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2021年5月30日 (日)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・20

▼「はじめに結論ありき」であった。最初から邪馬台国九州説と畿内説は【科学的根拠の裏付けのまったく無い、誤読の空論】であったのである。
 『魏志倭人伝』は、九州説と畿内説が主張するように「邪馬台国研究」のための史料ではない。卑弥呼が居住した女王国の名は「邪馬台国」ではない。「邪馬壱(やまい)国」と、『魏志倭人伝』は記している。
 このブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が毎回証明してきたように―― 『魏志倭人伝』は【中国では解明できなくなった、漢字の起源の秘密】を理路整然(りろせいぜん)と詳細に説明している貴重にしてきわめて重大な書物であったのである。
 だから、九州説と畿内説は【多数の文献批判という名の誤読・作為・主観】を加えて「『魏志倭人伝』は、邪馬台国研究のための文献料である」と断定した空論であった。
 『魏志倭人伝』に1ヵ所も【文献批判】を加えずに、ただひとすら・いちずに忠実に『魏志倭人伝』の全記事を読解すると、愉快なほど芋(いも)づる式に次から次へと【中国では解明できなくなった、漢字の起源の秘密】が解明できる。
 新井白石(16571725)以来、学者たちは【誤読によりウソ・偽り】を巧みにあやつって「『魏志倭人伝』は【邪馬台国研究】のための史料である」と凌辱(りょうじょく)しつづけている――このような『魏志倭人伝』に対する酷(ひど)い凌辱は、実際に大罪を犯していないにもかかわらず大罪を犯した容疑で死刑が確定された冤罪(えんざい)をもって抹殺(まっさつ)されると同じ仕打ちと言わざるをえない。だから、冤罪で死刑とされて抹殺・消滅されようとしている『魏志倭人伝』に記述された真実、つまり【漢字の起源の真実、世界史的にも重大な抹殺されてはならない真実】は日本人ならば当然まもらなければならない義務であり責務である。
 再度くりかえす――『魏志倭人伝』を全面的に信頼して、ただひたすら・いちずに全記事を忠実に読解すれば、【漢字の起源の実情】が愉快なほどに・どんどん・続々と解明できる。
 だから、九州説と畿内説は『魏志倭人伝』に【文献批判という名の誤読・作為・主観】を多数加えて、【漢字の起源の秘密】を凌辱して抹殺せんとする卑劣きわまりない暴力であったのである。

★「倭人国の地理学」のトリセツ・29

◆『魏志倭人伝』を、ただひたすら・一途に頑固(がんこ)に全記事を忠実に読解すると、【漢字の起源の秘密】が鮮烈(せんれつ)に蘇(よみがえ)る。
 『魏志倭人伝』に記述された真実を知るためには――日本古代史を研究する人々や愛する人々は全員、「わが国が最初に漢字を習得したには5世紀、あるいは6世紀である」という学界の絶対的な定説は、現在、学問的には空理空論である事実を知っていなければならない。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目において、「わが国の漢字音」と題して、次のごとく指摘する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 下に配した〔漢字生長史〕が示すように、現存する最古の漢字音は《わが国が、夏代(かだい)初頭(後期縄文時代初頭)に習得した夏音文字の字音》であった。《わが国が夏代初頭に習得した夏音(かおん)文字は、中国に現存する最古の字音「上古音(じょうこおん)」の始まり・周代初頭》よりも約1000年も前の(古い)、現存する最古の漢字音である。他方、学界が「わが国が漢字を習得したのは5世紀~6世紀である」と主張する絶対的定説の漢字音だと、下に示す〔漢字生長史〕では中国の上古音よりもずっと新しい、最下部に配すべき最も新しい漢字音ということになるため、白川静著『字統』が指摘する西洋の音韻学の学問成果に反する空論ということになる。
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 中国において現存する最古の漢字音は、西洋の言語学・音韻史研究によって、紀元前1046年から始まる周代初頭の「上古音」と解明されている。ゆえに、白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する字音は、【わが国が後期縄文時代初頭(夏代初頭)・紀元前2070年頃~紀元前2050年頃に習得した夏音文字の漢字音】であった。
 この【現存する最古の漢字音の、夏音文字の字音】は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残っている。
 だから、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」と学界が主張する絶対的定説の漢字音は、中国において現存する最古の「上古音」は紀元前1046年の周代初頭よりも約1500年も新しいことになるゆえ、空理空論だったのである。
 冒頭で述べたように――『魏志倭人伝』は「わが国が【夏音文字の学芸】を習得した後期縄文時代初頭、【倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】も共に習得した」と説明していた【漢字の起源の秘密】を詳細に理路整然と説明する文献であったのである。
 『魏志倭人伝』は――今から約5000年前、倉頡がどのように考えて【漢字作成理論】を発明したのか――この【漢字が起源した歴史と事情】を理路整然と詳細に説明していた書物であった。ゆえに、『魏志倭人伝』は【邪馬台国研究】のための書物ではなかった。卑弥呼が居住した女王国の名称は「邪馬壱国」であり――「邪馬壱」は【倉頡が発明した漢字作成原理の核心】を説明する語であった。
 だから、「『魏志倭人伝』は【邪馬台国研究】のための史料である」とメディアを騙しまた大半の日本人を洗脳する九州説と畿内説は、科学的根拠の裏付けのない完全なる空理空論だったのである。

◆『魏志倭人伝』は、下記の二つの記事で「卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、倭国には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した」と説明している。
 この一つ目の記事は、【1】34字で「倭国の易卜(うらない)に用いる辞(ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり紀元前1300年頃の殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅に文字を刻む契文(けいぶん/甲骨文字)のような文字があった」と伝える――つまり、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)には甲骨文字のごとき漢字があったと伝えている。
 また、二つ目の記事は67字で【2】「卑弥呼が文書の用いる漢字(甲骨文字のごとき原初漢字)は魏の都・帯方郡(魏の出張政庁が所在するソウル市付近の地域)・諸韓国が文書に用いる漢字(楷書)と差錯(ささく/相違)していた。このため、倭国の小国・伊都(いと)国の津(港)では、魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と卑弥呼が用いる原初漢字を一字一字点検し確認して正確に変換していた」と伝え、わが国には卑弥呼時代に原初漢字があったと説明する。
 上記した「卑弥呼時代、わが国には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した」と説明する重大な二つの記事は、九州説と畿内説によって抹殺された。だから、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀、あるいは6世紀である」という空論が、現在においても絶対的定説となった。
 ゆえに、「はじめに結論ありき」であった。九州説と畿内説は空論・妄想であったのである。『魏志倭人伝』はただひたすら・いちずに忠実に読解すれば、芋づる式にどんどんと愉快なほどに「【漢字の起源の秘密】、言いかえると【倉頡が発明した漢字作成理論】」が解明できた史料だったのである。

