邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・11
#女王国・邪馬壱国は出雲地方であった
◆邪馬台国説はすべてウソなんだ!
女王国名は「邪馬壱国」が真実なんだ!
「邪馬壱国」は出雲地方であったのだ!
だから 邪馬台国説は すべて真っ赤なウソだ!
悲しいじゃないか ダマされるなんて!
愛しい日本国民よ 悲しいじゃないか ダマされるなんて!
バカにされるな コケにされるな 日本国民ョ!
もう十分に ダマされた
――邪馬台国説が真っ赤なウソと断定できる遺跡を
前人たちが作って 現在まで残っている!
だから 学者たちの真っ赤なウソにあやつられるな!
バカにされるな コケにされるな
デクのボウになるな 愛しき日本国民ョ!
邪馬台国説は日本人をぶっ壊す最も卑劣なデタラメだ
邪馬台国説は日本国をぶっ壊す最悪の疫病神なんだ
◆学者たちが「約1700年前、倭女王の卑弥呼が住んでいた地所は〔邪馬台国〕であった」と伝える書物は、通称『魏志倭人伝』とよばれている。というのも、3世紀後半に生存した中国の晋(しん)につかえていた歴史編纂官の陳寿(ちんじゅ)が著作した『三国志』の「魏書東夷伝末尾にある倭人伝」は通称『魏志倭人伝』とよばれることになったからである。
3世紀後半に著作された『魏志倭人伝』は残っていないが――現存する12世紀の刊本(かんぽん)の『魏志倭人伝』には「倭女王(卑弥呼)が居住した都であった地所は邪馬壱国(やまいこく)であった」と記す。だから、学者たちはじめ学界も認めてマスメディアがヤタラに力説する「邪馬台国」は【誤読の、空想の産物】、真っ赤なウソだったのである。
学者たちは「『魏志倭人伝』の全記事は正しいと信用してはならない」という固い信念のもとに邪馬台国説を主張する。
しかし、『魏志倭人伝』の全記事は正しく、真実であったのである。
だから、当然、卑弥呼は「邪馬壱国」に住んでいたことになる。
というのも、邪馬台国説の論法に疑問を抱き、「『魏志倭人伝』の全記事は正しいのではないか。だから、卑弥呼が住んだ都の名は邪馬壱国であった」と考えると、『魏志倭人伝』の全記事は正しく真実であったと【科学】が証明されることになるからである。
江戸時代中期に生存した新井白石(1657-1725年)以来300年間も学界の伝統となった邪馬台国説は「九州に邪馬台国があった」、「邪馬台国は畿内にあった」と論争をつづけるが、両説は矛盾点・不合理・不正・非理などが発生していっこうに【科学】が成立しないために決着することができない。それというのも「邪馬壱国」と記してあるものを「邪馬台国であった」と誤読して、さらに「『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加えて立論する方法が正しい」と言い張る邪馬台国説は最初から空想の産物、真っ赤なウソだったからである。
◆「わが国が中国から漢字を最初に習得(しゅうとく)したのは、5世紀あるいは6世紀である」という意見は、わが国の学界が「絶対的に正しい」とされる定説である。
しかし、3世紀後半に著作された『魏志倭人伝』には「倭国には、中国で用いられる楷書(かいしょ)で構成される語と同義になるように変換することができる上古漢字があった」と証言する記事が2か所ある。
「倭国には上古漢字があった」と指摘する最初に登場する記事は「倭国では、挙事(きょじ/祭りはじめ何か事をおこすとき)、行来(こうらい/遠くの地へ旅して帰還するとき)、云為(うんい/神に雨ごいや子どもの誕生などの願いごとを云って祈るとき)、骨を灼(や)いて卜するが、まず吉凶を占う目的は〔挙事、行来、云為〕のいずれなのかを告げる。その卜辞(ぼくじ/占いに用いる言葉と文字)は令亀法(れいきのほう)、つまり中国の殷代後半に出現した亀の甲羅に刻んだ甲骨文字のごとくの象形文字であった」と説明している。
もう一つの記事は「倭国の王が使節を派遣して魏都や帯方郡(朝鮮半島のソウル市周辺にあった魏の出張政庁があった郡の名)や諸韓国に到着したときの倭国の国書、あるいは帯方郡に倭国に使節を派遣したときの文書において、倭国が国書に用いる上古漢字と魏都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる楷書は差錯(ささく/相違)していたので、倭国の伊都国(いとこく)の港では捜露(そうろ/一字一字ずつ点検・確認して上古漢字と楷書が同義になるように変換)して、女王の卑弥呼に届いたときに差錯(誤訳)が無いように務めていた」と説明している。だから、わが国の学界が「絶対的に正しい」と信じる「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という、日本人の常識となる定説の実体は【『魏志倭人伝』を誤読した空理空論】であったことになる。
