« 邪馬台国説はサギ・騙されるな・9 | トップページ | 邪馬台国説はサギ・騙されるな・11 »

2021年4月16日 (金)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・10

▼学界はじめメディアは、“日本古代史最大の秘密”を伝える『魏志倭人伝』は倭女王・卑弥呼が居住した王国は吉野ケ里遺跡がある九州、あるいは纏向(まきむく)遺跡がある畿内・大和に所在したにちがいないと思い込んでいる。しかし――この九州説と畿内説は【科学】がまったく成立しない空理空論である。というのも、前回のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の9回で詳細に証明したように――卑弥呼が居住した王国は山陰・出雲(現在の島根県東部)であったからである。この出雲説ならば、『魏志倭人伝』の全記事と矛盾点も弱点も無く論理が完結し【科学】が成立して事実・真実となる。
 九州説と畿内説は、『魏志倭人伝』は「邪馬台国」の所在地を決定するための史料であると定める。しかし、約2000字で構成される『魏志倭人伝』の約55パーセント・約1100字の記事は「紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、わが国は原初漢字の夏音(かおん)文字(中国の夏代初頭の漢字)と、夏代初頭より約1000年前の紀元前3000年頃の中国の五帝時代初頭に生存した倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論をも習得した」と伝えている。この歴史ついては、前回のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の9回で詳細に解説して証明した。
 だから、『魏志倭人伝』を「邪馬台国の所在地を決定するための史料」と定める九州説と畿内説は【1】卑弥呼は山陰・出雲(邪馬壱国)で居住していたゆえ空理空論・デタラメ・詐偽(さぎ)であったうえに、【2】『魏志倭人伝』は「わが国は【夏音文字の学芸】と【倉頡が発明した漢字作成理論】を習得した」と具体的に正確に伝える重大な歴史書であったゆえ、九州説と畿内説はこれまた空理空論・デタラメ・詐偽(さぎ)であったことになる。
 そして、【3】学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」と断定する絶対的定説もまた空理空論であった。というのも、上記したように、『魏志倭人伝』は約55パーセント・約1100字の記事で「わが国は約4000年前に、中国の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)の原初漢字の夏音文字と、約5000年前から始まる中国の五帝時代の原初漢字・書契(しょけい)を習得した」と伝えているからである。


★「倭人国の地理学」のトリセツ・19

◆上記したように、『魏志倭人伝』は約55パーセント・約1100字の記事をもって「わが国は約4000年前の後期縄文時代初頭に【原初漢字・夏音文字の学芸】を習得するとき、約5000年前の中国の五帝時代初頭に生存した【倉頡が発明した漢字作成理論】をも習得した」と伝える歴史書であった。
 これゆえ、『魏志倭人伝』には(1)「倭人国の易に用いられる辞(ことばと文字)は、令亀(れいき)の法のごとく、つまり紀元前1300年頃から始まる殷代(いんだい)後半に亀の甲羅に刻んだ甲骨文字のごとくであった」と伝える記事と、(2)「魏都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる楷書と、倭女王卑弥呼が文書に用いる文字は差錯(ささく/相違)していた」という、二つの記事が存在する。
 卑弥呼が文書に用いた文字は後期縄文時代初頭に習得した夏音文字であった。その証拠に、「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読む字音は「夏音文字の字音」である。「卑弥呼」を、中国に現存する最古の漢字音の上古音で読むと「ピミカ」となる。音韻史研究にもとづくと「ヒミコ」という字音のほうが「ピミカ」よりも古いことになる。だから、わが国が漢字を最初に習得したのは後期縄文時代初頭であるゆえ、「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という定説は空理空論であったことになる。
 「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は、空理空論であった――この事実を簡単明瞭に説明する科学的な意見が存在する。
 この意見は――わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目における、「わが国の漢字音」と題して解説している意見であり――この意見は、次のごとく指摘する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 音韻史研究によって、中国において現存する最古の漢字音は、下に配した「漢字生長史」に示したように、紀元前1046年から始まる周代初頭の「上古音」である。
Photo_20210416152301
 上の「漢字生長史」が明確に示すように、「わが国が漢字を最初に習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」と主張する定説の漢字音は、中国において現存する最古の上古音よりも約1500年も新しい漢字音となる。したがって、「わが国が漢字を最初に習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という定説は白川静著『字統』が「わが国の漢字音」にて指摘する音韻史研究成果に反する非科学的な意見、つまり空理空論であったことになる。
 白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する、わが国後期縄文時代初頭に習得した夏音文字の漢字音は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残っている。
 だから、学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する絶対的定説は【科学】が成立しない空理空論であったのである。

◆「銀河」の別称は「銀漢」であり、「銀漢から作られた字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と呼んだ。
 倉頡は天文学において通称「夏の銀河」と呼ばれる「夏の星座が漬()かる巨大な銀河」から漢字を作る方法を発明した。「夏の銀河の各部の形状」から「文字」が作られたゆえ、わたくしは「夏の銀河」を「文字作成銀河」と呼ぶことにした。
 「文字作成銀河」の写真は、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の9回に配したゆえ、今回は省略した。
 倉頡がつかえる黄帝は東洋最古の医学書『内径(ないけい)』を作ったと伝わる。黄帝は【女性の生殖器と子どもの出産】を研究した。このため、倉頡は「文字作成銀河(夏の銀河)」から黄帝の【女性の生殖器と子どもの出産】の医学研究をあらわす文字」を発明した。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・2回」にて指摘したように――倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝が容易に崩壊・滅亡すると心配して、下記に示す〔三つの「死刑」に処する掟〕を定めた。
▼倉頡が死刑と定めた三つの掟
1】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」という事実を暴露した者とその一族全員に神罰を下して即刻に死刑にする。
2】「多くの文字を容易に覚えるため、夏の銀河の各部に名称を付けた者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする。
3】「書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員もまた死刑にする。

