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2021年9月30日 (木)

四千年前に日本には漢字が伝来していた・1


▼四年年前にわが日本には漢字は伝来した事実は、疑い余地(よち)もなく真実であった。

 この確かな真実は、現在、【学者たちが〔多数の誤読〕を用いて『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記述された原初漢字・夏音文字の習得記事を無視(むし)する空理空論・デタラメ】によってもみ消されている。
 これゆえ、現在、学者たちは――日本に漢字が最初に習得(しゅうとく)されて使用されたのは、5世紀あるいは6世紀である――と断定する。というのも、漢字が刻(きざ)まれていた鉄製の剣や鏡の遺物(いぶつ)における、最古の遺物は5世紀だからである。
 上記したように、5世紀の年代を記(しる)す鉄製の剣に漢字の楷書(かいしょ)が刻まれる。だから、学界は考古学の観点(かんてん)にもとづいて「日本が最初に漢字を習得して使用したのは5世紀あるいは6世紀である」と空想する。
 このような日本国の学者たちの空想・錯覚(さっかく)が原因で、わが国の学界はじめ知識人層・マスメディア・ジャーナリズム・評論家など、また多くの日本国民や、あるいは韓国人や日本国の歴史に精通(せいつう)する欧米の学者たちは「日本が漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と思いこんでいる。
 しかし、言語学・音韻学(おんいんがく)や文献史学(ぶんけんしがく)に則(のっと)ると日本国が最初に中国から漢字を習得したのは約四千年前、つまり紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、中国の夏代(かだい/夏后時代)初頭であったことになる。

◆中国からわが国に移住して漢字を最初にもたらした人々は、名門益氏(えきし)の王子と若者たちであった。この「漢字をわが国最初にもたらした名門益氏の王子と若者たちの歴史」は「益荒男(ますらお)」という語となって現在へと伝承されている。
 紀元前1世紀に生存した世界的に有名な中国の歴史家・司馬遷(しばせん)が著作した『史記(しき)』夏本紀(かほんぎ)・第二は、日本列島に漢字をもたらし名門・益氏について下記のごとく説明する。
 ――“夏()の始祖(しそ)”と呼ばれる禹()帝の後を継()いだ夏后(かこう)王朝の帝は、益(えき)であった。禹帝の息子は啓(けい)であった。帝禹と子の啓は、どのような政治体制するか意見が異(こと)なって対立(たいりつ)していた。帝禹は、今から約五千年前(紀元前3000年頃)から始まる五帝時代以来の氏族共同体制(しどくきょうどうたいせい)の継続(けいぞく)を願った。帝禹が願う「氏族共同体制」とは「多くの氏族でもっとも優秀な人物を帝に選び、多くの氏族が共同・共立しあって国家を樹立(じゅりつ)しない政治体制」である。しかし、禹の息子の啓は、「国家を樹立し、禹・啓の氏族が代々世襲(せしゅう)して帝となる」、いわゆる「世襲王朝国家体制」を願った。これゆえ、帝禹は東に巡幸(じゅんこう)して会稽(かいけい)の地に至って崩(ほう)ずるとき)、帝禹の政治を裨益(ひえき/補佐)した益に天下をさずけた。三年の禹の喪()が終わると、益は帝位を帝禹の子の啓にゆずった。というのも、帝禹につかえた諸侯(しょこう)はみな益のもとを去って啓のもとに入朝(にゅうちょう)したからである。帝益は天下を啓に禅譲(ぜんじょう/戦わずに帝位をゆずること)して、箕山(きざん)の南に隠棲(いんせい/隠居)した。
 
 帝禹は益に「氏族共同体制の継続・維持(いじ)」を遺言(ゆいごん)して、帝位を益にさずけたのである。ゆえに、帝禹につかえた諸侯たちが帝益のもとを去って啓のもとに入朝した様子は――諸侯は帝禹の遺志(いし)の氏族共同体制を望(のぞ)まず、啓が主張する世襲王朝国家体制の樹立(じゅりつ)を願っていることを表明(ひょうめい)したことになる。だから、帝益は戦(たた)わず禅譲(ぜんじょう)して帝位を啓にゆずったのである。
 司馬遷著『史記』世家(せいか)の陳杞(ちんき)世家(第六)は、益氏について下記のごとく説明する。
 ――帝王になった益の子孫は、どこに封(ほう)じられたか不明である。益氏について史伝に記載されていないからである。
 つまり箕山の南に住んだ益氏の王(首長)は、帝禹の遺志「氏族共同体制」を継続するために、日本列島の移住を決心した。しかし、老いた益には、小舟を漕()いで荒波逆巻(あらなみさかま)く大海・玄界灘(げんかいなだ)を渡りきる体力を失っていた。この「日本列島に移住して、帝禹の遺志・氏族共同体制の継続事業」は筋骨たくましい・玄界灘を小舟で漕いで渡りきることができる益の孫の王子と若者たちによって決行された。
 だから、名門益氏の子孫は忽然(こつぜん)と中国の歴史から消え、中国のどの地にも封じられた痕跡(こんせき)も無く不明となったのである。

