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2021年4月26日 (月)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・14

▼倭女王・卑弥呼が登場する文献で有名な『魏志倭人伝』は「倭女王・卑弥呼が居住した邪馬台国は吉野ケ里遺跡がある九州、もしくは纏向(まきむく)遺跡がある畿内・大和に所在したと説明している」と主説する――このような邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は、日本四千年の学問史上における最大・最悪の汚点である。
 というのも、九州説と大和説は『魏志倭人伝』の全記事とまったく無関係の空理空論であり、日本人・日本文化・日本芸術・日本国家などを形作った日本四千年の学問を根底から崩壊・破滅してしまう暴論だからである。
 『魏志倭人伝』は「倭女王・卑弥呼が居住した王国名」を「邪馬壱(やまい)国」と書き記しているが、九州説と畿内説が主張するように「邪馬台国」と記していない。また、『魏志倭人伝』は「邪馬壱国の中心地は山陰・出雲、現在の島根県東部であった」と記述する。
 さらに『魏志倭人伝』は(1)「倭の易卜」について説明する記事と(2)「伊都(いと)国」について説明する2ヵ所の記事で「倭国は、銀河(夏の銀河・文字作成銀河)の各部の形状を字源・字形・字義とする原初漢字・夏音(かおん)文字が中国から伝来して習得した。卑弥呼が文書に用いる文字は夏音文字であった」と伝えている。
 ゆえに、今回のブログでは、『魏志倭人伝』に登場する「侏儒(しゅじゅ)国、裸(ら)国、黒歯(こくし)国」という三小国名の記事が――後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)、中国から渡来した名門益(えき)氏が日本列島の東北地方に定住して【夏音文字の学芸】と【倉頡が発明した漢字作成原理】を東北地方から関東地方の人々に教え広めた歴史――を伝えている秘密を詳細に解説して証明することする。
 だから、『魏志倭人伝』は「侏儒国・裸国・黒歯国」の三小国記事で【わが国における夏音文字の学芸と倉頡が発明した漢字作成理論の習得史】は説明しているゆえ、この歴史を排除・無視する九州説と畿内説の実体は完全なる空理空論・デタラメ・詐偽(さぎ)・絵空事であったことになる。


★「倭人国の地理学」のトリセツ・23

◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」は1回から12回までにおいて――卑弥呼が政権基盤とした【紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の医学研究】と【黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡が発明した漢字作成理論】を、倭国の30ヵ国の小国名に用いる文字の字源と各小国の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)で伝えていた――という歴史的事実を証明した。
 前回(13)では――卑弥呼は王国「邪馬壱国」が倭人国を束ねて統治する中心地となるように、倭人国のおける対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までの30の小国を10ヵ国ずつ3グループに整然と分けて、各小国名に用いる字の字源と各小国の地宜をもって【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわした――と指摘した。
 だから、『魏志倭人伝』は九州説と畿内説が思い込んだ「邪馬台国」について説明していた書物ではない。
 『魏志倭人伝』は(1)「倭女王・卑弥呼は邪馬壱(やまい)国に居住していた」と記述し、しかも(2)『魏志倭人伝』は「【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える歴史書にして学問書であった。
 わが邪馬壱国・出雲説は、『魏志倭人伝』の全記事をそのまま忠実に読解して、言いかえると【『魏志倭人伝』に一点の〔文献批判〕を加えない方法】で、しかも【科学】が成立するように、一点の矛盾点が生じずにすべて合理となるように解説して証明した。

◆ヒトは〔天頂緯度線を〕キャッチすると、1度・60分の60分の11分の誤差内で精確に緯度が測定できた。
 下に、「天頂点と重なる銀河部位の軌道」を示した。
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 人類は原始のときから、脳に〔天頂緯度線〕をキャッチして精確に緯度測定できる本能がそなわり、鍛錬すれば1度・60分の60分の11分以内の緯度差を測定できる神秘的な眼力を、たくましく生きていくために本能行動の能力としてそなわっていた。だから、この神秘的な呪力(じゅりょく)によって、一団を組んで日々食料を求めて移動した原始の生活にあっても、「道に迷った! 位置(緯度)も方角もまったくわからない! 死ぬ!」というようなパニック状態におちいることもなく、人類は天頂にめぐってくる銀河周辺の形状を地理代わりにして〔天頂緯度線と子午線〕をキャッチして緯度と方角を測定してたくましく巧(たく)みに生存したのである。
 後期縄文時代初頭、益氏は[(とう)]をキャッチして中国とわが国の中間の大海・玄界灘を横断して、わが国に【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を教えひろめた。
 この[]という字は、下の〔[]の解説図〕が示すように、「天頂緯度線と子午線をキャッチする能力」をあらわした。
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 下に、〔[]の字源解説図〕を配した。
 []の下に[(よう)]を加えると[]となる。[]の字源・字形・字義は「出産児の縦長の頭が横向きになって母体の横長の骨盤入口を通り抜けてから、せまい産道をくぐり抜けて出産児(生子)の頭が誕生するまで」を示している。つまり、[]は「必ず[](天頂緯度線と子午線)をキャッチすると欲を有すると[]のキャッチに失敗して位置と方位が不明になって命を落とすことになる。しかし、産道を通過する出産児のごとく無欲になれば[]はキャッチできて命を保障されて生き長らえることができる」という、「[]をキャッチするときの心得」をあらわした。
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 中国から日本列島に移住するには、『魏志倭人伝』が冒頭で「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」と記す「大海の、玄界灘」を征服しなければならない。だから、わが国に【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】をもたらした益(えき)氏は[]の心得をもって[](天頂緯度線と子午線)をキャッチして、[]の字が名に配される「玄界灘」を横断したことになる。

◆わが国に【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】をもたらした益氏について、中国の正史の司馬遷(しばせん)著『史記』の五帝本紀は「五帝時代の四番目の帝であった堯(ぎょう)が天下を治めた時に、益氏は挙用された」と伝える。
 『史記』五帝本紀には、【帝堯の時代初頭の星空図】が記述されている。この【帝堯代初頭の星空図】が説明する〔春分点〕の位置から、帝堯の時代は紀元前2500年頃であったことが明らかとなる。というのも、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の2回で解説したように、〔歳差(さいさ)〕という天文現象によって、その春分点の位置によってその星空の年代を知ることができるからである。
 『史記』五帝本紀に記述された【帝堯代初頭の星空図の記事】を要約して、現代語に訳すると下記のごとくなる。
 「昼夜が同じ長さで、鳥(北斗七星で最も光が強いおおぐま座ε星)が夕刻(午後6)に子午線通過(天の北極と北点の間の下経過)する日をはかって、春分を殷(ただし)定めた。昼が最も永(なが)いことと、火(か/「大火」ともいう、さそり座α星)が、日暮れ方に西南西の地平線近くに見える日をはかって、夏至を正した。夜と昼が同じ長さで、虚(きょ/みずがめ座のβ星)が日暮れ方(午後6)に正南に見える日をはかって、秋分を正した。昼が最も短いことと、昴(ぼう/おうし座の和名「すばる」)が日暮れ方(午後5時頃)に正南に見える日をはかって、冬至を正した。一年は三百六十六日、三年に一回閏月(うるうづき)をおいて四時を正した。」
 この【帝堯代初頭の星空図の記事】における四時(二分二至)における目星と春分点の位置からして、益氏が挙用された帝堯代初頭は紀元前2500年頃であったと解明できる。

