« 漢字の起源は日本から始まった・1 | トップページ | 邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・1 »

2022年3月 2日 (水)

漢字の起源は日本から始まった ・2

#『魏志倭人伝』は漢字が起源した秘密を理路整然と伝える書物であった

◆このブログ名「漢字は日本から始まった」は正確ではない。
 ――もちろん、漢字は中国から起源した。しかし、3世紀後半(280289)のわが国の様子を伝える『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』には【今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が漢字を発明した事実】が科学的に学術的に明確に証明できるように記述された――このような事情にもとづき、ブログ名を「漢字は日本から始まった」と定めた。

◆漢字は中国の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡が発明した。
 しかし、この倉頡伝説は中国とわが国の学者たちによって事実ではない、空想であると定まれている。
 ところが、3世紀後半、中国の晋王朝につかえた歴史編纂官の陳寿(ちんじゅ)は魏へ送られた倭の国書にいっさい批判や自らの主観を一点も加えずにそのまま書き写して『魏志倭人伝』を作成した。この結果、『魏志倭人伝』には――倭人国の女王・卑弥呼(ひみこ)は倭人国の34ヵ国の小国名をもって【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器管」の医学研究と、黄帝の医学研究を表示することができる文字の発明、つまり倉頡が発明した漢字作成理論の学術】を理路整然と説明した史実――が記述されることになった。
 要するに、卑弥呼は【黄帝の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論の学術】を政権基盤として倭人国を統治するため、下に示した西日本地図における34ヵ国の小国名をもって【黄帝の医学研究を表示することができる文字を倉頡が発明した、その倉頡が発明した漢字作成理論の学術】を理路整然と説明する仕組みにしたのである。
S901
◆『魏志倭人伝』は計1983字と5世紀の裴松之(はいしょうし)が加えた注の56字、合計2039字で構成される。
 そのうち、「倭の吉凶を占うときに卜(ぼく)する辞(じ/ことばと文字)は令亀法(れいきのほう)、つまり、亀の甲羅に文字を刻んだ甲骨文字のごとき初期漢字の辞であった」と説明する、34字で構成される記事がある。
 学界は「わが国が最初に漢字の習得をしたのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する。この断定意見(定説)は《文字が刻まれた最古の出土物は5世紀あるいは6世紀の鉄剣や銅鏡である》という考古学的観念にもとづいている。
 しかし、倉頡は天文学で通称「夏の銀河」と呼ばれる「夏に最も長時間見ることができる銀河の範囲」から漢字を作成する方法を発明した。
 つまり、「銀河」の別名は「銀漢(ぎんかん)」、「銀漢から作られた文字」を省略して中国でもわが国でも「漢字」と呼ぶことになった。
 下に、天文学で通称「夏の銀河」と呼ぶ、「漢字」の語源となった「銀漢(銀河)」の写真を配した。
Photo_20220302105701
◆上の【1】「夏の銀河」と【2】【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器管」の研究】を合体して、倉頡は【漢字作成理論の学術】を発明した。
 倉頡はみずから考案した文字が最も強大な権力、ばく大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が【倉頡が発明した漢字作成理論の学術】を習得して革命に利用したならば黄帝王朝は容易に滅亡すると心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す三つの掟を破った人物はもちろん、その人物の一族全員にも厳(きび)しく神罰がくだされて死刑に処せられると定めた。

◆【倉頡が死刑と定めた三つの掟】
【一】「文字は銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた」という秘密が容易に察知できるように明確・直接的に説明して暴露する者はもちろん、その者の一族全員をも死刑にする
【二】多くの文字を容易に覚えるため、銀漢各部に名称をつけた者、またはその者の一族全員をも死刑にする
【三】書いた文字が用済(ようず)みになったならば、書いた文字を消さない者、また消し忘れた者もゆるさず、その者の一族全員をも死刑にする

