邪馬台国説はサギ・騙されるな・11
▼学界はじめメディアは――“日本古代史最大の秘密”を伝える『魏志倭人伝』は「倭女王・卑弥呼が居住した邪馬台国を吉野ケ里遺跡がある九州、もしくは纏向(まきむく)遺跡がある畿内・大和に所在したと説明している」と主張する意見を――諸々の説にあって最も正しい意見であると信頼する。
しかし、この九州説と畿内説の実体は【科学】がまったく成立しない完全なる空理空論・デタラメ・インチキであったのである。
九州説と畿内説が空理空論であることは、前々回(9回)と前回(10回)のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」にて詳細に証明した。この11回における解説で不明な点については、9回と10回を参照していただきたい。
『魏志倭人伝』は「倭女王が居住した王国・邪馬壱国は山陰・出雲、現在の島根県東部であった」と伝える。この邪馬壱国・出雲説ならば、『魏志倭人伝』の全記事と矛盾点も弱点も無く論理が完結し【科学】が成立して事実・真実となる。
九州説と畿内説は――『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した首都であった王国の名は「邪馬台国」であったと断定するが、『魏志倭人伝』は「邪馬壱国」と記し、「邪馬壱国は山陰・出雲であった」と明確に説明している。
また、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は約55パーセント・約1100字の記事をもって「紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)、名門益(えき)氏の王子と若者たちが中国から大海・玄界灘を横断してわが国の東北地方の男鹿半島・米代川(よねしろがわ)縄文文化圏に定住して、原初漢字・夏音(かおん)文字の学芸を東北地方から関東地方までの東日本一帯に広めた。この夏音文字の学芸を習得したときに、約1000年前の紀元前3000年頃の中国の五帝時代初頭に生存した倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論をも習得した」と伝えている。
だから、『魏志倭人伝』は【漢字の起源の歴史を伝える、倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える貴重な史料にして、しかも上記したように『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した王国名を「邪馬壱国」と記述するゆえ、九州説や畿内説が主張するような「邪馬台国」についての説明は『魏志倭人伝』には1字も書かれていない。
★「倭人国の地理学」のトリセツ・20
◆江戸時代中期に生存した新井白石(1657-1725年)は初め「邪馬台国は大和であった」と立論し、後に「邪馬台国は筑後山門郡であった」と考えた。ゆえに、畿内説は「大和」の「やま」は「邪馬台」の「邪馬(やま)」であると考えて、邪馬台国は大和にあったと主張する。九州説は「筑後山門郡」の「山門」の「山」は「邪馬台国」の「邪馬(やま)」に合致する、この合致を理由・根拠にして邪馬台国は九州に存在したと比定する。
しかし、「邪馬」は【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究の核心】をあらわす、邪馬台国説学者たちが誰一人も思いつかなかった【ヒトの命(いのち)の神秘】つまり「せまい産道を通過する出産児するときの頭蓋骨の仕組み(機能)」をあらわす語であった。この「出産児の頭蓋骨の機能」は、今日の医学用語で「広形機能(こうけいきのう)」あるいは「骨重積(こつじゅうせき)」と呼ばれている。
それというのも、倉頡が漢字を発明した目的は【黄帝が研究した「女性の生殖器と子どもの出産の研究」】をあらわすことができる文字を作成することであったからである。
だから、【黄帝の《女性生殖器と子どもの出産の研究》の核心】は【倉頡が発明した漢字作成理論も核心】ということになり、この核心を卑弥呼は「邪馬壱」と表現した。これゆえ「邪馬壱」という語は「5枚の頭蓋骨を重ね合わせて、せまい産道を通り抜ける時の出産児の頭の機能と頭の4回の回旋(かいせん)」、今日の産婦人科の用語で「広形機能」または「骨重積」と呼称される【命が生まれるときの神秘的な事象】をあらわすことになったのである。
だから、九州説と畿内説の実体は『魏志倭人伝』が最多文字数で伝える【中国で漢字が起源した歴史的事実、倉頡が発明した漢字作成理論】は葉茶目茶(はちゃめちゃ)にした空理空論・デタラメ・インチキ・詐偽(さぎ)であったのである。
◆九州説と畿内説は『魏志倭人伝』を「卑弥呼が居住した邪馬台国の所在地」を伝える史料であったと断定するが、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論体系】を伝える歴史書にして学問書であった。
だから、学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた空理空論であった。
というのも、『魏志倭人伝』は約55パーセント・約1100字の記事で「わが国は約4000年前に、中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に出現した原初漢字の夏音(かおん)を習得した。このとき、約5000年前の中国の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた【倉頡が発明した漢字作成理論】をも習得した。この【倉頡が発明した漢字作成理論の核心】を、卑弥呼は「邪馬壱」と名づけた。これゆえ、倭女王の卑弥呼が居住した王国は[邪][馬][壱]の字源をあらわす地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)がある現在の島根県東部、旧国出雲であった」と伝えていたからである。
