邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・13
#女王国・邪馬壱国は出雲地方であった
★わが国には5000年前に漢字が起源した学問が伝来していた・2
◆学者たちやマスメディアが
日本国民を洗脳しようとする
邪馬台国説はすべて真っ赤なウソだ!
びっくり仰天・玉手箱!
日本神話学説も 邪馬台国説と同じで
すべて真っ赤なウソだ!
邪馬台国説と日本神話学説は
誤読・誤訳でデッチあげた
日本国民をテッテイ的に侮辱する
日本国と日本人の尊厳を木っ端みじんにぶっ壊す
デタラメ、インチキ、真っ赤なウソだ!
◆2世紀末から3世紀半ばまでのわが国の様子を伝える『魏志倭人伝』は、晋王朝につかえた歴史編纂官の陳寿(ちんじゅ)によって、280年~289年に著作された。
『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えなければ「倭女王・卑弥呼は居住していた地所(倭国の首都所在地)の名は〔邪馬台国〕ではなく、【邪馬壱国(やまいこく)】であった。邪馬壱国の中心は旧国・山陰の出雲(現在の島根県東部)であった」と、容易に【科学】が成立して証明することができた。
しかし、学者たちは【『魏志倭人伝』に多数の誤読を加える考え方こそが正しい】と思い込む。この論法が原因で、学者たちのすべての意見は【科学】が成立せず、すべての学者たちの意見は空想・空理空論・デタラメであった――という、この事実にわが国の学界はじめマスメディアはまったく気づいていない。
ためしに、【現在の日本地図と同じ倭人国地理における方位観】に則(のっと)る考え方をいっさい止めて、『魏志倭人伝』の方位記事のままに倭地理の方位観(つまり、【誤読】を1ヵ所も加えない卑弥呼王朝が制定した日本列島・倭地理方位観)のとおりに読解すれば――全員が全員、『魏志倭人伝』が記述したとおり「邪馬壱国は山陰・出雲地方であった」と伝えていたという意見となる。
『魏志倭人伝』は【誤読】を1ヵ所も必要としない、正確無比の歴史書であったである。
◆約2000字で構成される『魏志倭人伝』は「倭人国」と国家名と「卑弥呼」という女王名はじめとする倭人国の実力者たちの人名と、対馬国から狗奴国(くなこく)までの30の小国名と旅程記事をもって、(A)今から約5000年前の中国の五帝時代初頭に生存していた黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)が発明した【漢字作成理論】と(B)【今から約4000年前の夏音(かおん)文字の学芸】を習得していたと説明していた貴重な文献であった。
つまり、『魏志倭人伝』は「今から約4000年の中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、わが国に夏音文字の学芸が伝来し習得した時、【倉頡が発明した漢字作成理論】をも習得した。ゆえに、2世紀末~3世紀紀前半に生存した卑弥呼は対馬国から狗奴国までの30の小国名を10ヵ国ずつ3グループに分けて【倉頡が発明した漢字作成理論】を解説するシステム(体系)にした」と説明していた特筆すべき歴史書であった。
倉頡は[禾(か)](字義は「イネや麦。穀物」)の字を考案し、[禾]の字源・字義を「東西の緯度軸は、時計回りに90度転回して南北の経度軸となる」と定めた。この「緯度軸が時計回りに90度転回して経度軸となる」という倉頡の定義は、[禾]の下に[女]が加わる[委(い)]の字に受け継がれ、人偏に[委]が加わる[倭]の字に受け継がれ、[人]の字にも受け継がれた。
ゆえに、『魏志倭人伝』は冒頭の「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」という文をもって、「卑弥呼王朝は【倉頡が作った[禾]の字源・字義】の基(もと)に、日本列島において〔西〕に所在する九州は〔北〕、日本列島の東端の伊豆諸島は〔東〕ではなく〔南〕に所在すると定理する転回日本列島・本州地理を制定した」と説明していたことになる。
しかし、学界はじめすべての学者やマスメディアは「日本列島の東が南に延びるなんてことは、絶対にありえない」と主張して、『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加える論法こそが正しいと頑固に思いこんでいるがため――『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える、【誤読】を1ヵ所も必要としない正確無比の歴史書である事実にまったく気がつかない。
学界と学者たちとマスメディアは、新井白石(1657-1725年)がとなえた【誤読の空理空論の邪馬台国大和説と邪馬台国九州説】に心と魂をうばわれた従順な奴隷となるため、『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加える論法に固執(こしつ)する。この白石以後の学者たちによる【多数の誤読】を加える邪馬台国説のために、『魏志倭人伝』に記述された【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】は排除され無視されて、世界的にとってもわが国にとっても重大な歴史の真実が排除されて無視されて失われた。
◆前回のわがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・12」でも詳細に科学的に解説したように――『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)の冒頭34字(注 34字の書き下し文はすぐ後ろに記述する)による文章もまた、『魏志倭人伝』と同様に「後期縄文時代初頭、中国から【夏音文字の学芸と、倉頡が発明した漢字作成理論】が伝来したとき、東日本における「乾」と「坤」つまり「天」と「地」のイメージを【渦巻文】で表現した前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭までの約2千年間におよんで土器・土偶を作った芸術家たちによって【夏音文字の学芸と、倉頡が発明した漢字作成理論】が習得された」と説明していたことになる。
というのも、倉頡は【漢字作成理論】にて「夏の銀河各部のイメージ(心象)を字源・字形・字義とする」と定め、わが国の東日本の縄文の芸術家たちは「夏の銀河各部の形状のイメージ(心象)」を土器・土偶を作って表現した。このため、【倉頡の漢字作成理論】に則(のっと)って作られた漢字の[乾]と[坤]、[天]と[地]の字源・字形・字義の定義を東日本の縄文の芸術家たちは理解することができた。さらに[乾]と[坤]・[天]と[地]の字源・字形・字義に限らず、【倉頡が発明した漢字作成理論】によって作られたそのほかの銀河文字(夏の各部の形状を字源・字形・字義とする五帝時代と夏代初頭の漢字)を――「夏の銀河各部の形状のイメージ」を土器・土偶を作って表現した東日本の縄文の芸術家たちは理解できたのである。
