邪馬台国説 邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・5
#日本国民よ、いつまでも邪馬台国説にダマされるな
◆邪馬台国説にダマされるな!
邪馬台国説は無視して相手にするな!
日本国民は、もういいカゲンに邪馬台国説にダマされるな!
もう十分に、日本国民はダマされた!
日本国民ヨ! 目覚めよ!
◆邪馬台国説は『魏志倭人伝』の全記事を誤読してデッチあげたペテン、インチキである。
もしも学者たちが『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読んで正確に理解していたならば――『魏志倭人伝』は「中国の神話や伝説に登場する【黄帝(こうてい)が研究した医学】と【倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】を理路整然(りろせんぜん)と説明していた史料であった。ゆえに、黄帝と倉頡は神話に登場する神々であるという学界の定説は明確に誤りで、黄帝と倉頡は歴史上の人物であった」という真実が【科学】が成立して完全証明されていた。
『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の医学研究と、倉頡の漢字作成理論の説明】は、わが国の幾つかの遺跡や文物(学問、芸術、信仰)はじめ、現在における日本を代表する文化・習俗や日本人の気質などに融合・同化して残っている事実――が明確となる。
だから、『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の医学研究と倉頡の漢字作成理論と、黄帝と倉頡は歴史上の人物であった事実】は【唯一無二の真実の歴史】であったことになる。
歴史哲学・歴史科学を研究する学者たちの中には「唯一無二の歴史の真実は存在しない」と思いこむ人々がいるが――『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の医学研究と倉頡の漢字発明】は、上記のごとく現在のわが国の日々の生活にも融合・同化して受け継がれているゆえ――【唯一無二の真実の歴史】は確かに存在することになる。
◆【唯一無二の真実の歴史】を伝える『魏志倭人伝』に対して――邪馬台国説学者たちはじめNHKテレビや朝日新聞出版は【一】邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』のおける不都合な記事は何ヵ所でも排除・無視できる、【二】邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』における不都合な記事は何ヵ所でも誤読・批判・主観・歪曲(わいきょく)を加えることができるという、ご都合主義の論法を駆使(くし)して日本国民をまんまとダマしている。
『魏志倭人伝』は今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の医学研究】と、【黄帝の仁徳・慈愛の政治理論】を説明する歴史書であった。また、『魏志倭人伝』は黄帝の史官(記録官)であった【倉頡が黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究と、【黄帝の仁徳・慈愛の政治理論】をあらわす文字を銀河各部の形状から文字(漢字)を作った理論】を説明する学術書であった。
倭女王・卑弥呼(ヒミコ)は、【黄帝の仁徳・慈愛の政治理論と医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤にして倭人国を統治して、中国や諸韓国の侵攻・侵略から衛(まも)る国防に努めた。
というのも、中国の後漢時代の平帝元治2年(西暦2)の人口は5,959万余であったが、その後に戦乱が続いて、卑弥呼が生存した乱世・三国時代になると800万余となり、約87パーセントの人々が死亡し、約13パーセントの人口しか残っていなかったからである。
