G-T0XYQT12LL 卑弥呼の逆襲: 2022年6月

« 2022年5月 | トップページ | 2022年7月 »

2022年6月

2022年6月28日 (火)

邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・11

#女王国・邪馬壱国は出雲地方であった

◆邪馬台国説はすべてウソなんだ!
 女王国名は「邪馬壱国」が真実なんだ!
 「邪馬壱国」は出雲地方であったのだ!

 だから 邪馬台国説は すべて真っ赤なウソだ!
 悲しいじゃないか ダマされるなんて!
 愛しい日本国民よ 悲しいじゃないか ダマされるなんて!
 バカにされるな コケにされるな 日本国民ョ!
 もう十分に ダマされた
 ――邪馬台国説が真っ赤なウソと断定できる遺跡を
 前人たちが作って 現在まで残っている!
 だから 学者たちの真っ赤なウソにあやつられるな!
 バカにされるな コケにされるな 
 デクのボウになるな 愛しき日本国民ョ!
 邪馬台国説は日本人をぶっ壊す最も卑劣なデタラメだ
 邪馬台国説は日本国をぶっ壊す最悪の疫病神なんだ

◆学者たちが「約1700年前、倭女王の卑弥呼が住んでいた地所は〔邪馬台国〕であった」と伝える書物は、通称『魏志倭人伝』とよばれている。というのも、3世紀後半に生存した中国の晋(しん)につかえていた歴史編纂官の陳寿(ちんじゅ)が著作した『三国志』の「魏書東夷伝末尾にある倭人伝」は通称『魏志倭人伝』とよばれることになったからである。
 3世紀後半に著作された『魏志倭人伝』は残っていないが――現存する12世紀の刊本(かんぽん)の『魏志倭人伝』には「倭女王(卑弥呼)が居住した都であった地所は邪馬壱国(やまいこく)であった」と記す。だから、学者たちはじめ学界も認めてマスメディアがヤタラに力説する「邪馬台国」は【誤読の、空想の産物】、真っ赤なウソだったのである。
 学者たちは「『魏志倭人伝』の全記事は正しいと信用してはならない」という固い信念のもとに邪馬台国説を主張する。
 しかし、『魏志倭人伝』の全記事は正しく、真実であったのである。
 だから、当然、卑弥呼は「邪馬壱国」に住んでいたことになる。
 というのも、邪馬台国説の論法に疑問を抱き、「『魏志倭人伝』の全記事は正しいのではないか。だから、卑弥呼が住んだ都の名は邪馬壱国であった」と考えると、『魏志倭人伝』の全記事は正しく真実であったと【科学】が証明されることになるからである。
 江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来300年間も学界の伝統となった邪馬台国説は「九州に邪馬台国があった」、「邪馬台国は畿内にあった」と論争をつづけるが、両説は矛盾点・不合理・不正・非理などが発生していっこうに【科学】が成立しないために決着することができない。それというのも「邪馬壱国」と記してあるものを「邪馬台国であった」と誤読して、さらに「『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加えて立論する方法が正しい」と言い張る邪馬台国説は最初から空想の産物、真っ赤なウソだったからである。

◆「わが国が中国から漢字を最初に習得(しゅうとく)したのは、5世紀あるいは6世紀である」という意見は、わが国の学界が「絶対的に正しい」とされる定説である。
 しかし、3世紀後半に著作された『魏志倭人伝』には「倭国には、中国で用いられる楷書(かいしょ)で構成される語と同義になるように変換することができる上古漢字があった」と証言する記事が2か所ある。
 「倭国には上古漢字があった」と指摘する最初に登場する記事は「倭国では、挙事(きょじ/祭りはじめ何か事をおこすとき)、行来(こうらい/遠くの地へ旅して帰還するとき)、云為(うんい/神に雨ごいや子どもの誕生などの願いごとを云って祈るとき)、骨を灼()いて卜するが、まず吉凶を占う目的は〔挙事、行来、云為〕のいずれなのかを告げる。その卜辞(ぼくじ/占いに用いる言葉と文字)は令亀法(れいきのほう)、つまり中国の殷代後半に出現した亀の甲羅に刻んだ甲骨文字のごとくの象形文字であった」と説明している。
 もう一つの記事は「倭国の王が使節を派遣して魏都や帯方郡(朝鮮半島のソウル市周辺にあった魏の出張政庁があった郡の名)や諸韓国に到着したときの倭国の国書、あるいは帯方郡に倭国に使節を派遣したときの文書において、倭国が国書に用いる上古漢字と魏都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる楷書は差錯(ささく/相違)していたので、倭国の伊都国(いとこく)の港では捜露(そうろ/一字一字ずつ点検・確認して上古漢字と楷書が同義になるように変換)して、女王の卑弥呼に届いたときに差錯(誤訳)が無いように務めていた」と説明している。だから、わが国の学界が「絶対的に正しい」と信じる「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という、日本人の常識となる定説の実体は【『魏志倭人伝』を誤読した空理空論】であったことになる。

 「銀河」の別名は「銀漢」または「天漢」である。「銀漢から作られた文字」を略して、わが国でも中国でも「漢字」と称することになったのである。
 『魏志倭人伝』が「令亀法」と記す「殷代(いんだい)の甲骨文字のごとき象形文字」であった「上古漢字」は「銀河文字」であったのである。
 『魏志倭人伝』に「令亀法」と記された「倭国の上古漢字の字源・字形・字義は銀河各部の形状」であった。この上古漢字は占いが終わって用済みになるとただちに消されたゆえ、文字が書かれた史料が出土しないことになった。というのも、上古漢字・銀河文字は王政(王道政治)の権力基盤であったからである。ゆえに、上古の銀河文字は反体制側の人々が習得して反乱・革命に利用すると王朝を崩壊させることができる威力を有していた。倭国で用いられていた銀河文字は、現在における世界や国家を破壊する「核」のごとき絶大な威力があった。ゆえに、倭の卜辞に用いられた上古の銀河文字は、用済みになったならば消さない人物はじめ消し忘れた人物もさらに消さない人物の一族や消し忘れた人物の一族も全員、即刻、死刑となると厳重に定められていたのである。
 卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、上古漢字・銀河文字は後漢時代後半の1世紀ごろに出現した「楷書(かいしょ)を音符(字音記号)」に用いていた。
 楷書も「漢字」とよばれるゆえ、楷書の字源・字形の原形・原義は卑弥呼が用いていた上古漢字と同じく「銀河各部の形状」であった。だから、伊都国の役人たちは港から見える・水平線から昇る銀河の帯を観察するのを日課にして、倭の銀河文字と魏都・帯方郡・諸韓国で用いる楷書における相違点を研究して、上古の銀河文字と楷書の変換における差錯(誤訳)による失敗で国交に支障が生じないように努めていたのである。
 〔注 たとえば倭の銀河文字の[]の字義は「地図の形となる海岸線」を意味した。中国の楷書の[]の字義は「身分が賤(いや)しい」であった。「賤しい」の[][]に「淺()い」の右側の[]が加わる字であるゆえ「貝が採れる海の淺い地域、つまり海岸線」となる。だから、楷書の[]の字義は銀河文字の字源・字義を失った転義であったことになる〕。

◆今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)は銀河文字を発明した。だから、漢字は倉頡によって発明された。いまだ書いた文字史料が出土しない倉頡文字は銀河各部が字源・字形・字義となる銀河文字だったのである。
 倉頡は銀河文字が反体制側の人々が習得したならば容易に黄帝王朝は崩壊するということに気づいて、「文字は銀河から作られたと暴露する人物はじめその一族全員を死刑にする」、「書いた文字が用済みになったならば、ただちに消さない人物とその一族、また消し忘れた人物とその一族全員を死刑にする」という厳重な掟を定めた。だから、中国において倉頡文字を書いた史料は出土しないことになった。
 このような倉頡が発明した銀河文字がわが国に伝来して習得されていたのである。
 したがって、『魏志倭人伝』の大半の記事は「現在まったく不明となった、倉頡が発明した銀河文字の秘密」を科学的に解明できる重大な歴史史料であったことになる。
 ところが、現在、「倉頡は漢字を発明した」と伝える伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメであると定まっている。
 でも、もしも新井白石以後の学者たちが『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えない考え方をしていたならば、「倉頡伝説は真実を伝えていた」と逆転していたことになる。

◆わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社)は9ページの終わりから3行目から10ページの始めから3行目までで〔わが国の漢字音〕と題して下記のごとく指摘している。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によって得られた諸法則が、原理的に適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 上記の「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものである」という文は、「わが国に国語として現存する漢字音は中国に現存する最古の漢字音よりも古い」と指摘していることになる。
 中国に現存する最古の漢字音は「上古音」と名づけられ、「上古音」は「紀元前1046年の周代初頭から始まる。
 ところが、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説の漢字音は、中国の現存する最古の上古音の漢字音よりも断然(だんぜん)新しい。このように、〔現在の学界の、漢字習得の定説〕は白川静著『字統』における〔わが国の漢字音〕における指摘に反して不合理となって【科学】が成立しない。
 いっぽう、『魏志倭人伝』の「倭国には楷書と差錯する令亀法(れいきのほう/甲骨文字)のごときの上古漢字・銀河文字があった」と説明する2ヵ所の記事は、白川静著『字統』の〔わが国の漢字音〕の指摘に合致して真実を伝えていたことになる。
 『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく上古漢字の漢字音が随所に記載されている。だから、【『古事記』上巻に記載される〔音〕という注がつく文字】は、白川静著『字統』が「現存する中国の最古の上古音よりも古い」と指摘する、【わが国の国語に残っている現存する最古の漢字音】であったことになる。
 漢字を発明した倉頡は「書いた文字は用済みになったならば、ただちに消さない者、消し忘れた者、またその者の一族全員は神罰が下されて死刑にする」と厳(きび)しい掟を定めたが、「〔音(字音)〕だけは消滅しなくてもよい」と禁止しなかった。ゆえに、『古事記』上巻に多数記載された文字は楷書を〔音〕をあらわす記号に用いているが、この『古事記』上巻に記載された上古漢字・銀河文字の【字源・字形・字義】は【銀河各部の形状】であったことになる。
 だから、『魏志倭人伝』が「倭国の卑弥呼が用いていた」と伝えている銀河文字は、中国では五帝時代・夏后(かこう)時代・殷代前半に用いられていたことになる。

 現在、学界では今から約3300年前から出現する甲骨文字を「漢字の最も古い祖型」と定める。しかし、倉頡伝説が伝えているように、今から約5000年前に倉頡が漢字を発明していたゆえ、「甲骨文字は漢字の最も古い祖型」と断定する定説は根本的に間違っていたことになる。
 「漢字の最も古い祖型」は「銀河各部の形状を字源・字形・字義」とする上古漢字・銀河文字であり、『魏志倭人伝』は2か所の記事で「漢字の最も古い祖型の銀河文字」について説明している。
 殷代後半の甲骨文字は総字数が4000字を越えた。このため、「書いた文字は用済みになっても消さなくてよい。しかし、文字は銀河から作られたと容易にわかるように暴露した人物とその一族はただちに死刑にする」と厳重に定めた。だから、この「文字は銀河から作られたと絶対に暴露してはならない」という掟のために、現在の学者たちは「漢字は銀河(銀漢)から作られた事実」に気づかない。

◆上記したように、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく銀河文字は、中国において「上古音」と名づけられた最古の漢字音となる周代初頭より以前の殷代、夏代(かだい/夏后時代)、五帝時代のいずれかの時代にわが国に伝来して習得されたことになる。
 中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――『古事記』成立(712)より10年前の702年、中国に渡った第7回遣唐使が中国王朝に「後稍夏音を習う」と伝えたという記事がある。この「後稍夏音を習う」という遣唐使の言は「後(のち)に稍々(やや)、夏音(かおん)を習う」と解釈すべきことになる。
 つまり、「後稍夏音を習う」という言は「672年の壬申の乱から9年後の681317日、天武天皇は川島皇子(かわしまのみこ)以下十二人に命じて『帝紀および上古の諸事を記定』させました。このとき、天武天皇は『夏音』を稍々習う(復興する)ことにせよと命じました」と意味するものであったことになる。
 だから、第7回遣唐使が告げた「夏音」という語は「紀元前2070年~紀元前2050年頃の中国の夏代初頭に伝来して、わが国が習得した夏音文字」を意味したことになる。というのも、『魏志倭人伝』に記される「大夫(だいふ)」という語の語源は「夏代初頭に、中国から名門・益(えき)氏の王子と若者たち一行が荒波逆巻く玄界灘を横断して日本列島に移住して、倉頡が発明した漢字作成原理と夏音文字の学問を広めた」とあらわすものであったからである。
 ゆえに、わが国に現存する夏音文字の字音は、現存する今から約3050前の周代初頭の中国の上古音よりも約1000年も古いことになる。
 下に〔漢字生長史〕と名づけた表を配した。この〔漢字生長史〕が明確に示すように、わが国の学界が考古学の「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるは6世紀である」という主張に唯々諾々(いいだくだく)と従う定説は、()『魏志倭人伝』の「倭国には令亀(れいき)の法のごとき上古漢字があった」と伝える二つの記事と、()太安万侶(おおのやすまろ)が『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)でテーマにして詳細に記述した夏音文字の説明と、()音韻学の研究成果の三つの確かな史料を無視して排除する、【科学】に反する空理空論であったのである。
Photo_20220628140501
◆上記した681317日において「後稍夏音を習う」つまり「夏音文字を稍々復興する」ことにした天武天皇の「帝紀および上古の諸事の記定の命令」は、後年(720年正月28)に元明天皇に献上したが拒絶されて正史になれなかった書物『古事記』という書名になった。つまり、天武天皇の命令「上古の諸事の記定」における[][][]の3字を抜粋すると『古事記』という書名になる。その証拠に、『古事記』上巻には〔音〕という注がついて夏音文字が記載されている。たとえば、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話における〔淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚〕の箇所は、総字数381字で構成されそのうち〔音〕という注がつく夏音文字は計32字である。ゆえに、総字数381字中の夏音文字の32字は「稍(やや)」ということになる。『古事記』上巻における各説話は、〔音〕という注がつく夏音文字を稍々(やや)記載して作られている。ゆえに、遣唐使が「後稍夏音を習う」と表現した「天武天皇の世で実現しなかった歴史書編纂事業における夏音文字の復興命令」は『古事記』上巻で実現されたことになる。
 『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字は――白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものである」という、中国に現存する最古の上古音よりも古い、現存する最古の漢字音である。

 「『古事記』上巻の序」は「古事記上巻 并(あわ)せて序」と表記されている。
 「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字の書き下し文にフリガナをつけると、下記のごとくなる。
 「臣安万侶言(しんやすまろまを)す。夫()れ混元(こんげん)(すで)に凝()りて、気象(きしょう)(いま)だ効(あらは)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。然(しか)れども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す。」
 上記のフリガナつきの文章だと見た目の印象が煩雑(はんざつ)になって、むしろ文意が混沌として判然としないと思われるので、下記のごとくフリガナ無しの文章をも示すことにした
 「臣安万侶言す。夫れ混元既に凝りて、気象未だ効れず。名も無く為も無し。誰かその形を知らむ。然れども乾坤初めて分かれて、参神造化の首を作す。」
 上記の「古事記上巻 并せて序」の冒頭文は「臣下の太安万侶(おおのやすまろ)が元明天皇陛下に申し上げます。漢字は銀河から作られました。中国の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、中国から夏音文字が伝来して、わが国は五帝時代に用いられた銀河漢字・書契(しょけい)と夏代初頭の夏音文字の学術を習得しました」と説明するものであった。
 だから、【「古事記上巻 并せて序」の冒頭文を構成する34の全漢字の字源・字形・字義】は「【漢字が作られた銀河各部の形状】を観察して芸術的に思考する(つまり、右脳思考する)と正しく訳することができる」と『古事記』上巻における歴史解明方法を説明するものであったことになる。
 要するに、上記した「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字をもって「参神造化の首」つまり「縄文時代の首(初頭)、中国からわが日本列島に移住した名門益氏の王子と若者たちによって()【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、()【倉頡が発明した漢字作成理論】と、()【夏音文字の学芸】と、()【五帝時代の最後の舜帝(しゅんてい)時代初頭から末までの約200250年間、代々、益氏がその官職を受け継いで完成させた正確な中国の海岸線地図(つまり、[]の字源の「海岸線地図」)と正確な地図作製方法】が伝来した。前期縄文の首(初頭)・中期縄文の首(初頭)・後期縄文の首(初頭)における造化(銀河各部の形状をモデルにして土器・土偶を作った造形芸術)の前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭までの約2000年に及ぶ芸術の参神(つまり、前期縄文・中期縄文・後期縄文時代初頭までの参時代の芸術の神)の伝統によって、中国の学問とわが国の芸術はともに同じ銀河範囲の各部の形状を観察して作成し成立するものであったため、益氏がもたらした学問と芸術の教えはわが日本列島の土器・土偶を作った芸術家たちによって習得された」と、太安万侶が説明していたことになる。