◆上記した【3】の掟のため――五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。〔注 実際は数点も発見・出土しているが、学者たちがこれらの資料を「文字」と認めないゆえ、いまだ一点も発見・出土しないことになっている〕。
 しかし、『魏志倭人伝』が「後期縄文時代初頭に、わが国に伝来して習得された」と説明している原初漢字の夏音文字の字源・字形・字義は文字作成銀河の各部の形状であった。ゆえに、われわれが用いている当用漢字と同じく夏音文字は【字源・字形・字義】を有する。そして、字音は『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』等に楷書を音記号に用いて現存する。だから、夏音文字は現代の当用漢字と同じく【文字の四要素《字源・字形・字義・字音》】から成るゆえ、【文字】の定義が成立して「文字」であったことになる。
 紀元前1300年頃から始まる殷代後半に出現した亀の甲羅に刻んだ契文(けいぶん)=甲骨文字は文字数が多数となったため、【3】の掟を毎度まもるのは非常に面倒になった。これゆえ、契文(甲骨文字)によって【3】の掟は破られた。ゆえに、契文以後の周代の金文・その後の大篆(だいてん)や小篆(しょうてん)や隷書(れいしょ)や楷書は【3】の掟を破っても良いことになった。
 卑弥呼が最初に歴史上に登場したのは180年頃であった。当時は後漢時代末で原始的楷書が用いられていたゆえ、倭人国が有した五帝時代の書契と夏代の夏音文字は楷書で表記されることになった。
 中国において、契文が用いられた殷代後半以後、【倉頡が発明した漢字作成理論】は国家と王朝が独占管理して厳重に機密を保持し、また倉頡が定めた【1】と【2】の掟も国家と王朝によって厳重に守られた。
 わが国においても、後期縄文時代初頭以後、【倉頡が死刑と定めた三つの掟】は厳重に守られた。
 だから、上記したように、『魏志倭人伝』には(1)「倭の易に用いる辞は、甲骨文字(令亀の法)の辞のごとく」、また(2)「卑弥呼が文書に用いる漢字と魏の都と帯方郡・諸韓国が文書に用いる漢字は相違していた」と、「わが国は原初漢字を習得した」と明記する二つの記事が存在するにもかかわらず、九州説と畿内説をとなえる先生方は「わが国には原初漢字が存在した」という記事を徹底的に無視して、そんな記事が『魏志倭人伝』に存在することを厳重な機密にして口を「ぎゅー」かたく閉じて一言もしゃべらないことにしたのである。
 しかし、『魏志倭人伝』は――「【銀漢(文字作成銀河)から作られた文字】を略して【漢字】と名づけられた」と伝え、またわが国は【約5000年前に生存した倉頡が発明した漢字作成理論と約4000年前の夏音文字の学芸】を習得した――と伝えている。
 上記した【倉頡が死刑と定めた三つの掟】における【2】の掟「文字を容易に覚えるため、文字作成銀河の各部に名称を付けた者とその一族全員もまた即座に死刑にする」によって、今日においても文字作成銀河の各部をあらわす名称は存在しない。文字作成銀河の各部の名称が存在しないと、〔字源となる銀河=字形となる銀河=字義となる銀河〕の解説・証明において非常に不便となるゆえ、私は下記のごとく銀河各部の名称を定めた。
00003_20210416152501
◆九州説と畿内説は【天の北極がある方向を〔北〕と定める、現在の日本地図と同じ日本列島地図】に則(のっと)って、『魏志倭人伝』を読解する。しかし、『魏志倭人伝』は「【倉頡が発明した漢字作成理論】によって確立された[]の字源に則って、卑弥呼王朝は本州・日本列島地理の方位を――時計回りに90度転回して、本州の〔東〕は〔南〕へ延びる――と制定した」と説明している。これゆえ、九州説と畿内説は「『魏志倭人伝』が伝える〔転回日本列島地理〕は科学的にも歴史的にも事実であるはずがない」と認めず、多数の【誤読(文献批判)】を加えて立論するがいっこうに【科学】が成立しない。だから、『魏志倭人伝』は九州説と畿内説がただちに空理空論と証明することができる書物であったのである。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の2回で解説したように、「歳差(さいさ)」という天文現象を利用すると、黄帝と倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代初頭における中国全土の天頂にめぐってきた銀河を算出して再現することができる。
 【漢字作成理論】が発明された五帝時代初頭、下に示すように、私が「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた銀河が中国全土の天頂にめぐってきた。この「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は、中国各地の人々が[](つまり、天頂緯度軸線と子午線)をキャッチすると精確に緯度と方角が測定できる、最も大事な命をまもることができる羅針盤となった。
 〔注 「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は、上に示した「文字作成銀河各部の名称図」における左上にある)
S55_20210416152701
 前述したように、倉頡が漢字を発明する目的は、黄帝がおこなった「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究をあらわすことができる文字を作成することであった。
 下の図に示すように、黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」の西側半分には、「乳房」「妊婦の腹部」「右足」に観える部分があり、また「子宮に相当する箇所」もある。ゆえに、「十字の銀河」は「女体・妊婦・乙女」などに見立てられた。
S56_20210416152801
 倉頡は「十字の銀河」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた全文字が生まれる母体」と定めた。また「十字の銀河の子宮」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた全文字が生まれる子宮、あるいは女性の骨盤と生殖器」に見立てると定めた。
 そして、「十字の銀河」は[]の字源・字形・字義となった。ゆえに、下の上図における[]の金文形は「十字の銀河」を「子宮に胎児が宿る妊婦の正面形」に図案した。
000010_20210416152901
 倉頡は「十字の銀河」を「黄帝が居住した地から遠くの地域に群れるジャコウウシを狩猟した男たちが帰還する、家族が待つ家」に見立てた。ゆえに、上の下図に示した[]の金文形における上部の[(べん)]は「家族が生活する家」をあらわし、その下部の[]の字源は「鬼の姿に似る銀河」となった。というのも「鬼の姿に似る銀河」は「子の姿(胎児・出産児・新生児)」に相似すると見立てられたからである。だから、「鬼の姿に似る銀河」は[]の字源・字形・字義をあらわすことになった。
 これゆえ、「母親・妊婦」に見立てられた「十字の銀河」から図案された[]の下に、「家で生まれて育つ子」に見立てられた「鬼の姿に似る銀河」から図案された[]が加わって、[]の字源・字形・字義が成立することになった。
 上に示した「[][]の字源銀河解説図」は【黄帝の〔女性生殖器と子どもの出産〕の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成原理】をあらわすことになった。

