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2021年5月13日 (木)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・18

▼〔漢字の起源の秘密〕は、漢字が起源した中国では解明することができない。しかし、わが国では〔漢字の起源の秘密〕は解明することができる。
 ただし、学界やメディアが推奨する邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説を「真面(まとも)な意見」であると信頼することをきっぱりやめて――3世紀後半(280年~289年)に著作された『魏志倭人伝』をただひたすら・いちずに全記事を忠実に読解すれば〔漢字の起源の秘密〕は愉快なほどに・どんどんと・芋(いも)づる式に明々白々となる。
 九州説と畿内説は『魏志倭人伝』に【文献批判という作為(さくい)】を多数加えるゆえ、〔漢字の起源の秘密〕が解明できない。
 『魏志倭人伝』は1ヵ所も【文献批判】を必要としない正確無比の文献史料であった。
 九州説と畿内説は『魏志倭人伝』に書かれていない「邪馬台国」を書かれていると声高(こえだか)に主張する空理空論・真っ赤なウソである。実は、『魏志倭人伝』は倭女王・卑弥呼が居住した女王国の名称を「邪馬壱(やまい)国」と記す。また、九州説と畿内説は「『魏志倭人伝』は〔邪馬台国研究〕のための文献史料である」と主張するが、『魏志倭人伝』は〔漢字の起源の秘密〕を集約的に的確に説明する、全記事が正確無比の文献であった。
 『魏志倭人伝』は合計2039字で構成される。そのうち、『魏志倭人伝』は(1)前半部の「対馬国・一大国・末盧国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国・邪馬壱国・斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・弥奴国・好古都国・不呼国・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・奴国・狗奴国」の計30ヵ国の説明記事と、(2)後半部に加えられる「女王国の東の名称不明の小国・侏儒国・裸国・黒歯国」の4ヵ国を説明する記事、この(1)と(2)の合計34小国名の秘密について説明する約1100字・約55パーセントの記事をもって、〔漢字の起源の秘密〕が愉快なほどに、どんどんと・芋づる式に次から次へと解明できる仕組みになっている。
 だから、「『魏志倭人伝』は〔邪馬台国研究〕のための史料である」と主張する九州説と畿内説は完全なる空理空論・真っ赤なウソだったのである。


★「倭人国の地理学」のトリセツ・27

◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が毎回のごとく、したがって14回~前回(17)でも繰り返して解説し証明してきたように――上記した(2)後半部の「女王国の東の名称不明の小国・侏儒国・裸国・黒歯国」の4ヵ国について説明する記事で「後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)、わが国に【夏音(かおん)文字の学芸】に伝来し習得したとき、【紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)であった倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】も共に習得した」と説明している。
 この(2)後半部の「女王国の東の名称不明の小国・侏儒国・裸国・黒歯国」の4ヵ国を説明する記事は76字で構成される。この76字の書き下し文は下記のごとくである。
 「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)倭種なり。又、侏儒(しゅじゅ)国有り。其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺。女王を去ること四千余里。又、裸()国・黒歯(こくし)国有り。復()た其の東南に在りて船行一年にして参問至る可()き。倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(周旋)五千余里可(ばか)り。」
 つまり、上記の記事は「紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、“夏の始祖”の禹()帝の後を継いだ益帝の孫の王子と若者たち一行が中国から渡来し、わが国の東北地方の男鹿半島・米代川(よねしろがわ)文化圏に定住して東北地方から関東地方まで【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を教えひろめた」と伝えていた。
 日本列島の東北地方に定住した益氏は、五帝時代最後の舜(しゅん)帝の時代に[()]という重職を任命されて代々約200年間、正確な中国の海岸線地図の作製に従事し、精密地図作製方法を進展させた。この名門・益氏の定住によって、後期縄文時代初頭に正確な中国海岸線地図と精密地図作製方法をも習得されることになった。
 だから、『魏志倭人伝』に登場する(1)前半部の30ヵ国と(2)後半部の4ヵ国、合計34の小国の地図の形は後期縄文時代初頭に益氏が教えひろめた精密地図作製方法にもとづいて精密に測量されて作製されており、その各小国の精密な地宜(ちぎ/平面的に図化された地図の形)にもとづいて的確な字源・字形・字義を選んで定められていた。

