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2021年5月23日 (日)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・19

▼このブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が前回まで毎回証明しているように――邪馬台国説で有名な『魏志倭人伝』は、九州説と畿内説が主張するように「邪馬台国研究」のための史料ではない。
 『魏志倭人伝』は――【漢字の起源の秘密】を詳細に伝える文献史料であった。
 現在、漢字が起源した中国では【漢字の起源】が解明されていない。しかし、『魏志倭人伝』によって【漢字の起源の秘密】が解明される。
 九州説と畿内説は【多数の文献批判という名の作為・主観】を加えて「『魏志倭人伝』は、邪馬台国研究のための文献料である」と捏造(ねつぞう)した空理空論だったのである。
 現在、1ヵ所も【文献批判】を加えずに、ただひとすら・いちずに忠実に『魏志倭人伝』の全記事を読解する学者の方は一人もいない、つまり皆無(かいむ)である。
 このような学者の方々の『魏志倭人伝』に対する酷(ひど)い仕打ちは、実際に大罪を犯していないにもかかわらず大罪を犯した容疑で死刑が確定された冤罪(えんざい)と同じ仕打ちとなる。だから、冤罪で死刑とされて抹殺されようとしている『魏志倭人伝』に記述された真実、つまり【漢字の起源の真実、世界史的にも重大な抹殺されてはならない真実】が記述されている『魏志倭人伝』を日本人はまもらなければならない。
 新井白石(あらいはくせき)以後、学者たちは『魏志倭人伝』を信頼せずに【多数の文献批判】を加えて解釈する方法こそ正しい考え方であると断定する。このため、『魏志倭人伝』は「邪馬台国研究」のための文献であると断定されている。
 しかし――『魏志倭人伝』を全面的に信頼して、ただひたすら・いちずに全記事を忠実に読解すれば、【漢字の起源の秘密】は愉快なほどに・どんどん・続々と明白となる。
 だから、九州説と畿内説は『魏志倭人伝』に【文献批判という名の作為・主観】を多数加えて、【漢字の起源の秘密】を排除・不明にした空理空論・妄想だったのである。


★「倭人国の地理学」のトリセツ・28

◆『魏志倭人伝』には、現在とまったく異なる「日本列島地理」が説明されている。
1】倭人国における玄関口となる対馬(つしま)国と一大(いちだい)国の南北は現在の南北と同じであるが、【2】九州の末盧(まつろ)国以下の本州・日本列島の南北は「倭人国」の[]の字源・字形・字義にもとづいて「時計回りに90度転回する方位規定」にのっとって、『魏志倭人伝』は方位名を記述している。つまり、現在の〔北〕は[]の字源にのっとって時計回りに90度転回するゆえ、『魏志倭人伝』は「〔東〕となる」と指摘している。
 []の字源・字義に秘められた特殊な転回方位規定は――今から約5000年前の中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が創(つく)った[]の字源・字形・字義をそのまま受け継いだ方位規定である。
 漢字は倉頡が発明した。しかし、現在、学者たちによって「倉頡だけ一人で漢字が発明されて体系づけられたはずがない。漢字は長い歴史の中で多数の人々によって発展してしだいに体系を整えてきたはずである」と断定されて、「倉頡が発明した」と伝わる伝説はウソ・作り話であると決定されている。
 しかし、『魏志倭人伝』は――倉頡伝説は事実であった。漢字は倉頡によって発明された。倭女王・卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤にして天下を治めた。ゆえに、卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】にもとづいて倭国の首都が所在する王国名を「邪馬壱(やまい)国」と定めた。また、卑弥呼王朝は【倉頡が発明した漢字作成理論】にもとづき、つまり「末盧国以下の本州・日本列島地理は倉頡が創った[]の字源・字義を受け継ぐ[]の字源・字形・字義にのっとって本州・日本列島の〔東〕ではなく、「東→南」ということで〔南〕へ伸びる」と制定した。そして、(1)前半部に列記される「対馬国以下狗奴(くな)国まで」の30ヵ国の小国について説明する記事は、【倉頡が発明した漢字作成理論】が次から次へと順次に詳細に解明できる機能(仕組み)になっている。さらに、(2)後半部に登場する「名称不明の小国・侏儒(しゅじゅ)国・裸()国・黒歯(こくし)国」の4ヵ国記事は「今から約4000年前、つまり倉頡が漢字を発明した五帝時代初頭から約1000年後の、中国の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、“夏()の始祖”の帝()の後を継いだ帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海・玄界灘を横断して日本列島の東北地方に定住して、【夏音(かおん)文字の学芸】を東北地方から関東地方まで教えひろめた。この【夏音文字の学芸】が習得されたとき、【倉頡が発明した漢字作成理論】も習得された――と伝える書物あった。
 だから、九州説と畿内説が主張するように『魏志倭人伝』は「邪馬台国研究」のための文献史料ではなかった。
 九州説と畿内説のごとく【文献批判という名の作為、主観、偏見】をいっさい何も加えなければ、『魏志倭人伝』は【倉頡はどのように考えて【漢字作成理論】を発明したのか――【漢字が起源した歴史と事情】が芋づる式に・愉快に・どんどんと解明することができる正確無比の文献であった。

◆だから、日本古代史を研究する人々や愛する人々は全員、「わが国が最初に漢字を習得したには5世紀、あるいは6世紀である」という学界の絶対的な定説は、現在、学問的には空理空論である事実を知っていなければならない。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目において、「わが国の漢字音」と題して、次のごとく指摘する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」という定説は、白川静著『字統』が指摘する西洋の音韻学の学問成果を無視・排除する空理空論だったのである。
 下に配した〔漢字生長史〕が示すように、現存する最古の漢字音は《わが国が、夏代初頭(後期縄文時代初頭)に習得した夏音文字の字音》である。《わが国が夏代初頭に習得した夏音文字は、中国に現存する最古の字音「上古音(じょうこおん)」の始まり・周代初頭》よりも約1000年も古い、現存する最古の漢字音である。他方、学界が「わが国が漢字を習得したのは5世紀~6世紀である」と張する絶対的定説の漢字音は、下に示す〔漢字生長史〕では最下部に配すべき最も新しい漢字音となる。だから、学界が断定する「わが国の漢字習得の絶対的定説」は、白川静著『字統』が指摘する西洋の音韻学の研究成果に反する。
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 中国において現存する最古の漢字音は、西洋の言語学・音韻史研究によって、紀元前1046年から始まる周代初頭の「上古音(じょうこおん)」と解明されている。
 「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」と学界が主張する定説の漢字音は、中国において現存する最古の「上古音」は紀元前1046年の周代初頭よりも約1500年も新しい。ゆえに、白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する字音は、【わが国が後期縄文時代初頭(夏代初頭)・紀元前21世紀に習得した夏音文字の漢字音】であったのである。
 この【現存する最古の漢字音の、夏音文字の字音】は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残っている。
 だから、『魏志倭人伝』は「わが国が【夏音文字の学芸】を習得した後期縄文時代初頭、【倉頡が発明した漢字作成理論】も共に習得した」と説明していた文献であった。
 『魏志倭人伝』は――今から約5000年前、倉頡はどのように考えて【漢字作成理論】を発明したのか――この【漢字が起源した歴史と事情】を詳細に説明していた書物であった。ゆえに、『魏志倭人伝』は「邪馬台国研究」のための書物ではなかった。卑弥呼が居住した女王国の名称は「邪馬壱(やまい)国」であり、「邪馬壱」は【倉頡が発明した漢字作成原理の秘密】を説明する語である。言いかえると、『魏志倭人伝』は「邪馬台国」についてまったく説明していないゆえ、九州説と畿内説は明らかに空理空論ということになる。

◆『魏志倭人伝』は、下記の二つの記事で「卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、倭国には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した」と説明していたことになる。
 この二つの記事は、【1】34字で「倭国の易卜(うらない)に用いる辞(ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり紀元前1300年頃の殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅に文字を刻む契文(けいぶん/甲骨文字)のような文字があった」と伝える――つまり、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)には甲骨文字のごとき漢字があったと伝えている。
 また、『魏志倭人伝』には67字で【2】「卑弥呼が文書の用いる漢字(甲骨文字のごとき原初漢字)は魏の都・帯方郡(魏の出張政庁が所在するソウル市付近の地域)・諸韓国が文書に用いる漢字(楷書)と差錯(ささく/相違)していた。このため、倭国の小国・伊都(いと)国の津(港)では、魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と卑弥呼が用いる原初漢字を一字一字点検し確認して正確に変換していた」と伝え、わが国には卑弥呼時代に原初漢字があったと説明する。
 しかし、上記の二つの記事は、九州説と畿内説にとって不都合であるため、両説は徹底的に無視し排除する。また、上記の二つの記事は学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀、あるいは6世紀である」と断定する定説に反する。ゆえに、九州説と畿内説は最初(はな)からまったく信用せずに徹底的に無視し排除する。
 しかし、上記したように、「わが国が最初に漢字を習得したには5世紀、あるいは6世紀である」という定説は、現在、西洋の音韻学によって空理空論であると証明された。
 中国でもわが国でも「文字」を「漢字」と呼ぶ。「銀河」の別称は「銀漢」であるゆえ「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた。
 だから、「漢字」は銀河(銀漢)の各部の形状からデザインされた。
 【卑弥呼が用いた夏音文字】はもちろん、【魏都・帯方郡・諸韓国が用いた楷書】もまた同一銀漢から作られた。ゆえに、倭国の伊都国の港では【字源・字形の原形・原義となった銀漢各部の形状】を観察して、夏音文字と楷書を正確に変換していたことになる。
 天文学において「夏の全星座が漬()かる銀河の範囲」いいかえると「夏に最も長時間観察できる銀河」は、通称「夏の銀河」と呼ばれる。
 倉頡は、今日、天文学で通称「夏の銀河」とよばれる銀河各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論を発明した。『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』にて「夏音文字の字音に用いられた記号となる楷書」も、夏の銀河各部の形状から作られた。
 ゆえに、通称「夏の銀河」を、私は「文字作成銀河」を名づけることにした。
 倉頡が漢字作成理論を発明した「文字作成銀河」の写真を、下に示した。
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 天文学はじめ諸々の学術分野においても、《漢字の字源・字形の原形・原義》を解明できる〔文字作成銀河の各部の名称〕を定めていない。ゆえに、《字源となった銀河=字形の原形となった銀河=原義となった銀河》の解説と証明をする際に非常に不便となるゆえ、私は下図のごとく「文字作成銀河の各部の名称」を定めた。
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◆「文字作成銀河の各部の名称」が存在しなかった事情には、下記に列挙する〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕が密接に関わっている。
 倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れることができる王政をささえる最強・最大・最良の権力基盤であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝は容易に崩壊・滅亡するにちがいないと心配して、下に示す〔三つの死刑と定めた掟〕を定めた。
■倉頡が死刑と定めた三つの掟
1】「文字は銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた」という秘密を暴露した者はその一族全員に神罰を下して即刻に死刑にする
2】多くの文字を容易に覚えるため、銀漢(夏の銀河)各部に名称をつけた者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする
3】書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員もまた神罰を下して死刑にする

