邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・10
#女王国・邪馬壱国は出雲地方であった
◆邪馬台国説は完全に空想である
すべての真実を何もかもぶっこわすウソだ
邪馬台国説にはダマされるな
邪馬台国説は徹底的に無視せよ
日本国民はすっかりダマされている
邪馬台国説にバカにされるな
日本国民をコケにされている
邪馬台国説は学者たちのタワゴトなのだ
日本が日本である真実をぶっこわすフェイクだ
日本人が日本人である真実をぶっこわすウソだ
その証拠に 「邪馬台国説は空想だ」と完全証明できる遺跡が現存する
◆このブログは前回のブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・9」に続いて、邪馬台国説が【空想の産物】である事実を証明できる、学者たちが徹底的に無視して偽(いつわ)る問題点を暴くことにした。
今回は、前回に増して【邪馬台国説が完全な空想であったという事実】が簡単明瞭となる。
邪馬台国説は【誤読の、空想】であることは誰にも否定できない明白なる事実である。
というのも、【邪馬台国説が簡単明瞭に、完全なる空想であると断定できる遺跡】が現存するからである!
倭女王の卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は、西暦180年頃から250年頃のわが国の様子を説明する確かな歴史史料であった。
『魏志倭人伝』は、晋(しん)の歴史編纂官であった陳寿(ちんじゅ)が280年~289年に著作した『三国志』のうちの「魏書東夷伝(ぎしょとういでん)」の末部にある〔倭人伝〕の通称である。通称『魏志倭人伝』は約2000字で構成される。
『魏志倭人伝』は陳寿が著作した原本(3世紀後半)は現在、残っていない。現存する『魏志倭人伝』は12世紀の南宋紹煕刊本(なんそうしょうきかんぽん)である。
わが国の学界と学者たちは「倭女王・卑弥呼が居住した倭国の首都が所在した地所は邪馬台国(やまたいこく)であった」と断定する。しかし、南宋紹煕刊本『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した地所を「邪馬壱国(やまいこく)」であったと記す。
だから、前回のグログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・9」で詳細に解説して証明したように、わが国の学界はじめ学者たちが「邪馬壱国」と記しているにもかかわらず「卑弥呼が居住した地は邪馬台国であった」とウソをつく邪馬台国説は、日本国民をダマしてコケにし、愚弄(ぐろう)する完全なる【誤読の、空想の産物】であったことになる。
ためしに邪馬台国説の考え方を全部否定して、真っ先に「邪馬壱国」は「邪馬壱国」と読むことから始めて、『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えずに立論してみると――さまざまな疑問が生ずるが、この疑問のすべてはいくつかの学問分野の成果によって【科学】が成立して解決することができる。だから、『魏志倭人伝』の全記事は正しいことになり、「卑弥呼は邪馬壱国に住んでいた」ことになる。また、『魏志倭人伝』の全記事は正しいと証明できる証拠・理由はいくつかの遺跡・遺物のほか、さまざまな日本文化や風俗や慣習や地名などで多数残っている。前人たちは『魏志倭人伝』が歴史史料としての重大性に気づいて、「『魏志倭人伝』の全記事は正しい」と後世に警告(けいこく)したのである。
特に注目すべきは、前回のブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・9」で詳細に解説して証明したように――1725年に死去した新井白石が立論した【空想の産物】の邪馬台国大和説と邪馬台国九州説(筑後山門郡説)を知って「日本国が滅びる! わが国の学問の始まりは消滅する! わが国の文化が根底から崩壊する! わが国におけるもっとも大事な上古史が失われる! わが国において上古に存在した音文字(上古漢字)が消滅する!」と激しいショックを受けた皇室は、白石の死から13年後の1738年の第115代桜町(さくらまち)天皇の即位で本格的に大嘗祭(だいじょうさい)を復興することにした。
だから、2019年(令和元年)11月14日の午後6時から開始された、全国のテレビ画面に映し出されて日本国民が目撃した今上陛下の大嘗祭における様子は「邪馬台国説は空想なり」と日本国民に警告する学問儀式であったのである。