◆『魏志倭人伝』には「古(いにしえ)()り以来、その使()中国に詣(いた)るに、皆大夫(だいふ)と称す。夏后少康(しょうこう)の子云々(うんうん)。」という記事がある。
 この記事の末部の「夏后少康の子」というのは「夏王朝の4代目の皇帝・少康の王子」と意味する。ゆえに、倭の使節が皆(みな)、中国に到着すると「大夫」と名乗ったのは「夏王朝の始祖の帝禹()の後をついで帝となった益の孫の王子や若者たちのごとく、荒海逆巻(あらなみさかま)く玄界灘を渡って中国に到着した」と誇示する、「吾は神に祝福された男だ 英雄だ」とあらわす語であったのである。
 万葉仮名の「大夫」は「ますらを」と読み、今日、「ますらを」は「益荒男」と表記する。ゆえに、「益荒男」は「益氏の王子や若者たちのごとく、荒波逆巻く玄界灘を渡ってきた男(おのこ)だ」という意味を略して成立した語であったのである。
 益氏は五帝時代の四番目の帝尭(ぎょう)の時代に初めて登場し、五番目の帝舜(しゅん)の時代に「虞()」という「正確な中国海岸線地図を作製する重職」に任命されて、代々約200年~約250年のあいだ務めた。そして、益の首長は夏王朝の始祖の帝禹の遺言で帝位についた。
 司馬遷(しばせん)著『史記』の〔陳杞世家(ちんきせいか)〕は「帝王になった益の子孫は、中国のどこに封ぜられたか不明である。史伝に記載されていないからである」と記す。
 「名門益氏を受け継ぐ益の孫の王子と若者たちは玄界灘を渡って日本列島に定住した」ため、益帝の子孫は中国の歴史から忽然(こつぜん)と消えたのである。
 『日本書紀』巻第三の神武天皇紀の初頭には「天祖・彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)」が登場する。この「天祖・彦火瓊瓊杵尊」は「益帝の孫の王子」であった。ゆえに、天祖の名に用いられる[]の右下には[]の字が配せられる。

◆前述したように、「銀河」の別名は「銀漢」である。「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」とよばれることになった。
 漢字の発明を伝える伝説は「倉頡(そうきつ)伝説」とよばれる。漢字作成理論は今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡によって発明された。
 倉頡伝説は「倉頡は四つ目の怪人であった」と伝える。これゆえ、学者たちは「人間には目が四つ無い! 倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメである」と倉頡伝説を全面的に否定する。学者たちは――漢字は中国の民族の結晶であり、長い歴史のなかで発展してしだいに体系を整えてきたものであると考えるべきであると主張する。
 しかし、『魏志倭人伝』は――漢字は四つ目の怪人の倉頡が発明した漢字作成理論を出発点として、長い歴史のなかでまるで樹木の生長のごとくしだいに言葉が生まれて倉頡の漢字作成理論の基(もと)に新しい文字が生長して、文字数をふやしてきた。また、中国の夏代初頭に名門益氏の王子・彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)が日本列島に移住して、倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸を教えひろめた――と伝えている。
 280年~289年に著作された『魏志倭人伝』に記載される【倭国の対馬国(つしまこく)から狗奴国(くなこく)までの30の小国名】によって、上記した【漢字は四つ目の怪人の倉頡が発明した漢字作成理論を出発点として、長い歴史のなかでまるで樹木の生長のごとくしだいに言葉が生まれて倉頡の漢字作成理論の基(もと)に新しい文字が生長して、文字数をふやしてきた歴史】が【科学】が成立して証明される。
 だから、『魏志倭人伝』に記載される【対馬国から狗奴国までの30の小国名は倉頡伝説が真実を伝えていると証明することができる【科学】が成立する確かな証拠であるゆえ――学者たちの「倉頡伝説は荒唐無稽のウソである」という主張は荒唐無稽の空想であったことが決定的となる。
 〔注 なお、邪馬壱国の東の海上にある名称不明の小国と、侏儒国(しゅじゅこく)・裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)という4か国は、わが国に益氏の王子と若者たちが夏代初頭に移住して漢字(銀河文字)が伝来した状況を説明している歴史史料となる。〕

 要するに、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人倉頡」は「漢字作成理論の中枢部となる銀河部」の名称であった。「漢字作成理論の中枢部となる銀河部」は「出産児の顔の形」に相似する。その「出産児の顔となる銀河部には両目、出産児の頭となる銀河部の後頭部に「目の形」にソックリの銀河部位があり、出産児の顔のアゴ()には「細い切れ長の目」の銀河部位がある。ゆえに、「漢字作成理論の中枢部となる銀河部」には「目の形に相似する箇所が四つある」ゆえ、「漢字作成理論」は「四つ目」と表現され、「漢字作成理論を発明した倉頡」は「四つ目の怪人」とよばれることになったのである。
 倭女王の卑弥呼は「四つ目の銀河における横顔において、目の形がある後頭部とアゴに隣接する西側の銀河部位」を「邪馬(やま)」と名づけた。この「邪馬」は「出産児が産道を通過する頭蓋骨」をあらわし、[()]の字源銀河は「母体の子宮に相当する銀河」であったゆえ、卑弥呼は倭国の首都が所在する地所を「邪馬壱国」と名づけたのである。
 したがって、女王国名となった「邪馬壱」は「四つ目の怪人倉頡」と名づけられた秘密の銀河部と【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究を文字作成目的とした倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわしていた。

◆「四つ目の怪人倉頡の銀河部」は「漢字」の[]の字源部の中枢部である。
 「全漢字が作られた銀河の範囲」は、天文学では通称「夏の銀河」とよばれる。
 「夏の銀河」は「夏に最も長時間見える銀河の範囲」である。「夏の銀河」は「夏の星座がすべて漬()かる銀河」の通称である。
 「夏の銀河」は「はくちょう座の尾の部分(東の端)からさそり座の頭部(西の端)までの、壮麗で明瞭で巨大な銀河」である。
 「春の銀河」、「秋の銀河」、「冬の銀河」とよばれる銀河もあるが、「夏の銀河」は「春の銀河・秋の銀河・冬の銀河よりも壮麗で、もっとも形がはっきりしていて、もっとも巨大である」。
 ゆえに、「テレビの画面に映し出される銀河」の大半は「夏の銀河」であり、「夏の銀河」は「銀河」・「銀漢」の代名詞である。
 下に「夏の銀河の写真」を示した。
Ginga_20220628140801
 漢字作成理論を発明した倉頡はみずからが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側が文字を習得して反乱に利用したならば容易に王朝は滅びるにちがいないと心配した。また、現在のロシアのプーチンのごとき傲慢(ごうまん)・乱暴・冷酷・強欲・狡猾(こうかつ)な人物が文字を習得して反乱をおこして帝王になったならば人民たちに恐ろしくおぞましい不幸・苦しみと深い悲しみを与えるにちがいないと深刻に心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す三つの掟を破った人物はもちろん、その人物の一族全員に厳(きび)しい神罰が下されて死刑に処せられると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
【1】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」と、容易に秘密が理解できるように明確・直接的に説明して暴露する者はもちろん、その者の一族全員をも死刑にする
【2】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、銀河各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする
【3】書いた文字が用済みになったならば、ただちに書いた文字を消さない者また消し忘れた者はもちろんその者の一族全員をも死刑にする

 上記の【3】の掟のために、五帝時代の「書契」とよばれた漢字、夏代の夏音文字、殷代前半の漢字は〔音(字音)〕が存在したが、文字を書いた史料は出土しないことになった。殷代後半の甲骨文字は4000字を越えて多数となったため、【3】の掟はまもらなくてもよいことにしたので、文字を書いた史料が多数出土することになったのである。
 そして、上記の【2】の掟のために「夏の銀河各部の名称」は存在しないことになった。現在、天文学はじめ種々の学問分野においても「字源が解明できる・夏の銀河各部の名称」を定めていない。それゆえ、『魏志倭人伝』に記載された34の小国名に秘められた【倉頡が発明した漢字作成理論と、夏音文の学芸の秘密】を解明するためには、「夏の銀河の各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、下記のごとく「夏の銀河の名称」を定めた。
00003_20220628140901
◆以上のごとく、【A】わがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・9」にて、『魏志倭人伝』は「女王卑弥呼が倭国の都と定めた地所の名は邪馬台国と書いてある」と主張して、「邪馬台国は九州であった」または「邪馬台国は畿内であった」と主張する学者たちの意見は【100パーセント誤読の産物】であったのである。
 『魏志倭人伝』は「邪馬壱国に至る、女王の都とする所なり」と記す。だから、女王国名は「邪馬壱国」であったと考えるべきことになる。
 というのも、「女王国名は邪馬壱国であった」と考えて、さらに「『魏志倭人伝』の全記事は正しい」と定めて1ヵ所も【誤読】を加えない論法にすると、『魏志倭人伝』の全記事は矛盾点や不合理な点が一点もなく【科学】が成立して「邪馬壱国は山陰の出雲地方であった」ことになる。だから、「女王国名は邪馬壱国」であったと考えるべきことになる。
 このように卑弥呼は邪馬壱国・出雲地方に居住してことになり、卑弥呼は九州にも大和・畿内にも邪馬台国にも住んでいなかったことになるゆえ、邪馬台国説は「雲をつかむような真っ赤なウソ」であったことになる。また、国名の「邪馬壱」は前述したように【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論をあらわす名詞】であると証明される。このように、「卑弥呼が住んだ地所は邪馬壱国であった」と考えると、『魏志倭人伝』の全記事は正しいと証明されて【科学】が成立して論理が完結(かんけつ)する。だから、邪馬台国九州説と邪馬台国説の実体はまぎれもなく100パーセントの空理空論・真っ赤なウソであったことになる。

 【B】わがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・10」では「邪馬台国説は完全に空理空論である」と【科学】を用いて立証した。
 学者たちは女王国の所在地について【「天の北極」がある方角を〔北〕と定める現在の日本地図】を用いて考える。ゆえに、この論法だと「天の北極の高度を緯度に換算する方法」で、倭の使節と船乗りたちは魏と国交を結ぶために玄界灘を往来したことになる。しかし、この「天の北極の高度を緯度に換算する方法」だと、前回のブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・10」で科学的視点にもとづいて証明したように――倭の使節と船乗りは海上の位置と方角を精確に測定できなかったゆえ、倭の使節と船乗りたちは玄界灘はじめその先の大海を渡れず朝鮮半島に到着することが出来ずに全員死んでいたことになる。
 したがって、倭の使節は玄界灘を渡ることもまた往来することができなかったことが事実となると――『魏志倭人伝』には「倭人」という2字も「卑弥呼」という3字も「邪馬台国」という4字も、ましてや『魏志倭人伝』を構成する約2000字もすべて忽然(こつぜん)と消滅して、『魏志倭人伝』には1字も書かれていなかった真っ白な白紙であったことになる。
 だから、邪馬台国説の実体は「【科学】に反する、完全なる空理空論、空想、デタラメであった」ことが簡単明瞭に証明される。
 科学的視点に立って考えると――倭の使節は「原始のときから人類が精確に1度の60分の1の1分の精度で緯度が測量できた【天頂にある緯度線と子午線をキャッチする方法】」をもって玄界灘を渡って魏と国交を結んで、無事に帰還していたことが明白となる。
 下に、倭の使節が往来した海の名「玄界灘」のうちの先頭字[]の字源解説図を配した。
 下図の左側の上部は、[(とう)]の字形解説図である。[]の字形は【天頂にある緯度線と子午線の図案】である。[]の下の[(よう)]の字源は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の医学研究】をあらわしている。言いかえると、[]の字形は「骨盤入口から膣口(ちつこう)までの産道を通過する胎児の図案」である。
 結局、[][]を加える[]の字は「大海を往来するとき、胎児()のごとく無欲になって[]の字源【天頂にある緯度線と子午線】をキャッチすれば、命(いのち)を手に入れることができるという、大海を往来するときの心得」をあらわした。
 だから、魏と国交を結ぶために倭の使節が往来した陸地から遠く離れた波の荒い大海が「玄界灘」と名づけられた秘密は――[]の字源「産道を通過する胎児のごとく無欲」になって、[]の字源「天頂にある緯度線と子午線をキャッチ」すれば死なずに往来できたゆえ――倭の使節が往来した九州の沖の大海は「玄界灘」と名づけられたのである。
K102_20220628141101

 【C】このブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・11」で解説したように、『魏志倭人伝』にある「倭国には上古漢字があったと伝える二つの記事」は真実であった。
 『魏志倭人伝』の2ヵ所の記事が「倭には上古漢字が存在した」と伝える、この上古漢字は「夏音文字」であった。夏音文字は『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数残っている。わが国が習得した夏音文字は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を保存していた。
 上記したように、今から約4000年前、中国の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、わが国には中国から夏音文字が伝来して習得されたのである。
 だから、わが国の考古学の見解に従って「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説は【科学】に反する空想であったのである。
 漢字は【字源・字形・字義・字音】の4つの要素で構成される。前述したとおり、【倉頡が死刑と定めた3つの掟】のために、【夏音文字の字源・字形・字義は夏の銀河各部の形状】であった。そして、倉頡は「口から発する言(ことば)となる字音はあらわすことができる」と定めたゆえ、『魏志倭人伝』には卑弥呼(ひみこ)はじめとする人名・小国名・官職名に用いられて残った。しかし、『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名は()夏音文字の字音(をあらわす楷書)()後漢時代後半から出現した楷書の字音が混じりあう状況となっているゆえ、人名・小国名・官職名をすべて楷書の字音で読めば「『魏志倭人伝』には夏音文字が記載されて残っていない」と主張することができる。しかし、『古事記』の上巻には〔音〕という注がつき、楷書を字音の音符に用いて多数夏音文字が記載されている。だから、『古事記』上巻にもとづいて『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名にも夏音文字の字音は用いられて幾つか残っていると主張することができる。

 以上のごとく、【邪馬台国説が100パーセント空理空論・虚妄(きょもう/デタラメ)であること】は、上記した【A】【B】【C】の3点によっていとも簡単に証明される。
 【A】のごとく「女王国名は『魏志倭人伝』のとおり邪馬壱国であった」と考えると、「邪馬壱」という3字は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器、の研究を作成目的として倉頡が発明した漢字作成理論をあらわす名詞」であったことが解明できる。また、【B】科学的視点に立って【魏と国交を結んだ倭の使節はどのように緯度を精確に測定して玄界灘を往来したのか】と考えると、【学者たち全員が主張する・現在の日本列島地図にもとづくの考え方では、倭の使節は玄界灘を往来できなかったこと】になる。また、【C】『魏志倭人伝』にある「2世紀末から3世紀半ばまでの卑弥呼時代に、わが国にはすでに漢字が伝来していた」と説明する二つの記事によって、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説は空理空論であったことになる。
 以上、邪馬台国説論者たちの「『魏志倭人伝』の全記事は正しくない」という主張に反して、『魏志倭人伝』は【誤読】を1ヵ所も必要としない全記事が正しい歴史史料であったことになる。
 この結果、『魏志倭人伝』に記述された真実は日本国の根本的な成り立ちや現在生きているわれわれ日本人の思想や行動と密接な関係をもつということが明らかになる。
 だから、学界やマスメディアの「邪馬台国説はもっとも正しい意見である」とする無責任な意見の言うとおりになってデタラメ・真っ赤なウソの邪馬台国説を破棄せずに放置していることは日本国が壊され、日本人の生活における最も大事なものを失って日本人が壊される――ということに、日本人は気づかねばならないことになる。

| | コメント (0)

2022年6月24日 (金)

邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・10

#女王国・邪馬壱国は出雲地方であった

◆邪馬台国説は完全に空想である
 すべての真実を何もかもぶっこわすウソだ
 邪馬台国説にはダマされるな
 邪馬台国説は徹底的に無視せよ
 日本国民はすっかりダマされている
 邪馬台国説にバカにされるな
 日本国民をコケにされている
 邪馬台国説は学者たちのタワゴトなのだ
 日本が日本である真実をぶっこわすフェイクだ
 日本人が日本人である真実をぶっこわすウソだ
 その証拠に 「邪馬台国説は空想だ」と完全証明できる遺跡が現存する

◆このブログは前回のブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・9」に続いて、邪馬台国説が【空想の産物】である事実を証明できる、学者たちが徹底的に無視して偽(いつわ)る問題点を暴くことにした。
 今回は、前回に増して【邪馬台国説が完全な空想であったという事実】が簡単明瞭となる。
 邪馬台国説は【誤読の、空想】であることは誰にも否定できない明白なる事実である。
 というのも、【邪馬台国説が簡単明瞭に、完全なる空想であると断定できる遺跡】が現存するからである!