 五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)・次の夏代の原初漢字の夏音文字・次の殷代前半の原初漢字は上記した〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕を厳重にまもった。したがって、上記した【3】の掟を厳重にももったゆえ、五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。
 紀元前1300年に出現した殷代後半の甲骨文字においては多数の文字数となったため、いちいち【3】の掟をまもるのが非常に面倒(めんどう)となって守らなくても死刑はじめ刑罰を与えなくても良いことになった。ゆえに、甲骨文字によって始めて【3】の掟は破られたため、甲骨文字を書いた資料が多数出土した。しかし、甲骨文字は【1】と【2】の掟は厳重にまもった。ゆえに、現在の学者たちは【1】「漢字は夏の銀河の各部の形状から作られた秘密」にまったく気づかず、学者たちは「夏の銀河の各部は夏のどの星座よりも明確な形を有するにもかかわらず、なにゆえ名称が存在しないのか?」と疑問を抱かない。
 だから、学者たちは『魏志倭人伝』が【漢字の起源の秘密】が芋づる式に愉快なほどどんどんと明確となる貴重かつ重大な文献史料であることに気づかなかった。
 「漢字」は《字源・字形・字義・字音の4つの要素》から成立する。
 《最古の漢字音を伝える、夏音文字の字源・字形・字義》は(1)《文字作成銀河の各部の形状》と、このブログによって(2)《中国の海岸線地図》と、《3》日本列島各部の地図の形》によって成立する。《夏音文字の字音》は『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』に楷書を音符にして多数残っている。したがって、「夏音文字」は4つの要素《字源・字形・字義・字音》がそろっているゆえ、「文字」と定義すべきことになる。
 現在、「漢字の最も古い祖型」とされる夏音文字より約750年後の殷代(いんだい)後半に出現した甲骨文字は《字源・字形・字義》の3つの要素がそろっているが、《字音》が不明である。
 このように、4つの要素がそろっていない不完全な甲骨文字を学界は「文字」と定義しているゆえ、4つの要素がそろう夏音文字は、当然、「文字」と定義すべきことになる。
 なお、「甲骨文字」をわがブログでは「契文(けいぶん)」と呼ぶ。

◆前回まで幾度となくわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が繰り返して詳細に解説し証明したように――倉頡は[()]の字を創(つく)って「黄帝の居住地(陝西省黄陵県の黄帝陵近くの地所)から見える地平線より外の、遠くの地域における方位規定を時計回りに90度ずつ転回する」と定めた。
 この[]の字源・字義をそのまま[()][()]の字は受け継いだ。
 だから、『魏志倭人伝』の冒頭記事「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」における先頭字の[]の字源・字義は「本州・日本列島における方位規定は、倉頡が創った[]の字源・字義を受け継いで、時計回りに90度転回する」と説明していたことになる。
 現在は、「【1】対馬国(長崎県対馬)と一大国(長崎県壱岐)の地図と【2】本州・日本列島地図における【1】【2】の〔北〕の方位は同じで天の北極がある方角」と定まる。
 しかし、【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤とした卑弥呼王朝では、【1】と【2】の両者の〔北〕は共に同じ〔北〕ではないと考えていた。つまり、卑弥呼王朝は――【1】対馬国と一大国の〔北〕は現在方位と同じく〔北〕である。しかし、【2】本州・日本列島地理においては、現在方位で〔西〕にある九州は時計回りに90度転回して本州・日本列島の〔北〕に所在すると定め、現在方位で九州の〔東〕に所在する東海地方(愛知県・静岡県)は時計回りに90度転回して本州・日本列島の〔南〕に所在する――と定めていた。
 だから、【2】の[]の字源・字義をあらわす転回方位規定にもとづいて、卑弥呼は国号を「倭人国」と定めた。
 下に、卑弥呼王朝が――[]の字源・字義にもとづいて「九州を〔北〕と定め、東海地方(愛知県・静岡県)を〔南〕と定めた――転回日本列島地理を配した。
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◆前回(18)のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」にて「[]の転回方位規定」にもとづいて「末盧国と伊都国」について解説した。今回は、「奴()国と不弥(ふみ)国」について解説・証明する。
 『魏志倭人伝』は「末盧国より東南へ陸行五百里にして、伊都国に至る」、「伊都国より東南へ百里して奴国に至る」、「奴国より東へ百里行くと不弥国に至る」と説明する。
 下の〔[]の転回方位規定にもとづく九州地図〕に示すように、「末盧国の旅程基点は長崎県松浦市、伊都国の旅程基点は松浦市の東南にある福岡県糸島(いとしま)市前原(まえばる)町、奴国の旅程基点は前原町より東南にある福岡県福岡市の香椎宮(かしいぐう)、不弥国の旅程基点は香椎宮より東方にある福岡県宗像(むなかた)玄海町田島(たじま)の宗像大社であった」と考えられる。
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 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の4回の中半部から、また前回(18)のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の後半部から解説したように――倉頡は【漢字作成理論】を象徴する聖獣を、[][]と定めた。[]の字源・字形・字義は「ジャコウウシ」、[]の字源・字形・字義は「フタコブラクダ」である。わが国には「牛・ジャコウウシと、馬・フタコブラクダ」は生息していない。ゆえに、『魏志倭人伝』は「倭地には牛・馬は無い」と記述する。
 []の下に[]が加わると、[]になる。“字書の聖典”と尊重された『説文解字(せつもんかいじ)』は[]の字源銀河を「牛、人に触()る。角(つの)に横木(よこき)を著()く。人に告ぐる所以(ゆえん)なり」と解説した。
 下に、『説文解字』の[]の字源解説図を配した。
 下の〔『説文解字』の[]の字源解説図〕における「鬼の姿に似る銀河」は「牛・ジャコウウシの鼻面(はなづら)から口までの形」に相当する。「鬼の姿に似る銀河の西部」は「牛の口の形」を象(かたど)る。ゆえに、「人の横顔に酷似する銀河」を「人」と解釈して、『説文解字』は「牛・ジャコウウシは、人に触れる」と解説した。「牛の角(つの)」は、「ジャコウウシの角に相当する、激流の銀河の箇所」にある。「牛の角に著()く横木」は「牛の角の頂部が付く(隣接する)、十字の銀河」である。「十字の銀河」は「黄帝と倉頡が生存した五帝時代初頭、中国全土の天頂にめぐってきて各地の緯度を精確に測量することができる基準(ものさし)」となった。ゆえに、「十字の銀河」は「牛・ジャコウウシの体長・約2.25メートルの杖(つえ)くらいの木の基準(ものさし)」、つまり「緯(よこ/横)の度数を測量する木のものさし」に見立てられて「横木」と呼ばれた。
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◆『魏志倭人伝』は、対馬国、一大国、末盧国、伊都国と説明した後に、五番目の小国は「奴国」であったと記述する。
 下の図に示すように、「奴国」の[]の字源銀河は「鬼の姿に似る銀河と、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」であった。上記した〔『説文解字』の〔告〕の字源銀河解説図〕では、「鬼の姿に似る銀河」は「ジャコウウシの鼻面から口までの部分」となる。
 「鬼の姿に似る銀河」は[(ゆう)][(ゆう)]の字源銀河でもあった。[][]の字音は同音で「ゆう」、字義も[][]は同じく「右。右の手」であった。
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 [][]が加わる[]の字は「強大な力を有するジャコウウシ」、「ジャコウウシの強大な力で子どもを出産する母体の力・機能」、「ジャコウウシの強大な力を有する、乾いて石
のごとく堅(かた)い土も耕すことができる筋骨たくましい18才くらいの青年」など意味したゆえ、[]は「ものすごい、強大な力」、「大国」をも意味した。
 上に配した〔[][][]の字源解説図〕に示したように、右上の[]の金文形の「渦巻き」は「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」をあらわす図案である。
 []の金文形の「渦巻き」は、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の17回で詳細に解説したように、「母体の子宮口が開く出産第一期・開口期(かいこうき)から出産児の頭が誕生する出産第二期・娩出期(べんしゅつき)終わりまでの、出産児童の頭の、4回の回旋(かいせん)の渦巻き」をあらわしている。

◆黄帝は東洋最古の医学書『内経』を作ったと伝わる。黄帝の医学研究のテーマは「ヒトの命の研究」、つまり「女性の生殖器と子どもの出産の研究」であった。
 これゆえ、倉頡が漢字を発明する目的は【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の研究】をあらわすことができる文字を考案することであった。
 この【黄帝の神秘的なヒトの生命の、医学研究における核心】は、下に図示した「出産第一期 開口期(かいこうき)」からドラマがはじまる「縦長の出産児の頭蓋骨が母体の横長の骨盤入口をくぐりぬけると頭を回旋(かいせん)しながら産道を通過する、まるでこの世に命(いのち)が湧き出るがごとく出産児の頭が誕生する」までの「出産第二期 娩出期(べんしゅつき)」における、〈涙が思わずでるほど心ゆさぶられて感動的な神秘的なハイライトシーン〉」ということになった。

