邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・4
#邪馬台国説は日本国民を虐殺しようとしている
◆日本国民よ! 邪馬台国説は日本国民を虐殺しようとしている!
目覚めよ! 日本国民よ! 邪馬台国説学者たちと邪馬台国説の大ウソをたれ流しつづけるNHKテレビと朝日新聞出版は日本国民を虐殺しようとしている!
邪馬台国説は日本国を衰退させ滅亡しようとする祟(たた)りであり、すべてがウソ、ペテン、インチキなのである。
◆現在進行形のウクライナ侵攻によって、ロシアは5年後、もしくは10年後には壊滅・衰亡するにちがいないと指摘されている――このような状況から、多くの人々はウクライナ戦争が停戦あるいは終戦したあと、中国と日本は戦争となるかもしれないと心配する。
しかし、いまが今、多くの日本人が邪馬台国説の詐偽・ペテンに気つけば、中国は日本には侵攻できない歴史的経緯・理由・根拠を知ることができる。
というのも――【1】約2000字で構成される『魏志倭人伝』の記事を1ヵ所も排除(はいじょ)・カットせずに、【2】『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解(どっかい)すれば――【A】中国と日本のあいだには互いに攻撃・戦争しあう理由・根拠・大義名分が存在しないことが明らかとなり、【B】わが国にあっても卑弥呼時代から今日にいたるまでの自衛・国防の歴史の一貫性が明確となり、この一貫した自衛・国防の歴史によって国民が国家・国土を衛(まも)る熱烈な魂やアイデンティティーが鮮烈によみがえるからである。
だから、いま、わが国の自衛・国防を真剣に誠実に考える時であるとするならば、真っ先に『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解して真実の歴史を知らなければならない。
◆邪馬台国説学者たちはじめNHKテレビや朝日新聞出版は【一】邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』における不都合(ふつごう)な記事は何ヵ所でも排除・カットできる、【二】邪馬台国にとって『魏志倭人伝』における不都合な記事は何ヵ所でも誤読・批判・主観・歪曲(わいきょく)を加えることができるという、〔ウクライナに侵攻するプーチン流の言いがかり・捏造(ねつぞう)・こじつけ論法〕を駆使(くし)して、日本国民をダマしている。
その証拠に――邪馬台国説学者たちは『魏志倭人伝』に「邪馬壱(やまい)国」と記される、その[壹(壱)]の字を指差して[臺(台)]と書いてあるとダマして、ウソ八百の邪馬臺(台)国説をまくしたててまんまと日本国民をダマしている。
『魏志倭人伝』には1ヵ所も「邪馬台国」という記述は存在しない。
だから、「邪馬壱国」と書いてあるものを「邪馬台国」と書いてあるとダマす学者たちとNHKテレビと朝日新聞出版が主張する邪馬台国説は、日本の自衛・国防を無能化する、また中国が東方へと侵略・膨張せんとする暴走(戦争)に加担(かたん)する最悪・愚劣きわまりない最大・最悪の祟り・呪(のろ)いである。
「邪馬壱国」を「邪馬台国」と読む無知・無学によって獣性(じゅうせい)に支配される悲惨で残酷な戦争になるかもしれないということである。
◆〔プーチン流のデタラメ・インチキ論法〕を駆使する邪馬台国説では、ウクライナ侵攻後の中国の「大きな中国にならんとする野望による侵攻」を助長・加勢することになる。
他方、『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解する邪馬壱国説ならば「自らを世界の中心に置く大国・中国にならんとする野望・野心による周辺諸国への侵攻の誤り」を諭(さと)すことができる。というのも、邪馬壱国説ならば「五千年前に生存した中国の始祖・黄帝(こうてい)の政治理念、つまりほんとうの中国の在り方」が明確となるからである。
黄帝の名は軒轅(けんえん)といい、過去に中国で暮らしたほとんどすべての民族から祖先神と崇(あが)められた帝王であるが――現在、学説においては「神話上の人物」とされる。
しかし、過去においては中国の始祖として歴代の王朝はたえず黄帝を崇めて祭り、人々は自分たちの祖先は黄帝であると信じて疑わなかった。共産党政権となった現在においても多くの人々が黄帝を祭る廟と墓の「黄帝陵」を参詣している。黄帝陵は陝西省(せんせいしょう)の黄陵県に所在する。