 倭女王の卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は、西暦180年頃から250年頃のわが国の様子を説明する確かな歴史史料であった。
 『魏志倭人伝』は、晋(しん)の歴史編纂官であった陳寿(ちんじゅ)280年~289年に著作した『三国志』のうちの「魏書東夷伝(ぎしょとういでん)」の末部にある〔倭人伝〕の通称である。通称『魏志倭人伝』は約2000字で構成される。
 『魏志倭人伝』は陳寿が著作した原本(3世紀後半)は現在、残っていない。現存する『魏志倭人伝』は12世紀の南宋紹煕刊本(なんそうしょうきかんぽん)である。
 わが国の学界と学者たちは「倭女王・卑弥呼が居住した倭国の首都が所在した地所は邪馬台国(やまたいこく)であった」と断定する。しかし、南宋紹煕刊本『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した地所を「邪馬壱国(やまいこく)」であったと記す。
 だから、前回のグログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・9」で詳細に解説して証明したように、わが国の学界はじめ学者たちが「邪馬壱国」と記しているにもかかわらず「卑弥呼が居住した地は邪馬台国であった」とウソをつく邪馬台国説は、日本国民をダマしてコケにし、愚弄(ぐろう)する完全なる【誤読の、空想の産物】であったことになる。
 ためしに邪馬台国説の考え方を全部否定して、真っ先に「邪馬壱国」は「邪馬壱国」と読むことから始めて、『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えずに立論してみると――さまざまな疑問が生ずるが、この疑問のすべてはいくつかの学問分野の成果によって【科学】が成立して解決することができる。だから、『魏志倭人伝』の全記事は正しいことになり、「卑弥呼は邪馬壱国に住んでいた」ことになる。また、『魏志倭人伝』の全記事は正しいと証明できる証拠・理由はいくつかの遺跡・遺物のほか、さまざまな日本文化や風俗や慣習や地名などで多数残っている。前人たちは『魏志倭人伝』が歴史史料としての重大性に気づいて、「『魏志倭人伝』の全記事は正しい」と後世に警告(けいこく)したのである。
 特に注目すべきは、前回のブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・9」で詳細に解説して証明したように――1725年に死去した新井白石が立論した【空想の産物】の邪馬台国大和説と邪馬台国九州説(筑後山門郡説)を知って「日本国が滅びる! わが国の学問の始まりは消滅する! わが国の文化が根底から崩壊する! わが国におけるもっとも大事な上古史が失われる! わが国において上古に存在した音文字(上古漢字)が消滅する!」と激しいショックを受けた皇室は、白石の死から13年後の1738年の第115代桜町(さくらまち)天皇の即位で本格的に大嘗祭(だいじょうさい)を復興することにした。
 だから、2019(令和元年)1114日の午後6時から開始された、全国のテレビ画面に映し出されて日本国民が目撃した今上陛下の大嘗祭における様子は「邪馬台国説は空想なり」と日本国民に警告する学問儀式であったのである。

◆『魏志倭人伝』は「邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり」、つまり「倭女王・卑弥呼は邪馬壱国に居住した」と記述している。したがって、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は邪馬台国に居住していなかった」と証言している。だから、「白石以来300年間も受け継がれている邪馬台国説は【科学】がまったく成立しない空想・デタラメとなる」、このいたって簡単な絶対的な仕組み・原理を、邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説をとなえる学者たちはじめわが国の学界やマスメディアはまったく理解できない。
 その証拠に、学界とマスメディアは「『魏志倭人伝』の記事を全面的に信用してはならない。信用できる記事はどのように考え方をしたならば信用できるのかと考えなければならない」と主張する。このため、【誤読】が【誤読】を生み、【空想】はさらに深く【空想】へとおちいり、【科学】がいっこうに成立せず論争は果てしなく続いて決着しない。
 「邪馬壱国」を「邪馬壱国」と読んで、『魏志倭人伝』には1ヵ所も【誤読】を加えないという立論方法を確立すれば――『魏志倭人伝』の全記事は【科学】が成立する真実となる。だから、1ヵ所も【誤読】が加えない邪馬壱国説のみが唯一真実の意見となる。この邪馬壱国説に反して、仰山(ぎょうさん)な【誤読】を加えてもいっこうに【科学】が成立しない邪馬台国説はまぎれもなく【空想】であったのである。
 邪馬台国説は【仰山な誤読を加えた空想】であったゆえ、新井白石以来300年たっても論争を決着することができないのである。

◆このブログでは、邪馬台国説は【空想】であった事実が前回のブログよりさらに簡単明瞭に決定的にわかる秘密について解説する。
 このブログでは――邪馬台国説の考え方だと、約2000字で構成される『魏志倭人伝』はすべて粉砕消滅して1字も書かれていなかったことになる。2000字の『魏志倭人伝』が一気に1字も書かれていない事態となる邪馬台国説は明らかにウソ・フェイク・空想・デタラメということになる問題点――をテーマとする。

 邪馬台国説論者たち全員と学界は現在の日本列島地図を立論基盤にして「九州は本州の西端に所在し、東海地方と北陸地方は九州の東方に在る」と考える。
 しかし、『魏志倭人伝』は「九州は本州における〔北〕に所在し、東海地方と北陸地方は九州の〔南〕に在る。つまり、卑弥呼王朝は本州地理について時計回りに90度方位は転回して〔東〕は〔南〕となると定める転回本州列島地理を制定していた」と記述する。
 『魏志倭人伝』は「卑弥呼王朝は人類が原始のときから生命をまもって生活した方法で九州以下の本州列島地理における方位規定を定めていた」と伝えていた。だから、九州以下の本州日本列島地理の方位規定は現在の日本地図と異なって、現在の本州において〔西〕にある九州は〔北〕、本州の〔東〕にある東海地方(愛知県・静岡県)は〔南〕に在ると、卑弥呼王朝は本州列島地理の方位規定を定理していたのである。
 だから、現在の日本列島地図を立論基盤とする邪馬台国説の正体は『魏志倭人伝』にある方位記事に多数の【誤読】を加えて立論する【空想の産物】であったのである。

 だいいち、邪馬台国説のごとく現在の日本地図にもとづいて「〔天の北極がある方角〕が〔北〕」と断定すると、【原始のときから人は緯度を精確に測定できなかったこと】になるため、大海で囲まれる日本列島はヒトが一人も居住していない無人島であったことになる。日本列島には人が一人も住んでいなかったことになると、「邪馬台国」とよばれる地所も存在しないことになり、「卑弥呼」とよばれた倭女王も住んでいなかったことになり、さらにもちろん約2000字で構成される『魏志倭人伝』には1字も存在しない白紙であったという結論になるゆえ、邪馬台国説は「完全なる空想!」とただちに断定できる。
 だから人類は【緯度を精確に測定できる眼力と本能】をもって大海に囲まれる日本列島に渡来して居住した。ゆえに、【原始のときから、人が緯度を精確にできるは方法(眼力と本能)】と【胎児の頭が骨盤入口を通りぬけて、頭が出産するまでの医学の様子】を合体する【学術】にもとづいて――『魏志倭人伝』は倭人国を構成した対馬国(つしまこく)から黒歯国(こくしこく)までの33ヵの国名に用いられる文字(ただし、1国は国名が記述されていない)をもって「本州の〔東〕は〔南〕に伸びている」と説明していたことになる。

◆『魏志倭人伝』の後半部には――238(魏の景初二年)247(魏の正始八年)まで、倭人国(わが国)の使節は帯方郡(たいほうぐん/魏の出張機関政庁が所在した朝鮮半島のソウル市近辺の郡)・魏都・洛陽(らくよう)に到着して魏と国交を結んだ様子――が詳細に記述されている。
 『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方()の東南、大海の中に在り」である。
 倭人国から帯方郡の東南にある大海は「玄界灘(げんかいなだ)」である。
 倭人国の使節は九州の港から出帆(しゅっぱん)して玄界灘を渡って帯方郡に至り、さらに魏都に到着し、任務が終わって帰路についたときにも玄界灘を渡って倭国に帰還した。
 したがって、魏は【238年ころから247年ころまでに玄界灘を往来した倭国の使節の説明や、倭国の使節がもたらした倭女王・卑弥呼が書いた国書(文書)に書かれた記事によって2世紀末~3世紀半ばの倭国の様子】を知ったことになる。この倭国に関する資料は魏王朝から晋王朝へと受け継がれて、晋王朝で秘蔵されていた倭国の資料を閲覧(えつらん)した歴史編纂官の陳寿が『三国志』魏書東夷伝末部の〔倭人伝〕に書き写したゆえに、『魏志倭人伝』が現存することになったのである。
 だから、もしもわが国(倭国)の使節が玄界灘を往来することができなかったならば魏は倭国の様子をまったく知ることができなかったことになるゆえ――約2000字で構成される『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていない白紙であったことになる。
 したがって、1字も書かれていない白紙の『魏志倭人伝』には、前述したように「倭人」という2字も「卑弥呼」という3字も「邪馬台国」という4字も存在せず、また『魏志倭人伝』の約2000字もパッと真っ白な煙となって1字も残らずにすべて消滅してこの世にまったく存在しなかったことになる。
 これゆえ、「い」のいちばん・真っ先に〔倭国の使節と船乗りたちは【玄界灘を往来できた方法】〕を有していたと考えるべきことになる。いいかえると、〔倭国の使節・船乗りたちが【玄界灘を往来できた科学の秘密】を解明して始めて、「『魏志倭人伝』はこの世に実際に存在する歴史書であった」と証明することができる。
 ところが、前述したように、邪馬台国説学者たちのごとく【現在の日本列島地図と同じく、〔天の北極がある方角〕を〔北〕と定める方法】で考えると、〔倭国の使節・船乗りたちは【玄界灘を往来できなかったこと】〕になる。
 だから、『魏志倭人伝』に「本州の〔西〕にある九州は〔北〕に在った。本州の〔東〕にある東海地方(愛知県・静岡県)は九州の〔南〕にあった」と伝える〔転回本州列島地理〕は、【原始のときから人類が大海に囲まれる日本列島に住み着いた方法】をもって考えられていたことになる。この【科学的事実】は『魏志倭人伝』研究において真っ先・最初に必ず解明しなければならい事項となる。

◆倭国の使節と船乗りたちは〔原始からの人類の慣習と伝統〕にもとづいて、〔【天頂にある緯度線と子午線をキャッチ】して精確に緯度を測定して(1度の60分の1の1分以内の精度で緯度を測定できる方法で緯度を測定して)〕、玄界灘を往来していた。
 上記した【天頂緯度線のキャッチ】にもとづいて、卑弥呼王朝は現在の日本地図において〔西〕に在る九州は〔北〕に位置し、現在の日本地図において〔東〕に在る東海地方や北陸地方(愛知県・静岡県や石川県・富山県)は〔南〕に位置するという、転回地理・方位規定を考えていたのである。
 だから、倭人国の使節は断じて〔天の北極の高度を緯度に換算する方法〕で玄界灘を往来しなかったことになる。

◆上記したように、学者たちは全員「卑弥呼王朝は、現在の日本地図と同じく北極星や天の北極がある方向を〔北〕と定める本州地理を考えていた」と断定する。
 下図は〔天の北極と北極星の位置図〕である。
 下図における〔大円〕は〔各時代の、天の北極の位置〕をあらわす。下図における〔星座の星〕は〔各時代の、北極星〕となる。
 天の北極は下図中央の〔黄道の北極〕を中心にして25,800年で大円を描いて一周する。
 北半球における地平線(水平線)から天の北極までの高度が3536分の地所の緯度は、北緯3536分である。ゆえに、その地の天の北極の高度が、その地の緯度を示す。
K51_20220624105701

 上図が示すように、いかなる時代においても〔天の北極〕と重なる〔北極星〕は存在しない。ゆえに、〔無・暗闇である、天の北極の高度〕は〔天の北極を中心として円周する北極星〕で測量しなければならない。
 〔天の北極に最も近づく北極星〕は紀元前2790年頃の〔りゅう座α星〕と、現在から約80年後の21世紀末の〔こぐま座α星〕である。この〔二つの北極星〕は〔天の北極から約45分離れている〕ゆえ、〔天の北極を中心にして直径が約90分の距離で円を描く〕。
 ところが、人間の脳にはもちろん、また日々鍛錬しても人間の目には【90分の直径の円を描く〔北極星〕で、その円の中心となる〔天の北極の高度〕を1度の60分の11分以内の精度で精確に測量できる能力】がそなわっていなかった。
 だから、すべての時代において、〔天の北極〕では精確に緯度が測定できなかった。
 上図の中央の右上に「10°」と記したように、卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばの北極星(こぐま座β星)は天の北極から「約10(600)」離れていた。ゆえに、卑弥呼時代の北極星は、天の北極を中心にして直径約20度・約1200分の円を描いていた。
 上記したように【〔90分の円を描く北極星〕を目星にして〔天の北極の高度〕を1分の誤差内で測定できなかった】ゆえ、卑弥呼時代における【1200分の円周の直径の中心・緯度となる〔天の高度〕を、精確に1分の誤差内で測量できる本能と眼力】は、人類にはそなわっていなかった。だから、卑弥呼時代、倭の使節が天の北極の高度で緯度を測量する方法で九州沖の玄界灘に入ったならば、全員が命を落として帰還することができなかった。
 これゆえ、「天の北極と北極星」は【命】を奪う死神であったゆえ、日本列島全地図の【北】を表示する基準(目星)にはならなかった。
 だから、学者たち全員の視座(しざ)は【科学】にまったく反している。

◆卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ばまで)より以前――そのすべての時代において、精確に緯度を測定する手段は【天頂緯度線をキャッチする方法】であった。
 ゆえに、【天頂緯度線をキャッチすると、精確に緯度が測定できる事実】にもとづき、現在の日本列島地図における経緯度原点は旧東京天文台の子午儀の中心の緯度(北緯3539175148秒/東京都港区麻布板倉3-18)である。
 (注 旧東京天文台の子午儀の経度は東経13944405020秒である。
 だから、倭国の使節は【天頂緯度線をキャッチ】して玄界灘を往来していたことになる。この【天頂緯度線のキャッチする方法】は、原始のときから人類が精確に緯度を測量していた習慣と伝統によるものであった。
 つまり、『魏志倭人伝』は「原始以来、人類が【天頂緯度線をキャッチ】して精確に緯度を測定していた方法】に則(のっと)って、卑弥呼王朝は九州以下の本州地理を時計回りに90度転回すると定めていた」と伝えていたことになる。