だから、『魏志倭人伝』には(1)「倭の易に用いる辞は令亀(れいき)の法のごとく、つまり亀の甲羅に文字を刻む甲骨文字の辞のごとく原初漢字があった」、また(2)「卑弥呼が文書に用いる漢字と魏の都と帯方郡・諸韓国が文書に用いる漢字は相違していた」と伝える二つの記事がある。このように「わが国は原初漢字の夏音文字を習得した」と明記する二つの記事が存在するにもかかわらず、九州説と畿内説をとなえる先生方は「わが国には原初漢字が存在した」という記事を徹底的に無視して、そんな記事が『魏志倭人伝』に存在することを厳重な機密にして口を「ぎゅー」かたく閉じて一言もしゃべらないことにしている。
◆上記したように、わが国が最初に習得した漢字は中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)の夏音(かおん)文字であった。その証拠に、「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読む字音は「夏音文字の字音」である。「卑弥呼」を、中国に現存する最古の漢字音の上古音で読むと「ピミカ」となる。音韻史研究にもとづくと「ヒミコ」という字音のほうが「ピミカ」よりも古いことになる。
だから、わが国が漢字を最初に習得したのは後期縄文時代初頭であるゆえ、「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という定説は空理空論であった。
「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説は、空理空論であった――この事実を簡単明瞭に説明する科学的な意見が存在する。
この意見は――わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)の9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目における、「わが国の漢字音」と題して解説している意見であり――この意見は、次のごとく指摘する。
「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
音韻史研究によって、中国において現存する最古の漢字音は、下に配した「漢字生長史」に示したように、紀元前1046年から始まる周代初頭の「上古音」である。
上の「漢字生長史」が明確に示すように、「わが国が漢字を最初に習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」と主張する定説の漢字音は、中国において現存する最古の上古音よりも約1500年も新しい漢字音となる。したがって、「わが国が漢字を最初に習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という定説は白川静著『字統』が「わが国の漢字音」にて指摘する音韻史研究成果に反する非科学的な意見、つまり空理空論であったことになる。
白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する、わが国後期縄文時代初頭に習得した夏音文字の漢字音は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残っている。
だから、学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する絶対的定説は【科学】が成立しない空理空論であったのである。
◆「銀河」の別称は「銀漢」であり、「銀漢から作られた字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と呼んだ。
倉頡は天文学において通称「夏の銀河」と呼ばれる「夏の星座が漬(つ)かる巨大な銀河」から漢字を作る方法を発明した。「夏の銀河の各部の形状」から「文字」が作られたゆえ、わたくしは「夏の銀河」を「文字作成銀河」と呼ぶことにした。
「文字作成銀河」の写真は、下に示した。
倉頡がつかえる黄帝は東洋最古の医学書『内径(ないけい)』を作ったと伝わる。黄帝は【女性の生殖器と子どもの出産】を研究した。このため、倉頡の漢字作成目的は【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の医学研究】をあらわすことができる文字を発明することであった。したがって倉頡は、上に示した【文字作成銀河の各部の形状から、黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究】をあらわすことができる漢字を発明した。
倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝が容易に崩壊・滅亡すると心配して、下に示す〔三つの「死刑」に処する掟〕を定めた
【1】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」という事実を暴露した者とその一族全員に神罰を下して即刻に死刑にする。
【2】「多くの文字を容易に覚えるため、夏の銀河の各部に名称を付けた者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする。
【3】「書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員もまた死刑にする。
上記した【倉頡が死刑と定めた三つの掟】における【2】の掟「文字を容易に覚えるため、文字作成銀河の各部に名称を付けた者とその一族全員もまた即座に死刑にする」によって、今日においても文字作成銀河の各部をあらわす名称は存在しない。文字作成銀河の各部の名称が存在しないと、〔字源となる銀河=字形となる銀河=字義となる銀河〕の解説・証明において非常に不便となるゆえ、私は下記のごとく銀河各部の名称を定めた。
◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の2回で解説したように、「歳差(さいさ)」という天文現象を利用すると、黄帝と倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代初頭における中国全土の天頂にめぐってきた銀河を算出して再現することができる。
