« 邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・2 | トップページ | 邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・4 »

2022年3月17日 (木)

邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・3

#邪馬台国説のウソ・欺瞞で日本は滅亡する

◆女王・卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した女王国・邪馬台国がどこであったか」について説明する書物であると――学者たちは断定する。
 しかし、『魏志倭人伝』は、その約85パーセントの記事で「漢字は、今から約5000年前の中国の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)によって発明された」と説明する学術書であった。
 だから、邪馬台国説は100パーセントのデタラメ、インチキ・捏造(ねつぞう)である。
 『魏志倭人伝』には倭国における34ヵ国の小国名が記述されている。これら34の小国名は【倉頡が発明した漢字作成理論】を組織する統合体(仕組み)となる。この34の小国名は【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と正確に説明する。〈倭国の34の小国名とその関連記事〉はじめ〈「卑弥呼」などの人名や官職名〉や〈倭の風俗・慣習記事〉や〈その他〉の合計約85パーセントの記事によって、【倉頡が発明した漢字作成理論】が詳細に具体的に【科学】にのっとって解明できる。

◆前回のわがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・2」の前半で詳細に説明したように――現在、15億人が用いる漢字は、今から約5000年前、中国において〈夏の銀河〉から作られて起源した。また、古代エジプト文字(ヒエログリフ・聖刻文字)は、今から約5100年前、漢字と同じく、〈夏の銀河〉から作られて起源した。現在、古代エジプト文字と始祖(ルーツ)とする文字を使用している人々は55億人以上となる。ゆえに、古代エジプト文字をルーツとする文字を使用する55億人と漢字を使用する人々の15億人を合計すると、〈夏の銀河〉から作られて起源した文字を使用する人々は約70億人となる。世界の総人口は約80億人である。したがって、世界の約9割・約70億の人々が使用する文字のルーツ(古代エジプト文字と漢字)は〈夏の銀河の各部の形状〉から作られたことになる。
 つまり、『魏志倭人伝』は【地球上の9割・70億の人々が使用する文字は夏の銀河から作られて起源した真実】が科学的に解明できる貴重な学術書ということになる。
 下に、世界の約9割・約70億の人々が使用する文字が起源した〈夏の銀河の写真〉を配した。
Ginga_20220317140001
◆前回のわがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・2」で〔卑弥呼が居住した女王国名は「邪馬壱(やまい)国」がほんとうで、「邪馬台国」は真っ赤なウソであった。
 わが国の邪馬台国説学者たちとNHKテレビと朝日新聞出版はウソと欺瞞(ぎまん)をあやつるプーチン・フェイク(プーチン流のウソ・詐欺・インチキ・デタラメ)を駆使(くし)して「卑弥呼が居住していた女王国の名は『邪馬台国』であった」とデッチあげ、「『魏志倭人伝』は「邪馬台国の所在地を説明した書物である」と大ボラをふいてダマしている。
 しかし、実際には、『魏志倭人伝』は〔女王国名〕を「邪馬壱国」と記している。
 201510月に死去した古代史家・古田武彦氏は1971(昭和46)に『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社発行)を著作して――『魏志倭人伝』には卑弥呼が居住した女王国名は「邪馬台国」ではなく、「邪馬壱国」と記す事実を証明した。
 現存する12世紀の南宋紹煕刊本の『魏志倭人伝』には、事実、卑弥呼が居住した女王国名を「邪馬壹国」つまり「邪馬壱国」であったと記す。
 『魏志倭人伝』は約2000字で構成される。もしも約2000字で構成される〔日本を紹介する本〕に「日本の首都は北京である」と記されていたならば、この本は一気にデタラメ本・インチキ本・フェイク本となる。
 だから、同様に「卑弥呼が居住した女王国は邪馬壱国であった」と記す『魏志倭人伝』に「いや違う、邪馬台国であったと記してある」とウソをつく学者たち・NHKテレビ・朝日新聞出版の邪馬台国説は捏造(ねつぞう)、フェイク・デタラメということになる。
 邪馬台国説は、〔1〕邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』における不都合な記事は何ヵ所でも排除(はいじょ)・削除(さくじょ)できる、〔2〕邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』の不都合な記事は何ヵ所でも誤読・批判・主観・歪曲を加えることはできるという〔二つの論法〕と、〔3〕倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメである、〔4〕「漢字は〈夏の銀河〉から作られた事実」は証明できない、〔5〕「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という、〔三つの虚偽〕を駆使して構築される。
 しかし、【1】『魏志倭人伝』の記事は1ヵ所も排除・削除できない、【2】『魏志倭人伝』の全記事は忠実に読解しなければならないという【二つの学問の基本定理】と、【3】倉頡伝説は事実を伝えていた、【4】「漢字は夏の銀河から作られた」という事実と、【5】「わが国が漢字を最初に習得したのは、今から約4000年前の中国の夏代(かだい/夏后時代)初頭・わが国の後期縄文時代初頭であった」という事実、これら【三つの事実】の基(もと)に『魏志倭人伝』は著作されている。
 したがって、上記の【二つの学問の基本定理】と【三つの事実】をもって著作された『魏志倭人伝』は「現在、世界の9割・約70億の人々が使用する文字は〈夏の銀河の各部の形状〉から作られた」という真実が科学的に証明できる貴重な学術書である。