だから、卑弥呼が生存した2世紀末から3世紀半ばは、残忍な獣性(じゅうせい)に支配されていた。このため、黄帝軍の無敵であった軍事力と黄帝の仁徳・慈愛の政策が渇望(かつぼう)されて、卑弥呼は自衛・国防に努力しなければならなかったのである。
中国において三国が鼎立(ていりつ)した、その三国の国名は魏・呉・漢(蜀)であった。
「魏」という国号は、倉頡が作った[禾]の字源をそのまま受け継ぐ[委]に黄帝が信仰した「鬼神」の[鬼]を加えた字であるゆえ、[魏]は「黄帝軍のごとき最強の軍力」を表示するものであったと考えられる。倉頡は【黄帝の医学研究】をあらわすために、[呉]の字を作った。また「蜀(しょく)」の正式名の[漢]の字源・字義は「倉頡が文字(漢字)を作るモデルとなった銀河」であった。
上記したように、卑弥呼が生存した後漢時代末から三国時代は中国の魏・呉・漢と中国の隣国の燕地(えんち)や諸韓国とわが国において【黄帝と倉頡から始まる学問と、その歴史の復興】が渇望されて自衛・国防に全精力をそそがなければならない世であったのである。
◆『魏志倭人伝』には――今から約4000年前(紀元前2070年頃~紀元前2050年頃)の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、帝禹(う)の後を継いだ帝益(えき)の孫の王子と若者たちが玄界灘を横断して日本列島を北上して東北地方の男鹿半島・米代川流域に定住して、【(1)黄帝の医学と仁徳・慈愛の政治理論と、(2)倉頡が発明した漢字作成理論と、(3)精確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】を東北地方から関東一円に住む氏族たちに教えひろめた――と、208字で説明する記事がある。
『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)は冒頭から末部まで一貫して――益氏の王子と若者たちが教えひろめた夏音文字をわが国が習得した歴史はじめ、夏音文字の字源・字形・字義と後漢時代・三国時代に出現した楷書の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)は、共に「夏の銀河各部の形状」である。ゆえに、楷書の「日下(にちげ)」と夏音文字の「玖沙訶(くさか)」は同義、楷書の「帯(たい)」と夏音文字の「多羅斯(たらし)」は同義である――と、【夏音文字】について説明している。また、『古事記』上巻の随所には[音]という注がついて益氏が教えひろめた夏音文字が多数記載されて現存する。
現在、中国においては、益氏が日本列島に定住した夏代初頭は神話であって歴史ではない。しかし、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序によって、中国の神話・伝説に登場する黄帝・倉頡・帝禹・帝益と益氏の王子と若者たちは一気に歴史上に生存した人々となる。
『魏志倭人伝』に記される「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読むと夏音文字の漢字音となる。このように、『魏志倭人伝』の卑弥呼はじめとする人名・小国名・官職名には夏音文字の字音が残っている。
だから、わが国が最初に漢字を習得したのは、約4000年前の後期縄文時代初頭であった。楷書を刻む銅鏡や銅剣などの出土史料を注目して学界が「わが国が漢字を最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定した絶対的定説は、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に残って実在する多数の夏音文字を排除・無視して捏造(ねつぞう)した【科学】に反する錯覚・空想であったのである。
◆1725年に死去した新井白石以後から現在までの邪馬台国説学者たちは全員、『魏志倭人伝』の記事を正確に読むことができず、ほとんど全部の記事をデタラミ読みする。
約2000字で構成される『魏志倭人伝』には、「倭人国には夏音文字が存在した」と伝えていたと解釈すべき記事が【A】【B】【C】の三ヵ所存在する。この記事をルビ無しで書き下し文を示すと下記のごとくなる。