◆夏代初頭に帝となった益氏は、(1)当時の原初漢字・夏音(かおん)文字に精通(せいつう)していた。また、益氏は五帝時代最後の舜帝(しゅんてい)につかえて約200年~約250年間、精密な中国海岸線地図を作製する「虞()」という重職に代々務(つと)めた。だから、(2)益氏によって〔中国精密海岸線地図〕が伝来した、また、漢字は今から約五千年前の五帝時代初頭の黄帝(こうてい)時代に発明されて起源した。だから、日本列島に移住した益氏の王子は(3)【漢字が起源した歴史と、その学問】に精通していた。
 ゆえに、漢字作成理論が発明された約千年後に日本列島に移住した益氏の王子と若者たちは、【(1)漢字作成理論の学問と、(2)夏音文字の学問と、(3)精密中国海岸線地図】を日本列島各地の後期縄文氏族たちに教えひろめて、帝禹の遺志〔国家を樹立しない・氏族共同体制〕を継続させた。このため、日本列島において国家は中国の夏国樹立から約2250年後もおくれた2世紀末の卑弥呼(ひみこ)王朝によって最初に創設された。
 上記した【名門・益氏の日本列島の移住の歴史】は、『日本書紀』巻第三の神武(じんむ)天皇紀における【天祖(てんそ)・彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)説話】に説明されている。この説話に登場「天祖」とは「益氏の王子」である。益氏の王子の名「彦火瓊瓊杵尊」にある[]の字の右下にある[]の字は「夏代初頭・夏音文字の学問」をあらわした。ゆえに、「瓊瓊」は〔日本列島における(1)漢字の発明における際作成理論、(2)夏音文字の学問、(3)中国精密海岸線地図の伝来・習得〕をあらわす。
 3世紀後半(280年~289)に著作された、倭人国(わじんこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)が登場する『魏志倭人伝』にも【名門・益氏の日本列島移住史】に関する記事がある。
 『魏志倭人伝』は「古(いにしえ)より以来、その使()中国に詣(いた)るに皆(みな)、大夫(だいふ)と称(しょう)す」という記事で、【名門・益氏の日本列島の移住史】を伝える。
 つまり、『魏志倭人伝』が記載される「大夫」という語は、万葉仮名(まんようがな/『万葉集』に用いられる漢字)では「ますらを」と読まれる。「ますらを」は、今日「益荒男」と表記される。この「益荒男」の3字は「益氏は荒々(あらあら)しい大海の玄界灘を小舟で漕いで日本列島移住に成功した勇猛果敢(ゆうもうかかん)な男(おのこ)たち」の略称(りゃくしょう)であったのである。
 『魏志倭人伝』の後半には「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆倭種(みなわしゅ)なり。又(また)、侏儒(しゅじゅ)国有り。その南に在り。人の長(たけ)三、四尺。女王を去ること四千余里。又、裸()国・黒歯(こくし)国有り。復()たその東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可()き。倭の地を参問(さんもん)するに、海中、洲島(しゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶()え或いは連(つら)なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」という、76字の記事がある。この記事もまた――【名門・益氏の日本列島移住史】について説明している。この証明は、わがブログ「邪馬台国はサギ・騙されるな」の1回~16回までで詳細に具体的に科学的に解説した。