◆中国でもわが国でも「文字」を「漢字」と呼ぶ。「銀河」の別称は「銀漢」であるゆえ「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた。
 この「漢字」の由来に気づいていれば――『魏志倭人伝』は「中国では解明できなくなった、【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然(りろせいぜん)と説明されている書物である」ことが証明されていた。
 「漢字」は銀河(銀漢)の各部の形状から作られた。
 【卑弥呼が用いた夏音文字】はもちろん、【魏都・帯方郡・諸韓国が用いた楷書】もまた同一銀漢から作られた。ゆえに、倭国の伊都国の港では【字源・字形の原形・原義となった銀漢各部の形状】を観察して、夏音文字と楷書を正確に変換していたことになる。
 天文学において「夏の全星座が漬()かる銀河の範囲」を、通称「夏の銀河」と呼ぶ。テレビの画面に時々登場する銀河は、ほとんど「夏の銀河」である。
 倉頡は、天文学で通称「夏の銀河」とよばれる銀河各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論を発明した。『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』にて「夏音文字の字音に用いられた記号となる楷書」も、夏の銀河各部の形状から作られた。
 ゆえに、通称「夏の銀河」を、私は「文字作成銀河」を名づけることにした。
 倉頡が漢字作成理論を発明した「文字作成銀河」の写真を、下に示した。
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 天文学はじめ諸々の学術分野においても、《漢字の字源・字形の原形・原義》を解明できる〔文字作成銀河の各部の名称〕を定めていない。ゆえに、《字源となった銀河=字形の原形となった銀河=原義となった銀河》の解説と証明をする際に非常に不便となるゆえ、私は下図のごとく「文字作成銀河の各部の名称」を定めた。
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◆「文字作成銀河の各部の名称」が存在しなかった事情には、下記に列挙する〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕が密接に関わっている。
 倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れることができる王政をささえる最強・最大・最良の権力基盤であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝は容易に崩壊・滅亡するにちがいないと心配して、下に示す〔三つの死刑と定めた掟〕を定めた。
■倉頡が死刑と定めた三つの掟
1】「文字は銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた」という秘密を暴露した者はその一族全員に神罰を下して即刻に死刑にする
2】多くの文字を容易に覚えるため、銀漢(夏の銀河)各部に名称をつけた者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする
3】書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員もまた神罰を下して死刑にする

 五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)・次の夏代の原初漢字の夏音文字・次の殷代前半の原初漢字は上記した〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕を厳重にまもった。したがって、上記した【3】の掟を厳重にももったゆえ、五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。
 紀元前1300年に出現した殷代後半の甲骨文字においては多数の文字数となったため、いちいち【3】の掟をまもるのが非常に面倒(めんどう)となって守らなくても死刑が免除された。ゆえに、甲骨文字によって始めて【3】の掟は破られたため、甲骨文字を書いた資料が多数出土した。しかし、甲骨文字は【1】と【2】の掟は厳重にまもった。ゆえに、現在の学者たちは「漢字は夏の銀河の各部の形状から作られた秘密」にまったく気づかない。
 また、学者たちは学問の「過去に作られた書物は、真っ先に忠実に読解しなければならない」という初歩的鉄則をまもろうとしない。このため、『魏志倭人伝』が【漢字の起源の秘密】が芋づる式に愉快なほどどんどんと明確となる貴重かつ重大な文献史料であることに気づかなかった。
 「漢字」は《字源・字形・字義・字音の4つの要素》から成立する。
 現在においても、《今から約4000年前にわが国が習得した最古の漢字音を伝える、夏音文字の字源・字形・字義》は(1)《文字作成銀河の各部の形状》と、(2)《中国の海岸線地図》と、(3)《日本列島各部の地図の形》によって成立する。また、《夏音文字の字音》は『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』に楷書を音符にして多数残っている。したがって、「夏音文字」は4つの要素《字源・字形・字義・字音》がそろっているゆえ、「文字」と定義すべきことになる。
 現在、「漢字の最も古い祖型」とされる夏音文字より約750年後の殷代(いんだい)後半に出現した甲骨文字は《字源・字形・字義》の3つの要素がそろっているが、《字音》が不明である。
 このように、4つの要素がそろっていない不完全な甲骨文字を学界は「文字」と定義しているゆえ、4つの要素がそろう夏音文字は、当然、「文字」と定義すべきことになる。
 なお、「甲骨文字」をわがブログでは「契文(けいぶん)」と呼ぶ。

◆前回まで幾度となくわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が繰り返して詳細に解説し証明したように――倉頡は[()]の字を創(つく)って「黄帝の居住地(陝西省黄陵県の黄帝陵近くの地所)から見える地平線より外の、遠くの地域における方位規定を時計回りに90度ずつ転回する」と定めた。
 この[]の字源・字義をそのまま[()][()]の字は受け継いだ。
 だから、『魏志倭人伝』の冒頭記事「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」における先頭字の[]の字源・字義は「本州・日本列島における方位規定は、倉頡が創った[]の字源・字義を受け継いで、時計回りに90度転回する」と定義するものであった。
 現在は、「【1】対馬国(長崎県対馬)と一大国(長崎県壱岐)の地図と【2】本州・日本列島地図における【1】【2】の〔北〕の方位は同じで天の北極がある方角」と定まっている。
 しかし、【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤とした卑弥呼王朝では、【1】と【2】の両者の〔北〕は共に同じ〔北〕ではないと考えていた。つまり、卑弥呼王朝は――【1】対馬国と一大国の〔北〕は現在方位と同じく〔北〕である。しかし、【2】本州・日本列島地理においては、現在方位で〔西〕にある九州は時計回りに90度転回して本州・日本列島の〔北〕に所在し、現在方位で九州の〔東〕に所在する東海地方(愛知県・静岡県)は時計回りに90度転回して本州・日本列島の〔南〕に所在する――と定めていた。
 だから、【2】の[]の字源・字義をあらわす転回方位規定にもとづいて、卑弥呼は国号を「倭人国」と定めた。

