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2021年4月21日 (水)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・13

▼『魏志倭人伝』は“日本古代史最大の秘密”を伝える。
 この『魏志倭人伝』を読解して「倭女王・卑弥呼が居住した邪馬台国は吉野ケ里遺跡がある九州、もしくは纏向(まきむく)遺跡がある畿内・大和に所在したと説明している」と主張する――この両説を、学界はじめメディアは諸々の説にあって最も正しい意見であると思い込む。
 しかし、九州説と畿内説は、完全なる空理空論・デタラメ・インチキ・詐偽(さぎ)である。
 というのも、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は約55パーセント・約1100字の記事をもって「紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、名門益(えき)氏の王子と若者たちが中国から大海・玄界灘を横断してわが国の東北地方に定住して、原初漢字・夏音(かおん)文字の学芸を東北地方から関東地方までの東日本一帯に広めた。この夏音文字の学芸を習得したとき、約1000年前の紀元前3000年頃の中国の五帝時代初頭に生存した倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論をも習得した」と伝えているからである。
 九州説と畿内説によって、上記した【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸を習得した歴史】がことごとく不明となった。
 九州説と畿内説は〈『魏志倭人伝』を「邪馬台国の所在地」を定めるための書物〉と主張するが――『魏志倭人伝』は「倭女王が居住した王国は邪馬壱(やまい)国である。邪馬壱国は山陰・出雲、現在の島根県東部であった」と記述している。
 だから、九州説と畿内説は疑う余地もなくの空理空論・デタラメ・インチキ・詐偽(さぎ)・絵空事であった。
 つまり、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える学問書にして歴史書であり、要するに「中国における【学問】は紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝・倉頡時代から始まり、わが日本国における【学問】は紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭から始まる」と伝える書物であった。


★「倭人国の地理学」のトリセツ・22

◆今回と次回(14)において、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の1回から12回までにおいて詳細に証明した――『魏志倭人伝』は「倭女王の卑弥呼は邪馬壱国・出雲に居住し、【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】」を伝えていた書物であった――という証明を一旦まとめることにした。

◆現在、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という意見は絶対的に否定することができない定説となる。しかし、この【漢字習得の定説】の実体は、空理空論であった。
 というのも、『魏志倭人伝』には(1)「倭人国の易に用いられる辞(ことばと文字)は、令亀(れいき)の法のごとく、つまり紀元前1300年頃から始まる殷代(いんだい)後半に亀の甲羅に刻んだ甲骨文字のごとくであった」という記事があり、また(2)「魏都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる楷書と、倭女王卑弥呼が文書に用いる文字は差錯(ささく/相違)していた」という、二つの記事が存在するからである。
 卑弥呼が文書に用いた文字は夏代初頭(後期縄文時代初頭)に習得した夏音文字であった。その証拠に、「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読む字音は「夏音文字の字音」である。「卑弥呼」を、中国に現存する最古の上古音で読むと「ピミカ」となる。下記にて説明する音韻史研究にもとづくと「ヒミコ」という字音のほうが「ピミカ」よりも古い。だから、「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という、定説は空理空論・虚偽説であったことになる。
 その証拠に、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目において、「わが国の漢字音」と題して、次のごとく指摘している。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 音韻史研究によって、中国において現存する最古の漢字音は、下に配した「漢字生長史」に示したように、紀元前1046年から始まる周代初頭の「上古音」と解明されている。
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 上の「漢字生長史」が明確に示すように、「わが国が漢字を最初に習得したのは、5世紀または6世紀である」と主張する定説の漢字音は、中国において現存する最古の上古音よりも約1500年も新しいことになる。だから、「わが国が漢字を最初に習得したのは、5世紀または6世紀である」という定説は上記した音韻史研究成果に反する空理空論であった。
 白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する字音は、わが国が後期縄文時代初頭に習得した夏音文字の漢字音である。この夏音文字の字音は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残っている。
 だから、学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する絶対的定説の実体は【科学】が成立しない空理空論・虚偽説であったのである。

◆「銀河」の別称は「銀漢」であり、「銀漢から作られた字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と呼んだ。
 倉頡は天文学において通称「夏の銀河」と呼ばれる「夏の星座が漬()かる巨大な銀河」から漢字を作る方法を発明した。「夏の銀河の各部の形状」から「文字」が作られたゆえ、私は「夏の銀河」を「文字作成銀河」と呼ぶことにした。
 「文字作成銀河」の写真は、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の前回(12)に掲載したゆえ、今回は省略することにした。
 倉頡がつかえた黄帝は東洋最古の医学書『内径(ないけい)』を作ったと伝わる。黄帝は【女性の生殖器と子どもの出産】を研究した。このため、倉頡は「文字作成銀河(夏の銀河)」から「黄帝の【女性の生殖器と子どもの出産】の医学研究をあらわす文字」を発明した。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・2回」にて指摘したように――倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝が容易に崩壊・滅亡すると心配して、下記に示す〔三つの「死刑」に処する掟〕を定めた。
▼倉頡が死刑と定めた三つの掟
1】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」という事実を暴露した者とその一族全員に神罰を下して即刻に死刑にする。
2】「多くの文字を容易に覚えるため、夏の銀河の各部に名称を付けた者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする。
3】「書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員もまた死刑にする。

