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2022年5月

2022年5月25日 (水)

邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・8

#女王国・邪馬壱国は出雲地方であった

◆日本人ヨ!
 愛(いと)おしき日本人よ!
 邪馬台国説にはダマされるな!
 邪馬台国説はすべてが空理空論である
 日本国民は もういいカゲンに
 邪馬台国説にダマされるな!
 もうこれ以上 邪馬台国説に
 バカにされるな!
 愛おしき日本国民ヨ!
 目覚めよ!

◆上記したように、学界やマスメディアなどが扇動(せんどう)する〔邪馬台国九州説と、邪馬台国畿内説〕は完全なる空理空論・デタラメである。
 これゆえ、〔邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説〕が明々白々の空理空論・科学に反するデタラメであると気づかない学界とマスメディアは〔邪馬台国説が空理空論・デタラメであると簡単明瞭に証明できる科学的知見〕を喪失(そうしつ)していることになる。

◆〔邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説〕で有名な文献史料の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は、西暦280289年に著述された。著者は中国の晋(しん)につかえた歴史編纂官の陳寿(ちんじゅ)である。
 『魏志倭人伝』は陳寿が記述した計1983字に、5世紀に生存した裴松之(はいしょうし)が加えた注の56字、合計2039字で構成されている。
 『魏志倭人伝』はわが国の2世紀末(西暦180年ころ)~3世紀半ば(西暦250年ころ)までの様子を記述する歴史書である。ゆえに、『魏志倭人伝』は中国の後漢時代末の180年ころ~中国が魏・漢()・呉の三国に分かれて鼎立(ていりつ)していた三国時代晩期までのわが国(西日本)の様子を説明する文献史料ということになる。(なお、漢()263年に滅び、魏は265年に滅び、呉は280年に滅亡した)
 『魏志倭人伝』の後半部には――238(魏の景初二年)247(魏の正始八年)までにおいて、倭人国の使節は魏都(洛陽)・帯方郡(たいほうぐん/魏の出張政庁が所在した朝鮮半島のソウル市近辺の郡)に到着して外交を結んでいた様子――が詳細に記述されている。
 『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方()の東南、大海の中に在り」である。
 倭人国から帯方郡・魏の都(洛陽)に至る、その中間に在る大海は「玄界灘(げんかいなだ)」である。
 上記したように、『魏志倭人伝』には「倭人国の使節は魏都・帯方郡政庁に到着した」と記述されているゆえ、倭人国の使節は九州沖の玄界灘を往来して魏都と帯方郡政庁と外交を結んでいたことになる。
 したがって、魏(中国)は【238年ころから247年ころまでに玄界灘を往来した倭国の使節の説明や倭国の使節がもたらした倭女王・卑弥呼が書いた倭の国書に書かれていた記事によって2世紀末~3世紀半ばの倭国の様子】を知ったことになる。

◆だから、もしもわが国(倭国)の使節が玄界灘を往来することができなかったならば、約2000字で構成される『魏志倭人伝』はこの世に存在しなかったことになる。
 言いかえると、倭国の使節が玄界灘を往来することができたからこそ、『魏志倭人伝』は確かな文献史料ということになる。
 よって、倭国の使節が玄界灘を往来できなかったならば、魏(中国)は倭人国の2世紀末~3世紀半ばまでの様子をまったく知らなかったことになるゆえ、『魏志倭人伝』は実在しなかったことになる。
 これゆえ、倭の使節と船乗りたちはどのような方法で位置(緯度)と方位(経度)を測定して玄界灘を往来したのか――この秘密を論点にすると、学界は『魏志倭人伝』研究において学問としての出発点となる科学的知見をまったく有していないことが明々白々となる。この【倭人国の使節が玄界灘を往来した方法の科学的知見】にもとづいて考えると、学界が最も正しい意見と評価する邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は、約2000字で構成される『魏志倭人伝』と1字も合致しない完全なる空理空論・デタラメであることがいとも簡単・明瞭に明白となる。