「銀河」の別名は「銀漢」または「天漢」である。「銀漢から作られた文字」を略して、わが国でも中国でも「漢字」と称することになったのである。
『魏志倭人伝』が「令亀法」と記す「殷代(いんだい)の甲骨文字のごとき象形文字」であった「上古漢字」は「銀河文字」であったのである。
『魏志倭人伝』に「令亀法」と記された「倭国の上古漢字の字源・字形・字義は銀河各部の形状」であった。この上古漢字は占いが終わって用済みになるとただちに消されたゆえ、文字が書かれた史料が出土しないことになった。というのも、上古漢字・銀河文字は王政(王道政治)の権力基盤であったからである。ゆえに、上古の銀河文字は反体制側の人々が習得して反乱・革命に利用すると王朝を崩壊させることができる威力を有していた。倭国で用いられていた銀河文字は、現在における世界や国家を破壊する「核」のごとき絶大な威力があった。ゆえに、倭の卜辞に用いられた上古の銀河文字は、用済みになったならば消さない人物はじめ消し忘れた人物もさらに消さない人物の一族や消し忘れた人物の一族も全員、即刻、死刑となると厳重に定められていたのである。
卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、上古漢字・銀河文字は後漢時代後半の1世紀ごろに出現した「楷書(かいしょ)を音符(字音記号)」に用いていた。
楷書も「漢字」とよばれるゆえ、楷書の字源・字形の原形・原義は卑弥呼が用いていた上古漢字と同じく「銀河各部の形状」であった。だから、伊都国の役人たちは港から見える・水平線から昇る銀河の帯を観察するのを日課にして、倭の銀河文字と魏都・帯方郡・諸韓国で用いる楷書における相違点を研究して、上古の銀河文字と楷書の変換における差錯(誤訳)による失敗で国交に支障が生じないように努めていたのである。
〔注 たとえば倭の銀河文字の[卑]の字義は「地図の形となる海岸線」を意味した。中国の楷書の[卑]の字義は「身分が賤(いや)しい」であった。「賤しい」の[賤]は[貝]に「淺(浅)い」の右側の[戔]が加わる字であるゆえ「貝が採れる海の淺い地域、つまり海岸線」となる。だから、楷書の[卑]の字義は銀河文字の字源・字義を失った転義であったことになる〕。
◆今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)は銀河文字を発明した。だから、漢字は倉頡によって発明された。いまだ書いた文字史料が出土しない倉頡文字は銀河各部が字源・字形・字義となる銀河文字だったのである。
倉頡は銀河文字が反体制側の人々が習得したならば容易に黄帝王朝は崩壊するということに気づいて、「文字は銀河から作られたと暴露する人物はじめその一族全員を死刑にする」、「書いた文字が用済みになったならば、ただちに消さない人物とその一族、また消し忘れた人物とその一族全員を死刑にする」という厳重な掟を定めた。だから、中国において倉頡文字を書いた史料は出土しないことになった。
このような倉頡が発明した銀河文字がわが国に伝来して習得されていたのである。
したがって、『魏志倭人伝』の大半の記事は「現在まったく不明となった、倉頡が発明した銀河文字の秘密」を科学的に解明できる重大な歴史史料であったことになる。
ところが、現在、「倉頡は漢字を発明した」と伝える伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメであると定まっている。
でも、もしも新井白石以後の学者たちが『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えない考え方をしていたならば、「倉頡伝説は真実を伝えていた」と逆転していたことになる。
◆わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)』(平凡社)は9ページの終わりから3行目から10ページの始めから3行目までで〔わが国の漢字音〕と題して下記のごとく指摘している。
「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によって得られた諸法則が、原理的に適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
上記の「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものである」という文は、「わが国に国語として現存する漢字音は中国に現存する最古の漢字音よりも古い」と指摘していることになる。
中国に現存する最古の漢字音は「上古音」と名づけられ、「上古音」は「紀元前1046年の周代初頭から始まる。