◆上記した【3】の掟のため――五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。
 しかし、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』等に楷書を音記号として現存する夏音文字の字源・字形・字義は文字作成銀河の各部の形状であった。
 つまり、『魏志倭人伝』は「夏音文字の《字源・字形・字義》は〈文字作成銀河の各部の形状〉であり、夏音文字の《字音》は〔楷書〕を音符に用いる。したがって、夏音文字は《字源・字形・字義・字音》の四要素から成る」と伝える学問書であったのである。だから、夏音文字は現在の当用漢字と同じく【文字の四要素の《字源・字形・字義・字音》】から成る。
 紀元前1300年頃から始まる殷代後半に出現した亀の甲羅に刻んだ契文(けいぶん)=甲骨文字は文字数が多数となったため、【3】の掟を毎度まもるのは非常に面倒になった。これゆえ、契文(甲骨文字)によって【3】の掟は破られた。ゆえに、契文以後の周代の金文・その後の大篆や小篆や隷書や楷書は【3】の掟を破っても良いことになった。
 卑弥呼が最初に歴史上に登場したのは180年頃であった。当時は後漢時代末で原始的楷書が用いられていたゆえ、倭人国が有した五帝時代の書契と夏代の夏音文字は楷書で表記されることになった。
 中国において、契文が用いられた殷代後半以後、【倉頡が発明した漢字作成理論】は国家と王朝が独占管理して厳重に機密を保持し、また倉頡が定めた【1】と【2】の掟も国家と王朝によって厳重に守られた。
 わが国では、後期縄文時代初頭以後、【倉頡が死刑と定めた3つの掟】は厳重に守った。
 だから、上記したように、『魏志倭人伝』には(1)「倭の易に用いる辞は、甲骨文字(令亀の法)の辞のごとく」、また(2)「卑弥呼が文書に用いる漢字と魏の都と帯方郡・諸韓国が文書に用いる漢字は相違していた」と、「わが国は原初漢字を習得した」と明記する二つの記事が存在するにもかかわらず、九州説と畿内説をとなえる先生方は「わが国には原初漢字が存在した」という記事を徹底的に無視して、そんな記事が『魏志倭人伝』に存在することを厳重な機密にして口を「ぎゅー」かたく閉じて一言もしゃべらないことにしたのである。
 しかし、『魏志倭人伝』は「わが国は【約5000年前に生存した倉頡が発明した漢字作成理論と約4000年前の夏音文字の学芸】を習得した」と伝える歴史書にして学問書であった。
 上記した【倉頡が死刑と定めた3つの掟】における【2】の掟「文字を容易に覚えるため、文字作成銀河の各部に名称を付けた者とその一族全員もまた即座に死刑にする」によって、今日においても文字作成銀河の各部をあらわす名称は存在しない。文字作成銀河の各部の名称が存在しないと、〔字源となる銀河=字形となる銀河=字義となる銀河〕の解説・証明において非常に不便となるゆえ、私は下記のごとく文字作成銀河の各部の名称を定めた。
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◆九州説と畿内説は【天の北極がある方向を〔北〕と定める単一方位規定の現在の日本地図と同じ日本列島地図】にもとづいて、『魏志倭人伝』を読解する。しかし、『魏志倭人伝』は「卑弥呼王朝は【倉頡が発明した漢字作成理論】によって確立された〔二種の方位規定〕で日本列島地理を定めた」と説明していた。これが原因で、九州説と畿内説はいっこうに【科学】が成立しない空理空論となった。
 上記したように、現在の地理学では【天の北極がある方向を〔北〕と定める単一方位規定】をもって定められている。
 しかし、倉頡は【〔1〕黄帝が居住した土地()における地平線以内(内界)の緯度線(東西線)と、〔2〕地平線より外(外界)では(1)「時計回りに方位規定は90度転回して緯度線(東西線)は経度線(南北線)と化()る」と定理して[()]の字を創り、さらに(2)「反時計回りに方位規定は90度転回して緯度線(東西線)は経度線(南北線)と化る」と定理して[]の字を創って――この【[][]の二種の方位規定が共立する地理論】を確立させた。
 ゆえに、『魏志倭人伝』の冒頭の「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」という文は「対馬国と一大国の水平線(地平線)より外界となる遠く離れた、本州・日本列島地理における方位規定は、倉頡が創った[]の字源・字形の原形・原義をそのまま受け継いだ[]の字源・字形の原形・原義に則(のっと)って時計回りに90度転回する」と説明していたことになる。
 だから、『魏志倭人伝』は冒頭早々に登場する[]の字源にもとづき「本州・日本列島地理の方位規定は、時計回りに90度ずつ転回して、北→東・東→南・南→西・西→北となる」と説明していたことになる。つまり、『魏志倭人伝』は「本州・日本列島の〈北方〉にある島根県は〔東〕に位置し、九州の〈東方〉の東海地方(愛知県・静岡県)は九州の〔南〕に位置し、本州・日本列島の〈南〉に所在する高知県は〔西〕となり、本州・日本列島の〈西端〉にある九州は〔北〕となる」と説明するものであった。
 だから、『魏志倭人伝』が説明する本州・日本列島地理の方位規定は、[]の字源をあらわして現在の日本地図の方位規定と同じではない。
 したがって、『魏志倭人伝』は今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代に生存した倉頡によって確立された地理論の秘密を解明しなければならない学問書であった。

◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の2回で解説したように、「歳差(さいさ)」という天文現象を利用すると、黄帝と倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代初頭における中国全土の天頂にめぐってきた銀河を算出して再現することができる。
 【漢字作成理論】が発明された五帝時代初頭、下に示すように、私が「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた銀河が中国全土の天頂にめぐってきた。この「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は、中国各地の人々が天頂緯度軸線と子午線をキャッチすると精確に緯度と方角が測定できる、最も大事な命をまもることができる羅針盤となった。
 〔注 「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は、上に示した「文字作成銀河各部の名称図」における左上にある)
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 倉頡が漢字を発明する目的は【黄帝がおこなった「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究】をあらわすことができる文字を作成することであった。
 下の図に示すように、黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」の西側半分には、「乳房」「妊婦の腹部」「右足」に観える部分があり、また「子宮に相当する箇所」もある。ゆえに、「十字の銀河」は「女体・妊婦・乙女」などに見立てられた。
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 倉頡は「十字の銀河」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた全文字が生まれる母体」と定めた。また「十字の銀河の子宮」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた全文字が生まれる子宮、あるいは女性の骨盤と生殖器」に見立てると定めた。
 そして、「十字の銀河」は[]の字源・字形・字義となった。ゆえに、下の上図における[]の金文形は「十字の銀河」を「子宮に胎児が宿る妊婦の正面形」に図案した。
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 倉頡は「十字の銀河」を「黄帝が居住した地から遠くの地域に群れるジャコウウシを狩猟した男たちが帰還する、家族が待つ家」に見立てた。ゆえに、上の下図に示した[]の金文形における上部の[(べん)]は「家族が生活する家」をあらわし、その下部の[]の字源は「鬼の姿に似る銀河」となった。というのも「鬼の姿に似る銀河」は「子の姿(胎児・出産児・新生児)」に相似すると見立てられたからである。
 これゆえ、「母親・妊婦」に見立てられた「十字の銀河」から図案された[]の下に、「家で生まれて育つ子」に見立てられた「鬼の姿に似る銀河」から図案された[]が加わって、[]の字源・字形・字義が成立することになった。
 上に示した「[][]の字源銀河解説図」は【黄帝の〔女性生殖器と子どもの出産〕の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成原理】をあらわした。

◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の前々回(11)末部にて詳細に解説したように――[]の字源となった「鬼の姿に似る銀河」には、卑弥呼が「邪馬壱」と名づけた銀河部がある。
 つまり、「鬼の横顔に似る銀河の後頭部とアゴにつく両目から、人の横顔に酷似する銀河の前頭部まで」の、太線で表示した箇所が〔「邪馬壱」の銀河〕となる。
 「邪馬壱」の[]は「女性生殖器における骨盤入口や産道」である。ゆえに、下の図における「太線の図書(ずしょ)」は「邪馬」をあらわす。「邪馬の図書」と重なる箇所が[]、つまり「産道における出産児の状況」をあらわすゆえ、〔「邪馬壱」の銀河〕は〔産道を通過する児の頭蓋骨の「広形機能(こうけいきのう)」または「骨重積(こつじゅうせき)」と産婦人科で呼ばれている機能〕をあらわした。
 注目すべきは、《黄帝時代の黄帝陵における天頂緯度線(北緯3536)》が【「邪馬壱」の銀河の北部】を撫()でるがごとく貫通していることである。
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 下に、「小児(出産間もない児童)の頭蓋骨の大泉門(だいせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・小泉門(しょうせんもん)の図」を配した。小児の頭の骨の縫合は未完成で、骨どうしの間は〔結合組織性の膜〕になっている。このうち、矢状縫合の前方と後方は膜性の部分が大きく、前方は「大泉門」、後方は「小泉門」という名称で呼ばれる。
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 上に図示した〔この世に誕生したばかりの小児の大泉門の形〕は「細い十字形」であるが、小児より以前の〔産道を通過する時の出産児の頭蓋骨の大泉門の形〕は異なる。
 下に図示したように〔産道を通過する時の出産児の頭蓋骨の大泉門の形〕は「菱形に大きな形」となって「広形(こうけい)」となる。
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 「出産児の頭蓋骨」における「小泉門・矢状縫合・大泉門の形」は、上に示した〔「邪馬壱」の銀河図〕における「邪馬」の形状をあらわし、また前述したように「産道」は[]をあらわす。ゆえに、「出産児の頭蓋骨における、小泉門・矢状縫合・大泉門の形」を、卑弥呼は「邪馬壱」と呼称したのである。

◆上の図に示したように、「出産児の頭蓋骨」は「縦長(たてなが)」である。
 下に、「縦長の出産児の頭がくぐり抜ける、横長(よこなが)の楕円形の女性の骨盤入口」の図を示した。
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 出産児の頭が誕生する娩出期(べんしゅつき)終わりまでの児頭の回旋の様子について、インターネット・ブログにおいて医療法人翔光会の産婦人科にしじまクリニック(埼玉県富士見市)は「赤ちゃんの進み方、回旋(かいせん)を知る」と題して、下記のごとく説明する。この説明を要約し、この要約に〔出産第一期の開口期(かいこうき)と出産第二期・娩出期(べんしゅつき)〕という注を加えると、次のようになる。
 ――骨盤の入口は横長の楕円形に対して、からだの中でいちばん大きな赤ちゃんの頭(児頭)の形は縦長であるゆえ、児頭が骨盤入口をくぐり抜けるためには、骨盤入口では児頭は横向きで入る。しかも入口部は骨盤内でいちばん狭い空間であるので、通常(正常分娩の場合には)赤ちゃんはアゴを胸につけた姿勢となり、児頭は屈曲して後頭部の小泉門が先進して時計回りに90度回旋する。これを、「第1回旋」と呼ぶ。
 骨盤出口面は縦長であるゆえ、赤ちゃんは横向きから次第に正面・縦向きへ方向を変えながら、下降する。この過程を、「第2回旋」という。ちなみに、第1回旋(横向き)から第2回旋(縦向き)へ回る角度は90度であり、第1回旋と逆向きの反時計回り(逆時計回り)である。第1回旋から第2回旋の時の子宮口は大体7センチである。第2回旋が終了した時点で後頭部(小泉門)は恥骨側・12時方向の位置となり児頭の正面・縦向きが整う。この時、子宮口はすでにすっかり開く全開大(ぜんかいだい/10センチ)となり、出産第一期・開口期の終わりとなり、いよいよお産となる。
 第3回旋は反時計回り(逆時計回り)になって児を娩出(べんしゅつ)するもので、この場合児は反屈して恥骨をくぐり抜けるように児頭が産道()から娩出する。
 最後の第4回旋は第1回旋と同じく児頭は時計回りに90度回旋して、頭が誕生した児はすぐに呼吸をはじめて声をあげる。この頭の誕生が出産第二期・娩出期の終りとなる。