 というのも、邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は――卑弥呼王朝は、現在の日本列島地図と同じく、北極星や天の北極がある方角を〔北〕と定めて日本列島の本州地理を考えていた――と断定しているからである。
 しかし、【倭人国の使節や船乗りが玄界灘を往来できた科学的知見】にもとづくと――倭人国の使節や船乗りは【北極星や天の北極を〔北〕と定める目星】とはしなかった事実が科学的に証明される。
 というのも、『魏志倭人伝』は――九州の〔西の端〕を【時計回りに90度転回】して本州の〔北の端〕と定め、本州の東端にある東海地方の静岡県は〔東〕ではなく〔南〕に位置する、つまり【現在の日本地図の方位規定に対して時計回りに90度転回する方位規定にもとづく、本州転回地理】を、卑弥呼王朝は制定していた――と記述しているからである。(『魏志倭人伝』の本州地理を説明する九州の西端(ただし、現在方位)となる末盧国以下の記事には、全部で12か所の方位記事がある。この全12か所の本州における方位記事は【時計回りに90度転回する方位規定】で説明されており、1ヵ所も矛盾せず・すべて合理となる)
 要するに卑弥呼王朝は――対馬国(現在の長崎県対馬)は一大国(現在の長崎県壱岐)より〔北〕、一大国は対馬国の〔南〕に在ると定めた。このような〔北〕の対馬・〔南〕の一大国の〔南北〕に対して、九州以下の本州日本列島地理における方位は【時計回りに90度転回して西→北・東→南になる】と定理した。(つまり、〔九州の西端〕は〔本州列島地理の北端〕、〔本州の東端にある静岡県〕は〔本州列島地理における南端〕に所在すると定めた)
 以上のごとく、邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は現在の日本地図と同じく本州の〔北〕は〔北〕であったと断定するが、『魏志倭人伝』は「現在の日本列島地図と相違して、現在の本州の〔北〕は〔東〕となる、つまり本州における方位は時計回りに90度ずつ変位(転回)する」と証言している。

◆これより〔邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説〕は約2000字で構成される『魏志倭人伝』と1字も合致しない完全なる空理空論・デタラメであったことが簡単・容易に証明される科学的知見】について解説する。

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 上の図は〔天頂緯度線のキャッチの解説図〕である。
 上図の右上に、漢字[(とう)]を配した。[]は「天頂緯度線、天頂点、子午線」で構成される。
 「天頂緯度線」は「観測地点の緯度」をあらわす。だから、「天頂緯度線のキャッチ(測定)」は「観測地点の緯度を精確に測定できた」と意味することになる。
 原始のときから、ヒトの脳には、〔天頂緯度線〕をキャッチして精確に緯度測定できる本能がそなわっていた。また、天頂緯度線をキャッチする訓練に励んできたえれば〔1度の60分の1の【1分】の緯度差を測定できる神秘的な眼力〕を有することもできた。
 だから、この神秘的な呪力(じゅりょく)によって、一団を組んで日々食料を求めて移動した原始の生活にあっても、「道に迷った! 位置(緯度)も方角(経度)もまったくわからない! 死ぬ!」と一気にパニック状態におちいることもなかった。人類は星座よりもはるかにまさって壮麗な、さまざまな印象的な形を有する天頂にめぐってくる銀河部(天頂点と重なる銀河部)を地理代わりにして、「天頂緯度線(つまり、精確に緯度)」をキャッチしてたくましく巧(たく)みに生存できたのである。
 原始人たちはじめ――わが国の縄文人や弥生人も、また卑弥呼時代の倭国の使節も〔頭脳にそなわる本能と目にそなわる呪力(神秘的な能力)をもって天頂緯度線をキャッチできた(つまり、緯度を1度の60分の11分以内の精度で測量できた)〕ゆえ、陸地から遠く離れる大海を横断でき、遠く離れる地所へ旅しても家族が待つ家に帰還することができた。
 だから、『魏志倭人伝』には「現在の日本地図における本州の〔北〕を、卑弥呼王朝は90度転回して〔東〕になると定理した」と記述されることになった。この『魏志倭人伝』に記述された【本州地理における時計回りに90度転回する方位規定】は【原始のときから受け継がれた天頂緯度線をキャッチした習慣・伝統における方位観念】であった。
 というのも、上記したように、ヒトは【天頂緯度線をキャッチ(緯度を精確に測定)】して〈いのち〉を原始のときからまもってきたからである。