ところが、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説の漢字音は、中国の現存する最古の上古音の漢字音よりも断然(だんぜん)新しい。このように、〔現在の学界の、漢字習得の定説〕は白川静著『字統』における〔わが国の漢字音〕における指摘に反して不合理となって【科学】が成立しない。
いっぽう、『魏志倭人伝』の「倭国には楷書と差錯する令亀法(れいきのほう/甲骨文字)のごときの上古漢字・銀河文字があった」と説明する2ヵ所の記事は、白川静著『字統』の〔わが国の漢字音〕の指摘に合致して真実を伝えていたことになる。
『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく上古漢字の漢字音が随所に記載されている。だから、【『古事記』上巻に記載される〔音〕という注がつく文字】は、白川静著『字統』が「現存する中国の最古の上古音よりも古い」と指摘する、【わが国の国語に残っている現存する最古の漢字音】であったことになる。
漢字を発明した倉頡は「書いた文字は用済みになったならば、ただちに消さない者、消し忘れた者、またその者の一族全員は神罰が下されて死刑にする」と厳(きび)しい掟を定めたが、「〔音(字音)〕だけは消滅しなくてもよい」と禁止しなかった。ゆえに、『古事記』上巻に多数記載された文字は楷書を〔音〕をあらわす記号に用いているが、この『古事記』上巻に記載された上古漢字・銀河文字の【字源・字形・字義】は【銀河各部の形状】であったことになる。
だから、『魏志倭人伝』が「倭国の卑弥呼が用いていた」と伝えている銀河文字は、中国では五帝時代・夏后(かこう)時代・殷代前半に用いられていたことになる。
現在、学界では今から約3300年前から出現する甲骨文字を「漢字の最も古い祖型」と定める。しかし、倉頡伝説が伝えているように、今から約5000年前に倉頡が漢字を発明していたゆえ、「甲骨文字は漢字の最も古い祖型」と断定する定説は根本的に間違っていたことになる。
「漢字の最も古い祖型」は「銀河各部の形状を字源・字形・字義」とする上古漢字・銀河文字であり、『魏志倭人伝』は2か所の記事で「漢字の最も古い祖型の銀河文字」について説明している。
殷代後半の甲骨文字は総字数が4000字を越えた。このため、「書いた文字は用済みになっても消さなくてよい。しかし、文字は銀河から作られたと容易にわかるように暴露した人物とその一族はただちに死刑にする」と厳重に定めた。だから、この「文字は銀河から作られたと絶対に暴露してはならない」という掟のために、現在の学者たちは「漢字は銀河(銀漢)から作られた事実」に気づかない。
◆上記したように、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく銀河文字は、中国において「上古音」と名づけられた最古の漢字音となる周代初頭より以前の殷代、夏代(かだい/夏后時代)、五帝時代のいずれかの時代にわが国に伝来して習得されたことになる。
中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――『古事記』成立(712年)より10年前の702年、中国に渡った第7回遣唐使が中国王朝に「後稍夏音を習う」と伝えたという記事がある。この「後稍夏音を習う」という遣唐使の言は「後(のち)に稍々(やや)、夏音(かおん)を習う」と解釈すべきことになる。
つまり、「後稍夏音を習う」という言は「672年の壬申の乱から9年後の681年3月17日、天武天皇は川島皇子(かわしまのみこ)以下十二人に命じて『帝紀および上古の諸事を記定』させました。このとき、天武天皇は『夏音』を稍々習う(復興する)ことにせよと命じました」と意味するものであったことになる。
だから、第7回遣唐使が告げた「夏音」という語は「紀元前2070年~紀元前2050年頃の中国の夏代初頭に伝来して、わが国が習得した夏音文字」を意味したことになる。というのも、『魏志倭人伝』に記される「大夫(だいふ)」という語の語源は「夏代初頭に、中国から名門・益(えき)氏の王子と若者たち一行が荒波逆巻く玄界灘を横断して日本列島に移住して、倉頡が発明した漢字作成原理と夏音文字の学問を広めた」とあらわすものであったからである。
ゆえに、わが国に現存する夏音文字の字音は、現存する今から約3050前の周代初頭の中国の上古音よりも約1000年も古いことになる。
