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2021年4月19日 (月)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・12

▼“日本古代史最大の秘密”を伝える『魏志倭人伝』を読解して「倭女王・卑弥呼が居住した邪馬台国を吉野ケ里遺跡がある九州、もしくは纏向(まきむく)遺跡がある畿内・大和に所在したと説明している」と主張する意見――この両説を、学界はじめメディアは諸々の説にあって最も正しい意見であると太鼓判(たいこばん)を押す。
 しかし、九州説と畿内説の実体は【科学】がまったく成立しない完全なる空理空論・デタラメ・インチキであった。
 というのも、『魏志倭人伝』は「倭女王が居住した王国は山陰・出雲、現在の島根県東部であった」と記述しているからである。
 また、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は約55パーセント・約1100字の記事をもって「紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)、名門益(えき)氏の王子と若者たちが中国から大海・玄界灘を横断してわが国の東北地方の男鹿半島・米代川(よねしろがわ)縄文文化圏に定住して、原初漢字・夏音(かおん)文字の学芸を東北地方から関東地方までの東日本一帯に広めた。この夏音文字の学芸を習得したときに、約1000年前の紀元前3000年頃の中国の五帝時代初頭に生存した倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論をも習得した」と伝えている。しかし、九州説と畿内説によって、この歴史がハチャメチャになってことごとく不明となった。
 『魏志倭人伝』は倭女王・卑弥呼が居住した首都所在地を「邪馬壱(やまい)国」と書き記し、「邪馬台国」と書いていない。
 だから、邪馬壱国・出雲説ならば『魏志倭人伝』の全記事と矛盾点も弱点も1点も無くなり論理が完結し【科学】が成立して事実・真実が明らかとなる。
 つまり、「卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰・出雲であった」と証言する『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える歴史書であり、また「中国における【学問】は紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝・倉頡時代から始まり、わが日本国では紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭から始まる」と伝える学問書であった。


★「倭人国の地理学」のトリセツ・21

◆九州説と畿内説が空理空論であることは、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の1回から詳細に解説し証明したが――「邪馬壱国は山陰・出雲であった」という証明については、9回から前回(11)まで集中的に解説し証明した。「邪馬壱国が山陰・出雲であった」という証明における今回における不明な点については、9回~11回までを参照していただきたい。

◆上記したように、『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した王国名を「邪馬壱国」と記す。しかし、九州説と畿内説は「邪馬壱(やまい)国」ではなく「邪馬台国」と記していると主張する。
 江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)は初め「邪馬台国は大和であった」と立論し、後に「邪馬台国は筑後山門郡であった」と考えた。ゆえに、畿内説は「大和」の「やま」は「邪馬台」の「邪馬(やま)」であると考えて、邪馬台国は大和にあったと主張する。九州説は「筑後山門郡」の「山門」の「山」は「邪馬台国」の「邪馬(やま)」に合致する、この合致を理由・根拠にして邪馬台国は九州に存在したと比定する。
 ところが、前回(11)のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」で証明したように、「邪馬」は【倉頡が発明した漢字作成理論の核心】をあらわす、邪馬台国説学者たちが誰一人も思いつかなかった今日の医学用語で「広形機能(こうけいきのう)」あるいは「骨重積(こつじゅうせき)」と呼ばれている【ヒトの命の神秘、女性生殖器と産道を通過する出産児の頭蓋骨の機能】をあらわしていた。それというのも、前述したように『魏志倭人伝』は最多数の記事で【倉頡が発明した漢字作成理論】について説明する書物だったからである。倉頡は【黄帝がおこなった「女性の生殖器と子どもの出産」の医学研究」をあらわすことができる文字の作成】を目的として漢字を発明した。だから、【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究」の核心】を卑弥呼は「邪馬壱」と表現した。これゆえ「邪馬壱」という語は「5枚の頭蓋骨を重ね合わせる仕組みで、せまい産道を通り抜けることができる出産児の頭の機能と頭の4回の回旋(かいせん)」、つまり今日の産婦人科の用語で「広形機能」または「骨重積」と呼称される神秘的な仕組みをあらわしていた。
 だから、『魏志倭人伝』を「邪馬台国」について説明する書物であったと思い込んでいる九州説と畿内説の両説は「邪馬壱」つまり「産道を通過するときの出産児の頭の機能と4回の回旋」とまったく無関係の空理空論であったのである。

