邪馬台国説はサギ・騙されるな・9
▼前回のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の8回で詳細に証明したように――“日本古代史最大の秘密”の『魏志倭人伝』に記述された【歴史、史実】を解明するためには、必ず【[玄](天頂緯度線と子午線)のキャッチ(測量)】に則(のっと)って立論しなければならない。というのも、【[玄](天頂緯度線と子午線)の測量】に則らずに立論するすべての意見は、ただちに空理空論・絵空事(えそらごと)となってしまうからである。
ところが、江戸中期に生存した新井白石(1657ー1725年)は【[玄]のキャッチ】に則らず、最初に邪馬台国大和説を主張し、後に邪馬台国九州説をとなえた。だから、白石の【[玄]のキャッチ】に則らない邪馬台国説は空理空論であったとただちに断定しなければならない。
しかし、学界は「白石と同じ畿内(大和)説と九州説は空理空論である」とただちに断定せず、「諸説のなかで畿内(大和)説と九州説が最も正しい」と考えている。
【[玄]のキャッチ】に則らない全意見は空理空論である――この事実は、なんびとにも否定できない真実であり、たとえ学界にあっても否定することができない絶対的な真実である。というのも、【[玄]のキャッチ】に則らないすべての意見は【科学】がまったく成立しないが、一方、【[玄]のキャッチ】に則る意見は【科学】が成立することになるからである。
学界は「【[玄]のキャッチ】に則らない畿内説と九州説は【科学】がまったく成立しない空理空論である」ことに気づいていない。このため、白石以来約300年経過した現在においても、学者たちは『魏志倭人伝』を読解する際に【[玄]のキャッチ】に則らずに、【《天の北極》を重視する現在の日本地図】にもとづいて読解する。
現在、【[玄]のキャッチ】に則って『魏志倭人伝』を読解する学者は一人も存在しない。
★「倭人国の地理学」のトリセツ・18
◆今回から6回に分けて、多くの人々が最も興味を抱いた倭女王の卑弥呼が居住した王国の所在地を詳細にしかも【科学】が成立するように証明して――『魏志倭人伝』は【[玄]のキャッチ】に則って思考しなければならなかった正確無比の書物であったことを証明する。
◆上記したように、前回の「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の8回で詳細に解説して証明したように――もしも倭人国の使者と船乗りたちが【《天の北極》を重視して、天の北極の高度を緯度(位置)に換算する方法を羅針盤】にして〔中国や朝鮮半島に到着するために、玄界灘〕に入ったならば――必ず彼らは〔玄界灘〕を渡ることができず命を失った。したがって、中国では倭人国の様子をまったく知ることができなかったため、『魏志倭人伝』には文字が1字も書き記されていなかった白紙であった、つまり実際に著作されて実在した書物ではなかったことになる。このように、邪馬台国説だと『魏志倭人伝』には文字が1字も書かれていなかったことになり、要するに『魏志倭人伝』はこの世に存在しなかった書物であったことになるゆえ、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」や「卑弥呼」が記述されていたと論じること自体、空理空論・デタラメ・絵空事・詐偽(さぎ)となる。
魏王朝と帯方郡政庁が『魏志倭人伝』に記述された倭人国の情報を知るためには《倭の使者たちは必ず玄界灘を往来できた》という条件が絶対に必要となる。これゆえ、「【[玄]のキャッチ】をもって緯度を測定する方法を羅針盤とすれば、倭の使者たちは玄界灘を往来できた。しかし【天の北極の高度】を緯度に換算する方法を羅針盤とした航法では、倭の使者たちは往来できずに命を失った大海」であったゆえ、「玄界灘」と名づけられたのである。
ゆえに、約2000字で構成される『魏志倭人伝』が実際にこの世に実在する文献であったと証明するためには――(1)倭の使者たちと船乗りたちは〔中国の魏都・魏の出張機関の帯方郡政庁と倭地の九州の中間の大海・玄界灘を往来する時に1度の60分の1の1分以内の誤差内で精確に天頂緯度を測定(キャッチ)できた、つまり【[玄]をキャッチすること】ができた。だから、(2)倭人国と国交を結ぶことができた魏は倭人国の様子を知ることができたゆえ、『魏志倭人伝』はこの世に実在する書物であったことになる。
九州説と畿内説は【[玄]のキャッチ】に則る意見ではない。だから、九州説と畿内説の実体はまぎれもなく空理空論・デタラメ・空想・詐偽であったことになる。
以上のごとく、『魏志倭人伝』は【[玄]のキャッチ】に則ってのみ【科学】、つまり、『魏志倭人伝』はこの世に実在した書物であると証明される【科学】が成立して、【歴史、史実】を解明することができる書物であったことになる。
◆西暦280年~289年、晋(しん)につかえた歴史編纂官であった陳寿(ちんじゅ)は正史『三国志』を著作した。この「『三国志』魏書東夷伝末部の倭人伝」を、通称「『魏志倭人伝』」と呼称する。
明(みん)の建文(けんぶん)4年(1402)に朝鮮でつくられた「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)」という古地図がある。
この古地図における日本列島地図周辺の部分図を下に示した。
上記に示すように、「混一疆理歴代国都之図」に描かれた「日本列島地図」では「九州・山口県が〔北〕、近畿地方や東海・北陸地方は九州の〔南〕に配置されている。
これゆえ、幾人かの学者たちは――「混一疆理歴代国都之図」における日本列島地図が示すように、中国人は古くから倭国(日本)は南北に連なる島々の集まりと考えられていた。ゆえに、このような観念を抱いていた『魏志倭人伝』の著者(陳寿)は倭国の中心である邪馬台国への道程を南のほうに求めた――と指摘した。
しかし、「混一疆理歴代国都之図」における「日本列島地図」は『魏志倭人伝』が説明する日本列島地理を表示するものであったことになる。