下に〔漢字生長史〕と名づけた表を配した。この〔漢字生長史〕が明確に示すように、わが国の学界が考古学の「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるは6世紀である」という主張に唯々諾々(いいだくだく)と従う定説は、(1)『魏志倭人伝』の「倭国には令亀(れいき)の法のごとき上古漢字があった」と伝える二つの記事と、(2)太安万侶(おおのやすまろ)が『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)でテーマにして詳細に記述した夏音文字の説明と、(3)音韻学の研究成果の三つの確かな史料を無視して排除する、【科学】に反する空理空論であったのである。
◆上記した681年3月17日において「後稍夏音を習う」つまり「夏音文字を稍々復興する」ことにした天武天皇の「帝紀および上古の諸事の記定の命令」は、後年(720年正月28日)に元明天皇に献上したが拒絶されて正史になれなかった書物『古事記』という書名になった。つまり、天武天皇の命令「上古の諸事の記定」における[古][事][記]の3字を抜粋すると『古事記』という書名になる。その証拠に、『古事記』上巻には〔音〕という注がついて夏音文字が記載されている。たとえば、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話における〔淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚〕の箇所は、総字数381字で構成されそのうち〔音〕という注がつく夏音文字は計32字である。ゆえに、総字数381字中の夏音文字の32字は「稍(やや)」ということになる。『古事記』上巻における各説話は、〔音〕という注がつく夏音文字を稍々(やや)記載して作られている。ゆえに、遣唐使が「後稍夏音を習う」と表現した「天武天皇の世で実現しなかった歴史書編纂事業における夏音文字の復興命令」は『古事記』上巻で実現されたことになる。
『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字は――白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものである」という、中国に現存する最古の上古音よりも古い、現存する最古の漢字音である。
「『古事記』上巻の序」は「古事記上巻 并(あわ)せて序」と表記されている。
「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字の書き下し文にフリガナをつけると、下記のごとくなる。
「臣安万侶言(しんやすまろまを)す。夫(そ)れ混元(こんげん)既(すで)に凝(こ)りて、気象(きしょう)未(いま)だ効(あらは)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。然(しか)れども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作(な)す。」
上記のフリガナつきの文章だと見た目の印象が煩雑(はんざつ)になって、むしろ文意が混沌として判然としないと思われるので、下記のごとくフリガナ無しの文章をも示すことにした。
「臣安万侶言す。夫れ混元既に凝りて、気象未だ効れず。名も無く為も無し。誰かその形を知らむ。然れども乾坤初めて分かれて、参神造化の首を作す。」
上記の「古事記上巻 并せて序」の冒頭文は「臣下の太安万侶(おおのやすまろ)が元明天皇陛下に申し上げます。漢字は銀河から作られました。中国の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、中国から夏音文字が伝来して、わが国は五帝時代に用いられた銀河漢字・書契(しょけい)と夏代初頭の夏音文字の学術を習得しました」と説明するものであった。
だから、【「古事記上巻 并せて序」の冒頭文を構成する34の全漢字の字源・字形・字義】は「【漢字が作られた銀河各部の形状】を観察して芸術的に思考する(つまり、右脳思考する)と正しく訳することができる」と『古事記』上巻における歴史解明方法を説明するものであったことになる。
要するに、上記した「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字をもって「参神造化の首」つまり「縄文時代の首(初頭)、中国からわが日本列島に移住した名門益氏の王子と若者たちによって(1)【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、(2)【倉頡が発明した漢字作成理論】と、(3)【夏音文字の学芸】と、(4)【五帝時代の最後の舜帝(しゅんてい)時代初頭から末までの約200~250年間、代々、益氏がその官職を受け継いで完成させた正確な中国の海岸線地図(つまり、[卑]の字源の「海岸線地図」)と正確な地図作製方法】が伝来した。前期縄文の首(初頭)・中期縄文の首(初頭)・後期縄文の首(初頭)における造化(銀河各部の形状をモデルにして土器・土偶を作った造形芸術)の前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭までの約2000年に及ぶ芸術の参神(つまり、前期縄文・中期縄文・後期縄文時代初頭までの参時代の芸術の神)の伝統によって、中国の学問とわが国の芸術はともに同じ銀河範囲の各部の形状を観察して作成し成立するものであったため、益氏がもたらした学問と芸術の教えはわが日本列島の土器・土偶を作った芸術家たちによって習得された」と、太安万侶が説明していたことになる。