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 上に配した上下二図におけ、〔出産第一期・開口期から出産第ニ期・娩出期までにおいて、出産児の頭の回旋・渦巻き〕は4回おこなわれる。
 第1回旋は「時計回りに90度の回旋(転回)」し、第2回旋と第3回旋は「反時計回りに90度回旋(転回)し、第4回旋は「時計回りに90度回旋(転回)する。この「第1回旋、第2回旋、第3回旋、第4回旋」という語を記入すると、[]の字源解説が煩雑(はんざつ)となって難解となる。これゆえ、これからおこなう〔出産第一期・開口期から出産第二期・娩出期終わりまでの様子〕の説明には、〔4回の回旋〕を示す語を省略すると、次のごとくなる。
 ――開口期において、陣痛(じんつう)がはじまると、子宮口に向かった卵膜(らんまく)は羊水(ようすい)によってふくらみ、くさび状に子宮頸管(しきゅうけいかん)をひろげ子宮口(しきゅうこう)が開いていき、子の頭はしだいに押し下げられてくる。子の頭は骨盤産道(こつばんさんどう)にはいりこみ、骨盤産道の形に応じて向きを変えていく。正常分娩の場合には、骨盤入口の上では子のアゴを胸につけた姿勢で、子の背中は母体の左または右にある。中ほどにくると子の頭は斜(なな)め後ろ(母体の背側)に顔を向け、出口では顔をすっかり後方(母体の背側)に向ける姿勢となる。開口期の終わりには、ほぼこの状態となる。
 次は出産第二期の娩出期が始まり、子の頭が骨盤出口に近づいたとき、母体の直腸(ちょくちょう)は圧迫されるので自然に怒責(どせき/いきみ、きばること)がおこり、母体の腹圧(ふくあつ)が加えられる。陣痛と腹圧との力で、子の頭はますます押しあげられ、ついに陣痛発作(じんつうほっさ)のときには膣(ちつ)の入口から頭が見えるようになる。さらに進んで子の頭の最も大きい部分が膣の入口を通過して、子の頭が誕生する。ついで子の頭は母体の左または右を向くが、これは肩の部分が骨盤出口を通るためである。肩はまず上(母体の腹側)にあるほうが先に、ついで下(母体の背側)の肩が出ると、あとは(娩出期の終わりは)、子の顔の正面は母体の背側のほうに向いて、一気に生まれる。

 これゆえ、[]の字源「鬼の姿に似る銀河」は「子を出産するための母体のジャコウウシのごとき強大な力」に見立てられた。[]の金文形における「渦巻き文」となった「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は前記した〔『説文解字』の[]の字源銀河解説図〕では「ジャコウウシの目」となった。ゆえに、「渦巻き文」は上記した「子どもの出産」における「母体が稲妻(いなづま/雷鳴)や虎が咆()えるがごとく大声をあげる怒責(どせき)」に見立てられ、「子どもを誕生させるスゴイ強大な力」をあらわした。[][]を加えると[]となり、[][]を加えると[]となり「怒責」の[]となる。
 一組が百頭余りのジャコウウシの群れは天敵のオオカミに襲われると、子どもを真ん中に隠して、円陣を組んで防衛する。ゆえに、「真ん中に隠す子」は「女性の生殖器」に見立てられ、「ジャコウウシの群れが作る円陣」は「女性の生殖器の大半を包囲する骨盤」に見立てられた。ゆえに、「ジャコウウシの円陣」は「陣痛」の語源であったことになる。
 子どもを出産するときの母親はオオカミに襲われるジャコウウシのごとく怒り咆()え、子どもとわが身の命を必死にまもるために激しい痛みに耐え、汗と涙でグショグショとなる命がけの戦いに勝利して子どもを出産させる。だから、[陣痛]の語源は「ジャコウウシがオオカミと戦う時に組む円陣」であり、「オオカミに襲われたときに子どもを真ん中に隠してジャコウウシが組む円陣に見立てられた骨盤、つまり子宮や産道を包囲する骨盤全体から生じる激しい痛み」であったのである。
 したがって、「陣痛」の語源となった「ジャコウウシ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
 日照りが続いて堅(かた)くなった農地は筋肉が隆々(りゅうりゅう)とたくましい強大な力を有する18歳くらいの青年ならば耕すことができた。そして祭祀(さいし)に用いる神にささげる犠牲(いけにえ)でもっとも完全な獣はジャコウウシであった。ゆえに、『魏志倭人伝』に「卑弥呼の墓に葬られた徇葬者(じゅんそうしゃ)の奴()」と記述された[]は「18歳くらいの青年たち」がつとめることになった。
 以上からして、前述したように、[]は「強大な力を有するジャコウウシ」、「ジャコウウシの強大な力で子どもを出産する母体の力」、「ジャコウウシのごとく強大な力を有する18歳くらいの青年」、そして「もの凄(すご)く強大な力」を意味することになった。

 『魏志倭人伝』は「対馬国は千余戸、一大国は三千許(ばか)りの家、末盧国は四千余戸、伊都国は千余戸、奴国は二万余戸、不弥国は千余家、投馬国は五万余戸可(ばか)り、邪馬壱国は七万余戸可り」と記述する。
 奴国は二万余戸可(ばか)りの大国であった。一戸に5(夫婦・親・子どもの5)が住んでいたと考えると二万余戸の奴国は、当時、約十万人以上の人口を有していた大国であったと算出される。このような奴国の人口密度からもとづくと――下に示すように、奴国の範囲は「福岡湾沿岸の福岡市から熊本県南端まで」であったと推定される。この「広大な範囲」こそ、[]の字源「ジャコウウシの強大な力」をあらわす「奴国」にふさわしいことになる。
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◆『魏志倭人伝』は「奴国から百里、東行すると不弥(ふみ)国に至る」と説明する。上図に示したように、奴国の旅程基点は福岡県福岡市の香椎宮(かしいぐう)であったと考えられる。これゆえ、不弥国の旅程基点は福岡県宗像(むなかた)市玄海町田島に鎮座する宗像大社であったことになる。
 宗像大社周辺の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)は「後期縄文時代初頭、名門の益(えき)氏が日本列島の東北地方に定住して教えひろめた「中国の海岸線地宜(地図)」にもとづいて、小国名を「不弥国」と定められた。
 小国名「不弥」の由来となった「中国の海岸線地宜(地図)の作製」は、今から約6000年前の易(えき)が起源した三皇(さんこう)時代初頭の包犧(ほうぎ)氏から始まったらしい。ゆえに、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代、倉頡は「黄帝時代に調査・測量されて作られていた、中国の海岸線地宜(地図)」を字源・字形の原形・原義に用いた。
 司馬遷(しばせん)著『史記』は「五帝時代の四番目の帝王の堯(ぎょう)の時代に益氏は挙用され、五帝時代最後の帝王の舜(しゅん)の時代に益氏は『虞()』という重職に任命された」と記述する。「虞」は「中国の正確な海岸線地図を調査・作製する官職」であった。益氏は代々約200250年間、中国の海岸線を調査し正確な地図作製に従事した。ゆえに、益氏は精密地図作製方法を開発した。
 今から約4100年前の紀元前2070年頃~紀元前2050年頃、“夏()の始祖”の帝の禹()は臨終の間際、禹の政治を補佐していた益に帝位をさずけた。帝禹は五帝時代以来の「国家を樹立しないで、多数の氏族のちで最も優秀な人物を帝王に選ぶ氏族共同体制」の維持を、益に遺言して崩じた。禹の息子の啓(けい)は父の禹の意見に反対して「国家を樹立し、特定の優秀な氏族(つまり、漢民族の禹・啓の氏族)が帝王となる世襲王朝国家体制」を欲求(よっきゅう)した。
 帝禹が没すると諸侯はみな帝益のもとを去って、啓のもとに入朝(にゅうちょう)した。
 ゆえに、帝益は、中国では禹の遺志「五帝時代以来の氏族共同体制」はもはや廃(すた)れたと考え、禹の三年の喪()が終わると、益は帝位を啓にゆずって、箕山(きざん)の南に隠棲(いんせい/隠居)した。そして、益は新天地・日本列島に移住して禹の遺志「五帝時代以来の氏族共同体制」を受け継いで残そうと決心した。しかし、老いた益は荒波が逆巻(さかま)く大海・玄界灘を小舟で漕いで横断できる体力を失っていた。ゆえに、禹の遺志「五帝時代以来の氏族共同体制継続事業」は、益の孫の青年王子と若者たちによってなされた。
 益の孫の青年王子一行は玄界灘を征服して九州に上陸し、日本列島を北上して東北地方にて定住した。益氏は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を東北地方から関東地方まで教えひろめた。
 益氏は帝舜の時代から代々約200250年間も「虞」の官職に従事していたゆえ、後期縄文時代初頭、【当時、最も先端的にして正確な中国の海岸線地宜(地図)と、精密地図作製方法】をわが国は習得することになった。
 益氏から起源した学問は卑弥呼が生存した時代まで受け継がれた。ゆえに、卑弥呼は【正確な中国の海岸線地宜】を知っていた。また、益氏が【精密地図作製方法】を教えひろめたゆえ、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)には34の精密な小国の地宜(地図)が作製されていた。この34の小国の精密地宜と小国名に用いられた文字の字源・字形・字義によって、『魏志倭人伝』は「邪馬台国研究」のための史料ではなく、【倉頡が発明した漢字作成理論】を記述した書物であった実体が具体的に科学的(学術的)に証明される。

