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2022年6月19日 (日)

邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・9

#女王国・邪馬壱国は出雲地方であった

◆邪馬台国説は絶対に信じるな!
 邪馬台国説はすべて空想の産物である!
 邪馬台国説を正しいと思いこむ――わが国の学界の見識は根底から間違っている!
 邪馬台国説が完全なる空想の産物である事実、根拠・理由をこれより解説する

◆「倭女王・卑弥呼(ひみこ)は2世紀末(180年ころ)3世紀半ば(240年ころ)に生存した」と記述する歴史書は『魏志倭人伝(ぎしわじんんでん)』である。
 『魏志倭人伝』は、晋(しん)の歴史編纂官であった陳寿(ちんじゅ)280年~289年に著作した『三国志』のうちの「魏書東夷伝(ぎしょとういでん)」の末部にある〔倭人伝〕の通称である。
 『魏志倭人伝』は陳寿が著作した原本(3世紀後半)は現在、残っていない。現存する『魏志倭人伝』は12世紀の南宋紹煕刊本(なんそうしょうきかんぽん)である。
 わが国の学界と学者たちは「倭女王・卑弥呼が居住した倭国の首都が所在した地所は邪馬台国であった」と断定する。
 しかし、南宋紹煕刊本『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した地所を「邪馬壱国(やまいこく)」であったと記す。
 だから、わが国の学界はじめ学者たちが「卑弥呼が居住した地は邪馬台国であった」と断定する意見は【空想の産物】であった!
 陳寿が著作した『三国志』は「魏書」・「呉書」・「蜀書」(65)から成る。
 201510月に死去した古代史家・古田武彦氏(19262015)1971(昭和46)に『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞発行)を著作した。古田氏は著書『「邪馬台国」はなかった』において――南宋紹煕刊本『三国志』全体にある【壹】()86字、【臺】()56字を一字ずつテイネイに調べ、【壹()】の字を【臺()】と誤記する事例が一ヵ所も存在しないことを証明した。
 したがって、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は邪馬壱国に居住していた」と記していた。だから、「邪馬台国」は【空想の産物】であったことになる。

◆『魏志倭人伝』は「卑弥呼は邪馬台国に居住していた」と記していない。にもかかわらず、学界はじめ学者たちは「卑弥呼は邪馬台国に居住していた」と断定するゆえ、邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説の実体は、当然、【誤読の、空想の産物】であったことになる。
 しかし、邪馬台国説を主張する学者たちはじめわが国の学界は、邪馬台国九州説と邪馬台国説畿内説が【空想の産物】となる道理をまったく理解することができない。
 『魏志倭人伝』は「邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり」つまり「倭女王・卑弥呼は邪馬壱国に居住した」と記述している。したがって、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は邪馬台国に居住していなかった」と証言している。だから、邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は【空想】となる――このようないたって簡単明白な仕組み・道理を、邪馬台国説学者たちはじめわが国の学界は思考停止して理解することができない。

◆今から約300年前に生存した新井白石(あらいはくせき/16571725)1725(享保10)69歳で没した。
 晩年の白石は1716(正徳6)60歳の時に『古史通或問(こしつうわくもん)』を著作して〔「邪馬台国は大和(現在の奈良県)であった」という邪馬台国大和説〕を立論した。さらにその後年、白石は著書『外国之事調書(がいこくのことしらべしょ)』などで〔「邪馬台国は筑後山門(やまと)郡であった」という邪馬台国九州説〕を立論した。
 学者たちは、今から約300年前に立論した新井白石の邪馬台国説が【誤読による、空想の産物】である実体にまったく気づかない。というのも、約2000字で構成される『魏志倭人伝』に1字も【誤読】を加えなければ『魏志倭人伝』の全記事は【科学】が成立する。だから、『魏志倭人伝』の全記事は事実を伝えていたことになる――このような邪馬台国説にとって実に不都合きわまりない真実が存在することを、学者たちは誰一人も気づかない。
 他方、『魏志倭人伝』に「文献批判」と名づける【多数の誤読】を加えて「卑弥呼が居住した女王国名は邪馬台国であった」と断定する九州説と畿内説は、両説共にいっこうに現在においても【科学】が成立しない。ゆえに、九州説と畿内説は【空想】だったことになる。
 『魏志倭人伝』が記しているとおりに卑弥呼が居住した女王国は「邪馬壱国」であったと設定すると「邪馬壱国は山陰・出雲地方(現在の島根県と鳥取県西部)であった」ことになり、『魏志倭人伝』には一点も矛盾点も不合理な点も存在しないことになって、全記事の【科学】が成立する。
 だから、新井白石が立論した邪馬台国大和説と邪馬台国筑後山門郡説はじめ、現在の邪馬台国畿内説と邪馬台国畿内説もまた【空想の産物】と断定しなければならない。
 学界が信頼する現在の邪馬台国説の実体は、新井白石の【空想】をますます肥大化させた、白石の邪馬台国説より退化する【空想の産物】なのである。
 邪馬台国説は「邪馬壱国」を「邪馬台国」と読む【誤読意見】に合致させるために、自説に都合がよい主観・批判・捏造(ねつぞう)などを多数加えるために【科学】が成立しない。
 ところが、『魏志倭人伝』は【誤読】を1ヵ所も必要としない書籍であった。だから、【誤読】を1ヵ所も加えなければ『魏志倭人伝』の全記事において【科学】が成立して、「邪馬壱国は山陰出雲地方であった」という真実が明らかとなる。

◆『日本書紀』巻第九の神功(じんぐう)皇后紀における神功皇后39年には『魏志倭人伝』にある魏の景初(けいしょ)三年(西暦239)の記事が挿入(そうにゅう)され、翌神功皇后40年には『魏志倭人伝』の正始(せいし)元年(240)の記事が引用され、神功皇后43年には『魏志倭人伝』の正始4(243)の記事が引用されている。
 このような『日本書紀』巻第九の神功皇后紀にある『魏志倭人伝』の引用記事を注目して、新井白石は「卑弥呼は神功皇后であった」と主張した。
 しかし、現在の考古学の成果によって、第14代仲哀(ちゅうあい)天皇と第15代応神(おうじん)天皇の中間の時代に生存した神功皇后は卑弥呼ではなかったことになる。
 というのも、考古学の成果によって、第10代の崇神(すじん)天皇を葬った陵墓の築造年代は3世紀後半から4世紀初頭であると検証されているからである。だから、第10代崇神天皇以前の第9代開化(かいか)天皇の治世、晩年の卑弥呼は生存していたことになるゆえ、第14代仲哀天皇と第15代応神天皇の中間時代に生存した神功皇后は卑弥呼ではない。
 『魏志倭人伝』の正始元年(240)の記事は「魏の出張機関の政庁が所在した朝鮮半島のソウル市近辺の帯方郡(たいほうぐん)の使節は倭王に拝謁(はいえつ)した」と説明している。ゆえに、「倭女王、卑弥呼は240年ころに没し、卑弥呼の後を男王が最高位の倭王を受け継いで、帯方郡の使節と面会した」と考えられる。というのも、『魏志倭人伝』の末部は「魏の正始八年(247)ころ、卑弥呼は以(すで)に死んでいた。卑弥呼を葬る大きな陵墓を作り、円墳部の直径は百余歩(150メートル)であった。卑弥呼陵には百余人の奴婢(ぬひ)を徇葬(じゅんそう)させた。さらに、卑弥呼の死後に男王を立てる(つまり、男王が倭王に就任した)」と説明しているからである。したがって、卑弥呼は240年ころに没していたならば、「247年ころに卑弥呼の陵墓が築造されていた」という説明は合理となる。
 この結果、卑弥呼が没したときの倭王(男王)は第7代孝霊天皇か第8代孝元天皇であったと推定される。ゆえに、上記したように第9代開化天皇は、卑弥呼の晩年に生存していたと考えられる。
 