[倭]の字源をあらわす〔卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理〕にもとづいて〔前回(19)のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」は、「末盧(まつろ)国・伊都(いと)国・奴()国・不弥(ふみ)国」について解説し証明した。
 〔注 なお、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」では、現在方位と同じ「対馬(つしま)(現在の長崎県対馬)・一大(いちだい)(現在の長崎県壱岐)」についても解説し証明した〕。
 『魏志倭人伝』は「末盧国より東南へ陸行五百里にして、伊都国に至る」、「伊都国より東南へ百里して奴国に至る」、「奴国より東へ百里行くと不弥国に至る」と説明する。
 下の〔転回方位による九州各小国の旅程基点図〕に示すように、「末盧国の旅程基点は長崎県松浦市、伊都国の旅程基点は松浦市の東南にある福岡県糸島(いとしま)市前原(まえばる)町、奴国の旅程基点は前原町より東南にある福岡県福岡市の香椎宮(かしいぐう)、不弥国の旅程基点は香椎宮より東方にある福岡県宗像(むなかた)玄海町田島(たじま)の宗像大社であった」、この事実を――前回までのブログで、『魏志倭人伝』は[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」で各小国の旅程について記述するものであった事実を証明した。
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◆『魏志倭人伝』は「不弥国から南の投馬(つま)国に至るには水行で二十日」、また「投馬国より南、邪馬壱国に至る。女王国の都(みやこ)する所なり。水行十日・陸行一月」と説明する。
 下に配した〔[]の字源にもとづく、卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理〕に則(のっと)ると――不弥国の宗像(むなかた)の神湊(こうのみなと)から宗像大社の沖津宮が所在する沖ノ島に到着し、沖ノ島から山口県の萩(はぎ)市の見島(みしま)、見島から山口県の荻港までの水行(航行)による旅程」は、『魏志倭人伝』に「不弥国から南の投馬国に至るには水行二十日」と記述されたと考えられる。ゆえに、不弥国の宗像大社より[]の字源「転回方位規定」で「南」となる「萩港」が「投馬国」の旅程基点となる。
 「萩港から出雲の意宇(おう)郡に所在したであろう、卑弥呼が居住した宮殿までの旅程」を、『魏志倭人伝』は「水行十日・陸行一月」と記述したと考えられる。ゆえに、投馬国の旅程基点・萩港から[]の字源「転回方位規定」で「南」となる出雲国の意宇郡が邪馬壱国の旅程基点となる。
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 『魏志倭人伝』には、5世紀の裴松之(はいしょうし)の注がある。この注は「倭では春の耕作時を一年、秋の収穫時も一年と計っている」、つまり「今日の一年を二年と数えた」と説明している。ゆえに、『魏志倭人伝』の「不弥国から投馬国までの、水行二十日」という記事は「現在暦だと、不弥国から投馬国までは航行で十日の距離である」と説明していたことになる。同様に、『魏志倭人伝』の「投馬国から邪馬壱国までは、水行で十日・陸行一月」は「現在暦だと、投馬国から邪馬壱国にある卑弥呼の宮殿所在地に到着するまでは航行で五日・陸を歩いて半月かかる」と説明していたことになる。
 卑弥呼が居住する女王国・邪馬壱国は日本海側の山陰地方(旧国の石見・出雲・伯耆)であった。ゆえに、九州沖の玄界灘から山口県・投馬国沖の響灘(ひびきなだ)を通過して日本海へと進入すれば、投馬国の萩港に到着するまでの日数は『魏志倭人伝』が「水行二十日(現在の十日)」と記述するほど掛からないはずである。
 しかし、前述したように、『魏志倭人伝』は卑弥呼が政権基盤とした【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明する書物であった。このため、【倉頡が発明した漢字作成理論】の基本字となる倉頡が創った[]の字源・字義をそのまま受け継ぐ[]の字源・字義に関する説明を省略するわけにはいかなかったゆえ、魏に送付された卑弥呼が書いた文書には「沖ノ島に立ち寄る旅程」が書かれていた。だから、不弥国の神湊から投馬国の萩港までの旅程には「沖ノ島に到着して、さらに幾日か過ごす日数」が加わることになって――「不弥国の宗像市の神湊から、宗像大社の沖津宮が祭られる沖ノ島、沖ノ島から投馬国の見島、見島から投馬国の萩港に到着するまでの、長い遠回りの経路」すなわち「水行で二十日(現在の十日)かかる経路」が、『魏志倭人伝』には記述されることになったにちがいない。