◆『魏志倭人伝』には「古(いにしえ)自(よ)り以来、その使(し)中国に詣(いた)るに、皆大夫(だいふ)と称す。夏后少康(しょうこう)の子云々(うんうん)。」という記事がある。
この記事の末部の「夏后少康の子」というのは「夏王朝の4代目の皇帝・少康の王子」と意味する。ゆえに、倭の使節が皆(みな)、中国に到着すると「大夫」と名乗ったのは「夏王朝の始祖の帝禹(う)の後をついで帝となった益の孫の王子や若者たちのごとく、荒海逆巻(あらなみさかま)く玄界灘を渡って中国に到着した」と誇示する、「吾は神に祝福された男だ 英雄だ」とあらわす語であったのである。
万葉仮名の「大夫」は「ますらを」と読み、今日、「ますらを」は「益荒男」と表記する。ゆえに、「益荒男」は「益氏の王子や若者たちのごとく、荒波逆巻く玄界灘を渡ってきた男(おのこ)だ」という意味を略して成立した語であったのである。
益氏は五帝時代の四番目の帝尭(ぎょう)の時代に初めて登場し、五番目の帝舜(しゅん)の時代に「虞(ぐ)」という「正確な中国海岸線地図を作製する重職」に任命されて、代々約200年~約250年のあいだ務めた。そして、益の首長は夏王朝の始祖の帝禹の遺言で帝位についた。
司馬遷(しばせん)著『史記』の〔陳杞世家(ちんきせいか)〕は「帝王になった益の子孫は、中国のどこに封ぜられたか不明である。史伝に記載されていないからである」と記す。
「名門益氏を受け継ぐ益の孫の王子と若者たちは玄界灘を渡って日本列島に定住した」ため、益帝の子孫は中国の歴史から忽然(こつぜん)と消えたのである。
『日本書紀』巻第三の神武天皇紀の初頭には「天祖・彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)」が登場する。この「天祖・彦火瓊瓊杵尊」は「益帝の孫の王子」であった。ゆえに、天祖の名に用いられる[瓊]の右下には[夏]の字が配せられる。
◆前述したように、「銀河」の別名は「銀漢」である。「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」とよばれることになった。
漢字の発明を伝える伝説は「倉頡(そうきつ)伝説」とよばれる。漢字作成理論は今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡によって発明された。
倉頡伝説は「倉頡は四つ目の怪人であった」と伝える。これゆえ、学者たちは「人間には目が四つ無い! 倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメである」と倉頡伝説を全面的に否定する。学者たちは――漢字は中国の民族の結晶であり、長い歴史のなかで発展してしだいに体系を整えてきたものであると考えるべきであると主張する。
しかし、『魏志倭人伝』は――漢字は四つ目の怪人の倉頡が発明した漢字作成理論を出発点として、長い歴史のなかでまるで樹木の生長のごとくしだいに言葉が生まれて倉頡の漢字作成理論の基(もと)に新しい文字が生長して、文字数をふやしてきた。また、中国の夏代初頭に名門益氏の王子・彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)が日本列島に移住して、倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸を教えひろめた――と伝えている。
280年~289年に著作された『魏志倭人伝』に記載される【倭国の対馬国(つしまこく)から狗奴国(くなこく)までの30の小国名】によって、上記した【漢字は四つ目の怪人の倉頡が発明した漢字作成理論を出発点として、長い歴史のなかでまるで樹木の生長のごとくしだいに言葉が生まれて倉頡の漢字作成理論の基(もと)に新しい文字が生長して、文字数をふやしてきた歴史】が【科学】が成立して証明される。
だから、『魏志倭人伝』に記載される【対馬国から狗奴国までの30の小国名は倉頡伝説が真実を伝えていると証明することができる【科学】が成立する確かな証拠であるゆえ――学者たちの「倉頡伝説は荒唐無稽のウソである」という主張は荒唐無稽の空想であったことが決定的となる。
