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2021年4月30日 (金)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・15

▼漢字は中国にて起源した。でも、漢字の起源の秘密は中国では解明できない。ところが、漢字の起源の秘密は『魏志倭人伝』に【文献批判という作為(さくい)】を1ヵ所も加えずに全記事をただひたすら・いちずに忠実に読解すれば、わが日本で学問的に解明することができる。
 つまり、2世紀末~3世紀半ばのわが国の事情を伝える書物として有名な『魏志倭人伝』に(1)多数の【文献批判という作為】を加えて(2)「邪馬台国」の所在地を解明するための史料であったと主張する九州説と畿内説は「誤読の空理空論であった」と全面的に否定すれば――漢字の起源の秘密は、わが日本で学問的に具体的に解明することができる。
 江戸中期に生存した新井白石(1657-1725年)以来約300年間、学者たちは『魏志倭人伝』を「邪馬台国研究史料」としてあつかってきた。しかし、『魏志倭人伝』は「邪馬台国研究」とはまったく無関係の、〔漢字の起源の秘密〕について説明する書物であったのである。
 その証拠に、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した女王国名」を「邪馬壱(やまい)国」と書き記す。ゆえに、『魏志倭人伝』には九州説と畿内説の学者たちが「記述してある」と主張する「邪馬台国」と記す記事は1ヵ所も存在しない。
 だから、九州説と畿内説は『魏志倭人伝』に記述されていない事柄を「書いてある」と捏造(ねつぞう)した空理空論であったのである。
 『魏志倭人伝』は著者の陳寿(ちんじゅ)が書き記した文字は1983字、5世紀に生存した裴松之(はいしょうし)が加えた注の文字は56字である。ゆえに、『魏志倭人伝』は合計2039字で構成される。
 約2000字で構成される『魏志倭人伝』は、【1】約1100字・約54パーセントの記事で「わが国は紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)において夏音(かおん)文字の学芸を習得したとき、紀元前3000年頃の中国の五帝時代の黄帝につかえた史官・倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論をも習得した」と説明している。また【2】約300字・約15パーセントの記事で「倭人国の風習や動物・植物の生息状況」を伝え、【3】末部の「景初二年六月倭の女王」以下の約640字・約31パーセントの記事で「小国・日本国(倭人国の隣国)の誕生史」について説明している。
 だから、『魏志倭人伝』は現在まったく不明となった【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える貴重な書物であった。
 要するに、『魏志倭人伝』は〔漢字の起源の秘密〕が科学的に具体的に解明・証明できる貴重・重大な書物であったのである。


