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2022年4月 9日 (土)

邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・6

#日本人ヨ! いとおしき日本人よ!


◆日本人ヨ!

(いと)おしき日本人よ!

邪馬台国説にはダマされるな!

 邪馬台国説は相手にするな!

 日本国民は、もういいカゲンに邪馬台国説にはダマされるな!
 もう十分、日本国民はダマされた!
 日本国民ヨ! 目覚めよ!

◆西暦180年頃から250年頃までのわが国の様子を伝える歴史書にして、倭女王・卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんんでん)』は280年~289年に著述された。著者は中国の晋(しん)につかえた歴史編纂官の陳寿(ちんじゅ)である。歴史編纂官の特権から陳寿は晋王朝が秘蔵していた【魏へ送られた倭の国書】を閲覧することができた。【倭の国書】を読んだ陳寿は「倭には漢字の起源の秘密を保存する太古の文字があるにちがいない」と直観した。ゆえに、陳寿は主観・自分の考えをいっさい加えないで【倭の国書】の記事をそのまま書き写して、『三国志』魏書東夷伝(ぎしょとういでん)の末部に〔倭人伝〕を配置した。この〔『三国志』魏書東夷伝末部の倭人伝〕を通称『魏志倭人伝』とよんでいる。
 約2000字で構成される『魏志倭人伝』における約85パーセント・約1700字の記事(倭人国の34の小国に関する記事)は、1世紀~2世紀頃の後漢時代から出現した楷書を用いて説明しているが――【今から約4000年前に、わが国が習得した夏音(かおん)文字を用いて卑弥呼が作った文書(倭の国書)の記事を、倭の伊都国(いとこく)の港で魏が読解できるように楷書に書き直した倭の文書】をそのまま書き写して、陳寿は『魏志倭人伝』を著作した。
 わが国が約4000年前(中国の夏代初頭、わが国の後期縄文時代初頭)に習得した夏音文字は【天文学で通称「夏の銀河」とよばれる銀河各部の形状を字源・字形・字義とする太古の漢字】であった。つまり、約5000年前から始まった五帝時代の書契(しょけい)、約4000年前から始まる夏音文字(夏代の文字)、約3600年から約3300年までの殷代(いんだい)前半期の漢字は【夏の銀河の各部の形状を字源・字形・字義とする文字】であった。
 『魏志倭人伝』は「倭国は夏代初頭に夏音文字を習得した」という歴史の基(もと)に説明する史書であった。しかし、陳寿は「倭国には夏音文字が存在した」と読解したのではなく、多分、下記の【A】【B】【C】の三ヵ所の記事から「倭には太古の漢字がある」と直観・推断したにちがいない。

◆上記の【A】【B】【C】の記事をルビ無しにして書き下し文で示すと下記のごとくなる。
【A】「其の俗、挙事行来に云為する所有れば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。其の辞は令亀の法の如く、火坼を視て兆を占う。」
 【A】の記事は――倭国の占いに用いる「その辞(じ/ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり亀の甲羅に文字を辛(はり)で刻む殷代(いんだい)の卜占に用いた甲骨文字のような文字があった」、つまり「倭国には甲骨文字のごとき夏音文字があった」と説明していたことになる。
【B】「女王国自り以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於いて刺史の如きところ有り。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、及、郡の倭国に使するや、皆津に臨みて、伝送の文書・賜遺の物を捜露し、女王に詣るに差錯あるを得ざらしむ。」
 【B】の記事は「魏の都と朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)と諸韓国が文書に用いる楷書と、倭女王・卑弥呼はじめ倭国の王たちが文書に用いる夏音文字は字形・字義が差錯(ささく/相違)していたので、楷書と夏音文字に精通する伊都国を治める男王の一大率(いちだいそつ)に教育された配下の役人たちが、魏都・帯方郡・諸韓国から送られた楷書で書く文書と倭国の王たちが夏音文字で書く文書の文字を一字一字ずつテイネイに点検し、伊都国の港からよく見える夏の銀河各部の形状で楷書と夏音文字の字源を確認して、一大率の監督のもとに楷書と夏音文字の文が同義になるように正しく変換し、つまり誤訳が原因で誤解が生じて国交が断絶しないように努力していた」と説明するものであった。
 【C】『魏志倭人伝』は「倭女王名」を「卑弥呼」と記すが――倭女王名に用いる[]の字義を中国の楷書では「賤(いや)しい」とする。しかし、太古の漢字知識に精通する倭女王の名に用いる[]の字義は「賤しい」であるはずがない。倭の[]の字には漢字の起源の秘密や、もしくは太古の漢字の秘密があるにちがいない――と、陳寿は推断したことになる。
 このような三つの事例は「5世紀あるいは6世紀に楷書を習得した以前に、倭は夏音文字を習得していた」と明確に示している。にもかかわらず、江戸時代中期の1725年に死去した新井白石以後の邪馬台国説学者たちは全員、『魏志倭人伝』の全記事を正確に読む意志をまったく有しておらず、ほとんど全部の記事をデタラミ読みする。