◆前述したように、【A】「対馬国・一大国における〔南北〕と相違し、【B】対馬国・一大国より遠く離れる東海地方(愛知県・静岡県)や北陸地方(富山県・石川県)までを含む本州・日本列島地理では[]の字源となった「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
 つまり、上に配した〔卑弥呼王朝が制定した転回本州・日本列島地理〕が「倭人国」の[]の字源をあらわした。だから、「末盧国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国・邪馬壱国の旅程記事における方位」は、上に配した〔卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理における方位規定〕にすべて合理となって、合致する。
 『魏志倭人伝』の小国記事は【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明する史料であった。このため――「不弥国から投馬国に至るまでの水行二十日」という記事は「対馬国・一大国から遠く離れる東海地方や北陸地方までを含む本州・日本列島地理における方位規定の[]の字源【時計回りに90度転回する方位規定】をもって【倉頡が発明した漢字作成理論】があらわされることになった。これゆえ、宗像大社の沖津宮が所在する沖ノ島に立ち寄る経路は単に旅程を説明するものではなく、【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤とした〔卑弥呼が立論した転回日本列島における緯度基準地となった沖ノ島〕について説明が加えられたのである。
 つまり、上の〔卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理〕の左側に配したように、玄界灘に浮かぶ沖ノ島と伊豆諸島の神津島(こうづしま)は同緯度(北緯3415)である。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の8回でも詳細に解説したように――人類は原始のときから、頭脳に[](天頂緯度線と子午線)をキャッチして精確に緯度測定できる本能がそなわり、日々鍛錬して1度の60分の1の、1分の緯度差を測定できる神秘的な眼力を有することができた。だから、この神秘的な呪力(じゅりょく)によって、一団を組んで食料を求めて眼力を鍛錬しながら移動した原始の生活にあっても、「道に迷った! 位置(緯度)も方角もまったくわからない! 死ぬ!」というようなパニック状態におちいることなく、人類は天頂にめぐってくる銀河周辺の形状を地理の代わりにして[]をキャッチして緯度と方角を測定してたくましく巧(たく)みに生存した。
 今から約5000年前の五帝時代に生存した倉頡は【[]のキャッチ】の基(もと)に【漢字作成理論体系】を構築(こうちく)した。
 卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)においても、沖ノ島が所在する大海・玄界灘を命を失わずに往来する方法は【[](天頂緯度線と子午線)のキャッチ】のみ一つであった。また、太平洋に浮かぶ伊豆諸島の神津島を命を失わずに往来する方法も【[]のキャッチ】のみ一つであった。
 だから、卑弥呼時代、【[]のキャッチ】によって、日本列島に西端にある沖ノ島と東端にある神津島は同緯度(北緯3415)であると測定できた。そして、上記したように、倉頡は【[]のキャッチ】を基(もと)に【漢字作成理論体系】を構築し、卑弥呼王朝は【倉頡が発明した漢字作成理論】は絶対に無視してはならない絶対的に神聖かつ崇高な権威であった。だから、【[]のキャッチ】と【倉頡が発明した漢字作成理論】によって本州・日本列島の〔東〕は90度転回して〔南〕と定める転回地理基点となった、【神津島と同緯度と測定された沖ノ島に立ち寄る、長く遠回りの経路】の説明を省略することはできなかったのである。
 前回のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の19回で詳細に解説し証明したように、『魏志倭人伝』(280289年に成立した)と同時代の260年頃~290年頃に作製された「不呼国・遠江(現在の静岡県西部)」に現存する「1千万坪の大鳥の地上絵(現在の静岡県浜松市北区の細江町の行政区域を表示する地図の形)には「正確な中国の海岸線地図」が明確に示されている。
 これから始める解説には、現在の日本列島地理の方位に則(のっと)る。
 中国の北部海岸線地域は冷たい気候区であり、中国の南部海岸線地域は暖かい気候区であるゆえ、〔北冷南暖〕となる。日本列島の西端にある沖ノ島は冬に雪が降る冷たい気候区であるが、日本列島の東端にある亜熱帯の神津島は一年中暖かい気候区であるゆえ、〔西冷東暖〕となる。
 下に配した「中国の〔北冷南暖〕と倭の〔西冷東暖〕の図」に示したように――中国の北部海岸線地域と日本列島西端の沖ノ島の気候は共に冷たいゆえ、〔中国の北冷=日本列島の西冷〕となる。中国の南部海岸地域と日本列島東端の神津島の気候は共に暖かいゆえ、〔中国の南暖=日本列島の東暖〕となる。この考えにもとづくと、日本列島西端の沖ノ島は中国海岸線地域の北部に在り、日本列島東端の神津島は中国海岸線地域の南部に所在する。だから、下に図示したように、日本列島は[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」を示して、本州・日本列島の〔東〕にある東海地方は〔南〕に所在することになった。
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 倉頡は「イネ()や麦。五穀」を字義とする[()]の字を創って「方位は時計回りに90度転回する」と定理した。[][]が加わって[()]となり、人偏(にんべん)[]が加わって[]となった。夏音文字の[][]の字は、倉頡が創った[]の字源・原義をそのまま受け継いで「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
 ゆえに、『魏志倭人伝』の「不弥国から投馬国までは水行二十日で到着する」という「沖ノ島に立ち寄って、さらに幾日か沖ノ島で過ごす日数を加えたにちがいない」――この「水行二十日(今日の十日の航行)」という記事は、卑弥呼王朝が最も神聖視する【[]の字を創った倉頡が発明した漢字作成理論における重大な要素】を説明するものであったのである。したがって、「沖ノ島」の説明を省略することができなかったのである。
 だから、『魏志倭人伝』は「邪馬台国研究」のための史料ではなかった。『魏志倭人伝』は、卑弥呼王朝の政権基盤【倉頡が発明した漢字作成理論】を説明する史料であったのである。

◆「投馬国」と「邪馬壱国」の両国名において、共に[]の字を有する。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の4回の中半部から、また前回(18)のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の後半部から解説したように――【倉頡が発明した漢字作成理論】は倉頡伝説では「鳥獣の足跡」と名づけられた。倉頡は「牛」と「馬」を「鳥獣の足跡(漢字作成理論)」の「獣」、つまり「鳥獣の足跡」を象徴する聖獣と定めた。
 []の字源・字形・字義は「ジャコウウシ」、[]の字源・字形・字義は「フタコブラクダ」である。わが国には「牛・ジャコウウシと、馬・フタコブラクダ」は生息していない。ゆえに、『魏志倭人伝』は「倭地には牛と馬は無い(生息していない)」と記述する。
 だから、わが国に生息せず、生態も詳しくない「牛・ジャコウウシ」と「馬・フタコブラクダ]を意味する字を小国名に用いた事情は、卑弥呼王朝の政権基盤は【倉頡が発明した漢字作成理論】であったからにほかならない。【倉頡が発明した漢字作成理論】においては、「牛・ジャコウウシ」と「馬・フタコブラクダ」を欠くことができない聖獣であった。
 倉頡がつかえた黄帝は「女性の生殖器官と子どもの出産」を研究した。倉頡が漢字を発明する目的は【黄帝が研究した「女性の生殖器と子どもの出産」の研究】をあらわすことができる文字を作成することであった。倉頡は「女性の骨盤と骨盤がその大半を包囲してまもる生殖器官」を「牛・ジャコウウシ」に見立て、「骨盤入口から膣口(ちつこう)までの産道を通過する出産児」を「馬・フタコブラクダ」に見立てた。これゆえ、[]は「女性の骨盤と生殖器官」を意味し、[]は「出産児」を意味することになった。

 ゆえに、「投馬国」の[]は「出産児」を意味した。「投馬国」は、「現在の山口県」、旧国の「長門(ながと)と周防(すほう)」であった。
 下に配した「山口県・投馬国の地宜」は「馬・フタコブラクダの横顔」に相似する。この観点からも、「山口県」の小国名には[]の字が付くことになった。
 下に配した上図は、転回方位にもとづく投馬国の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)である。下図は現在方位にもとづく投馬国の地宜である。