◆だから、『魏志倭人伝』に記載される小国名・人名・官職名における夏音文字は、楷書(かいしょ)を音符(おんぷ/漢字音)に使用して表記(ひょうき)される。
 また、712年に編纂(へんさん)された『古事記』上巻には、現在から約四千年前となる中国の夏代初頭、いいかえるとわが国の後期縄文時代初頭に習得された原初漢字・夏音文字の字音が楷書を音符にして多数残っている。
 奈良県の佛隆寺にある樹齢900年の桜の大木や山梨県南巨摩郡本郷の旧妙本寺の樹齢600年といわれる桜の大木は「千年桜」と呼ばれて、歌にもなって有名である。
 この「千年桜」よりもはるか大昔に著作されて現在まで残った『魏志倭人伝』と『古事記』上巻には、【(1)漢字作成理論の学問と、(2)夏音文字の学問と、(3)精密中国海岸線地図の日本列島における習得】を明確に伝える記事が存在する。この見事に花咲き誇る重大な記事は学者たちによって「二千年桜の大木が理不尽(りふじん)にも伐採(ばっさい)されると同様に、横暴きわまりない〔誤読の空理空論〕」によって削除(さくじょ)・無視されている。
 「見事に花咲き誇る“二千桜”」ともいうべき“聖なる歴史書”である『魏志倭人伝』と『古事記』上巻には、今から四千年前に習得した夏音文字が多数記載されている。だから、四千年前にわが国は漢字を習得した歴史は、疑い余地もなく真実であったのである。

◆このブログでは――今から約四千年前(紀元前2070年頃~紀元前2050年頃)の中国の夏代初頭に、わが国が習得した漢字を前記したように「夏音(かおん)文字」と表記した。
 わが国の古代中国漢字研究の第一人者とされる白川静(しらかわ・しずか)博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの初めから3行目までで、〔わが国の漢字音〕と題して、下記のごとく指摘(してき)する。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学(おんいんがく)がとり入れられ、殊(こと)に音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用(てきよう)しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展(しんてん)をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものでることが明らかとなった。」

 白川静著『字統』は上記した〔わが国の漢字音〕と題する記事で「現存する中国の最古の漢字音よりも、わが国の国語として残っている漢字音のほうが古い」と指摘して、わが国の考古学の成果による漢字習得の定説は空理空論・妄想であったと明確に示す。
 現存する中国の最古の漢字音は「上古音」と呼ばれる。中国の「上古音」は今から約3070年前(紀元前1046)ごろの周代初頭からはじまるとされる。
 ところが、「日本が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する《わが国の考古学の成果による定説による漢字音》は、(1)白川静著『字統』の言語学・音韻学成果に反して中国の上古音よりも新しいことになり、どの証拠に(2)下に示す〔漢字生長史〕の年表において最下部に配置することになる。だから、学界の漢字習得の定説は【科学】が成立しない空理空論・幻想であった。
 『魏志倭人伝』と『古事記』上巻には、今から四千年前の夏代初頭に習得された夏音文字が多数記載されて、この目で実際に目撃できて四千年前に夏音文字を習得したことは真実であったと確認できる。このため、学界が考古学観点にもとづいて断定した漢字習得の定説は空理空論・幻想であったことになる。
 以上からして、白川静著『字統』が〔わが国の漢字音〕にて指摘する言語学・音韻学の研究成果は【科学】が成立する真実・真理ということになる。
 『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記載される《夏音文字の漢字音》について、白川静著『字統』は「現存する中国の最古の漢字音よりも、わが国の国語として残っている漢字音のほうが古い」と説明する。その証拠に――下に配した〔漢字生長史〕に示したように、わが国に残されている最古の夏音文字の漢字音は、現存する中国の最古の周代の上古音よりも約1000年も古い。
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◆千賀四郎(せんが・しろう)編集『日本古代史の旅・3 邪馬台国』(小学館発行/1975年初版第一刷)30ページは〔卑弥呼の発音について〕と題する【注】で、下記のごとく指摘する。
 ――卑弥呼の文字を中国漢字の上古音で読めば「ピミカ」になる。また魏以前の中古音で読めば「ピミエクゥオ」となり、(中略)、現在の中国音では「ピーミーフー」である。
 したがって、「卑弥呼」の[]の字を中国の上古音・中古音・近古音・現代音では「ピ」または「ピー」と読み、わが国のごとく「ヒ」とは読まない。
 だから、「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読む字音は、中国の上古音よりも古い・日本国に残されている最古の夏音文字の漢字音であった。したがって、わが国には、今から四千年前に習得された夏音文字は卑弥呼が生存した3世紀半においても受け継がれて残っていたことになる。
 わが国のすべての学者たちは「卑弥呼」の3字を夏音文字の漢字音で「ヒミコ」と読む。ゆえに、わが日本が最初には漢字を習得したのは今から四千年前(紀元前21世紀末)であったことは確かな事実であったのである。