【A】「其の俗、挙事行来に云為する所有れば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。其の辞は令亀の法の如く、火坼を視て兆を占う。」
【A】の記事は――倭国の占いに用いる「その辞(じ/ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり亀の腹の甲羅に文字を辛(はり)で刻む殷代(いんだい)の卜占に用いた甲骨文字のような文字があった」、つまり「倭国には甲骨文字のごとき夏音文字があった」と説明していたことになる
【B】「女王国自り以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於いて刺史の如きところ有り。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、及、郡の倭国に使するや、皆津に臨みて、伝送の文書・賜遺の物を捜露し、女王に詣るに差錯あるを得ざらしむ。」
【B】の記事は「魏の都と朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)と諸韓国が文書に用いる楷書と、倭国の女王・卑弥呼はじめ卑弥呼王朝をささえる有力な王たちが文書に用いる夏音文字は字形・字義が差錯(ささく/相違)していたので、楷書と夏音文字に精通する伊都国(いとこく)を治める男王の一大率(いちだいそつ)に教育された配下の役人たちが、魏都・帯方郡・諸韓国から送られた楷書で書く文書と倭国の王たちが夏音文字で書く文書の文字を一字一字ずつテイネイに点検し、伊都国の港からよく見える夏の銀河各部の形状で楷書と夏音文字の字源を確認して、一大率の監督のもとに楷書と夏音文字の文が同義になるように正しく変換して、誤訳が原因で誤解が生じて国交が断絶しないように努力していた」と説明するものであったことになる。
【C】『魏志倭人伝』は女王・卑弥呼が居住した都が所在する王国名を「邪馬壱(やまい)国」と記す。しかし、邪馬台国説学者たちは、全員、[壹(壱)]の字は[臺(台)]と記してあると言いはり「邪馬台国」と誤読する。
このような三つの事例が示すように、新井白石以後の邪馬台国説学者たち全員、『魏志倭人伝』の全記事を正確に読む意志を有しておらず、ほとんど全部の記事をデタラミ読みする。
◆夏音文字の字源・字形・字義は「夏の銀河の各部の形状」によって形成され、これゆえ夏音文字の字源・字形・字義は「夏の銀河の各部の形状」であった。
元来、楷書の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)は「夏の銀河の各部の形状」にもとづいて形成されるものであり、ゆえに楷書の字源・字形の原形・原義は「夏の銀河の各部の形状」であった。
[漢]の字源・字形の原形・原義は「夏の銀河」であった。ゆえに、「[漢](夏の銀河)から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と称したのである。
「夏の銀河」は「夏の全星座が漬かる銀河の範囲」、言いかえると「夏に最も長時間見える銀河の範囲」である。下に「夏の銀河の写真」を示した。
◆倉頡はみずからが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の知識を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡することに気づいた。また【文字は夏の銀河から作られた知識】を最も厳重な機密にしないと、プーチンのごとき傲慢(ごうまん)・冷酷・狡猾(こうかつ)な人物が文字を習得して帝王になったならば人民たちに恐ろしくおぞましい不幸・苦しみと深い悲しみを与えるにちがいないと心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す三つの掟(おきて)を破った人物はもちろん、その人物の一族全員に厳(きび)しい鬼神の神罰がくだされて死刑に処せられると定めた
【倉頡が死刑と定めた三つの掟】