◆考古学においては、遺跡や遺物からして大和王朝は3世紀後半から起源して栄えたと考えられている。ゆえに、大和王朝の基礎を築いた天照大神は、考古学の成果にもとづくと、3世紀後半~4世紀初頭に生存したと考えられる。
 したがって、上記したように、考古学によって大和(奈良県天理市柳本)に所在する第10代崇神天皇の陵墓は3世紀後半から4世紀初頭に築造されたと推定されているゆえ、「崇神天皇」の異名(いみょう)が「天照大神」であったと考えられる。
 『日本書紀』巻第五の崇神天皇紀初頭部には〔疫病の流行〕について説明する箇所がある。
 この〔疫病の流行〕にある[天照大神に関する記事]を、宇治谷孟(うじたにつとむ)訳『日本書紀()(講談社発行)は下記のごとく現代語訳する。
 「五年、国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上に及ぶほどであった。六年、百姓の流離(りゅうり)するもの、或いは反逆するものあり、その勢いは徳を以て治めようとしても難しかった。それで朝夕天神地祇にお祈りをした。
 これより先、天照大神・倭大国魂(やまとのおおくにたま)の二神を、天皇の御殿の内にお祀りした。ところがその神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった。そこで天照大神を豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)に託し、大和の笠縫邑(かさぬいのむら)に祀った。よって堅固(けんご)な石の神籬(ひもろぎ/神の降臨される場所)を造った。また日本大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)は、渟名城入姫命(ぬないりびめのみこと)に預けて祀られた。ところが、渟名城入日姫命は、髪が落ち体が痩()せてお祀りすることができなかった。」
 上記の記事が示しているように、崇神天皇は天照大神を崇拝していた。
 だから、考古学の研究成果からしても『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀に登場する「天照大神」は「崇神天皇」であったと考えるべきことになる。大和朝廷の基礎を築いた崇神天皇は天照大神を崇拝するものであったため、「崇神天皇」は人々に「天照大神」という異名でよばれることになったのである。
 『古事記』上巻では「天照大神は女性」であったと記述している。ゆえに、『日本書紀』が「崇神天皇の生母」と記す「伊香色謎命(いかがしこめのみこと)」も「天照大神」とよばれていたことになる。
 だから、考古学の研究成果にもとづくと、大和王朝の基礎を築いた「天照大神」は「崇神天皇と崇神天皇の生母(伊香色謎命)」であったことになる。

◆上記したように、第9代開化天皇は、卑弥呼の晩年に生存していたと考えられる。
 『古事記』中巻の開化天皇紀の冒頭は、下記のごとく説明する。
 「開化天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して、天下を治めた。開化天皇が丹波の大県主(おおあがたぬし)で名は由碁理(ゆごり)という方の娘である竹野比売(たかのひめ)と結婚なされた。また、継母(ままはは)の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)と結婚なされた。」
 開化天皇の第二后の伊迦賀色許売命(女性の天照大神)は、開化天皇の父・第八代孝元天皇とも結婚している。ゆえに、伊迦賀色許売命は開化天皇の継母であった。
 『古事記』は崇神天皇の生母を「伊迦賀色許売命」と記し、『日本書紀』は「伊香色謎命」と記し、両者は共に「いかがしこめのみこと」と読む。ゆえに、開化天皇の第二后にして継母のイカガシコメノミコト(伊迦賀色許売命=伊香色謎命)は、『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀に登場する「女性の天照大神」であったことになる。もちろん、「男性の天照大神」は「伊迦賀色許売命の実子の崇神天皇」であったことになる。
 開化天皇が居住した「伊耶河宮」の先頭2字の「伊耶」は、『古事記』上巻に登場する「伊耶那岐命(いざなきのみこと)」と「伊耶那美命(いざなみのみこと)」の先頭2字と同じである。ゆえに、「開化天皇」は『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀に登場する「伊耶那岐命」であった。
 太安万侶(おおのやすまろ)が書いた『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)の初頭には「陰陽斯(ここ)に開けて、二霊郡品(にれいぐんぴん)の祖(おや)と為()る」と記す、注目すべき重大な文がある。この文は「陰の伊耶那美命と陽の伊耶那岐命の二霊がわが国のすべてのものの生みの親となったのです。したがって、朝廷が皇室の最高神とする皇祖・天照大神(崇神天皇母子)よりも伊耶那美命・伊耶那岐命の二霊のほうが偉大です」と解釈しなければならず、「陰陽斯に開けて」という文中にある[]の字は「開化天皇」の[]を表示するものであったにちがいない。つまり、この「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖となる」という文は「『古事記』編纂スタッフは時の律令体制に歯向かって、朝廷が絶対に後世に伝えてならぬと厳重に禁止する、皇祖・天照大神の聖性を汚す開化天皇と正妃竹野比売の歴史を、上巻に記述する」と固く熱く決意した情念を明示するものであったことになる。
 『古事記』と『日本書紀』は共に「崇神天皇は開化天皇が伊迦賀色許売命と結婚して生まれた第二子」と記す。
 しかし、崇神天皇は開化天皇の養子であり、孝元天皇が伊迦賀色許売命と結婚して生まれた子どもであったことが、『古事記』中巻の崇神天皇紀における〔建波邇安王(たけはにやすのみこ)の反逆〕に記述されている。この〔建波邇安王の反逆〕の箇所には「崇崇神天皇は、庶兄(まませ)建波邇安王と呼んだ」と記されている。したがって、崇神天皇は「孝元天皇を父とする建波邇安王は庶兄、つまり建波邇安王は崇神天皇の異母兄」であったと述べているゆえ、「孝元天皇を父とする開化天皇もまた、崇神天皇の異母兄」であったことになる。
 このように「開化天皇は崇神天皇の異母兄」であったゆえ、「開化天皇は崇神天皇の実父」ではなかった。ということは〔崇神天皇は孝元天皇と継母・伊迦賀色許売命と結婚して生まれた子〕であり、ゆえに〔崇神天皇は開化天皇の養子であった〕ことになる。