◆【漢字の作成理論】は、紀元前3000年頃に倉頡によって発明された。
 『魏志倭人伝』は、下記の二つの記事で「卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、わが国には【原初漢字・夏音文字の学芸と倉頡が発明した漢字作成理論】が存在した」と説明していた。
 この二つの記事は、【1】34字で「倭国の易卜(うらない)に用いる辞(ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり紀元前1300年頃の殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅に文字を刻む契文(けいぶん/甲骨文字)のような文字があった」と伝える――つまり、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)には甲骨文字のごとき漢字があったと伝えている。
 また、『魏志倭人伝』には67字で【2】「卑弥呼が文書の用いる漢字(甲骨文字のごとき原初漢字)は魏の都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる漢字(楷書)と差錯(ささく/相違)していた。このため、倭国の小国・伊都(いと)国の津(港)では、魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と卑弥呼が用いる原初漢字を一字一字点検し確認して正確に変換していた」と伝え、わが国には卑弥呼時代に原初漢字があったと説明する。
 しかし、上記の二つの記事は、九州説と畿内説にとって不都合であるため、両説は徹底的に無視し排除する。また、上記の二つの記事は学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀、あるいは6世紀である」と断定する定説に反する。ゆえに、九州説と畿内説は定説に反する二つの記事をまったく信用せず徹底的に無視し排除する。
 しかし、「わが国が最初に漢字を習得したには5世紀、あるいは6世紀である」という学界の定説は、現在、学問的に空理空論となる。
 というのも、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目において、「わが国の漢字音」と題して、次のごとく指摘しているからである。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 中国において現存する最古の漢字音は、西洋の言語学・音韻史研究によって、紀元前1046年から始まる周代初頭の「上古音」と解明されている。
 だから、下の〔漢字生長史〕に示したように、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」と学界が主張する定説の漢字音は、中国において現存する最古の上古音(紀元前1046年の周代初頭)よりも、明らかに新しい。ゆえに、下の〔漢字生長史〕では「▼56世紀 わが国の漢字習得の定説」は最下部に配置することになる。したがって、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」という定説は、下の〔漢字生長史〕が明確に示すように、中国の最古の上古音(紀元前1046)よりも古くないゆえ、「中国の上古音よりも古い漢字音がわが国の国語として残っている」と指摘した白川静著『字統』が指摘する学問成果(音韻史研究)を無視・排除する、虚偽説・空理空論であった。
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 白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する字音は、上の〔漢字生長史〕に示した【わが国が後期縄文時代初頭に習得した夏音文字の漢字音】であった。この【夏音文字の字音】は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残っている。
 したがって、『魏志倭人伝』に「倭国には原初漢字があった」と記述された、上記した二つの記事は「わが国は後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した歴史」を伝えていたことになる。
 だから、『魏志倭人伝』は〔漢字の起源の秘密〕を説明する文献であった。というのも、『魏志倭人伝』は「倭女王・卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤と定めて天下を治めていた」と記述する書物であったからである。

◆中国でもわが国でも「文字」を「漢字」と呼ぶ。「銀河」の別称は「銀漢」であるゆえ「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と称されることになった。
 【卑弥呼が用いた夏音文字】はもちろん、【魏都・帯方郡・諸韓国が用いた楷書】もまた同一銀漢から作られた。ゆえに、倭国の伊都国の港では【字源・字形の原形・原義となった銀漢各部の形状】を観察して、夏音文字と楷書を正確に変換していたのである。
 現存する最古の漢字音を伝える「夏音文字」の[]は、天文学で通称「夏の銀河」と呼ばれる「夏の全星座が所在する銀河の範囲」いいかえると「夏に最も長時間観察できる銀河の範囲」をあらわしている。
 倉頡は、今日、天文学で通称「夏の銀河」とよばれる銀河各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論を発明した。『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』にて「夏音文字の字音に用いられた記号となる楷書も、夏の銀河各部の形状から作られた。
 ゆえに、通称「夏の銀河」を、私は「文字作成銀河」を名づけることにした。
 「文字作成銀河」を撮影する写真を、下に示した。
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 天文学はじめ諸々の学術分野においても、《漢字の字源・字形の原形・原義》を解明できる〔文字作成銀河の各部の名称〕を定めていない。ゆえに、《字源となった銀河=字形の原形となった銀河=原義となった銀河》の解説と証明をする際に非常に不便となるゆえ、私は下図のごとく「文字作成銀河の各部の名称」を定めた。
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 「文字作成銀河の各部の名称」が存在しなかった事情には、下記に列挙する〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕が密接に関わっている。
 倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れることができる王政をささえる最強・最大・最良の権力基盤であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝は容易に崩壊・滅亡するにちがいないと心配して、下に示す〔三つの死刑と定めた掟〕を定めた。
■倉頡が死刑と定めた三つの掟
1】「文字は銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた」という秘密を暴露した者はその一族全員に神罰を下して即刻に死刑にする
2】多くの文字を容易に覚えるため、銀漢(夏の銀河)各部に名称をつけた者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする
3】書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員もまた神罰を下して死刑にする

 五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)・夏代の原初漢字の夏音文字・殷代前半の原初漢字は上記した〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕を厳重にまもった。したがって、上記した【3】の掟を厳重にももったゆえ、五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。
 『魏志倭人伝』の34ヵ国の小国の精密な地図の形は〔漢字の起源の秘密〕言いかえると【倉頡が発明した漢字作成理論】を明確に知ることができる資料であった。ゆえに、上記した〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕を厳重に守ったように、〔34ヵ国の小国の精密な地宜(平面的な図化した地図の形)〕もまた卑弥呼王朝はじめその後の大和王朝もまた独占管理して厳重な機密とした。これゆえ、『魏志倭人伝』における33の小国名に用いられた漢字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば〔卑弥呼時代には、益氏が伝えた正確な中国海岸線地図と精密地宜(地図)作製方法が保存されていた事実〕を証明することができた。――言いかえると、「漢字」は「銀漢(銀河)から作られた文字」であるから、「銀漢各部の形状」を「漢字」と解して「銀漢各部の形状」は字源・字形・字義であったと考えれば――『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』に残っている夏音文字は、後期縄文時代初頭にわが国に伝来していたと確信できた。
 紀元前1300年に出現した殷代後半の甲骨文字においては多数の文字数となったため、いちいち【3】の掟をまもるのが非常に面倒(めんどう)となって守らなくても死刑はじめ刑罰を与えなくても良いことになった。ゆえに、甲骨文字によって始めて【3】の掟は破られたため、甲骨文字を書いた資料が多数出土した。しかし、甲骨文字は【1】と【2】の掟は厳重にまもった。
 ゆえに、現在の学者たちは【1】「漢字は夏の銀河の各部の形状から作られた秘密」にまったく気づかず、学者たちは「夏の銀河の各部は夏のどの星座よりも明確な形を有するにもかかわらず、なにゆえ名称が存在しないのか?」と疑問を抱かない。また、上記したように、学者たちは【3】いっこうに「漢字」を「銀漢から作られた文字」と想定しようとしない。
 これゆえ、学者たちは『魏志倭人伝』が〔漢字の起源の秘密〕を具体的に的確に後世に伝えていた貴重かつ重大な文献史料であることにいまだ気づいていない。