◆『魏志倭人伝』は「邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり」、つまり「倭女王・卑弥呼は邪馬壱国に居住した」と記述している。したがって、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は邪馬台国に居住していなかった」と証言している。だから、「白石以来300年間も受け継がれている邪馬台国説は【科学】がまったく成立しない空想・デタラメとなる」、このいたって簡単な絶対的な仕組み・原理を、邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説をとなえる学者たちはじめわが国の学界やマスメディアはまったく理解できない。
その証拠に、学界とマスメディアは「『魏志倭人伝』の記事を全面的に信用してはならない。信用できる記事はどのように考え方をしたならば信用できるのかと考えなければならない」と主張する。このため、【誤読】が【誤読】を生み、【空想】はさらに深く【空想】へとおちいり、【科学】がいっこうに成立せず論争は果てしなく続いて決着しない。
「邪馬壱国」を「邪馬壱国」と読んで、『魏志倭人伝』には1ヵ所も【誤読】を加えないという立論方法を確立すれば――『魏志倭人伝』の全記事は【科学】が成立する真実となる。だから、1ヵ所も【誤読】が加えない邪馬壱国説のみが唯一真実の意見となる。この邪馬壱国説に反して、仰山(ぎょうさん)な【誤読】を加えてもいっこうに【科学】が成立しない邪馬台国説はまぎれもなく【空想】であったのである。
邪馬台国説は【仰山な誤読を加えた空想】であったゆえ、新井白石以来300年たっても論争を決着することができないのである。
◆このブログでは、邪馬台国説は【空想】であった事実が前回のブログよりさらに簡単明瞭に決定的にわかる秘密について解説する。
このブログでは――邪馬台国説の考え方だと、約2000字で構成される『魏志倭人伝』はすべて粉砕消滅して1字も書かれていなかったことになる。2000字の『魏志倭人伝』が一気に1字も書かれていない事態となる邪馬台国説は明らかにウソ・フェイク・空想・デタラメということになる問題点――をテーマとする。
邪馬台国説論者たち全員と学界は現在の日本列島地図を立論基盤にして「九州は本州の西端に所在し、東海地方と北陸地方は九州の東方に在る」と考える。
しかし、『魏志倭人伝』は「九州は本州における〔北〕に所在し、東海地方と北陸地方は九州の〔南〕に在る。つまり、卑弥呼王朝は本州地理について時計回りに90度方位は転回して〔東〕は〔南〕となると定める転回本州列島地理を制定していた」と記述する。
『魏志倭人伝』は「卑弥呼王朝は人類が原始のときから生命をまもって生活した方法で九州以下の本州列島地理における方位規定を定めていた」と伝えていた。だから、九州以下の本州日本列島地理の方位規定は現在の日本地図と異なって、現在の本州において〔西〕にある九州は〔北〕、本州の〔東〕にある東海地方(愛知県・静岡県)は〔南〕に在ると、卑弥呼王朝は本州列島地理の方位規定を定理していたのである。
だから、現在の日本列島地図を立論基盤とする邪馬台国説の正体は『魏志倭人伝』にある方位記事に多数の【誤読】を加えて立論する【空想の産物】であったのである。
だいいち、邪馬台国説のごとく現在の日本地図にもとづいて「〔天の北極がある方角〕が〔北〕」と断定すると、【原始のときから人は緯度を精確に測定できなかったこと】になるため、大海で囲まれる日本列島はヒトが一人も居住していない無人島であったことになる。日本列島には人が一人も住んでいなかったことになると、「邪馬台国」とよばれる地所も存在しないことになり、「卑弥呼」とよばれた倭女王も住んでいなかったことになり、さらにもちろん約2000字で構成される『魏志倭人伝』には1字も存在しない白紙であったという結論になるゆえ、邪馬台国説は「完全なる空想!」とただちに断定できる。
だから人類は【緯度を精確に測定できる眼力と本能】をもって大海に囲まれる日本列島に渡来して居住した。ゆえに、【原始のときから、人が緯度を精確にできるは方法(眼力と本能)】と【胎児の頭が骨盤入口を通りぬけて、頭が出産するまでの医学の様子】を合体する【学術】にもとづいて――『魏志倭人伝』は倭人国を構成した対馬国(つしまこく)から黒歯国(こくしこく)までの33ヵの国名に用いられる文字(ただし、1国は国名が記述されていない)をもって「本州の〔東〕は〔南〕に伸びている」と説明していたことになる。
◆『魏志倭人伝』の後半部には――238年(魏の景初二年)~247年(魏の正始八年)まで、倭人国(わが国)の使節は帯方郡(たいほうぐん/魏の出張機関政庁が所在した朝鮮半島のソウル市近辺の郡)・魏都・洛陽(らくよう)に到着して魏と国交を結んだ様子――が詳細に記述されている。
『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方(郡)の東南、大海の中に在り」である。
