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2021年9月17日 (金)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・27

▼いつも亡(ほろ)びるのは、いちばん大事な歴史を忘れてしまった民族である
 いつも滅(ほろ)びるのは、もっとも大事な歴史を忘れてしまった国家である
 わが国の学者たちは、四千年前に日本に漢字が伝来した歴史を削除(さくじょ)する
 だから、わが国では真実の日本国誕生史が明らかとなっていない
 
◆わが国の学界と学者たちは、3世紀後半(280-289年)に中国にて著作された『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は「倭女王・卑弥呼(ひみこ)が居住した女王国は邪馬台(やまたい)国であったと説明する書物であった」と定めている。
 この邪馬台国説(邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説)は、学者たちが『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加えてデッチあげたクレージーな空理空論・真っ赤なウソある。
 つまり、邪馬台国説は日本人にとって最も大事な真実・真理を奪(うば)うクレージーな、日本人にとっていちばん大事な歴史を奪って忘れさせてしまった空理空論である。
 わが国の学者たちは、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に【多数の誤読】を加えて読む方法こそが正しい考え方であると思い込んでいる。このため、712年に編纂(へんさん)された『古事記(こじき)』上巻のイザナキノミコトとイザナミノミコト説話冒頭の〔淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚〕の箇所に、真実の日本国誕生史が記述されていることを知っていない。
 わが国の学界と学者たちは、太安万侶(おおのやすまろ)が書いた『古事記』上巻の序、つまり「古事記上巻 幷(あわ)せて序」の冒頭や中半や末部で一貫(いっかん)して、《『古事記』上巻の記事を正しく読解(どっかい)する方法》を丁寧(ていねい)に説明していることにまったく気づいていない。
 上記した【一】邪馬台国説がクレージーなウソ八百のデタラメである事実と、【二】『古事記』上巻のイザナキノミコトとイザナミノミコト説話冒頭〔淤能碁呂島の聖婚〕に真実の日本国誕生史が記述された事実は、このブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の前で紹介したわが著書、すなわちkindle版・電子書籍『日本国誕生史の証明』と『大嘗祭(だいじょうさい)の証明』(両書とも1000円)にて詳細に具体的に容易に理解できるように解説した。
 また、わが著書、無料・電子書籍『日本四千年の学問史』においても、詳細に具体的に容易に理解できるように解説した。

◆これゆえ――わが国のすべての人民は、真実の日本国誕生史について知っていない。
 というのも、江戸時代中期に生存した新井白石(あらいはくせき/1657-1725年)以後現在まで約300年、学者たちは『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加える方法を確立(かくりつ)して日本列島における学問の土台となった【今から約四千年前、漢字が伝来した歴史】を強引(ごういん)に削除(さくじょ)してしまったからである。
 その証拠に、わが国の学界は「わが国に、最初に漢字が伝来したのは5世紀または6世紀である」と断定し、「四千年前に漢字が伝来した歴史」を排除(はいじょ)している。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が前回(26回)までで詳細に具体的に証明したように、約2000字で構成される『魏志倭人伝』の約50パーセント(約1000字)の記事は――漢字は天文学で通称「夏の銀河」と呼ばれる銀河から作られた。「銀河」の別称は「銀漢」であり、「銀漢から作られた文字」を略して中国でもわが国でも「漢字」と呼ぶようになった。漢字は、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)より約3200年前の中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた史官(しかん)の倉頡(そうきつ)が発明した。倉頡は銀河(夏の銀河)から文字を作成する理論を発明した――と詳細(しょうさい)に伝えていた。  
 つまり、『魏志倭人伝』の約50パーセントの記事は――今から約4100年前の中国の夏代(かだい、夏王朝時代)初頭、言いかえると縄文時代初頭、わが国に【夏音文字と倉頡が発明した漢字作成理論の学問】が伝来して習得(しゅうとく)された――と説明するものであった。
 わが日本列島の海岸線は中国全土をもれなく包みこむ海岸線より約3倍も長い。この日本列島の海岸線の所々は倉頡が漢字を作った銀河(銀漢)各部の形状に細密(さいみつ)に相似する。このため、字源・字形の原形・原義となった銀河各部の形状イメージは地名や万物の名称になって、夏音文字が習得された夏代初頭から卑弥呼が生存した後期弥生(やよい)時代までの約2250年間、【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】はうけつがれて保存された。
 この約2250年の長いあいだ、日本列島にて保存された【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を、倭女王・卑弥呼は政権基盤と定めて国家名を「倭人国」と定めた。
 だから、『魏志倭人伝』に記された(1)「倭人国」という国家名と、さらに列記された(2)【対馬国以下、一大国・末盧国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国・邪馬壱国・斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・弥奴国・好古都国・不呼国・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・奴国・狗奴国】の30の小国名は――漢字は銀漢(夏の銀河)から作られた。卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を政権基盤にして天下を治めた――と説明するものであった。