【一】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」と、秘密が容易に解明できるように明確・直接的に説明して暴露する者はもちろん、その者の一族全員をも死刑にする
【二】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、銀河各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする
【三】書いた文字が用済(ようず)みになったならば、書いた文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員をも死刑にする
上記の【三】の掟のために、夏音文字を書いた史料はただちに消滅したゆえ後世に出土しないことになったのである。
また、上記の【二】の掟のために「夏の銀河各部の名称」は存在しないことになった。現在、天文学はじめ種々の学問分野においても「夏の銀河各部の名称」は定めていない。しかし、【『魏志倭人伝』に記述された倉頡が発明した漢字作成理論】や、【漢字の字源・字形の原形・原義の解明】には、「夏の銀河各部の名称」がどうしても必要である。私は下記のごとく「夏の銀河各部の名称」を定めることにした。
◆上記した【倉頡が死刑と定めた三つの掟】のために、古代において、【夏の銀河各部の形状が字源・字形の原形・原義となる学術(知識)】は【絶大な恐怖心】で世を支配することになった。これゆえ、「漢字は銀河(夏の銀河)から作られた」と容易に理解できる説明をおこなう者は、現在にあって核の作り方をくわしく暴露した大罪人と同じくあつかわれ、王朝と国家を滅亡させる即刻に死刑に処すべき反逆者・大悪党となった。
だから、『魏志倭人伝』に記述された夏音文字は「倉頡が死刑と定めた【三】の掟」をもって徹底的にまもられたゆえ、夏音文字を書いた史料は出土しないことになった。
また、中国の人口が一気に激減した残酷な獣性に支配された後漢時代末から三国時代において、【夏の銀河各部の形状が字源・字形の原形・原義となる学術】は【最強最大最高の軍力と国防力】を表示することになった。だから、中国と中国の隣国の燕地(えんち)や諸韓国とわが国において【黄帝と倉頡の学問と、その歴史の復興】は自衛・国防に真っ先に必要とされることになったのである。
だから、卑弥呼が【国防を強化する】ために、34の小国名をもって【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と【倉頡の漢字作成理論】が理路整然となるように完璧化を目指したのは、当然のことであったのである。
◆『魏志倭人伝』は「倭女王・卑弥呼が居住した女王国の名は邪馬壱国であった」と記す。
「邪馬壱国」の「邪馬」は「出産する児童(赤ちゃん)の頭蓋骨がせまい産道をとおりぬけることができる小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)の仕組みの、結合組織性の膜(まく)」をあらわす語であった。
「邪馬壱国」の[壱]の字源・字形・字義は「子宮・産道・骨盤や骨盤入口などの、女性の生殖器」であった。
このように、「邪馬壱」という語は【黄帝の「子どもの出産(邪馬)と女性の生殖器(壱)」の研究】をあらわした。
『魏志倭人伝』には「その地には牛馬は無し」、つまり「倭人国には牛と馬は生息していない」と説明する記事がある。
「邪馬」の[馬]の字源・字形・字義は「フタコブラクダ」であった。倉頡は「フタコブラクダ」を【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めた。
[牛]の字源・字形・字義は「ジャコウウシ」であった。「ジャコウウシ」は[壱]の字源「子宮や骨盤」をあらわした。ゆえに、倉頡は「ジャコウウシ」も【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めた。