◆「漢字は夏の銀河から作られた」という真実は日本文明と文化あるいは学問・芸術のアイデンティティーの根源となり、日本人の精神的支柱となった。
 現在進行形のウクライナ侵攻によって、ロシアの国力は5年後、もしくは10年後に壊滅的に衰退するにちがいない。
 ゆえに、次に中国と北朝鮮の脅威をめぐる有事・戦争がおきたとき、『魏志倭人伝』に記述された【倉頡が夏の銀河各部の形状から漢字を作成した学術】が日本における最強最良の核の抑止力となる。だから、大国ロシアと小国ウクライナ戦争終結後における、日本が有する最強最良の盾・賢明な国防力は【文字は夏の銀河から作られた事実を現在まで保存したわが国の歴史と文化と民俗】ということになる。
 というのも、現在の小国・ウクライナと大国・ロシアの戦争は、小国・日本と大国・倭の長い間の対立に類似しているからである。

 233年頃から235年頃、小国・日本は〔愛〕の理念をかかげて誕生した。このとき以来、国民的な小国・日本と【倉頡の漢字作成理論の学術】を独占管理して強大な権力を重視した強権的国家体制の大国・倭はどちらが国家体制として優っているかをめぐって対立することになった。ゆえに、小国・日本と大国・倭の対立は小国・ウクライナと大国・ロシアの戦争に類似する。小国・日本の誕生以後、小国・日本の政治体制勢力と大国・倭の政治体制勢力の対立は、その後長いあいだ続いた。やがて702年頃、大国の倭は〔愛〕の理念のもとに誕生した小国・日本の歴史を抹殺するために、国名を「日本国」と改めてゴマカした。しかし、大国・倭と小国・日本の対立は終息せず、皇室とやがて台頭する〔愛〕の日本建国理念の復興を願う武士たちの対立となった。鎌倉幕府を創設した源頼朝、室町幕府を創設した足利尊氏、織田信長、江戸幕府を創設した徳川家康は日本建国の〔愛〕の理念の復興を熱烈に願って生涯追い求めた――この痕跡は、日本の歴史上に明確・鮮烈に残っている。そして、次第に勢力が衰退する皇室と日本建国の〔愛〕の理念の復興を願う武士の対立は、江戸幕府が1659(万治2)に修学院離宮(京都市左京区)を造営して、その上御茶屋(かみのおちゃや)の大庭園に【小国・日本の〔愛〕の建国理念と、倉頡が発明した漢字作成理論】を設計する「浴竜池(よくりゅういけ)」を作って後水尾(ごみずのお)上皇を説得して終息した。