中国とはどのようにあればよいのか、中国人とはどのようであればよいのかと考えるとき、中国の人々にとって黄帝への思いを欠くことはできない。黄帝は中国の学問・芸術・信仰などの制度を創造したとされる、中国人のアイデンティティーであり、精神的支柱である。中国を世界の中心に置き、周辺諸国の民族を抱き込んで慈(いつく)しむ――このような中国人たちが伝統的に受け継ぐ世界観は、黄帝の政治理念を誤解して成立する。
しかし、中国の始祖・黄帝の事績と理念と情念は『魏志倭人伝』の「倭人国」という国家名と「邪馬壱国」はじめとする34の小国名に秘められている。
だから、『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解すれば黄帝は神話から歴史へ一気に登場する状況となる。つまり、黄帝は神話上の人物ではなく歴史上の人物であったのである。
◆今から約5000年前、中国の五帝時代初頭(わが国の中期縄文時代初頭)、黄帝が天下を治めていた。
この黄帝の治世、倉頡(そうきつ)伝説は「黄帝の史官(記録官)であった倉頡が漢字を発明した」と伝える。この倉頡伝説では「倉頡は四つ目の怪人であった」と語られる。ゆえに、現在、学者たちによって「人間には、目が四つ無い! 倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメである」と断定されることになった。
このように、黄帝と倉頡の伝説は神話すなわち歴史を伝えるものではないと確定された。
しかし、紀元前1世紀にあって、当時の知識人たちが深く考えずに「神話である」と無視する意見に反論して、司馬遷(しばせん)は『史記』第一の〔五帝本紀〕の初頭部に歴史と考えられる事績を選んで黄帝について記述している。
『魏志倭人伝』における主なる記事(「倭人国」という国家名と34の小国名に用いられる漢字の字源)は、【黄帝がおこなった「子どもの出産と女性の生殖器」の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と詳細に説明している。
「黄帝は東洋最古の医学書『内経』を作った」と伝わる。
『魏志倭人伝』は大半の記事をもって「『内経』とは【黄帝がおこなった「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】であった、そして倉頡の漢字の作成目的は【黄帝の医学研究】をあらわすことができる文字を発明することであった」と説明している。
(注 司馬遷著『史記』の黄帝紀には【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と【倉頡の漢字の発明】に関する記事は無い。しかし、【黄帝の医学研究】と【倉頡の漢字の発明】は『魏志倭人伝』に理路整然と詳細に記述されて、歴史であったことが【科学】が成立して証明することができる。)
◆『魏志倭人伝』は「倭女王・卑弥呼は【黄帝が研究した、出産する児(赤ちゃん)の5枚に分かれる頭蓋骨がせまい産道をくぐり抜けることができる仕組み(機能)】を「邪馬」とあらわし、【黄帝が研究した女性の生殖器の子宮・産道・骨盤】を[壱]とあらわして、卑弥呼が居住した女王国の名称を【邪馬壱国】と定めた」と記述している。
だから、[壱]の字を[台]と書いてあるとダマす邪馬台国説はただちに空理空論、すべてウソであったのである。
『魏志倭人伝』は【邪馬壱国】という女王国名をもって「黄帝と倉頡は神話上の人物ではなく、歴史上の人物であった」と証言している。
つまり、『魏志倭人伝』の55%・約1100字の記事(倭人国の34の小国名とこの小国名に関する記事)は――倉頡の漢字作成目的は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の医学研究】をあらわすことができる文字を発明することであった。倉頡は天文学で通称「夏の銀河」とよばれる「夏にもっとも長時間に見ることができる銀河の各部の形状」から、【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】をあらわす漢字を作る理論を発明した。この【倉頡が発明した漢字作成理論】は、中国の夏后(かこう)時代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、夏后王朝の始祖・帝禹(う)の後を継いだ帝益(えき)の孫の王子と益氏の若者たちが日本列島の東北地方の男鹿半島・米代川(よねしろがわ)流域に定住して、東北地方から関東一円に居住する諸氏族(諸民族)に教えひろめた。よって、わが国は(1)【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、(2)【倉頡が発明した漢字作成理論】と、(3)【夏音文字(夏后時代初頭の音文字)と、精確な中国海岸線地図と、精密地図作製方法】を習得した――と説明していたのである。