 上図の右上にある漢字[(とう)]は、下図に示すように「天頂緯度線と、天頂緯度線上の天頂点と、90度交わる子午線」から構成される。
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 上図の[]の下に、[(よう)]を加えると[(げん)]の字となる。
 下に、〔[(げん)]の字源解説図〕を配した。
 []の字源について、“字書の聖典”と尊敬された卑弥呼が歴史上に初めて登場する約60年前の121年に成立していたとされる『説文解字』は「小なり。子の初生(しょせい)の形に象(かたど)る」と解説する。だから、[]の字源・字形・字義は「産道を通りぬける出産児」であった。ゆえに、[]は「天頂緯度線を必ずキャッチするという欲を有すると天頂緯度線のキャッチに失敗して死ぬが、産道を通りぬける幺(小さな出産児)のごとく無欲になれば天頂緯度線はキャッチできる」と示す、〔天頂緯度線をキャッチする心得〕をあらわした。
 だから、医術が未発達であった太古以来人類は「天頂緯度線のキャッチ」と「幺(出産児)の頭が骨盤入口を通りぬけて膣口(ちつこう)にて頭が誕生するまでの経過」は共に【命】をストレートにあらわす瞬間と考えていたことになる。(というのも、出産児の頭が骨盤入口を通りぬけてせまい産道を旋回(せんかい)しながら進み、膣口から誕生するまでの出産児の頭の旋回による〈神秘的な命のいとなみ〉は実際に目撃できたからである)。
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◆前述したように、『魏志倭人伝』に登場する倭人国の使節は玄界灘を往来して、魏都と帯方郡と外交を結んでいた。したがって、倭人国の使節は「産道を通過する幺(出産児)のごとく無欲になって、[亠](天頂緯度線と子午線)をキャッチ」して玄界灘を往来していたことになる。だから、「倭人国の使節が往来した九州の陸地から遠く離れる大海」は「[玄]の字源・字形・字義をあらわす大海」であったゆえ「玄界灘」と名づけられたのである。

 日本列島における西の端には、玄界灘に浮かぶ沖ノ島がある。日本列島の東端には、伊豆諸島の神津島(こうづしま)がある。沖ノ島と神津島は、共に北緯3414分に位置する。
 神津島からは良質な黒曜石(こくようせき)が産出した。黒曜石は火山活動によってできた“黒いガラス”とされ、上手に刃をつけると石槍(いしやり)や鏃(やじり)はもとより、皮はぎや肉切り用の石包丁(石器)として利用された。神津島の黒曜石は良質であったために、関東地方、東海西部(愛知県・静岡県)、近江(滋賀県)、北陸地方(石川県能登地方)まで分布していた。
 なんと神津島の黒曜石は約3万年の後期旧石器時代から使用されていたことが明らかとなり、縄文時代、卑弥呼が生存した後期弥生時代の3世紀まで本土に運ばれて利用されていた。
 神津島から伊豆半島までは30km以上も海で隔たれ、神津島から石川県能登半島までは直線距離で約400kmもある。約3万年前の旧石器人たちは【天頂緯度線をキャッチできる能力(本能と眼力)】を有していた。だから、伊豆半島から遠く隔たる大海を往来し、滋賀県・近江や北陸の能登半島などの遠い地から旅する人々も神津島の黒曜石を手に入れることができたのである。
 神津島の黒曜石を求めて大海を往来した交通の事実について、学界は世界史上でも最古の海洋航海であると注目するが、その実態は謎のベールにつつまれて不明とする。というのも、現代史学は【原始のときから人類が天頂緯度線をキャッチして大海を往来した海洋航海についての科学的知見】を喪失(そうしつ)している。このため、この旧石器時代の神津島の海洋航海の秘密をまったく解明することができない。
 要するに、現代史学が【「約3万年前の旧石器人たちは天頂緯度線をキャッチできた」という科学的事実】に気づけば、旧石器人たちが大海に浮かぶ神津島の黒曜石を手にいれることができた秘密がいとも簡単に明白となる。
 現代史学は『魏志倭人伝』に記述された本州列島地理における【時計回りに90度転回する方位規定】〕は約3万年前の旧石器人たちが神津島の黒曜石を手に入れた海洋航海における【天頂緯度線のキャッチの習慣・伝統】にもとづいていることにまったく気づいていない。
 現代史学は〔原始からの人類が天頂緯度線をキャッチした科学的知見〕をまったく有していない。だから、旧石器人たちが神津島から黒曜石を求めて大海を往来した交通の事実が謎のベールにつつまれて不明となる。言いかえると〔人間の、頭脳にそなわる本能と目にそなわる呪力〕や〔[][]の字源・字形〕は〔原始からの人類が天頂緯度線をキャッチした科学的知見〕を表示するものであることに現代史学が気づけば、邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は完全なる空理空論・デタラメであったと即座に断定することができる。