 修学院離宮の上御茶屋の窮邃亭(きゅうすいてい)には、二つの八角形を組み合わせた特異な扁額に掲げられる。この扁額には、後水尾上皇の宸筆(しんぴつ)の「窮邃」の2字が書かれている。「窮邃」の[][]を加えると「邃古」となる。「邃古」という語は「上古」と意味する。ゆえに、「窮邃」は「わが国の上古史を正しく窮(きわ)める」と意味した。後水尾上皇は「窮邃」という語で「『古事記』上巻の全記事は〔愛〕を建国理念とした小国・日本の政治体制と強大な権力を重視した大国・倭の政治体制が対立した実際の歴史を記述するものであった。この政治体制をめぐる長い対立によって、【倉頡の漢字作成理念の学術】と【小国・日本の〔愛〕の建国理念】の両方が日本国にとって欠くことができない国家基盤であるという事実が明白となった」と表現したのである。
 このような歴史があったため、わが国には最古の漢字音の夏音文字が現在まで存在し、つい最近の令和元年(2019)1114日に、【倉頡の漢字作成理論と、小国・日本の〔愛〕の建国理念】をあらわす学問儀式・大嘗祭(だいじょうさい)がおこなわれたのである。
 だから、233年ころに小国・日本が〔愛〕の理念を掲げて建国して以来、小国・日本の民主政治体制と大国・倭の強権的政治体制が対立して、1659年の修学院離宮の造営で終息した約1400年間の日本史を窮邃する(『古事記』上巻に記述された小国・日本誕生史とその後の1659年までの歴史研究を窮めた)成果は、日本が核の脅威をめぐる有事・戦争にまきこまれたときに最も賢明な対策となり、最強最良の核の抑止力・国防力となる。

◆「漢字は夏の銀河から作られた」という歴史史料は『魏志倭人伝』だけではなく()『古事記』上巻、()『魏志倭人伝』が著作された同時代(3世紀後半)に作製された1千万坪の大鳥の地上絵が(静岡県浜松市北区の細江町の行政区域を表示する地図の形として)現存し、()室町時代に作られたとされる竜安寺の石庭、()17世紀前半に作られた桂離宮離宮の庭園、()17世紀半ばに作られた修学院離宮の庭園などの幾つかの遺跡が存在し、さらに()上記した〈小国・日本が〔愛〕の理念を掲げて建国したときから始まって、小国・日本の民主政治体制と大国・倭の強権的政治体制が対立して、1659年の修学院離宮の造営で終息した約1400年間の日本史〉に、そして()日本の漢字と漢字文化、識字率がほぼ100パーセントという事例や、()皇室最大の神事である大嘗祭、あるいは()赤ちゃんが屈位になって骨盤入口を通りぬける姿勢を表示するアゴを胸につけてする日本人特有のお辞儀はじめとする風俗・慣習など様々な史料が大量に存在する。