倭人国から帯方郡の東南にある大海は「玄界灘(げんかいなだ)」である。
倭人国の使節は九州の港から出帆(しゅっぱん)して玄界灘を渡って帯方郡に至り、さらに魏都に到着し、任務が終わって帰路についたときにも玄界灘を渡って倭国に帰還した。
したがって、魏は【238年ころから247年ころまでに玄界灘を往来した倭国の使節の説明や、倭国の使節がもたらした倭女王・卑弥呼が書いた国書(文書)に書かれた記事によって2世紀末~3世紀半ばの倭国の様子】を知ったことになる。この倭国に関する資料は魏王朝から晋王朝へと受け継がれて、晋王朝で秘蔵されていた倭国の資料を閲覧(えつらん)した歴史編纂官の陳寿が『三国志』魏書東夷伝末部の〔倭人伝〕に書き写したゆえに、『魏志倭人伝』が現存することになったのである。
だから、もしもわが国(倭国)の使節が玄界灘を往来することができなかったならば魏は倭国の様子をまったく知ることができなかったことになるゆえ――約2000字で構成される『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていない白紙であったことになる。
したがって、1字も書かれていない白紙の『魏志倭人伝』には、前述したように「倭人」という2字も「卑弥呼」という3字も「邪馬台国」という4字も存在せず、また『魏志倭人伝』の約2000字もパッと真っ白な煙となって1字も残らずにすべて消滅してこの世にまったく存在しなかったことになる。
これゆえ、「い」のいちばん・真っ先に〔倭国の使節と船乗りたちは【玄界灘を往来できた方法】〕を有していたと考えるべきことになる。いいかえると、〔倭国の使節・船乗りたちが【玄界灘を往来できた科学の秘密】を解明して始めて、「『魏志倭人伝』はこの世に実際に存在する歴史書であった」と証明することができる。
ところが、前述したように、邪馬台国説学者たちのごとく【現在の日本列島地図と同じく、〔天の北極がある方角〕を〔北〕と定める方法】で考えると、〔倭国の使節・船乗りたちは【玄界灘を往来できなかったこと】〕になる。
だから、『魏志倭人伝』に「本州の〔西〕にある九州は〔北〕に在った。本州の〔東〕にある東海地方(愛知県・静岡県)は九州の〔南〕にあった」と伝える〔転回本州列島地理〕は、【原始のときから人類が大海に囲まれる日本列島に住み着いた方法】をもって考えられていたことになる。この【科学的事実】は『魏志倭人伝』研究において真っ先・最初に必ず解明しなければならい事項となる。
◆倭国の使節と船乗りたちは〔原始からの人類の慣習と伝統〕にもとづいて、〔【天頂にある緯度線と子午線をキャッチ】して精確に緯度を測定して(1度の60分の1の1分以内の精度で緯度を測定できる方法で緯度を測定して)〕、玄界灘を往来していた。
上記した【天頂緯度線のキャッチ】にもとづいて、卑弥呼王朝は現在の日本地図において〔西〕に在る九州は〔北〕に位置し、現在の日本地図において〔東〕に在る東海地方や北陸地方(愛知県・静岡県や石川県・富山県)は〔南〕に位置するという、転回地理・方位規定を考えていたのである。
だから、倭人国の使節は断じて〔天の北極の高度を緯度に換算する方法〕で玄界灘を往来しなかったことになる。
◆上記したように、学者たちは全員「卑弥呼王朝は、現在の日本地図と同じく北極星や天の北極がある方向を〔北〕と定める本州地理を考えていた」と断定する。
下図は〔天の北極と北極星の位置図〕である。
下図における〔大円〕は〔各時代の、天の北極の位置〕をあらわす。下図における〔星座の星〕は〔各時代の、北極星〕となる。
天の北極は下図中央の〔黄道の北極〕を中心にして25,800年で大円を描いて一周する。
北半球における地平線(水平線)から天の北極までの高度が35度36分の地所の緯度は、北緯35度36分である。ゆえに、その地の天の北極の高度が、その地の緯度を示す。
上図が示すように、いかなる時代においても〔天の北極〕と重なる〔北極星〕は存在しない。ゆえに、〔無・暗闇である、天の北極の高度〕は〔天の北極を中心として円周する北極星〕で測量しなければならない。
〔天の北極に最も近づく北極星〕は紀元前2790年頃の〔りゅう座α星〕と、現在から約80年後の21世紀末の〔こぐま座α星〕である。この〔二つの北極星〕は〔天の北極から約45分離れている〕ゆえ、〔天の北極を中心にして直径が約90分の距離で円を描く〕。
ところが、人間の脳にはもちろん、また日々鍛錬しても人間の目には【90分の直径の円を描く〔北極星〕で、その円の中心となる〔天の北極の高度〕を1度の60分の1の1分以内の精度で精確に測量できる能力】がそなわっていなかった。
だから、すべての時代において、〔天の北極〕では精確に緯度が測定できなかった。