★「倭人国の地理学」のトリセツ・24

◆漢字は紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝につかえた史官の倉頡(そうきつ)が【漢字作成理論】を発明して起源した。
 この〔倉頡が発明して起源した漢字の歴史〕は、現在、学問的に解明されていない。しかし、前述したように『魏志倭人伝』の全記事をひたすら・いちずに忠実に読解すると学問的に解明し証明することができた。
 だから、上記したように、九州説と畿内説は『魏志倭人伝』に記述された〔漢字の起源の秘密〕、言いかえると【倉頡が発明した漢字作成理論】を【文献批判という作為】を駆使(くし)して無視・排除して闇に葬った誤読の空理空論であったのである。
 九州説と畿内説は『魏志倭人伝』に自説の不都合な記事に多数の【文献批判】を加えて自説の正当性を誇示する。ゆえに、《多数の【文献批判】を加える作為》が原因で、九州説と畿内説は『魏志倭人伝』の記事と1ヵ所も合致しない空理空論・デタラメとなった。
 『魏志倭人伝』に1ヵ所も【文献批判】を加えず、『魏志倭人伝』の全記事をただひたすら忠実に読解すると、「倭女王・卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を国家と王政の政権基盤とした事実」が明白となる。
 『魏志倭人伝』には34字で【1】「倭国の易卜(うらない)に用いる辞(ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり紀元前1300年頃の殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅に文字を刻む契文(けいぶん/甲骨文字)のような文字があった」と伝える――卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)には甲骨文字のごとき漢字があったと記述する記事がある。また、『魏志倭人伝』には67字で【2】「卑弥呼が文書の用いる漢字(甲骨文字のごとき原初漢字)は魏の都・帯方郡(魏の出張政庁が所在するソウル市付近の地域)・諸韓国が文書に用いる漢字(楷書)と差錯(ささく/相違)していた。このため、倭国の小国・伊都(いと)国の津(港)では、魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と卑弥呼が用いる原初漢字を一字一字点検し確認して正確に変換していた」と伝える、わが国には卑弥呼時代に原初漢字があったと説明する記事がある。
 上記の二つの記事は、九州説と畿内説には不都合であるため、両説は徹底的に無視し排除する。また、上記の二つの記事は学界が断定した定説に反する記事であるゆえ、九州説と畿内説は最初(はな)から信用せず徹底的に無視し排除する。
 しかし、上記した『魏志倭人伝』に「卑弥呼時代には原初漢字が存在した」という記事の無視・排除が原因で、九州説と畿内説は『魏志倭人伝』とまったく無関係の【誤読の空理空論】となった。
 上記したように、学界は「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀、あるいは6世紀である」と断定する。しかし、この学界の定説は、現在、学問的に空理空論となる。
 というのも、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目において、「わが国の漢字音」と題して、次のごとく指摘しているからである。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 中国において現存する最古の漢字音は、西洋の言語学・音韻史研究によって、紀元前1046年から始まる周代初頭の「上古音」と解明された。
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 上の「漢字生長史」が明確に示すように、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」と学界が主張する定説の漢字音は、中国において現存する最古の上古音(紀元前1046年の周代初頭)よりも新しい(1500年も新しい)。だから、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」という定説は、白川静著『字統』が指摘する学問成果(音韻史研究)に反する、虚偽説・空理空論ということになる。
 白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する字音は、【わが国が後期縄文時代初頭に習得した夏音文字の漢字音】であった。
 この【夏音文字の字音】は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残っている。
 だから、学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する絶対的定説は学問的に正当性が確保できない【科学】に反する空理空論であった。
 したがって、『魏志倭人伝』に「倭国には原初漢字があった」と記述された二つの記事は「わが国は後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した歴史」を伝えていたことになる。だから、この二つの記事を無視し排除した九州説と畿内説は空理空論であったのである。

◆中国でもわが国でも「文字」を「漢字」と呼ぶ。というのも、「銀河」の別称は「銀漢」であるゆえ「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と称されることになったからである。
 【卑弥呼が用いた夏音文字】と【魏都・帯方郡・諸韓国が用いた楷書】は共に【同一銀漢から作られた文字】であった。ゆえに、倭国の伊都国の港では【字源・字形の原形・原義となった銀漢各部の形状】を観察して、夏音文字と楷書を正確に変換していたのである。
 上記したように、中国に現存する最古の字音は紀元前1046年から始まる周代初頭の「上古音」である。したがって、学界が「漢字の最も古い祖型と定める、周代初頭より約250年前となる殷代後半に用いられた甲骨文字(契文)の字音」は現存しない。しかし、甲骨文字が出現した時よりも約750年も古い後期縄文時代初頭にわが国が習得した「夏音文字」の字音は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』に多数残って現存する。
 漢字は《字源・字形・字義・字音の四要素》から成立する。夏音文字は『魏志倭人伝』によって「楷書と同じく銀漢各部の形状を字源・字形・字義とする漢字であった」と学問的に証明でき、字音は『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』に残っている。ゆえに、夏音文字は《字源・字形・字義・字音の四要素》が備(そな)わる。
 他方、紀元前1300年頃から出現した甲骨文字は《字源・字形・字義の三要素》が備わっているものの、《字音》が不明となる。
 だから、《字音》が不明となる不完全な甲骨文字を学界は「漢字の最も古い祖型」と定めたならば、『魏志倭人伝』の記事によって《字源・字形・字義・字音の四要素》がそろう、完全なる夏音文字こそ「漢字の最も古い祖型である」と定めなければならないことになる。
 以上のごとく、【文献批判】を1ヵ所も加えずにただひたすら・いちずに『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解すると「卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を国家と王政の政権基盤とした」と証明できたゆえ、おのずと〔漢字の起源の秘密〕を解明することができた。

