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2021年10月

2021年10月 9日 (土)

四千年前に日本には漢字が伝来していた・2

▼前回のブログ「四千年前に日本には漢字が伝来していた・1」で説明して証明したように――学者たちが自慢(じまん)する邪馬台国説は【多数の誤読を加える、騙(だま)しの方法】で捏造(ねつぞう)しねじまげてデッチあげた空理空論・デタラメ・大ウソであった。
 つまり、邪馬台国説を代表する(1)吉野ケ里(よしのがり)遺跡を根拠・理由とする邪馬台国九州説と纏向(まきむく)遺跡を根拠・理由とする邪馬台国説畿内(きない)説は、約2000字で構成される歴史書『魏志倭人伝(ぎわじんでん)』に【多数の誤読】を加えて騙(だま)す詭弁(きべん)をもって、事実・真実とはまったく無関係の空理空論・戯言(たわごと)・大ウソであった。
 だから、考古学を鼻にかけて吉野ケ里遺跡・邪馬台国九州説をとなえる「レジェント」と呼ばれる考古学者と、纏向遺跡・邪馬台国畿内説を誇示する「レジェント」と呼ばれる考古学者は「古代に作られた書物はもちろん、現代に著作された書物においても、【誤読を1ヵ所も加えずに】真っ先に読んで解釈しなければならない」という学問の基本について無知(むち)なる・初歩的心得(しょほてきこころえ)がそなわっていない“学者”と呼べない大ウソつきということになる。

◆吉野ケ里遺跡・邪馬台国九州説と纏向遺跡・邪馬台国畿内説は『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加えて成立する。この二つの邪馬台国説は「『魏志倭人伝』は倭女王・卑弥呼(ひみこ)が居住した女王国の所在地について記述する書物である」と主張する。

 しかし、『魏志倭人伝』に【1ヵ所も誤読】を加えないで全記事を忠実(ちゅうじつ)に読むと――『魏志倭人伝』は約55パーセント・約1100字の記事で、今から約4000年前の後期縄文時代初頭にわが国が中国から伝来した原初漢字の夏音(かおん)文字を習得(しゅうとく)したとき、今から約5000年前の中国の五帝(ごてい)時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた【倉頡(そうきつ)と呼ばれる聖人(せいじん)が発明した漢字作成理論の学問】をも習得した。ゆえに、倭女王・卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論の基本】をあらわすために国名を「倭人国」と定め、また女王国(倭人国の首都所在)の名を「邪馬壱(やまい)国」と定めて【倉頡が発明した漢字作成理論の核心】をあらわすようにし――さらに、倭人国を構成する34の小国名(ただし、1国の小国名は記されていない)をもって【倉頡が発明した漢字作成理論体系】を理路整然(りろせいぜん)と説明するようにした。つまり、倭女王の卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤(せいけんきばん)にして天下を治めた。卑弥呼が居住した女王国・邪馬壱国は山陰地方の石見(いわみ)・出雲(いずも)・伯耆(ほうき)、つまり現在の島根県と鳥取県西部であった――と解釈(かいしゃく)できる。
 このように、【1ヵ所も誤読】を加えない方法だと【多数の誤読】を駆使(くし)する邪馬台国説とまったく異(こと)なる結果となる。なお、『魏志倭人伝』に【1ヵ所も誤読を加えない解釈】だと、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】の基(もと)に統一されて1点の矛盾点も不合理な点も存在しない学術書であったことになる。

 学者たちは、倭女王・卑弥呼が居住した女王国の名は【誤読】して「邪馬臺()国」であったと主張する。しかし、実際、『魏志倭人伝』は女王国の名を「邪馬壹()国」と記す。また、【倉頡が発明した漢字作成理論】にもとづくと中国の東にある倭人国の首都所在地名は「邪馬壹()国」と表記すべきことになる。いっぽう、「邪馬臺()国」という表記だと倭人国の西にある中国の「魏の都・洛陽(らくよう)」をあらわすことになる。だから、『魏志倭人伝』は終末部にある「因()りて臺()に詣(いた)り」という文における「臺()」は「魏都の洛陽」を意味する。つまり、【倉頡が発明した漢字作成理論】に因()ると「洛陽」の[][]の字源(「洛陽」の語源)は「邪馬臺()」となるゆえ、その「邪馬」は省略されて「魏都」は「臺()」と記されたのである。
 〔注 なお『魏志倭人伝』は女王国名を「邪馬壱国」と表記して「邪馬台国」と表記していない事実を、前年に死去した古代史研究家の古田武彦(ふるた・たけひこ)氏が克明(こくめい)に調査・研究して、著書『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社発行)で証明した。〕