上図の中央の右上に「10°」と記したように、卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばの北極星(こぐま座β星)は天の北極から「約10度(約600分)」離れていた。ゆえに、卑弥呼時代の北極星は、天の北極を中心にして直径約20度・約1200分の円を描いていた。
上記したように【〔90分の円を描く北極星〕を目星にして〔天の北極の高度〕を1分の誤差内で測定できなかった】ゆえ、卑弥呼時代における【1200分の円周の直径の中心・緯度となる〔天の高度〕を、精確に1分の誤差内で測量できる本能と眼力】は、人類にはそなわっていなかった。だから、卑弥呼時代、倭の使節が天の北極の高度で緯度を測量する方法で九州沖の玄界灘に入ったならば、全員が命を落として帰還することができなかった。
これゆえ、「天の北極と北極星」は【命】を奪う死神であったゆえ、日本列島全地図の【北】を表示する基準(目星)にはならなかった。
だから、学者たち全員の視座(しざ)は【科学】にまったく反している。
◆卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ばまで)より以前――そのすべての時代において、精確に緯度を測定する手段は【天頂緯度線をキャッチする方法】であった。
ゆえに、【天頂緯度線をキャッチすると、精確に緯度が測定できる事実】にもとづき、現在の日本列島地図における経緯度原点は旧東京天文台の子午儀の中心の緯度(北緯35度39分17.5148秒/東京都港区麻布板倉3-18)である。
(注 旧東京天文台の子午儀の経度は東経139度44分40.5020秒である。
だから、倭国の使節は【天頂緯度線をキャッチ】して玄界灘を往来していたことになる。この【天頂緯度線のキャッチする方法】は、原始のときから人類が精確に緯度を測量していた習慣と伝統によるものであった。
つまり、『魏志倭人伝』は「原始以来、人類が【天頂緯度線をキャッチ】して精確に緯度を測定していた方法】に則(のっと)って、卑弥呼王朝は九州以下の本州地理を時計回りに90度転回すると定めていた」と伝えていたことになる。
下図に〔漢字[亠](とう)の字源・字形解説図〕を配した。
下図が示すように[亠]は「天頂緯度線と子午線」から構成される。
これゆえ注目すべきは、現在の日本列島地図における経緯度原点となる旧東京天文台の子午儀の中心は下図の[亠]の字源・字形「天頂緯度線と子午線」を表示していることになる。したがって、「旧東京天文台の子午儀の中心」は[亠]の字源・字形・字義をあらわしている。
だから、「旧東京天文台の子午儀の中心」は「倭国の使節と船乗りたちは【天頂にある緯度線と子午線をキャッチ】して玄界灘を往来していた」とあらわしている。
◆下の図は〔天頂緯度線のキャッチの解説図〕である。
下図の右上に、漢字[亠(とう)]を配した。
「天頂緯度線」イコール「観測者が居る観測地点の緯度」である。だから、【天頂緯度線のキャッチ(測定)】は「観測地点の緯度を精確に測定できた」と意味した。
原始のときから、ヒトの脳には、【天頂緯度線をキャッチ】して精確に緯度測定できる本能がそなわっていた。また、ヒトは【天頂緯度線をキャッチする訓練】を励んできたえれば〔1度の60分の1の【1分】の緯度差を測定できる神秘的な眼力〕を有することもできた。
だから、この神秘的な呪力(じゅりょく)によって、一団を組んで日々食料を求めて移動した原始の生活にあっても、「道に迷った! 位置(緯度)も方角(経度)もまったくわからない! 死ぬ!」と一気にパニック状態におちいることもなかった。人類は星座よりもはるかにまさって壮麗な、さまざまな印象的な形を有する天頂にめぐってくる銀河部(天頂点と重なる銀河部)を地理代わりにして、【天頂緯度線(つまり、精確に緯度)をキャッチ】してたくましく巧(たく)みに生存できたのである。
原始人たちはじめ、わが国の縄文人や弥生人も、また卑弥呼時代(後期弥生時代後半)の倭国の使節も〔頭脳にそなわる本能と目にそなわる呪力(神秘的な眼力)をもって【天頂緯度線をキャッチすること】ができた(つまり、緯度を1度の60分の1の1分以内の精度で測量できた)〕ゆえ、陸地から遠く離れる大海を横断でき、遠く離れる地所へ旅しても家族が待つ家に帰還することができたのである。
したがって、『魏志倭人伝』に登場する倭人国の使節は【天頂緯度線をキャッチ】して玄界灘を往来していたことになる。
だから、『魏志倭人伝』には「現在の日本地図における本州の〔北〕を、卑弥呼王朝は90度転回して〔東〕になると定めた」と記述されることになった。この『魏志倭人伝』に記述された【本州地理における時計回りに90度転回する方位規定】は【原始のときから受け継がれた天頂緯度線をキャッチした習慣・伝統における方位観念】であったのである。