◆上記したように、『魏志倭人伝』に1ヵ所も【文献批判とう作為】を加えずに全記事をひたすら忠実に読解すれば「後期縄文時代初頭、わが国は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した歴史」を解明することができた。
 「夏音文字」の[]は、天文学で通称「夏の銀河」と呼ばれる「夏の全星座が所在する銀河の範囲」いいかえると「夏に最も長時間観察できる銀河の範囲」をあらわしている。
 倉頡は、今日、天文学で通称「夏の銀河」とよばれる銀河各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論を発明した。
 ゆえに、通称「夏の銀河」を、私は「文字作成銀河」を名づけることにした。
 倉頡が漢字作成理論を発明した「文字作成銀河」の写真を、下に示した。
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 天文学はじめ諸々の学術分野においても、《漢字の字源・字形の原形・原義》を解明できる〔文字作成銀河の各部の名称〕を定めていない。ゆえに、《字源となった銀河=字形の原形となった銀河=原義となった銀河》の解説と証明をする際に非常に不便となるゆえ、私は下図のごとく「文字作成銀河の各部の名称」を定めた。
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 「文字作成銀河の各部の名称」が存在しなかった事情には、〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕が密接に関わっている。
 倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れることができる王政をささえる最強・最大・最良の権力基盤であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝は容易に崩壊・滅亡するにちがいないと心配して、下に示す〔三つの死刑と定めた掟〕を定めた。
■倉頡が死刑と定めた三つの掟
1】「文字は銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた」という秘密を暴露した者はその一族全員に神罰を下して即刻に死刑にする
2】多くの文字を容易に覚えるため、銀漢(夏の銀河)各部に名称をつけた者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする
3】書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員もまた神罰を下して死刑にする

 五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)・夏代の原初漢字の夏音文字・殷代前半の原初漢字は上記した〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕を厳重にまもった。したがって、上記した【3】の掟を厳重にももったゆえ、五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。
 〔注 実は原初漢字を書いた資料はすでに発見されている。しかし、学者たちはその資料が文字作成銀河(夏の銀河)の部分の形状を図案する漢字であることに気づかない。ゆえに、原初漢字を書いた資料は一点も存在しないことになっている〕。
 紀元前1300年に出現した殷代後半の甲骨文字においては多数の文字数となったため、いちいち【3】の掟をまもるのが非常に面倒(めんどう)となって守らなくても死刑はじめ刑罰を与えなくても良いことになった。ゆえに、甲骨文字では【3】の掟は破られたため、甲骨文字を書いた資料が多数出土することになった。しかし、甲骨文字は【1】と【2】の掟は厳重にまもった。ゆえに、現在の学者たちは【1】「漢字は夏の銀河の各部の形状から作られた秘密」にまったく気づかず、学者たちは誰ひとりも「夏の銀河の各部は夏のどの星座よりも明確な形を有するにもかかわらず、なにゆえ名称が存在しないのか?」と疑問を抱かなかい。
 このため、学者たちは『魏志倭人伝』が〔漢字の起源の秘密〕を具体的に説明する、貴重かつ重大な書物であることに気づかなかった。