出産が始まる時は「出産第一期・開口期(かいこうき)」と名づけられ、次は「出産第二期・娩出期(べんしゅつき)」と呼ばれる。
 ――出産第一期・開口期において、陣痛(じんつう)が始まると、子宮口(しきゅうこう)にむかった卵膜(らんまく)は羊水(ようすい)によってふくらみ、くさび状に子宮頚管(しきゅうけいかん)をひろげ子宮口が開いていき、出産児()の頭はしだいに押し下げられてくる。子の頭は骨盤産道にはいりこみ、骨盤産道の形に応じて向きを変えていく。正常分娩の場合には、骨盤入口の上では子のアゴを胸につけた姿勢で、子の背中は母体の左または右にある。中ほどにくると子の頭は斜(なな)め後ろの(母体の背側)に顔を向け、出口では顔をすっかり後方(母体の背側)に向ける姿勢となる。開口期の終わりには、ほぼこの状態となる。
 上記した「出産児、つまり馬(フタコブラクダ)が骨盤入口の上では出産児()がアゴを胸につけた姿勢」は、下の二図の「投馬国の地宜」に相似すると見立てられた。
 だから、「山口県」の小国名には[]の字がつくことになったのである。
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 激しい痛みの陣痛に耐え、汗と涙でグショグショとなって命がけの戦いに勝利して子ども()を出産させる母体は「ひたすら、早く愛しいわが子に会いたい」と願うゆえ、「アゴに胸につけた姿勢の子()が強い力で投げられる弾丸にように一気に生まれよ」と必死に願う。ゆえに、「山口県の地宜」は母体の「わが子()よ、おなかから分離して投げる弾丸のようになって勢いよく生まれよ」という必死の願いをあらわしているということで、卑弥呼は小国名を「投馬国」と定めたと考えられる。
 上に配した〔投馬国の地宜解説図〕の上図における旧国名の「長門」つまり「長い門」は、『魏志倭人伝』が「不弥国から投馬国に至るに水行二十日かかる」と記述する「沖ノ島回りの遠く長い航行の港の門」が「萩港」ということで「長門」と名づけられたのであるまいか。
 下図における旧国名の「周防」は「天敵のオオカミに襲われると、子どもを真ん中に隠して[]のジャコウウシの群れが円陣を組む、その円陣が周(たて/盾)となって防備する」と意味するものであったにちがいない。アゴを胸につけた姿勢の出産児のごとくに、周()となるジャコウウシは前肢(ぜんし)で地面をたたき、頭をアゴにつけて低い姿勢となり、襲ってくるオオカミをオスが角(つの)でひっかけ肩越しに投げとばし、他のジャコウウシがオオカミをふみつぶして殺す。「投馬国」の[]には「ジャコウウシが出産児のごとくアゴを胸につける低い姿勢となって角でオオカミを投げとばして命がけの戦いに勝つように、母親がわが子をおなかから弾丸のごとく投げ飛ばして命がけの戦いに勝利する」と意味するものであったと考えられる。
 投馬国・山口県南部の周防灘と響灘(ひびきなだ)を結ぶ関門(かんもん)海峡は、出産児()が通過する狭い産道に相似する海峡である。関門海峡の古称は「馬関海峡」であった。ゆえに「馬関海峡」の[]は「投馬国」の[]であり、また「出産児」を意味したにちがいない。馬関海峡の東部(現在方位にもとづく)の早鞆(はやとも)付近は最強の8ノットの潮流が流れ、せまい馬関海峡は交通の難所である。「鞆(とも)」は「弓を射るとき、左手につけ、弓の弦(いと)が手首をうつのを防ぎ、また弦音(げんおん)を高く鳴らすのに用いる皮製の具」である。ゆえに、「早鞆」という交通の難所はその「最強の8ノットの潮流」で「弦音高く射る矢のごとく早く走る馬(フタコブラクダ)」を譬(たと)えるものであったにちがいない。だから、「早鞆」は「母体のおなかから分離して、投げられた弾丸のように狭い産道を一気に通過する出産児・馬の様子」をあらわしていることになる。

◆『魏志倭人伝』に最初に登場する「対馬国」を「一番目」と数えると、七番目が「投馬国
となり、八番目が「邪馬壱(やまい)国に至る、女王の都(みやこ)する所なり」と記述される女王国となる。したがって、九州説と畿内説が断定するように、『魏志倭人伝』は女王国の名を「邪馬台国」と記していない。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の11回はじめ幾回においても解説して証明したように、「邪馬壱国」は「現在の島根県と鳥取県西部、旧国の石見(いわみ)・出雲・伯耆(ほうき)」という大きな範囲であった。
 倭女王・卑弥呼が住む宮殿が所在した「邪馬壱国の中心」は「山陰出雲(現在の島根県東部)」であった。
 上記した〔卑弥呼王朝が制定した転回本州・日本列島地理〕で定理された[]の字源をあらわす「転回方位規定」にもとづく卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の古代出雲の地宜は――下記のごとくであった。 
 下の〔古代出雲の地宜〕の左上には「神門水海(かんどのみずうみ)」がある。[]の字源「転回方位規定」にもとづくと、神門水海の東隣となる出雲大社が所在する周辺地域の地宜「親の馬・フタコブラクダの横顔」に相似すると見立てられた。これゆえ、「神門水海」は「親の馬・フタコブラクダが鼻でなでる子の馬・フタコブラクダ」に見立てられた。
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 下に配するように、「神門水海」は「緯度線と経度線に邪(なな)めとなる、馬・フタコブラクダの姿」に相似する。だから、「神門水海」は[][]つまり「邪馬」をあらわした。
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 下の図に示したように、黄帝と倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代初頭、前掲した〔文字作成銀河各部の名称図〕の左上にある「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」が中国全土の天頂にめぐってきた。わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」にて幾回ともなく解説し証明したように、「十字の銀河」は[]「フタコブラクダ」の字源であった。「鬼の横顔に似る銀河」には「目が四つある」ゆえ、「鬼の横顔に似る銀河」は「倉頡」に見立てられた。ゆえに、倉頡伝説は「漢字は銀河から作られた」と伝えるために「四つ目の、鬼の横顔に似る銀河」にもとづいて「倉頡」は「四つ目の怪人・倉頡」と呼ばれた。そして「四つ目の怪人、倉頡」に見立てられた「鬼の横顔に似る銀河」は[]の字源となった。ゆえに、「倭国」の正式名「倭人国」の[]の字源は「四つ目の、鬼の横顔に似る銀河」であると考えられる。
 「十字の銀河の子宮(に相当する銀河)」は[]の字源・字形・字義となった。さらに詳細にいうと、「十字の銀河の子宮周辺」は「牛・ジャコウウシ」に見立てられた「女性の骨盤と、骨盤がその大半をつつんでまもる女性生殖器」に見立てられて、[]の字源・字形・字義となった。
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 下の図に示したように、古代の宍道湖(しんじこ)は「膝(ひざ)から下の足の形」に相似し、その「足の爪先(つまさき)」は転回方位の〔西〕を指差した。したがって、「足の形に似る、宍道湖」は上に示した「十字の銀河の右足(西側の足)」に相当すると見立てられた。上記したように、[]の字源となった「十字の銀河の子宮」は「女体の姿に相似する、十字の銀河の右足」の東側に隣接する。
 ゆえに、「十字の銀河の右足」に見立てられた「宍道湖の東岸(転回方位)」と接する佐太(さだ)神社が所在する「島根半島の中央部」が「十字の銀河の子宮」が在る箇所に見立てられて[]をあらわす地宜となった。
 したがって、「山陰・出雲」の「神門水海」が「邪馬」をあらわし、「島根半島の中央部」が[]をあらわすゆえ、女王国名の「邪馬壱」をあらわすことになった。
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 上の図の下部に示すように、[]の字源「十字の銀河の子宮」に見立てられた「島根半島の中央部の〔南〕から転回方位規定「時計回りに90度転回する」と〔西〕となる地域は、「意宇(おう)平野」言いかえると「出雲国内で最大の郡の、意宇郡」であった。
 733(天平5)に、国造(くにのみやつこ)出雲臣広嶋らに『出雲国風土記』は編纂され、ほぼ完全な形で残った唯一の風土記である。『出雲国風土記』の国引き神話では、「意宇郡」の地名の起源は――出雲国は狭いため、八束水臣津野命(やつかもずおみつぬのみこと)が新羅(しらぎ)や北陸などの国の余りに「綱打ち掛けて、霜黒葛(しもつづら)くるやくるやに、河船のもそろもそろに、国来国来(くにこくにこ)と引いてきた」。それが島根半島といい、国引きの綱は薗(その)の長浜と弓ガ浜であり、土地を繋ぎとめた杭が三瓶山(さんべさん)と大山(たいさん)といわれる――と伝えている。
 このような国引き神話の説明は、意宇郡に所在した倭女王・卑弥呼が居住した王宮が所在した歴史を懐かしむ心情をあらわしたものにちがいない。だから、「南→西」となる「意宇郡の一画」に『魏志倭人伝』に「婢千人を侍(はべ)らせ、ただ一人の男子が飲食を給仕し、女王の辞(言葉)を伝えるために出入りしている。女王の宮殿には、樓観(ろうかん/見張りやぐら)や城柵(じょうさく)が厳重に設けられ、そこには常に兵器を持った人が守衛している」と記述された――卑弥呼が住んだ王宮が所在したと推定される。