したがって、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)が伝えているように――今から約4000年前の後期縄文時代初頭、わが国は【倉頡が発明した漢字作成理論と、夏音文字の学芸】を習得していたことは歴史上の確かな事実であったのである。
したがって、学界が考古学の「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という見解に騙(だま)される絶対的定説は、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)を【誤読】して捏造(ねつぞう)した空想・空理空論であった。
その証拠に、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社)は9ページの終わりから3行目から10ページの始めから3行目までで〔わが国の漢字音〕と題して――下記のごとく「わが国の国語として残っている漢字音が、中国に現存する最古の漢字音よりも古い、現存する最古の漢字音である」と指摘している。
「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によって得られた諸法則が、原理的に適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
上記の「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものである」という文は、「わが国に国語として残っている『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に残っている夏音文字の漢字音は中国に現存する最古の漢字音よりも古い」と指摘していることになる。
下に〔漢字生長史〕と名づけた表を配した。
上の〔漢字生長史〕に表示したように、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて残っている「夏音文字の漢字音」を、わが国は今から約4000年前の中国の夏代初頭に伝来した時に習得した。
中国に現存する最古の漢字音は「上古音」と名づけられ、「上古音」は上の〔漢字生長史〕にあって紀元前1046年の周代初頭から始まる。
ゆえに、わが国が中国の夏代初頭に習得した夏音文字の漢字音は、中国の上古音よりも約1000年前の・現存する最古の漢字音となる。
ところが、〔漢字生長史〕が示すように「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説の漢字音は中国の上古音よりも新しい。ゆえに、上記したように〔漢字生長史〕の最下部に配置される。だから、学界が定める漢字習得の絶対的な定説は根本的に誤っている、ウソ・錯覚・空想であることが否定できない事実となる。
◆『古事記』は反逆の歴史書であった。
『古事記』が成立した8世紀初頭、朝廷は「皇室が最も偉大な先祖であると崇拝する皇祖・天照大神(10代・崇神天皇母子)の聖性を絶対に汚してならない」と厳重に禁止した。この時の律令体制に歯向かって、『古事記』上巻は「伊耶那美命と伊耶那岐命は国民にとって最も崇拝し敬愛する、天照大神よりも偉大な先祖である」と伝える、反逆の歴史書であった。
ゆえに、律令国家体制に背いてなんとしても真実の歴史を後世に残したいと願った編纂スタッフは【『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字といくつかの楷書の字源・字形・字義を夏の銀河各部の形状に変換すれば、歴史が解明できる方法】を企てた。
この【『古事記』上巻における歴史解明方法】を、太安万侶(おおのやすまろ)は『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)の冒頭34字をもって、『古事記』を献呈する元明天皇には読解できない難解きわまりない文章をもって説明することにしたのである。
したがって、前回のわがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・12」で詳細に解説して証明したように――「古事記上巻 并せて序」の冒頭の34字の「臣安万侶言す。夫れ混元既に凝りて、気象未だ効れず。名も無く為も無し。誰か其の形を知らむ。然れども乾坤初めて分かれて、参神造化の首を作す」(振り仮名無し)という文は【古事記上巻に記述された歴史を解明する方法】を説明していた。
この【「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字の文】は、後世の学識者たちならば必ずや文字面だけの表層レベルのみで読解せずに深く思索して読解するにちがいないと信頼して、太安万侶が作成した文章であったことになる。
1725年に死去した新井白石より以前に生存した前人たちは「漢字」は【夏の銀河から作られた文字であるという素養】を有していた。ゆえに、彼らは「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字の文は【歴史解明方法の説明文】と解し、次の11字の「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」という文は【『古事記』作成目的】を説明していると正しく読解することができた。というのも、代々の天皇や上皇はじめ、様々な宗派の高僧たち、そして源頼朝や足利将軍たちや織田信長や徳川家康は【漢字は夏の銀河から作られた文字】という素養にもとづいて「古事記上巻 并せて序の全文」を正確に読解したからである。
要するに、太安万侶が書いた「古事記上巻 并せて序」の全記事は【漢字は夏の銀河から作られた文字であるという事実】に気づいて深く思考し思索すれば正確に読解できる。
現在の学者たちは【中国とわが国は、「銀漢(夏の銀河)から作られた字」を略して「漢字」と称することになった事実】にまったく気づいていない。ゆえに、織田信長や徳川家康が正確に読解できた「古事記上巻 并せて序」の全記事に対して、その文字面・その表層のみを読んで満足するため、【誤読】し【誤訳】し【誤解】する。だから、新井白石以後から現在までの学者たちは、『古事記』上巻は【上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字といくつかの重大な楷書の字源・字形の原形・原義を夏の銀河各部の形状に変換して読解する歴史書にして確かな文献】であることにまったく気づかない。
◆卑弥呼の歴史上に登場した180年ころより60年前の120年ころに成立した後漢時代の文字学者の許慎(きょしん)が著作した字書『説文解字(せつもんかいじ)』における大半の字源解説は【慎重に言葉を選んで用心深く、夏の銀河の各部の形状を説明するもの】であった。