◆上記の【倉頡が死刑と定めた三つの掟】のために、(1)五帝時代の書契(しょけい)(2)夏代(かだい)の夏音文字と、(3)殷代(いんだい)前半の三つの初期漢字は【夏の銀河各部の形状が字源、字形・字義】となった。
 ゆえに、『魏志倭人伝』に記述された「令亀の法のごとき文字、つまり殷代後半の甲骨文字のような初期漢字」は【倉頡が死刑と定めた三つの掟】によって《占いが終わると、ただちに書かれた文字が消される》ことになった。だから、『魏志倭人伝』に記述された「令亀の法のごとき初期漢字」が書かれた史料は出土しないことになった。

しかし、『魏志倭人伝』に記述された「令亀の法のごとき、つまり甲骨文字のような初期漢字の字源・字形・字義」は、上の写真で示した「夏の銀河の各部の形状」であった。よって、『魏志倭人伝』は「5世紀あるいは6世紀以前において、わが国は倉頡が【黄帝の医学研究と夏の銀河の各部の形状】を合体して発明した漢字作成理論を保存する初期漢字を習得していた」と伝えていたことになる。

◆『魏志倭人伝』は「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国があり。皆、倭種なり」という文の後に「侏儒国、裸国、黒歯国」を説明して「周旋五千余里ばかり」という76字の記事で――今から約4000年前の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、中国から玄界灘を越えて名門益氏の王子一行(夏代初頭の二代帝王・益の王子と若者一行)が男鹿半島・米代川(よねしろがわ)縄文文化圏に定住した。益氏は【(1)黄帝の医学研究と夏の銀河各部の形状を合体する倉頡が発明した漢字作成理論の学術と、(2)夏代初頭の夏音(かおん)文字と、(3)夏代初頭における精確な中国海岸線地図・精密地図作製方法】を教えひろめた――と説明している。
 これゆえ、上記した「殷代後半の甲骨文字、つまり令亀の法のごとき初期漢字」は「甲骨文字が出現するより約750年前の、紀元前2070年頃~紀元前2050年頃にわが国に定住した益氏が教えひろめた夏代初頭の夏音文字」であった。
 その証拠に、「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読む字音は、わが国が夏代初頭に習得した夏音文字の字音である。
 なお、紀元前1世紀に成立した司馬遷(しばせん)著『史記』夏本紀は「夏代の王朝の名は、夏后(かこう)であった」と記す。ゆえに、「夏王朝名」は「夏の銀河」の[][(きさき]を加えて「夏后」と定めたと考えるべきことになる。つまり、(1)【黄帝の「子どもを生む女性の生殖器」の研究】と(2)「夏の銀河において、ひときわ目立つ妊婦像」を[](きさき/「王の妻」)に見立てて、「夏后」と名づけられたことになる。
 []の金文形には()「夏の銀河像」を図案するものと、()「夏代初頭における春分点があるおうし座と、その北隣のぎゃしゃ座が漬かる銀河像」を図案する二種類の異体字がある。ゆえに、「夏后」の[]の字源・字形・字義は「夏の銀河」であった。「夏の銀河」において、ひときわ「子どもを孕(はら)む妊婦(母体)像」に相似する銀河部が目立つ。また「后」の金文形は「妊婦(母体)と妊婦から生まれる子の姿」を図案する。ゆえに、上記したように、[]は【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の研究】をあらわしていることになる。だから、[][]の字源は()「夏の銀河」、()「夏代初頭の春分点周辺の銀河像」、()「夏の銀河においてひときわ目立つ妊婦像(母体像)の銀河」と、()【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」であったことになる。
 〔注 上記したように、わが国が夏音文字を習得した夏代初頭の春分点は、おうし座の昴・すばるの東隣に位置した。この「夏代初頭の春分点が所在した、ぎゃしゃ座とおうし座の合体形」は、「東北地方伝統の〔鬼・なまはげの姿〕」に相似する〕。