◆前述したように、「出産第一期・開口期の初めから出産第二期・娩出期終わりまでにおける、出産児の頭の回転」を、産婦人科では「回旋(かいせん)」と名づけている。回旋は4回おこなわれる。第1回旋は「時計回りに90度回旋」し、第2回旋と第3回旋は「反時計回りに90度回旋」する。第4回旋は「時計回りに90度回旋」する。
 倉頡は「出産児の第1回旋と第4回旋」の「時計回りの90度の回旋」をヒントにして「時計回りに方位が90度転回する方位規定」をあらわす[()]を創った。また「第2回旋と第3回旋」の「反時計回りに90度の回旋」をヒントにして「反時計回りに90度転回する方位規定」をあわす[()]の字を創った。
 倉頡が創った[]の字は「稲や麦。穀物。五穀豊穣」を意味することになり、また「人民の胃袋を食料で満たすという政治スローガン」」をあらわした。
 []の下に[]が加わって[()]となり、人偏(にんべん)[]が加わって[]の字となった。[][]の字は、[]の字源・字義をそのまま受け継いで「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわすことになった。
 西暦180年頃、若き卑弥呼は本州・日本列島の地理は[]の字源・字義を受け継ぐ[]の字源・字義「時計回りに90度転回する方位規定」にもとづけば――【四つ目の怪人の、倉頡が発明した漢字作成理論】が理路整然(りろせいぜん)と説明できる転回本州・日本列島地理を立論して、倭国の大乱を平定した。〔注 前掲した〔卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理〕が、卑弥呼が倭国の大乱を平定した地理である〕。
 倉頡は「4回の回旋がおこなわれる、出産児の頭の回旋」をヒントにして、[]の字を創った。
 下に示すように、「出産児の頭」の5枚の頭蓋骨(後頭骨・2枚の頭頂骨・2枚の前頭骨)は重ね合わせることができる仕組みになっているゆえ、狭い産道をくぐりぬけることができる。この「出産児の頭蓋骨の重ね合わせることができる機能(きのう)」を、産婦人科では「広形(こうけい)機能」または「骨重積(こつじゅうせき)」と呼ぶ。
 後で解説するが、下図に示す「出産児の頭蓋骨」における「小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)」は「邪馬」という語をあらわし、[]の字源は「骨盤と産道」であった。ゆえに、「出産第一期・開口期から出産第二期・娩出期おわりまでの出産児の頭蓋骨と、骨盤・産道」は女王国名の「邪馬壱」をあらわした。
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◆下に配する「倉頡」に見立てられた「四つ目の銀河における、鬼の後頭部とアゴにつく両目から人の横顔に酷似(こくじ)する銀河の前頭部まで」の、太線で表示した箇所は「邪馬壱の銀河」となる。つまり、太線で表示した箇所は上図に示した「出産児の頭蓋骨における小泉門・矢状縫合・大泉門の形をした銀河」ということになる。
 下の図における太線で示した「小泉門・矢状縫合・大泉門の形となる銀河」は「邪馬」をあらわすゆえ「邪馬の銀河」となり、「邪馬の銀河」は[]の字源の「骨盤と産道」をあらわすことになるゆえ、「邪馬壱の銀河」ということになる。
 注目すべきは、《黄帝時代の黄帝陵の天頂緯度線(北緯3536)》が「邪馬壱の銀河の大泉門と小泉門に相当する箇所の北部」を撫()でるがごとく貫通していることである。
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 前掲した〔産道を通過する時の出産児の頭蓋骨図〕に示したように、「出産児の頭蓋骨」は「縦長(たてなが)」である。
 下に示したように、[]の字源となる「縦長の出産児の頭がくぐりぬける、女性の骨盤入口は横長(よこなが)の楕円形」である。
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 出産第1期・開口期において、骨盤入口は横長の楕円形に対して、からだのなかでいちばん大きな出産児の頭(児頭)の形は横長であるゆえ、児頭が骨盤入口をくぐりぬけるためには、骨盤入口では児頭は横向きになって骨盤入口に入る。しかも入口部は骨盤内でいちばん狭い空間であるので、通常(正常分娩の場合には)、赤ちゃんはアゴを胸につける姿勢(注 つまり、前述した「投馬国の地宜に見立てられた姿勢」)となり、児頭は屈曲して後頭部の小泉門が先進して時計回りに90度回旋する。これが「第1回旋」と呼ぶ。
 骨盤出口面は縦長であるゆえ、出産児は横向きからしだいに正面・縦向きへ方向を変えながら、下降する。この過程を「第2回旋」という。第1回旋(横向き)から第2回旋(縦向き)へ回る角度は反時計回りの90度である。第2回旋が終了した時点で子宮口(しきゅうこう)はすっかり開く全開大(ぜんかいだい)となる。第3回旋は反時計回りになって出産児を娩出(べんしゅつ)することになり、出産児は反屈して恥骨(ちこつ)をくぐりぬけるように児頭から娩出する
 最後の第4回旋は第1回旋と同じく児頭は時計回りに90度回旋して、頭が誕生した児はすぐに呼吸をはじめ声をあげる。この頭の誕生が、出産第二期・娩出期の終わりとなる。