というのも、ヒトは【天頂緯度線をキャッチ】して〈いのち・命〉を原始のときからまもってきたからである。
◆[亠]の下に、[幺(よう)]を加えると[玄(げん)]の字となる。
下に、〔[玄(げん)]の字源解説図〕を配した。
[玄] の下につく[幺]の字源について、“字書の聖典”と尊敬された卑弥呼が歴史上に初めて登場する約60年前の121年に成立していたとされる『説文解字』は「小なり。子の初生(しょせい)の形に象(かたど)る」と解説する。
だから、[幺]の字源・字形・字義は「産道を通りぬける出産児」であった。ゆえに、[玄]は「天頂緯度線を必ずキャッチするという欲を有すると天頂緯度線のキャッチに失敗して死ぬが、産道を通りぬける幺(小さな出産児)のごとく無欲になれば天頂緯度線はキャッチできる」と示す、〔天頂緯度線をキャッチする心得〕をあらわした。
だから、中国で漢字が発明された太古以来卑弥呼時代までの学(学問)において「天頂緯度線のキャッチ」と「幺(出産児)の頭が骨盤入口を通りぬけて膣口(ちつこう)にて頭が誕生するまでの経過」は共に【命】をストレートにあらわしていると考えられていたことになる。というのも、幺(出産児)の頭が骨盤入口や骨盤出口を通りぬけてせまい産道(膣)を旋回(せんかい)しながら進み、膣口から誕生するまでの【出産児の【命】が成立する、神秘的な産道を通過する様子】は実際に目撃できたからである。
(注 分娩室における妻の出産の様子を立ち会った夫は、上記した――幺(出産児)の頭が骨盤入口や骨盤出口を通りぬけてせまい産道(膣)を旋回(せんかい)しながら進み、膣口から誕生するまでの【出産児の【命】が成立する、神秘的な産道を通過する様子】は実際に目撃できる)。
ゆえに、[亠]の字源は「倭人国の使節は〔天頂にある緯度線と子午線〕をキャッチして玄界灘を往来していた」と伝え、[幺]の字源「骨盤入口から膣口までの産道を通過する胎児の頭の様子」は「天頂緯度線のキャッチを成功させる心得」をあらわしていた。ゆえに、[亠]に[幺]が加わる[玄]の字は「九州から遠く離れる灘(波が荒い)となる大海」が「玄界灘」と名づけられた由来を伝えていたのである。
前述したように、[亠]は「天頂緯度線と子午線」で構成される。[幺]の字源は「産道を通過する出産児」である。ゆえに、[亠]と[幺]で構成される[玄]の字は「[亠]、つまり天頂緯度線を瞬間的(約4秒~6秒)にキャッチできる、神秘的な能力」と「[幺]、つまりせまい産道を旋回しながら誕生する出産児の神秘的な【命】のいとなみ」をあらわした。
人間の目には[亠]の字源【天頂緯度線を瞬間的(約4秒~6秒)にキャッチできる、神秘的な能力】がそなわっており、この〔眼力〕で人は【命】が確保できた。ゆえに、[亠]の字源「日々の生活にあって【命】を確保できた天頂緯度線をキャッチできる神秘的な眼力」と[幺]の字源となった「【命】が成立する、骨盤入口から膣口までのせまい産道を旋回しながら誕生する出産児の神秘的な様子」は同一視されて、両者ともに【命】を直接的にあらわすことになったのである。
したがって、[玄]の字は「ヒトは原始のときから【[亠]・天頂にある緯度線と子午線】をキャッチして大海を往来し、遠くの地まで旅しても、【命】を失わずに家族が待つ家に帰還できた」とあらわすことになった。
だから、『古事記』上巻に登場する「王・女王・英雄たちの名の後ろに付けられる尊称」は[命]の字が用いられたのである。
◆『魏志倭人伝』に登場する倭の使節は「天の北極の高度で緯度を換算する方法」で玄界灘を往来しなかった。「玄界灘」の名の由来が明確に示すように――倭の使節は原始以来の慣習であった[亠]の字源・字形・字義となった【天頂にある緯度線と子午線】をキャッチして玄界灘を往来した。
卑弥呼時代の倭の使節と船乗りは、〔原始のときからの【天頂にある緯度線と子午線】をキャッチする習慣・伝統〕にもとづいて、玄界灘や朝鮮半島や中国における各地点で天頂緯度線をキャッチ(1分以内の誤差で精確に測量)して朝鮮半島の魏の出張政庁がある帯方郡や魏都に到着し役目をはたすと、倭地に帰還していたのである。
ゆえに、〔国交を結んだ倭国の使節の説明や卑弥呼が書いた倭の国書〕から魏王朝は倭国の様子を文書に記述することができた。そして、後に晋王朝に秘蔵されていた〔魏王朝が作った資料(文書)〕を言いかえると〔倭の使節の説明や卑弥呼が書いた国書の記事〕を閲覧した陳寿(ちんじゅ)はそのまま書き写して、『三国志』魏書東夷伝末尾の〔倭人伝〕に記載した。だから、『魏志倭人伝』(『三国志』魏書東夷伝の倭人伝)が現在まで残ったのである。
以上のごとく、卑弥呼時代、〔天の北極や北極星〕を日本列島地図の方位を定める目星(基準)にしなかった。この原因・根拠・理由は、〔天の北極の高度を緯度に変換する方法〕では、倭の使節や船乗りたちは玄界灘で死滅し、帯方郡にも魏都に到着できず国交を結ぶことができないことになったからである。