その証拠に、『魏志倭人伝』には日本列島について「其の道里を計るに当(まさ)に会稽(かいけい)の東治の東に在るべし」と説明する記事が存在するからである。この「会稽の東治の東にある日本列島」を図示すると、下のごとくなる。
上の図が示すように、実際の列島図(実際の日本列島地図)は「会稽の東治の東北に在る」ゆえ、『魏志倭人伝』の記事に合致せず不合理・矛盾する。他方、転回列島像(「混一疆理歴代国都之図」における日本列島地図に合致する転回日本列島地図)は「会稽の東治の東に在る」ゆえ、『魏志倭人伝』の記事に合致して合理・矛盾しない。
だから、『魏志倭人伝』は――卑弥呼王朝は本州・日本列島地図を、【[玄]のキャッチの科学】にもとづいて、「混一疆理歴代国都之図」における「日本列島地図」と同様に、下の図のごとく制定していた――と伝えていたことになる。
というのも、『魏志倭人伝』の全記事を【[玄]のキャッチ】に則って思考すると、卑弥呼王朝は[倭]の字源にもとづいて「日本列島の〔東〕は〔南〕に転回する地理観」を制定していたという事実が【科学】が成立して証明されることになるからである。
言いかえると、「混一疆理歴代国都之図」における「転回日本列島地図」は「倭人国」の先頭字[倭]の字源・字形の原形・原義をあらわしていたことになる。
『魏志倭人伝』は「女王国の東、海を渡ること千余里にして復(ま)た国有り。皆(みな)倭種なり」と、倭女王・卑弥呼が居住した王国「邪馬壱国」について説明している。
上の図に示すように、【[玄]のキャッチ】に則る日本列島地図における転回方位規定では、日本海がある〔北〕が〔東〕となるゆえ、山陰地方の日本海には山口県萩市見島と島根県の隠岐群島が所在するが――後者の隠岐群島だけが「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り。皆倭種なり」という記事に合致する。
というのも、隠岐群島は島前(どうぜん/知夫里島・西ノ島・中ノ島)・島後(どうご)と約180の小島からなるため、この「多数の島々」は「皆」と呼ぶことになるからである。
だから、「皆が倭種となる隠岐群島」は転回日本列島地図においては「山陰・出雲の東、海を渡ること千余里の位置に有る」となるゆえ、「旧国・出雲(現在の島根県東部)」こそが「女王国・邪馬壱国」であったことになる。
◆「わが国が漢字を最初に習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という意見は、多数の学者たちが絶対に正しいと思い込む定説である。
この絶対的な定説も、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の8回で詳細に解説して証明したように、九州説と畿内説と同様に【科学】が成立しない空理空論であった。
「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀ではない」という定説が空理空論である事実を明確に科学的に証明する意見が存在する。この意見は――わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)の9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目において、「わが国の漢字音」と題して、下記のごとく指摘する。
「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
上記したように、音韻史研究によって「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」ということは、つまり「中国に現存する最古の漢字音よりも古い漢字音がわが国の国語として残っている」ということになる。
音韻史研究によって、中国において現存する最古の漢字音は、下に配した「漢字生長史」に示したように、紀元前1046年から始まる周代初頭の「上古音」である。
上の「漢字生長史」が明確に示すように、「わが国が漢字を最初に習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」と主張する定説の漢字音は、中国において現存する最古の上古音よりも約1500年も新しい漢字音となる。したがって、「わが国が漢字を最初に習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という定説は白川静著『字統』が「わが国の漢字音」にて指摘する音韻史研究成果に反する非科学的な意見、つまり空理空論であったことになる。
上の「漢字生長史」に表示したように、わが国は紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)に原初漢字・夏音文字を習得した。この夏音文字は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』に多数記載されて現存する。この秘密については、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の8回の後半部で詳細に解説し証明した。
『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残っているわが国の漢字音は、白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する、わが国後期縄文時代初頭に習得した夏音文字の漢字音であった。だからこそ、上の「漢字生長史」に表示したように、わが国が紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)に習得した原初漢字・夏音文字は、中国における現存する紀元前1046年の周代初頭の最古の上古音よりも約1000年も古い漢字音であった。したがって、「わが国は後期縄文時代初頭に夏音文字を習得した」という主張は、白川静著『字統』の「わが国の漢字音」における音韻史研究の成果に合致する科学的な意見となる。