◆「銀河」の別称は「銀漢」であり、「銀漢から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と言った。
 倉頡は、現在の天文学で通称「夏の銀河」と呼ばれる「夏の星座が漬()かる銀河の範囲」から【漢字】を作った。私は「夏の銀河」を「文字作成銀河」と名づけた。
 「文字作成銀河」の写真を、下に示した。
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 天文学はじめ諸々の分野の学問においても「《漢字の字源・字形となる原形・原義》を解説することができる文字作成銀河の各部の名称」を定めていない。ゆえに、〔字源となった銀河=字源となった銀河=字義となった銀河〕の解説・証明において非常に不便となるゆえ、私は下図のごとく銀河各部の名称を定めた。
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 【倉頡が発明した漢字作成理論】に従って――上記した【帝堯代初頭の星空図の記事】のおける「(1)春分点・秋分点と(2)夏至点と(3)冬至点をあらわす銀河部」が、上に示した〔文字作成銀河各部の名称図における上部の銀河範囲〕に配置された。
 下に、〔文字作成銀河各部の名称図〕に「春分・夏至・秋分・冬至の日における日の出・日没の太陽をあらわす銀河部の図」を配した。
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 上図に示すように、文字作成銀河における東端には「三つの輪が重なり合う、三つ輪の銀河」がある。(1)「三つ輪の銀河における北側の輪の銀河」は「正午の太陽の南中高度が最も高い、東北の地平線から昇る夏至の日の太陽」に見立てられた。ゆえに、(2)「三つ輪の銀河における中間にある輪の銀河」は「東の地平線から昇る春分の日と秋分の日の太陽」に見立てられた。また、(3)「三つ輪の銀河における南側の輪の銀河」は「正午の太陽の南中高度が最も低い、東南の地平線から昇る冬至の日の太陽」に見立てられた。
 また、上図に示したように、(1)「黄帝陵の天頂緯度線(北緯3536)に最も近い、大泉門の銀河」は、「夏至の日の、西北の地平線に没する太陽」見立てられた。そして、(2)「北天の最輝部の北側にある、⦿の形となる銀河(つまり、円形の銀河部とその中央にある白鳥座のγ星)」は「春分の日と秋分の日に、西の地平線に没する太陽」に見立てられた。また、(3)「長方形の暗黒天体部」は「冬至の日の西南の地平線に没する太陽」に見立てられた。
 上図に示すように、「十字の銀河」の南にある「日輪の銀河」は「一年中における正午に南中する太陽」に見立てられた。ゆえに、「日輪の銀河の中心と十字の銀河の中央を結ぶ線」は「正午の太陽」をあらわすことになったゆえ、[()]の字源・字形・字義となった。

◆下の図に示すように、「三つ輪の銀河」や「十字の銀河」がある銀河一帯は「木の葉が茂る部分の形状」に相似し、「鬼の姿に似る銀河」は「樹木の幹」に相似し、「人の横顔の酷似する銀河の頭部」は「樹木の根の部分」のイメージとなり、「人の横顔に酷似する銀河」は「樹木の根が張り延びる地中(土の中)」に見立てられる。これゆえ、「春分の日の西の地平線に没する太陽」に見立てられた「⦿の形となる銀河(つまり、円形の銀河部とその中央にある白鳥座のγ星)と北天の最輝部(さいきぶ)」がある「人の横顔に酷似する銀河」は「春になって、木の下の冬ごもりの巣の穴にこもるクマが目覚める横顔」に見立てられた。
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 もう一ヵ所、前述した「冬至の日の西南の地平線に没する太陽」に見立てられた「長方形の暗黒天体部」もまた、下の図に示すように「土中のクマの冬ごもりの巣」に見立てられた。ゆえに、「鬼の姿に似る銀河」は「クマが冬眠する土中の巣の上の堅い土の層」と「春になって冬眠から目覚めて、巣から出てきたクマの姿の姿」に見立てられた。
 だから、「鬼の姿に似る銀河」が[(のう)]の字源・字形・字義となった。
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 『説文解字』は[]に字を「能獣は堅中なり。故に賢能と称するなり」と解説する。つまり、『説文解字』は「能(クマ)は賢いゆえ土が崩落しない堅い土中に冬ごもりの巣を作って冬眠する。ゆえに、能(クマ)は賢く優れた能力を有すると称される」と解説した。
 『説文解字』が[]の字を「賢能と称するなり」と解説したように、「クマ」を意味する[]の字は「賢い才能や知恵」をあらわし、また「せまい産道をくぐり抜けて出産児の命が湧きあがるがごとく生まれる、出産児の頭蓋骨の神秘的な機能」をあらわすことになった。
 だから「せまい産道をくぐり抜ける出産児の頭蓋骨の仕組み」を産婦人科では「広形機能」と名づけられたように、[]の字は「本能」、「機能」など、また「賢い才能や知恵」にもとづき[]の字は「知能」、「能力」、「能率」「効能」、「技能」などという語に用いられた。
 この[]の字源・字形・字義の秘密は、この回の後半にて、益氏が日本列島に定住した歴史を伝える「黒歯(こくし)国」という小国の秘密の解明で必要となる。

◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が1回から前回(13)まで解説し証明したように――[]の下に[]を加える[]も人偏に[]を加える[]も、倉頡が創った[]の字源・字形の原形・原義をそのまま受け継いで「地平線より外(外界)となる、遠い土地の地理における方位規定は時計回りに90度ずつ転回する。つまり、北→東・東→南・南→西・西→北となる」とあらわすことになった。
 下に、[][][]の字源銀河の解説図
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 『魏志倭人伝』は「現在の長崎県対馬」の小国名を「対馬国」と記し、「現在の長崎県壱岐」の小国名を「一大国」と記す。そして、『魏志倭人伝』は「対馬国の南の一海(瀚海)渡る千余里にして、一大国に至る」と説明する。したがって、「対馬国と一大国の方位」は現在の日本地図の方位規定と同じであるゆえ、[]の字の「時計回りに90度ずつ転回する方位規定」に合致しない。
 これゆえ、『魏志倭人伝』は「現在方位と同じ対馬国・一大国の水平線から外界となる、本州・日本列島地理における方位規定は[]の字源に則(のっと)る。つまり、東海地方(愛知県・静岡県)は現在の日本地図だと九州の〔東〕に所在するが――卑弥呼王朝は、東海地方は90度転回して〔南〕に所在すると制定した」と説明していたことになる。
 卑弥呼が[]の字源に則って「本州・日本列島地理における〔東〕は〔南〕に転回する」と制定した転回日本列島地理を下に配した。
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 上の転回日本列島地図に示したように、また、前回までのわがブログで詳細に解説して証明したように――『魏志倭人伝』が「邪馬壱国に至る、女王の都する所なり」と伝える「倭人国の首都が所在した邪馬壱国の中心地」は「山陰・出雲、現在の島根県の東部(現在方位)」であった。
 九州説と畿内説を主張する学者たちは倭女王・卑弥呼が居住した王国名は「邪馬台国」であったと断定するが、『魏志倭人伝』には「邪馬壱(やまい)国」と書き記されている。
 卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)において、邪馬壱国の中心となる山陰・出雲には「邪馬壱(やまい)」という語を表示する地宜が存在した。
 下に、[]の字源にもとづく卑弥呼時代の出雲の地図(地宜)を示した。
 前回のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」までにおいて、[]の字源は「フタコブラクダ」であることを詳細に解説して証明した。 
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 上の「卑弥呼時代の出雲の地図」の左上に「神門水海(かんどのみずうみ)」がある。
 下に図示したように、「神門水海」は「経度線と緯度線に邪(なな)めとなる、また馬・フタコブラクダの姿」に相似する。だから、「神門水海」は「邪(なな)め」の[][]をあらわす地宜であったゆえ、「邪馬」をあらわした。
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 下の図に示したように――卑弥呼時代の宍道湖(しんじこ)の地宜は「人の、膝(ひざ)から下の足の形」に相似し、その「爪先(つまさき)」は転回方位の〔西〕を指差した。したがって、「宍道湖の地宜」は「十字の銀河の右足(西側の足)」に相当すると見立てられた。前回までのわがブログは、「十字の銀河の右足(西側の足)の東に隣接する、十字の銀河の子宮」が[]の字源・字形の原形・原義であったことを解説し証明した。ゆえに、「十字の銀河の右足(西側の足)」に相当する「宍道湖の南岸(転回方位)」に面して佐太神社が鎮座する「島根半島の中央部」が[]をあらわした。
 下に、[]の字源地宜となった「佐太神社が鎮座する、島根半島中央部の地宜」を示した。
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 卑弥呼時代、出雲の「神門水海の地宜」は「邪馬」と表示し、「島根半島中央部の地宜」は[]の字源・字形の原形・原義をあらわしたゆえ、卑弥呼は「邪馬壱の地宜」を有した出雲に居住していたことになる。
 なお、黄帝や倉頡が生存した五帝時代初頭、「十字の銀河」は中国全土の各地の天頂にめぐってきて[](天頂緯度線と子午線)をキャッチして1度の60分の11分の誤差内で緯度が精確に測定できる、人々が命をまもった羅針盤となった。
 「十字の銀河の西側半分」には、「乳房」「妊婦の腹部」、「右足(西側の足)」に相似する箇所があり、また[]の字源・字形の原形・原義となった「子宮、あるいは生殖器に相当する箇所」もある。この「十字の子宮」は「十字の銀河の右足(西側の足)の東隣」となる。
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◆『魏志倭人伝』には「女王国(邪馬壱国)より東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆倭種(みなわしゅ)なり」という記事がある。
 []の字源・字義となった「時計回りに90度ずつ転回する方位規定」に従うと、「現在方位の〔北〕が[]の転回方位だと〔東〕となる」ゆえ、「邪馬壱国・出雲の島根半島中央の真北に所在する隠岐群島」が「女王国の東の海に所在する、皆倭種なりの小国」となる。
 隠岐群島は知夫里島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島で構成される島前(どうぜん)と、その東北にある最も大きな島の島後(どうご)4つ大島と約180の小島からなる。したがって、「4つの大島と約180の小島からなる群島」は「皆」とあらわされることになった。だから、『魏志倭人伝』には「隠岐群島」は「皆倭種なり」と説明されることになった。
 []の字源・字義となった転回方位にもとづくと、現在方位の〔北〕が転回方位の〔東〕となるゆえ、「本州・日本列島の北にある日本海」が「〔東〕の海」となる。日本海には「皆倭種なり」という記述に合致する「群島」や「諸島」は「隠岐群島」だけ一ヵ所となる。だから、転回方位で隠岐群島の〔真西〕となる島根半島・出雲が倭女王・卑弥呼が居住した邪馬壱国であったことになる。
 ゆえに、卑弥呼が居住した王国は九州にも畿内にも所在しなかった。