◆現在は『古事記』上巻の日本神話は作り話と定められているが、『魏志倭人伝』と同じく〔音〕という注が付く夏音文字の字源を解明すると歴史を伝えていることが証明される。・『古事記』上巻の〔天孫(てんそん)邇邇芸命(ににぎのみこと)説話〕は、天孫(天照大御神の孫)は夏代初頭に日本列島に定住した帝益の孫の王子の名を受け継いで「日子番能邇邇芸命(ヒコホノニニギノミコト)と称した」と説明している。
 つまり、天照大御神は不弥国の王を討伐する遠征軍の大将に任命した孫の名を帝益の孫の王子の名を拝借(はいしゃく)する策略を思いついた。ゆえに、『古事記』は「天孫の名は、帝益の孫の王子の名を受け継いで日子番能邇邇芸命(ヒコホノニニギノミコト)であった」と記している。
 『日本書紀』巻第三・神武(じんむ)天皇紀の初頭部では、帝益の孫の王子は「天祖(てんそ)」と呼ばれ、名は「彦火瓊瓊杵尊」と表記される。「彦火瓊瓊芸命」は『古事記』上巻の〔天孫邇邇芸命説話〕の天孫の名「日子番能邇邇芸命」と同じく「ヒコホノニニギノミコト」と読む。だから、天照大御神の孫・天孫は「帝益の孫の王子」の名を拝借するものであったゆえ、「日子番能邇邇芸命(ヒコホノニニギノミコト)」と記されたのである。
 『魏志倭人伝』にある「古(いにしえ)より以来、其の使(し)中国に詣(いた)るに皆(みな)自ら大夫と称す」という記事は「古来より倭の使者は、益氏の王子と同様に玄界灘を征服して中国に到着したゆえ、みな自ら大夫と称した」と意味する。万葉仮名の「大夫」は「ますらを」と読み、「ますらを」は今日「益荒男」と表記される。「益荒男」は「益氏の王子のごとく荒海(あらうみ)の玄界灘を往来した勇気あるりっぱな男性」の略称である。ゆえに、『魏志倭人伝』に登場する「大夫」の語源は「天祖・帝益の孫の王子」であった。
 『古事記』上巻の〔天孫邇邇芸命説話〕は「3世紀末、5人の王とともに宗像氏の王もまた天照大御神・大和王朝を倒さんとしてクーデターを計画した。ゆえに、天照大御神の孫は帝益の孫の王子の名を号する大和遠征軍の大将となって、不弥国の宗像氏を討伐した」と説明している。
 天孫に討伐された宗像君は、以後、「天照大御神の孫の天孫」を祀ることになった。
 だから、現在、宗像大社は「汝三神(いましみはしらのかみ)、宜(よろ)しく、道中(みちのなか)に、降居(くだりま)して、天孫(あめみま)を助け奉(まつ)り、天孫(あめみま)に、祭(いつ)かれよ」という、天照大御神の神勅(しんちょう)を守っている。
 ところが、天孫の遠征軍に討伐される以前、宗像神社は「沖津宮(おきつみや)の田心姫神(たごりひめのかみ)、中津宮(なかつみや)の湍津姫神(たぎつひめのかみ)、辺津宮(へつみや)の市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)」の三女神を祭って、ほんものの「ヒコホノニニギノミコト・帝益の孫の王子」を祀る神社であった。

◆「不弥国」の[]は、倭女王名「卑弥呼」の[]である。
 中国の五経(ごきょう)の第一番目にあげられる古典『易経(えききょう)』の繋辞上伝(けいじじょうでん)は、〔中国の海岸線地宜(地図)〕について、下記のごとく説明する。
 「易は天地と準(なぞら)う。ゆえに能()く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観()、俯()してもって地理を察(あきらか)にする」
 上の記事の最初に登場する[]の字源について、『説文解字』は「蜥易(せきえき)なり」、つまり「トカゲである」と解説する。トカゲには「かならずもとのすみかにもどるという帰家性(きかせい)」がある。ゆえに、遠くの地へ旅する人々や大海を往来する人々はトカゲの帰家性と同じく、下図に示す[](天頂緯度線と子午線)をキャッチして、かならず家族が待つ家に帰ることができた。
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 ゆえに、上古の人々は日々[]をキャッチする眼力を鍛錬して「玄界灘」の[](天頂緯度線と子午線)がキャッチできたゆえ、「天(天頂緯度)=地(観測地点の緯度)」となった。ゆえに、「易は天地と準う(天頂緯度線と観測地点の緯度は同じ)」ということになった。
 したがって、上古、中国では[]の字源となった「中国全土の天頂にめぐってくる、十字の銀河」を測量して、中国全土を洩れなく包みこむ中国海岸線地図を作製した。だから、上に示した『易経』繋辞上伝の記事では「天地の道を弥綸す」と表現された。高田真治・後藤基巳訳者『易経()(岩波書店発行)は「弥綸」という語を「つくろいおさめる、もれなく包みこむ」と訳する。
 下に〔中国の海岸線地宜(地図)〕を配した。
 下図の「山東半島」は「鳥の頭」、「山東半島の付け根から南北へ伸びる海岸線」は「鳥が空を飛ぶ両翼」に相似すると見立てられた。この「空を飛ぶ鳥の形をした海岸線」は「中国の国土を包みこむ」ゆえ、[]の字源・字形・字義となった。この[]の「中国の国土を洩れなく包みこむ海岸線」は「長江口(ちょうこうこう)北端から杭州湾(こうしゅうわん)南端までの海岸線」は「翼が途中でやぶれて綻(ほころ)ぶ形」となる。しかし、「杭州湾より南部の海岸線」は「なだらかなカーブを描くことになる」ゆえ、[]の字義は「つくろいおさめる」とあらわすことになった。
 []の字を「いやしく」とする解釈は字源・原義を失っている。つまり、「地の卑湿(ひしつ)」の「卑湿」という語は「海抜(かいばつ)が低いために湿気が多い地」と意味するゆえ、[]の字源・字形の原形・原義は「標高(海抜)0メートルの海岸線」であった。
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 ゆえに、上図に示したように、[]は「標高0メートルの海岸線」、[]は「空を飛ぶ鳥の両翼の形をした、山東半島とその付け根から北へ伸びる海岸線と長江口北端までの海岸線」となる。[]は「杭州湾の地宜(海岸線)」となる。

◆益氏が「虞」という官職に任命されて代々約200250年間従事して作製した「中国全土の海岸線地図」は[][][]3字の字源・字形の原形・原義となったのである。
 『説文解字』は[()]の字源を「益(えき)なり」と解説する。[]の原字(最初の文字)[]である。ゆえに、[]の字源は「益なり」ということになる。益氏は約200250年間もの長いあいだ、「虞」という重職について「正確な中国海岸線地図の作製」に従事した。だから、[][]の字源は「益なり」となったのである。
 そして、益氏は日本列島に定住したため、中国では「益氏の歴史」を正確に伝える[]の字源が不明となった。その証拠に、『魏志倭人伝』は「魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と卑弥呼が用いる文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)していた」と記述している。
 人間は個性の異なる右脳と左脳の二つ半球を有する。
 中国の漢字は夏、殷、周、秦、前漢、新、後漢と王朝が滅びるごとに字源・字形の原形・原義を失って――倉頡が発明した文字作成銀河各部の形状の感覚的概念(イメージ)で考える芸術・右脳思考文字から、次第に言葉や論理を優先する左脳思考文字へと変革し進歩した。
 一方、わが国では後期縄文時代初頭から卑弥呼時代までの約2300年間、国家も王朝も創設されなかった。このため、左脳思考文字への変革・進歩が成されず、【右脳思考にもとづく文字作成銀河の各部の形状を字源・字形・字義とする、倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字】が保存されることになったのである。

◆上に配した〔[][][]の字源を示す中国の海岸線地図〕において、「弥綸」の語源となった「山東半島の付け根の南部から杭州湾南岸より円弧(カーブ)を描くさらに南の海岸線まで」は「人の横顔」に見立てられることになった。というのも、「黄海に突き出る山東半島」は「人の頭髪や頭にかぶる笠」に見立てられ、「長江口」は「息を吸う人の鼻の孔(あな)」に見立てられ、「杭州湾」は「息を外()く人の口」に見立てられたからである。
 『説文解字』は[]の字源を「息を外()くなり」と解説する。
 下に配した図における「杭州湾」には「銭塘江(せんとうこう)の河口から水が杭州湾へ外き出される」ゆえ、「杭州湾」は[]の字源となった。そして、下の図に示したように、「杭州湾の地宜(地図)の形」は「水鳥の鳰(にお/カイツブリ)」に相似する。だから、「鳰」は[]の字源となった。つまり、[]の字源は「杭州湾の地宜」と「鳰」であった。
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 「卑弥呼」の[]、「不弥国」の[]の原義は「カンムリカイツブリ」であり、「卑弥呼」の[]、倭国の小国「不呼(ふこ)国」の[]の原義は「カイツブリ・鳰」であった。
 []の字源「鳰」はカイツブリ類中、もっとも多く見られる種類である。鳰は中国とわが国に生息する鳥、つまり留鳥(りゅうちゅう/一年中、すみ場所をかえない鳥)である。流れのゆるやかな河川、湖沼(こしょう)、湿原などに生息し、河口や沿岸部でも一年中生息する。全長は2529センチである。
 []の字源「カンムリカイツブリ」は中国とわが国において冬季に飛来する冬鳥である。青森県や滋賀県(琵琶湖)では繁殖する。流れのゆるやかな河川、湖沼、湿原などに生息するが、河口、沿岸部にも生息する。長時間水中に潜(もぐ)っていることができるゆえ「八丁もぐり」という俗称がある。全長4661センチで、鳰の2倍の大きさである。
 『説文解字』は「小鳥」を字義とする[(すい)]の字源を「鳥の短尾なるものの総名なり」と解説する。鳰の尾は非常に短く、外観からほぼ判別できない。だから、「鳰」は[]の字源「短尾の鳥たちの総名(仲間)を代表する小鳥」ということになった。したがって、[]の字源・字義を「鳰」と解すると「おおよそ正しい」となり、「誤っている」とはいえない。
 さて――黄帝の医学研究において「胎児は10ヵ月近く母親のおなかの中の羊水(ようすい)に潜って育つが、なぜ胎児は空気を吸うことができず窒息死しないのか?」――この謎が、黄帝はじめ五帝時代の人々にはまったく解明できなかった。この謎は、現在でも、すべて解明できておらず、いまだ幾つかの謎が存在する。ゆえに、「胎児が子宮という密室で何カ月も羊水に潜っていてもなぜ窒息死しないのか、このどうしても解明することができない謎」は「難解」の[]の字源・字義となった。
 胎児は羊水に何カ月も潜っていてもなぜ窒息死しないのか――この謎はまったく解明できなかったが、とにかく【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の医学研究】をあらわすために欠くことができない重大事であったため、「胎児が羊水に何カ月も潜っていても窒息しない状況」をあらわす文字が考案されることになった。
 そこで、「長時間水中に潜っていることができるカンムリカイツブリ」が注目されることになった。ゆえに「カンムリカイツブリの横顔」は「山東半島の地宜」に相似すると見立てられて、[]の字源・字義は「カンムリカイツブリ」と定められた。
 そして、「大きなカンムリカイツブリ」だと、「小さな20週以下の胎児(胎児の頭は母親の頭のほうにある)」に似つかわしくないということで、[]の字源「鳰」が「小さな20週以下の胎児」に譬(たと)えられることになった。他方、[]の字源「大きなカンムリカイツブリ」は「大きく育って羊水の中を動きまわる20週以上育った胎児(胎児の頭は母親の骨盤のほうに転回する)」に譬えられることになった。
 なお――「胎児」には「カンムリカイツブリと鳰のくちばし()」が無い。[]の字源地宜となった「山東半島」にも「くちばしに相当する地宜」が無い。[]の字源地宜となった「杭州湾の形」にも「くちばしに相当する地宜」が無い。そして、[][]はともに「なぜ胎児は何カ月も羊水の中に潜っていても窒息死しないのか、まったく解明できない謎」をあらわす字であったゆえ、字源地宜では「くちばしが無いこと」が「譬える」という事情をあらわして合理になる・正しい解釈となると定められた。だから、「くちばしの地宜が無い、山東半島」は[]の字源・字義をあらわす地宜となった。また、「くちばしの形が無い、杭州湾」は[]の字源・字義をあらわす地宜となった。