中国でも、時の王朝に歯向かって【漢字の字源・字形の原形・原義の秘密】や【真実の歴史】を後世に伝えようとした人物は【文字(漢字)の字源・字形・字義を、夏の銀河各部の形状に変換する方法】を利用した。
ゆえに、【「漢字は銀漢から作られた文字」という素養を有する人々】に向かって、『説文解字』の序には「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識(し)るなり」と説く文がある。
つまり、上記した『説文解字』の序の文は「文字は学問と芸術の根本であり、王道政治においていちばん真っ先に絶対に必要な権力基盤であり、夏の銀河各部の形状を観察して字源・字形の原形・原義を知れば前人がおこなった古代の歴史の真相を後人が知ることが出来る方法である」と説明するものであった。
ゆえに、『説文解字』の大半の字源解説は【慎重に言葉を選んで用心深く、夏の銀河の各部の形状を説明するもの】であったことを知っていた代々の天皇や上皇はじめ、様々な宗派の高僧たち、そして源頼朝や足利将軍たちや織田信長や徳川家康は夏の銀河の各部の形状を観察して【古事記上巻 并せて序の全文】を正確に読解できた。
中国の各代王朝は「漢字が夏の銀河から作られた秘密を暴露する者は、即刻に死刑にする」と定めていた。この政策に歯向かった紀元前5、4世紀に生存した老子(ろうし)は『老子』上篇(道経)の37の章をもって「漢字は夏の銀河から作られた学問の秘密」を説明した。
有名な『老子』第二十章冒頭の「学を絶てば憂(うれ)い無し」は「漢字が夏の銀河から作られた学問を復興して世に広める運動を断念すれば役人に捕らわれて死刑になると心配する必要は無くなる」と意味した。第二十章末部の「我れ独(ひと)り頑(がん)にして鄙(ひ)に似る。我れ独り人に異なりて食母(しょくぼ)を貴(たっと)ぶ」という文は「我れ一人頑固に、正しい字源を研究するために夏の銀河の各部が鮮明に見える灯火の無い真っ暗闇の辺鄙な田舎に住む住人のごとく日々を過ごしている。我れ一人世間の人々と異なって文字が銀河から作られた学問が絶えないように捨て子を育てる養母・乳母(うば)のように、銀河から生まれた子の文字の学問を貴(たっと)んでいる」と表現するものであった。
老子を代表する思想と言えば「足(た)る知る」、「禍(わざわい)は足るを知らざるより大なるは莫(な)く」、「知足(ちそく)の足は常に足る」などと表現された「知足」である。この「知足」は【夏の銀河を観察して宇宙を支配する真理を知ることができる倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を指していた。ゆえに、「知足」は「権力・名声・富を得た者は死するときにはすべてを失って敗北者となるが、夏の銀河を観察して得られる宇宙を支配する偉大な理法・無為(むい)の自然の真理を知ることができる学問(哲理)の探究者こそが人生のほんとうの勝利者である」と意味した。
このように、「知足」は「夏の銀河から作られた文字の学問」を指していた。だから、わが国の様々な宗派の高僧たちや源頼朝や足利将軍や織田信長や徳川家康などは『老子』からも学んで「漢字は夏の銀河から作られた知足(知識)」を有していたのである。
◆「銀河」の別名は「銀漢」である。「銀漢から作られた文字」を略して、わが国でも中国でも「漢字」と称することになった――こんな簡単な真理に、新井白石以後の学者たちはまったく未だに気づいていない。
「漢字が作られた銀河」は、天文学で通称「春の銀河・夏の銀河・秋の銀河・冬の銀河」とよばれる、そのうちの「夏の銀河の各部の形状から作られた文字」であった。
下に「漢字」が作られた「夏の銀河の写真」を示した。
「漢字」は「銀漢」すなわち「夏の銀河各部の形状から作られた字」であった事実を証明するためには――どうしても上の写真の「夏の銀河各部の名称」が必要となるゆえ、下に「夏の銀河各部の名称図」を示すことにした。
◆前述したように――『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)の冒頭から34字までの文は元明天皇には読解できないようにきわめて難解に「臣安万侶言す。夫れ混元既に凝りて、気象未だ効れず。名も無く為も無し。誰か其の形を知らむ。然れども乾坤初めて分かれて、参神造化の首を作す」と表現した。この文は要するに「古事記上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字といくつかの重大な楷書の字源・字義を夏の銀河各部の形状に変換すれば歴史(真実)が解明できる」と【『古事記』上巻の歴史解明方法】を説明するものであった。
上記した「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字に続く11字で構成される「陰陽斯(ここ)に開けて、二霊群品(にれいぐんぴん)の祖(おや)と為(な)る」という文は【『古事記』の作成目的】をあらわして「陰の伊耶那美命と陽の伊耶那岐命は民衆に敬愛される、わが国における最も偉大な先祖である」と意味した。
というのも、上記した『説文解字』は「群品」の[品]の字源を「衆庶(しゅうしょう)なり」と解説するからである。「衆庶なり」は「民衆または庶民なり」ということになる。
ゆえに、「古事記上巻 并せて序」に記される「群品」は「群れる民衆、群れる庶民」となるゆえ、「群品の祖と為る」は「民衆に最も敬愛された先祖」と意味した。
だから、『古事記』は時の律令体制の政策に歯向かう「民衆・国民にとって伊耶那美命と伊耶那岐命は、皇室がもっとも偉大な先祖と崇拝する皇祖・天照大神よりも偉大な先祖であった」と讃(たた)える、反逆の歴史書であったのである。
『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話初頭の〔淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話〕における〔音〕という注がつく夏音文字と重要ないくつかの楷書の字源・字義を夏の銀河各部の形状に変換すると――「伊耶那美命は伊耶那岐命と結婚する時、小国・日本の建国理念を〔愛〕にしましょうと提唱した。小国・日本の人民たち(群品)はじめ卑弥呼が統治した倭国の国中の人民たち(群品)も【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重した」と、歴史を伝えていたことになる。
わがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・9」で詳細に説明して指摘したように、夏音文字と重要ないくつかの楷書の字源・字義を夏の銀河各部の形状に変換すると――『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話〕は、下記のごとく皇祖・天照大神の聖性を汚す歴史を伝えていた。