ジャコウウシは、ツンドラ地帯のきびしい寒さにたえられるように暗褐色(あんかっしょく)の毛足の長いコートでおおわれており、すさまじい猛吹雪にも耐えることができる。群生し、黄帝時代には100頭以上の群れがふつうに見られたという。ジャコウウシのオスが興奮して咆哮(ほうこう)すると、前肢(前の足)の内側に頭をこすって眼下腺(がんかせん)からジャコウ(麝香)の分泌物をはなつ、この香りからジャコウウシと名づけられた。天敵のオオカミに襲われると、子どもを真ん中にかくして鼻を外側にむけて円陣を作って衛(まも)る。女性の生殖器の大部分(卵管・卵管采・卵巣・子宮・産道の一部など)は骨盤内にある。ゆえに、「骨盤」は「ジャコウウシの群れが作る円陣」に見立て、「子宮や胎児」は「円陣の中心にかくすジャコウウシの子」に見立てて、倉頡は「ジャコウウシ」を【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めた。司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀の黄帝紀には「師兵(しへい)をもって営衛(えいえい)す」という記事があり、「黄帝軍は駐屯するとき、円陣を組んで自衛した」と説明する。黄帝軍はジャコウウシから自衛の方法や戦法を学んでいたのである。
◆上記したように、「邪馬壱国」の「邪馬」は「出産する赤ちゃんがせまい産道を通りぬけることができる、頭蓋骨の仕組み」をあらわす。産道を通りぬける赤ちゃんの頭蓋骨には「小泉門」、「矢状縫合」、「大泉門」とよばれる結合組織性の膜(マク)がある。この「小泉門・矢状縫合・大泉門の仕組み」を、卑弥呼は「邪馬」と表現した。
下図は「出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門の図」である。
出産児・赤ちゃんの頭蓋骨「邪馬」の縫合は完成しておらず、骨どうしのあいだの小泉門・矢状縫合・大泉門は重ねあわせることができる仕組みになっている。この「邪馬の仕組み」を、卑弥呼は「邪馬」、現在の産婦人科では「骨重積(こつじゅうせき)」と名づけている。
馬(フタコブラクダ)が草をモグモグと食べるときの〔ラクダの鼻〕を〔小泉門〕に見立てると、〔ラクダの鼻の下の、口までのミゾ〕は〔矢状縫合〕に相似し、〔ラクダの口〕は〔大泉門〕にそっくりとなる。つまり、〔草を食べる時の馬・フタコブラクダの鼻・ミゾ・口が少し邪(なな)めになって重ね合わさって歪(ゆが)む形状〕は〔産道を通過する赤ちゃんの頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門が重ねあわさって小さくなる骨重積の形状〕に瓜(うり)ふたつ・ソックリである。
下図は卑弥呼が「邪馬」と名づけた「フタコブラクダの鼻・ミゾ・口の図」である。
そして、〔骨盤入口をくぐりぬけるときの赤ちゃんの頭蓋骨は首に対して少し邪(なな)め、つまり少し斜(なな)めになって骨盤入口をくぐりぬける状況〕を、産婦人科では「小斜径(しょうしゃけい)」と呼んでいる。他方、〔赤ちゃんの頭蓋骨が首と同じく垂直に立つ状況〕を、産婦人科で「前後径(ぜんごけい)」と称する。前後径の状況になると、小斜径より約2センチ大きくなるため、赤ちゃんは頭が骨盤入口を通りぬけることができず死ぬことになる。
ゆえに、この点からも卑弥呼は「出産児の小斜径となる頭蓋骨」を「邪(斜)めの馬」つまり「邪馬」と名づけたのである。
(注 邪馬・小斜径の頭蓋骨の前後の径(長さ)は平均32センチ、骨盤入口を通りぬけることができない赤ちゃんの前後径(頭蓋骨の前後の径)は平均34センチである)。
だから、「馬・フタコブラクダ」は「出産児の頭蓋骨の仕組み」をあらわして、人間にとってもっとも大事な[生]と[命]が説明できるゆえ、倉頡は「馬・フタコブラクダ」を【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めたのである。
◆前掲した〔夏の銀河の写真の左上端よりやや下部〕は、〔夏の銀河各部の名称図〕において左上の「三つ輪の銀河の北端」となる。「三つ輪の銀河の北端」は〔蒙古のゴビ沙漠の天頂(北緯42度)〕となる。
したがって、前掲した〔夏の銀河の写真〕は〔夏の銀河の範囲〕をあらわす。