◆わが国が約4000年前に習得した夏音文字の字源・字形・字義は「夏の銀河の各部の形状」であった。
 元来、楷書の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)もまた「夏の銀河の各部の形状」にもとづいて形成されるものであった。ゆえに、後漢時代後半に出現した楷書の字源・字形の原形・原義もまた「夏の銀河の各部の形状」であった。
 []の字源・字形の原形・原義は「夏の銀河」であった。ゆえに、「[](夏の銀河)から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と称したのである。
 「夏の銀河」は「夏に最も長時間見える銀河の範囲」である。
 下に「夏の銀河の写真」を示した。
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◆約5000年前、五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)は文字(漢字)を発明した。
 倉頡はみずからが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしもウクライナを侵略したプーチンのごとき傲慢(ごうまん)・冷酷・狡猾(こうかつ)な人物が文字を習得して帝王になったならば人民たちに恐ろしくおぞましい不幸・苦しみと深い悲しみを与えるにちがいないと心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す三つの掟(おきて)を破った人物はもちろん、その人物の一族全員に厳(きび)しい鬼神の神罰がくだされて死刑に処せられると定めた。
 【倉頡が死刑と定めた三つの掟】は――【一】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」と、秘密が容易に解明できるように明確・直接的に説明して暴露する者はもちろん、その者の一族全員をも死刑にする 【二】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、銀河各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする 【三】書いた文字が用済(ようず)みになったならば、書いた文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員をも死刑にする――であった。
 上記の【三】の掟のために、夏音文字を書いた史料はただちに消滅したゆえ後世に出土しないことになったのである。
 また、上記の【二】の掟のために「夏の銀河各部の名称」は存在しないことになった。現在、天文学はじめ種々の学問分野においても「夏の銀河各部の名称」は定めていない。しかし、『魏志倭人伝』に記述された真実の歴史を解明するには、「夏の銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、私は下記のごとく「夏の銀河各部の名称」を定めた。
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◆もしも学者たちが『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解していたならば――『魏志倭人伝』によって「中国の神話や伝説に登場する【黄帝が研究した医学】と【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明している。だから、黄帝と倉頡は神話に登場する神々であるという学界の定説は明確に誤りで、黄帝と倉頡は歴史上の人物であった」という事実が【科学】が成立して証明されていたことになる。
 『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の医学研究と、倉頡の漢字作成理論】は、わが国の様々な遺跡や文物(学問、芸術、信仰)はじめ、日本を代表する文化・習俗や日本人の気質などに融合・同化して、現在においても厳然と残っている事実――が明確となる。
 だから、『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の医学研究と倉頡の漢字作成理論】によって【黄帝と倉頡は歴史上の人物であった事実】は【唯一無二の真実】となる。

◆【唯一無二の真実の歴史】を伝える『魏志倭人伝』に対して――邪馬台国説学者たちはじめNHKテレビや朝日新聞出版は【一】邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』のおける不都合な記事は何ヵ所でも排除・無視できる、【二】邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』における不都合な記事は何ヵ所でも誤読・批判・主観・歪曲(わいきょく)を加えることができるという、ご都合主義の論法を駆使(くし)して日本国民をまんまとダマしている。
 『魏志倭人伝』は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、【倉頡が黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究をあらわすために発明した漢字の作成理論】を説明する学術書であった。
 それというのも、卑弥呼が生存した世は下記のごとき状況であったからである。
 
中国の後漢時代の平帝元治2年(西暦2)の人口は5,959万余であったが、その後に戦乱が続いて、卑弥呼が生存した乱世・三国時代になると800万余となり、約87パーセントの人々が死亡し、約13パーセントの人口しか残っていなかった。
 だから、卑弥呼が生存した2世紀末から3世紀半ばの中国は、残忍な獣性(じゅうせい)に支配されていた。このため、【黄帝軍の無敵であった軍事力と黄帝の仁徳・慈愛の政策】が渇望(かつぼう)されて、卑弥呼は自衛・国防に努力しなければならなかったのである。
 中国において三国が鼎立(ていりつ)した、その三国の国名は魏・呉・漢()であった。
 「魏」という国号は、倉頡が作った[]の字源をそのまま受け継ぐ[]に黄帝が信仰した「鬼神」の[]を加えた字であるゆえ、[]は「黄帝軍のごとき最強の軍力」を表示するものであったと考えられる。倉頡は【黄帝の仁徳・慈愛の政策】をあらわすために、[]の字を作った。つまり[]の字源は「巫女(みこ)たちが祈祷し祝って生まれた人民たちの子どもたちが、この世に満ち満ちあふれる」であった。また「蜀(しょく)」の正式名の[]の字源・字義は「夏の銀河」であった。
 このように、卑弥呼が生存した時代は中国と諸韓国とわが国において【黄帝と倉頡から始まる学問】を復興して自衛・国防に全精力をそそがなければならない世であった。

◆『魏志倭人伝』には――今から約4000年前の夏代初頭、帝禹()の後を継いだ帝益(えき)の孫の王子と若者たちが玄界灘を横断して日本列島を北上して東北地方の男鹿半島・米代川流域に定住して、【()黄帝の医学と仁徳・慈愛の政策と、()倉頡が発明した漢字作成理論と、()精確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】を東北地方から関東一円に住む氏族たちに教えひろめた――と、208字で説明する記事がある。
 『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)は冒頭から末部まで一貫して――益氏の王子と若者たちが教えひろめた夏音文字をわが国が習得した歴史はじめ、夏音文字の字源・字形・字義と後漢時代・三国時代に出現した楷書の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)は、共に「夏の銀河各部の形状」である。ゆえに、楷書の「日下(にちげ)」と夏音文字の「玖沙訶(くさか)」は同義、楷書の「帯(たい)」と夏音文字の「多羅斯(たらし)」は同義である――と、【夏音文字】について説明している。また、『古事記』上巻の随所には[]という注がついて益氏が教えひろめた夏音文字が多数記載されて現存する。
 『魏志倭人伝』に記される「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読むと夏音文字の漢字音となる。このように、『魏志倭人伝』の卑弥呼はじめとする人名・小国名・官職名には夏音文字の字音が残っている。
 だから、わが国が最初に漢字を習得したのは、約4000年前の後期縄文時代初頭であった。楷書を刻む銅鏡や銅剣などの出土史料を注目して学界が「わが国が漢字を最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定した定説は、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に残って実在する多数の夏音文字を排除・無視して捏造(ねつぞう)した【科学】に反する錯覚・空想であったのである。