だから、卑弥呼王朝は【天の北極と北極星がある方角を〔北〕と定める、現在の日本列島地図と同じ本州列島地理】を制定しなかった。
というのも、学者たちの現在の日本列島地図における方位にもとづいて考える論法では倭の使節は玄界灘で死滅して帯方郡や魏都に到着できなかったことになるからである。したがって、学者たちの意見だと、倭と魏は国交を結べなかったゆえ『魏志倭人伝』には〔文字が1字も書かれていなかったこと〕になる。だから、【「約2000字で構成される『魏志倭人伝』には文字も1字も書かれていなかった」ことになる現在の日本地図で立論基盤とする学者たちの意見】は、ただちに空想、空理空論であると断定すべきことになる。
原始のときから人々は[亠](天頂にある緯度線と子午線)をキャッチして大海を渡って日本列島に居住したーーこの事実は日本人が知っておくべき真実である。しかし、この事実は、今日の日本人が知らざる真実である。
◆今回のブログは、ここまでの説明で終われば「邪馬台国説が空想である事実」がすっきりと簡単明瞭となる。
しかし、〔なぜ卑弥呼王朝は、[亠]の字源「天頂緯度線と子午線」と[幺]の字源「骨盤入口から膣口までのせまい産道を、頭を回旋(かいせん)しながら誕生する胎児の様子」を一体化する学術を用いて、転回本州列島地理を成立させたのか〕、その具体的な説明がなされていない。
それゆえ、これから【卑弥呼王朝が制定した転回本州列島地理が成立した原因】について解説する。
これからおこなう〔転回本州列島地理の成立原因の解説〕によって、新たにいくつかの疑問点が生じるが、これら疑問点はすべていくつかの学問分野の成果によって【科学】が成立して解決できる仕組みになっている。また、いくつかの遺跡・遺物のほか、風俗や慣習や地名などによって疑問は解消できる。これらの解説と証明は長大となっていろいろな問題・事柄が錯綜(さくそう)してむしろ難解となるが、これを一気に解決できる『魏志倭人伝』と同時代に製作された「1千万坪の大鳥の形をした地図」が、静岡県浜松市に現存する。
これから、早速、卑弥呼王朝が制定した〔転回本州列島地理が成立した原因〕について解説する。
◆日本列島の東端には、亜熱帯地区の伊豆諸島の神津島(こうづしま)が所在する。
先史時代から、神津島からは良質な黒曜石(こくようせき)が産出した。黒曜石は火山活動によってできた「黒いガラス」とされ、じょうずに刃をつけると石槍(いしやり)と鏃(やじり)はもとより、皮はぎや肉切り用の石包丁(石器)として利用された。神津島の黒曜石はなんと約3万年前の後期旧石器時代から使用されていたことが明らかとなり、縄文時代、卑弥呼は生存した後期弥生時代においても本土に運ばれて利用されていた。神津島の黒曜石は関東地方、東海地方、近江(滋賀県)、北陸地方(石川県能登半島)まで分布した。神津島から伊豆諸島まで30km以上も海で隔(へで)てられ、神津島から北陸・石川県能登半島までは直線距離で約400kmも離れている。
この神津島の黒曜石を求めて海を往来した交通の事情について、学界は世界史上でも最古の海洋航海と注目するものの、その実態は謎のベールにつつまれて不明とする。
わが国の学者たちは全員〔どのようにして『魏志倭人伝』に登場する倭国の使節を往来できたのか〕、あるいは〔なぜ『魏志倭人伝』はなぜ「本州の〔東〕は〔南〕へ延びている」と説明するのか〕と疑問を抱かない。ゆえに、約3万年前の後期旧石器人たちが〔[亠](天頂の緯度線と子午線)をキャッチして大海を渡って神津島の黒曜石を入手して家族が待つ家に帰還した交通〕について知っていない。
現代史学はまったく気づいていないが、『魏志倭人伝』は――原始のときから、人類は【天頂緯度線をキャッチできる能力】が大脳に〈いのち〉をまもる本能がそなわり、目を鍛錬すると〔天頂緯度線をキャッチできる呪力(神秘的な眼力)〕がそなわっていた。というのも、人類の本能行動と情動行動は大脳辺縁系(だいのうへんえんけい)に分担されており、うまく生きてゆく適応行動と創造行為は大脳の新皮質系に分担されているからであった。このため、原始のときから人類の大脳と目には【天頂緯度線をキャッチできる能力】がそなわっていたゆえ、遠い地所に旅した人も大海を渡った人も家族が待つ家に帰還することができた。この【原始から受け継がれた天頂緯度線のキャッチの習慣】にもとづいて、卑弥呼王朝は本州における〔西〕の九州は〔北〕に在ると考え、本州の〔東〕は〔南〕となると考える、時計回りに方位が90度転回する本州列島地理を制定した――と説明していた貴重な文献史料であったのである。
◆九州沖の玄界灘に浮かぶ沖ノ島と伊豆諸島の神津島は、下図に示すように共に北緯34度15分で同緯度(天頂緯度線が同一)である。
沖ノ島は日本列島の西の端に所在し、神津島は日本列島の東の端に所在する。