◆中国の五経の第一番目にあげられる古典『易経(えききょう)』繋辞下伝(けいじげでん)は【漢字の起源】について、次のごとく記述する。
 「古者(いにしえ)包犠(ほうぎ)氏の天下に王たるや、仰いでは天象を観、俯()しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観る。近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る。ここにおいて始めて八卦(はっけ)を作り、もって神明の徳に通じ、もって万物の情に類して結縄(けつじょう)を作った」
 また、この【漢字の起源記事】の直後に、『易経』繋辞下伝は、下記のごとく説明する。
 「上古は結縄して治める。後世の聖人これに易()えるに書契をもってす。」
 この【書契説明記事】に登場する「結縄」は「紀元前4000年頃の三皇時代初頭に生存した包犧氏が考案した易卜に用いた記号」の名称である。また、「後世の聖人」は「【万物の情(イメージ)に類する書契】を考案した倉頡」である。
 上に示した『易経』繋辞下伝の【漢字の起源記事の冒頭と末部】は誤っている。というのも、三皇時代の包犧氏は易に用いる記号「結縄」を作ったが、「女性の生殖器と子ども出産の医学研究」をあらわすことができる文字を作らなかったからである。
 倉頡によって、黄帝が研究した「女性生殖器と子どもの出産の研究をあらわす、万物の情に類する文字」が発明された。だから、前述したように、倉頡は「中国全土の天頂にめぐってきた十字の銀河」を「文字作成銀河の各部の形状における、万物の情に類する文字を生む母体」と定め、「十字の銀河の子宮(生殖器)」を「文字作成銀河の各部の形状における、万物の情に類する文字が生まれる子宮(生殖器)」と定めた。したがって、「万物の情に類する文字」を作ったのは倉頡であったことになる。
 これゆえ、上に示した【漢字の起源記事】を「黄帝に仕えた史官の倉頡は、仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観る。(中略)。もって万物の情に類して書契を作った」と直すと正しくなる。
 【漢字の起源記事】に登場する「天象」は「文字作成銀河」を意味し、「地法」は「文字作成銀河の各部における東から西へと移動する運行に対して、逆向きに中国の大地をけずって流れる代表的な黄河や長江の水は西から東へ去る(移動する)状況」を意味する語である。「鳥獣の文」は【倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわす名称であった(倉頡伝説では、「鳥獣の文」は「鳥獣の足跡」と名づけられた)。「地宜」は「平面的に図化した地図の形」を意味した。「八卦」は「易の判断の基礎となる八つの象(かたち)、すなわち、乾(けん)・兌()・離()・震(しん)・巽(そん)・坎(かん)・艮(ごん)・坤(こん)の称」ではない。「八卦」は「東・西・南・北の四方位と、東北・西北・東南・西南の四方角、つまり八方位、八代(やしろ)、八隅(やすみ)」を意味する。
 なお、上に示した【漢字の起源記事】に登場する「近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る」という文について、『魏志倭人伝』は「【A】玄界灘の大海中に在る対馬国と一大国の南北線(経度線)の向きは、【B】九州の末盧(まつろ)国以下の本州における東西軸(緯度線)の向きと同じとなる」と説明していることになる。
 要するに、「近くはこれを身に取る」という文は「対馬国と一大国は現在の日本地図と同じく南北に所在する」と意味した。しかし、「遠くはこれを物に取る」という文は下に示す転回日本列島地図のごとく「本州の西にある九州は〔北〕に所在し、本州の東にある関東地方は〔南〕に所在する」、言いかえると「本州・日本列島は時計回りに90度転回する」と定理するものであった。
K195_20210416153001
 今日の地理学においては《天の北極がある方向を〔北〕と定める、単一方位規定》である。
 しかし、【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤とした卑弥呼王朝の方位規定は『易経』繋辞下伝の【漢字の起源記事】が説明するように「近くはこれを身に取る」と「遠くはこれを物に取る」という異なる二種の方位規定が共立する、二者共立方位規定であった。 だから、日本列島における本州は「遠くはこれを物に取る」という定理に則って「時計回りに方位が90度転回して〔東の関東地方〕は日本列島の〔南〕に所在することになった。他方、九州沖の玄界灘の大海中に所在対馬国と一大国は「近くはこれを身に取る」という定理に則って現代の方位(対馬国は北、一大国・壱岐は南)と同じとなった。