(注 学界が神話と断定した夏后時代初頭の夏音文字は『魏志倭人伝』の卑弥呼はじめとする人名・小国名・官職名に用いられて現存する。また、『古事記』上巻の随所には〔音〕という注がついて夏音文字が多数残っている。だから、日本の国語には神話とされた夏后時代初期の漢字音が多数残っている。「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読む字音は夏音文字の漢字音である。)
◆再度くりかえす、【1】『魏志倭人伝』の記事は1ヵ所も排除・カット(削除)できない、【2】『魏志倭人伝』の全記事は忠実に読解しなければならないという【二つの学問の基本定理】と、【3】倉頡伝説は事実を伝えていた、【4】「漢字は夏の銀河の各部の形状から作られた」という事実と、【5】わが国は今から約4000年前の夏代初頭(夏后時代初頭)に夏音文字と精確な中国海岸線地図と精密地図作製方法を習得した」という事実、この【三つの事実】のもとに『魏志倭人伝』は著作されている。
その証拠に、上記の【二つの学問の基本定理】と【三つの事実】の基(もと)に『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解すると矛盾点が一点も生じず、【科学】が成立して事実であったと証明されるからである。さらに、幾つかの遺跡や日本人の様々な慣習によって『魏志倭人伝』は全記事は【科学】が成立して正確無比であると証明される。
◆『魏志倭人伝』は【A】「倭国には令亀(れいき)の法、つまり亀の甲羅(腹甲)に文字を刻む甲骨文字のごとくの初期漢字・夏音文字があった」と記述し、【B】「魏の都と朝鮮半島の帯方郡と諸韓国が文書で使用する楷書と、倭国の女王・卑弥呼はじめ卑弥呼王朝をささえる王たちが文書に用いる夏音文字は字形・字義が相違していたので、楷書と夏音文字に精通する伊都(いと)国の男王・一大率(いちだいそつ)に教育された配下の役人たちは、魏都・帯方郡・諸韓国から送られてきた文書の楷書と倭国の王たちが書いた文書の夏音文字を逐一(ちくいち)点検し、伊都国の港からよく見える夏の銀河各部の形状で確認して、一大率の監督のもとに楷書と夏音文字に同義になるように正しく変換していた」と説明する記事がある。あるいは【C】121年頃に完成した『説文解字』は「卑弥呼」の[卑]の字源を「賤(いや)しい」と解説するように字源を失っていた。いっぽう、倭の夏音文字における[卑]の字は正しい字源を保存して「中国の海岸線。また中国の海岸線の地図の形」を意味した。
280年から289年ころに『魏志倭人伝』の著作した陳寿(ちんじゅ)は、晋王朝につかえた歴史編纂官であった。陳寿は優れた深い学識を有する歴史家であった。ゆえに、陳寿は倭の国書にあった上記した【A】から【C】までの三つの記事はじめその他の記事から、「倭には字源を失わず正しく保存する甲骨文字より以前の、【夏の銀河各部の形状】を【字源・字形・字義】とする初期漢字が存在する。また倭には【倉頡が発明した漢字作成理論】も存在するにちがいない」と直観・推断した。だから、陳寿は倭の国書に主観・批判・注などをいっさい加えず、倭の国書の記事をそのまま書き写して『魏志倭人伝』を著作したことになる。
その証拠に、前述したように『魏志倭人伝』の約55%・約1100字の記事は「倭国は、(1)【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、(2)【倉頡が発明した漢字作成理論】と、(3)【夏音文字(夏后時代初頭の音文字)と、精確な中国海岸線地図と、精密地図作製方法】を習得した――と、学界が「神話」と断定した黄帝時代と夏代初頭(夏后時代初頭)の文物(学問・芸術・宗教)について理路整然と詳細に科学的に説明している。
だから、『魏志倭人伝』は「邪馬台国」について1ヵ所も説明していない。ゆえに、邪馬台国説はすべてがウソ、ペテン、インチキであり、また日本国を衰退させ破滅せんとする祟りであったのである。