特に注目すべきは、この説話では『古事記』編纂スタッフは元明天皇が『古事記』の献呈を承認して正史(政府が編纂した歴史書)にするために「残忍な徇葬を陣頭指揮した天照大神」の名を「天照大神」と表記できないゆえ、「伊耶那美神命」と記して天皇の権力の絶大化を図る律令国家体制を推進する元明天皇に「伊耶那美命が残忍な徇葬を陣頭指揮した」と読解できる偽書を作成したと見せかけている点である。
――伊耶那岐命が愛した正妃・伊耶那美命は倭女王となり、その伊耶那美命が若くして死去すると、倭女王を天照大神(伊耶那岐命の第二后・継母の伊迦賀色許売命)が受け継いだ。天照大神(伊耶那美神命)が最初に手掛けたのは熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)に伊耶那美命の陵墓を築造する事業であった。天照大神は伊耶那美命の陵墓に多数の奴婢(ぬひ)を殺して埋める、残虐な徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮した。伊耶那美命がもっとも憎んだ徇葬に怒った伊耶那岐命は乱(クーデター)を決意し、少数の日本兵をひきいて伊耶那美命陵の玄室(げんしつ)から伊耶那美命の亡骸を収める棺を奪うと、伊耶那岐命一行は本隊・桃子三箇(もものみみつ/日本兵と熊野の戦士たち)が待機する黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本(現在の熊野速玉大社の境内)に向かって逃走した。黄泉比良坂の坂本に到着すると、伊耶那岐命は桃子三箇を指揮して、伊耶那岐命一行を追跡してくる伊耶那美命陵を守護していた倭国の大軍を黄泉比良坂の坂本で撃破して壊滅させた。
おどろくべきことに、伊耶那美命を愛する夫への嫉妬と憤怒と憎悪で身を焦がした天照大神は大斎原に築造された宮殿から黄泉比良坂の坂本(熊野速玉大社の境内)付近まで夜の熊野路を執念深く追ってきて、日本兵の捕虜となった。天照大神は伊耶那岐命がいる黄泉比良坂(熊野速玉大社から約1km南の、新宮市磐盾町に所在する神倉神社の急坂の参道)を塞ぐ千引石(ちびきのいわ/神倉神社のご神体となる巨大なゴトビキ岩)の前に連行された。
千引石の前にいた伊耶那岐命は日本兵に連行された妻(第二后)の天照大神と対面すると真っ先に、天照大神に離縁・事戸(ことと)を言い渡した。
怒った天照大神は「あなたがこのような暴力をもって神聖な国家事業の徇葬を冒涜(ぼうとく)するならば、あなたの国の【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人草(ひとくさ/人民たち)の母親から生まれる子どもたちがもっとも狭い骨盤出口に至ったならば、わたくしは神に骨盤出口がさらに狭く縮(ちぢ)まるように祈願して、一日に必ず千人ずつの子どもたちの頭を絞(し)め殺すようにする」と誓った。
この天照大神の呪詛(のろい)に対して、伊耶那岐命は「お前がそうするならば、吾は国民に亡き妻が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重するように熱心に説いて、一日に必ず千五百の産屋(うぶや)が立つようにする」と誓った。
このように、『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国訪問説話〕は、皇室がもっとも偉大な先祖であると崇拝した皇祖・天照大神の聖性をいちじるしく汚している。
この〔伊耶那岐命の黄泉国訪問説話〕では『古事記』編纂スタッフは「天照大神」の名を「伊耶那美神命」と表記して――元明天皇に「天照大神の聖性を汚さず、伊耶那美命の聖性を汚した偽書を作成した」と見せかけた。しかし、元明天皇は伊耶那美命陵の築造の際に徇葬を陣頭指揮したのは天照大神であった史実にもとづいて「伊耶那美神命は天照大神である」と解釈した。ゆえに、元明天皇は『古事記』の献呈を拒絶した。
だから、正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』には『古事記』編纂に関する記事はすべて削除された。しかし、『古事記』は真実の歴史を伝えるものであったために後世まで残った。これゆえ、『古事記』は読むことも研究することも厳重に禁じられた日の目を見ない第一級の極秘の書物であったため、「古事記上巻 并せて序」の記事を正しく読解できない学者たちによって「『古事記』は後世に作られた偽書であろう」と疑われることになった。
前述したように、「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字の文章は元明天皇には理解できないが、後世の学識者たちならば「古事記上巻の随所にある〔音〕という夏音文字といくつかの重大な楷書の字源・字形・字義を夏の銀河各部の形状に変換すれば歴史を知ることができる」と読解するにちがいないと期待し、この34字に続く11字による「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」という文も、後世の学識たちは「『古事記』上巻は律令国家体制が厳重に禁ずる、皇祖・天照大神の聖性を汚す反逆の歴史書である」と読解するにちがいないと期待するものであったのである。
◆「古事記上巻 并せて序」の末部には、下記のごとく原文がある(振り仮名無し)。
「然れども上古の時、言・意並びに朴にして、文を敷き句を構ふること、字に於いて即ち難し。已に訓に因りて述べたるは、詞心に逮ばず、全く音を以ちて連ねたるは、事の趣き更に長し。是を以ちて今、或は一句の中に、音訓を交へ用ゐ、或は一事の内に、全く訓を以ちて録す。即ち辞理の見えがたきは、注を以ちて明にし、意況の解り易きは、更に注せず。亦姓に於きて日下を玖沙訶と謂ひ、名に於きて帯の字を多羅斯と謂ふ。」
上記の原文(書き下し文)を現代語に訳すると、下記のごとくなる。
――しかし、上古の五帝時代の書契(しょけい)と夏音文字の言(ことば)・意(こころ)は朴(すなお)であり、文章や短い一句にする場合、どういう字(楷書)に変換して記述してよいか困難なことがあります。すべて訓を用いて記述しますと夏音文字の詞の雰囲気と心(心情)に一致しない場合もあり、すべて夏音文字の音を用いて記述しますと文章がたいへん長くなります。それゆえ、是(ここ/古事記上巻)ではある場合には一句の中に音と訓を混ぜて用い、ある場合の一つの事柄を記すのに、すべて訓を用いて記録しました。そして、辞理(辞の原理/【夏の銀河各部の形状を字源・字形の原形・原義となる道理】)が見えがたき(つまり、不明確な)状況となる場合には注を加えて明らかにし、意味が容易に理解できる場合には別に注はつけませんでした。また、姓(うじ/氏)においては楷書の「日下(にちげ)」は夏音文字の「玖沙訶(くさか)」と同義、名においては楷書の「帯(たい)」は夏音文字の「多羅斯(たらし)」と同義ですので、このような類例は従来の記述にとおりに改めませんでした。
◆上記のごとく、「古事記上巻 并せて序」の末部の文中にある「すなわち辞理の見えがたきは」という一句が示しているように――倉頡は「目で見る夏の銀河各部の形状を字源・字形・字義とする」と定めたゆえ、「辞理、つまり【夏の銀河各部の形状を字源・字形・字義とする辞(言葉と文字)の道理】が不明確となる状況」を「見えがたき」と表現したのである。