◆上記したように、このブログにおける説明を容易(ようい)に理解していただくため、わが国が中国の夏代(かだい)初頭に習得した漢字名を「夏音(かおん)文字」と名づけた。
 前回のブログ「四千年前に日本には漢字が伝来していた・1」においても解説したように――千賀四郎(せんが・しろう)編集『日本古代史の旅・3 邪馬台国』(小学館発行/1975年初版第一刷)30ページは〔卑弥呼の発音について〕と題する【注】で、下記のごとく指摘する。
 ――中国漢字の上古音(じょうこおん)で読めば「ピミカ」になる。また魏以前の中古音で読めば「ピミエクゥオ」となり、(中略)、現在の中国音では「ピーミーフー」である。

 したがって、「卑弥呼」の[]の字を中国の上古音・中古音・近古音・現代音では「ピ」または「ピー」と読み、わが国のごとく「ヒ」とは読まない。
 だから、「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読む字音は、中国の上古音よりも古い・日本国に残されている現存する最古の夏音文字の漢字音であった。したがって、わが国は、今から四千年前の夏代初頭に夏音文字を習得(しゅうとく)した。この夏音文字は卑弥呼が生存した3世紀半ばまで受け継がれて残っていたことになる。さらに、夏音文字は『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名に使用され、また『古事記』上巻の随所(ずいしょ)の〔音〕という注がついて多くの夏音文字が現在まで残っている。
 わが国のすべての学者たちは「卑弥呼」の3字を、当時の中国の中古音「ピミエクゥオ」と読まずに、夏音文字の漢字音で「ヒミコ」と読む。ゆえに、すべての学者たちは「卑弥呼」を「ヒミコ」と夏代初頭の漢字音で読むゆえ、わが日本が最初には漢字を習得したのは今から四千年前(紀元前21世紀末)であったことは確かな事実となる。

◆わが国の古代中国漢字研究の第一人者は、前年に死去した白川静(しらかわ・しずか)博士である。白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの初めから3行目までで、〔わが国の漢字音〕と題して、下記のごとく指摘(してき)する。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学(おんいんがく)がとり入れられ、殊(こと)に音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用(てきよう)しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展(しんてん)をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものでることが明らかとなった。」

 白川静著『字統』は上記した〔わが国の漢字音〕と題する記事で「現存する中国の最古の漢字音よりも、わが国の国語として残っている漢字音のほうが古い」と指摘する。
 この「現存する中国の漢字音よりも、わが国の国語として残っている漢字音のほうが古い」という漢字音は、「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む字音、つまり今から四千年前の中国の夏代初頭にわが国が習得した夏音文字の漢字音であった。
 中国に現存する最古の漢字音は「上古音」と名づけられる。中国の上古音で読むと、「卑弥呼」を「ピミカ」となる。中国の上古音は今から約3070(紀元前1046)ごろの周代(しゅうだい)初頭から始まるとされる。
 「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む夏音文字は、今から四千年前(紀元前2070年頃~紀元前2050年頃)の後期縄文時代初頭に、中国からわが国に伝来した。
 このため、夏音文字は『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名に使用され、また『古事記』上巻の随所(ずいしょ)に〔音〕と注がついて多数残っている。この夏音文字の漢字音は中国の最古の漢字音・上古音よりも約1000年も古い。
 したがって、わが国には四千年前に習得した夏音文字が残っていたから、白川静著『字統』は「言語学と音韻学の研究成果によって、現存する中国の漢字音よりも、わが国の国語として残っている漢字音のほうが古いことが明らかとなった」と指摘したのである。

◆現在、学界は――日本に漢字が最初に習得されて使用されたのは、5世紀あるいは6世紀である――と断定する。というのも、漢字が刻(きざ)まれていた鉄製の剣や鏡の遺物(いぶつ)における、最古の遺物は5世紀だからである。
 上記したように、5世紀の年代を記す鉄製の剣に漢字の楷書(かいしょ)が刻まれる。だから、学界は考古学の観点(かんてん)にもとづいて「日本が最初に漢字を習得して使用したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する。
 しかし、わが国が漢字を最初に習得した学説は――【一】白川静著『字統』が〔わが国の漢字音〕と題して箇所で指摘する、言語学と音韻学の研究によって解明された夏音文字が習得された後期縄文時代初頭の四千年前説と、【二】上記した考古学の観点による「わが国が、最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と学界が定める定説の、二つ学説が存在する。
 ところが、学者たちは、わが国の漢字習得の意見は【一】言語学・音韻学の観点と【二】考古学的の観点のまったく異なる二説が存在することを認識(にんしき)していない。