以上のごとく、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定された絶対的定説は音韻史研究に反する【科学】が成立しない空理空論であった。
◆ゆえに上記したように、またわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の3回・4回でも詳細に解説して証明したように、わが国が最初に漢字を習得したのは紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)であった。
したがって、中国に現存する最古の漢字音「上古音」よりも約1000年前の紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の夏代初頭の夏音文字の漢字音が『魏志倭人伝』、『隋書』倭国伝、『古事記』上巻、『万葉集』に多数残っている。
そして、『魏志倭人伝』に記載された34ヵ国の小国名によって《わが国は後期縄文時代初頭に夏音文字の学芸を習得した史実》が【科学】が成立して証明される。
わが国は後期縄文時代初頭に【夏音文字の学芸】を習得していた。ゆえに、『魏志倭人伝』には「魏都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる楷書と、倭女王卑弥呼が文書に用いる文字は差錯(ささく/相違)していた」という記事がある。
また、『魏志倭人伝』には「倭人国の易に用いられる辞(ことばと文字)は、令亀(れいき)の法のごとく、つまり紀元前1300年頃から始まる殷代(いんだい)後半に亀の甲羅に刻んだ甲骨文字のごとくであった」と、「3世紀にすでに漢字が存在した」という記事も存在する。
上記した『魏志』倭人伝に記述された二つの記事は「わが国は後期縄文時代初頭に【夏音文字の学芸】を習得した」と端的に説明する記事であったのである。
「卑弥呼」の3字をわが国の国語として残った最古の漢字音・夏音文字の字音で読むと「ヒミコ」、中国に現存する最古の漢字音の上古音で読むと「ピミカ」となる。音韻学にもとづくと「ヒミコ」という字音のほうが「ピミカ」よりも古いことになる。だから、わが国が漢字を最初に習得したのは後期縄文時代初頭であるゆえ、「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という定説にもとづくと「卑弥呼」の3字は「ヒミコ」と読むことができない。
だから、「わが国が最初に中国の漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という定説はまぎれもなく空理空論であったのである。
◆わが国が後期縄文時代初頭に【夏音文字の学芸】を習得したとき――【倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】と、【正確な中国海岸地図と精密地図作製方法】をも習得した。この事実は『魏志』倭人伝に書き記された34ヵ国の小国記事によって【科学】が成立して解明され証明することができる。
漢字は紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡によって発明された。
五帝時代が終わると夏后(かこう)時代となった。“夏(か)の始祖”と呼ばれた帝王は禹(う)であった。帝禹の後を継いで帝となったのが、益(えき)帝であった。益氏は五帝時代の最後の舜(しゅん)帝の時代から200年間余も、代々「虞(ぐ)」という重職に就いて【正確な中国海岸線地図の作成事業】に従事した。このため、益氏は【五帝時代から夏代初頭まで約1000年間に及んで研究し進歩させ確立された精密地図作製方法】について精通していた。
この帝益の孫の王子と若者たち一行は、『日本書紀』巻第三の神武天皇紀初頭にある天祖(てんそ/名門益氏の孫の王子)説話が説明しているように――日本列島の男鹿半島・米代川(よねしろがわ)縄文文化圏に定住して【(1)倉頡が発明した漢字作成理論と(2)夏音文字の学芸と(3)正確な中国海岸線地図と(4)精密地図作製方法】を教え広めた。
この帝益の孫の王子(天祖)と若者たちが教えひろめた【(1)倉頡が発明した漢字作成理論と(2)夏音文字の学芸と(3)正確な中国海岸線地図と(4)精密地図作製方法】は、上記したように『魏志倭人伝』の対馬国から黒歯国まで34小国の記事となって説明されている。
前述したように、邪馬台国説は【[玄]のキャッチ】に則れば空理空論であると証明される。ゆえに、新井白石以後300年間にも及ぶ邪馬台国説は空理空論をもって、「日本人と日本国という人格の尊厳」を踏みにじる冤罪(えんざい)を犯していたことになる。
つまり、【[玄]のキャッチ】に則ればただちに空理空論であると断定できる邪馬台国説は、殺人を犯していない無実の人を終身刑にした冤罪事件に見立てて考えてみる必要がある。邪馬台国説学者たちは【誤読】を一ヵ所も必要でない正確無比の『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加えて冤罪、つまり事実に背くウソを捏造(ねつぞう)した。しかも、学界は邪馬台国説が捏造した冤罪に加担して事実・真実に目を背(そむ)けている。この冤罪は、新井白石以後300年も続く。「全記事が正確無比の『魏志倭人伝』」を「無実の一人の人間」と見立てると、邪馬台国説学者たちが『魏志倭人伝』へ加えた仕打ちは「まったく無実の人間を300年も牢獄に閉じ込める非業(ひごう)」を続けていることになる。ゆえに、この惨(むご)い冤罪を学界とメディアが、このまま無視・放置することは絶対に許されるはずがない。
「無実にもかかわらず、300年の終身刑を背負うことになった一人の人間」にあってさえ、その冤罪は無視・看過することができない。ゆえに、【新井白石以後300年間も日本人全員と日本国の尊厳を汚し続けた冤罪】は、学界もメディアも一刻も早く暴露しなければならない。九州説と畿内説は【日本人と日本国の尊厳】を徹底的に踏みにじっているゆえ、日本人にとって最悪・最大の災いである。
だから、この冤罪は、絶対に空理空論・デタラメ・詐偽であると暴く必要がある!
