも、【[玄](天頂緯度線と子午線)の測量】に則らずに立論するすべての意見は、ただちに空理空論・絵空事(えそらごと)となってしまうからである。
 ところが、江戸中期に生存した新井白石(1657ー1725年)は【[玄]のキャッチ】に則らず、最初に邪馬台国大和説を主張し、後に邪馬台国九州説をとなえた。だから、白石の【[玄]のキャッチ】に則らない邪馬台国説は空理空論であったとただちに断定しなければならない。
 しかし、学界は「白石と同じ畿内(大和)説と九州説は空理空論である」とただちに断定せず、「諸説のなかで畿内(大和)説と九州説が最も正しい」と考えている。
 【[玄]のキャッチ】に則らない全意見は空理空論である――この事実は、なんびとにも否定できない真実であり、たとえ学界にあっても否定することができない絶対的な真実である。というのも、【[玄]のキャッチ】に則らないすべての意見は【科学】がまったく成立しないが、一方、【[玄]のキャッチ】に則る意見は【科学】が成立することになるからである。
 学界は「【[玄]のキャッチ】に則らない畿内説と九州説は【科学】がまったく成立しない空理空論である」ことに気づいていない。このため、白石以来約300年経過した現在においても、学者たちは『魏志倭人伝』を読解する際に【[玄]のキャッチ】に則らずに、【《天の北極》を重視する現在の日本地図】にもとづいて読解する。
 現在、【[玄]のキャッチ】に則って『魏志倭人伝』を読解する学者は一人も存在しない。


★「倭人国の地理学」のトリセツ・18

◆今回から6回に分けて、多くの人々が最も興味を抱いた倭女王の卑弥呼が居住した王国の所在地を詳細にしかも【科学】が成立するように証明して――『魏志倭人伝』は【[]のキャッチ】に則って思考しなければならなかった正確無比の書物であったことを証明する。

◆上記したように、前回の「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の8回で詳細に解説して証明したように――もしも倭人国の使者と船乗りたちが【《天の北極》を重視して、天の北極の高度を緯度(位置)に換算する方法を羅針盤】にして〔中国や朝鮮半島に到着するために、玄界灘〕に入ったならば――必ず彼らは〔玄界灘〕を渡ることができず命を失った。したがって、中国では倭人国の様子をまったく知ることができなかったため、『魏志倭人伝』には文字が1字も書き記されていなかった白紙であった、つまり実際に著作されて実在した書物ではなかったことになる。このように、邪馬台国説だと『魏志倭人伝』には文字が1字も書かれていなかったことになり、要するに『魏志倭人伝』はこの世に存在しなかった書物であったことになるゆえ、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」や「卑弥呼」が記述されていたと論じること自体、空理空論・デタラメ・絵空事・詐偽(さぎ)となる。
 魏王朝と帯方郡政庁が『魏志倭人伝』に記述された倭人国の情報を知るためには《倭の使者たちは必ず玄界灘を往来できた》という条件が絶対に必要となる。これゆえ、「【[]のキャッチ】をもって緯度を測定する方法を羅針盤とすれば、倭の使者たちは玄界灘を往来できた。しかし【天の北極の高度】を緯度に換算する方法を羅針盤とした航法では、倭の使者たちは往来できずに命を失った大海」であったゆえ、「玄界灘」と名づけられたのである。
 ゆえに、約2000字で構成される『魏志倭人伝』が実際にこの世に実在する文献であったと証明するためには――(1)倭の使者たちと船乗りたちは〔中国の魏都・魏の出張機関の帯方郡政庁と倭地の九州の中間の大海・玄界灘を往来する時に1度の60分の11分以内の誤差内で精確に天頂緯度を測定(キャッチ)できた、つまり【[]をキャッチすること】ができた。だから、(2)倭人国と国交を結ぶことができた魏は倭人国の様子を知ることができたゆえ、『魏志倭人伝』はこの世に実在する書物であったことになる。
 九州説と畿内説は【[]のキャッチ】に則る意見ではない。だから、九州説と畿内説の実体はまぎれもなく空理空論・デタラメ・空想・詐偽であったことになる。
 以上のごとく、『魏志倭人伝』は【[]のキャッチ】に則ってのみ【科学】、つまり、『魏志倭人伝』はこの世に実在した書物であると証明される【科学】が成立して、【歴史、史実】を解明することができる書物であったことになる。

◆西暦280年~289年、晋(しん)につかえた歴史編纂官であった陳寿(ちんじゅ)は正史『三国志』を著作した。この「『三国志』魏書東夷伝末部の倭人伝」を、通称「『魏志倭人伝』」と呼称する。