◆上記した【倉頡が死刑と定めた三つの掟】のために、古代において、【夏の銀河各部の形状が字源・字形の原形・原義となる学術(知識)】は【絶大な恐怖心】で世を支配することになった。これゆえ、「漢字は銀河(夏の銀河)から作られた」と容易に理解できる説明をおこなう者は、現在にあって核の作り方をくわしく暴露した大罪人と同じくあつかわれ、王朝と国家を滅亡させる即刻に死刑に処すべき反逆者・大悪党となった。
 だから、『魏志倭人伝』に記述された夏音文字は「倉頡が死刑と定めた【三】の掟」をもって徹底的にまもられたゆえ、夏音文字を書いた史料は出土しないことになった。
 また、中国の人口が一気に激減した残酷な獣性に支配された後漢時代末から三国時代において、【夏の銀河各部の形状が字源・字形の原形・原義となる学術】は【最強最大最高の軍力と国防力】を示すことになった。だから、中国はじめ諸韓国と倭国の自衛・国防にあって【黄帝と倉頡の学問の復興】が最も重視され、真っ先に必要とされたのである。
 したがって、卑弥呼が【倭国の国防を強化する】ために、34の小国名をもって【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】が理路整然となるように完璧化を目指したのは、当然のことであったのである。

◆『魏志倭人伝』は女王・卑弥呼が居住した都が所在した王国名を「邪馬壱(やまい)国」と記す。しかし、邪馬台国説学者たちは、全員、[()]の字は[()]と記してあると押しとおして「卑弥呼は邪馬台国に居住していた」と日本国民をダマす。
 「邪馬壱国」の「邪馬」は「出産する児童(赤ちゃん)の頭蓋骨がせまい産道をとおりぬけることができる小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)の仕組みの、結合組織性の膜(まく)」をあらわす語であった。「邪馬壱国」の[]の字源・字形・字義は「女性の生殖器、つまり子宮・産道・骨盤や骨盤入口など」であった。
 だから、「邪馬壱」という語は【黄帝の「子どもの出産(邪馬)」の研究】と、【「女性の生殖器()」の研究】をあらわした。
 『魏志倭人伝』には「その地には牛馬は無し」、つまり「倭人国には牛と馬は生息していない」と説明する記事がある。
 「邪馬」の[]の字源・字形・字義は「フタコブラクダ」であった。倉頡は「フタコブラクダ」を【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めた。
 []の字源・字形・字義は「ジャコウウシ」であった。「ジャコウウシ」は[]の字源「子宮や骨盤」をあらわした。ゆえに、倉頡は「ジャコウウシ」も【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めた。
 ジャコウウシは、ツンドラ地帯のきびしい寒さにたえられるように暗褐色(あんかっしょく)の毛足の長いコートでおおわれており、すさまじい猛吹雪にも耐えることができる。群生し、黄帝時代には100頭以上の群れがふつうに見られたという。ジャコウウシのオスが興奮して咆哮(ほうこう)すると、前肢(前の足)の内側に頭をこすって眼下腺(がんかせん)からジャコウ(麝香)の分泌物をはなつ、この香りからジャコウウシと名づけられた。天敵のオオカミに襲われると、子どもを真ん中にかくして鼻を外側にむけて円陣を作って衛(まも)る。女性の生殖器の大部分(卵管・卵管采・卵巣・子宮・産道の一部など)は骨盤内にある。ゆえに、「骨盤」を「ジャコウウシの群れが作る円陣」に見立て、「子宮や胎児」を「円陣の中心にかくすジャコウウシの子」に見立てて、倉頡は「ジャコウウシ」を【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めた。司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀の黄帝紀には「師兵(しへい)をもって営衛(えいえい)す」という記事があり、「黄帝軍は駐屯するとき、円陣を組んで自衛した」と説明する。黄帝軍はジャコウウシから自衛の方法や戦法を学んでいたのである。

◆上記したように、「邪馬壱国」の「邪馬」は「出産する赤ちゃんがせまい産道を通りぬけることができる、頭蓋骨の仕組み」をあらわす。産道を通りぬける赤ちゃんの頭蓋骨には「小泉門」、「矢状縫合」、「大泉門」とよばれる結合組織性の膜(マク)がある。この「小泉門・矢状縫合・大泉門の仕組み」を、卑弥呼は「邪馬」と表現した。
 下図は「出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門の図」である。
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 出産児・赤ちゃんの頭蓋骨「邪馬」の縫合は完成しておらず、骨どうしのあいだの小泉門・矢状縫合・大泉門は重ねあわせることができる仕組みになっている。この「邪馬の仕組み」を、卑弥呼は「邪馬」、現在の産婦人科では「骨重積(こつじゅうせき)」と名づけている。
 馬(フタコブラクダ)が草をモグモグと食べるときの〔ラクダの鼻〕を〔小泉門〕に見立てると、〔ラクダの鼻の下の、口までのミゾ〕は〔矢状縫合〕に相似し、〔ラクダの口〕は〔大泉門〕にそっくりとなる。つまり、〔草を食べる時の馬・フタコブラクダの鼻・ミゾ・口が少し邪(なな)めになって重ね合わさって歪(ゆが)む形状〕は〔産道を通過する赤ちゃんの頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門が重ねあわさって小さくなる骨重積の形状〕に瓜(うり)ふたつ・ソックリである。
 下図は卑弥呼が「邪馬」と名づけた「フタコブラクダの鼻・ミゾ・口の図」である。
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 そして、〔骨盤入口をくぐりぬけるときの赤ちゃんの頭蓋骨は首に対して少し邪(なな)め、つまり少し斜(なな)めになって骨盤入口をくぐりぬける状況〕を、産婦人科では「小斜径(しょうしゃけい)」と呼んでいる。他方、〔赤ちゃんの頭蓋骨が首と同じく垂直に立つ状況〕を、産婦人科で「前後径(ぜんごけい)」と称する。邪馬・小斜径の頭蓋骨の前後の径(長さ)は平均32センチ、骨盤入口を通りぬけることができない赤ちゃんの前後径(頭蓋骨の前後の径)は平均34センチである。したがって、小斜径より2センチ大きい前後径の場合、赤ちゃんは頭が骨盤入口を通りぬけることができず死ぬことになる。
 ゆえに、この点からも卑弥呼は「出産児の頭蓋骨の小斜径」を「邪()めの馬」つまり「邪馬」と名づけたのである。
 だから、「馬・フタコブラクダ」は「出産児の頭蓋骨がせまい産道を通りぬけることができる仕組み」をあらわして、人間にとってもっとも大事な[][]について説明できるゆえ、倉頡は「馬・フタコブラクダ」を【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めたのである。