◆ところが、新井白石は『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加えて――倭女王・卑弥呼が居住した女王国名は「山門(やまと)」や「大和(やまと)」に近い「邪馬台(やまたい)国」であり、ゆえに九州・筑後山門郡あるいは畿内(きない)の「大和」が邪馬台国であったと考えられる――という空理空論・デタラメを主張した。
 これゆえ、新井白石以後約300年間、学者たちによって『魏志倭人伝』は【邪馬台国の所在地を伝える資料】であったと捏造(ねつぞう)され、歪曲(わいきょく)されて、この空理空論・迷妄(めいもう/デタラメ)は現在まで受けつがれることになった。
 元来(がんらい)、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を理路整然(りろせいぜん)と伝える、世界史的にも第一級の重大な歴史書であった。新井白石以後、学界は【多数の誤読】を加えてデッチあげた邪馬台国説に支配されることになったために、日本人は真実の日本国誕生史を知らない、いちばん大事な歴史を忘れる民族となった。
 古代史研究家の古田武彦(ふるたたけひこ)氏は、その著書『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社発行)で――『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した女王国名を「邪馬壱(やまい)国」と記し、「邪馬台国」と記していない事実――を詳細に具体的に解説して証明した。
 倉頡がつかえた黄帝は、東洋最古の医学者『内経(ないけい)』を作った。黄帝の主なる医学研究は〔女性の生殖器官(せいしょくきかん/子宮や骨盤)と子どもの出産〕であった。
 このため、倉頡が漢字を発明する目的は〔黄帝の女性の生殖器官と子どもの出産の医学研究〕をあらわすことができる文字を作成することになった。
 上記したように、倉頡は、下に示す「銀河」、つまり「すべての夏の星座が漬(つ)かる銀河、つまり天文学で通称“夏の銀河”と呼ばれる銀漢」から文字を作る学術を確立させた。
 また、上記したように――中国全土をもれなく包み込む海岸線よりも約3倍も長い日本列島の所々の海岸線は、夏の銀河の各部の形状に細密(さいみつ)に相似する。だから、わが国においては、夏音文字を習得した後期縄文時代初頭から卑弥呼時代までの約2250年間、【倉頡が発明した漢字作成理論と、銀河各部の形状が字源・字形の原形・原義となる学問】は地名や万物の名称であらわされて失われずにうけつがれて保存されることになった。
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◆倉頡は上に示した夏の銀河におけるもっとも印象的な銀河部から、〔黄帝の女性の生殖器官と子どもの出産の医学研究〕をあらわす基本字[禾(か)](字義はイネや麦の穀物)の字を創(つく)った。この[禾]の字は【黄帝の女性の生殖器官と子どもの出産の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問の核心(かくしん)】をあらわすことになった。この[禾]の字源・字形・字義の秘密は『魏志倭人伝』に「倭人」という国名をもって残され、また女王国名に用いた「邪馬壱(やまい)」という語であらわされた(注 この事実はわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の20回にて詳細に解説して証明した)。
 [禾]の字の下に「女性の生殖器官」をあらわす[女]が加えられて、[委(い)](字義は「ゆだねる」。つまり、「穀物(こくもつ)の豊かな穣(みのり)は天候にゆだねられる」の字が創られた。そして、「国土に多数の人民が満ち満ちあふれて居住する」をあらわす[人](人偏)に、「禾(穀物)が順調(じゅんちょう)に育つ天候にゆだねられて豊かに穣(みの)る」をあらわす[委]が合体して[倭(わ)]の字が創られた。
 ゆえに、「倭人」という国家名は「(1)五穀豊穣(ごこくほうじょう)によって、(2)国土に万民(多数の人民)が満ち満ちあふれて栄える、(3)【黄帝の女性の生殖器官と子どもの出産の医学研究と、[禾]の字を創った倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を権力基盤とする国家」と意味するものであったことになる。
 『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」である。
 だから、『魏志倭人伝』は冒頭から「「(1)五穀豊穣(ごこくほうじょう)によって、(2)国土に万民(多数の人民)が満ち満ちあふれて栄える、(3)【黄帝の女性の生殖器官と子どもの出産の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を権力基盤とする倭人(倭人国)は、朝鮮半島の一画(いっかく)に所在した帯方郡(たいほうぐん)の東南の大海の中に所在する」と説明していたことになる。
 したがって、『魏志倭人伝』は【今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を理路整然(りろせいぜん)と伝える、1ヵ所も【誤読】を加える必要が無い、正確無比(せいかくむひ)の資料であった。
 しかし、学者たちは白石以後300年もの長いあいだ、『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加えて、『魏志倭人伝』は「邪馬台国」について説明する資料であると断定する空理空論を頑迷(がんめい)に主張しつづけている。