◆「出産児が縦長の頭蓋骨を母体の横長の骨盤入口に合わせて横向きにする第1回旋回からはじまる4度の回旋のドラマ」は〔生命の神秘をあらわして、泣きたくなるほどに最高に感動的なシーン〕である。この光景は分娩室に入って立ち会った妊婦の夫が目撃でき、〔泣きたくなるほど最高に感激するシーン〕であると言われている。
 現在では学者たちやメデイアが「生命」について考える問題として重視しないためにほとんど話題にならない――【産道を通過する出産児の「広形機能(骨重積)」の仕組みの、泣きたくなるほど最高に感動するシーン】が、倉頡が生存した紀元前3000年頃や卑弥呼が生存した3世紀においては、【深遠な最も重大な真理】をあらわす学問の核心であった。したがって、『魏志倭人伝』は【上古の学問の核心・邪馬壱】言いかえると【出産期の児頭の広形機能と4回の回旋】にもとづいて思考・立論しなければならない学問書であったのである。
 再度くりかえす、『魏志倭人伝』は「【母体の骨盤入口のくぐり抜けから始まる、出産児の頭蓋骨の仕組みと4回の回旋からなる誕生するドラマ】が【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究の核心】であり、【倉頡が発明した漢字作成理論の核心】である」と伝える学問書であった。
 この【邪馬壱の語源「泣きたくなるほど感激する開口期と娩出期のハイライトシーンを核心」とする文字(漢字)を創(つく)る】ため――倉頡は「ジャコウウシ」を[]の字源・字形・字義とし、「フタコブラクダ」を[]の字源・字形・字義と定めた。
 だから、『魏志倭人伝』にある「倭地には牛と馬は生息しない」という記事がある。
 下の図に示したように、[]の「ジャコウウシ」は「第5週ごろの胎児の姿」に類似すると見立てられた。また、天敵のオオカミに襲われるとジャコウウシの群れは子どもを真ん中に隠し、円陣を組んで衛(まも)った。だから、「円陣の真ん中に隠すジャコウウシの子ども」は「子宮に宿る胎児」に見立てられ、「ジャコウウシの群れが組む円陣」は「女性の生殖器の大半を包囲して子宮に宿る胎児の命を衛る骨盤」に見立てられて、「ジャコウウシ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣と定められた。
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 ジャコウウシは有史以前には北半球の寒帯に生息していたが、紀元前3000年頃の黄帝時代になると、多くの地方で絶滅したとされる。黄帝時代、黄帝が居住地としたと推定される陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)の黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)周辺地域から北方の毛烏素(ムウス)沙漠は凍土・ツンドラ地帯と化していた。ゆえに、秋から冬になると百頭以上が一団となるジャコウウシの幾つかの群れが地平線かなたの毛烏素沙漠から南の黄帝の居住地近い餌場(えさば)を目指してあらわれた。その証拠に、司馬遷著『史記』五帝本紀には「師兵をもって営衛(えいえい)となす」という記事があり、この記事は「黄帝軍は駐屯するとき、兵たちは円陣を組んで自衛した」と意味した。黄帝軍は円陣を組むジャコウウシの習性から学んで円陣を組んで駐屯していたのである。
 『魏志倭人伝』に記載される「対馬国」「投馬国」「邪馬壱国」「斯馬国」「邪馬国」などの小国名に用いられる[]の字源・字形・字義は「フタコブラクダ」であった。ゴビ沙漠に住む人々にとって、フタコブラクダは「沙漠の船」となって欠くことができない大切な家畜である。フタコブラクダは位置も方位も茫漠としたゴビ沙漠を往来しても道に迷わない。ゆえに、天頂緯度線をキャッチして位置と方位を測定して日々暮らしていた黄帝時代の人々は《フタコブラクダは精確に天頂緯度線をキャッチできる神秘的な眼力を有する》と憧れた。ゆえに、フタコブラクダは聖なる獣と尊重された。
 下の図に示すように、「フタコブラクダの両目は顔の両端にある」と同様に「第7週頃の胎児の両目も顔の両端に離れている」。また、「フタコブラクダの睫毛(まつげ)は長い」と同様に「子ども(乳児)のつぶらな目の睫毛も長い」。
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◆下に〔[]の字源「フタコブラクダ」が草をモグモグと食べる時の鼻・アゴ・口の動きをあらわす図〕を配した。
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 「フタコブラクダが草をモグモグと食べる鼻の動き」は「産道を通過する出産児の小泉門の動き」にソックリであり、「草を食べるフタコブラクダの上アゴの動き」は「産道する出産児の頭頂骨の動き」に酷似し、「草を食べるフタコブラクダの口の動き」は「産道を通過する出産児の大泉門の動き」に実に似ている。つまり、「産道を通過する時の出産児の頭蓋骨の5枚の骨(左右二つの前頭・左右二つの頭頂骨・後頭骨の5枚の骨)」の結合はゆるく少し重なることができる。このため、「5枚の骨と小泉門・頭頂骨・大泉門の動き」は「草を食べる時のフタコブラクダの上アゴと下アゴが合わずに食い違って邪(なな)めとなる、またアゴの動きによって鼻は小泉門、口は大泉門のように互いに少し邪めとなる動き」にソックリとなる。ゆえに、「草を食べる時に邪めとなる馬・フタコブラクダの鼻・アゴ・口の動き」を、卑弥呼は「邪馬」と称した。
 前述したように、倉頡は「十字の銀河」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた全文字が生まれる母体」と定めた。また「十字の銀河の子宮」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた全文字が生まれる子宮、あるいは女性の骨盤や生殖器」に見立てると定めた。このため「十字の銀河の子宮」と「女性の骨盤や生殖器」は[]の字源・字義となった。
 []の字源「ジャコウウシ」は、天敵のオオカミに襲われるとジャコウウシの群れは子どもを真ん中に隠し、円陣を組んで衛(まも)る。だから、倉頡は「円陣の真ん中に隠すジャコウウシの子ども」を「子宮に宿る胎児」に見立てて、「ジャコウウシの群れが組む円陣」を「女性の生殖器の大半を包囲して子宮に宿る胎児の命を衛る骨盤、あるいは骨盤入口」に見立てて、「ジャコウウシ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣と定めた。
 ゆえに、再度、下に、「縦長の出産児の頭がくぐり抜ける、横長(よこなが)の楕円形の女性の骨盤入口」の図を示した。この「骨盤入口」は前述したとおり[]の字源となった。
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 上記したように、「[]・フタコブラクダが草をモグモグと食べる時の鼻・アゴ・口が邪(なな)めとなる動き」を、卑弥呼は「邪馬」と名づけ、「骨盤入口」の[]を加えて、卑弥呼は「邪馬壱」と呼称した。
 だから、『魏志倭人伝』は倭人国の首都所在地は「邪馬壱国」であったと記す。