このような事情で、「くちばし」のあらわす字は「文字作成銀河から作らない」と定められたため、文字作成銀河から作られた契文(甲骨文字)と金文(周代の文字)には「くちばし」をあらわす字は存在しない。
 [(たく)]の字義が「くちばし」であるのは「啄木鳥(キツツキ)が〔くちばし〕で木をつついて虫をついばむ生態」から作られた字であると考えられる。[(かい)]の字義も「くちばし」であるが『説文解字』は「口なり」と解説するゆえ、「鳥の口=くちばし」という考えにもとづいて作られた字であろう。[()]の字義も「くちばし」であるが、この字は「梟(フクロウ)の小さなくちばし」をあらわす。ゆえに、[][]を加えた[]「くちばし」は「フクロウの小さなくちばし」から作られた字であろう。
 このように、[][][][]4字は「銀漢から作られた文字」ではない。だから、「銀漢から作られた字」略して「漢字」と呼べないことになる。

◆下の図に示すように、福岡県宗像市の西方(現在方位)は福岡県の福津(ふくつ)市の津屋崎町(つやざきまち)の海岸線である。「津屋崎町の海岸線」は、[]の字源地宜「山東半島」に何となく似ているが、「相似している」と断言することができない。この「断言することができない」をあらわす字が、[]であった。
 白川静著『字統』は――[]の字は「否定・打消し」の「ず」に用いられる――と指摘する。ゆえに、卑弥呼は「津屋崎町の海岸線」は[]の字源「山東半島の海岸線形」の形に相似していない、つまり[]ということで、宗像地方の小国名を「不呼」と定めた。
000077
 下の図に示したように、「山東半島」が[]の字源「カンムリカイツブリ」の地宜となる。「津屋崎町の海岸線の地宜」は「アカエリカイツブリの横顔」に相似する。
 だから、「津屋崎町の海岸線の地宜」には[]の字源「カンムリカイツブリの横顔」に相似しない、つまり否定・打消しの[]の「ず」の字が加えられることになった。ゆえに、「津屋崎町の海岸線の地宜」は[]の字源「カンムリカイツブリの横顔」に相似するとは言えないが、「津屋崎町の海岸線」は「アカエリカイツブリの横顔」に相似するゆえ「不弥」と名づけられることになった。
000078
 アカエリカイツブリは、56月ころに湖沼の水面に、[]の「鳰(カイツブリ)」と同じく水草を支柱として枯草で浮巣を作る。
 「不弥」のアカエリカイツブリの全長は4661センチで、[]のカンムリカイツブリと同じである。[]の鳰の全長は2529センチである。ゆえに、「不弥」のアカエリカイツブリの全長は、[]の鳰の全長の約2倍ということになる。
 『説文解字』は[]の字源を「鳥飛んで上翔(じょうしょう)し、下り来()らざるなり。一に従ふ。一はなほ天のごときなり」と解説する。
 というのも、[]の「〔カンムリカイツブリ〕に見立てられた、山東半島とその南北海岸線」は「天空(つまり、北朝鮮や日本海がある東北の天空)に目指して飛翔して、陸地に降下せずに遠くの空に去ってゆく姿」に観える――この様子は、前述した白川静著『字統』が指摘した[]の否定・打消しの「ず」と異なって、上記した『説文解字』の[]の字源解説をあらわすことになった。
 下の転回方位にもとづく図に示したように、上記した『説文解字』の[]の字源解説に合致して――「不呼」の「津屋崎町・宗像市の地宜は天(玄界灘の上空)を飛ぶアカエリカイツブリの姿となって、[一・壱]の字源「十字の銀河の子宮」に見立てられた一大国・壱岐の方に目指し(つまり、一に従い)、なお、天空高く飛び去ってゆくかのごとく」に観える。したがって、「一大国の方へ去るように観えるアカエリカイツブリが飛翔する姿をした津屋崎町の海岸線と宗像市の平野部の地宜」は『説文解字』の[]の字源解説に合致する。
 だから、津屋崎町の海岸線と宗像市の平野部は不弥国の中心地であったことになる。
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◆『魏志倭人伝』には「難升米(なしめ/夏音文字の字音)」という「外相」の役割をになった倭国の有力者が登場する。
 『魏志倭人伝』は「魏の景初(けいしょ)二年(238)十二月、難升米一行は魏都・洛陽に到着した。この時、魏帝(明帝)は卑弥呼に『親魏倭王』という外臣に与える最高の爵位(しゃくい)と金印紫綬(きんいんしじゅ)を与えることを約束した。そして、魏の正始(せいし)六年(245)に、魏の斉王(さいおう)は詔(みことのり)を下して、難升米に魏の軍旗(ぐんき)・黄幢(こうどう)を与えることにして、帯方郡に一時的に託して授けるようにした」と記述する。
 この倭国の外相の「難升米」は不弥国・宗像の王であったと考えられる。
 前述したように――黄帝の医学研究において「胎児は10ヵ月近く母親のおなかの中の羊水に潜って育つが、なぜ胎児は空気を吸うことができず窒息死しないのか?」――この謎がまったく解明できなかった。しかし、この謎は難(むず)しくて解くことができないが、「胎児が子宮で育つ様子」をあらわす文字を、[]の「長時間水中に潜ることができる、カンムリカイツブリ」と[]の「小魚やエビ、昆虫などを捕まえるために頻繁(ひんぱん)に水中に潜る鳰」であらわすことになった。このような事情が、「難升米」の[]の字源・字義となった。
 「不弥」の「アカエリカイツブリ」も、カンムリカイツブリと鳰と同様に、水中に頻繁に潜る。だから、「不弥」は[]の字源・字義と密接にかかわっていることになる。
 下の図に、「山東半島図」を加えた。このように「山東半島図」を加えて、[]の字源・字義を考えて、この考えのもとづいて「出産第一期・開口期(かいこうき)と出産第二期・娩出期(べんしゅつき)における出産児の4度の回旋(かいせん)」にもとづいて倉頡が[][]を創った字源・字形・字義の学術知識を理解するのはさらに難しい。ゆえに、これまた[]ということになった。
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 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の17回の後半部で詳細に解説したように――「出産第一期・開口期から出産第ニ期・娩出期まで、出産児の頭の回旋」は4回おこなわれる。第1回旋は「時計回りに90度の回旋(転回)」し、第2回旋と第3回旋は「反時計回りに90度回旋(転回)し、第4回旋は「時計回りに90度回旋(転回)する。
 このような「出産児の頭の第1回旋と第4回旋」にもとづいて、倉頡は[]の字を創って「時計回りに90度転回する方位規定をあらわす」と定めた。また、「児頭の第2回旋と第3回旋」にもとづいて、倉頡は[()]の字を創って「反時計回りに90度転回する方位規定をあらわす」と定めた。
 下に、倉頡が考案した[]と字源銀河解説図と契文形(甲骨文字の字形)[]の字源銀河解説図と金文形を示した。
 上の〔「難升米」の解説図〕に示したように、(1)津屋崎町の海岸線を天に向かって昇る方角(南→西)90度転回させて山東半島の180度の対称形に合わせる作業は[]の転回となり、(2)宗像大社の中津宮が所在する大島の天に向かって昇らんとする向きは[]をあらわし、(3)地ノ島が天に向かって昇らんとする向きは[]をあらわし、(4)釣川の水が南東から北西に向かって流れて天に向かって昇らんとする向きは[]をあらわす。
 ゆえに、(1)(2)は「出産児の頭の第1回旋と第4回旋」をあらわし、(3)(4)は「出産児の頭の第2回旋と第3回旋」をあらわす。
 (1)(2)(3)(4)が共通する「天に向かって昇らんとする」の「昇る」の[]の原字(最初の文字)[]である。[]の下の[]が、[]の原字であった。だから、白川静著『字統』は[]の字義は「のぼる」であったと指摘する。
 上の〔「難升米」の解説図〕における「宗像市の平野部の地宜」は「禾・稲の束」に相似すると見立てられた。ゆえに、「宗像市の平野部」は「禾・稲の実の米」と「難升米」の[]をあらわした。「宗像市の平野部」の「天」は「稲束の穂が垂れる南東」、「地」は「稲が生える地面となる、釣川の河口」となる。
 「宗像市の平野部の天と地の解釈」にもとづくと、上記した(1)(2)(3)(4)における「天に向かって升(のぼ)る」という解釈が成立しない。
 だから、宗像の地宜における「難升米」の解釈は難しいということになる。

