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2021年5月 6日 (木)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・17

▼邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説の両説の実体は空理空論である。学界とメディアは九州説と畿内説は最も正しい意見と推奨するが、箸(はし)にも棒にもかからない役立たずのデタラメ・空理空論である。
 九州説と畿内説は「『魏志倭人伝』は倭人国の首都が所在した女王国の名称を“邪馬台国”と記述する」と主張する。ゆえに、九州説と畿内説は『魏志倭人伝』を「邪馬台国研究」のための史料であると断定する。このため、学界もメディアも九州説と畿内説にまんまと騙されて『魏志倭人伝』は「邪馬台国研究」のための文献史料であると思い込む。
 しかし、『魏志倭人伝』は「倭人国の首都が所在した女王国」の名称を「邪馬壱(やまい)国と記す。だから、『魏志倭人伝』はもとより「邪馬台国研究」のための書物ではない。
 『魏志倭人伝』は〔漢字の起源の秘密〕を詳細に的確に伝える貴重な文献であった。
 したがって、九州説と畿内説に騙されて正しいと信用してはいけない。九州説と畿内説を空理空論と断定して――3世紀後半(280年~289年)に著作された『魏志倭人伝』をただひたすら・いちずに全記事を忠実に読解すれば〔漢字の起源の秘密〕が愉快なほどにおもしろく・芋づる式に続々と解明することができる。
 おそらく漢字が起源した中国では〔漢字の起源の秘密〕を解明することができないであろう。でも、わが国では『魏志倭人伝』の全記事をひたすら・いちずに忠実に読解すれば〔漢字の起源の秘密〕を解明することができる。多分、『魏志倭人伝』は〔漢字の起源の秘密〕が具体的に正確に解明できる唯一残った貴重な文献史料であると考えられる。
 九州説と畿内説は『魏志倭人伝』に【「文献を批判」という作為(さくい)・主観】を多数加えるが原因で、〔漢字の起源の秘密〕を解明・証明することができない。
 前回(16回)のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」で詳細に具体的に証明したように、『魏志倭人伝』に記された女王国「邪馬壱国」の「邪馬壱」の3字には〔漢字の起源の歴史〕が秘められていた。


★「倭人国の地理学」のトリセツ・26

◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が毎回のごとく、したがって14回・15回・前回(16)でも繰り返して解説し証明してきたように――約2039字で構成される『魏志倭人伝』は、そのうち約1100字・55パーセントの記事で「後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)、わが国に【夏音(かおん)文字の学芸】に伝来し習得したとき、【紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)であった倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】も共に習得した」と説明している。
 この1100字のうちの76字の記事をもって、『魏志倭人伝』は「わが国は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した」と説明する。この76字の書き下し文は下記のごとくである。
 「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)倭種なり。又、侏儒(しゅじゅ)国有り。其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺。女王を去ること四千余里。又、裸()国・黒歯(こくし)国有り。復()た其の東南に在りて船行一年にして参問至る可()き。倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(周旋)五千余里可(ばか)り。」
 つまり、上記の記事は「紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、“夏の始祖”の禹()帝の後を継いだ益帝の孫の王子と若者たち一行が中国から渡来し、わが国の東北地方の男鹿半島・米代川(よねしろがわ)文化圏に定住して東北地方から関東地方まで【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を教えひろめた」と伝えていた。
 日本列島の東北地方に定住した益氏は、五帝時代最後の舜(しゅん)帝の時代に[()]という重職を任命されて代々約200年間、正確な中国の海岸線地図の作製に従事し、精密地図作製方法を開発した。この名門・益氏の定住によって、後期縄文時代初頭に正確な中国海岸線地図と精密地図作製方法をも習得されることになった。

◆【漢字の作成理論】は、紀元前3000年頃に倉頡によって発明された。
 『魏志倭人伝』は、下記の二つの記事で「卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、わが国には原初漢字・夏音文字が存在した」と説明していた。
 この二つの記事は、【1】34字で「倭国の易卜(うらない)に用いる辞(ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり紀元前1300年頃の殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅に文字を刻む契文(けいぶん/甲骨文字)のような文字があった」と伝える――つまり、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)には甲骨文字のごとき漢字があったと伝えている。
 また、『魏志倭人伝』には67字で【2】「卑弥呼が文書の用いる漢字(甲骨文字のごとき原初漢字)は魏の都・帯方郡(魏の出張政庁が所在するソウル市付近の地域)・諸韓国が文書に用いる漢字(楷書)と差錯(ささく/相違)していた。このため、倭国の小国・伊都(いと)国の津(港)では、魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と卑弥呼が用いる原初漢字を一字一字点検し確認して正確に変換していた」と伝え、わが国には卑弥呼時代に原初漢字があったと説明する。
 しかし、上記の二つの記事は、九州説と畿内説にとって不都合であるため、両説は徹底的に無視し排除する。また、上記の二つの記事は学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀、あるいは6世紀である」と断定する定説に反する。ゆえに、九州説と畿内説は最初(はな)からまったく信用せずに徹底的に無視し排除する。
 しかし、「わが国が最初に漢字を習得したには5世紀、あるいは6世紀である」という学界の定説は、現在、学問的に空理空論となる。
 というのも、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目において、「わが国の漢字音」と題して、次のごとく指摘しているからである。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 中国において現存する最古の漢字音は、西洋の言語学・音韻史研究によって、紀元前1046年から始まる周代初頭の「上古音」と解明されている。
 だから、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」と学界が主張する定説の漢字音は、中国において現存する最古の上古音(紀元前1046年の周代初頭)よりも、明らかに新しい(1500年も新しい)。したがって、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」という定説は、白川静著『字統』が指摘する学問成果(音韻史研究)を無視する、虚偽説・空理空論であったのである。
 白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する字音は、【わが国が後期縄文時代初頭に習得した夏音文字の漢字音】であった。この【夏音文字の字音】は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残っている。
 したがって、『魏志倭人伝』に「倭国には原初漢字があった」と記述された、上記した二つの記事は「わが国は後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した歴史」を伝えていたことになる。
 これゆえ、『魏志倭人伝』は〔漢字の起源の秘密〕が解明・証明できる文献であったのである。というのも、『魏志倭人伝』は「倭女王・卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤と定めて天下を治めていた」と説明する書物であったからである。