〔注 なお、邪馬壱国の東の海上にある名称不明の小国と、侏儒国(しゅじゅこく)・裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)という4か国は、わが国に益氏の王子と若者たちが夏代初頭に移住して漢字(銀河文字)が伝来した状況を説明している歴史史料となる。〕
要するに、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人倉頡」は「漢字作成理論の中枢部となる銀河部」の名称であった。「漢字作成理論の中枢部となる銀河部」は「出産児の顔の形」に相似する。その「出産児の顔となる銀河部には両目、出産児の頭となる銀河部の後頭部に「目の形」にソックリの銀河部位があり、出産児の顔のアゴ(首)には「細い切れ長の目」の銀河部位がある。ゆえに、「漢字作成理論の中枢部となる銀河部」には「目の形に相似する箇所が四つある」ゆえ、「漢字作成理論」は「四つ目」と表現され、「漢字作成理論を発明した倉頡」は「四つ目の怪人」とよばれることになったのである。
倭女王の卑弥呼は「四つ目の銀河における横顔において、目の形がある後頭部とアゴに隣接する西側の銀河部位」を「邪馬(やま)」と名づけた。この「邪馬」は「出産児が産道を通過する頭蓋骨」をあらわし、[壹(壱)]の字源銀河は「母体の子宮に相当する銀河」であったゆえ、卑弥呼は倭国の首都が所在する地所を「邪馬壱国」と名づけたのである。
したがって、女王国名となった「邪馬壱」は「四つ目の怪人倉頡」と名づけられた秘密の銀河部と【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究を文字作成目的とした倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわしていた。
◆「四つ目の怪人倉頡の銀河部」は「漢字」の[漢]の字源部の中枢部である。
「全漢字が作られた銀河の範囲」は、天文学では通称「夏の銀河」とよばれる。
「夏の銀河」は「夏に最も長時間見える銀河の範囲」である。「夏の銀河」は「夏の星座がすべて漬(つ)かる銀河」の通称である。
「夏の銀河」は「はくちょう座の尾の部分(東の端)からさそり座の頭部(西の端)までの、壮麗で明瞭で巨大な銀河」である。
「春の銀河」、「秋の銀河」、「冬の銀河」とよばれる銀河もあるが、「夏の銀河」は「春の銀河・秋の銀河・冬の銀河よりも壮麗で、もっとも形がはっきりしていて、もっとも巨大である」。
ゆえに、「テレビの画面に映し出される銀河」の大半は「夏の銀河」であり、「夏の銀河」は「銀河」・「銀漢」の代名詞である。
下に「夏の銀河の写真」を示した。
漢字作成理論を発明した倉頡はみずからが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側が文字を習得して反乱に利用したならば容易に王朝は滅びるにちがいないと心配した。また、現在のロシアのプーチンのごとき傲慢(ごうまん)・乱暴・冷酷・強欲・狡猾(こうかつ)な人物が文字を習得して反乱をおこして帝王になったならば人民たちに恐ろしくおぞましい不幸・苦しみと深い悲しみを与えるにちがいないと深刻に心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す三つの掟を破った人物はもちろん、その人物の一族全員に厳(きび)しい神罰が下されて死刑に処せられると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
【1】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」と、容易に秘密が理解できるように明確・直接的に説明して暴露する者はもちろん、その者の一族全員をも死刑にする
【2】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、銀河各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする
【3】書いた文字が用済みになったならば、ただちに書いた文字を消さない者また消し忘れた者はもちろんその者の一族全員をも死刑にする
上記の【3】の掟のために、五帝時代の「書契」とよばれた漢字、夏代の夏音文字、殷代前半の漢字は〔音(字音)〕が存在したが、文字を書いた史料は出土しないことになった。殷代後半の甲骨文字は4000字を越えて多数となったため、【3】の掟はまもらなくてもよいことにしたので、文字を書いた史料が多数出土することになったのである。