◆「皆倭種なり」と説明された隠岐群島の次に説明される小国は、今回のブログのテーマとなる「侏儒(しゅじゅ)国」、侏儒国の次は「裸()国・黒歯(こくし)」である。
 前述したように、「侏儒国、裸国、黒歯国」という三小国には「紀元前2500年頃の帝堯時代初頭に挙用された益氏の子孫が日本列島に定住して【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を教えひろめた」という歴史が秘められている。
 『魏志倭人伝』は侏儒国について、下記のごとく説明する。
 「又、侏儒国有り。その南に有り。人の長(たけ)三、四尺、女王去ること四千余里」
 []の字源をあらわす〔西〕を〔北〕にする転回方位規定にもとづくと、「女王(女王国・邪馬壱国)を去ること四千余里」という旅程記事からして、「旧国の加賀、現在の石川県南部(現在方位)」が「侏儒国」であったことになる。
 つまり、下の図に示したように、「加賀が侏儒国、越中が裸国、能登が黒歯国」であった。
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 上の図における「裸国」の右上に配したイラストは――首から胸部の襟元(えりもと)は夏の陽射しで肌が黒く焼ける裸(はだか)の部分となるゆえ、越中・現在の富山県の小国名は「裸国」となった――と説明する補足図である。
 『魏志倭人伝』には「衣を作ること単被(たんび)の如(ごと)く、其の中央を穿(うが)ち、頭を貫きて之(これ)を衣()る」と説明する記事がある。この「大きな単(一つの)布を中央で二つ折りにして、その中央に頭を貫通する穴を開けて被(かぶ)る衣服の襟元」は「V字形の襟元」もあったであろうが、上のイラストのごとく「横長のU字形の襟元」を指していると考えられる。というのも、「単被告(衣服)の中央の穴」は「楕円形もしくは円形となる骨盤入口」に模()して(見立てて)作られ、「単被の穴を貫く頭」は「頭が誕生した娩出期(べんしゅつき)終わりの出産児」に見立てられたと考えられるからである。また、「富山県・裸国の地宜」は「横長のU字形」に類似するゆえ、その夏服・単被の襟元は「U字形」であったと考えるべきことになる。

◆話題を「侏儒国」にもどすと――『魏志倭人伝』は侏儒国について「人の長(たけ)三、四尺」と説明する。この記事は幾人かの学者によって「侏儒国には身長が三、四尺(九十センチから百二十センチぐらいの小人が住んでいた)」と解釈された。しかし、[]の字源銀河は「侏色(赤色・桃色)、つまり熟した桃の実のごとく赤く輝く、鬼の横顔に似る銀河」である。『説文解字』は[]の字を「柔(やわらか)なり」と解説する。というのも、[]の字源銀河は「鬼の横顔に似る銀河」であり、「鬼の横顔に似る銀河」は「せまい産道を通過する出産児の柔らかい頭蓋骨」に見立てられたからである。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の11回で詳細に解説したように――「産道を通過する出産児の頭蓋骨」にある「小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)・前頭骨(ぜんとうこつ)・頭頂骨(とうちょうこつ)・後頭骨(こうとうこつ)」には「骨を重ね積み合わせることができる機能」がある。ゆえに、この頭蓋骨の機能(仕組み)によって、出産児はせまい産道を通りぬけることができる。この「せまい産道を通りぬけるときの小泉門・矢状縫合・大泉門・前頭骨・頭頂骨・後頭骨の動き」は「草をモグモグと食べる馬・フタコブラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴが邪(なな)めとなる形状」にソックリであるゆえ、卑弥呼は「邪馬壱(やまい)」と名づけた。「邪馬壱」の[]は「母体の骨盤と産道」を意味した。ゆえに、「邪馬壱」という語は「出産児の頭蓋骨のパーツが重ね合わせて、せまい産道を通りぬけることができる機能」を意味した。
 「侏儒」の語源となった「鬼の横顔に似る銀河」には〔その顔に目が二つあり、その後頭部とアゴにも目が二つ〕あるゆえ、「四つ目の銀河」となる。
 倉頡伝説では、倉頡は「四つ目の怪人」と呼称される。つまり、倉頡伝説は――「倉頡」は「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」に見立てられ、「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」は[][]はじめ[][][][][][][][][]など様々な字源・字形・字義となった――と伝えていたのである。
 前述したように、「歳差(さいさ)」という天文現象を利用すると、黄帝と倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代初頭における中国全土の各地の天頂にめぐってきた銀河を知ることができる。
 下の図に示すように、五帝時代初頭、「十字の銀河」と「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」が中国各地の天頂にめぐってきた。「十字の銀河」と「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」は、中国各地の人々が[](天頂緯度線と子午線)をキャッチして精確に緯度と方角を測定する、最も大事な命をまもる羅針盤となった。
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 下の図に示すように、「十字の銀河」は[]の字源となり、「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」は[]の字源となった。これゆえ、「十字の銀河」は「天上の(天頂にある)羅針盤」に見立てられ、[]の字源「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」は「中国の各土(各地)」に見立てられた。また、「四つ目の銀河(鬼の横顔似る銀河)」は「天上の羅針盤(十字の銀河)を見上げて精確に緯度と方角を測定する中国各地に住む人(人々)」に見立てられた。だから、「四つ目の銀河」は五帝時代や夏代初頭に[]の字源となり、「倉頡」に見立てられた「四つ目の銀河」は倉頡伝説では「四つ目の怪人」と名づけられた。
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◆上図における[]の金文形、そして契文形(甲骨文字の字形)も〔成長した少年・少女や、成人の側身形〕を図案するものではない。[]の古代字形は「産道を通過する出産児」に見立てられた「四つ目の銀河」をあらわすため、「少し膝(ひざ)を屈した図案」をもって「産道を通過する出産児の側身形」を表現すると定められた。これゆえ、白川静著『字統』は[]の字形について「人の側身の形。いくらか膝を屈する形に作る」と解説する。
 前述したように、[]の字における[]の下の[(よう)]は「必ず[](天頂緯度線と子午線)をキャッチすると欲を有すると[]がキャッチできずに道に迷って命を失う。しかし、産道を通過する幺(出産児)のごとく無欲になれば[]がキャッチできて生存できる」という、つまり「遠くの地に旅する人や大海を往来する人の[](天頂緯度線と子午線)をキャッチする心得」をあらわした。ゆえに、人にとって「いのちあってのものだね」で【命】が最も大切であるゆえ、[]の古代字形(契文と金文の字形)は「産道を通過する出産児の膝を少し曲げた側身形」で統一されることになったのである。
 上記したように、「侏儒」すなわち「侏色(赤く)頭蓋骨が柔らかい、産道を通過する出産児(赤ん坊)」に見立てられた「四つ目の銀河」は[]の字源であった。
 だから、『魏志倭人伝』の「又、侏儒国有り。(中略)。人の長(たけ)三、四尺」という記事には「人」が登場する。ゆえに「人の長(たけ)」という語句は――「侏儒」の語源「四つ目の銀河」は[]の字源であったゆえ、[]の字源と「侏儒」の語源となった「四つ目の銀河」の見かけの大きさは三尺(九十センチ)、四尺(百二十センチ)ぐらいである――と説明していたことになる。
 上掲したように、黄帝と倉頡が生存した五帝時代初頭には「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)の角(つの)の先端と後頭部につく目の眼球中央は、ともに黄帝陵の天頂緯度線(北緯3536)が貫通していたゆえ、「四つ目の銀河の角の先端・後頭部の目の眼球中央からアゴにつく細い切れ目の東端(小さい黒点をつけた箇所)までの長(たけ)、すなわち見かけの大きさは「四度三六分」言いかえると「四・六尺」であった。ところが、『魏志倭人伝』は――卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の「四つ目の銀河」は五帝時代の傾きと変わり、五帝時代における見かけの大きさより「約〇.六度・約〇.六尺」短い――と伝えている。
 だから、下の図に示すように、『魏志倭人伝』は――卑弥呼時代の「四つ目の銀河における角(つの)からアゴまで」は約四尺(四度)、「後頭部につく目の中央部からアゴまで」は約三尺(三度)である――と説明していたことになる。
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以上のごとく、「侏儒国・旧国の加賀の地宜」は上の図に示すように、「左・東に向く顔または右・西に向く顔となる四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」に見立てられた。