◆「銀河」の別称は「銀漢」であり、「銀漢から作られた字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と呼んだ。
倉頡は天文学において通称「夏の銀河」と呼ばれる「夏の全星座が漬(つ)かる巨大な銀河」から漢字を作る方法を発明した。「夏の銀河の各部の形状」から「文字(字源・字形・字義)」が作られたゆえ、わたくしは「夏の銀河」を「文字作成銀河」と呼ぶことにした。
下に、その各部の形状が原初漢字(つまり、五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の漢字)の字源・字形・字義となった「文字作成銀河」の写真を配した。
倉頡がつかえる黄帝は東洋最古の医学書『内径(ないけい)』を作ったと伝わる。黄帝は【女性の生殖器と子どもの出産】を研究した。このため、倉頡は「文字作成銀河(夏の銀河)」から黄帝の【女性の生殖器と子どもの出産】の医学研究をあらわす文字」を発明した。
わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・2回」にて指摘したように――倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝が容易に崩壊・滅亡すると心配して、下記に示す〔三つの「死刑」に処する掟〕を定めた。
▼倉頡が死刑と定めた三つの掟
【1】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」という事実を暴露した者とその一族全員に神罰を下して即刻に死刑にする。
【2】「多くの文字を容易に覚えるため、夏の銀河の各部に名称を付けた者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする。
【3】「書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員もまた死刑にする。
上記した【3】の掟のため――五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。〔注 実際は数点も発見・出土しているが、学者たちがこれらの資料を「文字」と認めないゆえ、いまだ一点も発見・出土しないことになっている〕。
しかし、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』等に楷書を音記号に用いて現存することになった夏音文字の字源・字形・字義は文字作成銀河の各部の形状であった。だから、夏音文字は現代の漢字と同じく【文字の四要素の《字源・字形・字義・字音》】から成る。
これゆえ、「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という定説は空理空論であったのである。
紀元前1300年頃から始まる殷代後半に出現した亀の甲羅に刻んだ契文(けいぶん)=甲骨文字は文字数が多数となったため、【3】の掟を毎度まもるのは非常に面倒になった。これゆえ、契文(甲骨文字)によって【3】の掟は破られた。ゆえに、契文以後の周代の金文・その後の大篆(だいてん)や小篆(しょうてん)や隷書(れいしょ)や楷書は【3】の掟を破っても良いことになった。
卑弥呼が最初に歴史上に登場したのは180年頃であった。当時は後漢時代末で原始的楷書が用いられていたゆえ、倭人国が有した五帝時代の書契(わが国では「刻木」といった)と夏代の夏音文字は楷書で表記されることになった。
中国において、契文が用いられた殷代後半以後、【倉頡が発明した漢字作成理論】は国家と王朝が独占管理して厳重に機密を保持し、また倉頡が定めた【1】と【2】の掟も国家と王朝によって厳重に守られた。
わが国においても、後期縄文時代初頭以後、【倉頡が死刑と定めた三つの掟】は厳重に守られた。
だから、『魏志倭人伝』は「倭の易に用いる辞は、甲骨文字(令亀の法)の辞のごとく」、また「卑弥呼が文書に用いる漢字と魏の都と帯方郡・諸韓国が文書に用いる漢字は相違していた」と明記しているにもかかわらず、九州説と畿内説をとなえる諸先生方は「わが国(倭人国)には原初漢字が存在した」という記事を徹底的に無視して、そんな記事が『魏志倭人伝』に存在することを厳重な機密にして口を「ぎゅー」かたく閉じて一言もしゃべらないことにしたのである。
現代の学者たちは『魏志倭人伝』に記述された「卑弥呼が文書に用いていた文字」は「銀漢から作られた字」を略して「漢字」と呼ばれることになったのではないかと、誰一人も想像しない。しかし、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は約1100字・約55パーセントの記事をもって「【銀漢から作られた文字】を略して【漢字】と名づけられた」と伝え、また【約5000年前に生存した倉頡が発明した漢字作成理論と約4000年前の夏音文字の学芸】について説明していたのである。
以上のごとく――新井白石(1657-1725年)以来約300年間、白石の邪馬台国説が空理空論であることに気づかず、そのまま受け継いだ粗雑な思考・論考によって、皇室によって「『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を伝える重大な書物」と定められていた権威が害(そこな)われることになったのである。というのも、学界では「倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)だ! 倉頡が漢字を発明した伝説は空想だ、絶対にありえない!」と断定することになったゆえ、『魏志倭人伝』によって倉頡が漢字を発明したことが科学的に事実であったと証明されるなんていう発想を、学者の誰一人も抱かない状況になったからである。
〔注 皇室が滅亡しなかった継続基盤は『魏志倭人伝』であった。言いかえると、皇室は『魏志倭人伝』が【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を伝える重大な書物であることを知っていたゆえ、この学問を権力基盤にして栄えて滅びなかった。ゆえに、白石が空理空論の邪馬台国説を立論したことを知ると、白石の死から13年後の1738年に戦国時代から220年間中断していた大嘗祭を復興して、大嘗祭で「『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】について記述する学問書である」と表示することにした。つまり、「大嘗祭」の「大嘗」は[倭]の字源・字形の原義・原義をあらわした。だから、令和元年の11月に行われた大嘗祭は「『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を説明する学問書である」と表示する大祭であったのである〕。