だから、上記の「上古の言(ことば)と意(こころ)は朴(すなお)」という文は「夏の銀河各部の形状のままに」あるいは「倉頡が発明した【漢字作成理論】のままに」と意味したことになる。というのも、「五帝時代の倉頡が発明した原初漢字の書契と夏音文字の字源・字形・字義は夏の銀河各部の形状」であったからである。
「歳差(さいさ)」という「黄道の北極を中心にして2万5千8百年で大円を描いて一周する天の北極と春分点の位置の状況」を利用すると――倉頡が生存した今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代に「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」が中国の各地の天頂にめぐってきた状況を再現することができる。
〔注 「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は上記した「夏の銀河各部の名称図」における左上にある〕。
下に、〔今から約5000年前、五帝時代初頭の黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」の図〕を配した。
上図の右下の「鬼の横顔に似る銀河」とその西隣の「鬼の身に相当する銀河」を加えた部分を、上図の〔夏の銀河各部の名称図〕では「鬼の姿に似る銀河」と名づけた。
「鬼の姿に似る銀河(鬼の横顔に似る銀河と鬼の身に相当する銀河)」を「地面」に見立て、「十字の銀河」を「地面に植わる木」と見立てて、「十字の銀河」は[木]の字源・字形・字義となった。『説文解字』は[木]の字源を「冒(おほ)うものなり。地を冒ひて生ず。東方の行なり」と解説する。「十字の銀河」は「夏の銀河の東端」にあるゆえ「中国の東方へ行く(旅行する)ときの天頂緯度線と子午線をキャッチする羅針盤」となった。ゆえに、『説文解字』は[木]の字源を「東方の行なり」と解説し、また「十字の銀河」を「樹木」、つまり「地面」に見立てた「鬼の姿に似る銀河」を冒(覆)って植わる樹木――に見立てた。だから、「十字の銀河」は[木]の字源・字形モデルとなり・字義をあらわすことになった。
〔夏の銀河各部の名称図〕の左上にある「激流の銀河」は「大波がうねる大海」または「大河や湖沼」に見立てられて、「激流の銀河」の北隣の「鬼の姿に似る銀河」は「大海に浮かぶ亀。大河や湖沼に生息する大きな亀」に見立てられて[亀]の字源・字形・字義となった。
『説文解字』は[卜(ぼく)]の字源を「亀を灼(や)いて剥(さ)くなり。亀を灼く形に象(かたど)る。一に曰(いわ)く、亀兆の縦横なるに象(かたど)るなり」と解説する。ゆえに、[卜]の字源は「亀の腹部の平らな甲羅を灼いて吉凶を占うときの、縦と横に直角状に交わるひび割れの線」ということになる。
上に配した〔黄帝時代の黄帝陵(黄帝を祭る廟と墓)と太湖南岸の天頂緯度線図〕における[木]の字源「十字の銀河」には「縦の子午線(経度線)と横の緯度線」を図示した。ゆえに、「十字の銀河」が[木]の字源、[卜]の字源は「十字の銀河における子午線(縦線)と緯度線(横線)」となる。というのも、『説文解字』の[卜]の字源解説に登場する「亀甲を灼いてできる卜いの兆しとなる縦線と横線のひびわれ」は「十字の銀河の子午線(縦線)と緯度線(横線)」に合致するからである。
したがって、[木]の[朴]が加わる[朴]の字源は「子午線と緯度線が交わる、十字の銀河」であったことになる。
上に配した〔黄帝時代の黄帝陵と太湖南岸の天頂緯度線図〕における「鬼の横顔に似る銀河」には、下図に示したように「目が四つ」ある。ゆえに、黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた「鬼の横顔に似る銀河」は「四つ目の銀河」であった。「倉頡は漢字を発明した」と説明した倉頡伝説では「四つ目の銀河」を「四つ目の怪人・倉頡」と表現した。この「四つ目の怪人・倉頡」について、学者たちは「人間には目が四つ無い。だから、倉頡伝説は明らかに荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメである」と全面否定した。
倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」は――黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」は倉頡が発明した【漢字作成理論の最も重大な中核部】」であり、「十字の銀河」と「四つ目の銀河」から最も多数の漢字が作られた――と説明するものであった。だから、「四つ目の怪人・倉頡」という語句は「漢字は銀漢(夏の銀河)から作られた」という真実を伝えていたことになる。
◆上記したように――「古事記上巻 并せて序」の末部の「上古の言と意は朴(すなお)である」という文は「夏の銀河各部の形状のままに」あるいは「倉頡が発明した【漢字作成理論】のままに」と意味した。
「古事記上巻 并せて序」の末部は――楷書の「日下(にちげ)は夏音文字の「玖沙訶(くさか)」と同義であると指摘する。
ゆえに「日下」「日中に輝く日・太陽の下」と意味するものではない。
「日下」の語源は「三つ輪の銀河」であった。
ゆえに、「日下」という語は――日が地平線下に没して、真っ暗となる夜空に輝く夏の銀河の全部の姿が地平線上に登場した時、東の端にある「三つ輪の銀河」は「乾坤」の[乾]の字源となった大・中・小の【渦巻文】が互いに重なりあいもつれあって壮麗である。この大・中・小の【渦巻文】となる無数の小さな星屑は、砂漠の沙(すな)のごとくキラキラと美しい輝きを放(はな)つ――と、下図の〔「日下=玖沙訶」の語源解説図〕における「三つ輪の形状」を説明していたことになる。
黒曜石(こくようせき)は火山活動によってできた「黒いガラス」であった。ゆえに、黒曜石はガラス光沢の美しい輝きを放つ。黒曜石が石器の原料とされた旧石器時代から卑弥呼や伊耶那美命・天照大神が生存した弥生時代には「ガラス」という語が存在しなかった。だから、「黒曜石が放つガラス光沢」は「沙(すな)」はつまり「砂漠におけるキラキラと美しい輝きを放つ沙」と表現された。
下図に示したように、「日下」の語源「三つ輪の銀河」は「砂漠の沙のごとくキラキラとガラス光沢を放つ黒曜石の岩脈地帯」に見立てられた。
また、「十字の銀河」も「砂漠の沙のごとくキラキラとガラス光沢を放つ銀河」である。
ゆえに、「玖沙訶」の「沙」という語(字)は「黒曜石のガラス光沢」をあらわした。
黒曜石が石器の材料となった旧石器時代から弥生時代まで、当時の人々にとって黒曜石は美しい輝きを放つ玉(宝石)であった。
上図における「三つの輪(円形)が重なる、三つ輪の銀河」は「玖沙訶」のうちの[玖]の偏[玉]をあらわした。