【漢字作成理論】が発明された五帝時代初頭、下に示すように、私が「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた銀河が中国全土の天頂にめぐってきた。この「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は、中国各地の人々が精確に緯度と方角を測定して、最も大事な命をまもることができる羅針盤となった。
〔注 「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は、上に示した「文字作成銀河各部の名称図」における左上にある)。
前述したように、倉頡が漢字を発明する目的は、黄帝がおこなった「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究をあらわすことができる文字を作成することであった。
下の図に示すように、黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」の東側半分は「弓を手に持つ男性の姿」に観えるが――「十字の銀河」の西側半分には、「乳房」「妊婦の腹部(おなか)」「右足」に観える部分があり、また「子宮に相当する箇所」もある。ゆえに、「十字の銀河」は「女体・妊婦・乙女」などに見立てられた。
倉頡は「十字の銀河」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた全文字が生まれる母体」と定めた。また「十字の銀河の子宮」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた全文字が生まれる子宮、あるいは女性の骨盤と生殖器」に見立てると定めた。
だから、「十字の銀河」は[文]の字源・字形・字義となった。ゆえに、下の上図における[文]の金文形は「十字の銀河」を「子宮に胎児が宿る妊婦の正面形」に図案した。
倉頡は「十字の銀河」を「黄帝が居住した地から遠くの地域に群れるジャコウウシを狩猟した男たちが帰還する、家族が待つ家」に見立てた。ゆえに、上の下図に示した[字]の金文形における上部の[宀(べん)]は「家族が生活する家」をあらわし、その下部の[子]の字源は「鬼の姿に似る銀河」となった。というのも「鬼の姿に似る銀河」は「子の姿(胎児・出産児・新生児)」に相似すると見立てられたからである。
これゆえ、「母親・妊婦」に見立てられた「十字の銀河」から図案された[宀]の下に、「鬼の姿に似る銀河」を字源・字形の原形・原義とした[子]が加わって、[字]の字源・字形・字義が成立することになった。
上に示した「[文]と[字]の字源銀河解説図」は【黄帝の〔女性生殖器と子どもの出産〕の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成原理】をあらわすことになった。
◆『魏志倭人伝』は「倭地には牛と馬が無い(生息していない)」と記述する。
[牛]の字源は「ジャコウウシ」であった。[馬]の字源は「フタコブラクダ」であった。
「ジャコウウシ」と「フタコブラクダ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
下の図に示したように、[牛]の「ジャコウウシ」は「第5週ごろの胎児の姿」に類似すると見立てられた。また、天敵のオオカミに襲われるとジャコウウシの群れは子どもを真ん中に隠し、円陣を組んで衛(まも)った。だから、「円陣の真ん中に隠すジャコウウシの子ども」は「子宮に宿る胎児」に見立てられ、「ジャコウウシの群れが組む円陣」は「女性の生殖器の大半を包囲して子宮に宿る胎児の命を衛る骨盤」に見立てられて、「ジャコウウシ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣と定められた。
ジャコウウシは有史以前には北半球の寒帯に生息していたが、紀元前3000年頃の黄帝時代になると、多くの地方で絶滅したとされる。黄帝時代、黄帝が居住地としたと推定される陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)の黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)周辺地域から北方の毛烏素(ムウス)沙漠は凍土・ツンドラ地帯と化していた。ゆえに、秋から冬になると百頭以上が一団となるジャコウウシの幾つかの群れが地平線かなたの毛烏素沙漠から南の黄帝の居住地近い餌場(えさば)を目指してあらわれた。その証拠に、司馬遷著『史記』五帝本紀には「師兵をもって営衛(えいえい)となす」という記事があり、この記事は「黄帝軍は駐屯(ちゅうとん)するとき、兵たちは円陣を組んで自衛した」と意味した。黄帝軍は円陣を組むジャコウウシの習性から学んで円陣を組んで駐屯していたのである。
『魏志倭人伝』に記載される「対馬国」「投馬国」「邪馬壱国」「斯馬国」「邪馬国」などの小国名に用いられる[馬]の字源・字形・字義は「フタコブラクダ」であった。わが国には、フタコブラクダは生息していなかったが、「フタコブラクダ」が字源・字形・字義となる[馬]の字がつく小国名が5ヵ国、しかも卑弥呼が居住した王国名は「邪馬壱国」である。だから、わが国には[馬]の字源・字形・字義を「フタコブラクダ」とする倉頡が作った原初漢字・五帝時代の書契とそして夏代初頭の夏音文字が習得されて、その《字源・字形・字義》は〈文字作成銀河の各部の形状〉によって表示され、《字音》は〈『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』にて楷書を音記号〉に用いて多数残っている。
ゴビ沙漠に住む人々にとって、フタコブラクダは「沙漠の船」となって欠くことができない大切な家畜である。フタコブラクダは位置も方位も判然としないゴビ沙漠を往来しても道に迷わない。ゆえに、天頂緯度線をキャッチして位置と方位を測定して日々暮らしていた黄帝時代の人々は《フタコブラクダを、精確に天頂緯度線をキャッチできる神秘的な眼力を有する獣》と憧れて尊重した。これゆえ、フタコブラクダは【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