◆『魏志倭人伝』における「侏儒国」の説明記事の後には、次の文がつづく。
 「又、裸()国・黒歯(こくし)国有り」
 下の図における「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」と「コールサック」は天文学にて用いられる名称である。
 「北天の最輝部」という名称は「北半球に住む人々が最も輝いて見える銀河部」と意味する。ゆえに、「北天の最輝部」は「陽射しが強い夏の太陽」のイメージとなった。ゆえに、「北天の最輝部」の東隣の「コールサック(石炭を入れる袋のごとく真っ黒な天体部)」は、下の図の下部に示したように「夏の強い陽射しで肌が黒く焼けた女性の裸体」または「夏の陽射しで襟元(えりもと)が黒く焼けた夏の衣を着る女性の胴体」に見立てられた。
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 上の〔「侏儒国・裸国・黒歯国」の銀河図〕において、「侏儒国」に見立てた「四つ目の銀河」の西隣の「鬼の身に相当する銀河」は「侏儒・出産児の胴体」であるゆえ「裸(はだか)」となる。しかし、「鬼の身に相当する銀河」は「旧国の越中、現在の富山県の地宜」に相似しない。「富山県の地宜」は「横長のU字形」であるゆえ、「コールサック北部」にもとづいて小国名は「裸国」となったと考えるべきことになる。つまり、上の図の下部に示した「裸」と記した「夏の陽射しで黒く焼けたU字形の襟元(コールサックの北部)」によって、卑弥呼は「富山県」の小国名を「裸国」と定めたことになる。
 このブログの前半部にて〔[]の字源銀河の解説図〕を用いて解説したように――上の図の左上にある「長方形の暗黒天体部」は「能(クマ)の土中の冬ごもりの巣」に見立てられて、[]の字源が成立した。〔注 「長方形の暗黒天体部」の北隣の「鬼の姿に似る銀河(四つ目の銀河・鬼の身に相当する銀河)」が[]の字源・字形の原形・原義となった〕。
 卑弥呼は「土中の能(クマ)の冬ごもりの巣」に見立てられた「長方形の暗黒天体部」を「旧国の能登の地宜」に見立てて、彼女は「能登・現在の石川県北部(現在方位)」の小国名を「黒歯国」と定めた。 
 下の図に示すように、[]の字源銀河「長方形の暗黒天体部」は「人の口」、「河口」、そして「骨盤入口、骨盤出口、産道の入口と出口(外子宮口・膣口)」に相似すると見立てられて[][]の二字の字源となった。ゆえに、『説文解字』は[]の字源について「口歯の形に象(かたど)る」と解説する。
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 「黒い長方形の暗黒部」の「黒」に[]を加えて、卑弥呼は旧国・能登の小国名を「黒歯国」と定めた。というのも、能登の「七尾湾(ななおわん)の地宜」は「[]の字源地宜」にも「「歯]の字源地宜」にも解釈できるからでる。ゆえに、「七尾湾に包囲される能登島(のとじま)」は「口の中にある食べ物」に見立てられたことになる。

◆上記したように――「侏儒国・旧国の加賀の地宜」は「左・東に向く顔または右・西に向く顔となる四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」に見立てられた。ゆえに、卑弥呼は「右・西に向く侏儒(出産児)の顔」を「春分の日に西の地平線に没する太陽」に見立て、「左・東に向く侏儒の顔」を「秋分の日の東の地平線から昇る太陽」に見立てたことになる。
 「裸国・旧国の越中の地宜」は「夏の陽射しで裸(はだか)となる黒く焼けた襟元(胸のあたり)」であったゆえ、卑弥呼は「越中」を「夏の太陽が輝く国土」と見立てたことになる。
 上記したように、卑弥呼は「旧国の能登の地宜」を[]の字源「長方形の暗黒天体部」に見立てて、「旧国の能登」の小国名を「黒歯国」と定めた。卑弥呼が小国名と定めた「長方形の暗黒天体部」は、前述したように[]の字源を成立させる際に「能(クマ)が冬眠する土中の巣」と見立てられた。
 だから、「侏儒国・裸国・黒歯国の三国の地宜」は互いに関連しあって「侏儒国は春分点・と秋分点」、「裸国は夏至点」、「黒歯国は冬眠するクマから冬至点」をあらわした。
 現在の地図において石川県北部の能登半島の東部にある七尾湾(ななおわん)北部には穴水(あなみず)町があり、七尾湾南部には七尾市がある。
 下の図のごとく、七尾湾の〔南〕にある七尾市は〔西〕に転回し、七尾湾の〔北〕にある穴水町を〔東〕へ転回する地理方位は、「南→西・北→東」となるゆえ[]の字源「時計回りに90度ずつ転回する方位規定」をあらわす。〔注、下の図は現在地図の能登半島の〔北〕を〔東〕に転回する地図となるゆえ、[]の字源をあらわす〕。
 そして、「七尾湾」は「能(クマ)が冬ごもりする土中(地中)の巣」、「能登島の地宜」は「メスクマが冬ごもりの巣で出産した子グマ(新生子)の姿」に相似する。
 この「[]の字源をあらわす能登の地宜図」は「出入口から低くなる地下(土中)にある巣に入って、巣にこもる子能(子グマ)」をあらわすことになった。
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 下の図が示すように、[]の転回方位によって「七尾湾の湾口」は〔南〕となる。この「七尾湾の湾口が〔南〕となる地宜」の場合、上の図では七尾市は〔左西〕にあるが下の図では〔右西〕となって〔左右〕が反転する。同様に、上の図では穴水町は〔右東〕にあるが、下の図では〔左東〕となり、〔左右〕が反転する。
 下の図は、現在地図における能登半島の〔北〕が〔西〕、〔南〕が〔東〕となるように転回する地図である。だから、下の図における方位は「北→西・南→東」と転回するゆえ、[]の字源「反時計回りに90度ずつ転回する方位規定」をあらわす。
 そして、下の〔[]の転回方位の能登図〕の「能登島の地宜」は「地下(土中)の巣の穴から正午の太陽が輝く〔南〕へ向かって、巣から出入口へとつづく坂を登って土上へ現れる子能(子グマ)の姿」に見立てられた。
 ゆえに、下の〔[]の転回方位の七尾湾・能登島図〕は「正午の太陽が照らす南に向かって、巣の穴からの坂道を登って土上へあらわれる能(子グマ)」と解釈され、この解釈は「能登」と略称され、「現在の石川県北部(現在方位)」の旧国名は「能登」となったことになる。
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〔注 前述したように「長方形の暗黒天体部」が「能(クマ)の冬ごもりの巣」に見立てられた理由は――子宮の胎児は生まれるまで便(うんち)を出さないと同様に冬眠するクマは巣の穴に便をしない――この共通性によると考えられる。出産で産道を通る時におなかがおされ、生子のおしりから初めて緑色の便が出てくる。だから、「嬰児」は「みどり()ご」と呼ばれたのであろう〕。