そして、上記の【2】の掟のために「夏の銀河各部の名称」は存在しないことになった。現在、天文学はじめ種々の学問分野においても「字源が解明できる・夏の銀河各部の名称」を定めていない。それゆえ、『魏志倭人伝』に記載された34の小国名に秘められた【倉頡が発明した漢字作成理論と、夏音文の学芸の秘密】を解明するためには、「夏の銀河の各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、下記のごとく「夏の銀河の名称」を定めた。
◆以上のごとく、【A】わがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・9」にて、『魏志倭人伝』は「女王卑弥呼が倭国の都と定めた地所の名は邪馬台国と書いてある」と主張して、「邪馬台国は九州であった」または「邪馬台国は畿内であった」と主張する学者たちの意見は【100パーセント誤読の産物】であったのである。
『魏志倭人伝』は「邪馬壱国に至る、女王の都とする所なり」と記す。だから、女王国名は「邪馬壱国」であったと考えるべきことになる。
というのも、「女王国名は邪馬壱国であった」と考えて、さらに「『魏志倭人伝』の全記事は正しい」と定めて1ヵ所も【誤読】を加えない論法にすると、『魏志倭人伝』の全記事は矛盾点や不合理な点が一点もなく【科学】が成立して「邪馬壱国は山陰の出雲地方であった」ことになる。だから、「女王国名は邪馬壱国」であったと考えるべきことになる。
このように卑弥呼は邪馬壱国・出雲地方に居住してことになり、卑弥呼は九州にも大和・畿内にも邪馬台国にも住んでいなかったことになるゆえ、邪馬台国説は「雲をつかむような真っ赤なウソ」であったことになる。また、国名の「邪馬壱」は前述したように【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論をあらわす名詞】であると証明される。このように、「卑弥呼が住んだ地所は邪馬壱国であった」と考えると、『魏志倭人伝』の全記事は正しいと証明されて【科学】が成立して論理が完結(かんけつ)する。だから、邪馬台国九州説と邪馬台国説の実体はまぎれもなく100パーセントの空理空論・真っ赤なウソであったことになる。
【B】わがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・10」では「邪馬台国説は完全に空理空論である」と【科学】を用いて立証した。
学者たちは女王国の所在地について【「天の北極」がある方角を〔北〕と定める現在の日本地図】を用いて考える。ゆえに、この論法だと「天の北極の高度を緯度に換算する方法」で、倭の使節と船乗りたちは魏と国交を結ぶために玄界灘を往来したことになる。しかし、この「天の北極の高度を緯度に換算する方法」だと、前回のブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・10」で科学的視点にもとづいて証明したように――倭の使節と船乗りは海上の位置と方角を精確に測定できなかったゆえ、倭の使節と船乗りたちは玄界灘はじめその先の大海を渡れず朝鮮半島に到着することが出来ずに全員死んでいたことになる。
したがって、倭の使節は玄界灘を渡ることもまた往来することができなかったことが事実となると――『魏志倭人伝』には「倭人」という2字も「卑弥呼」という3字も「邪馬台国」という4字も、ましてや『魏志倭人伝』を構成する約2000字もすべて忽然(こつぜん)と消滅して、『魏志倭人伝』には1字も書かれていなかった真っ白な白紙であったことになる。
だから、邪馬台国説の実体は「【科学】に反する、完全なる空理空論、空想、デタラメであった」ことが簡単明瞭に証明される。
科学的視点に立って考えると――倭の使節は「原始のときから人類が精確に1度の60分の1の1分の精度で緯度が測量できた【天頂にある緯度線と子午線をキャッチする方法】」をもって玄界灘を渡って魏と国交を結んで、無事に帰還していたことが明白となる。
下に、倭の使節が往来した海の名「玄界灘」のうちの先頭字[玄]の字源解説図を配した。
下図の左側の上部は、[亠(とう)]の字形解説図である。[亠]の字形は【天頂にある緯度線と子午線の図案】である。[亠]の下の[幺(よう)]の字源は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の医学研究】をあらわしている。言いかえると、[幺]の字形は「骨盤入口から膣口(ちつこう)までの産道を通過する胎児の図案」である。
結局、[亠]に[幺]を加える[玄]の字は「大海を往来するとき、胎児(幺)のごとく無欲になって[亠]の字源【天頂にある緯度線と子午線】をキャッチすれば、命(いのち)を手に入れることができるという、大海を往来するときの心得」をあらわした。