神津島は約3万年前から良質の黒曜石が産出することで有名であったゆえ、日本列島の西端にある沖ノ島は日本列島の東端にある神津島と同緯度であることは、卑弥呼が生存した以前の昔から多くの人々に知られていたのである。
下図の左側に示す中国の海岸線地域の北部は中国の海岸線地域の南部より冷たい気候区、中国の海岸線地域の南部の暖かい気候区であるゆえ〔北冷南暖〕ということになる。
いっぽう、日本列島の西端に在る沖ノ島は冬に雪が降る冷たい気候区であるから〔西冷〕となり、日本列島の東端にある神津島は冬でも雪が降らない亜熱帯気候区の暖かい気候区であるゆえ〔東暖〕となる。
日本列島の沖ノ島の〔西冷〕と中国の北部海岸線地域の〔北冷〕は共に〔冷たい気候区〕、日本列島の神津島の〔東暖〕と中国の南部海岸線地域の〔南暖〕は共に〔暖かい気候区〕である。
ゆえに、下図に示すように――日本列島の西端にある〔冷たい気候区の沖ノ島〕は中国の海岸線地域における〔冷たい気候区の北部〕に適合し、日本列島の東端にある〔暖かい気候区の神津島〕は中国の海岸線地域における〔暖かい気候区の南部〕に適合する。
だから、下図に示すように、卑弥呼王朝は「倭地における本州の西→中国の北にある」と「時計回りに方位を90度転回」し、同様に「倭地における本州の東→中国の南にある」と考えて「倭地における方位は時計回りに90度転回しているにちがいない」と定理したのである。
だから、下図に示すように、卑弥呼王朝は【原始から受け継がれた[亠]のキャッチ】を思考基盤にして「沖ノ島と同じく西にある九州は北に所在し、神津島と同じく東にある東海地区(愛知県・静岡県)は九州の南に所在する」と転回本州列島地理を制定したのである。
卑弥呼王朝が制定した転回本州列島地理にもとづくと、『魏志倭人伝』が「邪馬壱国に至る、女王の都とする所なり」と記す「邪馬壱国」は、前回のブログで解説したとおりに「山陰の出雲地方」であったことがいとも簡単にわかる。
というのも、『魏志倭人伝』は「女王国の東、海を渡ること千余里にして復(ま)た国有り、皆倭種なり」と記述しているからである。転回本州地理においては、現在の日本地図の〔北〕にある日本海は〔東〕となる。『魏志倭人伝』の「皆倭種なり」という説明は「4つの大きな島と約180の小島で構成される群島」に合致するゆえ、日本海上には「隠岐群島」のみが「邪馬壱国より東の日本海に浮かぶ皆倭種なりの小国」となる。だから、いとも簡単に「卑弥呼が居住していた邪馬壱国は山陰・出雲地方であった」と確信することができる。
◆上図の〔卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理〕のごとく、卑弥呼王朝は〔原始のときからの伝統である(1)[亠]の字源(天頂にある緯度線と子午線のキャッチ)の慣習と、(2)[幺]の字源「せまい産道を、頭を回旋しながら通過する出産児の様子を注目した医学」が合体する学術に則(のっと)って【沖ノ島と神津島の〔西冷東暖〕と中国の海岸線地域の〔北冷南暖〕の合致】に注目して、上図の「転回本州列島地理」を立論していたことになる。
静岡県西部(旧国の遠江)の浜松市北区の細江町(ほそえちょう)の行政区域を表示する地図の形は、下図に示すがごとく〔1千万坪の大鳥の形〕をしている。この〔1千万坪の大鳥の地図の形〕に、わたくしは別名「卑弥呼の地上絵」、あるいは「建比良鳥(たけひらどり)の地上絵」という別名をつけた。
上図の「卑弥呼の地上絵」つまり「1千万坪の大鳥の地図の形」は、3世紀後半(260頃~290年頃)に約30年の年月を費やして、遠江の豪族・建比良鳥命(たけひらどりのみこと)一族が「卑弥呼が立論した転回本州地理と、伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を子孫代々失われずに永久保存するために図化した遺跡である。言いかえると、現在まで残った「細江町の1千万坪の大鳥の形をした地図の形」は(1)『魏志倭人伝』に記述された歴史と、(2)『古事記』上巻にある〔伊耶那岐命と伊耶那美命説話〕に記述された【日本国(小国・日本)が起源した歴史】を永久保存するために製作された遺跡である。
山尾幸久(やまおゆきひさ)著『魏志倭人伝』(講談社発行)は『三国志』は280年~289年に成立したことになる。ゆえに、『三国志』魏書東夷伝倭人伝、つまり通称『魏志倭人伝』は280年~289年に著作されたことになる。
上記したように浜松市北区細江町の「1千万坪の大鳥の地上絵」は260年頃~290年頃まで約30年間を費やして完成させた地図遺跡であるからして、280年~289年に著作された『魏志倭人伝』の同時代の3世紀後半に作成されたことになる。