◆学界は〔現在の日本列島地図を思考基盤にする邪馬台国九州説・邪馬台国説畿内説は完全なる空理空論・デタラメである実体〕にまったく気づいていない。
 これから、邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説の思考基盤の【北極星や天の北極がある方角を〔北〕と定める日本列島地図(地理)】では人類は原始の時代にすでに滅亡していたことになり、現在の日本列島にはヒトは一人も居住していない結果になる事実を証明する。これゆえ、もちろん、現在の日本列島地図を思考基盤とする邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説の主張だと〔卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)においても、日本列島にはヒトが一人も住んでいなかったことになる【科学的事実】〕について証明する。

 学者たちは全員、〔原始以来、人類は天頂緯度線をキャッチできたという科学的知見〕をまったく有していない。
 だから、学者たちは全員、「卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)においても、現在と同じく天の北極や北極星がある方角を〔北〕と定めていた。したがって、『魏志倭人伝』の九州以下の本州(本土)列島地理の方位は現在と同じであった」と思いこむ。
 しかし、学者たちの視座(しざ)は【科学】にまったく反している。
 下図は〔天の北極と北極星の位置図〕である。

下図における〔大円〕は〔各時代の、天の北極の位置〕をあらわす。下図における〔星座の星〕は〔各時代の、北極星〕となる。
 天の北極は下図中央の〔黄道の北極〕を中心にして25,800年で大円を描いて一周する。
 北半球における地平線(水平線)から天の北極までの高度が3536分の地所の緯度は、北緯3536分である。ゆえに、その地の天の北極の高度が、その地の緯度を示す。
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 上図が示すように、いかなる時代においても〔天の北極〕と重なる〔北極星〕は存在しない。ゆえに、〔無・暗闇である、天の北極の高度〕は〔天の北極を中心として円周する北極星〕で測量しなければならない。
 〔天の北極に最も近づく北極星〕は紀元前2790年頃の〔りゅう座α星〕と、現在から約80年後の21世紀末の〔こぐま座α星〕である。この〔二つの北極星〕は〔天の北極から約45分離れている〕ゆえ、〔天の北極を中心にして直径が約90分の距離で円を描く〕。ところが、人間の脳にはもちろん、また日々鍛錬しても人間の目には、〔90分の直径の円を描く北極星〕で、その円の中心となる〔天の北極の高度〕を1度の60分の11分以内の精度で精確に測量できる能力がそなわっていなかった。
 上図の中央の右上に「10°」と記したように、卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばの北極星(こぐま座β星)は天の北極から「約10(600)」離れていた。ゆえに、卑弥呼時代の北極星は、天の北極を中心にして直径約20度・約1200分の円を描いていた。
 上記したように〔90分の円を描く北極星〕を目星にして〔天の北極の高度〕を1分の誤差内で測定できなかったゆえ、ましてや卑弥呼時代の〔1200分の直径の中心・緯度となる天の高度〕を、精確に1分の誤差内で測量できる本能と眼力を、人類は有していなかった。だから、卑弥呼時代、倭の使節が天の北極の高度で緯度を測量する方法で九州沖の玄界灘に入ったならば、全員が命を落として帰還することができなかった。
 これゆえ、「天の北極と北極星」は【命】を奪う死神(しにがみ)であったゆえ、日本列島全地図の【北】を表示する基準(目星)にはならなかった。
 いっぽう、前述したように、原始のときから人類は精確に緯度が測量できる天頂緯度線をキャッチして大海を往来していた。九州沖の大海名は「玄界灘」であり、上記したように「玄界灘」の先頭字[]の字源・字形・字義は「産道を通りぬけるときの幺(出産児)のごとく無欲になれば、天頂緯度線はキャッチできる」という〔天頂緯度線をキャッチするときの心得〕をあらわした。
 卑弥呼時代の倭の使節と船乗りは、〔原始のときからの天頂緯度線をキャッチする習慣・伝統〕にもとづいて、玄界灘や旅の各地点で天頂緯度線をキャッチ(1分以内の誤差で精確に測量)して朝鮮半島の魏の出張政庁がある帯方郡や魏都に到着し役目をはたすと、倭地に帰還していたのである。
 ゆえに、〔国交を結んだ倭国の使節の説明や卑弥呼が書いた倭の国書〕から魏王朝は倭国の様子を文書に記述することができた。そして、後に晋王朝に秘蔵されていた〔魏王朝が作った資料(文書)〕を言いかえると〔倭の使節の説明や卑弥呼が書いた国書の記事〕を閲覧した陳寿はそのまま書き写して、『三国志』魏書東夷伝末尾の〔倭人伝〕に記載した。だから、『魏志倭人伝』(『三国志』魏書東夷伝の倭人伝)が現在まで残ったのである。