だから、「夏の銀河における北の端(北限)」をあらわすため、「ゴビ沙漠」と「ゴビ沙漠に生息する馬・フタコブラクダ」が必要となった。ゆえに、倉頡は[馬]の字源を「フタコブラクダ」と定めて、「馬」を【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めたのである。
上記したように――ゴビ沙漠からヒトが南を正面して〔夏の銀河〕を見たとき、〔ヒトの左手側は夏の銀河の東方、ヒトの右手側は夏の銀河の西方〕となる。ゆえに、前掲した〔夏の銀河の写真〕と同じく、倉頡は【漢字の字形を左東・右西】と定めた。
しかし、〔ゴビ沙漠から南を正面する夏の銀河の形状〕は、下の図に示すように「人体」に相似する「十字の銀河」は「頭が地のほうに向き足が天のほうに向く、逆さとなる人の(逆立ちした)姿」に見えて不自然である。
◆倉頡は「十字の銀河」を「地面に立つ女性(妊婦)の姿」と定めるため、前掲した〔夏の銀河の写真〕と同じく【上が北、下が南】と定め、【漢字の字形の定式】は上記した通り【左東・右西】と定めた。
これゆえ、前掲した〔夏の銀河の写真〕は倉頡が定めた【漢字の字形の定式(上が北・下が南/左が東・右が西)】をあらわす。
下に、【倉頡が定めた漢字の字形の定式】の則(のっと)る〔「邪馬壱」の銀河と黄帝時代の天頂緯度線をあらわす図〕を配した。
下の図における中央に、「邪馬(小泉門・矢状縫合・大泉門)の銀河」がある。「邪馬の銀河」の東方にある「十字の銀河の子宮(腰の部分)」が[壱]の字源である。したがって、「邪馬の銀河」と[壱]の中間にある「鬼の横顔に似る銀河」が倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」であったことになる。
下に、「鬼の横顔に似る銀河」が倉頡伝説で「四つ目の怪人・倉頡」と名づけられた「四つ目の銀河」を配した。
「四つ目の銀河における顔と後頭部とアゴ」には〔目の形に相似する箇所〕が四つある。
◆下に[禾(か/イネ(稲)]の字源銀河解説図を配した。[委]と[倭]の字源は下に示した「[禾]のイネの穂が〔南から西へ〕と垂れる形式」をそのまま受けついだ。ゆえに、下の図は〔[禾][委][倭]の字源銀河の解説図〕とした。
下図における「垂れる禾(イネ)の穂」と重なる「十字の銀河の子宮の中央部」は中国におけるイネの育成に適した穀倉地帯の揚子江・太湖の緯度(北緯31度30分)をあらわす。
なお、下図の〔禾の穂が「南→西」へ時計回りに90度転回して垂れている〕ように、[禾][委][倭]の字源・字形・字義は「時計回りに方位が90度転回する」と定められた。
下に〔地面に植わる禾(イネ)をあらわす、[禾]の字形解説図〕を配した。
下図の右側〔[禾]の穂の転回図〕における〔禾の穂が「北→東」へ時計回りに90度転回して垂れている〕ように、[禾][委][倭]の字源・字形・字義は、上図と同じく「時計回りに方位が90度転回する」と定められた。
司馬遷著『史記』五帝本紀の黄帝紀には「南のかた、江(こう)に至り、熊湘(ゆうしょう)に登り、北のかた、葷粥(くんいく)を逐(お)ふ」という文がある。
この文は「黄帝が率いる遠征軍は、南は北緯31度30分の長江口・揚子江に至り、熊湘という名の地に登った。熊湘から北へ引き返して、黄帝の遠征軍は本拠地(黄帝陵周辺地域)に帰還した。そして、馬・フタコブラクダを家畜とするゴビ沙漠の住民・葷粥の別名匈奴(きょうど)が北から来襲し侵略してきたゆえ逐いはらった」と説明していたことになる。
したがって、上に配した〔イネの穂が南に向く[禾]の字源銀河解説図〕は「黄帝の遠征軍が長江の河口の長江口・揚子江に至り、熊湘の地に登った」と表現していたことになる。
また、上に配した〔イネの穂が北に向く[禾]の字源銀河解説図〕は「黄帝の遠征軍は長江口・揚子江で育成される稲を採取して、北の本拠地に帰還して稲を大事に育てた。そして匈奴が来襲してきたゆえ逐いはらった」と表現するものとなる。
◆これまで解説してきた事情を、倉頡伝説は下記のごとく説明していたのである。
「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、はじめて文字を作ったので、天は祝福して禾(か)を降らせて、死霊が感激して泣く声が夜な夜な空から聞こえたというのである。」