◆『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」である。
 この冒頭記事の先頭字の[]の字源・字形・字義によって「対馬国・一大国から遠く離れる、九州から東海地方(現在の愛知県・静岡県)までの西日本一帯の広大な本州・日本列島地理における方位規定は現在方位と時計回りに90度転回する。つまり、現在方位だと東海地方は九州の〔東〕にあるが、【倉頡が発明した漢字作成理論】における地理学の方位規定に則(のっと)って、東海地方は九州の〔南〕に存在する」と定められていた。
 この〔転回日本(本州)列島地理〕についての詳細な証明は、前回(17)のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」にて解説した。
 なお、「倭人国の玄関口となる対馬国・一大国の方位規定」は『魏志倭人伝』が記述しているように現在の地図の方位規定と同じである。しかし、上記したように「末盧(まつろ)国が所在する九州から東海地方までの本州・日本列島地理の方位規定」は[]の字源・字形・字義に則って「時計回りに90度ずつ転回して、現在方位の〔東〕は〔南〕に変位する」と定められていた。
 したがって、下に示すように、卑弥呼王朝は――現在方位で〔東〕に伸びる本州・日本列島地理は時計回りに90度転回して〔南〕に伸びると定理していた。
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 この[]の字源に則る本州・日本列島地理における転回方位規定は、末盧(まつろ)国に標示されて現存する。下の図の左側にある北九州西部の松浦地方は『魏志倭人伝』に登場する末盧国の一画であった。松浦地方には「東松浦」「北松浦」「西松浦」という方位名を示す地名がある。しかし、この「東松浦」は〔東〕に所在せず、「北松浦」も〔北〕に所在せず、「西松浦」も〔西〕に所在しないゆえ、現在方位の規定だと矛盾し不合理となる。しかし、[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」だと、「〔北〕の東松浦」は「北→東」、「〔西〕の北松浦」は「西→北」、「〔南〕の西松浦」は「南→西」となるゆえ、合理となる。だから、「東松浦」「北松浦」「西松浦」という地名は、『魏志倭人伝』に記述された[]の字源にもとづいて卑弥呼王朝が制定した「本州・日本列島地理における転回方位規定」が現在まで残った重大な史料となる。
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 上の図における左下にある松浦地方と陸続きとなる「東彼杵(ひがしそのぎ)」は西彼杵(にしそのぎ)の〔北〕にあって「北→東」となり、「西彼杵」は東彼杵の〔南〕にあって「南→西」となるゆえ、[]の字源となった転回方位規定ならば合理であるが、現在方位だと矛盾する。ゆえに、「東彼杵」「西彼杵」という地名もまた卑弥呼王朝が制定した本州・日本列島地理における転回方位規定が現在まで残った史料であったことになる。
 上の図に示したように、松浦地方と東彼杵の中間地域の東方に、岩戸山(いわとやま)古墳がある。岩戸山古墳は6世紀に反乱をおこした筑後国造(ちくごのくにのみやつこ)の磐井(いわい)の墓である。『筑後国風土記』は岩戸山古墳の規模を「南北各六十丈、東西各四十丈」と記述する。森貞次郎氏の詳細な研究によって、「六十丈、四十丈」の長さの数値は正確であるが、方位の「南北」と「東西」は入れ違っていると指摘された。現在方位の「南北」は[]の転回方位だと「東西」となり、現在方位の「東西」は[]の転回方位だと「南北」となる。したがって、『筑後国風土記』の磐井の墓の規模を伝える記事は、『魏志倭人伝』に記述された卑弥呼王朝が制定した本州・日本列島地理における転回方位規定を伝える確かな史料であったのである。