 以上のごとく、卑弥呼時代、〔天の北極や北極星〕を日本列島地図の方位を規定する目星(基準)にしなかった。この原因・根拠・理由は、〔天の北極の高度を緯度に変換する方法〕では、倭の使節や船乗りたちは玄界灘で死滅し、帯方郡にも魏都に到着できず国交を結ぶことができないことになったからである。
 だから、もとより、卑弥呼王朝は【天の北極と北極星がある方角を〔北〕と定める、現在の日本列島地図と同じ日本列島地理】を制定しなかったことになる。
 上記したように、学者たちの現在の日本列島地図における方位にもとづいて考える論法では倭の使節は玄界灘で死滅して帯方郡や魏都に到着できなかったことになる。だから、学者たちの意見だと、倭と魏は国交を結べなかったゆえ『魏志倭人伝』には〔文字が1字も書かれていなかったこと〕になる。したがって、元来、『魏志倭人伝』は歴史上に存在しなかった書物であったことになる。
 しかし、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は実在する。
 だから、【「『魏志倭人伝』には文字も1字も書かれていなかった」ことになる現在の日本地図で立論基盤とする学者たちの意見】は【科学】がまったく成立しない空理空論、デタラメ、インチキであったのである。

◆現代史学はまったく気づいていないが、『魏志倭人伝』は――原始のときから、人類は【天頂緯度線をキャッチできる能力】が大脳に〈いのち〉をまもる本能がそなわり、目を鍛錬すると〔天頂緯度線をキャッチできる呪力(神秘的な眼力)〕がそなわっていた。というのも、人類の本能行動と情動行動は大脳辺縁系(だいのうへんえんけい)に分担されており、うまく生きてゆく適応行動と創造行為は大脳の新皮質系に分担されているからであった。このため、原始のときから人類の大脳と目には【天頂緯度線をキャッチできる能力】がそなわっていたゆえ、遠い地所に旅した人も大海を渡った人も家族が待つ家に帰還することができた。この【原始から受け継がれた天頂緯度線のキャッチの習慣】にもとづいて、卑弥呼王朝は本州における〔西〕の九州は〔北〕に在ると考え、本州の〔東〕は〔南〕となると考える、時計回りに方位が90度転回する本州地理を制定した――と説明していた貴重な文献史料であったのである。

 上に提示した〔天頂点と重なる銀河部位の軌道図〕をもって解説した【天頂緯度線をキャッチして緯度測定する方法】と、〔歳差状況図(天の北極の位置図)〕をもって解説した【天の北極の高度を緯度に換算する方法】はまったく別物である。
 というのも、【天頂緯度線をキャッチして緯度測定する方法】だと〔1度の60分の11分の誤差以内で精確に緯度が測量できた〕ゆえ、魏・帯方郡と倭を隔てる大海・玄界灘を往来できて魏と倭は国交を結ぶことができたと【科学】が成立する。しかし、【天の北極の高度を緯度に換算する方法】だと玄界灘に入った倭の使節は途中で死滅して魏・帯方郡に到着できず、魏・帯方郡と倭は国交を結ぶことができなかったことになるゆえ、どうして約2000字で構成される『魏志倭人伝』が実在するのかと矛盾・不合理も甚(はなは)だしい結果となって【科学】がまったく成立しないことになるからである。
 『魏志倭人伝』は「原始から受け継がれた習慣【天頂緯度線をキャッチする方法】にもとづいて、卑弥呼王朝は現在の日本地図における方角と時計回りに90度転回する方位規定の本州日本列島地理を制定していた」と説明していたのである。