◆『魏志倭人伝』は「倭地には牛と馬が無い(生息していない)」と記述する。
 []の字源は「ジャコウウシ」であった。[]の字源は「フタコブラクダ」であった。
 「ジャコウウシ」と「フタコブラクダ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
 下の図に示したように、[]の「ジャコウウシ」は「第5週ごろの胎児の姿」に類似すると見立てられた。また、天敵のオオカミに襲われるとジャコウウシの群れは子どもを真ん中に隠し、円陣を組んで衛(まも)った。だから、「円陣の真ん中に隠すジャコウウシの子ども」は「子宮に宿る胎児」に見立てられ、「ジャコウウシの群れが組む円陣」は「女性の生殖器の大半を包囲して子宮に宿る胎児の命を衛る骨盤」に見立てられて、「ジャコウウシ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣と定められた。
K62_20210416153101  
 ジャコウウシは有史以前には北半球の寒帯に生息していたが、紀元前3000年頃の黄帝時代になると、多くの地方で絶滅したとされる。黄帝時代、黄帝が居住地としたと推定される陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)の黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)周辺地域から北方の毛烏素(ムウス)沙漠は凍土・ツンドラ地帯と化していた。ゆえに、秋から冬になると百頭以上が一団となるジャコウウシの幾つかの群れが地平線かなたの毛烏素沙漠から南の黄帝の居住地近い餌場(えさば)を目指してあらわれた。その証拠に、司馬遷著『史記』五帝本紀には「師兵をもって営衛(えいえい)となす」という記事があり、この記事は「黄帝軍は駐屯するとき、兵たちは円陣を組んで自衛した」と意味した。黄帝軍は円陣を組むジャコウウシの習性から学んで円陣を組んで駐屯していたのである。
 「ジャコウウシ」は[][][][][][][][][][][][]などの[]の部首を有する字の字源となり、また「円陣を組んで衛る習性」から「防衛」の[]の字源となり、さらに「祭祀に用いる完全(最も理想的)な犠牲(いけにえ)」とされたうえに黄帝時代以後に中国から去って姿を消すと「たたり」を意味する[(すい)]あるいは[(じゅつ)]の字源・字義となった。さらに、医学用語の「子どもが生まれようとするときに妊婦の腹部を襲う猛烈な傷み」の「陣痛」も「円陣を組むジャコウウシの習性」に由来するものであった。
 『魏志倭人伝』に記載される「対馬国」「投馬国」「邪馬壱国」「斯馬国」「邪馬国」などの小国名に用いられる[]の字源・字形・字義は「フタコブラクダ」であった。わが国には、フタコブラクダは生息していなかったが、「フタコブラクダ」が字源・字形・字義となる[]の字がつく小国名が5ヵ国、しかも卑弥呼が居住した王国名は「邪馬壱国」である。だから、わが国には[]の字源・字形・字義を「フタコブラクダ」とする倉頡が作った原初漢字・五帝時代の書契とそして夏代初頭の夏音文字が習得されて、その《字源・字形・字義》は〈文字作成銀河の各部の形状〉によって表示され、《字音》は〈『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』にて楷書を音記号〉に用いて失われずに多数残っている。
 ゴビ沙漠に住む人々にとって、フタコブラクダは「沙漠の船」となって欠くことができない大切な家畜である。フタコブラクダは位置も方位も判然としないゴビ沙漠を往来しても道に迷わない。ゆえに、天頂緯度線をキャッチして位置と方位を測定して日々暮らしていた黄帝時代の人々は《フタコブラクダを、精確に天頂緯度線をキャッチできる神秘的な眼力を有する獣》と憧れた。ゆえに、フタコブラクダは【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
 下の図に示すように、「フタコブラクダの両目は顔の両端にある」と同様に「第7週頃の胎児の両目も顔の両端に離れている」。また、「フタコブラクダの睫毛(まつげ)は長い」と同様に「子ども(乳児)のつぶらな目の睫毛も長い」。
 だから、「フタコブラクダ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
K63_20210416153301
◆『魏志倭人伝』は「対馬国の南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」と説明する。
 この記事が示すように、卑弥呼は「対馬国(現在の長崎県北部の朝鮮半島と九州本土の中間にある島)と一大国(現在の長崎県北部の壱岐島)の中間の海」を「瀚海」と名づけた。
 「瀚海」は、中国北部・モンゴルより南方にある[]の字源「フタコブラクダ」が棲む「ゴビ沙漠」を意味する。
 卑弥呼は「現在の対馬と壱岐島の中間の東水道」を「瀚海」(ゴビ砂漠)と名づけて、【実った小麦を収穫する秋になると、毛烏素(ムウス)沙漠がある北方のかなたの地平線から1組百頭以上のジャコウウシがむ犇(ひし)めいて一団となる、その幾組の群れが黄帝の居住地近くにある餌場へ目指して出現した壮大な光景】を甦(よみがえ)らせた。
 卑弥呼が「対馬国と一大国の中間の海」を「瀚海」と名付けた目的は、もちろん「卑弥呼王朝の政権基盤は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】である」と明示するためであった。また、「夏音文字を習得した後期縄文時代初頭から晩期縄文時代初頭まで約1000年間も続いた日照りと冷害の大災害、この【鬼神(きじん)の厳しい刑罰】」は【倉頡が死刑と定めた三つの掟】は同一であると認識させて、上記した【倉頡が死刑と定めた三つの掟】を厳重に守らせるための工夫(くふう・アイディア)であった。この秘密については、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の6回で詳細に解説して証明した。
 卑弥呼王朝の政権基盤は【倉頡が発明した漢字作成理論】であった。だから、反体制側の人々が【倉頡が死刑と定めた三つの掟】を暴露して卑弥呼王朝を転覆させる革命を阻止しなければならなかった。このため、「瀚海」で【倉頡が死刑と定めた三つの掟】を表象して刑罰が厳重な国法(倭人国の憲法)を表示して、卑弥呼は王朝と国家の崩壊・滅亡を食い止めることにしたのである。