◆前回(14)のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」にて詳細に解説して証明したように、『魏志倭人伝』の後半に――わが国は、紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、【夏音文字の学芸】を習得するときに【倉頡が発明した漢字作成理論】をも習得した――と伝えていた記事が存在する。
 この記事は76字で構成され、次のごとく「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)倭種なり。又、侏儒(しゅじゅ)国有り。其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺。女王を去ること四千余里。又、裸()国・黒歯(こくし)国有り。復()た其の東南に在りて船行一年にして参問至る可()き。倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(周旋)五千余里可(ばか)り」と伝えている。
 つまり、上記の記事は「紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、“夏の始祖”の禹()帝の後を継いだ益帝の孫の王子と若者たち一行が中国から渡来し、わが国の東北地方の男鹿半島・米代川(よねしろがわ)文化圏に定住して東北地方から関東地方まで【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を教えひろめた」と伝えていた。
 日本列島の東北地方に定住した益氏は、五帝時代最後の舜(しゅん)帝の時代に[()]という重職を任命されて代々約200年間、正確な中国の海岸線地図の作製に従事し、精密地図作製方法を開発した。この名門・益氏の定住によって、後期縄文時代初頭に正確な中国海岸線地図と精密地図作製方法をも習得されることになった。
 その証拠に、本州北端となる下北半島・陸奥湾・夏泊(なつどまり)半島・津軽半島の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)は、『魏志倭人伝』が「邪馬壱国に至る、女王の都する所なり」と記述する、この「邪馬壱」の3字の字源・字形・字義を現在に伝える。
 『魏志倭人伝』には「倭地には牛と馬は無い(生息しない)」という記事があり、[]の字源は「ジャコウウシ」、[]の字源は「フタコブラクダ」であった。
 下に、本州北端の地宜を配した。
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 上図の「本州北端の下北半島・夏泊半島・津軽半島の地宜」は[]の字源は「フタコブラクダ」であることを明確に示す。というのも、「下北半島の地宜」は「フタコブラクダの頭部と首の形」に相似し、「夏泊半島と津軽半島の地宜」は「ラクダのフタコブの形」に相似するからである。
 『魏志倭人伝』は「対馬国と一大国の中間の海は瀚海(かんかい)であった」と伝える。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の4回で証明したように、卑弥呼は「対馬国の北部・上県(かみあがた)の地宜」は「フタコブラクダの正面の姿」に相似し、「対馬の南部・下県(しもあがた)の地宜」は「フタコブラクダの足跡の形」に相似すると見立てて、[]の字源「フタコブラクダの正面の姿と足跡の形が一対(いっつい)となる」ゆえ、「長崎県の対馬」の小国名を「対馬国」と定めた。だから、「対馬」の[]の字源は「フタコブラクダ」であると明確に示すために、卑弥呼は対馬国より南の海を「馬・フタコブラクダが生息する瀚海(ゴビ沙漠)」と名づけた。[]の字源「フタコブラクダ」は「沙漠の船」と呼ばれ、ゴビ沙漠に住む人々にとって欠くことができない大切な家畜である。「フタコブラクダ」は「船」と呼ばれていたゆえ、「ゴビ沙漠」は「瀚海」いう名の海であった。上図における本州北端の地宜における陸奥湾中央に突き出る半島は「日中、夏の強烈な陽射しが刺す瀚海の港()に停泊する船・フタコブラクダ」を省略して「夏泊半島」と名づけられたにちがいない。だから、上図における北緯4039分の緯度線上にならぶ八甲田山と岩木山の冬の山頂は、夜になると厳しく寒くなる瀚海の気候と同じとなる。ゆえに、「八甲田山と岩木山」は「馬・フタコブラクダが往来していた瀚海・ゴビ沙漠」に見立てられたことになる。
 卑弥呼は「本州北端の地宜」が[]の字源「フタコブラクダ」を明確に示し、「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味することを知っていた。ゆえに、卑弥呼は「【倉頡が発明した漢字作成原理】を政権基盤と定めて倭人国を統治する」と表明するがため、「対馬国と一大国(長崎県の壱岐)の中間の海」の名を「瀚海」と名づけたのである。
 東の下北半島と西の津軽半島に包囲される陸奥湾は、下に配する「女性の骨盤の正面の形」 に相似する。「女性の骨盤」は[]の字源となった――これについては、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」で幾度となく繰り返して解説した。
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 だから、「下北半島の西端」は「邪馬」の語源となり、「陸奥湾」の[]が加わる「本州北端の【邪馬壱】の地宜」は倭女王・卑弥呼が居住した王国名「邪馬壱(やまい)国」の由来をあらわすことになった。
 『魏志倭人伝』が伝えているように、卑弥呼は後期縄文時代初頭に益氏が男鹿半島・米代川文化圏に定住して【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を教えひろめた歴史を知っていた。だから、この歴史にもとづいて、卑弥呼は倭人国の首都が所在する王国名を「邪馬壱国」と定めたのである。