◆学界が倉頡伝説を「荒唐無稽のデタラメ」と断定した原因「四つ目の怪人・倉頡」の実体は「黄帝時代に中国各地の天頂にめぐってきて、中国各地の緯度が精確に(1度60分の60分の1の1分の精度で)測定できる羅針盤となった、【四つ目の銀河】」であったのである。
【四つ目の銀河】を「倉頡の横顔」に見立てると【倉頡が発明した漢字作成理論】は夏の銀河の各部の形状から作られた多数の文字の字源が理路整然とした一つの統合体となる。ゆえに、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」、言いかえると「四つ目の銀河」は【倉頡が発明した漢字作成理論の核心部】であったことになる。
陳寿が【倭の国書の記事】をそのまま書き写して著作した『魏志倭人伝』によって「四つ目の怪人・倉頡」の正体は「四つ目の銀河」であったと証明される。よって、学界の「倉頡伝説は荒唐無稽のデタラメである」という断定は全面的な誤り・空論であったことになる。倉頡伝説は「漢字の起源の歴史」について説明していたのである。
◆夏音文字の字源・字形・字義となった「夏の銀河の各部の形状の写真」、また楷書の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)となった「夏の銀河の各部の形状の写真」を、下に示した。
◆倉頡は【字源・字形・字義を夏の銀河の各部の形状としても、文字として通用すること】に気づいた。
また、倉頡はみずからが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制者側の人々が文字の知識を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡すると心配した。また【文字は夏の銀河から作られた知識】を厳重な機密にしないと、プーチンのごとく横暴・傲慢(ごうまん)・冷酷な人々が文字の知識を習得して帝王になったならば人民たちに恐ろしくおぞましい悲劇・不幸をあたえるにちがいないと心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す三つの掟(おきて)を破った人物はもちろん、その人物の一族全員に厳(きび)しい神罰がくだされて死刑に処せられると定めた。
【倉頡の死刑と定めた三つの掟】
【一】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」という秘密が容易に解明できるように明確・直接的に説明して暴露する者はもちろん、その者の一族全員をも死刑にする
【二】多くの文字を容易に覚えるため、銀河各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする
【三】書いた文字が用済(ようず)みになったならば、書いた文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族をも死刑にする
上記の【三】の掟のために、後期縄文時代初頭以後、あるいは卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)にあっても、夏音文字を書いた史料は消滅して出土しないことになったのである。
上記の【二】の掟のために、「夏の銀河各部の名称」はつけられないことになった。また、現在、天文学はじめ種々の学問分野においても「夏の銀河各部の名称」を定めていない。しかし、【漢字の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)の解明】には、「夏の銀河各部の名称」がどうしても必要である。それゆえ、私は下記のごとく「夏の銀河各部の名称」を定めることにした。
◆上記した【倉頡が死刑と定めた三つの掟】のために、古代において、【倉頡が発明した漢字】は現在の核のごとく絶大な恐怖心を与える存在となった。これゆえ、「漢字は銀河(夏の銀河)から作られた」と容易に理解できる説明をおこなう者は、現在にあって核の作り方を教えた犯罪者のごとくにあつかわれ、王朝と国家を滅亡させる即刻に死刑に処すべき反逆者・大罪人・大悪党となった。
「銀河」の別称は「銀漢」であり、「銀漢から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と称した。また、黄帝時代には中国とわが国における各地の天頂に、そして紀元前11世紀初頭の周代初頭以後は次第にやや北側に位置するようになって、「四つ目の怪人・倉頡」とよばれた「四つ目の銀河」がめぐってきた。