 下図に〔漢字[](とう)の字源・字形解説図〕を配した。
 下図が示すように[]は「天頂緯度線と子午線」から構成される。
 これゆえ注目すべきは、現在の日本列島地図における経緯度原点となる旧東京天文台の子午儀の中心は下図の[]の字源・字形「天頂緯度線と子午線」を表示していることになる。したがって、「旧東京天文台の子午儀の中心」は[]の字源・字形・字義をあらわしている。
 だから、「旧東京天文台の子午儀の中心」は「倭国の使節と船乗りたちは【天頂にある緯度線と子午線をキャッチ】して玄界灘を往来していた」とあらわしている。
000031_20220624105801
◆下の図は〔天頂緯度線のキャッチの解説図〕である。
 下図の右上に、漢字[(とう)]を配した。
0000157_20220624105901  
 「天頂緯度線」イコール「観測者が居る観測地点の緯度」である。だから、【天頂緯度線のキャッチ(測定)】は「観測地点の緯度を精確に測定できた」と意味した。
 原始のときから、ヒトの脳には、【天頂緯度線をキャッチ】して精確に緯度測定できる本能がそなわっていた。また、ヒトは【天頂緯度線をキャッチする訓練】を励んできたえれば〔1度の60分の1の【1分】の緯度差を測定できる神秘的な眼力〕を有することもできた。
 だから、この神秘的な呪力(じゅりょく)によって、一団を組んで日々食料を求めて移動した原始の生活にあっても、「道に迷った! 位置(緯度)も方角(経度)もまったくわからない! 死ぬ!」と一気にパニック状態におちいることもなかった。人類は星座よりもはるかにまさって壮麗な、さまざまな印象的な形を有する天頂にめぐってくる銀河部(天頂点と重なる銀河部)を地理代わりにして、【天頂緯度線(つまり、精確に緯度)をキャッチ】してたくましく巧(たく)みに生存できたのである。
 原始人たちはじめ、わが国の縄文人や弥生人も、また卑弥呼時代(後期弥生時代後半)の倭国の使節も〔頭脳にそなわる本能と目にそなわる呪力(神秘的な眼力)をもって【天頂緯度線をキャッチすること】ができた(つまり、緯度を1度の60分の11分以内の精度で測量できた)〕ゆえ、陸地から遠く離れる大海を横断でき、遠く離れる地所へ旅しても家族が待つ家に帰還することができたのである。
 したがって、『魏志倭人伝』に登場する倭人国の使節は【天頂緯度線をキャッチ】して玄界灘を往来していたことになる。
 だから、『魏志倭人伝』には「現在の日本地図における本州の〔北〕を、卑弥呼王朝は90度転回して〔東〕になると定めた」と記述されることになった。この『魏志倭人伝』に記述された【本州地理における時計回りに90度転回する方位規定】は【原始のときから受け継がれた天頂緯度線をキャッチした習慣・伝統における方位観念】であったのである。
 というのも、ヒトは【天頂緯度線をキャッチ】して〈いのち・命〉を原始のときからまもってきたからである。

[]の下に、[(よう)]を加えると[(げん)]の字となる。
 下に、〔[(げん)]の字源解説図〕を配した。
K102_20220624110001
 [] の下につく[]の字源について、“字書の聖典”と尊敬された卑弥呼が歴史上に初めて登場する約60年前の121年に成立していたとされる『説文解字』は「小なり。子の初生(しょせい)の形に象(かたど)る」と解説する。
 だから、[]の字源・字形・字義は「産道を通りぬける出産児」であった。ゆえに、[]は「天頂緯度線を必ずキャッチするという欲を有すると天頂緯度線のキャッチに失敗して死ぬが、産道を通りぬける幺(小さな出産児)のごとく無欲になれば天頂緯度線はキャッチできる」と示す、〔天頂緯度線をキャッチする心得〕をあらわした。
 だから、中国で漢字が発明された太古以来卑弥呼時代までの学(学問)において「天頂緯度線のキャッチ」と「幺(出産児)の頭が骨盤入口を通りぬけて膣口(ちつこう)にて頭が誕生するまでの経過」は共に【命】をストレートにあらわしていると考えられていたことになる。というのも、幺(出産児)の頭が骨盤入口や骨盤出口を通りぬけてせまい産道(膣)を旋回(せんかい)しながら進み、膣口から誕生するまでの【出産児の【命】が成立する、神秘的な産道を通過する様子】は実際に目撃できたからである。
 (注 分娩室における妻の出産の様子を立ち会った夫は、上記した――幺(出産児)の頭が骨盤入口や骨盤出口を通りぬけてせまい産道(膣)を旋回(せんかい)しながら進み、膣口から誕生するまでの【出産児の【命】が成立する、神秘的な産道を通過する様子】は実際に目撃できる)。
 ゆえに、[亠]の字源は「倭人国の使節は〔天頂にある緯度線と子午線〕をキャッチして玄界灘を往来していた」と伝え、[幺]の字源「骨盤入口から膣口までの産道を通過する胎児の頭の様子」は「天頂緯度線のキャッチを成功させる心得」をあらわしていた。ゆえに、[亠]に[幺]が加わる[玄]の字は「九州から遠く離れる灘(波が荒い)となる大海」が「玄界灘」と名づけられた由来を伝えていたのである。

 前述したように、[亠]は「天頂緯度線と子午線」で構成される。[幺]の字源は「産道を通過する出産児」である。ゆえに、[亠]と[幺]で構成される[玄]の字は「[亠]、つまり天頂緯度線を瞬間的(約4秒~6秒)にキャッチできる、神秘的な能力」と「[幺]、つまりせまい産道を旋回しながら誕生する出産児の神秘的な【命】のいとなみ」をあらわした。
 人間の目には[亠]の字源【天頂緯度線を瞬間的(約4秒~6秒)にキャッチできる、神秘的な能力】がそなわっており、この〔眼力〕で人は【命】が確保できた。ゆえに、[亠]の字源「日々の生活にあって【命】を確保できた天頂緯度線をキャッチできる神秘的な眼力」と[幺]の字源となった「【命】が成立する、骨盤入口から膣口までのせまい産道を旋回しながら誕生する出産児の神秘的な様子」は同一視されて、両者ともに【命】を直接的にあらわすことになったのである。
 したがって、[玄]の字は「ヒトは原始のときから【[亠]・天頂にある緯度線と子午線】をキャッチして大海を往来し、遠くの地まで旅しても、【命】を失わずに家族が待つ家に帰還できた」とあらわすことになった。
 だから、『古事記』上巻に登場する「王・女王・英雄たちの名の後ろに付けられる尊称」は[命]の字が用いられたのである。 

◆『魏志倭人伝』に登場する倭の使節は「天の北極の高度で緯度を換算する方法」で玄界灘を往来しなかった。「玄界灘」の名の由来が明確に示すように――倭の使節は原始以来の慣習であった[]の字源・字形・字義となった【天頂にある緯度線と子午線】をキャッチして玄界灘を往来した。
 卑弥呼時代の倭の使節と船乗りは、〔原始のときからの【天頂にある緯度線と子午線】をキャッチする習慣・伝統〕にもとづいて、玄界灘や朝鮮半島や中国における各地点で天頂緯度線をキャッチ(1分以内の誤差で精確に測量)して朝鮮半島の魏の出張政庁がある帯方郡や魏都に到着し役目をはたすと、倭地に帰還していたのである。
 ゆえに、〔国交を結んだ倭国の使節の説明や卑弥呼が書いた倭の国書〕から魏王朝は倭国の様子を文書に記述することができた。そして、後に晋王朝に秘蔵されていた〔魏王朝が作った資料(文書)〕を言いかえると〔倭の使節の説明や卑弥呼が書いた国書の記事〕を閲覧した陳寿(ちんじゅ)はそのまま書き写して、『三国志』魏書東夷伝末尾の〔倭人伝〕に記載した。だから、『魏志倭人伝』(『三国志』魏書東夷伝の倭人伝)が現在まで残ったのである。

 以上のごとく、卑弥呼時代、〔天の北極や北極星〕を日本列島地図の方位を定める目星(基準)にしなかった。この原因・根拠・理由は、〔天の北極の高度を緯度に変換する方法〕では、倭の使節や船乗りたちは玄界灘で死滅し、帯方郡にも魏都に到着できず国交を結ぶことができないことになったからである。
 だから、卑弥呼王朝は【天の北極と北極星がある方角を〔北〕と定める、現在の日本列島地図と同じ本州列島地理】を制定しなかった。
 というのも、学者たちの現在の日本列島地図における方位にもとづいて考える論法では倭の使節は玄界灘で死滅して帯方郡や魏都に到着できなかったことになるからである。したがって、学者たちの意見だと、倭と魏は国交を結べなかったゆえ『魏志倭人伝』には〔文字が1字も書かれていなかったこと〕になる。だから、【「約2000字で構成される『魏志倭人伝』には文字も1字も書かれていなかった」ことになる現在の日本地図で立論基盤とする学者たちの意見】は、ただちに空想、空理空論であると断定すべきことになる。
 原始のときから人々は[](天頂にある緯度線と子午線)をキャッチして大海を渡って日本列島に居住したーーこの事実は日本人が知っておくべき真実である。しかし、この事実は、今日の日本人が知らざる真実である。

◆今回のブログは、ここまでの説明で終われば「邪馬台国説が空想である事実」がすっきりと簡単明瞭となる。
 しかし、〔なぜ卑弥呼王朝は、[]の字源「天頂緯度線と子午線」と[]の字源「骨盤入口から膣口までのせまい産道を、頭を回旋(かいせん)しながら誕生する胎児の様子」を一体化する学術を用いて、転回本州列島地理を成立させたのか〕、その具体的な説明がなされていない。
 それゆえ、これから【卑弥呼王朝が制定した転回本州列島地理が成立した原因】について解説する。
 これからおこなう〔転回本州列島地理の成立原因の解説〕によって、新たにいくつかの疑問点が生じるが、これら疑問点はすべていくつかの学問分野の成果によって【科学】が成立して解決できる仕組みになっている。また、いくつかの遺跡・遺物のほか、風俗や慣習や地名などによって疑問は解消できる。これらの解説と証明は長大となっていろいろな問題・事柄が錯綜(さくそう)してむしろ難解となるが、これを一気に解決できる『魏志倭人伝』と同時代に製作された「1千万坪の大鳥の形をした地図」が、静岡県浜松市に現存する。
 これから、早速、卑弥呼王朝が制定した〔転回本州列島地理が成立した原因〕について解説する。

◆日本列島の東端には、亜熱帯地区の伊豆諸島の神津島(こうづしま)が所在する。
 先史時代から、神津島からは良質な黒曜石(こくようせき)が産出した。黒曜石は火山活動によってできた「黒いガラス」とされ、じょうずに刃をつけると石槍(いしやり)と鏃(やじり)はもとより、皮はぎや肉切り用の石包丁(石器)として利用された。神津島の黒曜石はなんと約3万年前の後期旧石器時代から使用されていたことが明らかとなり、縄文時代、卑弥呼は生存した後期弥生時代においても本土に運ばれて利用されていた。神津島の黒曜石は関東地方、東海地方、近江(滋賀県)、北陸地方(石川県能登半島)まで分布した。神津島から伊豆諸島まで30km以上も海で隔(へで)てられ、神津島から北陸・石川県能登半島までは直線距離で約400kmも離れている。
 この神津島の黒曜石を求めて海を往来した交通の事情について、学界は世界史上でも最古の海洋航海と注目するものの、その実態は謎のベールにつつまれて不明とする。
 わが国の学者たちは全員〔どのようにして『魏志倭人伝』に登場する倭国の使節を往来できたのか〕、あるいは〔なぜ『魏志倭人伝』はなぜ「本州の〔東〕は〔南〕へ延びている」と説明するのか〕と疑問を抱かない。ゆえに、約3万年前の後期旧石器人たちが〔[](天頂の緯度線と子午線)をキャッチして大海を渡って神津島の黒曜石を入手して家族が待つ家に帰還した交通〕について知っていない。

 現代史学はまったく気づいていないが、『魏志倭人伝』は――原始のときから、人類は【天頂緯度線をキャッチできる能力】が大脳に〈いのち〉をまもる本能がそなわり、目を鍛錬すると〔天頂緯度線をキャッチできる呪力(神秘的な眼力)〕がそなわっていた。というのも、人類の本能行動と情動行動は大脳辺縁系(だいのうへんえんけい)に分担されており、うまく生きてゆく適応行動と創造行為は大脳の新皮質系に分担されているからであった。このため、原始のときから人類の大脳と目には【天頂緯度線をキャッチできる能力】がそなわっていたゆえ、遠い地所に旅した人も大海を渡った人も家族が待つ家に帰還することができた。この【原始から受け継がれた天頂緯度線のキャッチの習慣】にもとづいて、卑弥呼王朝は本州における〔西〕の九州は〔北〕に在ると考え、本州の〔東〕は〔南〕となると考える、時計回りに方位が90度転回する本州列島地理を制定した――と説明していた貴重な文献史料であったのである。

◆九州沖の玄界灘に浮かぶ沖ノ島と伊豆諸島の神津島は、下図に示すように共に北緯3415分で同緯度(天頂緯度線が同一)である。
 沖ノ島は日本列島の西の端に所在し、神津島は日本列島の東の端に所在する。
 神津島は約3万年前から良質の黒曜石が産出することで有名であったゆえ、日本列島の西端にある沖ノ島は日本列島の東端にある神津島と同緯度であることは、卑弥呼が生存した以前の昔から多くの人々に知られていたのである。
S394_20220624110201  
 下図の左側に示す中国の海岸線地域の北部は中国の海岸線地域の南部より冷たい気候区、中国の海岸線地域の南部の暖かい気候区であるゆえ〔北冷南暖〕ということになる。
 いっぽう、日本列島の西端に在る沖ノ島は冬に雪が降る冷たい気候区であるから〔西冷〕となり、日本列島の東端にある神津島は冬でも雪が降らない亜熱帯気候区の暖かい気候区であるゆえ〔東暖〕となる。
 日本列島の沖ノ島の〔西冷〕と中国の北部海岸線地域の〔北冷〕は共に〔冷たい気候区〕、日本列島の神津島の〔東暖〕と中国の南部海岸線地域の〔南暖〕は共に〔暖かい気候区〕である。
 ゆえに、下図に示すように――日本列島の西端にある〔冷たい気候区の沖ノ島〕は中国の海岸線地域における〔冷たい気候区の北部〕に適合し、日本列島の東端にある〔暖かい気候区の神津島〕は中国の海岸線地域における〔暖かい気候区の南部〕に適合する。
 だから、下図に示すように、卑弥呼王朝は「倭地における本州の西→中国の北にある」と「時計回りに方位を90度転回」し、同様に「倭地における本州の東→中国の南にある」と考えて「倭地における方位は時計回りに90度転回しているにちがいない」と定理したのである。 
S15_20220624110301
 だから、下図に示すように、卑弥呼王朝は【原始から受け継がれた[]のキャッチ】を思考基盤にして「沖ノ島と同じく西にある九州は北に所在し、神津島と同じく東にある東海地区(愛知県・静岡県)は九州の南に所在する」と転回本州列島地理を制定したのである。
 卑弥呼王朝が制定した転回本州列島地理にもとづくと、『魏志倭人伝』が「邪馬壱国に至る、女王の都とする所なり」と記す「邪馬壱国」は、前回のブログで解説したとおりに「山陰の出雲地方」であったことがいとも簡単にわかる。
 というのも、『魏志倭人伝』は「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り、皆倭種なり」と記述しているからである。転回本州地理においては、現在の日本地図の〔北〕にある日本海は〔東〕となる。『魏志倭人伝』の「皆倭種なり」という説明は「4つの大きな島と約180の小島で構成される群島」に合致するゆえ、日本海上には「隠岐群島」のみが「邪馬壱国より東の日本海に浮かぶ皆倭種なりの小国」となる。だから、いとも簡単に「卑弥呼が居住していた邪馬壱国は山陰・出雲地方であった」と確信することができる。
S14_20220624110401
◆上図の〔卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理〕のごとく、卑弥呼王朝は〔原始のときからの伝統である()[]の字源(天頂にある緯度線と子午線のキャッチ)の慣習と、()[]の字源「せまい産道を、頭を回旋しながら通過する出産児の様子を注目した医学」が合体する学術に則(のっと)って【沖ノ島と神津島の〔西冷東暖〕と中国の海岸線地域の〔北冷南暖〕の合致】に注目して、上図の「転回本州列島地理」を立論していたことになる。