(みん)の建文(けんぶん)4(1402)に朝鮮でつくられた「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)」という古地図がある。
 この古地図における日本列島地図周辺の部分図を下に示した。
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 上記に示すように、「混一疆理歴代国都之図」に描かれた「日本列島地図」では「九州・山口県が〔北〕、近畿地方や東海・北陸地方は九州の〔南〕に配置されている。
 これゆえ、幾人かの学者たちは――「混一疆理歴代国都之図」における日本列島地図が示すように、中国人は古くから倭国(日本)は南北に連なる島々の集まりと考えられていた。ゆえに、このような観念を抱いていた『魏志倭人伝』の著者(陳寿)は倭国の中心である邪馬台国への道程を南のほうに求めた――と指摘した。
 しかし、「混一疆理歴代国都之図」における「日本列島地図」は『魏志倭人伝』が説明する日本列島地理を表示するものであったことになる。
 その証拠に、『魏志倭人伝』には日本列島について「其の道里を計るに当(まさ)に会稽(かいけい)の東治の東に在るべし」と説明する記事が存在するからである。この「会稽の東治の東にある日本列島」を図示すると、下のごとくなる。
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 上の図が示すように、実際の列島図(実際の日本列島地図)は「会稽の東治の東北に在る」ゆえ、『魏志倭人伝』の記事に合致せず不合理・矛盾する。他方、転回列島像(「混一疆理歴代国都之図」における日本列島地図に合致する転回日本列島地図)は「会稽の東治の東に在る」ゆえ、『魏志倭人伝』の記事に合致して合理・矛盾しない。
 だから、『魏志倭人伝』は――卑弥呼王朝は本州・日本列島地図を、【[]のキャッチの科学】にもとづいて、「混一疆理歴代国都之図」における「日本列島地図」と同様に、下の図のごとく制定していた――と伝えていたことになる。
 というのも、『魏志倭人伝』の全記事を【[]のキャッチ】に則って思考すると、卑弥呼王朝は[]の字源にもとづいて「日本列島の〔東〕は〔南〕に転回する地理観」を制定していたという事実が【科学】が成立して証明されることになるからである。
 言いかえると、「混一疆理歴代国都之図」における「転回日本列島地図」は「倭人国」の先頭字[]の字源・字形の原形・原義をあらわしていたことになる。
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 『魏志倭人伝』は「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)倭種なり」と、倭女王・卑弥呼が居住した王国「邪馬壱国」について説明している。
 上の図に示すように、【[]のキャッチ】に則る日本列島地図における転回方位規定では、日本海がある〔北〕が〔東〕となるゆえ、山陰地方の日本海には山口県萩市見島と島根県の隠岐群島が所在するが――後者の隠岐群島だけが「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り。皆倭種なり」という記事に合致する。
 というのも、隠岐群島は島前(どうぜん/知夫里島・西ノ島・中ノ島)・島後(どうご)と約180の小島からなるため、この「多数の島々」は「皆」と呼ぶことになるからである。
 だから、「皆が倭種となる隠岐群島」は転回日本列島地図においては「山陰・出雲の東、海を渡ること千余里の位置に有る」となるゆえ、「旧国・出雲(現在の島根県東部)」こそが「女王国・邪馬壱国」であったことになる。

◆「わが国が漢字を最初に習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という意見は、多数の学者たちが絶対に正しいと思い込む定説である。
 この絶対的な定説も、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の8回で詳細に解説して証明したように、九州説と畿内説と同様に【科学】が成立しない空理空論であった。
 「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀ではない」という定説が空理空論である事実を明確に科学的に証明する意見が存在する。この意見は――わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目において、「わが国の漢字音」と題して、下記のごとく指摘する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 上記したように、音韻史研究によって「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」ということは、つまり「中国に現存する最古の漢字音よりも古い漢字音がわが国の国語として残っている」ということになる。
 音韻史研究によって、中国において現存する最古の漢字音は、下に配した「漢字生長史」に示したように、紀元前1046年から始まる周代初頭の「上古音」である。
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 上の「漢字生長史」が明確に示すように、「わが国が漢字を最初に習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」と主張する定説の漢字音は、中国において現存する最古の上古音よりも約1500年も新しい漢字音となる。したがって、「わが国が漢字を最初に習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という定説は白川静著『字統』が「わが国の漢字音」にて指摘する音韻史研究成果に反する非科学的な意見、つまり空理空論であったことになる。
 上の「漢字生長史」に表示したように、わが国は紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)に原初漢字・夏音文字を習得した。この夏音文字は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』に多数記載されて現存する。この秘密については、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の8回の後半部で詳細に解説し証明した。
 『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残っているわが国の漢字音は、白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する、わが国後期縄文時代初頭に習得した夏音文字の漢字音であった。だからこそ、上の「漢字生長史」に表示したように、わが国が紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)に習得した原初漢字・夏音文字は、中国における現存する紀元前1046年の周代初頭の最古の上古音よりも約1000年も古い漢字音であった。したがって、「わが国は後期縄文時代初頭に夏音文字を習得した」という主張は、白川静著『字統』の「わが国の漢字音」における音韻史研究の成果に合致する科学的な意見となる。
 以上のごとく、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定された絶対的定説は音韻史研究に反する【科学】が成立しない空理空論であった。

◆ゆえに上記したように、またわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の3回・4回でも詳細に解説して証明したように、わが国が最初に漢字を習得したのは紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)であった。
 したがって、中国に現存する最古の漢字音「上古音」よりも約1000年前の紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の夏代初頭の夏音文字の漢字音が『魏志倭人伝』、『隋書』倭国伝、『古事記』上巻、『万葉集』に多数残っている。
 そして、『魏志倭人伝』に記載された34ヵ国の小国名によって《わが国は後期縄文時代初頭に夏音文字の学芸を習得した史実》が【科学】が成立して証明される。
 わが国は後期縄文時代初頭に【夏音文字の学芸】を習得していた。ゆえに、『魏志倭人伝』には「魏都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる楷書と、倭女王卑弥呼が文書に用いる文字は差錯(ささく/相違)していた」という記事がある。
 また、『魏志倭人伝』には「倭人国の易に用いられる辞(ことばと文字)は、令亀(れいき)の法のごとく、つまり紀元前1300年頃から始まる殷代(いんだい)後半に亀の甲羅に刻んだ甲骨文字のごとくであった」と、「3世紀にすでに漢字が存在した」という記事も存在する。
 上記した『魏志』倭人伝に記述された二つの記事は「わが国は後期縄文時代初頭に【夏音文字の学芸】を習得した」と端的に説明する記事であったのである。
 「卑弥呼」の3字をわが国の国語として残った最古の漢字音・夏音文字の字音で読むと「ヒミコ」、中国に現存する最古の漢字音の上古音で読むと「ピミカ」となる。音韻学にもとづくと「ヒミコ」という字音のほうが「ピミカ」よりも古いことになる。だから、わが国が漢字を最初に習得したのは後期縄文時代初頭であるゆえ、「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という定説にもとづくと「卑弥呼」の3字は「ヒミコ」と読むことができない。
 だから、「わが国が最初に中国の漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という定説はまぎれもなく空理空論であったのである。