◆下に、現在方位にもとづく「末盧(まつろ)国の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)」を配した。『説文解字』は「末盧」の[]の字を「飯器(はんき)なり」と解説する。ゆえに、下図に示したように、末盧国の西端の境は唐津湾にそそぐ松浦川と有明海にそそぐ塩田川(しおたがわ)であったと考えられる。というのも、「松浦川と塩田川を境にする末盧国の地宜」は「飯器(飯を炊く土器)の形」に相似するからである。つまり、下図の「末盧国の地宜」は縄文時代に作られた深鉢(ふかばち)の形に相似し、「縄文時代の深鉢」を卑弥呼は「飯器」と見立てたにちがいない。
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 上図における「西彼杵半島・長崎半島・島原半島の地宜」は「盧(飯器)を炊く燃料に用いる柴(しば)や焚き木が燃える火炎」のような形をしている。ゆえに、「盧を炊く炎」が容易に連想できるようにするために「彼岸・お盆に迎え火として用いる松脂(まつやに)の木っ端」を略して「彼杵」という地名にしたにちがいない。したがって、「松浦」の「松」もまた「よく燃える松脂の木っ端」をあらわしていることになる。ゆえに、「彼杵」の「杵」は「上古、枯れた木の臼(うす/台)に棒をあて、力をいれて激しくもみ、火を発火させるその杵()」を指しているのであろう。そして、「末盧」の「末」を白川静著『字統』は「木の末端」と解説するゆえ、「よく燃えて焚き木となる、樹木の末端の細い枝」を意味したことになる。
 したがって、「火炎の形に観える、西彼杵半島・長崎半島・島原半島の地宜」を、卑弥呼は「焚き木を燃やす直火(じかび)で飯器を焼く炎」に見立てたことになる。
 要するに、上図の「現在佐賀県西部と長崎県の地宜」を「秋に禾(稲や麦などの穀物)を収穫して盧(飯器)を炊いて祝って、来年の豊作を祈願する様子」に見たてて、卑弥呼は小国名を「末盧国」と定めたことになる。
 下に、[]の転回方位にもとづく「末盧国の地宜」を示した。
 ゆえに、下図の「[]の転回方位にもとづく、末盧国の地宜」は「収穫祭を祝うため、炊きあがった盧(飯器)の飯を食するために、釜土の火を消して地面に転がした盧(飯器)」に見立てられたことになる。
 下図の島原半島の中央部に雲仙岳がある。雲仙岳は火が噴出する火山群の総称である。上記したように――下図の「末盧国の地宜」は「燃える火を消し、地面に転がした飯器」と解釈できるゆえ、「雲仙岳の火山群が怒りをしずめて噴火しなくなった状況」、言いかえると「噴火を心配しないで、人々が安心して日々生活することができる状況」をあらわした。ゆえに、「末盧国における[]の転回方位規定」は「吉祥(きっしょう)」すなわち「喜ぶべき良好な状況、人々が平穏に暮らすことができる状況」をあらわしたことになる。
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◆下に、〔転回方位にもとづく末盧国・伊都国・奴国の旅程基点図〕を示した。
 『魏志倭人伝』は「末盧国の東南陸行五百里、伊都国に到る」と記述する。ゆえに、下図に示したように「末盧国の旅程基点は長崎県松浦市、伊都国の旅程基点は松浦市から転回方位で東南となる福岡県糸島(いとしま)市の前原(まえばる)町であった」と考えられる。また『魏志倭人伝』は「伊都国から東南奴国に至るには百里」と記述する。したがって、下図が示すように「伊都国の旅程基点の糸島市前原町から転回方位で東南となる、福岡県福岡市の香椎宮(かしいぐう)が奴国の旅程基点」であったにちがいない。
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 下に、現在方位規定にもとづく「伊都国の範囲図」を配した。「伊都国の東の境界線」は「現在の福岡市西部の一部で区切られる境界線と旧国の肥前(ひぜん)の境界線」であったと考えられる。したがって、「伊都国」は「糸島半島と糸島半島より南の肥前東部(現在の佐賀県東部と福岡市西部の一部)」であったと推定される。
 伊都国の「糸島半島」は[]の字源「ジャコウウシ」に見立てられた。だから、「伊都国」は「ジャコウウシ」が地霊となる小国であった。
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 現在方位規定にもとづく、上図に示した「伊都国北部の海岸線地域中央の糸島半島の地宜」は[]の字源「ジャコウウシの頭(横顔)」に見立てられた。[]の字源・字形・字義は「ジャコウウシ」であることは、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」では幾度も繰り返して解説し証明した。前回(17)でも、[]の字源が「ジャコウウシ」であることを解説し証明した。
 「伊都国」の[]の字について、白川静著『字統』は「者は祝祷の器である曰(えつ)を土中に埋めた形。聚楽の周辺にめぐらした堰堤(えんてい)の要所に、呪禁(じゅきん)として呪符(じゅふ)を埋めたもので、これを堵()という」と解説する。要するに、[]の字源は「天敵のオオカミに襲われたとき、ジャコウウシの群れが子どもを真ん中に隠して防衛する円陣」に模(かたど)って「円形の堵(土の垣根)をめぐらした、多数の人々が居住する武装都市」であったと考えられる。
 だから、「伊都国」は[]の字源「ジャコウウシ」を地霊とする小国であったことになる。
 []の人偏の右隣の旁部(つくりぶ)[(いん)]について、白川静著『字統』は「尹に祝祷の器である口(さい)を加えたものが君(くん)で、君とはもと女巫(じょふ)にして女君たるものをいう」と解説する。この解説文に登場する「君はもと女巫にして女君たるものをいう」という説明に、「倭女王・卑弥呼」が当てはまる。「卑弥呼」は「巫女王で、女王」であったゆえ「女巫にして女君」となるからである。
 白川静著『字統』が指摘するように、[]の下に[(さい)]を加えると[]となり、偏のに[]を加えると[]となる。[]の字は[]と解釈される。
 石原道博編訳者『新訂 魏志倭人伝 他三篇』(岩波書店)は、『魏志倭人伝』に記載される小国「都支国」に「都〔群〕支国」と[][]の注を加える。ゆえに、[][]は同義とする。
 『魏志倭人伝』は「長崎県壱岐」の小国名を「一大国」と記し、「女王国より以北には特に一大率(いちだいそつ)を置いて諸国を検察(けんさつ)せしむ」と説明する。わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の4回はじめ幾度となく繰り返し前回でも指摘したように、「一大国・長崎県壱岐の大半の地宜」は「ジャコウウシの姿」に相似する。
 下に、現在方位にもとづく「一大国・長崎県壱岐の地宜」を配した。現在方位にもとづくと――「一大国・長崎県壱岐の大半の地宜」が[]の字源「ジャコウウシの姿」に相似するという解釈は少し難解かもしれない。
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 下に、上図の「南→西」とする、つまり――現代方位の〔南〕を、[]の字源「時計回りに90度転回した方位規定」で〔西〕に変位した――一大国・壱岐の地宜を示した。この〔[]の字源の転回方位にもとづく一大国・壱岐における地宜〕は「ジャコウウシの姿」に相似することが明確となる。
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◆上記したように、[]の字源は「天敵のオオカミが襲ってきたときに、ジャコウウシが防衛する円陣を模る武装都市」であったゆえ、「伊都国」は「ジャコウウシ」が地霊となる小国であった。だから、「糸島半島の地宜」を、卑弥呼は[]の字源・字形・字義となった「ジャコウウシの頭部」に相似すると見立てて、小国名を「伊都国」と定めたことになる。
 前述したように、[]の人偏の右隣の旁部(つくりぶ)[(いん)]について、白川静著『字統』は「尹に祝祷の器である口(さい)を加えたものが君で、君とはもと女巫(じょふ)にして女君たるものをいう」と解説する。この解説文に登場する「君はもと女巫にして女君たるものをいう」という説明に、「倭女王・卑弥呼」が当てはまる。「卑弥呼」は「巫女王で、女王」であったゆえ「女巫にして女君」であったからである。
 これゆえ、「ジャコウウシの頭(かしら)に相似する糸島半島の地宜」は「伊都国に居住した男王・一大率と、邪馬壱国に居住した女君・女王卑弥呼」の、「両者の頭」に見立てられたことになる。
 というのも、『魏志倭人伝』には「その国、本亦(もとまた)男子をもって王と為()す。住(とど)まること七、八十年にして倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)して年を歴()。乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼と曰()う」という記事が存在するからである。つまり、『魏志倭人伝』は「西暦180年頃、倭国の国中は戦争状態となって大乱したが、卑弥呼が立論した『転回日本列島地理』によって大乱は鎮まり終息した。これゆえ、卑弥呼は倭女王に就任し、伊都国の男王の一大率と共に立つ政治体制によって、倭人国は統治された」と説明していたことになる。
 上記したように、『魏志倭人伝』には「女王国より以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ」という文があり、この文中の「特に」の[特]の字について『説文解字』は「朴特(ぼくとく)、牛父なり」と説き、白川静著『字統』は「朴特、牛父なり」は「牡牛(ぼぎゅう)をいう」と解説する。[牛]の字源は「ジャコウウシ」であるゆえ、「牡(おす)の牛」は「牡のジャコウウシ」ということになる。
 上記したように、[尹]には「女君」の意味があるゆえ、「牝(めす)のジャコウウシの頭(かしら)」が「女君」ということになる。だから、[牛]の字源「ジャコウウシの頭」の形をしている「糸島半島の地宜」は「倭女王・卑弥呼と男王・一大率の頭」に見立てられたことになるゆえ、『魏志倭人伝』は「倭人国は卑弥呼と一大率の共立体制をもって統治されていた」と説明していたことになる。