 古代史学には過去の出来事を事実であると証明できる絶対原理(絶対的方法)が存在する。
 つまり、古代史学には――邪馬台国説学者たちのごとく、前人が作った文献にある記述を、たとえ後世の学者たちが「この記述は絶対に誤っている、信用してはならない」と批判・否定しても、その文献に記述されたとおりの史跡・遺跡・遺物が幾つも存在し、しかも現在において古文献に記述されたとおりの風俗・習慣が存続して残っているならば、前人の記述はなんびとにも否定できない事実であり、学者たちが文献批判して否定した意見はすべて誤読の空論・妄想であったことになり、前人が作った文献の記述はなんびとにも否定できない事実であったことになる――と定まる絶対原理が存在する。
 この〔古代史学における絶対原理〕によって――紀元前1200年前後におこったトロイ戦争は約350年後の紀元前850年ごろに生存したギリシャの詩人ホメロスの英雄叙事詩『イリアス』に記述された。学者たちは『イリアス』に記述されたトロイ戦争はホメロスが創作した空想であると決めつけて「歴史ではない」と断定した。しかし、ドイツ人のシュリーマンは『イリアス』に記述されたとおりの土地を発掘して、トロイの遺跡を発見した。したがって、学者たちの意見は臆説・空想・妄想であったと証明された。
 『魏志倭人伝』は280年~289年ころに著作された。上記した()〔現存する、1千万坪の大鳥の地上絵(静岡県浜松市北区の細江町の行政区域を表示する地図の形)〕は260年頃に作製が着手されて290年頃に完成した。ゆえに、『魏志倭人伝』と〔1千万坪の大鳥の地上絵〕は同時代(3世紀後半)に作られた。
 下に、『魏志倭人伝』と同時代に作製された〔1千万坪の大鳥の地上絵〕を示した。この遺跡は、『魏志倭人伝』は〔【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明する正確無比の学術書であった事実〕が完全証明できる、古代史学の絶対原理が成立する“日本版のトロイの遺跡”である。
 つまり、〔1千万坪の大鳥の地上絵〕は「233年頃にかかげられた小国・日本の〔愛〕の建国理念を後世へ伝える」を作製目的として【倉頡が発明した漢字作成理論、中国の海岸線地図、小国・日本の〔愛〕の建国理念】をハイブリットして図化・設計した古地図遺跡である。
 だから、〔古代史学における絶対原理〕にもとづき、邪馬台国説は「学説」の体(てい)をまったくなしていない100パーセントの空理空論・妄想であったのである。
20201219
◆『魏志倭人伝』の全記事は正確無比で、真実を伝えていた。
 そして特に注目すべきは、『魏志倭人伝』に記述された「文字は夏の銀河から起源した」という真実は日本国特有の遺産ではなく、地球上の人類9割・70億の人々の遺産でもある。したがって、「文字は夏の銀河から起源した」という真実は人類の文明と文化あるいは学問・芸術のアイデンティティーの根源であり、人類の精神的支柱となる。
 だから、プーチンがウクライナを威嚇するがごとく日本国が核で脅迫されることになったならば「日本破壊は人類の殲滅(せんめつ)だ! 日本国と日本国民は犠牲にしてはならぬ」と世界の人々は立ち上がるにちがいない。
 だからこそ、『魏志倭人伝』が「文字は夏の銀河から作られて起源した」と伝える真実は、わが国における最強最良の核の抑止力・防衛力となる。

人類にとって最も重大な真実を欺瞞と捏造とウソで固めたプーチン・フェイクを用いて排除・抹殺する邪馬台国説学者たちとデマ・邪馬台国説を流すNHKテレビと朝日新聞出版は日本国と日本国民の破滅・滅亡に夢中になる。ゆえに、彼らは日本国・日本国民の敵であり、そして人類の敵ということになる。