◆わが国が後期縄文時代初頭に【夏音文字の学芸】を習得したとき――【倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】と、【正確な中国海岸地図と精密地図作製方法】をも習得した。この事実は『魏志』倭人伝に書き記された34ヵ国の小国記事によって【科学】が成立して解明され証明することができる。
 漢字は紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡によって発明された。
 五帝時代が終わると夏后(かこう)時代となった。()の始祖と呼ばれた帝王は禹()であった。帝禹の後を継いで帝となったのが、益(えき)帝であった。益氏は五帝時代の最後の舜(しゅん)帝の時代から200年間余も、代々「虞()」という重職に就いて【正確な中国海岸線地図の作成事業】に従事した。このため、益氏は【五帝時代から夏代初頭まで約1000年間に及んで研究し進歩させ確立された精密地図作製方法】について精通していた。
 この帝益の孫の王子と若者たち一行は、『日本書紀』巻第三の神武天皇紀初頭にある天祖(てんそ/名門益氏の孫の王子)説話が説明しているように――日本列島の男鹿半島・米代川(よねしろがわ)縄文文化圏に定住して【(1)倉頡が発明した漢字作成理論と(2)夏音文字の学芸と(3)正確な中国海岸線地図と(4)精密地図作製方法】を教え広めた。
 この帝益の孫の王子(天祖)と若者たちが教えひろめた【(1)倉頡が発明した漢字作成理論と(2)夏音文字の学芸と(3)正確な中国海岸線地図と(4)精密地図作製方法】は、上記したように『魏志倭人伝』の対馬国から黒歯国まで34小国の記事となって説明されている。
 前述したように、邪馬台国説は【[]のキャッチ】に則れば空理空論であると証明される。ゆえに、新井白石以後300年間にも及ぶ邪馬台国説は空理空論をもって、「日本人と日本国という人格の尊厳」を踏みにじる冤罪(えんざい)を犯していたことになる。
 つまり、【[]のキャッチ】に則ればただちに空理空論であると断定できる邪馬台国説は、殺人を犯していない無実の人を終身刑にした冤罪事件に見立てて考えてみる必要がある。邪馬台国説学者たちは【誤読】を一ヵ所も必要でない正確無比の『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加えて冤罪、つまり事実に背くウソを捏造(ねつぞう)した。しかも、学界は邪馬台国説が捏造した冤罪に加担して事実・真実に目を背(そむ)けている。この冤罪は、新井白石以後300年も続く。「全記事が正確無比の『魏志倭人伝』」を「無実の一人の人間」と見立てると、邪馬台国説学者たちが『魏志倭人伝』へ加えた仕打ちは「まったく無実の人間を300年も牢獄に閉じ込める非業(ひごう)」を続けていることになる。ゆえに、この惨(むご)い冤罪を学界とメディアが、このまま無視・放置することは絶対に許されるはずがない。
 「無実にもかかわらず、300年の終身刑を背負うことになった一人の人間」にあってさえ、その冤罪は無視・看過することができない。ゆえに、【新井白石以後300年間も日本人全員と日本国の尊厳を汚し続けた冤罪】は、学界もメディアも一刻も早く暴露しなければならない。九州説と畿内説は【日本人と日本国の尊厳】を徹底的に踏みにじっているゆえ、日本人にとって最悪・最大の災いである。
 だから、この冤罪は、絶対に空理空論・デタラメ・詐偽であると暴く必要がある!

◆「銀河」の別称は「銀漢」であり、「銀漢から作られた字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と呼んだ。
 倉頡は天文学において通称「夏の銀河」と呼ばれる「夏の全星座が漬()かる巨大な銀河」から漢字を作る方法を発明した。「夏の銀河の各部の形状」から「文字(字源・字形・字義)」が作られたゆえ、わたくしは「夏の銀河」を「文字作成銀河」と呼ぶことにした。
 下に、その各部の形状が原初漢字(つまり、五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の漢字)の字源・字形・字義となった「文字作成銀河」の写真を配した。
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 倉頡がつかえる黄帝は東洋最古の医学書『内径(ないけい)』を作ったと伝わる。黄帝は【女性の生殖器と子どもの出産】を研究した。このため、倉頡は「文字作成銀河(夏の銀河)」から黄帝の【女性の生殖器と子どもの出産】の医学研究をあらわす文字」を発明した。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・2回」にて指摘したように――倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝が容易に崩壊・滅亡すると心配して、下記に示す〔三つの「死刑」に処する掟〕を定めた。
▼倉頡が死刑と定めた三つの掟
1】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」という事実を暴露した者とその一族全員に神罰を下して即刻に死刑にする。
2】「多くの文字を容易に覚えるため、夏の銀河の各部に名称を付けた者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする。
3】「書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員もまた死刑にする。