だから、魏と国交を結ぶために倭の使節が往来した陸地から遠く離れた波の荒い大海が「玄界灘」と名づけられた秘密は――[幺]の字源「産道を通過する胎児のごとく無欲」になって、[亠]の字源「天頂にある緯度線と子午線をキャッチ」すれば死なずに往来できたゆえ――倭の使節が往来した九州の沖の大海は「玄界灘」と名づけられたのである。
【C】このブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・11」で解説したように、『魏志倭人伝』にある「倭国には上古漢字があったと伝える二つの記事」は真実であった。
『魏志倭人伝』の2ヵ所の記事が「倭には上古漢字が存在した」と伝える、この上古漢字は「夏音文字」であった。夏音文字は『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数残っている。わが国が習得した夏音文字は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を保存していた。
上記したように、今から約4000年前、中国の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、わが国には中国から夏音文字が伝来して習得されたのである。
だから、わが国の考古学の見解に従って「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説は【科学】に反する空想であったのである。
漢字は【字源・字形・字義・字音】の4つの要素で構成される。前述したとおり、【倉頡が死刑と定めた3つの掟】のために、【夏音文字の字源・字形・字義は夏の銀河各部の形状】であった。そして、倉頡は「口から発する言(ことば)となる字音はあらわすことができる」と定めたゆえ、『魏志倭人伝』には卑弥呼(ひみこ)はじめとする人名・小国名・官職名に用いられて残った。しかし、『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名は(1)夏音文字の字音(をあらわす楷書)と(2)後漢時代後半から出現した楷書の字音が混じりあう状況となっているゆえ、人名・小国名・官職名をすべて楷書の字音で読めば「『魏志倭人伝』には夏音文字が記載されて残っていない」と主張することができる。しかし、『古事記』の上巻には〔音〕という注がつき、楷書を字音の音符に用いて多数夏音文字が記載されている。だから、『古事記』上巻にもとづいて『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名にも夏音文字の字音は用いられて幾つか残っていると主張することができる。
以上のごとく、【邪馬台国説が100パーセント空理空論・虚妄(きょもう/デタラメ)であること】は、上記した【A】【B】【C】の3点によっていとも簡単に証明される。
【A】のごとく「女王国名は『魏志倭人伝』のとおり邪馬壱国であった」と考えると、「邪馬壱」という3字は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器、の研究を作成目的として倉頡が発明した漢字作成理論をあらわす名詞」であったことが解明できる。また、【B】科学的視点に立って【魏と国交を結んだ倭の使節はどのように緯度を精確に測定して玄界灘を往来したのか】と考えると、【学者たち全員が主張する・現在の日本列島地図にもとづくの考え方では、倭の使節は玄界灘を往来できなかったこと】になる。また、【C】『魏志倭人伝』にある「2世紀末から3世紀半ばまでの卑弥呼時代に、わが国にはすでに漢字が伝来していた」と説明する二つの記事によって、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説は空理空論であったことになる。
以上、邪馬台国説論者たちの「『魏志倭人伝』の全記事は正しくない」という主張に反して、『魏志倭人伝』は【誤読】を1ヵ所も必要としない全記事が正しい歴史史料であったことになる。
この結果、『魏志倭人伝』に記述された真実は日本国の根本的な成り立ちや現在生きているわれわれ日本人の思想や行動と密接な関係をもつということが明らかになる。
だから、学界やマスメディアの「邪馬台国説はもっとも正しい意見である」とする無責任な意見の言うとおりになってデタラメ・真っ赤なウソの邪馬台国説を破棄せずに放置していることは日本国が壊され、日本人の生活における最も大事なものを失って日本人が壊される――ということに、日本人は気づかねばならないことになる。
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