◆上に示した〔[]の転回方位の能登図〕と〔[]の転回方位の能登図〕にもとづいて、黒歯国・能登からの次の旅程について――『魏志倭人伝』は「黒歯国有り、復()た其の東南に在りて船行一年にして参問至る可()き。倭の地を参問するに、(中略)。周旋(しゅうせん)五千余可(ばか)り」と説明する。
 上の文中にある「参問」は「社寺に参拝する、参詣(さんけい)」を意味した。
 〔北〕に社寺の建物が〔北〕にあり、参道の出発点(出入口)は〔南〕にある社寺に参拝する人は、入口から社寺に向かった時の右手は〔東側〕」にあり、社寺の建物から出口(出発点の入口)にもどる時は左手が〔東側〕にある。この「右手・東」は[]の字源をあらわし、「左手・東」は[]の字源をあらわす。だから、[]には「まじわる」という字義がある。したがって「社寺に願いごとする人は[][]の字源をあらわして、参道を行き来する」ことになるため、[]の字義は「まじわる」となった。ゆえに、「参拝」・「参詣」・「参問」という語における[]の字義は「まじわる」である。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の11回の後半部で詳細に解説し証明したように――骨盤入口から産道を通りぬける出産児は4回の回旋をおこなう。第1回旋と第4回旋は[]の字源「時計回りに90度の転回」となり、第2回旋と第3回旋は[]の字源「反時計回りの90度の転回」となる。
 この産婦人科の医学用語「回旋」を、『魏志倭人伝』は「周旋」と記した。上記した黒歯国・能登からの旅程記事末部の「周旋五千余里可り」の「周旋」は、産婦人科の医学用語では「回旋」と称される。したがって、「周旋」は「360度の円周する」ということではなく、「1回の回旋」と同義で「産道を通過する出産児の頭の時計回り、あるいは反時計回りに90度の転回」を意味したことになる。
 「周旋」という語は現在「両者の間に入って世話をすること」を意味し、「世話」は「他人のために骨を折ること」を意味する。前述したように、[]の字源は「回旋(周旋)して産道を通過する出産児」と定められて、[]の字形は「産道を通過する出産児の姿」を「背骨を丸めて全身の骨(骨格)を折るように膝(ひざ)を屈する姿勢」に図案すると定められた。ゆえに、「周旋」は「[]の字形は、背中に荷物をかつぐ時のごとく人骨(骨格)を折る形」であるからして「骨を折る」、そして「骨を折る」から「世話をする」という転義になったと考えられる。
 だから、「周旋」の原義は「産道を通過する出産児の頭の時計回り、または反時計回りの90度の転回」であり、現在の産婦人科の用語「回旋」と同義であったことになる。
 これゆえ、黒歯国・能登からの「周旋五千余里可り」という文で終わる旅程記事を図にすると、下の図のごとくなる。
 『魏志倭人伝』の「黒歯国有り。復()た其の東南に在りて船行一年にして参問至る可()き」という文中にある「東南」は、上の図の右下の「[]の転回方位」にもとづく〔東南〕」であった。この「[]の転回方位」にもとづく「東南」には「男鹿半島」がある。
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 『魏志倭人伝』における上記の「復た其の東南に在りて船行一年にして参問至る可き」の後に続く記事は「倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し」である。
 上の図に示したように、黒歯国の七尾湾から船行すると新潟県の佐渡に到着する。この「佐渡」が「倭の地を参問するに、海中洲島」であったことになる。そして「佐渡から新潟県の粟島(あわしま)までの海」を「海中洲島の上に絶在し」と表現していたことになる。
 「佐渡から粟島までの海」を説明する記事の後に続く文は「或いは絶え或いは連なり、周旋五千余里可り」である。上の〔黒歯国・能登から男鹿までの周旋船行図〕における「佐渡から船行して粟島に至り、粟島から山形県の飛島(とびしま)を経て男鹿半島の船越水道(ふなこしすいどう)までの旅程」を「或いは絶え或いは連なり」と表現し、「黒歯国の七尾湾から男鹿半島の船越水道までの旅程」を「周旋五千余里可り」と、『魏志倭人伝』は記述したことになる。

◆下に図示する「船越水道・八郎潟と男鹿半島・米代川縄文文化圏」は、後期縄文時代初頭、わが国に【夏音文字の学芸と精密地図(地宜)作製方法】と【倉頡が発明した漢字作成理論】と【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究】が伝来した地であった。
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 わが国では紀元前4000年頃の前期縄文時代初頭、関東地方で土器造形革命が起き、中期に入って芸術性に優れた装飾性豊かな土器・土偶が作られるようになり、紀元前2000年頃の後期縄文時代初頭において土器・土偶文化が栄えた。前期初頭から後期初頭までの約2000年の伝統を受け継いた芸術家たちは、倉頡が漢字を作った「夏の銀河(文字作成銀河)」の各部の形状をモデルに、しかも「女性の生殖器と子どもの出産」、つまり「命」をテーマにする土器・土偶を多数作った。だから、東北地方から関東地方までの土器・土偶を作った芸術家たちは【倉頡が発明した漢字作成理論】を理解できたゆえ習得されることになった。そして、おのずと【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究と夏音文字の学芸と精密地図(地宜)作製方法】もまた、芸術家たちによって習得された。
 上に示した〔船越水道・八郎潟と男鹿半島・米代川縄文文化圏の図〕における「船越水道」を「子宮口(外子宮口/がいしきゅうこう)から「膣口(ちつこう)までの産道」に見立てると、「八郎潟」は「女性の子宮、あるいは生殖器」に見立てられることになる。
 「子宮口に相当する船越水道」から夏至の日の出の方角の花輪盆地に、後期時代初頭の「国の特別史跡・大湯環状列石遺構(おおゆかんじょうれっせきいこう)」が所在する。
 下の図に示すように、秋田県鹿角(かづの)市花輪町大湯中通りに所在する大湯環状列石遺構は西側が直径48メートルの万座(まんざ)遺跡、東側は直径42メートルの野中堂(のなかどう)遺跡である。野中堂遺跡と万座遺跡には、「日時計組石」と名づけられた特殊組石がある。《野中堂遺跡の中心・日時計組石の中心》と《万座遺跡の中心・日時計組石の中心》を結ぶ線は「夏至の日没方向」を指差す。したがって、「夏至の日没方向」は【夏音文字の学芸】をあらわすゆえ、国の特別史跡の大湯環状列石遺構は【倉頡が発明した漢字作成理論、黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究、夏音文字の学芸、精密地宜作製方法】をひろめるために造った学問施設であったことになる。
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 〔注 野中堂遺跡の「日時計組石」は「帝堯代に〔鳥〕と名づけられた、つまり地平線下に沈まない周極星の強い光を放つ北斗七星の第5星・おおぐま座ε星」を利用して《日々の午前零時を測量する装置》であり、野中堂遺跡の中心に垂直に柱を立てて、《日々の正午の南中高度を記録》して、《その日の正午の南中高度の位置を、その日の午前零時の黄道上の太陽の位置と定めて、春分点・夏至点・秋分点・冬至点、つまり黄道を測量する装置》であったと考えられる。また、万座遺跡の中心に垂直に立てた柱で《文字作成銀河各部の高度と方角》を測量し、日時計組石を《文字作成銀河の高度と方角の記録装置》にして、文字作成銀河を地面に図化した。ゆえに、万座遺跡の東側の外帯の地面に文字作成銀河が図化されたため、その平面図には文字作成銀河の形の面影が残っているゆえ、万座遺跡東側外帯の石を集めて形成した平面図(地宜)は文字作成銀河図であったと考えられる〕。