 『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話初頭の〔淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話〕は「伊耶那美命は伊耶那岐命と結婚する時、小国・日本の建国理念を〔愛〕にしましょうと提唱し、小国・日本の人民はじめ卑弥呼は統治した倭人国の国中の人民たちも【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重するようになった」と伝えている。
 『古事記』編纂スタッフと『日本書紀』編纂スタッフは、天照大神(崇神天皇母子)を皇室がもっとも尊敬する先祖の皇祖と定めて崇拝する律令体制に抵抗して、開化天皇の正妃の伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えようと企てた。時の律令体制と朝廷は、天皇の権力を神格化して絶大化するため、大和朝廷の基礎を築いた天照大神を皇室がもっとも尊敬する先祖の皇祖と定めて、天照大神の聖性を絶対に汚してはならぬと厳重に禁止した。しかし、伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】と、伊耶那美命の没後に伊耶那岐命が【日本建国の〔愛〕の理念】を受けついだ歴史を伝えようと企てた『古事記』編纂スタッフの情念は、皇祖・天照大神の聖性をいちじるしく汚すことになった。
 だから、『古事記』の編纂事業は時の律令体制に真っ向から反逆する事業であった。ゆえに『古事記』上巻の〔伊耶那岐命と伊耶那美命説話〕には、皇祖・天照大神の聖性を絶対に汚してならぬと厳重に禁止する律令体制への反逆が表示されることになった。
 『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話〕は「熊野、つまり熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野(和歌山県新宮市)の神倉神社」を「黄泉国」と表記して、「伊耶那岐命がクーデターを決行して倭女王・天照大神(伊迦賀色許売命)を失脚させた歴史」を記述するものであった。
 『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国(熊野)訪問説話〕を要約すると下記のごとくなる。
――倭女王に就任した伊耶那岐命(開化天皇)の正妃・伊耶那美命(竹野比売)が没すると、伊耶那岐命の第二后の伊迦賀色許売命が倭女王に就任した。倭女王・伊迦賀色許売命は『魏志倭人伝』末部に記された卑弥呼の陵墓と同じく多数の奴婢を殺して伊耶那美命の陵墓(熊野本宮大社の旧社地の大斎原)に葬る残虐非道な徇葬(じゅんそう/八雷神の儀式)をおこなった。徇葬を最も嫌悪した愛妻・伊耶那美命の【日本建国の〔愛〕の理念】の遺志をまもるために、桃子三箇(もものみみつ)つまり小国・日本の兵士たちと地元の熊野の戦士たちで構成される三軍の協力を得て伊耶那岐命はクーデターを決行した。伊耶那岐命は少数の日本兵(桃子三箇のうちの一軍)を率いて、伊耶那美命の陵墓・大斎原(おおゆのはら/熊野本宮大社の旧社地に築造され陵墓)の玄室(げんしつ)から伊耶那美命の亡骸(なきがら)を収める棺(ひつぎ)を略奪し、伊耶那岐命一行は桃子三箇の本隊(日本兵と熊野の戦士たちで構成される本隊)が待機する黄泉比良坂之坂本(よもつひらさかのさかもと/現・熊野速玉大社の境内)に向かって逃走(とうそう)した。
 そして、伊耶那岐命は桃子三箇(日本兵と熊野の戦士たち)を指揮して、伊耶那岐命一行を追跡してきた伊耶那美命の陵墓を護衛していた倭国の大軍・千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)を現熊野速玉大社の境内にて撃破した。
 おどろくべきことに、夫の伊耶那美命への愛に対する嫉妬と憤怒と憎悪で身を焦()がした天照大神・伊迦賀色許売命は大斎原に築造された宮殿から熊野速玉大社付近までの真っ暗な夜の熊野路を執念深(しゅうねんぶか)く追ってきた。日本兵に捕らわれた天照大神は、伊耶那岐命がいる熊野速玉大社から約1km南の黄泉比良坂(よもつひらさか/和歌山県新宮市磐盾町に所在する神倉神社の急坂の参道)を塞(ふさ)ぐ千引石(ちびきのいわ/神倉神社の御神体の巨大なコトビキ岩)の前に連行された。
 千引石の前にいた伊耶那岐命は日本兵に連行された妻(第二后)天照大神と対面すると真っ先に、天照大神に事戸(ことど/離縁)を言い渡した。
 怒った天照大神は伊耶那岐命に「あなたがこのような暴力をもって神聖な国家儀式の徇葬を冒涜(ぼうとく)するならば! あなたの国の人草(ひとくさ/人民。つまり【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する国民の母親)から出産する胎児たちが骨盤入口を通りぬけて骨盤出口を至るとき、そのせまい堅(かた)い骨盤出口で、一日に千人の子どもたちの頭を絞(くび)りつぶして死ぬように、わたくしは神に祈願して必ず実現する」と誓った。
 これに対して、伊耶那岐命は「お前がそうするならば、吾は国民に【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重するように熱心に説いて、一日に必ず千五百の産屋(うぶや)が立つようにする」と誓った。
 だから〔伊耶那岐命の黄泉国訪問説話〕に「徇葬をおこなった倭女王」の名を「天照大神」と表記すると、『古事記』は即座に献呈を拒絶されて焚書(ふんしょ)される。ゆえに、編纂スタッフは「天照大神」を「伊耶那美命」に[]の字を加えて「伊耶那美神命(いざなみのかみのみこと)」という偽名(ぎめい)にした。したがって、「伊耶那美神命」は「天照大神」ではないことになるゆえ、『古事記』を献上する元明(げんめい)天皇も納得して『古事記』を正史にするであろうと企んだのである。
 紀元前4、5世紀に生存した中国の思想家の老子(ろうし)は「虚偽をもって実は真実を伝える仮装(カムフラージュ)の方法、つまり反実仮装」という技法を考案して、時の王朝の政策に逆らった。『古事記』編纂スタッフは〔反実仮装〕を用いて、後人(後世の学者たち)に「黄泉国の伊耶那美神命」は「天照大神」であると伝えようとしたのである。
 『古事記』献呈された第43代元明天皇は「黄泉国の伊耶那美神命」は〔反実仮装〕によって「天照大神・伊迦賀色許売命」と解釈できると察知して、反逆の史書『古事記』の献呈を拒絶した。ゆえに、『古事記』は正史として認められず、正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』において『古事記』編纂に関する記事はすべて削除されて抹殺された。このため、江戸時代の国学者の賀茂真淵(かものまぶち/16971769)は『古事記』は偽作ではないかと疑った。
 しかし、『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国訪問神話〕における「伊耶那美神命」は「天照大神・伊迦賀色許売命」であった。その証拠に、伊耶那岐命が伊耶那美神命に離縁を言い渡した黄泉比良坂(神倉神社の参道)を塞(ふさ)ぐ千引石・ゴトビキ岩を御神体する神倉神社の祭神は天照大神である。だから、「伊耶那美神命」は「天照大神・伊迦賀色許売命」であって「伊耶那美命」ではなかったことになる。
 ゴトビキ岩の前で伊耶那岐命に離縁された天照大神は〔伊耶那岐命の妻(第二后)〕という戸籍を失った。そこで、天照大神・伊迦賀色許売命は、第7代孝霊天皇の娘の名「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)」を受け継いだ。前述したように、「崇神天皇は孝霊天皇の孫の開化天皇の異母弟であったゆえ、孝霊天皇の娘の倭迹迹日百襲姫命は崇神天皇の姑・大伯母(おおおば)」に相当する。これゆえ、『日本書紀』巻第五の崇神天皇紀は「倭迹迹日百襲姫命は崇神天皇の姑(おば/大伯母)であった」と記している。
 崇神天皇の生母で姑であった倭迹迹日百襲姫命を葬る陵墓は「箸墓(はしはか)古墳」とよばれる全長280m、高さ30mの大型前方後円墳であり、奈良県桜井市に所在する。考古学の成果では箸墓古墳は3世紀後半に築造されたとされる。だから、今まで解説してきたように、箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫命の陵墓)は崇神天皇の生母・天照大神・伊迦賀色許売命・倭迹迹日百襲姫命の陵墓であって、卑弥呼の陵墓ではない。