 このように、【天頂緯度線をキャッチして緯度測定する方法】と【天の北極の高度を緯度換算する方法】を比較すると、【天の北極が在る方角を〔北〕と定める現在の日本地図を思考基盤】とする邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は空理空論、科学的知見を喪失する非科学説、デタラメであったと直(ただ)ちに断定できる。
 
◆前述したように、九州沖の玄界灘に浮かぶ沖ノ島と伊豆諸島の神津島は、下図に示すように共に北緯3415分で同緯度(天頂緯度線が同一)である。
 沖ノ島は日本列島の西の端に所在し、神津島は日本列島の東の端に所在する。
S394
 下図の左側に示す中国の海岸線地域の北部は中国の海岸線地域の南部より冷たい気候区、中国の海岸線地域の南部の暖かい気候区であるゆえ〔北冷南暖〕ということになる。
 いっぽう、日本列島の西端に在る沖ノ島は冬に雪が降る冷たい気候区であるから〔西冷〕となり、日本列島の東端にある神津島は冬でも雪が降らない亜熱帯気候区の暖かい気候区であるゆえ〔東暖〕となる。
 日本列島の沖ノ島の〔西冷〕と中国の北部海岸線地域の〔北冷〕は共に〔冷たい気候区〕、日本列島の神津島の〔東暖〕と中国の南部海岸線地域の〔南暖〕は共に〔暖かい気候区〕である。
 ゆえに、下図に示すように――日本列島の西端にある〔冷たい気候区の沖ノ島〕は中国の海岸線地域における〔冷たい気候区の北部〕に適合し、日本列島の東端にある〔暖かい気候区の神津島〕は中国の海岸線地域における〔暖かい気候区の南部〕に適合する。
 だから、下図に示すように、卑弥呼王朝は「倭地における本州の西→中国の北にある」と「時計回りに方位を90度転回」し、同様に「倭地における本州の東→中国の南にある」と考えて「倭地における方位は時計回りに90度転回しているにちがいない」と定理したのである。
S15
 現在の日本列島地図では〔天の北極〕と〔倭地(本州)地理〕が1セットとなって一体化するが、卑弥呼時代では〔原始からの天頂緯度線をキャッチする習慣〕と〔倭(本州)地理〕が一体化することになり、ゆえに〔天の北極〕と〔倭地理〕はまったく別物・無関係であって一体化しないことになったのである。
 前述したように、卑弥呼王朝が「倭地理の東端にある神津島は中国の海岸線地域の南部に在る」と立論した神津島の黒曜石は約3万年前の後期旧石器時代から本土に運ばれて利用されていた。旧石器人たちは〔天頂緯度線をキャッチする方法〕で神津島と本土の中間の大海を往来していたのである。
 だから、下図に示すように、卑弥呼王朝は〔原始から受け継がれた天頂緯度線のキャッチの【科学】〕を思考基盤にして「沖ノ島と同じく西にある九州は北に所在し、神津島と同じく東にある東海地区(愛知県・静岡県)は南に所在する」と転回日本列島地理を制定したのである。
S14
 上図のごとく【沖ノ島と神津島の〔西冷東暖〕と中国の海岸線地域の〔北冷南暖〕】にもとづいて、『魏志倭人伝』は朝鮮半島の帯方郡から倭地における対馬国・一大国以下32か国の小国の所在地を説明していたことになる。
 わがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・6(6回)」で詳細に解説して証明したように、[()][()]、そして[()][]の字源・字義は「時計回りに90度を方位は転回する」であった。
 ゆえに、卑弥呼は上図の転回日本列島地理にもとづいて、国名を「倭人国」と定めた。
 だから、『魏志倭人伝』の冒頭文「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り(倭人在帯方東南大海之中)」は、「【原始からの天頂緯度線をキャッチする習慣】にもとづいて卑弥呼王朝は方位規定を時計回りに90度転回する本州地理を制定して、国名を倭人国と定めた」と説明していたことになる。 