◆「銀河」の別称は「銀漢」であり、「銀漢から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と呼称した。
 倉頡は、現在の天文学にて通称「夏の銀河」と呼ばれる「夏の星座が漬()かる銀河」から【文字】つまり【漢字】を作った。私は「夏の銀河」を「文字作成銀河」と名づけた。
 「文字作成銀河」の写真を、下に示した。
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 天文学はじめても諸々の分野の学問においても「《漢字の字源》について解説することができる文字作成銀河全域における各部の名称」が存在しない。ゆえに、〔『魏志倭人伝』が伝える歴史〕はじめ〔字源となった銀河=字形となった銀河=字義となった銀河〕の解説・証明において非常に不便となるゆえ、私は下記のごとく銀河各部の名称を定めた。
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◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の2回で解説したように、「歳差(さいさ)」という天文現象を利用すると、黄帝と倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代初頭における中国全土の天頂にめぐってきた銀河を算出して再現することができる。
 【漢字作成理論】が発明された五帝時代初頭、下に示すように、私が「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた銀河が中国全土の天頂にめぐってきた。この「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は、中国各地の人々が精確に緯度と方角を測定して、最も大事な命をまもっていた羅針盤となった。
 〔注 「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は、上に示した「文字作成銀河各部の名称図」における左上にある)
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 倭人国の首都が所在した王国名「邪馬壱国」、この「邪馬壱」の[]の字義は「ななめ(斜め)」であり、[]の字源・字形の原形・原義は「瀚海(かんかい・ゴビ沙漠)に生息するフタコブラクダ」であった。[壱]の字源・字形の原義・原義は上に図示した「十字の銀河の子宮(または、生殖器)に相似する銀河」であった。
 上の図に示したように、「十字の銀河」は「緯度線・経度線に邪(なな)め」であるゆえ、[]の字義をあらわした。上記したように「十字の銀河の子宮」が[]の字源・字形の原形・原義であった。
 『魏志倭人伝』は「倭地には牛と馬が無い(生息していない)」と記述する。
 []の字源は「ジャコウウシ」であった。[]の字源は「フタコブラクダ」であった。
 「ジャコウウシ」と「フタコブラクダ」は【倉頡が発明した漢字作成理論を象徴する聖獣(せいじゅう)】となった。
 『魏志倭人伝』は「対馬国の南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」と説明する。
 この記事が示すように、卑弥呼は「対馬国(現在の長崎県北部の対馬)と一大国(現在の長崎県北部の壱岐島)の中間の海」を「瀚海」と名づけた。
 「瀚海」は、中国北部・モンゴルより南方にある[]の字源「フタコブラクダ」が生息する「ゴビ沙漠」を意味する。
 下に示すように、「黄色く輝く、三つ輪の銀河」は「月の光が照らして黄色く輝くゴビ沙漠」のイメージとなる。「三つ輪の銀河」に隣接する「黄色く輝く、十字の銀河」も「月の光にきらめく沙漠の沙(すな)」のイメージとなる。ゆえに、「十字の銀河」は「ゴビ沙漠に棲むフタコブラクダ」に見立てられた。
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 これゆえ、下の図に示すように、「三つ輪の銀河」は「沙漠」に見立てられ、「十字の銀河」は「フタコブラクダの側身形」に見立てられて[]の字源・字形・字義となり「フタコブラクダ」をあらわした。
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 前述したように、黄帝時代、中国全土の各地の天頂に、緯度線・経度線と邪めとなる「十字の銀河」がめぐってきた。上の図に示したように「十字の銀河」は[]「フタコブラクダ」の字源・字形の原形・原義であった。したがって、黄帝時代の中国各地の天頂にめぐってきた「十字の銀河」は「邪め」の[][]の字源が「フタコブラクダ」、「十字の銀河の子宮」が[]の字源・字形の原形・原義となった。
 だから、【倉頡が発明した漢字作成理論】を国家と王朝の政権基盤とした倭女王・卑弥呼は倭人国の首都所在地に決定し王国名を「邪馬壱国」と名づけた。

◆『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人国は、帯方の東南、大海の中に在り」である。
 この記事冒頭の「倭人」の[]の字源・字形の原形・原義は「観測地点の地平線より外界となる遠く離れた土地の方位規定は、時計回りに90度ずつ転回する。つまり北→東・東→南・南→西・西→北となる」であった。
 『魏志倭人伝』は「対馬国から南一海を渡る千余里、名づけて瀚海と曰()う。一大国に至る」と記述する。したがって、「長崎県対馬=対馬国が北となり、長崎県壱岐=一大国が対馬国の南」となる。この「一大国・対馬国」の「南北」は、現在方位と同じである。だから、「対馬国・一大国の方位規定」は[]の字源「時計回りに90度ずつ転回する方位規定」をあらわしていない。
 これゆえ、『魏志倭人伝』は「現在方位と同じ対馬国・一大国の水平線から外界となる、本州・日本列島地理における方位規定は[]の字源に則(のっと)る。つまり、東海地方(愛知県・静岡県)は現在の日本地図だと九州の〔東〕に所在するが――卑弥呼王朝は、東海地方は90度転回して〔南〕に所在すると制定した」と説明していることになる。
 このように卑弥呼王朝が[]の字源に則って「本州・日本列島地理における〔東〕は〔南〕に転回する」と制定した転回日本列島地理を下に示した。
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 上の図に示したように、卑弥呼王朝は[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」にもとづいて本州・日本列島地理を制定した。
 下に、[]の字源にもとづく〔卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の山陰・出雲の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)〕を示した。
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 上の「古代出雲の地宜(邪馬壱の地宜)」の左上に「神門水海(かんどのみずうみ)」がある。
 下に図示したように、「神門水海」は「経度線と緯度線に邪めとなる、また馬・フタコブラクダの姿」に相似する。だから、「神門水海」は[][]つまり「邪馬」をあらわした。
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 下の図に示すように――古代の宍道湖(しんじこ)は「膝(ひざ)から下の足の形」に相似し、その「足の爪先(つまさき)」は転回方位の〔西〕を指差した。したがって、「宍道湖」は「十字の銀河の右足(西側の足)」に相当すると見立てられた。前述したように、[]の字源・字形の原形・原義となった「十字の銀河の子宮」は「女体に相似する、十字の銀河の右足(西側の足)の東に隣接する。ゆえに、「足の形に似る、宍道湖の南岸(転回方位)」に面して佐太神社が鎮座する「島根半島の中央部」が[]の字をあらわすことになった。
 下に、[]の字源地宜、つまり「佐太神社が鎮座する、島根半島中央部の地宜」を示した。
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 下の図に示すように、黄帝時代に中国全土の各地の天頂にめぐってきた「十字の銀河の西側半分」には、「乳房」「妊婦の腹部(おなか)」「右足(西側の足)」に観える部分があり、また[]の字源・字形の原形・原義となった「子宮に相当する箇所」もある。この「十字の銀河の子宮」は「十字の銀河の右足(西側の足)の東側」にある。
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 したがって、「十字の銀河の右足」と見立てられた「宍道湖の南岸(転回方位)に面して佐太神社が鎮座する、島根半島の中央部の地宜」は[]をあらわした。前述したように、「神門水海」は「邪馬」をあらわしたゆえ――「山陰・出雲の地宜」にもとづいて、卑弥呼は「出雲」を「邪馬壱国」と名づけ、卑弥呼は「邪馬壱国」の山陰・出雲に居住したことになる。