◆前述したように、考古学の成果によって、第10代崇神天皇陵は3世紀後半から4世紀初頭に築造されたと定まっている。
 しかし、春日の伊耶河宮の近辺の奈良市油坂町に所在する第9代開化天皇陵・春日率川坂本陵(かすがのいざかわのさかもとのみささぎ)は、その墳丘規模から5世紀末から6世紀初頭に築造されたと定まる。
 前述したように、宇治谷孟訳『日本書紀()』は崇神天皇紀初頭部にある〔疫病の流行〕の記事は、下記のごとく現代語訳している。
 「五年、国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上に及ぶほどであった。六年、百姓の流離(りゅうり)するもの、或いは反逆するものあり、その勢いは徳を以て治めようとしても難しかった。それで朝夕天神地祇にお祈りをした。
 これより先、天照大神・倭大国魂の二神を、天皇の御殿の内にお祀りした。ところがその神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった。そこで天照大神を豊鍬入姫命に託し、大和の笠縫邑に祀った。よって堅固な石の神籬(神の降臨される場所)を造った。また日本大国魂神は、渟名城入姫命に預けて祀られた。ところが、渟名城入日姫命は、髪が落ち体が痩せてお祀りすることができなかった。」
 上記のごとく、崇神天皇は――養父の伊耶那岐命・開化天皇は伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継いでクーデターを決行して、生母・伊迦賀色許売命・倭迹迹日百襲姫命(天照大神)を倭女王から失脚させたことを――激しく憎悪した。だから、崇神天皇は開化天皇・伊耶那岐命から天下を譲られたにもかかわらず、その恩を忘れて、開化天皇の陵墓は築造しなかったのである。
 3世紀後半にて天照大神・崇神天皇が基礎を築いた大和王朝が衰退して、5世紀末から6世紀初頭では難波(なにわ)王朝は【日本建国の〔愛〕の理念】を崇拝して栄えた。だから、【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継いだ春日の伊耶河宮に居住して天下を治めた開化天皇の陵墓は大和王朝が衰退した5世紀末から6世紀初頭に築造されることになった。
 (注 『古事記』下巻の仁徳天皇紀の冒頭は「仁徳天皇は難波の高津宮に居住した」と記す。そして、吉備の黒比売(くろひめ)を愛した仁徳天皇は、故郷の吉備に逃げ帰った黒比売を追って淡路島に到着した時、天皇は伊耶那岐命・開化天皇と結婚するときに伊耶那美命が【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱した「淤能碁呂島」を詠む和歌を作っている。このように、難波王朝は【日本建国の〔愛〕の理論】を尊重崇拝して栄えた)
 『古事記』中巻の開化天皇紀が「開化天皇と正妃竹野比売が結婚して生まれた御子(みこ)の、比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)」の異名は、『古事記』上巻に登場する英雄「須佐之男命(すさのをのみこと)」であった。開化天皇・伊耶那岐命は母を倭女王から失脚させたことを恨む天照大神と実子・須佐之男命が天下を二分して戦争して国民が困窮するのを避けるため、養子の天照大神に大和を首都する四国・山陽・畿内の高天原(たかまのはら)を統治するようにして帝位を譲った。そして、実子の須佐之男命に旧国出雲(現・島根県東部)を中心とする九州・山陰地方一帯を統治するように命じて死去した。
 というのも、『魏志倭人伝』が「卑弥呼が居住した邪馬壱国」は「旧国の石見(いわみ)・出雲・伯耆(ほうき)」、つまり「現在の島根県と鳥取県西部であったからである。だから、伊耶那岐命・開化天皇は実子の須佐之男命に「邪馬壱国中心部の出雲に移住して大和の天照大神・崇神天皇と天下二分して戦争してはならぬ」と遺言して没したのである。
 これゆえ、『日本書紀』の崇神天皇紀にある〔疫病の流行〕の記事では、須佐之男が居住した邪馬壱国・出雲地方は高天原の中心の大和・奈良県よりも広大な大国であった。ゆえに、「邪馬壱国・出雲地方の地霊」は「倭大国魂神」と表現されることになった。あるいは、須佐之男命は生母が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重するものであったゆえ、「山陰出雲地方の地霊」は「日本大国魂神」とも表現されることになったのである。
 
須佐之男命が大和・高天原・伊耶河宮から移住した山陰出雲地方の地霊」を、天照大神・崇神天皇は「大国」の二字がつく「倭大国魂神」または「日本大国魂神」と名づけた。これゆえ、須佐之男命の娘の須世理毘売(すせりびめ)と結婚した「出雲王朝を統治した大穴牟遅命(おおなむぢのかみ)」は「大国主神」という異名でよばれることになったのある。

◆邪馬壱国・出雲を統治した大国主神は大和の天照大神・崇神天皇王朝に敗れて国譲(くにゆず)りした。『日本書紀』神代紀の一書は「大国主神が国譲りした時、大和の天照大神王朝は出雲大社・天日隅宮(あまのひすみのみや)を建造した」と記述している。
 出雲大社の本殿と裏山の中間に、素鵞社(そがのやしろ)が所在する。素鵞社は須佐之男命を祀る。
 
出雲大社の本殿の北側は裏山(八雲山)、出雲大社の南は「神園(しんえん)」とよばれる地域であり、出雲大社の東は「亀山」、出雲大社の西は「鶴山」である。このような出雲大社を囲む地所を上空から撮影した航空写真の形は「ヤンマトンボ」とよばれる「大形のトンボの姿」に相似する。つまり、出雲大社の「円形の裏山」を「ヤンマトンボの頭」に見立てると、「神園」は「トンボの胴体と尾の形」に相似し、「亀山と鶴山」は「トンボの羽の形」となる。これゆえ、出雲大社の裏山と境内周辺の航空写真は「ヤンマトンボの形」に観える。
 「トンボ」の古称は「あきづ」、「あきづ」は漢字2字で「秋津」・「蜻蛉」と記す。「蜻蛉」は「日本列島」を意味する。ゆえに、「卑弥呼の陵墓であった出雲大社の裏山と境内周辺の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)」は「蜻蛉(トンボ)の形」をしているゆえ、日本列島における最初の国家「倭人国」と最初の王朝を築いた卑弥呼に由来して「蜻蛉」は「日本列島」と意味することになったと考えられる。それゆえ、「ヤンマトンボ」の「ヤンマ」は「邪馬壱国」の「邪馬」を「ヤンマ」と訛(なま)った可能性がある。
 そして、特に注目すべきは出雲大社の円形の裏山「八雲山」の直径は、『魏志倭人伝』の「径百余歩」に合致して「直径が約150m」である。
 現在、出雲大社の境内の平面図は〔前方後円墳〕のうちの〔前方墳〕の左右対称の形に少し歪(ゆがん)んでいるが――古来にあっては〔前方墳の形〕であったと推定できる形状となる。したがって、円形の八雲山・裏山の〔後円墳部〕と 出雲大社の境内の〔前方墳部〕で前方後円墳の形となるゆえ、円丘(えんきゅう/円形の自然丘陵)の八雲山と出雲大社の境内は、前期前方後円と分類される卑弥呼の墓であったにちがいない。
 というのも、上田宏典(うえだひろのり)著『前方後円墳[第2版](学生社発行)61ページは「前期のものは、丘陵の先端や丘頂などに自然の地形を利用して築かれ、高い円丘の前面に低い方形の前方部をつけたものが多い」と指摘するからである。
 卑弥呼の墓は、3世紀後半に築造された箸墓古墳や崇神天皇陵よりも前の、3世紀中半に築造されたゆえ、前期前方後円墳となる。卑弥呼の墓における「八雲山」は〔径百余歩の円形の自然丘陵〕であるゆえ、上田氏が指摘する「前期前方後円墳の特徴」をあらわす。
 だから、出雲大社の裏山と境内は卑弥呼の陵墓であったにちがいない。
 大国主神は国譲りする時、崇神天皇王朝を巧みに煽(おだ)てて奴婢百余人が徇葬され卑弥呼の墓が築造された地所に、壮大な天日隅宮・出雲大社を建造させて「大和の天照大神・伊迦賀色許売命・倭迹迹日百襲姫命もまた伊耶那美命の陵墓を築造する時に残虐な徇葬を行った」と表示するようにした。これゆえ、大和王朝に一矢(いっし)をむくいた大国主神は『古事記』上巻では人民に敬愛された英雄として伝えられることになったのである。