下の図に示すように、「フタコブラクダの両目は顔の両端にある」と同様に「第7週頃の胎児の両目も顔の両端に離れている」。また、「フタコブラクダの睫毛(まつげ)は長い」と同様に「子ども(乳児)のつぶらな目の睫毛も長い」。
だから、「フタコブラクダ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
◆『魏志倭人伝』は「対馬国の南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰(い)う。一大国に至る」と説明する。
この記事が示すように、卑弥呼は「対馬国(現在の長崎県北部の朝鮮半島と九州本土の中間にある島)と一大国(現在の長崎県北部の壱岐島)の中間の海」を「瀚海」と名づけた。
「瀚海」は、中国北部・モンゴルより南方にある[馬]の字源「フタコブラクダ」が棲む「ゴビ沙漠」を意味する。
下に示すように、「黄色く輝く、三つ輪の銀河」は「月の光が照らして黄色く輝くゴビ沙漠」のイメージとなる。「三つ輪の銀河」に隣接する「黄色く輝く、十字の銀河」も「月の光にきらめく沙漠の沙(すな)」のイメージとなる。ゆえに、「十字の銀河」は「ゴビ沙漠に棲むフタコブラクダ」に見立てられた。
これゆえ、下の図に示すように、「三つ輪の銀河」は「沙漠」に見立てられ、「十字の銀河」は「フタコブラクダの側身形」に見立てられて[馬]の字源・字形・字義となり「フタコブラクダ」をあらわした。
下の図に示すように、卑弥呼は「対馬の上県(かみあがた)の地宜」を「フタコブラクダの正面形」に類似すると見立てた。というのも、前にて図示した「胎児の顔の両目はフタコブラクダの両目と同じく顔の両端にある」。ゆえに、この点からして卑弥呼は「上県の地宜」を「フタコブラクダの正面形」に相似すると見立てた。
上の図に示す「対馬の下県(しもあがた)の地宜」を、卑弥呼は「沙漠を歩くのに都合(つごう)のよい、丈夫な足の指を有するフタコブラクダの足底や足跡の形」に相似すると見立てた。卑弥呼が「上県の地宜」が相似すると見立てた「フタコブラクダの顔」は〔東〕に向く。同様に[馬]の字源「十字の銀河におけるフタコブラクダの顔」も〔東〕に向く〔注 地宜においては「右・東(つまり、右側が東)」となり、天象・銀河図においては「つまり、左・東(左側が東)」となる〕。
ゆえに、「上県の地宜は、下県がある西南へフタコブラクダが進む正面形」に見立てられ、「下県の地宜は、上県がある東北へ去ったフタコブラクダの足跡の形」に見立てられた。
だから、「上県・下県の地宜」は「フタコブラクダの姿と足跡の形が一対となる」ゆえ、卑弥呼は「上県・下県」の小国名を「一対」の[対]に[馬]が加わる「対馬」と定めた。
◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の6回で詳細に証明したように、下に示すように、倉頡は「十字の銀河の中央に「イネ(稲)、五穀」の図案を重ねる[禾(か)]の字を考案した。
上図の「十字の銀河の南側」に「南→西」と示したように、[禾]の字源・字形・字義は「時計回りに90度ずつ転回する方位規定、つまり北→東・東→南・南→西・西→北となる定理」をあらわし、「人民の胃袋を食料(五穀)で満たす、つまり五穀豊穣」という政治スローガンをあらわすことになった。この《[禾]の字源・字義・政治スローガン》を、[委(い)]と[倭(わ)]の字はそのまま受け継いだ。
下に示した「一大国・壱岐の地宜」は「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理における〔東〕を時計回りに90度転回して〔南〕となる定理する、[倭]の字源・字形・字義をあらわす方位規定」に則(のっと)る地図の形である。
〔東〕が〔南〕と化(な)る転回方位規定に則る「一大国北端(上部)の地宜」を、卑弥呼は「毛烏素(ムウス)沙漠はるか遠くの瀚海の東西を往来するフタコブラクダの姿」に相似すると見立てた。ゆえに、「一大国の大半を占める、ジャコウウシの姿」は「春から夏にかけて、黄帝の居住地近くの餌場から次第に北方の毛烏素沙漠へ向かって去ってゆくジャコウウシの群れ」に見立てられたことになる。
下に、「現在の地図と同じ方位規定における一大国の地宜」を示した。この現在方位にもとづく「一大国の地宜」だと「ジャコウウシの顔は南に向いている」ゆえ、「南へと前進するジャコウウシの大群」に見立てることができる。
したがって、この「一大国の地宜」は「穀物の収穫期の秋になると、フタコブラクダが棲む瀚海・ゴビ沙漠ある北方から南の毛烏素沙漠へと進み、凍土・ツンドラ地帯と化した毛烏素沙漠を縦断して到着した、黄帝が住む居住地からはるかに遠くの地平線上に出現したジャコウウシの大群」に見立てられたことになる。
これゆえ、卑弥呼は「冬になると季節風で海が荒れる玄界灘」を「乾燥した寒風が荒れ狂う吹雪の中をジャコウウシの大群が突きすすんで到着する、風で雪が吹きとばされた地表の露出した餌場・摂食地(せっしょくち)がある一帯地域」と見立てたことになる。
◆下に「対馬国・瀚海・一大国の地図」を示した。
上の地図が示すように、「対馬国の中心軸」は「経度線と緯度線に対して邪(なな)め」となるゆえ、[邪]の字義「ななめ」をあらわした。また、前述したように、卑弥呼は「対馬国の地宜」は[馬]の字源「フタコブラクダ」をあらわすと解釈した。
したがって、「対馬国」は[邪]と[馬]の2字をあらわすことになった。
「一大国」は後に「壱岐」と呼ばれたゆえ、「一大国の地宜」は[壱]の字をあらわした。
このように、卑弥呼は「対馬国と一大国の地宜」を「邪馬壱(やまい)」と解した。前述したように「邪馬壱」は【倉頡が発明した漢字作成理論の核心】をあらわした。
だから、卑弥呼は「邪馬壱」の地宜を有する山陰・出雲(現在の島根県東部)に居住することにした。
先年に死去した古代史研究家の古田武彦氏は陳寿が著作した『三国志』全体に記載された[壹](壱)86個、[臺](台)56個の文字を逐一調べ、[壹](壱)には[臺](台)の誤記が1ヵ所も無いことを証明した。