◆インターネット・ブログで「中国に現存する漢字音」と入力すると――「現存する中国の最古の漢字の漢字音」は「上古音」とよばれ、この「上古音の始まり」は「紀元前1046年の周代初頭」である。
 だから、紀元前1300年頃の殷代後半初頭から出現する甲骨文字には、〔字音〕は現存しない。甲骨文字は(1)字源、(2)字形、(3)字義を有するが、(4)字音が現存しない不完全な漢字である。また、甲骨文字の(1)「字源」、(2)「字形の原形」、(3)「字義の原義」はわが国が紀元前11世紀に習得した夏音文字と同じく「夏の銀河各部形状」であった事実は、『魏志倭人伝』によって科学的に学術的に明確に証明される。
 他方、わが国が習得した夏音文字の(1)字源と(2)字形と(3)字義は「夏の銀河各部の形状」であり、夏音文字の(4)字音は『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名として現在まで残っており、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて現存する。さらに令和元年(2019)11月におこなわれた大嘗祭における主要建物の「悠紀殿」の「悠紀」は「ゆうき」と読まずに夏音で「ユキ」、「主基殿」の「主基」は「しゅき」と読まずに夏音で「スキ」と読むように、現在においても夏音文字は日常生活に溶け込んで生き延びている。したがって、甲骨文字よりも約750年前に出現した夏音文字は(1)字源、(2)字形、(3)字義、(4)字音の四拍子がそろう完全な漢字である。いっぽう、学者たちが「漢字の最も古い祖型」と考える甲骨文字は、前述したように(4)字音が現存しない不完全な漢字である。

◆上記したように、『魏志倭人伝』に登場する「卑弥呼」は夏音で「ヒミコ」と読まれる。現存する中国の最古の漢字音「上古音」で「卑弥呼」の3字を読むと「ピミカ」となる。
 下の「漢字生長史」の上部に示したように――「卑弥呼」を「ヒミコ」と読むわが国が後期縄文時代初頭に習得して現存する夏音文字の字音は紀元前21世紀(紀元前2070年頃~紀元前2050年頃)の漢字音である。ゆえに、わが日本国に現存する夏音文字の字音は中国に現存する最古の漢字音「上古音」(周代初頭の紀元前11世紀)よりも約1000年前の漢字音であった。
 学界が主張する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は、中国の上古音よりも約1500年から約1600年も新しい時代の出来事となる。ゆえに、学界が主張する定説は下の「漢字生長史」の最下部に配することになるゆえ、音韻学に反する非科学的な・事実ではない空想であったことになる。
Photo_20220302105901
◆だから、学界や考古学の権威にとって『魏志倭人伝』の「倭の卜占に用いた辞は令亀の法のごとし」という記事は、絶対に事実ではあってはいけない・実に不都合な真実ということになる。
 ゆえに、この記事の存在について、声を大にして指摘する学者は一人もおらず、邪馬台国説をもって無視し除外されている。
 また、「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」という読む字音は紀元前21世紀に習得した夏音文字の字音である事実も、学界や考古学が断定した定説は根本的に誤っていたことになる。これゆえ、学界と考古学では「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む字音が「夏音文字の字音」であると指摘されず、徹底的に無視されている。しかし、音韻学によって「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む字音は「夏音文字の字音であった」と証明されることになる。
 このような事情で、日本中の国民は――『魏志倭人伝』に「わが国は紀元前21世紀に、最初に漢字(夏音文字)を習得した」と説明する記事が存在する事実――を知っていない。また、日本中の国民は――「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」という読む字音は、紀元前21世紀に習得した夏音文字の字音である事実――も知っていない。
 考古学や邪馬台国説に誑(たぶら)かされ・騙(だま)され・ゴマカされて『魏志倭人伝』に「倭の卜占に用いた辞は令亀の法のごとし」という記事が存在する事実は隠蔽(いんぺい)されている。このため、この事実を日本国民は知っていない。
 上記した「漢字生長史」が明確に示すように、出土した文字を刻する鉄剣や銅鏡の年代から「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する考古学の観点にもとづく定説は、真っ赤なウソ・空理空論・非科学的なデタラメであった。