712(和銅5)正月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』上巻にも、〔音〕という注がついて多数の夏音文字が記載されている。
 中国で編纂された正史(せいし)『新唐書(しんとうじょ)』の日本伝には、『古事記』成立した10年前の702年に中国に到着した第7回の遣唐使(けんとうし)が「後(のち)(やや)夏音を習(なら)う」と中国王朝に語ったという記事がある。
 この「後稍夏音を習う」と述べた遣唐使の言葉は「『古事記』献呈より40年前の672年におきた壬申(じんしん)の乱の後、稍々(やや/少し)夏音文字を習う(復興する)ことにした」と、10年後に成立した『古事記』上巻の編纂の方針について説明していたことになる。
 その証拠に、合計381字で構成される『古事記』上巻の伊耶那美命(いざなきのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)説話冒頭の〔淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚(せいこん)〕の箇所には6ヵ所〔音〕という注がつけられる夏音文字が全部で42字記載されている(注 1ヵ所〔音〕という注がつかない10字の夏音文字がある)
 つまり、(1)「許々袁々呂々邇(こをろこをろに)」の7字、(2)「淤能碁呂(おのごろ)」の4字、(3)「美斗能麻具波比(みとのまぐはひ)」の7字、(4)「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」の10字、(5)「阿那邇夜志愛袁登売袁(あなにやしえをとめを)」の10(この10字には、前の(4)10字に〔音〕という注がつく。ゆえに、〔音〕という説明は省略される)(6)「久美度邇(くみどに)」の4字、計42字ということになる。
 381字で構成される〔淤能碁呂島の聖婚〕の箇所にある計42字の夏音文字は「稍(やや/少しだけ)」ということになる。ゆえに、702年に遣唐使が中国王朝に「後稍夏音を習う」と語った言葉は「壬申の乱の後、稍々、夏音文字を復興する(習う)ことにした」と意味するものであった。
 このように、『古事記』上巻の随所(ずいしょ)には〔音〕という注がつく夏音文字が多数記載され、『魏志倭人伝』にも小国名・人物名・官職名に多数の夏音文字が使用されている。
 ということは、学界の「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という考古学の観点にもとづく定説は空理空論・妄想(もうそう)であったことになる。
 前記したように、(1)西洋の言語学・音韻学の研究成果と、(2)『魏志倭人伝』と『古事記』に記載される多数の夏音文字はじめ司馬遷著『史記』と『日本書紀』や『新唐書』などの文献資料に記載される夏音文字に関する記事からして、わが国が最初に漢字を習得したのは今から約四千年前の後期縄文時代初頭、中国の夏代初頭であったことになる。

◆『古事記』は上巻、中巻、下巻の三巻からなる。〔音〕という注がつく夏音文字は『古事記』上巻だけに記載される。中巻と下巻には夏音文字は記載されていない。
 『古事記』の序(じょ)は夏音文字が記載される上巻だけのきわめて特殊な序である。だから、『古事記』の序は、上巻・中巻・下巻の全三巻の序ではない。これゆえ、「『古事記』の序」は「古事記上巻 幷(あわ)せて序)と表記(ひょうき)されることになった。つまり、「『古事記』の序」は、随所に夏音文字を記載した『古事記』上巻だけの序であって、夏音文字を記載しない中巻と下巻の序ではない」と明記(めいき)するものであったことになる。
 このきわめて特殊な「古事記上巻 幷せて序」は、太安万侶(おおのやすまろ)が書いた。
 「古事記上巻 幷せて序」の冒頭記事は、【名門・益氏の王子と若者たちが日本列島に定住して教えひろめた、(1)夏音文字と、(2)今から約五千年前の五帝時代初頭の黄帝(こうてい)時代における漢字を発明】について非常に難解(なんかい)にして、また簡潔(かんけつ)な文をもって説明している。
 漢字は、黄帝につかえた史官(しかん/記録官)の倉頡(そうきつ)が発明した。というのも、中国に伝わる倉頡伝説は「太古、黄帝の時代に、倉頡がはじめて文字を作った」と説明するからである。この倉頡伝説は、現在、学者たちによって「事実ではない、荒唐無稽(こうとうむけい)の虚偽(ウソ)」であると全面的に否定されている。しかし、太安万侶が生存した7世紀後半から8世紀初頭では倉頡伝説は「倉頡は銀河(銀漢)から漢字作成する方法を発明した」と真実を伝えるものであった。これゆえ安万侶は、倉頡伝説は真実を伝えるという前提(ぜんてい)の基(もと)に「古事記上巻 幷せて序」を作成した。
 安万侶は「古事記上巻 幷せて序」の冒頭で、【今から約五千年前の黄帝時代、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】と、その千年後つまり【今から約四千年前の後期縄文時代初頭、わが国が習得した夏音文字の学問】について下記の文を作って説明する。
 ――臣(しん)安万侶言(まお)す。それ混元(こんげん)すでに凝()りて、気象(きしょう)(いま)だ効(あらは)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。しかれども乾坤(けんこん)初めて分(わか)れて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す。