上図における「十字の銀河」は「人の背中の姿」に見立てられ、「十字の銀河の子宮」は「艾(もぐさ)に火をつけ、背中の〔つぼ〕とよばれる場所を焼いて病気をなおす方法の、お灸(きゅう)」に見立てられた。ゆえに、『説文解字』は[久]の字源を「後よりこれを灸(きゅう)す。人の両脛(りょうけい)の後に距(ささへ)あるに象る」と解説する。『説文解字』は「十字の銀河の子宮」を(1)「お灸」と、(2)「人の左右の両足の脛(はぎ)の箇所にあって、後へ倒れるのを防ぐつっかい棒となる柱」に見立てたゆえ、「十字の銀河の子宮の形状」を「人の両脛の後に距(ささへ)あるを象る」と説明したのである。
ゆえに、「三つ輪の銀河」の円い輪の形の[玉]の字に、「十字の銀河の子宮」の「お灸の
[久]の字が加わって[玖]の字となった。貝塚茂樹・藤野岩友・小野忍編者『角川漢和中辞典』(角川書店発行)は[玖]の字義は「玉に次ぐ黒色の美石」と指摘する。だから、「玉に次ぐ黒色の美しい石」を字義とする[玖]は「黒曜石」であったことになる。
「玖沙訶」の「沙」は、上記したように「黒曜石のキラキラと輝くガラス光沢」であった。
上に配した〔「日下=玖沙訶」の語源解説図〕における[久]の字源「十字の銀河の子宮」は、「鉞(まさかり)や斧(おの)の刀身(刃先がある台)の形」に相似する。
下に〔五帝時代の「石斧」の図書の解説図〕を配した。
下図の最上図は〔中国の大紋口(だいもんこう)文化が栄えた五帝時代の「石斧」をあらわす図書〕である。この「斧」をあらわす図書は「鉞の形」にも相似する。下図の中央図と最下図における「刀身の下部」に「刃となる黒曜石」が装着されて鉞や斧が作られた。
鉞や斧が完成するまでの作業は非常に難(むずか)しかった。
というのも、斧の柯(か/斧の柄)と刀身(台)が不具合(ふぐあい)も無く一体化し、さらに斧の刀身の先端に黒曜石の岩石を打ち割った剥片(はくへん)の刃を埋め込む作業は最高の技術が必要となったからである。
斧の柯(柄)と刀身を作るためには、黒曜石を打ち割って柯を作るための鉋(かんな)と刀身(台)を作る鉋の二種の鉋が必要となる。また刀身に柯を取りつけるためには、刀身に凹の穴をあけてぴったりと嵌(はま)る凸の切り込みを柯の先端に作るための独特の刀(ナイフ)となる黒曜石の剥片と、巧(たく)みな技術が必要とする。さらに黒曜石の刃がガラスのごとく簡単に壊れないように鉄のごとく丈夫(じょうぶ)にするために刀身の先端に黒曜石を埋め込むための溝(みぞ)を作る特殊な刀(黒曜石)と、溝と刃(黒曜石)を膠(にかわ)やコールタールで固める巧みな技術も必要となる。だから、最低でも五種(二種の鉋と二種の刀と刃先)の石器(黒曜石の剥片)を巧みに作る技術が必要となり、また何種類かの工程に惜しみなく最高の技術をそそぐ必要がある。そして、「刀身と柯の具合」が悪ければ、再度やりなおさなければならない。
このように、鉞や斧を作る工程には、道具となる複数の黒曜石の剥片と・様々な最高の技術が必要となり、一つ一つの作業を「可(か)、良し」と慎重に確かめて作ることになり、それでも刀身と柯が不具合ならば成功するまで何度もやりなおしてようやく完成する。
ゆえに、鉞や斧が完成した時には、思わず「歓声、歓喜・感激の訶(うた/声)」がもれた。
したがって、「十字の銀河の子宮の形」に相似する「黒曜石が刃(刃先)となる、鉞や斧」は「玖沙訶」とよばれることになったのである。
だから、楷書の「日下」と夏音文字の「玖沙訶」は共に「黒曜石」を意味して同義となったのである。
◆「古事記上巻 并せて序」の末部では――楷書の「帯」は夏音文字の「多羅斯」と同義である――と指摘する。
下図に示すように、「十字の銀河の西半分」には「二か所の乳房」と「子宮に相当する箇所」がある。これゆえ、「十字の銀河」は「女体(女性の姿)」、また「母体」に見立てられた。
「十字の銀河の左手」は「狩猟に用いる弓を持つ形」に観えるゆえ、「十字の銀河の東半分」は「男性の姿」に見立てられた。
ゆえに、「十字の銀河」は「女体。母体」、あるいは「陰陽(女性と男性)の姿が交わる合体形」と解釈された。
倉頡は「十字の銀河」を「夏の銀河各部から作られたすべての漢字を生む母体」と定め、「十字の銀河の子宮」を「すべての漢字が生まれる子宮(生殖器官)」と定めた。これゆえ、「十字の銀河」は「多数の漢字を生む母体」となったゆえ、「十字の銀河」は「多羅斯」の先頭字[多]の字源・字形・字義をあらわすことになった。
「多羅斯」の3字の中央にある[羅]の契文形(けいぶんけい/甲骨文字の字形)を、下図の〔「帯=多羅斯」の語源解説図〕の右側に配した。[羅]の甲骨文字の字形上部(冠の部首)は[网(もう)]であり、[网]の下に[隹]が加わる。
つまり、[羅]の楷書の字形は上部の[网]と[网]の下の[維]の左側の[糸]が一体化し、[維]のうちの[隹]が[网]の右下に加わって成立する。
[羅]の上部の[网]の字義は「網(あみ)」である。したがって、[网]の下に[隹(すい)]が加わる[羅]の契文形(甲骨文字の字形)は「糸を編んで作った、鳥(隹)を捕まえる道具の網(あみ)」を図案している。「十字の銀河の子宮」は「小鳥の姿に相似する」と見立てられて、「小鳥」を字義とする[隹(すい)]の字源・字形モデルとなった。下図における「М39」という肉眼でよく見える散開星団もまた「小鳥(鳰/カイツブリ)と浮巣」に見立てられて[隹]の字源をあらわすことになった。ゆえに、[羅]の契文形の上部「[网]の図書は「小鳥(隹/十字の銀河の子宮とМ39)を捕(つか)まえる目の細かい網」を表現している。
したがって、[羅]の字源となった「十字の銀河」は「天頂緯度線と子午線の網の目が細かい、精確に緯度と経度(子午線)がキャッチできる羅針盤」に見立てられたことになる。
上図に示したように、「多羅斯」の[斯(し)]の字源は「十字の銀河の胸部から四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)の前頭部)までに垂れる、長い帯状の銀河部」である。また、「十字の銀河の子宮と重なる右足から四つ目の銀河の口までに垂れる、短い帯状の銀河部」も、[斯]の字源となる。
この「四つ目の銀河の口までに垂れる、短い帯状の銀河部」の正面には[隹]の字源となった「十字の銀河の子宮」がある。「十字の銀河の子宮周辺」は「十字の銀河の腰」に相当する。したがって、「十字の銀河の子宮周辺の腰」は、後世において「着物の上から腰の上に巻いて結ぶ長い布の、帯(おび)」に見立てられた。
前述したように――「古事記上巻 并せて序」の冒頭から35字目から始まる11字の「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」という文中にある「陰陽斯」という一句には[斯]の字が用いられる。「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」という文は「陰の伊耶那美命と陽の伊耶那岐命の二霊は民衆・庶民(群品)が斯(最も敬愛する)祖先である」と意味する。