◆『魏志倭人伝』は「卑弥呼の墓には百余人の奴婢(ぬひ)が徇葬者(じゅんそうしゃ)となって殺されて埋められた。この徇葬墓の築造事業をおこなった、卑弥呼の後を継いだ男の倭王に対して国中の人民たちは徇葬を憎悪して服従せず、武器を持って倭国軍と戦った。ゆえに、倭国軍は千余人の人民を殺した」と記述する。
 卑弥呼の晩年に生存した伊耶那美命は、伊耶那岐命と結婚した時(233年頃)、小国・日本の政治理念を「国中に多数の子どもが健やかに誕生する【愛】にする」と提唱した。これゆえ、伊耶那美命が高らかに掲げた【日本建国の〔愛〕の理念】は小国・日本の人民たちはじめ卑弥呼が統治した倭人国の国中の多数の人民たちもまた尊崇(そんすう)した。よって、『魏志倭人伝』に「卑弥呼以(すで)に死す。大きな冢(ちょう)を作る。径百余歩。葬に徇ずる者、奴婢百余人。更(さら)に男王を立てしも国中服さず。更に相誅殺(あいちゅうさつ)と。時に当たりて千余人を殺す」と記述されたのである。
 この記事はさらに続き、「復()た卑弥呼の宗女(そうじょ)の壱与(いよ)、年十三なるを立てて王と為()し、国中遂に定まる。政(せい)等、檄(げき)を以て壱与を告喩(こくゆ)す。壱与、倭の大夫(だいふ)率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)の掖邪狗(ややこ)等二十人を遣わし、政等の還(かえ)るを送らしむ」と記している。
 上記の文中の「卑弥呼の宗女の壱与」とは「卑弥呼が支配する巫女界(宗女)を代表とする壱与」と意味し、「年十三なるを王と為す」とは「卑弥呼の後を継いだ男王・倭王はかつて233年頃に十三歳にて小国・日本の女王に就任した壱与を、魏の正始八年・西暦247年ころに倭女王に就任させた」と意味するものであった。だから「年十三なるを王と為す壱与」は「【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱した伊耶那美命」であった。これゆえ、【日本建国の〔愛〕の理念】を尊崇した倭国の国中の人民たちは、卑弥呼の陵墓を造るときの残虐非道な徇葬儀式を憎悪して、武器を持って反乱して倭国軍と戦ったのである。
 徇葬を決行した男王・倭王は壱与・伊耶那美命が【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱したために、国中の人民たちは反乱をおこした責任をとって小国・日本の女王の壱与・伊耶那美命が反乱を鎮(しず)めなければならないと責任を転嫁(てんか)して、男王は壱与・伊耶那美命を倭女王に就任させた。これゆえ、伊耶那美命が倭女王に就任したため、伊耶那美命を敬愛する倭国の国中の反乱者たちは武器を捨てて倭王軍との戦いを終息させた。ゆえに、この状況は『魏志倭人伝』に「国中遂に定まる」と記述されることになったのである。
 『魏志倭人伝』の「卑弥呼が以に死す」という記事の前には、「正始八年(247)、倭の女王の卑弥呼と狗奴(くな)国の男王・卑弥弓呼(ひみくこ)は素(もとり)不和であった。倭は載斯烏越(そしあお)等を派遣して帯方郡に詣(いた)り、倭国軍と狗奴国とが戦う状況を説明した。よって、帯方郡は塞曹掾史(さいそうえんし)の張政(ちょうせい)等を倭国に派遣した。倭国に到着した政(張政)は、狗奴国は討伐すべしと説く檄(軍書)を作って、倭女王・壱与に告喩した」と説明する記事がある。ところが、【愛】を重んじる壱与・伊耶那美命は、政の檄による告喩に反対して応じず、狗奴国の男王との話し合いによる平和的な解決を望んだ。
 これゆえ、倭王(男王)と倭王朝は伊耶那岐命の第二后の天照大神・伊迦賀色許売命を「倭女王・壱与の代役」に立てた。天照大神は政の檄の告喩を承諾して狗奴国を討伐した。この状況を、『魏志倭人伝』は上記したように「政等、檄を以て壱与(天照大神)を告喩す」と記し、さらに狗奴国討伐以後について「壱与、倭の大夫率善中郎将の掖邪狗等二十人を遣わし、政等の帯方郡に還(かえ)るを送らしむ」と記述したのである。
 『魏志倭人伝』末部にある「張政の二度おこなった檄による告喩」の記事は――壱与・伊耶那美命が狗奴国討伐を拒否したため、天照大神・伊迦賀色許売命が「壱与の代役」になって狗奴国討伐を決行した――と伝えていたことになる。
 このような経緯があったゆえ、壱与・伊耶那美命が死去すると天照大神・伊迦賀色許売命が倭女王に就任することになった。熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)に伊耶那美命の陵墓を築造するとき、天照大神は国家権力を誇示するため残酷な徇葬を強行した。この結果、伊耶那岐命と桃子三箇(もものみみつ/日本軍の兵士たちと熊野の戦士たち)のクーデターによって、天照大神・伊迦賀色許売命は倭女王から失脚した。
 『魏志倭人伝』の末部が記述しているように、「伊耶那岐命の正妃の伊耶那美命・竹野比売と、第二后の天照大神・伊迦賀色許売命」は共に「壱与」と表記された。ゆえに、『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国(熊野)訪問説話〕では「徇葬を強行した天照大神」は「伊耶那美命」に[]の字が加わる「伊耶那美神命」と表記された。伊耶那岐命・竹野比売が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】は具体的に表現すると「国中に多数の子どもが健やかに誕生する」ということになる。ゆえに、和歌山県新宮市に所在する神倉神社の御神体のゴトビキ岩の前で伊耶那岐命に離縁を言い渡された伊耶那美神命・天照大神は「汝(いまし)の人草(ひとくさ/人民たち)、一日(ひとひ)に千頭(ちがしら)(くび)り殺さむ」と、つまり「一日に必ず【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民の千人の胎児たちの頭をせまい骨盤の出口で絞()めつぶして殺す」と、神に誓って詛(のろ)ったのである。