◆『古事記』上巻の序の題名は「古事記上巻 幷(あわ)せて序」と記される。
 「古事記上巻 幷せて序」は、太安万侶(おおのやすまろ)が書いた。
 「古事記上巻 幷せて序)」の冒頭記事は、下記のごとくである。
 ――臣安万侶(しんやすまろ)言(まを)す。それ混元(こんげん)すでに凝(こ)りて、気象(きしょう)未(いま)だ効(あらは)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。しかれども乾坤(けんこん)初めて分(わか)れて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作(な)す。陰陽(いんよう)ここに開けて、二霊群品(にれいぐんぴん)の祖(おや)と為(な)る。

 上記した「古事記上巻 幷せて序」の冒頭記事は――今から約4100年前(紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭)に、わが国が習得した【倉頡が発明した漢字作成理論】に則(のっと)って『古事記』上巻の記事を読解すれば、正確に上古史を知ることができる――と(1)歴史解明方法を説明し、さらに(2)日本国誕生史についての要略(ようりゃく)を短い文章であらわしている。
 『古事記』上巻の序の中半にある――目に度(わた)れば口に誦(よ)み、耳に払(ふ)るれば心に勒(しる)す――という文も、【倉頡が発明した漢字作成理論】にのっとれば『古事記』上巻に記述された上古史は正確に(学問的に科学的に)解明できると警告している。
 『古事記』上巻の序の末部にある――楷書(かいしょ)の日下(にちげ)と原初漢字・夏音(かおん)文字の玖沙訶(くさか)は同義、楷書の「帯(たい)」は夏音文字の「多羅斯(たらし)」と同義である――という説明もまた――夏音文字と楷書は【倉頡が発明した漢字作成理論】にのっとって銀河各部の形状から作られた。ゆえに、夏音文字と楷書の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換して文章があらわす意趣(いしゅ)をくみ取るならば、『古事記』上巻に記述された上古史は明確になる――と歴史解明を説明し、漢字が銀河から作られた事実を知らないと【空理空論】となると警告している。

◆上記した、太安万侶が書いた「古事記上巻 幷せて序」の冒頭記事が容易に理解できるように注釈をまじえて現代語に訳すると下記のごとくなる。
 ――元明(げんめい)天皇陛下の臣下(しんか)の安万侶は申し上げます。前期縄文時代以前、日本列島各地の天頂(てんちょう/頭上)にめぐってきた銀河部の形状はすでに混沌(こんとん)とし固(かた)まっていました。しかし、どのような気を有する象(かたち・イメージ)をあらわしているのか判然(はんぜん)としませんでした。このため、その銀河部をあらわす名称も無く、その銀河部のイメージを表現する技術(わざ)も存在しませんでした。これゆえ、前期縄文時代以前の日本列島の住人たちが銀河についてどのように考えていたのか、『古事記』を編纂(へんさん)することになった現在、誰も知ることができません。しかしながら、前期縄文時代初頭(注『古事記』成立から約4700年前)以後、日本列島各地の天頂に「乾坤」、つまり「天」と「地」のイメージとなる銀河部、この「天」のイメージをあらわす銀河部は「妊婦(にんぷ)の姿」にも相似し、また「地」のイメージをあらわす銀河部は「人の首(くび/人の横顔)」にも相似する銀河部がめぐってきました。このため、これら特に印象(いんしょう)深い銀河部が日本列島全土にめぐってきた前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭(注『古事記』成立から約2700年前)までの約2000年間、日本列島各地の天頂にめぐってきた銀河部とその南にある銀河各部の形状イメージを表現する土器や土偶(どぐう)が多数作られました。そして、「人の首」のイメージをあらわす銀河部が天頂にめぐってきた後期縄文時代の首(はじめ/初頭)、中国から【夏音文字と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】が伝来しましたが、この学問をわが国は習得(しゅうとく)することができました。というのも、倉頡が漢字の字源・字形・字義と定めた銀河と縄文人たちが作った土器と土偶のモデルは同一の銀河(つまり、上掲の写真で示した天文学における通称「夏の銀河」)であったため、わが国において土器・土偶を作った芸術家たちによって【倉頡が発明した漢字作成理論と、夏音文字の学問】は理解されて習得されることになったのです
 〔注 つまり「参神造化」とは「前期縄文時代・中期縄文時代・後期縄文時代初頭までの三つの縄文時代における、土器・土偶を作った芸術(造化)の神」を意味した。この参神造化の作品(土器・土偶)は、倉頡が漢字を作った夏の銀河各部の印象を合体して造形された。だから、前期縄文初頭から約二千年間にもおよぶ参神造化の伝統をうけついだ後期縄文初頭の芸術家たちによって【夏の銀河各部の形状を字源・字形・字義と定めた、倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学問】が理解されて習得されることになったのである。〕
 安万侶は「参神造化の首(はじめ)をなす」の直後に、さらに次のような説明を加えた。
 わが国の上古史においては――日本建国理念を〔愛〕と定めた陰のイザナミノミコトと、イザナミノミコトの遺志・日本建国の〔愛〕の理念をうけついだ陽のイザナキノミコトの二霊こそがわが国におけるすべての生みの祖(親)ということになります。