だから、「陰陽斯」の[斯]の字義は「敬愛する」と意味した。ゆえに、「多羅斯」の[斯]の字源「二本の帯状の銀河部」には――「陰陽斯」の[斯]、つまり「生みの親の母(陰)と父(陽)の愛」の意味があったにちがいない。
というのも、上図の〔「帯=多羅斯」の語源解説図〕における「十字の銀河」は「立木(たちき)」に観え、「鬼の横顔に似る銀河」は「立木を見る横顔」となるゆえ、[立]の下に[木]を配する[立木]の偏に[見]を加えると[親]の字となるからである。
前に示した〔女体と男性の姿に相似する「十字の銀河」の図〕にて指摘したように――「十字の銀河」は「その右半分が陰の女性の姿」に相似し、「その東半分は手に弓を持つ陽の男性の姿」に観える。ゆえに、「十字の銀河から垂れる、[斯]の長短の二本の帯状の銀河部」は「陰の母と陽の父・生みの親の愛」をあらわしたにちがいない。
だから、「多羅斯」は「垂らし」であったことになる。つまり、「多羅斯」は「母」と「父」と「両親」の枕詞(まくらことば)「垂乳根(たらちね)の」の語源であったと考えられる。ゆえに、「多羅斯」は「母」を指す「垂乳女(たらちめ)」、「父」を指す「垂乳男(たらちを)」の語源であったことになる。その証拠に、[斯]の字源「長い北側の帯状の銀河部」は「М39」と重なる「乳房」から垂れ、[斯]の字源「短い南側の帯状の銀河部」もまた「十字の銀河の子宮」と重なる「乳房」から垂れている。ゆえに、[斯]の字源「二本の帯状の銀河部」は「垂乳」の語源となった。したがって、「垂乳」から「垂乳女」、「垂乳男」、「垂乳根」という語が生まれたことになる。上記したように、「十字の銀河の子宮」は「斧の刀身の形」に相似する。[斧]の上部は[父]、下部は[斤]、[斯]の右側の[斤]であるゆえ、「十字の銀河の子宮」と重なる「乳房」から「四つ目の銀河の口」までに垂れる、この「短い帯状の銀河部」は「垂乳男」の語源となる。
以上からして、「古事記上巻 并せて序」の末部の――楷書の「帯」と夏音文字の「多羅斯」は同義である――という文は、「古事記上巻 并せて序」の冒頭35字から始まる11字「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」という文中の「陰陽斯」の[斯]の字が「(民衆が)敬愛する」と意味するゆえ、「多羅斯」の[斯]の字義は「母と父の愛」をあらわす――と説明するものであったことになる。
◆そうすると、「古事記上巻 并せて序」の初頭部にある11字の「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」字という文は、「古事記上巻 并せて序」の末部の「楷書の帯は、夏音文字の多羅斯と同義である」という文と密接に関連して――この両文は、『古事記』上巻の〔伊耶那岐命と伊耶那美命の「淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話」〕に記述された「伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を連想するための手段であったことになる。
というのも、下図に示すように「十字の銀河の子宮の形」と「神津島(こうづしま)の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)」は相似するからである。
神津島からは良質な黒曜石が産出した。なんと神津島の黒曜石は約3万年前の後期旧石器時代から使用されていたことが明らかとなり、縄文時代、卑弥呼や伊耶那美命が生存した後期弥生時代の3世紀まで、本土つまり関東地方、東海西部(愛知県、静岡県)、近江(滋賀県)、北陸地方(石川県能登半島)まで運ばれて利用されていた。
ゆえに、「神津島」は「古事記上巻 并せて序」の末部に登場する〔「日下=玖沙訶」の語源「黒曜石」をあらわす地〕であった。だから、「神津島」は〔「帯=多羅斯」の語源「母・父の愛」〕と関連することになった。
したがって、「良質な黒曜石の原産地であった神津島」と、「黒曜石」を意味した「日下=玖沙訶」は――「古事記上巻 并せて序」の初頭部にある11字の「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」という文の「国民(群品・民衆と庶民)は【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱した伊耶那美命と伊耶那美命の死後に【日本建国の〔愛〕の理念】を重視した伊耶那岐命を最も敬愛した。ゆえに、国民にとって陰の伊耶那美命と陽の伊耶那岐命は、皇祖・天照大神よりも偉大な先祖であった」という文意――と密接に関連するものとなる。
日本列島地図に表示されているように――日本列島の西の端にある九州の玄界灘に浮かぶ沖ノ島と、日本列島の東の端にある伊豆諸島の神津島の両島は北緯34度15分で同緯度(天頂緯度線が同一)である。
わがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・8」でも解説し指摘したように――下図の左側に示す〔中国の海岸線線地域の北部〕は〔中国の海岸線地域の南部〕より〔冷たい気候区〕、〔中国の海岸線地域の南部〕は〔中国の海岸線地域の北部〕より〔暖かい気候区〕である。ゆえに、〔中国の海岸線地域〕は〔北冷南暖〕となる。
いっぽう、〔日本列島の西端にある沖ノ島〕は〔冬に雪が降る冷たい気候区〕であるから〔西冷〕となり、〔日本列島の東端にある神津島〕は〔冬でも雪が降らない亜熱帯の暖かい気候区〕であるゆえ〔東暖〕となる。
〔日本列島の沖ノ島〕の〔西冷〕と〔中国の北部海岸線地域〕の〔北冷〕は共に〔冷たい気候区〕、〔日本列島の神津島〕の〔東暖〕と〔中国の南部海岸線地域〕の〔南暖〕は共に〔暖かい気候区〕である。
ゆえに、下図に示したように――日本列島の西端にある〔冷たい気候区の沖ノ島〕は中国の海岸線地域における〔冷たい気候区の北部〕に適合し、日本列島の東端にある〔暖かい気候区の神津島〕は中国の海岸線地域の〔暖かい気候区の南部〕に適合する。
だから、卑弥呼王朝は「沖ノ島がある日本列島・本州の西は中国の海岸線地域の北にある、つまり西→北」と「時計回りに90度転回する」と考え、また同様に「神津島がある日本列島・本州の東は中国の海岸線地域の南にある、つまり東→南」と考えて、「日本列島の本州地理における方位は時計回りに90度転回しているにちがいない」と定理したのである。
◆上図における右側の〔沖ノ島がある九州を北〕とし〔神津島がある伊豆諸島を南〕と定理した「転回日本列島・本州地理」は、『古事記』の〔伊耶那岐命と伊耶那美命の説話〕に登場する「淤能碁呂島」の語源であった。この〔淤能碁呂島の聖婚説話〕では「淤能碁呂」の4字は〔音〕、つまり〔夏音文字である〕という注がつく。