◆中国の五経の第一番目にあげられる古典『易経(えききょう)』繋辞下伝(けいじげでん)は【漢字の起源】について下記のごとく記述する。
「古者(いにしえ)包犠(ほうぎ)氏の天下に王たるや、仰いでは天象を観、俯(ふ)しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観る。近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る。ここにおいて始めて八卦(はっけ)を作り、もって神明の徳に通じ、もって万物の情に類して結縄(けつじょう)を作った」
また、この【漢字の起源記事】の直後に、『易経』繋辞下伝は、下記のごとく説明する。
「上古は結縄して治める。後世の聖人これに易(か)えるに書契をもってす。」
この【書契説明記事】における「結縄」は「紀元前4000年頃の三皇時代初頭に生存した包犧氏が考案した易卜に用いた記号の名称」である。また、「後世の聖人」は「【漢字作成理論「鳥獣の文」】を発明し、【万物の情(イメージ)に類する書契】を考案した倉頡」である。
したがって、上に示した『易経』繋辞下伝の【漢字の起源記事の冒頭と末部】は誤っている。というのも、三皇時代には易に用いる記号「結縄」を考案したが、黄帝の医学研究をあらわすことができる「万物の情に類する文字」は倉頡によって発明されたからである。
上に示した【漢字の起源記事】を「黄帝に仕えた史官の倉頡は、仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観る。(中略)。もって万物の情に類して書契を作った」と直すと正しくなる。
【漢字の起源記事】に登場する「天象」は「漢字が作られた、夏の銀河」を意味し、「地法」は「東から西へ運行する天象部(銀河部)に反して、中国の大地をけずって流れる代表的な黄河や長江の水は西から東へ去る(移動する)状況」を意味した。「鳥獣の文」は【倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわす名称であった(倉頡伝説では、「鳥獣の文」は「鳥獣の足跡」と名づけられた)。「地宜」は「平面的に図化した地図の形」を意味した。「八卦」は「易の判断の基礎となる八つの象(かたち)、すなわち、乾(けん)・兌(だ)・離(り)・震(しん)・巽(そん)・坎(かん)・艮(ごん)・坤(こん)の称」ではない。「八卦」は「東・西・南・北の四方位と、東北・西北・東南・西南の四方角、つまり八方位、八代(やしろ)、八隅(やすみ)」を意味する。
なお、上に示した【漢字の起源記事】に登場する「近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る」という文は、「【A】[玄]の観測者が見える地平線より内界の地域の方位の規定に対して、【B】[玄]の観測者が見える地平線より外界の遠く離れた地所の方位は90度転回して異なると定めた規定」をあらわした。
『魏志倭人伝』の記事で言いかえると、「近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る」という文は「【A】対馬国・瀚海(ゴビ砂漠)・一大国の水平線より内界となる近くの玄界灘における方位規定は現在の日本地図における方位規定と同じである。しかし、【B】対馬国・瀚海・一大国の水平線より外界となる遠くの九州末盧(まつろ)国から黒歯(こくし)国までの32ヵ国が存在する本州・日本列島地図の方位規定は、[倭]の字源・字形・字義に則って時計回りに90度転回する。つまり、〈現在の日本地図において、東海地方(愛知県・静岡県)は九州の〔東〕にある〉が、『魏志倭人伝』の記事では[倭]の字源にもとづいて《九州は「西→北」となって時計回りに90度方位が転回して〔北〕に所在し、東海地方は「東→南」となって時計回りに90度方位が転回して東海地方は九州の〔南〕に所在することになる》ということになった。
要するに、【A】「近くはこれを身に取り」という文は「対馬国と一大国の方位は現在の地図の方位と同じである」と意味した。けれども【B】「遠くはこれを物に取る」という文は「九州以下となる本州・日本列島地図の方位規定は〔混一疆理歴代国都之図〕における転回日本列島と同じ」と意味した。したがって、再度、下に示した転回日本列島地理にて示された方位規定が「遠くこれを物に取る」という文をあらわしていたことになる。
◆『魏志倭人伝』は「倭地には牛と馬が無い(生息していない)」と記述する。
[牛]の字源は「ジャコウウシ」であった。[馬]の字源は「フタコブラクダ」であった。
「ジャコウウシ」と「フタコブラクダ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
下の図に示したように、[牛]の「ジャコウウシ」は「第5週ごろの胎児の姿」に類似すると見立てられた。また、天敵のオオカミに襲われるとジャコウウシの群れは子どもを真ん中に隠し、円陣を組んで衛(まも)った。だから、「円陣の真ん中に隠すジャコウウシの子ども」は「子宮に宿る胎児」に見立てられ、「ジャコウウシの群れが組む円陣」は「女性の生殖器の大半を包囲して子宮に宿る胎児の命を衛る骨盤」に見立てられて、「ジャコウウシ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣と定められた。
ジャコウウシは有史以前には北半球の寒帯に生息していたが、紀元前3000年頃の黄帝時代になると、多くの地方で絶滅したとされる。黄帝時代、黄帝が居住地としたと推定される陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)の黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)周辺地域から北方の毛烏素(ムウス)沙漠は凍土・ツンドラ地帯と化していた。ゆえに、秋から冬になると百頭以上が一団となるジャコウウシの幾つかの群れが地平線かなたの毛烏素沙漠から南の黄帝の居住地近い餌場(えさば)を目指してあらわれた。その証拠に、司馬遷著『史記』五帝本紀には「師兵をもって営衛(えいえい)となす」という記事があり、この記事は「黄帝軍は駐屯するとき、兵たちは円陣を組んで自衛した」と意味した。黄帝軍は円陣を組むジャコウウシの習性から学んで円陣を組んで駐屯していたのである。