◆現在、日本古代史学では、後期縄文時代初頭はじめ2世紀末~3世紀半ばの卑弥呼時代、精密地図作製方法は開発されていないと考えられている。しかし、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記される多数の夏音文字の字源や字形や字義を解明すると、わが国は後期縄文時代初頭に益氏が【精密地宜(地図)作製方法】を教えひろめたため、この【精密地宜(地図)作製方法】を用いて古代に作られた地宜(地図や地上絵)や庭園平面図(地宜)がわが国には多数存在することが解明・証明される。
 その証拠に、益氏が【精密地宜(地図)作製方法】を教えひろめたゆえ――《「東北地方の北端の下北半島・夏泊半島・津軽半島の地宜(地図の形)」は[]の「フタコブラクダの姿」に相似し、「陸奥湾の地宜」は[]の字源「女性の骨盤の正面の形」に相似する事実》を後期縄文時代には厳重な機密の基(もと)にすでに学問的に知得されていたことになる。だから、たとえ学者たちが否定しても、わが国には後期縄文時代初頭から【精密地宜(地図)作製方法】が存在したことが事実となる。というのも、上記したように『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記載された多数の夏音文字の字源・字形・字義の秘密を解明すればおのずと「後期縄文時代には、すでにわが国には【精密地宜(地図)作製方法】が存在していた」という事実が【科学】が成立して学問的に証明された。にもかかわらず、学者たちは夏音文字の研究をなんら着手せずに、単に強引に「後期縄文時代に、すでに【精密地宜(地図)作製方法】が存在してなんていう事実はあるはずがない」と主張しているにすぎないからである。
 現在の学者たちと異なり、夏音文字の学芸に精通した卑弥呼は益氏が伝えた【精密地宜(地図)作製方法】によって、「東北地方の北端の地宜」は「邪馬壱」と表示することができることを知っていた。だから、《東北地方における【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】の伝来・習得の歴史》にもとづいて倭人国を統治する卑弥呼は、倭人国の都となる王国の名を「邪馬壱国」と定めることにしたのである。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の11回で詳細に解説したように――「邪馬壱国」の「邪馬」は「せまい産道を通り抜ける時における、出産児の頭蓋骨の〔小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)と後頭骨・頭頂骨・前頭骨が重ね合わせることができる仕組み(機能)」をあらわす語であった。
 下に、「邪馬」の語源となった「産道を通過する時の、出産児の頭蓋骨図」を配した。
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 上図に示した「産道をくぐり抜ける時の、出産児の頭蓋骨の形状」は「モグモグと草を食べる時の馬・フタコブラクダの顔における、後頭骨にある小泉門の形に相似する鼻・矢状縫合がある頭頂骨に相当する上アゴ・大泉門に相当する口・下アゴに相当する前頭骨の動きの形状」にソックリとなる。
 つまり、出産児の頭蓋骨における小泉門・矢状縫合・大泉門・後頭骨・頭頂骨・前頭骨は重ね合わせることができるゆえ、せまい産道をくぐりぬける赤ん坊の命はこの世に湧き出るように神秘的に誕生する。この赤ん坊の命の誕生のドラマは、上図に示した「出産するときの赤ん坊の頭蓋骨の形状」は「草を食べる時の、ラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴの部分がそれぞれ邪(なな)めとなって動く形状」にソックリとなる。
 下に「邪馬」の語源「馬(フタコブラクダ)の鼻・上アゴ・口・下アゴの形」を図示した。
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 ゆえに、「出産児の頭蓋骨の仕組みの形状」と「草をモグモグと食べる時の馬(フタコブラクダ)の鼻・上アゴ・口・下アゴの各部が邪(なな)めとなる形状」、この両者の形状を卑弥呼は「邪馬」と表現し、[]の字源「女性の骨盤」を加えて「邪馬壱」とあらわして――「倭人国の首都が所在する国家・王朝の中心地域」を「邪馬壱国」と名づけたのである。