◆下に示すように、「黄色く輝く、三つ輪の銀河」は「月の光が照らして黄色く輝くゴビ沙漠」のイメージとなる。「三つ輪の銀河」に隣接する「黄色く輝く、十字の銀河」も「月の光にきらめく沙漠の沙(すな)」のイメージとなる。ゆえに、「十字の銀河」は「ゴビ沙漠に棲むフタコブラクダ」に見立てられた。
000013_20210416153401
 これゆえ、下の図に示すように、「三つ輪の銀河」は「沙漠」に見立てられ、「十字の銀河」は「フタコブラクダの側身形」に見立てられて[]の字源・字形・字義となり「フタコブラクダ」をあらわした。
000014_20210416153501
 下の図に示すように、「対馬の上県(かみあがた)の地宜」は「フタコブラクダの正面形」に類似すると見立てられた。というのも、前にて図示した「胎児の顔の両目はフタコブラクダの両目と同じく顔の両端にある」。ゆえに、この点からして「上県の地宜はフタコブラクダの正面形」と見立てられることになった。
000015_20210416153501
 上の図に示すように、「対馬の下県(しもあがた)の地宜」は「沙漠を歩くのに都合(つごう)のよい、丈夫な足の指を有するフタコブラクダの足底や足跡の形」と見立てられた。「下県の地宜」は「東北の上県に目指して去ったフタコブラクダの足跡の形」である。「上県の地宜」に見立てられた「フタコブラクダの顔」は〔東〕に向く。同様に[]の字源「十字の銀」のおけるフタコブラクダの顔」も〔東〕に向く〔注 地宜においては「右・東(つまり、右側が東)」となり、天象・銀河図においては「つまり、左・東(左側が東)」となる〕。
 ゆえに、「上県の地宜は、下県がある西南へフタコブラクダが進む正面形」に見立てられ、「下県の地宜は、上県がある東北へ去ったフタコブラクダの足跡の形」に見立てられた。
 だから、「上県・下県の地宜」は「つまりフタコブラクダの姿と足跡の形が一対となる」ゆえ、「上県・下県」の小国名は「一対」の[][]が加わる「対馬」となった。

 下に示した「一大国・壱岐の地宜」は、前述した『易経』繋辞下伝の【漢字起源の記事】に登場する「遠くはこれを物に取る」、つまり「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理における〔東〕を時計回りに90度転回して〔南〕となる定理する、[]の字源・字形・字義をあらわす方位規定」に則(のっと)る地図の形である。
 〔東〕が〔南〕と化()る転回方位規定に則る「一大国北端(上部)の地宜」は「毛烏素(ムウス)沙漠はるか遠くの瀚海の東西を往来するフタコブラクダの姿」に相似すると見立てられた。ゆえに、「一大国の大半を占める、ジャコウウシの姿」は「春から夏にかけて、黄帝の居住地近くの餌場から次第に北方の毛烏素沙漠へ向かって去ってゆくジャコウウシの群れ」に見立てられたことになる。
000018_20210416153601
 下に、「現在の地図と同じ方位規定における一大国の地宜」を示した。この現在方位にもとづく「一大国の地宜」だと「ジャコウウシの顔は南に向いている」ゆえ、「南へと前進するジャコウウシの大群」に見立てることができる。
 したがって、この「一大国の地宜」は「穀物の収穫期の秋になると、フタコブラクダが棲む瀚海・ゴビ沙漠ある北方から南の毛烏素沙漠へと進み、凍土・ツンドラ地帯と化した毛烏素沙漠を縦断して到着した、黄帝が住む居住地からはるかに遠くの地平線上に出現したジャコウウシの大群」に見立てられたことになる。
000019_20210416153701
 これゆえ、卑弥呼は「冬になると季節風で海が荒れる玄界灘」を「乾燥した寒風が荒れ狂う吹雪の中をジャコウウシの大群が突きすすんで到着する、風で雪が吹きとばされた地表の露出した餌場・摂食地(せっしょくち)がある一帯地域」と見立てたことになる。