◆「糸島半島」を「倭女王・卑弥呼と男王・一大率の頭(横顔)」に見立てると、「糸島半島より南部」は「多数のジャコウウシが犇(ひし)めいて群がる地域」となる。ツンドラ地帯に生息したジャコウウシは、百頭以上の群れがふつうであったという。ゆえに、「糸島半島より南部」は「餌場(えさば)にてジャコウウシの群れが犇めき、その密集する興奮と熱気で汗が湯気となり麝香が香り立つ地域」に見立てられたことになる。
 ジャコウウシは夏にはたえまなくスゲ(菅)などを食べ、脂肪をたくわえて冬に備える。冬は繁殖の季節である。冬が近づくにつれ、群れは雪の浅い、風で雪が吹き飛ばされて地表が露出した摂食地(せっしょくち/餌場)へと向かう。この餌場で凍ったスゲや地衣(ちい)をみつけ脂肪の蓄積をおぎなう。
 ジャコウウシはウシよりもヒツジやヤギに近い動物とされる。だから、「ジャコウヒツジ」とも呼ばれる。内側のフカフカしたやわらかいウールの上を地上に達するまでの長くのびた厚い防寒具でおおわれた二重のコートは、乾燥した烈風が吹き荒ぶ状況のなかでもからだを保護し、マイナス70度の酷寒(こっかん)にも耐える。天敵のオオカミに襲われたときには、角(つの)を外に向け、子を真ん中にかくして円陣をつくる。長い毛が密に体をおおうゆえ周(盾・たて)となって子の命を吹雪から衛(まも)り、襲ってくオオカミを牡が角でひっかけ肩越しに跳(は)ねあげ、ほかのジャコウウシが跳ね上げたオオカミを踏みつぶして殺す。
 ジャコウウシの長い毛のカーテンは吹き荒ぶ酷寒の烈風から子を衛る堵(と/垣根・壁)となる。また、出産した子は母獣(ぼじゅう)の深く長い毛で保温される。
 だから、「ジャコウウシの内側のやわらかい毛糸をつつみおおう外側の地上に達するまで長くのびた厚い防寒具の糸(毛糸)」にもとづき、「ジャコウウシの頭の形をした伊都国中心部の半島」の名称は、[糸]の字がつく「糸島半島」と呼ばれることになったのである。