◆船越水道・八郎潟が所在する男鹿・米代川文化圏は、名門の益(えき)氏が中国から渡来して定住して、わが国に【倉頡が発明した漢字作成理論】、【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究】、【夏音文字の学芸】、【精密地宜(地図)作製方法】を教えひろめた本拠地であった。
 前述したように――中国の正史・司馬遷著『史記』五帝本紀に「五帝時代の四番目の帝王・堯帝の時代から挙用された」と記述された――名門・益氏の子孫が日本列島に定住した。
 紀元前2250年頃~紀元前2200年頃(わが国では中期縄文時代後半)、五帝時代の最後の舜(しゅん)帝時代に、益氏の首長は「虞()」という重職に就()いた。「虞」は「調査測量して正確な中国海岸線地図を作製する官職」であった。五帝時代が終わり夏后(かこう)時代が始まるまでの約200年、益氏は代々、「虞」の重職についていた。だから、夏代(夏后時代)が起源した紀元前2070年の夏代初頭、益氏は最も正確な中国海岸線地図を知っていて、当時における最先端の精密地宜(地図)作製方法を開発していた。
 “夏の始祖”の禹帝(うてい)が会稽(かいけい)で崩御したとき、天下を帝禹の政治を補佐した益氏の首長にさずけた。しかし、諸侯はみな帝益を去って、禹の子の啓(けい)に入朝した。帝禹は「五帝時代と同じく、国家を建設しないで多数の氏族が協力しあって、多くの氏族の中で最も優秀な人物を帝に選ぶ政治体制」を主張したが、子の啓は父の帝禹の氏族共同体制に反対し「国家を建設して、優秀な氏族が帝位を世襲する政治体制」を主張した。ゆえに、帝禹は臨終の際に、益に「国家を建設せず、氏族共同体制を継続」を遺言した。これゆえ、禹の遺言「氏族共同体制」に反対し啓の主張「世襲王朝体制」に賛成して諸侯が啓に入朝した状況から、〔中国では、もはや氏族共同体制の継続は不可能〕と悟った益は、帝位を啓にゆずって箕山(きざん)の南の地に隠棲(いんせい/隠居)した。益は、亡き帝禹の遺志を継ぐため、日本列島に「五帝時代以来の氏族共同体制」を広めるために移住を決意した。しかし、益氏の首長は年老いていたゆえ、大海・玄界灘を小舟で漕いで横断することができる体力を失っていた。だから、〔帝禹の遺志を継ぐ、氏族共同体制継続の日本列島移住事業〕は、帝であった益の孫の王子と益氏の若者たちによって決行された。
 ゆえに、『日本書紀』巻第三・神武天皇紀の初頭部は――天祖の彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)一行は天のいわくらを開き、雲路をおしわけて、先払いをたてて新天地(男鹿・米代川縄文文化圏)に鴻(おおとり)が荒野に舞い降りて棲みつくがごとく定住された。このとき、この新天地から関東地方までの東日本一帯は野蛮で草深い学問が存在しない文化・文明の低い未開地であった。このような状況にありながら、みずから正しい【銀河から倉頡が発明した漢字を作る学問と芸術】を新天地の人々に教え養って、日本列島の東北地方における西の偏(ほとり/八郎潟の東岸地域)に居住して治めた――と記述している。
 この益氏の日本列島・東北地方の定住について、司馬遷著『史記』陳杞世家(ちんきせいか)は「帝王となった益氏の子孫は、中国のどこに封ぜられたか不明である。史伝に記載されていないからである」と記述する。帝禹の後を継いだ帝益の後継者である、孫の王子と若者たちは玄界灘を横断して日本列島の東北地方に定住した。このため、名門益氏は中国の歴史から忽然(こつぜん)と消えたのである。
 『魏志倭人伝』には「古(いにしえ)より以来、其の使、中国に詣(いた)るに皆自(みずか)らを大夫と称す」という記事がある。「大夫」の2字は万葉仮名(『万葉集』)では「ますらを」と読む。「ますらを」は、今日、「益荒男」と表記する。ゆえに、古代の倭の使者たちは「天祖の益氏の王子と若者たちが、波が逆巻(さかま)く荒々しい玄界灘を往来したように、吾(われ)も玄界灘を征服して中国に到着できた」と誇示して、皆がみな「大夫」と称していたことになる。これゆえ、現代の「益荒男」は「益氏の王子と若者たちが玄界灘を横断した歴史」に由来して「勇気ある、雄々しく立派な男子」と意味することになった。

◆夏代初頭に帝位に就き、中国の正確な海岸線地図を作製する重職「虞」に代々約200年間も従事した名門・益氏の王子と若者たちは、玄界灘を征服して、紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)、日本列島の東北地方の男鹿半島・米代川縄文文化圏に本拠地にしてわが国に定住した。だから、わが国は【倉頡が発明した漢字作成理論】と【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究】と【夏音文字の学芸】と【正確な中国海岸線地図と精密地宜(地図)作製方法】を習得することができた。
 その証拠に、大湯環状列石遺構の北方は、本州北端となる下北半島・陸奥湾・夏泊(なつどまり)半島・津軽半島が所在する。
 この「本州北端の下北半島・夏泊半島・津軽半島」は[]の字源「フタコブラクダ」を明確に示す。というのも、「下北半島」は「フタコブラクダの横顔と首」、「夏泊半島」は「フタコブラクダの前のコブ()」、「津軽半島」は「フタコブラクダの後ろのコブ」にソックリであるからである。
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 『魏志倭人伝』は「対馬国と一大国の中間の海は瀚海(かんかい)であった」と伝える。「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味する。フタコブラクダは「沙漠の船」といわれ、ゴビ沙漠に住む人々にとって欠くことができない大切な家畜である。「フタコブラクダ」は「船」と呼ばれたゆえ、「ゴビ沙漠」は「瀚海」という海であった。上図の本州北端の地宜における陸奥湾中央に突き出る半島は「日中、夏の強烈な陽射しが刺す瀚海の港()に停泊する船・フタコブラクダ」を省略して「夏泊半島」と名づけられたにちがいない。だから、上の図における北緯4039分の緯度線上に東西にならぶ八甲田山と岩木山の冬の山頂は、夜になると厳しく寒くなる瀚海の気候と同じようになる。ゆえに、「八甲田山と岩木山」は「フタコブラクダが〔船〕と呼ばれて往来した瀚海・ゴビ沙漠」に見立てられたことになる。
 卑弥呼は「本州北端の地宜」が[]の字源「フタコブラクダ」を明確に示し、「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味することを知っていたゆえ、「対馬と一大国の中間の海」を「瀚海」と名づけたのである。
 東の下北半島と西の津軽半島に包囲される陸奥湾は、下に配する「女性の骨盤の正面の形」に相似する。ゆえに、陸奥湾の中央の夏泊半島の地宜は女性の仙骨(せんこつ)・尾骨(びこつ)に相似する。わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」で幾度となく繰り返して解説するように、「女性の骨盤」は[]の字源であった。
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 だから、下に配するイラストに示したように「下北半島の西岸」は「邪馬」となり、「陸奥湾」の[]が加わる「本州北端の地宜の、【邪馬壱】」は倭女王・卑弥呼が居住した王国名「邪馬壱(やまい)国」の由来を明確に伝えている。
 卑弥呼は後期縄文時代初頭に益氏が男鹿半島・米代川縄文文化圏に定住して【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を教えひろめた歴史を知っていた。だから、この歴史にもとづいて、卑弥呼は倭人国の首都が所在する王国名を「邪馬壱国」と定めたのである。
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 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の11回で詳細に解説したように――下に図示したように、「モグモグと草を食べる時の馬・フタコブラクダの横顔における、邪(なな)めとなる鼻・上アゴ・口・下アゴの動き」を、卑弥呼は「邪馬(やま)」と名づけた。
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 『魏志倭人伝』に登場する「邪馬国」は「旧国の大和、現在の奈良県」であった。
 下に示す「邪馬国・大和の地宜」は「鼻・上アゴ・口・下アゴを邪(なな)めにして、モグモグと草を食べる馬・フタコブラクダの横顔」にソックリである。ゆえに、約200年間代々[]の重職に従事した益氏がわが国に定住して【精密地宜作製方法】を教えひろめたゆえ、上図に示すように「大和の地図(地宜)」は「草を食べるフタコブラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴの横顔」にソックリに測量されたため、「邪馬」と名づけられたにちがいない。
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 現在、日本古代史学では、後期縄文時代初頭はじめ2世紀末~3世紀半ばの卑弥呼時代、精密地図作製方法は開発されていないと考えられているが――『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記される多数の夏音文字の字源・字義を解明すると、わが国は後期縄文時代初頭に益氏が【精密地宜(地図)作製方法】をもたらし、この史実を証明する古代に作られた地上絵(地宜)や庭園平面図(地宜)や文献史料がわが国には幾つか存在することが証明される。

 上記したように「東北地方の北端の地宜」が「邪馬壱」を示すことを知っていた卑弥呼は、倭人国の首都が所在地する王国名を「邪馬壱国」と定めた。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の11回で詳細に解説したように――「邪馬」は「せまい産道を通り抜ける出産児の頭蓋骨の〔小泉門・矢状縫合・大泉門と後頭骨・頭頂骨・前頭骨〕の重ね合わせることができる仕組み(機能)」であった。
 というのも、「産道をくぐり抜ける時の出産児の頭蓋骨の形状」は「モグモグと草を食べる時の馬・フタコブラクダの横顔における、邪(なな)めとなる鼻・上アゴ・口・下アゴの動き」にソックリだからである。
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 卑弥呼は「産道を通過する出産児の頭蓋骨の機能の形状」の「邪馬」に[]の字源となった「女性の骨盤・産道」を加えて、倭人国の首都所在地の王国名を「邪馬壱国」と定めた。
 倉頡は、卑弥呼が「邪馬」と名づけた「産道を通過する出産児の頭蓋骨の4回の周旋(回旋)における〔第1周旋と第4周旋〕にもとづいて〔時計回りに90度転回する方位規定〕を字源・字形・字義とする[]の字を考案し、〔第2周旋と第3周旋〕にもとづき「反時計回りに90度転回する[]の字を考案した。
 [][]の字は倉頡が創った[]の字源・字義をそのまま受け継いだ。
 だから、『魏志倭人伝』冒頭の「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」という文は「[]の字源・字義に則(のっと)って、本州・日本列島の〔西端〕の九州は〔北端〕に位置し、九州の〔東〕にある東海地方(愛知県・静岡県)は〔南〕に位置した。本州・日本列島は[]の字源に則って東方に延びずに南方に延びる」と説明していたことになる。