だから「漢字」の語源や「四つ目の怪人・倉頡(四つ目の銀河)」によって、各代の天皇はじめ研究熱心な皇族たちはじめ、権力者となった武士たち(源頼朝はじめ北条氏・足利将軍たちや織田信長や徳川家康や大老職についた井伊家の家督者たち)や仏教の高僧たちや名だたる芸術家たちは【夏の銀河各部の形状が文字(字源・真の字形・真の字義)である秘密】を知っていた。しかし、彼らは【倉頡が死刑と定めた三つの掟】を厳重にまもって「漢字は銀河から作られた」と暴露しなかった。
江戸時代初期、日光東照宮の造営に集められた大工や彫刻家たちなどの大半の芸術家たちは【漢字は夏の銀河から作られた秘密】を察知し、また【倉頡が死刑と定めた掟】が世を支配している状況を知っていた。ゆえに、名工の左甚五郎は「三猿(さんえん)の「見ざる・聞かざる・言わざる」の彫刻を作って「死刑になるのはマッピラ御免(ごめん)こうむりますから、漢字が作られた銀河は見ません・漢字は銀河から作られたという話はいっさい聞きません・漢字は銀河から作られたという秘密はいっさい言いません」と誓い、三猿彫刻を見物する人々にもしも銀河から漢字が作られた事実に気づいたならば、見ざる・聞かざる・言わざるを決めこんで命をまもるのが肝心である」と警告することにしたのである。
◆倉頡伝説は「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、はじめて文字を作ったので、天を祝福して禾(か/イネ・麦などの穀物)を降らせて、死霊が感激して泣く声が夜な夜な空から聞こえたというのである」と説明する。
「天は祝福して禾を降らせて、死霊が感激して泣く声が夜な夜な空から聞こえた」という説明は「五帝時代より以前の三皇時代の大王となった包犧(ほうぎ)氏、女媧(じょか)氏、神農(しんのう)氏の天に昇って銀河部位となった三氏族の死霊は、倉頡が発明した文字によって自分たちの歴史が後世に伝えることができたと感激して夏の銀河が輝く夜な夜な雨を降らせて(つまり、感激して泣いた涙の雨を降らせて)豊かな禾の実り(五穀豊穣)を地上にもたらした」と意味し――また「倉頡は【黄帝が目標とした仁徳・慈愛の政治】を表現する[禾]の字を作った」と説明するものであった。
黄帝時代、下に示す「四つ目の銀河」が中国各地(黄帝陵の天頂から太湖南岸までの各地の天頂)にめぐってきた。「四つ目の銀河」は上の「夏の銀河の各部の名称図」における左上の私が「鬼の姿に似る銀河」と名づけた銀河における左端(東端)の「鬼の横顔に似る銀河」である。
下に示したように、「鬼の横顔に似る銀河」には「目」の形が四つある。この「四つ目の銀河」は【倉頡が発明した漢字作成理論の核心部】であると伝えて、倉頡伝説では「四つ目の怪人・倉頡」と表現されることになったのである。
下に示したように、黄帝時代、「四つ目の銀河」は黄帝陵と太湖南岸の天頂にめぐってきた。ゆえに、「四つ目の銀河」は中国全土の各地の天頂にめぐってきたことになる。
この「四つ目の銀河」は「黄帝の政治理念の仁徳・慈愛」をあらわした。
◆前述したように、卑弥呼が居住した女王国名「邪馬壱国」のうちの「邪馬」は「出産する児(赤ちゃん)が骨盤入口を通りぬけ、さらにせまい産道をくぐりぬけることができる頭蓋骨の仕組み」である。
下に示す2図のうち、上図は〔産道を通過する時の出産児の「邪馬」の頭蓋骨図〕であり、下図は〔出産児の頭蓋骨の形に相似する「邪馬」の銀河図〕である。
つまり、「邪馬」は〔出産児の後頭骨にある「小泉門(しょうせんもん)」、2枚の頭頂骨にある「矢状縫合(やじょうほうごう)」、頭頂骨と前頭骨(2枚)の中間にある「大泉門(だいせんもん)」と名づけられる、結合組織性の膜(まく)〕である。この「邪馬」の膜によって赤ちゃんの5枚に分かれる頭蓋骨は重ねあわせることができるゆえ、せまい産道をくぐりぬけて誕生することができる仕組みとなる。
だから、「邪馬」という語は【黄帝の「子どもの出産」研究の核心部】をあらわした。
(注 なお、[死]の字形は「骨盤入口の通過に失敗して死亡する出産児の姿」を図化したものである。ゆえに、[死]の字源は「骨盤入口の通過に失敗した出産児の姿に相似する銀河」ということになる。)
下図の「邪馬」の銀河図に示したように――「出産児の頭蓋骨・小泉門に相当する銀河部」は、「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)の後頭部とアゴにある両目」と隣接する。