 静岡県西部(旧国の遠江)の浜松市北区の細江町(ほそえちょう)の行政区域を表示する地図の形は、下図に示すがごとく〔1千万坪の大鳥の形〕をしている。この〔1千万坪の大鳥の地図の形〕に、わたくしは別名「卑弥呼の地上絵」、あるいは「建比良鳥(たけひらどり)の地上絵」という別名をつけた。
202012191
 上図の「卑弥呼の地上絵」つまり「1千万坪の大鳥の地図の形」は、3世紀後半(260頃~290年頃)に約30年の年月を費やして、遠江の豪族・建比良鳥命(たけひらどりのみこと)一族が「卑弥呼が立論した転回本州地理と、伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を子孫代々失われずに永久保存するために図化した遺跡である。言いかえると、現在まで残った「細江町の1千万坪の大鳥の形をした地図の形」は()『魏志倭人伝』に記述された歴史と、()『古事記』上巻にある〔伊耶那岐命と伊耶那美命説話〕に記述された【日本国(小国・日本)が起源した歴史】を永久保存するために製作された遺跡である。
 山尾幸久(やまおゆきひさ)著『魏志倭人伝』(講談社発行)は『三国志』は280年~289年に成立したことになる。ゆえに、『三国志』魏書東夷伝倭人伝、つまり通称『魏志倭人伝』は280年~289年に著作されたことになる。
 上記したように浜松市北区細江町の「1千万坪の大鳥の地上絵」は260年頃~290年頃まで約30年間を費やして完成させた地図遺跡であるからして、280年~289年に著作された『魏志倭人伝』の同時代の3世紀後半に作成されたことになる。
 したがって、「細江町の1千万坪の大鳥の地上絵」によって、卑弥呼王朝には遠江の豪族・建比良鳥命のように正確な地図を作成する職(官職)につく人物たちが各地方に存在して大勢(おおぜい)参加していたにちがいない。ゆえに、正確な地図を作成する職につく人々による調査・測量によって、上に示した「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理における倭国の33の小国の地図の形」が明らかになったのである。
 『魏志倭人伝』は「現在の静岡県西部・旧国の遠江は、倭国の一員の不呼国(ふここく)であった」と記す。当時、「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理」を設計して伊耶那美命・壱与(いよ)が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を表示する地上絵を製作することを、3世紀後半に天下を統治していた大和王朝は、即刻に死刑すると厳重に禁止していた。しかし、熱血漢・遠江の建比良鳥命は【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えることを倫命(りんめい/人間としておこなわなければならない使命)として、大和の崇神(すじん)天皇王朝に歯向かって残した。このため、従来「全記事が正しいことは絶対にありえない」という定説となっていた『魏志倭人伝』の全記事は実は正しかったが証明されることになる。また、「『古事記』上巻の日本神話は虚構(作り物)である」という定説も【誤読の、空想の産物】であったことになり、『古事記』上巻・日本神話は歴史を伝えていた事実が明白となる。

 『魏志倭人伝』の全記事は正しく「卑弥呼王朝は時計回りに90度方位が転回する本州列島地理を制定していた」と伝えていたのである。これゆえ、『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)には――天武天皇が672年に上古の歴史書を編纂する詔(みことのり)を指令するときに「邦家(ほうけ)の経緯(けいい)、王化(おおか)の鴻基(こうき)」と述べた――と記す箇所がある。
 「邦家の経緯」は「国家組織の根本」と意味するとされる。上に示した「卑弥呼王朝が制定した転回本州列島地理の解説図」において、沖ノ島と神津島の緯度線(北緯3415)は「経度線」となる。ゆえに、卑弥呼王朝が制定した転回本州列島地理では「経度」は「緯度」に変化するゆえ、天武天皇は「国家組織の根本」を「邦家の経緯」と表現したのである。
 天武天皇の「王化の鴻基」という言は「天皇政治の基軸」と訳される。上に示した〔中国の「北冷南暖」と倭の「西冷東暖」の解説図〕における、中国の〔山東半島の海岸線の地図の形〕を〔鳥の頭の形〕に相似すると見立てると、〔山東半島の付け根から北と南に分かれる海岸線の地図の形〕は〔鳥の両翼の形〕に観える。ゆえに、天武天皇は「転回本州列島地理の基軸」となった「中国海岸線地図の形」を「王化の鴻基」と表現したのである。
 下図が示すように、〔山東半島の海岸線の地図の形〕を〔鳥の頭の形〕に相似すると見立てると、〔山東半島の付け根から北と南に分かれる海岸線の形〕は〔鳥の両翼の形〕となる。
000030
 天武天皇が「邦家の経緯、王化の鴻基」と表現した「卑弥呼王朝が制定した転回本州列島地理の秘密」を、遠江の建比良鳥命は「1千万坪の地図の形」を設計した。これゆえ、遠江の建比良鳥命が製作した「卑弥呼の地上絵(細江町の1千万坪の大鳥の地上絵)」は「王化の鴻基」つまり「1千万坪の大鳥()の形」に設計され、また「邦家の経緯」をあらわすため「大鳥の地上絵における緯度線が経度線になるように90度転回すると、中国の海岸線地図の形があらわれる仕掛け」が設けられている。
 したがって、「卑弥呼の地上絵」によって、上に示した〔卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理における33の小国の範囲(地図)の形〕は事実であったと証明される。
 要するに、『魏志倭人伝』と同時代に製作された「卑弥呼の地上絵」は「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理における33の小国名の地図の形の秘密」を簡略的にしかも濃密にコンパクト化した遺跡であった。これゆえ、現存する「細江町の、卑弥呼の地上絵(1千万坪の大鳥の地上絵)」によって、新井白石以後から現在までの学者たちによって排除されて不明となった『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記述された上古の学問と歴史の秘密を復興することができる。

| | コメント (0)

2022年6月19日 (日)

邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・9

#女王国・邪馬壱国は出雲地方であった

◆邪馬台国説は絶対に信じるな!
 邪馬台国説はすべて空想の産物である!
 邪馬台国説を正しいと思いこむ――わが国の学界の見識は根底から間違っている!
 邪馬台国説が完全なる空想の産物である事実、根拠・理由をこれより解説する

◆「倭女王・卑弥呼(ひみこ)は2世紀末(180年ころ)3世紀半ば(240年ころ)に生存した」と記述する歴史書は『魏志倭人伝(ぎしわじんんでん)』である。
 『魏志倭人伝』は、晋(しん)の歴史編纂官であった陳寿(ちんじゅ)280年~289年に著作した『三国志』のうちの「魏書東夷伝(ぎしょとういでん)」の末部にある〔倭人伝〕の通称である。
 『魏志倭人伝』は陳寿が著作した原本(3世紀後半)は現在、残っていない。現存する『魏志倭人伝』は12世紀の南宋紹煕刊本(なんそうしょうきかんぽん)である。
 わが国の学界と学者たちは「倭女王・卑弥呼が居住した倭国の首都が所在した地所は邪馬台国であった」と断定する。
 しかし、南宋紹煕刊本『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した地所を「邪馬壱国(やまいこく)」であったと記す。
 だから、わが国の学界はじめ学者たちが「卑弥呼が居住した地は邪馬台国であった」と断定する意見は【空想の産物】であった!
 陳寿が著作した『三国志』は「魏書」・「呉書」・「蜀書」(65)から成る。
 201510月に死去した古代史家・古田武彦氏(19262015)1971(昭和46)に『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞発行)を著作した。古田氏は著書『「邪馬台国」はなかった』において――南宋紹煕刊本『三国志』全体にある【壹】()86字、【臺】()56字を一字ずつテイネイに調べ、【壹()】の字を【臺()】と誤記する事例が一ヵ所も存在しないことを証明した。
 したがって、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は邪馬壱国に居住していた」と記していた。だから、「邪馬台国」は【空想の産物】であったことになる。

◆『魏志倭人伝』は「卑弥呼は邪馬台国に居住していた」と記していない。にもかかわらず、学界はじめ学者たちは「卑弥呼は邪馬台国に居住していた」と断定するゆえ、邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説の実体は、当然、【誤読の、空想の産物】であったことになる。
 しかし、邪馬台国説を主張する学者たちはじめわが国の学界は、邪馬台国九州説と邪馬台国説畿内説が【空想の産物】となる道理をまったく理解することができない。
 『魏志倭人伝』は「邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり」つまり「倭女王・卑弥呼は邪馬壱国に居住した」と記述している。したがって、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は邪馬台国に居住していなかった」と証言している。だから、邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は【空想】となる――このようないたって簡単明白な仕組み・道理を、邪馬台国説学者たちはじめわが国の学界は思考停止して理解することができない。

◆今から約300年前に生存した新井白石(あらいはくせき/16571725)1725(享保10)69歳で没した。
 晩年の白石は1716(正徳6)60歳の時に『古史通或問(こしつうわくもん)』を著作して〔「邪馬台国は大和(現在の奈良県)であった」という邪馬台国大和説〕を立論した。さらにその後年、白石は著書『外国之事調書(がいこくのことしらべしょ)』などで〔「邪馬台国は筑後山門(やまと)郡であった」という邪馬台国九州説〕を立論した。
 学者たちは、今から約300年前に立論した新井白石の邪馬台国説が【誤読による、空想の産物】である実体にまったく気づかない。というのも、約2000字で構成される『魏志倭人伝』に1字も【誤読】を加えなければ『魏志倭人伝』の全記事は【科学】が成立する。だから、『魏志倭人伝』の全記事は事実を伝えていたことになる――このような邪馬台国説にとって実に不都合きわまりない真実が存在することを、学者たちは誰一人も気づかない。
 他方、『魏志倭人伝』に「文献批判」と名づける【多数の誤読】を加えて「卑弥呼が居住した女王国名は邪馬台国であった」と断定する九州説と畿内説は、両説共にいっこうに現在においても【科学】が成立しない。ゆえに、九州説と畿内説は【空想】だったことになる。
 『魏志倭人伝』が記しているとおりに卑弥呼が居住した女王国は「邪馬壱国」であったと設定すると「邪馬壱国は山陰・出雲地方(現在の島根県と鳥取県西部)であった」ことになり、『魏志倭人伝』には一点も矛盾点も不合理な点も存在しないことになって、全記事の【科学】が成立する。
 だから、新井白石が立論した邪馬台国大和説と邪馬台国筑後山門郡説はじめ、現在の邪馬台国畿内説と邪馬台国畿内説もまた【空想の産物】と断定しなければならない。
 学界が信頼する現在の邪馬台国説の実体は、新井白石の【空想】をますます肥大化させた、白石の邪馬台国説より退化する【空想の産物】なのである。
 邪馬台国説は「邪馬壱国」を「邪馬台国」と読む【誤読意見】に合致させるために、自説に都合がよい主観・批判・捏造(ねつぞう)などを多数加えるために【科学】が成立しない。
 ところが、『魏志倭人伝』は【誤読】を1ヵ所も必要としない書籍であった。だから、【誤読】を1ヵ所も加えなければ『魏志倭人伝』の全記事において【科学】が成立して、「邪馬壱国は山陰出雲地方であった」という真実が明らかとなる。

◆『日本書紀』巻第九の神功(じんぐう)皇后紀における神功皇后39年には『魏志倭人伝』にある魏の景初(けいしょ)三年(西暦239)の記事が挿入(そうにゅう)され、翌神功皇后40年には『魏志倭人伝』の正始(せいし)元年(240)の記事が引用され、神功皇后43年には『魏志倭人伝』の正始4(243)の記事が引用されている。
 このような『日本書紀』巻第九の神功皇后紀にある『魏志倭人伝』の引用記事を注目して、新井白石は「卑弥呼は神功皇后であった」と主張した。
 しかし、現在の考古学の成果によって、第14代仲哀(ちゅうあい)天皇と第15代応神(おうじん)天皇の中間の時代に生存した神功皇后は卑弥呼ではなかったことになる。
 というのも、考古学の成果によって、第10代の崇神(すじん)天皇を葬った陵墓の築造年代は3世紀後半から4世紀初頭であると検証されているからである。だから、第10代崇神天皇以前の第9代開化(かいか)天皇の治世、晩年の卑弥呼は生存していたことになるゆえ、第14代仲哀天皇と第15代応神天皇の中間時代に生存した神功皇后は卑弥呼ではない。
 『魏志倭人伝』の正始元年(240)の記事は「魏の出張機関の政庁が所在した朝鮮半島のソウル市近辺の帯方郡(たいほうぐん)の使節は倭王に拝謁(はいえつ)した」と説明している。ゆえに、「倭女王、卑弥呼は240年ころに没し、卑弥呼の後を男王が最高位の倭王を受け継いで、帯方郡の使節と面会した」と考えられる。というのも、『魏志倭人伝』の末部は「魏の正始八年(247)ころ、卑弥呼は以(すで)に死んでいた。卑弥呼を葬る大きな陵墓を作り、円墳部の直径は百余歩(150メートル)であった。卑弥呼陵には百余人の奴婢(ぬひ)を徇葬(じゅんそう)させた。さらに、卑弥呼の死後に男王を立てる(つまり、男王が倭王に就任した)」と説明しているからである。したがって、卑弥呼は240年ころに没していたならば、「247年ころに卑弥呼の陵墓が築造されていた」という説明は合理となる。
 この結果、卑弥呼が没したときの倭王(男王)は第7代孝霊天皇か第8代孝元天皇であったと推定される。ゆえに、上記したように第9代開化天皇は、卑弥呼の晩年に生存していたと考えられる。
 
◆考古学においては、遺跡や遺物からして大和王朝は3世紀後半から起源して栄えたと考えられている。ゆえに、大和王朝の基礎を築いた天照大神は、考古学の成果にもとづくと、3世紀後半~4世紀初頭に生存したと考えられる。
 したがって、上記したように、考古学によって大和(奈良県天理市柳本)に所在する第10代崇神天皇の陵墓は3世紀後半から4世紀初頭に築造されたと推定されているゆえ、「崇神天皇」の異名(いみょう)が「天照大神」であったと考えられる。
 『日本書紀』巻第五の崇神天皇紀初頭部には〔疫病の流行〕について説明する箇所がある。
 この〔疫病の流行〕にある[天照大神に関する記事]を、宇治谷孟(うじたにつとむ)訳『日本書紀()(講談社発行)は下記のごとく現代語訳する。
 「五年、国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上に及ぶほどであった。六年、百姓の流離(りゅうり)するもの、或いは反逆するものあり、その勢いは徳を以て治めようとしても難しかった。それで朝夕天神地祇にお祈りをした。
 これより先、天照大神・倭大国魂(やまとのおおくにたま)の二神を、天皇の御殿の内にお祀りした。ところがその神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった。そこで天照大神を豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)に託し、大和の笠縫邑(かさぬいのむら)に祀った。よって堅固(けんご)な石の神籬(ひもろぎ/神の降臨される場所)を造った。また日本大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)は、渟名城入姫命(ぬないりびめのみこと)に預けて祀られた。ところが、渟名城入日姫命は、髪が落ち体が痩()せてお祀りすることができなかった。」
 上記の記事が示しているように、崇神天皇は天照大神を崇拝していた。
 だから、考古学の研究成果からしても『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀に登場する「天照大神」は「崇神天皇」であったと考えるべきことになる。大和朝廷の基礎を築いた崇神天皇は天照大神を崇拝するものであったため、「崇神天皇」は人々に「天照大神」という異名でよばれることになったのである。
 『古事記』上巻では「天照大神は女性」であったと記述している。ゆえに、『日本書紀』が「崇神天皇の生母」と記す「伊香色謎命(いかがしこめのみこと)」も「天照大神」とよばれていたことになる。
 だから、考古学の研究成果にもとづくと、大和王朝の基礎を築いた「天照大神」は「崇神天皇と崇神天皇の生母(伊香色謎命)」であったことになる。