したがって、「『三国志』魏書東夷伝末部の倭人伝」、つまり通称「『魏志倭人伝』」は卑弥呼が居住した王国名を「邪馬台国」と記せず、「邪馬壱(やまい)国」と記している。
前述したように、黄帝と倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代時代初頭、「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」が中国各地の天頂にめぐってきた。この様子を、前掲した「黄帝時代初頭に中国全土の天頂にめぐってきた銀河図」と異なり、緯度線を上下・縦にして下図にあらわした。
上図が示すように、[馬]「フタコブラクダ」の字源・字形・字義となった「十字の銀河」は「緯度線と経度線と邪(なな)め」であるゆえ[邪]の字義となる。「十字の銀河の子宮」は[壱]の字源・字形の原形・原義であった。だから、「邪馬壱」という語は黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河の形状」をあらわすことになった。前述したように、倉頡は「十字の銀河」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた全漢字を生む母体」と定めた。ゆえに、「邪馬壱」という語は【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究の核心、つまり産婦人科の医学用語である「広形機能」または「骨重積(こつじゅうせき)」と呼ばれる機能と4回の回旋】をあらわすことになったのである。
このように、黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河の形状」は【黄帝の医学研究の核心】をあらわし、この【黄帝の医学研究の核心】を卑弥呼は「邪馬壱」と名づけた。ゆえに「邪馬壱」は「体の中でいちばん大きい出産児の頭がせまい産道を通過するための、今日の産婦人科で〔広形機能〕または〔骨重積〕」と呼ばれている機能」をあらわした。そして、前述したように倭人国の玄関口となる「対馬国・一大国の地宜」も「邪馬壱」とあらわしたゆえ、卑弥呼は「邪馬壱」の地宜を有する山陰・出雲に居住することにしたのである。
『魏志倭人伝』は「女王国の東、海を渡ること千余里にして復(ま)た国有り。皆(みな)倭種なり」と、倭女王・卑弥呼が居住した王国「邪馬壱国」について説明する。
前述したように、卑弥呼王朝が制定した[倭]の字源をあらわす本州・日本列島地図における転回方位規定にもとづくと、日本海がある〔北〕が〔東〕となるゆえ、山陰地方の日本海には山口県萩市見島と島根県の隠岐群島が所在するが――後者の隠岐群島が「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り。皆倭種なり」という記事に合致する。
というのも、隠岐群島は島前(どうぜん/知夫里島・西ノ島・中ノ島)・島後(どうご)と約180の小島からなるため、この「多数の島々」は「皆」と呼ぶことになるからである。
だから、「隠岐群島」は「山陰・出雲の東、海を渡ること千余里の位置に有る、皆倭種なり」と記述された小国となるゆえ、「旧国・出雲(現在の島根県東部)」こそが『魏志倭人伝』が「女王の都(みやこ)する所なり」と説明する「女王国・邪馬壱国」であったことになる。
◆下に、卑弥呼王朝が制定した転回日本列島(本州)地理にて定理された転回方位にもとづく卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の古代出雲の地宜を示した。
上図の右上に「[馬]の地宜」と記した「島根半島の北部(転回方位/現在方位の西部)の地宜」は、「馬・フタコブラクダの顔(頭部)と胸部」のごとくに観える。この「馬・フタコブラクダの左向きの顔に相似する地宜」は、前述した「邪馬」をあらわす「対馬国・上県北部(現在方位)の馬・右向きの顔の地宜」に相似する。ゆえに、前述したように、「対馬国・一大国」は「邪馬壱」をあらわし、卑弥呼が居住した王国も「邪馬壱」の地宜を有する「山陰・出雲」であったことになる。
上の「古代出雲の地宜」における「[馬]の地宜」に隣接する西側(転回方位)には「神門水海(かんどのみずうみ)」がある。
下の図に示す「神門水海」は「緯度線と経度線に邪(なな)めとなる、馬・フタコブラクダの姿」に観える。だから、「神門水海」は[邪]・[馬]つまり「邪馬」をあらわした。
古代の宍道湖(しんじこ)は「膝(ひざ)から下の足の形」に相似し、その「足の爪先(つまさき)」は転回方位の〔西〕を指差した。したがって、「宍道湖の地宜」は「十字の銀河の右足(西側の足)」に相当すると見立てられた。前述したように、[壱]の字源・字形・字義となった「十字の銀河の子宮」は「女体の姿に相似する、十字の右足」の東側に隣接する。
ゆえに、「足の形に似る、宍道湖の東岸(転回方位)」と接する佐太神社が鎮座する「島根半島の中央部」が[壱]の字をあらわす地宜となる。
下に、[壱]の字源をあらわした地宜、すなわち「佐太神社が鎮座する、島根半島の中央部の地宜」を表示した。
以上のように、「山陰・出雲」には卑弥呼が居住した王国名に配される「邪馬壱」の3字に合致する地宜が所在する。
◆「倉頡が漢字を発明した」と説明する伝説は、次のごとく後世に伝えられた。
「太古、黄帝時代に、倉頡という〈四つ目の怪人〉がいて、鳥獣の足跡をもってはじめて文字を作り、古来(三皇時代)の結縄の方法を代(か)えたので、天は祝福して禾(五穀)を降らせ、死霊の感泣(かんきゅう)する声が夜な夜な聞こえたというのである。」
この伝説に登場する「鳥獣の足跡」は【倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわす名称であったが、学者たちは「地面や雪の上に残る鳥や獣の足跡からヒントを得て、倉頡は始めて文字を作った」と誤訳・誤解した。
卑弥呼が生存した2世紀末から3世紀にかけて、言い換えると後漢時代から三国時代にかけて、中国では黄帝と倉頡の歴史が復興した。これゆえ、後漢時代の墓の内部から〈倉頡の肖像画〉を刻む石が発見された。