◆前述したように、「出産期より以前の、母体の子宮で育つ胎児」を、倉頡は[]の「ジャコウウシ」は「第5週ごろの胎児の姿」に類似すると見立てた。
 また、「出産期より以前の、子宮で育つ胎児」を、倉頡は「第7週頃の胎児」に類似すると見立てた。つまり、前述したように、「フタコブラクダの両目は顔の両端にある」と同様に「第7週頃の胎児の両目も顔の両端に離れる」、また「フタコブラクダの睫毛(まつげ)は長い」と同様に「子ども(乳児)のつぶらな目の睫毛も長い」と見立てた。
 倉頡は、「出産期より以前の、胎児が育つ子宮」を「黄帝が居住する本拠地の地平線より内界となる、近くの土地」に見立てた。そして「横長の骨盤入口に縦長の頭を横向きにしてくぐり抜ける開口期から娩出期までに出産児が通過する産道」を、倉頡は「黄帝の居住地の地平線より外界となる遠くの土地」に見立てて、[()][()]の字を考案した。
 つまり、倉頡は――出産第一期・開口期(かいこうき)から出産第二期・娩出期(べんしゅつ期)までにおこなわれる出産児の頭の4回の回旋に注目して、第1回旋・第4回旋を基(もと)[]を創り、第2回旋・第3回旋を基に[]の字を考案した。
 要するに、倉頡は「出産第一期・開口期が始まる以前の、胎児が育つ子宮」を「黄帝が居住した本拠地の地平線より内側(内界)の土地」に見立てる(合致する)と定理した。また、倉頡は「4回の回旋をくりかえして出産児が通過する産道」を「黄帝の居住地の地平線より外側(外界)の土地」に見立てて、[][]の方位規定を定理した。
 〔注 倉頡は[]の字を創って、[]は「出産児の第1回旋と第4回旋のもとづいて時計回りに90度転回ずつ転回する方位規定をあらわす」と定理した。また、[]の字をもって「出産児の第2回旋と第3回旋にもとづいて反()時計回りに90度転回ずつ転回する方位規定をあらわすと定理した〕。
 というのも、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の2回で指摘したように――
「鬼の横顔に似る銀河」は「禾(イネ)の花」に相似し、「鬼の横顔に似る銀河の角(つの)」は「禾(イネ)の芒(のぎ/花の外殻の針のような突起)」に相似するからである。
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 下の図に示すように、出産第二期・娩出期の終わりにおいて、出産児は顔の正面を母体の後方・臀部(でんぶ/お尻)を正面とする姿勢となる。
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 それゆえ、倉頡は「十字の銀河の腹部」を「母体の臀部」と見立てて、下に図示する[]の字を創った。[]の下に[]を加える[()]と人偏に[]を加える[()]の字は、[]の字源・字形・字義をそのまま受け継いだ。
 だから、下の左図の〔「十字の銀河」の中央に加えた《イネ()》の図書における穂が〔南〕→〔西〕へと垂れる図案〕は「[][][]の字源銀河解説図」となった。つまり、〔[][][]の字〕は「黄帝の居所地より遠い土地の地理における方位規定は時計回りに90度転回する」という定理をあらわすことになった。
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 上の左図における〔[]の穂が〔南〕→〔西〕へ垂れる形〕は「地面に植わるイネ()の状況」には見えない。ゆえに、下に配した[]の契文形(けいぶんけい/甲骨文字の字形)の「[]の穂が〔北〕→〔東〕へ垂れる」ように、[][][]の字は「時計回りに方位が90転回して、北→東・東→南・南→西・西→北と定める方位規定」をあらわした。
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 上の「[]の穂が北に位置する図案解釈」にもとづいて、[]の字は「黄帝の居住地の地平線より外界の、遠く離れる中国北部(華北)における時計回りに90度転回する方位規定」をあらわすことになった。
 また、倉頡は「出産児の第2回旋と第3回旋と同じく、反()時計回りに90度転回する方位規定」をあらわす[]の字も創った。したがって、[]の字源・字形・字義は「黄帝の居住地の地平線より外界の、中国北部(華北)よりさらに遠い・中国南部(華南)における反()時計回りに90度転回する方位規定」をあらわすことになった。
 下に配した図に示すように、上図の〔[][][]の字源解説図〕に加えた「南→西の90度の転回」は「時計回り」であり、下図の〔[]の字源解説図〕に加えた「北→西の90度の転回」は「反()時計回り」となる。
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 卑弥呼が生存した時代、中国では魏・呉・漢(蜀漢)の三国が鼎立(ていりつ)していた。
 「魏」の国号に用いられる字の偏は[]である。ゆえに、黄帝陵の地平線より遠い外界となる「魏」は中国北部)における「時計回りに90度転回する方位規定の国土」とあらわし、「呉」は黄帝陵の地平線より外界の遥かに遠い中国南部における「反()時計回りに90度転回する方位規定の国土」をあらわした。そして、「蜀」という国号の正式名は「漢」であったゆえ、この国号は「倉頡は漢・すなわち銀漢から漢字を作った」とあらわした。
 このように、卑弥呼が生存した後漢時代末から三国時代の中国は【倉頡が発明した漢字作成理論】の復興時代であった。