「ジャコウウシ」は[牛][丑][告][物][犠][牲][牝][牡][牟][牢][牧][特][牽][犇]などの[牛]の部首を有する文字の字源となり、また「円陣を組んで衛(まも)る習性」から「防衛」の[衛]の字源となり、あるいは「祭祀に用いる完全(最も理想的)な犠牲(いけにえ)」とされたうえに黄帝時代以後に中国から去って姿を消すと「たたり」を意味する[祟(すい)]あるいは[朮(じゅつ)]の字源・字義となった。さらに、医学用語の「子どもが生まれようとするときに妊婦の腹部を襲う猛烈な傷み」の「陣痛」も「円陣を組む習性のジャコウウシ」が語源となった。
『魏志倭人伝』に記載される「対馬国」「投馬国」「邪馬壱国」「斯馬国」「邪馬国」など[馬]の字が用いられる5か国の小国名に用いられる[馬]の字源・字形・字義は全部「フタコブラクダ」であった。わが国には、フタコブラクダは生息していなかったが、「フタコブラクダ」が字源・字形・字義となる[馬]の字がつく小国名が5ヵ国、しかも卑弥呼が居住した王国名は「邪馬壱国」である。だから、わが国には[馬]の字源・字形・字義を「フタコブラクダ」とする原初漢字・五帝時代の書契と夏代初頭の夏音文字が存在したことになる。
ゴビ沙漠に住む人々にとって、フタコブラクダは「沙漠の船」となって欠くことができない大切な家畜である。フタコブラクダは位置も方位も茫漠としたゴビ沙漠を往来しても道に迷わない。ゆえに、天頂緯度線をキャッチして位置と方位を測定して日々暮らしていた黄帝時代の人々は《フタコブラクダは精確に天頂緯度線をキャッチできる神秘的な眼力を有する》と憧れた。ゆえに、フタコブラクダは聖なる獣と尊重された。
下の図に示すように、「フタコブラクダの両目は顔の両端にある」と同様に「第7週頃の胎児の両目も顔の両端に離れている」。また、「フタコブラクダの睫毛(まつげ)は長い」と同様に「子ども(乳児)のつぶらな目の睫毛も長い」。
だから、「フタコブラクダ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
◆上記した【倉頡が死刑と定めた三つの掟】における【2】の掟「文字を容易に覚えるため、文字作成銀河の各部に名称を付けた者とその一族全員もまた即座に死刑にする」によって、今日においても文字作成銀河の各部をあらわす名称は存在しない。文字作成銀河の各部の名称が無いと、〔字源となる銀河=字形となる銀河=字義となる銀河〕の解説・証明において非常に不便となるゆえ、私は下記のごとく銀河各部の名称を定めた。
わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の2回で解説したように、「歳差(さいさ)」という天文現象を利用すると、黄帝と倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代初頭における中国全土の天頂にめぐってきた銀河を算出して再現することができる。
【漢字作成理論】を発明された五帝時代初頭、下に示すように、私が「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた銀河が中国全土の天頂にめぐってきた(「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は、上に示した「文字作成銀河各部の名称図」における左上にある)。
前述したように、倉頡が漢字を発明する目的は、黄帝がおこなった「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究をあらわすことができる文字を作成することであった。
下の図に示すように、黄帝時代の中国全土にめぐってきて、地上の人々が【[玄]=天頂緯度線と子午線をキャッチ】して精確に緯度を測定できる羅針盤となって最も大事な命をまもった「十字の銀河」の西側半分には、「乳房」「妊婦の腹部」「右足」に観える部分があり、また「子宮に相当する箇所」もある。
これゆえ、倉頡は「十字の銀河」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた全文字を生む母体」と定めた。また「十字の銀河の子宮」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた全文字が生まれる子宮、あるいは女性の骨盤と生殖器」に見立てると定めた。
そして、「十字の銀河」は[文]の字源・字形・字義となった。ゆえに、下の上図における[文]の金文形は「十字の銀河」を「子宮に胎児が宿る妊婦の正面形」に図案した。
倉頡は「十字の銀河」を「黄帝が居住した地から遠くの地域に群れるジャコウウシを狩猟した男たちが帰還する、家族が待つ家」に見立てた。ゆえに、上の下図に示した[字]の金文形における上部の[宀(べん)]は「家族が生活する家」をあらわし、その下部の[子]の字源は「鬼の姿に似る銀河」となった。というのも「鬼の姿に似る銀河」は「子の姿(胎児・出産児・新生児)」に相似すると見立てられたからである。したがって、「鬼の姿に似る銀河」は[子]の字源・字形・字義をあらわすことになった。
だから、「母親(妊婦)」に見立てられた「十字の銀河」から図案された[宀]の下に、「家で生まれて育つ子」に見立てられた「鬼の姿に似る銀河」から図案された[子]が加わって、[字]の字源・字形・字義が成立することになった。
上に配した[文]と[字]の字源銀河解説図は【黄帝の〔女性生殖器と子どもの出産〕の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成原理】をあらわすことになった。
◆[文]と[字]の字源銀河は、【黄帝の〔女性生殖器と子どもの出産〕の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成原理】をあらわした。
これゆえ、卑弥呼はわが国における最初の国家「倭人国」を創設し、わが国の最初の王朝を築くことができたのである。