◆上記したように、第9代開化天皇は、卑弥呼の晩年に生存していたと考えられる。
 『古事記』中巻の開化天皇紀の冒頭は、下記のごとく説明する。
 「開化天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して、天下を治めた。開化天皇が丹波の大県主(おおあがたぬし)で名は由碁理(ゆごり)という方の娘である竹野比売(たかのひめ)と結婚なされた。また、継母(ままはは)の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)と結婚なされた。」
 開化天皇の第二后の伊迦賀色許売命(女性の天照大神)は、開化天皇の父・第八代孝元天皇とも結婚している。ゆえに、伊迦賀色許売命は開化天皇の継母であった。
 『古事記』は崇神天皇の生母を「伊迦賀色許売命」と記し、『日本書紀』は「伊香色謎命」と記し、両者は共に「いかがしこめのみこと」と読む。ゆえに、開化天皇の第二后にして継母のイカガシコメノミコト(伊迦賀色許売命=伊香色謎命)は、『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀に登場する「女性の天照大神」であったことになる。もちろん、「男性の天照大神」は「伊迦賀色許売命の実子の崇神天皇」であったことになる。
 開化天皇が居住した「伊耶河宮」の先頭2字の「伊耶」は、『古事記』上巻に登場する「伊耶那岐命(いざなきのみこと)」と「伊耶那美命(いざなみのみこと)」の先頭2字と同じである。ゆえに、「開化天皇」は『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀に登場する「伊耶那岐命」であった。
 太安万侶(おおのやすまろ)が書いた『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)の初頭には「陰陽斯(ここ)に開けて、二霊郡品(にれいぐんぴん)の祖(おや)と為()る」と記す、注目すべき重大な文がある。この文は「陰の伊耶那美命と陽の伊耶那岐命の二霊がわが国のすべてのものの生みの親となったのです。したがって、朝廷が皇室の最高神とする皇祖・天照大神(崇神天皇母子)よりも伊耶那美命・伊耶那岐命の二霊のほうが偉大です」と解釈しなければならず、「陰陽斯に開けて」という文中にある[]の字は「開化天皇」の[]を表示するものであったにちがいない。つまり、この「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖となる」という文は「『古事記』編纂スタッフは時の律令体制に歯向かって、朝廷が絶対に後世に伝えてならぬと厳重に禁止する、皇祖・天照大神の聖性を汚す開化天皇と正妃竹野比売の歴史を、上巻に記述する」と固く熱く決意した情念を明示するものであったことになる。
 『古事記』と『日本書紀』は共に「崇神天皇は開化天皇が伊迦賀色許売命と結婚して生まれた第二子」と記す。
 しかし、崇神天皇は開化天皇の養子であり、孝元天皇が伊迦賀色許売命と結婚して生まれた子どもであったことが、『古事記』中巻の崇神天皇紀における〔建波邇安王(たけはにやすのみこ)の反逆〕に記述されている。この〔建波邇安王の反逆〕の箇所には「崇崇神天皇は、庶兄(まませ)建波邇安王と呼んだ」と記されている。したがって、崇神天皇は「孝元天皇を父とする建波邇安王は庶兄、つまり建波邇安王は崇神天皇の異母兄」であったと述べているゆえ、「孝元天皇を父とする開化天皇もまた、崇神天皇の異母兄」であったことになる。
 このように「開化天皇は崇神天皇の異母兄」であったゆえ、「開化天皇は崇神天皇の実父」ではなかった。ということは〔崇神天皇は孝元天皇と継母・伊迦賀色許売命と結婚して生まれた子〕であり、ゆえに〔崇神天皇は開化天皇の養子であった〕ことになる。

 『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話初頭の〔淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話〕は「伊耶那美命は伊耶那岐命と結婚する時、小国・日本の建国理念を〔愛〕にしましょうと提唱し、小国・日本の人民はじめ卑弥呼は統治した倭人国の国中の人民たちも【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重するようになった」と伝えている。
 『古事記』編纂スタッフと『日本書紀』編纂スタッフは、天照大神(崇神天皇母子)を皇室がもっとも尊敬する先祖の皇祖と定めて崇拝する律令体制に抵抗して、開化天皇の正妃の伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えようと企てた。時の律令体制と朝廷は、天皇の権力を神格化して絶大化するため、大和朝廷の基礎を築いた天照大神を皇室がもっとも尊敬する先祖の皇祖と定めて、天照大神の聖性を絶対に汚してはならぬと厳重に禁止した。しかし、伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】と、伊耶那美命の没後に伊耶那岐命が【日本建国の〔愛〕の理念】を受けついだ歴史を伝えようと企てた『古事記』編纂スタッフの情念は、皇祖・天照大神の聖性をいちじるしく汚すことになった。
 だから、『古事記』の編纂事業は時の律令体制に真っ向から反逆する事業であった。ゆえに『古事記』上巻の〔伊耶那岐命と伊耶那美命説話〕には、皇祖・天照大神の聖性を絶対に汚してならぬと厳重に禁止する律令体制への反逆が表示されることになった。
 『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話〕は「熊野、つまり熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野(和歌山県新宮市)の神倉神社」を「黄泉国」と表記して、「伊耶那岐命がクーデターを決行して倭女王・天照大神(伊迦賀色許売命)を失脚させた歴史」を記述するものであった。
 『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国(熊野)訪問説話〕を要約すると下記のごとくなる。
――倭女王に就任した伊耶那岐命(開化天皇)の正妃・伊耶那美命(竹野比売)が没すると、伊耶那岐命の第二后の伊迦賀色許売命が倭女王に就任した。倭女王・伊迦賀色許売命は『魏志倭人伝』末部に記された卑弥呼の陵墓と同じく多数の奴婢を殺して伊耶那美命の陵墓(熊野本宮大社の旧社地の大斎原)に葬る残虐非道な徇葬(じゅんそう/八雷神の儀式)をおこなった。徇葬を最も嫌悪した愛妻・伊耶那美命の【日本建国の〔愛〕の理念】の遺志をまもるために、桃子三箇(もものみみつ)つまり小国・日本の兵士たちと地元の熊野の戦士たちで構成される三軍の協力を得て伊耶那岐命はクーデターを決行した。伊耶那岐命は少数の日本兵(桃子三箇のうちの一軍)を率いて、伊耶那美命の陵墓・大斎原(おおゆのはら/熊野本宮大社の旧社地に築造され陵墓)の玄室(げんしつ)から伊耶那美命の亡骸(なきがら)を収める棺(ひつぎ)を略奪し、伊耶那岐命一行は桃子三箇の本隊(日本兵と熊野の戦士たちで構成される本隊)が待機する黄泉比良坂之坂本(よもつひらさかのさかもと/現・熊野速玉大社の境内)に向かって逃走(とうそう)した。
 そして、伊耶那岐命は桃子三箇(日本兵と熊野の戦士たち)を指揮して、伊耶那岐命一行を追跡してきた伊耶那美命の陵墓を護衛していた倭国の大軍・千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)を現熊野速玉大社の境内にて撃破した。
 おどろくべきことに、夫の伊耶那美命への愛に対する嫉妬と憤怒と憎悪で身を焦()がした天照大神・伊迦賀色許売命は大斎原に築造された宮殿から熊野速玉大社付近までの真っ暗な夜の熊野路を執念深(しゅうねんぶか)く追ってきた。日本兵に捕らわれた天照大神は、伊耶那岐命がいる熊野速玉大社から約1km南の黄泉比良坂(よもつひらさか/和歌山県新宮市磐盾町に所在する神倉神社の急坂の参道)を塞(ふさ)ぐ千引石(ちびきのいわ/神倉神社の御神体の巨大なコトビキ岩)の前に連行された。
 千引石の前にいた伊耶那岐命は日本兵に連行された妻(第二后)天照大神と対面すると真っ先に、天照大神に事戸(ことど/離縁)を言い渡した。
 怒った天照大神は伊耶那岐命に「あなたがこのような暴力をもって神聖な国家儀式の徇葬を冒涜(ぼうとく)するならば! あなたの国の人草(ひとくさ/人民。つまり【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する国民の母親)から出産する胎児たちが骨盤入口を通りぬけて骨盤出口を至るとき、そのせまい堅(かた)い骨盤出口で、一日に千人の子どもたちの頭を絞(くび)りつぶして死ぬように、わたくしは神に祈願して必ず実現する」と誓った。
 これに対して、伊耶那岐命は「お前がそうするならば、吾は国民に【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重するように熱心に説いて、一日に必ず千五百の産屋(うぶや)が立つようにする」と誓った。
 だから〔伊耶那岐命の黄泉国訪問説話〕に「徇葬をおこなった倭女王」の名を「天照大神」と表記すると、『古事記』は即座に献呈を拒絶されて焚書(ふんしょ)される。ゆえに、編纂スタッフは「天照大神」を「伊耶那美命」に[]の字を加えて「伊耶那美神命(いざなみのかみのみこと)」という偽名(ぎめい)にした。したがって、「伊耶那美神命」は「天照大神」ではないことになるゆえ、『古事記』を献上する元明(げんめい)天皇も納得して『古事記』を正史にするであろうと企んだのである。
 紀元前4、5世紀に生存した中国の思想家の老子(ろうし)は「虚偽をもって実は真実を伝える仮装(カムフラージュ)の方法、つまり反実仮装」という技法を考案して、時の王朝の政策に逆らった。『古事記』編纂スタッフは〔反実仮装〕を用いて、後人(後世の学者たち)に「黄泉国の伊耶那美神命」は「天照大神」であると伝えようとしたのである。
 『古事記』献呈された第43代元明天皇は「黄泉国の伊耶那美神命」は〔反実仮装〕によって「天照大神・伊迦賀色許売命」と解釈できると察知して、反逆の史書『古事記』の献呈を拒絶した。ゆえに、『古事記』は正史として認められず、正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』において『古事記』編纂に関する記事はすべて削除されて抹殺された。このため、江戸時代の国学者の賀茂真淵(かものまぶち/16971769)は『古事記』は偽作ではないかと疑った。
 しかし、『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国訪問神話〕における「伊耶那美神命」は「天照大神・伊迦賀色許売命」であった。その証拠に、伊耶那岐命が伊耶那美神命に離縁を言い渡した黄泉比良坂(神倉神社の参道)を塞(ふさ)ぐ千引石・ゴトビキ岩を御神体する神倉神社の祭神は天照大神である。だから、「伊耶那美神命」は「天照大神・伊迦賀色許売命」であって「伊耶那美命」ではなかったことになる。
 ゴトビキ岩の前で伊耶那岐命に離縁された天照大神は〔伊耶那岐命の妻(第二后)〕という戸籍を失った。そこで、天照大神・伊迦賀色許売命は、第7代孝霊天皇の娘の名「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)」を受け継いだ。前述したように、「崇神天皇は孝霊天皇の孫の開化天皇の異母弟であったゆえ、孝霊天皇の娘の倭迹迹日百襲姫命は崇神天皇の姑・大伯母(おおおば)」に相当する。これゆえ、『日本書紀』巻第五の崇神天皇紀は「倭迹迹日百襲姫命は崇神天皇の姑(おば/大伯母)であった」と記している。
 崇神天皇の生母で姑であった倭迹迹日百襲姫命を葬る陵墓は「箸墓(はしはか)古墳」とよばれる全長280m、高さ30mの大型前方後円墳であり、奈良県桜井市に所在する。考古学の成果では箸墓古墳は3世紀後半に築造されたとされる。だから、今まで解説してきたように、箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫命の陵墓)は崇神天皇の生母・天照大神・伊迦賀色許売命・倭迹迹日百襲姫命の陵墓であって、卑弥呼の陵墓ではない。

◆前述したように、考古学の成果によって、第10代崇神天皇陵は3世紀後半から4世紀初頭に築造されたと定まっている。
 しかし、春日の伊耶河宮の近辺の奈良市油坂町に所在する第9代開化天皇陵・春日率川坂本陵(かすがのいざかわのさかもとのみささぎ)は、その墳丘規模から5世紀末から6世紀初頭に築造されたと定まる。
 前述したように、宇治谷孟訳『日本書紀()』は崇神天皇紀初頭部にある〔疫病の流行〕の記事は、下記のごとく現代語訳している。
 「五年、国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上に及ぶほどであった。六年、百姓の流離(りゅうり)するもの、或いは反逆するものあり、その勢いは徳を以て治めようとしても難しかった。それで朝夕天神地祇にお祈りをした。
 これより先、天照大神・倭大国魂の二神を、天皇の御殿の内にお祀りした。ところがその神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった。そこで天照大神を豊鍬入姫命に託し、大和の笠縫邑に祀った。よって堅固な石の神籬(神の降臨される場所)を造った。また日本大国魂神は、渟名城入姫命に預けて祀られた。ところが、渟名城入日姫命は、髪が落ち体が痩せてお祀りすることができなかった。」
 上記のごとく、崇神天皇は――養父の伊耶那岐命・開化天皇は伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継いでクーデターを決行して、生母・伊迦賀色許売命・倭迹迹日百襲姫命(天照大神)を倭女王から失脚させたことを――激しく憎悪した。だから、崇神天皇は開化天皇・伊耶那岐命から天下を譲られたにもかかわらず、その恩を忘れて、開化天皇の陵墓は築造しなかったのである。
 3世紀後半にて天照大神・崇神天皇が基礎を築いた大和王朝が衰退して、5世紀末から6世紀初頭では難波(なにわ)王朝は【日本建国の〔愛〕の理念】を崇拝して栄えた。だから、【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継いだ春日の伊耶河宮に居住して天下を治めた開化天皇の陵墓は大和王朝が衰退した5世紀末から6世紀初頭に築造されることになった。
 (注 『古事記』下巻の仁徳天皇紀の冒頭は「仁徳天皇は難波の高津宮に居住した」と記す。そして、吉備の黒比売(くろひめ)を愛した仁徳天皇は、故郷の吉備に逃げ帰った黒比売を追って淡路島に到着した時、天皇は伊耶那岐命・開化天皇と結婚するときに伊耶那美命が【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱した「淤能碁呂島」を詠む和歌を作っている。このように、難波王朝は【日本建国の〔愛〕の理論】を尊重崇拝して栄えた)
 『古事記』中巻の開化天皇紀が「開化天皇と正妃竹野比売が結婚して生まれた御子(みこ)の、比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)」の異名は、『古事記』上巻に登場する英雄「須佐之男命(すさのをのみこと)」であった。開化天皇・伊耶那岐命は母を倭女王から失脚させたことを恨む天照大神と実子・須佐之男命が天下を二分して戦争して国民が困窮するのを避けるため、養子の天照大神に大和を首都する四国・山陽・畿内の高天原(たかまのはら)を統治するようにして帝位を譲った。そして、実子の須佐之男命に旧国出雲(現・島根県東部)を中心とする九州・山陰地方一帯を統治するように命じて死去した。
 というのも、『魏志倭人伝』が「卑弥呼が居住した邪馬壱国」は「旧国の石見(いわみ)・出雲・伯耆(ほうき)」、つまり「現在の島根県と鳥取県西部であったからである。だから、伊耶那岐命・開化天皇は実子の須佐之男命に「邪馬壱国中心部の出雲に移住して大和の天照大神・崇神天皇と天下二分して戦争してはならぬ」と遺言して没したのである。
 これゆえ、『日本書紀』の崇神天皇紀にある〔疫病の流行〕の記事では、須佐之男が居住した邪馬壱国・出雲地方は高天原の中心の大和・奈良県よりも広大な大国であった。ゆえに、「邪馬壱国・出雲地方の地霊」は「倭大国魂神」と表現されることになった。あるいは、須佐之男命は生母が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重するものであったゆえ、「山陰出雲地方の地霊」は「日本大国魂神」とも表現されることになったのである。
 