 上記した【3】の掟のため――五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。〔注 実際は数点も発見・出土しているが、学者たちがこれらの資料を「文字」と認めないゆえ、いまだ一点も発見・出土しないことになっている〕。
 しかし、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』等に楷書を音記号に用いて現存することになった夏音文字の字源・字形・字義は文字作成銀河の各部の形状であった。だから、夏音文字は現代の漢字と同じく【文字の四要素の《字源・字形・字義・字音》】から成る。
 これゆえ、「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という定説は空理空論であったのである。
 紀元前1300年頃から始まる殷代後半に出現した亀の甲羅に刻んだ契文(けいぶん)=甲骨文字は文字数が多数となったため、【3】の掟を毎度まもるのは非常に面倒になった。これゆえ、契文(甲骨文字)によって【3】の掟は破られた。ゆえに、契文以後の周代の金文・その後の大篆(だいてん)や小篆(しょうてん)や隷書(れいしょ)や楷書は【3】の掟を破っても良いことになった。
 卑弥呼が最初に歴史上に登場したのは180年頃であった。当時は後漢時代末で原始的楷書が用いられていたゆえ、倭人国が有した五帝時代の書契(わが国では「刻木」といった)と夏代の夏音文字は楷書で表記されることになった。
 中国において、契文が用いられた殷代後半以後、【倉頡が発明した漢字作成理論】は国家と王朝が独占管理して厳重に機密を保持し、また倉頡が定めた【1】と【2】の掟も国家と王朝によって厳重に守られた。
 わが国においても、後期縄文時代初頭以後、【倉頡が死刑と定めた三つの掟】は厳重に守られた。
 だから、『魏志倭人伝』は「倭の易に用いる辞は、甲骨文字(令亀の法)の辞のごとく」、また「卑弥呼が文書に用いる漢字と魏の都と帯方郡・諸韓国が文書に用いる漢字は相違していた」と明記しているにもかかわらず、九州説と畿内説をとなえる諸先生方は「わが国(倭人国)には原初漢字が存在した」という記事を徹底的に無視して、そんな記事が『魏志倭人伝』に存在することを厳重な機密にして口を「ぎゅー」かたく閉じて一言もしゃべらないことにしたのである。
 現代の学者たちは『魏志倭人伝』に記述された「卑弥呼が文書に用いていた文字」は「銀漢から作られた字」を略して「漢字」と呼ばれることになったのではないかと、誰一人も想像しない。しかし、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は約1100字・約55パーセントの記事をもって「【銀漢から作られた文字】を略して【漢字】と名づけられた」と伝え、また【約5000年前に生存した倉頡が発明した漢字作成理論と約4000年前の夏音文字の学芸】について説明していたのである。
 以上のごとく――新井白石(16571725)以来約300年間、白石の邪馬台国説が空理空論であることに気づかず、そのまま受け継いだ粗雑な思考・論考によって、皇室によって「『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を伝える重大な書物」と定められていた権威が害(そこな)われることになったのである。というのも、学界では「倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)だ! 倉頡が漢字を発明した伝説は空想だ、絶対にありえない!」と断定することになったゆえ、『魏志倭人伝』によって倉頡が漢字を発明したことが科学的に事実であったと証明されるなんていう発想を、学者の誰一人も抱かない状況になったからである。
 〔注 皇室が滅亡しなかった継続基盤は『魏志倭人伝』であった。言いかえると、皇室は『魏志倭人伝』が【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を伝える重大な書物であることを知っていたゆえ、この学問を権力基盤にして栄えて滅びなかった。ゆえに、白石が空理空論の邪馬台国説を立論したことを知ると、白石の死から13年後の1738年に戦国時代から220年間中断していた大嘗祭を復興して、大嘗祭で「『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】について記述する学問書である」と表示することにした。つまり、「大嘗祭」の「大嘗」は[]の字源・字形の原義・原義をあらわした。だから、令和元年の11月に行われた大嘗祭は「『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を説明する学問書である」と表示する大祭であったのである〕。