◆倉頡は、前掲した〔夏の銀河の写真〕と同じく【漢字の字形を左東・右西】と定めた。
 下に、【倉頡が定めた漢字の字形の定式】にもとづく〔「邪馬壱」の銀河と黄帝時代の天頂緯度線をあらわす図〕を配した。
 下の図における中央に、「邪馬(小泉門・矢状縫合・大泉門)の銀河」がある。「邪馬の銀河」の東方にある「十字の銀河の子宮(腰の部分)」が[]の字源である。したがって、「邪馬の銀河」と[]の中間にある「鬼の横顔に似る銀河」は、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」であった。
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 下に、「鬼の横顔に似る銀河」が倉頡伝説で「四つ目の怪人・倉頡」と名づけられた「四つ目の銀河」を配した。
 「四つ目の銀河における顔と後頭部とアゴ」には〔目の形に相似する箇所〕が四つある。
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◆『魏志倭人伝』は「倉頡伝説は事実を伝えている」と証明できた文献史料であった。
 というのも、上に示した「四つ目の銀河」を、倉頡伝説は「四つ目の怪人・倉頡」と表現していたからである。
 学者たちは、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」を「人間には、目が四つ無い! 倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメだ」と断定した。
 倉頡伝説は下記のごとく説明した。
 「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、はじめて文字を作ったので、天は祝福して禾(か/稲)を降らせて、死霊が感激して泣く声が夜な夜な空から聞こえたというのである。」
 前述した「四つ目の銀河」は、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」をあらわした。

 倉頡伝説に登場する[]は「黄帝の遠征軍は長江口・揚子江に到着して稲を採取して、北の本拠地(黄帝陵周辺地域)に帰還して稲を大事に育てた」と意味したことになる。
 倉頡伝説における「死霊が感激して泣く声」は「三皇時代に生存した氏族たちは、倉頡が発明した漢字によって自分たちの歴史が後世に伝えられると感激して涙にして泣く慈雨(じう)、すなわち稲が順調に育つ恵みの雨を降らした」と表現していたことになる。
 倉頡伝説における「夜な夜な空から聞こえた」という表現は「夜な夜なに輝く夏の銀河各部の形状が文字(字源・字形・字義)であった。ゆえに、倉頡が発明した文字(夏の銀河の各部の形状)は前人がおこなった事績や出来事を伝える方法となった。だから、後世における強大な権力を有する王朝や国家にあっても夏の銀河の形状は永遠不変であって変形することができなかったゆえ、後世の人々は【文字】となった【夏の銀河の各部の形状】を観察すれば前人がおこなった真実の歴史を知ることができる」と説明していたことになる。
 したがって、邪馬台国説学者たちのごとく【夏の銀河の各部の形状をいっさい観察せず無視する立論方法】だと、『魏志倭人伝』に記述された【真実の歴史】は全く解明できず、直(ただ)ちに空理空論・学説の体(てい)をなしていないナンセンスとなる。


◆『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」である。
 『魏志倭人伝』の冒頭の字[]の字源は、倉頡伝説に登場する[]の字源をそのまま受けついだ。また、[()]の字源も[]の字源を受けついだ。
 ゆえに、下の図は〔[][][]の字源銀河の解説図〕とした。 
 下図における「垂れる禾(イネ)の穂」と重なる「十字の銀河の子宮の中央部」は中国におけるイネの育成に適した穀倉地帯の揚子江・太湖の緯度(北緯3130)をあらわす。
 なお、下図の〔禾の穂が「南→西」へ時計回りに90度転回して垂れている〕ように、[][][]の字源・字形・字義は「時計回りに方位が90度転回する」と定められた。

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◆前述した「邪馬」の「出産児の小泉門・矢状縫合・大泉門からなる、小斜径の頭蓋骨」は骨盤入口をくぐりぬけるときに「時計回りに90度転回する回旋(かいせん)」をおこなう。この回旋は第1回目の回旋である。第2回目の回旋と第3回目の回旋は反()時計回りの90度の転回となる。そして、第1回目の回旋と同じく、時計回りに90度転回する第4回目の回旋をして赤ちゃんの頭は膣口(ちくこう)から脱出して誕生する。
 この出産児の骨盤入口をくぐりぬけてから膣口を脱出した頭が誕生するまでの4回の回旋の様子は目で見ることができる――つまり、分娩室に入室して妻の出産の様子に立ち会う夫は、わが子が産道を通過する4回の回旋の様子を目撃できる。
 この出産児が産道を通りぬける頭蓋骨の4回の回旋の光景は、言葉であらわすことができないほど感動的で泣きたくなるほど神秘的である。
 倉頡は【黄帝の医学研究における最も神秘的な生命のいとなみ】を表現するため、[]の字を作って「第1回と第4回の時計回りに90度転回する回旋」をあらわした。つまり、倉頡は「北→東・東→南・南→西・西→北となる方位規定、すなわち時計回りに90度転回する方位規定」を[]の字源・字形・字義と定めた。また倉頡は[]の字を作って「第2回と第3回の回旋」はあらわすため、「北→西・西→南・南→東・東→北となる方位規定、言いかえると反()時計回りに90度転回する方位規定」を[]の字源・字形・字義と定めた。
 そして、[]の字は「五穀豊穣(ごこくほうじょう)、人民に飢えさないとする」という政治スローガンを表示すると定めて、黄帝の仁徳・慈愛の政策をあらわした。[]の字源「時計回りの90度の転回方位規定」をそのまま受け継いだ[][]の字も「五穀豊穣、黄帝の仁徳・慈愛の政策」を表示することになった。また、[]そして[]の字は「人民たちが多くの子どもを生んで、この世は楽しく栄える意」をあらわすことになった。