◆上記した『魏志倭人伝』にある「倭人国の卜占に用いる辞は令亀の法のごとし」という記事は事実・真実を伝えていたのである。
 わが国の古代中国漢字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は9ページの終わり3行目から10ページの初めから3行目までで「わが国の漢字音」と題して下記のごとく指摘する。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかとなった。」
 このように、白川静著『字統』が「音韻史研究によって、わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最もふるい時期のものであることが明らかになった」と指摘する、中国に現存する最古の字音「上古音」よりも古い、わが国の国語として残っている最古の漢字音はわが国が夏代初頭に習得した夏音文字の字音であった。現存する最古の漢字音は、「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む、わが国が夏代初頭に習得した夏音文字の字音であったのである。
 だから、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と主張する学界と考古学と邪馬台国説にとって、『魏志倭人伝』の「倭の卜占に用いた辞は令亀の法のごとし」という記事は実に不都合な真実となる。
 考古学と邪馬台国説によって成立した漢字習得の定説は、一片の正当性も有していない100パーセントのデタラメ・空理空論であったのである。

◆学界と考古学と邪馬台国説にとって、前記した34字の「令亀の法のごとし」という記事のほかに、『魏志倭人伝』にはもう一つ「わが国は夏音文字を習得した」と証言する、不都合な真実を伝える記事が存在する。
 この不都合な真実の記事は67字で構成される。
 この記事は「女王国より以北には特に一大率(いちだいそつ)を配置して諸国を検察させた。倭人国の諸国はこれ(一大率)を畏(おそ)れ憚(はば)かっている。一大率は常に伊都国に居住して治めた。一大率は国中において刺史のごとき(しし/現在の警視総監と検察総長を兼備する強大な権限を有する男王)であった。倭国の王たちが使節を派遣して魏の都や帯方郡(たいほうぐん/魏の出張政庁がある朝鮮半島のソウル市周辺の郡)や諸韓国にゆくとき、および帯方郡から倭国へ使節を派遣するとき、みな伊都国の港()で、魏と倭が伝えたり送ったりする文書や賜物を捜露し(そうろ/点検し確認して)、女王卑弥呼にもとに届いたときに差錯(ささく/間違い、誤り)がないようにしている」と説明する。
 この記事が明確に示すように――卑弥呼は夏音文字を用いて文書を作り、魏と帯方郡は楷書で文書を作って、魏と倭は国交を結んでいた。このため、倭国の伊都国の港では、万が一にも誤訳・間違いによって誤解が生じて国交が断絶しないように、夏の銀河の各部の形状を観察して、夏音文字と楷書の字源を点検し確認して正しく変換していたことになる。
 つまり「夏音文字と楷書の字源は、共に夏の銀河各部の形状」であったゆえ――伊都国の港では、夏の銀河各部の形状を観察して夏音文字と楷書の語の同義を把握して、卑弥呼が文書に用いた夏音文字を魏や帯方郡が文書に用いる楷書に正しく変換できた。したがって、卑弥呼が夏音文字で書いた倭の国書は魏都と帯方郡にて読解できるように伊都国の港で楷書に変換されて、魏や帯方郡へ送られた。また、魏都や帯方郡からの楷書で書かれた文書は、伊都国の港で夏音文字に変換されて卑弥呼に届けられていたことになる。