◆上記したように、「古事記上巻 幷わせて序」の冒頭記事は「臣安万侶言す」から始まって「参神造化の首(はじめ)をなす」という文で終わる。この「参神造化の首をなす」の後に「陰陽斯(ここ)に開けて、二霊群品(ぐんぴん)の祖(おや)と為(なる)」という文が続く。つまり、安万侶は――「参神造化の首をなす」までの記事で説明した【倉頡が発明した漢字作成理論】にもとづいて、『古事記』上巻におけるイザナキノミコトとイザナミノミコト説話における〔音〕という注がつく夏音文字と楷書(かいしょ)の字源・字形の原形・原義を夏の銀河の各部の形状に変換して、その記事をあらわす文章の意趣(いしゅ)をくみ取れば、日本国が誕生した歴史を正確に知ることができる――と説明していたのである。
 なぜ、このような近代(江戸時代)から現代までの学者たちが誰一人もその意趣を正確に解釈できない極(きわ)めて難解な文章を『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)に記述しなければならなかったのか――その事情を説明すると下記のごとくになる。
 第40代天武(てんむ)天皇(673-686年在位)は大和朝廷の基礎を築いた天照大御神(アマテラスオオミカミ)を皇室における最高神と定めて崇拝(すうはい)して、皇祖(こうそ)・アマテラスオオミカミの聖性を絶対に汚(けが)してはならないと厳重(げんじゅう)に禁止した。
 これゆえ、『古事記』編纂スタッフは真実の歴史を後世に伝えるため、『古事記』上巻のイザナキノミコトの黄泉国(よみのくに)の訪問説話にて、「アマテラスオオミカミ」の名を「イザナミノカミ(神)」と偽称(ぎしょう)して――「アマテラスオオカミはイザナミノミコトの墓を作る時に多数の奴婢(ぬひ/18歳くらいの青年と13歳くらいの乙女たち)を殺す残虐(ざんぎゃく)な徇葬(じゅんそう)を決行した」と伝えることにした。この「アマテラスオオミカミが決行した残虐な徇葬」について、編纂スタッフは「八雷神(やくさのいかづちがみ)」と表現している。
 このような天武天皇はじめ時の皇室が「アマテラスオオミカミがおこなった徇葬について、絶対に後世に伝えてはならぬ」と厳重に禁止する歴史を後世に伝えるためには――「古事記上巻 幷せて序」で元明天皇や天照大御神を崇拝する律令体制(りつりょうたいせい)の皇族たちが理解することができない難解きわまりない文章で「後期縄文時代初頭に【倉頡が発明した漢字作成理論と、夏音文字の学問】を習得した」と説明し、【倉頡が発明した漢字作成理論】を利用して「銀河各部の形状は夏音文字と楷書の字源・字形の原形・原義であった」と指摘(してき)すれば伝えることができた。というのも、【天空に輝く、夏音文字と楷書の字源・字形の原形・原義となった夏の銀河各部の形状】は、強大な権力を有する皇室にあっても抹殺(まっさつ)・排除(はいじょ)・消滅することができなかったからである。