◆『魏志倭人伝』は、倭国最初の一番目の小国は「対馬(つしま)国」で、現在の「長崎県北部の対馬」であった。二番目の小国は「一大(いちだい)国」で、現在の「対馬の南にある、長崎県の壱岐」であった。
 また、『魏志倭人伝』は「対馬国より南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」と説明する。
 対馬国と一大国の中間にある「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味する。
 下に、〔対馬国・瀚海・一大国の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)〕を示した。
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 下に、〔「沙漠」と[]の字源銀河解説図〕を配した。
 「三つ輪の銀河における渦巻く無数の小さい星々」は沙漠の砂のようにキラキラ光る。ゆえに、「三つ輪の銀河」は「瀚海・ゴビ沙漠」に見立てられた。「三つ輪の銀河の北端」(下図の左上)は瀚海・ゴビ沙漠の天頂(北緯42度周辺)であり、また「三つ輪の銀河の北端の横顔に見える銀河部」は「フタコブラクダの横顔」に相似する。これゆえ、「三つ輪の銀河」と同様にキラキラ輝く「十字の銀河」は「瀚海・ゴビ沙漠に住む匈奴(きょうど)の人々にとって大切な家畜、フタコブラクダ」に見立てられて[]の字源となった。
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 下図は〔「対馬」の地宜と[]の字源解説図〕である。
 卑弥呼は「長崎県対馬の地宜」を[]の字源「フタコブラクダの姿」に相似すると見立てて、小国名を「対馬国」と定めた。つまり、「対馬の上県(かみあがた)の地宜」を、卑弥呼は「フタコブラクダの正面形」に相似すると見立てた。「対馬の下県(しもあがた)の地宜」を、卑弥呼は「沙漠を歩くに都合よい、じょうぶな足の指を有する大きなフタコブラクダの足底と、沙漠に残る足跡の形」と見立てた。だから、「上県と下県の地宜」は「フタコブラクダの姿と足底の、一対(いっつい)の形」となるゆえ、卑弥呼は小国名を「一対」の[][]を加える「対馬国」と定めたのである。
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 倉頡は「十字の銀河の子宮」を「夏の銀河各部の形状から作られた全部の文字が生まれる子宮」と定めた。ゆえに、「十字の銀河の子宮」は「[]の小さい場から大きな銀河の各部分から作られた全文字が生まれる子宮」とされ、倉頡が立論した「一即大、大即一」という超合理論をあらわす箇所となった。ゆえに、【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える学問において「十字の銀河の子宮」は「一大」とよばれることになった。
 これゆえ、卑弥呼は「現在の長崎県壱岐」を「十字の銀河の子宮」に見立てて、小国名を「一大国」と定めた。
 下図に示すように「壱岐の西方の海岸線の地宜」は「南に顔を向けるフタコブラクダの顔とコブの形」に相似する。「壱岐の大半の地宜」は[]の字源「南に顔を向けるジャコウウシの顔・胴体・前足と後ろ足の形」に相似する。ゆえに、「一大国のジャコウウシの地宜」は「黄帝時代、黄帝陵周辺地域の餌場(えさば)に集まったジャコウウシの100頭の大群」に見立てられたことになる。
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◆〔一大国の地宜(海岸線の地図の形)〕は[]の字源「十字の銀河の子宮」に見立てられ、また【漢字作成理論を象徴する聖獣】の「フタコブラクダとジャコウウシの姿に相似する地域に岐(わか)れる〕。ゆえに、現在の地名は[][]が加わる「壱岐」となった。
 []の字源「フタコブラクダの正面形と足底の形」に見立てられた「対馬国の地宜」は「経度軸と緯度軸に対して邪()め」である。ゆえに、「対馬国の地宜」は「邪馬」を、「一大国・壱岐」は[]の字源をあらわす。
 結局、「対馬国と一大国」は卑弥呼が居住した女王国名「邪馬壱国」をあらわす。
 だから、卑弥呼が居住した女王国名は「邪馬壱国」であって、「邪馬台国」ではなかった。

 一大国の「一大」は伊都国に居住する「一大率」の「一大」をあらわした。
 伊都国は、一大国より南東の糸島半島より南の地域であった。
 もしも中国や諸韓国が侵略・来襲してきたならば、一大率は外敵を対馬・瀚海の北方へと逐いはらう国防の軍王(国防軍の総司令官・大将)であったことになる。
 下に「伊都国の範囲と地宜」をあらわした。
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 上図における伊都国の「糸島半島の地宜」は「牛・ジャコウウシの横顔」に見立てられ、「糸島半島より南部」は「ジャコウウシの100頭が犇(ひしめ)く群」と見立てられた。
 [伊]の字は「100頭のジャコウウシが外に鼻を・中央に背中を向けて、円陣(円形の軍陣)を組む習性」をあらわした。[]の字は「円形の城壁をめぐらす軍事都市」をあらわした。ゆえに、脊振山地(せふりさんち)の北側の現在の福岡県糸島市から脊振山地の南側の佐賀県佐賀市一帯の小国名を、卑弥呼は「伊都国」と定めたことになる。
 また、伊都国王「一大率」という名が示すように、「伊都国」という小国名は「天敵オオカミに襲撃されたときに百頭のジャコウウシの群れが円陣を組んで衛(まも)る闘い」をあらわした。ゆえに、伊都国は「倭国の自衛・国防の軍事拠点」であったことになる。
 『魏志倭人伝』には「すなわち共に一女子を立てて王と為()す」という記事がある。この記事は「一女子の卑弥呼が倭女王に就任した(立った)とき、卑弥呼と共に九州で国防を担当する軍王に就任したのが伊都国の一大率であった」と説明していたのである。だから、対馬国の「邪馬」に一大国の[]を加える「邪馬壱」という語は「対馬国と一大国の〔邪馬壱地域〕を防衛する一大率と邪馬壱国に住む女王・卑弥呼は、共に外敵を対馬国・瀚海・一大国から外へと逐()いはらう」という国防政策をあらわしていたことになる。