◆中国でもわが国でも「文字」を「漢字」と呼ぶ。「銀河」の別称は「銀漢」であるゆえ「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と称されることになった。
 【卑弥呼が用いた夏音文字】はもちろん、【魏都・帯方郡・諸韓国が用いた楷書】もまた同一銀漢から作られた。ゆえに、倭国の伊都国の港では【字源・字形の原形・原義となった銀漢各部の形状】を観察して、夏音文字と楷書を正確に変換していたのである。
 現存する最古の漢字音を伝える「夏音文字」の[]は、天文学で通称「夏の銀河」と呼ばれる「夏の全星座が所在する銀河の範囲」いいかえると「夏に最も長時間観察できる銀河の範囲」をあらわしている。
 倉頡は、今日、天文学で通称「夏の銀河」とよばれる銀河各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論を発明した。『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』にて「夏音文字の字音に用いられた記号となる楷書も、夏の銀河各部の形状から作られた。
 ゆえに、通称「夏の銀河」を、私は「文字作成銀河」を名づけることにした。
 倉頡が漢字作成理論を発明した「文字作成銀河」の写真を、下に示した。
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 天文学はじめ諸々の学術分野においても、《漢字の字源・字形の原形・原義》を解明できる〔文字作成銀河の各部の名称〕を定めていない。ゆえに、《字源となった銀河=字形の原形となった銀河=原義となった銀河》の解説と証明をする際に非常に不便となるゆえ、私は下図のごとく「文字作成銀河の各部の名称」を定めた。
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 「文字作成銀河の各部の名称」が存在しなかった事情には、下記に列挙する〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕が密接に関わっている。
 倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れることができる王政をささえる最強・最大・最良の権力基盤であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝は容易に崩壊・滅亡するにちがいないと心配して、下に示す〔三つの死刑と定めた掟〕を定めた。
■倉頡が死刑と定めた三つの掟
1】「文字は銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた」という秘密を暴露した者はその一族全員に神罰を下して即刻に死刑にする
2】多くの文字を容易に覚えるため、銀漢(夏の銀河)各部に名称をつけた者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする
3】書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員もまた神罰を下して死刑にする

 五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)・夏代の原初漢字の夏音文字・殷代前半の原初漢字は上記した〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕を厳重にまもった。したがって、上記した【3】の掟を厳重にももったゆえ、五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。
 紀元前1300年に出現した殷代後半の甲骨文字においては多数の文字数となったため、いちいち【3】の掟をまもるのが非常に面倒(めんどう)となって守らなくても死刑はじめ刑罰を与えなくても良いことになった。ゆえに、甲骨文字によって始めて【3】の掟は破られたため、甲骨文字を書いた資料が多数出土した。しかし、甲骨文字は【1】と【2】の掟は厳重にまもった。ゆえに、現在の学者たちは【1】「漢字は夏の銀河の各部の形状から作られた秘密」にまったく気づかず、学者たちは「夏の銀河の各部は夏のどの星座よりも明確な形を有するにもかかわらず、なにゆえ名称が存在しないのか?」と疑問を抱かない。
 これゆえ、学者たちは『魏志倭人伝』が〔漢字の起源の秘密〕を具体的に的確に後世に伝える貴重かつ重大な文献史料であることに気づかない。

◆中国には、「漢字は倉頡が発明した」と伝える、下記のごとくの伝説がある。
 「太古、黄帝の時代に、倉頡が鳥獣の足跡をもって、はじめて文字を創り、古来の結縄に易()えたので、天は祝福して禾(か/穀物)を降らせ、感泣(かんきゅう)する声が夜な夜な空に聞こえたという。」
 倉頡によって文字(漢字)が発明された。これゆえ、三皇時代の包犧氏・女媧(じょか)氏・神農(しんのう)氏の三氏族の歴史は【倉頡が発明した漢字】によって後世に伝えられることになった。だから、天に昇った包犧氏・女媧氏・神農氏の先祖たちの霊魂は銀河輝く夜な夜な感激して泣いて慈雨(じう)を降らして禾(五穀豊穣)をもたらした。この状況を――倉頡伝説は「倉頡が鳥獣の足跡をもって、はじめて文字を創り、古来の結縄(易卜に用いる記号)に易()えたので、天は祝福して禾(か/穀物)を降らせ、感泣(かんきゅう)する声が夜な夜な空に聞こえたという」と表現した。
 上記した倉頡伝説に登場する「鳥獣の足跡」は【倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわす名称である。しかし、学者たちは「鳥獣の足跡」を「鳥や獣の足跡をヒントにして漢字を作った」と誤解する。
 上記の倉頡伝説を、学者たちは「事実を伝えていない。漢字は長い歴史の中でしだいに発展して多数作られたものであることは、現代では常識と言ってよい。だから、一個人が漢字を発明したというのは歴史的事実ではなく、倉頡伝説は中国における古くから数多く伝えられる聖人創造伝説の一つにすぎない」と否定する。
 しかし、『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は歴史的事実を伝えていた」と証明される。言いかえると『魏志倭人伝』によって――倉頡は銀漢(夏の銀河)の各部の形状を字源・字形・字義とする漢字を発明した。倉頡以後に作られた全(すべ)ての漢字は倉頡の発明に則(のっと)って銀漢各部の形状を字源・字形・字義と定めた。ゆえに、【銀漢から作られた文字】を略して【漢字】と称されることになった事実――と、証明される。

◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の2回で解説したように、「歳差(さいさ)」という天文現象を利用すると、黄帝と倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代初頭における中国全土の天頂にめぐってきた銀河を算出して知ることができる。
 五帝時代初頭、下に示すように――わたくしが「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた銀河が中国各地の天頂にめぐってきた。
 〔注 「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は上記した「文字作成銀河各部の名称」の左上にある〕。
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 上図の下部に指摘したように「鬼の横顔に似る銀河の、横顔」には「二つの目」があり、「鬼の横顔に似る銀河の後頭部とアゴ」にも「二つの目」があるゆえ、「鬼の横顔に似る銀河」は「四つ目の銀河」ということになる。したがって、上記した倉頡伝説の説明文には記載しなかったが――倉頡伝説では「倉頡」の異名を「四つ目の怪人」と伝える。学者たちは「四つ目の怪人・倉頡」という表現に対して「人間には目が四つ無い! だから倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)だ」と反応して――「倉頡伝説は歴史的事実ではない」と断定する。しかし、上図に示したように――倉頡が生存した黄帝時代、中国の全土各地の天頂に「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」がめぐってきた。だから、倉頡伝説では「倉頡」に見立てられた「鬼の横顔に似る銀河」を「四つ目の怪人・倉頡」と表現することにしたのである。
 前述したように、【倉頡が発明した漢字作成理論】を倉頡伝説では「鳥獣の足跡」と称した。【倉頡が発明した漢字作成理論=「鳥獣の足跡」】の「鳥」は、下の図が示すように「鳥の姿に似る、女性の生殖器の側身形」を意味した。
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 そして、黄帝時代の中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」は[]の字源となった。[]の字源・字形・字義は「フタコブラクダ」であった。ゴビ沙漠に住む人々にとって、[]の字源となった「フタコブラクダ」は生活に欠くことができない大切な家畜である。フタコブラクダは位置も方位も茫漠(ぼうばく)としたゴビ沙漠を往来しても道に迷わない。ゆえに、天頂緯度線をキャッチして位置と方位を測定して命をまもっていた黄帝時代の人々は《フタコブラクダは精確に天頂緯度線をキャッチできる優れた眼力を有する》と憧れた。
 「フタコブラクダの両目は顔の両端にある」と同様に「第7週頃の胎児の両目も顔の両端に離れている」。また、「フタコブラクダの睫毛(まつげ)は長い」と同様に「子ども(乳児)のつぶらな目の睫毛も長い」。
 だから、【倉頡が発明した漢字作成理論】の名称「鳥獣の足跡」の「獣」は[]の字源・字形・字義の「フタコブラクダ」であった。
 『魏志倭人伝』には「倭地には牛と馬が無い(生息していない)」という記事がある。[]
の字源・字形・字義は「ジャコウウシ」であり、[]の字源は「フタコブラクダ」であった。
 []の字源「ジャコウウシ」は「天敵のオオカミに襲われるとジャコウウシの群れは子どもを真ん中に隠し、円陣を組んで防衛した。ゆえに、司馬遷著『史記』五帝本紀にある黄帝の説明記事には「師兵(しへい)を以(もっ)て営衛(えいえい)と為()す」という記事があり「黄帝軍は駐屯(ちゅうとん)するとき、軍兵たちは円陣を組んで自衛した」と伝えている。黄帝軍の兵士たちは「襲撃するオオカミに対して、子どもを真ん中に隠して円陣を組んで防衛するジャコウウシの習性」に習って、駐屯するときに円陣を組んでいたのである。
 「母体の子宮に宿る胎児(たいじ)」は「円陣の真ん中に隠すジャコウウシの子ども」に見立てられ、「女性の生殖器の大半を包囲して子宮に宿る胎児の命を衛(まも)る骨盤」は「ジャコウウシの群れが組む円陣」に見立てられた。
 つまり「子どもが出産するとき、母体に定期的に反復しておこる子宮の収縮による痛み」を「陣痛(じんつう)」というのは、「円陣の真ん中に子どもを隠すジャコウウシの群れの習性」が語源であったことになる。
 だから、[]の字源・字形・字義となった「ジャコウウシ」は「女の生殖器の大半を包囲する骨盤」に見立てられた。ゆえに、「ジャコウウシ」もまた【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣(せいじゅう)となり、「鳥獣の足跡」という名称の[]をあらわした。

◆下に示す「十字の銀河」の東隣の「黄色くきらめく砂粒のような無数の星が群がる、三つ輪の銀河」は「月の光が照らして黄色く輝くゴビ沙漠」の情(イメージ)に類似する。ゆえに、「十字の銀河」は「ゴビ沙漠に生息するフタコブラクダ」に見立てられた。
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 したがって、「三つ輪の銀河」は「ゴビ沙漠」に見立てられ、「十字の銀河」は「フタコブラクダの側身形」に見立てられて、「十字の銀河」は[]の字源銀河・字形銀河・字義銀河となった。だから、[]の字源・字形・字義は「フタコブラクダ」であった。
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 下の図に示すように、「長崎県対馬の上県(かみあがた)の地宜」を、卑弥呼は「フタコブラクダの正面形」に類似すると見立てた。「長崎県対馬の下県(しもあがた)の地宜」を、卑弥呼は「沙漠を歩くのに都合(つごう)のよい、丈夫(じょうぶ)な足の指を有するフタコブラクダの足底・足跡の形」に見立てた。だから、「長崎県対馬の上県・下県の地宜」は「馬・フタコブラクダの姿と足跡の形との一対となる」ゆえ、卑弥呼は「一対」の[][]を加えて「長崎県対馬」の小国名を「対馬国」と定めた。
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「対馬国」と小国名において[]の字を先頭字にした理由は、「鳥獣の足跡」という名称における「足跡」を重視して、卑弥呼は「長崎県対馬の下県の地宜」を「ラクダの足跡」と見立てたからと考えられる。
 『魏志倭人伝』は「対馬の南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」と記述する。
 この記事が示すように、卑弥呼は「長崎県対馬と長崎県壱岐(一大国)の中間の海」を「瀚海」と名づけて、「長崎県対馬の上県・下県の地宜」は「馬・フタコブラクダの姿と足跡の形」と解釈できるように工夫(くふう)して、卑弥呼は「【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」】を政権基盤にして倭人国を統治する」と表明した。というのも、「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味し、「馬・フタコブラクダは瀚海・ゴビ沙漠」に生息するからである。
 『魏志倭人伝』に記載される「対馬国」「投馬国」「邪馬壱国」「斯馬国」「邪馬国」などの5ヵ国の小国名に用いられる[]の字源・字形・字義はすべて「フタコブラクダ」である。