◆わが国においても、卑弥呼によって【倉頡が発明した漢字作成理論】が復興された。
 西暦180年頃、戦争によって倭国は大乱していた。ゆえに、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の5回で詳細に解説して証明したように――卑弥呼は「瀚海(かんかい/ゴビ沙漠)」を用いて、倭国の大乱を終息させた。というのも、瀚海・ゴビ沙漠の日中は「日照り」のごとく暑く、夜間は「冷害」のごとく寒さが厳しいからである。
 卑弥呼は「瀚海」をもって「わが国が【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した紀元前2000年頃(後期縄文時代初頭)から紀元前1000年頃(晩期縄文時代初頭)までに続いた日照りと冷害の大災害」をあらわして、倭国の大乱を鎮圧した。つまり、卑弥呼は「瀚海」をもって「天の鬼神(きじん)は千年も続く日照りと冷害に匹敵(ひってき)する厳しい大罰を下して、大乱をつづける王や人民たちの命をことごとく奪うにちがいない」と脅迫して、倭国の大乱を鎮めた。
 また、卑弥呼が「瀚海」をもって脅迫した「千年も続く日照りと冷害の厳罰」は、前述した「倉頡が王朝の崩壊を心配して【死刑と定めた三つの掟】」をもあらわした。
 だから、『魏志倭人伝』には「対馬国の南一海を渡る千余里、名づけて瀚海と曰()う。一大国に至る」という記事がある。
 卑弥呼は対馬国(現在の長崎県北部の対馬)と一大国(現在の長崎県北部の壱岐)の中間の海〕を「瀚海」と名づけて、「漢字は銀漢(文字作成銀河)から作られた学識」を手に入れた反体制側の人々が革命を起こして卑弥呼王朝を崩壊・滅亡させないために、【倉頡が死刑と定めた三つの掟】をあらわすことにした。
 『魏志倭人伝』の冒頭文「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」の大海、つまり九州沖の大海は「玄界灘」である。「玄界灘」は「[]をキャッチする往来できる、陸地から遠くて波が荒い海」と意味した。
 []の字は、[(とう)]の下に[(よう)]の字が加わる。
 下に、〔[]の字源・字形・字義の解説図〕を配した。
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 人類は原始のときから、脳に[]をキャッチして精確に緯度測定できる本能がそなわり、鍛錬すれば1度・60分の60分の11分以内の緯度差を測定できる神秘的な眼力を有することができたのである。だから、この神秘的な呪力(じゅりょく)によって、一団を組んで日々食料を求めて移動した原始の生活にあっても、「道に迷った! 位置(緯度)も方角もまったくわからない! 死ぬ!」というようなパニック状態におちいることもなく、人類は天頂にめぐってくる銀河周辺の形状を地理代わりにして[]をキャッチして緯度と方角を測定してたくましく巧(たく)みに生存したのである。
 卑弥呼は[]つまり「原始のときから受け継がれた1分以内の緯度差を測定できる神秘的な眼力の呪力」と「生命の神秘をあらわして、泣きたくなるほど最高に感動的な産道を通過する出産児の[]のドラマ」を重ね合わせて(同一視)して、「邪馬壱」と表現した。
 だから、「玄界灘」の[]の字は、[]の下に[(よう)]の字が加わる。[]の字源・字形・字義は上記した「生命の神秘をあらわした、泣きたくなるほど最高に感動的な産道を通過する出産児による[]のドラマ」であった。

◆『説文解字』は[]の字源を「至高にして上なし。一大に従ふ」と解説する。この字源解説文は「それ以上の上が無い、天頂緯度線」を意味した。
 したがって、『説文解字』の[]の字源解説は、下の図に示した「天頂点と重なる銀河部位の軌道における最も高い天頂緯度線」を意味した。ヒトが天頂緯度線をキャッチすると、1度・60分の60分の11分の誤差内で精確に緯度が測定できた。だから、倭国の使者と船乗りたちは、1分の誤差内で精確に緯度が測量できる方法の天頂緯度線をキャッチして魏や諸韓国と倭人国の中間の大海を往来していたことになる。この大海は、倭国の使者と船乗りたちが「1分の誤差内で精確に緯度が測量できた方法」つまり「[]のキャッチという方法」で往来したゆえ、「玄界灘」と名づけられた。
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 上の図の右上に示したように、「最も高い天頂緯度線と子午線」は[]の字となり、[]の下に[]が加えると、[]という字になる。
 下に、〔[]の字源解説図と金文形〕の図を配した。[]の金文形は「糸束が拗()じれるごとく頭と体を捩(よじ)って産道を通過する出産児の、[][]の字源となった4回の回旋」をあらわした。
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 『説文解字』は[]の下部の[]の字源を「小なり。子の初生の形に象(かたど)る」と解説する。つまり、[]の字源は、下に配した上・下図の「開口期の第1回旋から娩出期終わりまでの産道を通過する出産児の様子」であった。だから、上図における[]の下の「娩出期終わりの母体の臀部(お尻)に顔の正面を向ける出産児」は[]の字源となる。
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 「必ず天頂緯度線をキャッチして位置と方角を正確に測定し、絶対に道に迷わない」と欲を有すると、[]のキャッチに失敗して命を失った。[]をキャッチするときの心得は「産道を通過する出産児のごとく無欲になれ」であった。ゆえに、[]の字は「天頂緯度線をキャッチするときの心得」をあらわしたゆえ、[]の下に[]が加えられた。
 中国の魏・朝鮮半島と倭人国の中間にある「玄界灘」は、「天の北極の高度を緯度に換算する方法だと命を失うが、[]をキャッチする方法ならば1度の60分の11分の誤差内で精確に緯度が測定できるゆえ命を失わないで往来することができる、波が荒い陸地から遠く離れた海」と意味した。
 他方、原始時代から卑弥呼が生存した3世紀までにおいては、今日の地図において〔北〕の基準となる「天の北極」の高度で緯度を計測すると「天地の緯度が精確に測量できないゆえ、玄界灘を往来することができずに命を失うことになる【死神の座】」であった。ゆえに、「現在の日本地図と同じく、九州を〔西〕と定め、東海地方(愛知県・静岡県)を〔東〕と定める、本州・日本列島地理」を、卑弥呼王朝は制定するはずがなかったことになる。