須佐之男命が大和・高天原・伊耶河宮から移住した山陰出雲地方の地霊」を、天照大神・崇神天皇は「大国」の二字がつく「倭大国魂神」または「日本大国魂神」と名づけた。これゆえ、須佐之男命の娘の須世理毘売(すせりびめ)と結婚した「出雲王朝を統治した大穴牟遅命(おおなむぢのかみ)」は「大国主神」という異名でよばれることになったのある。

◆邪馬壱国・出雲を統治した大国主神は大和の天照大神・崇神天皇王朝に敗れて国譲(くにゆず)りした。『日本書紀』神代紀の一書は「大国主神が国譲りした時、大和の天照大神王朝は出雲大社・天日隅宮(あまのひすみのみや)を建造した」と記述している。
 出雲大社の本殿と裏山の中間に、素鵞社(そがのやしろ)が所在する。素鵞社は須佐之男命を祀る。
 
出雲大社の本殿の北側は裏山(八雲山)、出雲大社の南は「神園(しんえん)」とよばれる地域であり、出雲大社の東は「亀山」、出雲大社の西は「鶴山」である。このような出雲大社を囲む地所を上空から撮影した航空写真の形は「ヤンマトンボ」とよばれる「大形のトンボの姿」に相似する。つまり、出雲大社の「円形の裏山」を「ヤンマトンボの頭」に見立てると、「神園」は「トンボの胴体と尾の形」に相似し、「亀山と鶴山」は「トンボの羽の形」となる。これゆえ、出雲大社の裏山と境内周辺の航空写真は「ヤンマトンボの形」に観える。
 「トンボ」の古称は「あきづ」、「あきづ」は漢字2字で「秋津」・「蜻蛉」と記す。「蜻蛉」は「日本列島」を意味する。ゆえに、「卑弥呼の陵墓であった出雲大社の裏山と境内周辺の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)」は「蜻蛉(トンボ)の形」をしているゆえ、日本列島における最初の国家「倭人国」と最初の王朝を築いた卑弥呼に由来して「蜻蛉」は「日本列島」と意味することになったと考えられる。それゆえ、「ヤンマトンボ」の「ヤンマ」は「邪馬壱国」の「邪馬」を「ヤンマ」と訛(なま)った可能性がある。
 そして、特に注目すべきは出雲大社の円形の裏山「八雲山」の直径は、『魏志倭人伝』の「径百余歩」に合致して「直径が約150m」である。
 現在、出雲大社の境内の平面図は〔前方後円墳〕のうちの〔前方墳〕の左右対称の形に少し歪(ゆがん)んでいるが――古来にあっては〔前方墳の形〕であったと推定できる形状となる。したがって、円形の八雲山・裏山の〔後円墳部〕と 出雲大社の境内の〔前方墳部〕で前方後円墳の形となるゆえ、円丘(えんきゅう/円形の自然丘陵)の八雲山と出雲大社の境内は、前期前方後円と分類される卑弥呼の墓であったにちがいない。
 というのも、上田宏典(うえだひろのり)著『前方後円墳[第2版](学生社発行)61ページは「前期のものは、丘陵の先端や丘頂などに自然の地形を利用して築かれ、高い円丘の前面に低い方形の前方部をつけたものが多い」と指摘するからである。
 卑弥呼の墓は、3世紀後半に築造された箸墓古墳や崇神天皇陵よりも前の、3世紀中半に築造されたゆえ、前期前方後円墳となる。卑弥呼の墓における「八雲山」は〔径百余歩の円形の自然丘陵〕であるゆえ、上田氏が指摘する「前期前方後円墳の特徴」をあらわす。
 だから、出雲大社の裏山と境内は卑弥呼の陵墓であったにちがいない。
 大国主神は国譲りする時、崇神天皇王朝を巧みに煽(おだ)てて奴婢百余人が徇葬され卑弥呼の墓が築造された地所に、壮大な天日隅宮・出雲大社を建造させて「大和の天照大神・伊迦賀色許売命・倭迹迹日百襲姫命もまた伊耶那美命の陵墓を築造する時に残虐な徇葬を行った」と表示するようにした。これゆえ、大和王朝に一矢(いっし)をむくいた大国主神は『古事記』上巻では人民に敬愛された英雄として伝えられることになったのである。

◆『魏志倭人伝』は「卑弥呼の墓には百余人の奴婢(ぬひ)が徇葬者(じゅんそうしゃ)となって殺されて埋められた。この徇葬墓の築造事業をおこなった、卑弥呼の後を継いだ男の倭王に対して国中の人民たちは徇葬を憎悪して服従せず、武器を持って倭国軍と戦った。ゆえに、倭国軍は千余人の人民を殺した」と記述する。
 卑弥呼の晩年に生存した伊耶那美命は、伊耶那岐命と結婚した時(233年頃)、小国・日本の政治理念を「国中に多数の子どもが健やかに誕生する【愛】にする」と提唱した。これゆえ、伊耶那美命が高らかに掲げた【日本建国の〔愛〕の理念】は小国・日本の人民たちはじめ卑弥呼が統治した倭人国の国中の多数の人民たちもまた尊崇(そんすう)した。よって、『魏志倭人伝』に「卑弥呼以(すで)に死す。大きな冢(ちょう)を作る。径百余歩。葬に徇ずる者、奴婢百余人。更(さら)に男王を立てしも国中服さず。更に相誅殺(あいちゅうさつ)と。時に当たりて千余人を殺す」と記述されたのである。
 この記事はさらに続き、「復()た卑弥呼の宗女(そうじょ)の壱与(いよ)、年十三なるを立てて王と為()し、国中遂に定まる。政(せい)等、檄(げき)を以て壱与を告喩(こくゆ)す。壱与、倭の大夫(だいふ)率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)の掖邪狗(ややこ)等二十人を遣わし、政等の還(かえ)るを送らしむ」と記している。
 上記の文中の「卑弥呼の宗女の壱与」とは「卑弥呼が支配する巫女界(宗女)を代表とする壱与」と意味し、「年十三なるを王と為す」とは「卑弥呼の後を継いだ男王・倭王はかつて233年頃に十三歳にて小国・日本の女王に就任した壱与を、魏の正始八年・西暦247年ころに倭女王に就任させた」と意味するものであった。だから「年十三なるを王と為す壱与」は「【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱した伊耶那美命」であった。これゆえ、【日本建国の〔愛〕の理念】を尊崇した倭国の国中の人民たちは、卑弥呼の陵墓を造るときの残虐非道な徇葬儀式を憎悪して、武器を持って反乱して倭国軍と戦ったのである。
 徇葬を決行した男王・倭王は壱与・伊耶那美命が【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱したために、国中の人民たちは反乱をおこした責任をとって小国・日本の女王の壱与・伊耶那美命が反乱を鎮(しず)めなければならないと責任を転嫁(てんか)して、男王は壱与・伊耶那美命を倭女王に就任させた。これゆえ、伊耶那美命が倭女王に就任したため、伊耶那美命を敬愛する倭国の国中の反乱者たちは武器を捨てて倭王軍との戦いを終息させた。ゆえに、この状況は『魏志倭人伝』に「国中遂に定まる」と記述されることになったのである。
 『魏志倭人伝』の「卑弥呼が以に死す」という記事の前には、「正始八年(247)、倭の女王の卑弥呼と狗奴(くな)国の男王・卑弥弓呼(ひみくこ)は素(もとり)不和であった。倭は載斯烏越(そしあお)等を派遣して帯方郡に詣(いた)り、倭国軍と狗奴国とが戦う状況を説明した。よって、帯方郡は塞曹掾史(さいそうえんし)の張政(ちょうせい)等を倭国に派遣した。倭国に到着した政(張政)は、狗奴国は討伐すべしと説く檄(軍書)を作って、倭女王・壱与に告喩した」と説明する記事がある。ところが、【愛】を重んじる壱与・伊耶那美命は、政の檄による告喩に反対して応じず、狗奴国の男王との話し合いによる平和的な解決を望んだ。
 これゆえ、倭王(男王)と倭王朝は伊耶那岐命の第二后の天照大神・伊迦賀色許売命を「倭女王・壱与の代役」に立てた。天照大神は政の檄の告喩を承諾して狗奴国を討伐した。この状況を、『魏志倭人伝』は上記したように「政等、檄を以て壱与(天照大神)を告喩す」と記し、さらに狗奴国討伐以後について「壱与、倭の大夫率善中郎将の掖邪狗等二十人を遣わし、政等の帯方郡に還(かえ)るを送らしむ」と記述したのである。
 『魏志倭人伝』末部にある「張政の二度おこなった檄による告喩」の記事は――壱与・伊耶那美命が狗奴国討伐を拒否したため、天照大神・伊迦賀色許売命が「壱与の代役」になって狗奴国討伐を決行した――と伝えていたことになる。
 このような経緯があったゆえ、壱与・伊耶那美命が死去すると天照大神・伊迦賀色許売命が倭女王に就任することになった。熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)に伊耶那美命の陵墓を築造するとき、天照大神は国家権力を誇示するため残酷な徇葬を強行した。この結果、伊耶那岐命と桃子三箇(もものみみつ/日本軍の兵士たちと熊野の戦士たち)のクーデターによって、天照大神・伊迦賀色許売命は倭女王から失脚した。
 『魏志倭人伝』の末部が記述しているように、「伊耶那岐命の正妃の伊耶那美命・竹野比売と、第二后の天照大神・伊迦賀色許売命」は共に「壱与」と表記された。ゆえに、『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国(熊野)訪問説話〕では「徇葬を強行した天照大神」は「伊耶那美命」に[]の字が加わる「伊耶那美神命」と表記された。伊耶那岐命・竹野比売が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】は具体的に表現すると「国中に多数の子どもが健やかに誕生する」ということになる。ゆえに、和歌山県新宮市に所在する神倉神社の御神体のゴトビキ岩の前で伊耶那岐命に離縁を言い渡された伊耶那美神命・天照大神は「汝(いまし)の人草(ひとくさ/人民たち)、一日(ひとひ)に千頭(ちがしら)(くび)り殺さむ」と、つまり「一日に必ず【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民の千人の胎児たちの頭をせまい骨盤の出口で絞()めつぶして殺す」と、神に誓って詛(のろ)ったのである。

712年に成立した『古事記』は「初代神武天皇は137歳で没し、第6代孝安天皇は123歳で没し、第7代孝霊天皇は106歳で没し、第10代崇神天皇は168歳で没し、第11代垂仁天皇は153歳で没し、第12代景行天皇は137歳で没した」と、いずれも享年は百歳を超えていたと記している。(『古事記』は第2代綏靖(すいぜい)天皇の享年は45歳、第3代安寧(あんねい)天皇の享年は49歳、第4代懿徳(いとく)天皇の享年は45歳、第5代孝昭(こうしょう)天皇の享年は93歳、第8代孝元(こうげん)天皇の享年は57歳、第9代開化天皇の享年は63歳、第13代成務(せいむ)天皇の享年は95歳、第14代仲哀(ちゅうあい)天皇の享年は52歳と記す)

 政府による大規模な歴史書の編纂(へんさん)事業としては、第40代天武朝以前にさかのぼると、推古天皇二十八年(620)の十二月に「皇太子(聖徳太子)・島大臣(蘇我馬子)、共に議(はか)りて、天皇記(すめらみことのふみ)及び国記(くにつふみ)、臣連伴造国造(おみのむらじとものみやつこくにのみやつこ)百八十部并(ももあまりやそともをあは)せて公民等(おほみたからども)の本記(もとつふみ)を録(しる)す」ということになる。
 わが国最初の官撰国史の事業である推古天皇28(620)の〔天皇記〕における初代神武天皇から第14代仲哀天皇までの享年数(きょうねんすう)は、『古事記』とほぼ同様であったにちがいない。というのも、『古事記』の下巻の最後尾は簡単な推古天皇紀で終わっているからである。ゆえに、〔『古事記』の中巻と下巻の天皇記〕は推古天皇時代に編纂された歴史書と同じく〔推古天皇までの天皇記〕となったにちがいない。
 『魏志倭人伝』には、5世紀に生存した裴松之(はいしょうし)の「その俗は正しい歳を知らず、春耕(春の耕作期)を一年、秋収(秋の収穫期)を一年と数えている」と説明する、現在の1年を2年と数える〔二倍暦〕の注がある。この『魏志倭人伝』の〔注〕にある二倍暦の影響や、また上古の暦数は60回で一周して元にもどる干支(えと)であったために正確に十進法の暦数に換算することができなかった。ゆえに、推古天皇時代に編纂された〔天皇記〕における初代神武天皇から第14代仲哀天皇までの各代天皇の享年はおよそ二倍となったため――医学が未発達で短命であったはずの上古の天皇が現在の医学が発達した平均寿命よりも長寿となって、百歳を優に超える天皇が数人も存在することになったのである。
 そして、『日本書紀』の第35代皇極(こうぎょく)天皇4年6月13日は「蘇我蝦夷(そがのえみし)らは殺される前に、すべての天皇記・国記・珍宝を焼いた。船史恵尺(ふねのふびとえさか)はそのとき素早く、焼かれる国記を取り出して中大兄皇子(なかのおおえのおうじ/のちの第38代天智天皇)に奉献(たてまつ)った」と記している。
 船史恵尺の素早い行動で焼失するのをまぬがねた〔国記〕は、推古天皇時代に編纂された〔国記〕であったにちがいない。この〔国記〕は『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)が「本辞(ほんじ)」と記す書籍の原典(資料)であったことになる。(つまり、『古事記』上巻の序に「本辞」・「旧辞(きゅうじ)」・「先代の旧辞」などと名づけられた書籍の原典は推古天皇時代に成立した〔国記〕であったことになる)
 その証拠に、『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)の後半部で――太安万侶(おおのやすまろ)が「上古の言葉と字義(こころ)は共に素朴で、文章に書きあらわしますと、どういう漢字を用いてらよいか困難となります」――と説明する音文字は、『古事記』上巻に〔音〕という注がついて多数記載されている。けれども、『古事記』中巻と下巻には〔音〕という注がつく上古の漢字は一字も記載されていない。だから、〔音〕という注がつく上古漢字が多数記載される『古事記』上巻の原典は推古天皇時代に成立した〔音文字〕で書かれていた〔国記〕、つまり船史恵尺の素早い行動で焼失しなかった〔国記〕であったことになる。
 いっぽう、皇極天皇4年(645)には推古天皇時代に編纂された〔天皇記〕は蘇我蝦夷の邸宅で焼失した。ゆえに、〔音〕という注がつく上古漢字が1字も記載されていない『古事記』中巻・下巻の「帝紀(天皇記)」は、『古事記』そのものが朝廷に反逆して【日本建国の〔愛〕の理念】を伝えようとした書籍であったゆえ民間の家々に残っていた各代天皇の享年を用いて編纂されることになった。しかし、諸家における各代天皇の享年数はもろもろの事情によって不統一で不確かなうえに、推古天皇時代にすでに誤っていた〔天皇記〕の享年数を思い出して適合させるものであったゆえ、事実と相違する虚数となったことになる。
 『古事記』成立から8年後に成立した『日本書紀』においても、『古事記』と同じ環境であったゆえ、その「天皇紀」における各代天皇の享年は虚数であったことになる。
 要するに、『古事記』と『日本書紀』の編纂スタッフには、上古の天皇たちの享年数を正確に復元することは不可能であったのである。

 『古事記』と『日本書紀』は、各代天皇の生年と没年、またいつ即位していつ退位したかなど、西暦年数に変換できる形で記していない。ただ、どの天皇の次にどの天皇が継いだかを記しているだけである。そして、『古事記』は、その存在が確実とされる第15代応神天皇は130歳まで生きたと記す。『日本書紀』は111歳まで応神天皇は生きて41年もの長いあいだ在位したと記す。また第16代仁徳天皇は87年も在位したことになっている。
 このよう不正確な状況の原因は、上記したように、『古事記』と『日本書紀』の編纂スタッフは〔上古における各天皇の享年数〕を正しく復元できる資料と方法を完全に失っていたからである。
 『古事記』と『日本書紀』の紀年には延長工作があることは、明治時代の那賀通世(なかみちよ/18511908)などが立論して、現在、定説となっている。