712年に成立した『古事記』は「初代神武天皇は137歳で没し、第6代孝安天皇は123歳で没し、第7代孝霊天皇は106歳で没し、第10代崇神天皇は168歳で没し、第11代垂仁天皇は153歳で没し、第12代景行天皇は137歳で没した」と、いずれも享年は百歳を超えていたと記している。(『古事記』は第2代綏靖(すいぜい)天皇の享年は45歳、第3代安寧(あんねい)天皇の享年は49歳、第4代懿徳(いとく)天皇の享年は45歳、第5代孝昭(こうしょう)天皇の享年は93歳、第8代孝元(こうげん)天皇の享年は57歳、第9代開化天皇の享年は63歳、第13代成務(せいむ)天皇の享年は95歳、第14代仲哀(ちゅうあい)天皇の享年は52歳と記す)

 政府による大規模な歴史書の編纂(へんさん)事業としては、第40代天武朝以前にさかのぼると、推古天皇二十八年(620)の十二月に「皇太子(聖徳太子)・島大臣(蘇我馬子)、共に議(はか)りて、天皇記(すめらみことのふみ)及び国記(くにつふみ)、臣連伴造国造(おみのむらじとものみやつこくにのみやつこ)百八十部并(ももあまりやそともをあは)せて公民等(おほみたからども)の本記(もとつふみ)を録(しる)す」ということになる。
 わが国最初の官撰国史の事業である推古天皇28(620)の〔天皇記〕における初代神武天皇から第14代仲哀天皇までの享年数(きょうねんすう)は、『古事記』とほぼ同様であったにちがいない。というのも、『古事記』の下巻の最後尾は簡単な推古天皇紀で終わっているからである。ゆえに、〔『古事記』の中巻と下巻の天皇記〕は推古天皇時代に編纂された歴史書と同じく〔推古天皇までの天皇記〕となったにちがいない。
 『魏志倭人伝』には、5世紀に生存した裴松之(はいしょうし)の「その俗は正しい歳を知らず、春耕(春の耕作期)を一年、秋収(秋の収穫期)を一年と数えている」と説明する、現在の1年を2年と数える〔二倍暦〕の注がある。この『魏志倭人伝』の〔注〕にある二倍暦の影響や、また上古の暦数は60回で一周して元にもどる干支(えと)であったために正確に十進法の暦数に換算することができなかった。ゆえに、推古天皇時代に編纂された〔天皇記〕における初代神武天皇から第14代仲哀天皇までの各代天皇の享年はおよそ二倍となったため――医学が未発達で短命であったはずの上古の天皇が現在の医学が発達した平均寿命よりも長寿となって、百歳を優に超える天皇が数人も存在することになったのである。
 そして、『日本書紀』の第35代皇極(こうぎょく)天皇4年6月13日は「蘇我蝦夷(そがのえみし)らは殺される前に、すべての天皇記・国記・珍宝を焼いた。船史恵尺(ふねのふびとえさか)はそのとき素早く、焼かれる国記を取り出して中大兄皇子(なかのおおえのおうじ/のちの第38代天智天皇)に奉献(たてまつ)った」と記している。
 船史恵尺の素早い行動で焼失するのをまぬがねた〔国記〕は、推古天皇時代に編纂された〔国記〕であったにちがいない。この〔国記〕は『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)が「本辞(ほんじ)」と記す書籍の原典(資料)であったことになる。(つまり、『古事記』上巻の序に「本辞」・「旧辞(きゅうじ)」・「先代の旧辞」などと名づけられた書籍の原典は推古天皇時代に成立した〔国記〕であったことになる)
 その証拠に、『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)の後半部で――太安万侶(おおのやすまろ)が「上古の言葉と字義(こころ)は共に素朴で、文章に書きあらわしますと、どういう漢字を用いてらよいか困難となります」――と説明する音文字は、『古事記』上巻に〔音〕という注がついて多数記載されている。けれども、『古事記』中巻と下巻には〔音〕という注がつく上古の漢字は一字も記載されていない。だから、〔音〕という注がつく上古漢字が多数記載される『古事記』上巻の原典は推古天皇時代に成立した〔音文字〕で書かれていた〔国記〕、つまり船史恵尺の素早い行動で焼失しなかった〔国記〕であったことになる。
 いっぽう、皇極天皇4年(645)には推古天皇時代に編纂された〔天皇記〕は蘇我蝦夷の邸宅で焼失した。ゆえに、〔音〕という注がつく上古漢字が1字も記載されていない『古事記』中巻・下巻の「帝紀(天皇記)」は、『古事記』そのものが朝廷に反逆して【日本建国の〔愛〕の理念】を伝えようとした書籍であったゆえ民間の家々に残っていた各代天皇の享年を用いて編纂されることになった。しかし、諸家における各代天皇の享年数はもろもろの事情によって不統一で不確かなうえに、推古天皇時代にすでに誤っていた〔天皇記〕の享年数を思い出して適合させるものであったゆえ、事実と相違する虚数となったことになる。
 『古事記』成立から8年後に成立した『日本書紀』においても、『古事記』と同じ環境であったゆえ、その「天皇紀」における各代天皇の享年は虚数であったことになる。
 要するに、『古事記』と『日本書紀』の編纂スタッフには、上古の天皇たちの享年数を正確に復元することは不可能であったのである。

 『古事記』と『日本書紀』は、各代天皇の生年と没年、またいつ即位していつ退位したかなど、西暦年数に変換できる形で記していない。ただ、どの天皇の次にどの天皇が継いだかを記しているだけである。そして、『古事記』は、その存在が確実とされる第15代応神天皇は130歳まで生きたと記す。『日本書紀』は111歳まで応神天皇は生きて41年もの長いあいだ在位したと記す。また第16代仁徳天皇は87年も在位したことになっている。
 このよう不正確な状況の原因は、上記したように、『古事記』と『日本書紀』の編纂スタッフは〔上古における各天皇の享年数〕を正しく復元できる資料と方法を完全に失っていたからである。
 『古事記』と『日本書紀』の紀年には延長工作があることは、明治時代の那賀通世(なかみちよ/18511908)などが立論して、現在、定説となっている。

◆このブログの初頭部で指摘したように、第114代中御門天皇の在位中の1716(正徳6)に、60歳の新井白石は『古史通或問』を著作して邪馬台国大和説を立論し、その後に著書『外国之事調書』なので邪馬台国九州説(筑後山門郡説)を立論した。
 しかし、白石の邪馬台国説は【空想】であった。というのも、『魏志倭人伝』は倭女王卑弥呼が居住した女王国名を「邪馬壱国」と記し、「邪馬壱国の範囲は出雲地方(旧国の石見・出雲・伯耆)、現在の島根県と鳥取県西部」であったからである。そして、卑弥呼が居住した宮殿は出雲(現在の島根県東部)の意宇(おう)平野の一画に所在したと考えられる。
 新井白石は中御門天皇の在位中の1725(享保10)69歳で没した。
 白石の空想の産物・邪馬台国説を知った朝廷は「日本国が滅びる! 皇室が滅びる! わが国の学問の始まりは消滅する! わが国の文化が根底から崩壊する! わが国におけるもっとも大事な上古史が失われる!」と激しいショックを受け、また恐怖をも抱いた。
 それというのも、いままで解説してきたように、白石のごとく『魏志倭人伝』を誤読して女王国名を「邪馬台国」と定めて「邪馬台国は大和であった、または九州に存在した」と設定すると、『古事記』と『日本書紀』における〔天皇記〕の上古の各代天皇の享年数の延長工作のために、日本国の起源つまり小国・日本は西暦233年頃に誕生したことが不明となり、大和王朝の基礎を築いた皇祖・天照大神は崇神天皇と生母の伊迦賀色許売命であった秘密が解明できなくなり、『古事記』上巻に〔音〕という注がついて多数残った上古の漢字(音文字)が存在しないことになって消滅し、わが国における学問の起源と文化の根源は失われて不明となり、『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀における日本神話は歴史ではないと断定されることになる――と、皇室は心配したからである。
 (注 現在、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀~6世紀である」という意見が絶対的な定説である。しかし、『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名に用いられ定説以前に存在した上古の音文字は残り、『古事記』上巻には〔音〕という注がついて定説以前に存在した漢字(音文字)が多数記載されている。このように、現在、定説によって太安万侶が説明する上古漢字は消滅して存在しないことになっている)
 「論より証拠」のごとく、現在、定説によって確かに存在した上古漢字が消滅してしまったごとく、朝廷は白石の【空想の産物】の邪馬台国説によって「日本国が滅びる! 皇室が滅びる! 上古の音文字が消滅する! わが国の学問の始まりは消滅する! わが国の文化が根底から崩壊する! わが国におけるもっとも大事な上古史が失われる!」と予想して、激しいショックを受け、また恐怖をも抱いたのである。