 上記した太安万侶が書いた「古事記上巻 幷せて序」の冒頭記事が容易に理解できるように注釈をまじえて現代語に訳すると下記のごとくなる。
 ――元明(げんめい)天皇陛下につかえる臣下の安万侶は申し上げます。前期縄文時代以前の大昔(おおむかし)、日本列島各地の天頂(てんちょう/観察者の頭上)にめぐってきた銀河部の形状はすでに混沌(こんとん)としていましたがそれでもすでに固(かた)まっていました。しかし、このような前期縄文時代以前の日本列島の各地の天頂にめぐってきた銀河部の形状には「気象」すなわち「この世における事物にあって何物(なにもの)かに相似しているのかという気(イメージ)をあらわす象(かたち)」が判然(はんぜん)とせず不明瞭(ふめいりょう)でありました。このため、この銀河部をあらわす名称は無く、この銀河部の気象(イメージ)を表現する技術(わざ)も存在しませんでした。これゆえ、前期縄文時代以前の日本列島の住人(縄文人)たちが日本列島各地の天頂にめぐってきた銀河部についてどのように考えていたか、『古事記』を編纂(へんさん)することになった現在、誰も知っていません。しかしながら、前期縄文時代初頭(『古事記』成立から約4700年前)以後になると、日本列島の各地の天頂に「乾」と「坤」、つまり「天」と「地」のイメージをあらわす銀河部がめぐってきました。この「天」のイメージをあらわす銀河部は「妊婦(にんぷ)の姿」にも相似し、また「地」のイメージをあらわす銀河部は「天頂を仰ぎ見つめる地上のヒトの首(くび/人の横顔)」にも相似していました。このため、前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭(『古事記』成立から約2700年前)までの約2000年間――日本列島各地の天頂にめぐってきた「天」と「地」のイメージとなった銀河部と、その西方にあって天頂にめぐってきた「人の首(横顔)に酷似(こくじ)する銀河」と、その南にある「人の上半身・腰の形に相似する銀河」の各部をモデルにして多数の土器や土偶(どぐう)が作られました。そして、「地」のイメージとなった「ヒトの首」にも見立てられた銀河部が日本列島全土の天頂にめぐってきた後期縄文時代の首(はじめ/初頭)、中国から名門・益氏が日本列島に移住して【倉頡が発明した漢字作成理論の学問と、夏音文字の学問】を教えひろめました。それというのも、縄文人たちが土器・土偶のモデルとなった銀河と倉頡が漢字を作った銀河は同じであったからです。ですから、後期縄文時代初頭の芸術家たちは倉頡が漢字を作った同一に銀河から土器・土偶を作るものであったゆえ、彼らは【名門・益氏の王子が教えひろめた倉頡が発明した漢字作成理論と、夏音文字の学問】を理解することができたのです。だから、わが国は四千年前の後期縄文時代初頭に【倉頡が発明した聖なる漢字作成理論と、夏音文字の学問】を習得することができたのです。

 要するに、前記した「古事記上巻 幷せて序」の冒頭記事には「誰かその形を知らむ」と「天地」を意味する「乾坤」という語があるゆえ、「参神造化」は「夜になると天に輝く銀河を造形、すなわち造化する芸術」を意味した。したがって、「参神造化」とは「前期縄文時代・中期縄文時代・後期縄文時代初頭までの参時代における、土器・土偶を作った芸術(造化)の神」を意味した。というのも、わが日本において土器・土偶を作った芸術が花開いた時期は、今から六千年前の前期縄文時代初頭であったからである。