◆だから、『古事記』上巻の作成目的は、下記に説明する【〔愛〕の国家理念が唱えられた日本国誕生史】を伝えることであった。
 倭人国の東方の小国・日本国の女王に就任(しゅうにん)したイザナミノミコトは、日本建国理念を〔愛〕と定めた。イザナミノミコトが没すると、夫にして日本国の軍王(いくさのおおきみ)であったイザナキノミコトは愛妻イザナミノミコトが唱えた日本建国の〔愛〕の理念をうけついで、小国・日本国と大国・倭人国を併合(へいごう)して天下を治めた。ゆえに、イザナミノミコトとイザナキノミコトは人民(国民)にとって最高神となった。
 ところが、現在の学者たちは「古事記上巻 幷せて序」に太安万侶が書いた歴史解明方法について説明する記事を正確に理解することができないため、上記した『古事記』の作成目的に気づかず、イザナミノミコトとイザナキノミコトが皇祖アマテラスオオミカミよりも優(まさ)る人民の最高神になった事情を理解することができない。
 また、学者たちは、本居宣長(もとおりのりなが/1730-1801年)が著作した注釈書『古事記伝』にもとづいて、「『古事記』上巻(日本神話)は皇祖・アマテラスオオミカミを最高神と説明している。『古事記』上巻においては、書かれていることをそのまま解釈して、神が不思議な行動をすれば不思議な行動のままに理解する。ゆえに、高天原(たかまのはら)は地名をあらわすものではなく、天上にある国をあらわしている。また、天照大御神(アマテラスオオミカミ)は太陽の女神であって、歴史上に実在した人名ではない。このような解釈に則(のっと)って、古代人がどのような考え方をしていたかを理解しなければならない古典であって、歴史を伝える書物ではない」と解釈するため、『古事記』作成目的に反する誤読説を主張することになった。
 しかし、和銅五年(712年)正月28日に『古事記』を献上(けんじょう)された元明天皇は、イザナキノミコトの黄泉国訪問説話に記述された「八雷神」を「アマテラスオオミカミが決行した残虐な徇葬の決行」を表現していると直感(ちょっかん)し、「イザナミノカミ(神)ノミコト」を「皇祖のアマテラスオオミカミをあらわす」と解釈して、即座に『古事記』献呈(けんてい)を拒絶(きょぜつ)した。『古事記』上巻は皇祖・天照大御神の聖性を汚す、皇室に不都合な歴史を伝える反逆(はんぎゃく)の歴史書であったのである。だから、『古事記』は献呈拒絶されて正史になれなかった。このため、「正史になれなかった『古事記』は712年(和銅五)以後に作られた偽書ではないか」と疑う学者たちがいる。

◆『古事記』中巻の開化(かいか)天皇紀の初頭記事は「天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して、天下を治めた。この第9代天皇が丹波(たんば)の大県主(おおあがたぬし)の竹野比売(たかのひめ)と結婚された。また、継母(ままはは)の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)と結婚した」と説明する。
 正妃(せいひ)の丹波出身の竹野比売は、日本建国の〔愛〕の理念をとなえた伊耶那美命(イザナミノミコト)であった。ゆえに、開化天皇が居住した宮殿名は「伊耶河宮」である。「伊耶河宮」の先頭2字の「伊耶」と「伊耶那美命」と「伊耶那岐命(イザナキノミコト)」の先頭2字「伊耶」は合致する。だから、「若き日(青年時代)の開化天皇」は「伊耶那岐命」と愛称(あいしょう)されていたことになる。開化天皇は「伊耶那美命の夫にして、小国・日本国の軍王であった」ゆえ、人民は「伊耶那岐命」と異名(いみょう)で呼んで敬愛したのである。
 『魏志倭人伝』は「旧国の丹波」は「伊邪(いや)国」であったと記す。[邪]と[耶]の字義はともに「ななめ(斜め)」、字源銀河も同じであったゆえ、「伊邪」と「伊耶」は同義となる。したがって、人民は「〔愛〕の女王・竹野比売」を「伊邪(耶)国出身の那(桃の花)のように美しい女王」と敬愛(けいあい)して、「伊耶那美命」と愛称したことになる。
 『古事記』は開化天皇が居住した宮殿を「春日の伊耶河宮」と記しているように、『万葉集(まんにょうしゅう)』では、「伊耶那美命」は「春日」つまり「春」で象徴(しょうちょう)される。また、『万葉集』では「伊耶那美命」は「花。桃の花。梅の花」に見立てて詠(よ)まれる(をもって象徴される)。また、「伊耶那美命」は「天の香具山」に見立てられた。
 日本最古の小説『竹取物語』におけるヒロイン「竹の筒から生まれたかぐや姫」は「伊耶那美命・竹野比売」をあらわしていた。だから、『竹取物語』は「伊耶那美命・竹野比売が唱(とな)えた日本建国の〔愛〕の理念は、帝(みかど・天皇)の強大な権力や富よりも優(まさ)り、さらに人間にとって永遠の願望である〔不死(不老長寿)〕さえも、日本建国の〔愛〕の理念にくらべれば劣(おと)り、〔愛〕はすべてに優る」と表現する、日本国誕生史の秘密を伝える反権力風刺小説の傑作(けっさく)であったのである。