前述した「四つ目の銀河」は、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」をあらわした。
前述したように、倉頡伝説に登場する[禾]は「黄帝の遠征軍は長江口・揚子江に到着して稲を採取して、北の本拠地(黄帝陵周辺地域)に帰還して稲を大事に育てた。そして、来襲する横暴な匈奴を逐いはらった」と意味したことになる。
倉頡伝説における「死霊が感激して泣く声」は「三皇時代に生存した氏族たちは、倉頡が発明した漢字によって自分たちの歴史が後世に伝えられると感激して涙にして泣く慈雨(じう)、すなわち稲が順調に育つ恵みの雨を降らした」と表現していたことになる。
倉頡伝説における「夜な夜な空から聞こえた」という表現は「夜な夜なに輝く夏の銀河各部の形状が文字(字源・字形・字義)であった。ゆえに、倉頡が発明した文字(夏の銀河の各部の形状)は前人がおこなった事績や出来事を伝える方法となった。だから、後世における強大な権力を有する王朝や国家にあっても夏の銀河の形状は永遠不変であって歪(ゆが)めて変えることができなかったゆえ、後世の人々は文字、つまり夏の銀河の各部の形状を観察すれば前人がおこなった真実の歴史を知ることができる」と説明していたことになる。
したがって、邪馬台国説学者たちのごとく【夏の銀河の各部の形状をいっさい観察せず無視する立論方法】だと、『魏志倭人伝』に記述された【真実の歴史】は全く解明できず、直(ただ)ちに空理空論・学説の体(てい)をなしていないナンセンスとなる。
◆『魏志倭人伝』は、倭国最初の一番目の小国は「対馬(つしま)国」で、現在の「長崎県北部の対馬」であったと説明する。二番目の小国は「一大(いちだい)国」で、現在の「対馬の南にある、長崎県の壱岐」であった。
また、『魏志倭人伝』は「対馬国より南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰(い)う。一大国に至る」と説明する。
対馬国と一大国の中間の「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味する。
下に、〔対馬国・瀚海・一大国の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)〕を示した。
下に、〔「沙漠」と[馬]の字源銀河解説図〕を配した。
「三つ輪の銀河における渦巻く無数の小さい星々」は沙漠の砂のようにキラキラ光る。ゆえに、「三つ輪の銀河」は「瀚海・ゴビ沙漠」に見立てられた。「三つ輪の銀河の北端」(下図の左上)は瀚海・ゴビ沙漠の天頂(北緯42度周辺)であり、また「三つ輪の銀河の北端の横顔に見える銀河部」は「フタコブラクダの横顔」に相似する。これゆえ、「三つ輪の銀河」と同様にキラキラ輝く「十字の銀河」は「瀚海・ゴビ沙漠に住む匈奴の人々にとって大切な家畜、フタコブラクダ」に見立てられて[馬]の字源となった。
下図は〔「対馬」の地宜と[馬]の字源解説図〕である。
卑弥呼は「長崎県対馬の地宜」を[馬]の字源「フタコブラクダの姿」に相似すると見立てて、小国名を「対馬国」と定めた。つまり、「対馬の上県(かみあがた)の地宜」を、卑弥呼は「フタコブラクダの正面形」に相似すると見立てた。「対馬の下県(しもあがた)の地宜」を、卑弥呼は「沙漠を歩くに都合よい、じょうぶな足の指を有する大きなフタコブラクダの足底と、沙漠に残る足跡の形」と見立てた。だから、「上県と下県の地宜」は「フタコブラクダの姿と足底の、一対(いっつい)の形」となるゆえ、卑弥呼は小国名を「一対」の[対]に[馬]を加える「対馬国」と定めたのである。
倉頡は「十字の銀河の子宮」を「夏の銀河各部の形状から作られた全部の文字が生まれる子宮」と定めた。ゆえに、「十字の銀河の子宮」は「[一]の小さい場から大きな銀河の各部分から作られた全文字が生まれる子宮」とされ、倉頡が立論した「一即大、大即一」という超合理論をあらわす箇所となった。ゆえに、【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える学問において「十字の銀河の子宮」は「一大」とよばれることになった。