◆邪馬壱国・山陰・出雲には、『魏志倭人伝』末部に「卑弥呼以(すで)に死す。大いに冢(ちょう)を作る。径百余歩(直径が約150メートル)」と記述された卑弥呼の墓と考えられる円い自然丘が所在する。
 財団法人の日本地図センターが撮影した航空写真を取り寄せると、下に図示したように出雲大社を囲む東西南北の地所が「ヤンマトンボの姿」に相似することに、私は気づいた。
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 もしかしたならば―――「大型のトンボ」を「ヤンマトンボ」と呼ぶのは「邪馬壱国」の「邪馬」に由来して「ヤマ」を「ヤンマ」と称したのではあるまいか。
 上の図が示すように、「ヤンマトンボの地上絵となる、出雲大社周辺」の中心部の「出雲大社」が「卑弥呼を葬った陵墓」であったと推測される。
 下に「ヤンマトンボの絵」を配した。
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 現在方位にもとづくと、出雲大社の北は八雲山(裏山)であり、出雲大社の南の地域は「神園(しんえん)」と呼ばれる地域であり、「神園」は「トンボの尾」に相当する。出雲大社の東は「亀山」であり、出雲大社の西が「鶴山」である。この出雲大社を囲む土地の地宜は「ヤンマトンボの姿」に相似する。
 日本全土に生息する日本最大(全長90ミリ)のトンボ・オニヤンマやヤンマトンボは池や田や浅い川岸の水底の泥に卵を産む。
 「ヤンマトンボ」は「大型のトンボの総称」である。日本に生息するオニヤンマはじめとするヤンマトンボの成虫は「夏音」の〔夏〕に出現するゆえ、「わが国が中国の夏代(かだい)初頭(後期縄文時代初頭)に習得した夏音(かおん)文字」また「卑弥呼が文書に用いた夏音文字」を象徴する聖なる昆虫となったにちがいない。ヤンマトンボの成虫が飛び交()う夏季に適量の降水量()にめぐまれれば、稲は実って豊作となる。ゆえに、ヤンマトンボは「秋における、禾(か/イネ)の豊作」をもたらす聖なる昆虫になったにちがいない。また、オニヤンマはじめトンボが産んだ水中に浮かぶ卵は、稲の穂にたわわに実る一粒(ひとつぶ)一粒の籾殻(もみがら/米のかたい外皮)の形に相似する。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな・2回」で解説して証明したように――倉頡は、下に示す「さそり座α星がある、夏の銀河の西端の方へイネの穂が垂れる」と定める[]の作字方法を考案した。
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 「さそり座α星」は夏から秋までの穀物収穫期、赤く輝くひときわ目立つ巨星の一等星である。ゆえに、わが国では「豊年星」と呼んだ。中国では「火()」「大火(たいか)」と呼称され、「大火西に下る頃」と表現して「夏が終わると、禾(穀物)を収穫する秋が到来する」と、豊年の喜びを表現した。
 黄帝時代では、秋分の日の太陽が真西の地平線に没する夕刻(午後6)、大火は真西から約10度の方角(西南西)の地平線スレスレの低い高度の空に位置し、約30分後には地平線下に没した。したがって、黄帝時代の秋分の日の夕刻においては、太陽と大火の地平線に没する時間はほぼ同じで、太陽の30分後に大火が地平線に没した。このような状況もあって、上に示した「さそり座α星がある、夏の銀河の西端へイネの穂が垂れる」と図案して倉頡が創(つく)った[]の字源・字形の原形・原義は「黄帝の居住地から見える地平線より外界となる遠い土地の方位は、時計回りに90度転回する」とあらわすことになった。
 この[]の字源・字形の原形・原義をそのまま[]の字は受け継いだ。
 したがって、国名に[]の字を配した倭人国においては、「ヤンマトンボの成虫」は「秋における、禾(か/イネ)の豊作」をもたらす聖なる昆虫になったにちがいない。
 これゆえ、「その周辺地域がヤンマトンボの成虫の姿に相似する、出雲大社の円い裏山」は「ヤンマトンボの頭」に相当する。「出雲大社の円形の裏山の直径」は「百余歩、つまり約150メートル」である。ゆえに、「出雲大社の裏山」が「卑弥呼陵における直径百余歩の円墳部」であったと推断できる。