◆紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝は、東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。黄帝が作った医学書『内径』における研究テーマは「ヒトの命の研究」つまり「女性の生殖器と子どもの出産」であった。
 黄帝以前の三皇時代には「女性の生殖器と子どもの出産」は研究されていなかった。また、黄帝の医学研究を説明することができる文字も発明されていなかった。これゆえ、黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡の役目は黄帝の医学研究を説明することができる文字を発明することになった。
 だから、倉頡が【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の医学研究】を説明することができる文字を発明した。
 【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の医学研究】における「ヒトの命の研究」における核心にしてハイライトシーン(涙が出るほど心ゆさぶられて感動的な最も神秘的で輝かしい場面)は――卑弥呼が「邪馬壱」と表現した「母体の子宮口(しきゅうこう)が全開大(ぜんかいだい/すっかり開くこと)して、出産児がせまい産道をくぐりぬけて命が湧き出るがごとく神秘的に誕生する場面」であった。
 〔注 このハイライトシーンは出産児の父親が分娩室の入室を許可されるならば、わが子の感動的な出産の様子を目撃することができる〕。
 ゆえに、上記したように、倉頡が漢字を発明した目的・動機・核心をあらわすと「はじめに邪馬壱ありき」ということになった。だから、卑弥呼は「倭人国の首都が所在する王国名」を「邪馬壱」と定めることにしたのである。

◆出産児における「邪馬壱」は「横長(よこなが)の楕円形の母体の骨盤入口」を「縦長(たてなが)の出産児の頭蓋骨がくぐりぬける状況」から始まる。
 下に、「横長の楕円形の性(母体)の骨盤の入口の図」を配した。
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 「邪馬壱」の語源となった「母体の子宮口が開く出産第一期・開口期(かいこうき)から産児の頭が誕生する出産第二期・娩出期(べんしゅつき)終わりまでの児頭の回旋(かいせん)の様子」について――インターネット・ブログで出力した医療法人翔光会の産婦人科にしじまクリニック(埼玉県富士見市)は「赤ちゃんの進み方、回旋を知る」と題して、下記のごとく説明している。この説明を要約し、この要約に〔出産第一期・開口期と出産第ニ期・娩出期〕という注を加えると、次のようになる。
 ――骨盤の入口は横長の楕円形に対して、からだの中でいちばん大きな赤ちゃんの頭(児頭)の形は縦長であるゆえ、児頭が骨盤入口をくぐり抜けるためには、骨盤入口では児頭は横向きで入る。しかも入口部は骨盤内でいちばん狭い空間であるので、通常(正常分娩の場合には)赤ちゃんはアゴを胸につけた姿勢となり、児頭は屈曲して後頭部の小泉門が先進して時計回りに90度回旋する。これを、「第1回旋」と呼ぶ。
 骨盤出口面は縦長であるゆえ、赤ちゃんは横向きから次第に正面・縦向きへ方向を変えながら、下降する。この過程を、「第2回旋」という。ちなみに、第1回旋(横向き)から第2回旋(縦向き)へ回る角度は90度であり、第1回旋と逆向きの反時計回り(逆時計回り)である。第1回旋から第2回旋の時の子宮口は大体7センチである。第2回旋が終了した時点で後頭部(小泉門)は恥骨側・12時方向の位置となり児頭の正面・縦向きが整う。この時、子宮口はすでにすっかり開く全開大(10センチ)となり、出産第一期・開口期の終わりとなり、いよいよお産となる。
 第3回旋は反時計回り(逆時計回り)になって児を娩出(べんしゅつ)するもので、この場合児は反屈して恥骨をくぐり抜けるように児頭が産道()から娩出する。
 最後の第4回旋は第1回旋と同じく児頭は時計回りに90度回旋して、頭が誕生した児はすぐに呼吸をはじめて声をあげる。この児頭の誕生が出産第二期・娩出期の終りとなる。