◆日本列島は大海で包囲されている。
 この大海で隔てられる日本列島に、原始からどのような方法でヒトは住み着いて生活できたのか?
 ヒトは【天頂緯度線をキャッチ(精確に緯度を測定)】して日本列島に到着し、鬱蒼(うっそう)として原始林におおわれる樹々(きぎ)のあいだに見える夜空の【天頂緯度線をキャッチ】して遠くの各地に旅して生活必需品を求め〈いのち〉をまもって生活していたのである。
 だから、約3万年前の後期旧石器時代には太平洋に浮かぶ神津島から産出される黒曜石が本土に運ばれ、約1700年前の後期弥生時代には沖ノ島と神津島が同緯度であることを卑弥呼王朝は知っていたのである。
 また、わがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・6(6回)」で詳細に解説して証明したように――約4000年前の中国の夏后(かこう)時代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に、約4250年前の五帝時代末の舜(しゅん)帝の治世から「正確な中国海岸線地図作成する官職」の「虞()」に約250年間も従事していた名門・益(えき)氏の王子と若者たちが日本列島の東北地方に定住した。益氏は〔正確な中国海岸線地図とその南北の気候〕を伝え、約5000年前の五帝時代初頭に生存した【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、黄帝につかえた【倉頡(そうきつ)が黄帝の医学研究をあらわすことができる文字を発明した、その理論(漢字作成理論)】を教えひろめた。
 だから、卑弥呼王朝は【同緯度の沖ノ島と神津島による〔西冷東暖〕と中国海岸線地域の〔北冷南暖〕】にもとづいて「日本列島の東方は中国海岸線の南の方へ延びる」と定める転回本州地理を制定したのである。この「時計回りに90度転回する方位規定」は倉頡が作った「いね()」の象形とされる[]の字によって確立され、黄帝は[]の標識を「黄帝軍の軍門の形」と定めた。倉頡は【黄帝が研究した出産児が産道を通過するときの時計回りの90度の回旋(かいせん/第1回旋と第4回旋)】を[]の字源・字形・字義に定めて[]は「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわすことにした。倉頡が作った[]の字源・字義は後にそのまま[]の字に受け継がれ、また[]の字にも受け継がれた。
  倉頡は[]の字をもって【黄帝が研究した出産児が産道を通過するときの時計回りの90度の回旋(1回旋と第4回旋)】で表現することにした。というのも、当時は出産児が時計回りに90度転回して骨盤入口を通りぬけることができずに死亡する事故が多発していたゆえ、倉頡は「骨盤入口を通りぬけることができる出産児の姿勢(側身形)」をもって〈いのち(人の生命)〉をあらわすことにしたのである。このため、約3300年前に出現した契文(けいぶん/甲骨文字)と約3000年前から出現した金文(きんぶん)[]の字形は「頭を時計回りに90度転回して骨盤入口を通りぬける(1回旋するときの)、出産児がアゴを胸につけてヒザを曲げる屈位(くつい)の側身形(姿勢)の図案」となった。つまり、[]の字源・字形(字の原形)・原義は「出産児が頭を時計回りに90度転回して骨盤入口を通りぬけるときの、アゴを胸につけヒザを曲げる屈位の姿勢(側身形)」であった。
 だから、「本州の〔東〕は〔南〕となると定めた転回本州地理」は[][]の字源をあらわすゆえ、卑弥呼は国家名を「倭人」と定めたのである。

◆以上のごとく、約2000字で構成される『魏志倭人伝』の研究における出発点は【天頂緯度線のキャッチ】と定めなければならなかったのである。
 『魏志倭人伝』研究の出発点を【天頂緯度線のキャッチ】と定めれば、全体としての【科学】も成立し、『魏志倭人伝』の記事と関係する考古学はじめ音韻学・漢字学(漢字の起源)・卑弥呼時代の正確な地図作成方法など様々な学術分野における【科学】が成立する。
 ところが、学界そして学者全員は【天頂緯度線のキャッチ】を『魏志倭人伝』の研究における出発点と定めない。ゆえに、『魏志倭人伝』の研究に絶対に必要不可欠な【天頂緯度線のキャッチ】という科学的知見を喪失する学界は邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説が完全なる空理空論・デタラメであることに気づかない!
 愛おしき日本人よ もういいカゲンに、邪馬台国説にダマされるな もう十分タップリ日本国民はダマされた! もうこれ以上 邪馬台国説にバカにされるな 邪馬台国説にダマされるということは 日本人としての尊厳を冒涜(ぼうとく)されることであり 要するに日本人としてのいのちと心と魂を愚弄(ぐろう)されて 最も貴き大事なものを奪われて魂のヌケガラ・フヌケになるということなのである! だから 邪馬台国説にはバカにされるな 愛おしき日本国民ヨ 目覚めよ!

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