◆卑弥呼は、国名を「倭人国」と定めた。
 『魏志倭人伝』に記されているとおり、卑弥呼王朝は「対馬国を北、一大国を南」と定め――この「対馬国・一大国の南北(経度軸)」を基準にして[]の字源「時計回りに90度転回する、西→北・東→南」とする規定にもとづいて「本州の西に在る九州は北に在り、本州の東の東海地方は南にある」と定める転回日本列島地理を制定した。
 下に、[]の字源をあらわす・卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理を配した。
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上に配した【転回日本列島地理における九州から邪馬壱国(山陰・出雲)までの旅程における方位】は、下記に示す『魏志倭人伝』の旅程記事に一ヵ所も矛盾せず全部合致する。
 『魏志倭人伝』は「末盧(まつろ)国の東南五百里、伊都国に至る。伊都国の東南百里に奴()国がある。奴国の東へ行く百里に不弥(ふみ)国に到着する。不弥国の南の投馬(つま)国に至るには水行二十日。投馬国から南へ水行十日陸行一月で邪馬壱国に至る」と記述する。
 さらに下記の記事もまた[]の字源をあらわす【転回日本列島地理】にもとづいて九州における余白となる地域について説明していることになる。
 つまり、『魏志倭人伝』は九州について「女王国より以北は、其の戸数・道里は略載を得べきも、其の余の旁国は遠絶して詳を得べからず」、つまり「女王国より以北では、その戸数・道里の概略を記載した末盧国・伊都国・奴国・不弥国の傍(かたわ)ら周辺に余る地域()は、女王国より遠く国交が絶えているゆえ詳細を説明することができない)」と記述する。
 この「女王国より以北の戸数・道里を略載した末盧国・伊都国・奴国・不弥国の旁(かたわ)らに所在する余った空白地域は、現在の大分県南部(旧国の豊後)・宮崎県・鹿児島県であった。この余の旁国地域は、上の【転回日本列島地理】では『魏志倭人伝』の記事のとおり「女王国・邪馬壱国以北に所在して、女王国から遠く離れている」。
 さらに『魏志倭人伝』には「女王国・邪馬壱国の東、海を渡ること千余里にしてまた小国があり、この小国は皆(みな)、倭種である」という記事もある。
 上に示した【転回日本列島地理】の右側に記したように――[]の字源は「北→東」であるゆえ「女王国の東、海を渡ること千余里の皆が倭種となる小国」は「隠岐群島」であった。隠岐群島は知夫里島(ちぶりしま)・西ノ島・中ノ島で構成される島前(どうぜん)と、もっとも大きな島後(どうご)と、そして約180の小島からなる。このような「多数の島々からなる群島」は「皆一つにまとめて倭種なり」と表現されることになったのである。

◆現代の日本列島地図にもとづいて考える邪馬台国説学者たちは、上に提示した【[]の字源をあらわす、本州が時計回りに90度転回する日本列島地理】が『魏志倭人伝』の旅程と方位記事にすべて合致するゆえ【科学】が成立して事実を伝えていたことに気づかない。
 『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解すると、〔卑弥呼王朝は【[]の字源をあらわす、転回日本列島地理】を制定した事実〕が【科学】が成立して証明される。
 []の字源は、倉頡が作った[]の字源をそのまま受けついでいた。
 下に現在方位にもとづく「末盧国の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)」を配した。
 2世紀初頭に成立した〔字書の聖典〕とよばれて尊重された『説文解字(せつもんかいじ)』は「末盧」の[]の字を「飯器(はんき)なり」と解説する。ゆえに、「末盧」は「秋の穀物の収穫作業の末期(終わり)、飯(めし)を炊く五穀豊穣の祝い」を意味したと考えられる。
 下の地図に示したように、末盧国の境界線は唐津湾にそそぐ松浦川(まつうらがわ)の上流と有明海にそそぐ塩田川(しおだがわ)の上流を結ぶ地域を結んで境界線と定めると――〔末盧国北部の地宜〕は「縄文時代の飯を炊く土器の形」に相似し、〔末盧国南部の西彼杵(にしそのぎ)半島・長崎半島・島原半島地宜〕は「飯器を炊くカマドの炎の形」に相似する。
 ゆえに、〔末盧国〕は〔松浦川と塩田川より以西の佐賀県西部と長崎県(対馬と壱岐を含まない)〕であったことになる。
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 上の末盧国における「東松浦」という地名は「北」に所在するゆえ、地名は「北松浦」でなければならない。また「西松浦」は「南」に所在するゆえ「南松浦」でなければならない。さらに「北松浦」は「西」に位置するゆえ「西松浦」と名づけるべきことになる。同様に「西彼杵(にしそのぎ)」と「東彼杵(ひがしそのぎ)」という地名も矛盾する。
 下に示す〔[]の転回方位規定にもとづく末盧国の地宜〕における「北松浦」「東松浦」「西松浦」という地名は合理となる。また「西彼杵」「東彼杵」という地名も合理となる。
 だから、「末盧国、佐賀県西部と長崎県」には、倉頡が作った[]の字「時計回りに90度転回する方位規定」をそのまま受けついだ[]の「方位規定」が失われずに保存されて現在まで残っている。
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◆だから、前述したように、卑弥呼王朝は【末盧国以下の本州の方位規定を、[]の字源をあらわす「時計回りに90度転回させる」日本列島地理】を制定したことになる。
 前に示した【転回日本列島地理】では〔末盧国・伊都国・奴国・不弥国の旅程基点〕が明確に示されていない。
 ゆえに、下に〔[]の転回方位にもとづく九州各小国の範囲と旅程基点の地図〕を配した。
 下の図の〔末盧国の松浦市・伊都国の糸島市前原町・奴国の香椎宮・不弥国の宗像大社辺津宮までの道里(距離)と方位〕は『魏志倭人伝』の記事とすべて合致する。
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 だから、前に提示した【卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理】に表示したように、倭女王・卑弥呼が居住した邪馬壱国の範囲は「旧国の石見(いわみ)・出雲・伯耆(ほうき)、現在の島根県と鳥取県西部」であったことになる。
 そして、「現在方位の北」は「[]の字源の転回方位の東」となるゆえ、『魏志倭人伝』が「女王国の東、海を渡ること千余里にしてまた国有り。皆、倭種なり」と記述する小国は日本海に浮かぶ「隠岐群島」であったことになる。というのも、日本海には「皆、倭種なり」と説明する「多数の島からなる群島」は隠岐群島以外一ヵ所も存在しないゆえ、「皆、倭種なりの小国」は隠岐群島であったと限定することができるからである。
 したがって、隠岐群島が東となる出雲(現在の島根県東部)が、邪馬壱国の中心地であったことになる。
 下の図は、新人物往来社『歴史読本』第524号の109ページ「出雲大社創建の背景」の執筆者・松尾充昌氏(島根県埋蔵文化調査センター)が作製した地図を、私がトレース(転写)して転回方位地図としたものである。
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 上の〔古代出雲の「邪馬壱」をあらわす地図〕の左上部には、〔神門水海(かんどのみずうみ)〕があり、右下部には〔佐太神社が所在する松江市中央部〕がある。
 上の地図における「神門水海の地宜」は「経度軸と緯度軸と邪(なな)め」となり[馬]の字源「子どものフタコブラクダの姿」に相似するゆえ、「神門水海」は「邪馬」をあらわした。また、「松江市中央部」が[壱]の字源をあらわす地宜となる。
 だから、「旧国出雲」は倭女王・卑弥呼が居住した「邪馬壱国」であった。
 「神門水海」は「子のフタコブラクダの姿」に相似する。神門水海が隣接する「[]の地宜」と記した「出雲大社が所在する、フタコブラクダの横顔に似る地域」は「母親のフタコブラクダの横顔」に相似する。「[]の地宜」と記した「母親のフタコブラクダの横顔」は「子のフタコブラクダ(神門水海)の背中を口で嘗()めて撫でている形状」となる。ゆえに、この「フタコブラクダの母親が子を慈(いつく)しみ愛(いと)おしむ情景」は【黄帝の仁徳・慈愛の政策】をあらわす。