◆日本列島の西端にある玄界灘に浮かぶ沖ノ島は、下に図示するように、日本列島の東端にある伊豆諸島の神津島(こうづしま)と同緯度(北緯3415)である。そして、沖ノ島は対馬国の対馬と一大国の壱岐の水平線以内に所在する。このような沖ノ島の水平線より遥か遠くの太平洋上となる日本列島の東端に、同緯度の神津島が所在する。
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 本州・日本列島の〔西端〕にある沖ノ島の方位を時計回りに90度転回して本州の〔北端〕に所在すると定め、本州の〔東端〕にある沖ノ島と度緯度の神津島の方位を時計回りに90度転回して〔南端〕と定理すれば、【倉頡が創った[]の字源・字形・字義】が成立すること――に、卑弥呼は気づいた。
 これから始める解説における方位は、現在の日本地図の方位規定に則(のっと)る。
 卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、「魏」と「呉」という国名が示すように、中国の国土は【倉頡が発明した漢字作成理論】によって――[]の偏[]の字が示す「時計回りに90度転回する方位規定の中国北部地方」と、[]の字が示す「反時計回りに方位が90度転回する方位規定の中国南部華南地理」で定められていた。だから、中国の北部地方の魏は時計回りに90度転回し、中国南部地方の呉は反時計回りに90度転回する――と、中国地理の方位規定は二つ存在した。これゆえ、中国国土の東側となる海岸線地域の方位規定を北部の[]と南部の[]の二本立てにすると、複雑・混乱化して本州・日本列島地理の方位規定を定理することができない。
 そこで、卑弥呼は〔黄帝陵が所在する北緯3536分となる山東半島の付け根の海岸(北部地方)から北緯30度の会稽(かいけい/南部地方の現在の浙江省の紹興市まで)〕を〔方位が転回しない不動の海岸線点〕と定めて、〔中国の海岸線地域の方位規定を一本化〕した。つまり、卑弥呼は「中国全土を包む海岸線における、〔北部地方の海岸線〕を〔北〕とし、〔南部地方の岸線〕を〔南〕」と定理した。
 中国の北部海岸線地域は冷たい気候区であり、中国の南部海岸線地域は暖かい気候区であるゆえ、〔北冷南暖〕ということになる。本州・日本列島の西端にある沖ノ島は冬に雪が降る冷たい気候区であるが、本州・日本列島の東端にある亜熱帯の神津島は一年中暖かい気候区であるゆえ、〔西冷東暖〕となる。
 ゆえに、下に配した「中国の〔北冷南暖〕と倭の〔西冷東暖〕の図」に示したように――中国の北部海岸線地域と日本列島西端の沖ノ島の気候は共に冷たいゆえ、〔中国の北冷=倭地の西冷〕となる。中国の南部海岸線地域と日本列島東端の神津島の気候は共に暖かいゆえ、〔中国の南暖=倭地の東暖〕となる。
 このように、中国の海岸線地域と本州・日本列島の西端の沖ノ島・東端の神津島における冷たい気候区と暖かい気候区の共通性を基(もと)に考えると、下に図示したように本州・日本列島は[]の字源に合致して時計回りに90度転回することになる。
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 だから、卑弥呼は「本州・日本列島の暖かい東端は中国の海岸線地域の暖かい南部の方へ延びている」と考えた。
 『魏志倭人伝』の冒頭文は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」である。この冒頭文に登場する[]の字源・原義は「時計回りに90度ずつ転回する方位規定」であった。
 『魏志倭人伝』は「対馬国の南に一大国がある」と説明しているゆえ、「対馬国・一大国の地理」は現代の日本地図の方位規定と同じゆえ、「倭人」の[]の字源・字形・字義の「時計回りに90度ずつ転回する方位規定」をあらわさない。
 下に図示したように、「対馬国・一大国の水平線より外界となる、遠い本州・日本列島地理」が[]の字源・字形・字義をあらわすことになった。
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 『魏志倭人伝』の「本州・九州の末盧(まつろ)国の記事」から以後の後半にある「裸()国・黒歯(こくし)国が有り、また其の東南に在りて船行一年にして参問至るべき。倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」という文までの記事は、本州・日本列島における地理についての説明となる。この本州・日本列島地理の説明記事には、全部で12ヵ所の方位名が記される。この全12ヵ所の方位記事は、上に示した《[]の字源となった時計回りに90度ずつ転回する方位規定》に1ヵ所も矛盾せず不合理な点もなく、すべて合致する。

◆『魏志倭人伝』に「邪馬壱(やまい)国に至る、女王の都(みやこ)する所なり」と書き記された「邪馬壱国」は、旧国の山陰・出雲にして現在の島根県東部であった。
 というのも、前々回(11)のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」で証明したように、卑弥呼時代の山陰・出雲の海岸線地域には、下に示す〔「邪馬壱」の地宜〕が存在したからである。
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 下に配した「神門水海(かんどのみずみ)」は経度線・緯度線に対して「邪(なな)め」になって所在し、その地宜は[]の字源「フタコブラクダの姿」に相似する。これゆえ、「神門水海の地宜」は「邪馬」ということになる。
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 下の図に示すように――古代の宍道湖(しんじこ)南部(転回方位)の地宜は「膝(ひざ)から下の足の形」に相似し、その「足の爪先(つまさき)」は転回方位の〔西〕を指差した。ゆえに、卑弥呼は――「宍道湖」は「十字の銀河の右足(西側の足)」に相当する――と見立てた。前述したように、[]の字源・字形の原義・原義となった「十字の銀河の子宮」は「女性の生殖器(骨盤や産道など)」に見立てられた。[]の字源「十字の銀河の子宮」は「十字の銀河の右足(西側の足)」の〔東〕に隣接(りんせつ)する。だから、「右足に見立てられた、
宍道湖の南岸(転回方位)」に面した佐太神社が鎮座する「島根半島の中央部」を、卑弥呼は[]の字源地宜と解釈した。
 下に、[]の字源地宜、つまり「佐太神社が鎮座する、島根半島中央部の地宜」を示した。
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 卑弥呼は――「神門水海」が〔「邪馬」の地宜〕となり、「島根半島の中央部」が〔[]の地宜〕となる山陰・出雲を倭人国の首都所在地――に定め、「邪馬壱国」と呼ぶことにした山陰・出雲に居住した。