◆わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)9ページの終わり3行目から10ページの始めから3行目までで〔わが国の漢字音〕と題して、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と定める考古学の意見に黙って従う学界の定説は誤りであることを、下記のごとく指摘する。
 「古紐(こちゅう)や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 上記の「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものである」という文は、わが国に国語として現存する漢字音は中国に現存する最古の漢字音よりも古いと指摘していることになる。この『字統』の指摘に反して、考古学が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と主張する漢字音は、中国に現存する最古の漢字音よりも新しい。だから、考古学と学界の主張は音韻学研究成果を排除・無視する無知・空論であったことになる。
 中国に現存する最古の漢字音は「上古音」と名づけられ、「上古音」は紀元前1046年の周代初頭から始まる。
 だが、わが国に現存する最古の字音は〔紀元前1046年・周代初頭の漢字音〕よりも古い。
 中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――702年に中国に渡った第7回遣唐使が中国王朝に「後稍夏音を習う」と伝えたという記述がある。この「後稍夏音を習う」と遣唐使の言は「後(のち)に稍々(やや)、夏音(かおん)を習う」と解釈すべきことになり、「672年の壬申(じんしん)の乱の後の681317日の、天武天皇の『帝紀および上古の諸字の記定の政策』によって、わが国は稍々(少しだけ)夏音(かおん)文字を習うことにした(復興することにした)」と伝えていたことになる。
 第7回遣唐使が告げた「夏音」は「紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の中国の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に伝来して、わが国が習得した漢字の字音」と意味した。したがって、わが国は今から約4100年前の夏代初頭に夏音文字を習得していたことになる。
 ゆえに、わが国に現存する夏音文字の字音は、現存する今から約3050年前の周代初頭の中国の最古の字音(上古)よりも約1000年古いことになる。
 下に、〔漢字生長史〕と名づけた表を配した。この〔漢字生長史〕が明確に示すように、学界が考古学の「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という主張に黙って従う定説は、音韻学の研究成果を無視・排除する空理空論であったことになる。
Photo_20220317140401
◆上記した「夏音文字を稍々復興することにした、681317日の、天武天皇の『帝紀および上古の諸事の記定の政策』」は、後年(720)に元明天皇に献上された歴史書『古事記』という書名になった。天武天皇の政策『上古の諸事の記定』を注目し、さらにその政策における3字を抜粋(ばっすい)すると[][][]、つまり『古事記』となる。
 『古事記』上巻の随所には〔音〕という注がつく文字・語が多数記載される。この『古事記』上巻に記載される音文字が夏音文字であり――白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものである」という、中国に現存する最古の字音よりも古い、現存する最古の漢字音である。
 『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)の冒頭34字の書き下し文をルビ無しで、下記に示した。
 「臣安万侶言す。夫れ根元既に凝りて、気象未だ効れず。名も無く為も無し。誰かその形を知らむ。然れども乾坤初めて分かれて、参神造化の首を作す。」

この文は、要するに「参神造化(さんじんぞうか)の首(はじめ)」つまり「前期縄文の首(初頭)・中期縄文の首(初頭)・後期縄文の首(初頭)における造化(夏の銀河の各部の形状をモデルにして土器・土偶をつくる造形芸術)の約2000年に及ぶ参神の伝統によって、後期縄文時代の首(初頭)、中国からわが日本列島に渡来した名門益(えき)氏の王子と若者たちが教えひろめた()【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と()【倉頡は発明した漢字作成理論】と()【夏音文字】と()【正確な中国海岸線地図と精確な地図作製方法】を習得した」と説明していたことになる。
 上記の文に登場する「益氏の王子と若者たち」は「“夏の始祖”の禹()帝の後を継いだ益帝の孫の王子と若者たち」であった。益氏は五帝時代の四番目の帝王尭(ぎょう)の時代に初めて登場し、五番目の帝王舜(しゅん)の時代に「虞()」という「正確な中国海岸線地図を作製する官職」に任命されて代々約200年~約250年のあいだ務めた。そして、益の首長は夏王朝の始祖の禹帝の遺言で帝王となった。
 司馬遷(しばせん)著『史記』の〔陳杞世家(ちんきせいか)〕は「帝王になった益の子孫は、どこに封ぜられたか不明である。史伝に記載されていないからである」と記す。
 「名門益氏を受け継ぐ益の孫の王子と若者たちは日本列島に定住した」ため、益帝の子孫は中国の歴史から忽然(こつぜん)と消えることになった。
 『日本書紀』巻第三の神武天皇紀初頭に「天祖・彦火瓊瓊杵尊(ヒコホノニニギノミコト)
が登場する。この「天祖・彦火瓊瓊杵尊」が「益帝の孫の王子」であった。ゆえに、天祖の名に用いられる[]の右下の隅には「夏音文字」をあらわす[]の字が配せられている。