◆中国の五経の第一番目にあげられる古典『易経(えききょう)』繋辞下伝(けいじげでん)は【漢字の起源】について下記のごとく記述する。
 「古者(いにしえ)包犠(ほうぎ)氏の天下に王たるや、仰いでは天象を観、俯()しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観る。近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る。ここにおいて始めて八卦(はっけ)を作り、もって神明の徳に通じ、もって万物の情に類して結縄(けつじょう)を作った」
 また、この【漢字の起源記事】の直後に、『易経』繋辞下伝は、下記のごとく説明する。
 「上古は結縄して治める。後世の聖人これに易()えるに書契をもってす。」
 この【書契説明記事】における「結縄」は「紀元前4000年頃の三皇時代初頭に生存した包犧氏が考案した易卜に用いた記号の名称」である。また、「後世の聖人」は「【漢字作成理論「鳥獣の文」】を発明し、【万物の情(イメージ)に類する書契】を考案した倉頡」である。
 したがって、上に示した『易経』繋辞下伝の【漢字の起源記事の冒頭と末部】は誤っている。というのも、三皇時代には易に用いる記号「結縄」を考案したが、黄帝の医学研究をあらわすことができる「万物の情に類する文字」は倉頡によって発明されたからである。
 上に示した【漢字の起源記事】を「黄帝に仕えた史官の倉頡は、仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観る。(中略)。もって万物の情に類して書契を作った」と直すと正しくなる。
 【漢字の起源記事】に登場する「天象」は「漢字が作られた、夏の銀河」を意味し、「地法」は「東から西へ運行する天象部(銀河部)に反して、中国の大地をけずって流れる代表的な黄河や長江の水は西から東へ去る(移動する)状況」を意味した。「鳥獣の文」は【倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわす名称であった(倉頡伝説では、「鳥獣の文」は「鳥獣の足跡」と名づけられた)。「地宜」は「平面的に図化した地図の形」を意味した。「八卦」は「易の判断の基礎となる八つの象(かたち)、すなわち、乾(けん)・兌()・離()・震(しん)・巽(そん)・坎(かん)・艮(ごん)・坤(こん)の称」ではない。「八卦」は「東・西・南・北の四方位と、東北・西北・東南・西南の四方角、つまり八方位、八代(やしろ)、八隅(やすみ)」を意味する。
 なお、上に示した【漢字の起源記事】に登場する「近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る」という文は、「【A】[]の観測者が見える地平線より内界の地域の方位の規定に対して、【B】[]の観測者が見える地平線より外界の遠く離れた地所の方位は90度転回して異なると定めた規定」をあらわした。
 『魏志倭人伝』の記事で言いかえると、「近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る」という文は「【A】対馬国・瀚海(ゴビ砂漠)・一大国の水平線より内界となる近くの玄界灘における方位規定は現在の日本地図における方位規定と同じである。しかし、【B】対馬国・瀚海・一大国の水平線より外界となる遠くの九州末盧(まつろ)国から黒歯(こくし)国までの32ヵ国が存在する本州・日本列島地図の方位規定は、[]の字源・字形・字義に則って時計回りに90度転回する。つまり、〈現在の日本地図において、東海地方(愛知県・静岡県)は九州の〔東〕にある〉が、『魏志倭人伝』の記事では[]の字源にもとづいて《九州は「西→北」となって時計回りに90度方位が転回して〔北〕に所在し、東海地方は「東→南」となって時計回りに90度方位が転回して東海地方は九州の〔南〕に所在することになる》ということになった。
 要するに、【A】「近くはこれを身に取り」という文は「対馬国と一大国の方位は現在の地図の方位と同じである」と意味した。けれども【B】「遠くはこれを物に取る」という文は「九州以下となる本州・日本列島地図の方位規定は〔混一疆理歴代国都之図〕における転回日本列島と同じ」と意味した。したがって、再度、下に示した転回日本列島地理にて示された方位規定が「遠くこれを物に取る」という文をあらわしていたことになる。
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◆『魏志倭人伝』は「倭地には牛と馬が無い(生息していない)」と記述する。
 []の字源は「ジャコウウシ」であった。[]の字源は「フタコブラクダ」であった。
 「ジャコウウシ」と「フタコブラクダ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
 下の図に示したように、[]の「ジャコウウシ」は「第5週ごろの胎児の姿」に類似すると見立てられた。また、天敵のオオカミに襲われるとジャコウウシの群れは子どもを真ん中に隠し、円陣を組んで衛(まも)った。だから、「円陣の真ん中に隠すジャコウウシの子ども」は「子宮に宿る胎児」に見立てられ、「ジャコウウシの群れが組む円陣」は「女性の生殖器の大半を包囲して子宮に宿る胎児の命を衛る骨盤」に見立てられて、「ジャコウウシ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣と定められた。
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 ジャコウウシは有史以前には北半球の寒帯に生息していたが、紀元前3000年頃の黄帝時代になると、多くの地方で絶滅したとされる。黄帝時代、黄帝が居住地としたと推定される陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)の黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)周辺地域から北方の毛烏素(ムウス)沙漠は凍土・ツンドラ地帯と化していた。ゆえに、秋から冬になると百頭以上が一団となるジャコウウシの幾つかの群れが地平線かなたの毛烏素沙漠から南の黄帝の居住地近い餌場(えさば)を目指してあらわれた。その証拠に、司馬遷著『史記』五帝本紀には「師兵をもって営衛(えいえい)となす」という記事があり、この記事は「黄帝軍は駐屯するとき、兵たちは円陣を組んで自衛した」と意味した。黄帝軍は円陣を組むジャコウウシの習性から学んで円陣を組んで駐屯していたのである。
 「ジャコウウシ」は[][][][][][][][][][][][][][]などの[]の部首を有する文字の字源となり、また「円陣を組んで衛(まも)る習性」から「防衛」の[]の字源となり、あるいは「祭祀に用いる完全(最も理想的)な犠牲(いけにえ)」とされたうえに黄帝時代以後に中国から去って姿を消すと「たたり」を意味する[(すい)]あるいは[(じゅつ)]の字源・字義となった。さらに、医学用語の「子どもが生まれようとするときに妊婦の腹部を襲う猛烈な傷み」の「陣痛」も「円陣を組む習性のジャコウウシ」が語源となった。
 『魏志倭人伝』に記載される「対馬国」「投馬国」「邪馬壱国」「斯馬国」「邪馬国」など[]の字が用いられる5か国の小国名に用いられる[]の字源・字形・字義は全部「フタコブラクダ」であった。わが国には、フタコブラクダは生息していなかったが、「フタコブラクダ」が字源・字形・字義となる[]の字がつく小国名が5ヵ国、しかも卑弥呼が居住した王国名は「邪馬壱国」である。だから、わが国には[]の字源・字形・字義を「フタコブラクダ」とする原初漢字・五帝時代の書契と夏代初頭の夏音文字が存在したことになる。
 ゴビ沙漠に住む人々にとって、フタコブラクダは「沙漠の船」となって欠くことができない大切な家畜である。フタコブラクダは位置も方位も茫漠としたゴビ沙漠を往来しても道に迷わない。ゆえに、天頂緯度線をキャッチして位置と方位を測定して日々暮らしていた黄帝時代の人々は《フタコブラクダは精確に天頂緯度線をキャッチできる神秘的な眼力を有する》と憧れた。ゆえに、フタコブラクダは聖なる獣と尊重された。
 下の図に示すように、「フタコブラクダの両目は顔の両端にある」と同様に「第7週頃の胎児の両目も顔の両端に離れている」。また、「フタコブラクダの睫毛(まつげ)は長い」と同様に「子ども(乳児)のつぶらな目の睫毛も長い」。
 だから、「フタコブラクダ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
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◆上記した【倉頡が死刑と定めた三つの掟】における【2】の掟「文字を容易に覚えるため、文字作成銀河の各部に名称を付けた者とその一族全員もまた即座に死刑にする」によって、今日においても文字作成銀河の各部をあらわす名称は存在しない。文字作成銀河の各部の名称が無いと、〔字源となる銀河=字形となる銀河=字義となる銀河〕の解説・証明において非常に不便となるゆえ、私は下記のごとく銀河各部の名称を定めた。
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 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の2回で解説したように、「歳差(さいさ)」という天文現象を利用すると、黄帝と倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代初頭における中国全土の天頂にめぐってきた銀河を算出して再現することができる。
 【漢字作成理論】を発明された五帝時代初頭、下に示すように、私が「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた銀河が中国全土の天頂にめぐってきた(「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は、上に示した「文字作成銀河各部の名称図」における左上にある)
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 前述したように、倉頡が漢字を発明する目的は、黄帝がおこなった「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究をあらわすことができる文字を作成することであった。
 下の図に示すように、黄帝時代の中国全土にめぐってきて、地上の人々が【[]=天頂緯度線と子午線をキャッチ】して精確に緯度を測定できる羅針盤となって最も大事な命をまもった「十字の銀河」の西側半分には、「乳房」「妊婦の腹部」「右足」に観える部分があり、また「子宮に相当する箇所」もある。
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 これゆえ、倉頡は「十字の銀河」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた全文字を生む母体」と定めた。また「十字の銀河の子宮」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた全文字が生まれる子宮、あるいは女性の骨盤と生殖器」に見立てると定めた。
 そして、「十字の銀河」は[]の字源・字形・字義となった。ゆえに、下の上図における[]の金文形は「十字の銀河」を「子宮に胎児が宿る妊婦の正面形」に図案した。
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 倉頡は「十字の銀河」を「黄帝が居住した地から遠くの地域に群れるジャコウウシを狩猟した男たちが帰還する、家族が待つ家」に見立てた。ゆえに、上の下図に示した[]の金文形における上部の[(べん)]は「家族が生活する家」をあらわし、その下部の[]の字源は「鬼の姿に似る銀河」となった。というのも「鬼の姿に似る銀河」は「子の姿(胎児・出産児・新生児)」に相似すると見立てられたからである。したがって、「鬼の姿に似る銀河」は[]の字源・字形・字義をあらわすことになった。
 だから、「母親(妊婦)」に見立てられた「十字の銀河」から図案された[]の下に、「家で生まれて育つ子」に見立てられた「鬼の姿に似る銀河」から図案された[]が加わって、[]の字源・字形・字義が成立することになった。
 上に配した[][]の字源銀河解説図は【黄帝の〔女性生殖器と子どもの出産〕の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成原理】をあらわすことになった。