◆卑弥呼が居住した女王国名「邪馬壱国」の[壱]の字源・字形・字義は「子宮・産道・骨盤や骨盤入口などの、女性の生殖器」であった。
[壱]の字源は下に示す、私が「十字の銀河」と名づけた――その「十字の銀河の、子宮に相当する銀河部と、腰や産道に相当する部分」となる。
したがって、[壱]の字は【黄帝の「女性の生殖器」の研究】をあらわした。
◆下の図に示すように、右側の西から(1)「邪馬の銀河」、次に(2)「四つ目の怪人・倉頡の銀河(四つ目の銀河)」、そして(3)「[壱]の字源銀河」の、三つの銀河がならぶ。
「四つ目の怪人・倉頡の銀河(四つ目の銀河)」は西の「邪馬の銀河」と東の[壱]の字源「十字の銀河の子宮」の中間にある。つまり、「四つ目の怪人・倉頡の銀河」は「【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究の核心部】をあらわす銀河」であった。
◆『魏志倭人伝』によって、[委]と[倭]の字源は、倉頡伝説に登場する[禾]の字源をそのまま受け継いだことを証明することができる。
ゆえに、下の図は〔[禾][委][倭]の字源銀河の解明図〕ということになる。
◆上の図に示しているように――倉頡は「十字の銀河」に「禾(イネ)をデザインする図書」を重ねて、その「禾の穂」を「十字の銀河の子宮から四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)の口」の方へ垂らして、[禾]の字を作った。禾(イネ)の生育に適する地域は中国南方の太湖周辺地域である。ゆえに、倉頡は〔禾の穂を「十字の銀河の南部」から「四つ目の銀河の口」の方へ垂らす〕と定めて、[禾]の字源と字形を成立させた。
下に、五帝時代初頭の黄帝時代初頭の黄帝陵と太湖南岸の天頂緯度線図を配した。下図が示すように、禾の育成適合地域となる中国南部に所在する太湖の天頂には[壱]の字源「十字の銀河の子宮と、腰・産道に相当する箇所」がめぐってきていた。
ゆえに、上の〔[禾][委][倭]の字源銀河の解明図〕における「禾の穂の垂れる図形」は合理、理屈にあっている。
◆このように、学者たちが「四つ目の怪人・倉頡」を「荒唐無稽のデタラメである」と断定した意見は鼻の先の合点(がってん)、つまり学者たちがトッサに思いついた早合点・空理空論であったのである。
「四つ目の怪人・倉頡」は「四つ目の銀河」であった。だから、『魏志倭人伝』は「倉頡は夏の銀河の各部の形状から漢字を作った」と伝える文献史料であったことになる。
わが前回のブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・3」で詳細に解説して証明したように、わが国が最初に漢字を習得したのは今から約4000年前の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)であった。
わが国が夏音文字を習得した夏代初頭は、現在、歴史ではなく神話と定められている。
しかし、『魏志倭人伝』や『古事記』上巻の序は「中国の五帝時代後半と夏代初頭における聖天子で有名な堯(ぎょう)・舜(しゅん)・禹(う)の三代につかえた名門・益(えき)氏の王子と若者たちは玄界灘を横断して、日本列島の日本海沿岸地域を北上して男鹿半島・米代川流域に定住して、中国の文物(学問・芸術・鬼神信仰)を関東一円までの氏族に教えひろめた」と説明し、『魏志倭人伝』には幾つかの夏音文字が記され『古事記』上巻の随所には〔音〕という注がつく夏音文字が多数残っている。だから、「神話に登場する神々(堯・舜・禹・益)は人間と同じく文字を使っていた」ことになる学者たちの説は不条理・不合理で学説の体(てい)をまったくなしていない。「夏音文字」は歴史遺産であるゆえ【わが国における夏代初頭における夏音文字の習得】はただちに歴史上の事実であったと断定すべきことになる。
だから、【学問の基本定理】にしたがって【1】『魏志倭人伝』の記事を1ヵ所も排除・カットせず、【2】『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解すると――(1)倉頡伝説は事実を伝えていた、(2)倉頡は夏の銀河の各部の形状を観て漢字を作る方法を発明した、(3)わが国が漢字を習得したのは紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭であった――この【三つの事柄は事実】であったと証明される。