◆上記した【二】の「日本が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する《考古学の成果による定説による漢字音》は、中国の上古音よりも新しい。ゆえに、考古学の成果による定説は、下に示す〔漢字生長史〕の年表における最下部に配置することになる。この結果、考古学の意見を信用して学界が正しいと断定した漢字習得の定説は【科学】が成立しない空理空論・幻想であったことになる。
 というのも、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻には、上記した【一】の今から四千年前の夏代初頭に習得された夏音文字が多数記載されて、この目で実際に目撃できて四千年前に夏音文字を習得したことは真実であったと確認できるからである。
 学界が考古学の観点による漢字習得説が正しいと断定した錯覚(さっかく)が原因で、わが国の学界はじめ知識人層・マスメディア・ジャーナリズム・評論家など、また多くの日本国民や、あるいは韓国人や日本国の歴史に精通(せいつう)する欧米の学者たちは「日本が漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と思いこんでいる。
 いっぽう、いっこうに日の目を見ない白川静著『字統』が〔わが国の漢字音〕と題した箇所で指摘する言語学・音韻学の研究成果に合致する原初漢字・夏音文字の習得説は【科学】が成立して事実となる。
 というのも、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記載される《夏音文字の漢字音》について、白川静著『字統』は「現存する中国の最古の漢字音よりも、わが国の国語として残っている漢字音のほうが古い」と説明しているからである。その証拠に――下に配した〔漢字生長史〕に示したように、わが国に残されている最古の夏音文字の漢字音は、現存する中国の最古の周代の上古音よりも約1000年も古い。
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◆わが国が最初に中国から漢字を習得したのは約四千年前、つまり紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、中国の夏代初頭であったのである。
 前回のブログ「四千年前に日本には漢字が伝来していた・1」で具体的に解説して証明したように――『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)は「中国から伝来した夏音文字の学問を習得した夏代初頭、【倉頡が発明した漢字作成理論】をも習得した」と説明している。
 だから、「卑弥呼」は夏音文字の漢字音で「ヒミコ」と読むことになり、「卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤にして天下を治めた」と『魏志倭人伝』は約55パーセント・約1100字の記事で説明している。
 現在、学者たちは「太古、黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が漢字を発明した」と説明する中国の倉頡伝説を「荒唐無稽(こうとうむけい)の真っ赤なウソである」と断定する。
 この「倉頡伝説は荒唐無稽のウソ説」によって倉頡伝説を研究する学者が一人もいなくなった。このため、『魏志倭人伝』に【倉頡が発明した漢字作成理論】が記載されている事実に気づく学者がこの世から消えた。また、学者の誰一人も音韻学の成果に適合(てきごう)する夏音文字が『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に多数残っている事実に気づかないことになった。

 しかし、江戸時代中期の新井白石(あらい・はくせき)が邪馬台国畿内説・邪馬台国九州説を最初に立論した18世紀前半より以前において、学問に精通する学識者たち(たとえば、代々の天皇はじめ学問研究に努力した皇族たちや源頼朝はじめ北条氏・足利将軍たちや織田信長や徳川家康や大老職についた井伊家の家督者たち)は「倉頡伝説は事実を伝えている。倉頡は銀河から漢字を作る方法を発明した。【倉頡が発明した漢字作成理論】は鬼道(きどう)・神道(しんとう)の生みの親であり、漢字を使用して教えを説く仏教りも優(まさ)る最高峰の学問であり、真実・真理である」と絶対視して一点の疑いも抱かずに信じていた。
 このような次第(しだい)であったから、中国の晋(しん)王朝につかえた著作郎(ちょさくろう/歴史編纂官)であった陳寿(ちんじゅ)280年~289年ころに著作した『魏志倭人伝』は「倉頡伝説は事実を伝えている。倉頡は銀河から漢字を作る方法を発明した。【倉頡が発明した漢字作成理論】は最高峰の学問あり、真実・真理である」という考えの基(もと)に解釈(かいしゃく)しなければならない学術書であった。
 前述したように、『魏志倭人伝』に【1ヵ所も誤読】を加えないと、卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を政権基盤としたことが解明できる。その証拠に、卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を「倭人国」という国名で示し、【倉頡が発明した漢字作成理論の核心】を女王国の「邪馬壱(やまい)国」という女王国名であらわし、また33の小国名で【倉頡が発明した漢字作成理論体系】を理路整然と説明している。