[][]の字源銀河は、【黄帝の〔女性生殖器と子どもの出産〕の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成原理】をあらわした。
 これゆえ、卑弥呼はわが国における最初の国家「倭人国」を創設し、わが国の最初の王朝を築くことができたのである。
 というのも、下記に示す5つの条件・理由・事情によって、卑弥呼は「倭人国」における最高位の女王に選ばれたからである。
▼卑弥呼が国家と王朝を創設することができた5つの理由・根拠
1】【倉頡が漢字を発明した目的】と【倉頡が発明した漢字作成原理】は女性たちが最も関心を抱く【女性の生殖器と子どもの出産の知識】であった。ゆえに、巫女(みこ)たちは黄帝が研究した産婦人科の知識【女性の生殖器と子どもの出産の知識】に精通することになった。
2】『魏志倭人伝』には「倭における易卜の辞は令亀(れいき)の法のごとく、つまり契文(甲骨文字)のごとくであった。また、『易経』繋辞下伝にある〔漢字の起源記事〕は「仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観る云々」と記述するゆえ、易卜の職に従事した巫女たちは「天象、つまり字源・字形・字義となった文字作成銀河の各部の形状知識」に精通した。また、正しく吉凶を占うために努力した巫女たちは、「地法、つまり銀河各部の東から西へ移動する運行の逆向きとなる、中国の大地をけずって水が西から東へ移動する黄河と長江の知識」を有し、「鳥獣の文、つまり【倉頡が発明した漢字作成理論】に精通し、「地宜、倭国の各地域の平面的に図化した地図の形」も知っていた。
3】『魏志倭人伝』の末部にある「卑弥呼の宗女の壱与(いよ)」という記事が示唆(しさ)するように、卑弥呼は「宗女、つまり巫女界を束ねる王(カリスマ・教祖)」であった。
4】『魏志倭人伝』が「その国、本亦(もとまた)男子を以て王と為す。住(とど)まること七、八十年にして倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)して年を歴()」と伝えるように、西暦170180年ころの倭国は各地の戦争で大乱していた。この戦争において、霊感鋭敏で頭脳が優秀な巫女が敵の戦力の呪力(じゅりょく)を奪う魔女(占い師)となり、戦いの先頭に立って自国の兵士たちを奮(ふる)いたたせる役目を有していた。この魔女たちをたばねるカリスマが卑弥呼であったのである。
5】これゆえ、倭国の国中における自国の地宜を知っている魔女はじめ巫女たちから、
卑弥呼は倭国各地の地宜を手に入れることができた。これゆえ、〔対馬国・瀚海(かんかい)・一大国の地宜〕を利用して倭の大乱を鎮めた巫女王(ふじょおう)の卑弥呼は倭女王に選ばれた。卑弥呼は〔34ヵ国の小国の名称と地宜〕をもって【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の文(鳥獣の足跡)」】を表示し、王朝の政権基盤を【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の文(鳥獣の足跡)」】と定めて倭人国を統治した。