◆再度、下に「邪馬」をあらわす「神門水海の地宜」を示した。
 「神門水海の地宜」は「トンボが水底の泥(どろ)に産卵する姿」に類似する。
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 『魏志倭人伝』は「対馬国と一大国の南北(方位)は現在と同じ」と説明するが、「末盧(まつろ)国以下の本州・日本列島地理の方位規定は[]の字に則って時計回りに90度転回する」と伝えている。だから、本州・日本列島の地底は〔東〕が〔南〕に転回できるように、禾(イネ)が育つ水田の泥のように柔らかくなっている」と定理されたことになる。したがって、《その地宜が水底の泥に産卵するトンボの姿に類似する、「邪馬」をあらわす神門水海》は、[]の字源・字形の原形・原義をあらわす聖地となる。
 だから、転回方位にもとづくと神門水海の東に鎮座する出雲大社の裏山は卑弥呼を葬った円墳であったと推定される。
 その証拠に、前述したように、下に示す出雲大社の平面図における裏山・八雲山の直径は、『魏志倭人伝』の「径百余歩」という記事に合致して「約150メートル」である。
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 上に示した出雲大社の境内の平面図は、現在、前方墳の左右対称の形が少し歪(ゆが)んでいるが――よく見ると《前方墳の形》の面影がある。ゆえに前期古墳ということになる八雲山(自然丘陵)の後円墳と出雲大社の境内(前方墳部)は、卑弥呼の墓であったと考えられる。
 というのも、上田宏範(うえだひろのり)著『前方後円墳[2](学生社発行)61ページは「前期のものは、丘陵の先端や丘頂などに自然の地形を利用して築かれ、高い円丘の前面に低い方形の前方部をつけたものが多い」と指摘するからである。
 出雲大社の裏山は前期古墳の特徴の円い自然丘(円丘)であり、出雲大社の境内は裏山より低い前方墳の形に相似する。ゆえに、出雲大社の裏山と境内は、『魏志倭人伝』に記述された卑弥呼の墓であったと推定される。
 『魏志倭人伝』は「卑弥呼の墓に百余人の奴婢(ぬひ)が徇葬者(じゅんそうしゃ)となって殺されて埋められた。この徇葬墓を築造した卑弥呼の後を継いだ男王に倭国の国中の人民たちは服従せず、兵器を持って倭王朝軍と戦った。ゆえに、倭王朝軍は千余人の人民を殺した」と記述する。したがって、残酷な徇葬をおこなわれた卑弥呼の墓は倭国の国中の人民たちに憎悪されたが原因で、卑弥呼の没後の3世紀末~4世紀初め頃に破壊されたにちがいない。これゆえ、出雲大社の裏山と境内が卑弥呼の墓であったと考えるべきことになる。

◆前回のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の11回の末部で詳細に解説して証明したように――黄帝時代の中国の北部地方(華北)の天頂にめぐってきた天体部に、倭女王・卑弥呼が居住した「邪馬壱国」の「邪馬壱」をあらわす銀河部が存在した。
 下に、〔「邪馬壱」の銀河と黄帝時代の黄帝陵の天頂にめぐってきた緯度線(北緯3536)の図〕を表示した。〔「邪馬壱」の銀河〕の北端は黄帝陵の天頂緯度線と重なる。ゆえに、〔「邪馬壱」の銀河〕は黄帝陵の天頂緯度線を撫でるように位置していた。
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 下の「産道を通過する出産児の頭蓋骨図」が示したように、出産児の頭蓋骨には「小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)」と名づけられた仕組み(機能)がある。この「出産児の頭にある小泉門・矢状縫合・大泉門の形」は、黄帝時代の黄帝陵の天頂緯度線を撫でるように位置した〔「邪馬壱」の銀河の形〕に相似する。そして、[]の字源は「子宮や産道の、女性の生殖器」であるゆえ、「産道」が[]を意味した。だから、「小泉門・矢状縫合・大泉門」を、卑弥呼は「邪馬」と呼んだことになる。
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 〔出産児の頭にある「邪馬」〕の機能]は「縦長の出産児のゆるい小泉門・矢状縫合・大泉門の組み合わせの頭」が「せまい横長の骨盤入口(上口)」をくぐり抜けるために重ね合わせることができる神秘的な仕組みになっている。
 この「産道を通過する児頭における小泉門・矢状縫合・大泉門と、後頭骨・頭頂骨・前頭骨の動き」は下に示す「フタコブラクダがモグモグと草を食べる時の、鼻・上アゴ・口・下アゴが邪(なな)めとなる動き」にソックリである。だから、[]の字源「フタコブラクダ」と「邪め」で、「邪馬」となった。
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 上の図における「フタコブラクダの鼻の動き」は「後頭骨・小泉門の動き」に相似し、「フタコブラクダの上アゴの動き」は「頭頂骨の動き」に相似し、「フタコブラクダの口の動き」は「大泉門の動き」に相似し、「フタコブラクダの下アゴの動き」は「前頭骨の動き」に相似する。だから、「せまい産道を通りぬけるために、出産児の頭蓋骨の重ね合わせることができる仕組み」は「邪馬」と呼ばれ、「産道」の[]が加わって、「邪馬壱」と名づけられたことになる。
 下に、〔女性の骨盤と十字の銀河の頭の穴(暗黒天体部)の図〕を配した。「女性の骨盤腔(こつばんこう)」と「十字の銀河の頭の穴(暗黒天体部)」の形は相似する。しかし、「女性の背側の骨盤腔の形」が「十字の銀河の頭の南側の穴の形」に相似し、「女性の腹側の骨盤腔の形」が「十字の銀河の頭の北側の穴の形」に相似して、両者は互いに南北の形が反転しあう。
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 下に、〔「十字の銀河」に黄帝時代の黄帝陵の天頂緯度線と女性の骨盤を加える図〕を示した。この図のように解釈すれば、「女性の骨盤腔の形」と「十字の銀河の頭の穴の形」は合致する。
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 前回のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の11回末部で指摘したように――下に図示したように「女性の骨盤入口は横長の楕円形」である。ゆえに、「出産児は縦長の頭を横向き」にして骨盤入口をくぐり抜ける。
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 「女性の骨盤入口の境目」は明確に定められていないゆえ、坂井建雄・橋本尚詞著者『ぜんぶわかる 人体解剖図』(成美堂出版発行)は「骨盤入口は楕円形ないし円形をしている」と指摘する〔注 なお『ぜんぶわかる 人体解剖図』では「骨盤入口」を「骨盤上口」と記す〕。