というのも、下記に示す5つの条件・理由・事情によって、卑弥呼は「倭人国」における最高位の女王に選ばれたからである。
▼卑弥呼が国家と王朝を創設することができた5つの理由・根拠
【1】【倉頡が漢字を発明した目的】と【倉頡が発明した漢字作成原理】は女性たちが最も関心を抱く【女性の生殖器と子どもの出産の知識】であった。ゆえに、巫女(みこ)たちは黄帝が研究した産婦人科の知識【女性の生殖器と子どもの出産の知識】に精通することになった。
【2】『魏志倭人伝』には「倭における易卜の辞は令亀(れいき)の法のごとく、つまり契文(甲骨文字)のごとくであった。また、『易経』繋辞下伝にある〔漢字の起源記事〕は「仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観る云々」と記述するゆえ、易卜の職に従事した巫女たちは「天象、つまり字源・字形・字義となった文字作成銀河の各部の形状知識」に精通した。また、正しく吉凶を占うために努力した巫女たちは、「地法、つまり銀河各部の東から西へ移動する運行の逆向きとなる、中国の大地をけずって水が西から東へ移動する黄河と長江の知識」を有し、「鳥獣の文、つまり【倉頡が発明した漢字作成理論】に精通し、「地宜、倭国の各地域の平面的に図化した地図の形」も知っていた。
【3】『魏志倭人伝』の末部にある「卑弥呼の宗女の壱与(いよ)」という記事が示唆(しさ)するように、卑弥呼は「宗女、つまり巫女界を束ねる王(カリスマ・教祖)」であった。
【4】『魏志倭人伝』が「その国、本亦(もとまた)男子を以て王と為す。住(とど)まること七、八十年にして倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)して年を歴(ふ)」と伝えるように、西暦170~180年ころの倭国は各地の戦争で大乱していた。この戦争において、霊感鋭敏で頭脳が優秀な巫女が敵の戦力の呪力(じゅりょく)を奪う魔女(占い師)となり、戦いの先頭に立って自国の兵士たちを奮(ふる)いたたせる役目を有していた。この魔女たちをたばねるカリスマが卑弥呼であったのである。
【5】これゆえ、倭国の国中における自国の地宜を知っている魔女はじめ巫女たちから、
卑弥呼は倭国各地の地宜を手に入れることができた。これゆえ、〔対馬国・瀚海(かんかい)・一大国の地宜〕を利用して倭の大乱を鎮めた巫女王(ふじょおう)の卑弥呼は倭女王に選ばれた。卑弥呼は〔34ヵ国の小国の名称と地宜〕をもって【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の文(鳥獣の足跡)」】を表示し、王朝の政権基盤を【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の文(鳥獣の足跡)」】と定めて倭人国を統治した。
◆『魏志倭人伝』は「対馬国の南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰(い)う。一大国に至る」と説明する。
この記事が示すように、卑弥呼は「対馬国(現在の長崎県北部の朝鮮半島と九州本土の中間にある島)と一大国(現在の長崎県北部の壱岐島)の中間の海」を「瀚海」と名づけた。
「瀚海」は、中国北部・モンゴルより南方にある[馬]の字源「フタコブラクダ」が生息する「ゴビ沙漠」を意味する。[馬]の字源「フタコブラクダ」は「瀚海・ゴビ沙漠」の住む人々にとって欠くことができないたいせつな家畜である。つまり、「フタコブラクダ」はゴビ沙漠おいて海に浮かぶ「船」と呼ばれていたゆえ、「ゴビ沙漠」は「瀚海」と名づけれた「海」であったのである。
卑弥呼は「現在の対馬と壱岐島の中間の東水道」を「瀚海」(ゴビ砂漠)と名づけて、【実った小麦を収穫する秋になると、毛烏素(ムウス)沙漠がある北方のかなたの地平線から1組百頭以上のジャコウウシが犇(ひし)めいて一団となる、その幾組の群れが黄帝の居住地近くにある餌場へ目指して出現した壮大な光景】を甦(よみがえ)らせた。
卑弥呼が「対馬国と一大国の中間の海」を「瀚海」と名付けた事情は、夏音文字を習得した後期縄文時代初頭から晩期縄文時代初頭まで約1000年間も続いた日照りと冷害の大災害による【鬼神(きじん)の厳しい刑罰】と【倉頡が死刑と定めた三つの掟】は同一であると認識させて、上記した【倉頡が死刑と定めた三つの掟】を厳重に守らせるための工夫(くふう・アイディア)であった。この秘密については、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の6回で詳細に解説して証明した。
前述したように、卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤として、倭人国と王朝を創設した。だから、反体制側の人々が【漢字は銀河から作られた学芸】を巧妙に利用する牽強付会(けんきょうふかい/こじつけ)や捏造(ねつぞう)による革命の決行を断念させるために、【倉頡が死刑と定めた三つの掟】を「瀚海」で表象して刑罰が厳重な国法(倭人国の憲法)を表示して、王朝と国家の崩壊・滅亡を食い止める必要があったのである。
◆下に示すように、「黄色く輝く、三つ輪の銀河」は「月の光が照らして黄色く輝くゴビ沙漠」のイメージとなる。「三つ輪の銀河」に隣接する「黄色く輝く、十字の銀河」も「月の光にきらめく沙漠の沙(すな)」のイメージとなる。ゆえに、「十字の銀河」は「ゴビ沙漠に棲むフタコブラクダ」に見立てられた。
よって、下の図に示すように、「三つ輪の銀河」は「沙漠」に見立てられ、「十字の銀河」は「フタコブラクダの側身形」に見立てられて[馬]の字源・字形・字義となり「フタコブラクダ」をあらわした。
下の図に示すように、「対馬の上県(かみあがた)の地宜」は「フタコブラクダの正面形」に類似すると見立てられた。というのも、前にて図示した「胎児の顔の両目はフタコブラクダの両目と同じく顔の両端にある」。ゆえに、この点からして「上県の地宜はフタコブラクダの正面形」と見立てられることになった。
上の図に示すように、「対馬の下県(しもあがた)の地宜」は「沙漠を歩くのに都合(つごう)のよい、丈夫な足の指を有するフタコブラクダの足底や足跡の形」と見立てられた。「下県の地宜」は「東北の上県に目指して去ったフタコブラクダの足跡の形」である。「上県の地宜」に見立てられた「フタコブラクダの顔」は〔東〕に向く。同様に[馬]の字源「十字の銀」のおけるフタコブラクダの顔」も〔東〕に向く〔注 地宜においては「右・東(つまり、右側が東)」となり、天象・銀河図においては「つまり、左・東(左側が東)」となる〕。