したがって、「細江町の1千万坪の大鳥の地上絵」によって、卑弥呼王朝には遠江の豪族・建比良鳥命のように正確な地図を作成する職(官職)につく人物たちが各地方に存在して大勢(おおぜい)参加していたにちがいない。ゆえに、正確な地図を作成する職につく人々による調査・測量によって、上に示した「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理における倭国の33の小国の地図の形」が明らかになったのである。
『魏志倭人伝』は「現在の静岡県西部・旧国の遠江は、倭国の一員の不呼国(ふここく)であった」と記す。当時、「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理」を設計して伊耶那美命・壱与(いよ)が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を表示する地上絵を製作することを、3世紀後半に天下を統治していた大和王朝は、即刻に死刑すると厳重に禁止していた。しかし、熱血漢・遠江の建比良鳥命は【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えることを倫命(りんめい/人間としておこなわなければならない使命)として、大和の崇神(すじん)天皇王朝に歯向かって残した。このため、従来「全記事が正しいことは絶対にありえない」という定説となっていた『魏志倭人伝』の全記事は実は正しかったが証明されることになる。また、「『古事記』上巻の日本神話は虚構(作り物)である」という定説も【誤読の、空想の産物】であったことになり、『古事記』上巻・日本神話は歴史を伝えていた事実が明白となる。
『魏志倭人伝』の全記事は正しく「卑弥呼王朝は時計回りに90度方位が転回する本州列島地理を制定していた」と伝えていたのである。これゆえ、『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)には――天武天皇が672年に上古の歴史書を編纂する詔(みことのり)を指令するときに「邦家(ほうけ)の経緯(けいい)、王化(おおか)の鴻基(こうき)」と述べた――と記す箇所がある。
「邦家の経緯」は「国家組織の根本」と意味するとされる。上に示した「卑弥呼王朝が制定した転回本州列島地理の解説図」において、沖ノ島と神津島の緯度線(北緯34度15分)は「経度線」となる。ゆえに、卑弥呼王朝が制定した転回本州列島地理では「経度」は「緯度」に変化するゆえ、天武天皇は「国家組織の根本」を「邦家の経緯」と表現したのである。
天武天皇の「王化の鴻基」という言は「天皇政治の基軸」と訳される。上に示した〔中国の「北冷南暖」と倭の「西冷東暖」の解説図〕における、中国の〔山東半島の海岸線の地図の形〕を〔鳥の頭の形〕に相似すると見立てると、〔山東半島の付け根から北と南に分かれる海岸線の地図の形〕は〔鳥の両翼の形〕に観える。ゆえに、天武天皇は「転回本州列島地理の基軸」となった「中国海岸線地図の形」を「王化の鴻基」と表現したのである。
下図が示すように、〔山東半島の海岸線の地図の形〕を〔鳥の頭の形〕に相似すると見立てると、〔山東半島の付け根から北と南に分かれる海岸線の形〕は〔鳥の両翼の形〕となる。
天武天皇が「邦家の経緯、王化の鴻基」と表現した「卑弥呼王朝が制定した転回本州列島地理の秘密」を、遠江の建比良鳥命は「1千万坪の地図の形」を設計した。これゆえ、遠江の建比良鳥命が製作した「卑弥呼の地上絵(細江町の1千万坪の大鳥の地上絵)」は「王化の鴻基」つまり「1千万坪の大鳥(鴻)の形」に設計され、また「邦家の経緯」をあらわすため「大鳥の地上絵における緯度線が経度線になるように90度転回すると、中国の海岸線地図の形があらわれる仕掛け」が設けられている。
したがって、「卑弥呼の地上絵」によって、上に示した〔卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理における33の小国の範囲(地図)の形〕は事実であったと証明される。
要するに、『魏志倭人伝』と同時代に製作された「卑弥呼の地上絵」は「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理における33の小国名の地図の形の秘密」を簡略的にしかも濃密にコンパクト化した遺跡であった。これゆえ、現存する「細江町の、卑弥呼の地上絵(1千万坪の大鳥の地上絵)」によって、新井白石以後から現在までの学者たちによって排除されて不明となった『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記述された上古の学問と歴史の秘密を復興することができる。
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