これゆえ、卑弥呼は「現在の長崎県壱岐」を「十字の銀河の子宮」に見立てて、小国名を「一大国」と定めた。
下図に示すように「壱岐の西方の海岸線の地宜」は「南に顔を向けるフタコブラクダの顔とコブの形」に相似する。「壱岐の大半の地宜」は[牛]の字源「南に顔を向けるジャコウウシの顔・胴体・前足と後ろ足の形」に相似する。ゆえに、「一大国のジャコウウシの地宜」は「黄帝時代、黄帝陵周辺地域の餌場(えさば)に集まったジャコウウシの100頭の大群」に見立てられたことになる。
◆一大国の地宜(海岸線の地図の形)が示すように、[壱]の字源「十字の銀河の子宮」と直接に関係する【漢字作成理論を象徴する聖獣】のジャコウウシとフタコブラクダの姿に相似する地域に岐(わか)れる」ゆえ、現在の地名は[壱]に[岐]が加わる「壱岐」となる。
[馬]の字源「フタコブラクダの正面形と足底の形」に相似すると見立てられた「対馬国の地宜」は「経度軸にも緯度軸にも邪(斜)め」である。
ゆえに、「対馬国の地宜」は「邪馬」を、「一大国・壱岐」は[壱]の字源をあらわす。
結局、「対馬国と一大国」は卑弥呼が居住した女王国名「邪馬壱国」をあらわす。
だから、卑弥呼が居住した女王国名は「邪馬壱国」であって、「邪馬台国」ではなかった。
一大国の「一大」は伊都国に居住する「一大率」の「一大」をあらわした。
伊都国は、一大国より南東の糸島半島より南の地域であった。
もしも外敵(魏、燕(えん)、諸韓国)が来襲したならば、一大率は外敵を対馬・瀚海の北方へと逐いはらう国防の軍王(国防軍の総司令官・大将)であったことになる。
下に「伊都国の範囲と地宜」をあらわした。
上図における伊都国の「糸島半島の地宜」は「牛・ジャコウウシの横顔」に見立てられ、「糸島半島より南部」は「ジャコウウシの100頭が犇(ひしめ)く群」と見立てられて「伊都国」と名づけられた。
そして、伊都国王「一大率」という名が示すように、伊都国は「天敵オオカミに襲撃されたときに百頭のジャコウウシの群れが円陣を組んで衛(まも)る闘い」をあらわして「自衛・国防の軍事拠点」であったことになる。
『魏志倭人伝』には「すなわち共に一女子を立てて王と為(な)す」という記事がある。この記事は「一女子の卑弥呼が倭女王に就任した(立った)とき、卑弥呼と共に九州で国防を担当する軍王に就任したのが伊都国の一大率であった」と説明していたのである。だから、対馬国の「邪馬」に一大国の[壱]を加える「邪馬壱」という語は「対馬国と一大国の〔邪馬壱地域〕を防衛する一大率と邪馬壱国に住む女王・卑弥呼は、共に外敵を対馬・瀚海で逐いはらう」という国防政策をあらわしていたことになる。
◆邪馬台国九州説の理由・根拠となる吉野ケ里遺跡は、伊都国に所在する。『魏志倭人伝』は「九州の所在する倭人国の一員となる小国は末盧(まつら)国・伊都国・奴(な)国・不弥(ふみ)国の四ヵ国であった」と説明する。だから、九州には女王国は存在しなかったゆえ、邪馬台国九州説は『魏志倭人伝』を〔デタラメ読みの論法〕でこじつけた空理空論・幻想であったことになる。
下に1番目国の対馬国から数えて24番目国の「邪馬国の地宜」を配した。
前述したように、「邪馬」は「草をモグモグと食べるフタコブラクダの鼻・ミゾ・口の形」である。前述した[倭]の字源「時計回りに90度転回する〔北→東・南→西〕と定める方位規定もとづく、大和の地宜」は「邪馬」の語源「草をモグモグと食べてふくらむ鼻・ミゾ・口の形」となる。ゆえに、「大和・奈良県」は「邪馬国」であった。
だから、邪馬台国畿内(大和)説もまた〔デタラメ読みの論法〕を駆使(くし)した空理空論・幻想であったことになる。
〔山陰・出雲地方の地宜〕は、明確に「邪馬」の語源と[壱]の字源をあらわす。だから、卑弥呼は山陰・出雲に居住していた。『魏志倭人伝』の山陰出雲・邪馬壱国までの方位記事は[倭]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」にすべて合致して【科学】が成立する。したがって、卑弥呼は出雲の一画に居住していた、これが真実であったのである。
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