◆中国の南部の呉は、稲(水稲)のよく育つ地域である。呉には、太湖(たいこ)がある。 
 下の図に示すように、「太湖の地宜(地図の形)」に「象の姿」に相似する。「太湖北部の象の背中から鼻が南から東へ伸びるカーブ」は「反時計回りの転回」の[]の字義に合致する。したがって、宗像市には太湖は所在しないゆえ、下図に加えた「呉の太湖図」は「想像の産物」となる。だから、《宗像市の平野部の地宜》を観て《呉で良く育つ禾()と稲束》を想像し、さらに《呉に所在する太湖》をも想像するものであったゆえ――「不呼国の地宜」は、「宗像」の[]は「想像」の[]であるとあらわしていることになる。
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 「宗像」の[]の字義は「宗廟(そうびょう)」、つまり「祖先を祀(まつ)るみたまや」である。
 現在の宗像大社は「天照大御神の神勅(しんちょく)により、天孫・ヒコホノニニギノミコトを奉(まつ)り斎(いつ)かれることになった神社」とされる。この事情を、『古事記』上巻の〔天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)説話〕は「天照大御神の孫の天孫が大和王朝・遠征軍を指揮して、天照大御神・大和王朝を倒すクーデターを計画した宗像氏を征討した。このため、宗像神社は天孫を助け奉って斎かれることになった神社」と伝えている。
 しかし、天照大御神の孫の天孫を祀る以前、宗像神社は「帝益の孫の王子・ヒコホノニニギノミコト(日子番能邇邇芸命)」を祀っていた。帝益の孫の王子・ヒコホノニニギノミコトは後期縄文時代初頭に中国から玄界灘を横断して日本列島の東北地方に定住して、【(1)倉頡が発明した漢字作成理論と、(2)夏音文字と、(3)正確な中国の海岸線地宜(地図)と、(4)精密な地図作製方法】を東方地方から関東地方の諸氏族に教えひろめた。
 しかし、前述したように、〔「難升米」の解説図〕を用いても、宗像氏の王の夏音名(夏音文字の名)の「難升米(なしめ)」の[]はじめ[][]の解釈は非常に難しい。このため、宗像氏が帝益の孫の王子を祀っていたという由来は明確に示されない。
 けれども、宗像神社は――元来、わが国に【正確な中国海岸線地宜(地図)と精密地図作製方法】をもたらした帝益の孫の王子・ヒコホノニニギノミコトを祀る神社であったこと――を明確に伝える遺跡が存在する。
 この遺跡は、「不呼(ふこ)国」に現存する「1千万坪の大鳥の地上絵」である。
 『魏志倭人伝』に、倭国の最初の小国として登場する「対馬国」を一番目国とすると、「不呼国」は六番目国となり、十五番目国として不呼(ふこ)国が登場する。『説文解字』は「不呼国」の[]の字源を「息を外()くなり」と解説し、また[]の字源は「鳰(カイツブリ)」であり「杭州湾」であった。
 前述したように、[]の字源は「標高0メートルの海岸線」、[]の字源は「山東半島の付け根から北へ伸びる海岸線と南の長江口北端まで伸びる海岸線」、[]の字源は「杭州湾」であった。
 不呼国に作製された「1千万坪の大鳥の地上絵」は[][][]の字源「中国の海岸線地図」が設計されている、3世紀後半の遺跡である。また、不呼国の「1千万坪の大鳥の地上絵」を作製した人物は不弥国・宗像君(むなかたのきみ)の子(配下)であった建比良鳥命(たけひらとりのみこと)である。この事実は、『古事記』上巻の〔天照大御神と須佐之男命の誓約説話〕に明記され、遺跡「1千万坪の大鳥の地上絵」によっても確かな事実となる。
 要するに、不呼国の「1千万坪の大鳥の地上絵」は――卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)における宗像神社は「【正確な中国の海岸線地宜(地図)と精密地図作製方法をもたらした帝益の孫の王子・ヒコホノニニギノミコト(日子番能邇邇芸命)」を祀る神社であったことが明確に科学的に証明することができる、重大な地宜遺跡であった。

◆前述したように、『説文解字』は[]の字源を「鳥飛んで上翔(じょうしょう)し、下り来()らざるなり。一に従ふ。一はなほ天のごときなり」と解説する。
 他方、白川静著『字統』は[]の字源について「もと象形(しょうけい)で花の萼拊(がくふ)の形であるが、その義に用いられることは殆(ほとん)どなく、その本義には拊()などを用いる」と解説する。
 ゆえに、下の図における「花の萼拊」と呼ばれる部分が[]の字源であった。
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 下に配した転回方位にもとづく「静岡県西部・遠江(とおとうみ)の浜名湖」は「花の形」に相似すると見立てられ、[]の字源「花の萼拊」となる地宜は「浜名湖の支湖の、引佐細江(いなさほそえ)」と解されることになった。
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 下の〔現在方位にもとづく上南・下南の、[不・呼]となる引佐周辺の地宜〕が示すように、[]の字源地宜「花の萼拊に見立てられた引佐細江」の西岸に、寸座岬(すんざみさき)がある。「寸座岬」は「人の鼻の形」となる。このため、「寸座岬より北と南の湖岸」は「人の横顔」に相似する。ゆえに、「鼻に相似する寸座岬の北側となる引佐細江の西岸」は「人が呼吸する口」に相当して、[]の字源を示す。『説文解字』は[]の字源を「息を外()くなり」と解説する。引佐細江に北岸には、都田川(みやこだがわ)の河口がある。「都田川の河口は上流から流れてきた水を外()き出す口」となる。ゆえに、「都田川の河口」は[]の字源を示す。都田川の河口の南にある舘山寺(かんざんじ)東方の「内浦」も[]の字源地宜となった。
 だから、[]の字源「花の萼拊」に見立てられた「細江引佐」と、[]の字源「息を外くなり」の地宜となる「引佐細江周辺の湖岸の地図の形」にもとづいて、「遠江」の小国名は「不呼国」となった。
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 前述したように、福津市の「津屋崎町の海岸線」は、「卑弥呼」の[]の字源「カンムリカイツブリの頭の形」に相似せず、「アカエリカイツブリの頭の形」に相似したゆえ、否定・打消しの「ず」を意味して、宗像地方の小国名は「不弥国」となった。
 同様に、「遠江における引佐細江周辺の地宜」の[]は、「卑弥呼」の[]の字源「杭州湾」と「鳰」を示すものではない。
 だから、「遠江」の小国名に用いられる[]も否定・打消しの「ず」を意味することになり、「遠江」の小国名は「不呼国」と定められたことになる。

◆前述したように、『古事記』上巻の〔天照大御神と須佐之男命説話の誓約説話〕は「天照大御神の孫の天孫が大和王朝・遠征軍を指揮して、天照大御神・大和王朝を倒すクーデターを計画した宗像氏を征討した。このため、宗像神社は天孫を助け奉(まつ)って斎(いつ)かれることになった神社」と伝えている。
 『古事記』上巻の〔天照大御神と須佐之男命説話の誓約説話〕は「5(五柱)の有力な王と宗像氏の王を加える6人の王たちが、人民を弾圧(だんあつ)して苦しめる天照大御神・大和(邪馬国)王朝を倒さんとしてクーデターを計画したが失敗した。宗像王には七人の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)の子(つまり、配下)がクーデター計画に参加していた。その七人のうちの最後の七番目の建比良鳥命が遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖の建比良鳥命であった」と明記する。
 255258年頃におきたであろう天照大御神・大和王朝を倒すクーデター計画に失敗して、大和王朝への怒りがおさまらない遠江の建比良鳥命は子孫代々「天照大御神・大和王朝の横暴な人民弾圧史」を後世まで正確に残すことができるようにするため、《夏の銀河(文字作成銀河)各部の形状と地宜と、そして【倉頡が発明した漢字作成理論(鳥獣の足跡)】をあらわす1千万坪の大鳥の地上絵》を作製することを決意した。
 この「大鳥の地上絵作製事業」は国家と大和王朝が独占管理して厳重に機密とする【倉頡が発明した漢字作成原理と夏音文字の学芸】を暴露する最大の大罪(たいざい)であった。ゆえに、もちろん、「大鳥の地上絵作製事業」が天照大御神・大和王朝に知られて露見すれば、建比良鳥命の一族全員ただちに死刑とされて抹殺された。しかし、さいわいのことに、遠江は大和朝廷から遠く離れていた。また、大和王朝は不呼国・遠江に住む豪族について脅威を感ぜずほとんど無視していたにちがいない。というのも、倭国の片隅の草深い田舎(いなか)に住む豪族・建比良鳥命が大和の天照大御神と同じく【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字と正確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】に精通する逸材(いつざい)であることは、大和王朝にとっては絶対にありえない可能性がゼロの心配無用のことであったにちがいないからである。
 遠江の豪族の建比良鳥命が【倉頡が発明した漢字作成理論と、夏音文字と、正確な中国海岸線地宜(地図)と、精密地図作製方法】に精通する逸材であり、その建比良鳥命が一族全員死刑となる大罪を犯して「1千万坪の大鳥の地上絵」を作製した事業は、日本上古史における特筆すべき奇跡となった。この奇跡によって――『魏志倭人伝』が記述された【倉頡が発明した漢字作成理論と、夏音文字と、正確な中国海岸線地図と、精密地図作製方法】が科学的に解明できる重大な手段(資料)が現在まで残ることになったからである。