◆前述したように〔東北地方の北端の下北半島・夏泊半島・津軽半島の地宜〕は「馬・フタコブラクダが瀚海(ゴビ沙漠)の駅に足を折りたたんで休んでいる姿」にソックリである。
 だから、『魏志倭人伝』の「倭地には牛・馬は無し(生息しない)」という文中の[]の字は瀚海(ゴビ沙漠)に生息する「フタコブラクダ」を意味したと証明される。
 しかし、フタコブラクダは、わが国に生息しない。だけど、わが国に生息しないフタコブラクダは[]の字源となり、「産道を通過するときの出産児の頭蓋骨の様子」は「草を食べるフタコブラクダの鼻・アゴ・口の形」にソックリであり、この産婦人科で「広形機能」または「骨重積」と呼ばれる出産児の頭蓋骨の仕組みは【黄帝の医学研究における核心】を示すことになったため、卑弥呼は「邪馬壱」と表現し、倭人国の王国名を「邪馬壱国」とした。だから、日本列島に生息しなかったフタコブラクダは【黄帝の医学研究と倉頡が発明した漢字作成原理の核心】をあらわすため、卑弥呼は「邪馬壱国」だけでなく[]の字を「対馬国・投馬国・斯馬国・邪馬国」の4小国名にも用いた。ゆえに、[]の字銀・字形・字義は「フタコブラクダ」であると証明することができる。
 この【倉頡が発明した漢字作成理論において最も重要な学識】を、「銀河各部に名称をつけることを厳重に禁じて、漢字は銀河から作られたつくられた秘密」が守り通した中国王朝が卑弥呼王朝はじめわが国に絶対に教えるはずがない最も厳重なタブーであった。にもかかわらず【漢字作成理論における最重要な学識】を卑弥呼が知っていたことは、中国の夏代初頭にて帝位についた名門・益氏の王子がわが国に定住したからにほかならない。
 今回のブログで解説して証明したように――倉頡伝説にて「四つ目の怪人・倉頡」と表現された「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」にもとづいて、「旧国・加賀」の小国名を卑弥呼は「侏儒国」と定めた。
 「四つ目の怪人・倉頡」という表現は「漢字は銀河から作られた事実」を伝える役目を有していた。「四つ目の銀河・四つ目の怪人」は「十字の銀河」とともに、中国全土の各地の天頂にめぐってきて人々が命を確保して生存していくために精確に緯度が測定できる羅針盤となった。
 しかし、現代の学者たちは「人間には目が四つは無い! 倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)だ! 一人の人間が漢字を発明したという伝説は歴史的事実を伝えていない! 長い歴史の中で多数の人々によって発展してしだいに体系を整えられたと考えるべきである」と全面否定した。ゆえに、「倉頡が発明した歴史的事実」は徹底的に葬られることとなったため、現在「倉頡伝説は事実であった」と主張する人物は「非常識!」とただちに軽蔑されることになった。
 しかし、このブログが証明したように――『魏志倭人伝』の倭人国の30ヵ国の小国記事によって「倉頡によって漢字が発明されたことは事実であったことが科学的に証明できるゆえ、後世の人々が【倉頡が発明した漢字作成理論】に則って漢字数を増やした歴史的事実」も明らかとなる。だから、『魏志倭人伝』は「倉頡伝説は事実であった」と「文献批判」という主観を一ヵ所も加えずに科学的に証明できる正確な貴重な学問書であった。
 
◆だから、「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説は明確に虚偽説であった。
 その証拠に、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目において、「わが国の漢字音」と題して、次のごとく指摘している。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 音韻史研究によって、中国において現存する最古の漢字音は、下に配した「漢字生長史」に示したように、紀元前1046年から始まる周代初頭の「上古音」である。
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 上の「漢字生長史」が明確に示すように、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」と学界が主張する定説の漢字音は、中国において現存する最古の上古音よりも約1500年も新しいことになる。だから、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」という定説は上記した音韻史研究成果に反する空理空論であった。
 白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する字音は、わが国が後期縄文時代初頭に習得した夏音文字の漢字音である。この夏音文字の字音は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残っている。
 だから、学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する絶対的定説は【科学】が成立しない空理空論・虚偽説であった。
 これまで証明してきたように「夏音文字の字源・字形・字義」は「文字作成銀河の各部の形状」であった。
 “字書の聖典”と尊重された『説文解字』を著作した許慎(きょしん)は「漢字は文字作成銀河から作られた事実」を知っていた。
 ゆえに、この秘密を『説文解字』の序にある一文は「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古(しにしえ)を識()るなり」と伝える。
 つまり、『説文解字』の序は「銀河から作られた漢字は学問()と芸術の根本であり、銀河から作られた漢字は王政(王道政治)にとって“い”のいちばん・最初に必要不可欠な政権基盤であり、字源・字形の原形・原義となった文字作成銀河の各部の形状によって後人は古代の歴史を最も正しく知ることができる」と伝えていた。

▼以上のごとく、邪馬台国九州説と邪馬台国大和説は『魏志倭人伝』の全記事とまったく無関係の空理空論であり、日本人・日本文化・日本芸術・日本国などを形作った日本四千年の学問を根底から崩壊・破滅してしまう暴論であったのである。
 九州説と畿内説は、『魏志倭人伝』における最も大事な記事は「邪馬台国」に関する説明であると思い込む。
 しかし、『魏志倭人伝』は「倭女王・卑弥呼が居住した王国名」を「邪馬壱国」と書き記し、「邪馬台国」と記していない。また、『魏志倭人伝』は「邪馬壱国の中心地は山陰・出雲、現在の島根県東部であった」と説明している。そして、『魏志倭人伝』は【わが国における倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸の習得】を説明する学問書にして歴史書であった。
 約2000字で構成される『魏志倭人伝』は正確無比の文献史料であり、いっさい〔文献批判〕を必要としない史料であった。ところが、九州説と畿内説を主張する学者たちは「軽々しく『魏志倭人伝』の記事を信用してはいけない。なぜ信用してはならないのか、信用してはならないのはどのような点なのか、あるいはどのような〔文献批判〕を加えたならば信用できることになるのかなどを考えて、『魏志倭人伝』の記事を利用しなければならない」と定めた。しかし、【合理】や【科学】合理を成立させるために多くの〔文献批判〕を加えても、九州説と畿内説はいっこうに【科学】が成立しない。
 だから、九州説と畿内説の実体は完全なる空理空論・デタラメ・絵空事であった。

◆九州説と畿内説を主張する学者たちがなにゆえ『魏志倭人伝』の記事を信用しないで多数の【文献批判】を加える立論方法こそが正しいと思い込んだ原因は、『魏志倭人伝』は「本州・日本列島の東方は南方に延びている」と記述するからである。九州説と畿内説を力説する学者たちは「卑弥呼時代の人々も現代の日本人と同じく〔天の北極〕がある方向を〔北〕と定めていた。だから、日本列島の本州の東方が南方に延びていると、当時の人々は絶対に考えない」と思い込む。
 この思い込みが原因で、九州説と畿内説は空理空論・デタタメ・絵空事となった。 
 人類・ホモサピエンスは原始のときから、[](天頂緯度線と子午線)をキャッチして生活をいとなみ生きながらえて滅亡しなかった。〔天の北極〕では精確に緯度と子午線は測量できないため、太古の厳しい環境の中で生きていくことができる方法を失って途中で人類は全滅していた。
 『魏志倭人伝』の冒頭の「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」という文の先頭の[]の字は、倉頡が考案した[]の字源・字形・字義をそのまま受け継いで「時計回りに90度ずつ転回する方位規定」を秘めていた。つまり、[]の字は「人類は原始のときから生命を確保して絶滅しなかった[](天頂緯度線と子午線)をキャッチした、頭脳にそなわっていた本能行動」にもとづく地理観から生まれた方位規定であったゆえ、歴史的事実であった。だから、九州説と畿内説は卑弥呼時代において生命を確保するための方法であった〔[]のキャッチの慣習〕を無視・排除したため一気に空理空論となった。
 この他にも、九州説と畿内説が空理空論となった原因は5つ存在する。これゆえ、〔九州説と畿内説が空理空論となった6つの原因〕を下記のごとく要約することにした。
 というのも、現在はテレビや携帯電話などが普及したため、重大な発見・証明も短く説明しないと無価値とされることになったからである。したがって、江戸時代中期の新井白石以来約300年間、学者たちが最も正しい意見と信頼した九州説と畿内説は『魏志倭人伝』とまったく関係しない空理空論・デタラメ・詐偽となった6つの原因を、下記のごとく短く説明できるようにした。
 それでも「長い! 難解!」と指摘するならば、下記の最初の【1】の原因【[][]のキャッチ】、言いかえると中国と日本列島の中間の「玄界灘」の【[]】だけに集中して思考すれば――「倭の使節も魏・帯方郡の使節も玄界灘を往来することができなかった。だから、魏と倭は国交を結ぶことができず、魏は倭の様子をまったく知らなかったことになる。したがって、「『魏志倭人伝』には倭人国の様子を記述する文字は1字も書かれていなかった」ということになり、九州説と畿内説が空理空論であったことは単純明快に示されるゆえ、一気に九州説と畿内説の実体はデタラメ・絵空事・詐偽であったと証明される。