◆『古事記』上巻にある〔伊耶那岐命の黄泉国訪問説話〕は「伊耶那美命・竹野比売の死後、倭女王に就任した天照大神・伊迦賀色許売命が多数の奴婢を殺して伊耶那美命の陵墓に埋葬した徇葬儀式を指揮した史実と、伊耶那岐命のクーデターによって倭女王から失脚した歴史」を記述するものであったゆえ、元明天皇は『古事記』献呈を拒絶した。
 元明天皇は715(霊亀元)92日、娘の元正天皇(氷高皇女)に譲位して上皇となった。
 『日本書記』編纂スタッフは、元明天皇の『古事記』献呈拒否に懲()りて、元正天皇に献上した『日本書紀』神代紀には天照大神の聖性を汚す具体的な記述を削除(さくじょ)した。ゆえに、『日本書紀』は献呈が許可されて正史(政府が編纂したと認める歴史書)となった。
 しかし、『日本書記』は崇神天皇紀における〔疫病の流行〕の箇所で崇神天皇母子が天照大神であると説明していた。また、『日本書紀』崇神天皇紀の〔四道将軍〕の箇所には、伊耶那岐命に離縁されて「倭迹迹日百襲姫命」と名乗ることにした天照大神・伊迦賀色許売命について記述していた。この〔四道将軍〕の箇所の後半にて、倭迹迹日百襲姫命は大物主神(おおものぬしのかみ)の妻となったとする抽象的表現(譬え話)をもって、倭迹迹日百襲姫命(天照大神・伊迦賀色許売命)が【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪・敵視して国民を弾圧した様子をからかって風刺している。その証拠に、「倭迹迹日百襲姫命は箸(はし)が陰部につきささって死去した。そこで大市(おおち/奈良県桜井市の北部)に葬られた。だから、当時の人々は、その墓を名づけて、箸墓と風刺した」と記述している。
 (注 上古には、現在のような食事の時に用いる2本の細い棒の形をしたハシ()は中国から伝来していなかった。しかし、『古事記』上巻の〔須佐之男命の八俣の大蛇説話〕には「箸」が登場する。この「箸」は令和元年の大嘗祭において供饌(きょうせん/供物の食物)の儀にて今上陛下が用いた「ピンセットのような竹製の食物をはさむV字形の器具」であった。つまり、[]の字の上部は竹冠であるゆえ、「1本の竹をピンセットのように折り曲げた形」が〔箸の原形〕であったゆえ、上古には「箸墓」の「箸」は存在したことになる)
 『古事記』の〔伊耶那岐命の黄泉国訪問説話〕の末部は天照大神・伊迦賀色許売命は伊耶那岐命に離縁された和歌山県新宮市に所在する神倉神社の御神体のゴトビキ岩の前で「【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民たちの子どもたちは、神(大物主神)に祈願して、せまい堅い骨盤出口で一日に必ず千人ずつ頭を絞()めつぶして殺す」と誓ったと記述する。ゆえに、天照大神・伊迦賀色許売命・倭迹迹日百襲姫命の「骨盤出口にて胎児の頭を絞めてつぶして殺す」という詛(のろ)いを、3世紀後半の人々は「陰部(骨盤出口)にいる胎児の頭を箸でつきさして死産させる」と風刺したのである。
 7205月に成立して元正天皇に献上された時は、『日本書紀』の書名は『日本紀』でああった。『日本紀』成立の翌72112月に没した元明上皇は『日本紀』崇神天皇紀に記述された〔天照大神・倭迹迹日百襲姫命の聖性を汚す風刺〕に気づいた。ゆえに、上皇は『日本紀』成立直後の721(上皇が存命中)に宮廷で『日本紀』を講義・研究する講筵(こうえん/講書)を開始させた。というのも、先代の天武天皇は天皇の権力の絶大化をはかるため、天照大神を皇室がもっとも崇拝する祖先の皇祖と定めて崇拝するための大嘗祭(だいじょうさい)を起源させていたからである。ゆえに、天武・持統・文武の後に天皇に即位した元明上皇は『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国訪問神話〕における皇祖・天照大神がおこなった徇葬指揮の記事に気づき、そして『日本紀』成立直後に箸墓築造記事における天照大神の風刺にも気づいて、皇祖・天照大神の聖性をまもるために、いわゆる「講書(こうしょ)」を行うように指示したのである。この「講書」の目的は「学者たちが箸墓記事で天照大神・倭迹迹日百襲姫命を風刺していると解釈したならば誤りと忠告して、天照大神・倭迹迹日百襲姫命の聖性が汚されないようにするための隠ぺい政策」であったのである。