◆前述したように、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて夏音文字の字音をあらわす、この楷書は「漢字」である。中国でもわが日本は「漢字」という。「銀河」の別称は「銀漢(ぎんかん)」であるからして、「銀漢から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と称(しょう)することになった。
 天文学においては「夏に最も長時間見える銀河の範囲、言いかえると「夏の全星座が漬()かる銀河の範囲」を、通称「夏の銀河」とよぶ。
 前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭までの芸術家たちは【夏の銀河の各部を造形表現する土器・土偶】を作り、倉頡は【夏の銀河の各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論】を発明した。ゆえに、「夏の銀河」を、私は「文字作成銀河」と呼ぶことにした。
 前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭までに作られた土器・土偶のモデルとなった「夏の銀河」、すなわち倉頡が漢字作成理論を発明した「文字作成銀河」の写真を、下に示した。
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 天文学はじめ種々の学問分野において、《漢字の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)を解明することができる、〔文字作成銀河の各部の名称〕》を定めていない。ゆえに、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に秘められた《字源となった銀河部・字形の原形となった銀河部・字義の原義となった銀河部の解説と証明、あるいは【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】の解説と証明をおこなう際に非常に不便となるゆえ、私は下図のごとく〔文字作成銀河の各部の名称〕を定めた。
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 上に示す「文字作成銀河各部の形状」は「万物のイメージ」をあらわした。
 これゆえ、万物のイメージをあらわす文字作成銀河の各部の形状は倉頡が創(つく)った漢字の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)はじめ、【倉頡が発明した漢字作成理論】にもとづいて夏音文字・殷殷代(いんだい)前半期の原初漢字・殷代後半期から出現した甲骨文字・周代の金文・篆文(てんぶん)・秦代(しんだい)の隷書(れいしょ)・後漢時代から出現して隋代(ずいだい)で完成した楷書などの多数の漢字の字源・字形・字義となった。

◆《銀漢、すなわち文字作成銀河の各部の形状は漢字の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)となった史実》は真実・真理であった。この真実・真理にわが国の学者たちはじめ知識人層、マスメディア、ジャーナリズムなどの学識者たちの誰一人も気づかない。
 しかし、《銀漢、すなわち文字作成銀河の各部の形状は字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)となった史実》は真実・真理であったゆえ、「漢字」と名づけられた。
 今から約五千年前に生存した倉頡は、みずからが考案した文字が最(もっと)も強力な権力、莫大(ばくだい)な富(とみ)、最高の名声(めいせい)を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の知識を習得して革命に利用したならば黄帝王朝は容易(ようい)に滅亡すると心配した。ゆえに、倉頡は下記に示す三つの掟(おきて)を破った人物はもちろん、その人物の一族全員に厳(きび)しい神罰(しんばつ)がくだされて即刻(そっこく)に死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた三つの掟】
【一】「文字は銀漢(文字作成銀河)各部の形状から作られた」という秘密が容易に理解できるように明確(めいかく)に暴露(ばくろ)する者はもちろん、その者の一族全員をも死刑にする

【二】多くの文字を容易に覚えやすくするため、文字作成銀河の各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする
【三】書いた文字が用済(ようず)みになったならば、文字を消さない者または消し忘れた者も許さず、その者の一族全員をも死刑にする

 倉頡は「文字作成銀河各部の形状イメージ」でも「字源・字形・字義」となる事実に気づいた。ゆえに、倉頡は上記した【三】の掟を定めても、【倉頡が発明した漢字作成理論】は王朝をささえる最強の権力基盤となって永久に消滅しないことになる事実に気づいた。このため、五帝時代・夏代・殷代前半期は上記した倉頡が死刑と定めた【三】の掟は厳重(げんじゅう)にまもられた。だから、五帝時代・夏代・殷代前半期の原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発掘・発見されないことになった。しかし、上記したように、《文字作成銀河の各部の形状は漢字の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)となった秘密》は事実であったゆえ、『魏志倭人伝』や『古事記』上巻には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学問】が説明されることになった。
 今から約3300年前(紀元前1300年頃)に出現した殷代後半期の甲骨(こうこつ)文字は多数の文字数となったため、いちいち倉頡が定めた【三】の掟をまもるのが非常に面倒(めんどう)となった。このため、【三】の掟をまもらない者は死刑が免除(めんじょ)された。だから、甲骨文字を書いた資料の総数は10万点におよび、甲骨文字の字形の数(つまり、字数)は合計4672個となると発表されることになった。
 甲骨文字はじめ2世紀の後漢時代から出現してその後に用いられた楷書までの全漢字に取り扱(あつか)いにおいては、倉頡が定めた【一】と【二】の掟は厳重にまもられた。
 さらに、1738年以前のわが国においては、各代の天皇はじめ学問研究に努力した皇族たちや権力者たち(源頼朝はじめ北条氏・足利将軍たちや織田信長や徳川家康や大老職についた井伊家の家督者たち)や仏教の高僧たちは「漢字は倉頡によって銀漢から作られることになった事実(真実・真理)」を知っていた。しかし、彼らは倉頡が定めた【一】と【二】の掟を厳重にまもって暴露しなかった。
 ゆえに、近代・現代の学者たちは「銀漢から作られた文字であった」ゆえ、「漢字」とよばれることになった真実に気づかない。