 卑弥呼が「邪馬」と表現した「出産児の頭蓋骨における、骨どうしの間が〔結合組織性の膜〕となって重ねあわせることができる仕組み」を、産婦人科では「広形機能(こうけいきのう)」または「骨重積(こつじゅうせき)」と称する。

◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の2回で解説したように、「歳差(さいさ)」という天文現象を利用すると、黄帝と倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代初頭における中国全土の天頂にめぐってきた銀河の形状を知ることができる。
 下の図に示すように、五帝時代初頭、わたくしが「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた銀河の形状部が中国各地の天頂にめぐってきた。
 〔注 「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は、前掲した〔文字作成銀河各部の名称図〕における左上にある〕。
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 下に、五帝時代初頭の黄帝時代における黄帝陵・北緯3536分の天頂緯度線と「邪馬壱」の銀河(「小泉門・矢状縫合・大泉門」の形となる銀河部)を表示した。
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 下に、北緯3536分に位置する黄帝陵の天頂緯度線と北緯31度の中国南部の太湖南岸も天頂緯度線を縦に並べる、五帝時代初頭に中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」の図を配した。
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 上図が示すように、黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」は「緯度線」に対して邪(なな)めとなる。ゆえに、倉頡が漢字を発明した黄帝時代において中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」もまた、「邪馬壱」という語であらわすことができた。
 というのも、「緯度線に対して邪(なな)め」の「十字の銀河」は[]「フタコブラクダ」の字源・字形・字義となり、「十字の銀河の子宮」は[]の字源・字形・字義となったからである。さらに、「十字の銀河の子宮の周辺部」は[]の字源・字形・字義となる「子宮。あるいは骨盤はじめ女性の生殖器」をあらわした。
 だから、黄帝時代の中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」は「邪めの[]の字源」となり、「十字の銀河の子宮」は[]の字源であるゆえ、「邪馬壱」という語をあらわした。
 これから「十字の銀河」が[]「フタコブラクダ」の字源・字形・字義となった秘密について解説する。
 下に示す「三つ輪の銀河」は「点々と黄色くきらめく無数の星たちが円を描きあるいは渦巻きを描いて重なりあう形状の銀河」であるため、「三つ輪の銀河」は「月の光で沙漠の砂が黄色く輝く瀚海・ゴビ沙漠」のイメージとなった。「三つ輪の銀河」に隣接する「十字の銀河」も「月の光できらめく沙漠の砂や瀚海・ゴビ沙漠」のイメージとなった。これゆえ、「十字の銀河」は「ゴビ沙漠に棲むフタコブラクダ」に見立てられることになった。
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 したがって、下の図に示したように、「十字の銀河」は「フタコブラクダの側身形」に見立てられたゆえ、「フタコブラクダの側身形に相似する十字の銀河」が[]の字源・字形・字義ということになった。
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 以上のごとく、黄帝時代の中国全土における各地の天頂にめぐってきた天頂緯度線に対しての邪めとなる「十字の銀河」もまた「邪馬壱」という語であらわすことができた。
 このように「漢字の起源史」もまた「はじめに邪馬壱ありき」と表現することができるゆえ、卑弥呼は倭人国の首都が所在する王国の名称を「邪馬壱国」と名づけたのである。