◆『魏志倭人伝』は、中国の歴史書『三国志』のうち「魏書東夷伝」の末部にある「倭人伝」の通称である。
 『三国志』の著者の陳寿(ちんじゅ)は、はじめ三国時代の蜀漢につかえ、漢(蜀)滅亡後、晋(しん)につかえた歴史編纂官である。
 『三国志』は西暦280年~289年に著作された。したがって、『三国志』の一部である『魏志倭人伝』も280年~289年(卑弥呼が死去した約40年~約50年後)に成立したことになる。
 『三国志』は中国の正史のなかでも、慎重・広く深い学識にもとづく良史と称(たた)えられ、正確な史料として高く評されていた。言いかえると、著者の陳寿は優れた歴史学者であった。
 学識に富む陳寿は『老子』上篇(道経)・37の章は「倉頡伝説は事実を伝えている」と説明する秘密を知っていた。また、陳寿は紀元前5、4世紀に生存した老子は「漢字は銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた」と暴露する国家と王朝の反逆者であったことを知っていた。また、陳寿は紀元前1世紀に生存した『史記』を著作した司馬遷(しばせん)の「太史令」という官職は「倉頡が発明した漢字作成理論の学術に精通する歴史局の総裁」と意味したことを知っていた。また、陳寿は2世紀初頭に許慎(きょしん)が著作した字書『説文解字』の字源解説の大半は《【倉頡の漢字作成理論の学術】にもとづいて「銀漢各部の形状」について説明するものであること》も知っていた。つまり、倉頡伝説は20世紀において中国とわが国の学者たちによって荒唐無稽(こうとうむけい)の空想と定められたが、陳寿が生存した3世紀(220~280年)の三国時代の学者たちは――倉頡伝説は「倉頡は【黄帝の医学研究】と夏の銀河(銀漢)各部の形状イメージを合体して漢字を発明した」と説明している――と認識していた。
 このように陳寿はじめ「碩学(せきがく)」と呼ばれた人々は「倉頡伝説は事実を伝えていると認識する、優れた学者」であった。
 そして、陳寿が生存した当時の「漢(「蜀」の正式名)」、「魏」、「呉」という三国名は【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を復興するものであった。
 つまり、陳寿は始めに漢につかえていたが、彼は、もちろん、「漢」という国号は「夏の銀河」を意味することを知っていた。また、陳寿は【B】国号の「魏」という字は「倉頡が作った[禾(か)]の字源」をそのまま受け継いでいることも知っていた。また、陳寿は、【C】国号の[呉]という字は「倉頡が作った字」であることも知っていた。また、陳寿は【D】卑弥呼が統治する「倭国」という国号に用いられる[倭]は「倉頡が作った[禾]の字源」をそのまま受け継いでいることも知っていた。

◆《倭国の伊都国の港で卑弥呼が文書に用いた夏音文字を夏の銀河の各部の形状を観察して楷書に変換された倭から魏へ送られた国書》は、陳寿がつかえる晋王朝に所蔵されていた。陳寿は歴史編纂官の特権で、伊都国で楷書に変換した倭の国書を閲覧(えつらん)することができた。
 だから、[倭]の字源は「倉頡が作った[禾]の字源をそのまま受け継ぐ」と認識していた陳寿は、倭国には夏の銀河の各部の形状を字源・字形・字義とする初期漢字があることを推断することができた。
 というのも、上記したように『魏志倭人伝』には【1】「倭の卜辞は令亀の法のごとく」という記事と、【2】「令亀の法のごとくの倭の卜辞に用いる初期漢字で卑弥呼が書いた国書を伊都国の港では魏都・帯方郡で正しく読解できるように楷書に変換していた」という二つの記事が存在したからである。

さらに、『魏志倭人伝』には【3】「倭国の対馬国(長崎県対馬)と一大国(長崎県壱岐)の中間の海は瀚海(かんかい)と名づけられた」という記事がある。この記事もまた「倭国には【倉頡が発明した漢字作成理論の学術】が存在する」と推断できる根拠・理由となった。
 というのも、「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味したからである。ゴビ沙漠・瀚海は黄帝を祭る廟と墓とされる黄帝陵より北に所在し、【倉頡が発明した漢字作成理論の学術】における欠くことができない基本知識であった。
 学識豊かな陳寿は「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味することを知っていたゆえ、「対馬国と一大国の中間の海が瀚海ではない、誤っていること」を知っていた。しかし、倭の対馬国と一大国の中間の海は瀚海ではない。誤っている」と考えて、陳寿は「瀚海」の2字を削除(さくじょ)しなかった。陳寿は「瀚海」が【倉頡が発明した漢字作成理論】を直接的にあらわす学識をも有していたゆえ、倭には【倉頡が発明した漢字作成理論】が存在すると推定して「瀚海」の2字を削除しなかった。
 このように、陳寿は倭の国書に記された「瀚海」を注目して「倭国は【倉頡が発明した漢字作成理論の学術】を習得しているにちがいない」と推断したことになる。