◆「瀚海」は「ゴビ沙漠」を表示するとともに、「ゴビ沙漠」の南にある「毛烏素(ムウス)沙漠」をも連想するための仕掛けであった。つまり、瀚海の南の「長崎県壱岐・一大国の地宜」を[]の字源「ジャコウウシ」に見立てるようにして、卑弥呼は「長崎県壱岐(一大国)・壱岐より南の大海・玄界灘」を「瀚海の南にある毛烏素沙漠」に見立てることができるようにしたのである。
 下に「対馬国・瀚海・一大国・玄界灘の地図」を示した。
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 冬の玄界灘はジャコウウシが生息した凍原・ツンドラのごとく厳寒の地となる。
 ゆえに、卑弥呼は「一大国・玄界灘」を「瀚海・ゴビ沙漠より南にある毛烏素沙漠と黄帝の居住地の近くのツンドラ(凍原)」に見立てるようにした。つまり、卑弥呼は「禾(小麦)を収穫する秋が終わると、黄帝の居住地北方の毛烏素沙漠がある地平線から百頭以上のジャコウウシが犇(ひし)めいて一団となる、その幾組の群れが黄帝の居住地近くの凍原にある餌場(えさば)へ目指して出現した壮大な光景」が連想できるようにするため――対馬国と一大国の中間の海を「瀚海」と命名して【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」】をもあらわすことにしたのである。
 ジャコウウシは有史以前には北半球の寒帯に生息していた。しかし、紀元前3000年頃になると、多くの地方で絶滅したとされる。紀元前3000年頃の黄帝時代、黄帝が居住したと推定される陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)の黄帝陵周辺地域から北方の毛烏素沙漠は冬になるとツンドラと化してジャコウウシの生息地となり、黄帝陵の近くの凍原は摂食地(せっしょくち/餌場)となってジャコウウシの大群で占拠された。
 「ジャコウウシ」は[][][][][][][][][][][][]などの[]の部首を有する文字の字源となり、また「円陣を組んで衛る習性」から「防衛」の[]の字源となり、また「祭祀に用いる時の最も理想的な犠牲(いけにえ)」とされたうえに黄帝時代以後には黄帝陵近くの凍原ではジャコウウシが去って絶滅することになったゆえ、「ジャコウウシ」は「たたり」を意味する[(すい)]または[(じゅつ)]の字源・字形・字義となった。
 下の図に示すように、「長崎県壱岐の地宜」は[]字形に類似するということで、卑弥呼は「十字の銀河の子宮」に見立てた。
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 2世紀初頭に成立した“字書の聖典”と呼んで古代の人々が尊重した『説文解字(せつもんかいじ)』は[]の字源を「至高(しこう)にして上なし。一大に従ふ」と解説する。このように、『説文解字』は、下に示した[]の字源解説図における「十字の銀河の子宮」を「一大に従ふ」と解説した。
 これゆえ、卑弥呼は「壱岐の地宜」を「十字の銀河の子宮」に類似すると見立て、『説文解字』の[]の字源解説の「一大に従ふ」と同じく、「十字の銀河の子宮」を「一大」と解して「長崎県壱岐」の小国名を「一大国」と定めたことになる。
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 下に、「現在方位にもとづく一大国・壱岐の地宜」を示した。「一大国・壱岐の西端の地宜」は[]の字源「フタコブラクダの姿」に相似し、「一大国・壱岐の大半の地宜」は[]の字源「ジャコウウシの姿」に相似する。 
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 上図の「現在方位にもとづく一大国・壱岐におけるジャコウウシの姿に似る地宜におけるウシの顔」は南の玄界灘や伊都国のほうへ向く。ゆえに、「一大国におけるジャコウウシの姿に似る地宜」は「南の玄界灘や伊都国に向かって前進するジャコウウシの大群」に見立てられることになる。したがって、「冬になると季節風で海・玄界灘が荒れて厳寒となる九州海岸線地域の末盧国・伊都国・奴国・不弥国」を、卑弥呼は「乾燥した寒風で荒れ狂う吹雪の中をジャコウウシの大群が突き進んで到着する、風で雪が吹きとばされた地表が露出した餌場(摂食地)がある地域一帯」に見立てたことになる。
 ゆえに、『魏志倭人伝』には「一大率(いちだいそつ)を伊都国に配置した」という記事がある。「一大率」の「一大」は「一大国(壱岐)」と[]の字源「骨盤・子宮・産道などの、女性の生殖器」をあらわす。白川静著『字統』は[]の字形を「糸をしぼる形。糸束の上下に小さな横木を通し、これを拗()じて水をしぼる形で、麻糸などを作るときの作業であろう」と解説する。したがって、「一大率」の[]は「水にぬれる糸束を捩じってすっかり水をしぼったがごとく、雨が降らない日々が長らく続く乾燥した寒風吹きすさぶジャコウウシの大群で占拠された摂食地がひろがる地域一帯の状況」をあらわしていることになる。このような[]の字義をあらわすために、「昼間は水気が無い乾燥した状況にして、夜になるとツンドラ(凍原)のごとく一気に冷え込んで厳寒となる瀚海(ゴビ沙漠)」が必要となった。だから、卑弥呼は長崎県対馬と同県壱岐の中間の海を「瀚海」と命名したのである。

 下に示す「一大国・壱岐の地図の形」は「時計回りに90度転回する一大国・壱岐の地宜」である。ゆえに、「一大国の一部分の地宜」は「フタコブラクダの顔やコブの形」に相似し、「一大国の大半の地宜」は「ジャコウウシの姿」に相似すると解釈できる。
 前述したように、「子どもを真ん中に隠して円陣を組むジャコウウシの群れの習性」は「胎児が宿る子宮を包囲する骨盤。あるいは女性の生殖器の大半を包囲する骨盤」に見立てられて[壱]の字源・字義となった。だから、「一大国」の旧国名は「壱岐」というように[壱]の字が付く。
 下の「転回方位」にもとづく「一大国・壱岐の地宜」は「春になると、黄帝の居住地近くの餌場(えさば)となった凍原に集結した幾組から成るジャコウウシの大群がしだいに北方の毛烏素沙漠、さらに北の瀚海へ向かって去ってゆく光景」に見立てられたことになる。
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 上図の右側に配した「転回方位規定」は「現在方位の〔西〕を時計回りに90度転回して〔北〕と変位する」ゆえ、[()][()][()]の字源・字形・字義をあらわした。つまり「対馬国は一大国の北、一大国は対馬国の南に在る」のに対して、「対馬国・一大国より遠く離れる、末盧(まつろ)国以下の本州日本列島地理における方位は時計回りに90度転回して〔西〕の九州が〔北〕となり、〔東〕の東海地方(愛知県・静岡県)は〔南〕となる」と、卑弥呼は定理したことになる。
 『魏志倭人伝』の冒頭記事「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」における先頭字[]の字は――日本列島・本州の〔東〕は〔南〕となる、つまり時計回りに90度転回して〔東〕の東海地方は〔東〕ではなく〔南〕となる――と説明していたことになる。