◆下の図に示すように、「一大国の壱岐の地宜」は「十字の銀河の子宮」に見立てられた。
000016_20210416153801
 2世紀初頭に成立した“字書の聖典”と古代の人々が尊重した『説文解字』は[]の字源を「至高(しこう)にして上なし。一大に従ふ」と解説する。このように、『説文解字』は、下に示した[]の字源解説図における「十字の銀河の子宮」を「一大に従ふ」と表現した。
 倉頡は「十字の銀河の子宮」を[]の字源・字義と定めた。[]の字源「十字の銀河の子宮」は、前述したように「文字作成銀河の各部から作られた全文字を生む子宮」であったゆえ「大きい」の字義を有することになった。つまり、倉頡は「十字の銀河の子宮」を[]の字源・字形・字義と定め、「十字の銀河の子宮」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた多数の文字が生まれる子宮」と定めたゆえ、「一即多、多即一」という理論を確立させた。ゆえに、「十字の銀河の子宮」における「一イコール多」は「一大」と呼ばれることになったのである。
000017_20210416154001
 上の「一大国・壱岐」の解説図に示したように、卑弥呼は「壱岐の地宜」を「十字の銀河の子宮」に類似すると見立てたゆえ、「壱岐」の小国名を「一大国」と定めた。つまり、「十字の銀河の子宮」は[壱・一]の字源・字形・字義であった。ゆえに、「一大国」は後世、[]の字がつく「壱岐」と名づけられることになった。
 卑弥呼は「壱岐の地宜」を「十字の銀河の子宮・一大」に見立てれば、玄界灘南方の九州北部の沿岸に所在する「末盧・伊都・奴・不弥」の四小国の地宜にもとづいて考えた小国名に用いられる文字はすべて「十字の銀河の子宮・壱岐島の地宜から生まれる」とあらわすことができる。だから、「壱岐島」は「一大国」と名づけられた。

◆下に「対馬国・瀚海・一大国の地図」を示した。
000012_20210416154001
 上の地図が示すように、「対馬国の中心軸」は「経度線と緯度線に対して邪(なな)め」となるゆえ、[]の字義「ななめ」をあらわした。また、前述したように、「対馬国の地宜」は[]の字源「フタコブラクダ」に相似すると見立てられた。
 したがって、「対馬国」は[][]2字をあらわすことになった。
 前述したように「一大国」は[]の字をあらわした。
 このように「対馬国と一大国の地宜」が「邪馬壱(やまい)」と表示するゆえ、卑弥呼は「邪馬壱」の地宜を有する山陰・出雲(現在の島根県東部)に居住することにしたのである。
 先年に死去した古代史研究家の古田武彦氏は陳寿が著作した『三国志』全体に記載された[]()86個、[]()56個の文字を逐一調べ、[]()には[]()の誤記が1ヵ所も無いことを証明した。
 したがって、「『三国志』魏書東夷伝末部の倭人伝」、つまり通称「『魏志倭人伝』」は卑弥呼が居住した王国名を「邪馬台国」と表記せず、「邪馬壱(やまい)国」と記している。
 新井白石は最初「大和(やまと)」の「やま」の音が「邪馬(やま)」の音に合致することを根拠・理由にして、倭女王卑弥呼が居住した邪馬台国は大和であったと比定した。しかし、倭女王卑弥呼が居住した王国は山陰の出雲であった。後に白石は「筑後山門郡(ちくごやまとぐん)」の郡名「山門」の「山(やま)」が「邪馬(やま)」の音と合致することを根拠・理由にして、筑後山門郡は邪馬台国であったと比定した。しかし、「邪馬」は「山」を意味するものでない。「邪馬」は「経度線と緯度線に対して邪(なな)めの馬(フタコブラクダ)の姿に相似する地宜」を意味するものであった。

 実は、「邪馬壱国」の「邪馬壱」は【倉頡が発明した漢字作成理論の核心】言いかえると【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産の医学研究」の核心】を表現する語であった。だから、卑弥呼が居住した王国名は「邪馬壱国」となった。ところが、新井白石はじめ邪馬台国説学者たちは「邪馬壱」は「大和」あるいは「山門」という地名をあらわしていると思い込んだ。だから、両説は『魏志倭人伝』と全く無関係の空理空論であったのである。