◆前記した「古事記上巻 幷せて序」の冒頭記事のほかに、下記の二つの記事も【漢字は銀河から作られた、倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学問】を説明している。
 【一】「古事記上巻 幷せて序」の中半部にある――「目に度(わた)れば口(くち)に誦()み、耳に払()るれば心に勒(しる)す」という文は――【銀河(文字作成銀河)から漢字は作られた】と直接的に説明するとともに、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学問】について説明する記事であった。
 【二】「古事記上巻 幷せて序」の末部にある――「楷書の日下(にちげ)」は「玖沙訶(くさか/夏音文字)」と同義、楷書の「帯(たい)」は「多羅斯(たらし/夏音文字)」と同義である」という文もまた――【銀河(文字作成銀河)から漢字は作られた】と直接的に説明するとともに、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学問】について説明している。

◆前記したように、『魏志倭人伝』にある「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り」から「周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」までの76字の記事は【名門・益氏の王子と若者たちが日本列島に定住して、倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学問を教えひろめた歴史】を説明するものであった。
 この他に下に示した三つのグループ記事もまた、【漢字は銀河から作られた、倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学問】を伝える記事である。

1】倭人国に「おける占いに用いる辞(じ/文字とことば)について――『魏志倭人伝』は「その辞は、令亀(れいき)の法の如(ごと)く」、つまり「倭人国の占いに用いる辞は、亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ殷代後半期の甲骨文字のごとき文字であった」と説明する。
 甲骨文字の多数の字形は文字作成銀河のある部分の形に似せて図案されている。だから、甲骨文字は文字作成銀河から作られた(図案された)漢字であった。したがって、「令亀の法のごとき辞」という記事は「甲骨文字の字形に相似する夏音文字と夏音文字のことば」と意味した。ゆえに、占いする時に用いた(書いた)夏音文字は用済みになるとことごとく消された。ゆえに、夏音文字を書いた資料は出土しないことになった。だから、結局(けっきょく)、夏音文字は文字作成銀河各部の形状を字源・字形・字義と定める原初漢字であった。
2】中国()や朝鮮半島で用いていた楷書と倭にて使用されていた夏音文字について――『魏志倭人伝』は「倭の伊都(いと)国の津(つ/港)では魏の都の洛陽(らくよう)・帯方郡(たいほうぐん/魏の出張政庁が所在した朝鮮半島の一画に所在した郡)・諸韓国(朝鮮半島各地の国々)が用いていた楷書と卑弥呼が文書に用いていた文字(夏音文字)を一字ずつ丁寧(ていねい)に点検(てんけん)し確認(かくにん)して、両者の文字の解釈に差錯(ささく/間違い・誤訳)が生じないように正確に変換していた」と伝えている。
 魏の都と朝鮮半島で使用されていた楷書も倭の夏音文字の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)は文字作成銀河の各部の形状であった。ゆえに、倭の伊都国の役人たちは港からよく見える文字作成銀河の各部の形状を日々観察して、魏都・朝鮮半島における文書に用いられる楷書と卑弥呼が文書に用いた夏音文字の漢字を一字ずつ丁寧(ていねい)に慎重(しんちょう)に点検・確認して正確に変換することができたのである。いいかえると、もしも【楷書と夏音文字の字源・真の字形・真の字義が文字作成銀河各部の形状】ではなかったならば、楷書と夏音文字を正しく変換できなかったために魏と倭は国交を結ぶことができず、約2000字で構成された『魏志倭人伝』はこの世に存在しなかったことになる。
3】【楷書も夏音文字も、銀河(文字作成銀河)から作られた、わが日本は四千年前に倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学問を習得した事実】は、わがブログ「邪馬台国説はサギ、騙されるな」の17回~25回までで詳細に具体的に科学的に解説して証明した。
 『魏志倭人伝』は【楷書と夏音文字は文字作成銀河から作られた事実】と【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学問】について、下記に示す30の小国名とまた小国名と密接に関係する記事などで理路整然(りろせいぜん)と克明(こくめい)に説明している。
 上記した【1】と【2】と下記に示す【3】の30の小国名記事と、前記した「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り」から「周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」までの4小国名が列記される76字の記事を合計すると、約1100字となる。つまり、2000字で構成される『魏志倭人伝』の約55パーセントの記事は【楷書と夏音文字は文字作成銀河から作られた、わが国は四千年前に倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学問を習得した事実】を伝えていた――この「見事に花咲き誇る“二千桜”」と称するべき重大な真実・真理を、学者たちは『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加えてデッチあげた空理空論をもってことごとく削除(さくじょ)し無視(むし)する。