◆邪馬台国説をとなえる学者たちは、きわめて自我中心的な主観的な考え(つまり、卑弥呼と同時代の3世紀に生存した『魏志倭人伝』の著者の陳寿の考えよりも、1700年後の現在に生きている自分たちの意見のほうが絶対に正しい)と考えて、『魏志倭人伝』に何(なん)ら躊躇(ちゅうちょ)せずに【たくさんの誤読】を加える。
 ところが、卑弥呼と同時代の3世紀に生存した、『魏志倭人伝』を著作した中国人の陳寿の記述が事実を伝えるものであったということになると、1700年後の現在の学者たちの『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加えて解釈する意見はあくまでも学者たち各自の主観的偏見(へんけん)であって、【科学】に反する大ウソ・空理空論ということになる。
 邪馬台国説をとなえる学者たちの主観的な考え方のルールは「『魏志倭人伝』は中国で著作された歴史史料である。ゆえに、中国の立場から倭人国の様子を記述した書物であると考えるべきことになり、単純に倭人国(日本)の文献史料として読んではならない。したがって、中国人の陳寿が著作した『魏志倭人伝』の全記事は正しい、事実を伝えていると軽々しく信用して読んではならない。なぜ、信用してはいけないのか、信用できない点はどのような事柄なのか、あるいはどのように考えたならば信用できることになるのか批判(ひはん)を加えて解釈しなければならない」である。
 しかし、上記の【多数の誤読】を加える主観的な邪馬台国説の方法で解釈(かいしゃく)された九州説と畿内説には幾つかの矛盾点と不合理な点が生じ、両説はともに【科学】がいっこうに成立しないために論争に終止符(しゅうしふ)を打つことができず、結局(けっきょく)、現在、事実であったと決着(けっちゃく)することができないままの状態となる。

◆いっぽう、陳寿の記述は3世紀の倭国における事実を伝えていると信じて【一ヵ所も誤読を加えない方法】で解釈する客観的な考えの場合、「〔倭人国から魏へ送られた国書(こくしょ)〕にあった記述を、陳述は『魏志倭人伝』に書きうつした」と考えるべきことになる。
 なぜならば、『魏志倭人伝』は――倭国は夏音文字の学問を習得し、また【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】をも習得した――と説明しているからである。だから、陳寿は〔倭国が作った国書〕を資料にして『魏志倭人伝』を著作したことになる。したがって、主観的な邪馬台国説学者たちの立論方法のごとく、中国の立場から倭国の様子を考える作業はいっさい不要となる。
 このように、【一ヵ所の誤読を加えない方法】だと主観的な邪馬台国説とは真逆(まぎゃく)の、邪馬台国説をとなえる現在の学者たちよりも3世紀に生きた陳寿を信じるべきということになる。
 上記のごとく【客観的な考え】に徹底(てってい)して、『魏志倭人伝』に【1ヵ所も誤読を加えない方法】で解釈すると――『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】の基(もと)1ヵ所も矛盾点も不合理な点も存在しない【科学】が成立する、正確無比(せいかくむひ)の学術書であったことになる。