◆前述したように、後期縄文時代初頭、名門の益氏の王子と若者たち一行は本州・日本列島における東北地方の男鹿半島・米代川文化圏に定住して、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸と正確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】を東北地方から関東地方まで教えひろめた。
 【精密地宜(地図)作製方法】を伝授した名門・益氏が定住した「東北地方北端の下北半島・夏泊半島・津軽半島の地宜と、そして陸奥湾の地宜」をあらわすと「邪馬壱」という語になった。下に「東北地方北端の地宜」つまり「邪馬壱」のイラストを配した。
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 上図のイラストのおける「下北半島の西端」は[]の字源「フタコブラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴ」に相当する。ゆえに「下北半島の西端」は、「草を食べる時のラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴの各部が邪めとなる形状」、つまり「邪馬」ということになる。また、下北半島と津軽半島に包囲される「陸奥湾」は[]の字源「女性の骨盤の正面形」に相似する。
 ゆえに、「邪馬壱」という語は「東北地方北端の地宜」をあらわした。

 前述したように、倉頡が文字を作成する目的は【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の医学研究】を説明することができる文字を考案することであった。
 【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の医学研究】における「ヒトの命の研究」における核心にしてハイライトシーン(涙が出るほど心ゆさぶられて感動的な最も神秘的で輝かしい場面)は――「母体の子宮口(しきゅうこう)が開いて、出産児がせまい産道をくぐりぬけて命が湧き出るがごとく誕生する場面」であった。
 このハイライトシーンもまた、「邪馬壱」とあらわすことができた。
 ゆえに、上記したように、倉頡が漢字を発明した目的・動機・核心をあらわすと「邪馬壱」ということになった。

 そして、上記したように、倉頡が生存した時代、中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」もまた「邪馬壱」という語で表現することができた。

◆これゆえ、【1】黄帝・倉頡時代に中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河の形状」と、【2】倉頡が漢字を発明した目的・動機・核心(命が湧き出るように誕生する涙が出るほど感動的な、産道をくぐりぬける時の出産児の頭蓋骨の形状の様子)と、【3】わが国における【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸の習得史】の三者をあらわすと、共に「邪馬壱」という語であらわすことができた。
 だから、「邪馬壱」という語は【1】【2】【3】の三者を一挙に表示することができるゆえ、卑弥呼は倭人国の首都が所在する王国の名称を「邪馬壱国」と定めたのである。
 したがって、「邪馬壱」という語が示すように、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を王政の政権基盤として、倭人国を統治した」と説明していた歴史書にして学問書であったのである。
 古代史研究家の古田武彦氏は著書『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社発行)にて、『三国志』全体に書き記された[()]86字、[()]56字を一字一字入念に調べ、[()]には[()]と誤記した例が存在しないと指摘した。
 「『三国志』魏書東夷伝末部にある倭人傳」を通称『魏志倭人伝』と呼ぶ。ゆえに、古田武彦氏が指摘したように、『魏志倭人伝』には「卑弥呼が居住した女王国」の名称を「邪馬壱国」と書き記し、九州説や畿内説が主張するように「邪馬台国」と誤記していない。
 このように、九州説と畿内説が主張するように『魏志倭人伝』には「邪馬台国」という記事は1ヵ所も存在しない。だから、『魏志倭人伝』は「邪馬台国の所在地を記述した文献史料」ではなかった。
 ゆえに、九州説と畿内説は『魏志倭人伝』とまったく無関係の空理空論・暴論・デタラメであったことになる。
 また、多数の【文献批判という作為】を多数加えて立論する九州説と畿内説は、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸と正確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】を習得した後期縄文時代初頭から始まった四千年に及ぶわが国の学問史における最大・最悪の汚点であった。というのも、学問の鉄則・基本を厳守して、【主観的思考となる文献批判という作為】を徹底的に排除して、ただひたすら・いちずに『魏志倭人伝』を忠実に読解すれば【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸と正確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】を解明し証明することができたからである。
 九州説・畿内説が駆使する【文献批判という作為】を1ヵ所も加えずに全記事を忠実に読解すれば――『魏志倭人伝』は〔漢字の起源の秘密〕が解明できる文献であったのである。

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