◆このブログの初頭部で指摘したように、第114代中御門天皇の在位中の1716(正徳6)に、60歳の新井白石は『古史通或問』を著作して邪馬台国大和説を立論し、その後に著書『外国之事調書』なので邪馬台国九州説(筑後山門郡説)を立論した。
 しかし、白石の邪馬台国説は【空想】であった。というのも、『魏志倭人伝』は倭女王卑弥呼が居住した女王国名を「邪馬壱国」と記し、「邪馬壱国の範囲は出雲地方(旧国の石見・出雲・伯耆)、現在の島根県と鳥取県西部」であったからである。そして、卑弥呼が居住した宮殿は出雲(現在の島根県東部)の意宇(おう)平野の一画に所在したと考えられる。
 新井白石は中御門天皇の在位中の1725(享保10)69歳で没した。
 白石の空想の産物・邪馬台国説を知った朝廷は「日本国が滅びる! 皇室が滅びる! わが国の学問の始まりは消滅する! わが国の文化が根底から崩壊する! わが国におけるもっとも大事な上古史が失われる!」と激しいショックを受け、また恐怖をも抱いた。
 それというのも、いままで解説してきたように、白石のごとく『魏志倭人伝』を誤読して女王国名を「邪馬台国」と定めて「邪馬台国は大和であった、または九州に存在した」と設定すると、『古事記』と『日本書紀』における〔天皇記〕の上古の各代天皇の享年数の延長工作のために、日本国の起源つまり小国・日本は西暦233年頃に誕生したことが不明となり、大和王朝の基礎を築いた皇祖・天照大神は崇神天皇と生母の伊迦賀色許売命であった秘密が解明できなくなり、『古事記』上巻に〔音〕という注がついて多数残った上古の漢字(音文字)が存在しないことになって消滅し、わが国における学問の起源と文化の根源は失われて不明となり、『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀における日本神話は歴史ではないと断定されることになる――と、皇室は心配したからである。
 (注 現在、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀~6世紀である」という意見が絶対的な定説である。しかし、『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名に用いられ定説以前に存在した上古の音文字は残り、『古事記』上巻には〔音〕という注がついて定説以前に存在した漢字(音文字)が多数記載されている。このように、現在、定説によって太安万侶が説明する上古漢字は消滅して存在しないことになっている)
 「論より証拠」のごとく、現在、定説によって確かに存在した上古漢字が消滅してしまったごとく、朝廷は白石の【空想の産物】の邪馬台国説によって「日本国が滅びる! 皇室が滅びる! 上古の音文字が消滅する! わが国の学問の始まりは消滅する! わが国の文化が根底から崩壊する! わが国におけるもっとも大事な上古史が失われる!」と予想して、激しいショックを受け、また恐怖をも抱いたのである。

◆『古事記』上巻にある〔伊耶那岐命の黄泉国訪問説話〕は「伊耶那美命・竹野比売の死後、倭女王に就任した天照大神・伊迦賀色許売命が多数の奴婢を殺して伊耶那美命の陵墓に埋葬した徇葬儀式を指揮した史実と、伊耶那岐命のクーデターによって倭女王から失脚した歴史」を記述するものであったゆえ、元明天皇は『古事記』献呈を拒絶した。
 元明天皇は715(霊亀元)92日、娘の元正天皇(氷高皇女)に譲位して上皇となった。
 『日本書記』編纂スタッフは、元明天皇の『古事記』献呈拒否に懲()りて、元正天皇に献上した『日本書紀』神代紀には天照大神の聖性を汚す具体的な記述を削除(さくじょ)した。ゆえに、『日本書紀』は献呈が許可されて正史(政府が編纂したと認める歴史書)となった。
 しかし、『日本書記』は崇神天皇紀における〔疫病の流行〕の箇所で崇神天皇母子が天照大神であると説明していた。また、『日本書紀』崇神天皇紀の〔四道将軍〕の箇所には、伊耶那岐命に離縁されて「倭迹迹日百襲姫命」と名乗ることにした天照大神・伊迦賀色許売命について記述していた。この〔四道将軍〕の箇所の後半にて、倭迹迹日百襲姫命は大物主神(おおものぬしのかみ)の妻となったとする抽象的表現(譬え話)をもって、倭迹迹日百襲姫命(天照大神・伊迦賀色許売命)が【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪・敵視して国民を弾圧した様子をからかって風刺している。その証拠に、「倭迹迹日百襲姫命は箸(はし)が陰部につきささって死去した。そこで大市(おおち/奈良県桜井市の北部)に葬られた。だから、当時の人々は、その墓を名づけて、箸墓と風刺した」と記述している。
 (注 上古には、現在のような食事の時に用いる2本の細い棒の形をしたハシ()は中国から伝来していなかった。しかし、『古事記』上巻の〔須佐之男命の八俣の大蛇説話〕には「箸」が登場する。この「箸」は令和元年の大嘗祭において供饌(きょうせん/供物の食物)の儀にて今上陛下が用いた「ピンセットのような竹製の食物をはさむV字形の器具」であった。つまり、[]の字の上部は竹冠であるゆえ、「1本の竹をピンセットのように折り曲げた形」が〔箸の原形〕であったゆえ、上古には「箸墓」の「箸」は存在したことになる)
 『古事記』の〔伊耶那岐命の黄泉国訪問説話〕の末部は天照大神・伊迦賀色許売命は伊耶那岐命に離縁された和歌山県新宮市に所在する神倉神社の御神体のゴトビキ岩の前で「【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民たちの子どもたちは、神(大物主神)に祈願して、せまい堅い骨盤出口で一日に必ず千人ずつ頭を絞()めつぶして殺す」と誓ったと記述する。ゆえに、天照大神・伊迦賀色許売命・倭迹迹日百襲姫命の「骨盤出口にて胎児の頭を絞めてつぶして殺す」という詛(のろ)いを、3世紀後半の人々は「陰部(骨盤出口)にいる胎児の頭を箸でつきさして死産させる」と風刺したのである。
 7205月に成立して元正天皇に献上された時は、『日本書紀』の書名は『日本紀』でああった。『日本紀』成立の翌72112月に没した元明上皇は『日本紀』崇神天皇紀に記述された〔天照大神・倭迹迹日百襲姫命の聖性を汚す風刺〕に気づいた。ゆえに、上皇は『日本紀』成立直後の721(上皇が存命中)に宮廷で『日本紀』を講義・研究する講筵(こうえん/講書)を開始させた。というのも、先代の天武天皇は天皇の権力の絶大化をはかるため、天照大神を皇室がもっとも崇拝する祖先の皇祖と定めて崇拝するための大嘗祭(だいじょうさい)を起源させていたからである。ゆえに、天武・持統・文武の後に天皇に即位した元明上皇は『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国訪問神話〕における皇祖・天照大神がおこなった徇葬指揮の記事に気づき、そして『日本紀』成立直後に箸墓築造記事における天照大神の風刺にも気づいて、皇祖・天照大神の聖性をまもるために、いわゆる「講書(こうしょ)」を行うように指示したのである。この「講書」の目的は「学者たちが箸墓記事で天照大神・倭迹迹日百襲姫命を風刺していると解釈したならば誤りと忠告して、天照大神・倭迹迹日百襲姫命の聖性が汚されないようにするための隠ぺい政策」であったのである。

◆『日本書紀』成立直後から始まった講筵(講書)10世紀半ばの平安時代中期までおこなわれた。そして、天武天皇から始まった大嘗祭は応仁の乱が始まる前年の1466(文政1)に行われた第103代後土御門(ごつちみかど)天皇即位まで実施された。
 後土御門天皇即位以後の戦国時代、大嘗祭は中断され9代220年後の第113代東山天皇の1687(貞享4)にいったん略儀で再興された。しかし、次の第114代中御門天皇朝では行われず、次の第115代桜町天皇の1738(元文3)の即位にて、大嘗祭は本格的に復興された。
 第108代天皇であった後水尾(ごみずのを)上皇は、皇室が衰退し武家が栄えることになった原因は()『古事記』上巻の伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】と()天照大神が決行した徇葬の両歴史の隠ぺい工作にあると考えて反省した。このため、後水尾上皇は『日本書紀』神功皇后紀に魏の年号が記載された『魏志倭人伝』を基軸にして、『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀に記述された歴史を復興する学問研究をおこなった。
 この後水尾上皇から始まった学問研究は以後にも継続されたため、第113代東山天皇の即位で新しい大嘗祭が行われることになったのである。東山天皇の即位における大嘗祭では、以前の天武天皇から始まった天照大神の徇葬隠ぺい政策の大嘗祭と異なって、『魏志倭人伝』末部に登場する壱与(伊耶那美命)が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を新たに演出し、そして旧来の伝統をも受け継いで天照大神および天神地祇(てんじんちぎ)を祀ることにした。しかし、東山天皇の大嘗祭は経費をかけず小規模におこなったゆえ、【日本建国の〔愛〕の理念】の演出が満足できず不成功・失敗した。
 【日本建国の【愛】の理念】を演出する儀式を成功するためには多額の経費が必要となった。それゆえ、桜町天皇の即位では将軍吉宗が1735(享保20)8月に幕府五万石以上の諸大名に命じて朝廷に銀を贈らせ即位を祝賀する協力によって、新・大嘗祭が本格的におこなわれることになった。
 したがって、桜町天皇の即位以後の新・大嘗祭は大規模となり、明治天皇の即位の大嘗祭では天高く千木(ちぎ)がそびえる悠紀殿(ゆきでん)と主基殿(すきでん)を設ける大嘗宮(だいじょうぐう)が建造されるようになり、【日本建国の〔愛〕の理念】は天皇陛下の頭上に差し上げられる御菅蓋(ごかんがい)と、そして悠紀殿と主基殿に向かって天皇陛下一行が進む・陛下の御前で左右2名の侍従が円形に巻い葉薦(はごも)を解き延べる御筵道(ごえんどう)で表示されることになった。
 (注 元明上皇が始めた『日本紀』の講書名「講筵」と、新・大嘗祭における【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす舞台装置の「御筵道」は、共に[]の字がつく。ゆえに、「講筵」は学問研究であったゆえ、「御筵道」の[]の字は新・大嘗祭もまた学問研究の大祭であることを示すものであった。ゆえに、令和元年の大嘗祭について幾人かの学者たちや一部のキリスト教関係団体は「憲法の政教分離に違反する、極めて宗教的な儀式」と指摘したが、令和元年の大嘗祭は「【日本建国の〔愛〕の理念】を演出する、邪馬台国説は空想である」と表示した学問儀式であったのである)
 【日本建国の〔愛〕の理念】を演出する儀式は、2019(令和元年)1114日の午後6時半から開始された今上陛下の大嘗祭における東の悠紀殿に向かう天皇陛下一行の御筵道を進む御菅蓋儀式の様子を映すテレビ画面に映し出されて日本国民は目撃した。翌15日の午前0時半から、西側の主基殿に向かって天皇陛下一行は御筵道を進んで【日本建国の〔愛〕の理念】を表現する御菅蓋儀式を行った。

◆前記したように、新井白石は中御門天皇の在位中に邪馬台国説を立論して、中御門天皇の在位中の1725年に69歳で没した。だから、中御門天皇が即位した時には白石は邪馬台国説をいまだ立論していなかったゆえ、「邪馬台国説は空想である」と表示する新・大嘗祭は実施されなかった。
 白石は邪馬台国説を中御門天皇の在位中に発表したゆえ、「邪馬台国説は空想である」と表示する新・大嘗祭は中御門天皇の次の桜町天皇の即位で実施されることになった。
 だから、新・大嘗祭は白石の死から13年後の1738年の桜町天皇の即位で行われた。
 したがって、173811月の桜町天皇の大嘗祭以来、令和元年11月までに行われた大嘗祭は「新井白石の邪馬台国説は空想である」とあらわす学問儀式であった。
 このように、新・大嘗祭で「白石の邪馬台国説は空想の産物」と表示されたにもかかわらず、学界は「白石によって『魏志倭人伝』に始めて学問的検討が加えられた」と思い込む。実際は「白石の邪馬台国説から空想・幻想が学問にすり変わって退化した」というサカサマ状態となったのである。

 
◆以上のごとく、つい最近の4年前に、日本全国のテレビに映し出された令和の大嘗祭は「『魏志倭人伝』の全記事は正しい。卑弥呼は邪馬壱国に住んでいた」とあらわす、1660年頃から後水尾上皇が学問研究として始めた、その後に受け継がれた学問儀式であった。
 ところが、学者たちは【学問の常道・基本原理】を無視して、『魏志倭人伝』に数か所の【誤読】を加えて【空想の邪馬台国説】を立論しつづけている。
 学者たちは邪馬台国説が【空想の産物】である事実にまったく気づいていない。
 ためしに邪馬台国説の思考方法を全否定して、『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えずに立論してみれば――様々な疑問が生じるが、この疑問のすべてはいくつかの学問分野の成果によって【科学】が成立して解決できる仕組みになっている。だから、『魏志倭人伝』の全記事は正しかったのである。また、『魏志倭人伝』の全記事は正しいと証明できる根拠・理由は大嘗祭はじめ幾つかの遺跡・遺物のほか、風俗や慣習や地名などで多数残っている。前人たちは「日本神話は歴史を語る」と証明できる『魏志倭人伝』の重大性に気づいて「『魏志倭人伝』の全記事は正しい」という警告を残したのである。
 にもかかわらず、学界とマスメディアは「『魏志倭人伝』の記事を全面的に信用してはならない、信用できない記事はどのように考え方をしたならば信用できることになるかと考えなければならない」と主張する。このため、「卑弥呼は邪馬台国に住んでいた」と主張するがいっこうに【科学】が成立せず、【誤読】が【誤読】を生んでこれからも論争は果てしなく続くことになる。
 新井白石から始まった邪馬台国説は、正しく【空想の産物】だったのである。

 このブログでは、【1】卑弥呼が居住した女王国名は「邪馬壱国」であったと証明した。
 次回のブログでは、【2】学者たちは全員〔天の北極がある方向〕を〔北〕と定める現在の日本列島地図で邪馬台国説を立論する。しかし、『魏志倭人伝』は「卑弥呼王朝は人類が原始から生命をまもった方法で九州以下の本州列島地理における方位規定を定めていた」と伝えていた。ゆえに、九州以下本州地理の方位規定は現在の日本地図と異なって、時計回りに90度転回して(経度軸が緯度軸になって)、現在の日本地図の〔西〕は〔北〕・〔東〕は〔南〕となると卑弥呼王朝は本州地理の方位規定を制定したことになる。だから、現在の日本地理を立論基盤とする邪馬台国説は明白に【空想の産物】であったのである。
 卑弥呼王朝が〔天の北極がある方角〕を〔北〕と定めていたと断定すると、日本列島には人間が一人も居住していなかったことになる。卑弥呼王朝は大海に囲まれる日本列島に渡って生存した人類が原始から位置(緯度)と方角(経度)を測定し方法で九州以下の本州列島地理における方位規定を定めて、本州の〔東〕は〔南〕に伸びていると制定したのである。
 さらに、次の次の回〔邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・11〕では、【3】現在、定説によって排除されてその存在が消滅した上古の漢字(音文字)は確かに存在していたことを証明する。前述したように、『古事記』上巻の序は「わが国には上古の漢字(音文字)があった」と記述し、また『古事記』上巻には〔音〕という注がついて多数の〔上古の音文字〕が残っている。同様に、『魏志倭人伝』の2か所の記事も「わが国には上古の音文字があった」と伝え、卑弥呼はじめとする人名・小国名・官職名には〔上古の音文字〕が用いられている。そして、カールグレーンが開発した西洋の言語学・音韻学によって「わが国には、中国に現存する最も古い〔上古音〕よりもさらに古い・最古の漢字音が残っている」と解明されている。だから、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という常識となる定説は根本的に誤っていることになる。
 上記した【1】【2】【3】の3つの真実によって、『魏志倭人伝』の全記事は正しかったとことが【科学】が成立して証明され、新井白石から始まった邪馬台国説は【科学が成立しない、空想】であったことが事実となる。

| | コメント (0)

« 2022年5月 | トップページ | 2022年7月 »