◆中国の正史(せいし)『三国志』において〔魏書東夷伝(ぎしょとういでん)〕の末部にある「倭人伝」の通称が『魏志倭人伝』である。『三国志』は中国の正史のなかでも史料価値が高い良史(りょうし)と評価され、著者の陳寿は優れた歴史家であったとされる。
 現在、倉頡伝説は学者たちによって「荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメ」と断定されているが――陳寿が生存した3世紀における「優れた歴史家の条件」は「倉頡伝説は事実を伝えるものであり、真実・真理である。倉頡は文字(漢字)を銀河各部の形状から作った」という知識を有していることであった。
 中国において「優れた歴史家」と尊(とうと)ばれる第一人者は、陳寿より約370年前に生存した『史記(しき)』を著作した司馬遷(しばせん)である。司馬遷の官職は「太子令(たいしれい)」であった。「太子令」の3字は「【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】に精通(せいつう)する歴史局の総裁」と意味した。
 漢字の字源を解説する“字書の聖典(せいてん)”と尊重された『説文解字(せつもんかいじ)』は、陳寿が『三国志』を完成させた年より約170年前の後漢時代の建光(けんこう)元年・121年に安帝(あんてい)に上呈(じょうてい)された。
 『説文解字』の序には「けだし文字は経芸(けいげい)の本(もと)、王政の始め、前人(ぜんじん)のもって後人(こうじん)に垂()れるところ、後人のもって古(しにしえ)を識()るなり」という文がある。
 上記の文は「考えるに、倉頡が発明した文字は学問の根本であり、【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】は王道政治を始める(創設する)際に真っ先に必要な権力基盤であり、過去の出来事である歴史を正確に知る方法である」と意味した。
 倉頡は「銀河各部の形状から、文字を作る方法を発明した。したがって、銀河各部のイメージを感覚(かんかく)で造形(ぞうけい/図案)する行為(こうい)」は「芸術」ということになる。だから、「経芸」は「学問」を意味した。[]の甲骨(こうこつ)文字の字形は「わが国の千木(ちぎ)形式の神社の形」に表現され、[]の字源は「[]の千木形式の建物は、南北(経度軸)を測量して造営(ぞうえい)するが決()まり」であった。これゆえ、「経芸」は「学問」を意味した。
 下に、[]の字源となった「千木形式の神社建築の図」を配した。
S73
◆上記した司馬遷の官職名「太子令」が示しているように、3世紀において「優れた歴史家」となるためには、《【倉頡が発明した漢字作成理論】を学(まな)び、漢字の字源・真の字形・真の字義は銀河各部の形状であるという知識》を有していなければならなかった。