この石には、下に示すように〈倉頡の顔には、目が四つ〉刻まれていた。ゆえに、今日の学者たちは「人間の顔には目が四つも無い。だから、倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定した。
前述したように、五帝時代初頭の黄帝時代、中国全土の各地の天頂に「鬼の横顔に似る銀河」がめぐってきて、緯度(位置)と方角を正確に測定できる羅針盤となった。
下に示すように、「鬼の横顔に似る銀河の、その横顔には両目、その後頭部とアゴにも目の形を銀河」があるゆえ、「鬼の横顔に似る銀河」には「目が四つ」あった。
したがって、「四つ目の鬼の横顔に似る銀河」を、倉頡伝説は「四つ目の怪人・倉頡」と伝えていたことになる。
「漢字は銀河から作られた」と明確に暴露した人は国家と王朝を転覆させる大罪を犯していると定められて、その人とその一族はただちに死刑に処せられた。だから、〈倉頡の肖像画の顔〉には、「四つ目の鬼の横顔に似る銀河」のとおりには表現されなかった。「死刑はカンベン、命は惜しい」ということで「鬼の横顔に似る銀河の、四つ目の配置」と異なって、〈倉頡の肖像画〉では「顔に四つの目」が配置された。
◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の6回で詳細に解説し証明したように――
倉頡は「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわす[禾]の字と、下に示すように「逆時計回りに90度転回する方位規定」を字源・字形・字義とする[呉]の字を作った。
上の図における中央の上に「北→西」と記した矢印は「逆時計回りに90度転回する方位規定」をあらわす。ゆえに、[呉]の金文形の右上の[口(さい)]は「北→西はじめ西→南・南→東・東→北をあらわし、逆時計回り90度ずつ転回する方位規定」をあらわした。だから、[呉]の字源・字形・字義は「逆時計回りに90度転回する方位規定」を表示した。
上に示した「[呉]の字源銀河解説図と金文形」の図における北緯35度36分は黄帝時代の黄帝陵の天頂緯度線である。黄帝陵は陝西省(せんせいしょう)の黄陵県に所在し、今も黄帝の廟と墓とされて祭られている。
「[呉]の字源銀河解説図」における「人の横顔に酷似する銀河」を「巫女(みこ)の横顔」に見立て、「十字の銀河と鬼の姿に似る銀河」を「しなやかに踊る巫女の手」と見立てて、さらに「こと座を構成する明るい星たち」を「無事に子どもが出産したと祝い、また子どもの出産を祈祷する時に巫女が用いる土器、つまり祝祷(しゅくとう)の土器の[口(さい)](〔逆時計回りに90度転回する方位規定〕を示す図書)に見立てて、[呉]の字が作られた。これゆえ、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は、[呉]の字を「人が一手をあげて祝祷の器である口(さい)をささげ、身をくねらせて舞う形」と解説する。この『字統』の解説に登場する「一手」の[一]の字源は「十字の銀河の子宮」である。これゆえ、「一手」は「十字の銀河」を指すと考えられる。したがって、「十字の銀河」は[大]字形であるからして、[呉]の金文形における「舞う巫女の姿」のモデルは[大]字形の「十字の銀河」であるゆえ[大]字形に図案されている。
わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の6回で解説し証明したように――上記した「[禾][委][倭]の字源銀河図」の他に、下に示す「十字の銀河からさそり座α星まで」が[禾]の字源・字形・字義をあらわした。上に示した「[呉]の字源銀河解説図」の右側に配した[呉]に金文形における「[大]字形の巫女の姿となった字源銀河」は「人の横顔に酷似する銀河からさそり座α星まで」ということになる。
◆前述した「[呉]の字源銀河解説図と金文形」における「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)」には国際天文学会が「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」と名づけた箇所がある。「北天の最輝部」は「北半球に居住する人々が最も輝いて見える銀河部」のことである。「北天の最輝部」は「銀色に輝く」ゆえ、「銀河」または「銀漢」の「銀」は「北天の最輝部」を指していたことになる。「北天の最輝部」の北側は、下に配する図が示すように、「人の横顔に酷似する銀河の、前頭部」となる。
下に配する「四つ目の銀河における、鬼の後頭部とアゴにつく両目から人の横顔に酷似する銀河の前頭部まで」の、太線で表示した箇所が〔「邪馬壱」の銀河〕、つまり〔産道を通過するときの出産児の頭の「広形機能」または「骨重積」と呼ばれる機能をあらわす銀河〕ということになる。
「邪馬壱」の[壱]は「女性生殖器における産道」である。ゆえに、下の図における「太線の図書(ずしょ)」は「邪馬」をあらわす。「邪馬の図書」と重なる箇所が[壱]、つまり「産道における出産児の状況」をあらわすゆえ、〔「邪馬壱」の銀河〕は〔産道を通過するときの児頭の「広形機能」または「骨重積」と呼ばれる機能〕を表示することになった。
注目すべきは、《黄帝時代の黄帝陵における天頂緯度線(北緯35度36分)》が〔「邪馬壱」の銀河の北部〕を撫(な)でるがごとく貫通していることである。
下に、「小児(出産後間もない幼児)の頭蓋骨(ずがいこつ)の大泉門(だいせんもん)と小泉門(しょうせんもん)の図」を配した。小児の頭の骨の縫合は未完成で、骨どうしの間は〔結合組織性の膜〕になっている。このうち、矢状縫合(やじょうほうごう)の前端と後端は膜性の部分が大きく、前方は「大泉門」、後方は「小泉門」という名称で呼ばれる。
しかし、上に図示した〔この世に誕生したばかりの小児〕より以前の、下に配した「産道を通過する時の出産児の頭蓋骨図」が示すように、〔膣(ちつ)入口から膣口(膣出口)の産道を通過する時の児頭(じとう)の大泉門は、上に示したこの世に生まれてきた小児のものと異なり菱形(ひしがた)となって「広い形」つまり「広形(こうけい)」となる。