◆下の図に示したように、「十字の銀河」は「トンボの姿」に相似すると見立てられた。ゆえに、『魏志倭人伝』が「径百余歩」と伝える卑弥呼の墓は、その周辺地域が「トンボの地上絵」となる出雲大社の径百余歩の裏山(八雲山)であったと推定される。つまり、「人民たちの出産児総数の頭蓋骨の丈(たけ/長さ)」を「百歩」と見立てて(算出し)、卑弥呼を葬った円墳の直径は「百余歩」にして、人民たちの出産児全員が狭い産道をくぐり抜けることができるように祈願するものであったにちがいない。
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 だから、卑弥呼の後を受け継いで倭人国を統治することになった男王(倭王)は「倭人国に多数の子どもたちが生まれ、人民たちが国土に満ち満ちあふれる状況」を天に祈願して「卑弥呼の墓・径百余の円墳である出雲大社の裏山に、百余人の奴婢(ぬひ)を殺して卑弥呼の墓に埋める残酷な徇葬」を決行したことになる。
 それというのも、卑弥呼は居住した倭人国の首都所在地は「邪馬壱国」と名づけられて、その名に「フタコブラクダ」を意味する[]の字が用いられたからである。
 『魏志倭人伝』は〔対馬国と一大国の中間の海〕は「瀚海(かんかい)」と名づけられていたと記述する。「瀚海」は「フタコブラクダが生息するゴビ沙漠」を意味した。
 ゴビ沙漠に住む匈奴(きょうど)の人々は平原に深い穴を掘り、その穴に死者を葬り、殉死(じゅんし)させた一匹のフタコブラクダの血をその墓の上にそそいで去った。翌年に雑草が生い茂って墓の位置が不明になるが、連れてきたラクダが殉死したラクダの血を嗅(か)ぎ当てて咆哮(ほうこう)する所に墓をさがす遺族たちは祭壇を作って死者を供養した。
 ゆえに、卑弥呼の墓を築造する際におこなわれた「徇葬」は「殉葬」であったことになる。つまり、匈奴の人々がゴビ沙漠で没した死者を葬った墓にフタコブラクダを徇死(殉死)させた風習に因んで、百余人の奴婢を殺して径百余歩の円墳である卑弥呼の墓に埋める残酷な徇葬が決行されたことになる。