 『魏志倭人伝』には「対馬国(現在の長崎県の対馬)と一大国(現在の長崎県壱岐)の中間の海の名は瀚海(かんかい)であった」という記事がある。
 この「瀚海」という記事は、特に注目すべきことになる。
 対馬国と一大国の中間の「瀚海」は「倉頡がつかえた黄帝を祭る廟(びょう)と墓である黄帝陵(こうていりょう)より北方の広大な沙漠(さばく)の、ゴビ沙漠」を意味した。ゆえに、対馬国と一大国の中間に「ゴビ沙漠・瀚海」が存在するはずがない。「この瀚海、ゴ沙漠という記事は何じゃーい? これはビックリ・シャックリ玉手箱(たまてばこ)!」と注目すると、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える学術書であったことが解明できるようになる。というのも、対馬国と一大国の中間の海の名「瀚海」は、倭国の33の小国名が【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】をあらわす仕組みにするための卑弥呼が考えた工夫(くふう/アイディア)であったからである。
 多分(たぶん)、陳寿は〔倭から魏へ送られた国書〕に「瀚海」という記述があることに注目したのであろう。けれども、中国の学識における常識にもとづくと、「瀚海」という記述は不合理であるゆえ削除(さくじょ)すべきことにある。しかし、「倉頡」の中国の読みは「ツンギ」であり、「ツンギ」つまり「蒙古(もうこ)のツングースー族」はゴビ沙漠の住人である。これゆえ、陳寿は「倭国はもしや【倉頡・ツンギが発明した漢字作成理論】を知っているのではないか」と想像したのであろう、だから「瀚海」という語を削除しなかった。
 というのも、『魏志倭人伝』には「倭の伊都(いと)国の津()では、魏の都・帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国が文書に用いていた楷書(かいしょ)と倭女王・卑弥呼が魏都・帯方郡政庁に送った文書に用いていた文字(夏音文字)を一字ずつ丁寧(ていねい)に点検(てんけん)し確認(かくにん)して、両者の文字(楷書と夏音文字)の解釈に差錯(ささく/間違い・誤訳)が生じないように正確に変換していた」という記事があるからである。この〔伊都国の記事〕では「倭国の伊都国では、卑弥呼が文書に用いた夏音文字と魏都と帯方郡政庁で用いる楷書に正しく変換できた」と説明しているゆえ、陳寿が『魏志倭人伝』を著作するために使用した資料は〔倭人国が作った国書〕であったと考えるべきことになる。
 というのも、倭国では――倉頡は銀河から漢字を作る方法を発明した。倭国では漢字が銀河から作られた秘密を知っていた。ゆえに、伊都国の役人たちは港からよく見える銀河各部の形状観察を日課(にっか)にして、魏都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる楷書と卑弥呼が文書に用いる夏音文字の字源・真の字形・真の字義を銀河各部の形状をもって一字ずつ点検し確認して誤訳が生じないように正しく変換していたこと――になるからである。
 上記した〔伊都国の記事〕と〔晋王朝が秘蔵(ひぞう)する「倭国から送られた国書」とされる資料には多数・多種の漢字が用いられている状況〕から、陳寿は「倭国には、銀河から作られた漢字が存在する」と察知(さっち)した。そして、倭女王名はなにゆえ「卑弥呼」なのかと注目(ちゅうもく)した。『説文解字』は[]の字源を「賤(いや)しきものなり」つまり「身分が低くいやしい」と解説するが、陳寿は女王名の[]の字を「賤しい」と解釈するのは誤りと考え、倭国の[]の字には女王にふさわしい別の意味があるのではないかと考えた。紀元前3世紀から6世紀にかけて中国の北部のゴビ沙漠・瀚海に住んだ遊牧民族は「鮮卑族」と名づけられた。ゆえに、陳寿は「倭国には【ゴビ沙漠の住人・鮮卑族であったかもしれないツンギ・倉頡が発明した漢字作成理論の学問】が存在するであろう」と想像した。あるいは、「卑弥呼」の〔卑〕は「黄帝の政治を裨益(ひえき/補佐)した倉頡」をあらわしているであろうと推定した。あるいは、「裨益」の[]の原字は[]であり、「益は夏の始祖の禹()帝の政治を裨益(卑益)した」ことで有名であるゆえ、「卑弥呼の先祖は、夏王朝の帝位についた名門・益氏と接触(せっしょく)して【倉頡・ツンギが発明した漢字作成理論の学問】を習得した可能性がある」と考えたかもしれない。というのも、『魏志倭人伝』には「倭女王・卑弥呼は鬼道(きどう)を事(まつ)って能()く衆(国民)を惑(まど)わす、つまり民衆の心を一つにして国家を治めた」という記事が存在するからである。〔注、[]の正字は[]である。[][()]の中央に[]の字を配し、[][]の下に[]を加える字である。だから、「惑わす」は「民衆の心を一つにして国家を治める」と意味するものであったことになる。〕
 司馬遷著『史記』五帝本紀(ごていほんぎ)には「天地山川の鬼神(きじん)をまつっていた」という記事があり、また司馬遷著『史記』夏本紀(かほんぎ)にも「禹()帝は衣食をうすくして鬼神への供物を豊富にした」という記事がある。そして、卑弥呼がまつった「鬼道」は「鬼神の道」である。だから、陳寿は「倭国では、夏王朝の帝位についた益氏から【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を学んだ可能性がある」と考えたのではなかろうか。
 他にも『魏志倭人伝』には、陳寿は〔倭国が作った文書〕を資料にしたと示す記事は種々(しゅしゅ)存在するが、説明が煩雑(はんざつ)になるので省略(しょうりゃく)する。
 特に注目すべき点は、前述したように、対馬国と一大国の中間の海の名称を「瀚海」(ゴビ沙漠)とした不可解(ふかかい)な記事が『魏志倭人伝』に残ったということである。この「瀚海」という記述は、中国人の陳寿ならば、当然(とうぜん)、「何じゃ? これは! 黄帝陵の北方にある広大な瀚海・ゴビ砂漠が倭国の海に存在するはずがない」と考えて削除(さくじょ)すべきことになる。しかし、陳寿は「瀚海」という2字を残した。この「瀚海」という記事は〔倭国が作った国書〕を資料にして陳寿が『魏志倭人伝』を著作した明確なる理由・証拠となる。
 「瀚海」という語は〔倭国から送られた国書〕に記された女王国名の「邪馬壱」という語と密接(みっせつ)に関係した。「対馬国と一大国の中間に、瀚海・ゴビ沙漠」を挿入(そうにゅう)すると、倭の33小国名は【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明することができるようになる。つまり、「瀚海」という2字は「卑弥呼が倭国33小国名で【倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわすために考えた天才的なグッドアイデア(すばらしい工夫)であった。
 だから、「瀚海」という語に注目すると、陳寿は〔倭国から送られた国書〕を資料にして『魏志倭人伝』を著作したと確信(かくしん)できる。