◆前述したように、黄帝と倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代時代初頭、「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」が中国各地の天頂にめぐってきた。この様子を、緯度線を上下・縦にして下図にあらわした。
000034
 上図が示すように、[]「フタコブラクダ」の字源・字形・字義となった「十字の銀河」は「緯度線と経度線と邪(なな)め」であるゆえ[]の字義となる。前述したように、「十字の銀河の子宮」は[]の字源・字形・字義であった。だから、「邪馬壱」という語は黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河の形状」をあらわした。倉頡は「十字の銀河」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた全漢字を生む母体」と定めた。ゆえに、「邪馬壱」は【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究の核心】を表現することになったのである。
 卑弥呼は、黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河の形状」が【黄帝の医学研究の核心「邪馬壱」】をあらわすため、前述したように「対馬国・一大国の地宜」が「邪馬壱」とあらわすことに注目して、卑弥呼は「邪馬壱」の地宜を有する山陰・出雲に居住することにしたのである。
 『魏志倭人伝』は「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)倭種なり」と、倭女王・卑弥呼が居住した王国「邪馬壱国」について説明している。
 前述したように、卑弥呼王朝が制定した[]の字源をあらわす本州・日本列島地図における転回方位規定では、日本海がある〔北〕が〔東〕となるゆえ、山陰地方の日本海には山口県萩市見島と島根県の隠岐群島が所在するが――後者の隠岐群島が「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り。皆倭種なり」という記事に合致する。
 というのも、隠岐群島は島前(どうぜん/知夫里島・西ノ島・中ノ島)・島後(どうご)と約180の小島からなるため、この「多数の島々」は「皆」と呼ぶことになるからである。
 だから、「皆が倭種となる隠岐群島」は転回日本列島地図において「山陰・出雲の東、海を渡ること千余里の位置に有る」ことになるゆえ、「旧国・出雲(現在の島根県東部)」こそが『魏志倭人伝』が「女王の都(みやこ)する所なり」と説明する「女王国・邪馬壱国」であったことになる。

◆下に、卑弥呼王朝が制定した転回日本列島(本州)地理にて定理された転回方位にもとづく卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の古代出雲の地宜を示した。
K261
 上の「古代出雲の地宜(邪馬壱の地宜)図」における上部に示したように、「神門水海(かんどのみずうみ)」がある。
 下の図に示したように、「神門水海」は「緯度線と経度線に邪(なな)めとなる、馬・フタコブラクダの姿」に相似する。だから、「神門水海」は[][]つまり「邪馬」をあらわした。
000035
 古代の宍道湖(しんじこ)は「膝(ひざ)から下の足の形」に相似し、その「足の爪先(つまさき)」は転回方位の〔西〕を指差した。したがって、「宍道湖の地宜」は「十字の銀河の右足(西側の足)」に相当すると見立てられた。前述したように、[]の字源・字形・字義となった「十字の銀河の子宮」は「女体の姿に相似する、十字の右足」の東側に隣接する。
 ゆえに、「足の形に似る、宍道湖の東岸(転回方位)」と接する佐太神社が鎮座する「島根半島の中央部」が[]の字をあらわす地宜となる。
 下に、[]の字源をあらわした地宜、すなわち「佐太神社が鎮座する、島根半島の中央部の地宜」を表示した。
000036
 上の「出雲の[]の地宜図」における下部に示したように、宍道湖の南部(転回方位/現在方位の東部)の湖岸「足の指の先端(爪先)」が指さす方向に意宇(おう)平野がある。転回方位にもとづくと、[]の字をあらわす地宜(島根半島中央)の〔南〕からカーブを描く矢印が示す方向にある意宇平野は〔西〕となる。ゆえに、意宇平野は[()][()][()]の字源・字形・字義となった「時計回りに90度方位が転回する方位規定」をあらわす聖地となる。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の6回で詳細に解説し証明したように――下に図示したように、倉頡は「十字の銀河の中央にイネ・禾の図書を重ね、そのイネの穂が〔南〕から〔西〕へ垂れる」と定理する[]の字を考案した。ゆえに、[]の字源・字形・字義は「時計回りに90度転回する方位規定」、つまり「方位が時計回りに90度ずつ移動して北→東・東→南・南→西・西→北となる」とあらわすことになった。この[]の字は最高・最良の政治スローガン「人民の胃袋を食料(五穀)で満たす、つまり五穀豊穣(ごこくほうじょう)」をあらした。
K115_20210416154501
 []の下に[]が加わって[]、人偏に[]が加わって[]の字となった。[][]の字は、[]の字源・字義をそのまま受け継いで、前述した『易経』繋辞下伝の【漢字起源の記事】に登場する「遠くはこれを物に取る」、つまり「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
 『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」である。この『魏志倭人伝』の最初の[]の字は、「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理」をもって前述したように、「本州・日本列島地理は時計回りに90度ずつ方位が移動して、北→東・東→南・南→西・西→北と化()る規定」をあらわした。
 上記したように、意宇平野は[]の字源「〔南〕は〔西〕となる」をあらわす聖地となる。
 したがって、『魏志倭人伝』が「樓観(ろうかん/見張り櫓)や城の柵(さく)を厳重に設け、常に兵器を持った人が守衛していた」という卑弥呼が居住した宮殿は、意宇平野の一画に設営されていたと推測される。

◆再度、下に「古代出雲の地宜図」を示した。
 この「古代出雲の地宜図」の上部には〔1〕島根半島の北部(転回方位)に「[]の地宜」という説明を加え、また、その図の中央部に〔2〕東経133度線が佐太神社を擦(こす)るように、佐太神社の南(転回方位/現在の東部)の地所を貫通している状況を加えた。
000037