◆『古事記』は第7回遣唐使が中国王朝に「後稍夏音を習う」と報告した時より10年後の、720(和銅五年)1月28日に、元明天皇に献上された。
 太安万侶(おおのやすまろ)が書いた『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)の冒頭34字の記事は「益氏の王子と若者たちは東北地方から関東一円までの諸氏族に、【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と【倉頡は発明した漢字作成理論】と【夏音文字】と【正確な中国海岸線地図と精確な地図作製方法】を教え広めた」と説明するものであった。
 ゆえに、『古事記』上巻の序の末部には、下記のごとく太安万侶が説明する記事があり、この記事を現代語に訳すると次のごとくになる。
 「上古に習得した(夏音文字)のことばとその意味は朴(すなお/夏の銀河各部の形状をそのまま)にあらわしていますから、現在(『古事記』編纂当時)の楷書で書きあらわしますと、どういう漢字を用いたらよいか難(むずか)しいです。すべて訓をあらわして楷書で記述しますと、夏音文字が伝える心情に及ばない(一致しない)(つたな)い訳(やく)になる場合があります。そうかといって、すべて夏音文字だけを用いて記述しますと、文章が長くなります。これゆえ、ある一句には、夏音文字と楷書による訓を交えて用い、ある一事(事柄)を記す場合には、すべて楷書で訓を用いて記録することにしました。そして、夏音文字の辞理(夏の銀河の各部の形状があらわす字源と語源)が見えない(不明の)ときは注をもって明らかにし、意味が容易に理解できる場合は、別に注はつけませんでした。また、姓に用いる〔楷書の日下〕は〔夏音文字の玖沙訶〕と同義、名に用いる〔楷書の帯〕は〔夏音文字の多羅斯〕と同義ですので、このような類例は従来の記述に従い、改めませんでした。」
 このように、太安万侶は「夏音文字の字源・字形・字義と楷書の字源・字形の原形・原義は、共に夏の銀河の各部の形状である」と指摘している。

◆『魏志倭人伝』には「古(いにしえ)より、倭の使者は中国に到着すると皆(みな)自らを大夫と称す。夏后(かこう)少康の子、会稽(かいけい)に封ぜられる」と説明する記事がある。
 『万葉集』における万葉仮名「大夫」は「ますらを」と読み、「ますらお」は今日「益荒男」と表記される。「益荒男」は「帝益の孫の王子と若者たちは荒波が逆巻(さかま)く玄界灘を横断して日本列島の東北地方に定住した勇猛果敢にして立派な男たち」と伝える語であったのである。
 前述したように、帝益の孫の王子(天祖)と若者たちは日本列島の東北地方の男鹿・米代川(よねしろがわ)縄文文化圏に定住して、()【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、()【倉頡が発明した漢字作成理論】と、()【夏音文字】と、()【正確な中国海岸線地図と精確な精密地図作製方法】を関東一円までの諸氏族に教えひろめた。
 上記の「大夫を称す」の後につづく「夏后少康の子、会稽に封ぜられる」という記事は「夏王朝四代皇帝の少康の王子は、呉の会稽に封ぜられた」と意味するゆえ――その前の「大夫」という語は「“夏后の始祖”禹帝の後を継いだ益帝の孫の王子」とあらわすものであったにちがいない。だから、玄界灘を越えて中国に到着した倭の使者たちは「帝益の孫の王子や若者たちのごとく勇猛果敢に玄界灘を征服した」と皆が皆同様に自画自賛して「大夫」と称したのである。
 このように、『魏志倭人伝』には、()【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、()【倉頡が発明した漢字作成理論】と、()【夏音文字】と、()【正確な中国海岸線地図と精確な精密地図作製方法】を関東一円までの諸氏族に教えひろめた帝益の王子(天祖)と若者たちの記事が存在する。