◆なお、再度、下に〔出雲の[壱]の地宜〕を図示した。この[壱]の字源地宜における「島根半島の中央部に鎮座する、佐太神社の南(転回方位)を撫でるように通過する東経133度の経度線の秘密」もまた、「出雲大社の円形の裏山」が卑弥呼の墓であった理由・根拠として加えなければならない。
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 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の10回で詳細に解説したように――東経133度の高知県・土佐の最南端(現在方位)の「足摺岬」の古称は「蹉跎(さだ)岬」であった。この岬の名称に用いられた「蹉跎」は「フタコブラクダは右側の前足と後ろ足を同に踏み出した後に、左側の前足と後ろ足を同時に踏み出す」、いわゆる「側対歩(そくたいほ)」と称される「フタコブラクダの歩き方」を意味した。この「側対歩」は「フタコブラクダが、つまずいて転ぶ」かのように観える。ゆえに、「蹉跎」は「つまずいて転ぶ」と意味した。
 「フタコブラクダの姿」に相似する「神門水海の地宜」は「フタコブの前足は短く後ろ足は長い」ゆえ、「つまずいて転ぶ」という形状となるゆえ「蹉跎」という語をあらわす。「卑弥呼時代の宍道湖」は「人の右足」に見立てることができるが、出雲には「右足に対する左足に相当する地宜」が存在しない。したがって、「宍道湖の地宜」は「一本足」であるゆえ、「つまずいて転ぶ」つまり「蹉跎」という語をあらわす。
 高知県の「蹉跎岬」は「佐太岬」とも表記された。
 「高知県・土佐の蹉跎岬と出雲の佐太神社」は[景]の字源「日景測量」をあらわした。
 天文学における「一日」は「24時間」ではなく「23時間56分」である。このように「一日は4分短い」ゆえ、ある年の元日の午前零時の天頂点と重なった銀河部位は日々午前零時の天頂から外れるゆえ、翌年の元日の午前零時の天頂点と重なる銀河部位は同一となる。
 だから、「土佐の蹉陀岬の東経133度線」は「出雲の佐太神社」を貫通せず、「出雲の佐太神社の南(転回方位)の地所」を撫でるように貫通することになった。つまり、「佐太神社」は「円形一周の360度」をあらわし、「佐太神社を撫でるように貫通する東経133度線」は「360度より1度短い、359度」をあらわした。
 白川静著『字統』は[景]の字について――〔周礼(しゅらい)、大司徒〕に「日景を正して、以て地の中を求む」と日景測量のことをいい、地上千里にして日景に一寸の差があるという――と解説する。
 文房具店に売られている「分度器」には「360度の目盛りを付けた円形分度器」があるが、一般的な分度器は「180度の目盛りを付けた半円形分度器」である。「1年」を「365.25日」でなく「約366日」にすると、「180度の半円形分度器の円周」に「一日の距離」として「半年・183日(0.98日)の目盛り」を付けることになる。したがって、「360度の円形分度器の直径」を「千里」と見立てると、「その分度器の円周上に付けた1年366日における1日の度数の距離(目盛り)」は「0.98寸=0.98日」となる。この「0.98寸」を四捨五入すると「1寸」となる。
 これゆえ、白川静著『字統』が『周礼』大司徒の[景]の解説を引用した「日景正して以て地の中に求む。地上千里にして日景に一寸の差がある」という文は、「佐太神社と佐太神社を撫でるように貫通する東経133度線」について説明するものであったことになる。つまり「土佐の蹉跎岬と出雲の佐太神社を結ぶ地中」は「日景正して以て地の中に求む」という文で説明されることになり、また「蹉跎岬と佐太神社の距離は円形の直径千里」ということになる。だから、「佐太神社から土佐の蹉跎岬から発する東経133度線が貫通する佐太神社の南(転回方位)の地所までの距離」が「地上千里にして日景に一寸の差がある」という「一寸」の距離をあらわす。
 したがって、「出雲大社の、360度あるいは359度の円形とも解釈できる裏山」は「日景測量の秘密」をあらわしていることになる。
 経済界が使う「景気」という語は「企業の経済活動の気(勢い)」を意味する。「卑弥呼時代の経済」は「農業のイネはじめとする五穀の出来高による気(勢い)」であった。だから、[倭]の字源「人民たち胃袋を食料(穀物)で満たす、五穀豊穣の気(勢い)」を祈願して、卑弥呼の墓は「円丘、円墳」となったと考えられる。
 以上からして、卑弥呼の墓は出雲大社の径百余歩の円丘・裏山であったと推定される。

◆前述したように、「産道を通過する出産児の縦長の頭蓋骨」は「邪馬」と名づけられ、「出産児の頭蓋骨」に見立てられた「鬼の横顔に似る銀河の後頭部とアゴにつく両目の経度の距離」は「百歩」つまり[百]の字源・字形・字義をあらわすことになった。ゆえに、「横長の女性の骨盤入口」に見立てられた「十字の銀河の頭部の穴(暗黒天体部)」は「径百歩」、つまり「卑弥呼の墓の円墳部の直径の距離は百余里」と定めて、「出産児が頭を横向きにしてスムースに骨盤入口をくぐり抜ける」ようにした。
 『魏志倭人伝』に最初に登場する倭人国の「対馬国」を「1番目」と数えると、卑弥呼が居住した「邪馬壱国」は「8番目」となる。この「邪馬壱国の範囲」は「旧国の石見(いわみ)・出雲・伯耆(ほうき)、現在の島根県と鳥取県の西部」であったことになる。というのも、旧国名は「フタコブラクダが生息する沙漠には小石も見ることができる(散在する)」ということで「石見」と定められたと考えられるからである。『魏志倭人伝』には「租賦(そふ)を収るに邸閣(ていかく)有り。国々市有りて有無を交易す。大倭(だいわ)をして之(これ)を監(かん)せしむ」という記事があり、今日の蔵相(大蔵大臣)のごとくの「大倭」という役職名の由来は[]の字源「十字の銀河の子宮」であったと考えられるからである。
 したがって、「出雲」から邪めの西北(転回方位)に在る「石見」が[]、「出雲」が[]、「伯耆」が[]ということで、「邪馬壱国の範囲」は「石見・出雲・伯耆」であったことになる。
 「9番目」は「斯馬(しま)国」である。
 下に示すように、小国「斯馬国」は「旧国の因幡(いなば)と但馬(たじま)、現在の鳥取県東部と兵庫県北部」であったことになる。したがって、「斯馬国」は旧国・伯耆の南(転回方位)に隣接する。ゆえに、下に示した「斯馬国の地宜」もまた転回方位規定にもとづく。
000051
 上図に示したように、邪馬壱国の範囲となる旧国・伯耆(鳥取県東部)に隣接する旧国の因幡(現在の鳥取県東部)、現在の鳥取市には「鳥取砂丘」がある。鳥取砂丘はわが国最大の砂丘である。
 「斯馬国」の[()]の字を、『説文解字』は「柝()くなり」と解説する。出産第2期の娩出期(べんしゅつき)終わりの頭が誕生する新生児は「母体の子宮・産道から柝ける(分離する)状況」にあり、娩出期終わりの子宮の側身形はヒョウタン(瓢箪)の形となるゆえ「その母体の背側の子宮」は[]の字源「フタコブラクダにおけるフタコブの形」となる。ゆえに、上の図に示したように、「但馬南端の地宜」は[]の「出産する胎児の頭」に見立てられ、「因幡と但馬の地宜の大部分」は[]「ラクダのフタコブの形となる、娩出期終わりの子宮」に見立てられたことになる。だから、「斯馬国」は「因幡と但馬」であった。また、「わが国最大の砂丘、鳥取砂丘」から「ゴビ沙漠」を連想すると、[]の字源「フタコブラクダ」も連想できるゆえ、「因幡と但馬」が「斯馬国」であったことになる。
 下に、9番目の「斯馬国」と次の10番目の「巳百支(じはき)国」という、小国名の由来となった〔出産第2期・娩出期終わりの頭が誕生する新生児の図〕を配した。
S74
 下の図に示すように、斯馬国の但馬に隣接する「丹後(たんご/現在の京都府北部)」が10番目の「巳百支国」であった。
000052
 「丹後の地宜」は、上の図右側に配した[]の古代字形に相似する。また、「丹後の地宜」は「産道を通過する、頭の大きな出産児の姿」に相似する。つまり、「丹後半島の地宜」は「出産児の頭部」、「丹後半島の付け根から大浦半島の付け根までの地宜」は「出産児の胴体」、「大浦半島の地宜」は「出産児の足」に相似すると見立てられたことになる。
 []の字義は「ヘビ()」である。この字義「ヘビ」は「大きな頭を有する出産児が狭い産道を蛇()のように体をくねらせて通過する状況」をあらわしているにちがいない。その証拠に、「大きな頭(丹後半島)」に対して、「出産児の体(丹後半島の付け根から大浦半島の付け根までの胴体部)」は「身をくねらせる形」となる。
 「巳百支国」の[]は、前述した「径百歩」と見立てた「縦長の出産児の頭蓋骨の丈(たけ/長さ)」となる。というのも、前述したように、『魏志倭人伝』が記述した「径百余歩」は「十字の銀河の頭部の穴(暗黒天体部)の横長の直径距離」をあらわす。このように、「十字の銀河の頭部の穴」は「女性の横長の径百余歩の骨盤入口」に見立てられたゆえ、[]は「縦長の径百歩の出産児の頭蓋骨」をあらわしていることになる。
 丹後半島の付け根となる東岸にある天橋立(あまのはしだて)は、宮津湾(みやづわん)と阿蘇海(あそかい)を東と西に支(わけ)る。ゆえに、「天橋立」が[]をあらわした。
 だから、「旧国の丹後、現在の京都府北部」が「頭の大きな出産児が巳(ヘビ)のごとく身(胴体)をくねらせて産道する姿に相似する地宜」の「巳百支国」であったことになる。