◆『魏志倭人伝』は「対馬国の南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」と説明する。
 この記事が示すように、卑弥呼は「対馬国(現在の長崎県北部の朝鮮半島と九州本土の中間にある島)と一大国(現在の長崎県北部の壱岐島)の中間の海」を「瀚海」と名づけた。
 「瀚海」は、中国北部・モンゴルより南方にある[]の字源「フタコブラクダ」が生息する「ゴビ沙漠」を意味する。[]の字源「フタコブラクダ」は「瀚海・ゴビ沙漠」の住む人々にとって欠くことができないたいせつな家畜である。つまり、「フタコブラクダ」はゴビ沙漠おいて海に浮かぶ「船」と呼ばれていたゆえ、「ゴビ沙漠」は「瀚海」と名づけれた「海」であったのである。
 卑弥呼は「現在の対馬と壱岐島の中間の東水道」を「瀚海」(ゴビ砂漠)と名づけて、【実った小麦を収穫する秋になると、毛烏素(ムウス)沙漠がある北方のかなたの地平線から1組百頭以上のジャコウウシが犇(ひし)めいて一団となる、その幾組の群れが黄帝の居住地近くにある餌場へ目指して出現した壮大な光景】を甦(よみがえ)らせた。
 卑弥呼が「対馬国と一大国の中間の海」を「瀚海」と名付けた事情は、夏音文字を習得した後期縄文時代初頭から晩期縄文時代初頭まで約1000年間も続いた日照りと冷害の大災害による【鬼神(きじん)の厳しい刑罰】と【倉頡が死刑と定めた三つの掟】は同一であると認識させて、上記した【倉頡が死刑と定めた三つの掟】を厳重に守らせるための工夫(くふう・アイディア)であった。この秘密については、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の6回で詳細に解説して証明した。
 前述したように、卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤として、倭人国と王朝を創設した。だから、反体制側の人々が【漢字は銀河から作られた学芸】を巧妙に利用する牽強付会(けんきょうふかい/こじつけ)や捏造(ねつぞう)による革命の決行を断念させるために、【倉頡が死刑と定めた三つの掟】を「瀚海」で表象して刑罰が厳重な国法(倭人国の憲法)を表示して、王朝と国家の崩壊・滅亡を食い止める必要があったのである。

◆下に示すように、「黄色く輝く、三つ輪の銀河」は「月の光が照らして黄色く輝くゴビ沙漠」のイメージとなる。「三つ輪の銀河」に隣接する「黄色く輝く、十字の銀河」も「月の光にきらめく沙漠の沙(すな)」のイメージとなる。ゆえに、「十字の銀河」は「ゴビ沙漠に棲むフタコブラクダ」に見立てられた。
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 よって、下の図に示すように、「三つ輪の銀河」は「沙漠」に見立てられ、「十字の銀河」は「フタコブラクダの側身形」に見立てられて[]の字源・字形・字義となり「フタコブラクダ」をあらわした。
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 下の図に示すように、「対馬の上県(かみあがた)の地宜」は「フタコブラクダの正面形」に類似すると見立てられた。というのも、前にて図示した「胎児の顔の両目はフタコブラクダの両目と同じく顔の両端にある」。ゆえに、この点からして「上県の地宜はフタコブラクダの正面形」と見立てられることになった。
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 上の図に示すように、「対馬の下県(しもあがた)の地宜」は「沙漠を歩くのに都合(つごう)のよい、丈夫な足の指を有するフタコブラクダの足底や足跡の形」と見立てられた。「下県の地宜」は「東北の上県に目指して去ったフタコブラクダの足跡の形」である。「上県の地宜」に見立てられた「フタコブラクダの顔」は〔東〕に向く。同様に[]の字源「十字の銀」のおけるフタコブラクダの顔」も〔東〕に向く〔注 地宜においては「右・東(つまり、右側が東)」となり、天象・銀河図においては「つまり、左・東(左側が東)」となる〕。
 ゆえに、「上県の地宜は、下県がある西南へフタコブラクダが進む正面形」に見立てられ、「下県の地宜は、上県がある東北へ去ったフタコブラクダの足跡の形」に見立てられた。
 だから、「上県・下県の地宜」は「つまりフタコブラクダの姿と足跡の形が一対となる」ゆえ、「上県・下県」の小国名は「一対」の[][]が加わる「対馬」となった。

 下に示した「一大国・壱岐の地宜」は、前述した「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理における〔東〕を〔南〕へ時計回りに転回する[]の字源・字義をあらわす方位規定」に則(のっと)る地図の形である。
 〔東〕が〔南〕と化()る転回方位規定に則る「一大国北端(上部)の地宜」は「毛烏素(ムウス)沙漠はるか遠くの瀚海の東西を往来するフタコブラクダの姿」に相似すると見立てられた。ゆえに、「一大国の大半を占める、ジャコウウシの姿」は「春から夏にかけて、黄帝の居住地近くの餌場から次第に北方の毛烏素沙漠へ向かって去ってゆくジャコウウシの群れ」に見立てられたことになる。
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 下に、「現在の地図と同じ方位規定における一大国の地宜」を示した。この現在方位にもとづく「一大国の地宜」だと「ジャコウウシの顔は南に向いている」ゆえ、「南へと前進するジャコウウシの大群」に見立てることができる。
 したがって、この「一大国の地宜」は「穀物の収穫期の秋になると、フタコブラクダが棲む瀚海・ゴビ沙漠ある北方から南の毛烏素沙漠へと進み、凍土・ツンドラ地帯と化した毛烏素沙漠を縦断して到着した、黄帝が住む居住地からはるかに遠くの地平線上に出現したジャコウウシの大群」に見立てられたことになる。
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 したがって、卑弥呼は「冬になると季節風で海が荒れる玄界灘」を「乾燥した寒風が荒れ狂う吹雪の中をジャコウウシの大群が突きすすんで到着する、風で雪が吹きとばされた地表の露出した餌場・摂食地(せっしょくち)がある一帯地域」と見立てたことになる。