◆遠江の豪族・建比良鳥命の一族は、晩期の近畿式・三遠(さんえん)式銅鐸を[](天頂緯度線・子午線)をキャッチする計測機(道具)に用いて1千万坪の大鳥の地上絵を作製した。1千万の大鳥の地上絵から、現在まで9口の近畿式・三遠式銅鐸が出土している。この出土した9口の近畿式・三遠式銅鐸の製作・使用年代は、研究者たちによって260年頃~290年頃であると推定されている。だから、6人の王たちの天照大御神・大和王朝を倒さんとしたクーデター計画に失敗した直後(260年頃)に、1千万坪の大鳥の地上絵の作製事業は着手されたことになる。
 山尾幸久著『魏志倭人伝』(講談社発行)は「『三国志』の成立は、晋(しん)の武帝の晩年である太康(たいこう)年間(280289)、著者の陳寿(ちんじゅ)が著作郎(ちょさくろう/歴史編纂官)時代という以上には限定できない」と指摘する。
 『魏志倭人伝』は「『三国志』魏書東夷伝末部の倭人伝」の通称である。したがって、『魏志倭人伝』は晋の武帝の晩年である太康年間の280289年に著作されたことになる。
 そうすると、『魏志倭人伝』は280289年に成立し、建比良鳥命の一族が作製した不呼国・遠江の1千万坪の大鳥の地上絵は260年頃から着手して290年頃に完成したゆえ、両者は同時代に作られたことになる。
 『魏志倭人伝』と同時代に作られた建比良鳥命の一族が作製した「1千万坪の大鳥の地上絵」は、途中失われて消滅する危機が幾度かあったが、建比良鳥命の子孫たちの努力によって、現在も、静岡県浜松市北区の細江町(ほそえちょう)の行政区域を表示する地図の形として残っている。
 建比良鳥命の子孫は、1010(寛弘7)武家の井伊家を創設した。井伊家の遠祖が建比良鳥命であったのである。したがって、建比良鳥命を遠祖とする、現在は滋賀県彦根市に居住する井伊家は大和王朝・天照大御神が基礎を築いた皇室と並び立つ、「1千万坪の大鳥の地上絵」の保存に代々努力してまもった名家であった。伊井家の祖の名は共保(ともやす)、二代家督者の名は共家(ともいえ)、三代家督者の名は共直(ともなお)である。この三代家督者・共直から現在の四十一代家督者・直岳(なおたけ)まで、全員の家督者の名には[]の字が用いられる。倉頡は「出産児の頭の4回の回旋」を注目して、「時計回りの90度転回する方位規定」をあらわす[]と、「反時計回りに90度転回する方位規定」をあらわす[]の字を創った。この[][]の字源に共通する「90度=直角状(隅を丸くする角)の転回」を[]とあらわしたのが、井伊家三代から四十一代までの家督者の名につく[]の字の秘密であったのである。
 下に「静岡県浜松市北区の細江町の行政区域を示す、1千万坪大鳥の形をした地図」を配した。この「細江町・大鳥の地上絵」は井伊家の遠祖の建比良鳥命の一族が作製した。
 ゆえに、わたくしは「細江町・大鳥の地上絵」を「建比良鳥の地宜」あるいは「建比良鳥の地上絵」と呼ぶことにした。また、「細江町・大鳥の地上絵」を「卑弥呼の地上絵」とも呼んでいる。
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◆『魏志倭人伝』は、「宗像地方」の小国名は「不弥国」であり、「遠江(静岡県西部)」の小国名は「不呼国」であったと記す。
 不弥国は――「卑弥呼」の[]の字源「カンムリカイツブリの横顔」には相似しない「アカエリカイツブリの横顔」に相似する地宜を有する。
 不呼国は――「卑弥呼」の[]の字源「杭州湾の地宜と鳰」に相似しない、別の[]の字源「息を外()くなりの形(人が息を吐く形)」をした地宜を有する。
 前述したように――「不呼」の「アカエリカイツブリ」の全長は4661センチである。[]の字源の「鳰」の全長は2529センチである。したがって、鳰はアカエリカイツブリの約半分・2分の1の大きさとなる。
 このような「鳰とアカエリカイツブリの大きさの比較」をあらわして、下の図に示したように、「不呼・遠江の国の大鳥の地上絵の頭の大きさ」は、「不弥国のアカエリカイツブリの頭となる津屋崎町の海岸線」の約2分の1の大きさに作製されている。
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 下に示したように、建比良鳥命の一族が作製した1千万坪の大鳥の地上絵は[](天頂緯度線と子午線)をキャッチして経緯度原点(A地点)・滝峯不動尊(たきみねふどうそん)・八幡宮の井戸(浜松市北区引佐町の井伊谷に所在する)3点を結ぶ大三角を基本にして1千万坪の大鳥の地上絵を作製した。
 つまり、A地点を経緯度原点と定めて、同緯度(北緯3448)となる三角本点(滝峯不動尊)を設定し、〔西の経度原点・A地点と東の三角本点・滝峯不動尊を貫通する子午線に対して夏至の太陽の出没角度(29)の邪(なな)めの線が結ばれるもう一つの三角本点・八幡宮の井戸を測量して、大三角形の定点を設置した。このA地点・滝峯不動尊・八幡宮の大三角形を基(もと)に様々な三角形の網や鎖を形作って、設計図どおりに1千万坪の大鳥の地上絵を約30年間費やして完成させた。
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 上記した大鳥の地上絵の作製方法の原理は、現在の日本列島精密測地網測量における経緯度原点(東京都港区麻布飯倉に所在する旧東京天文台の子午儀の中心)を定めて土地三角測量して作製する地図作製方法とほぼ同じといえる。というのも、(1)1分以内の誤差内で精確に測量できる[](天頂緯度線と子午線)をキャッチして経緯度原点を設置し、(2)この経緯度原点から土地三角測量の基となる大三角形となる三つの本点を定め、(3)大三角形の本点を基準にしては三角形の網や鎖を形作れば、設計図とおりの「1千万坪の大鳥の形をした地図」は作製できるからである。

 上の〔1千万坪の大鳥の地上絵の横顔〕は「夏至の日の出の方角(29)」に向く。ゆえに「夏至の日の出の方角」は「夏音文字の学芸」をあらわした。また、「夏至の日の出の方角」は「中国の夏代初頭、帝益の孫の王子一行が日本列島に定住して【正確な中国海岸線地宜(地図)と精密地図作製方法】を教えひろめた」とあらわしている。
 「建比良鳥の地宜の頭」の形は[]の字源「フタコブラクダの横顔」に相似するように設計された。帝益の孫の王子一行は、日本列島の東北地方に定住した。わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の14回で詳細に解説し証明したように、「東北地方北端の下北半島西部」は[]の字源「フタコブラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴ」に相当する。
 下の〔東北地方北端の地宜のイラスト〕に示したように、「フタコブラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴ」は「邪馬」、下北半島に隣接する「陸奥湾」は[](女性の骨盤)をあらわすゆえ、倭女王・卑弥呼が居住した女王国の名称「邪馬壱」をあらわす。
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 だから、「夏至の日の出の方角」を正面とする「フタコブラクダの横顔に相似する、建比良鳥の地宜の横顔」は卑弥呼が居住した「邪馬壱国」をあらわしている。というのも「不呼国」の[]の字源を、『説文解字』は「鳥飛んで上翔し、下り来らざるなり。一に従ふ。一はなお天のごときなり」と解説するゆえ、「邪馬」に『説文解字』の[]の字源解説に登場する[]つまり[]を加えると、「邪馬壱」となるからである。

◆関ケ原合戦の4ヵ月後の1601(慶長6)正月、徳川家康に命令された井伊直政はじめ井伊氏の人々は彦根市の佐和城に入って移住した。この1601年以前に、建比良鳥命の一族・井伊氏の人々が居住していた本拠地は浜松市北区の引佐町(いなさちょう)の井伊谷(いいのや)であった。
 下の図に示すように、「引佐町の金指(かなさし)・井伊谷地区の境界線」は「卑弥呼」の[]の字源「鳰」をあらわして「鳰と浮巣の形をした地宜」となる。[]の字源「鳰」は水草の茎を支柱(しちゅう)として、草の茎や葉などで浮巣をつくる。[]の字源の「杭州湾」の[]の字義「くい」は「浮巣をつくるときの支柱となる水草の茎」を「杭」と解釈するものであった。ゆえに、下の図における上図の金指地区の鳰の嘴(くちばし)は「水草をくわえる嘴」をあらわして、「途中から嘴が切断される形」をもって「杭」が想像できるようになっている。
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 下の図に示すように、建比良鳥の地宜は【1】「東部の両翼を有する大鳥の地宜」、【2】「中央の出産児の姿となる、都田川の沖積平野(ちゅうせきへいや)」、【3】「象の頭と鼻の形に似る地宜」の三区から構成されている。
 【1】「東部の鳥の頭と両翼の形となる境界線」を[]の字源「中国の海岸線」をあらわし、また[]の字源「山東半島の付け根から南北に伸びるカンムリカイツブリの形をした海岸線(地宜)」をもあらわす。前述したように、下の図における右上は上図に示した[]の字源「鳰の横顔と浮巣に設計された引佐町金指と井伊谷」である。
 だから、「建比良鳥の地宜」には[][][]の字源をあらわす「中国海岸線の形」が設計されている。
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 上の図における【3】「象の頭と鼻の形に似る地宜」は、前述した〔「宗像」の解説図〕に加えた「象の姿に似る太湖」をあらわす役目を有する。【3】の「象の頭と鼻の形」は「宗像」の[]の字義「想像」と異なって、「象」と解釈するための設計であった。つまり、「象」は「“想像”の[]ではなく、実際の象の頭と鼻と解釈せよ」とうながしていることになる。
 下の図は、上図の〔卑弥呼の地上絵の三区からなる地宜〕のイラストである。
 このイラストの下部に、【3】の「象の鼻息」で[]の字源「西(時計の針の[9]から北(時計の針の[12])へ向かって時計回りに90度回転する円弧(カーブ)を加えた。
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 上のイラストに示したように「象の鼻息」で「1千万坪の大鳥の地上絵」を時計回りに90度転回すると、下に配する上図となる
 上図の「建比良鳥の地宜」における「細江町の大鳥の頭と両翼の設計部」は[][]の字源を明確にあらわし、「引佐町の金指・井伊谷の地宜」は[呼]の字源をあらわす。
 (注 上図の「大鳥の左翼(下の翼)につながる、支湖の引佐細江」の「引佐」は「引佐町」を指す。ゆえに、「引佐」は[]の字源「引佐町の金指・井伊谷の地宜」をあらわす。したがって、「細江町の大鳥の頭と両翼と引佐細江の地宜」は「卑弥呼」をあらわす)
 だから、「1千万坪の大鳥の地上絵」には、下図に示すように[][][]3字源をあらわす「中国の海岸線の形」が設計されている。
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 以上のごとく、『魏志倭人伝』と同時代に作られた「不呼国・浜松市北区細江町の1千万坪の大鳥の地上絵」は、天照大御神王朝を倒すクーデターを計画した宗像君に参加した不呼国の建比良鳥命が作製した。この1千万坪の大鳥の地上絵には【(1)中国の海岸線地宜と、(2)土地三角測量をして精密地図を作製した方法】を明確に残っている。【中国の海岸線地図と精密地図作製方法】は、帝益の孫の王子がわが国にもたらした。したがって、建比良鳥命が主君とつかえた宗像君が祀る不弥国の宗像神社は帝益の孫の王子・ヒコホノニニギノミコチオを祀る神社であったことになる。