◆常に伊都国に居住して治めた男王・一大率の[率]の字を、白川静著『字統』は「糸をしぼる形。糸束の上下に小さな横木を通し、これを拗(ね)じて水をしぼる形」と解説する。「水をしぼる」は「水気を無くする」と意味するゆえ、「ジャコウウシが生息したツンドラ地帯の乾燥した烈風が吹き荒ぶ酷寒の状況」をあらわす。また「水をしぼって、水気を無くする状況」は「玄界灘における夜空が乾燥して快晴となって、精確に緯度が測量できて安全な海上交通にめぐまれる状況」ということになる。ゆえに、「一大率」は「玄界灘の海上交通を衛る王」であったことになる。
 『説文解字』は「一大率」の[率]の字を「鳥を捕(と)る畢(あみ)なり。絲罔(しまう)に象(かたど)る。上下はその竿柄(かんへい)なり」と解説し、「柄のついた鳥を捕獲するための網」とする。つまり「[率]は鳥網である」という解説は、要するに「羅針盤」を意味した。「羅針盤」の[羅]の契文形(甲骨文字の字形)には「畢(あみ)で鳥を捕る形」のものがある。また、[羅]の字の上は[网(もう)・「あみ」]、下の[維]は[糸]と[隹(すい)・「小鳥」]であるゆえ、[羅]は「糸で細かく編んだ小鳥までも捕獲できる网(あみ)」と意味するゆえ、「羅針盤」を意味することになった。ゆえに、[率]の字は「晴れた夜空の天頂にめぐってくる銀河は精確に[玄](天頂緯度線と子午線)がキャッチできる羅針盤となって、玄界灘の海上交通の安全が保障された」とあらわすことになった。
 [牛]の字源・字形・字義は「ジャコウウシ」である。[牛]の下に[口]を加えると[告]となる。
 『説文解字』は[告]の字を「牛、人に触(ふ)る。角に横木を著(つ)く。人に告ぐる所以(ゆえん)なり」と解説する。
 下図における「鬼の姿に似る銀河」は「ジャコウウシの鼻面(はなづら)から口まで」に見立てられ、「鬼の姿に似る銀河の西部」は「ジャコウウシの口」と解釈された。ゆえに、「人の横顔に酷似する銀河」を「人」と解釈して、『説文解字』は「牛、人に触れる」と解説した。「ジャコウウシの角」は、下図における「ジャコウウシの角に相当する、激流の銀河がある長方形の暗黒天体部」にある。「角に著(つ)く横木」は「ジャコウウシの角に接する、十字の銀河」である。上記した白川静著『字統』の[率]の解説文に登場する「糸束を捩じって水をしぼる、小さな横木」は「十字の銀河」のことであったのである。
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 『説文解字』の[告]の「角に著く横木」という解説文に登場する[著]の草冠を除くと[者]となる。[者]に[邑(ゆう)]が加わる字が[都]である。ゆえに、「十字の銀河の子宮」が[者]の字源銀河、「骨盤に相当する、十字の銀河の子宮の周辺部」が[邑]の字源銀河となる。[邑]の字義は「みやこ」つまり「都」である。
 「オオカミに襲われたときに、ジャコウウシの群れが円陣に真ん中に隠す子」は「骨盤に包囲される子宮に宿る子(胎児)」に見立てられ、「ジャコウウシの群れの円陣」は「女性生殖器の大半を包んで衛(まも)る骨盤」に見立てられた。そして、上の[告]の字源解説図が示すように、「女性生殖器と骨盤」に見立てられた「十字の銀河と、その周辺部」が「ジャコウウシの角に相当する銀河部」に付く(著く)。だから、『説文解字』は[告]の字源の秘密を「角に横木を著く」と解説したのである。

◆「伊都国」の[伊]の字の字源解説において、白川静著『字統』は「尹(いん)は神杖をもつ形で、神意を媒介する聖職の人をいう」と指摘する。
 白川静著『字統』の[尹]の字源解説における「神杖(しんじょう)」は「十字の銀河」であり、「十字の銀河」は「神杖をもつ、神意を媒介する聖職の人」にも見立てられた。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の2回で解説したように――「歳差(さいさ)」という天文事象を利用すると、黄帝と倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代初頭における中国全土の天頂にめぐってきた銀河を算出して表示することができる。
 黄帝時代、下に図示するように、中国全土各地の天頂に「十字の銀河」がめぐってきて、人々が緯度を精密できる羅針盤となった。
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 上図に示したように、「十字の銀河の左手(東側の手)」に付く「弓のような形」は「弓」と見立てられて、「十字の銀河」は「弓で狩りをする夫(男性)」に観えるということになって[夫(ふ)]の字源となった。
 『説文解字』は[夫]の字源を「丈夫(じょうぶ)なり。大に従ふ。一はもって簪(しん)に象(かたど)るなり。周制、八寸をもって尺となし、十尺を丈となす。人は長(たけ)八尺なり。ゆえに丈夫といふ」と解説する。この字源解説文に登場する[丈](十尺を丈となす)は、上記した[尹]の字源解説に登場する「神杖」の「杖」の右側の[丈(じょう)]の字である。
 下に、『説文解字』の[夫]の字源解説図を配した。
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 『説文解字』の[夫]の字源解説文における「一をもって簪に象る」は――[一]に[大]が加わると[夫]となり、「見かけの大きさが一つまり一丈となる十字の銀河の頭部より北部の二尺の部分」を「簪(かんざし)」に見立てる――と説明していることになる。「人は長(たけ)八尺なり」という文は――周王朝の度量衡の制度では「人の姿」に相似する「十字の銀河」の見かけの背丈(せたけ)を八尺と定めた――と説明していたことになる。周代の一尺は22.5センチであった。ゆえに、「人は長(背丈)八尺なり」という解説は――「人の姿」に相似する「十字の銀河の頭部から左足(東側の足)の足底までの見かけの大きさ」は八尺、つまり22.5 センチ掛ける八尺は180センチ・1.8メートルである――と説明していたことになる。
 ゆえに、周王朝は「見かけの、十字の銀河の背丈」を「1.8メートル」と定めていた。「1.8メートル」の背丈は当時の人の背丈より一回り大きいゆえ「大男(おおおとこ)の身長」となった。ゆえに、「大男」の[大]に「丈夫」を加えると、日本語の「大丈夫(だいじょうぶ)」となる。「大丈夫」は「まったく、心配ない」「必ず、成功する」を意味する。ゆえに、縄文時代に遠くの地へ旅する人々や大海を往来した人々は天頂を通過した「十字の銀河」を羅針盤にして1度の60分の1の1分の精度で緯度を測定するものであった。ゆえに、「大丈夫」の語源は「十字の銀河に命を委(ゆだ)ねる心境や慣習」であったことになる。
 「ジャコウウシの身長(体長)」は1.9~2.3メートルである。したがって、周制の「人の八尺」と「一丈=2.25メートル」は「ジャコウウシの体長」であったことになる。
 言いかえると「十字の銀河の体長(十字の銀河の頭から左足の足底までの身長)」は「ジャコウウシ」に見立てられたことになる。