◆邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説が空理空論となった6つの原因
1】 原始のときから、ヒトは【[][](天頂緯度線と子午線)をキャッチできる銀河部を羅針盤】にすると、〔緯度(位置)と経度(方向)〕が精確に(1度の60分の1の、1分以内の誤差内で)測定できて生活し生存することができた。したがって、卑弥呼時代の人々もまた【[][]をキャッチする方法】で命(いのち)が保障されていた。ゆえに、〔原始のときから、ヒトが生活して生存して命(いのち)を長らえることができる、命をまもる手段〕は〔[][](天頂緯度線と子午線)をキャッチする方法〕であったという、この事実にもとづいて『魏志倭人伝』の記事を読解し思考しなければならなかった。
2】 九州説と畿内説は現代の日本地図と同じ〔天の北極〕を〔北〕と定める日本地図で立論する。しかし、ヒトは原始のときから〔天の北極〕を〔緯度(位置)と経度(方向)を計測する羅針盤〕にすると命をまもることができず、命を失って生存してゆくことができなかった。このため、〔天の北極〕がある方を〔北〕と定める現代と同じ日本地図を立論基盤とすると、ただちに空理空論・虚偽説・絵空事となった。
3】 今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した倉頡は、天文学で通称「夏の銀河」と呼ばれる「夏の星座が漬()かる銀河の範囲」から文字を作った。ゆえに、「夏の銀河」を私は「文字作成銀河」と名づけた。倉頡は中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた全漢字が生まれる、万物の母」と定め、「十字の銀河の子宮(生殖器)」を「文字作成銀河各部の形状から作られた全漢字が生まれる子宮(生殖器)」と定め、「十字の銀河」の西隣の「鬼の姿に似る銀河」を「文字作成銀河の各部の形状から生まれたすべての子ども、すなわち[]の字源・字形・字義にする」と定めた。
 ゆえに、『魏志倭人伝』を正確に解釈するためには【倉頡が文字作成銀河各部の形状を字源・字形・字義と定めた漢字作成方法の解明】が必要不可欠であった。
 「夏音文字の字源・字形・字義」は「文字作成銀河の各部の形状」であり、夏音文字の字音は『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数記載されて現存する。
 〔注 太安万侶(おおのやすまろ)は『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)の冒頭の34字で「漢字は文字作成銀河から作られた。後期縄文時代初頭にわが国は【夏音文字の学芸】を習得して【倉頡が発明した漢字作成理論】をも習得した」と証言している〕。
4】 倉頡が文字を発明する目的は、黄帝の医学研究「女性の生殖器と子どもの出産」をあらわすことができる文字を考案することであった。したがって、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は約半分・約1000字で【倉頡が発明した漢字作成理論】と【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究】を説明する学問書であった。
 約1000字で伝える【倉頡が発明した漢字作成理論】と【黄帝に「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究】は、約2000字で構成される『魏志倭人伝』の全記事と密接に関係する。
 卑弥呼は【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】において最も重要な事柄は、今日の産婦人科で「広形機能」または「骨重積」と呼称される、「母体の骨盤入口から膣口(ちつこう)までの産道をくぐり抜ける出産児の頭蓋骨にそなわる小泉門・矢状縫合・大泉門・後頭骨・頭頂骨・前頭骨の機能」であると考えて、これを「邪馬壱」と名づけ、「邪馬」と[]の地宜を有した山陰・出雲に居住した。
 九州説と畿内説は「邪馬台国」の所在地を伝える文献史料であるにちがいないと思い込んだ。このため、九州説と畿内説は『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の「女性生殖器と子ども」の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】の合体学問的知識を排除し無視することになり、『魏志倭人伝』の記事とまったく無関係の空理空論となった。
5】 五帝時代の最後の帝舜(しゅん)の時代から「虞」という重職について正確な中国海岸線地図作製に代々約200年間も従事した益氏が、夏代初頭に帝位に就き、その直後に帝益の孫の王子と若者たちが日本列島の東北地方に定住して、【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成原理】と【夏音文字の学芸】と【正確な中国海岸線地図と精密地宜(地図)作製方法】を教えひろめた。わが国では、前期縄文初頭から後期縄文時代初頭まで、東北地方から関東地方において、倉頡が文字を作った夏の銀河の各部の形状から土器・土偶を作っていた。この約2000年間の土器・土偶を作る芸術の伝統を受け継ぐ芸術家たちによって【倉頡が発明した漢字作成理論】が理解されて習得され、【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究】と【夏音文字の学芸】と【正確な中国海岸線地図と精密地宜(地図)作製方法】をも習得された。
 そして、日本列島の海岸線は中国の海岸線よりも約3倍も長く、【倉頡が発明した漢字作成理論】で字源・字形・字義となると定めた地宜(つまり、文字作成銀河の各部の形状に相似する字源・字形・字義となる地宜)が多数存在して恵まれていた。このため、【倉頡が発明した漢字作成理論】は卑弥呼が生存した後期弥生時代後半まで失われずに正確に保存されることになった。
 この益氏の日本列島の定住史によっても、九州説と畿内説は空理空論となった。
6】 日本列島の東端にある伊豆諸島の神津島は良質の黒曜石が産出したために約3万年前の後期旧石器時代から、関東地方、東海地方、近江(滋賀県)、北陸地方(石川県能登半島)に住む人々が採取していた。ゆえに、神津島は卑弥呼時代、良質な黒曜石が産出することで有名であったゆえ、卑弥呼も知っていた。この日本列島の東端にある神津島は日本列島の西端に所在する沖ノ島と同緯度(北緯3415)である。
 中国の北部海岸線地域は冷たい気候区であり、中国の南部海岸線地域は暖かい気候区であるゆえ〔北冷南暖〕ということになる。日本列島の西端にある沖ノ島は冬に雪が降る冷たい気候区であるが、日本列島の東端にある亜熱帯地域となる神津島は一年中暖かい気候区であるゆえ、〔西冷東暖〕ということになる。中国の北部海岸線地域と日本列島西端の沖ノ島の気候は共に冷たいゆえ、卑弥呼は〔中国の北冷=日本列島の西冷〕と考えた。中国の南部海岸線地域と日本列島東端の神津島の気候は共に暖かいゆえ、卑弥呼は〔中国の南暖=日本列島の東暖〕」と考えた。このように、中国の海岸線地域の北部・南部と日本列島の西端・東端における冷たいと暖かい気候区の共通性を基(もと)に考えると、日本列島の東端は中国の海岸線の南部のほうに所在することになるため、日本列島地理の方位規定は[]の字源に合致して時計回りに90度転回することになった。
 当時において、「中国の海岸線地域の北部・南部と日本列島の西端・東端における冷たいと暖かい気候区の共通性による[]の字源にも適合する本州・日本列島転回地理は最も合理的な科学的な意見、真理をあらしていると崇拝されて信じられることになった。
 このような日本列島の西端の沖ノ島と東端の神津島による気候区による[]の字源が成立するという偶然も重なって、卑弥呼王朝は本州・日本列島転回地理を制定して、わが国における最初の国家体制・倭人国を樹立した。
 だから、上記の6つの事柄の解明を必要とする『魏志倭人伝』に対して、この6つの事柄を無視して立論する九州説と畿内説は『魏志倭人伝』と無関係の空理空論となったのである。

◆今回までにわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」は、「対馬国、一大国、邪馬壱国、斯馬国、巳百支国、伊邪国、邪馬国、隠岐群島、侏儒国、裸国、黒歯国」の11の小国における地宜と小国名の合致を証明した。しかし、このブログは、卑弥呼が【倉頡が発明した漢字作成理論】にもとづいて本州の末盧国から狗奴)国までの23小国における各小国の名称を定めたことをいまだ証明していない。ゆえに、次回から、何回にも分けて23の各小国の地宜と各小国名の合致を解説し証明することにする。

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