◆前述したように、「倭人国」の[]の字は倉頡が創った[]の字源・字形・字義をそのまま受け継ぎ、また[]の字も倉頡が創った[]の字源・字形・字義を受け継いだ。
 白川静著『字統』は、[]の字について「年・委など禾下に人の形を加えるものは、稲魂(いなだま)を被(かぶ)って舞う男女の姿で、禾穀(かこく)の象に従う字である」と解説する。
 また、白川静著『字統』は[]の字について「穀霊(こくれい)に象(かたど)る禾形の作りものを被って舞う女の姿をいう。同じく禾形の作りものを被って舞う男を年というのと、同じ構造法の字であり、男女が稲魂(いなだま)に扮して舞う農耕儀礼を示す」と解説する。
 また、白川静著『字統』は[]の字について「委はもと田舞(たまい)の状をいう字で、男が稲魂を被って舞うのは年、女を委という」と解説する。
 述したように、[]の字は《「十字の銀河の中央」に、〔禾(イネ)をあらわす図書〕を重ねて、〔イネの穂が時計回りに90度転回する方角へ垂れる状況〕》を示す構造となる。
 下に、その中央に〔禾(イネ)をあらわす図書〕を重ねた「十字の銀河」の図を示した。
 「十字の銀河の左手(東側の手)」は「狩猟するときの〔弓〕の形となる銀河」を有するゆえ、「十字の銀河の東半分」は「男性」をあらわすことになる。
 「十字の銀河の右側(西側)」には「女性の乳房・妊婦のおなか・右足と重なる子宮」に相似する形状となるゆえ、「十字の銀河の西半分」は「女性」をあらわすことになる。
 下の図に示すように、白川静著『字統』は[][][]の字について解説した文に登場する「男と女が被る穀霊(稲魂)の作りもの」は、「十字の銀河の頭部より北部の銀河部」が相当する。
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◆下に「対馬国・瀚海・一大国」の図を示した。
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 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の4回で詳細に解説し証明したように――卑弥呼は「長崎県対馬の上県(かみあがた)の地宜」を「[]・フタコブラクダの正面形」に相似すると見立て、「対馬の下県(しもあがた)の地宜」を「[]・フタコブラクダの足底や足跡の形」に見立てた。そして「フタコブラクダの正面の姿と足跡の形」が「一対」となる「対馬」は経度線・緯度線に「邪(なな)め」となるゆえ、卑弥呼は「対馬」の小国名を「対馬国」と定めた。
 また、「長崎県の壱岐」を、卑弥呼は『説文解字』の[]の「至高にして上なし。一大に従ふ」という字源解説文に登場する「一大」に見立てた。「一大」は「十字の銀河の子宮」を指しており、「十字の銀河」は[]の字源となった。だから、今日、「一大国」は「壱岐」と呼称される。
 『魏志倭人伝』に最初の1番目に登場する小国「対馬国の地宜」は「邪馬」を表示し、2番目に登場する小国「一大国の地宜」は[]の字源を表示した。したがって、「対馬国と一大国」もまた「邪馬壱」という名称を表示した。
 『魏志倭人伝』には34の小国が記されている。
 そのうち、1番目から10番目までの〔対馬国・一大国・末盧国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国・邪馬壱国・斯馬国・巳百支国〕の10小国に用いられる各字の字源と各国の地宜は、「邪馬壱」という名称の秘密をあらわすことで共通する。ゆえに、この10小国は〔「邪馬壱」グループ〕として分類されている。
 次の11番目から20番目までの〔伊邪国・都支国・弥奴国・好古都国・不呼国・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国〕の10小国に用いられる各字の字源と各国の地宜は、「稲魂の作りもの」を被って舞う女性グループをあらわす諸国として分類されている。
 次の21番目から30番目までの〔鬼国・為吾国・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・奴国・狗奴国〕の10小国に用いられる各字の字源と各国の地宜は、「稲魂の作りもの」を被って舞う男性グループをあらわす諸国として分類されている。
 したがって倭人国の10ヵ国ずつ3グループの計30小国をもって、卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を体系化し、また「人民たちの胃袋を食料(五穀)で満たす、五穀豊穣」の政治スローガンをあらわしたことになる。

◆上記した30の小国以外に、『魏志倭人伝』には「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆倭種なり。又侏儒国有り。その南に在り。人の長(たけ)三、四尺、女王を去ること四千余里。又裸国・黒歯国有り」と説明する、4小国の記事がある。
 この〔名称を記さない小国(隠岐群島)と侏儒国・裸国・黒歯国の4小国〕は「紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、名門益(えき)氏の王子と若者たちが中国から玄界灘を横断してわが国の東北地方の男鹿半島・米代川(よねしろがわ)縄文文化圏に定住して、夏音文字の学芸を東北地方から関東地方までの東日本一帯に広めた。この夏音文字の学芸を習得した時に、紀元前3000年頃の中国の五帝時代初頭に生存した倉頡が発明した漢字作成理論をも習得した歴史」を伝えている。
 だから、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は約55パーセント・約1100字をもって【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を伝える歴史書にして学問書であった。
 したがって、学界とメディアが信頼する邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説の実体は『魏志倭人伝』とまったく無関係の空理空論・デタラメであった。

 次回は、〔名称を記さない小国(隠岐群島)と侏儒国・裸国・黒歯国の4小国〕の記事を注目して「紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、わが国の東北地方の男鹿半島・米代川縄文文化圏に【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が伝来した歴史」の証明を詳細に具体的に解説する。

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