◆宗像神社は、天照大御神の孫の天孫を奉(まつ)り斎(いつ)かれる以前に、帝益の孫の王子・ヒコホノニニギノミコトを祀っていた――この史実を証明できる理由と根拠を列記すると下記のごとくなる。
1】中国は「夏商周断代工程」と名づけた〔中国古代王朝の年代を確定する国家的プロジェクト〕を1996年にスタートし、歴史学、考古学、天文学、科学測定などの専門家たち約200人が4年がかりで取り組んだ。この結果、200011月、中国古代王朝の年代確定事業を進めてきた専門家チームは――紀元前2070年に夏王朝が成立し、夏王朝は紀元前1600年に殷に滅ぼされ、殷は紀元前1046年に周に滅ぼされたという――結論になったと発表した。
 わが国では、後期縄文時代初頭を紀元前2000年頃と推定する。
 だから、夏代(夏后時代)初頭は後期縄文時代初頭であったことになる。
 中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――702年に中国に派遣された第7回遣唐使が中国王朝に「後(のち)、稍(やや)夏音(かおん)を習う、倭の名を悪(にく)み云々」と説明した――という記事がある。この記事は遣唐使が「壬申の乱の後、歴史書(つまり、10年後の712年に成立した『古事記』)を編纂するスッタッフは朝廷の欲求(よっきゅう)を無視して、稍々(やや/少しだけ)夏音文字を習う(復興する)ことにして、天照大御神がおこなった横暴な人民弾圧史を後世に伝えようとしている」とおもわず真相を洩らした――つまり、時の持統(じとう)上皇・文武(もんむ)天皇が伊勢神宮を建造して天照大御神を皇室が最も崇拝する至上神と定める律令政治体制を痛烈に批判する言葉をもらしたことになる。だから、遣唐使は朝廷が即刻に死刑と定めて厳重に取り締まる禁句(タブー)を破るものであったゆえ、持統・文武帝の怒りを畏(おそ)れて「後、稍夏音を習う」という説明不足の意味がアインマイな短いことばで中国王朝に告げたのである。10年後の712年に成立した『古事記』の上巻には〔音〕という注がつく、最古の漢字音である夏音文字が多数記載されている。702年当時は、遣唐使が「後、稍々(少しだけ)夏音(文字)を習う」と思わず漏らしたとおり、歴史書編纂スタッフは『古事記』に少数の夏音文字を復興すると計画していた。しかし、完成した『古事記』には多数の夏音文字を記載され、このブログが歴史を解明した「文字作成銀河の各部の形状と地宜」に変換する方法をもって読解すれば、『古事記』は「大和王朝の基礎を築いた天照大御神・崇神天皇王朝が人民を弾圧して苦しめた歴史を伝える反逆の歴史書」となっていた。ゆえに、『古事記』が反逆の歴史書であることを察知した元明(げんめい)天皇は即座に献呈拒否した。だから、『古事記』は正史となれずに外史(がいし)となったが、真実を伝える貴重な文献であったのである。
 白川静著『字統』が〔わが国の漢字音〕と題して9ページの終わり3行目から10ページの始めの3行目までで「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する。ゆえに、『古事記』上巻に〔音〕という注が付く多数の文字は、中国に現存する最古の漢字音・紀元前1046年の周代初頭の「上古音」よりも約1000年前の夏代初頭の「夏音文字」であったことになる。
 ということは、『日本書紀』神武天皇紀初頭に「天祖」と記述された彦火瓊瓊杵尊(ヒコホノニニギノミコト)は夏王朝初頭の帝益の孫の王子であったと考えるべきことになる。

2】このブログで詳細に解説して証明しているとおり、『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名に用いられる文字や[][][]などの字源・字形・字義から【倉頡が発明した漢字作成理論】を知ることができ、また、わが国は中国から【正確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】を習得したことも明らかとなる。
 このような【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸の習得】は、帝王級の人物が日本列島に定住して教えひろめたという歴史的根拠が必要となる。
 『日本書紀』神武天皇紀初頭に記述された天祖は、帝益の孫の王子であった。ゆえに、わが国は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得したことが事実となる。

3】わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の14回において――『魏志倭人伝』の後半部にある「名称不明の小国・侏儒(しゅじゅ)国・裸()国・黒歯(こくし)国」の記事は「後期縄文時代初頭、名門益氏が日本列島の東北地方に定住した歴史」を伝えていることを詳細に解説して証明した。これゆえ、帝益の孫の王子と若者たちは玄界灘を横断して東北地方に定住して【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を教えひろめたことになる。

4】わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の14回で証明したように――日本列島の東北地方北端の「下北半島・夏泊半島・津軽半島と陸奥湾の地宜」は、卑弥呼が居住した女王国名の「邪馬壱」をあらわす。益氏が定住して【正確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】が教えさずけたからこそ、「東北地方北端の地宜」は「邪馬壱」という語を明示することになった。【正確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】は、すべての中国古代王朝が独占管理して最も厳重な機密にするものであったゆえ、わが国に絶対に教えるはずがない学識であった。だから、この点からしても、帝益の孫の王子が日本列島の東北地方に定住したということは歴史上事実であったことになる。

5】このブログで証明したように、『魏志倭人伝』と同時代(3世紀後半)に作製された「不呼国(遠江)1千万坪の建比良鳥の地宜」には[][][]の字源をあらわす「中国の海岸線の形」が設計されている。ゆえに、名門益氏が日本列島の東北地方に定住したということは確かな歴史上事実であったからこそ、3世紀後半に大和から遠く離れる不呼国・遠江の片隅の草深い田舎に奇跡的な「中国の海岸線の形を設計する、1千万坪の大鳥の地上絵」が作製されることになったことになる。

6】わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の5回で詳細に解説して証明したように――後期縄文時代初頭に作られた国の特別史跡の大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき/秋田県鹿角市の花輪盆地に所在する)の「(1)野中堂遺跡の中心・日時計組石の中心と(2)万座遺跡の中心・日時計組石の中心を結ぶ線」は「夏至の日没方向」を指差す。
 不呼国・遠州の「1千万坪の大鳥の地上絵(卑弥呼の地上絵)における、大鳥の顔の正面」は「夏至の日の出の方向」に向く。
 したがって、野中堂遺跡・万座遺跡の「夏至の日没方向」と「1千万坪の大鳥の地上絵」の両遺跡は「夏至の日の出の方向」は「夏代初頭、帝益の孫の王子が日本列島の東北地方に定住したこと」は歴史上事実であったと伝えている。

7】『説文解字』は[]の字源を「益なり」と解説する。[]の原字(最初の文字)[]である。だから、[]は「益なり」ということになる。遠江の1千万坪の大鳥の地上絵によって[]の字源は「中国の海岸線地宜(地図)」であったと証明される。つまり、五帝時代最後の帝舜(しゅん)の時代に、益氏は中国の海岸線地宜(地図)を作製する「虞()」という重職を代々200250年間も従事したため、[]の字源は「益なり」となったにちがいない。
 だから、「中国の海岸線地図を設計した、遠江の1千万坪の大鳥の地上絵」によって、帝益の孫の王子が日本列島の東北地方に定住したことは歴史上事実であったことになる。

8】宗像大社と福岡県境にある基山(きざん/県立自然公園の草山)は同経度(東経13031)である。宗像大社の真南に基山が所在する。
 司馬遷著『史記』夏本紀には「帝禹()は崩御するとき、天下を益にさずけた。三年の喪()が終わると、帝益は位を帝禹の子の啓(けい)にゆずって、箕山(きざん)の南に隠棲(いんせい)した」という記事がある。
 基山は宗像大社の南に所在し、帝益が隠棲した地の北に箕山が在ったゆえ、基山と箕山は一致しない。しかし、「箕山」の[]と「基山」の[]の原字は共に[]であるゆえ、宗像氏は「基山」を「帝益が隠棲した南の地所」、「宗像市玄海町田島に所在する宗像神社」を「箕山」に見立てて、「帝益が箕山の南に隠棲した歴史」を保存していたことになる。
 だから、帝益の孫の王子の日本列島の東北地方の定住は歴史上事実であったことになる。

9】『魏志倭人伝』には「古(いにしえ)より以来、倭の使(使者)は中国に詣(いた)るに皆、大夫と称す」という記事があり、また魏の景初(けいしょ)二年(238)の六月と十二月の記事には「大夫の難升米」が登場する。
 前述した不弥国の所在地について学術的に詳細に解説し、また〔「難升米」の解説図〕を用いて詳細に証明したように――夏音名(夏音文字の名称)の小国名「不弥」と夏音文字の人名の「難升米(なしめ)」、その5字によって、「難升米」は「不弥国の男王・宗像の君」であったにちがいないことになる。
 夏音文字が記載されている『万葉集』における万葉仮名の「大夫」は「ますらを」と読み、「ますらを」は今日「益荒男」と表記される。「益荒男」は「帝益の孫の王子と若者たちが荒海(あらうみ)・玄界灘を征服した男(おのこ)」を省略した語であったのである。したがって、「大夫」と「益荒男」の語源は「玄界灘を征服して日本列島に定住した天祖・帝益の孫の王子と若者たち」であったことになる。
 ゆえに、玄界灘を征服して中国に到着できた使者たちは皆が皆称した「大夫」は「吾(われ)は天祖・帝益の孫の王子と同じく玄界灘を征服できた」と誇るものであった。したがって、「大夫」は「荒海・玄界灘を往来できる、勇気ある立派な男(おのこ)」と意味することになったのである。
 だから、「大夫の難升米」は「帝益の孫の王子・ヒコホノニニギノミコトを祀る不弥国・宗像君(むなかたのきみ)」であったことになる。ゆえに、宗像神社は、宗像君が天祖・帝益の孫の王子・ヒコホノニニギノミコトを祀る宗廟であったことになる。

◆以上のごとく、帝益の孫の王子と若者たちは荒海・玄界灘を小舟で漕いで征服し、九州の地から北上して東北地方の男鹿半島・米代川(よねしろがわ)文化圏に定住して【(1)倉頡が発明した漢字作成理論と、(2)夏音文字と、(3)正確な中国海岸線地宜(地図)と、(4)精密地図作製方法】を教えひろめたことは歴史上事実であったことになる。
 というのも、【(1)倉頡が発明した漢字作成理論と、(2)夏音文字と、(3)正確な中国海岸線地宜(地図)と、(4)精密地図作製方法】は、中国の夏・殷・周・秦・前漢・新・後漢の各王朝が独占管理して最も厳重な機密にした政権基盤であったゆえ、絶対に外国に教え授ける学識ではなかったはずだからである。このような学識は帝王に即位した氏族、つまり益氏が日本列島に定住して教えひろめたゆえに習得されたと考えるべきことになる。
 益氏が日本列島に定住したゆえに――『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した女王国名を「邪馬壱(やまい)国」と書き記し、また「卑弥呼が天下を治める政権基盤は【倉頡が発明した漢字作成理論】であった」と説明する学術書にして歴史書であったことになる。
 したがって、九州説と畿内説が主張するがごとく、『魏志倭人伝』は倭国の首都が所在した女王国を「邪馬台国」と記すものではなく、また『魏志倭人伝』は「邪馬台国研究」のための史料ではなかった。
 九州説と畿内説は『魏志倭人伝』とまったく無関係の妄想、真っ赤なウソであり、われら日本人にとって何の益(えき)もない・役立たずの空理空論であったのである。

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