◆黄帝は東洋最古の医学書『内経』を作ったと伝わる。黄帝の医学研究のテーマは「ヒトの命の研究」、つまり「女性の生殖器と子どもの出産」であった。
 これゆえ、倉頡が漢字を発明する目的と動機は【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の研究】をあらわすことができる文字を考案することであった。
 だから、【黄帝の医学研究における核心】は「縦長の出産児の頭蓋骨が母体の横長の骨盤入口をくぐりぬけると頭を回旋(かいせん)しながら産道を通過する、まるでこの世に命(いのち)が湧き出るがごとく誕生する、〈涙が思わずでるほど心ゆさぶられて感動的な神秘的なハイライトシーン〉」ということになった。このような「出産児の頭蓋骨の機能」を、産婦人科では「広形機能」または「骨重積(こつじゅうせき)」と称する。この「出産児の頭蓋骨の骨重積によるハイライトシーン」は、倭人国の首都が所在した女王国の名称「邪馬壱」という語をあらわした。
 つまり、下図における「出産児の頭蓋骨における、小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)の形」は、左側に示すように「邪馬」をあらわす。
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 上図における「出産児の頭が骨盤入口をくぐりぬけ、次に子宮口(しきゅうこう)がすっかり開いて出産児がせまい産道を通過する時の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門・後頭骨・頭頂骨・前頭骨の各部分が重ね合わさって動く形状」は、下の図に示した「草をモグモグと食べる時の馬・フタコブラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴの各部分が邪(なな)めとなる形状」にソックリとなる。だから、「出産する時の赤ん坊の頭蓋骨の形状」は「邪馬」となり、「骨盤・産道」は[]の字源であったゆえ、卑弥呼は「邪馬壱」という語であらわすことにした。
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 そして、下の「対馬国・一大国の地図」が示すように、「上県の地宜が馬・フタコブラクダの姿に相似し、下県の地宜がフタコブラクダの足跡に相似する長崎県対馬の地宜」は「緯度線・経度線に邪(なな)め」となるゆえ、「邪馬」となる。そして、前述したように「長崎県壱岐の地宜」は[]の字源「十字の銀河の子宮・女性の子宮」に見立てられた。また「長崎県壱岐の地宜」は[]の字源「女性の骨盤」をあらわす聖獣「ジャコウウシの姿」と[]の字源「産道をくぐりぬける出産児の頭蓋骨の形状」をあらわす聖獣「フタコブラクダの姿」に相似する。だから、「対馬国・一大国」もまた倭人国の首都が所在した女王国の名称「邪馬壱」をあらわした。
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 わが国には【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」】を象徴する聖獣「ジャコウウシとフタコブラクダ」は生息していなかった。ゆえに、倭人たちにとって「ジャコウウシとフタコブラクダ」は小国名に用いても馴染めない、無関係の獣であった。しかし、卑弥呼にとって「【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の研究と倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を政権基盤にして天下を治める」と表明するために、「ジャコウウシとフタコブラクダ」が必要となった。だから、上の地図が示すように、対馬国と一大国の中間の海を卑弥呼は「瀚海(ゴビ沙漠)」と名づけて、「対馬国と一大国の地宜はジャコウウシとフタコブラクダの姿に相似すると見立てることができる」と解釈できるようにしたのである。

◆出産児における「邪馬壱」は「横長(よこなが)の楕円形の母体の骨盤入口」を「縦長(たてなが)の出産児の頭蓋骨がくぐりぬける状況」から始まる。
 下に、「横長の楕円形の性(母体)の骨盤の入口の図」を配した。
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 「邪馬壱」の語源となった「母体の子宮口が開く出産第一期・開口期(かいこうき)から産児の頭が誕生する出産第二期・娩出期(べんしゅつき)終わりまでの児頭の回旋(かいせん)の様子」について――インターネット・ブログで出力した医療法人翔光会の産婦人科にしじまクリニック(埼玉県富士見市)は「赤ちゃんの進み方、回旋を知る」と題して、下記のごとく説明している。この説明を要約し、この要約に〔出産第一期・開口期と出産第ニ期・娩出期〕という注を加えると、次のようになる。
 ――骨盤の入口は横長の楕円形に対して、からだの中でいちばん大きな赤ちゃんの頭(児頭)の形は縦長であるゆえ、児頭が骨盤入口をくぐり抜けるためには、骨盤入口では児頭は横向きで入る。しかも入口部は骨盤内でいちばん狭い空間であるので、通常(正常分娩の場合には)赤ちゃんはアゴを胸につけた姿勢となり、児頭は屈曲して後頭部の小泉門が先進して時計回りに90度回旋する。これを、「第1回旋」と呼ぶ。
 骨盤出口面は縦長であるゆえ、赤ちゃんは横向きから次第に正面・縦向きへ方向を変えながら、下降する。この過程を、「第2回旋」という。ちなみに、第1回旋(横向き)から第2回旋(縦向き)へ回る角度は90度であり、第1回旋と逆向きの反時計回り(逆時計回り)である。第1回旋から第2回旋の時の子宮口は大体7センチである。第2回旋が終了した時点で後頭部(小泉門)は恥骨側・12時方向の位置となり児頭の正面・縦向きが整う。この時、子宮口はすでにすっかり開く全開大(10センチ)となり、出産第一期・開口期の終わりとなり、いよいよお産となる。
 第3回旋は反時計回り(逆時計回り)になって児を娩出(べんしゅつ)するもので、この場合児は反屈して恥骨をくぐり抜けるように児頭が産道()から娩出する。
 最後の第4回旋は第1回旋と同じく児頭は時計回りに90度回旋して、頭が誕生した児はすぐに呼吸をはじめて声をあげる。この児頭の誕生が出産第二期・娩出期の終りとなる。