◆『魏志倭人伝』には、【1】卑弥呼が統治した国名は倉頡が作った[禾]の字源をそのまま受け継ぐ[倭]であり、【2】「倭には初期漢字・夏音文字があった」という記事と、【3】「対馬国と一大国の中間の海は瀚海と名づけられた」などの記事が残った。
 これら3つの記事は、邪馬台国説の論法のごとく陳寿が短絡的に・軽率に考えたならば削除すべきことになる。しかし、陳寿は削除しなかった。ということは、陳寿は「伊都国で楷書の変換された倭の国書」に1点の批判・主観を加えずにそのまま書き写して、『魏志倭人伝』を著作したことになる。
 陳寿は「倭の国書」をそのまま書き写して『魏志倭人伝』を著作したゆえ、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と伝える正確無比の、人類文化史にとってきわめて重大な文字の起源の秘密を正確に伝える重大な歴史史料となったのである。
 『魏志倭人伝』に1ヵ所でも【主観・誤読】を加える意見はただちに空理空論となる。
 したがって、多数の【主観・誤読】を加える邪馬台国説の実体は【誤読の産物】であり、『魏志倭人伝』と一ヵ所の記事と合致しない妄想であったのである。
 『魏志倭人伝』は「倭国の国書」をそのまま書き写したものであったゆえ、わが国・倭国で作られた歴史史料であったのである。
 ところが、邪馬台国説によって【『魏志倭人伝』の思考方法】は――『魏志倭人伝』は倭人国の様子を正確に知っていない中国で作られた文献史料である。ゆえに、『魏志倭人伝』にはいくつかの誤記があるので全面的に信用してはならない。この記事はなにゆえに誤っているのかという批判を必ず加えて、史料を利用しなければならない――と、【多数の主観・誤読】を加えると定めている。これゆえ邪馬台国説は全面的に真っ赤なウソで、一片の正当性も有しない妄想であった。
 だから、邪馬台国説の実体は『魏志倭人伝』の記事と1ヵ所も合致しない100パーセントの真っ赤なウソ・空理空論・すべてがなにもかもデタラメであったことになる。
 邪馬台国説は『魏志倭人伝』に記述された不都合の真実を削除(さくじょ)してデッチあげた【誤読の産物】であり、なにもかもすべてが妄想であったのである。
 邪馬台国説は、人類の文字起源史における極めて重大な真実【倉頡が発明した漢字作成理論】を【多数の誤読】を加えてねつ造したデタラメであったのである。

◆現在、ロシアのプーチン大統領は事実をねじ曲げ、虚偽・偽装をこねくり回してウクライナに侵略せんとしている。このプーチンの卑怯な策略と同じ方法を用いて、邪馬台国説は成立した。
 『魏志倭人伝』は邪馬台国の所在地を伝えるための史料ではなかった。だいいち、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した女王国名は邪馬壱(やまい)国であった」と記している。この女王国名の「邪馬壱」と「瀚海(ゴビ沙漠)」は密接に関係して【倉頡が発明した漢字作成理論の学術】を明確に直接的に伝えている。
 邪馬台国説はなにもかもが真っ赤なウソで、日本学問史における最大・最悪・最低の空論・デタラメ・妄想であり、日本学問史上における最悪の恥部であったのである。

|

« 漢字の起源は日本から始まった・1 | トップページ | 邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・1 »

卑弥呼」カテゴリの記事

邪馬台国」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事

漢字の起源」カテゴリの記事

ヒエログリフ(聖刻文字)」カテゴリの記事

日本国誕生史の証明」カテゴリの記事

大嘗祭の証明」カテゴリの記事

まぼろしの邪馬台国」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 漢字の起源は日本から始まった・1 | トップページ | 邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・1 »