 下に〔馬・のフタコブラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴの図〕を配した。
 下図に示した「馬・フタコブラクダが草をモグモグと食べる鼻の動き」は「産道を通過する出産児の小泉門の動き」にソックリであり、「草を食べるフタコブラクダの上アゴの動き」は「産道を通過する出産児の頭頂骨の動き」に酷似し、「草を食べるフタコブラクダの口の動き」は「産道を通過する出産児の大泉門の動き」に実によく相似し、「草を食べるフタコブラクダの下アゴの動き」は「産道を通過する出産児の前頭骨の動き」に相似する。
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 つまり、「産道をくぐりぬける出産児の頭蓋骨の5枚の骨の結合はゆるく少し重なる仕組みとなる。このため、「5枚の骨と小泉門・矢状縫合・大泉門の動き」は「草をモグモグと食べる時のフタコブラクダの上アゴと下アゴが合わずに食い違って邪(なな)めとなって動く様子」に酷似する。ゆえに、「草を食べる時に邪めとなる馬・フタコブラクダの鼻・アゴ・口の動きの形状」が「邪馬」となり、[]の字源「出産児がくぐりぬける産道」も加わって、「邪馬壱」という語になった。
1】だから、女王国名の「邪馬壱」は、産婦人科の用語「広形機能(こうけいきのう)・骨重積(こつじゅうせき)」を表現するものであった。
2】だから、「投馬国」と「邪馬壱国」の解説で証明したように、[]の字は「フタコブラクダ」と「出産児」を意味することになった。
3】「馬・フタコブラクダ」はわが国では生息しない・生態をよく知らない馴染みのない獣であった。しかし、【倉頡が発明した漢字作成理論】を説明する学術において必要不可欠の聖獣であったゆえ、倭国の小国名には[]の字が使用されることになった。
 九州説と畿内説が断定するように、『魏志倭人伝』は女王国の名を断じて「邪馬台国」と記していない。『魏志倭人伝』は女王国の名を「邪馬壱国」と記している。この「邪馬壱国」の国名に用いられた【邪馬壱】という語は、倉頡が創った[][]の作字ヒントになった「4回の回旋がおこなわれる、出産児の頭蓋骨の機能」をあらわしている。
 したがって、九州説と畿内説は科学的根拠の裏付けがまったく無い、傲慢(ごうまん)な単純化から生まれた戯言(たわごと)・妄想であったのである。『魏志倭人伝』は九州説と畿内説が断定するような「邪馬台国研究」の史料ではなく、『魏志倭人伝』は深えんなる銀河の神秘と深えんなる生命の神秘を合体して誕生した【学問、倉頡が発明した漢字作成理論】を説明する学術書にして歴史書であったのである。

 『魏志倭人伝』の末部で「卑弥呼は以(すで)に死す。大いに冢(ちょう)を作る。径百余歩(円墳の直径が約150メートル)」と記述する卑弥呼の陵墓も山陰出雲の地所に築造されたと推定できる。この「卑弥呼の陵墓」の解説が、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の12回で詳細に解説し証明したゆえ、このブログでは解説と証明を省略する。