つまり、上図の〔「中国の北冷南暖と倭の西冷東暖」の解説図〕に示したように――夏音文字の[淤(お)]の字義は「泥(どろ)」を意味するゆえ「日本列島の九州以下の本州の地底の土は海水が侵入して淤(どろ)のごとく柔らかい」ということになる。次の夏音文字の[能(の)]の字義は「日本列島・本州の地底の土は淤(どろ)のように柔らかいゆえ、能(クマ)が冬ごもりする横穴が竪穴になるように90度転回して九州は北となり、伊豆諸島は南となる」とあらわすことになった。次の夏音文字[碁]の字は「碁石のごとき小さな沖ノ島と、将棋の駒(こま)の形に相似する小さな神津島」をあらわした。最後の夏音文字[呂]は「上の[口]は沖ノ島、下の[口]は神津島、上下の[口]を連結する縦線は沖ノ島と神津島が同じ天頂線で結ばれる(つまり、同緯度である)」とあらわしていることになる。
だから、「淤能碁呂」という語は下図の〔卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理〕のごとく「日本列島・本州地理における方位は時計回りに90度転回して〔西〕が〔北〕・〔東〕が〔南〕になるという規定」をあらわした。
『魏志倭人伝』は正確無比の歴史書であったと想定し、新井白石以後の邪馬台国説学者たちの考え方を全面否定して1ヵ所も【誤読】を加えなければ――卑弥呼王朝は下図のごとく〔転回日本列島・本州地理〕を制定していたと説明していた事実が簡単に容易に証明できる。
この「転回日本列島・本州地理(の方角規定)」を、『古事記』上巻は「淤能碁呂島」と記したのである。
上図の左側に示した「淤能碁呂」の語源「同緯度の沖ノ島と神津島を結ぶ線上には、鳴門の渦潮」が所在する。「鳴門の渦潮」は「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字の文中に登場する「然れども乾坤初めて分かれて」という文の〔大・中・小の【渦巻文】が重なりもつれあう「三つ輪の銀河」の[乾]〕と、〔巨大な【渦巻文】となる「巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河」の[坤]〕をあらわした。
というのも、「鳴門の渦潮」は――世界でも最高級の時速20km以上の潮流が、ゴウゴウとすさまじい音響をたてながら豪快に大きな渦を巻き、瀬戸内海と外海との潮位の差で一日に4回の渦潮を見ることができる。月が出ない新月と満月の一日あとの大潮のときに一番大きな渦が見られる。ゆえに、「最大の鳴門の渦潮」は「大潮となる新月の月が出ない快晴の満天に無数の星がキラキラと輝く様子をあらわす、三つ輪の銀河」に見立てられ、また「最大の鳴門の渦潮」は「大潮となる一日前の満月のごとく黄色く輝く、巨龍の顔の銀河・銀河の中心・胎児の姿に似る銀河」に見立てられたことになる。
◆上図の〔卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理〕に示したごとく、「倭女王・卑弥呼が居住していた地所の名」は【科学】が成立して論争が早々と決着できる『魏志倭人伝』に記された通りの【邪馬壱国(やまいこく)・山陰出雲地方】であったことになる。だから、「卑弥呼が居住した地所の名」は白石以後いっこうに【科学】が成立しないために九州説と畿内説が対立して論争が延々とつづく〔邪馬台国〕ではなかったのである。
邪馬台国説学者たちは強引に〔邪馬台国〕と書いてあるとウソを言って主張するが――【邪馬壹(壱)国】の[壹]の字源は「十字の銀河の子宮」であるゆえ、もしも〔邪馬台国〕という名称が事実であったならば、倉頡が「十字の銀河の子宮は夏の銀河から作られた全文字が生まれる子宮である」と定めた【漢字作成作成理論】が成立せず全崩壊する。
しかし、『魏志倭人伝』に記されたとおりに「倭女王・卑弥呼は【邪馬壱国】に居住した」と定めると、【倉頡は「十字の銀河の子宮」を「夏の銀河から作られた全漢字を生む子宮」と定めて[一]の字源・字形・字義】とし、後世に倉頡が作った書契の[一]は楷書の[壹(壱)]となった。だから、【邪馬壱国】と記してある『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を具体的に伝える貴重な重大な歴史書であったことになる。
【倉頡が発明した漢字作成理論】は倉頡伝説では具体的に詳細にわからない。「漢字は夏の銀河から作られた」と説く『老子』を読んでも【倉頡が発明した漢字作成理論】が具体的に詳細に理解することができない。中国の五経の第一に挙げられる古典『易経』の繋辞(けいじ)上伝と繋辞下伝にある「漢字起源記事」を読んでも【倉頡が発明した漢字作成理論】は具体的に詳細に読解できない。紀元前1世紀に成立した司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀の黄帝時代の記事においても【倉頡が発明した漢字作成理論】を具体的に詳細に説明していない。「漢字の字源は夏の銀河の各部の形状であった」と伝える後漢時代の121年ころに成立した『説文解字』にも【倉頡が発明した漢字作成理論】を1ヵ所にまとめて具体的に詳細に説明していない。
しかし、約2000字で構成される『魏志倭人伝』のみが冒頭から約500字の記事をもって、つまり上に示した〔卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理〕をもって――(A)「倭人国」という国名と転回日本列島・本州地理と、そして(B)「対馬国から狗奴国までの30ヵ国の小国名とその30ヵ国の地宜(平面的に図化した地図の形)」をもって――1ヵ所にまとめて具体的に詳細に説明する。
だから、新井白石以後約300年間も継続する邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は「多数の【誤読】を用いて日本国民(群品)をまんまと騙(だま)す真っ赤なウソであり、空想・妄想」であったことになる。
したがって、このブログの初頭で指摘したように――『魏志倭人伝』の冒頭記事「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」の冒頭2字「倭人」の[倭]と[人]の字源・字形の原形・原義は倉頡が作った[禾]の「時計回りに90度転回する」と定めた字源・字形・字義を受け継いでいたことになる。この点からしても、『魏志倭人伝』は〔転回日本列島地理〕をもって【倉頡が発明した漢字作成理論】を具体的に詳細に説明していた書物であったことになる。
次回の「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・14」では、「古事記上巻 并せて序」における中半の〔天武天皇の歴史書編纂計画の断念記事〕を注目して、『古事記』は時の律令国家体制が「後世には絶対に伝えてはならない」と厳重に禁止した命令に背いて、「伊耶那美命と伊耶那岐命の歴史を後世に伝える」を作成目的とした反逆の歴史書であったことを証明する。ゆえに、『魏志倭人伝』は世界的に第一級に貴重な重大な真実【倉頡が発明した漢字作成理論】を1ヵ所にまとめて具体的に詳細に説明した書物であったことになる。
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