◆『魏志倭人伝』には、「倭国には夏音文字があった」と説明する34字の記事がある。この記事にルビを無しに記すと、下記のごとくなる。
 「其の俗、挙事行来に云為する所有れば、輙ち骨を灼いて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。其の辞は令亀の法の如く、火坼を視て兆を占う」
 上記の文を現代語に訳すると「倭の習俗では、行事をおこなうときや遠い地へ旅して家に帰ってくるときや云為(うんい)つまり「雲為」すなわち「雨乞い」をするときには、骨を焼いて卜(うらな)い、その吉凶を占(うらな)う。最初に卜することを告げるが、その卜辞は令亀の法、つまり中国の殷代(いんだい)後半の亀の甲羅に文字を刻む甲骨文字の法理のごとく、鹿の骨を焼いて生ずる裂け目を見て、その吉凶の兆(きざし)を占う」となる。
 上記の「倭の卜辞は令亀の法のごとし」という文は「倭の卜占の辞(ことばと文字)は殷代後半の甲骨文字の法理のごとし」とあらわすゆえ、倭国には「甲骨文字のごとき絵文字の夏音文字があった」ことになる。
 だから、前述したとおり、【一】白川静著『字統』が〔わが国の漢字音〕と題して「音韻学の研究によると、わが国の国語には中国に現存する最古の漢字音(上古音)よりも古い、漢字音が残っていることが明らかとなった」という指摘は正しいことになる。また、【二】太安万侶が書いた『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)の冒頭の「参神造化の首(はじめ)」の記事や末部の「楷書の日下と夏音文字の玖沙訶は同義、楷書の帯と夏音文字の多羅斯は同義」という記事はじめ、その他の「わが国には夏音文字があった」と説明する語句や文章は事実を伝えていたことになる。ゆえに、【三】『古事記』上巻の随所に〔音〕と注がつく文字は「夏代初頭に習得した夏音文字」であったことになる。さらに、【四】『新唐書』日本伝にある「後稍夏音を習う」という文は「672年の壬申(じんしん)の乱の後の681317日における天武天皇の『帝紀および上古の諸字の記定の政策』によって、わが国は稍々(やや)夏音文字を復興することにした」と説明するものであったことになる。
 【倉頡が死刑と定めた掟】によって「書いた文字が用済みになったならば、書いた文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員を死刑にする」と厳しく定まっていた。したがって、卜辞に用いた夏音文字はすべて消滅されることになったゆえ、夏音文字が書かれた資料は発掘されないことになった。だから、「出土史料が存在しないから夏音文字は存在しなかった」ということにはならず、【夏音文字の字源・字形・字義は夏の銀河の各部の形状】で存在し、【夏音文字の字音は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に多数記載されて現存する】ことになった。