◆注目すべきは、「[]の地宜」の転回方位の真南(現在方位の東)の「宍道湖」は「母親のフタコブラクダの足」に相当する。
 前述したように、「対馬国の上県の地宜」は「フタコブラクダの正面の姿」に相似すると見立てられ、「対馬国の下県の地宜」は「フタコブラクダの足底」に相似すると見立てられた。したがって、邪馬壱国における「[]の地宜」と「宍道湖の地宜」は「馬・フタコブラクダの正面形と足が一対」すなわち「対馬」という小国名に合致する。
 「対馬国」の南の「現在の長崎県壱岐」は「一大」とよばれた「十字の銀河の子宮」に見立てられて小国名が「一大国」になった。そうすると、上の図における[]と記した「佐太神社がある松江市中央部」が「一大国」に相当する。
 このような邪馬壱国中央は〔対馬の「邪馬」」と〔一大の[]〕」をあらわす地宜となるゆえ、卑弥呼は「対馬国と一大国の中間の海」を「瀚海(ゴビ沙漠)」と定めたのである。卑弥呼は「邪馬壱国より以北には特に伊都国の一大率を配置して、対馬国・瀚海・一大国の外へ侵略・来襲する外敵を逐いはらう軍王」に就任して、共に国防に努力していたのである。
前述したように、「神門水海の地宜」は「経度軸と緯度軸にも邪(なな)めとなる、馬・フタコブラクダの姿」に相似するゆえ、「神門水海」は「邪馬」をあらわす。
 下図に示すように、「転回方位の南端(現在方位の東端)の宍道湖の地宜」は「人の足首より下の足の側身形」に相似する。ゆえに、「人の足の側身形に相似する宍道湖の湖岸」は「十字の銀河の右足(西側の足)」に見立てられ、宍道湖に隣接する「松江市中央部」は「十字の銀河の子宮」に相当するゆえ[]の字源をあらわした。だから、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰・出雲であった」と理路整然と説明していた。
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◆上図の下部に示したように「宍道湖の足の側身形に相似する爪先(つまさき)」が指差す方向に意宇(おう)平野がある。[]の字源を示す「松江市中央部の南(転回方位)」からカーブを描く矢印の方向に意宇平野がある。ゆえに、「南→西の、時計回りの90度の転回」は[]の字源「時計回りの90度の転回方位規定」をあらわす。
 また、「南→西の、時計回りの90度の転回」は「邪馬」つまり「出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門がせまい産道を通りぬけるとき、時計回りに90度転回する第1回目と第4回目の回旋」をもあらわす。
 だから、意宇平野は[]の字源と「邪馬」の語をあらわす聖地であったことになる。
 ゆえに、卑弥呼が住む宮殿は、意宇平野の一画に設営されていたと考えられる。
 『魏志倭人伝』は卑弥呼が住んだ宮殿について「倭女王の卑弥呼は婢()千人を侍(はべ)らせ、(中略)、女王の宮殿には楼観(ろうかん/見張りやぐら)や城柵(じょうさく)が厳重に設けられ、常に兵器を持った兵士が守衛している」と記述する。
 また、『魏志倭人伝』には「その国、本(もと)男子をもって王となす。住(とど)まること七、八十年にして倭国は乱れ、相攻伐(あいこうばつ)して年を歴()。すなわち共に一女子を立てて王となし、名づけて卑弥呼と曰()う」という記事もある。
 中国において獣性に支配される残忍な戦争が続いて一気に人口が激減していた西暦180年頃、倭国においても各国が憎しみあう戦争で乱れていた。ところが一女子が[]の字源と「邪馬壱」という語をあらわす転回日本列島地理を立論し、この転回日本列島地理をもって鬼神(きじん)の啓示(けいじ/鬼神がしめす真理)を説き、もしも中国や諸韓国が侵略すれば乱れた倭国は一気に滅亡すると指摘し警告して戦乱を終息させた。この一女子は後に「卑弥呼」とよばれる倭女王に就任し、伊都国の一大率と共に国防に努力したことになる。
 中国の後漢時代の戦争には、「媚蠱(びこ)」とよばれる「敵軍の呪的(じゅてき)戦力を高める巫女(みこ)、つまり敵軍の媚蠱を殺す魔女」がいた。ゆえに、西暦180年頃の倭国でも、戦いの先頭に霊力が強いとされた巫女が呪的戦力を高める魔女として活躍していたにちがいない。霊力の最も強いと信じられた女性は夏の銀河の暗い箇所までよく見える最も澄んだ瞳を有する13歳くらいの乙女であった。この「魔女となった13歳くらいの乙女たち」は[]とよばれた。ゆえに、卑弥呼は国中の千人の婢を宮殿に集めて、ふたたび婢(魔女)たちが活躍することになる大乱を防いでいたのである。
 だから、卑弥呼が住む宮殿が「敵の来襲を見張る高いやぐらを設営し、敵と戦う城柵を厳重にめぐらし、常に兵器を持った兵士が守衛していた」のは、卑弥呼が【倭国一の強大な戦力】を有して国内の反乱を防いで国家安定を図るためであったからである。