ゆえに、「上県の地宜は、下県がある西南へフタコブラクダが進む正面形」に見立てられ、「下県の地宜は、上県がある東北へ去ったフタコブラクダの足跡の形」に見立てられた。
だから、「上県・下県の地宜」は「つまりフタコブラクダの姿と足跡の形が一対となる」ゆえ、「上県・下県」の小国名は「一対」の[対]に[馬]が加わる「対馬」となった。
下に示した「一大国・壱岐の地宜」は、前述した「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理における〔東〕を〔南〕へ時計回りに転回する[倭]の字源・字義をあらわす方位規定」に則(のっと)る地図の形である。
〔東〕が〔南〕と化(な)る転回方位規定に則る「一大国北端(上部)の地宜」は「毛烏素(ムウス)沙漠はるか遠くの瀚海の東西を往来するフタコブラクダの姿」に相似すると見立てられた。ゆえに、「一大国の大半を占める、ジャコウウシの姿」は「春から夏にかけて、黄帝の居住地近くの餌場から次第に北方の毛烏素沙漠へ向かって去ってゆくジャコウウシの群れ」に見立てられたことになる。
下に、「現在の地図と同じ方位規定における一大国の地宜」を示した。この現在方位にもとづく「一大国の地宜」だと「ジャコウウシの顔は南に向いている」ゆえ、「南へと前進するジャコウウシの大群」に見立てることができる。
したがって、この「一大国の地宜」は「穀物の収穫期の秋になると、フタコブラクダが棲む瀚海・ゴビ沙漠ある北方から南の毛烏素沙漠へと進み、凍土・ツンドラ地帯と化した毛烏素沙漠を縦断して到着した、黄帝が住む居住地からはるかに遠くの地平線上に出現したジャコウウシの大群」に見立てられたことになる。
したがって、卑弥呼は「冬になると季節風で海が荒れる玄界灘」を「乾燥した寒風が荒れ狂う吹雪の中をジャコウウシの大群が突きすすんで到着する、風で雪が吹きとばされた地表の露出した餌場・摂食地(せっしょくち)がある一帯地域」と見立てたことになる。
◆下の図に示すように、「一大国の壱岐の地宜」は「十字の銀河の子宮」に見立てられた。
2世紀初頭に成立した“字書の聖典”と古代の人々が尊重した『説文解字』は[天]の字源を「至高(しこう)にして上なし。一大に従ふ」と解説する。このように、『説文解字』は、下に示した[天]の字源解説図における「十字の銀河の子宮」を「一大に従ふ」と表現した。
上の「一大国・壱岐」の解説図に示したように、卑弥呼は「壱岐の地宜」を「十字の銀河の子宮」に類似すると見立てたゆえ、小国名を「一大国」と定めた。つまり、「十字の銀河の子宮」は[壱・一]の字源・字形・字義であった。ゆえに、「一大国」は後世、[壱]の字がつく「壱岐」と名づけられることになった。
倉頡が発明した漢字作成理論の「鳥獣の足跡」の語源は「一大国」の「一大」つまり、上にて説明した[天]の字源における「十字の銀河の子宮」の「至高にして上なし。一大に従ふ」の「一大」である。ゆえに、「鳥獣の足跡」と「一大」の語源と[壱]の字源は「十字の銀河の子宮」であった。
卑弥呼は「壱岐の地宜」を「十字の銀河の子宮・一大」に見立てれば、玄界灘南方の九州北部の沿岸に所在する「末盧・伊都・奴・不弥」の四小国の地宜にもとづいて考えた小国名に用いられる文字はすべて「十字の銀河の子宮・壱岐島の地宜から生まれる」とあらわすことができる。だから、「壱岐島」は「一大国」と名づけられ、一大国は【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」】をあらわすことになった。
◆下に「対馬国・瀚海・一大国の地図」を示した。
上の地図が示すように、「対馬国の中心軸」は「経度線と緯度線に対して邪(なな)め」となるゆえ、[邪]の字義「ななめ」をあらわした。また、前述したように、「対馬国の地宜」は[馬]の字源「フタコブラクダ」に相似すると見立てられた。
したがって、「対馬国」は[邪]と[馬]の2字をあらわすことになった。
前述したように「一大国」は[壱]の字をあらわした。
卑弥呼は「対馬国と一大国の地宜」で「邪馬壱(やまい)」と表示し、そして卑弥呼は「邪馬壱」の3字の地宜がある山陰・出雲(現在の島根県東部)に居住することにしたのである。
先年に死去した古代史研究家の古田武彦氏は陳寿が著作した『三国志』全体に記載された[壹](壱)86個、[臺](台)56個の文字を逐一調べ、[壹](壱)には[臺](台)の誤記が1ヵ所も無いことを証明した。
したがって、「『三国志』魏書東夷伝末部の倭人伝」、つまり通称「『魏志倭人伝』」は卑弥呼が居住した王国名を「邪馬台国」と表記せず、「邪馬壱(やまい)国」と記していた。
新井白石は最初「大和(やまと)」の「やま」の音が「邪馬(やま)」の音に合致することを根拠・理由にして、倭女王卑弥呼が居住した邪馬台国は大和であったと比定した。しかし、倭女王卑弥呼が居住した王国は山陰出雲であった。後に白石は「筑後山門郡(ちくごやまとぐん)」の郡名「山門」の「山(やま)」が「邪馬(やま)」の音と合致することを根拠・理由にして、筑後山門郡は邪馬台国であったと比定した。しかし、「邪馬」は「山」を意味するものでなく、「経度線と緯度線に対して邪(なな)めの馬(フタコブラクダ)の姿に相似する地宜」を意味するものであった。
以上のごとく、九州説と畿内説は「邪馬」の2字に【倉頡が発明した漢字作成理論】が秘められている事実を知らない。そして、両説は『魏志倭人伝』と全く無関係な空理空論であることにも気づいていない。
山陰・出雲の中心地域には「経度線と緯度線に対して邪(なな)めの、馬(フタコブラクダの姿)に相似する地宜」が存在し、[壱]の字源「十字の銀河の子宮」に相当する見立てられる地域も存在する。だから、卑弥呼が居住した「邪馬壱国は山陰・出雲であった」と矛盾点も不合理な点も無く【科学】が成立して立証される。
次回は、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰・出雲であった」と説明していた【科学】が成立する明確な理由と根拠について解説する。
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