◆上記した「出産児の頭の第1回旋と第4回旋」にもとづいて、倉頡は[()]の字源・字形・字義となった「〔南〕が〔西〕となる、時計回りに90度転回する方位規定」を考案した。
 また、「児頭の第2回旋と第3回旋」にもとづいて、倉頡は[()]の字源・字形・字源となった「〔北〕が〔西〕となる、反時計回りに90度転回する方位規定」を考案した。
 下に、倉頡が考案した[]と字源銀河解説図と契文形(甲骨文字の字形)[]の字源銀河解説図と金文形を示した。
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 []の下に[]が加わって[]となり、人偏に[]が加わって[]となった。[][]は、倉頡が創った[]の字の字源・字義をそのまま受け継いで「時計回りに90度転回(回旋)する方位規定、つまり北→東・東→南・南→西・西→北となる方位規定」をあらわすことになった。[]の字は最高・最良の政治スローガン「人民たちの胃袋を食料(五穀)で満たす、つまり五穀豊穣」をあらわした。
 []の字形は「巫女(みこ/女体に相似する「十字の銀河」)が、[(さい)]の祝祷(しゅくとう/出産祝いや子授け祈願に用いるの土器)を肩の上にかかげて、身をくねらせて舞って、祝祷の儀式を行う様子」をあらわしている。ゆえに、[]の字は「多数の子どもたちが生まれてこの世に満ち満ちあふれる。また、多数の人民たちが国に満ち満ちて日々幸せに楽しく生活する」という状況(政治スローガン)をあらわした。そして、上記したように[]の字は「反時計回りに90度転回(回旋)する方位規定、つまり北→西・西→南・南→東・東→北の方位規定」をあらわした。
 したがって、[][][]の字と[]の字は「出産児の頭の4回の回旋」にもとづいて創られた。というのも、上記したように[][][]の字源は「出産児の頭の第1回旋と第4回旋」であり、[]の字源は「出産児の頭の第2回旋と第3回旋」であったからである。
 下に、出産第一期・開口期(かいこうき)と出産第二期・娩出期(べんしゅつき)終わりの状況図を示した。上図は、縦長の出産児の頭を時計回りに第1回旋して横長の骨盤入口をくぐりぬけるために横向きになる出産第1期・開口期の状況図、下図は時計回りに第4回旋してこの世に頭が誕生する出産第二期・娩出期終わりの状況図である。
 この上下の二図は、共に[][][]の「時計回りに90度に転回する方位規定」をあらわしている。
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20万年前から10万年前にかけてホモ・サピエンス(現生人類)が起源した原始のときから、ヒトは【[(とう)]をキャッチして1度の60分の11分以内の誤差を精確に測定できる本能と眼力】がそなわっていたにちがいない。「[]をキャッチする眼力」つまり「1分の緯度差を測定できる眼力」を、人類は食料となる獲物を求めて移住生活していた先史時代から日々鍛錬して受け継いだ。下に〔[]の字源・字形解説図〕を配した。
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 人類は【本能的に、[](天頂緯度線・天頂点・子午線)をキャッチできる神秘的な呪的(じゅてき)能力の眼力】を有し、そして[]をキャッチする技(わざ)を磨いた。だから、先史時代から卑弥呼時代(2世紀末から3世紀半ば)まで、人々は1分以内の誤差で緯度を測定できた。この[]をキャッチする眼力をもしも人類が有していなかったならば、人類は密林でおおわれる原始時代や氷や雪でただ一面真っ白な氷河期において滅亡していたことになる。
 前述したように、『説文解字』は[]の字源を「至高にして上なし。一大に従ふ」と解説する。この字源解説は「それ以上の上が無い、天頂緯度線」を意味した。
 したがって、『説文解字』の[]の字源解説は、下の図に示した「天頂点と重なる銀河部位の軌道における最も高い天頂緯度線」を説明していたことになる。
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 上図の右上に[]の字を表示した。[]の下に[(よう)]を加えると[]という字になる。「[]のキャッチ」と「[]のキャッチ」は共に「1分以内の誤差で緯度が精確に測定できる」という意となった。下に〔[]の字源解説図と金文形〕の図を配した。
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 『説文解字』は[]の下部の[]の字源を「小なり。子の初生の形に象(かたど)る」と解説する。つまり、上図の左側に配した「せまい産道をくぐりぬけて命が与えられた、娩出期終わりの出産児」が[]の字源となる。
 「必ず天頂緯度線をキャッチして位置と方位を精確に測量し、絶対に道に迷わない」と欲を有すると、[]のキャッチに失敗して命を失った。「[]をキャッチするときの心得」は「骨盤入口と産道をくぐりぬけるときの出産児のごとく無欲になれ」であった。ゆえに、[][]の字が加わる[]の字「[]をキャッチするときの心得」をあらわしていた。「[]のキャッチ」が成立するためには、「[]の心得(つまり、骨盤入口・産道をくぐりぬけるときの出産児のごとく無欲になれという心得)」が不可欠となるゆえ、[][]となった。したがって、「[]のキャッチ」と「[]のキャッチ」は同義となった。

◆だから、卑弥呼時代の倭国の使者と船乗りたちは【1分以内の誤差で精確に緯度ができる[]のキャッチの方法】で玄界灘を往来していたのである。
 玄界灘を往来するとき、1度の60分の11分以内の誤差で測定できる能力、つまり眼力を有していないと命を失った。
 倭地と朝鮮半島の中間の大海・玄界灘を往来するとき、【天の北極が水平線からの高度が緯度】となる。つまり、水平線からの天の北極の高度が3415分ならば、その観測場所の海の緯度は北緯3415分となる。
 下に〔黄道(こうどう)の北極を中心にして一周する天の北極の位置を示す大円と北極星の位置図〕を配した。
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 上図に示すように、天の北極の位置は〔黄道の北極〕を中心にして25,800年で一周する。この〔円周(大円)上における位置〕が〔各時代の天の北極の位置〕となる。ゆえに、すべての時代において「〔黄道の北極〕を中心とする大円」と重なる北極星は存在しない。だから、すべての時代において〔天の北極〕は〔暗黒の暗闇〕であったゆえ、ヒトが1分の精度で緯度を測量できた北極星は存在しない。
 〔天の北極に最も近づく北極星〕は、紀元前2790年頃の「りゅう座α星」と、現在から約80年後の21世紀末の「こぐま座α星」である。この「二つの北極星」は〔天の北極〕から約45(0.75)離れているゆえ、〔天の北極〕を中心にして直径約90(1.5)の円を描く。人間の目と本能には、90分ほどの直径距離で〔天の北極〕を中心にして円を描く「北極星」を測量して〔天の北極の高度を90分の11分の誤差〕で精確に測量できる能力はそなわっていない。だから、すべての時代、人類は〔天の北極の高度〕を1分以内の誤差内で緯度を測量することができなかったゆえ、日本列島に居住した人々は〔天の北極の高度を緯度に換算する方法〕では玄界灘を往来することができなかった。
 上の〔黄道の北極を中心にして一周する天の北極の位置図〕の右上に示したように、卑弥呼時代の「北極星・こぐま座β星」は〔天の北極〕を中心にして半径約10(600)・直径約20(1200)の円を描いていた。「直径が1200分の円を描く北極星・こぐま座β星)」で〔天の北極の高度〕を1200分の11分以内の誤差で測定できる能力を人間は有していない。
 だから、卑弥呼時代、倭の使者はじめ船乗りたちは北極星(こぐま座β星)をキャッチして〔天の北極を緯度に換算する方法〕で玄界灘に入ると必ず「命」を失った。卑弥呼時代において、「天の北極」と「北極星」は【命を失う死神の座】であった。
 したがって、「九州を〔西〕と定め、東海地方を九州の〔東〕と定める、現在と同じ本州・日本列島地理」を、卑弥呼王朝は制定するはずがなかった。
 卑弥呼王朝は、【倉頡が発明した漢字作成理論に則(のっと)る地理学の方位規定】にもとづいて日本列島地理の方位規定を定めることにしたのである。