◆上記したように、『古事記』中巻の開化天皇紀には「天皇の第二后は、継母の伊迦賀色許売命であった」と記述される。この伊迦賀色許売命が「伊耶那岐命の黄泉国訪問説話で、徇葬(じゅんそう/八雷神)を決行した倭女王・天照大御神」であった。『万葉集』では「天照大御神」は「太陽」・「夏」・「耳成山(みみなしやま)」に見立てられて詠まれた。異名が「天照大御神」、本名が「伊迦賀色許売命」は残虐な徇葬を決行したゆえ、伊耶那岐命・開化天皇に離婚されると「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)」と名乗った。彼女は没すると、奈良県桜井市に所在する箸墓(はしはか)古墳(全長272mの壮大な前方後円墳)に埋葬された。
 伊迦賀色許売命(後の倭迹迹日百襲姫命)は第10代崇神(すじん)天皇の生母である。
 『古事記』の開化天皇紀は「天皇は継母の伊迦賀色許売命と結婚して、御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと/崇神天皇)を生んだ」と説明する。しかし、『古事記』の崇神天皇紀における〔建波邇安王(たけはにやすのみこ)の反逆〕の箇所(かしょ)では「崇神天皇が、建波邇安王を“わが庶兄(まませ/異母兄)”と呼んだ」と記す。
 開化天皇の父は孝元(こうげん)天皇、建波邇安王もまた孝元天皇が父であるゆえ開化天皇の異母弟であった。そして、崇神天皇は孝元天皇と伊迦賀色許売命が結婚して生まれた、開化天皇の異母弟の比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)であった。
 だから、崇神天皇は開化天皇と伊迦賀色許売命の間に生まれた子ではなく、開化天皇の父の孝元天皇と伊迦賀色許売命の間に生まれた開化天皇の異母弟であった。つまり、孝元天皇と結婚した継母の伊迦賀色許売命と開化天皇と結婚することになったため、天照大御神・伊迦賀色許売命の連れ子(開化天皇の養子)が崇神天皇であったことになる。 
 第8代孝元天皇と天照大御神・伊迦賀色許売命が結婚して生まれた第10代・崇神天皇は、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)説話に登場する「須佐之男軍に向かって戦いの男建(おたけび/雄叫び)をあげて威嚇(いかく)する・大軍にまもられる、男王の天照大御神」であったことになる。
 須佐之男命は、『古事記』開化天皇紀に「天皇(伊耶那岐命)と竹野比売(伊耶那美命)が結婚して生まれた比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)」であった。したがって、「伊耶那美命から生まれた王子」は人民たちに「須佐之男命」と愛称された。ゆえに、「須佐之男命」の本名は「比古由牟須美命」であったことになる。
 開化天皇は臨終(りんじゅう)の間際(まぎわ)に須佐之男命に「汝(なんじ)は天照大御神・崇神天皇と天下を二分する戦争を断じておこしてはならぬ。汝は母・伊耶那美命の日本建国の〔愛〕の理念を国中にひろめるため、卑弥呼が居住した邪馬壱国・山陰の出雲に移住せよ」と指示した命令にしたがった。ゆえに、山陰・出雲に移住した須佐之男命は櫛名田比売(くしなだひめ)と結婚するときに「八雲(やくも)立つ 出雲八重垣(やえがき) 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を」という日本建国の〔愛〕の理念を詠む和歌を作った。