◆いままで証明したとおり――『魏志倭人伝』は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と【中国に住むすべての民族を思いやって慈しむ政治を志した黄帝の政治理念、つまり仁徳・慈愛】を説明する書物であった。また、【黄帝の政治理念の仁徳・慈愛と「子どもの出産と女性の生殖器の研究」をあらわすことができる文字を発明した倉頡の漢字作成理論】を説明する学術書でもあったのである。
中国のほとんどすべての民族に敬愛されて崇拝された中国の始祖・黄帝は、プーチンのごとき自己の欲望を満たすために冷酷非情・野蛮な方法で人民を苦しめる支配者たちを征伐したが、その軍行はプーチンのごとき支配者に苦しめられる弱き人民を助けるためだったのである。
司馬遷著『史記』第一・五帝本紀の黄帝紀には「天地の大法、陰陽五行の運行、死生の説、安危の説に順い、四時の宜にしたがって百穀草木を播植し、鳥獣虫蛾の類まで慈愛をそそいだ」という記事がある(この現代語訳は、野口定男・近藤光男・頼惟勤・吉田光邦訳者『史記(上)』平凡社発行から転載した)。
ゆえに、黄帝は鳥獣虫蛾の類まで愛をそそぐ、慈しみの政治を目指した。
そして、いつしか中国の周辺諸国は長いあいだ、中国文化に影響されることになった。このため、何か事あれば手を差しのべなければならない、さらに周辺諸国を抱き込んで慈しまなければならないといった意識が中国人の伝統的な世界観となった。
だけど黄帝は〔天地の大法にしたがって人民を慈しむ政治がおこなわれる周辺諸国への侵攻・侵略は断じてしてはならない〕と厳重に禁止した。
これゆえ、黄帝は、倉頡が作った[禾]の字は「仁徳・慈愛の政治理念」をあらわすものであったゆえ、彼は[禾]の字形を「黄帝軍の門の形」に用いた。
白川静著『字統』(平凡社発行)は[禾]の字源・字形・字義について「いねの象形。また軍門の象形。いねの字は禾穂(かすい)が垂れた形。軍門の字は標木(しめき)に袖木(そでき)をつけた形で、(中略)、一字にして別義のある字である」と解説する。
上に表示した[禾][委]の字源銀河解説図と[禾]の契文形(けいぶんけい/甲骨文字の字形)は【黄帝の仁徳・慈愛の政治理念】をあらわしていた。
だから『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読んで解明できる邪馬壱国説は、ウクライナ・ロシア戦争の停戦・終戦後におこると軍事学者や研究者たちや政治家たちが心配・予想する、中国の侵攻・侵略を阻止する日本の自衛・国防における強力な盾(たて)となる。
◆『魏志倭人伝』は学者たちが「黄帝時代や夏代初頭は神話であって歴史ではない」と断定した伝説を、一気に「歴史であった」と一転することができる学問書であったのである。
中国は黄帝の国であり、黄帝は仁徳と慈愛を政治の目標・理念とした。ゆえに、プーチンのごとくの横暴で狡猾な侵攻・侵略は、中国の始祖・黄帝は厳重に禁止している。
また、『魏志倭人伝』の対馬国以下34の小国記事は【卑弥呼の国防戦略(国防論)】をも説明している。卑弥呼の自衛・国防の考えは江戸時代まで受けつがれ、そして令和元年(2019年)11月におこなわれた大嘗祭(だいじょうさい)でも表示された。令和の大嘗祭は【黄帝の仁徳・慈愛の政治理念】をあらわす大祭(たいさい)であったのである。ゆえに、『魏志倭人伝』にはウクライナの国民のごとくロシア軍と戦わなければならない日本国民の心と魂と生き方が示されることになり、わが国の国防力が一段と数倍に増大・強大化する方法が記述されている最も注目すべき大事な書物であったことになる。
だから、日本の自衛・国防について早急に真剣に考えなければならなくなった現在――軍事学者や研究者たち・自衛隊・政治家たちそして国民は、『魏志倭人伝』が日本の自衛・国防に不可欠で最も重大な書物である事実を認識しなければならないことになった。
要するに、『魏志倭人伝』には1ヵ所も「邪馬台国」という記述は存在しない。
邪馬台国説は中国と日本国が戦争をして多くの人々がムダに血を流しかねない、無責任きわまりない下品で愚劣きわまりないウソ・ペテン、日本の祟りであったのである。
次回からのブログでは、【黄帝の仁徳・慈愛の政治理論】をあらわす「倭人国」、「邪馬壱国」はじめとする小国名やその他の記事の秘密を解明することにする。
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