「出産児の頭蓋骨」における「小泉門・矢状縫合・大泉門の形」は、上に示した〔「邪馬壱」の銀河図〕における「邪馬」の形状をあらわし、また前述したように「産道」は[壱]をあらわす。ゆえに、「出産児の頭蓋骨における、小泉門・矢状縫合・大泉門の形」は「邪馬壱」ということになる。
◆上の図に示したように、「出産児の頭蓋骨」は「縦長(たてなが)」である。
下に、「縦長の出産児の頭がくぐり抜ける、横長(よこなが)の楕円形の女性の骨盤入口」の図を示した。
出産児の頭が誕生する娩出期(べんしゅつき)終わりまでの児頭の回旋の様子について、インターネット・ブログで出力した医療法人翔光会の産婦人科にしじまクリニック(埼玉県富士見市)は「赤ちゃんの進み方、回旋(かいせん)を知る」と題して、下記のごとく説明している。この説明を要約し、この要約に〔出産第1期の開口期(かいこうき)と出産第2期・娩出期(べんしゅつき)〕という注を加えると、次のようになる。
――骨盤の入口は横長の楕円形に対して、からだの中でいちばん大きな赤ちゃんの頭(児頭)の形は縦長であるゆえ、児頭が骨盤入口をくぐり抜けるためには、骨盤入口では児頭は横向きで入る。しかも入口部は骨盤内でいちばん狭い空間であるので、通常(正常分娩の場合には)赤ちゃんはアゴを胸につけた姿勢となり、児頭は屈曲して後頭部の小泉門が先進して時計回りに90度回旋する。これを、「第1回旋」と呼ぶ。
骨盤出口面は縦長であるゆえ、赤ちゃんは横向きから次第に正面・縦向きへ方向を変えながら、下降する。この過程を、「第2回旋」という。ちなみに、第1回旋(横向き)から第2回旋(縦向き)へ回る角度は90度であり、第1回旋と逆向きの反時計回り(逆時計回り)である。第1回旋から第2回旋の時の子宮口は大体7センチである。第2回旋が終了した時点で後頭部(小泉門)は恥骨側・12時方向の位置となり児頭の正面・縦向きが整う。この時、子宮口はすでにすっかり開く全開大(ぜんかいだい/10センチ)となり、出産第1期・開口期の終わりとなり、いよいよお産となる。
第3回旋は反時計回り(逆時計回り)になって児を娩出(べんしゅつ)するもので、この場合児は反屈して恥骨をくぐり抜けるように児頭が産道(膣)から娩出する。
最後の第4回旋は第1回旋と同じく児頭は時計回りに90度回旋して、頭が誕生した児はすぐに呼吸をはじめて声をあげる。この頭の誕生が出産第2期・娩出期の終りとなる。
◆上記したように――「出産児の頭の第1回旋と第4回旋」は、前述した[禾][委][倭]の字源・字形の原形・原義となる「時計回りに90度転回する方位規定」に共通する。だから、「第1回旋と第4回旋」がヒントとなって、倉頡は[禾]の字を考案したことになる。
また、「出産児の頭の第2回旋と第3回旋」は[呉]の字源・字形の原形・原義となる「反(逆)時計回りに90度転回する方位規定」に共通するゆえ、「第2回旋と第3回旋」がヒントとなって倉頡は[呉]の字を考案したことになる。
[禾]の「時計回りに90度転回する方向規定」と[呉]の「反(逆)時計回りに90度転回する方位規定」という字が作られたヒントとなった「産道を通過するときの出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門の回旋と、少し重ねて形を変えることができる緩(ゆる)い組み合わせの機能」を卑弥呼は「邪馬壱」と名づけた。この「邪馬壱」を、現在の産婦人科では「広形機能(こうけいきのう)」または「骨重積(こつじゅうせき)」と呼称する。
したがって、『魏志倭人伝』は――現在の産婦人科で「広形機能」と「骨重積」と名づけられている事象を「邪馬壱」と表現した卑弥呼は「邪馬壱」の地宜を有する「山陰・出雲」を「邪馬壱国」と名づけた――と伝えていたことになる。
なお、『魏志倭人伝』にて倭人国の最初に登場する小国の「対馬国」を「1番目」と数えると、「24番目」の小国は「邪馬(やま)国」である。
下に配した図における上図は[禾]の「転回方位」をそのまま受け継いだ[倭]の転回方位にもとづく旧国・大和全土を示す地宜である。下図は[馬]の「フタコブラクダの横顔」の図である。上図の「大和の地宜」は下図の「草をモグモグと食べる時のフタコブラクダの鼻・アゴ・口の動き」に相似すると見立てられて、「大和」の小国名は「邪馬」になったのである。
下に〔「邪馬」のフタコブラクダの鼻・アゴ・口の図〕を配した。
「フタコブラクダが草をモグモグと食べる鼻の動き」は「産道を通過する出産児の小泉門の動き」にソックリであり、「草を食べるフタコブラクダの上アゴの動き」は「産道する出産児の頭頂骨の動き」に酷似し、「草を食べるフタコブラクダの口の動き」は「産道を通過する出産児の大泉門の動き」に実に似ている。つまり、「産道を通過する時の出産児の頭蓋骨の5枚の骨(左右二つの前頭・左右二つの頭頂骨・後頭骨の5枚の骨)」の結合はゆるく少し重なる仕組みとなる。このため、「5枚の骨と小泉門・頭頂骨・大泉門の動き」は「草を食べる時のフタコブラクダの上アゴと下アゴが合わずに食い違って邪(なな)めとなる、またアゴの動きによって鼻は小泉門・口は大泉門のように互いに少し邪めとなる動き」に酷似する。これゆえ、「草を食べる時に邪めとなる馬・フタコブラクダの鼻・アゴ・口の動きの形状」も、「邪馬」ということになった。
これゆえ、「大和の地宜」は「草を食べる時のフタコブラクダの横顔」にソックリということで、卑弥呼は「大和」の小国名を「邪馬国」と定めたのである。
以上のごとく、「邪馬壱国」と「邪馬国」という小国名で共通する「邪馬」は、現在の産婦人科の用語「広形機能・骨重積」を表現するものであったことになる。
『魏志倭人伝』は学者たちが「倉頡伝説は歴史的事実を語っていない! 荒唐無稽(こうとうむけい)である!」と学者たちが断定して葬ってしまった歴史的事実を伝えている。『魏志倭人伝』は、黄帝につかえた史官・倉頡が発明した漢字作成理論を体系的に正確に伝える貴重な学問書にして歴史書であった。というのも、卑弥呼王朝の政権基盤は【倉頡が発明した漢字作成理論】であったからである。卑弥呼は倭人国を構成する33の小国名を【倉頡が発明した漢字作成理論】にもとづいて定めた。だから、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】が正確に残された貴重な史料であったのである。