◆『日本書紀』巻第五の崇神天皇紀の〔疾疫(しつえき)の流行(りゅうこう)〕の箇所には、下記のごとくの記事がある。
 ――崇神天皇の六年、多数の国民たちが逃亡(とうぼう)した。あるいは反逆する者も出て、その反逆の勢いは、徳をもって治めることを困難にした。そこで、天皇は朝早く起きられ、夜遅くまで、つつしんで天神地祇(てんじんちぎ)を祭って謝罪(しゃざい)された。この崇神天皇の六年より以前、天照大御神と倭大国魂(やまとのおおくにたま)の二柱(にはしら)を、天皇の居所の中にて祭った。ところが、二柱の神は、どちらかの威勢(いせい)がより勝(まさ)って栄えるのを心配して、合祀(ごうし)するのを嫌(きら)った。そこで、天照大御神には、「新開発の鉄製の鍬(すき)で五穀豊穣(ごこくほうじょう)が恵まれる」と意味する名の豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)をおつけになって、大和(やまと)の笠縫邑(かさぬいむら/箸墓古墳の東にある奈良県桜井市三輪町)にて祭られた。そして、笠縫邑には「磯堅城(しかたき)の神籬(ひもろき)」を立てた(造った)ゆえ、この跡地は後世「檜原(ひばら)神社」と呼ばれることになった。また、天皇の居所の中に残した日本大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)には、「水が停(と)まって流れない、やせた農地」を意味する名の「渟名城入姫命(ぬなきのいりびめのみこと)」をおつけになって祭ることにした。しかし、渟名城入姫命は、髪(かみ)がぬけ落ち、体が痩(や)せ細って倭大国魂を祭ることができなかった。

 上記した崇神天皇の六年の記事に登場する「倭大国魂=日本大国魂神」は「出雲に移住して日本建国の〔愛〕の理念を尊重する須佐之男命」に見立てた神像であった。崇神天皇の生母・天照大御神が決行した徇葬を憎悪(ぞうお)する伊耶那岐命(開化天皇)の反乱(クーデター)によって、崇神天皇の母親は倭女王から失脚(しっきゃく)し伊耶那岐命に離縁された。この母親の倭女王失脚を詛(のろ)い怨(うら)んだ崇神天皇は、天照大御神を祭って出雲・須佐之男王朝(日本大国魂神王朝)の衰滅(すいめつ)を願った。だから、渟名城入姫命に毒でも盛ったのであろう、彼女は髪がぬけ落ち、痩せ細って日本大国魂神を祭ることができなくなった。
 高天原・大和王朝の基礎を築いた崇神天皇とその生母は「天照大御神」を信仰した。ゆえに、『古事記』上巻ではその母と子は「天照大御神」という異名で記された。崇神天皇の生母「天照大御神」は残虐な徇葬を決行した。これゆえ、『日本書紀』の崇神天皇の六年の記事は「多数の国民たちが逃亡(とうぼう)した。あるいは(天皇に)反逆する者も出て、その反逆の勢いは、徳をもって治めることを困難にした」と、国中の人民たちは天照大御神母子に反発して嫌(きら)ったと伝えていたのである。