◆すぐ上部にて〔五帝時代初頭に「十字の銀河」が中国全土の天頂にめぐってきた図〕に示したように――「中国全土各地の天頂」に「十字の銀河」がめぐってきた。したがって、「子午線通過する十字の銀河」は「中国全土」をおおった。だから、「十字の銀河の大きさ」は「広大な中国全土」と同じとなる。
 しかし、前述したように「十字の銀河の見かけの大きさ」は一丈・2.25メートルの杖ほどにきわめて小さい。
 上記した《“杖”という名の約2メートル余の棒切れ》と《中国全土ほどの大きさ「十字の銀河」》の長さが同じである、この事実にもとづいて――倉頡は「《極めて小さな棒きれの杖》と《広大な文字作成銀河》の大きさは同じである」と考えることができるという理論がこの世に存在することに気づいた。
 これゆえ、倉頡は《「十字の銀河」の見かけの大きさと同じ極めて小さな棒切れほどの事物》に《広大な文字作成銀河における万物の情(イメージ)を示す膨大な文字情報》が入っているという、漢字作成理論》を考案した。
 つまり、倉頡は銀河から文字を作成する原理を発明した。
 下に示すように、「十字の銀河」の西側半分には、「乳房」「妊婦の腹部」、「右足」に観える箇所に「子宮」に観える銀河もある。
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 ゆえに、倉頡は「見かけの背丈が棒切れのほどに小さな十字の銀河」を「広大な文字作成銀河全域を図案した文字はじめ文字作成銀河の各部から作られた全文字が生まれる母体」と定めた。さらに小さな「十字の銀河の子宮」を「広大な文字作成銀河全域を図案した文字はじめ文字作成銀河の各部から作られた全文字が生まれる子宮」と定めた。
 だから、「十字の銀河」は「文字」の[文]の字源・字形・字義となった。ゆえに、下の上図における[文]の金文形は「十字の銀河」を「子宮に胎児が宿る妊婦の正面形」に図案された。
 下の下図の[字]における「十字の銀河」は[宀(べん)]の字源・字形・字義となり、「鬼の姿に似る銀河」が[子]のを字源・字形・字義となり――[宀]の下に[子]が加わって、「文字」の[字]の字源・字形・字義となった。
 したがって、「十字の銀河の子宮」よりも大きい[文]の字源「中国全土大の、十字の銀河」も、さらに大きな[字]の字源「十字の銀河・鬼の姿に似る銀河」も「小さな、十字の銀河の子宮」から生まれると、倉頡を定めた。
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◆倉頡は「十字の銀河の子宮」を[一]の字源と定めた。
 倉頡は《[一]の字源「十字の銀河の子宮」という極めて小さな箇所》に《はてしもなく広がる文字作成銀河から創られて文字となる膨大な数の情報》が入っていると定める【漢字作成理論】を提唱した。この倉頡が考えた「[一]という小さな事物に広大な銀河の膨大な文字情報が入っている」という【漢字作成理論】は絵空事・空想ということにならずに事実・真実と人々に確信されて、黄帝が天下を治める王政の政権基盤となって確立されることになった。
 これゆえ、中国の学問は倉頡の 「[一]という小さな事物に広大な銀河の膨大な文字情報が入っている」という【漢字作成理論】から始まった。
 だから、『魏志倭人伝』に記述された、九州説と畿内説が多数の【文献批判という名の作為】を加えて排除・無視した【倉頡が発明した漢字作成理論】は「学問」であり「学術」であり、今日でいう「科学」であり、「科学理論」であったことになる。
 17世紀初めにデカルトによって、西欧近代科学の合理思考が提唱された確立された。近代学問はデカルトの合理思考(理論的枠組み)を基礎にして大いなる発展をし、輝かしい成果を上げてきた。
 ところが、1980年代に入ると、わが国の湯川秀樹博士が先駆者となり、アメリカではニューサイエンス運動が起きてデカルト以来の西欧近代科学の考え方への不信が唱えられ、ヨーロッパでもデカルト以来の合理思考を批判する科学における新しい理論的枠組みが提唱されるようになり、いくつかの国際会議が開かれた。
 このようなデカルト以来の西欧近代科学の合理思考を乗り越える新しい思考理論の模索運動は科学者たちが東洋の神秘思想と出会い、その再発見によって進展した。
 この結果、分子生物学ではDNAという小さな場に大きな情報が入っているという理論が確立された。
 ヒトの一つの受精卵の核にふくまれているDNAの量は、塩基の4文字で約70億字の遺伝的命令文に相当するといわれる。これはアルファベット文字でほぼ30億字の文章になり、大英百科事典(ブリタニカ)15組分(約300冊)とのことである。
 したがって、今から5000年前に、すでに倉頡は現在の先端科学のDNA遺伝子学の原理となる学術理論・科学理論を考案していたことになる。
 デカルトの西洋近代科学では「極めて小さな[一]という場に一万、一億の膨大な情報が入っている」という考えは存在しなかった。
 【倉頡が発明した漢字作成原理】は――[一]の字源「十字の銀河の子宮」は広大な文字作成銀河から作られた一万、一億の文字を生むことができる」と考えるものであった。ゆえに、DNA遺伝子学の原理をあらわす理論がこの世に存在することに気づいた科学者たちはデカルト以来の西欧近代科学の合理思考を乗り越えることができた。
 このような、デカルト以来の西欧近代科学の合理思考を越える倉頡が考案した壮大な理論を現在に伝える文献が『魏志倭人伝』であったのである。
 だから、『魏志倭人伝』は「学問」、「学術」、「科学」、「科学理論」を伝える書物であったことになる。