 上の図における「島根半島の北部(転回方位)の地宜」は、「馬・フタコブラクダの顔(頭部)と胸部」のごとくに観える。この「馬・フタコブラクダの左向きの顔に相似する地宜」は、前述した「邪馬」をあらわす「対馬国・上県北部(現在方位)の馬・右向きの顔の地宜」に相似する。ゆえに、前述したように、「対馬国・一大国」は「邪馬壱」をあらわし、卑弥呼が居住した王国も「邪馬壱」の地宜を有する「山陰・出雲」であったことになる。

 佐太神社を擦るように、東経133度が貫通する。
 東経133度の高知県の最南端(現在方位/転回方位では最西端)は足摺岬(あしずりみさき)である。足摺岬の別称は「蹉跎(さだ)岬」である。『角川日本地名大事典』(角川書店発行)は――最初は「左太岬」であったが「蹉跎岬」となり、その後「足摺岬」となった――と説明する。
 「蹉跎」という語は「つまずいて転ぶ」を意味した。馬・フタコブラクダの歩き方は「側対歩(そくたいほ)」といって、同じ側の足を同時に踏み出す。この右側の前足と後ろ足を同時に踏み出した後に、左側の前足と後ろ足を同時に踏み出す、フタコブラクダの側対歩はあたかも「フタコブラクダが、つまずいて転ぶ」かのように観える。
 「神門水海」の地宜において「フタコブラクダの前足は短く後ろ足が長い」ゆえ、「つまずいて転ぶ」イメージを示すゆえ「蹉跎」という語をあらわす。
 「卑弥呼時代の宍道湖」は「人の右足」に見立てることができるが、出雲には「左足の地宜」が存在しない。ゆえに、「宍道湖の地宜」は「一本足であるゆえ、つまずいて転ぶ」つまり「蹉跎」という語をあらわすことになった。
 「蹉跎岬」は「佐太岬」とも表記された。
 「蹉跎岬(佐太岬)の東経133度線が佐太神社を擦って貫通する状況」は、天文学知識「一日の定義」をあらわした。
 「元日から大晦日まで」の「1365.25日」を「366日」という概数にすると、「1年」は「360度の大円」ということになる。というのも、「ある年の元日の午前零時に天頂を通過した銀河部が翌年の元日の午前零時に天頂にめぐってくるまでの軌道」は「360度の大円」となるからである。ゆえに、「360度割る1年・366日は、0.98日」となる。したがって「1日は0.02 短い 0.98日」となる。つまり「1日は24時間ではなく4分短い23時間56分」となる。要するに、「元日の深夜零時に天頂をめぐってきた銀河部は翌日(2)23時間56分後に天頂にめぐってくる」ことになる。
 一年は「360日」ではなく約「365日、または366日」であることは卑弥呼時代でも知っていた。ゆえに、「東経133度線が貫通する地所、佐太神社からわずか東寄り(現在方位/転回方位の南寄り)の地点」が「0.98日」のポイントとなる。卑弥呼王朝は「1日が0.98日」になることを知っていたゆえ、蹉跎岬(佐太岬)の東経133度線が貫通する地点に佐太神社が鎮座しないように、わずか外(はず)れた地所に鎮座するようにしたのである。その証拠に、白川静著『字統』は[]の字について――〔周礼(しゅらい)、大司徒〕に「日景を正して、以て地の中を求む」と日景測量のことをいい、地上千里にして日景に一寸の差があるという――と解説する。つまり、「直径千里・360度の大円の軌道」にあって「一日」の運行を「一寸・一度」にすると「365()、または366()」となって「円形・360(360)」に合致しない。だから、「蹉跎岬(佐太岬)の東経133度線が佐太神社を貫通せず、佐太神社と一寸の差があるかのごとく擦(こす)る状況」は[]の「日景測量(今日における、一日は24時間ではなく23時間56分であるという測量)の秘密」をあらわしていたことになる。
 以上のように、「山陰・出雲」には卑弥呼が居住した王国名に配される「邪馬壱」の3字に合致する地宜が存在する。
 さらに、その[]をあらわす地に鎮座する佐太神社と一寸の差があるがごとく擦るように、四国の高知県の佐太岬=蹉跎岬の東経133度線が佐太神社の南(転回方位、現在方位だと〔東〕を通過する。
 だから、卑弥呼が居住した邪馬壱国は佐太神社が祀られる山陰・出雲であったことになる。

 次回は、『魏志倭人伝』が「邪馬壱国に至る、女王の都(みやこ)する所なり」と記述した王国名に用いられた「邪馬壱」という語は【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究の核心】にして、また【倉頡が発明した漢字作成理論の核心】をあらわしたことを証明し、『魏志倭人伝』は「邪馬台国」を説明する書物ではなかったことを明白にする。

|

« 邪馬台国説はサギ・騙されるな・9 | トップページ | 邪馬台国説はサギ・騙されるな・11 »

卑弥呼」カテゴリの記事

邪馬台国」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事

漢字の起源」カテゴリの記事

ヒエログリフ(聖刻文字)」カテゴリの記事

日本国誕生史の証明」カテゴリの記事

大嘗祭の証明」カテゴリの記事

まぼろしの邪馬台国」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 邪馬台国説はサギ・騙されるな・9 | トップページ | 邪馬台国説はサギ・騙されるな・11 »