◆開化天皇の陵墓(りょうぼ)は「開化帝は歴史上に実在しなかった」と主張する学者たちの意見の理由・根拠となっている。
 崇神天皇の陵墓は、3世紀後半に築造(ちくぞう)された。ゆえに、崇神天皇陵の築造年代にもとづき、第10代崇神天皇は3世紀後半に生存したことになる。したがって、崇神天皇の養父にして異母兄であった第9代開化天皇は3世紀半ばころに生存したことになる。
 ところが、奈良市油阪町に所在する開化天皇の陵墓(全長約105mの前方後円墳)は3世紀半ばから数年後に築造されていない。その墳丘規模(ふんきゅうきぼ)などから、開化天皇陵は5世紀末から6世紀初頭に築造されたと考えられている。このように、崇神天皇陵の築造年代とかみあわない開化天皇陵の築造年代からして「開化天皇は歴史上に生存した大王ではなかった」と、学者たちは断定する。
 しかし、上記したように崇神天皇は養父・開化天皇(伊耶那岐命)がクーデターをおこして母親・伊迦賀色許売命を倭女王から失脚した一件を詛(のろ)い恨(うら)み憎(にく)んでいた。開化天皇は自分の死後、養子・崇神天皇(天照大御神)と実子・須佐之男命(生母は伊邪那美命)が天下を二分して争う戦(いくさ)で人民が困窮(こんきゅう)し犠牲(ぎせい)になる状況を心配した。ゆえに、開化天皇は二人の皇子による天下二分の争乱を回避(かいひ)するため、養子の天照大御神(崇神天皇)に天下をゆずった。そして、実子の須佐之男命に高天原(たかまのはら/大和)から去って山陰・出雲に移住して母親・伊耶那美命がとなえた日本建国の〔愛〕の理念の普及(ふきゅう)に努(つと)めよと命令した。
 本来ならば、開化天皇から譲位(じょうい)された天照大御神(崇神天皇)は、その恩義(おんぎ)に感謝して、壮大な開化天皇陵を築造しなければならなかった。しかし、天照大御神(崇神天皇)は開化天皇を心底(しんそこ)から憎悪し復讐(ふくしゅう)しようと天神地祇(てんじんちぎ)に祈って願っていたゆえ、開化天皇陵を築造しなかった。
 ゆえに、天照大御神・崇神天皇母子が基礎を築いた大和朝廷が衰退し、そして伊耶那岐命(開化天皇)を崇拝した難波王朝が隆盛(りゅうせい)した時代から、さらに半世紀後となる5世紀末から6世紀初頭において、上古の英雄・伊耶那岐命の陵墓(開化天皇陵)は開化帝が居住した伊邪河宮が所在した地域よりやや北側の地所(奈良市油阪町)に築造された。
 だから、開化天皇陵の築造年代を理由・根拠にして「開化天皇は実在しなかった」と断定することはできない。前述したように『古事記』上巻や『日本書紀』の崇神天皇紀などの様々な記事からして、開化天皇陵は3世紀に小国・日本と倭人国を併合した英雄・伊耶那岐命(後の開化天皇)の没後から約250年後の5世紀末から6世紀初頭に彼の事績(じせき)を讃(たた)えて築造されたことになる。
 その証拠に、中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝には「日本国は倭国の別種なり。その国は日辺(にちへん)にあるをもって、ゆえに日本をもって名となすと。あるいはいう、倭国自らその名の雅(みやびやか)ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。あるいはいう、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)せたりと」という記事がある。
 『魏志倭人伝』は末部で「没した卑弥呼の陵墓を築造した時、卑弥呼の後を継いだ男王は奴婢(ぬひ/18歳くらいの青年と13歳くらいの乙女)百余人を殺す徇葬(じゅんそう)をおこなった」と記述する。また、『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国訪問説話〕も「伊耶那美命が没した時、崇神天皇の生母・伊迦賀色許売命は残忍な徇葬をおこなった」と伝える。このように倭王朝は二度も優雅ではない残虐な徇葬を国家事業としておこなった。だから、『旧唐書』倭国日本伝には「倭国(の人民たち)は自らその名(倭国という国名)が雅(みやびや)かではないと悪(にく)んだ」という記事がある。同書が「日本国は倭国の別種なり。(中略)。日本はもと小国、倭国の地を併(あわ)せた」と伝えているように、小国・日本の軍王の伊耶那岐命(後の開化天皇)によって小国・日本と倭国は併合(へいごう)されたのである。

▼いつも亡(ほろ)びるのは、いちばん大事な歴史を忘れてしまった民族である
 わが国の学者たちは誰一人も、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻が「今から約4000年前の後期縄文時代初頭に【倉頡が発明した漢字作成理論と、夏音文字の学問】を習得した事実」を学問的に科学的に伝えていることに気づいていない。「銀河」の別称は「銀漢」であり「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と称し、「銀河各部の形状が字源・字形の原形・原義」であったのである。「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読む漢字音は夏音文字の字音である。『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて、今から約4000年前に習得した多数の夏音文字が楷書を音符に用いて残っている

 いつも滅(ほろ)びるのは、もっとも大事な歴史を失った国家である
 『魏志倭人伝』は1ヵ所も〔誤読〕を加える必要がない正確無比(せいかくむひ)の資料であった。『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然(りろせいぜん)と伝える、世界史的にも特別に重大な資料であった。新井白石以来約300年も長い間、わが国の学者たちは〔多数の誤読〕を加えて「『魏志倭人伝』は邪馬台国の所在地を説明する資料である」と断定する。しかし、『魏志倭人伝』は倭女王・卑弥呼が居住した女王国の名は「邪馬壱国」であったと記して、【倉頡は発明した漢字作成理論】を伝えている

 そして、わが国では、現在、真実の日本国誕生史は廃棄(はいき)されている
 『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)は「【倉頡が発明した漢字作成理論】にもとづいて、夏音文字と楷書の字源・字形の原形・原義を天文学でいう通称“夏の銀河”各部の形状に変換にして読解すれば、『古事記』上巻は歴史を伝える資料となる」と説明している。この歴史解明方法のとおりに読めば、『古事記』上巻の〔伊耶那岐命と伊耶那美命の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話〕は「伊耶那美命は日本建国理念を〔愛〕と定めた」と歴史を伝えていることが学問的に科学的に証明される

 いつも滅亡するのは、いちばん大事な歴史を奪(うば)われて忘れてしまう民族である

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