◆『日本書紀』成立直後から始まった講筵(講書)10世紀半ばの平安時代中期までおこなわれた。そして、天武天皇から始まった大嘗祭は応仁の乱が始まる前年の1466(文政1)に行われた第103代後土御門(ごつちみかど)天皇即位まで実施された。
 後土御門天皇即位以後の戦国時代、大嘗祭は中断され9代220年後の第113代東山天皇の1687(貞享4)にいったん略儀で再興された。しかし、次の第114代中御門天皇朝では行われず、次の第115代桜町天皇の1738(元文3)の即位にて、大嘗祭は本格的に復興された。
 第108代天皇であった後水尾(ごみずのを)上皇は、皇室が衰退し武家が栄えることになった原因は()『古事記』上巻の伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】と()天照大神が決行した徇葬の両歴史の隠ぺい工作にあると考えて反省した。このため、後水尾上皇は『日本書紀』神功皇后紀に魏の年号が記載された『魏志倭人伝』を基軸にして、『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀に記述された歴史を復興する学問研究をおこなった。
 この後水尾上皇から始まった学問研究は以後にも継続されたため、第113代東山天皇の即位で新しい大嘗祭が行われることになったのである。東山天皇の即位における大嘗祭では、以前の天武天皇から始まった天照大神の徇葬隠ぺい政策の大嘗祭と異なって、『魏志倭人伝』末部に登場する壱与(伊耶那美命)が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を新たに演出し、そして旧来の伝統をも受け継いで天照大神および天神地祇(てんじんちぎ)を祀ることにした。しかし、東山天皇の大嘗祭は経費をかけず小規模におこなったゆえ、【日本建国の〔愛〕の理念】の演出が満足できず不成功・失敗した。
 【日本建国の【愛】の理念】を演出する儀式を成功するためには多額の経費が必要となった。それゆえ、桜町天皇の即位では将軍吉宗が1735(享保20)8月に幕府五万石以上の諸大名に命じて朝廷に銀を贈らせ即位を祝賀する協力によって、新・大嘗祭が本格的におこなわれることになった。
 したがって、桜町天皇の即位以後の新・大嘗祭は大規模となり、明治天皇の即位の大嘗祭では天高く千木(ちぎ)がそびえる悠紀殿(ゆきでん)と主基殿(すきでん)を設ける大嘗宮(だいじょうぐう)が建造されるようになり、【日本建国の〔愛〕の理念】は天皇陛下の頭上に差し上げられる御菅蓋(ごかんがい)と、そして悠紀殿と主基殿に向かって天皇陛下一行が進む・陛下の御前で左右2名の侍従が円形に巻い葉薦(はごも)を解き延べる御筵道(ごえんどう)で表示されることになった。
 (注 元明上皇が始めた『日本紀』の講書名「講筵」と、新・大嘗祭における【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす舞台装置の「御筵道」は、共に[]の字がつく。ゆえに、「講筵」は学問研究であったゆえ、「御筵道」の[]の字は新・大嘗祭もまた学問研究の大祭であることを示すものであった。ゆえに、令和元年の大嘗祭について幾人かの学者たちや一部のキリスト教関係団体は「憲法の政教分離に違反する、極めて宗教的な儀式」と指摘したが、令和元年の大嘗祭は「【日本建国の〔愛〕の理念】を演出する、邪馬台国説は空想である」と表示した学問儀式であったのである)
 【日本建国の〔愛〕の理念】を演出する儀式は、2019(令和元年)1114日の午後6時半から開始された今上陛下の大嘗祭における東の悠紀殿に向かう天皇陛下一行の御筵道を進む御菅蓋儀式の様子を映すテレビ画面に映し出されて日本国民は目撃した。翌15日の午前0時半から、西側の主基殿に向かって天皇陛下一行は御筵道を進んで【日本建国の〔愛〕の理念】を表現する御菅蓋儀式を行った。

◆前記したように、新井白石は中御門天皇の在位中に邪馬台国説を立論して、中御門天皇の在位中の1725年に69歳で没した。だから、中御門天皇が即位した時には白石は邪馬台国説をいまだ立論していなかったゆえ、「邪馬台国説は空想である」と表示する新・大嘗祭は実施されなかった。
 白石は邪馬台国説を中御門天皇の在位中に発表したゆえ、「邪馬台国説は空想である」と表示する新・大嘗祭は中御門天皇の次の桜町天皇の即位で実施されることになった。
 だから、新・大嘗祭は白石の死から13年後の1738年の桜町天皇の即位で行われた。
 したがって、173811月の桜町天皇の大嘗祭以来、令和元年11月までに行われた大嘗祭は「新井白石の邪馬台国説は空想である」とあらわす学問儀式であった。
 このように、新・大嘗祭で「白石の邪馬台国説は空想の産物」と表示されたにもかかわらず、学界は「白石によって『魏志倭人伝』に始めて学問的検討が加えられた」と思い込む。実際は「白石の邪馬台国説から空想・幻想が学問にすり変わって退化した」というサカサマ状態となったのである。

 
◆以上のごとく、つい最近の4年前に、日本全国のテレビに映し出された令和の大嘗祭は「『魏志倭人伝』の全記事は正しい。卑弥呼は邪馬壱国に住んでいた」とあらわす、1660年頃から後水尾上皇が学問研究として始めた、その後に受け継がれた学問儀式であった。
 ところが、学者たちは【学問の常道・基本原理】を無視して、『魏志倭人伝』に数か所の【誤読】を加えて【空想の邪馬台国説】を立論しつづけている。
 学者たちは邪馬台国説が【空想の産物】である事実にまったく気づいていない。
 ためしに邪馬台国説の思考方法を全否定して、『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えずに立論してみれば――様々な疑問が生じるが、この疑問のすべてはいくつかの学問分野の成果によって【科学】が成立して解決できる仕組みになっている。だから、『魏志倭人伝』の全記事は正しかったのである。また、『魏志倭人伝』の全記事は正しいと証明できる根拠・理由は大嘗祭はじめ幾つかの遺跡・遺物のほか、風俗や慣習や地名などで多数残っている。前人たちは「日本神話は歴史を語る」と証明できる『魏志倭人伝』の重大性に気づいて「『魏志倭人伝』の全記事は正しい」という警告を残したのである。
 にもかかわらず、学界とマスメディアは「『魏志倭人伝』の記事を全面的に信用してはならない、信用できない記事はどのように考え方をしたならば信用できることになるかと考えなければならない」と主張する。このため、「卑弥呼は邪馬台国に住んでいた」と主張するがいっこうに【科学】が成立せず、【誤読】が【誤読】を生んでこれからも論争は果てしなく続くことになる。
 新井白石から始まった邪馬台国説は、正しく【空想の産物】だったのである。

 このブログでは、【1】卑弥呼が居住した女王国名は「邪馬壱国」であったと証明した。
 次回のブログでは、【2】学者たちは全員〔天の北極がある方向〕を〔北〕と定める現在の日本列島地図で邪馬台国説を立論する。しかし、『魏志倭人伝』は「卑弥呼王朝は人類が原始から生命をまもった方法で九州以下の本州列島地理における方位規定を定めていた」と伝えていた。ゆえに、九州以下本州地理の方位規定は現在の日本地図と異なって、時計回りに90度転回して(経度軸が緯度軸になって)、現在の日本地図の〔西〕は〔北〕・〔東〕は〔南〕となると卑弥呼王朝は本州地理の方位規定を制定したことになる。だから、現在の日本地理を立論基盤とする邪馬台国説は明白に【空想の産物】であったのである。
 卑弥呼王朝が〔天の北極がある方角〕を〔北〕と定めていたと断定すると、日本列島には人間が一人も居住していなかったことになる。卑弥呼王朝は大海に囲まれる日本列島に渡って生存した人類が原始から位置(緯度)と方角(経度)を測定し方法で九州以下の本州列島地理における方位規定を定めて、本州の〔東〕は〔南〕に伸びていると制定したのである。
 さらに、次の次の回〔邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・11〕では、【3】現在、定説によって排除されてその存在が消滅した上古の漢字(音文字)は確かに存在していたことを証明する。前述したように、『古事記』上巻の序は「わが国には上古の漢字(音文字)があった」と記述し、また『古事記』上巻には〔音〕という注がついて多数の〔上古の音文字〕が残っている。同様に、『魏志倭人伝』の2か所の記事も「わが国には上古の音文字があった」と伝え、卑弥呼はじめとする人名・小国名・官職名には〔上古の音文字〕が用いられている。そして、カールグレーンが開発した西洋の言語学・音韻学によって「わが国には、中国に現存する最も古い〔上古音〕よりもさらに古い・最古の漢字音が残っている」と解明されている。だから、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という常識となる定説は根本的に誤っていることになる。
 上記した【1】【2】【3】の3つの真実によって、『魏志倭人伝』の全記事は正しかったとことが【科学】が成立して証明され、新井白石から始まった邪馬台国説は【科学が成立しない、空想】であったことが事実となる。

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