〔注 倭人国は34小国で構成されるが、隠岐群島の小国名は記載されていない〕。
◆新井白石は最初「大和(やまと)」の「やま」の音が「邪馬(やま)」の音に合致することを根拠・理由にして、倭女王卑弥呼が居住した邪馬台国は大和であったと比定した。しかし、倭女王卑弥呼が居住した王国は山陰の出雲であった。後に白石は「筑後山門郡(ちくごやまとぐん)」の郡名「山門」の「山(やま)」が「邪馬(やま)」の音と合致することを根拠・理由にして、筑後山門郡は邪馬台国であったと比定した。しかし、「邪馬」は「山」を意味するものでなく、「経度線と緯度線に対して邪(なな)めの馬(フタコブラクダ)の姿に相似する出雲の神門水海の地宜」を「邪馬」と表現するものであった。現在の邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は新井白石が『魏志倭人伝』に初めて学問的検討を加えたと定めて、白石の意見をそのまま受け継いでいるが――卑弥呼が居住した「邪馬壱国」の「邪馬壱」は【黄帝の《女性生殖器と子どもの出産の医学研究》の核心】、言い換えると【フタコブラクダが草を食べる時の鼻・アゴ・口の動きにソックリの、現在の産婦人科でいう「広形機能」と呼ばれている〔産道を通過する時の神秘的な児頭の動き・重ね合わさる機能・4回の回旋〕】をも表現するものであったのである。
要するに、『魏志倭人伝』は[倭]の字源・字形・字義「時計回りに90度転回する方位規定」にもとづいて、下の図のごとく「本州の日本列島地図における〔東〕に所在する東海地方は〔南〕に回旋する」と説明していた。この転回方位規定にもとづき、下図に示すように、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰・出雲であった」と記述していたのである。
『魏志倭人伝』には本州日本列島における方位記事は全部で12ヵ所ある。この全12ヵ所の方位記事は、上に示した「[倭]の字源を示す転回日本列島地理における方位」」に矛盾点・不合理な点はいっさい存在せず【科学】が成立する。
だから、『魏志倭人伝』は九州説や畿内説のごとく「文献批判」と名づけた【誤読】を幾つも加える手間をいっさい必要としない、正確無比の文献史料であったのである。
◆次回は、『魏志倭人伝』に「卑弥呼は径百余歩(直径が約150メートル)の円墳の墓に葬られた」と記述された卑弥呼の墓は出雲・邪馬壱国に所在した秘密について究明・解説する。
| 固定リンク
「卑弥呼」カテゴリの記事
- 家康くんと『魏志倭人伝』#6(2022.11.13)
- 家康くんと『魏志倭人伝』#5(2022.10.27)
- 家康くんと『魏志倭人伝』#4(2022.10.04)
- 家康くんと『魏志倭人伝』#3(2022.09.20)
- 家康くんと『魏志倭人伝』#2(2022.09.06)
「邪馬台国」カテゴリの記事
- 家康くんと『魏志倭人伝』#6(2022.11.13)
- 家康くんと『魏志倭人伝』#5(2022.10.27)
- 家康くんと『魏志倭人伝』#4(2022.10.04)
- 家康くんと『魏志倭人伝』#3(2022.09.20)
- 家康くんと『魏志倭人伝』#2(2022.09.06)
「歴史」カテゴリの記事
- 家康くんと『魏志倭人伝』#6(2022.11.13)
- 家康くんと『魏志倭人伝』#5(2022.10.27)
- 家康くんと『魏志倭人伝』#4(2022.10.04)
- 家康くんと『魏志倭人伝』#3(2022.09.20)
- 家康くんと『魏志倭人伝』#2(2022.09.06)
「漢字の起源」カテゴリの記事
- 家康くんと『魏志倭人伝』#6(2022.11.13)
- 家康くんと『魏志倭人伝』#5(2022.10.27)
- 家康くんと『魏志倭人伝』#4(2022.10.04)
- 家康くんと『魏志倭人伝』#3(2022.09.20)
- 家康くんと『魏志倭人伝』#2(2022.09.06)
「ヒエログリフ(聖刻文字)」カテゴリの記事
- 邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・14(2022.08.13)
- 邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・13(2022.07.23)
- 邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・12(2022.07.11)
- 邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・9(2022.06.19)
- 邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・8(2022.05.25)
「日本国誕生史の証明」カテゴリの記事
- 家康くんと『魏志倭人伝』#6(2022.11.13)
- 家康くんと『魏志倭人伝』#5(2022.10.27)
- 家康くんと『魏志倭人伝』#4(2022.10.04)
- 家康くんと『魏志倭人伝』#3(2022.09.20)
- 家康くんと『魏志倭人伝』#2(2022.09.06)
「大嘗祭の証明」カテゴリの記事
- 家康くんと『魏志倭人伝』#6(2022.11.13)
- 家康くんと『魏志倭人伝』#5(2022.10.27)
- 家康くんと『魏志倭人伝』#4(2022.10.04)
- 家康くんと『魏志倭人伝』#3(2022.09.20)
- 家康くんと『魏志倭人伝』#2(2022.09.06)
「まぼろしの邪馬台国」カテゴリの記事
- 家康くんと『魏志倭人伝』#6(2022.11.13)
- 家康くんと『魏志倭人伝』#4(2022.10.04)
- 家康くんと『魏志倭人伝』#3(2022.09.20)
- 家康くんと『魏志倭人伝』#2(2022.09.06)
- 家康くんと『魏志倭人伝』#1(2022.08.26)
コメント