11番目は「伊邪(いや)国」である。
 白川静著『字統』は[]の字について「尹(いん)は神杖(しんじょう)をもつ形で、神意(しんい)を媒介(ばいかい)する聖職の人をいう」と解説する。
 下に図示したように、「十字の銀河」は「聖職の人がもつ神聖な杖(つえ)、つまり神杖」に見立てられた。ゆえに、「鬼の姿に似る銀河」が「神杖を持つ聖職の人(聖職者)」に相当する。
 『魏志倭人伝』は「倭人国の吉凶を占う易卜に用いる辞は令亀(れいき)の法の如く、つまり紀元前1300年頃から始まる中国の殷代(いんだい)後半の卜占に用いた亀の甲羅に文字を刻む甲骨文字のごとくであった」と記述する。この記事からして、「神杖を持つ聖職者」は「易者」ではなく、[]の字義は「文字学者」と解するべきことになる。
 というのも、『魏志倭人伝』は「京都(けいと/魏の都)・帯方郡・諸韓国にて文書に用いる文字・楷書と倭女王・卑弥呼が文書に用いる漢字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)していたが、伊都(いと)国の港で楷書と夏音文字を捜露(そうろ/楷書と夏音文字の両者の字義が捜(さが)し露(あら)わになるように、つまり深く思索して楷書と夏音文字の字義が合致するように点検し確認する)して間違いが生じないようにしていた」とも記述する。
 ゆえに、「伊都国」の[]の字義も「楷書と夏音文字に精通する」と示すゆえ、[]は「文字学者」を意味したと考えるべきことになる。
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 上図にて解説したように、「十字の銀河」を「神杖」に見立て、「鬼の姿に似る銀河」を「神杖を持つ文字学者(聖職者)」に見立てて、[]の字は成立する。
 前述したように、[]の字義は「ななめ」である。
 「神杖・十字の銀河」の邪(なな)めにある「激流の銀河」は「地下水、つまり降った雨が地中にしみこんで流れる水()」をあらわした。
 これゆえ、下図に示すように、「激流の銀河」は「地中の川から発して平地や山里にたちこめる地气(ちき)、つまり霧(きり)」をもあらわした。『説文解字』は[]の字を「地气発して、天に応ぜざる※という」と解説する。〔注 []の字は雨冠の下に、[(ほこ)]を左側に[(ぼく)]を右側に加えて形成される。つまり、[][]の右下にある[]が欠く字となる〕。
 『説文解字』の[]の字源解説における「地气発して、天に応ぜざる」という文は「高い天まで昇らず、地下水から气を発して成る、地上にたちこめる霧」を意味した。ゆえに、上の図に示した「激流の銀河」と「長方形の暗黒天体部」が「高天まで昇らず地上にたちこめる地气」である[]の字源となった。
 だから、「伊邪国」は「霧の丹波(たんば)」と呼ばれて有名な「旧国の丹波(現在の京都府中部と兵庫県の一部)」であったことになる。