◆『魏志倭人伝』に最初に登場するは「対馬国」を「1番目」と数えると、8番目国は「邪馬壱国」、9番目国は「斯馬(しま)国」、10番目国は「巳百支(じはき)国」、11番目国は「伊邪(いや)国」である。この斯馬国・巳百支国・伊邪国の詳細な解説と証明も、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の12回にておこなった。
 このブログでは12回との重複をさけて、斯馬国・巳百支国・伊邪国の位置と範囲について結論的に簡潔に説明することにする。
 9番目の「斯馬国」は「旧国の因幡(いなば)と但馬(たじま)、現在の鳥取県東部と兵庫県北部」であったことになる。
 下の図に示したように、邪馬壱国の旧国・伯耆(ほうき/現在の鳥取県西部)に隣接する因幡における、現在の鳥取市にはわが国最大の砂丘地帯「鳥取砂丘」が所在する。「鳥取砂丘」から「ゴビ沙漠に生息する馬・フタコブラクダ」が連想できる。「但馬」の[]の字源は「フタコブラクダ」である。「斯馬国」の[]の字を、『説文解字』は「柝()くなり」と解説する。この「柝くなり」という解説は「母体がおなかから柝く(出産児を分離する)」と意味する。前述したように、[]は「出産児」を意味した。ゆえに、前述した「投馬国」の「投馬」と同様に、「斯馬」は「母体がおなかから弾丸のように一気に赤ちゃんを投げ出して出産(誕生)する」と意味することになる。下の「斯馬国(旧国の因幡・但馬)の地宜」が示すように、転回方位にもとづく「但馬南部の地宜」は「母体から分離して投げ出された出産児の頭」のような形をしている。
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 下の図に示すように、斯馬国の但馬に隣接する「丹後(たんご/現在の京都府北部)」が10番目の「巳百支国」であった。
 下の図が示すように、「丹後の地宜」は[]の古代字形に相似する。[]の字義は「ヘビ()」であるゆえ、[]の字は「出産児の大きな頭が狭い産道につっかかって前へ進められなくならないように、ヘビ()のようにくねらせてくぐりぬける」と意味したにちがいない。
その証拠に、「大きな出産児の頭に見立てられる丹後半島」に対して「出産児の胴体に見立てられる丹後半島の付け根から大浦半島の付け根までの地宜」は「狭い産道をヘビのごとく身をくねらせる形」となる。「巳百支国」の[]は「阡陌(せんはく)」の[]の原字と考えられる。[阡陌][]は「南北」、[]は「東西」を意味する。しかし、転回方位規定によって[]は「東西」、[]が「南北」に入れ代わることが多発することになった。この[][]の「経度(南北)[]の「緯度(東西)」の入れ代わりの原因は、「出産児が縦長()の頭を横長(])の骨盤入口に合わせて横長()となる」であったからである。ゆえに、「巳百支」の[]は「出産児の縦長の頭を横長の骨盤入口に合わせて横向きになる状況」をあらわした。「巳百支」の[]は「丹後半島の付け根となる東岸にある天橋立(あまのはしだて)は宮津湾(みやづわん)と阿蘇海(あそかい)の東西に支(わか)れる状況」をあらわした。
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11番目の「伊邪国」は「霧の丹波(たんば)」と呼ばれて有名な「旧国の丹波、現在の京都府中部と兵庫県一部」であった。下の図に示すように、9番目の斯馬国と10番目の巳百支国の両小国の南(現在方位)に隣接して、11番目の伊邪国がある。
 「伊邪国の地宜」は「女性の骨盤の正面形の輪郭(りんかく)の概略の形」となる。これゆえ、「伊邪国の地宜における女性の骨盤入口の大きさ」は「斯馬国の地宜における出産児の頭の大きさ」よりも「巳百支国の地宜における出産児の頭の大きさ」よりも大きい。
 だから、上記したように「斯馬国と巳百支国の地宜」は「せまい産道をくぐりぬける出産児の姿に相似する」と見立てられたことになる。
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 下に配した二図が示すように、「伊邪国の地宜」は「女性の骨盤の正面形の輪郭の概略形」に類似する。
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 白川静著『字統』は[]の字について「尹(いん)は神杖(しんじょう)をもつ形で、神意(しんい)を媒介(ばいかい)する聖職の人をいう」と解説する。
 「十字の銀河」は「聖職の人がもつ神杖」に見立てられ、「鬼の姿に似る銀河」が「神杖をもつ聖職の人」に相当する。
 下図に示すように、「鬼の姿に似る銀河の東部」は「鬼の横顔に似る銀河」である。「鬼の横顔の銀河」には「顔の両目と、後頭部と下アゴの両目の四つの目」がある。ゆえに、「鬼の横顔に似る銀河」は「四つ目の怪人・倉頡の銀河」ということになる。
 それゆえ、「鬼の横顔に似る銀河」は「【倉頡が発明した漢字作成理論】に精通した聖職の人、つまり学者」に見立てられたことになる。だから、4番目の「伊都国」と11番目の「伊邪国」という小国名に共通する[]は「【倉頡が発明した漢字作成理論】に精通した人(学者)」を意味したことになる。
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 『古事記』上巻の〔天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約説話〕は――須佐之男命と天照大御神は「不戦の誓い」を結ぶとき、「偽りのない純粋な心で誓いあう霧吹き儀式」をおこなった。しかし、その気(純粋な心で誓いあう気)がない天照大御神に須佐之男命は欺(あだむ)かれて「不戦の誓い」を結ぶことができなかった。このとき、天照大御神王朝を倒さんと計画していた5人の王の渾名(あだな)を須佐之男命は天照大御神に迂闊(うかつ)にも告げ、また天照大御神は須佐之男命が知らなかった宗像君もクーデターを計画していると告げた。この後、天照大御神王朝は孫の天孫の時代まで執念ぶかくクーデターを企てた5人の王たちの渾名から本名を察知して征討しあるいは懐柔(かいじゅう)しあるいは畏怖(いふ)させ、また不弥国の宗像君を征討して、大和王朝が代々栄える基礎を築いた――と伝えている。
 「須佐之男命が天照大御神とおこなおうとした、偽りのない純粋の心で誓うときにおこなう霧吹き儀式」を、『古事記』は――天之真名井(あめのまない/狭い谷川の天頂の銀河が映る井(箇所)の鏡のように清く澄んだ水面)の水を、佐賀美邇迦美て(さがみにかみ/この夏音文字の6字は「邪馬壱」つまり馬・フタコブラクダが草をモグモグと食べるがごとく噛みに噛んで)、吹き棄()つる気吹之狭霧(いぶきのさぎり/霧吹き儀式して吐いた霧)――と表現する。
 上に配した〔「伊邪・霧吹きの銀河」の解説図〕において、[]の字源「十字の銀河」より邪(なな)めの箇所にある「四つ目の銀河、鬼の横顔に似る銀河」は[]の字義に合致する。上図に示したように、[]の「鬼の横顔に似る銀河」が「谷川の水を口に含んで噛みに噛んで吐き出した霧吹きとなる箇所の銀河部」が「霧」をあらわす。
 だから、「伊邪国」は「霧の丹波」であった。

◆上記した「伊邪」の語源となった「霧吹き儀式」は、次の12番目国の「都支(たき)国」の「都支」の語源が「子宮」、つまり「胎児が宿る、子宮における出来事」を解明するために必要な知識(学識)となる。また、「都支国」の〔[]の字の秘密の解明〕には、前述した「巳百支国」の[]の「宮津湾と阿蘇海が東西に支(わか)れる様子」が重要なヒントとなる。
 以上のごとく、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が証明してきたように、卑弥呼は前後の小国名の由来が密接に関連しあって、全小国名が理路整然と説明できる仕組みにし、さらに各小国名は【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究】に集約できる仕組みにした。この仕組みは現代医学にあって「大脳の記憶情報は大脳の全体にひろがっていて局所ではない」と説く現代のホログラフィーの科学論に似ている。
 以上のごとく、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】が理路整然と説明される書物であって、新井白石以後約300年もつづく九州説と畿内説が主張するような「邪馬台国説研究」のための史料ではなかった。
 よって、「はじめに結論ありき」であった。九州説と畿内説は最初から空理空論だった。白石以後300年間、九州説と畿内説を主張する学者たちは『魏志倭人伝』に記述してある事実を削除(さくじょ)して、記述していない事柄をさも記述してあるかのごとく捏造(ねつぞう)するという――学問において絶対にやってはいけない考え方を強行して日本国民を欺(あざむ)いている。
 『魏志倭人伝』は全記事が正確に事実を記述した書物であった。この『魏志倭人伝』に対して、いわゆる邪馬台国説という意見は詐偽(さぎ/虚偽)の産物、聞くに堪()えられない屁理屈(へりくつ)と戯言(たわごと)であったのである。

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