 【楷書と夏音文字は文字作成銀河から作られた、わが日本は倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学問を習得した真実】は、『魏志倭人伝』の前半部に列記される対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までの30の小国名で説明される。
 対馬国から狗奴国までの30の小国名を〔ふり仮名無し〕で列記すると下記のごとくなる。
 対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬壱国、斯馬国、巳百支国、伊邪国、都支国、弥奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国、狗奴国
 わがブログ「邪馬台国説はサギ、騙されるな」の17回~25回で解説したとおり、「対馬国から巳百支国までの10の小国名」で【倉頡が発明した漢字作成理論における基本字となる[()]】の字源・字形の原形・原義を「倭人国」という国名の[]の字で表示し、「対馬国・一大国」という二小国で【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴(しょうちょう)する聖獣(せいじゅう)について説明し、卑弥呼が居住した「邪馬壱(やまい)国」という女王国名で【倉頡が発明した漢字作成理論の核心部】をあらした。
 倉頡が創(つく)った[]の字源は「禾(穀物)が豊かに実(みの)る、五穀豊穣(ごこくほうじょう)」をあらわした。[]の字源は「妊婦(女性)の姿に相似する銀河にひそむ霊にゆだねられて、国土に健康な子どもたちが多数生まれる」をあらわした。ゆえに[]の下に[]が加わる[]の字源は「女性が穀霊(こくれい)を象(かたど)る禾形の作りものを被(かぶ)って舞う姿」であった。「女性(妊婦)の姿に相似する銀河の半身と、弓を左手にもつ男性の姿に相似する銀河の半身は交わりあって一体化するゆえ、「男女の姿」をあらわした。「男女の姿が交わって一体化する銀河」は[]をあらわした。ゆえに、人偏(にんべん/[]の偏)[]を加える[]の字源は「男女が稲魂(いなだま)に扮しておこなう農耕儀礼」をあらわした。
 だから、白川静著『字統』は[]に字源について「穀霊に象る禾形の作りものを被(かぶ)って舞う女の姿をいう。同じく禾形の作りものを被って舞う男を年というのと、同じ構造法の字であり、男女が稲魂(いなだま)に扮(ふん)して農耕儀礼を示す」と解説する。
 このような[]の字源をあらわして、『魏志倭人伝』の「伊邪国から華奴蘇奴国までの10小国名」は「女性が穀霊を象る作りものを被って舞う姿」の、つまり〔女性グループの10ヵ国〕を組織する。残る「鬼国から狗奴国までの10小国名」は「男性が穀霊を象る作りものを被って舞う姿の、つまり〔男性グループの10ヵ国〕を組織している。
 以上のごとく、『魏志倭人伝』は【漢字は銀河から作られた、倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学問】を克明(こくめい)に・正確無比(せいかくむひ)に・理路整然(りろせいぜんと伝える書物であった。

 ◆いっぽう、学者たちは、「『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した邪馬台国の所在地を説明する書物である」と断定する。
 しかし、前年に死去した古代史研究家の古田武彦(ふるたたけひこ)氏は、著書『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社発行)で、『魏志倭人伝』に記載された卑弥呼は居住した女王国名は「邪馬壱国」であったことを克明(こくめい)に調査して証明した。ゆえに、『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した女王国名を「邪馬壱国」と記している。
 要するに、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」という記事は一ヵ所も存在しない。だから、邪馬台国説は約2000字で構成される『魏志倭人伝』の記事と1ヵ所も合致しない・【科学】がまったく成立しない空理空論・妄想(もうそう)であった。
 以上のごとく、邪馬台国説を誇示(こじ)する学者たちは――「卑弥呼」の3字を四千年前に習得した夏音文字の漢字音で「ヒミコ」と読みながら、『魏志倭人伝』が約55パーセント・約1100字で説明する【倉頡が発明した漢字作成理論と、夏音文字の学問】を説明する記事を無視して、「漢字を日本国が最初に習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する。だから、『魏志倭人伝』は【漢字は銀河から作られた真実・真理と、倉頡が発明した作成理論と夏音文字の学問】を伝える歴史書ではあらず――と断定する、日本全国民を誑(たぶら)かす“大ウソつき”であったのである。

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