◆下の図に示すように、「一大国の壱岐の地宜」は「十字の銀河の子宮」に見立てられた。
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 2世紀初頭に成立した“字書の聖典”と古代の人々が尊重した『説文解字』は[]の字源を「至高(しこう)にして上なし。一大に従ふ」と解説する。このように、『説文解字』は、下に示した[]の字源解説図における「十字の銀河の子宮」を「一大に従ふ」と表現した。
 上の「一大国・壱岐」の解説図に示したように、卑弥呼は「壱岐の地宜」を「十字の銀河の子宮」に類似すると見立てたゆえ、小国名を「一大国」と定めた。つまり、「十字の銀河の子宮」は[壱・一]の字源・字形・字義であった。ゆえに、「一大国」は後世、[]の字がつく「壱岐」と名づけられることになった。
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 倉頡が発明した漢字作成理論の「鳥獣の足跡」の語源は「一大国」の「一大」つまり、上にて説明した[]の字源における「十字の銀河の子宮」の「至高にして上なし。一大に従ふ」の「一大」である。ゆえに、「鳥獣の足跡」と「一大」の語源と[]の字源は「十字の銀河の子宮」であった。
 卑弥呼は「壱岐の地宜」を「十字の銀河の子宮・一大」に見立てれば、玄界灘南方の九州北部の沿岸に所在する「末盧・伊都・奴・不弥」の四小国の地宜にもとづいて考えた小国名に用いられる文字はすべて「十字の銀河の子宮・壱岐島の地宜から生まれる」とあらわすことができる。だから、「壱岐島」は「一大国」と名づけられ、一大国は【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」】をあらわすことになった。

◆下に「対馬国・瀚海・一大国の地図」を示した。
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 上の地図が示すように、「対馬国の中心軸」は「経度線と緯度線に対して邪(なな)め」となるゆえ、[]の字義「ななめ」をあらわした。また、前述したように、「対馬国の地宜」は[]の字源「フタコブラクダ」に相似すると見立てられた。
 したがって、「対馬国」は[][]2字をあらわすことになった。
 前述したように「一大国」は[]の字をあらわした。
 卑弥呼は「対馬国と一大国の地宜」で「邪馬壱(やまい)」と表示し、そして卑弥呼は「邪馬壱」の3字の地宜がある山陰・出雲(現在の島根県東部)に居住することにしたのである。
 先年に死去した古代史研究家の古田武彦氏は陳寿が著作した『三国志』全体に記載された[]()86個、[]()56個の文字を逐一調べ、[]()には[]()の誤記が1ヵ所も無いことを証明した。
 したがって、「『三国志』魏書東夷伝末部の倭人伝」、つまり通称「『魏志倭人伝』」は卑弥呼が居住した王国名を「邪馬台国」と表記せず、「邪馬壱(やまい)国」と記していた。
 新井白石は最初「大和(やまと)」の「やま」の音が「邪馬(やま)」の音に合致することを根拠・理由にして、倭女王卑弥呼が居住した邪馬台国は大和であったと比定した。しかし、倭女王卑弥呼が居住した王国は山陰出雲であった。後に白石は「筑後山門郡(ちくごやまとぐん)」の郡名「山門」の「山(やま)」が「邪馬(やま)」の音と合致することを根拠・理由にして、筑後山門郡は邪馬台国であったと比定した。しかし、「邪馬」は「山」を意味するものでなく、「経度線と緯度線に対して邪(なな)めの馬(フタコブラクダ)の姿に相似する地宜」を意味するものであった。
 以上のごとく、九州説と畿内説は「邪馬」の2字に【倉頡が発明した漢字作成理論】が秘められている事実を知らない。そして、両説は『魏志倭人伝』と全く無関係な空理空論であることにも気づいていない。
 山陰・出雲の中心地域には「経度線と緯度線に対して邪(なな)めの、馬(フタコブラクダの姿)に相似する地宜」が存在し、[]の字源「十字の銀河の子宮」に相当する見立てられる地域も存在する。だから、卑弥呼が居住した「邪馬壱国は山陰・出雲であった」と矛盾点も不合理な点も無く【科学】が成立して立証される。
 次回は、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰・出雲であった」と説明していた【科学】が成立する明確な理由と根拠について解説する。

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2021年4月14日 (水)

四千年前に日本には漢字が伝来した

現代史学が力説する邪馬台国説は日本四千年の学問史を消滅させる誤読の空論であった

令和元年の大嘗祭は4000年の学問史を示す大祭であった。だから大嘗祭は宗教儀式ではない。

【日本四千年の学問史】大川誠一

ダウンロード - nihon_4000nen_no_gakumonshi.pdf (約2.03MB:無料版)

 

kindle版の『日本国誕生史の証明」と『大嘗祭の証明」を販売を開始しました。
各書はともに1000円。
いままで類をみない画期的で魅力のある著作物にしましたので、どうぞよろしくお願い申しげあげます。

 

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