◆陳寿は〔倭国から魏に送られた国書〕に、批判や自分の主観をいっさい加えることをしなかった。陳寿は〔倭国の伊都国の港で夏音文字を楷書に変換した国書〕を資料にして『魏志倭人伝』を著作した。
 だから、「瀚海」と「邪馬壱国」という表記が残った『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を理路整然と説明する正確無比の聖典(せいてん)となった。
 したがって、陳寿は優れた歴史家であった。
 晋王朝に秘蔵されていた〔倭国から魏へ送られた国書〕を読んだ陳寿は「倭国には【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】が存在するのではないか」と直観した。ゆえに、「まさか、倭国に【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】が存在するはずがない」という否定・批判・常識に閉()じこもるのを止()めて、「倭国には【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】が存在するにちがいない」という推論・感受性(かんじゅせい)を信じて、〔倭国から送られた国書〕とされる資料の文字を1字も直(なお)さないで『魏志倭人伝』を著作した。
 3世紀に生存した陳寿と対照的(たいしょうてき)に、現代の邪馬台国説を主張する学者たちは『魏志倭人伝』の記事を読んで多数の主観的偏見(否定・批判)を加えて「倭国には漢字がなかった」と断定するゆえ、その思考(しこう)は空転(くうてん)する。というのも、音韻学が解明しているように「わが国は紀元前21世紀の後期縄文時代初頭に、原初漢字・夏音文字を習得していた」からである。だから、邪馬台国説は『魏志倭人伝』と無関係の空理空論・大ウソへと一気に転落(てんらく)するデタラメであった。

◆以上のごとく、【1ヵ所も誤読】を加えなければ、『魏志倭人伝』は【倉頡が銀河から文字を作る方法を発明した学問】を理路整然と解説する学術書であった。
 古代エジプト文字(ヒエログリフ)は倉頡が漢字を発明した約100年前の紀元前3100年頃からほとんど完成された形で出現されたと指摘されている。
 前年に発表したわがブログ「古代エジプト文字の字源」の1回~27回で毎回のごとく証明したように――古代エジプト文字と倉頡が漢字を作った銀河の範囲は同一で、その同一銀河は天文学の通称「夏の銀河」とよばれる「夏に最も長時間見ることができる銀河の範囲」であった。
 「古代エジプト文字は夏の銀河各部の形状から作られた」と理路整然と正確に伝える古代文献は一冊も発見されていない。古代エジプト王朝は「銀河から作った文字の学問」を独占管理(どくせんかんり)して厳重(げんじゅう)に機密(きみつ)を保持(ほじ)して、民衆が容易に理解できる資料あるいは理路整然と解説して後世の学者たちに伝える資料を作成した者は即座に死刑にした。だから、これからも「古代エジプト文字は夏の銀河から作られた」と解説する学術資料にふさわしい古文献は一書も発見されないにちがいない。
 そうすると、『魏志倭人伝』は《古代エジプト文字と漢字の起源を理路整然と説明する聖典》、人類にとって最高に重大な学術書であったことになる。
 古代エジプト文字をルーツとする文字を現代に使用する人々は約55億人以上も存在する。漢字の使用者数は約15億人とされる。世界の人口は約80億人であるから、世界の約90パーセント以上の70億人以上の人々が使用する文字は、夏の銀河の各部の形状から作られて起源したことになる。
 『魏志倭人伝』は世界の約9割の人類が使用する文字の祖先(ルーツ)が夏の銀河から作られた事実を理路整然と説明する学術書であった。
 にもかかわらず、邪馬台国説をとなえる学者たちは【多数の誤読】を加える騙(だま)しと詭弁(きべん)をもって人類にとって重大な学術書『魏志倭人伝』を台無(だいな)しにする。
 だから、邪馬台国説学者たちは大ウソつき、人類共通の敵(てき)であったのである。
 次回のわがブログ「四千年前に日本には漢字が伝来していた・3」では、『魏志倭人伝』は【古代エジプト文字と漢字は夏の銀河(文字作成銀河)から作られた事実を理路整然と説明する学術書】、また【現在90パーセントの70億人以上の人々が使用する文字の起源の秘密を正確無比に説明する貴重な学術書】であった、大発見が容易(ようい)に理解できるように説明する。

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