◆下に、「伊邪国の地宜」を示した。
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 上に図示した「伊邪国・丹波の地宜」は、下に図示した「女性の骨盤の正面図の輪郭の形」に相似すると見立てられた。

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 下に、現在方位にもとづく〔9番目の斯馬国・10番目の巳百支国・11番目の伊邪国の三小国の地宜〕を示した。
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 上図に示した「斯馬国の東端(現在方位)」は「誕生した生子の頭蓋骨」に相当する。「斯馬国の生子の頭蓋骨の大きさ」よりも「女性の骨盤正面の形」に見立てられた「伊邪国の骨盤入口」の長さ」のほうがはるかに大きい。
 上図に示した「伊邪国の骨盤入口の大きさ」は「巳百支国における、生子の頭蓋骨と見立てられた丹後半島北部の大きさ」より大きい。
 今まで解説して証明したように、[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」にもとづいて「因幡・但馬と丹後の地宜」を「娩出期終わりの頭が誕生する生子の姿」に相似すると見立てて、卑弥呼は「因幡・但馬」の小国名を「斯馬国」と定め、「丹後」の小国名を「巳百支国」と定めた。また、卑弥呼は「丹波の地宜」を「女性の骨盤正面の形」に相似すると見立てて「丹波」の小国名を「伊邪国」と定めた。したがって、「斯馬国・巳百支国・伊邪国」という小国名は、今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究】をあらわしている。言いかえると、「斯馬国・巳百支国・伊邪国」という小国名は【倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわしていることになる。
 また、前述したように、倭女王・卑弥呼が居住した「邪馬壱国」という王国名もまた【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわしていた。
 『魏志倭人伝』の冒頭文は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」であり、この冒頭文の先頭字の[]の字源・字形・字義は「遠くの土地の地理における方位規定は、時計回りに90度転回する」であった。ゆえに、このブログの前半部でも配置したが――再度、下に配する図が示すように、『魏志倭人伝』は「末盧(まつろ)国以下の本州・日本列島地理における東海地方(現在の愛知県・静岡県)は九州の〔東〕に所在するのではなく、〔南〕に位置する」と説明していたことになる。
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 その証拠に、『魏志倭人伝』の本州・日本列島における方位記事は全部で12ヵ所存在するが、全12ヵ所の方位記事は下に配した[]の字源に則る転回日本列島地理と32ヵ国の小国の地宜」に合致して矛盾点・不合理な点はいっさい存在せず【科学】が成立する。
 卑弥呼が生存した時代、中国では魏・呉・漢(蜀漢)の三国が鼎立(ていりつ)していた。「魏」の国号に用いられる字には[]の字源をそのまま受け継いだ[]が付くゆえ【倉頡が創った[]の「時計回りに90度転回する方位規定】をあらわした。また、「呉」という国号は【倉頡が創った[]の「逆時計回りに90度転回する方位規定」】をあらわした。そして「蜀」という国号の正式名は「漢」であったゆえ、これまた【倉頡は銀漢から漢字を作った】と表示していたことになる。卑弥呼が生存した後漢時代末から三国時代の中国は、【倉頡が発明した漢字作成理論】の復興時代であったことになる。
 だから、倭国でも卑弥呼によって【倉頡が発明した漢字作成理論】が復興され、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】が説明される正確無比の書物となったのである。

◆以上のごとく、九州説と畿内説は約2000字で構成される『魏志倭人伝』とまったく無関係の空理空論・虚妄(きょもう)であった。 
 というのも、九州説と畿内説は、『魏志倭人伝』は「邪馬台国」について説明する文献史料であったと断定したからである。
 しかし、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は約55パーセント・約1100字の記事をもって「卑弥呼は政権基盤を【倉頡が発明した漢字作成理論】と定めた。ゆえに、卑弥呼は倭人国を構成する34の小国をもって【倉頡が発明した漢字作成理論】を合理的に体系的に説明できるようにした。要するに、卑弥呼は倭人国の34の小国をもって【中国における漢字の起源史】をあらわし、卑弥呼王朝の政権基盤は【倉頡が発明した漢字作成理論】であると表明した」と伝える重大な史料であった。
 九州説と畿内説は、『魏志倭人伝』が伝える「漢字の起源史の説明」をハチャメチャにして不明にしてしまった。だから、九州説と畿内説は空理空論・デタラメ・インチキ・詐偽(さぎ)であったことになる。
 『魏志倭人伝』は倭女王・卑弥呼が居住した首都所在地を「邪馬壱(やまい)国」と書き記し、「邪馬台国」と書いていない。したがって、「卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰・出雲であった」と証言する『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える歴史書であり、また「中国における【学問】は紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝・倉頡時代から始まり、わが日本国では紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭から始まる」と伝える貴重な学問書であったのである。

 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の1回から今回(12)までに詳細に解説して――『魏志倭人伝』は「倭女王の卑弥呼は山陰・出雲の邪馬壱国に居住し、本州・日本列島は〔東〕ではな〔南〕に伸びると定め、そして【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】を国家と王朝の政治基盤とした」と記述するものであった――と証明した。
 次回(13)とさらに14回の2回に分けて、『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えない方法をもって、初回(1)から今回(12)までのわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」にて解説し証明した邪馬壱国出雲説について、一旦(いったん)まとめることにする。

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