◆前述したように、紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、玄界灘を横断してわが国の東北地方に益氏が定住して――わが国は【倉頡が発明した漢字作成理論】を習得して学問の歴史が始まった。この【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】の伝統は卑弥呼が歴史上に初めて登場した西暦180年頃には、約2200年間もの長いあいだ受け継がれていた。【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】に精通していた卑弥呼は倭国の大乱を終息させるために、「第1回と第4回旋の出産児の頭蓋骨が重ね合わせることができる骨重積(こつじゅうせき)の機能」から成立させた[][][]の字源「時計まわりに90度転回する方位規定に則(のっと)る本州・日本列島地理」を立論した。
 ゆえに、卑弥呼が統治する国号は[]の字がつく「倭人国」となった。
 前述したように――石器時代、周囲が大海で囲まれる日本列島に人々が移住を決行したとき、その人々は【[][]をキャッチする方法】によってならば大海を征服して日本列島に到着できた。
 だから、浪うってつづく幾多(いくた)の森に鬱蒼(うっそう)とおおわれていた上古、日本列島に居住した人々は、日々、【[]をキャッチする方法】で位置(緯度)と方角を測って生活をいとなんでいた。この【[]のキャッチ】によって、下に示したように、日本列島の西端にある玄界灘に浮かぶ沖ノ島と日本列島の東端にある伊豆諸島の神津島(こうづしま)が同緯度(北緯3415)であると測定できた。 
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 先史時代から現在まで、伊豆諸島の神津島からは良質の黒曜石(こくようせき)が産出する。黒曜石は火山活動によってできた「黒いガラス」とされ、じょうずに刃をつけると肉切り用の石包丁や医学用のメス(女性が出産する時に用いられた小刀)として用いられ、また鋭利な石斧や戉(まさかり)の刃となり、あるいは石槍の穂先や矢の鏃(やじり)などの石器として利用された。
 神津島の黒曜石は良質であったため、関東地方、東海地方、近江(滋賀県)、北陸地方(石川県能登半島)まで分布した。神津島の黒曜石はなんと約3万年前の後期旧石器時代から使用されていることが明らかとなった。神津島と伊豆半島は中間の海で30キロメートル以上も離れており、神津島から石川県能登半島までは直線距離で約400キロメートルも離れている。神津島の黒曜石を求めて海を往来した交通の事実について、学界は世界史上でも最古の海洋航海と注目するが――学界においては、その実態はいまだ謎のベールにつつまれて不明とする。前述したように、人類は原始のときから、産道を通過する出産児のごとくで無欲で[](天頂緯度線と子午線)をキャッチする[]の能力が頭脳に本能としてそなわり、日々鍛錬して1分の緯度差を測定できる優れた眼力を有していた。『魏志倭人伝』に記述された【倉頡が発明した漢字作成理論の歴史的事実】を解明するために不可欠な[]のキャッチ・[]のキャッチを注目すれば、約3万年前から神津島の黒曜石が本土に運ばれて利用されていた海洋航海の謎の厚いベールは寸時に消える。
 したがって、神津島は良質の黒曜石が産出することで有名であったゆえ、卑弥呼は神津島を注目したのである。下に示すように「神津島の地宜」は「長崎県壱岐・一大国の地宜」と同じく「十字の銀河の子宮の形」に相似する。
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◆前述したように、「長崎県壱岐の地宜」を「十字の銀河の子宮の形」に相似すると見立てて「一大国」と名づけた卑弥呼は、一大国より45度の東北にある孤島・沖ノ島と神津島は同緯度であり、しかも両島が日本列島の両端に所在することに注目した。そして、卑弥呼は――中国全土を洩れなく包みこむ海岸線の地域と日本列島の気候区の様子を注目した。さらに、中国全土を包む海岸線地域の方位規定を対馬国・一大国の方位と同じく〔北・南〕と定めれば、本州・日本列島の方位規定は【倉頡が「出産児の頭蓋骨の、重ねあわせることができる機能」から考案した[]の字源・字形・字義】が成立する――ことに気づいた。つまり、卑弥呼は――現在の方位規定にもとづくと日本列島の〔西端〕にある沖ノ島を時計回りに90度転回して本土の〔北端〕にあると定めれば、日本列島の〔東端〕にある神津島の方位を時計回りに90度転回して〔南端〕にあると定理することができる――ことに気づいた。
 これから始める解説に用いられる[]の字源に則る転回本州・日本列島地理の方位規定を、現在の日本列島の方位規定にもとづいて解説する。
 中国の北部海岸線地域は冷たい気候区であり、中国の南部海岸線地域は暖かい気候区であるゆえ、《北冷南暖》となる。日本列島の西端にある沖ノ島は冬に雪がふる冷たい気候区であるが、日本列島の東端にある亜熱帯の神津島は一年中暖かい気候区であるゆえ、《西冷東暖》となる。
 この結果、下に配した〔中国の海岸線地域の《北冷南暖》と本州・日本列島の《西冷東暖》の気候区図〕に示したように――中国の北部海岸線地域と日本列島西端の気候は共に冷たいゆえ、《中国の北冷=日本列島の西冷》となる。中国の南部海岸線地域と日本列島東端の気候は共に暖かいゆえ、《中国の南暖=日本列島の東暖》となる。だから、日本列島・本州西方の九州は中国の北部(北部海岸線地域)に合致し、日本列島・本州の東方の東海地方は中国の南部(南部海岸線地域)に合致して、下に図示したように、日本列島・本州の地理における方位規定は[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に合致する。