◆以上のごとく、『魏志倭人伝』は()【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、()【倉頡が夏の銀河の各部の形状から文字を作った理論】と、()【夏代初頭に益氏が教えひろめた夏音文字の学術】を理路整然と説明していた歴史書にして学術書であったのである。
 そして、『魏志倭人伝』は、現在のウクライナ・ロシア戦争から日本国がどのように国防に努めたらよいか、その方法を学ぶことができる最良の教科書である。
【A】ウクライナ・ロシア戦争において「米国や欧州、そしてウクライナ自身はロシアに侵略されないための努力が足りなかった」と批判する人々がいる。このような批判を重視するならば、日本は侵攻されないための外交を真っ先に努めなければならないことになる。
 日本が侵攻されると心配する最大の脅威は尖閣諸島や東シナ海・南シナ海の「歴史的権利」を主張する中国である。しかし、『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の歴史】にもとづいて日本が中国との国交に努力すれば、中国の脅威をとりのぞくことができるにちがいない。
 というのも、神話とされた黄帝は中国のすべての漢民族に祖先神と崇められ、中国の文物(学問、芸術、信仰)の制度を創造したとされ、中国人のアイデンティティーであるからである。この【中国の精神的支柱である黄帝の神話】は、『魏志倭人伝』によって【唯一無二の真実の歴史】となる。したがって、わが国が中国と誠実な国交に努めるならば、プーチンのごとくウクライナを理不尽に侵略したような愚行を、中国が強行するはずがない。
 『魏志倭人伝』はじめわが国の文物(学問・芸術・信仰)はじめ様々な遺跡や習慣・風俗などに残る多数の史料でも科学的に証明される【唯一無二の歴史となる黄帝の歴史】は、むしろ黄帝の国・中国にとって積極的に日本との友好・共栄共存に努めるべき重大な政策にして課題とすべきことになるゆえ、中国との友好を望むわが国を中国が侵略する原因・根拠・理由は皆無となるため、中国が侵略するという脅威は杞憂(きゆう)であったことになる。

【B】専制主義の中国と自由主義諸国との対立はじめ、尖閣諸島や台湾海峡が原因で中国の軍事的拡大が決行される事態となった場合――ウクライナ・ロシア戦争によって明白になったように、わが国はウクライナのごとく世界中の多数の国々を味方につける必要がある。
 わがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・2」で具体的に解説したように、『魏志倭人伝』によって現代55億人余の人々が使用する文字の始祖・ルーツとなる古代エジプト文字(ヒエログリフ)もまた、漢字と同じく「夏の銀河各部の形状」から作られた事実が科学的に証明される。したがって、わが国は「文字と学術を発明した人類の歴史が科学的に証明された重大な国」と世界中の国々から注目され愛され尊敬されるにちがいない。
 これゆえ、世界制覇を目論む中国や理不尽な北朝鮮に侵攻されることになっても、北米はじめヨーロッパやアジア太平洋・アフリカ・南米などの世界中の国々は、中国や北朝鮮を野蛮な侵略国として非難し、わが国に必ず味方して援助するにちがいない。
 だから、早々にわが国は『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の歴史の解明】を国家的規模で着手する必要がある。

【C】日本の国防は【黄帝を国防の守り神とした卑弥呼の軍事政策】から始まり、国防政策は朝廷・皇室そして将軍・武家たちによって積み重ねられ――このような国防の歴史によって育成された国防意識を日本人はDNAとして受けついでいる。
 ゆえに、なぜ国家をまもらないのか、何のために戦うのか、どうして国土をまもるために戦わなければならないのか――日本国民が戦う意志や意欲を有する対策はじめとする様々な要素からなる多元的で一体性を持った国防を強化増大化するためには、『魏志倭人伝』に記述された【卑弥呼の国防政策からはじまる国防の歴史研究】が真っ先に必要となる。

◆だから、日本人ヨ! 愛(いと)おしき日本人よ! 邪馬台国説にはダマされるな! 邪馬台国説は相手にするな! 日本国民は、もういいカゲンに邪馬台国説にはダマされるな! もう十分、日本国民はダマされた! 日本国民ヨ! 目覚めよ!
 邪馬台国説は『魏志倭人伝』を〔デタラメ読みの論法〕でこじつけた空理空論、妄想であったうえに、日本国の国力を蝕(むしば)む癌(ガン)であり、亡国の元凶(がんきょう)であったのだ! 

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