 白川静著『字統』は[学]について「もと屋上に千木(ちぎ)のある建物の形であり、いわゆるメンズハウスを意味した。(中略)。卜文にみえるメンズハウスの建物は千木形式で、わが国の神社建築に似ており、そこで秘密講的な、厳しい戒律下の生活がなされたのであろう」と指摘する。この[学]の解説文に登場する「メンズハウス」は「男たちが生活する家屋」を意味し、「卜文」は「甲骨文字」のことであり、私は「契文」と呼んでいる。
 このブログの冒頭で指摘し、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が解説し証明するように、『魏志倭人伝』に記述された33ヵ国の小国の説明記事は【倉頡が発明した漢字作成理論】を具体的に的確に学術的に説明するものとなる。ゆえに「わが国の千木がそびえる神社」は「[学]の字源・字形・字義をあらわす建物」であったことになる。

◆「[一]という小さな場に膨大な情報が入っている理論」を、先端科学者たちは「東洋の神秘思想」あるいは「超合理」と呼んだ。
 したがって、『魏志倭人伝』が「倭国に牛はいない」と伝える[牛]の字源であった「ジャコウウシ」は1980年以後の新しい科学のパラダイム(理論的枠組み)となった【東洋の神秘思想・超合理】を象徴する聖獣となった。
 というのも、「伊都国の地宜」や「男王・一大率」に見立てられた[牛]の字源「ジャコウウシ」は[大]・[丈]・「夫]の字源となった「十字の銀河」に見立てられたからである。また、「ジャコウウシ」は[率]・[尹]の字源解説で「横木」と表現された。また、「ジャコウウシ」は[尹]の字源解説で「神杖」・「神杖をもつ神意を媒介する聖職者」に見立てられた。だから、「ジャコウウシ」は【東洋神秘思想・超合理】を象徴する聖獣であった。
 したがって、「一大率」は「学術王」であったことになる。というのも、わが国の学問は今から約4000年前の後期縄文時代に、益氏が東北地方に定住して【夏音文字の学芸(夏音文字と正確な中国海岸線地図・精密地宜)作製方法)】を教えひろめた時に【倉頡が発明した漢字作成理論】をも習得した歴史から始まったからである。また、一大率は、この回のブログの初頭部に列記した〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕に違反する諸国の王や氏族たちの行動を検察する役目を有していたからである。
 その証拠に、『魏志倭人伝』には「女王国より以北に、特に一大率を配置して諸国を検察させている。諸国は、一大率を畏(おそ)れ憚(はばか)っている。常に伊都国に居住して治めている。国中において、法や刑罰に厳しい刺史(しし)のごときである。倭国の諸国の王たちが魏都・帯方郡・諸韓国に使節を派遣し、また帯方郡から倭国に使節を派遣するとき、皆ことごとく伊都国の港にて、伝え送る文書や贈り物を点検し、確認して、女王のもとに外交の状況を報告したときに間違いが生じないようにしていた」という記事がある。
 一大率は【倉頡が発明した漢字作成理論】と【夏音文字の学芸】と【魏都・帯方郡・諸韓国で用いていた楷書】に精通する、学術に長(た)けた王であった。ゆえに、一大率が治める伊都国の港では文字作成銀河を字典にして、魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と卑弥呼が用いる原初漢字・夏音文字を一字一字点検し確認して間違いが生じないように検査することになった。だから、伊都国を治めていた一大率は学術王であったことになる。
 なお、「ジャコウウシ」はわが国に生息していなかった。だから、「ジャコウウシ」は倭国の人々にとって生態も知らない無関係の獣であった。しかし、「[一]という小さな事物に広大な銀河の膨大な文字情報が入っている」という【倉頡が発明した漢字作成原理】は「ジャコウウシ」から発想されて生まれたゆえ、「伊都国」の名称に用いられた。
 だから、『魏志倭人伝』は明白に【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える学術書であり科学理論書であった。
 したがって、「邪馬台国研究」のための文献史料と定めた九州説と畿内説は『魏志倭人伝』とまったく無関係の空理空論であったのである。

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