ゆえに『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】にもとづいて「日本列島・本州の東方は南方(中国海岸線地域の南部の方)へと延びている」と説明していたことになる。
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 『魏志倭人伝』には全部で19ヵ所の方位記事がある。そのうち冒頭の「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」という文中の「東南」から一大国の記事までの方位記事は計7ヵ所ある。ゆえに、日本列島・本州の末盧(まつろ)国から以後の記事には、計12ヵ所の方位記事がある。この日本列島・本州における計12ヵ所の方位記事は、上に配した〔中国の海岸線地域の《北冷南暖》と日本列島・本州の《西冷東暖》の気候区図〕によって成立した《[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定》にすべて合致する。
 だから、『魏志倭人伝』の19ヵ所の方位記事は全部正確であり、『魏志倭人伝』は「対馬国と一大国の《北・南》と日本列島・本州地理の[]の字源による転回方位規定」をもって【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝えていたのである。
 ゆえに、34ヵ国の小国で構成される倭人国の地理を、卑弥呼王朝は【倉頡が発明した漢字作成原理】をあらわして、下図のごとく制定していたことになる。
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◆中国の五経(ごきょう)の第一番に挙げられる『易経(えききょう)』の繋辞下伝(けいじげでん)に、下記のごとくの〔漢字起源記事〕がある。
 「古者(いにしえ)、包犧氏(ほうぎし)の天下の王たるや、仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観る。近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る。ここにおいて始めて八卦(はっけ)を作り、もって神明の徳に通じ、もって万物の情に類して、結縄(けつじょう)を作った。」
 上記した『易経』繋辞下伝は「紀元前4000年頃の三皇時代初頭の王であった包犧氏が万物の情(イメージ)に類似する原初漢字・結縄を作った」と記述するが、この指摘は誤っている。つまり、包犧氏は「易」に用いる記号が作ったが、万物の情に類似する漢字は前述した倉頡伝説が伝えているように、紀元前3000年頃に生存した倉頡である。
 『易経』繋辞下伝は、上記した漢字起源記事のすぐ後に「上古は結縄で治まる。後世の聖人これを易()うるに書契(しょけい)を以(もっ)てす」と記述している。この文中にある「後世の聖人」は、すなわち「倉頡」である。書契を作った倉頡こそが万物の情に類似する原初漢字を作った。そして、倉頡より以後の全時代に作られた全漢字は、【倉頡が発明した漢字作成理論】にもとづいて作られた。
 ゆえに、上記した『易経』繋辞下伝の〔漢字起源記事〕は、下記のごとく改めれば正しくなる。
 「古者、黄帝につかえた倉頡は、仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観る。近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る。ここにおいて始めて八卦を作り、もって神明の徳に通じ、もって万物の情に類して、書契を作った。」
 上記の文中に登場する「天象」は「文字作成銀河(夏の銀河)」である。「地法」は「天象(文字作成銀河)の各部は東から西へ移動して去るが、〔オス鹿の姿〕や〔両翼をひろげる鳥の姿〕に類似する海岸線にもれなく包まれる中国の地宜(地図)は天象各部の移動の逆向きとなって西から東の大海に向かって去る形となる」と意味した。「鳥獣の文」は倉頡伝説に登場する「鳥獣の足跡」と同義であり、つまり「鳥獣の文」は【倉頡が発明した漢字作成理論の名称】である。「地宜」は「平面的に図化した地図の形」である。次の「近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る」という文の解説は後におこなうことにして、その前に後ろにある「八卦」について解説する。「八卦」は「東・西・南・北の四方位と東北・西北・東南・西南の四方角、計八つの方位」を意味した。
 「近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る」という文は「黄帝の居住地から見える地平線近く(地平線内)の北・南に対して、黄帝の居住地の地平線より遠く(地平線より外界)となる地域の地理においては(1)時計回りに90度ずつ転回する[]の方位規定と(2)反時計回りに90度ずつ転回する[]の方位規定の二種がある」と意味した。
 ゆえに、『魏志倭人伝』は「対馬国・一大国の方位規定と、対馬国・一大国から遠く離れて神津島が所在するまでの広範囲の本州・日本列島地理の方位規定は相違する」と説明するものであったことになる。したがって、対馬国・一大国の方位規定は現在方位と共通するが、本州・日本列島地理における方位規定は現在の方位規定と異なり、本州・日本列島の地理における方位規定は【倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわす[]の字源を受け継いだ[]の字源「時計回りに90度ずつ転回する方位規定」に則って説明していたことになる。
 だから、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える文献史料であった。

◆以上のごとく、九州説と畿内説は「卑弥呼が居住した女王国は邪馬台国であった」と断定し、『魏志倭人伝』は「邪馬台国研究のための史料である」と主張して、その合理性を成立させるために【多数の文献批判という作為】を加えて立論する。
 しかし、『魏志倭人伝』は女王国の名称を「邪馬壱国」と記している。また、全記事をただひたすら・いちずに忠実に読解すると、『魏志倭人伝』は〔漢字の起源の秘密〕を具体的に的確に説明していることになり、「卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤にして天下を治めた事実」が解明され、矛盾点や不合理な点が一点もなく【科学】が成立して歴史的事実が証明される。
 だから、学界やメディアは大々的に「九州説と畿内説が正しい、最も信用できる」と推奨するが、両説は「根本史料の文献に一点の【作為・主観】を加えず、真っ先に忠実に読解する」という学問の原則をまもらない、学説の体(てい)をなさない空理空論・デタラメ・真っ赤なウソであったことになる。
 言いかえると、『魏志倭人伝』は学問の原則を厳守すべき正確無比の歴史書にして学問書であったのである。

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