◆『魏志倭人伝』には、67字で「倭国には夏音文字があった」と記述した下記に示す記事もある。この記事をルビ無しで記すと、次のごとくなる。
 「女王国自り以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於いて刺史の如きところ有り。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、及、郡の倭国に使するや、皆津に臨みて、伝送の文書・賜遺の物を捜露し、女王に詣
るに差錯あるを得ざらしむ」
 この記事を現代語に訳すると「女王国(邪馬壱国)より以北には特別に一大率(いちだいそつ)を配置して、諸国を検察させているので、諸国は彼を畏れはばかっている。一大率は常に伊都国に居住して治めている。倭国の国中における刺史(警視総監と検察庁長官と国防大臣を兼備する権力者)のごとき男王である。倭国の有力な王たちが使節を派遣して魏の都や魏の出張政庁が所在する帯方郡や諸韓国にゆくとき、また、帯方郡の使節が倭国にくるときには、すべて伊都国の津()で持参する文書や賜物を捜露(そうろ/慎重に点検し、確認して)、女王・卑弥呼のもとに届いたとき差錯(相違)がないようにしていた」となる。
 上記の記事が説明しているように――倭王朝をささえる有力な王たち、つまり女王・卑弥呼や外務長官の難升米(なしめ)はじめ幾人かの王たちが使節を派遣するときの魏都や帯方郡や諸韓国へ送る文書や賜物、あるいは帯方郡の使節が倭国に到来したときの文書と賜物は、伊都国の港で慎重に点検し、確認していた。というのも、倭国の王たちは日常的に夏音文字を使用するものであったゆえ、魏都・帯方郡・諸韓国で使用する楷書の知識が乏(とぼ)しかったからである。ゆえに、魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書に最も精通する一大率が九州・伊都国に居住して配下を教育して、夏音文字と楷書の変換において国交断絶あるいはさまざまな不祥事がおきる原因の誤訳や誤記が生じないように捜露(慎重に点検)していたことになる。たとえば、「卑弥呼」の[]の楷書は「賤しい。身分が低い」と意味した。夏音文字の[]の字義は「産道入口を通りぬける出産児がアゴを胸につける屈位置の姿勢。天上から地を見下す屈位の姿勢になると見える地宜(ちぎ/平面的な地図の形)を形成する海岸線の形」であった。このように、楷書と夏音文字には字義が差錯(相違)する事例が幾つかあり、国交を結ぶ際に障害になった。夏音文字と楷書の字源・字形・字義は共に夏の銀河の各部の形状であった。そして、伊都国において広大な夏の銀河全域が見えるあるいは字源となる暗い所がよく見える場所は海に面する港である。だから、夏音文字と楷書の同義を学習した一大率の配下の役人たちは伊都国の港から見える夏音文字の各部の形状を観察して夏音文字と楷書を正しく変換する業務に勤めていたことになる。
 このように、倭国には確かに夏音文字が存在した。
 以上のごとく、邪馬台国説学者たちは〔1〕邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』における不都合な記事は何ヵ所でも排除・削除できる、〔2〕邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』の不都合な記事は何ヵ所でも誤読・批判・主観・歪曲を加えることはできるという〔二つの論法〕と、〔3〕倉頡伝説は荒唐無稽のデタラメである、〔4〕「漢字は〈夏の銀河〉から作られた事実」は証明できない、〔5〕「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という、〔三つのウソ〕をハイブリットするウソ・デタラメ・インチキをまき散らしている。現在、ロシアとウクライナの戦争において、ロシアは不都合な情報はすべて排除・カットしてウソ・デタラメ・インチキをデッチあげて、そのウソが「すべて事実である」と国民に説明して洗脳している。だから、邪馬台国説はプーチンのフェイクと同様に、“最悪最低の、ひどいウソつき”と言うことになる。

◆前述した【〔愛〕を理念とした小国・日本の誕生史から1659年の修学院離宮造営までの、小国・日本の国民的政治体制と大国・倭の強権的国家体制が対立した歴史の経緯】は、わがブログ〔邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・3〕の前にて紹介したわが拙著、すなわちkindle版・電子書籍『日本国誕生史の証明』と『大嘗祭の証明』(両書とも1000)で詳細に具体的に容易に理解できるように解説した。また、わが拙著、電子書籍『日本四千年の学問史』(無料)において、概略的に解説した。なお、デザインエッグ株式会社から発行したムゲンブックス『日本国誕生史の証明』と『大嘗祭の証明』もある。
 なお、邪馬台国説はすべてがウソ・フェイクである事実が容易に理解できる、PDF用『「邪馬台国」は存在しなかった』(1500円の予定)という拙著の著作を開始して、1ヵ月から2ヵ月後には完成させる予定である。

|

« 邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・2 | トップページ | 邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・4 »

卑弥呼」カテゴリの記事

邪馬台国」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事

漢字の起源」カテゴリの記事

ヒエログリフ(聖刻文字)」カテゴリの記事

日本国誕生史の証明」カテゴリの記事

大嘗祭の証明」カテゴリの記事

まぼろしの邪馬台国」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・2 | トップページ | 邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・4 »